都営地下鉄三田線「三田」駅から慶應義塾大学に出向き、その足で北へ。この辺りは坂道が多い町です。慶應大学の校舎も、正門からも東門からも坂を上って行きます。慶應大学は、言わずと知れた福沢諭吉先生の創立。ここでは、「先生」という称号は福沢先生のみ。他は、教授といえども、○○「君」というほど、福沢諭吉は「偉い」方です。
正面坂道の奥にあるのは、「幻の門」。
いわれは、義塾のカレッジソングの一つである「幻の門」によるらしい。この曲は、堀口大學作詞、山田耕筰作曲。「幻の門ここすぎて叡智の丘にわれら立つ」。
平成12(2000)年2000)4月に東館の完成に伴い、「幻の門」は東館アーケードを通り抜け、ブリッジをくぐった坂道の上に移設されました。
「三田演説館」正面。なまこ壁の建物。
以下は、慶應大学のリンク先のHPより。
三田演説館は日本最初の演説会堂である。福澤先生の建造にかかり、開館は明治8年5月1日。当初は現在の図書館(旧館)と塾監局との中間辺に位していたが、大正13年、現在地—三田構内南西の小丘稲荷山上に移築され、さらに昭和22年5月修復がほどこされて、同40年には開館以来まさに90年を閲し、10月22、23両日にわたって記念の行事が行われた。しかも、この間、大正4年東京府からはやくも史蹟に指定され、また昭和35年3月には東京都重宝(建造物)の指定をうけ、さらに同42年6月には重要文化財に指定されている。
演説といえばいまでこそ知らぬ者はいないけれども、わが国で初めてそれが試みられたのは実に明冶6年のことで福澤先生を中心に門下生数名が西洋のスピーチ(演説)、ディベート(討論)の法を研究して創始したものである。そして、翌7年6月第1回の演説会を開き、ついで建てられたのがこの演説会堂であった。構えは木造瓦葺、洋風、なまこ壁で、床面積58坪余(192.16平方メートル)で、一部2階建で総坪数は付属建物合わせて87.9坪余(290.34平方メートル)になる。聴衆400、500名を容れるに足り、ちようどそのころアメリカにいっていた富田鉄之助に依頼して種々の会堂の図面をとりよせ、それを参考に二千数百円を投じて造られたという。
後年、福澤先生はこれにつき、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存す可きものにして、幸に無事に保存することを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」(「福澤全集緒言」)といっておられるが、あえて五百年といわず、今日すでに立派な名所となって、見学者も少なくない。ことに、近年しきりに明治建築の保存がさけばれているとき、この建物はその意味においてもはなはだ貴重といわなければなるまい。三田演説館はひとり慶應義塾にとってのみならず、日本の誇るべき文化財の1つである。
なおこの建物は平成7年12月より1年4か月かけて解体修復が施され、平成9年4月に完成した。
説明板。
正門前のバス停近くの歩道にあった「シール」。これとまったく同じものが我が家の近くの路上に駅に向かう道筋に点々と貼ってありました。何かあるのかな?
綱坂。上から下を見たところ。けっこう急で長い坂です。右手が「三井倶楽部」の塀。
桜田通りの三田4丁目信号地点から、 左に慶應の中等部、右に慶應大学を見ながら北に上っていく坂。、その先、左側に三井倶楽部 (大正2年(1913)建設、 設計ジョサイア・コンドル)、右側にイタリア大使館があります。坂上の先で「綱の手引坂」に出合います。
標識には「つなざか 羅生門の鬼退治で有名な平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝説による。」と記載されています。この辺り一帯、渡辺綱にまつわる伝説の場所があります。「綱坂」の他に坂の「綱の手引坂」という坂もその一つ。
夏の炎天下で歩くのは、けっこうしんどそう。
三井倶楽部。洋館。会員以外はお断り。
神明坂。坂の下には、天祖神社。
天祖神社を「元神明」というところから神明坂と呼んだ、という。この坂を下ると古川(渋谷川の下流)に架かる「中の橋」。高速をくぐって、右に行くと「赤羽橋」駅。左に行くと、「麻布十番」駅。どちらも「都営大江戸線」。
正面坂道の奥にあるのは、「幻の門」。
いわれは、義塾のカレッジソングの一つである「幻の門」によるらしい。この曲は、堀口大學作詞、山田耕筰作曲。「幻の門ここすぎて叡智の丘にわれら立つ」。
平成12(2000)年2000)4月に東館の完成に伴い、「幻の門」は東館アーケードを通り抜け、ブリッジをくぐった坂道の上に移設されました。
「三田演説館」正面。なまこ壁の建物。
以下は、慶應大学のリンク先のHPより。
三田演説館は日本最初の演説会堂である。福澤先生の建造にかかり、開館は明治8年5月1日。当初は現在の図書館(旧館)と塾監局との中間辺に位していたが、大正13年、現在地—三田構内南西の小丘稲荷山上に移築され、さらに昭和22年5月修復がほどこされて、同40年には開館以来まさに90年を閲し、10月22、23両日にわたって記念の行事が行われた。しかも、この間、大正4年東京府からはやくも史蹟に指定され、また昭和35年3月には東京都重宝(建造物)の指定をうけ、さらに同42年6月には重要文化財に指定されている。
演説といえばいまでこそ知らぬ者はいないけれども、わが国で初めてそれが試みられたのは実に明冶6年のことで福澤先生を中心に門下生数名が西洋のスピーチ(演説)、ディベート(討論)の法を研究して創始したものである。そして、翌7年6月第1回の演説会を開き、ついで建てられたのがこの演説会堂であった。構えは木造瓦葺、洋風、なまこ壁で、床面積58坪余(192.16平方メートル)で、一部2階建で総坪数は付属建物合わせて87.9坪余(290.34平方メートル)になる。聴衆400、500名を容れるに足り、ちようどそのころアメリカにいっていた富田鉄之助に依頼して種々の会堂の図面をとりよせ、それを参考に二千数百円を投じて造られたという。
後年、福澤先生はこれにつき、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存す可きものにして、幸に無事に保存することを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」(「福澤全集緒言」)といっておられるが、あえて五百年といわず、今日すでに立派な名所となって、見学者も少なくない。ことに、近年しきりに明治建築の保存がさけばれているとき、この建物はその意味においてもはなはだ貴重といわなければなるまい。三田演説館はひとり慶應義塾にとってのみならず、日本の誇るべき文化財の1つである。
なおこの建物は平成7年12月より1年4か月かけて解体修復が施され、平成9年4月に完成した。
説明板。
正門前のバス停近くの歩道にあった「シール」。これとまったく同じものが我が家の近くの路上に駅に向かう道筋に点々と貼ってありました。何かあるのかな?
綱坂。上から下を見たところ。けっこう急で長い坂です。右手が「三井倶楽部」の塀。
桜田通りの三田4丁目信号地点から、 左に慶應の中等部、右に慶應大学を見ながら北に上っていく坂。、その先、左側に三井倶楽部 (大正2年(1913)建設、 設計ジョサイア・コンドル)、右側にイタリア大使館があります。坂上の先で「綱の手引坂」に出合います。
標識には「つなざか 羅生門の鬼退治で有名な平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝説による。」と記載されています。この辺り一帯、渡辺綱にまつわる伝説の場所があります。「綱坂」の他に坂の「綱の手引坂」という坂もその一つ。
夏の炎天下で歩くのは、けっこうしんどそう。
三井倶楽部。洋館。会員以外はお断り。
神明坂。坂の下には、天祖神社。
天祖神社を「元神明」というところから神明坂と呼んだ、という。この坂を下ると古川(渋谷川の下流)に架かる「中の橋」。高速をくぐって、右に行くと「赤羽橋」駅。左に行くと、「麻布十番」駅。どちらも「都営大江戸線」。