いよいよ今度は「中山道」の旅。旧東海道に比べると峠越えが何カ所もあったり、宿泊施設、交通機関などけっこう大変そうです。
まずは、「碓氷峠」を目指して、といってもいつまでかかるやら・・・。
12月16日(水)。日本橋~本郷~巣鴨~板橋~志村坂上、というコース。「志村一里塚」は、日本橋から3里目なので、12㎞かと思いきや、「国道17号線」だと「日本橋から13㎞ポスト」の先まで。
10時過ぎに歩き始め、途中、昼飯を食べたり休憩したりで、午後3時頃までかかりました。緩やかですが、思ったよりもアップダウンのある道筋。久々なので、膝が痛くなりました。
「東海道」とは反対に、北に向かいます。
「三越」を左手に賑やかな通り。老舗の建物も目立ちます。
「かつおぶし 大和屋」。奥には「うなぎ 伊勢定」。
すぐ先には「今川橋由来碑」。
今川橋が神田堀(別名神田八丁堀、龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~83)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架設されたのでその名が残りました。この橋は、日本橋から
中山道に通じる重要な橋でもありました。
神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
昭和25年(1950)龍閑川は埋め立てられ、300年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。
1880年代。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)↓が「今川橋」。
おなじみの「今川焼」は、今川橋付近の店で売り出されたことによる命名、らしい。
「今川焼き」。
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「今川焼き」の名称の由来に確たる史料はないが、今日主流とされる説に以下が挙げられる。
江戸時代中期の安永年間、江戸市内にかつて存在した竜閑川に当地の名主今川善右衛門が架橋した「今川橋」近隣の神田側に実在した神田西今川町や神田東今川町の店が、これらの焼き菓子を発売して高い評判を呼び、後に「今川焼き」が一般名詞化して広がったとされている。(以上「Wikipedia」参照)
以前、東西に流れ、中央区と千代田区の区界にもなっている「龍閑川」跡をたどる記録をUPしたことがあります。
「今川橋」近辺は、2014年2月3日掲載。当時、「中山道」を横切るとは思っていませんでした。今回、「今川橋」跡を渡っていることになります。
西側(JR神田駅方向)を望む。右が千代田区、左が中央区。
東方向を望む。通りの向こうの細い路地。
そのまま進むと、筋違い見附跡。中山道は左に曲がります。
秋葉原近くの「交通博物館」は、2006年に長い歴史に幕を閉じ、2013年9月 廃駅になった旧万世橋駅と交通博物館に新しい建物が出来ました。
ここは、鉄道マニアにとっては大変興味深いところ。鉄博(テッパク)が大宮に移ってからもまだまだ。
中央線神田~御茶ノ水間に「万世橋駅」があったことをご存知ですか?
1912(明治45)年に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋が歴史や記憶を活かしながら新たに生まれ変わります。
旧万世橋駅や交通博物館時代と変わらない、連続するレンガアーチの美しさと力強さが特徴的な
マーチエキュート神田万世橋。
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階段、壁面、プラットホームなどの遺構がよみがえった空間の中に知的好奇心を掻き立てるような趣味性、嗜好性の高いショップやカフェが並ぶこれまでにない商業施設の誕生です。
旧万世橋駅と神田界隈は、文化人から大衆までが集い人々が垣根を越えて分け隔てなく交流する場でした。
文化性を求める人たちが語らう往時のサロンのように、日本の「今から」の価値を発信し、街のムードやにぎわいを創出する“周辺エリア活性型商業施設”です。
1912 (明治45)年初代駅舎。
1912(明治45)年、中央線の昌平橋〜万世橋間が開通し、万世橋駅は東京市電(路面電車)の乗換ターミナルとして栄えました。駅周辺エリア(神田須田町)は銀座と並ぶほどの繁華街へと成長し、神田須田町周辺は、銀座と並ぶほどのにぎわいを見せます。1919(大正8)年、中央線が東京駅に開通し、万世橋駅は中間駅となります。
1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、初代駅舎は焼失してしまいます。残存した基礎を利用し平屋建ての2代目駅舎が1925(大正14)年に完成しました。しかし、須田町交差点が移転し、駅前は裏通りになってしまいます。
1936(昭和11)年には、鉄道博物館(後の交通博物館)が併設されました。万世橋駅は大きな駅舎を鉄道博物館に譲り、大幅に縮小されました。そして1943(昭和18)年、太平洋戦争激化の中、乗降客減少に伴い、万世橋駅は休止となりました。
鉄道博物館は、1948(昭和23)年にその名を交通博物館と改め、70年の長きにわたり、鉄道ファンや子供の夢をはぐくみ続けました。施設老朽化などの理由で閉館が決定し、鉄道博物館として埼玉県さいたま市で再出発をすることになりました。
旧万世橋駅の開業時に作られたホーム部分を『2013プラットホーム』として整備、デッキとしてよみがえりました。高架橋にある旧万世橋駅のふたつの階段を通り、線路階にあるホームに上り、実際に駅構内を歩く気分で回遊できます。ホームではガラスに囲まれた展望カフェデッキが待っています。 中央線がすぐ両脇を行き交う、特別な空間です。
【1912階段】
1912(明治45)年の駅開業時に造られた階段。1936(昭和11)年の鉄道博物館(後の交通博物館)時代には、ホームから博物館に直接入館できる特別来館口として利用されました。駅休止以来、初の公開となります。
【1935階段】
鉄道博物館(後の交通博物館)の新館が建設されることとなり、新たに1935(昭和10)年に設置された階段。駅休止まで使用され、2006(平成18)年に限定公開されて以来の一般公開となります。
(以上、
HPより)
というわけです。見学は次回に。
そこに掲示されている「江戸城筋違御門」の写真。
この付近にあったものです。
JR沿いに進むと、「昌平橋」。
カモメが3羽。
橋のたもとの解説板。
昌平橋
昌平橋の架設はきわめて古く、寛永年間(1624年 - 1645年)と伝えられています。この橋は「一口橋(芋洗橋)、相生橋などと呼ばれたこともあります。一口橋の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷神社(今の太田姫稲荷神社)があり、それにちなんで呼ばれていました。
『御府内備考』には、「筋違の西の方にて神田川に架す。元禄の江戸図には「相生橋」とあり、(湯島)聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付け給ひしなり。或人の日記に元禄四年二月二日、筋違橋より西の方を、今より後昌平橋と唱ふべしよし仰せ下されけり、是までは相生橋、また芋洗橋など呼びしと云々」とかかれています。すなわち、元禄四年年(1691年)将軍綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と改名させられました。明治維新後に相生橋と改められましたが、明治六年(1873)に大洪水で落橋、同三二年(1899)再築してまた昌平橋と復しました。
現在の橋は昭和三年(1928)年12月8日に架設されたものです。
神田旅籠町
この周辺は、かつて神田旅籠町(かんだはたごちょう)と呼ばれていました。
昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
しかし、天和二年(1682年)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694年)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869年)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目と改称されました。
さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。「諸問屋名前帳」によれば、嘉永(1848年~1854年)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。
「神田明神下」の交差点を左折し、湯島への坂を上ります。
「(日本橋まで)2㎞」ポスト。
イチョウ並木。左は湯島聖堂。
右手に「神田明神」、門前の甘酒茶屋「天野(堅)屋」。
神田明神の裏手に回ると、古い建物が。「神田の家」。遠藤家旧店舗・住宅主屋」。神田鎌倉河岸の江戸時代から続く材木商の店舗兼住宅。
1927(昭和2)年に建てられた店舗兼住宅。江戸時代の雰囲気も残し、材木問屋だけあって、木材もなかなかいいものが使われているようです。「カフェ井政」としても営業中。
先代の家主である遠藤達藏は、神田明神の氏子責任総代と、将門塚保存会の会長を務め、生涯をかけて平将門を崇敬した人物である。その為、土間には「将門」と書かれた色紙がかかっており、庭には平将門の娘滝夜叉姫とゆかりの深い蛙の置物が多数置いてある。また、京都の京都 神田明神の建立に尽力し、平成22年(2010年)より一般公開している。
(以上「Wikipedia」参照)
上にもある通り、神田明神と平将門とは密接な関連があります。
承平5年(935年)に「平将門の乱」を起こし、て敗死した平将門の首が神田明神の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けました。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に神田明神の相殿神とされました。
江戸時代、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年に現在地へ遷座し、江戸総鎮守として尊崇されました。
江戸時代には「神田明神」と名乗っていましたが、明治に入って「神田神社」と改められました。
明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請されました。平将門神霊は昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰しました。
神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないというタブーが伝えられています。これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた、即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめる事となるためです。
将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮める「御霊信仰」と密接に関わっています。江戸時代以前、関東地方で「明神」と名のる社は将門を祀ってあったそうです。
(以上、「Wikipedia」参照)
御霊信仰(ごりょうしんこう)とは?
人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰のこと。政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方から、平安期に御霊信仰というものが現れるようになる。
この「神田明神」=平将門と並んで、「北野天満宮(「天神様」)=菅原道真が有名。