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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

札束で少女の顔をはたく、という風情。いやはや。

2015-12-30 10:06:29 | 平和
日本の10億円拠出「少女像移転が前提」 慰安婦問題

 どうにもこうにも。次第に内幕が出されてきて、まさに政治(家)に踊らされている感。
 双方とも選挙目当て。アメリカ・オバマも、たぶんそう。
 これこそ「政治的」解決とうわけでしょう。
 踊らされているのは、お互いの国民でしょうか。「反韓」はやみそうにもないし、「反日」もやみそうにもない。市民レベルでのいがみ合いこそ、アベ達の狙いでしょう。
 ここで、お互いに踊らされてはいけませんね。
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志村一里塚からさいたま副都心駅まで。その1。(旧中山道をゆく。第2日目。)

2015-12-29 22:46:03 | 旧中山道
 12月22日(冬至)快晴。せっかくの晴れ。23日からはぐずつくお天気のよう。空を見上げて、即、出かけました。都営地下鉄三田線「志村坂上」駅下車。そこからスタート。

 午前10時頃から午後3時30分頃まで。

 「国道17号線」を交番のところで左斜めに進み、「清水坂」の急坂を下ります。

 坂にさしかかる手前の角には、
        

富士・大山道の道標と庚申塔」。  

 富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川の大山に通じる道です。この場所は中山道から富士・大山道が分岐する場所でした。
 向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政4年(1792)に建てられたもので、正面には「是より大山道并(ならびに)ねりま川こへ(川越)みち」と刻まれています。右側の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬・柳澤(西東京市)・府中への距離が示されています。
 この二基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語る上で貴重な存在であり、昭和59年度に板橋区の文化財に登録されました。
 
 平成17年3月    板橋区教育委員会 

坂の上にある「清水坂」碑。急激に下る。

大きく左にカーブする坂。振り返って望む。

左側は高台で急な崖になっている。

    

清水坂

 日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともにその呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。坂の下には板橋・蕨宿をつなぐ合(あい)の宿があり、そこには志村名主屋敷や立場茶屋などがあって、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。この辺りは昭和30年代頃までは旧街道の面影を残していましたが、地下鉄三田線の開通など、都市化の波によってその姿を変えました。

 平成12年3月    板橋区教育委員会

 ほぼ真西に進んでいた「清水坂」は、この碑のところで、すぐ、45度くらいの角度で北に折れて戸田方向へ一気に下って行きます。
振り返って望む。

 富士山が正面右手に望めたというのはこのあたりでしょうか? 先ほどの「富士山・大山道」という道標付近のような気もしますが。


 1917年~24年(大正時代)


1927年~39年(昭和初期)「国道17号線(中山道)」が開通。


1992年~2005年(平成初期)

 ちなみに坂上は標高20㍍、清水坂で一気に下って坂下では5㍍となる。(いずれも「今昔マップ」より)

 都営三田線のガードをくぐって、「国道17号線」に合流します。「環八」との交差点を渡って、斜め右に進みます。

    
 ほんの少し、旧道を歩く。                   再び17号線に合流(来た道を振り返る)。

「(日本橋まで)15㎞」ポスト。「戸田橋」までは国道沿いに歩く。 

「新河岸川」(下流で隅田川と合流)。 

10:30「戸田橋」。けっこう長い。北風が強い。
                                      「新幹線」が通過中。

 「戸田の渡し」は、現在の「戸田橋」よりも100㍍ほど下流にありました。
                    

「荒川」河川整備に伴う「戸田橋」と旧中山道の変遷。









「戸田橋」の上から振り返ると、はるかかなた右手に真っ白な富士山の姿が。「清水坂」では無理だった「富士山」がくっきり、といっても肉眼で確認できるだけ。写真でははっきりしません(↓)。これから先、「中山道」歩きで富士山を眺めることがあるのでしょうか?

        

戸田橋を渡ると、右側の堤防上に案内板。

その先には解説板。
    

歴史のみち 中山道のご案内
 ここから階段を下り、東へ約130m先へ進むと、「歴史のみち 中山道」があります。
 中山道は、江戸日本橋を起点として慶長7年(1602)に整備が始められ、第一の宿場である板橋宿を過ぎ、次の蕨宿との間にあるのが荒川(戸田川)にあった「戸田の渡し」でした。
 戸田渡船場跡から北に約200mほど残るこの中山道の道筋は、文化3年(1806)に作成された「中山道分間延絵図」にその様子が描かれています。
 また、天保13年(1812)「中山道戸田渡船場微細御書上」によると、渡船場には家数が46軒
あり、渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、街道筋には渡船にかかわる家々や旅人を相手に商う茶屋などが建ち並んでいました。現在もその様子が残っており、周辺には水神社や地蔵堂があります。

 「荒川」の堤防道路上に「解説板」と「碑」があります。階段を下りると、右手の頭上に位置するため、分かりにくい。左手にある「水神社」の先で、土手を右に上がります。

    
戸田の渡し

 中山道は木曽街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長7年(1602)のことです。宿駅は六十七、越える川は大小十以上を数え、荒川は江戸を出るところに位置していました。この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。
 この渡しは、資料によると天正年中(1573~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。 
 また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。
 やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治8年(1875)5月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。

平成26年1月    戸田市教育委員会

戻って土手下、右手には「水神社」。
 創立など詳しいことはわかりませんが、正面の「水神宮」の碑には寛政8年(1769)の銘があります。
 古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができてから移され、川岸に住む人々の氏神様のようになっています。
 境内の正面には、「水神宮」や「船玉大明神」(船の守り神)と刻まれた大きな石碑が鎮座しています。また、「山王大神」や、茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神)などの石碑も合祀されています。
 この神社の祭礼は、7月14日、15日ですが、最近ではその日に近い日曜日に行われています。この祭礼のときに飾られる獅子頭は、もとは荒川のそばにあった羽黒社に古くから伝えられてきたものです。色や形、大きさとも偉容を誇る獅子頭で、市の指定文化財になっています。昔は、その年にはじめて採れた胡瓜をこの水神社に供え、この後に荒川に流してからでないと泳ぐことができないとされていました。

 平成8年3月   戸田市教育委頁会

        
         『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉

 蕨宿の近隣にあって一帯の水運を担う戸田の渡しが描かれている。人馬の別無く舟に乗り合い、白鷺が舞う戸田川を往く、天保の頃の人々ののどかな様子である。対岸の渡し場に続く道の左右には戸田村の家々が見える。渡船権はこの村が握っていた。
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兄弟げんかに親が介入。お前達いいかげんにしろ!

2015-12-28 10:14:20 | 平和
慰安婦問題「最終決着」、韓国同意が焦点

 というわけですね。誰でもそう思ったにちがいない。敵の敵は味方、というわけも。

 俺たち一家は、対しなければ手強い相手がすぐ近くにいるのに、いったいいつまでぐずぐずやっているんだ、お前達は!

 特に弟。そろそろいいかげんにしろよ! いつまで子ども達の顔色ばかりうかがっているんだ。

 兄貴の方も兄貴だ。しかたがないから、弟の言い分も少しは聞いてやれよ。頭下げるくらいどうということないだろう。言葉なんていくらでも作ればいいんだから。その場限りでもさ。

 でも、もうこれっきりだぞ、お互いにぐちゃぐちゃ言いあっているのは。そうじゃないと、お前達とは縁を切るぞ。俺の威光でこれまで何十年と何とかやってきたんだろ、お前達は。

 ヘ、ヘエ~イ! わかりました。おとっつあんの言うことは、私ら、何でも聞きますから。な、そうだろう。(二人うなづく)・・・

 頼むぞ、俺にも、そう時間は残されていないんだからな。俺が死んだらどうなるか分からんぞ。兄弟仲良くってことだな。あちこち心配だらけなんだから、せめてこれ以上、心配かけるな、俺に。

 かくして、アメリカの従属国同士、手打ち式と相成る算段。めでたし、めでたし、とはたしてなるか?
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志村一里塚からさいたま副都心駅まで。その2。(旧中山道をゆく。第2日目。)

2015-12-27 23:00:46 | 旧中山道
                      「水神社」前から戻って、右折(戸田橋からでは左折)。

土手方向を振り返る。

 しばらく行くと左手に小公園があり、「歴史のみち 中山道」という解説板があります。


歴史のみち 中山道
 この道は、江戸時代の中山道の一部といわれています。
 中山道は、慶長7年(1602)に整備が始められ、日本橋を起点に、武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を経て、京都まで百三十五里余り、宿場は板橋宿から東海道と重なる草津・大津宿を含めて六十九宿ありました。
 戸田渡船場から北に約200mほど残るこの中山道の道筋は、文化3年(1806)に作成された「中山道分間延絵図」にも、現存する地蔵堂とともに描かれています。
 渡し口には渡船を取り仕切る川会所がおかれ、その西方には、かつて羽黒権現がありました。街道筋には、渡船にも携わる家々や通行人を相手に商う茶屋などが立ち並んでいました。江戸と京都を結ぶ主要街道として、大名や公家の行列も通行し、文久元年(1861)最後の大通行といわれる皇女和宮の下向にも利用されました。
 しかし、菖蒲川を越えたところからの道筋は、現在まったく失われてしまいました。旧中山道はしばらく北上した後、昭和の初期まであった荒川の旧堤防を斜行しながら横切り、ほぼ現在の国道17号線に沿っていました。国道とオリンピック通りとの交差点付近には一里塚の跡ではないかといわれる場所もありました。そして再び旧中山道は国道から離れ、下戸田ミニパークの脇を西に曲がり、蕨市に残る旧中山道へとつながっていきます。


1896年~1909年。現在残されている旧道は、A、B(現中山道・国道17号線に組み込まれている)、Cの三ヶ所のようです。

 この先、A地点までは「国道17号線」に沿って歩く一部以外は「旧中山道」の道筋ではなさそうです。

 C地点から北に向かうと、「菖蒲川」にぶつかるので、右折、橋を越えて行きます(①)。公園のすぐ先を左折、突き当たりを右折。細い道の住宅地を北上(②)、商店街通りにぶつかるので左折して(③)「国道17号線」に出て、北上します(この辺りは旧道の一部? )。本町1丁目の信号を右折し、すぐ左折し、北上します。団地が右にある広い道を進むと、「川口信用金庫」前の交差点。その向こう側に「下戸田ミニパーク」があります。

 ②



「下戸田ミニパーク」。A地点に到着。

 こんな風に右左折を繰り返すより、「国道17号線」をそのまま進んで、「本町」交差点で右折してここに来るのでいいと思います。

「下戸田ミニパーク」にある解説板。
                                         先ほどの解説板とほぼ同じ内容です。

・・・再び旧中山道は国道から離れ、この説明板の建つ公園の脇道約80㍍とつながります。ここは市内に残るもう一ヵ所の中山道筋で、川岸から北上してきた旧中山道が大きく西へ曲がる部分となっていました。道筋は、この脇道から再び現在の国道に重なり、蕨市に残る旧中山道へとつながって行きます。 

旧道。行く方向に「国道17号線」。

 「国道17号線」を北に向かいます。右手に旧家らしいおうち。
    

11:50。「錦1丁目」交差点から右に入る。G・Sが目印。

江戸方宿入口モニュメント。「冠木門」。

 「蕨宿」は、江戸から2番目の宿。板橋宿から2里10町。町並みは10町(約1.1㎞)。天保14年(1843)の「宿村大概帳」では人口2223人、家数430軒。本陣2、脇本陣1、旅籠23軒。問屋場1、高札場1。

 地名の由来については諸説あり、「藁火(わら-び)」説と「蕨」説に大別されます。
・「藁火」説
 源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、在原業平が藁を焚いてもてなしを受けたことから「藁火」と命名した、など。
・「蕨」説
 近隣にも見られる「青木」「笹目」「美女木(びじょぎ)」[7]などといった植物由来地名と同様、蕨(ワラビ)が多く自生する地であったことに基づく命名とするもの、など。

 なお、「戸田の渡し」の川留めに備えて東隣りの塚越村にも本陣が置かれ、二の本陣、あるいは東の本陣と呼ばれました。

 蕨宿の周りには用水と防備を兼ねた構え堀が巡らされていました。 この堀に面した家々には小さな跳ね橋が設けられていて、早朝下ろされ、夕刻になるといっせいに跳ね上げられ、宿場の出入り口である上下の木戸も同じ時刻に閉じられるので、夜の蕨宿は隔絶された小さな空間となっていました。
 古民家などが多数健在で、かつての面影を伝える町並みを残しています。

国道の喧噪から落ち着いた宿場歩き。道も茶色に。

「観光案内図」。

 足元には中山道69次の宿場がタイル絵に。

    
「大宮宿」。                     「高崎宿」。

マンホールにも「蕨宿」。

このキャラクターは、何という名前? 公式HPにも載っています。
        「鳩」「三度笠」?

新しいおうちも街道風の趣。

    
                       歴史民俗資料館分館

 分館は、明治時代に織物の買継商をしていた家をそのまま利用したものです。敷地は516坪(1,705㎡)あり、建物は床面積95坪(313㎡)の木造平屋、寄棟造りで、中山道に面した店の部分は明治20年(1887)に作られたものです。

店先。

     

 商店も古い造りがそのまま。
    

「蕨市歴史民俗資料館」。

「民俗資料館」には、当時の宿場の再現模型や旅籠の様子、機織りの道具などが展示されています。撮影禁止と知らず、パチリ! 

    

 すぐ隣が本陣跡。1973(昭和48)年に建てられました。

    

蕨市指定文化財 蕨本陣跡
 蕨宿は江戸時代に中山道第2の宿駅として栄えたところである。
 慶長11年(1606年)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の三役を兼ねたと伝えられている。
 その後、その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた。
 蕨本陣の建物は今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが、公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となり、ついで、明治元年(1868年)同3年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
 現在、岡田家には古文書古記録歴史的遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。

       撰文 大野 晋
       蕨市教育委員会

「中山道蕨宿 江戸江五里 京江百三十里」。

    
 当時の本陣の銅版画。                      大名・公家等宿泊一覧。「和宮」の名も。

そこから、来た道を振り返って望む。
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志村一里塚からさいたま副都心駅まで。その3。(旧中山道をゆく。第2日目。)

2015-12-26 21:41:23 | 旧中山道

「蕨宿」には見所がまだまだあります。「鈴木薬局」。
                                  昭和初期の建物。看板は右から左に。「局藥木鈴」。

「地蔵の小径」碑の脇に老舗の「萬寿屋」お煎餅屋さん。

土蔵のある旧家。

足元も「草津宿」になって、「蕨宿」もそろそろ終わりに。

左手の「ふれあい広場」にはからくり時計と火消しの姿。

    

 白壁には詳しい解説板と絵が。ここで小休止。(12:20)。

    
中山道 蕨宿
1、中山道と蕨宿
 江戸時代、埼玉県内には五街道のうち、中山道と日光道中が通り、日光御成道や多くの脇街道が通っていました。
 中山道は、江戸日本橋から近江国(滋賀県)守山宿までの67宿の街道で近江国草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋に向かい、江戸と京都・大阪を結ぶ幹線道路として創設されました。
 蕨宿は、この中山道にあり、江戸日本橋から数えると2つ目の宿場で、67宿のうちでも5指に入る大宿場として栄え、埼玉県では最初の宿場でした。

2、蕨宿の成り立ちと形態
 蕨宿の成立の時期には諸説がありますが、慶長17年(1612)成立という説が有力と考えられています。
 天保14年(1843)の蕨宿は家数430軒、人口は2223人でした。大名・公家など身分の高い人々の宿泊施設である本陣が2軒、脇本陣が1軒、一般の旅人の宿泊のための旅籠が23軒ありました。また、旅人と荷物を輸送する事務を行う問屋場と高札を掲げる高札場が一ヶ所ずつありました。
 蕨宿は宿役人がおかれ、交代で問屋場に勤務して、乗り継ぎをする馬や人夫の用意、物資の運輸、周辺の村々からの人馬の動員などを行っていました。

3、蕨宿のまちなみと人々の暮らし
 蕨宿は中心部のまちなみが南北10町(約1090m)で、宿の周囲を用水路で囲み、外部の攻撃から守れるようにしてあるのが特徴でした。この堀は防火用水の役割をも果たしていました。
・・・
  
 蕨宿の特徴として、堀に面した家には「はね橋」があり、早朝下ろされ、夕刻になると跳ね上げられ、宿場の出入り口である上下の木戸も閉さされ、堀は宿内の防備も兼ねていました。

 その「はね橋」が一つ残っていると案内図にありましたので、そこに行ってみました。が、暗渠になった用水路はあっても、それらしきものは見当たりません。ただ、立派な門前にしっかりした板が門をふさぐように立っています。門からの出入りをさせないためかな、それにしてもおかしい、おもしろい、と。写真は撮っておきましたが・・・。
 結局、いっこうにそれらしきものは見つかりません。しかたなく暗渠になった用水路を撮ってきました。

この暗渠に面してありました、「はね橋」が。

 さて、資料整理のために蕨宿のHPを見ていると、何とはね橋の絵があります。それが頑丈に立て掛けあった仕掛け(?)でした。

より)

これです。新品そのもので、「はね橋」とは思いも寄りませんでした。
 まして、門前の用水路はすでに暗渠になっていて、使う必要はなさそうです。でも、設置してあるということは、「蕨宿」に寄せる、徳丸家の心意気なのでしょう。

これで心置きなく「蕨宿」を後にしました。

 「錦3丁目」交差点で「国道17号線」を渡り、浦和宿へと進みます。左手に古い大きなおうち。


 街道筋らしい曲がりくねった道を進むと、右手に「一六橋」との解説板がありました。


 「解説板」(「一六会」)によると、この橋は「見沼用水」分流に架かる橋で、この付近で「一」と「六」の日に市が開かれたことによると伝えられているそうです。

その付近から行く先を望む。

その先、左手には「中山道蕨宿 一番地」の立て札と「境橋のいわれ」との解説板があります。
    

 この橋は、同じく「一六会」の解説板によると、「蕨宿」と「辻村」(現在は、「さいたま市」)との境を流れる「見沼用水」の分流に架かっているところから名付けられた橋だそうです。

 しばらく進むと、「外環」をくぐる手前、団地の公園内に「旧中山道 一里塚の跡」(辻一里塚)碑があります。日本橋から5里目。気がついたら12:45。食べ物屋さんに入り損ねたので、公園のベンチで朝買ったおにぎりとパンを。

    

 脇には弁財天。

「由来碑」によると、この付近が湿地が多く、村人は難儀をした この水難を守るために弁財天を安置し、地区を守り、中山道を旅する人々の安泰を願う由来伝記があったので、再建した、とあります。

 次第に賑やかな道筋になってくると、T字路になり、右折。T字路のところに「中山道」の標識。


 「六辻」の交差点で「国道17号線」を横断。しばらく行ったら変則三叉路の左斜め奥の道を進みます。「田辺医院」の看板が目印。


次第に上り坂になっていきます。 

                             「焼米坂」。
    

 蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある。江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしか地名が定着していったようである。  当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。 また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている。
 浮世絵師・渓斎英泉が浦和宿を描くにあたって着目したのは、この焼き米売りの茶屋であり、焼米坂手前を視点として浦和宿と浅間山を望む構図であった。

      
          『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』 天保6年(1835年)、渓斎英泉。

 絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。

(この項、「Wikipedia」による)

    
                     振り返って望む。けっこうな上り坂。

              旧街道筋らしい大きなおうちがちらほら。
    

               

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志村一里塚からさいたま副都心駅まで。その4。(旧中山道をゆく。第2日目。)

2015-12-25 20:40:02 | 旧中山道

 しだいに「浦和」宿(浦和駅西口)の繁華街に近づいていきます。人通りも多くなってきました。しばらく行くと、右手に古社・「調(つき)神社」境内の杜。「調」は律令時代の「租・庸・調」といわれた貢ぎ物のことです。相当古いいわれのある神社であることを感じます。

 社名を調(つき)神社と云い、地元では「つきのみや」と愛称されています。鳥居のない神社として有名で、狛犬ではなく兎が置かれているのも全国的に珍しいものです。
 「調宮縁起」によると、今からおよそ2,000年前の第10代崇神天皇の勅命により創建。伊勢神宮へ納める貢(調)物(みつぎもの)の初穂を納めた倉庫群の中に造営されたため、貢物搬出入の妨げになる鳥居がないと伝えられています。確かな文献では、平安時代中期の延喜5年(905)に醍醐天皇が編纂を命じた法典である「延喜式神名帳」に、武藏國四十四座のうちの一社と記載されています。
 また、調(つき)の名が、月と同じ読みであるところから、月の動物と云われた兎が神の使いとされ、中世の月待信仰(月のもつ神秘に畏敬をなし、月の出を待って祈る信仰)の広がりと結びつき、江戸時代には月読社とも呼ばれていたようです。今も兎の石像や社殿に飾られた兎の彫物、兎の絵馬など所々に兎が配されています。
 南北朝時代の延元2年(1337)に、足利尊氏が一色範行に命じて荒廃した社殿を復興したと伝えられています。その後戦国時代末期の天正18年(1590)小田原兵乱で、再び焼失しましたが、徳川家康の関東入部後から江戸時代初期にかけて次第に再建されたようです。現在の社殿は、安政6年(1859)竣工で、総欅の権現造りです。一代前の本殿も、境内末社の稲荷社本殿として現存しており、こちらも総欅で一間社流造りという建築様式です。
 神域は約1万2千平方メートル、鬱蒼と生い茂った樹齢数百年のイチョウやケヤキ、ムクなどが見事な鎮守の杜を形成しており、江戸末期の建築にかかる権現造の社殿が、悠久の時を超えて静かに建っています。

(以上、HP参照)

    

何軒か古くて立派な建物が残っている。

まもなく「中山道 浦和宿」の石柱。

現在は、ビルが建ち並ぶ繁華街。

 かつての宿場の中心はもう少し北にあったようです。人通りの激しい、賑やか通りを進み、「玉蔵院」の門前を通ります。

その先に「浦和宿」の石柱。

 そこを過ぎて、「仲町」の交差点の先を左に入った「仲町公園」。そこに「本陣」跡がありました。

ビルの間のこじんまりとした空間。

    

さいたま市指定史跡 浦和宿本陣跡
 中山道は江戸と京都を135余りで結ぶ街道で、木曽の山間部を通るため、「木曾街道」「岐蘇路(きそじ)」などともいわれました。
 中山道の宿場は、本来板橋宿(東京都)から守山宿(滋賀県)までの67次ですが、東海道と宿場を共有している草津・大津宿を加えて69次とするのが一般的です。浦和宿は日本橋を出て3番目の宿駅になります。
 江戸時代後期の浦和宿には本陣1、脇本陣3、旅籠15があり、このあたり一帯が本陣の跡になります。本陣は大名などの宿泊や休憩にあてられる家で、浦和宿では星野権兵衛家が代々務めていました。
 敷地内には222坪(732.6㎡)の母屋や表門、高札場、問屋場などがありましたが、明治時代になってすべての建物が取り払われ、当時の姿をしのぶものは大熊家表門(市内緑区大間木に移築)のみになってしまいました。
 なお、明治元年及び3年の明治天皇による大宮氷川神社行幸の際して、ここが行在所となりました。

 平成19年3月22日    さいたま市教育委員会

 解説板の左には、大きな「明治天皇行在所址」碑。

 少し行くと、左手奥にある「常盤公園」への通りには「市場通り」との碑。その脇に野菜を売る農婦のブロンズ像があります。

    
                                      「常盤公園」側にも一体。

 「浦和宿」では「二」と「七」の日には市場が開かれ賑わっていました。すぐ先の「慈恵稲荷」の祠の前にその碑が建っています。

    

浦和宿二・七市場跡
 この場所では、中世から近世、近代にかけて、毎月6回、二と七のつく日に市が開かれ、農産物や布製品などが陳列されました。これが「二・七の市」です。天正18年(1590)に出された市に関する文書があるので、市の成立はこれより前ということがわかります。

 たまたま神社の参道の修復工事をしていた方が工事の手を休めて、スコップなどをどけてくれて撮影に協力してくれました。
 そしてぽつりと、「私が子どもの頃から市場が立って賑やかだった。今はもうなくなっちゃたけれど。駅が宿場の中心地から離れて、今は浦和駅の方が賑やかになった。・・・」と。
 本陣跡も賑やかな町並みからは人通りも少なくなったところにありました。かつてはこのあたりが宿場の中心だったのでしょうか。
 
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志村一里塚からさいたま副都心駅まで。その5。(旧中山道をゆく。第2日目)

2015-12-24 21:38:38 | 旧中山道

 浦和駅東口を右奥にして繁華街の続いていた旧道。古くからの建物もビルの間にはちらほら。JR線を「浦和橋」という跨線橋を越えて「与野」駅方向へ進みます。跨線橋付近には「一里塚」(日本橋から6里目)があったようですが、まったく分かりません。その代わり、手前に鉄道模型のお店に信号機が。
                       

 「北浦和」駅を横目に線路沿いに進み、しだいに街道筋らしい雰囲気に。旧道は現在の県道164号線と重なるようです。しばらく進むと、左手にある「廓信寺」の標石の隣に、解説板が建っています。



サツマイモの女王 紅赤の発祥地
 江戸時代以来, 関東でサツマイモといえば川越で、「アカヅル」、「アオヅル」といういい品種を持っていた。
 ところが明治31年(1898)秋、浦和市北浦和(当時の木崎村針ヶ谷)で、それ以上のいもが発見された。
 発見者はここの農家の主婦、山田いち(1863~1938)だった。いちは皮が薄紅色の「八つ房」を作っていた。それを掘っていると皮の紅色がびっくりするほど濃く、あざやかで美しいいもがでてきた。八つ房が突然変異したもので、形も味もすばらしかったため大評判になった。
 いちの家の近くに、いちの甥で篤農家の吉岡三喜蔵(1885~1938) がいた。この新しいいもに惚れ込み、「紅赤」と命名、それを広めることを使命とし、懸命に働いた。
 そのため紅赤(俗称、金時)はたちまち関東一円に普及、「サツマイモの女王」とうたわれるようになった。川越いももむろん紅赤になり、その名声はますます上った。
 昭和6年(1931)、山田いちは財団法人、富民協会から「富民賞」を贈られた。それはわが国の農業の発展に貢献した人に贈られるもので、農業関係では最高の賞だった。
 今年、平成10年(1998)は紅赤発見から100年になる。さしもの紅赤も最近は新興の「ベニアズマ」に押されて振わなくなったが、このいもほど寿命の長かったものはない。そこで山田、吉岡両家の菩提寺で、紅赤発祥の地にある廓信寺の一角に、この功績案内板を設置することになった。

  平成10(1998)年9月吉日  川越サツマイモ商品振興会 川越いも友の会 浦和市教育委員会 廓信寺

 日本でサツマイモが栽培されたのは江戸時代からで、関東地方では享保の大飢饉以降に盛んになり、長きに渡って飢饉の際の食物、主食の代用物とみなされてきました。しかし川越藩主・松平直恒が将軍徳川家治に川越地方でとれたサツマイモを献上したところ「川越いも」の名を賜り、寛政年間に「つぼ焼き」の焼芋屋が繁盛し「栗よりうまい十三里」として「川越いも」の名が広まりました。その川越地方では、いち早く紅赤をとり入れ、「川越いも」の知名度から「川越いも」といえばこの紅赤(昔ながらの金時)を指すようになりました。
 突然変異で誕生した紅赤は、栽培が非常に難しく地味を選び、関東ロームの赤土の埼玉県三芳町の三富新田しか生産地として残りませんでしたが、近年、川越市内でも栽培が復活しました。改良品種の紅あずまと比べると収穫も3割ほど少なく、収穫時期も重なるため紅赤を栽培する農家は限られますが、熱のとおりが早く食感の良い紅赤はきんとんなど正月料理に欠かせない食材であり、「富の川越いも」(商標登録)として高級ブランド野菜となっています。
 人為的な品種改良をされた品種が大半の現在のサツマイモ栽培で、紅赤の占めるシェアは僅か数パーセントに過ぎない。しかしながら、サツマイモが飢饉食から、今日のようなおやつ・菓子の材料としての「美味しい野菜」としての位置づけを獲得する事となった明治以降の品種改良において、紅赤はその端緒となった品種。そういった意味で日本農業史、食文化史においての足跡は大きい。(以上「Wikipedia」参照)

  (HPより)

ひたすら歩き続ける。

「大原陸橋」左手角に正徳4年(1714)銘の「庚申塔」。

 「東海道」では道中には様々な意匠の「常夜燈」が建っていて、道しるべの役割を果たしていました。宿内にも静岡県を中心に「秋葉神社」のもの、三重では伊勢参り、とけっこう存在していました。
 「中山道」では、まず「常夜燈」は見かけません。その代わりに「庚申塔」をよく見かけます。巣鴨、清水坂・・・。

 庚申塔(塚)は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。
 庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、庚申の日の夜、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習。
 庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった。
 庚申塔(塚)は沖縄を除く全国で分布が確認されているが、地域によって建立数に差が見られる。例えば関東地方では数多く建立されているが、日本における庚申信仰の中心的な寺社がある京都や大阪など関西では比較的に見て庚申塔の建立は少ない傾向がある。
 庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流となった。その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。
 明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。
 現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申」と彫られた石塔を全国で見ることができる。(以上「Wikipedia」参照)

そのすぐ先、左手道沿いに一本の杉が立っています。

        
                       「一本杉仇討ちの跡」。

浦和区文化の小径 一本杉の仇討ち跡

〜幕末の中山道に伝わる大事件〜

 この地は、中山道界隈で「一本杉の仇討ち」として語り継がれた事件のあった場所です。
 この事件は、万延元年(1860)常陸国鹿島津の宮沖の船中で、水戸藩藩士宮本佐一朗と讃岐丸亀藩の浪人である河西祐之助が口論のすえ斬り合いとなり、宮本佐一朗が命を落としたことに端を発します。
 河西は、この斬り合いで負傷しているところを、同じ年に起こった大老井伊直弼が桜田門外で襲撃された事件の逃亡者と疑われ、吟味を受けました。そのため、居所が宮本佐一朗の息子である宮本鹿太郎の知るところとなりました。
 鹿太郎は4年後の文久4年1月23日(1864年3月1日)に、西野里之進、西野孝太郎、武藤道之助の3人の後見人と共に、仏門に入ろうと不動岡総願寺から江戸に向かう河西を、針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごと父の仇を討ちました。
 その後、一行は針ヶ谷村名主の弥市方へ引き取られ、1月27日浦和宿にて幕府の取り調べが行われた後、小石川の水戸藩邸へ引き渡されました。事件は幕府最後の仇討ちとして、刷り物・はやり歌などで中山道界隈に広まり語り継がれていきました。
 かつて、一本杉は樹高約18m、周囲約3mといわれ、松並木の中で一際ひいでた大樹でした。また河西祐之助は観音寺(廃寺)に葬られましたが、現在は北浦和にある廓信寺で供養されています。

  平成24年  浦和区文化の小径づくり推進委員会
 
                   一本杉。

与野駅東口交差点。

 かつて、この交差点にケヤキの大木がありました。浦和宿と大宮宿の一里塚の中間地点にあり、「大原の大ケヤキ」「半里塚のケヤキ」と伝承され、北隣にある稲荷神社のご神木として村人たちに親しまれてきました。推定樹齢500年以上といわれていましたが、樹勢が衰え、倒木のおそれがあることから2010年5月に伐採されました。
 その後、「大ケヤキ」を後世に伝えるため、切り取った切り株を与野駅の改札口付近に新たに展示しているそうです。

かつてのようす(左が「東日本銀行」)。 
                             (HPより)

その代わりに松の木が2本。

 しばらく進むと、左手の視界が開け、JR線西側の高層ビル街が目に入ってきました。
             

左手の足元にはJRの線路。電車や貨物列車が行き交う。

さらに道の両側には見事なケヤキ並木。


    
大宮20景 中山道ケヤキ並木からほこすぎ橋へ
 
 北袋町1丁目を南北に走る中山道は、400㍍ほど続くケヤキ並木で、1967年の埼玉国体の時に植えられました。
 このケヤキ並木は、中山道とさいたまアリーナを結ぶ「ほこすぎ橋」あたりまで続いていて、敷きを通じて自然の素晴らしさを語りかけてくれます。・・・

「さいたま副都心駅」近くの居酒屋。杉玉が。

今回はここまで。もう少しで「大宮宿」です。
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日本橋から志村一里塚まで。その1。(旧中山道をゆく。第1日目。)

2015-12-22 22:09:54 | 旧中山道
 いよいよ今度は「中山道」の旅。旧東海道に比べると峠越えが何カ所もあったり、宿泊施設、交通機関などけっこう大変そうです。
 まずは、「碓氷峠」を目指して、といってもいつまでかかるやら・・・。

 12月16日(水)。日本橋~本郷~巣鴨~板橋~志村坂上、というコース。「志村一里塚」は、日本橋から3里目なので、12㎞かと思いきや、「国道17号線」だと「日本橋から13㎞ポスト」の先まで。
 10時過ぎに歩き始め、途中、昼飯を食べたり休憩したりで、午後3時頃までかかりました。緩やかですが、思ったよりもアップダウンのある道筋。久々なので、膝が痛くなりました。

「東海道」とは反対に、北に向かいます。 

「三越」を左手に賑やかな通り。老舗の建物も目立ちます。
                                    「かつおぶし 大和屋」。奥には「うなぎ 伊勢定」。

すぐ先には「今川橋由来碑」。
 
 今川橋が神田堀(別名神田八丁堀、龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~83)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架設されたのでその名が残りました。この橋は、日本橋から中山道に通じる重要な橋でもありました。
 神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
 昭和25年(1950)龍閑川は埋め立てられ、300年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
 左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。


1880年代。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)↓が「今川橋」。


 おなじみの「今川焼」は、今川橋付近の店で売り出されたことによる命名、らしい。

「今川焼き」。
 ・・・
 「今川焼き」の名称の由来に確たる史料はないが、今日主流とされる説に以下が挙げられる。
 江戸時代中期の安永年間、江戸市内にかつて存在した竜閑川に当地の名主今川善右衛門が架橋した「今川橋」近隣の神田側に実在した神田西今川町や神田東今川町の店が、これらの焼き菓子を発売して高い評判を呼び、後に「今川焼き」が一般名詞化して広がったとされている。(以上「Wikipedia」参照)

 以前、東西に流れ、中央区と千代田区の区界にもなっている「龍閑川」跡をたどる記録をUPしたことがあります。
 「今川橋」近辺は、2014年2月3日掲載。当時、「中山道」を横切るとは思っていませんでした。今回、「今川橋」跡を渡っていることになります。

    
   西側(JR神田駅方向)を望む。右が千代田区、左が中央区。

東方向を望む。通りの向こうの細い路地。

そのまま進むと、筋違い見附跡。中山道は左に曲がります。

 秋葉原近くの「交通博物館」は、2006年に長い歴史に幕を閉じ、2013年9月 廃駅になった旧万世橋駅と交通博物館に新しい建物が出来ました。

 ここは、鉄道マニアにとっては大変興味深いところ。鉄博(テッパク)が大宮に移ってからもまだまだ。

 中央線神田~御茶ノ水間に「万世橋駅」があったことをご存知ですか?
 1912(明治45)年に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋が歴史や記憶を活かしながら新たに生まれ変わります。
 旧万世橋駅や交通博物館時代と変わらない、連続するレンガアーチの美しさと力強さが特徴的なマーチエキュート神田万世橋

・・・
 階段、壁面、プラットホームなどの遺構がよみがえった空間の中に知的好奇心を掻き立てるような趣味性、嗜好性の高いショップやカフェが並ぶこれまでにない商業施設の誕生です。
 旧万世橋駅と神田界隈は、文化人から大衆までが集い人々が垣根を越えて分け隔てなく交流する場でした。
 文化性を求める人たちが語らう往時のサロンのように、日本の「今から」の価値を発信し、街のムードやにぎわいを創出する“周辺エリア活性型商業施設”です。

 1912 (明治45)年初代駅舎。
 1912(明治45)年、中央線の昌平橋〜万世橋間が開通し、万世橋駅は東京市電(路面電車)の乗換ターミナルとして栄えました。駅周辺エリア(神田須田町)は銀座と並ぶほどの繁華街へと成長し、神田須田町周辺は、銀座と並ぶほどのにぎわいを見せます。1919(大正8)年、中央線が東京駅に開通し、万世橋駅は中間駅となります。
 1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、初代駅舎は焼失してしまいます。残存した基礎を利用し平屋建ての2代目駅舎が1925(大正14)年に完成しました。しかし、須田町交差点が移転し、駅前は裏通りになってしまいます。
 1936(昭和11)年には、鉄道博物館(後の交通博物館)が併設されました。万世橋駅は大きな駅舎を鉄道博物館に譲り、大幅に縮小されました。そして1943(昭和18)年、太平洋戦争激化の中、乗降客減少に伴い、万世橋駅は休止となりました。
 鉄道博物館は、1948(昭和23)年にその名を交通博物館と改め、70年の長きにわたり、鉄道ファンや子供の夢をはぐくみ続けました。施設老朽化などの理由で閉館が決定し、鉄道博物館として埼玉県さいたま市で再出発をすることになりました。

 旧万世橋駅の開業時に作られたホーム部分を『2013プラットホーム』として整備、デッキとしてよみがえりました。高架橋にある旧万世橋駅のふたつの階段を通り、線路階にあるホームに上り、実際に駅構内を歩く気分で回遊できます。ホームではガラスに囲まれた展望カフェデッキが待っています。 中央線がすぐ両脇を行き交う、特別な空間です。

【1912階段】
 1912(明治45)年の駅開業時に造られた階段。1936(昭和11)年の鉄道博物館(後の交通博物館)時代には、ホームから博物館に直接入館できる特別来館口として利用されました。駅休止以来、初の公開となります。

【1935階段】
 鉄道博物館(後の交通博物館)の新館が建設されることとなり、新たに1935(昭和10)年に設置された階段。駅休止まで使用され、2006(平成18)年に限定公開されて以来の一般公開となります。

(以上、HPより)

 というわけです。見学は次回に。

そこに掲示されている「江戸城筋違御門」の写真。
                                         この付近にあったものです。

JR沿いに進むと、「昌平橋」。カモメが3羽。

 橋のたもとの解説板。

    

昌平橋
 昌平橋の架設はきわめて古く、寛永年間(1624年 - 1645年)と伝えられています。この橋は「一口橋(芋洗橋)、相生橋などと呼ばれたこともあります。一口橋の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷神社(今の太田姫稲荷神社)があり、それにちなんで呼ばれていました。
 『御府内備考』には、「筋違の西の方にて神田川に架す。元禄の江戸図には「相生橋」とあり、(湯島)聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付け給ひしなり。或人の日記に元禄四年二月二日、筋違橋より西の方を、今より後昌平橋と唱ふべしよし仰せ下されけり、是までは相生橋、また芋洗橋など呼びしと云々」とかかれています。すなわち、元禄四年年(1691年)将軍綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と改名させられました。明治維新後に相生橋と改められましたが、明治六年(1873)に大洪水で落橋、同三二年(1899)再築してまた昌平橋と復しました。
 現在の橋は昭和三年(1928)年12月8日に架設されたものです。

神田旅籠町
 この周辺は、かつて神田旅籠町(かんだはたごちょう)と呼ばれていました。
 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
 しかし、天和二年(1682年)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694年)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869年)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目と改称されました。
 さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。「諸問屋名前帳」によれば、嘉永(1848年~1854年)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。


 「神田明神下」の交差点を左折し、湯島への坂を上ります。

「(日本橋まで)2㎞」ポスト。

イチョウ並木。左は湯島聖堂。

右手に「神田明神」、門前の甘酒茶屋「天野(堅)屋」。

 神田明神の裏手に回ると、古い建物が。「神田の家」。遠藤家旧店舗・住宅主屋」。神田鎌倉河岸の江戸時代から続く材木商の店舗兼住宅。
 1927(昭和2)年に建てられた店舗兼住宅。江戸時代の雰囲気も残し、材木問屋だけあって、木材もなかなかいいものが使われているようです。「カフェ井政」としても営業中。

    

 先代の家主である遠藤達藏は、神田明神の氏子責任総代と、将門塚保存会の会長を務め、生涯をかけて平将門を崇敬した人物である。その為、土間には「将門」と書かれた色紙がかかっており、庭には平将門の娘滝夜叉姫とゆかりの深い蛙の置物が多数置いてある。また、京都の京都 神田明神の建立に尽力し、平成22年(2010年)より一般公開している。

(以上「Wikipedia」参照)

 上にもある通り、神田明神と平将門とは密接な関連があります。

 承平5年(935年)に「平将門の乱」を起こし、て敗死した平将門の首が神田明神の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けました。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に神田明神の相殿神とされました。 
 江戸時代、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年に現在地へ遷座し、江戸総鎮守として尊崇されました。
 江戸時代には「神田明神」と名乗っていましたが、明治に入って「神田神社」と改められました。
 明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請されました。平将門神霊は昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰しました。
 神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけないというタブーが伝えられています。これは朝廷に対して叛乱を起した平将門を討伐するため、僧・寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ乱の鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた、即ち、新勝寺参拝は将門を苦しめる事となるためです。
 将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮める「御霊信仰」と密接に関わっています。江戸時代以前、関東地方で「明神」と名のる社は将門を祀ってあったそうです。

(以上、「Wikipedia」参照)

御霊信仰(ごりょうしんこう)とは?
 人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰のこと。政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方から、平安期に御霊信仰というものが現れるようになる。
 この「神田明神」=平将門と並んで、「北野天満宮(「天神様」)=菅原道真が有名。

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日本橋から志村一里塚まで。その2。(旧中山道をゆく。第1日目。)

2015-12-21 21:22:24 | 旧中山道
 「甘酒茶屋」の脇の路地が「旧中山道」。表示があります。1880年代の地図を見ると、「湯島聖堂」の敷地をコの字型に迂回しています。

この道筋。突き当たりを左折し、「17号」に合流。

「17号」に出て右手にある「済生学舎と野口英世」。

 済生学舎は、医学者長谷川泰(1842~1919)が「済生」(広く民衆の病苦を済う)の理念のもと、医術開業試験の予備教育を目的として、明治9年(1876)4月9日に現本郷2丁目5の地に創設された。明治12年学舎は火災により焼失したが、仮校舎の時期を経た後、明治15年長谷川泰の自宅を含めたここ東京ガーデンパレスの地に済生学舎は再建された。
 『志を得ざれば、再び此の地をふまず』と野口英世が医学の志をたて故郷会津を後にしたのは明治29年(1896)9月、英世19歳の時であった。上京して現湯島1丁目10あたりに下宿し、早くも10月に内務省医術開業試験前期に合格した。
 その後、港区伊皿子にあった高山歯科医学院の学僕となった。明治29年11月医術開業試験後期準備のために済生学舎に入学。下宿先を旧本郷区にあった大成館に移した。明治30年秋の後期試験に打診法の実技が含まれていたため、英世は東京帝国大学の外科教授近藤次繁博士により左手の手術を受けている。晴れて医術開業試験後期に合格した英世は、11月湯島の順天堂医院に入り、同医院医事研究会主事を嘱託された。その後、北里柴三郎博士の伝染病研究所や横浜検疫所勤務を経てアメリカへと旅立った。
 文京は、野口英世が世界に雄飛する原点の地である。

 文京区教育委員会   平成17年3月

 ここで、「野口英世」関連の解説板にあうとは思いませんでした。「済生学舎」は後の日本医大などに引き継がれていったようです。通りの向かいは、「東京医科歯科大」のキャンパス。

イチョウ並木を行く。

「春日通り」との交差点角には、「かねやす」。
                 「本郷も かねやすまでは 江戸の内」とうたわれた「かねやす」も健在です。

渡ったところから振り返る。右手のビルが「かねやす」。

右手に「東大 赤門」。

 現在の東大本郷キャンパスの敷地は、「加賀百万石」と言われた大大名・前田利家を祖にする「加賀藩」前田家の上屋敷で、赤門は前田家上屋敷の正門でした。約10万4千坪の広さ。
 1827年(文政10年)加賀藩13代藩主前田斉泰は、11代将軍徳川家斉の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎えるに当たり、慣例にしたがい、朱塗りの門を創建しました。当時、三位以上の大名が将軍家から妻を迎えた場合、その人、居所を御守殿と称し、表通りからその場所へ出入りする朱塗りの門を御守殿門と呼びました。国の重要文化財に指定されています。
 また、板橋区にある「加賀公園」。この公園は「加賀藩前田家下屋敷」があった場所の一角にあります。そこには、「金沢」とか「加賀」という地名や校名が残っています。
 駒場にも下屋敷があり、それが東大の駒場キャンパスとなった、らしいです。



1880年代の地図(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 赤門付近のようす。○が現在の「三四郎池」。→が一葉ゆかりの「法真寺」。

左手に「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」。

 樋口一葉 (1872~1896 ) の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。
「上杉の隣家 (となり) は何宗かの御梵刹 ( おんてら )さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方 (こなた) の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」
 文中の御梵刹がこの浄土宗法真寺 (ほうしんじ) で、この濡れ仏は、現在、本堂横に安置されている観音様である。こなたの二階とは、境内すぐ東隣にあった一葉の家である。
 樋口家は明治9年 (1876) 4月、この地に移り住み、明治14年までの5年間 (一葉4歳~9歳 ) 住んだ。一葉家にとっても最も豊かで安定していた時代であった。
 一葉は明治29年11月23日、旧丸山福山町(現西片1-17-8) で短いが輝かしい生涯を閉じた。
その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。「桜木の宿」は法真寺に向かって左手にあった。

 文京区教育委員会  平成13年3月

「(日本橋から)4㎞」ポスト。

東大キャンパス方向を望む。

 交差点を渡って、その先を左折します。交通標識あり。

    

角に「高崎屋」さん(1751年創業)。

その脇に「追分一里塚跡」解説板。

追分一里塚跡 (区指定史跡)
 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。

 文京区教育委員会  平成7年3月

 ちょうど碑の建っている場所が、喫煙コーナーになっていて、サラリーマン二人が御用聞きの途中でしょうか、談笑しながら一服吸っていました。現代の一里塚という機能?

そこから中山道(「「国道17号」)を望む。

向かいには、「旧森川町」解説板。

旧森川町
 江戸時代は森川宿と称した。明治5年に藩主本多氏の敷地と千手組屋敷と併せ、森川宿から森川町と名付けた。
 千手組頭は森川金右衛門で、中山道の警備にあたった。森川宿は、馬建場で人馬の休む所であった。
 町内には、徳田秋声などの文人が多く住んだ。

 文京区


○が「追分」。

 ここから「白山」に向かって進みます。古い家並みも所々に。

    

来た道を振り返る。

「白山上」交差点を突っ切り、東洋大学方向へ。

    
                                    地下鉄「千石駅」付近で広い「白山通り」に合流。

中山道(国道17号線)を振り返る。

 格段に広くなった「国道17号線」を巣鴨駅前から通りを渡って、有名な「巣鴨地蔵通り商店街」へ。その前に「昼食休憩」。
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信じる者はいない。が、信じる者には未来が、信じない者には・・・

2015-12-20 00:26:48 | 平和
安倍首相と橋下氏が会談=憲法改正など議論か

 「慰労会」などということを真に受ける者は一人もいない。政治家が政治家を辞めた人間を慰労するはずはない。まして、首相が一介の野の人を・・・。菅も松井も一緒で、3時間半。

 公明党は、心中、穏やかではないはず。アベが橋下に乗り換えて、自分たちが切られたら堪らない。これで、ますます自民党から離れられなくなって、創価学会は、自民党の最大集票組織に。

 アベ達(特に策士・菅)は、ほくそ笑んでいる。必ず自分たちに投票してくれる(手堅く票を差し出し、「安保」でも「改憲」でも通り一遍の文句は言っても、結局、付いてくる)連中と、ちょっと手強い素人集団ではあるが、民主・共産などの追い落としに必死になるに違いない連中と、両者を手中にした(手駒にした)。どちらもアベと同じ、根っからの強烈な「反共」主義者だから。

 衆参で圧倒的多数を占めることが可能に。おそらく衆参同時選挙に持ち込んでいくことに。そうすれば、大阪の同時選挙と同じで投票率は下がり、三者の思うつぼになるにちがいない。

 いったい日本の政治、いや未来はどうなるのか? 暗澹たる気持ちになってしまう。何とかしなければ、・・・   
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日本橋から志村一里塚まで。その3。(旧中山道をゆく。第1日目。)

2015-12-19 21:30:58 | 旧中山道
 午後からの旅。
JR巣鴨駅前の広い「17号線」を渡り、「巣鴨地蔵通り」へ。この道が旧中山道だったとは今の今まで知りませんでした。賑やかな商店街。けっこう思ったよりも長く続いて、どのお店も人だかり。さすがジジババの原宿通り。圧倒されそうな雰囲気です。
 とあるレコード店の店先では演歌歌手が歌を披露、立ち止まり聞く人、たくさん。記念写真を撮ったり、握手をしたり、・・・。終わったとたん、ぱたぱたと片付け。その手際の良さに、またまた感心!

 先を見ても後ろを振り返っても、人、人、人。撮影もままなりません。

右手が「とげ抜き地蔵」。

 ジジババばかりでなく、若いカップルや子連れの夫婦など、若いサラリーマンなどけっこう多種多様。たしかにすこぶる「元気」な商店街、という趣。お茶屋さん、佃煮屋さん、衣料品などお店も古くからのものや今どきはやりのお店など、これまた多種多様。



左上から続く(HPより)。

 入口の「眞性寺」(江戸六地蔵の一つ)から「高岩寺」(とげ抜き地蔵)そして「庚申塚」(猿田彦)までの「商店街」でした。

「庚申塚」。 

通りを渡ったところから振り返る。

都電・荒川線を越えます。

    
「庚申塚商店街」。                               街道筋らしい家屋。

 「大正大学」を横目で見て進み、「明治通り」との交差点を渡ったところにある「千川上水分配堰碑」。

            

千川上水分配堰碑
 正面に「千川上水分配堰」(せんかわじょうすいぶんぱいぜき)とあるこの碑は明治15年(1882)7月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口(ひぐち)の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治42年3月として、樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより取水量 が定められていたことがわかります。
 千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水された上水で、左(南)側の道路が今は暗渠(あんきょ)となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は、慶応元年(1865)11月、飛鳥山 の西側(滝野川2-6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開鑿(かいさく)されたものです。
 明治時代になると分水路は、石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の二十三ヶ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙(しょうし) 会社・大蔵省紙幣寮抄紙局(おおくらしょうしへいりょうしょうしきょく)の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され、多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守(じゅんしゅ)するために、碑をここに設置しました。

 平成6年3月  東京都北区教育委員会 

 「千川上水」は、玉川上水の流路上、東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近にある境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)に分水口があり、ここから豊島区西巣鴨まで、武蔵野台地上をほぼ東西に流れていました。

    
         武蔵境・境橋。ここから始まります。(「千川上水」については2011/7/09に掲載。)

交差点名「堀割」(↓)。

 ここから文京区から北区となります。

      

  右手には、この前、TV番組で石原良純さんが紹介していた「亀の子束子(たわし) 西尾商店」。

ごあいさつ

我々は束子の元祖です

弊社は明治40年に、初代社長西尾正左衛門のアイデアから生まれた「たわし」の販売を始め、以来この亀の子束子を中心に多くの洗浄用品、日用雑貨をを全国の家庭にお届けし「より快適な生活を提供する」ことを目的に品質の安定向上、新製品の開発に努めてきました。

The originator of tawashi
From 1907, the first president, Nishio Shozaemon, create and bring out the "tawashi" to the market. From then, we have offered many cleaning products to the Japanese household. Having the wish of offering the more comfortable lifestyle, we are keep going on with making better products with the best qualities.

亀の子束子が日本のたわし

亀の子束子は愚直に品質を守り続けてきました。そしてこれからも守り続けます。それは、この品質こそが100年以上の長きに渡り我々の製品をご愛顧頂き続けている理由だと信じているからです。亀の子束子が「たわし」の基準(スタンダード)であるべく、これからも長くご愛顧頂ける製品作りを続けてまいります。

Kamenoko tawashi = Tawashi of Japan
Kamenoko-tawashi has been kept the quality to the best, and we will continue to do so. We believe that this is the reason why the customers keep choosing our products more than 100 years. We will do our best and to keep Kamenoko tawashi as a "standard" of tawashi.

株式会社亀の子束子西尾商店
代表取締役 西尾 智浩
                     

(「西尾商店」HPより)

「旧中山道 ふれあいの街 滝野川銀座商店街」。

JR埼京線の踏切を越えると「板橋宿」へ。
                                                 北区から板橋区。

この手前に「平尾一里塚」(日本橋から2里目)があったはずですが、未確認。
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日本橋から志村一里塚まで。その4。(旧中山道をゆく。第1日目。)

2015-12-18 23:05:07 | 旧中山道
JR板橋駅を左に商店街を進みます。振り返って望む。右に板橋駅。

 板場宿は、江戸四宿(品川、内藤新宿、板橋、千住)の一つ。平岡宿、仲宿、本宿の3つから成り立っていました。江戸から中山道をゆく旅人はわざわざ日本橋からではなく、板橋宿から旅立ちました。そのため、大いに賑わっていたそうです。

    
 ここは板橋平尾宿
 中山道69宿の第1番宿 江戸日本橋より約2里9丁(約9キロ)駕籠や・馬借・荷駄・飛脚(問屋場)があった。

「旧中山道」という表示。

しばらく進むと「国道17号線」とぶつかる先に「板橋・平尾宿」。

賑やかな商店街に入ります。道幅は昔のままのよう。

来た道を振り返る。

 しばらく進み、案内板に従って右の路地に入ります。「板橋宿平尾町脇本陣跡」碑。

    

 板橋宿平尾脇本陣豊田家
 豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていました。天正18年(1590)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。
 文政4年(1821)、当時平尾に住んでいた俳諧師匠の加藤曳尾庵(えいびあん)は、日記風随筆『我衣』を記しました。その中に、中山道を経由して江戸での興行に向かっていたペルシャ産のラクダが、当家の奥庭に引き入れられている記事があります。曳尾庵はラクダのスケッチとともに、江戸周辺の多くの人々が、その姿を一目見ようと当家に押しかけた様子を記録しています。
 幕末から明治にかけての当主である喜平次は、煎茶道に傾倒し、「鉄蕉」の号を持つ茶人でした。そのコレクションを中心とした「脇本陣豊田家資料一括」は平成8年度に区登録有形文化財となっており、文化サロンとなっていた宿場の姿を伝えています。
1868慶応4年(1868)4月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。

 平成19年3月  板橋区教育委員会

 右手にある「観明寺」付近を境にして、「平尾宿」から「仲宿」へと移ります。その先の左手には小公園。そこには中山道69宿の表示と解説板があります。

69のうち、やっと1番目。

けっこう南北に長い宿場です。「仲宿」。

ここで、「Wikipedia」を参照しつつ「板橋宿」の概要を。

板橋宿

 中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて1番目の宿場。 同時に、川越街道(川越・児玉往還)の起点でもある。現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。
 板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川で、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。
 天保12- 15年(1841- 1844年)の『中山道宿村大概帳』によると、宿往還の長さは20町9間(約2.2km)、うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)であり、南北に広がる。宿内人口は2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)、宿内家数は573軒であった。  うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠(はたご)は総計54軒であった。 板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。 また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿が建ち並んでいた。
 江戸時代には日本橋が各主要街道の形式上の起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸四宿と呼ばれる品川宿、千住宿、内藤新宿、そして、板橋宿が機能していた。 これらの宿場には茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠(いいもり-はたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んでたいそうな賑わいを見せた。
 板橋宿は、その繁栄ぶりは中山道中有数であった。
 なお、日本橋から2里(約7.9km)の平尾宿には道中2つ目の一里塚(平尾一里塚)があったが、今は何も残されていない。


『木曾街道 板橋之驛』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆。
 画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭が建っている。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続く。その使用人は、乗っていくよう武家夫婦に声掛けすべく出茶屋から飛び出してきた駕籠かきを、巧みに遮っている。使用人の体の向きから察するに、おそらく3人は茶屋で一服していたのであろう。休憩後の出ばなの誘いを駕籠かきは振り切られてしまったように見える。しかし、武士の妻は声に応えてか頭の向きを変えている。駕籠かきが客をのがしたかどうかはまだ分からない。茶屋の中には客の町人2人がいて、榎(えのき)の陰に隠れて見えないが、飲み食いしているはずである。また、店先では馬子が馬のための草鞋を取り替えている。

商店街の一角に。    

板橋宿本陣 飯田新左衛門家
 本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半 (約10キロ) の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられる事は少なく、主に休息所として利用されました。その際には、藩主と江戸の家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。
 板橋宿本陣は、古くは飯田新左衛門ら数家で務めていたようです。宝永元年 (1704) 、当家は飯田本家より別家していますが、その際、世襲名「新左衛門」と本陣、問屋役を引き継いでいます。また併せて、屋敷地359坪、田畑1.5町余(約1万6000平方㎡)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家三代目新左衛門珎儀の遺言状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「御本陣家」に指定されていたことが窺えます。
 本陣は「中山道宿村大概帳」によると、建坪97坪、門構え玄関付きの建物でした。また、本陣指図からは、間口・桁口ともに12間半(22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか、御膳所や18畳の玄関などを備えていたことがわかります。他宿に比べ小振りな本陣は、宿泊に供する事が少ない板橋宿の性格を示しています。
 本陣の建物は明治23年 (1890) に火災に遇い焼失しましたが、昭和39年 (1964) 、明治期に建てられた母屋の解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は、区有形文化財に登録され、板橋宿本陣の姿を今に伝えています。

 平成23年3月   板橋区教育委員会

しばらく進むと、「板橋」。

解説板と標柱。 

板橋  
 この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市政町村制が施行されると町名になりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
 板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2㎞)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
 江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。

 平成12年3月   板橋区教育委員会

 現在は、二つの橋が連続して存在するように見えますが、これは南側に大きく回り込んでいた川を昭和47年(1972年)の河川改修で直線化して出来た橋のためです。北に約10m移動した石神井川の橋と、埋め立られて公園になった元の石神井川にかかる橋となっています。コンクリート製ですが、欄干に木目模様を施して木橋の雰囲気を出しています。
 橋の傍らには「距日本橋二里二五町三三間」「日本橋から十粁六百四十三米」と記された標柱があります。

    
 旧河川(公園になっている)。                       現在の石神井川。

    
                           振り返って望む。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」)。「板橋」と石神井川。「水車」が二ヶ所。急流のようです。
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日本橋から志村一里塚まで。その5。(旧中山道をゆく。第1日目。)

2015-12-17 23:22:15 | 旧中山道

 「板橋」を渡ると、「上宿」になります。街道筋らしい建物もちらほら。

右手に「本町にぎわい広場」という広場があって、その奥には、櫓。

さらに「上宿」の解説板。

 江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。
 板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは15町49間(約1.7㎞)でした。天保14年(1843)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、社屋寺井川にかかる板橋から現在の環状7号線あたりまでが上宿でした。
 平成14年(2002)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。

 平成14年11月   板橋区教育委員会


    
                            縁切榎
 江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に、旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして嫁入りの際には、縁が短くなる事をおそれ、その下を通らなかったといいます。
 板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年 (1861) の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎を避けるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、藍染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。
 なお、この時に榎を菰で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
 男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎ取り煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。

 平成18年3月   板橋区教育委員会

 狭い境内には、願い事(縁切りごと? )を書いた絵馬がぎっしり。女性が絵馬をくくりつけていました。その人はどうなのか分かりませんが、絵馬の内容は、離婚願望が多いらしいです。

少し進み、振り返って望む。左手が「縁切榎」。

「環七」方向を越えて振り返る。

しばらく商店街が続く。

「国道17号線」に合流。振り返って望む。

 しばらく国道沿いに進みます。右手に古風な店構え。
「中仙酒場 串屋さぶろく」さん。

車の往来の激しい通りの向こうには、

「(日本橋まで)13㎞」ポスト。
 
 少し進むと、年季の入った建物の向こうに「志村一里塚」が見えてきます。

    

西側の一里塚。

    
 東側の塚。                            西側の塚。


             
                 志村一里塚

 江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として1里(4km弱)ごとに、道を挟んで2基ずつ築かれました。
 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の「新編武蔵風土起稿」では「中山道往復の左右にあり」と紹介されています。
 幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀(はいき)を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に到っています。
 今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の2ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。

 平成17年3月    板橋区教育委員会

 「一里塚」に隣接して建っている建物は「齋藤商店」。魅力的な建物です。解説板によると、

齋藤商店
 齋藤商店は、欅を主に扱う原木商として 明治22年(1889)に当地で創業しました。現在は 竹材を主とし、箒や笊などの竹製品も商っています。
 現在の建物は、昭和8年(1933)の中山道(現国道17号線)の拡幅工事に伴って新築されたものです。・・・齋藤商店は、郊外の独立住宅の趣を呈する区を代表する近代和風建築であり、近接する志村一里塚(昭和11年国史跡)と一体化した町のランドマークとしても親しまれています。また、平成4年には「活き粋いたばしまちなみ景観賞」にも選ばれています。・・・

    

 今回はここまで。都営三田線「志村坂上」駅から戻りました。
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「通し狂言 東海道四谷怪談」―国立劇場―(旧東海道。補足編。その2。)

2015-12-13 21:45:52 | じじばばがゆく

 歌舞伎は久しぶりなので、とても楽しみ。あなたとは久しぶりじゃないけど。「永青文庫」だって、ついこの間だし。ちょっと会いすぎって感じかも、よ。

 そうそう、「永青文庫」に行った夜、寝言だか何だか大きな声で一声叫んでいたって、家人から言われたわ。たしかにすごかったし、熱かったし、リアルだし・・・。実際に見ていると、肉筆絵の迫力ってすごかった。けっこう若い女性連れが多かったわね。

 そして、今日は歌舞伎か。でも、「旧東海道」の旅が終わって、こうして「東海道四谷怪談」って趣向もなかなかいいわよね。
 あなたもよく考えているわ。誘ってくれてありがとう。

 この席、花道も舞台もよく見えるし、いい席でよかったわ。

 松本幸四郎と市川染五郎か。興味深い組み合わせね。

 花道で、作者の南北さんが口上を言っているわね。あらやだ、染五郎じゃない。さっそく登場。なるほど、四谷怪談と赤穂浪士の関わりを、へえ、ご親切にね。

 そうよね。それでも、なんで「四谷怪談」に「東海道」って付いているかしらね。舞台は江戸の土地が出てくるだけだし、最後の討ち入りの場面は鎌倉になっているけど、「東海道」とは直接、関係ないし、・・・。家に帰ってから調べてみるわ。

 さて、始まり、始まり。ストーリーは何となくわかるけど、イヤホン・ガイドを頼りに。

通し狂言東海道四谷怪談 三幕十一場

発 端   鎌倉足利館門前の場
序 幕
 第一場  浅草観世音額堂の場
 第二場  浅草田圃地蔵前の場
 第三場  同   裏田圃の場 

二幕目
 第一場  雑司ヶ谷四谷町民谷伊右衛門浪宅の場
 第二場  同        伊藤喜兵衛宅の場
 第三場  元の伊右衛門浪宅の場

大 詰
 第一場  本所砂村隠亡堀の場
 第二場  深川寺町小汐田又之丞隠れ家の場
 第三場  本所蛇山庵室の場
 第四場  鎌倉高師直館夜討の場

 12時開演で、16時45分終演。間に35分と20分の休憩があるけれど、役者さんもお疲れ様です。

 前に歌舞伎座で観たときと、発端と大詰めの第四場が加わって、第二場もそうかな。「仮名手本忠臣蔵」との関連付けしているようだわ。たしかに夏の納涼歌舞伎でドロドロと幽霊話じゃ、冬のことだし、ふさわしくない。まして、今月は討ち入りの月だしね。

 でも、最後のにぎやかな立ち回り、エイエイオー、首尾を成し遂げて見事じゃ! ではそれまでの「怪談」が「快談」になってそぐわない感じがしちゃう。まして、さっきまでお岩さんでおどろおどろしかった染五郎が大星由良之助で出てきて、お岩さんの亡霊に翻弄され、あげくはてに殺された民谷伊右衛門が、でかした!あっぱれ、あっぱれ! の幸四郎じゃねえ。年末の歌舞伎らしい面白さではあるけれども。それまでの、ヒュー、ドロドロがすっかりあせてしまったわよ。

 悪口ついでにいうと、幸四郎はふさわしくない役柄だったじゃない。どうみてもあの顔のでかさと押しの強さ。あんな男に一目惚れしたあげく、孫かわいさの祖父に悪事を働かせる、なんてよほどのことじゃない、と。
 染五郎は頑張っていたね。さすがだわ。個人的には、板東新悟が気に入った。

 「四谷怪談」の見せ場は、何回観てもよく出来た趣向で、感心します。

 髪梳きの場面。毒薬によって顔が醜くなったお岩さんが、鉄漿(おはぐろ)を塗り、櫛で髪を梳いていくけれど、髪が梳かれるたびに抜け落ちていく。この時のうなるように声を引き絞った「独吟」はお岩の裏切られた悲しみ、恨みを切々と表現していて、客席も真っ暗の中、本当に引き込まれていったわ。この場面での染五郎の発声もすばらしかったわ。
 髪をとかしながら、顔を上げて鏡を見上げる仕草、次第に変わる形相・・・、あそこまでのすごみが出せる、ってすごいわよね。

 「堀の場」での「戸板返し」のところも面白い。
 釣り糸を垂れる伊右衛門の前に流れついた戸板にはお岩さんと小平の死体が表裏に打ち付けられているのよね。この二役を染五郎が演じる。戸板を裏返すと同時に早替りに。どういう仕掛けなのかしらね。

 余談だけど、「江戸川」(神田川)に流したはずの、二人の死骸を打ち付けた戸板が「隅田川」に下り、それがどうして上流の「小名木川」に入って、砂町の堀に流れ着いたのかしらね。不思議だわ。

 それから、「蛇山庵室の場」で、お岩の幽霊が燃えさかる提燈から登場する「提灯抜け」。本火が消えるか消えないかのうちに出てくる(それも宙づり)し、そのすぐ後に「南無・・・」の掛け軸に人を引き入れる「仏壇返し」という仕掛けも面白かった。客席から悲鳴が上がるのもご愛敬だったわね。

 そこで、どうして「東海道」という名が付されているのか、ってことだけど・・・。

 この作品の登場人物のうち、多くは『仮名手本忠臣蔵』の世界と関係しているわよね。伊右衛門やお岩の父四谷左門などが、塩冶家の浪人(浅野家の浪人)という設定で、一方、伊藤家は高師直(吉良家)につながっている・・・
 殿中での刃傷沙汰により塩冶家は断絶し、家来たちは浪人を余儀なくされ、ある者は商人に身をやつし、ある者は物乞いになって、女の中には夜鷹となって、江戸の街で生活せざるをえない。中には仇討ちの本意を失っていく男の姿、そうした中での葛藤、陰謀、犯罪、裏切り、恨み、嘆き、復讐、・・・っていうところかしら。

 そのへんは表狂言「仮名手本忠臣蔵」の世界と重なっている。だからといって、「四谷怪談」と「東海道」が結びつくのはちょっと納得がいかないけれど。

 「東海道四谷怪談」(白水社)の解説で、

 この作の上演方法は、第1日目に「仮名手本忠臣蔵」の5段目、すなわち山崎街道の場、6段目に同じく山崎街道与市兵衛宅の場のあと、2番目の「東海道四谷怪談」がはじまることになる。・・・こうしてみると、「仮名手本忠臣蔵」の山崎街道と対比させて、関東の怪談の意味でつけたもののようにうけとれる。

 という指摘があるわ。

 でも、当時評判になっていた、弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」の「東海道」にあやかったんじゃないかしらね。今でもそうじゃない、流行したフレーズを利用して、商品の宣伝にしたりするってよくあるから。

 そうそう、「四谷怪談」の大詰め、伊右衛門が討たれる場面で雪が降りはじめ、引き続き「忠臣蔵」の討ち入りの場につながっていくから、「四谷怪談」と「忠臣蔵」とは大いに関連があるよね。
 今回、特にそのまま舞台を転換して、大詰・最後の場として雪振りしきる中での討ち入りと、見事、首尾を果たして雪が止んだ朝のすがすがしさを持ってきていたから、つながりがよりはっきりした印象だったわ。

 ホント、今日は一日、楽しかったわ。
 それではよいお年を! また、お会いしましょう! 

 上州の山奥の温泉? ふ~ん、ま、心の片隅に入れておくわ。

                  
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吉原左富士。(旧東海道。補足編。)

2015-12-12 19:54:15 | 旧東海道

 先日。快晴のもと富士山がよく望める、そんな日に、富士宮に出かけた帰り。
 東海道を歩いていたときには、残念ながら左富士が見えなかったので、車で寄ってみました。JR吉原駅の南口から少し東に向かい、踏切を通過。この道は旧東海道。歩いた時を思い出しながら今回は、車で。

「吉原宿」は当初現在のJR吉原駅の東付近にあった「元吉原」が、1639年(寛永16年)の津波により壊滅的な被害を受けたことから、内陸部の依田橋付近に移転(「中吉原」)。
 しかし、1680年(延宝8年)8月6日の津波により再び壊滅的な被害を受け、更に内陸部の現在の吉原本町にあたる「新吉原」に移転。つごう、3回宿場が移りました。
 このため、海沿いを通っていた「東海道」は元吉原宿(JR吉原駅付近)の先で海から離れ、大きく右に曲がることになり、それまで(江戸から京に向かった場合)右手に見えていた富士山がそのところで一瞬、左手に見えることから、「左富士」と呼ばれる景勝地となりました。
 東海道には二ヶ所あり、ここと茅ヶ崎にある「南湖の左富士」。

 大通りに合流し、国道1号線と新幹線の高架下にある「依田橋西交差点」を右奥の方に曲がると、いよいよ「左富士」の地へ。

交差点の向こうにささやかな松並木と富士の姿。

大正期のようす(「知足美術館」HPより)
                                              かつては松並木が続いていた。

 現在は、周囲は工場等になり、数本の松が保存された「小公園」となっています。

松並木と左手に富士。
                                     建物の屋根が白いので、雪をかぶった富士山が分かりにくい。

                     てっぺんをのぞかせる富士。

別の場所からの富士。通りが旧東海道。左手に富士。

広重の浮世絵レリーフ。

 この先、東海道はすぐ「(新)吉原宿」に向かって左に曲がるため、富士山は右手に見えるようになります。

右手となる富士。



 原より3里6町。吉原の宿駅は,むかしはこれより東南にあったが,延宝8年(1608)8月6日の暴風雨のさいにながされたので,翌々天和2年に現在の地にうつされたとつたえられている。このあたりに一カ所左に富士が見える場所がある。東海道を西に上るさい,富士はつねに右側に見えるのであるが,このあたりで道が大きく右折し,そのため富士が左に見える。左富士といってとくに興味をもたれたのである。図はそれをしめしている。美しい松並木をこどもをのせたウマが尻を見せていく。
 (「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)

 「吉原宿」の中央通りを抜けて、帰途に。一瞬の「左富士」でした。

 さて、「東名」に入って最初は順調でしたが、途中、渋滞情報が。そのうち×に。交通情報でも「通行止め」のアナウンス。中井PAで確認したらたしかに海老名から先は通行止め。で、厚木から「圏央道」に回って「八王子IC]から「中央」へ、とぐるっと回るはめに。夕方から人に会う約束だったので、時間が心配でしたが、何とか間に合った!

 こちらのカーナビ。そんな古くもないのに、「圏央道」が開通しない前のもの。この先料金所、とかこの先を右折とか、指示が頻繁。何しろ画面上では道なき道を進んでいるのだから、ナビの方もどうしようもありません。
 やっと「中央道」に入ってナビも「軽やかな」案内になりました。というハプニングもありました。このところ、新規の開通とかで刻々と道路状態が変わっています。ナビの更新をしないと。・・・

 「大和トンネル」内で死亡事故があったとか、帰宅して知りました。12月8日のことでした。
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