おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「日光道中」をゆく。総集編。第9日目。(関東バス「海老王子」から東武「日光駅」まで。)

2016-08-10 22:21:33 | 日光道中
 第9日目。いよいよ最終回。7月16日(土)。曇り。宇都宮駅発のバスに乗って前回の最終地点「海老王子」バス停まで。
 降り立ったのが9:10過ぎ。さっそく並木道を歩き始めます。雨上がりのせいか道はぬかって、蒸し暑い。が、日差しもなく今回こそ一気にゴールしようということで。
             
             側道を歩いて行きます。桜並木から杉並木へ。

(9:27)「松本」バス停を過ぎた左手に「うらない仏」。

 右手には「リンゴ畑」。まだ青々とした実がなっています。
    

(9:38)しばらく進むと、宇都宮市から日光市へ。
                             この付近では杉の中にモミジなどが混じっていて、秋には紅葉が楽しめそうです。
左手には広大な農地が広がります。

「日本ロマンチック街道」。

 長野県上田市から栃木県日光市までの全長約320kmを通過する広域観光ルートからなる街道。この名称はドイツのロマンティック街道に由来するそうです。


(9:48)田んぼが広がります。

 杉並木が現れたので、右手に移動、雑木林の脇を進みます。しっとりとした雰囲気。
        

 「国道119号線」と分かれて右の杉並木の道に入ります。


 (10:05)旧道に入ると、「並木寄進碑」があります。
      
 右にある石碑。左の石柱には「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」とあります。
 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑。並木の起点となる神橋および街道の切れる今市市山口(日光街道)、同小倉(例幣使街道)、同大桑(会津西街道)の4ヶ所に建っている。この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれている。

本格的な杉並木。   

 日光杉並木について。

 日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 - 日光間16.52キロメートル、小倉 - 今市間13.17キロメートル、大桑 - 今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている。
 徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年の歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した。
 周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており、歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、日光杉並木街道 附 並木寄進碑(にっこうすぎなみきかいどう つけたり なみききしんひ)として、全国で唯一特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けている。また、日光杉並木街道は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選のひとつとして選定を受けている。
 現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、早急な対策が必要とされている。
 二荒山神社、日光東照宮などとともに世界遺産の登録を受けた。

 ここの杉並木は、まだその序の口。しばらくすると、前方が明るくなってきます。「大沢宿」に入ります。
                        

「国道119号線」に合流。「大沢」交差点

その付近から振り返る。

大沢宿
 日光街道の19番目の宿場。現在の栃木県日光市大沢。
 もともと大沢村と呼ばれていたが元和3年(1617年)に徳川家康の日光鎮座に伴って宿駅となり大沢宿となった。
 元和年間には大沢御殿(おおさわごてん)が建造され徳川将軍家の日光参詣に際し宿泊所として使用された。その後一旦処分され再造営されたが、それもまた享保年間までに処分された。
 享保13年以降、将軍社参時等の休息所には沿道にあった竜造寺(りゅうぞうじ)が用いられた。なお竜造寺はその後明治元年に近隣別所に移転している。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、大沢宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が41軒あり、宿内の家数は43軒、人口は278人であった。

 現在、その痕跡は見当たらないようです。

                     

(10:25)「大沢小学校入口」から再び杉並木が始まります。

杉並木保護のため、車道は右に迂回しています。

ここから「普通地域」から「保護地域」に入ります。
                           
                   
             (10:32)車両の排ガスや振動から日光杉並木を守るため 車両通行止

    
     この道も「国道119号線」。ただし、杉の落ち葉や小枝が散乱し、濡れた道なので足下には注意!

 (10:43)しばらく進むと、「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道の一里塚(水無一里塚)」。左右に残されています。
        
 日本橋から32里目。通常、塚の上には榎などが植えられますが、ここでは杉が植えられています。(31里目の一里塚は上小池町・新渡神社付近にあったらしいが不明)

 (10:49)しばらく進むと、杉並木も終わり、「水無」という集落に向かいます。出口付近に祠と何体かの石仏。
           

      再び車道沿いに歩きます。

またすぐ杉並木になります。車道を避けて右手の方に。

(10:57)水田が広がります。

 (11:14)「甚五郎せんべい」の手前で、再び国道と分かれて右の並木道へ入ります。
    

 この杉並木には日光杉並木オーナーが記されたプレートがくくりつけられています。企業名や個人の名前も。
    

杉並木オーナー制度とは?
 並木杉の樹勢回復のための保護事業を行っていくためには、多額の費用が必要です。
 そこで栃木県では、平成8年秋から多くの方々と力を合わせて杉並木を守る「日光杉並木オーナー制度」をスタートさせました。
 杉並木保護に賛同された皆様に並木杉1本につき1千万円でオーナーになっていただき、その代金を栃木県が日光杉並木街道保護基金で運用し、 その運用益で杉並木の樹勢回復事業を実施するという制度です。
 オーナー杉については、日光杉並木保護財団と東照宮が、日常の管理をいたします。
 並木杉は文化財であるため、枯れた場合などを除き杉の伐採はできませんが、解約したい場合は栃木県がいつでも同額で買い戻しいたします。
 また、オーナー制度とは別に、日光杉並木街道保護基金に対する寄附金も受け付けています。

 まもなく、車も来ない静かな杉並木道(「特別保護地域」)も終わり、「下森友交差点」に向かいます。


進む方向からの一方通行なので、一安心。  

車もほとんど来ないようです。

 (11:50)途中、左手にあるのが「さくらすぎ」。杉の幹の途中から桜の木が生えてきてかなり太い幹になっています。
    

 (11:55)しばらく行くと、右手に「七本桜一里塚」があります。日本橋から33里目。ちょっと上がったところに根元が腐って大きな空洞できた杉があります。大人が4人位入れるところから「並木ホテル」と呼ばれています。
    

 (12:01)その先の信号は「七本桜交差点」。左の通りが「国道119号線」。
    
                  そのまま一方通行路を進みます。日光・今市方面から来る車も増えてきます。

少し進んで、東武日光線のガードをくぐります。

 (12:16)「小倉歩道橋」を渡ると、まもなく杉並木から今市の町に入ります。


今市宿
 日光街道の20番目の宿場。現在の栃木県日光市今市。
 もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われている。この宿は一街道の単なる一地方宿ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿駅であった。
 日光例幣使街道と日光街道の追分には地蔵堂がある。ここに安置されているのは像高2メートルの石造地蔵菩薩坐像である。もと空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏と云われ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したものと云われている。徳川吉宗が日光参詣した折、この地蔵が白幕で覆われているのを見て、後は白幕で覆わないよう命じ、この地蔵堂の後ろで朝鮮人参を育てさせたという。正確な造像時期は不明だが、室町時代頃の作と推定されている。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、今市宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が21軒あり、宿内の家数は236軒、人口は1,122人であった。

 (12:23)「国道119号線」と「国道212号線」(例幣使街道)との合流地点(追分)にあるのが「追分不動尊」。
        

例幣使街道。

 元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されましたが、その後、正保3年(1646)から、毎年、京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされました。
 例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野宿(現高崎市)からは太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て、日光に至りました。その道筋が「例幣使街道」と呼ばれました。日光付近では杉並木が続きます。

(12:40)

右手には「ニコニコ本陣」。「道の駅」風。

手前には「造り酒屋」。    

 今市の町の中には伏流水をくみ上げた自然水の水飲み場が設置されています。「いまいちの水」。つい「いまいち」なのかと思ってしまいますが、飲んでみると、おいしい!
    

 日光名物・特産の「たまり漬」等のお店。
    

「二宮尊徳終焉の地 今市宿」碑。

二宮 尊徳
 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。
 また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い。
 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。
 安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没した。

「明治天皇御小休所」碑。

 (12:53)しばらく行くと、左手にある「瀧尾神社」のところから右に杉並木が始まります。公園となっています。杉並木も「特別保護地域」。
    

12:55)公園の中に「朝鮮通信使今市客館跡」があります。

    

朝鮮通信使今市客館跡  
 江戸時代に徳川幕府の要請により、朝鮮国王が、信(よしみ)を通わす善隣友好の朝鮮通信使を12回派遣しました。その内、日光には初期の頃に三度訪れております。第一回目は東照宮が現在の社殿に造り替えられた寛永13年(1636)、第二回目は・同20年(1643)、第三回目は明暦元年(1655)
 通信使は、東照宮・大猷院でに国王からの進物を贈り、公式行事を行いました。
 この三回とも将軍社参並の扱いをうけ、盛大な行列立てとして日光に参詣しており、幕府は通信使のためだけに、此の所に一万金両を掛け、豪華な客館を新築しもてなしました。

その隣には二重連の水車。

 杉木立の中を上っていきます。
        
                       この付近に日本橋から34番目で、日光街道最後の一里塚が残っているはずですが、見落としました。

    
 (13:09)しばらく進んだ右手奥には茅葺き屋根の建物と手打ち蕎麦「報徳庵」、ここも藁葺き屋根のおうち。落ち着いたお店で、車で次々とお客さんが見えています。ここで食事にすればよかった!

「報徳庵」を過ぎると杉並木が途切れ、石畳道に。

 再び杉並木に入ります。

           巨大な切り株。七本杉伐痕。
                              7本の杉の根幹が一株となった珍しい大木でしたが、すべて倒木や枯死し、伐り倒されました。

日光彫の工房。   

 (13:23)戊辰戦争の時の砲弾跡のある杉の木。
    
 附近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の幹の凹んでいるところは砲弾が当たって破裂したあとである。

 ちょっとした家並みと石畳、そして舗装道路と交互に。
     

 集落を抜けると、国道に合流します。ここからはしばらく車の行き来の激しい車道脇の側溝の上を進みます。
      振り返って望む。

左側にはJR日光線の線路。

 その先の左手には「常夜燈」や「弘法の霊水(表示)」がありますが、道路を渡るのは危険なので、遠目に望むだけ。

 (13:51)杉並木の中で一番大きな杉の木「並木太郎」。並木の中で一番大きな杉であり、周囲5.35㍍樹高58㍍・・・その姿の美しく端正なことより並木太郎と呼ぶにふさわしい名木である。
    

 (14:12)しばらく行くと、「明治天皇七里御小休所」跡。
     

その先、しばらく進み、「宝殿」交差点で右奥の道を進みます。

 (14:28)左手に広くて静かな旧道・杉並木があります。久々の土の道。
    

 (14:31)その道もすぐ終わり、JR線のガードのところで国道に合流、ガードをくぐってから右手の小道を進むと、杉並木の旧道。
    

 「国道119号線」に合流すると、いよいよ最後の「日光杉並木街道」。
    
                                「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」  
               
 (14:37)右手奥の方に「JR日光駅」。古風で趣のある駅舎。東武日光駅に比べると閑散としていますが・・・。
    

 その先には「東武日光駅」。華やかな駅前通りになり、外国人など大勢の人々の姿が。
ゴールに向かって緩やかな上り道。右手奥が「東武日光駅」。

 ここから神橋までは1,500㍍ほど。そぞろ歩きする外国人の姿が目立つ中、いよいよラストスパート。けっこう疲れがきていますが。
 東照宮に向かう広い参道の両側にはお店がずらり。公共施設も街道筋らしい趣の建物に。
 ここは日光道中21番目で、道中最後の宿場でもあります。

 鉢石宿
 もともと鉢石村という村落があったが、元和3年(1617年)に徳川家康を日光山に祀り日光参詣が盛んとなると日光東照宮の門前町として大いに栄えた。現在のJR日光駅の辺りに鉢石宿の木戸があった。当時、入江本陣は御幸町、高野本陣は中鉢石町にあり、参詣者は本陣に投宿して東照宮を参詣した。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、鉢石宿の本陣は2軒設けられ、旅籠が19軒、宿内の家数は223軒、人口は985人であった。

(14:48)「日光消防署」。

(14:58)「日光市日光庁舎」。お城のような雰囲気。

「鉢石横町」。
 この辺りに「鉢石」という町名の基になった「鉢石」が保存されているはずですが、見逃しました。

    
 「金谷ホテル」下にある物産店。国の有形登録文化財に指定されています。

「日光のおいしい水 磐裂霊水」。

      
          板垣退助銅像

      
                             (15:06)神橋。

「華厳の滝」から流れ落ちてきた「大谷川」。

            与謝蕪村句碑

             二荒や 紅葉の中の 朱の橋 (ふたあらや もみじのなかの あけのはし)

 こうして、約140㎞の旅、終了!
 だんだんと日差しが強くなる日々の下、果てしなく延びる直線の国道歩きにはいささか参りました。が、宇都宮宿を過ぎてからの杉並木街道には圧倒されました。宇都宮までは標高もほとんどなく、平らな道筋。その点では歩きやすさが一番でした。
 すべて日帰り。それもおおかた午後3時前には終了(午前中で終わりの日もあった! )、というペース。結局、9日間にわたる旅でした。

 いよいよ次回は「中山道」を再開。軽井沢から、と思っています。が、はたしていつになるやら・・・。


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「日光道中」をゆく。総集編。第8日目。(関東バス「弁天橋」から「海老王子」まで)

2016-08-09 19:18:27 | 日光道中
 7月1日(金)。晴れ。8時半「今市車庫」行きのバスに乗って30分。前回の最終地点・弁天橋に付いたのが、9:00。さっそく出発! ちょっと日差しが強くなるかな、と悪い予感。

出発してまもなく左手に「光明寺」。
                                      ここには立場があったといわれています。

最初の並木は桜。

左手には竹林が広がります。

                      桜のシーズンにはさぞかし・・・。ところどころ杉も混じっています。
    

自動車道より一段高い遊歩道を歩きます。

 周囲の自然豊かな遊歩道を進みます。竹林、モミジ、サクラ、スギ・・・。秋の頃や新緑の頃などはすてきな散歩道に。
                         

振り返って望む。

 「宇都宮インター入口」交差点付近でいったん並木は途絶え、下金井町へ入っていきます。

(9:33)はじめて「徳次郎」の名を見つけます。

 「徳次郎」は、今は、「とくじろう」と読むようになっていますが、「とくじら」とも読んだようです。

地名の由来
 徳次郎の地名の由来には諸説在る(以下に列記)。初出が宇都宮氏時代であることから、平安時代後期以降、江戸時代までに一般化した地名と考えられている。
 読みに『とくじら』と『とくじろう』の二通りがある。現在の行政による住所地としては『とくじろうまち』と規定されている。経緯としては、当初は『外久次良』(とくじら)の地名だったが新田徳次郎昌言がこの地に徳次郎城を築いたことに因んで漢字を当てて『徳次郎』(とくじら)としたため、後世に『徳次郎』の文字だけが一人歩きし『とくじろう』と誤読されたと云われる。

1.日光の久次良氏(久次郎氏)の外領ということで、外久次良(外久次郎=とくじら)とされた。
                ↓
2.宇都宮氏家臣の新田徳次郎がこの地に徳次郎城を築いたことから徳次郎と書くようになった。

 「徳次郎」の読みについては、富屋村が宇都宮市に編入された際に漢字の音読みに合わせ「とくじろう」に変更されたが、その後も「とくじら」「とくじろう」が混用された状態であり、日光宇都宮道路徳次郎インターチェンジの読みが2008年まで「とくじら」であるなど現在に至るまで「とくじら」の読みが一般的に流通している。

(以上、「Wikipedia」参照)

 ちなみにこのお店は「とくじら古美術点店」と記されています。

再び桜並木。

 (9:45)しばらく進むと、右手に「高谷林の一里塚」(東側のもの)。
     
                 この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸・日本橋から29里目。
そこから西側を望む。塚の有無は不明。

 まもなく「東北自動車道」の高架をくぐります。右手の丘の上に煉瓦造りの瀟洒な建物。
    
                        「第六号接合井」。
 接合井は、今市浄水場で浄水した水を、距離約26キロ、標高差240㍍ある戸祭配水場まで送る際、送水管にかかる水圧を高めるために建設された施設です。
 この接合井は、今市浄水場と戸祭配水場間の日光街道沿いに、標高が約30㍍下がるごとに設けられ、全部で6箇所設けられました。
 これらの接合井は、昭和24年の今市地震により、残念ながらその大半が倒壊しましたが、この第六号接合井だけは、創設当時のままの姿を今も残しています。

 国の有形文化財並びに「土木学会推奨土木遺産」として登録されています。

 この先のバス停が「下徳次郎」。その先、「山王団地入口交差点のところに「大谷道道標」(10:02)。
    

 山並みが身近に見えてきます。

 (10:09)「徳次郎町」の落ち着いた街並みに入って来ました。けっこう日差しが強くなってきます。大谷石造りの建物が並んでいます。
    

右手奥の山の手前の小高い丘にあったのが「徳次郎城」? 

「中徳次郎」交差点の手前には「田中道」道標。    
 「神社入口約五丁 田中道」とあります。当時、徳次郎宿の本陣や問屋場があった付近のようですが、痕跡は見つからず。

徳次郎宿
 日光街道18番目の宿。
 上徳次郎宿、中徳次郎宿、下徳次郎宿の3宿から成る宿場町で、これらに古道旧日光街道沿いの門前村、田中村、西根村を加え徳次郎六郷と呼ばれていた。
 江戸時代当初の元和3年(1617年)の時点では上徳次郎宿のみで人馬役が賄われていたが、その後中徳次郎宿および下徳次郎宿の嘆願により享保13年(1728年)より上徳次郎宿に加えて中徳次郎宿、下徳次郎宿も宿駅の役が課され合わせて徳次郎宿となった。1月を3分し上旬は中徳次郎宿、最も混雑した中旬は経験豊富な上徳次郎宿、下旬は下徳次郎宿が人馬役を当番した。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、徳次郎宿の本陣は2軒、仮本陣1軒、脇本陣3軒、仮脇本陣1軒が設けられ、旅籠が72軒あり、日光道中最大級規模の宿駅であった。宿内の家数は168軒、人口は653人であった。
 徳次郎宿は江戸末期に天領化されて真岡代官所の管轄となる。この時代に二宮尊徳や吉良八郎の手により西原の治水事業が進められ、田川に堰が設けられ宝木台地に引水された(宝木用水)。

(10:19)倉造りのおうち。

しばらく進むと、右手に「智賀都神社」の鬱蒼とした杜。
県の天然記念物と名木百選に指定されている二本の大きなケヤキは樹高40m、幹周り7~8m、推定樹齢は700年だそうです。  

 (10:33)行く手の中央分離帯に杉並木。「六本杉」といって、杉が6本並んでいます。
        

 街道沿いの杉並木は思ったほど連なっていません。炎天下を歩くハメに。この先もまだまだ待望の杉並木は現れてきそうもありません。それでも前方に並木道があると、ホッとします。しかし、左側の遊歩道を歩いたのが失敗。木立もなく日差しをそのまま浴びる感じ。
               

 右手、分かれ道に大きな石の「道標」。「宇都宮・・」とあります。
「大網町」への分岐点。右奥に「田川」が流れていますが、ここからは見えません。もう少し行ったところで渡ります。

「徳次郎変電所」から、街中に進みます。「上徳次郎」地区。「徳次郎宿」は、「下」「中」「上」の3つで成り立っています。本陣跡は「飯野」さん宅のようですが、同姓の家が並んでいて、果たしてどのおうちか?
   

 日陰もない通りをひたすら歩きます。車は通りますが、人影はありません。しばらく静かな街並み。

いつしか「上徳次郎宿」を抜け、今市へ向かいます。振り返って望む。

 (11:00)「船生街道入口」交差点の右手(北側)に「石那田(六本木)一里塚」があります。江戸・日本橋から30里目。
             
                                      解説板が立ててありますが、かすれていて判読不能。

道路のこちら側(南側)には「十九夜塔(道祖神)」。

さらに「日光街道桜並木」碑。

 (11:13)しばらく進むと、右へ分かれる道の角に「二宮尊徳先生遺跡石那田堰」という標柱があります。


石那田堰(二宮堰)
 二宮尊徳が手がけた用水事業の一つで、尊徳のもとに吉良八郎が工事監督にあたり、嘉永5年(1852) 9月徳次郎六郷用水(石那田堰)が完成しました。さらに南方の宝木地区まで水を引くため、安政2年(1855)徳次郎用水の取水口より開削工事に着手しました。
 しかし、翌3年(1856)尊徳の死などにより工事の中断もありましたが、安政6年(1859) 6月吉良八郎の監督のもとに宝木用水が完成しました。この宝木用水の取水堰を「二宮堰」と呼んでいます。
 かっては、宝木用水の出発点として重要な役割をはたしていましたが、今でも、水の勢いを弱める工夫が施された田川からの水の取り入り口や、木材を利用した水門、玉石積みの護岸などの一部が残っており、当時の設計技術の優秀さを伝えています。
 現在は、田川の河川改修工事によって役目は終わりましたが、尊徳の偉業を後世に引き継ぐため、二宮堰部分の復元を行い、周辺一帯を整備し貴重な文化遺産に触れることのできる親水公園になっています。
 蛇足ですが、この宝木用水は宇都宮市街地の西寄りを流れる新川の名で親しまれています。

(以上、「」HPより)

前に見た「接合井」施設。再建されたもののようです。

(11:20)開けたところに出てきます。「榊里」。

工事中の橋を渡ります。下を流れているのが「田川」。

橋を渡って左手にあるのが、「石那田八坂神社」。

その前にはりっぱなお屋敷。かつての「茶屋」? 

 再び並木道になりました。少しずつ上って行きます。しかし、けっこう炎天下。ちょっと一休み。下の車道にバス停「海老王子」。休みがてら時刻表を見たらまもなくバスが来る時間。あまりの暑さと腹も減って、喉も渇き、帰ってからは飲み会があるし、・・・。それを言い訳にして、ここで早々にギブアップ。時に11時45分。今までで最短距離。
 バスの中の涼しいこと、涼しいこと。そのまま中抜きで東武「下今市駅」まで。杉並木を横目で眺めながら、そのまま中抜きで東武「下今市」駅まで来てしまいます。
         
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「日光道中」をゆく。総集編。第7日目。(JR「雀宮駅」から関東バス「弁天橋」まで)

2016-08-08 21:59:26 | 日光道中
翌6月19日(日)。曇り、時々晴れ。昨日よりは歩きやすい感じ。(9:30)雀宮駅に降り立ちます。
 この下り線ホームにも「鐵道院」の鋳物製の鉄柱があります。そこには解説板も。
                         

雀宮駅旧跨(こ)線橋の柱について
 この柱は、かつて雀宮駅で使用されていた乗換えこ線橋の階段下の門柱で、乗換えこ線橋自体は1984(昭和59)年の駅改良工事に伴い撤去されましたが、その後乗降場の外灯として2009(平成21)年まで再利用されていました。
 この門柱は鋳鉄製で、柱下部の刻印のとおり、合資会社高田商會(現株式会社高田商会)の柳島製作所(現東京都墨田区錦糸4丁目の錦糸公園東側付近)にて1912(明治45)年に製作されたもので、合資会社高田商會の銘がある鋳鉄柱は、今のところ全国でも当駅と京浜東北線の大森駅東口に保存されているもののみです。

旧道(国道4号線)に戻って右折すると、「雀宮神社」があります。

ここで「雀宮(神社)」という地名の語源について。(より)

    

    


                       。
              『雀宮南小学校50周年記念誌』『雀宮の地名の由来」(吉野益太郎氏執筆)より抜粋

 なるほどさまざまないわれがあるようです。いずれも興味深い説。
 中でも、「紅雀」説は、物語性があって、なかなかのすぐれもの。
 光源氏だとされる藤原実方朝臣の話で、都にて女性のことで騒ぎを起こした科により青森の地に国造として単身赴任を命ぜられた。彼の若妻が後を慕って雀の宮の地まで来たが風邪がもとで寝ついて、もはやこれまでと村の女房たちを集め「私は陸奥の国造藤原実方朝臣の奥方です。私はここまで来ましたが、病が重くもう死ぬでしょう。心惜しいのですが実方朝臣が来たならばこの藤原氏に伝わる三種の神器をぜひ渡して欲しい」と言い切ると息を引き取った。これを知らぬ実方朝臣は国実検の途路、落馬して死んでしまった。実方は死して紅雀となり雀の宮まで飛来して奥方の埋葬されている綾女塚の上に来て息絶えた。あまりの悲しい物語のため墳頂に綾女神社として祀り供養し、現在は雀宮神社境内に移されている。

 藤原実方は「三十六歌仙」の一人で、その歌は「小倉百人一首」にも入っています。

 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

 死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)
 
 この場合も「雀」になっているようで、やはり「雀宮」にはご縁があるわけです。

(9:44)その先がちょうど「東京から100㎞」ポスト。

 「国道121号線」との立体交差を過ぎると、左手に富士重工の工場。その先が「陸上自衛隊北宇都宮駐屯地」(10:07)。正門からぞろぞろ親子連れが入場しています。イベントがあるようです。



 (10:34)しばらく進むと、右側にJR宇都宮線の線路が近づいてきます。その脇の停留所名が「一里」。この付近に日本橋から26里目の「江曽島一里塚」があったようです。
    

踏切の名称も「一里踏切」。

(10:44)「東京から104㎞」ポスト。

この付近から「国道4号線」の道路幅がかなり広くなります。

 (10:50)「西原」の交差点。ここまで辿ってきた「国道4号線」ともおわかれです。国道4号線は大きく右に曲がって続いていきます。
左に進む道が「日光街道」になります。

    
 「国道119号線」を「東京街道」と表示。                            振り返って望む。

「宇都宮宿」に向かって進みます。 

JR日光線。

 しばらく行くと、正面に交差点。宇都宮宿へは左の「日光街道(奥州街道)」にあたる「不動前通り」を進みます。直進する道が「旧奥州街道」で、現国道119号線。この国道は東武線・宇都宮駅前に向かいます。交差点のところにあるのが、「不動堂」。
    

 ここが「宇都宮宿」の江戸方木戸口でもあります。

宇都宮宿
 日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
 宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により伝馬役を命ぜられ、宿駅として整備されたものである。宇都宮藩により治められていた。
 東海道に続く街道整備により宇都宮宿にも伝馬役が命ぜられたのが慶長7年(1602年)であり、以来宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
 元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
 伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、当初は東石町で担っていたが負担が重かったため伝馬町に移され、さらに小伝馬町や池上町にも拡大された。
 宇都宮宿で最も栄えたのがこの伝馬町や池上町界隈で、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
 門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる傳馬町(伝馬町)および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。ほか、街道沿いには台陽寺や桂林寺など寺社群が多数林立し、宇都宮は、日光道中で最大の繁盛の地であった。
                                                            (以上、「Wikipedia」参照。)

東武宇都宮線のガードをくぐります。

 ガードの先、右手にあるのが「蒲生君平旌碑」。
    

 この付近には多くの寺院が配され、宇都宮城下入口を固める防御線の役割も果たしていたという。
 「不動前通り」から「蓬莱大黒通り」となると、左側に「熱木山不動尊」があります。


「蓬莱大黒通り」。

 道が整備されて広くなって、街中に入って行きます。
    

更に材木町通りとなります。「宇都宮城址」は右手奥の方になります。

 少し賑やかになってきて、「宇都宮地方裁判所」前で、大通り(国道119号線)に突き当たります。この辺りは伝馬町といって問屋場や本陣・旅籠が並び、一番賑やかな町でした。


 裁判所の前を右に曲がり、今度はすぐ左に曲がります。(11:46)ここが日光街道と奥州街道の追分(分岐)でした。
             

日光街道と奥州街道の追分
 江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれました。北へ向かう清住町通りが日光街道、東へ向かう大通りが奥州街道にあたり、多くの人馬でにぎわった場所でした。

「バス停・伝馬町」。

 この付近に本陣があったようですが、確認出来ません。「高札場跡」の案内板があります。

       

これから歩む「日光街道」を望む。

「本郷町」解説板。

古い商家風のおうちがちらほらあります。
    

       
(12:02)日光道中宇都宮宿追分一里塚 「二十七里」

(12:05)「蒲生君平の墓所」桂林寺。

 旧街道筋らしい古いおうちが見られます。
    

 (12:19)しばらく進むと、Y字路になり、そのところに「勝善神」の大きな石碑があります。
       
     勝善神の碑(そうぜんしんのひ)
 「勝善神」は、「蒼善神」とも書き、馬の神を祀ったもの。主に関東、東北地方で信仰の対象であったとされます。

 しばらく進むと、先ほど「裁判所前」で分かれた「国道119号線」に再び合流します。
    
 ここからは、日光までほぼこの国道を進むことになります。

(12:36)そろそろ昼食タイム。さて、と。

 「讃岐うどん」のお店があります。ここで讃岐はないだろうと思いましたが、なにしろ昨日のお蕎麦屋さんで腹一杯出てきていささか参ったので、ここなら、と。しかし、このお店、チェーン店ではなくやっているお店。舞茸の天ぷら付きのうどんを頼んだらけっこうな量。都内では考えられないボリューム。栃木はなかなかサービス精神が旺盛のようです。

 こうして今日も腹一杯食べて、午後の部再開。


 (13:26)「日光街道」からは東西に街道が分岐しています。ここは、「長岡街道」。

     
                        大谷石でできた蔵造りの立派なおうち。

    

 (13:36)いよいよ前方に並木が見えてきました。ただこの先は、杉ではなく、桜並木となります。
 初めは、桜並木が続きます。桜の季節にはみごとな並木道になりそうです。車道と遊歩道が分かれていて、歩道は、一段高いところを進みます。入口付近には派手な衣装屋さん。


    
                 大谷石を活かした造りの新旧? のおうち。  

    木陰がたっぷりある遊歩道。
 
左手に「文星芸術大学・短大」。

 (13:50)大学の正門近くに「上戸祭一里塚」があります。江戸・日本橋から28里目。
    

街道を挟んで東側にある塚。

    
                       車道は一段低いところにあります。

 「君島建装」という会社のところで歩道は終わり、車道を歩いて大きな交差点へ。

振り返って望む。

(14:09)「弁天橋」。

 今回はここまで。帰りはバスに乗ってJR「宇都宮」駅へ。市街地に入るとけっこうな賑やかな街並みです。
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「日光道中」をゆく。総集編。第6日目。(JR「小金井駅」から「雀宮駅」まで。)

2016-08-06 18:38:23 | 日光道中
 6月18日(土)。快晴。
(9:28)前回はしょったところ(旧道)近くに戻り、歩き始めます。

遠く正面に「小金井一里塚」。旧道を歩く「感動」です。
 左に回り込んで「一里塚」へ向かいます。現日光街道が東側に通るようにつくられた関係で、両側の塚とも運良く残ることができました。

(9:36)東の塚と西の塚(手前)。その間が「日光道中」となります。

来た道(南側)を振り返って望む。

    

 明治期の国道整備の際、新田宿と小金井宿の間は、旧街道の東側に並行して新しい道路を開通させたため、東西の2つの塚がほぼ原形のまま残されました。日光街道の一里塚では、唯一、国の史跡に指定されています。

 この先が「小金井宿」の中心部となるようですが、特に史跡の表示はありません。
本陣跡(大越家)の門。問屋場もこの付近にあったようです。

小金井宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて14番目の宿場。
 宿駅の管理は、当初は壬生藩だったが、元禄9年(1696年)以降は幕府、宝暦13年(1763年)以降は下総佐倉藩、天明7年(1787年)以降は幕府、寛政11年(1799年)以降は再び佐倉藩が担った。現在の国道4号沿いの小金井駅前交差点の北側に展開しており、南(江戸側)から下町・中町・上町より構成された。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が43軒あった。宿内の家数は165軒、人口は767人であった。
 「小金井」という地名は、近くに小金井と呼ばれた湧水の池があり、「旱魃のときにも枯れることがなかった、池の中から黄金が出てきた」という伝承に由来する。この井から「金井村」という村名が生じ、のちに「小金井村」となった。(天保14年・1843年頃作成と推定される『日光道中略記』より)
 江戸時代以前からの古い宿場であり、15~16世紀には集落が形成されて、「奥大道」すなわち鎌倉街道中道(なかつみち)の「金井宿」と呼ばれていた(『蓮行寺文書』等)。 

 沿道には古いおうちがちらほら。 修理中なのか、取り壊し寸前なのか。・・・

    

 (9:58)「小金井北」交差点を右に折れた、突き当たりにあるお寺が「蓮行寺」。由緒あるお寺で、将軍が日光社参の際に、ここで宇都宮城主が出迎えたといいます。1329年の開基。

    

西側の視界が広がってきます。

(10:14)しばらく進んで、国道から左に折れる道が旧道。

左に折れたら、右のあぜ道のようなところを進みます。本来はもっと手前で国道から分かれていたようです。
    
                           振り返って望む。

 すぐパチンコ店と駐車場との間の舗装道路となります。
(10:18)正面にしゃれた建物が見えてきました。下野市役所。

 新しい解説板。
    

日光街道を歩く 日光街道と笹原新田
 江戸幕府は、江戸日本橋を起点とした五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)を幹線とする全国的な交通網を整備し、一定の距離をおいて宿駅(宿場)を定めました。 
 下野市役所周辺は笹原新田といわれ、小金井宿と石橋宿の間に位置しています。庁舎建設に伴う発掘調査では、側溝をもち幅約8~10mの日光街道跡が3時期確認されました。
 笹原新田は、「日光道中略記」によると「当所ハ万治2年小金井宿の民、此の地の民と戮力して開発せし故、金井村新田と呼びしが、其のはじめ笹原なりしを以て元禄の頃より笹原新田と改む。」とあり、万治2(1657)年、小金井宿の住民とこの地の住民が力をあわせて、笹の生えた原野を切り開いたことをうかがうことができます。また、「日光道中絵図」には、庁舎敷地の南側、杉並木のある日光街道を挟んだ両側に「野池」が描かれており、「日光道中略記」によると、野池の説明が「暮春のころはかきつはた見ごとなり」と書かれ、かきつばたの名所とされていました。
 この野池周辺は、土地が低かったため土橋がかかっていたのか、土橋という地名が残っており、現在も土橋公園と公園南側の土地が低く、野池の名残を見ることができます。

振り返って望む。

 旧道は、市役所庁舎のほぼ中央を南北に貫いています。北側に回り込んで見るとドアがちょうどその道筋を示しています。閉庁していなければ、中山道・熊谷の「八木橋デパート」のように通り抜けできるようになっているのかもしれません。
      

    
          けっこう日差しが強くなってきます。まっすぐな道をひたすら進みます。

 視界が開けてきました。(10:41)
   

 まっすぐに進むと、行き止まり。この先は、木々が生い茂って通行不能。旧道本来はもっと進んで行きました。
(10:49)  

 右に折れて国道に出ます。また国道歩きが始まります。この先に、日本橋から23里目の「下石橋一里塚」があったようですが、今となっては定かではありません。
    
 (11:00)「丸大食品」関東工場の敷地ぎりぎりを旧日光街道は進んでいたようです。

     (11:06)「東京から91㎞」ポスト。

 「夕顔の橋」(「国道352号線」との交差点付近)の手前に10体の石仏が祀られています。「旧日光街道」は、この付近で現在の国道に合流し、「石橋宿」へ向かいます。「丸大食品」からここまでは国道の際を進んでいたようです。
 

 国道352号線の立体交差を進むと、「石橋宿」へ。

石橋宿
 日本橋から15番目の宿場。
 元は上石橋村、下石橋村、上大領村、中大領村、下大領村、前原村の6か村が1村となり、当時天領とされていたため内裏領村と呼ばれていた。時期は不詳だが内裏領村が宿駅となり石橋宿となった。
 宿役はこの宿の旧家で元多功城城主多功宗朝に仕え、後この地に土着し農民となったと言われる名主伊沢近江守、問屋伊沢出雲守、本陣伊沢越前守の各家が代々交代で勤めた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、石橋宿には本陣1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が30軒あった。宿内の家数は79軒、人口は414人であった。

(11:36)  
          街並み。時間のせいか、思ったよりも交通量は少なめ。

 「石橋駅入口」交差点の手前の左側に、脇本陣跡(伊沢写真館)、本陣跡(伊沢茶舗)があります。
    
 伊沢写真館。                                伊沢茶舗。

さて、そろそろ昼飯の時間。駅前に行けば何かあるだろうと。見上げると「グリムの里」という幟。また、街灯もしゃれたつくり。はてさて?

    駅前広場には大きな時計台。はてさて?

 旧石橋町(現下野市)を南北に貫く国道4号(日光街道)から西に500メートルほど入ると、住宅街の中に2・4ヘクタールの雑木林が現れる。「七人の小人の広場」や「黄金のがちょうの泉」などでグリム童話の世界を表現した「グリムの森」だ。
 なぜ栃木県でグリムなのか。きっかけは1966年、グリム兄弟が生まれたドイツ・ヘッセン州にある町と石橋町の児童が、絵画や習字などの作品交換を始めたことだ。その町の名は、ドイツ語で「石橋」を意味するシュタインブリュッケン。両町の縁を取り持ったのも、独協医大の初代学長を務めた石橋長英氏だった。
 両町は75年に姉妹都市となり、96年には町の「グリムの里づくり」事業の拠点施設としてグリムの森が完成した。その一角にある「グリムの館」は、ドイツの市庁舎と木組みの民家をイメージした建物で、グリム童話の初版本など貴重な資料や、グリム兄弟の業績を紹介する写真やパネルが展示されている。

以下は、「グリムの森・グリムの館」公式HPより。

    

 ということで・・・。ところで、お店は、というと。
「清水蕎麦屋」。
 昔ながらのお店という雰囲気。ビールを頼んだら、今どき珍しく、大瓶(633ミリリットル? )。「カツ丼セット」を頼んだら、カツ丼も盛りそばも並の量。隣の方の大盛りを見たら、まるで大山。蕎麦も黒々と太く、素朴な味わい。・・・
 都内のチェーン店でのセットメニューになれていると、食べきれないほど。野武士とお公家さんくらいの違い。土地柄か、値段は安くて、大盤振る舞い(翌日の昼定食もそうでした)。何とか食べ終えて、お腹いっぱいになりすぎ、午後の歩きがおっくうになるほど。

 さて、12:40。午後編。
「石橋あやめ園」案内板。

 その先の民家の庭先には紫陽花が咲き誇っています。
    

 下小山の交差点を過ぎると、右手には緑豊かな「前田製菓」の広大な工場。この付近に日本橋から24里目の「下古山一里塚」があったようですが、位置は不明。


  (13:10)「東京から95㎞」ポスト。

 その先には、取り壊し中、あるいは放置された巨大な建造物? このままモニュメント化しているのか?
    

その右手には「黄金比率のデミグラスソース だびんち」。「黄金比率の」?

 街道沿いのお店には車の運転手の目を引くネーミングや建物が多いようです。

 右手に「鞘堂地蔵尊」。
    

 なお、旧道はここまでの区間も現在の国道より少し西側を通っていたようです。この道?


「星宮神社」。

(13:28)しばらく進むと、頭上遙か高くを通る「北関東自動車道」の橋脚。

(13:40)ようやく「宇都宮市」に入ります。

(13:46)さらに「茂原正観音道」碑。    
                                     社殿は、新幹線架線・在来線の線路を越えた東側にあります。

 左手には「陸上自衛隊宇都宮駐屯地」が広がります。
    

「雀宮宿」に入ります。 

(14:20)そろそろバテ気味。「東京から99㎞」ポスト。

ひたすら国道を歩く。
 この付近に日本橋から25里目の「雀宮一里塚」があったようです。

 (14:28)「大和田内科胃腸科病院」の先「やまや」のところに「小倉本陣跡」碑があります。


雀宮宿
 日光街道および奥州街道の16番目の宿場。
 雀宮宿は江戸時代に下野国河内郡にあった宿場町である。雀宮宿は、もともと下横田村の台地部にある村落であったことから台横田村と呼ばれ、奥州古道の時代にはその中心地は雀宮宿の東方にあったが、江戸時代に日光街道が整備されたことにより沿道に人家が集まり宿を成し、近所にあった雀宮神社に因んで雀宮村と改称し、後に江戸幕府によって宿駅とされたものである。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、雀宮宿には本陣1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が38軒あった。宿内の家数は72軒、人口は268人であった。

前方右手に曲がると、JR「雀宮」駅へ。

 その角で昔風の建物を建築中。ここが「芦谷脇本陣」のようです。


 (14:31)脇には門などが解体、復元中。
    

 今回はここまで。JR「雀宮」駅から戻ります。えきの上りホームの時刻表掲示板、どこかで見たものと同じ鋳鉄製の柱があります。京浜東北線の大森駅東口の喫煙スペースにあったような、・・・。

    

大森駅前広場にあるもの。
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「日光道中」をゆく。総集編。第5日目。(JR「古河駅」から「小金井駅」まで)

2016-08-05 22:02:57 | 日光道中
 6月4日(土)。晴れ後薄曇り。
 今回は、古河宿から小金井宿までの行程。約4万歩歩きました。
 (8:53)古河駅から日光道中に復帰して、まず「史蹟 古河城下高札場址」碑。
    

通りをはさんだ向かい側には「古河城下本陣址」碑。

この交差点を左に曲がります。と、その右手の角に「道標」。

      
日光街道古河宿道標

 この道をしばらく進み、次の交差点で右折します。枡形になっています。


「よこまち柳通り」。

 この沿道には古いおうちがいくつかあります。
    

「大和屋薬局」。

旧国道4号線(県道261号)に合流します。角には大きな「常夜燈」。

 (9:26)現国道4号線に合流する手前、右手には「塩滑地蔵」。少し奥まったところにあります。
    

 ここからは、約11㎞に及ぶ、車の行き交う国道歩きになります。かつての松並木の面影は全くありません。
 「日光道中」にはこのように「国道4号線」(あるいは旧国道)をひたすら歩く、というケースが多いようです。途中で見るべきものがないと、実に単調なものに。

                    (9:37)「東京から64㎞」ポスト。

(9:38)「野木宿入口 この場所に木戸が設置されていた」。

向かいには「馬頭観音」石碑。

 沿道の家々には宿場時代の旧屋号が掲示されています。
       

 その先に「野木宿」の解説板。日本橋から10番目の宿場。古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つ。
    
日光道中野木宿
 江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8㎞)、間々田宿へ1里27町(約6.9㎞)にあった宿場町である。
 野木宿の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596~1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
 宿の規模は天保14年(1843)では下記の通りである。
 宿の長さ 22町27間 家数 126軒 宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25疋 高札場1ヶ所 本陣 1軒 脇本陣 1軒 問屋場 4ヶ所 旅籠 25軒(大0,中2,小23) 人口 527人(男271人 女256人)・・・
 野木宿は小さな宿場だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23ヶ村が野木宿に割り当てられた。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。

 交差点を渡った角のおうちの植え込みに「野木一理塚」という立て札があります。日本橋から17里目に当たります。刈り込みをしている方を横目にパチリ。
「一里塚跡 江戸より17里 塚の上には榎が植えてあった」。

 「野木宿道標」。
    
 栃木への道を分ける道標を過ぎると、広い歩道もなくなり、「国道4号線」も田園風景の中を進む道路となります。

(9:58)左手に観音堂。「十九夜塔」など。

(10:08)かつてはこの付近も松並木が続いていました。

 「友沼」の交差点で左折して「思川」方向に寄り道します。「思川」は「渡良瀬遊水池」の先で「渡良瀬川」と合流します。
(10:28)「松原大橋」から。下流方向。      
 旧道に戻ってしばらく行くと、
   栗林。

「馬頭観音」石碑。

立派な長屋門を持つおうち。

「東京から68㎞」ポスト。

「馬頭観音」石碑。

 (10:58)「役場入口」の信号を越えると、左手に「法音寺」。この境内に「芭蕉句碑」があります。
    
                       芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰れけり

 法音寺にあるこの句碑は、安永9年庚子年(1780)仲秋に、今日庵安袋の門人秋元性李叟が建てたものである。「道ばたの」は諸本が「道のべの」とする。「むくげ」は木槿、槿である。
 大井川を越えたあと、8月20日過ぎのことで、小夜の中山(現静岡県掛川市日坂付近の名所)超えをする時に、馬上から詠まれたものである。


  (11:03)しばらく進むと、「小山市」に。

「馬頭観音」。この付近には多く見る石碑。

(11:09)左手に日本橋から18里目にあたる「乙女一里塚」? 

    
この付近の地名は「乙女」。

・『乙女の里物語』 pp.21~22に、乙女の由来の記述があった。明治44年(1911)、間々田尋常高等小学校長宮崎伊八郎により編纂された『間々田村郷土誌』によれば「乙女ハ古来、御止ト書キシナリ。其後、音女ト書キタルコトアリ。更ニ其ノ後ニ至リ乙女ト改メ称シタリ」とある。また、同書p.22には、「乙女」が記録されている最も古い文書といわれる元徳4年(1332)の土地台帳(金沢文庫所蔵、『乙女郷年貢帳』には「乙女郷」と記されており、鎌倉時代には地名「乙女」があったことがわかる。
・『とちぎの地名』 p.50に地名の由来に関する記述があった。オトメ(乙女)のオトは、崖・傾斜地を意味する。メ(目)は二つの物の接点・境目の意である。乙女は思川に臨む崖縁(台地箸部)に由来する地名と思われる。

(以上、HPより)

「東京から70㎞」ポスト。

 そろそろお腹が空いてきます。「間々田駅」入口交差点、左手の角にお蕎麦屋「小川庵」。


(12:09)表示も「宇都宮36㎞ 那須高原92㎞ 福島202㎞」

右手に「車屋美術館」。古民家と蔵。

「小川家住宅」。堂々たるおうち。国の登録有形文化財。

 小川家の屋号が「車屋」だったそうです。
 平成19年に国の登録有形文化財に登録された小川家住宅の米蔵を、本格的な美術展示室として改装するとともに、主屋(おもや)・庭園なども一般公開し、平成21年4月に開館しました。
 
 ↓が「逢いの榎」碑があるところ。残念! 見逃しました。

 現在、「逢いの榎」碑はこうなっているようですが。
HPより拝借)。

 「間々田宿」は江戸および日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離も18里という中間地点に位置していたので、「間の宿」と呼ばれていました。「間々田宿」の入口にあった榎は「間(あい)の榎」と呼ばれ、いつの頃からか「逢いの榎」と呼ばれるようになりました。
 「旧東海道」では「袋井宿」がど真ん中。「ど真ん中茶屋」とか「ど真ん中小学校」がありました。

蔵造りの古いおうちも残っています。


間々田宿問屋場跡


間々田宿本陣跡

 間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から11番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。
 天保14年(1843)の記録によると当宿は
 石高 944    家数 175軒
 人口 947人   旅籠 50軒 本陣 1 脇本陣 1
と記されており、幕府の定めにより、常備の人足25人、馬25疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。

 11番目ということは、「東海道」では「三島宿」にあたります。やっと箱根峠を越えたところ。「日光道中」はそうした峠道もなく、ここで行程の半分になりました。

 400年前から続く、奇祭「蛇まつり(間々田のジャガマイタ)で知られる「間々田八幡宮」を過ぎ、


さらに「千駄塚」案内碑を脇目に進みます。

 (13:05)「粟宮南」交差点にさしかかります。すると、左手角に「西堀酒造」。
お店に入って3種類を試飲。

 「若盛 門外不出 奥座敷」・・・。赤米・古代米でこしらえたワイン風のお酒を1本購入しました。何でもこの日は小山の酒蔵(地酒)が集まって、市役所辺りでイベントをやっているとか。う~ん、時間的には残念!

    

右手には「新幹線」。

 「粟宮」交差点の三叉路で右の旧国道(現県道265号線)を進みます。正面には「レース鳩市場」。
    
                                     来た道を振り返って望む。
(13:53)「神鳥谷東」立体交差点。右手に新幹線。

街道筋らしいおうちもちらほら。

(14:04)右手に「小野塚イツ子記念館」。奥に煉瓦煙突。

 『小野塚イツ子記念館』は、平成15年にご逝去された故小野塚イツ子氏のご遺志により小山市に寄贈された建築物です。土蔵及び醤油工場を建物の外観を残しながら改修し、平成16年に地域学習施設として開設されました。
(「小山市中央公民館」HPより)

 小野塚家は、江戸時代から続いていた「万久」という屋号の醤油屋さんでした。

古河宿のように、電柱のないすっきりした「小山宿通り」。

(14:10)「須賀神社」参道。    

「日光街道 小山宿 開運のまち」。

小山宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて12番目の宿場。
 元和3年(1617年)以降に宿駅に指定されたと考えられている。宿駅の管理は、元和5年(1619年)以降は古河藩、延宝3年(1675年)に幕府、天和2年(1682年)に古河藩と変遷したのち、貞享2年(1685年)以降は幕府、安永3年(1774年)以降は宇都宮藩が担った。小山宿は「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道(日光道中)、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道が交差する交通の要所であった。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は2軒設けられ、旅籠が74軒(大11,中27,小36)あった。宿内の家数は423軒、人口は1392人であった。当時の日光街道は現在の県道265号線に相当し、街道沿いでは南から下町・中町・上町、他にも横町・新町から構成された。本陣・脇本陣は中町(現在の中央町)にあった。また宿内には、将軍家による日光社参のため、小山御殿が設けられていた。

小山御殿: 将軍家の日光社参のために設けられた休憩所。場所は現在の小山市役所付近に相当するが、遺構は残されていない。

    
                   明治天皇小山行在所跡
 (14:13)明治天皇行在所跡碑の後ろに、小山宿脇本陣がありました。通りを挟んで反対側にも脇本陣があったようです。

 (14:22)右手に、物産品販売や観光案内を行う小山市まちの駅「思季彩館」。古民家を利用した建物。
    

 けっこう西日が強くなってきて、今回はここまでと思って、「小山」駅へ。駅ビルで喉を潤し、休憩している内に元気回復。予定通り、「小金井」駅まで進むことにしました。

 再開。駅前から約20分。「両毛線」の踏切を越えて進みます。この付近、本来の日光道中はもう少し西側を進んでいました。

(15:07)「第一奥州街道踏切」。

(15:16)右手の角に「日本料理 丸治」。

 この交差点を左に行くと、何となく今でもCMを口ずさめる「小山ゆうえんち」跡。
 「小山ゆうえんち」は、1960年4月に開園し、2005年3月閉園しました。閉園後、園内遊戯施設は解体されて更地となり、2007年に、大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」として全面開業しました。オープンモール形式となっており、ヨークベニマルを核に、大小合わせて69店舗の専門店で構成されています。

 (15:29)喜沢東交差点にさしかかります。先達の皆さんの案内によれば、Y字型の正面に「蛸屋茶寮」という食事処があるはずですが、お蕎麦屋さんになっています。はて? 先にそのまま行ってしまい、国道4号線と合流してしまいました。これは行き過ぎたと戻ってみると、Y字部分のところには石碑が並んでいます。すると、ここで斜め右の細い道へ入るのが旧道。半信半疑で向かいました。そんなロスタイムあり。最近、お蕎麦屋さんに変わったのでしょう。

    

 今後、この付近も大きく変貌しそうです。旧道もはたしてどうなるか? これから先の旧道も道路の拡幅整備、宅地造成等で寸断されています。

 (15:45)しばらく行くと、左手の雑木林の中に、小山のように盛り上がったところ。ここが「喜沢一里塚」のようです。
    

 旧道の右手側の空き地にも盛り土が。
                                      「一里塚」跡?
 特に解説板は見当たりません。もし「一里塚」跡ならば、標識を立てて欲しいものです。そうではないので、解説板がないのかもしれませんが・・・。「一里塚」なら日本橋から21里目となります。
 ところで、19里目、20里目の一里塚(跡)が見当たりませんでした。
 19里目は、間々田郵便局付近、20里目は、小山市天神町・「小野塚イツ子記念館」の先辺りになるようです。

旧道はJR線に阻まれます。高架は新幹線。

 高架線沿いに進みます。本来の道は、線路の向こうにありましたが、現在は通行不能。
    

「海道間第二公園」。「海道」は「奥州街道」の古い言い方。

 高架の向こうに「小山乗馬クラブ」の看板。旧道は看板付近を通っていたのでしょうか? 
          

その先、斜め左に入る道が旧道です。

 「国道4号線」に合流します。   

 合流した先が「新田宿」になります。

新田宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて13番目の宿場。
 宿駅としての起源はよく分かっていない。 宿駅の管理は、当初は小山藩、元和5年(1619年)以降は宇都宮藩、元和8年1622年以降は古河藩、貞享2年(1685年)以降は幕府が担った。現在の国道4号線沿いに展開し、南端は小山羽川郵便局付近、北端は銅市金属工業付近である。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣は1軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が11軒(大2、中4、小5)あった。宿内の家数は59軒、人口は244人であった。

 「新田宿」に入ると、沿道のおうちには、かつての屋号が掲示されています。ただし、当時の道幅より広く整備されていますので、その位置にあったかどうかは定かではありません。しかし、宿場町であったことをこういう形で残しているのはいいことだと思います。
     

 (16:17)左手に「新田宿本陣」跡。木の門があります。
    

(16:20)「東京から84㎞」ポスト。

 (16:25)さて、その先、「銅市金属工業」の角を左折してすぐ右折。ここからが旧道の道筋になります。


 この先、旧道は現在の国道4号線の西側を進んでいました。
 歩道と車道とが区別された道を進みます。
    

最近整備された遊歩道のような印象。振り返って望む。

 (16:37)そのまま進むと、雑草の生い茂ったところで行き止まり。しかたなく空き地を通って国道に戻ります。
    

 国道から再度左に入って先ほどの道(旧道)に復活するということもできますが、そろそろ疲れてきたので、そのまま、国道4号線を歩きます。

小金井駅入口交差点。

(16:51)振り返って望む。

 今回は、ここまで。次回は、歩き損ねた旧道から再開の予定。

              駅前にある動輪のモニュメント。
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「日光道中」をゆく。総集編。第4日目。(東武「幸手駅」からJR「古河駅」まで。)

2016-08-04 21:25:28 | 日光道中
 5月28日(土)。曇りのち晴。東武線「幸手」駅から再開。朝ゆっくり出てきたので、9:15着。

右手に小公園があり、「幸手宿」の解説板。
                           ここは、「問屋場」の跡のようです。旧道の道筋が変わっていないのが驚きです。

下に絵図が載っています。吉宗が食べたお弁当の献立
 享保13年(1728)8代将軍徳川吉宗は、65年ぶりに日光社参を実現しました。幸手宿を4月14日に通り、昼食所として聖福寺があてられました。昼食の弁当は、御麦めし中心で、吉宗が好んだのかご飯に砂糖と胡椒が添えられています。さらに、焼豆腐 ひじき 山芋 煮しめ蓮 香の物・・・などが記されています。

幸手宿
 江戸・日本橋から数えて6番目の日光街道および奥州街道の宿。現在の幸手市中部から北部にかけての旧街道筋付近にあたる。南から北に900メートル程度の範囲で広がっていた。
 幸手は、奥州に通じる渡しがあった場所として古くから栄えていた。 かつて、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸し、中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古書に残っている。 鎌倉時代には鎌倉街道が通じ、軍事・交易上でも交通の要衝として栄えていた。室町時代以降は一色氏の領地となり、天神神社付近に陣屋が築かれていた。
 江戸時代になると、一帯は江戸幕府直轄の天領となった。日光・奥州街道と日光御成道との合流点として、さらに筑波道が分岐する宿場町となった。
下総国葛飾郡に属していた。万治年間(1658年-1660年)より武蔵国桜井郷田宮の庄(武蔵国葛飾郡)に属するようになり、田宮町または薩手・幸手町と称されるようになった。その後、元禄年間(1688年-1704年)より幸手宿と称されるようになった。
 天保14年(1843年)当時の人口は3,937人、家数962軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒であった。 両隣の杉戸宿や栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場規模であった。純粋な宿場としては千住、宇都宮、陸奥白川、越ヶ谷に次ぐ大きさであった。

     
                         幸手宿本陣 知久家跡
 知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄でした。初代帯刀は、長野県伊奈郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治3年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くしました。
 明治6年、知久家の書院で小学校が開設され、明治9年、明治天皇が東北巡行の折に宿泊されています。
 屋敷は、間口約39m・奥行き約80mで、約千坪ありました。

 宿場特有の枡形に近づいてきました。日光道中は、宿場にこういう枡形がしっかり残っているようです。宿場内や宿場を出ると長い直線路になるのが特徴のような気がします。

          その曲がり角・右手に「一里塚」跡があります。江戸・日本橋から12里目。
    

その先の信号を左に進みます。

一直線の道が延びています。 

 しばらくすると、「内国府間(うちごうま)」という交差点で「国道4号線」と合流します。
「宇都宮 59㎞ 小山 29㎞ 古河 15㎞」。

 このまま国道を進めば「行幸橋」で「中川」を渡りますが、その手前の信号で右に折れて、「権現堂堤」へ寄ってみるため、大きな駐車場のところから堤に上がりました。桜並木が二段になっていて、なかなか見事な遊歩道になっています。
(10:00)桜のシーズンにはさぞかし。

 紫陽花が桜の木の下の土手沿いに植わっています。まだ時期が早いので、チラホラと。これも満開なら見事なことでしょう。
        

権現堂堤案内
 幸手市の北端にある権現堂堤。ここは県東部第一の桜の名所である。大正の中頃には、すでに桜の名所として知られていた。戦時中に伐採されマキに使われてしまったという哀しい過去もあるが、戦後すぐに苗木が植えられ、今では以前にもまして美しい桜並木となっている。
毎年、4月の花見の季節には、桜の花が咲き誇り、花のトンネルをつくる。
 権現堂堤では毎春3月下旬~4月上旬にかけて「桜まつり」を開催しています。

遊歩道を進み、「行幸橋」方向へ。振り返って望む。 

 出口付近にある「行幸堤之碑」。
    
行幸堤(みゆきづつみ)之碑
 権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
 しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。(現在は国道4号線がその上を通っています。)
 明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
 人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
 また、行幸橋の架け替え工事(平成12年~17年)以前は石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、現在の向きにしたものです。

「国道4号線」に戻ると、「行幸橋」の手前。「東京まで50㎞」ポスト。全行程の約3分の1になります。
 
「中川」に架かる「行幸橋」を渡ります。

 「中川」は、江戸時代には利根川として流れていました。「利根川東遷」以降は、「古利根川」と言われています。
上流には東武線の鉄橋。                 

橋を渡り終えたら左折し、さらにすぐ右折します。この道が旧道。

(10:25)その先の道が二手に分かれます。

ここが「日光道中」と「筑波道」との追分。    日光街道道しるべ
 この道しるべは、安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられたものです。この道しるべには、次のように刻まれています。
  東 川つま道 まいばやし道(右) 右 津くば道(正面) 左 日光道(左)

 「川つま」は現在の茨城県猿島郡五霞町川妻、また「まいばやし」は茨城県古河市前林のことで、筑波へ行く道順です。
 この道は日光だけでなく、遠く奥州(東北)へも通じていました。

 「追分」を過ぎると、左には青々ととした田圃が広がります。田植えを終えたばかりで、眼にもあざやかな緑が水面に。
    東武線の特急電車。                      

この先でY字路になります。

 左の道を進んだら、ぶつかった十字路で右に折れ、国道脇・下の側道を進むのが適当かな、と。もちろん、その道は旧道ではありませんが。実際に歩いてみてそんなふうに感じました。

振り返って望む。左奥に「雷電社」。

 国道下の側道を進むと、「国道4号線」に向かう道路のトンネルを抜けるて、(10:50)しばらくすると、「弁財天堂」が左手に現れます。ここが「小右衛門一里塚」。江戸・日本橋から13里目。
          

 その先で、「工業団地入口」交差点の下をくぐるトンネルがあります。本来はそのまま進むのが正しいのでしょうが、「権現堂調整池(行幸湖)」を見ることができないままになってしまうので、右にある国道下のトンネルをくぐり、左の階段を上って交差点を横断します。

(10:59)「権現堂調整池」の土手に出ます。

向かい側は「キューピーマヨネーズ五霞工場」。

ほとんど流れがなく、穏やか。時折、ジョギングの人たちが通り過ぎるのみ。

(11:14)土手を上がって国道に復帰。「東京まで53㎞」ポスト。

東北新幹線のガードをくぐります。

 その先すぐ左手にある「国道4号線」をくぐるトンネルを抜けると、国道の西側に出ます。旧道(らしき道)に復帰です。側道から国道に合流し、しばらく進むと、左手に「ライブシアター栗橋」が見えてきます。そこを左に折れて行きます。
    

しばらくは人通りも少ない静かな道を進みます。

しばらく進むと、右手の民家の庭先には「会津見送り稲荷」があります。
    
               
 旧道はそのまま、国道4号線に合流して北上し、「栗橋宿」へ向かったようですが、案内用の道標に導かれ、そのまま農道のような道を進みます。
 住宅地を抜けると、栗橋宿に入ります。旧道は宿場入口で枡形になって右から進んできます。右手には「炮烙地蔵」があります。
    

※「焙烙(ほうろく)」は、素焼きの土鍋の一種。

栗橋宿に入ると、約1㎞の直線道路になります。

栗橋宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述もある。
 この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。
 慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。当初、日光街道は手前の幸手宿から北東の栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に向かっていた。その後、1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に日光・奥州街道の正式な宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、栗橋宿の本陣を代々務めた。
 栗橋宿の規模は、1843年(天保14年)の記録によると、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、家数404軒、人口1,741人であったという。
栗橋宿と中田宿
 利根川対岸の中田宿と栗橋宿は合宿の形態をとっていた。荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。

 古い家々の軒先には屋号や建物の概要が掲示されています。
    

「カスリーン台風」の爪痕を示す赤テープ。この辺りは、2㍍40㌢の高さ。

 江戸時代の「利根川」東遷以前も以後も、日光街道周辺はひとたび水害に襲われれば、濁流が遠く江戸の地まで飲み込んでいった、ということになります。戦後のカスリーン台風でもこのような大被害に遭うのですから、この地域では「治水」が今も昔も重要だったことが分かります。

注:利根川の東遷
 古来、利根川は大平洋ではなく、現在の東京湾に注いでいました。現在のような流れになったのは、数次に渡る瀬替えの結果で、近世初頭から行われた河川改修工事は「利根川東遷事業」と呼ばれ、徳川家康によって東京湾から銚子へと流れを替える工事が行われました。
 東遷事業の目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北との経済交流を図ることに加えて、伊達政宗に対する防備の意味もあったと言われています。
 工事は徳川家康が伊奈備前守忠次に命令し、1594年会の川締切を皮切りに、60年の歳月をかけて、1654年に完了しました。


 「栗橋宿」の中心街を歩きますが、宿場に必置の「本陣」「脇本陣」「問屋場」などといった案内板などは目に付きませんでした。その代わり、こうした古いおうちが目立ちます。
    

 道の両側が緑のシートで囲われて工事中です。右手は本陣跡? 左手は関所陣屋跡? 現在も遺跡発掘作業中のようです。
    左手の発掘現場。

土手の上から。右手に「八坂神社」。

 「栗橋関所」跡碑が土手下にあるはずですが、その付近は工事中で入れないかと思ってしまい、行かずじまい。
↓のところに。そこで、拝借。

 この付近は、「利根川」の大がかりな治水改修工事が行われ、堤防あるいは河川敷になってしまうようです。そのための発掘調査で、道路右側のように、発掘調査終了後、埋め戻され、永久に地中深くに眠ることになってしまうのかもしれません。北端にある「八坂神社」も移転になるようです。まもなくこの辺りの風景は一変することに。

いよいよ「利根川橋」を渡ります。さすが「利根川」=「坂東太郎」です。延々と東に向かい、銚子で太平洋に注ぎます。「東海道」でもそうでしたが、旧街道で大河に架けられた「橋」の名は、その川の名を付けたものが多いようです。

橋の真ん中付近で「茨城県古河市」に入ります。橋の長さは670㍍ほど、渡り終えるのに10分近くかかります。

対岸にあった「中田宿」は「利根川橋」の両側、現在は河川敷に広がっていました。

 利根川橋を渡ったら、すぐ左に折れて土手を下っていきます。道が右にカーブするところに「房川(ぼうせん)渡と中田関所」跡の解説版があります。薄れていて判読不能の所も。


(12:33)その先を進むと左手の火の見櫓の下に解説版。

中田宿 
 江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
 中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成されたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
 本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
 天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。ただし、118軒とする記録もある。



現在のようす。「中田宿」は「利根川橋」付近の河川敷になっています。

現在の街並みは一直線の道路に沿って続いています。

(12:39)しばらく進むと、左側には寺社が並んでいます。

(12:55)JR線の踏切を越えて行きます。

 幅広い直線道路の両側には、若い松並木が続きます。この付近は「茶屋新田」。50年後、100年後には立派な松並木に。
右手に解説板。
                  中田の松原
 いま中田町となっている通りは、江戸時代は、「中田の松原」と呼ばれたうちに入っていて、それは、これから北へ古河の原町入口までの約1里(約4キロ)余の呼び名であった。
 この間には、中田新田の顕正寺、茶屋新田の中の茶屋立場や名物の一本松(一葉一包の珍種)、原町の一里塚などがあり、また松並木を越て、藤井松平氏が建てた板間の碑、鴻巣の桃そして古河城の三階櫓も望まれる景勝の地であった。
 幅5間(約9㍍)の道の両側は一段と高くされ、そこに松並木を植えたのは、寛永7年(16303)、古河城主永井尚政のときであったという。注意して見ると、「左右に松並木が続き、道は広く、東海道にもこのように、まっすぐで、平で、きれいなところはない」と、ある記録に残されているおもかげは、かつての茶屋新田村の中心で、高札場もあったこのあたりに、今もわずかにしのぶことができる。
    

(13:06)神社の社務所前の立て札。「日光道中茶屋新田 日本橋17里→  ←日光20里 茶屋松原」

 しばらく進むと、松並木もおしまい。右手の畑越しには、JRの線路。ちょうど貨物列車が通過中。
                  

この辺りも「カサリーン台風」では大きな被害。よく見ると、表示は2m以上。
道が少し狭くなり、植樹の種類が異なってきました。

  両側が小高くなっています。「大堤」という地名も。

 次第に街並みが出てきました。国道354号線を越え、少し上り坂を進むと、右手に「古河第二高校」。この校庭に日本橋から16里目の「一里塚」の碑があるというので見たところ、高いフェンスに囲まれてよく分かりません。ふと振り返ると、
 鉄塔が建っているところ。

 家に帰ってから調べてみると、これは「十九夜塔」がメインで「一里塚」ではなさそうです。「一里塚」はやはり校庭の中にあったようで、高いフェンスの内側の中、塚の上に大きな木が植わっているところ、ということでした。どうも結果的には早とちりであったようです。これから歩く方もご注意あれ!

少し高台になっています。地名は「台町」。   

広い道に合流すれば、その先はいよいよ「古河宿」になります。

(14:02)入口には「常夜燈」のモニュメント。

    

 古地図からは利根川の北側・中田宿からこの手前まで、ほぼ直線道路の両脇に、松並木がおよそ5㎞続いていたことが分かります。

古河宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて9番目の宿場。
 江戸時代の全期を通じて、古河藩が管理していた古河三宿(中田・古河・野木)の一つである。天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、本陣・脇本陣は1軒ずつ設けられ、旅籠が31軒(大5,中6,小20)あった。宿内の家数は1,105軒、人口は3,865人であった。
 将軍家による日光社参では、古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。日光社参のときには、従者の数が膨大になるため、通常の宿泊施設だけでは足りずに、城下の武家屋敷や町屋も割り当てられた。宿場は日光街道沿いの台町・一丁目・二丁目・横町(現在の本町・中央町・横山町の一部)にあったが、渡良瀬川等による河川交通も発達していたことから、古河の町は日光街道から河岸へ向けて折れ曲がった石町・江戸町等にも広がり、T字型に形成されていた。
 大名が宿泊する本陣は時期により異なるが、最もよく知られているのは二丁目にあったもので、現在、跡地には「本陣跡碑」がある。脇本陣も二丁目にあった。

古河城下・古河宿(江戸時代後期)
 町割りの特徴は、古河城の主要な出入口が北側にあり、西側に渡良瀬川があることから、城下町・宿場町が城の北側と東側に集中していることである。また、このために城と上級武士の住居が低地にあり、町人や下級武士の住居が台地上となっており、他の城下に見られない個性的な景観をなしていた。
 日光街道に面した町を「通町」と呼び、他は「脇町」と呼んだ。また町の発展に伴い、本町とされた通町・脇町から枝町が派生した。

電柱のない、すっきりした広い通りが一直線に延びています。

 (14:05)いよいよ「古河宿」の中心部へ。車の通りも少なく、落ち着いた街並みです。
         
      道の左右にはこうした「行燈」のようなモニュメントがあって、名所・旧跡を案内、解説してくれます。

    
                      御茶屋口と御成道

 「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(徳川将軍が、神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。
 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて19回おこなわれているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成」の入り口がこの御茶屋口である。

    

 実は、ここに来るまでの間、何カ所も史跡・解説板の下に設置されていた郵便受けのような箱の中には、大きな観光記念スタンプが入っています。スタンプラリー風に楽しめるという趣向です。

枕河盆踊歌♪

(14:17)その先で左の脇道に入ると、古い建物が並んでいます。

「御馳走番所 米銀」。その左隣には、「古河藩使者取次所址」の石碑。

「米銀」の向いに肴町の説明板が掲げられています。

「米銀 銀の蔵」。

 左手奥には「坂長」・「泉水亭」。
    

袖蔵」。

    
      店の裏手。食事をするところ。落ち着いた雰囲気です。

石蔵」。
 ここは、多目的ホールのような造りに改造されていて、舞台が設置されてあります。

 8万石の城下町です。「古河八萬石最中」。

公方の城 古河城
 古河城は、古河公方の御座所であった中世、そして、将軍家の日光社参における御泊城となった近世というように、歴史上、公方様の城というべき特殊な性格を帯びた存在であった。
 殊に、室町時代の古河城は、政治・軍事面の重要性から、鎌倉公方の北関東における拠点と位置付けられており、15世紀半ばになると、「享徳の乱」を契機に、鎌倉から古河へ移座した足利成氏の居城として整備されていく。そして、初代成氏以降、古河城は、古河公方足利氏の五代130年にわたる根城として、波乱に富む関東戦国史に欠くことのできない存在となる。
 江戸期以降は、幕府大老の土井利勝、堀田正俊を筆頭に、閣老級の譜代大名たちが城主となり、近世城郭としての整備が進められ、南北1800㍍、東西550㍍という関東有数の巨大城郭に変貌した。
 明治6年の廃城令と同43年に開始された渡良瀬川改修工事によって終焉を迎えた古河城であるが、現在も出城跡(歴史博物館)や獅子ヶ崎に土塁や水堀を含む遺構を確認することができる。

 駅前に来ると、大きな万葉歌碑と解説板があります。
    
                万葉古河の歌について
 万葉集は日本現存最古の歌集で、8世紀中頃に成立した。全20巻からなり、長歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・短歌など4536首の歌を収録し、万葉仮名で書かれている。
 そにうち巻14には東歌として238首が収録されている。東歌はすべて作者不詳で、労働・土俗・性愛の表現に特徴があり、東国の方言的要素を含んでいる。また地名を含む歌が多いのが特徴である。
 その中に相聞歌として古河(許我)の地名を含む歌が二首載っている。

・まくらがの 許我の渡りの からかじの
        音高しもな 寝なへ児ゆえに
(まくらがの古河の渡りのからかじの音が高いように 
     高い噂が立ったなぁ あの子と共寝をしたわけではないのに)

・逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの
        許我こぐ船に 君も逢はぬかも
(あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの
     古河を漕ぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなぁ)
※まくらが…「許我」にかかる枕詞

 この二つの歌は、おそらく民謡のように語り歌い継がれたものであろう。いずれにしても、歌の内容から渡し場であった様子がうかがえ、この古河の地が古くからひらけ、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、河川交通の要所として発展していたことをうかがわせる。
 ここに建つ「万葉古河の歌碑」は、昭和60年(1985)4月に万葉歌碑建設実行委員会(代表 渡辺武夫氏)を中心に、たくさんのかたがたの浄財によって建設されたもので、書は大久保翠洞氏(古河市出身の篆刻家)の揮毫である。

(14:46)古河駅。「古河」は茨城県です、念のため。
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「日光道中」をゆく。総集編。 第3日目。(「春日部駅」から「幸手駅」まで)。

2016-08-02 21:18:20 | 日光道中
 5月20日(金)。(9:55)旧道に戻って再開。
埼玉県信用金庫春日部支店前の解説板。

日光道中粕壁宿
 日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳6年(1716)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。
 粕壁宿は、江戸時代元和2年(1616年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録よると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。

その先に「日光道中粕壁宿 問屋場跡」

    
 その先右手には、「永嶋庄兵衛商店」。創業は「慶長年間」とか。「慶長」は、天下分け目の関ヶ原の合戦、豊臣の滅亡、徳川幕府の成立など日本史の上では激動の時代。お米などを扱うお店のようで、けっこう人の出入りがありました。

蔵造りの建物。裏手に長く家屋が続きます。

中央奥に「最勝院」。
 その手前の交差点を右に折れ、「新町橋」を渡ります。

その交差点のところに黒光りした蔵造りのおうち。 
高札場跡 浜島家住宅土蔵
 この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。 

    
                       「新町橋」と「大落古利根川」の流れ。

「新町橋」を渡ってしばらく先の交差点を左斜めに。
                      

その先、右手に「小渕一里塚跡」碑と「庚申塔」。

 前方にY字路。ここは、「日光街道」と「関宿(せきやど)往還との追分。
                         

(10:16)大小二つの道標があります。      

 そのすぐ先で「国道4号線」に合流し、さらに「国道16号線」と交差します。
                             

                       (10:22)「東京から37㎞」ポスト。

その先で、春日部市から杉戸町に入ります。

 (10:35)その先の駐車スペース手前には「北緯36度線」の地球儀のモニュメント。
                       

    
 「すきすきすぎーと36」。同じ緯度線上にはチンタオ、ナッシュビル、ラスベガス、グランドキャニオン、テヘラン、杉戸町、ジブラルタル、地中海、カラコルムがあるそうです。

しばらく進んでから、左の道に入ります。

 左手に「九品寺」。境内には「日光街道」の道標があります。
    

 また、道標の左下には几号水準点が刻まれています(○のところ。「不」)。草加宿のはずれの神社で見たものと同じです。
                  

真向かいのおうち。ここが立場だった家? 

 「堤根(南)」交差点で「国道4号線」に合流します。
(11:08)「東京から40㎞」ポスト。

(11:10)左側にちょうど満開を迎えたバラ園。

色とりどりのバラの花と香りに誘われて少し寄り道。店内はお客さんで賑わっています。たくさんの種類の苗木の販売を行っています。今回は鑑賞するだけですが。
    

 しばし堪能し、街道歩きを再開。「堤根」交差点のY字路で左の道に入ります。
    

 しばらく進むと、右手のおうちの生け垣に隠れるように「三本木一里塚」の解説板があります。つい見逃してしまいそう。
                           三本木一里塚 

いよいよ「杉戸宿」の中心部へ。

杉戸宿
 現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町中心部に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて5番目の宿場。
 古くから利根川(現・古利根川)の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこが杉の木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。
 宿場自体は五街道の整備に伴い、1616年(元和2年)に近郊の郷村を集めて成立した。宿場は街道に沿って町並みを構成し、5と10のつく日には六斎市が開かれ、近郷商圏の中心地となっていた。町中は新町・下町・中町・上宿に分かれ、それぞれに名主や問屋が置かれ、本陣・脇本陣はいずれも中町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、杉戸宿の距離1里21町、町並8町20間、道幅5間、人数1663人(男789人、女874人)、家数365人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒(大4・中7)、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋であった。
 現在の町並みは、都市化の影響をさほど受けていないためか旧家も比較的よく残り、旧宿場街の面影を感じさせる。(以上、「Wikipedia」より)

 右手にお茶の老舗「いとや」さん。どっしりとした店構えです。
    

 (11:34)「杉戸町役場」の先には「関口酒造」。
     
                      豊嶋屋/関口式右衛門邸
 街道沿い、まさに江戸期を思わせるたたずまいの大きな古民家が豊嶋屋です。現在は屋号を関口酒造としています。
 創業1822(文政5)年とされ、現在で14代目。長きに渡り地域に愛されてきました。造り酒屋では現当主曰く、6代とも8代とも伝えられ、江戸期からの老舗です。

 その先、JA農協の前には遊歩道ができています。かつての用水路跡のようです。
     
南側用水路の由来
 南側用水路は、江戸時代初期の万治3年(1660年)、利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が作られた際に、その支流として当時の幸手領南側一帯(幸手市から杉戸町を経て春日部市まで)に農業用水を供給するために設けられました。
 杉戸町を9.5kmに渡り流れる南用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に深く係わりながら、身近な水辺として親しまれてきました。
 しかしながら、農業用水のパイプライン化により、昭和63年3月に300年あまりに渡る用水路としての役割を終えました。
 南側用水路の跡地は杉戸町の貴重な都市空間であり、町民共通の財産でもあります。
 この遊歩道は、貴重な南側用水路の跡地を町民の皆さんにより親しんで頂けるように、遊歩道として整備したものです。

   平成6年7月

慎ましく営業している? 「銭湯」。

「本陣跡地前」交差点。

(11:48)三井住友信託銀行のところに「明治天皇御小休所跡」碑。

まだまだ古いおうちが残っています。古びた「板ガラス」の看板。

 宿場特有の舛型に近づく手前には道標が。「左 久喜方面 右 幸手方面」。

    
                 角穀跡/小島定右衛門邸
 宿場の特徴のひとつでもある町端の「枡型」。その道沿いに堂々たる風格を見せる古民家が「角穀」です。母屋と蔵が並ぶ優美さは道行く人の心にひときわ刻み込まれてきたことでしょう。
 かつて敷地内には、表の蔵(袖蔵)に続きさらなる他の蔵三つが連なっていました。敷地を囲む外壁にも収納空間があったといいます。屋内では大木を使った梁や柱が木材の美しさを際立たせています。また、母屋二階から見晴らす街道のほぼ全景には、ここからでしか味わえない爽快さが感じられます。
 創業は二代目小島定右衛門によるそうです。屋号は枡型の通りの「角」にある「米穀問屋」を意味しています。日本橋蛎殻町や門前仲町といった場所の、四つの商店と情報を共有し、相場の変動にあわせた米取引を行いました。米の輸送する際には、近くを流れる大落古利根川を利用していたそうです。角穀は、杉戸宿の面影を今に伝える貴重な建物です。

 「草加宿」の時と同じような「枡形(曲輪)」=「曲尺手(かねんて)」となっている道筋、建物も立派です。

「宝性院」。

電柱に巻かれた赤いテープ。
 これは、昭和22年カスリーン台風での実蹟浸水深を示すもの。ここは、0.4m。
 この先もこの赤テープが出てきますが、進むにつれてだんだん浸水水位が深くなっていきます。「日光街道」沿道も大きな被害にあったことが分かります。

道路の向こうの電柱にも浸水水位の赤テープ。1mを越えています。

(12:45)しばらく進むと、「国道4号線」に合流します。その先には、ペコちゃんポコちゃんが屋根の上に。この先は、3㎞近く、ひたすら国道歩き。
           

はるか前方に「山田うどん」の看板。「山田うどん」はこの辺りの定番。  

 (13:08)何の気なしに近づいてみたら、何と「茨島一里塚」解説板。
          
 この一里塚は、江戸・日本橋から11里目。

幸手市に入ります。

        (13:15)「東京から45㎞」ポスト。

 (13:23)ようやく国道から離れて左の道を進みます。
    

畑の向こうを東武線の電車が通過中。

東武線の踏切。

    
                  田植えを終えたばかりの田圃が一面に。

「上高野村道路元標」。「幸手市南公民館」正門脇にあります。

 その先の「圏央道」の高架下をくぐります。この付近の旧道は少し替えられたようです。
    

    

 (13:42)この先で、「日光御成街道」との合流点に。「ベルク」に突き当たります。左からの道が「日光御成街道」。

    

日光道中・日光御成道合流点

 日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね、千住から草加・粕壁を通り幸手へと至り、ここで日光御成道と合流します。
 川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。
 また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行き交ったことと思われます。

 幸手市教育委員会

       
     「日光道中」。                     「日光御成街道」。

 (HPより)

再び東武線の踏切を渡ります。遠くに「幸手」駅。

 沿道には「カスリーン台風」での浸水水位の赤テープ。
          軒下まで来ています。

    らき☆すた」のシール。
「小早川ゆたか」              「柊つかさ」

???

 『らき☆すた』は、美水かがみによる日本の4コマ漫画作品、およびそれを原作としたゲーム、アニメ、小説作品。KADOKAWA(角川書店ブランドカンパニー)の月刊ゲーム雑誌『コンプティーク』において2004年1月号より連載されているほか、『コンプエース』など数誌で掲載されている。
 タイトルはLucky Star(ラッキー スター)が原義であり、単行本表紙のロゴにもそうデザインされている。作者の美水によれば「女の子が学園生活を送る漫画のタイトル」としてイメージした結果、女優が演じるという意味合いの「スター」と、「幸運」や「気まぐれ」という意味を持つ「ラッキー」をあわせたとしている。

《主な舞台》
 アニメ版の舞台は埼玉県春日部市をモデルにしている。
陵桜学園高等学校(りょうおうがくえんこうとうがっこう)/陵桜学園高等部(りょうおうがくえんこうとうぶ)
 こなた達が通う学校。埼玉県内にあるという設定。こなた達の学年で13クラスもあるマンモス校。女子の制服はセーラー服で、スカートと襟の色が冬服は赤で夏服は青。プールはあるが、体育の授業になぜか水泳は入っていない。アニメ版では作者の出身校(春日部共栄高等学校)がモデルとなっている(エンディングクレジットの「スペシャルサンクス」で表記)。
鷹宮神社(たかのみやじんじゃ)
 柊姉妹の父が宮司を務める神社で、柊家はこの境内に居住する。家の電話機は古い黒電話で電電公社の600形電話機である。アニメ版でのモデルは埼玉県久喜市(旧北葛飾郡鷲宮町)にある鷲宮神社。こちらの最寄り駅は東武鉄道伊勢崎線鷲宮駅下車5分程度。埼玉新聞での掲載4コマなどでは鷲宮神社がそのまま登場しているが、あくまでもモデルとしてである。
糟日部駅(かすかべえき)
 アニメ版にのみ登場、鉄道会社は糖武鉄道(とうぶてつどう)と表記されている。モデルは東武鉄道伊勢崎線・野田線春日部駅。泉家の近所埼玉県幸手市と思われる。『陵桜学園入学案内書』の「らき☆すた関連マップ」でも東武鉄道日光線幸手駅が「泉家の最寄り駅」として記載されており、アニメ版では幸手市内や権現堂堤がモチーフとして用いられている。
 幸手市は作者の出身地であり、作者の旧居が2009年春に泉家を再現する形でギャラリー兼交流施設「きまぐれスタジオ 美水かがみギャラリー幸手」として2011年初めまで開館していた。

・・・

 「倉松川」に架かる「志手橋」を渡ると、「幸手宿」の中心部に入ります。
    

几号高低標(英国式水準点)。

 「幸手駅入口」交差点の右手角には伝統的な商家の趣のおうち。
     
 その脇には、
                               「幸手宿まちなみマップ」。

さらに、交差点の左手、一角には「明治天皇行在所跡」碑。

交差点近くにある古い商家。
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「日光道中」をゆく。総集編。第2日目。(東武「新田」駅から「春日部駅」まで。)

2016-08-01 23:44:51 | 日光道中
5月7日(土)。
(8:52)再び東武線「新田」駅から前回の終着点まで戻り、再開。今回は「春日部」駅まで。駅から東に向かい、綾瀬川にぶつかり、前方を望むと「蒲生の一里塚」のこんもりした木立が見えます。

 綾瀬川に架かる「蒲生大橋」を越えて行きます。橋の真ん中が草加市と越谷市の市境。橋のところに高浜虚子の句が。
「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり 俳人 高浜虚子」。 

 「蒲生大橋」を渡ったすぐ右手の古い木々が生い茂るところが「蒲生の一里塚塚」。
    
                  蒲生の一里塚
 一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。
 文化年間(1804~1818)幕府が編さんした「五街道分間絵図」には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基ずつ設けられていたことが分かる。
 現在は、高さは2㍍、東西幅5.7㍍、南北幅7.8㍍の東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
 また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ2.5㍍のケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。
 多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、「蒲生の一里塚」は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。

 昭和61年10月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 植竹誠一郎

「綾瀬川」と「出羽堀」との間の道を進みます。

しばらく進むと、右手に「清蔵院」の冠木門。

 その先で旧国道4号線に合流し、北へ向かいます。かなりの直線距離になります。


 東武線「蒲生駅入口」交差点を過ぎてしばらく進むと、JR武蔵野線「南越谷駅」になります。「新越谷駅」入口交差点、JR武蔵野線の高架付近。



 (9:48)「瓦曽根」ロータリーのY字路で旧道は左へ入って行きます。
     

 いよいよ「越ヶ谷宿」に入っていきます。

越ヶ谷宿
 江戸時代に整備された宿場町の一つで、江戸・日本橋から数えて3番面の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)。江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。
 越ヶ谷宿は越ヶ谷と大沢の二つの町を合わせた範囲の宿場町であり、その規模は千住宿に次ぐ規模となった。
越ヶ谷宿は、江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の宿場に取立てられ、正式な宿場となった。 元荒川の対岸である大沢村も町場化し、越ヶ谷の伝馬上の助郷村として大沢宿が成立しており、 慶安3年(1650年)には越ヶ谷宿・大沢宿に地子免許が与えられていた。
 越ヶ谷宿の開発は、寛永12年(1635年)の参勤交代制の制定、寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)越ヶ谷宿は、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の合体により完成したという 。
 江戸時代初期、元禄9年(1696年)には、越ヶ谷と大沢の規模は、伝馬制に伴い、越ケ谷、大沢両町に各5,000坪の地子免がなされ、越ヶ谷9町20間、大沢9町27間とほぼ均等の町場が形成されたという。
 越ヶ谷御殿とは、慶長9年(1604年)に徳川家康によって設けられた御殿。現在の越谷市増林にあった御茶屋御殿を現在の越谷市御殿町に移築され「越ヶ谷御殿」と称した。この辺りは元荒川沿いの低湿地地帯で、昔は野鳥が多く、徳川家康や徳川秀忠もしばしばこの御殿に宿泊し、民情視察を兼ねて鷹狩りを重ねていた。
 しかし、明暦3年(1657年)の大火により江戸城が焼失したために、この御殿を解体し、江戸城の再建に利用され江戸城二の丸に移された。一帯は一部を除き畑地として開発されたが「御殿」の名はその地名として残り、住居表示施行の際に「御殿町」として正式な地名となっている。
 越ヶ谷宿の行政単位は、越ヶ谷町が本町、中町、新町に、大沢町が上宿、中宿、新宿に分けられていた。
 当初、越ヶ谷町の会田一族には、本陣、問屋役持回りなど宿場の要職に集中していた。ところが、安永2年(1773年)越ヶ谷町と大沢町両町惣百姓大評定のうえ伝馬業務両町合体を決めた。また、越ヶ谷宿の宿駅機構の改革とその伝統的権威の多くの失墜のため、安永3年(1774年)に、越ヶ谷宿の本陣は越ヶ谷町の会田八右衛門から、大沢町の福井家へ移った。
 そのため、越ヶ谷町は商店の集中が見られる地域、大沢町が旅籠機能の集中が見られる地域という特徴的を持った町場を造っていった。
 『日光道中宿村大概帳』天保14年(1843年)によると、越ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒が設けられていた。宿内の家数は1,005軒、人口は4,603人であった。
 飯盛り旅籠は、境板橋の右手一帯(越ヶ谷)に23軒が集中し、千住宿を除いた日光街道に於いて最大の花街を形成したという。
 越ヶ谷宿は、何度か大火の危険にさらされた。寛政6年(1794年)1月では、越ヶ谷町167軒焼失した。また、文化13年(1797年)3月では大沢町大火・本陣ほか197軒焼失等多数の大火が起こっている。
越ヶ谷宿に入ってくると、道沿いに古い家屋が残っています。

 道幅は往時のようですが、すっかり雰囲気は近代的。「越ヶ谷宿」を示す標識は見当たりません。唯一、この幟が。
                                  

    
                      宿場町の趣きを残す旧商家の「塗師屋」。
 黒い漆喰造りの旧家」(小泉市右衛門家)で、かっては「漆」を扱い、江戸時代には呉服商を扱った商家。

日用品や荒物を扱う「鍛冶忠商店」。
 商店会の中程にある「鍛冶忠商店」は1900(明治33)年に建てられた立派な商家で、屋号からも推察される通り当時は鍛冶屋を営んでいた。現在は日用品雑貨・荒物の販売店として業態を変えて営業を続けており、お盆など季節ものの提灯や菅笠、和紙、藁工品(筵、こも、荒縄)など、店頭に並ぶ商品も趣き深いものが多い。

    

 (10:11)「越ヶ谷本町」の交差点を過ぎると、「元荒川」に架かる「大沢橋」で渡ります。「元荒川」は、旧中山道歩きで通った、熊谷駅の南側・久下付近を源流とする川。左には東武線の鉄橋。「元荒川」を右に進むと、「越ヶ谷御殿跡碑」(市旧跡)があります。
    

振り返って望む。

 しばらく進むと、北越谷駅前のライオンズステーションタワーに到着。さらに5分程行くと、東武スカイツリーラインの高架をくぐります。

本来の旧道はこの道のようです。南を望む。

 道なりに進むと、すぐ目の前は「元荒川」に面した「北越谷第五公園」となります。
    

 路傍には、「道標」と二基の石塔。道標の正面には「青面金剛」、左面には「右 のしま」とあります。
       

 この先に「宮内庁埼玉鴨場」があります。
    

しばらく進むと、東武線の踏切を渡ります。
    

 その先が「草加バイパス」(国道4号線)陸橋下の「大袋駅入口交差点」。左手が東武線「大袋駅」。


 旧道を進むと「陸橋入口」。ここで「国道4号線」に合流します。
中央奥が来た道(旧道)。

                            「日本橋から30㎞」ポスト。

 (12:26)「新方川」に架かる「戸井橋」を渡ると、春日部市にはいります。
    

 「国道4号線」ということで、車の通行量も多いようです。道沿いにはいろいろなお店が立ち並んでいます。自転車通学生が勢いよく通り過ぎていきます。


 「武里駅」入口を過ぎて備後という地域に入ります。右側には田園風景が広がります。
 (13:00)その先、「備後(北)」交差点には右手に「備後一里塚跡」碑。
    

碑の裏手は「大落古利根川」。    

         (13:15)「日本橋まで34㎞」ポスト。

 さらに「35㎞」ポストを過ぎ、「一宮交差点」を左へ進みます。旧道は、斜め左の道。春日部駅方面を目指します。いよいよ「粕壁(春日部)宿」。
                      
 粕壁宿
 五街道(日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)の整備に伴い、 江戸時代に整備され、日光街道及び奥州街道に設置された宿場町。 江戸・日本橋から数えて4番目の宿場町である。 現在の春日部駅東口の旧街道一帯が、かつての粕壁宿である。

 「かすかべ」の表記は何度か変更されている。南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから「春日部」の地名が生まれたとされる。その後、江戸時代正保年間(1645年頃)には「糟壁」、「糟ヶ辺」という表記が交互で使われており、元禄年間(1700年頃)に「粕壁」、「糟壁」と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。高橋至時・伊能忠敬らによる「大日本沿海輿地全図」では「粕壁」と記されている。

 天正18年(1590年)小田原征伐後、徳川家康が関東移封となり江戸城に入城した。五街道の整備が進められ、粕壁宿が、日光街道及び奥州街道の宿駅として開設したのは、元和2年(1616年)である。
『日光道中宿村大概帳』によると天保14年(1843年)の調査では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、規模は23宿のうちの6番目であった 。
 街道沿いには青物店、穀物店、精米・精麦店、飲食店などが建ち並び、4と9のつく日には六斎市が開かれ、商業の町として近世以降発展した町であった。 江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取った。
 また、岩槻宿と関宿を結ぶ道が通ることからも商業・交通の要地として商人や旅人でにぎわったという。日光街道・奥州街道の宿場町であり、また古利根川を通じて、江戸と結んだ物資の集散地として栄えた。
 一方で、水被害に襲われる土地条件の悪さから、農業不振に悩まされた地域でもあったという。

 江戸・日本橋から約36㎞ほど(実際は、「千住宿」から歩く場合が多かったと思いますが)。ここが一泊目だったようです。1日に9時間ほど歩くのですから、昔の人は健脚ですね。

お店の前の木製ベンチ。「日光道中 粕壁宿」。 

 (13:36)何やら宿場内の案内用の立派な柱。近づくと「脇本陣」とあります。

         

この付近に「本陣跡」の標識があるらしいですが。向こうのデパートは今、改装中。かつては「ロビンソン百貨店」? その後、「西武百貨店」になって現在は・・・。

    
                                 「匠大塚」が入るそうです。これってお父さんの方? 「大塚家具」の発祥の地でもあるようです。

    
                        「新宿」とか「上宿」とかの表示が。

沿道には古くて大きな屋敷が残っています。

来た道を振り返って望む。

    
 (13:46)大きな「道標」には、「西南い八つき」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれています。

 どっしりとした格調高い白壁のおうち。
    

 その先しばらく進むと「ミセと蔵」という案内表示。
    

ミセと蔵
 中宿(仲町)と呼ばれるこの辺りには、江戸時代に米問屋などの商家や、旅籠屋などが多く建ち並んだ。粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行きの長い敷地で、街道の並びには商業空間としての「ミセ」を、その奥には生活空間としての「オク」がつくられた。このような短冊状の地割は江戸時代の多くの宿場町にみられる歴史的な景観のひとつである。街道の北側の商家は古利根川沿いまで蔵を連ね、舟を乗りつけて荷を上げ下げしていた。現存する蔵造りの建物は、火災よけのため、幕末から明治期にかけて建てられたものが多い。

 平成27年7月 春日部市教育委員会 

    

(13:56)春日部でこの子を外せないでしょう。
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「日光道中」をゆく。総集編。第1日目。(京成「千住大橋」駅から東武「新田」駅まで。)

2016-07-30 20:33:23 | 日光道中
 5月3日。晴れ。第1日目。
    
 (8:00)「千住市場問屋街(やっちゃ場)」。「旧日光道中」標識と通りのようす。朝早いせいか、静かな町並み。

 「墨堤通り」(旧「掃部堤」跡)を渡ると、この付近が「千住掃部(かもん)宿」。左手に小公園があり、りっぱな解説板。
千住掃部宿
 千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永2年(1625)将軍徳川家光のときです。水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、日光東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。現在の千住1丁目から5丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、4キロメートル余りの街並みが続く千住宿となりました。
 掃部宿(現千住仲町・河原町・橋戸町)は初宿指定の後、万治元年(1658)千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
 名前の由来は慶長3年(1598)村を拓き、元和2年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤にちなみます。
 掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり、繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳諧文化、江戸絵画、漢学、医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和6年(1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、足立区随一の繁華街でした。
 昭和20年4月13日の夜間空襲の際、千住仲町の日光道中沿いの商家は一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。
                         平成27年3月  千住仲町まちづくり協議会・うるおいのあるまちづくり部会

「旧日光街道」(この道路愛称名は公募によって選ばれました・足立区)。看板は「かもん宿診療所」。

 なお、この「旧日光街道」は、いったん荒川によって遮られますが、その先もほぼ直線で、延々と足立区と草加市の境まで続きます。道中歩きには大助かりです。
 ここで「千住宿」の紹介(以下、「Wikipedia」参照)
千住宿
 日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町。千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部に設置された宿場町。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
 水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、千住大橋沿いには橋戸河岸が置かれ、 千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。 千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。
 千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。
 当時の千住宿は、現在の足立区千住一~五丁目、千住仲町、千住橋戸町、そして荒川区南千住町名に相当する。
 文禄3年(1594年)荒川(現隅田川)に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した。
 『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった。その他、
掃部宿には「一里塚」、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。

 千住宿の賑わいは、『新編武蔵風土記稿』によると「駅の広さ東西14.5町、南北35町ありて、宿並間数1,256間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり」とある。江戸市街の喉もとで奥州街道、水戸街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったという。 幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。 文政4年(1821年)の調べによると,江戸参勤の大名は,日光街道4、奥州街道37,水戸街道23,計64の大名が千住の宿を往来している。
 江戸時代、千住宿に岡場所があった。岡場所は、唯一の幕府公認の遊郭である吉原に対して、それ以外の非公認の遊郭の総称である。江戸市中に私娼を置くことは御法度であったが、実際には千住宿・品川宿・板橋宿・内藤新宿といった江戸四宿には、準公認の飯盛女(飯売女・飯売)が置かれていた。
 明治時代になると、岡場所は遊郭となった。1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年(明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。
 慶安4年(1651年)千住宿小塚原町(現荒川区南千住)には、「小塚原刑場」が位置づけら、小塚原の仕置場では磔刑・火刑・梟首(獄門)が行われ、合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。

    
葛飾北斎『冨嶽三十六景 武州千住』              『冨嶽三十六景 隅田川関屋の里 』

 「千住宿」は松尾芭蕉の『奥の細道』を抜きにしては語れません。
『奥の細道』
・・・弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。

  行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)

これを矢立の初めとして、行く道なを進まず。
人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。

 さて、もう少し北に向かうと、賑やかな商店街になります。その手前、広い通りをはさんで「高札場跡」「一里塚跡」(日本橋から2里目)、さらに「問屋場跡」「貫目改所跡」碑がそれぞれあります。

「高札場」跡。「一里塚」跡。

「千住宿問屋場・貫目改所」。
 
 北千住駅前の通りを横切り、繁華街に入っていきます。左手に「千住宿本陣跡」碑。
    
                                        その付近の街並み。

    
                           横山家住宅
 宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋問屋を営んでいた。
 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行きが15間あり、大きくどっしりとした桟瓦葺きの2階建である。
 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。

今も続く「千住絵馬屋」吉田家。

千住名物「かどやの槍かけだんご」

  「東へ 水戸佐倉街道」との分岐標。

 旧日光街道は「荒川放水路(現・荒川)」開削によって分断されましたが、江戸時代はここから北西方向に進み、「川田橋」のところで今度はほぼ北へ進む道となります。
                  

荒川土手近くに設置されていた道標。「北 下妻道。北西 日光道中。」

荒川に架かる「千住新橋」を渡ります。現・日光街道「9㎞」ポスト。

 橋を渡り終えてから、左に進みます。土手上でも首都高下の道でも可。「川田橋」交差点、「善立寺」のところを右に進みます。
               

「旧日光街道」。ここからは北に向かいます。

 しばらく進むと、左手に小さな石不動尊の祠と「子育八彦尊道  是より二丁行く」という道標。


 「エルソフィア前」という交差点を通過すると、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の梅島駅に。
ここから直線道路で「淵江小学校」の先まで約3㎞続く。
「環七」を横切る島根交差点の先には「将軍家御成橋 御成道松並木」跡碑。

一直線に伸びる「旧日光街道」。

(9:29)左手奥に「島根鷲神社」。

 (9:58)「足立清掃工場」の大きな煙突が左手に見え始めると、バス停に「大曲」とあります。その名の通り、いったん旧道は右に大きく曲がって行きます。
    

 わずかで先ほどの道と合流し、「国道4号線(日光街道)」のバイパス下をくぐると「毛長川」を水神橋で渡り、いよいよ東京都足立区から埼玉県草加市へと入ります。
    

(10:24)草加市入り。

 東武スカイツリーラインの谷塚駅前には「富士浅間神社」。しばらく進むと「吉町5丁目」交差点の右角に、「火あぶり地蔵尊」。
                 

(11:15)しばらく進むと、Y字路になります。左の狭い、草加駅方向への道が旧日光街道。
「今様草加宿」の大きな標識が目印。

「草加市役所」前から来た道を振り返って望む。

小さな祠と案内板。「おくのほそ道の風景地 ↑草加松原」。

宿内のようす。

              駅前通り手前の右手・草むらの中に日光街道・葛西道と刻まれた道しるべの石塔。
                        

 しばらく進んだ右手には国の登録有形文化財の「藤城家住宅店舗・内蔵・外蔵」があります。
 藤城家住宅は五街道の一つである日光街道の宿場・旧草加宿のほぼ中央に位置しています。
 街道に面して建つ「店舗」は2階建てで、1階の内部は張り出した庇部分を巧みに取り込み、土間と畳敷きの帳場を設け、その先から上がる2階は、畳敷きの座敷となっています。開口部は1階がガラス格子、2階は障子と縦格子で装飾され、風格のある昭和初期の商家造りとなっています。
 その後方には、母屋に組み込まれた重厚な土蔵造りの「内蔵」と明治初期の建造と伝える「外蔵」が並び、奥行きの深い、草加宿の典型的な町屋景観をよく残しています。
 このように、江戸時代以来の宿場の面影を今に伝える藤城家の各建造物は、歴史的にも景観的にも大変貴重なものであり、「国土の歴史的景観に寄与するもの」として国の有形文化財(建造物)として登録されました。

                                                平成26年3月 草加市教育委員会

    

 (以下「Wikipedia」参照)
草加宿
 日光街道および奥州街道の2番目の宿駅(宿場町)で、武蔵国足立郡にあった。現在の埼玉県草加市中心部に相当する。 宿場の位置は、現在の草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から神明一丁目の草加六丁目橋付近までの一帯。
 慶長元年(1596年)、徳川氏は“陸奥の駅路”奥州街道を定め、慶長7年(1602年)、伝馬人足の設置および継立を義務づけた宿駅制度を設けた。奥州街道・日光街道の千住から越ヶ谷間は、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都足立区花畑)から八条(八潮市)に出て古利根川と元荒川の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。
 慶長11年(1606年)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これを「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。
 草加宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家であったが徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。 正徳3年(1713年)には、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。
 天保14年(1843年)によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた宇都宮宿と古河宿を除けば、千住宿、越ヶ谷宿、幸手宿に次ぐ規模であった。

※草加せんべい
 元々この一帯では稲作が盛んに行われており、農家では蒸した米をつぶし丸めて干したものに塩をまぶして焼き、間食として食べていた。江戸期に入り、この地に宿場が開かれ発展していくと、この塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まることとなる。その後、利根川流域(千葉県野田市など)で生産された醤油で味をつけるようになり、現在の草加煎餅の原型となったといわれている。
 現在、草加市内にはせんべいの製造所や販売所が60軒以上に及び、現在も草加の代名詞となっている。製造工程は機械化されつつあるが、昔ながらの天日干しや手焼きで製造する所も少なからず存在する。

※草加宿と芭蕉
深川を出た芭蕉は千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めます。「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着きにけり」 こうして芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8丁(8.8km)を歩き、日光街道第2の宿駅だった草加にたどり着きました。
 芭蕉が訪れたころの草加宿は、戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5~6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。芭蕉が訪れた頃は、草加宿が賑わい始める前だったのですね。きっと、のどかな風景が広がっていた事でしょう。

 「草加宿」の本陣は、宝暦年間までは「大川本陣」、その後、明治になるまでは「清水本陣」ということで二つの本陣跡碑が向かい合って建っています。

    
 大川本陣(~宝暦年間)            清水本陣(宝暦年間~明治初期)

 この本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。

注:「宝暦年間」=1751年~1764年。

 この一画は、「おせん茶屋」。
 街角修景事業として神明1丁目の児童公園を改修した小公園。昭和62年3月に完成。旧日光街道に面し、かつての宿場の雰囲気をただよわせる。名前は草加せんべいの伝記上の創始者「おせんさん」にちなむ。

     

「草加せんべい」は円形の醤油味の堅焼きで、「草加せんべいの醤油のかおり」はかおり風景100選(環境省)に選ばれています。
「元祖源兵衛せんべい」。

 この界隈には他にもたくさんお煎餅屋さんが店を連ねています。

    
                        久野家(大津屋)住宅[店舗部分]
 草加宿では街道がほぼ直線状に設けられたが、北の端では曲輪のように大きくカーブする。久野家はその曲がり角に位置している。記録によれば開宿以来四回程の大火や震災に見舞われ、そのたびに蘇ってきた。家伝によればこの家は安政2年(1855)の江戸大地震に耐えたという。幸いにも明治3年(1870)の大火も免れた。以来この場所で宿場の変遷を見続けてきた。

 曲輪の出口に、「神明宮」。その鳥居礎石に几号と解説碑があります。
    
 「不」の記号は明治9(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年8月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。
 記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、この水準点の標高は、4.5171メートルでした。
 その後、明治17年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。

 (12:40)「曲輪」を過ぎると、再び「旧国道4号線(「日光道中」)」に合流して一路、蒲生に向かいます。ここからが「綾瀬川」沿いに、景勝地・「草加松原」の遊歩道が続きます。その向かい側に小公園。そこには「奥の細道」で芭蕉のお供をした「曽良」の像があります。
                       
松尾芭蕉翁像と河合曾良像
 河合曾良像とこの先の札場河岸公園内の松尾芭蕉翁像とは100㍍程離れ、建立された年も異なりますが、二つの像は対をなす作品です。これらの像は、元禄2年弥生27日(1689年5月16日)、草加に奥の細道への歩みを印した俳人・松尾芭蕉と門人・河合曾良の旅姿を表現しています。両像とも草加出身の彫刻家・麦倉忠彦氏の作品です。芭蕉翁像は、1989年に奥の細道旅立ち300年を記念して市民団体「芭蕉像をつくる会」が建立しました。一方、曾良像は、2008年に草加市制50周年を記念して市民団体「河合曾良像をつくる会」が建立しました。いずれも市民からの浄財を募って建設資金としています。芭蕉翁像は友人や門弟たちの残る江戸への名残を惜しむかのように見返りの姿をし、曾良像は先を行く芭蕉を案じて、何かを呼びかけているようです。曾良像の建立を報じる広報そうかには「20年前に芭蕉翁像は制作されており、ようやく2体がめぐり会いました」と記され、制作者や市民の息の長い活動と情熱を讃えています。

 左に折れて橋を渡ると、右手が「綾瀬川」沿いに「札場河岸公園」。ここはよく整備された公園で、「望楼」「芭蕉像」などや休憩施設、さらに甚左衛門堰などがあります。休憩するにはもってこいの場所です。

        
       望楼
 望楼とは、遠くを見渡すための櫓のことをいいます。常に見張りを置いてまちなかの火事発生の発見に努めるための施設でした。 
 この望楼は、石垣の上に埼玉県産のスギ、ヒノキを使った木造の五角形の建築物で、高さは11.1mあり、内部は螺旋階段になっています。午前9時から午後5時までの間は、自由に内部に入ることができ、草加市を一望することができます。

芭蕉像は先ほどの曽良像と相対するかのように江戸方向を向いています。

        
             国指定名勝「おくのほそ道の風景地草加松原」
 この国指定名勝は、松尾芭蕉が弟子・河合曾良と「おくのほそ道」の旅で記した一群の名所、由緒、来歴の地からなる一体の風致景観であり、この「草加松原」も後世の人々の風景官に影響を与えているものとして、「殺生石」「黒塚の岩屋」「大垣船町川湊」等と合わせて指定されました。
 「草加松原」は、634本の松が植えられた綾瀬川沿いに延びる全町1.5㎞の石畳の遊歩道として整備されており、江戸時代の舟運の荷の上げ下げ場として復元された札場河岸公園や対岸に整備された広さ約4.1㏊の綾瀬川左岸広場と一体となって、市民の憩いの場やレクリエーションの場としても親しまれています。

「句碑」。「巡礼や草加あたりを帰る雁 (高浜)虚子」。

「綾瀬川」。

 かつては綾瀬川とその脇にあった用水との間を歩いていたようです。用水路は現在は「旧国道4号線」の拡幅で暗渠。 
 汚染度が全国で1、2位を争うほどだった(特に都内に入ってからは)「綾瀬川」もここはきれいな流れになり、時折、大きな魚が飛び跳ねる姿も見られます。

 ここから1㎞以上にわたって松並木の道になります。ジョギング、散歩、犬を連れて、・・・さまざまな人々が行き交う。思い思い、のんびりと歩いています。途中に句碑や石碑が設置されています。
          
        「矢立橋」。太鼓橋になっています。芭蕉の「奥の細道」にあやかって名付けられた橋。

橋名
 「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり 松尾芭蕉 奥の細道」
 お隣には「奥の細道国際シンポジウム ドナルド・キーン記念植樹」。

    
 百代橋から南を望む。                         北を望む。

    
                           松尾芭蕉文学碑。

 ことし、元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共、耳にふれていまだ目に見ぬさかひ、若し生(き)て帰らばと、定めなき頼(み)の末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着(き)にけり。痩骨の肩にかかれる物先(づ)くるしむ。
 只身すがらにと出(で)立(ち)侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ ゆかた 雨具 墨 筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打(ち)捨てがたくて、路次の煩(ひ)となれるこそわりなけれ。
 西村本「おくのほそ道」より

「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり 秋桜子」

まもなく松並木も終わりを告げます。振り返って望む。

(13:28)「外環」陸橋をくぐると、絵タイル。

草加と「おくのほそ道」
 俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄2年3月27日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
 この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
 平成8年3月吉日

    

 もう少し「綾瀬川」沿いに歩き、西に折れて東武線「新田」駅に向かいました。
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東武日光駅。八王子同心。神橋。与謝蕪村句碑。・・・(「日光道中」をゆく。その51。)

2016-07-28 21:09:04 | 日光道中

 その先には「東武日光駅」。華やかな駅前通りになり、外国人など大勢の人々の姿が。
ゴールに向かって緩やかな上り道。右手奥が「東武日光駅」。

 ここから神橋までは1,500㍍ほど。そぞろ歩きする外国人の姿が目立つ中、いよいよラストスパート。けっこう疲れがきていますが。と、携帯に電話が。

 お客さんが来るのだが、いつ頃帰ってくるのか? と。
 そういえばそんなことを聞いていたなあ、今、日光駅前。遅くまではいられないのか、じゃあ、急いで帰るから。

 さて、気を取り直して「神橋」に向かいます。

 東照宮に向かう広い参道の両側にはお店がずらり。公共施設も街道筋らしい趣の建物に。

 ここは日光道中21番目で、道中最後の宿場でもあります。

 鉢石宿
 もともと鉢石村という村落があったが、元和3年(1617年)に徳川家康を日光山に祀り日光参詣が盛んとなると日光東照宮の門前町として大いに栄えた。現在のJR日光駅の辺りに鉢石宿の木戸があった。当時、入江本陣は御幸町、高野本陣は中鉢石町にあり、参詣者は本陣に投宿して東照宮を参詣した。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、鉢石宿の本陣は2軒設けられ、旅籠が19軒、宿内の家数は223軒、人口は985人であった。

「祭(いのり)のまち 日光東町」

(14:48)「日光消防署」。

大横町の歴史
・・・火の番屋敷がこの大横町に移された事から火の番横町とも呼ばれるようになりました。・・・その火の番を命じられたのが、「八王子同心」と呼ばれた人々で八王子から日光に交替制で勤め、その為約200年もの間火災から社寺を守る大きな功績を残しています。・・・

 ここに記されている「八王子(千人)同心」の補足説明。

 千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。
 八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。
 この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868)に千人同心が解体するまで続きました。この年、既に幕府は瓦解し、新政府軍と旧幕府勢との間で戦いが始まっていました。やがて新政府軍は日光にもやって来ました。この時、日光火の番を勤めていた千人頭が、石坂弥次右衛門義礼(いしざかやじえもんよしかた)でした。義礼は、刀を交えることなく新政府軍に明け渡し、東照宮を戦火から救いました(その後、義礼は八王子に戻りますが、責任を追及する声もあり、帰郷した夜に切腹してしまいます)。こうした関わりから、昭和49年(1974)に八王子市と日光市は姉妹都市となりました。
 命を賭して東照宮を守った石坂弥次右衛門義礼の墓は、菩提寺の興岳寺(八王子市千人町)にありますが、墓前の香台は日光市から贈られたものです。

(以上HPより)

(14:58)「日光市日光庁舎」。お城のような雰囲気。

 古いおうちと商店と。
    

「鉢石横町」。
 この辺りに「鉢石」という町名の基になった「鉢石」が保存されているはずですが、見逃しました。

    
 「金谷ホテル」下にある物産店。国の有形登録文化財に指定されています。

「日光のおいしい水 磐裂霊水」。
1200余年前日光開山の祖勝遍上人がこの地に涌き水を発見し、以来修験者が神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は男体山系の涌き水で、日本でも最もおいしい水として定評がある。

      
          板垣退助銅像
 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
 明治初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐(高知)出身。
 明治元年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大島圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
 その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが、最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。 


      
                             (15:06)神橋。

「華厳の滝」から流れ落ちてきた「大谷川」。

            与謝蕪村句碑

             二荒や 紅葉の中の 朱の橋 (ふたあらや もみじのなかの あけのはし)

 ここまで。急いで路線バスに乗って、東武日光駅まで戻ります。
 駅に着くと、15:30発浅草行きの特急「きりふり274号」の発車寸前。駅員にせかされるままに飛び乗って、何とか間に合いました。

 最後は中途半端だが、ま、いいか。これで「日光道中」約140㎞の旅、終了!

 だんだんと日差しが強くなる日々の下、果てしなく延びる直線の国道歩きにはいささか参りました。が、宇都宮宿を過ぎてからの杉並木街道には圧倒されました。宇都宮までは標高もほとんどなく、平らな道筋。その点では歩きやすさが一番でした。
 すべて日帰り。それもおおかた午後3時前には終了(午前中で終わりの日もあった! )、というペース。結局、9日間にわたる旅でした。

 いよいよ次回は「中山道」を再開。軽井沢から、と思っています。が、はたしていつになるやら・・・。
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常夜燈。並木太郎。JR日光駅。・・・(「日光道中」をゆく。その50。)

2016-07-27 21:04:23 | 日光道中
 ちょっとした家並みと石畳、そして舗装道路と交互に。
     

(13:35)木立の中にうち捨てられた廃屋と車。

      
                                「日光杉並木街道の物語(野口地区)」。

 ・・・この杉を植栽した松平正綱は17歳で徳川家康に仕え、後に幕府の経理を預かる勘定奉行になり、家康没後は、度々日光を訪れ、将軍の社参や祭典、または東照宮の警護や修理にも活躍し寛永2年(1625)多年の幕府に対する功労が認められ、2万2千石の大名に任ぜられました。
 徳川家康を崇敬した松平正綱が日光東照宮の参道である街道に杉を植えたのは、東照宮をはじめとする聖地日光への道の景観を整えるとともに、雨風や日照等の自然環境から旅人を保護するために行ったものと言われております。・・・

 集落を抜けると、国道に合流します。ここからはしばらく車の行き来の激しい車道脇の側溝の上を進みます。
      振り返って望む。

左側にはJR日光線の線路。

 その先の左手には「常夜燈」や「弘法の霊水(表示)」がありますが、道路を渡るのは危険なので、遠目に望むだけ。
        

 (13:51)杉並木の中で一番大きな杉の木「並木太郎」。
 並木の中で一番大きな杉であり、周囲5.35㍍樹高58㍍・・・その姿の美しく端正なことより並木太郎と呼ぶにふさわしい名木である。

    

(14:05)左手はJR線のガード。

その上の方には「日光道(高速)」。

 (14:12)しばらく行くと、「明治天皇七里小御休所」跡。
     

    
 その先、しばらく進み、「宝殿」交差点で右奥の道を進みます。

 (14:28)左手に広くて静かな旧道・杉並木があります。久々の土の道。
    

 (14:31)その道もすぐ終わり、JR線のガードのところで国道に合流、ガードをくぐってから右手の小道を進むと、杉並木の旧道。
    

路傍には石碑が並んでいます。  
                                                     振り返って望む。

 「国道119号線」に合流すると、いよいよ最後の「日光杉並木街道」。
    
                                「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」  
               
 (14:37)右手奥の方に「JR日光駅」。古風で趣のある駅舎。東武日光駅に比べると閑散としていますが・・・。
    

 東北本線などを建設した私鉄であった日本鉄道が、その支線の終着駅として1890年(明治23年)8月1日に開設した。当時から日光東照宮や中禅寺湖など景観の美しい日光は日本有数の観光地で、皇族や外国人観光客なども多く訪れる駅であった。
 1906年(明治39年)11月1日に日本鉄道が国有化されて国有鉄道の駅となり、1909年(明治42年)10月12日に線路名称が制定されて日光駅の所属する路線は日光線と名付けられた。初代の駅は質素な平屋建てだったが、1912年(大正元年)8月25日に、現在の2代目駅舎が落成した。ネオ・ルネサンス様式のハーフティンバー様式木造洋風建築2階建てで、鉄道院技手の明石虎雄が設計した。
1929年(昭和4年)には東武鉄道が東武日光駅まで開通して国鉄と東武の競争が始まった。1959年(昭和34年)9月22日には日光線の電化が完成し、デラックスな157系を使用した準急「日光」の運転を開始して東武鉄道に対抗したが、運賃・所要時間ともに東武鉄道の方が勝り、1982年(昭和57年)に上野から直通する列車が全廃となり、当駅に速達列車の発着は無くなった。
2006年(平成18年)からJR東日本は東武鉄道と直通しての特急列車の日光乗り入れを再開し、以後は東武日光駅にJRからの直通特急列車も発着している状況にある。シーズン時に運転されるJR線首都圏各方面からの臨時特急列車も現在は全て栗橋駅から東武日光線に乗り入れた上で東武日光駅発着となっており、当駅に発着する定期列車は宇都宮駅との間を走る短距離普通列車のみであるが、秋などの修学旅行シーズンに運転される東京都・神奈川県・埼玉県などからの修学旅行列車は当駅に発着しており、現在当駅に発着する数少ない中距離運用列車となっている。
                                                                                                   (以上、「Wikipedia」参照)
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朝鮮通信使今市客館跡。瀬川一里塚。報徳庵。・・・(「日光道中」をゆく。その49。)

2016-07-23 21:28:14 | 日光道中

(12:55)公園の中に「朝鮮通信使今市客館跡」があります。


    

朝鮮通信使今市客館跡  
 江戸時代に徳川幕府の要請により、朝鮮国王が、信(よしみ)を通わす善隣友好の朝鮮通信使を12回派遣しました。その内、日光には初期の頃に三度訪れております。第一回目は東照宮が現在の社殿に造り替えられた寛永13年(1636)、第二回目は・同20年(1643)、第三回目は明暦元年(1655)
 通信使は、東照宮・大猷院でに国王からの進物を贈り、公式行事を行いました。
 この三回とも将軍社参並の扱いをうけ、盛大な行列立てとして日光に参詣しており、幕府は通信使のためだけに、此の所に一万金両を掛け、豪華な客館を新築しもてなしました。

 ・・・

 この碑は、江戸幕府に最初の朝鮮通信使が来日して400年になるのを記念し、歴史的経緯を永く後世に伝え日韓両国民の更なる相互理解と友情を深めるため、2007年(平成19年)に杉並木公園内の朝鮮通信使今市客館跡に建てられたものです。 碑文の左には同じ内容がハングルで刻まれています。
                             

その隣には二重連の水車。

道の脇には勢いよく流れ落ちる水流。

 杉木立の中を上っていきます。
    

この付近に日本橋から34番目で、日光街道最後の一里塚が残っているはずですが、見落としました。

    
 (13:09)しばらく進んだ右手奥には茅葺き屋根の建物と手打ち蕎麦「報徳庵」、ここも藁葺き屋根のおうち。落ち着いたお店で、車で次々とお客さんが見えています。ここで食事にすればよかった!
                        

 その駐車場にあった案内図。
    

報徳庵を過ぎると杉並木が途切れ、おうちが数軒並ぶ石畳道になります。

 再び杉並木に入ります。

           巨大な切り株。七本杉伐痕。
                              7本の杉の根幹が一株となった珍しい大木でしたが、すべて倒木や枯死し、伐り倒されました。

杉並木道沿いの苔むした小さな流れ。

日光彫の工房。   

 ちょっとした家並みを過ぎると、杉並木。
      

                           

(13:23)戊辰戦争の時の砲弾跡のある杉の木。

この木、それとも右側の杉? 弾痕跡も?

               砲弾打込杉

 附近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の幹の凹んでいるところは砲弾が当たって破裂したあとである。
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追分地蔵尊。例幣使街道。今市宿。「いまいちの水」。杉並木公園。・・・(「日光道中」をゆく。その48。)

2016-07-22 18:55:29 | 日光道中

今市の町へ入ります。杉並木を振り返って望む。 

今市宿
 日光街道の20番目の宿場。現在の栃木県日光市今市。
 もと今村と呼ばれていたが宿駅となって住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから今市宿となったと云われている。この宿は一街道の単なる一地方宿ではなく、日光街道のほか、壬生道、会津西街道、日光北街道などが集まる交通の要衝に立地する宿駅であった。
 日光例幣使街道と日光街道の追分には地蔵堂がある。ここに安置されているのは像高2メートルの石造地蔵菩薩坐像である。もと空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏と云われ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したものと云われている。徳川吉宗が日光参詣した折、この地蔵が白幕で覆われているのを見て、後は白幕で覆わないよう命じ、この地蔵堂の後ろで朝鮮人参を育てさせたという。正確な造像時期は不明だが、室町時代頃の作と推定されている。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、今市宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が21軒あり、宿内の家数は236軒、人口は1,122人であった。

 (12:23)「国道119号線」と「国道212号線」(例幣使街道)との合流地点(追分)にあるのが「追分不動尊」。
        

今市追分不動尊
 ・・・つぎのような「伝説」が人びとに知られるようになりました。
―むかし大谷川の川原で石切職人が仕事をしていると、ふとふれた石の肌から血が流れ出した。不思議に思って何度かたたいてみると、どんどん紅の血潮がほとばしるので、驚いた石切職人は人々をよんで懸命に掘り出してみた。それは座像の地蔵尊であった。評判は近郷までひろがった。
一先ず地蔵尊を小倉町の追分に安置したが、野天にさらしておくのは恐れ多いという話になって如来寺に運ぶこととなった。思い石像なので、各戸から一人ずつ人を出して仕事に当たったが、非常な重さで、門前の桜の木の下まで移すのに2日(一説には8日)もかかった。
 町の人たちの参詣は昼も夜も絶えなかったが、そのうち妙な噂が立った。夜遅く地蔵尊の前を通るとすすり泣きの声がきこえる。また、真夜中になると町の中に火柱が立つ。昨夜は小倉町にその前の夜は春日町に、また如来寺に。確かにそれを見た者が大勢あった。
 さあ町中が騒々しくなり、地蔵尊の怪として参詣するどころか近づくものさえなくなった。町の長老たちは協議した結果、「あの地蔵尊はにっこう憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されて来たのだ。それで日光が恋しくてきっといろいろの不思議を起こすに違いない。元のように、小倉町の日光が見える所に安置したらよかろう」ということに決定し、さっそく地蔵尊は小倉町の追分に移されることになった。―
 このような「伝説」が、昭和時代の初頭から幾度も出版された『下野伝説集』に取り上げられて紹介され、今市を代表する伝説として有名になってゆきました。そして、伝説の地となった追分地蔵堂にはますます訪れる人も増えてゆきました。
 時移り、平成時代となった今日も、毎月の地蔵尊の縁日の日には変わることなく人びとが集い、地蔵菩薩のお経と御真言を唱え誓願をする、民間信仰の場として親しまれています。・・・
                                                日光市

例幣使街道。

 元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されましたが、その後、正保3年(1646)から、毎年、京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされました。
 例幣使は京都から中山道を下り、倉賀野宿(現高崎市)からは太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て、日光に至りました。その道筋が「例幣使街道」と呼ばれました。日光付近では杉並木が続きます。

 この解説板のあるところが小広場になっていたので、そのベンチに座って昼の休憩。そして、再開です。

(12:40)

右手には「ニコニコ本陣」。「道の駅」風。

手前には「造り酒屋」。    

 今市の町の中には伏流水をくみ上げた自然水の水飲み場が設置されています。「いまいちの水」。つい「いまいち」なのかと思ってしまいますが、飲んでみると、おいしい!
    

 日光名物・特産の「たまり漬」等のお店。
    

「二宮尊徳終焉の地 今市宿」碑。

二宮 尊徳
 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。通称は金治郎(きんじろう)であるが、一般には「金次郎」と表記されてしまうことが多い。
 また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓むが、有職読みで「そんとく」と訓まれることが多い。
 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。
 安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没した。

「明治天皇御小休・・」碑。

古いおうち。家の前には梟? の像が二体。

 (12:53)しばらく行くと、左手にある「瀧尾神社」のところから右に杉並木が始まります。公園となっています。杉並木も「特別保護地域」。
    

                

杉並木街道と参詣(瀬川地区)
 案内板が位置する今市市(現日光市)瀬川地区は、日光街道の今市宿(第1番目宿の千住から数えて20番目)と鉢石宿(現在の日光市で日光街道の最後の宿)の間にあり、江戸(現在の東京都。起点は日本橋)からの距離は約34里(約136㎞)です。
 日光街道というと江戸時代は五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道)の1つとして、人や物や情報が行き交う重要な交通路でありました。
 日光東照宮への参詣のために、公家・大名・文人や数多くの庶民がこの並木を行き交い、徳川将軍家みずから日光東照宮に参詣することを日光社参といわれ、その多くは東照宮例大祭(4月17日)に参拝したそうで、このときもこの並木の中を通行しました。
 最後の日光社参となった天保14年(1843年)に第12代将軍家慶社参の時には、時の老中水野忠邦が幕府の権威回復のために実施したといわれ、この時の供奉した人数は約14万人およぶ大行列であり、この事業のために幕府が要した費用は莫大なもので、人馬調達や助郷役が命じられた村々は関東一円におよんだといわれる。
 右の図は江戸中期の日光街道の様子であり、杉並木とともに人や馬や家が描かれております。
 このような往時の街道風景を偲びまた徳川家康公の御遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し、いそぐべからず」の言葉をかみしめながら、杉並木道を歩いてみて下さい。

 平成5年3月       栃木県
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水無。杉並木オーナー。さくらすぎ。七本桜一里塚。・・・(「日光道中」をゆく。その47。)

2016-07-20 21:08:38 | 日光道中
 歩いていた地元の方とすれ違います。
 「車も来なくてちょうどいい散歩道です。夏でも涼しいし、往復するとちょうどいい運動なんですよ、ただ、杉の枯れ葉が散乱しているので、清掃した方がいいんですが・・・。」

 (10:49)しばらく進むと、杉並木も終わり、「水無」という集落に向かいます。ここにも「車両通行止」の標識。
                          

出口付近に祠と何体かの石仏。

      再び車道沿いに歩きます。

りっぱなおうち。

またすぐ杉並木になります。車道を避けて右手の方に。

(10:57)水田が広がります。

 ところが、あぜ道みたいなこの道は草がいっぱい、すっかり水分を含んでいて足下はグチャグチャになってしまいます。やっとのことで、車道に戻ります。
    
                                                   杉木立。

 (11:14)「甚五郎せんべい」の手前で、再び国道と分かれて右の並木道へ入ります。
    

振り返って望む。カーブで見通しが悪い上に、車のスピードも速く冷や冷やもの。

 この杉並木には日光杉並木オーナーが記されたプレートがくくりつけられています。企業名や個人の名前も。
    

杉並木オーナー制度とは?
 並木杉の樹勢回復のための保護事業を行っていくためには、多額の費用が必要です。
 そこで栃木県では、平成8年秋から多くの方々と力を合わせて杉並木を守る「日光杉並木オーナー制度」をスタートさせました。
 杉並木保護に賛同された皆様に並木杉1本につき1千万円でオーナーになっていただき、その代金を栃木県が日光杉並木街道保護基金で運用し、 その運用益で杉並木の樹勢回復事業を実施するという制度です。
 オーナー杉については、日光杉並木保護財団と東照宮が、日常の管理をいたします。
 並木杉は文化財であるため、枯れた場合などを除き杉の伐採はできませんが、解約したい場合は栃木県がいつでも同額で買い戻しいたします。
 また、オーナー制度とは別に、日光杉並木街道保護基金に対する寄附金も受け付けています。

HPより)

(11:24)ここにも「接合井」があります。

 まもなく、車も来ない静かな杉並木道(「特別保護地域」)も終わり、「下森友交差点」に向かいます。
    

沿道のお店。 

「森友交差点」から一方通行になっている杉並木に入ります。

屋根に特徴のあるおうち。こういうつくりの建物が目立ちます。

進む方向からの一方通行なので、一安心。  

車もほとんど来ないようです。

 (11:50)途中、左手にあるのが「さくらすぎ」。杉の幹の途中から桜の木が生えてきてかなり太い幹になっています。
    

右手のすっかり雑木林が切り払われ、何か建物でも建つ? 

 (11:55)しばらく行くと、右手に「七本桜一里塚」があります。日本橋から33里目。ちょっと上がったところに根元が腐って大きな空洞できた杉があります。大人が4人位入れるところから「並木ホテル」と呼ばれています。
    

       

 遠景。

 (12:01)その先の信号は「七本桜交差点」。左の通りが「国道119号線」。
    
                  そのまま一方通行路を進みます。日光・今市方面から来る車も増えてきます。

少し進んで、東武日光線のガードをくぐります。

 (12:16)「小倉歩道橋」を渡ると、まもなく杉並木から今市の町に入ります。
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日光杉並木。大沢宿。車両通行止。水無一里塚。・・・(「日光道中」をゆく。その46。)

2016-07-19 22:49:49 | 日光道中

 ここで、日光杉並木について。

 日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 - 日光間16.52キロメートル、小倉 - 今市間13.17キロメートル、大桑 - 今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに及び、世界最長の並木道としてギネスブックに登録されている。
 徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた松平正綱が、主君家康の没後、日光東照宮への参道にあたる3街道に約20年の歳月をかけてスギを植樹し、東照宮に寄進したことに始まり、江戸時代には幕府の日光奉行の元で手厚く保護された。明治以降は幾度も伐採の危機に瀕するものの、官民双方の有識者の努力によって大規模な伐採は避けられてきた。中でも、地元出身の林学者で「杉並木博士」と呼ばれた鈴木丙馬は、杉並木の研究と保護に生涯を捧げ、保護運動の中心となって活躍した。
 周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど、江戸時代の街道の景観をよく伝えており、歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、日光杉並木街道 附 並木寄進碑(にっこうすぎなみきかいどう つけたり なみききしんひ)として、全国で唯一特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けている。また、日光杉並木街道は、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された日本の道100選のひとつとして選定を受けている。
 現在も生活道路として利用されているが、街道を通る自動車の排気ガスや沿線の開発による根の切断などによって樹勢の衰えが進行し、毎年平均して100本以上のスギが倒木や枯死により姿を消している[7]。保護が叫ばれて久しいものの、減少のペースに歯止めを掛けるには至っていない。このままでは100年後には消滅してしまうとも言われ、早急な対策が必要とされている。

歴史
 1617年(元和3年)に徳川家康の霊廟として日光東照宮が創建されると、将軍家や諸大名が日光参詣が実施されるようになり、江戸から日光への道路が急速に開けるようになり、江戸から宇都宮へ続く奥州街道も日光街道へと呼び改められるようになった。 日光杉並木は、松平正綱が1625年(寛永2年)から20年以上の歳月をかけて杉の苗木を植樹したもので、言い伝えでは、日光東照宮の造営に際し、正綱が杉の苗木を寄進すると申し出たところ、諸大名からは「東照宮に対して何とケチなことよ」と非難を受けたが、正綱は「末をご覧あれよ」と返したという。植えられてすでに390年以上が経過するが、現在は高さ30 - 40mほどに成長し、日光東照宮へ向かう道は厳かな景観を作っている。近年では、風雨や自動車排気ガス等による倒木や枯損を抑止するため、バイパス建設や杉並木オーナー制度を導入して樹木保護のための基金を設立して、保護対策活動に乗り出している。1999年(平成11年)12月には二荒山神社、日光東照宮などとともに世界遺産の登録を受けた。

                                                                (以上、「Wikipedia」参照)

 ここの杉並木は、まだその序の口。しばらくすると、前方が明るくなってきます。「大沢宿」に入ります。
                        

(10:15)    
                                            振り返って望む。  
「国道119号線」に合流。「大沢」交差点

その付近から振り返る。

大沢宿
 日光街道の19番目の宿場。現在の栃木県日光市大沢。
 もともと大沢村と呼ばれていたが元和3年(1617年)に徳川家康の日光鎮座に伴って宿駅となり大沢宿となった。
 元和年間には大沢御殿(おおさわごてん)が建造され徳川将軍家の日光参詣に際し宿泊所として使用された。その後一旦処分され再造営されたが、それもまた享保年間までに処分された。
 享保13年以降、将軍社参時等の休息所には沿道にあった竜造寺(りゅうぞうじ)が用いられた。なお竜造寺はその後明治元年に近隣別所に移転している。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、大沢宿の本陣は1軒、脇本陣1軒が設けられ、旅籠が41軒あり、宿内の家数は43軒、人口は278人であった。

 現在、その痕跡は見当たらないようです。本陣跡なども? 
    

                     

(10:25)「大沢小学校入口」から再び杉並木が始まります。

杉並木保護のため、車道は右に迂回しています。

ここから「普通地域」から「保護地域」に入ります。
                                市街地は「普通地域」となっているようです。
                

                   
             (10:32)車両の排ガスや振動から日光杉並木を守るため 車両通行止

歩行者天国。  

右側を並行して走る車道。

「接合井」。
 「接合井」は、今市浄水場で浄水した水を、距離約26キロ、標高差240㍍ある戸祭配水場まで送る際、送水管にかかる水圧を高めるために建設された施設。
 今市浄水場と戸祭配水場間の日光街道沿いに、標高が約30㍍下がるごとに設けられ、全部で6箇所設けられました。

    
     この道も「国道119号線」。ただし、落ち葉が散乱し、濡れた道なので足下には注意!

 (10:43)しばらく進むと、「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道の一里塚(水無一里塚)」。左右に残されています。
        
 日本橋から32里目。通常、塚の上には榎などが植えられますが、ここでは杉が植えられています。

    
コメント
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