おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

2020.04.06。富士宮。桜。

2020-04-20 20:52:23 | じじばばがゆく
                      所用の折に、富士宮にある大石寺へ。全山、桜が満開。「緊急事態宣言」が発出される前日。
 噂に違わぬ桜の名所です。
                参道のシダレザクラが見事。
        

                        

 

 「三門」の修復工事中。ほぼ全景が。
      

              

 

       

 ソメイヨシノが満開の丘へ。いっとき、桜の木の多くが「てんぐ巣病」にやられたようですが、見事に復活。
   

木洩れ陽の下、親子連れなど地元の方が散策。

              

                    

桜吹雪。

タンポポと花びら。

               

      

東斜面の向こうには富士山の裾野。

なかなか顔を出してくれません。

雲の間から、ほんの少し。

                       桜越しに富士。

       



                         

         

 新型コロナウィルスによって国内外で多くの感染者と死亡者が出ている今日この頃。早期の収拾と生命と暮らし、「国土安穏」を願わざるをえません。

 ついでに、以前訪れた上井出にある、日本の五大桜の一つ「狩宿の下馬桜」を紹介。
他の四つ
・三春の滝桜(福島県田村郡三春町)
・山高神代桜(山梨県北杜市)
・石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)
・根尾谷の淡墨桜(岐阜県本巣市)
 ※このうち、狩宿の下馬桜のみ、「特別天然記念物」に指定されている。

 1193(建久3)年、源頼朝が富士山麓で巻狩りを行った際、馬から下りた所とされたことから「狩宿の下馬桜」と呼ばれるようになった。また下馬の際、桜に馬をつないだとも言われ、「駒止めの桜」という別名も。
 樹齢は800年を越え、かつては樹高35m、幹囲り8.5mの巨木であった。しかし度重なる台風などの影響で、最盛期の姿はない。それでも、若木が出てきて薄い桜色(まさに)の淡い花を一面に咲かせていました。

下馬桜。その下には、菜の花。
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JR「青堀駅」~「富津岬」~「大貫駅」。その5。花つみ。小型漁船。「大貫」駅。(「房総往還」をゆく。第6日目。)

2020-04-17 18:45:42 | 房総往還
                     国道の割には静かな道を進みます。大きなおうちが目立つ。
              

「花つみ」の看板。この奥の方でしょうか。

「ストック」 (HPより) 
 南ヨーロッパ原産、花には芳香があり、切り花としても広く栽培されている草花。秋にタネをまいて春に花を楽しむ。「秋まき一年草」として扱うのが一般的、だそうです。

「キンギョソウ」 (同上HPより)
 南ヨーロッパと北アフリカの地中海沿岸部産地、その名の通り金魚のような花を穂状に数多く咲かせる。花の色は赤・桃・白・橙・黄・複色。「秋まき一年草」。

 草花に疎い小生には区別がつけにくい。そこで、アンサーを。

 実際に見れば判りやすいと思いますが、言葉で説明するのは意外と難しいですね。とりあえず、キンギョソウはゴマノハグサ科、ストックはアブラナ科です。
 一般的なキンギョソウだと花の形が結構特徴的なので判りやすいのですが、ペンステモン咲きになると判りにくいかも?ストックは離弁花なので花弁が1枚ずつ分かれ、キンギョソウは合弁花なので基部がくっついています。蕾も違うんですけど、言葉で説明しにくい^^;
 比べやすいのは葉かなぁ。ストックの葉は少し大きめ、へら形で少し肉厚な感じでやや白っぽい色で互生しています。キンギョソウは小さめで長円形~楕円形の対生です。あー、でも上の方の葉は互生してるかぁ。全体的にはストックのほうがモコっとした感じです。

(この項、「だいさん」HPより)

左手奥に畑が広がっています。

「富津市下洲漁業協同組合」。

左右の視野が開けてきます。

右手奥に「下洲漁港」。

                 

左手には畑、田んぼが広がる。

「篠部」バス停。また少しずつ家並みが出てきます。

あちこちに小型船舶が置かれています。

 
                                      「兼光刃物店」脇にも。

 

ログハウス風の「散髪屋」さん。

大きなお屋敷。

しばらく進むと、「内房線」の「新田踏切」。

                「大貫駅」方向。

「青堀駅」方向。しばらく待ちましたが、電車は通らず。「君津」以南は本数が少ない。

踏切を渡った先で線路のため、街道は途切れます。

再び踏切を渡り返し、スーパーの「尾張屋大貫店」脇の道へ。これが旧道。

線路の向こう、「セブンイレブン」の看板のところが途切れた旧道。

                  

しばらく進み、左折。

「大貫駅」のところで、旧道は中断されます。

今回は、ここまで。

「佐貫町」方向を望む。

          
          
1880年代のようす。A、Bが屈折点。             2010年代のようす。Aは分断、Bは分かりにくく、若干、道に相違あり。

 この記録は、3月22日(日)のもの。

 コロナ感染防止のため、不要不急の外出は控えるようにとの御達し。いつ街道歩きを復活できるでしょうか?
 今は、家で辛抱、辛抱、忍耐、忍耐、お互いに。爆発的な感染は何としても避けねば。
 1人10万円で生命と暮らしが買えるなら、何の苦労もありませんが・・・。
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JR「青堀駅」~「富津岬」~「大貫駅」。その4。富津元洲堡塁砲台跡。街道に復帰。(「房総往還」をゆく。第6日目。)

2020-04-16 20:20:08 | 房総往還
                           「元州砲台」跡。
                       

中の島の由来・富津元洲堡塁砲台跡「解説板」より
 富津公園一帯は明治14年(1881)、時の明治政府により砲台と海堡が築かれました。
 ここ中の島は元州砲台として同年8月に起工し、約3年の歳月をかけて築造されたものです。
 築造の方法は、幅20~30㍍の外濠を掘り、海水を引き入れ砲台の整備とし、濠の砂を盛り、崩れを防ぐため外面を富津市二間塚の土で覆ったといわれ、現在もその痕跡を留めています。
 明治28年(1895)には東京湾要塞司令部が発足し、守備隊がおかれました。元州砲台には砲兵中隊446名が守備についたが、幸いに富津の砲台は一弾も発射されることなく、日露戦争には一部攻城砲とあいて旅順に送られたものもありました。大正4年(1915)9月に旧式として除籍され、陸軍技術本部の大砲試射場となり、後に24㌢対車砲も設けられ、その試射もありました。
 軍の占拠は終戦まで続きましたが、昭和26年(1851)に県立公園に指定され、昭和28年(1953)に鉄筋コンクリート三層最上階高さ11㍍の中の島展望塔ならびに中の島周辺に通称行幸橋を含む三橋が築造されました。
 その後、老朽により中の島展望塔、行幸橋が撤去されましたが、昭和55年(1980)に鉄筋コンクリート三階建て高さ9.1㍍の展望塔が築造され現在にいたっております。

(注:「展望塔」は、訪問した2020年3月現在、立入禁止となっています。)


1880年代のようす。○が砲台。


2010年代のようす。○が「中の島」。

「濠(大池)」を眼下に望む。

「公園」側を望む。

ここで、大失敗!  そのまま階段を降りて公園の方へ向かってしまいました。
 「展望塔」を回り込むようにして進めば、「富津元洲堡塁砲台」跡へ行けたはずです。

 ちょうど昼飯時だったので、公園脇の「公園食堂 志のざき」で、「磯ラーメン+ミニ穴子丼」を。磯の香りたっぷりで美味です。 
 帰宅後、「youtube」で「富津元洲堡塁砲台」跡の探訪記録を。

以下は、「Baron's CHANNEL YouTube - 2014/12/24」の映像から借用させていただきます。今度は直に我が目で確かめたいと思います。

    

             

    

・・・

もと来た道を戻ります。けっこう歩きます。「魚貝類包丁 砂山金三郎」。苗字がすてきです。

「富津」交差点を右折し、「房総往還」に復帰。

             

「川名」で「国道465号線」と合流し、大貫・佐貫方向に。

渋い朱塗りのおうちと隣には小池。

                         

お蕎麦屋さん「里山」。   
 広い敷地には陶芸教室の工房と蕎麦打ち教室も開いているようです。自宅を改築したようなお店の雰囲気がよさそうです。  
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JR「青堀駅」~「富津岬」~「大貫駅」。その3。富津岬展望塔。森の中の散策道。(「房総往還」をゆく。第6日目。)

2020-04-15 19:27:23 | 房総往還
                           岬の先端にある「明治百年記念展望塔」。
 
 富津岬は、幕末から昭和20年(1945年)の敗戦まで東京湾口は首都を防衛する最前線でした。明治、大正期に出来た海堡が東京湾上にツルのくちばしのように突き出た岬にあります。約5kmの砂浜で形成されています。
 岬の突端にある明治百年記念展望塔は、東京湾の突端、富津岬の最先端にあり明治100年を記念してつくられた五葉松の形をした展望台です。展望台からは対岸の神奈川県をはじめ東京都心や富士山も望むことができます。
 海をはさんで向かい側、10kmほどの先は三浦半島の観音崎です。

(この項、「千葉県公式観光物産サイト」HPより)

(「Wikipedia」より)

 かなりの強風で吹き飛ばされそう。展望台に上るのはどうしようかと思いましたが、思い切って。けっこう揺れています。
               高所恐怖症の方は遠慮した方がよさそう。
                  生憎の天気で、遠く対岸は、霞んで見えない。手前に「第一海堡」、うっすらと「第二海堡」が左手奥に。

 かつて(戦前)、岬先端と「第一海堡」とは地続きでした。また岬に向かう直線道は当時の鉄道線路跡のようです。
 

白波を立てる海面。潮風が激しく顔に当たるほど。

富津公園方向を望む。左右に海が迫る。

さっさと降りてきます。房総半島方向。

君津の工業地帯方向。

強風の中、自衛隊のヘリコプター2機が旋回中。

来た道を戻ります。 
                                      振り返る。奥に展望塔。

帰途の途中、左手に散策道。そちらを辿ることに。

 

まさに森林浴。

 実は、先ほどの案内板で池に囲まれた島が、かつての「富津元洲堡塁砲台」の跡。もう少し進んで、そちらの方へ。ただし、大失敗をしてしまいます。

蓮池。

                

昭和天皇<御手植記念歌碑>。

「中の島(富津元洲堡塁砲台跡)・大池」に向かいます。

                        左手が「中の島」。   
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JR「青堀駅」~「富津岬」~「大貫駅」。その2。富津公園。富津岬。(「房総往還」をゆく。第6日目。)

2020-04-14 20:26:25 | 房総往還
              「房総往還」道は「富津」交差点を左折して進みますが、まっすぐ「富津岬」へ向かいます。

1880年代のようす。○が分岐点。富津は古くからの漁師町で家屋がたくさん。


2010年代のようす。左折する道(黄)が街道。赤が国道16号線。交差点まで。

 岬の先端まではけっこう歩きます。

 右手に落ち着いた店構えのお店。古くからの葬儀屋さんのようです。「かじ屋」(「じ」は「志」に濁点。)
  

漁師町らしく、漁具が。

 ようやく「富津公園」入口へ。「富津公園」に関わりのある俳句や短歌が掲示されています。
     
俳人
橋本花嬌
若草やいとしき人のむかし道
名月や乳房くわえて指さして
用のない髪と思えば暑さかな
虫の音をあつめて星の夜明けかな
片羽つつ時雨ほすなりうの夕日

小林一茶
昼顔やざぶざぶ汐に馴れてさく
大汐や昼顔砂にしがみつき


土屋文明 歌人(アララギ派)往還集上総富津海岸ににて
砂よけの垣根にのこるはだら雪
砂の上の影を鮮やかにみす


注:「はだら雪」=まだらに降り積もった春の雪のこと

砂丘おりて間近に見ゆる松原へ
先刻の人まだ歩み居る


「富津観光ガイド」。

「県立富津公園案内図」。大きな公園です。

岬の先端まで歩いて向かいます。右手に運動公園、ジャンボプールなどの施設があります。左手は蓮池や林の中の散策道が広がります。
「ジャンボプール」。

林の中を一直線に岬まで。車はたくさん通りますが歩く人はいません。ランニングする一団も。
 

だんだんと左右が細くなってきて、海岸が迫ってきます。
                              「富津州海浜植物群落地」案内板。

右も左も海岸が見えてきます。

                             

やっと先端の海岸につきました。公園入口から約30分。 

 かなり風が激しい。ウィンドサーフィンをしている人も強風に煽られ、思うように操れません。それでも、けっこう頑張っています。
 

                             

君津の日鉄製鉄所など工業地帯が霞んで見えます。  

 

対岸の横浜付近も霞んでいます。

遠くに見える島は「第一海堡」。
 明治から大正にかけて、首都東京を防衛するために東京湾口部に海堡(かいほう)と呼ばれる海上要塞が建設されました。海堡は、砲台を設置するために造られた人工島で、千葉県富津岬側から神奈川県横須賀市側にかけて3つの海堡が建設されました。
第⼀海堡は、富津岬の先端の⽔深5mほどの海中に築かれました。基礎のための⽯を投⼊し、その上に野⾯⽯で囲った堤防を築き、内部に砂を充填して砲台を建設したものです。
 明治14 年(1881)8⽉に着⼯し、明治23年(1890)12 ⽉に竣⼯しました。 7万m3の⽯材、13 万m3の砂が使⽤され、32万⼈の⼈夫が使役されました。海堡の埋⽴造成費だけで38万円(現在の価格で約35億円)かかりました。


第⼀海堡の航空写真(平成16年4⽉)

第⼀海堡の兵備
・28cm 榴弾砲14⾨
・19cm カノン砲1⾨
・12cm 速射カノン砲4⾨
・7.5cm 速射カノン砲4⾨
・機関砲4⾨
・探照灯1基
兵備費は116万円(現在の価格で約95億円)でした。

※ 現在、財務省関東財務局が管理しています。

 第⼆海堡は、第⼀海堡の⻄2,577mで、⽔深8〜12mの海中に築かれました。49万m3 の⽯材、30万m3 の砂が使 ⽤され、50万⼈の⼈夫が使役されました。海堡の埋⽴造成費だけで79 万円(現在の価格で約50 億円)かかりました。
 明治22年(1889)7⽉に着⼯し、⼤正3 年(1914)6⽉に竣⼯しました。


●東京湾第二海堡基礎試築ノ図          2004年3月撮影
■第三海堡建設にも採⽤された、第⼆海堡の防波壁⼯事
 第⼆海堡の防波壁の⽔深は、満潮⾯より-10〜-11mでした。第⼆海堡の基礎は軟弱ではなかったので、捨⽯が沈下したり、波⼒も⼲潮⾯下1m以下に及ぶことありませんでした。
  ⽔中作業には、素潜りの潜⽔夫と器械潜⽔夫を使⽤しました。この防波壁⼯事は好結果を納めたので、以後の第三海堡の防波壁⼯事にこの⼯法が採⽤されることとなりました。
■基礎⽯の投⼊時に活⽤した五⼤⼒船
 基礎⽯の投⼊に当たっては、割栗⽯(わりぐりいし)を⽬的の位置に投⼊できるよう、浮標を⽬的地の付近におき、積載船(五⼤⼒船またはダルマ船)を浮標に係留して割栗⽯を投⼊しました。
 五⼤⼒船は、東京湾を中⼼とする関東周辺で⽤いられました。船の⼤きさは、⻑さ9.4m〜19.7m、幅2.4m〜5.2mでした。

【五⼤⼒船】
〔資料〕「東京湾海堡基礎築設⽅法及景況取調書」、
明治39 年8 ⽉ より作成。

第⼆海堡の兵備
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・27 センチカノン砲塔(27K 砲塔) 1基
・27 センチカノン隠顕砲※架式砲台(27K 隠顕式) 4⾨
・15 センチカノン砲塔砲台(15K 砲塔) 3基
・7.5 センチ速射カノン(7.5 速K) 10 ⾨
・機関砲 10⾨
・探照燈 1基
・⽔雷⽤探照電灯 1基
※隠顕砲(いんけんほう):防護壁の内側に隠れ、射撃の際に砲⾝が持ち上がる⼤砲。
(この項、「」HPより)

注1:「第三海堡」は、関東大震災で大きな被害を受け、後、撤去。
注2:陸地には「富津元洲堡塁砲台」の跡が富津公園内にあり、帰りに寄ることに。

 解説板。
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JR「青堀駅」~「富津岬」~「大貫駅」。その1。芭蕉句碑。織本花嬌。「国道16号線」。(「房総往還」をゆく。第6日目。)

2020-04-13 18:18:20 | 房総往還
                   しばらく「房総往還」歩きの記事。
                   3月22日(日)。晴れ。今回は「富津岬」へ行くので、駅は一つしか進みません。左上のところ。

「国道16号線」を進みます。
                 今まで各所でしばしば通過した、車の行き来の激しい広い「16号線」とは思えないほどの通り。

元あった学校の敷地? 遊ぶ姿は、なし。

すぐお隣に「青堀小」。かなりごつい校舎。

              

かつての商家風のおうち。

国道16号線。「横浜まで218㎞」ポスト。

神社脇に「青堀南部漁業協同組合解散記念碑」。

                        

その隣に芭蕉の句碑。

ほとゝきす 啼(く)や 黒戸の濱ひさし  はせを 秋巖書   〈明治3年(1670)に建立〉

注:「芭蕉句集」中には存在しない、存疑の句。

黒戸の濱」は、「更級日記」にある地名。
その夜は、くろとのはまといふ所にとまる。
かたつかたはひろ山なる所の、すなごはるばるとしろきに、松原しげりて、 月いみじうあかきに、風のをともいみ じう心ぼそし。
人々おかしがりてうたよみなどするに、
 まどろまじこよひならではいつか見む  くろとのはまの秋のよの月

 注:「黒戸の濱」は、通説では、千葉市登戸から稲毛の間にある「黒砂」付近のようです。木更津あるいは富津では、帰京する旅筋からは離れてしまいます(一行は、下総から武蔵に進む)。

 しかし、この地に句碑があることは、この地には何人か有力な俳人がいたことを意味しているのでしょう。江戸後期の小林一茶も滞在して句会があったようです。そうした伝統が受け継がれていた、と。

その先、左の道が旧道のようです。

                    

すぐ国道に復帰します。

 右に小道があるので、そちらへ。足下には貝殻が敷き詰められています。漁師町らしい雰囲気。
 

木陰にいくつか漁船が。

時折、車が通過しますが、のどかな国道16号線。

「ひろ寿司」この先、右折すると、「富津埋立記念館」へ。

ここにも小型漁船が。

                    田んぼ際にうち捨てられた漁船も(○)。

「横浜まで220㎞」ポスト。

「新井」交差点の角に「イタリア料理 Rocco」。

菜の花畑。

 新井の交差点のすぐ先を右に曲がると、大乗寺があります。このお寺には小林一茶とも交流のあった女流俳人の織本花嬌のお墓があります。

参道左手に「俳人小林一茶曽遊の地」碑。

 一茶は、地元の女流俳人織本花嬌らと親交が深かったようだ。本堂左手の墓地には、その織本花嬌の墓がある。


                 

千葉県指定史跡 織本花嬌の墓」解説板。
 織本花嬌は、江戸中期~後期の女流俳人である。花嬌は、西川村(現在富津市西川)の名主小柴庄左衛門の娘として生れ、本名を園といったが、長じて富津村の名主織本嘉右衛門に嫁いだ。花嬌は夫(俳号は、砂明(さみょう))ともに江戸の大島蓼太(雪中庵蓼太)の下で俳諧を学び、「花嬌」の俳号も蓼太から与えられた。天明7年(1787)に蓼太が没した後には小林一茶との交流が始まり、夫砂明が寛政6年(1794)に死去すると、隠居して別邸の「対潮庵」に暮らし、しばしば句会を開いた。
・・・
 文化3年(1809)3月、富津村を訪れた一茶を囲んで富津連の俳人達が句会を開いた記録がある。
 文化6年(1809)には貞印(富津村の尼僧)とともに旅をして紀行文『すみれの袖』を残している。文化7年(1810)4月3日に逝去し、大乗寺で法要が営まれ、同寺に葬られた。その後、花嬌の遺句は玄孫の織本泰によって、『花嬌遺稿』として編纂された。

《花嬌の句》
用のない髪と思へば暑さ哉
名月や乳房くはえて指さして
若草やいとしき人のむかし道



注:生前における一茶との親交は、一茶の『七番日記』など多くの記録があり、花嬌の百カ日忌に富津を来訪した一茶は「草花やいふもかたるも秋の風」と追悼の句を詠んでいる、とのこと。

艸花やいふもかたるも秋の風

蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉


(『七番日記』より)

境内にある「遭難者追悼之碑」。
 海堡(海上に築造した砲台)建設に携わった人が明治30年の事故で犠牲になったのを追悼するもののようです。

「富津」交差点。
  ここで、「国道16号線(東京環状道路)」は終了。横浜から約220.5㎞の地点。
 その先、直線道路も左折道路もどちらも県道となります。特にそれらしい標識はありませんが、陸上道路としての国道16号線は終了となるわけです。
 当初の計画では、東京湾に三浦半島と房総半島を結ぶ道路を建設し、「国道16号線」を文字通り、「東京(湾)環状道路」として完結させる予定でしたが、「アクアライン」などの状況を鑑み、計画は頓挫しています(破棄された? )。
 金谷から久里浜までのフェリー路線が海上道路としての「国道16号線」の代替ルートとなっています。


 環状路線であるものの、東京湾の海上区間があるため「東京環状道路」の別名に反して完全な環状道路となっておらず、また神奈川県横須賀市と千葉県富津市の端部はいずれも東京湾の港湾とも接続していない。法令上の起終点は横浜市になっているが、事実上の道路末端は、東側は富津市富津交差点で、西側は横須賀市走水で終わっている。
(この項、「Wikipedia」参照)
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JR内房線「木更津」駅~「青堀」駅。その5。「内房線」鉄橋。民芸車屋。上野塚(うわのつか)古墳。(「房総往還」をゆく。第5日目。)

2020-04-09 19:13:09 | 房総往還
                           「小糸川人見取水堰」。
                          

 小糸川は、房総丘陵に源を発し君津市のほぼ中央を流れ東京湾に注いでいます。特に上流は美しい森と豊かな水で知られています。小糸川では釣りなども楽しめます。
    上流付近。(この項、「千葉県公式観光物産サイト」HPより)

川沿いを進みます。

新日鉄・住金(現「日鉄」)小糸川取水場

    君津製鉄所工業用水の取水場になっているようです。

その先に「内房線」の鉄橋が見えます。  

 
                                  橋脚部分の煉瓦と石造りが魅力的。  

ガードをくぐり、「国道16号線(「東京環状道路)」に合流します。

「国道16号線」を「青堀」駅方向に進みます。

この付近の今昔。
   
1880年代のようす。○が合流点。


2010年代のようす。○が合流点だが、少し北に寄っている。赤い道路が16号線。

左手にある「山車車輪専門 民芸車屋」。

 
上総荷車。                                  見事な車輪。

上総荷車
伝統の裏に隠された卓越の技術!
数十年前まであちこちで見られた荷車や大八車はいつの間にか姿を消しました。
それに伴い、元々本物の荷馬車造りの職人だったご主人・坂井さんの元には神輿の山車の注文が殺到し始めました。
坂井さんは他に鍬の柄も作るほど、器用な方なのです。
(この項、(2003年4月12日放送分)より)

                       

「青堀駅入口」交差点に到着。

右手にこんもりした丘が。
                          前方後円墳の墳頂部分のようです。

 富津市の青堀駅前のロータリー横にある古墳が上野塚古墳(うわのつかこふん)。前方後円墳11基、方墳7基、円墳29基の計47基の古墳が確認される内裏塚古墳群(だいりづかこふんぐん)の1基で、帆立貝型の前方後円墳。5世紀末頃築造で、内裏塚古墳群のなかでは最北、もっとも海岸線近くに位置しています。
 内裏塚古墳群は、上総西部の有力首長とその配下の首長を葬る古墳群で、上野塚古墳もその首長墓。
 墳丘長44.5mで、前方部が短い帆立貝形になっています。
 駅前ロータリー再開発の際、昭和56年、昭和62年に発掘調査されていますが、その後大部分が削られてしまっていて、現存するのは後円部の半分弱ほどと前方部のごく一部の残丘のみ。
 周溝からは古式の土師器と須恵器が出土し、出土した遺物から内裏塚古墳に次いで古い古墳(5世紀末)だということが判明しています。
 青堀駅のロータリー側は道路によって削られてコンクリート壁となっていますが、その壁部分に内裏塚古墳、九条塚、稲荷山古墳の墳丘実測図や須恵器、土師器などが描かれた陶板がはめ込まれています。
 また古墳の墳丘下からは古墳時代前期の集落跡・上野遺跡(うわのいせき)が発見され、愛知県濃尾平野一円など東海地方西部の特色を示す土器(S字状口縁甕)が出土し、古代の海上交通を掌握した首長だったこと、海上からも墳墓が眺望できる「古代のランドマーク」だったことが推測できます。
 上野遺跡出土のS字状口縁甕から、伊勢湾沿岸からの移住民という可能性すら生まれています。
(この項、「」HPより)

 この「伊勢湾沿岸からの移住民」という説に興味が。



                   

 
                                 解説板


駅前ロータリー。

「青堀駅」。素朴さがあって、よし。
 但し、都会のようにエレベータやエスカレータなどはなく、改札からホームへは階段での上がり下り。



海岸方向を望む。
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JR内房線「木更津」駅~「青堀」駅。その4。「周西」。内房線地下道。「小糸川」。(「房総往還」をゆく。第5日目。)

2020-04-08 18:54:19 | 房総往還
                           この道が旧道のようです。
住宅地の道をのんびりたどる。

                    

右手の角にすてきなおうち。

「大和田会館」。

                           

この先を左折します。

左手に「周西(すさい)幼稚園」。

周西村(すさいむら)
 千葉県周淮郡(のちに君津郡)にかつて存在した村である。現在の君津市の北部に位置している。鉄道駅を擁し、現在の君津市の事実上の母体となった村。
注:内房線「君津」駅の旧名は、「周西」駅。
山側にはりっぱなおうち。

左から来る道と合流し、右折。

来た道を振り返る。

そのまま進み、青蓮寺、人見神社方向に向かう記録もありますが、旧道はこの先で、左折するようです。
左折する地点。

 その先は「内房線」で行き止まりのように見えますが、地下道で向こう側に抜けられます。

 

立派な蔵造り。

    来た道を振り返る。

↓、←が旧道? ○が左折地点。

この付近の今昔。

1880年代のようす。○から南下し、渡し舟で「小糸川」を渡り、川沿いに右へ。


2010年代のようす。内房線を地下道で抜け、「周西橋」を渡ります。渡し場は少し下流にあったか。

上流方向。

「渡し場」はこの付近?

下流方向。

右折して川沿いを進みます。遠く山頂付近に「人見神社」。
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JR内房線「木更津」駅~「青堀」駅。その3。坂田から大和田へ。ジグザグな道筋。(「房総往還」をゆく。第5日目。)

2020-04-07 20:17:51 | 房総往還
                   「畑沢橋」付近、海側のようす。埋立地の坂田工場地帯が続きます。
街道もけっこう大型車が通過します。

                            「坂田浜の作」バス停。

「坂田漁業組合解散記念碑」。

                   
 
 これからたどる旧道はここ付近で左折、左手の丘陵地帯を越え、西に向かったようです。



1880年代のようす。○が分岐点。丘を越え、その後は丘陵地帯の南側をジグザグしながら進んだようです。

現在の道に照らし合わせると、




2010年代のようす。←の道から君津高、坂田小、周西中、大和田小と続く、少し南側をやはりジグザグに進む道? これらの学校は丘陵地帯を切り開いて造られたようす。ことによると、海の埋め立て用に切り崩した跡地なのかもしれません。

 確信はありませんが、左折し、しばらく進み、「濱田重工」のところを右折し、上り坂を進みます。旧道らしい雰囲気ですが。
  

                

緩やかに曲がる上り坂。左手は森。

しばらくすると、下り坂に。右手は住宅地。

共同墓地のところに出ます。
 出かけたのが、ちょうどお彼岸の時期だったので、お墓の掃除をする方が何人か。


その先、眼の下に住宅地が広がっています。右手の高台には「君津高校」。

←が今来た道。山裾の道(↑)が旧道か、と。

来た道(坂道)を振り返る。

住宅地の北側の道を進みます。

静かで落ち着いた住宅街。

                   

山側には学校が並ぶ。

左に折れて「坂田大通り」へ。正面の道へ進む。

右手奥から進んできました。
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JR内房線「木更津」駅~「青堀」駅。その2。海苔店。二ヶ所ある「新旧房総往還」分岐点。(「房総往還」をゆく。第5日目。)

2020-04-06 20:33:52 | 房総往還
                        短く残った旧道を進みます。
すぐに先ほどの通りに合流。右折し、南へ。

                         

しばらく進むと、新旧房総往還の分岐点。左に折れるのが旧房総往還(下図ではC)。
 

           
 旧道(C)は、内房線を越え、南下。ほぼ「国道127号線」がその道にあたるようです。ただし、かつてあった「貞元」という宿場とは少し離れているようです。
 もう一つの旧房総往還道(B)は、もっと先で新道(A)と分岐し、南下、「君津駅」付近を通り、「三舟山」の山裾を進み、やはり「佐貫町」で合流します。「貞元」という宿場はこの街道沿いにあったようです(君津駅の南方)。こちらが古い街道のようです。木更津方向からはほぼ直線で進むので、けっこう利用されていたのではないか、と。

 富津岬付近を経由する「A」の新道は本来の「房総往還」ではなく、江戸後期、江戸湾防備政策によって整備された道のようで、「佐貫町」付近で「房総往還」と合流しています。

注:上の図は、「 www.eskfw.co.jp/okiraku/regions/boso-kaido1/」HPよりお借りしました。
 ちなみにこのHPでは、Bの旧道を歩いたようすが掲載されています。
 ただし、現在は、君津方向からの峠・山道は、土砂崩れや落石の危険があるため、通行不可(立入禁止)となっているようです(特に中央部・上図ではB付近)。Aの道が主要道として大いに利用されるようになり、明治中期以降、荒廃。その後、地域の道路整備もあって、現在は、おそらく廃道に近い状態に。
 たぶんこの道が参勤交代などの際には利用された道だと思います。再整備され、歩けるようにしてほしいものですが。

 また、常に参考にしている『歴史的農業環境閲覧システム』(1880年代=明治13年頃)では、三つの道が載っていますが、Cを「房総街道」、Bを「房総海道」「西房総街道」と表記しています。これからたどるAは「従木更津村 至富津村」と記され、「村道」扱いとなっていて、本来の「房総往還(街道)」とは扱いが異なっています。
 先達の紹介記事では、Aの道をたどって佐貫町まで歩く、というケースが多いようです。

 いずれ、残りの2コースも歩いてみたいと思います。


1880年代のようす。←が分岐点。かなり広い道。


2010年代のようす。これからたどる道は、旧海岸線。

角に「平政御菓子司」。

道路の向かいには、「鶴岡歯科」の大きな屋敷。

直進します。郵便局の向かいにも旧家。

沿道には「白井海苔店」。かつての海岸沿いの名残。

こちらはマッサージ・鍼灸院。昔の家屋を改造。

「ソニー前」バス停。奥に「ソニー」。

 
「県道90号線」に合流。「港南台」が、左手の高台奥に広がります。右手は埋め立て地の工場地帯。

左手は、覆い被さるような崖。

「中川海苔店」。ここにも海苔屋さんがあります。

 
                                     「小浜」バス停。読みは「kobama」。

「館山自動車道」が見えてきます。

                                

蔵造りの建物。

 この先、「畑沢」バス停付近に、西房総街道=B(「三舟山」経由)との分岐点があります(左折する道)。しかし、その先「君津」駅付近までは、住宅地となって不明の箇所、多し。

          
          
          
1880年代のようす。○が分岐点。              2010年代のようす。住宅地が広がる。

「畑沢橋」。
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JR「木更津」駅~「青堀」駅。その1。「証城寺の狸囃子」。貝渕。(「房総往還」をゆく。第5日目。)

2020-04-03 19:31:55 | 房総往還
                         3月15日(日)。晴れ。木更津から「房総往還」歩き。

 外出も控えめに。「房総往還」歩きの記録がしばらく途絶えていたので、掲載します。3週間前くらいの歩きなので、サクラなどちょっと景色が異なっていると思いますが。

「曲尺手」。右折し、すぐ左折します。

右手に蔵造りの建物が並んでいます。旧家のよう。

                          

 「矢那川」に架かる「証誠寺橋」の手前奥に「証誠寺」が。境内左手にには野口雨情作詞・中山晋平作曲の狸囃子「童謡碑」。


 詩人で童謡作詞家であった野口雨情が千葉県木更津市を訪れた際、童謡の題材にと木更津市内の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」を提供されたことを契機に作詞を行い児童雑誌「金の星」1924年(大正13年)12月号で発表。その後、中山晋平がその歌詞を元に改作し曲を付けて児童雑誌「金の星」1925年(大正14年)1月号で発表した。

證 證 證城寺
證城寺の庭は
ツ ツ 月夜だ
皆(みんな)出て 來い來い來い
己等(おいら)の友達ァ
ぽんぽこ ぽんの ぽん

負けるな 負けるな
和尚さんに 負けるな
來い 來い 來い
來い 來い 來い
皆出て 來い來い來い

證 證 證城寺
證城寺の萩は
ツ ツ 月夜に 花盛り
己等は浮かれて
ぽんぽこ ぽんの ぽん

 中山の詞は最初の出だし「しょ、しょ、しょうじょうじ〜♪」に見られるように、同じ音の繰り返しを多用する事でリズミカルで軽快な音楽になっている。野口の表記は漢字表記で「証城寺の狸囃子」としているが、児童向けの童謡であることから「しょうじょうじの狸ばやし」とひらがな表記にしている場合もある。
 1929年(昭和4年)に平井英子が歌い、ヒットした(発売はビクターレコード)。戦後から1960年までにレコード売上は17万枚に達し、ロングヒットを続けている。

「証城寺」という表記について
 本曲は木更津市富士見に実在する寺「證(証)誠寺」の狸囃子伝説を元としているが、じょうの表記に正規の誠ではなく城の字を用いているのには諸説ある。
①野口が作詞の際に参考にした文献『君不去』でしょうじょうじの表記が間違っており、それに気付かずそのまま紹介してしまったため。
②歌詞を読んだ寺の関係者から「住職がタヌキと一緒に踊るなんてことがあるはずがなく不敬である」という抗議があったため。
③最初から意図的に城の字を使ったことによる。証城寺と表記し歌に登場する寺を架空の場所であると位置づけることで、特定の地域の単なる民謡とするのではなく全国の子供たちに歌ってほしいという意図から。

カバー曲
 1946年(昭和21年)から放送された東京中央放送局(のちのNHK)のラジオ番組「英語会話」(講師は平川唯一)では、テーマソングとして『証城寺の狸囃子』の替え歌『Come Come EveryBody』(カムカム エブリボディ)が使用された。このラジオ番組はその主題歌から「カムカム英語」とも呼ばれた。
・・・
 1955年(昭和30年)、アメリカ人エンターテイナーのアーサー・キット(Eartha Kitt)が『証城寺の狸囃子』を『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)』という題名でカバー(英詞:Bill Walsh)。
当時日本で20万枚近くを売り上げ、文化放送『ユア・ヒット・パレード』でチャート1位を記録するなど、当時の日本における洋楽アーティストの楽曲としては大ヒットになった。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)

 アーサー・キットの『Sho-Jo-Ji (The Hungry Raccoon)』は、子供心に覚えています。独特の節回しで印象深い曲でした。
奥まったところに「狸塚」。

境内の入口には、解説板。
証誠寺の狸塚
 この辺りが昼でも暗いほど茂っていた昔のこと、寺の和尚さんが夜中に目をさますと庭の方が大変賑やかです。そっと節穴からのぞいて見ますと、外は月夜で昼間のようです。
折から秋のこととて萩の花盛り、ところが驚いたことには大小の狸が数十匹が輪になり、
 証誠寺山のペンコポペン
  俺等の友達やドンドコドン
と腹を打ちながら踊っています。和尚さんもついおもしろくなり一緒になって踊りました。
こうして毎晩踊りましたが或夜狸たちが全く姿を消してしまったので不思議に思って居りますとかわいそうにもお腹をたたき破って藪の中で死んでいました。
和尚さんはこの友達をあわれに思ってねんごろに葬ってやったのがこの狸塚です。
この伝説が野口雨情先生によって狸ばやしの童謡が生まれ更に中山晋平先生の作曲により今や天下に広まりました。 

「矢那川」を渡って南に向かいます。

なかなか風情のある看板建築。

こちらはなまこ壁がすてき。

静かな通り。

大通りを越えて南へ。

海岸に関わりのありそうな地名。「「貝渕」バス停。

この付近の今昔


1880年代のようす。○が「証誠寺橋」。「貝淵」という地名がある。



2010年代のようす。西側の海岸は埋め立てられ、塩浜地区となっています。

 丁字路を右折した先に「貝渕陣屋」跡(「木更津県庁」跡)がありますが、省略。

「国道16号線」を越えます。

                 

来た道を振り返る。

 関東をぐるりと囲む幹線道路の「国道16号線」。街道歩きではしばしば出会います。その路線、この先、思いがけない場所で終了します(便宜上)。
  桜井新町に入って右手からの道に合流。旧道はそのまま「鳥田川」を渡っていましたが、消失、川の向こうで旧道が復活します。
 
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恩賜のマスク。一家に2枚。アベノマスク。有り難く押し頂いて。

2020-04-02 19:47:24 | 世間世界

誠に有り難いことです。総理から恩賜のマスクを戴ける、それも2枚。有り難い極みです。

大事に大事に何回も洗って使わせて戴きます。

そして、家族揃って不要不急の外出の際には、サザエさん一家のような用い方をさせて戴きます。
    (某ツイッターより無断拝借)

 こんな恩着せがましい「愚」策で何十億という税金を使うなら、最前線で苦闘する医療従事者への優先配布、お店への供給を滞らせることなく、また、一人で何枚も購入する人をチェックするとか(いっぺんに朝出して開店と同時に売り切れ! それも毎日のように開店前から同じような年寄りが並んでいる)、朝・昼・夕と分けて店頭に並べるというような工夫を行政指導するとか、他の手があるのでは?

 どこに消えてしまったの? マスク。作っても作っても、店頭に届かず。ごく少数あっても、すぐなしに。
 コロナが一段落したら、特定の年寄りのおうちに使い切れないほどの大量のマスクの山、とならないように。

 どうも休校措置も含め、北海道の後追い政策ばかりのような気がしています。どうせなら高価なマスクメロンでも届けて欲しい、と。

 4月1日・エイプリールフールの記事かと思いましたが、アベさん、本気のようです。
 
 布マスクを生産しているのが、地元山口の業者だとか、まさかそんなことはありませんよね。
 どこに発注したか資料請求しても、当然、業者名などは黒塗りでしょうが。もし、隠蔽改ざんがまたここでもあったら、・・・。

 どこまでもアホな男が、唐突な一斉休校要請の時のように、こざかしく影で操る男の言うことばかりを聞いていると、ご自分が辞めざるを得なくなりますよ。

 ま、国民にとってはベターですが。

(追記)04/05 アベさん。一家に2枚配布する「布マスク」をいったんはかっこうつけにして、きのうは、ご本人、もう不織布マスクにしています。
 それなら、200円もする布製ではなくて、もう少し安価で皆が欲しがっている不織布マスクを配布するのが筋だ、と。
 言ったら最後、引くに引けなくなっちゃう、いつものアベさん。困ったちゃんになっています。

(注:「一家に2枚」ではなく、「一ポストに2枚」あて。会社名義のポストにも2枚。従業員の数とは関係なし。住民がいるかいないか、関係なし。けっこうポストに入ったまま、というケースも多い? )

 

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2020春。「墨堤通り」+「向島見番通り」+花街。その4。鳩の町商店街。榎本武揚旧居跡。・・・

2020-04-01 20:07:57 | じじばばがゆく
                        スカイツリーを望む街。

「天ぷら 花むら」。

住宅も古風な意匠の落ち着いた雰囲気。

「水戸街道(国道6号線)」。沿道は、ほとんどがマンションやビルになっていますが、昔ながらのおうちがお店をやっています。
萬屋糸店」。かつてあった大きな看板はなくなっています。

もう少し北寄りにも古いしもた屋(商店街の中にあって商業を営まない住み家のこと)があります。
南側にあった家が取り壊されていました。

この水戸街道南西側に「鳩の町商店街」があります。少し戻って探訪。
 鳩の街(はとのまち)
 現在の東京都墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。地理的に「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。太平洋戦争末期に、東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒か、この地で開業したのが始まりという。終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、1946年(昭和21年)に米兵の立ち入りが禁止された。その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展した。
 この街の店舗は、警察の指導でカフェー風に作られた。1952年(昭和27年)当時は、娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。
また、吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となった。さらに、永井荷風がこの地を舞台に戯曲「渡り鳥いつかへる」「春情鳩の街」を書いている。これらの荷風の2作品は、久保田万太郎の手により構成され「『春情鳩の街』より渡り鳥いつ帰る」として映画化され、森繁久弥、田中絹代、高峰秀子、岡田茉莉子らが出演した。
 玉の井と同様に、この街も訪れる作家や芸能人が多く、吉行や荷風の他、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、小沢昭一などが、出入りしたことが知られている
 また、女優・歌手の木の実ナナがこの地で生まれ育ったことで有名である。
 1958年(昭和33年)4月1日に売春防止法が完全施行され、すべての業者が廃業。最終日の3月31日には「蛍の光」を流して別れを惜しんだ。跡地は商店街やアパートなどの住宅となった。
 現在でも、商店街の裏に入ると色タイルを貼った娼家風の建物が多少残っているが、老朽化による建て替えや改築により、それらも少なくなった。
また、今も、商店街や道路の名称として「鳩の街」の名は残っている。商店街は、下町らしい活気のある街であったが、現在はシャッターを下ろした店が多い。

玉の井(たまのい)
 戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)に存在した私娼街である。永井荷風の小説『濹東綺譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』の舞台として知られる。

 玉の井の起源については、永井荷風の『濹東綺譚』によれば、1918年(大正7年) - 1919年(大正8年)のころ、浅草観音堂裏に言問通りが開かれるに際して、その近辺にあった銘酒屋等がこの地へ移ってきたのが始まり。この当時、この地は東京市外であった。
 その後、関東大震災後の復興に際して、浅草では銘酒屋の再建が許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井は、ますます繁栄する。
また、浅草からこの付近まで一直線に通る道路(現、国道6号)が開通したほか、1931年(昭和6年)には東武鉄道伊勢崎線の浅草雷門駅(現、浅草駅)が開業したことで、浅草から玉ノ井駅(現、東向島駅)までのアクセスが格段に良くなったことも繁栄を助長した。

戦前・戦中
 玉の井の銘酒屋は、間口の狭い木造2階の長屋建で、それぞれの店には女性を1 - 2人程度置いていた。1階には狭い通りに面して小窓が作られ、ここから店の女が顔を覗かせて客の男を呼んだ。女性が接客する部屋は2階にある。区画整理のできていない水田を埋め立てて作った土地のため、あぜ道の名残の細い路地が何本も、密集した銘酒屋街の中を縦横に入り組んで通っていた。また、その地質のせいで、雨が降ると相当ぬかるんだ。
路地の入り口には、あちこちに「ぬけられます」あるいは「近道」などと書いた看板が立っており、この街を荷風はラビラント(迷宮)と呼んだ。
 この土地の遊興費は、荷風によれば平均的な店で1時間3円、「一寸の間」(ちょんの間)で1円から2円程度とのことである。また、銘酒屋は外からみるとあまりきれいではないが、中へ入ると「案外清潔だった」という(断腸亭日乗 昭和11年5月16日)。
 所轄の寺島警察署の統計によれば、1933年(昭和8年)には、この街にあった銘酒屋の数は497軒、そこで働いていた女性の数は1,000人いたという。だが、実際にはこれよりもずっと多かったという説もある。
 また、荷風以外にも、徳田秋声、檀一雄、太宰治、高村光太郎、武田麟太郎、サトウハチローなど、この街を訪れる文士が多くいた。また、尾崎士郎は「人生劇場(残侠編)」の中に玉の井を登場させた。高見順は、小説「いやな感じ」の舞台を戦前の玉の井に置いている。漫画家の滝田ゆうは玉の井の出身で、自分の少年時代をモデルに寺島町奇譚を描いている。作家の半藤一利は、玉の井があった寺島町の隣町の吾嬬町育ちで、「永井荷風の昭和」(文春文庫)の中で少年時代にたずねた思い出を記している。
 第二次世界大戦中は、軍需工場の工員や兵隊たちで賑わったが、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で街のほとんどが焼失した。
 終戦後の玉の井は焼け残った地域に移り(焼失前の位置は寺島町五丁目、六丁目、現在の東向島五丁目、六丁目の一部。戦災後の位置は寺島町七丁目、現在の墨田三丁目の一部)、営業が続けられた。場所が移ったこと等から戦後の玉の井を新玉の井という場合もある。また、一部の店は1キロほど離れた場所に作られた「鳩の街」に移転した。銘酒屋街は警察の指導により、「カフェー」風の店に改めさせられ、いわゆる赤線地帯となった。
 吉行淳之介は、戦後の玉の井も、鳩の街など他の赤線地帯とは違った独特の風情があり、その記憶は滝田ゆうの作品につながると書いている(滝田ゆう「寺島町奇譚」解説)。
 売春防止法施行後は、この地区に娼家はなくなり、ほとんどは商店や住宅が建ち並び、一部に町工場のある東京の普通の下町となった。多少、飲み屋やバーがある程度で、吉原のように歓楽街にはならなかった。だが、赤線廃止後何年かは、娼家はなくなったのにもかかわらず、まだ営業している店があると思い込み、この街を訪ねてくる男たちが絶えなかったという。
 小説「濹東綺譚」や「いやな感じ」の初めに登場する、東向島広小路付近の東武伊勢崎線の踏切も、昭和40年代初めに、この付近の線路が高架化されたことにより、水戸街道(国道6号線)を跨ぐガードとなった。この踏切の近くで、前記の2小説の主人公がタクシーを降りる場面がある。
 現在でも、戦災で焼け残った地区(新玉の井、現在の墨田三丁目付近)に昔の面影のあるカフェー風の建物、銘酒屋風や色タイルを貼った建物等が残っているが、それらも改修や老朽化に伴う建て替えにより少なくなってきている。ただ、密集した街の中を入り組んで通る細い街路だけは、ほぼ昔のまま残っている。

その他
 よく間違われるのだが、戦前・戦中の玉の井は、吉原のように公娼の集められていた「遊廓」ではなく、私娼の集まっていた私娼窟(私娼街)である。地元の人々は「めいしや」(銘酒屋)と呼んでいた。いわば、モグリ営業の売春宿が軒を連ねていたわけだが、当局は黙認していた。

(二項目とも「Wikipedia」参照)

 「鳩の町」も「玉の井」もすっかり面影を一新し、商店街や住宅地となっています。東武線の駅名も「玉の井」から「東向島」に。
 興味本位で歩き回ることはなしにして、と。

「鳩の町商店街」入口。鳩のデザインが。

細く続く商店街。閉まっているお店も多い。

空き地に「国有地」の標識が立っています。

消防車が入れないような細い路地に住宅が密集。生活感は大いにあり。

手押しのポンプが片隅に。使用、可?

「はとのまち整骨院」。

棟割り長屋風の店舗が三つつながりで。

スカイツリー。

                       

旧玉の井付近をいくつか。

玉の井の入口付近、老舗の酒屋。「酒喜屋」さん。

この路地から四方に小道が続く。

当時の雰囲気を伝える建物いくつか。

 

さて、また「鳩の街」に戻って、

榎本武揚旧居跡」解説板。
 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中浜万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で函館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。1862(文久2)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この函館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)年に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治38(1905)年から73歳で没するまでこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

「見番通り」から「墨堤通り」に戻り、左に折れると、
 
 明治20年(1887)に建てられた「墨堤植桜之碑」。
 榎本武揚による「篆額=石碑などの上部に篆字で彫った題字)。「墨堤植桜之碑」と上部に彫られている。

篆字

墨堤植桜の碑
 この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻です。
 墨堤の桜は、初め4代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、享保2年(1717)に8代将軍吉宗が百本の桜を、同11年には桜、桃、柳各150本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。・・・弘化3年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを顕彰して村 人が150本、安政元年(1854)に阪田三七郎が200株、明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
 さらに大蔵喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
 このような功績を永世に伝えるため、明治20年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が傾いたので、明治29年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
             平成2年3月    墨田区

 こうして再び「墨堤の桜」に戻ってきます。料亭のお座敷は無理なので、今度は、「江戸蕎麦」のお店か「カド」に立ち寄ってみようと思います。

 それにしてもコロナはいつおさまることやら。「緊急事態宣言」行使を手中にしているアベは、どう出るか?
 知事選を前にして、「緑のたぬき」の張り切りぶり。TVの露出に、かつての東日本大震災のときのイシハラ選挙を彷彿とさせる計算が?
 1年延期となったオリンピック。巨額の誘致資金が元電通役員へ。この方、今も裏で暗躍している風、はたしてどうなるか?

《補足》隅田公園で落としてはならない施設が隅田川から右にそれる「墨堤通り」際にありました。
 
隅田公園少年野球場
 この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に「少年に明日への希望」をスローガンとして、有志や子供達の荒れ地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。
 以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、中でも日本が誇るホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。


 以前、この隣に「室内温水プール」がありましたが、取り壊されて貸し駐車場になっています。
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