流路跡が大きな遊水池に。
平常時の流れは少ないですが、大雨が降ると、忽ち氾濫する危険がある川のようです。
「両国橋」。旧プレート?
境川に架かる橋としては、もう一ヶ所、「国道16号線」に「両国橋」があります。
護岸工事がまだ続く両岸。
一ヶ所にまとめられ、整備された道祖神等。
橋の向こうは、相模原市。
左右に大きな森が。
左岸は、「境川山根特別緑地保全地区」。
「境川ゆっくりロード」。
「根岸橋」。
ところどころ、旧流路跡が小公園風に。
親水施設(相模原市)。
川面に下りられる。
大きな鯉の姿が。
左岸側には細長く大きな遊水池。
「上宿ほほえみ公園」。
いよいよ町田市の中心街へ近づいてきたようです。ここで、「町田市の歴史」
江戸末期以降、町田が発展した大きな理由は、『絹の道』にある。八王子は江戸時代から繭や生糸の産地であり、さらに甲州や上州など大生産地からの集積地としても発展、『桑都』とも呼ばれた。一方、「横浜港」は開国以降、貿易港として発展、明治以降には国策でもあった生糸輸出のための積み出し港となる。この八王子と「横浜港」をつないだのが『絹の道』で、そのほぼ中間に位置する原町田は中継地として発展した。
『絹の道』は横浜を通じて、キリスト教や自由民権思想など、外国の思想・文化も運んだ。特に自由民権思想は『絹の道』沿道の豪農など、村の有力者を中心に広まる。町田では石坂昌孝、青木正太郎といった有力な指導者を輩出、また大規模な集会が開かれるなど、「自由民権運動」の中心地となった。
その後、現・町田市域を含む多摩郡が属していた神奈川県の県議会では、多摩郡出身の「自由党」議員が勢力を拡大、県知事と対立するなど県政の混乱が見られるようになる。県知事は多摩郡の東京府への移管を政府に要請、東京府としても水源地である多摩郡を管理下に置きたいという思惑もあり、境域変更法案は「帝国議会」でわずかな審議ののち可決、多摩郡は1893(明治26)年4月、神奈川県から東京府に移管された。
『絹の道』がなかったら、また「自由民権運動」が拡大することがなければ、現在も「神奈川県町田市」であったかもしれない。
(この項、「三井住友トラスト不動産」HPより)
以前、「八王子絹の道」を歩いた時の記録。
駅前広場に「絹乃道」石碑(昭和58年建立)。
「此の方よこはま」「此の方はちおゝじ」」とあり、裏面に「原町田誕生四百年記念」とあります。
絹の道
黒船到来により永い鎖国が開かれ 安政6年(1859)に横浜が開港されると日本から欧米諸国への輸出品の花形になった”生糸”は主産地である長野・山梨や八王子から町田を通って横浜へ運搬されました。
新編武蔵風土記稿に”神奈川道”と記された原町田中央通りは東西文化の交流を果した中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。
そして原町田は商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として生糸をはじめ諸物資の集散地となり繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。
この碑は歴史と伝統を受け継ぐ原町田商人の証として原町田誕生四百年を記念し一番街商店会が建立しました。
昭和58年12月吉日