おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

都営地下鉄「三田駅」。慶應義塾大学。綱坂。神明坂。都営地下鉄「赤羽橋駅」。

2011-11-30 23:52:05 | つぶやき
 都営地下鉄三田線「三田」駅から慶應義塾大学に出向き、その足で北へ。この辺りは坂道が多い町です。慶應大学の校舎も、正門からも東門からも坂を上って行きます。慶應大学は、言わずと知れた福沢諭吉先生の創立。ここでは、「先生」という称号は福沢先生のみ。他は、教授といえども、○○「君」というほど、福沢諭吉は「偉い」方です。
正面坂道の奥にあるのは、「幻の門」。 
 いわれは、義塾のカレッジソングの一つである「幻の門」によるらしい。この曲は、堀口大學作詞、山田耕筰作曲。「幻の門ここすぎて叡智の丘にわれら立つ」。
 平成12(2000)年2000)4月に東館の完成に伴い、「幻の門」は東館アーケードを通り抜け、ブリッジをくぐった坂道の上に移設されました。
「三田演説館」正面。なまこ壁の建物。
 以下は、慶應大学のリンク先のHPより。 

 三田演説館は日本最初の演説会堂である。福澤先生の建造にかかり、開館は明治8年5月1日。当初は現在の図書館(旧館)と塾監局との中間辺に位していたが、大正13年、現在地—三田構内南西の小丘稲荷山上に移築され、さらに昭和22年5月修復がほどこされて、同40年には開館以来まさに90年を閲し、10月22、23両日にわたって記念の行事が行われた。しかも、この間、大正4年東京府からはやくも史蹟に指定され、また昭和35年3月には東京都重宝(建造物)の指定をうけ、さらに同42年6月には重要文化財に指定されている。
 演説といえばいまでこそ知らぬ者はいないけれども、わが国で初めてそれが試みられたのは実に明冶6年のことで福澤先生を中心に門下生数名が西洋のスピーチ(演説)、ディベート(討論)の法を研究して創始したものである。そして、翌7年6月第1回の演説会を開き、ついで建てられたのがこの演説会堂であった。構えは木造瓦葺、洋風、なまこ壁で、床面積58坪余(192.16平方メートル)で、一部2階建で総坪数は付属建物合わせて87.9坪余(290.34平方メートル)になる。聴衆400、500名を容れるに足り、ちようどそのころアメリカにいっていた富田鉄之助に依頼して種々の会堂の図面をとりよせ、それを参考に二千数百円を投じて造られたという。
 後年、福澤先生はこれにつき、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存す可きものにして、幸に無事に保存することを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」(「福澤全集緒言」)といっておられるが、あえて五百年といわず、今日すでに立派な名所となって、見学者も少なくない。ことに、近年しきりに明治建築の保存がさけばれているとき、この建物はその意味においてもはなはだ貴重といわなければなるまい。三田演説館はひとり慶應義塾にとってのみならず、日本の誇るべき文化財の1つである。
 なおこの建物は平成7年12月より1年4か月かけて解体修復が施され、平成9年4月に完成した。
説明板。
正門前のバス停近くの歩道にあった「シール」。これとまったく同じものが我が家の近くの路上に駅に向かう道筋に点々と貼ってありました。何かあるのかな?  
綱坂。上から下を見たところ。けっこう急で長い坂です。右手が「三井倶楽部」の塀。
 桜田通りの三田4丁目信号地点から、 左に慶應の中等部、右に慶應大学を見ながら北に上っていく坂。、その先、左側に三井倶楽部 (大正2年(1913)建設、 設計ジョサイア・コンドル)、右側にイタリア大使館があります。坂上の先で「綱の手引坂」に出合います。 
 標識には「つなざか 羅生門の鬼退治で有名な平安時代の武士渡辺綱(わたなべのつな)が付近に生まれたという伝説による。」と記載されています。この辺り一帯、渡辺綱にまつわる伝説の場所があります。「綱坂」の他に坂の「綱の手引坂」という坂もその一つ。

夏の炎天下で歩くのは、けっこうしんどそう。
三井倶楽部。洋館。会員以外はお断り。
神明坂。坂の下には、天祖神社。
 天祖神社を「元神明」というところから神明坂と呼んだ、という。この坂を下ると古川(渋谷川の下流)に架かる「中の橋」。高速をくぐって、右に行くと「赤羽橋」駅。左に行くと、「麻布十番」駅。どちらも「都営大江戸線」。
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中島飛行機武蔵製作所

2011-11-29 21:23:00 | 歴史・痕跡
 中島飛行機株式会社は、1917年から1950年まで存在した日本の航空機・エンジンのメーカー。創業者は元海軍機関将校であった中島知久平。エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、太平洋戦争終戦までは三菱重工業を凌ぐ東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。
 武蔵製作所は海軍用の西工場、陸軍用の東工場、病院、その他の付属設備から成っており、主に発動機(エンジン)の生産を行う最重要軍需拠点だった。
 昭和19年11月24日から終戦までの間に十数回の銃・爆撃を受け爆弾五百発以上が命中し、200名以上の殉職者と500名以上の負傷者を出して、工場は全くの廃墟と化した。
東伏見稲荷神社(東京都保谷市)には、「殉職者慰霊碑」がある。

「建碑之由来」
中島飛行機株式会社は大正六年十二月群馬県太田町に創立され 終戦後富士産業株式会社と改称した
昭和十三年五月北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が建設され 昭和十六年十一月隣接地に多摩製作所が増設され陸海軍に分かれ生産を行った
昭和十八年十月時局の要請により両製作所を合併して武蔵製作所と呼称するに至った。
この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員男女動員学徒を加へその総数は五万人に及び日夜生産に励み国内第一の航空発動機工場となった。 
米軍は日本空軍の補給力を全滅するため武蔵製作所を本土編隊爆撃の第一目標とし 昭和十九年十一月二十四日の空襲以来終戦まで十数回の爆撃が行われ爆弾五百発が命中し 二百余名の殉職者と五百名を越える負傷者を出し工場は全く廃墟と化してしまった
武蔵製作所はこの爆撃のため終戦後平和産業に転換することが出来ず富士産業株式会社武蔵整理部として整理業務に専念し 毎年十一月二十四日を迎える度に戦争の恐怖と罪悪を想起すると同時に平和日本の礎となった殉職者の霊を慰める祭祀を行った
昭和二十三年十月占領下であるにも拘らず慰霊碑の建立を企図 中島飛行機武蔵製作所殉職者慰霊碑建設委員会を組織し有志の浄財をもって武蔵製作所稲荷神社跡に慰霊碑の建立を行い 同時に殉職無縁者永代供養のため武蔵野市源正寺に供養碑を建立した 
昭和二十三年十二月東伏見稲荷神社司祭により遺族を迎え除幕式並びに慰霊祭を挙行した
爾来旧武蔵整理部従業員有志によってささやかながら祭祀を続けてきたが 慰霊碑の完全な保存と永代祭祀のため当所より多大の助力をされた東伏見稲荷神社の好意により境内に遷座することになった 
昭和三十九年十一月に遷座を完了し 翌十二月全国より遺族を招き遷座祭並びに二十年祭を挙行した
茲に慰霊碑建立の由来を記述して後世に伝え平和日本の礎となった中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者の霊を永えに慰めんとするものである
昭和三十九年十二月五日 中島飛行機株式会社武蔵製作所 殉職者慰霊碑建設委員会

 

日本の軍事力の強化とともに急速に発展を遂げた「中島飛行機」だが、米軍による戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ、各地の工場は灰燼と帰した。敗戦でGHQによって航空機の生産を禁止され、二度と軍需産業に進出できないよう、12社に解体された。技術者の多くは自動車産業へ転進。日本の自動車産業の発展に多大な貢献をした。
 終戦後の10年間、慶應義塾大学基礎学科の研究室を置いていた。また、1953年(昭和28年)には三鷹研究所跡地に国際基督教大学(ICU)が設置され、一部の建造物は現在も用いられている。また武蔵製作所は、NTT武蔵野研究開発センター、武蔵野中央公園、武蔵野陸上競技場(武蔵野総合体育館を併設)として用いられている。
 中島飛行機から解体された会社は多くが現在でも存続しており、その代表格が、富士重工業 (SUBARU)。中島飛行機東京工場→富士精密工業→プリンス自動車工業→日産自動車に吸収合併。
 戦後、自動車製造に挑戦したメーカーは多くあったが、戦前からの自動車メーカーであったトヨタや日産でさえも独自開発が難しく、海外メーカーの模倣や、ノックダウン生産方式と呼ばれるライセンス生産で凌いでいた時代において、中島飛行機を前身とする富士重工業とプリンス自動車工業の2社のみが、技術提携に頼らず自力開発を行う素地を有していた。

代表的な航空機
日本陸軍向け
偵察兼練習機
1919年(大正8年) - 中島式五型
戦闘機
1923年(大正12年) - 甲式四型戦闘機(ニューポール・ドラージュ 29C型機ライセンス生産)
1931年(昭和6年) - 九一式戦闘機
1937年(昭和12年) - 九七式戦闘機
1941年(昭和16年) - 一式戦闘機 「隼」
1942年(昭和17年) - 二式単座戦闘機 「鍾馗」
1943年(昭和18年) - 四式戦闘機 「疾風」
1945年(昭和20年) - キ87 試作高々度戦闘機
爆撃機
1940年(昭和15年) - 百式重爆撃機 「呑龍」
特殊攻撃機
1945年(昭和20年) - キ115 特殊攻撃機 「剣」
日本海軍向け
戦闘機
1928年(昭和3年) - 三式艦上戦闘機
1930年(昭和5年) - 九〇式艦上戦闘機
1936年(昭和11年) - 九五式艦上戦闘機
1942年(昭和17年) - 二式水上戦闘機
1942年(昭和17年) - 二式陸上偵察機 / 1943年(昭和18年) 夜間戦闘機「月光」
1943年(昭和18年) - 十八試局地戦闘機「天雷」(試作)
 その他、三菱内燃機の設計である九六式陸上攻撃機と零式艦上戦闘機のライセンス生産も行っており、なかでも零戦は、生産期間が1年以上短いにもかかわらず、設計元の三菱を上回る、全体の約2/3を量産した。
攻撃機
1937年(昭和12年) - 九七式艦上攻撃機
1938年(昭和13年) - 十三試陸上攻撃機「深山」(試作)
1943年(昭和18年) - 艦上攻撃機「天山」
1943年(昭和18年) - 十八試陸上攻撃機「連山」(試作)
陸上攻撃機「富嶽」(計画)
偵察機
1936年(昭和11年) - 九五式水上偵察機
1944年(昭和19年) - 艦上偵察機「彩雲」
輸送機
1940年(昭和15年) - 零式輸送機(ダグラス DC-3) 昭和飛行機との並行生産
特殊攻撃機
1945年(昭和20年) - 特殊攻撃機「橘花」(試作)
(注:この項は、「零戦」くらいしか分からない。すべて資料からの借り物)

 また、中島飛行機武蔵製作所と田無町にあったエンジンテスト工場(中島航空金属)の間を結び、製造されたエンジンを運ぶ目的で敷設された鉄道が、ごく短期間ではあったが存在したとのこと。
 武蔵野中央公園の西北端部、都立武蔵野北高校のあたりから敷地外へと出た線路は、北高前の関前橋交差点あたりで、伏見通りを横切って行った。その先の千川上水(玉川上水から分岐、はるばる都内の板橋区まで続いている)を渡っていったが、その痕跡は無い。
廃線・痕跡探訪記の詳細は、hkuma.com/rail/nakaji01.html を参照。
唯一残っている中島飛行機時代の建物。東工場の変電所で、団地の自治会の施設として利用されている。自治会事務所の奥に存在。団地の改築工事が始まり、周囲は立ち入り禁止となっている。いずれ解体される運命に・・・。
武蔵野北高校前の交差点。この辺りを左から右に線路が走っていたという。
千川上水。
JR中央線・武蔵境駅から中島飛行機武蔵製作所へ引き込み線があった。そのモニュメント。
 後、戦後の一時期「武蔵野競技場線」として三鷹駅からの引き込み線となる。玉川上水に架かる人道橋にこの線路が設置されている。この廃線は、随所に国鉄時代の痕跡が残っている(以前掲載したことがある)。
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武蔵関公園(西武新宿線「東伏見」駅下車徒歩5分)

2011-11-28 21:23:20 | つぶやき
 武蔵関公園(むさしせきこうえん)は、東京都練馬区関町北三丁目にある練馬区立の公園。地元の住民が中心となってボート場などを整備した、という公園でしたが、1938(昭和13)年東京市立公園として開園しました。
 石神井公園・井の頭恩賜公園・善福寺公園と同じく、武蔵野台地の湧水によってできた富士見池を中心に周囲を取り囲むように形成されています。
 その後1975(昭和50)年4月に練馬区に移管され、練馬区立武蔵関公園になりました。
富士見池は、公園の約半分の面積を占める大きなひょうたん型の池で、「葦(あし)の島」と「松の島」という2つの島があります。
 カワセミ、バン、カルガモ、コゲラ、カイツブリ、ゴイサギ、オシドリなど、園内ではたくさんの野鳥が見られるらしい。
 また、池の周囲には、この公園の歴史を感じさせる多くの木々があり、それらのうち4本がねりまの名木に選定されています。
 野鳥を観察する人々もいたり、ベンチで休む人。ジョギングに散歩によし。古びた池と鬱蒼とした木々がほどよくマッチした公園でした。
練馬の名木のひとつ、カツラの大木。
富士見池。
みごとなイチョウの木。その木の下で、赤ん坊連れの若夫婦が写真を撮っていました。
水面に浮かぶ落ち葉のもとに泳ぐ鯉。
携帯電話でも、けっこうすてきな写真が撮れました。
公園に沿って流れる石神井川。
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下野谷(したのや)遺跡公園(西武新宿線「東伏見」駅下車徒歩10分)

2011-11-27 21:07:20 | 歴史・痕跡
 下野谷遺跡公園。旧石器時代から近代までの人々が残した遺跡の上に造られ、その上に盛り土をして、今も地下に埋まっている遺跡を守る目的として整備されました。
 今年も春と秋には、発掘調査が行われ、また10月には縄文秋祭りがあり、子供達が作った連凧を揚げたということです。
 西武新宿線「東伏見駅」南口から、早稲田大学東伏見キャンパス(東伏見グラウンド)の間の道路を進み、石神井川を越えてすぐ右手にある急な階段を登った丘の上、住宅と畑に囲まれた広い原っぱ、そこが「下野谷遺跡公園」。
 公園内には、竪穴住居の骨格復元、出土状況復元、地層状態を表す土層模型が建造されています。中央の芝生広場に木が点々と置かれているのは、出土した時の状況が復元されたものです。
 公園の南側には、縄文人が当時食べていたというコナラ・クリ・トチノキ・モミなどの樹木を植えた「縄文の森」があります。
 すっかり葉の落ちた「縄文の森」(まだ出来たばかりのようで、若木が植わって「森」という雰囲気はありません。何十年後が楽しみという感じ。)では、近所の方々が楽しそうにおしゃべりをしながら、落ち葉狩りと草木の手入れをしていました。
 まさに「みんなでつくり・育てる、縄文を体感できるひろば」というコンセプトのそのままでした。
 
「下野谷遺跡」(西東京市No.7遺跡) 西東京市東伏見二・三・六丁目
下野谷遺跡は、石神井川の南側の台地上から低地に広がる、旧石器時代の石器製作跡から、近代の中島飛行機製作所関連施設跡まで複数の時代の人々の痕跡が残る遺跡で、今も公園の地下には遺跡が保存されています。推定面積は約134,000㎡におよび、東側に隣接する練馬区富士見池遺跡群も同じ遺跡の可能性があります。とくに縄文時代中期(約5000~4000年前)には、住居が広場を囲んで輪の形に並ぶムラ(現状集落)が複数あったと考えられており、その規模や内容は、関東地方でも屈指のものです。地面を掘りくぼめて作った竪穴住居のならぶ内側には倉庫のような掘立柱建物があり、さらにその内側にはお墓も作られていました。ムラの周囲にはクリなどの木々がしげり、その実を集めたり動物は魚をとったりしながら、自然とともに生きる豊かな暮らしが営まれていました。 (下野谷遺跡公園内の資料より)

 早稲田大学のグランド(あの齊藤投手が学生の頃、大勢の見物客が押しかけた野球場もあります)の脇の、川沿いの道を下ると、「武蔵関公園」。ここは、練馬区。池の周囲を散策すると色づいたイチョウ、池面に浮かぶ枯葉、鯉の姿、水鳥、野鳥の鳴き声など、深まる秋の風情を満喫させるのにふさわしい公園があります。
地層の断面模型。最上層の黒い地層は、「中島飛行機」の社員寮の基礎部分だそうです。
竪穴式住居の骨格模型。
「縄文の森」。
石神井川下流。水鳥が泳いでいました。
早大グランド(野球場)。
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窮鼠猫をかむ

2011-11-26 21:28:00 | つぶやき

亀井新党に反応冷ややか、橋下氏「参加はない」(読売新聞) - goo ニュース
 追い詰められた(と本人も自覚しているはず)鼠(と本人は自覚していない)が一世一代の大芝居(ばくちという方が正しい)に打って出た。名前をあげられた方々(一国一城の主たち。晴れ舞台に登場して主役を演じている方々)も迷惑であろう。
 何で今さら賞味期限のとっくに過ぎた政治家(と本人は少しは感じているに違いない)の口車に乗るであろうか。獅子奮迅の「維新」達にも迷惑至極(と思っているはず)。
 老いても、なおまだ「志士」気取りは、さっさとおやめになった方が身のため。へたすれば、かの参議院議長のように、命取りになりますぞ。
 大向こうをうならせるつもりが、自己満足・仲間内のほめ合い。しかし、これだけ今をときめく「真の」政治家(と周りも本人も自負する)達を手玉にとって鼠の王になろうというドンキホーテぶりは、かの安売り王の「ドンキホーテ」も真っ青です。
 花道はそれなりに用意されているのでしょうか、取り巻きの諸君!
 
 
 
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追悼立川談志 読書118「世間はヤカン」(立川談志)春秋社

2011-11-25 18:56:20 | 読書無限
 立川談志さんが亡くなった。彼らしい死の作法。1年以上も前に彼が「ものした」本を紹介したことがあります。そのまま再掲して彼の死を悼もうと思います。読んでいるときに感じた、瀬戸際の生き様というものを改めて感じました。 
 
 落語立川流家元・立川談志。現在闘病中とか。それでも意気軒昂。口述筆記(実際にもそうかもしれない)であるいは殴り書き風でものした。複雑な物事を、混迷する世界を一刀両断で把握する表現力のすばらしさは、相変わらず。
 世間に知らぬことはない、こういうものだということを、知らぬことでも知ったかぶりで応える風をしながら、喝破する。この方の落語以外の、例えば政治の世界でのあれこれや、芸能界(ラジオ・TV界)での毀誉褒貶は、かつてはよく耳にはするが、今や聞き納め、見納めの時が来つつあるようで、かなり残念です。これが杞憂に終われば幸いですが。
 初めから飛ばしていて、果たして最後まで息が切れずに進むのか、といった心配を吹き飛ばして、快調な弁舌。たぶん、彼の人生そのもののような気がする。
 所々に差し挟まれた高座姿、楽屋姿、旅姿・・・、そのスナップのどれにも、人から世間から(常識人から)あれこれ言われても、一途に今もなお生きる一徹な男の姿が、ひしひしと伝わってくるのだ。けっして「知ったかぶり」「屁理屈屋」を装ってはいないのだ。
 
 ここにもあるように、「鬼気迫るもの」を感じました。それが、今日、現実のものとなったわけです。
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小田急ロマンスカーで行く箱根。

2011-11-24 18:37:17 | つぶやき
 恥ずかしい話し、初めてなんだよね、ロマンスカーに乗ったの。60年以上生きててもさ。
 「ロマンス」にはまるで縁がないしさ、カーには縁があるけど。カーって何かって別にどうでもいいじゃない。
 おっと、さっそく缶ビールですか、いいですね。つまみセット、ってやけにでかい袋だな。また、色々入っているなあ。
 じゃ、乾杯! 久しぶりというか、初めてだね、こうやって3人で出かけるのも。
 へえ、けっこう満席じゃない。みんな箱根に行くのかな、通勤客もいるみたいだし。あんまりお酒飲ん、ではしゃぐのは遠慮した方が・・・。
 停まるのは「町田」と「本厚木」と・・・。
 一週間、お互い、お疲れ様でした。どう、仕事の方は? そうなんだ。いいいじゃないか、それでも。
 こっちですか、仕事、仕事のことね、ちょっと、実は、今迷っているんだ、続けるかどうしようか。今の仕事? けっこう楽しい、一緒に仕事している連中も、気心が知れた人だし。若い人も含めて。
 一人、中年の女性とはウマが合わなくて、やりにくい。口をなるたけきかないようにしながらやっている。ちょっと大人げないんだけどさ。
 別に・・・。今の仕事がイヤになったというわけじゃないんだけれど・・・。仕事柄、いろんな中学や高校に行くじゃないですか。行くたびに、やっぱり学校現場に戻って、教師の仕事がいいんじゃないかって。
 ちょっと学校を離れていた時期が長くて、3年前に久々に学校に戻った。つい、新採のころの熱くなっている自分を思い出してしまって。焼けぼっくりに火が付いた、って感じかな。
 もう、そう長く出来ないじゃない、教員の仕事ってさ。残りの人生3年か4年、もうしばらく生徒と格闘(大げさだけど)したくなってさ。
 別に今すぐどこかの学校って、あてがあるわけじゃない。女房にも、もしかしたら年金だけになってしまうかもしれないけど、って話した。いいんじゃないと言ってくれた。
 幸いにかみさん。まだ現役で働いているし、何とかやっていけそうだし・・・。
 やはり、教師としての思いはまだまだ捨てがたいさ。・・・・。
 
 久々に高校の同級生。お互いに還暦も過ぎて、それぞれの仕事にもそろそろおさらばという年齢。夏の頃、久々に会ったついでに、何だか話が盛り上がって、箱根に行くことに。男3人、「ロマンス」も「風情」もない旅。でも、箱根ならお手ごろ感いっぱいです。
 先週の金曜日。仕事を終えて6時過ぎの「ロマンスカー」。箱根湯本駅の近くの宿に向かいました。着いたら、まず温泉。そして、遅い「宴会」(男3人のささやかな)。
 積もる話し、仕事の話し、健康(皆、血圧が高いこと)の話し、家族の(それぞれ疎遠な関係になりつつある)話し。年金問題。原発問題。キノコの話し。政治の話し・・・。 TVのチャンネルをめまぐるしく変えながら、とりとめもなく、それでいて身につまされる話を互いにしながら(てんでに自分の話をしているだけ?)、次第に夜も更けて、お酒もほどほど切り上げて、おやすみなさい・・・。
 翌土曜日。あいにくの雨模様。湯本の駅に着くと、「ロマンスカー」は運休です、とのアナウンス。よくよく「ロマンス」には縁のない方々でした。各駅停車で小田原駅。そこからは、「急行新宿行き」(長かった!)。家路に向かう頃には、雨脚も一段と強くなってきました。でも、久々の楽しい旅でした。
 
 これから昔の卒業生のクラス会に出て、夕方からは、落語を聞きに行く予定なんだ。
 
 いつまでもお元気な御仁でした。またお会いしましょう。短くも、そこそこ楽しんだ温泉旅行(ささやかな)でした。
ここがかつての箱根湯本駅。強羅の方まで伸びたときに廃駅になったとか。馬車電車の頃の話し。
そこから見た早川に架かる橋。
すると、この道が軌道跡の道?
その通り沿いにあった「湯本見番」の建物。墨田区の向島にも「見番通り」という通りが墨堤通りから入ったところにありますが、かつてあった「向島見番」の建物の看板はなくなりました。 
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唐様で書く三代目。またしても。

2011-11-23 20:45:22 | つぶやき
井川容疑者「借りて賭け事するな」と女性に忠告(読売新聞) - goo ニュース
 これだけお金をつぎこむのは、たいしたものです。本人の弁解では、始めた頃、儲かったのでそれに味をしめてずるずるとはまっていったとか。世間でも、よくある話ですね。
 かつては「麻雀」。素人が始めた頃、不思議と勝つ。これがはまっていく因になる。周りが勝たせてやったことに気がつかない。そして、いつしかいいカモになっていく。気がつくと借金の山。それで、いったい何人が人生を破綻させたか。でも、それも、この方に比べれば、まだまだ少額。
 マカオのカジノ。日本人の大金持ちから大金をせしめて、実にいい思いをしたはず。お金がなければ、借金をさせても、あわよくば一攫千金を(かつてのような)夢見る(夢を見させる)。これが、ギャンブルを経営する側の魂胆。
 日本にカジノがあったら、日本の経済を潤わせたのにね。勿論、一部の業者にしかゆきわたらないかもしれませんが。
 こうなると、東京のお台場にカジノを作ろうと画策している政治家たち、いよいよ勢いづくのではないでしょうか。何も中国人(彼らの表現だとたぶん「支那人」)に貢ぐことはないのだ!と。
 パチンコでも競馬でも、ささやかな自分のお金で、ささやかに楽しむ(負けても勝っても)くらいがちょうどよさそうです。この方、他人にはお説教を垂れていながら、自分を律することができない。こういう経営者のもとで働く人もホントやりきれないでしょう。
 またしても「唐様で書く三代目」が生まれそうです。初代、二代と立志伝中の人。がむしゃらに働いて(教養、学歴も何のその)作り上げた会社。
 その三代目。オヤジやじいさんを遙かにしのぐ、ハイレベルの学歴。「筑駒」「東大法学部」超エリートコース。立派に「唐様」も身につけた(はず)。家運を傾けさせても、意地で「売り家」と「唐様」で書くほどの持ち主。
 経営者というより、一個の大人としての基本的な教養は身につかなかったということですね。あわれ!こうして「エリエール」は没落していくのか。
 あれ、我が家のトイレットペーパーはここの会社のものでした。そして、食卓のティッシュペーパーも、「エリエール」・・・。
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泥舟から逃げ出すネズミは、所詮、ネズミにすぎない、と思いました。

2011-11-22 19:00:44 | つぶやき
郵政法案審議入りしなければ連立離脱も…国民新(読売新聞) - goo ニュース
 民主党政権の混迷、国民の支持をほとんど失って、小沢さんに言わせると、今選挙を行ったら50名くらいになってしまうとか。
 増税は絶対イヤ!TPPは断固NO!マスコミも野田政権への不信感を煽り立てる。
これじゃ、もう沈みかけた、ほとんど水中に没してきた様相。慌てて逃げ出すネズミたち。 
 でも、もう岸からすっかり離れてしまった泥舟。逃げ出しても、水中でおぼれ死ねだけでしょう。向こう岸、こちら岸、どっちかにはたどり着ける、という甘い考えはお捨てになった方がよい。
 こうなりゃ、どこまでも、「一蓮托生」。所詮、次の総選挙(任期満了での選挙になっても)では、「国民新党」はもともと消滅するに違いないのだから。それでも、さすが。恫喝路線だけは、亀井親分の得意技。
 曲がりなりにも公明党。自民党に創価学会の組織票という恩義をたくさん売って「自公路線」を進めてきたのに比べて(今度も、「反民主」で自民党とくっついて選挙戦を闘う魂胆、勝利は我が方にありとやら)、国民新党は民主党に売るべきものは、何もない。この政党。悲しいかな、強力な組織も何も、ない!
 どんなに批判しても結局はくっついていくしかない。それとも小沢新党に今度はくっつく算段? 実に哀れな存在です。
 
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玉川上水(玉川上水駅から鷹の台駅)

2011-11-19 21:59:35 | つぶやき
 今回の玉川上水散策は、約4㌔の道のり。西武線の「玉川上水」駅から「鷹の台」駅までの区間です。小平監視所から下流は多摩川の水ではなくて、清流復活事業によって行われている区間。それでも、かつての玉川上水の流れと「ヤマザクラ」「クヌギ」など落葉広葉樹など古い木々の連なる散歩道が続きます。
 歩き始めの道。赤土の粘土質、滑りやすい道がしばらく。関東ローム層がむき出しになっています。難工事だった往時が偲ばれます。
 色づいた木々の下、途中には足湯あり、お蕎麦屋さんあり、学校ありと。高校生が行き交う道でもあります。
小平監視所。ここまで多摩川の本流の流れを見ることができる。ここは野火止用水が玉川上水から分岐する場所(取水口)でもあった。現在は、ここから西武拝島線東大和市駅前までの区間は埋め立てられ、東大和市駅前から下水処理水が野火止用水に放流されている。これより下流の玉川上水は多摩川上流水再生センター(昭島市に所在する下水処理場)で処理された下水処理水が放流されている。
「蘇る水」という標識がある。階段状になっていて、直接玉川上水の水に触れることが出来る地点。ここから下流が「清流復活事業」によって玉川上水が蘇った。
「野火止用水」への分岐点。
「木漏れ日の足湯」。四阿の下、足を湯に浸しながら、ご近所の方々が寛いでいました。
上水の北側に併行して流れる「新堀用水」。ここまでは「胎内堀」という工法が用いられ、地下のトンネルを通り、ここで地上に現れる。
「新堀用水」に架かる橋の建設にまつわる「供養塔」天保年間のもの。
途中で見つけたお蕎麦屋さん(なのかな?)。畑の中の奥まったところに店があるようす。
ほぼ中間地点。このあたりは赤土(関東ローム層)の道。つるつるしていて滑りやすい。
橋の上からの玉川上水。水量は少ないが、所々激しい音がして流れる。両岸は切り立った崖になっていて深く掘られている。難工事の労苦が感じられる。
開削工事からの年月で崩壊しつつある。古木の根もむき出しになって倒壊しそうなものも。近々、改修整備工事が行われるらしい。
橋の橋脚部分の石積み。
途中で見つけた雑木林保存地地域。小さなエリアですがしっかりと保存されています。落ち葉を踏みしめて歩く向こうは、住宅地です。
鷹の台駅付近。素敵な散策道。行き交う人もたくさん。東から西へ。西から東へ。
この辺り。玉川上水に沿っていくつもの高校や大学の校舎が続きます。ここも、その一つ。津田塾大学。鷹の台駅から少し東に行ったところです。

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ここ2,3日良い天気です。

2011-11-18 00:21:17 | つぶやき
 ぐっと冷え込んだ日本列島。東京地方もいよいよ冬の寒さが近づいてきています。11月中旬、以前よりはずいぶんと暖かい陽気ですが。少し前なら、ストーブやらこたつやらが使われはじめていた時機。やっとそんな雰囲気です。春夏秋冬という四季が曖昧になって、今や、夏冬という2季制になってしまったよう。
 都庁第二庁舎5階の水道局に用事があったついでに、33階まで上がってみました。すばらしい眺望です。西に富士山をはじめ、奥多摩、丹沢の山々。西武ドームや味の素スタジアムも遙か遠くに霞んで見えます。南東は遠く房総半島まで。
 でも、つい3月11日の大揺れを想像してしまいます。さぞかしここは揺れたことでしょう、エレベーターは停まるだろうし・・・。早々に下りました。今日からは天気も下り坂のようです。
南側。眼下の緑の森は、代々木公園。
都庁よりも高い!ここも相当揺れたでしょうね、と、つい3月11日に。
西から北の方向。富士山は雲に隠れています。肉眼で見える「西武ドーム」も、写真ではちょっと無理。

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環七や水戸街道でもこういう現象が

2011-11-17 23:33:12 | つぶやき
新信号で渋滞緩和のはずが… 滋賀県警、運用休止へ(朝日新聞) - goo ニュース
 右折車と直進車との事故を防ぐという目的もあるのでしょうか、最近は直進と左折信号が出て、赤になって右折信号に。点灯する時間が短く、そのために右折レーンが混む。その影響で直進レーンまで混んでしまう。というのはよくあることです。
 それでも、渋滞緩和というよりは、事故防止という視点で見ると、むしろ、いい面もあります。自分自身でもヒヤッとしたことがありましたから。
 右折しようと停まっていたら、直進車が停まって合図して「どうぞ」、その気になって右折しようとしたところ、車の影からオートバイが・・・。人の好意に甘えるのは、ホント、善し悪しです(どうして譲って合図をくれたのだろうか、たしかに自分の車の後ろにも右折車があったのですが)。
 せっかくの大事な試みです。定着するまで時間がかかっても、推進すべきではないでしょうか。どこかの地方、「何とか」の「早曲がり」では、危なくてしょうがありませんので。ところで、こうした右折車優先のローカルルールの場所は四国の某地の他にあるのでしょうか?
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駒沢緑泉公園

2011-11-15 23:05:09 | つぶやき
 駒澤大学の前の通りにある地図の案内板。ふと見ると、国道246号(玉川通り)の北側に小さな公園の表示がありました。「駒澤緑泉公園」「泉」という表現に引かれて向かいました。
 この公園。周囲は住宅地。玉川通りからはかなり分かりにくい、隠れた公園というたたずまい。 
 正面は、大きな広場。多目的広場といった感じでしょうか。広場の真ん中付近には地面から噴水がわき上がるような仕掛けがしてあるらしいが、今はなし。周囲のベンチに地元の方、保育園の園児達が賑やかな声。
 その奥が「樹木園」と名付けられた樹林帯。小川が流れていて、小さな池もあります。ただし、柵で囲まれていて、午前8時半から午後5時までしか入る事ができないようになっています。どういうわけでしょうか。さらに、あちこちに立ち入り禁止の看板も。樹木の保護のためなのでしょうか。
 歩いていると、気分のいい雑木林。適度にアップダウンがある細道がくねっています。その奥が児童公園に。
  この公園。昭和22年の航空写真。周りもまだまだ農村地帯という雰囲気。昭和38年の航空写真になると、周囲が次第に宅地化されている中で、取り囲まれたようにまだ昭和22年当時のままに残っていました。それが、現在は公園として整備されているのでしょう。「泉」という命名には、この辺りに小さな川の源泉があったのかも知れません。特に説明板はありませんでした。
 公園の隣には、「駒沢はらっぱプレイパーク」があるとか。そこには行きませんでしたが。
ほどよく色づいています。
人工的な感じがしますが、せせらぎ風の。墨田区内にも「百樹園」という公園があります。やはりこんな感じかな。
左の大きな通りが現在の「246」。この国道、御殿場辺りから「厚木街道」。渋谷からは、「青山通り」。右が、かつての玉川通り。玉電は右の道路上を二子玉川方向へ向かっていました。現在は地下線路になって、「田園都市線」となっています。
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小春日和。姿見の池

2011-11-13 23:40:41 | つぶやき
 冷たい雨の前日とうって変わっていい天気。JR西国分寺駅から国分寺駅。線路伝いに北側の道をてくてくと。雑木林の小道あり、「姿見の池」という何となく情緒豊かな小池あり、西武線のガードをくぐると日立の大きな研究所の敷地、深い緑に囲まれた、そこに「野川」の源流がありました。道なりに適度なアップダウン、散歩・ジョギングには最適な感じ。「恋ヶ窪」という地名もまた魅力的?
 
 姿見の池は、かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。
現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵野路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
 恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われ、傾城・夙妻太夫が武将・畠山重忠を慕って身を投げた池といわれています。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)など文学作品にもよく登場する名所です。
 平成10年度東京都と国分寺市は、湿地、用水路、水辺林等を含めた池周辺地域を東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」 として整備し、かつての武蔵野の里山風景を見ることができます。
                          (以上、国分寺市のHPより)
西国分寺駅から少し住宅地に入ると、小高い丘。雑木林の中に小道が続きます。中央線の電車が木々の間から見えます。
雑木林が鬱蒼と茂っています。
足元には落ち葉が・・・。
池に流れ込む湧水(かつてはこんな清流が流れていたのでしょう)。
かつての里山の雰囲気を残しています。現在、周囲は閑静な住宅地に。
西武国分寺線の土手。右手は日立。
緩やかに下って国分寺駅方向に進みます。
「野川」の源が日立の研究所敷地内にあります。中に入ることは出来ませんでしたが、木立の間からせせらぎの音が聞こえてきました。
 「野川」は、東急線「二子玉川」駅のホーム下をくぐった後、多摩川に合流する河川。合流付近は、以前に紹介しましたが、流域は、国分寺崖線に沿って湧き水などもある自然の豊かさも残されています。
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げに恐ろしきは某宗教団体

2011-11-07 21:22:08 | つぶやき

高野氏の参与起用に激怒 公明・創価学会、政権と亀裂(産経新聞) - goo ニュース
 産経らしい挑発的記事。高野さんは反創価学会の立場の方のか? 公明党の議員だったこともあるので、議員を辞職し袂を分かつ(高野さんが切られる)原因は、政治信条それとも信仰上のこと? 
 もともとはこの方、根っからの学会員ではなくて、公明党の参院議員にはよくあることだが、非学会員系議員の一人だったのではないか。議員を辞めてもなお政治世界に未練があり、民主党政権に「自分は外交通である」と売り込んだという構造なのだろう。
 ところが、創価学会。恩義を忘れて敵に走るとは何事だ、と怒り狂った。何しろ、「異端」は絶対に認めない、とことん「仏」敵を追い詰めるのが学会のやり方。
 「不知恩」(学会員によって議員になれたのに、学会の恩を忘れたのか)の輩と手を結ぶ民主党は、もっと敵だ!
 げに恐ろしきは、創価学会。公明党の生殺与奪をぎゅっと握っているだけでなく、日本の政治をも握っているかのごとき、学会幹部の発言。それにびびってしまう政治家も多々いるとか・・・。宗教的情念は抑えがたい。判断(常識)の正邪までも狂わされる。
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