おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

辺野古座り込み支援。その2。 (付)Huckleberry Books。

2019-06-28 20:21:55 | じじばばがゆく
                           テントサイトで。右上は、辺野古新基地の予定図。
 連日の監視体制のためのテント小屋が並んでいます。
                         
 
             そこでの連帯の挨拶。

カンパを差し上げます。

この方は、2年前に亡くなった奥さんの強い辺野古への思いを志として差し上げます。
                



                        

大音量で右翼の街宣車が登場。機動隊員が規制に走ります。

                           
                             「機動隊は我々の行動を妨害するな! 」と叫ぶ。
 昼過ぎにも何台ものコンクリートミキサー車が搬入口前へ。
今度は一般車を誘導し、渋滞はない。

 座り込みを排除し、基地内から登場した大型の散水車が丁寧に水をまき、トラックが基地内へ。警備員は直立不動の姿勢を堅持。見事な統制ぶり。
            

 

                         

                

 翌26日。
 熱帯低気圧の接近で、激しい暴風雨。昨夜のニュースで「熱帯低気圧が発生」とありました。すると、もう朝から猛烈な雨風。
 東京辺りでは「やってくるのは、明後日か明明後日くらいになるかな」という感覚ですが、ここでは、即!
 それでも、「雨にも負けず」と搬入ゲート前に来ましたが。
 ちゃちなレインコートではまったくしのげず、ずぶ濡れ、足下もすぐ水浸し。道路が滝のようになってしまうそうな勢い。


           この時間くらいはまだ何とか写真も撮れましたが。

建設業者の大型トラックもやってきます。この雨で少し少ないか? 何しろ大荒れの海での護岸工事です。土石の積み出しも中止になったとか。
 
 
 すでに土砂災害の情報も。機動隊員も各地での災害対策で少なくなっています。地元の方達も場所によっては避難勧告が出たとかで早々に解散。
 

                 

 というわけで、こちらも撤収。挨拶もそこそこに、那覇空港に向かいます。
 台風などの自然災害が相次ぐ中、それでもあきらめず、地道に反対運動を行っている地元の方々に、申し訳なさとその粘り強さに感動しつつ。

 途中、高速道路も猛烈な雨風で速度50㎞制限。名護から那覇。北から南への移動中、台風(熱帯低気圧)を通り過ごしたのか、那覇空港では雨風も静かになりました。
 東京では台風は南西から北東へ、という感覚ですが、沖縄では南から北へ、という印象。
 最終日は、慌ただしいまま(不完全燃焼のまま)で終わりました。

(「」より)
 
 
                    4年前の建設予定地のようす(対岸から)。
            そして・・・

 政府の強引な既成事実の積み重ねで、辺野古の状況はますます厳しくなっているようです。
 これは本土でも同じでしょう。横田しかり、秋田しかり、山口しかり(イージス・アショア問題で、秋田県知事に「イージス引き受けないのは非国民」との批判が県内外からあった、と)・・・。
 ついに国の政策、とりわけ米軍のための基地建設に逆らう者は、「非国民」扱いとされる時代。「反米愛国」ではなくして、「親米こそ愛国」だとゆがんだ形になっています。米軍が日本を守ってくれる、それに応分の負担、米軍と自衛隊の一体化、そして共に戦争を行う国造り、それを目指しての国民教育、・・・。今や戦前の様相を呈しているのでは、と。

 地図上で、沖縄・那覇を中心として同心円を描くと、1,000㎞エリアには、南は台湾、北は九州。
 2,000㎞エリアに北京や北朝鮮、フィリピンはすっぽりおさまりますが、日本は青森まで。北海道はかすりもしません。沖縄の米軍が日本を守ってくれる、というのも儚い幻想にすぎないようです。
 3,000㎞エリアでは北は樺太から南はタイ、カンボジアまですっぽり覆われます。4,000㎞になったらミャンマー、マレーシア、インドネシア、・・・。
 けっして米軍の、自衛隊の守備範囲(防衛範囲)を広げよ、ということではありません。

 かつて琉球人の海は、東北へは1,000㎞、西南には4,000㎞へと広がっていたそうです。

 今、観光客が1,000万人も訪れる沖縄。名護のホテルでも外国人観光客が大勢いました。海、森・・・本土では失われつつある豊かな自然とあたたかい人の心を大事にする、観光立県としての貴重な存在。
 そして、東南アジア、中国へと広がる海外貿易、さらに人と人との(異)文化交流などを基軸としての存在価値。沖縄の地理的条件は、ますます重要視されていくはずです。
 それには、基地のない、基地に依存しない、平和な「クニ」づくりを、と。それに向けて何かできるか? 何が手助けできるか? そんな問いかけを自らに課した3日間でした。
 遠く北海道から来た若い女性達、兵庫からもおばさん達、毎週のようにやってくる東京の不動産屋の社長さん、沖縄平和行進を実践している「日本山妙法寺」の若い僧侶、弟子、・・・。
 歌あり、励ましあり、笑いあり、涙あり、・・・。それぞれがさまざまな想いを持ち帰った、と思います。

――――

 今回のツアー。同行した方の中に、25年ぶりくらいにお会いした方が(かつての同僚)。定年前に辞めて地元で子供向けの本屋さんを開いている、とか。
                          

 ちょっと前の記事ですが。

柏の児童書専門店「ハックルベリーブックス」―心に響く1冊が見つかるお店 (011/04/02)
2010年10月、柏に素敵な児童書専門店がオープンしました。
柏郵便局のすぐ近くに所在する「ハックルベリーブックス」です。
扉を開くと、木のぬくもりを感じさせる店内に、様々な児童書や可愛い雑貨が並んでいるのが目に入ります。
店長の奥山恵さんは、20年以上、高校教師をしながら児童書専門店の構想を徐々に固めていったとのこと。
柏生まれで柏育ちの奥山さんは、住み慣れた柏ならば土地勘もあるので安心と考え、この場所にお店を開くことに決めたそうです。

備え付けの本棚やカウンターは、奥山さんのお父様が数年かけて手作りなさったそうです。
奥山さんが児童文学に関心を寄せるようになったのは大学時代でした。
卒業論文で冒険物語をテーマとして研究した際、『ゲド戦記』・『クローディアの秘密』・『はてしない物語』など外国の作品を参考にしつつ、日本の冒険物語について考察なさいました。
また、当時、都内に「クレヨンハウス」や「童話屋」など、児童書専門店がオープンして話題になったこともあり、漠然と「将来は自分もお店を開きたいな」と考えるようになったとのこと。

大学を卒業して、高校教師になってからも、児童文学の研究をずっと続けてこられたそうです。
児童文学の中で、奥山さんが特に好きなジャンルについて伺うと、次のように答えてくださいました。

「主人公が成長して、変化していく姿が描かれている作品が特に好きです。
ファンタジー や伝記などもそうですが、子どもが成長していく中で、様々なことを発見したり、誰かと関係を築いていったり、そういう要素が入っている作品が好きなんです」

店名の由来にもなっている『ハックルベリー・フィンの冒険』も、主人公のハックルベリーが旅を通して色々な人と出会い、成長していく姿が描かれています。

また、奥山さんが教師をなさっていた1980~1990年代には、社会的に子どもが抱える問題を扱った作品が多く発表され、それらを読むことで、生徒たちを理解するのに役立ったそうです。
お話を伺っていて、あたたかなまなざしで、生徒や作品の主人公たちの成長を見守る奥山さんの姿が目に浮かびました。
・・・
オープンして半年のハックルベリーブックスですが、リピーターは着々と増えています。
何度か来店したお客さんとは、話をするうちに好みがわかるようになり、本を取り置きしておいて喜ばれることもあるそうです。
また、お孫さんへのプレゼントについて相談するお祖父ちゃん・お祖母ちゃんも多いとか。

東日本大震災の後に、再度お店を訪れた時も、店内にはたくさんのお客さんがいらっしゃいました。
地震後も、いつもと変わらないお店の様子に安心された方々も多かったのでしょう。
赤ちゃんを連れたお母さんが、「ここに来ると、ホッとします」とおっしゃったのが嬉しかったと奥山さんは話してくださいました。

ハックルベリーブックスは、2階にレンタルスペースを設けているのも特色です。
雑貨作り・ヨガ・ベビーマッサージ・ミーティング・朗読会など、様々なことで利用されています。

イベントスケジュールなど詳細については、お店のHPをご参照下さい。

今後の目標について伺ったところ、まず、「フェアを充実させること」を挙げた奥山さん。
今は季節ごとにフェアを開催していますが、今後は2階のレンタルスペースとも連動させる計画があるそうです。

そして、もうひとつの目標は、小中高生向けにブックトークなどを行って、その世代に読書の楽しさを伝えたいとのこと。
ハックルベリーブックスでは、優れた<読み物>も揃えているので、ぜひとも小中高生に手にとって読んで欲しいと奥山さんは願っています。

長年にわたって児童文学の研究を続け、国内外の書店を巡ったり、東京青戸の児童書専門店「たんぽぽ館」で研修を受けたこともあるという奥山さん。
ハックルベリーブックスには、専門店ならではの確かな知識をもとに選ばれた作品が揃っています。

本には、心に寄り添い、励ます力があります。
奥山さんも、今回の震災で被災した子どもたちに本を送る「ユニセフ ちっちゃな図書館」プロジェクトに参加したり、本の売り上げの一部を募金するなど、本を介した支援活動をなさっているそうです。

訪れるごとに少しずつ品揃えが変化する「ハックルベリーブックス」で、心に響く1冊を見つけてはいかがでしょうか。

【住所】〒277-0005 千葉県柏市柏3-8-3
【アクセス】JR柏駅東口より徒歩8分
【TEL / FAX】04-7100-8946
【HP】http://www.huckleberrybooks.jp/
【営業時間】AM11:00~PM7:00
【定休日】水曜日
   

(この項、「」HPより)

 昔も今も輝く瞳の持ち主でした。今度、お店に訪問する予定。旦那さんは白井でパブをやっているそう、そこにも、いずれ。
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辺野古座り込み支援。その1。

2019-06-27 20:05:12 | じじばばがゆく
 6月24日(月)~26日(水)。

 4年ぶりの沖縄。今回は、「第5回沖縄連帯・辺野古座り込み」かつての職場の仲間たち23名と行きました。これまでで最多とか。年齢は79歳から56歳まで。爺さんから婆さん、そしてそのちょっと手前と。前歴も今やっていることも皆バラバラ。
 前回もご一緒だった方、小生が不参加だった去年も一昨年・・・、毎年この沖縄辺野古支援に参加している方、初めて参加した方。でも、思いは同じ。辺野古新基地反対! 辺野古の埋めたて強行は許さない! 

 辺野古新基地建設、埋め立て工事は多くの県民の反対の思いを無視して、着々と工事が強行されています。
 現地・名護では、安和や塩川港での土砂積み込み阻止の座り込み、そして、キャンプ・シュワブでの搬入阻止と現地の方々の粘り強い、非抵抗の闘いが続けられています。
 キャンプ・シュワブでは、1日3回、午前9時とお昼と3時。コンクリートミキサー車、大きな工作機械を乗せた大型車、さらに採石された石、土をたくさん積み込んだ大型ダンプ、さらに土砂を運び出す大型ダンプなどが続々と基地内に入って行きます。それを阻止するために座り込む。

 けっして沖縄・辺野古のみの闘いではなしに、全国の反基地の闘いでもあるという、現地の熱い思いに何としても支援したい、と全国から支援の輪が広がっている、そのささやかですが、連帯の思いを込めてのロートルの、しかし思いは熱い、沖縄行でした。

 わずか3日。物見遊山ではないものの、これでは申し訳ないなと思いながらの連帯行動。
 機動隊員によって強制排除されるわけですが、スクラムを組んでの闘いでした。
 
 沖縄の方々との懇親会、あるいは現地の集会での連帯感(お互いじじばばばかりですが)を強く感じました。

ホテルに到着した日。
                                  暮れなずむ名護の港。

 
前回来たのはちょうど「365日目」でした。

9時前。 

ゲート前のようす。警備員が整列。

たくさんのコンクリートミキサー車が搬入口前に到着。
                               護岸工事、コンクリート製のテトラポットをつくるためのもののようです。

 すると沖縄県警機動隊が整列、隊長が警告した後、ごぼう抜きが始まります。

けっして機動隊員へ手を出さないで下さい、抵抗して機動隊をたたいたり、暴言を吐かないで下さい、怒り、思いはわかりますが、非暴力に徹して下さい。《参加者へのよびかけ》

けっして手荒なことをしないで下さい。むりやり手足を引っ張らないで下さい。ご覧の通りお年寄りが多いです。暴力は振るわないように。
《機動隊員へのよびかけ》

違法な土砂搬入をやめて下さい。海を汚す事業に荷担しないで下さい。
《ダンプ運転手へのよびかけ》 

リーダーの山城さんをはじめ、現地の方々がしきりにハンドマイクでよびかけます。
        

 強制排除が始まります。

 

反対のシュプレヒコールの中を次々と大型車が基地内へ。

             

 不思議なのはその前に大型の散水車が基地内から出てきて、前後左右、丁寧に路上を散水します。反対運動の汚れを清めるかのように、座り込んでいる人の思いを消すかのように。

 そばにいる機動隊員にたずねたら、

 「ダンプの車輪が土砂で汚れていて、砂埃をたてるからですよ。」「今日は陽も照っていないし、必要ないじゃないですか。何だか儀式じみていますね。」

 心なしか少し笑ったようです。結果的に9時、正午、3時と、3回ともこの「儀式」が行われました。

 さらに、基地内に入ろうとする工事車輌が延々と連なってしまい、交通渋滞を引き起こしています。
 東京だったら、たぶん、一車線が事故などで通行できなくなったら、交互通行にして渋滞解除をすると思うのですが、いっこうにしません。反対車線には車がほとんどいないのにもかかわらず。
 延々と車がつながっています。
 何だか反対運動のせいで渋滞が起きて、皆さんのような一般車に迷惑をかけている、という印象を与えるという目的なのでしょうか? 

 翌日は交通整理し、相互通行にしてけっこうスムーズに流れていました。そのときの担当する機動隊長の判断によるのかなあ。

すべての車両が入ったあと、怒りのシュプレヒコール。


後から大型重機、機材を乗せた車両が。

                      

キャンプシュワブ正面ゲート前。
                         黄色い線を越えたら、即、逮捕されてしまいます。

建設中の建物には映画館や大型スーパーなどが入るそうです。もちろん、米軍用の施設です。
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JR「八王子駅」~京王線「多摩境駅」。その4。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第1日目。)

2019-06-21 21:34:23 | 八王子絹の道
                             「小泉家屋敷」。

(13:13)「御殿橋」のたもとにある「八王子道標」。
               正面に「八王子道」、東面に「此方 はら町田 神奈川 ふぢさわ」、西面に「此方 はしもと 大山 津久井」。

 山道の上り下りで足の指の痛さはかなりですが、もう少し歩くことにします。
 道標の裏に解説板。
 この道標は、輸出品の花形であった生糸を横浜港へ運ぶ時の道しるべとして慶応元年(西暦1865)に建てられました。
 当時、この道筋には家屋敷が立ち並び、外国人等も往来して大変なにぎわいをみせていました。
 生糸の仲買人として活躍したこの地の商人たちは鑓水商人として、後世にその名を残しています。その姿は道標の正面に描かれています。
 なお、この道標は、御殿橋南側にあった旧鑓水公会堂横に建てられていましたが、大栗川の改修工事に伴い、昭和63年に現在の場所に移されました。


 街道は「大栗川」の右岸を進んでいて、本来はそこにあった道標のようです。「御殿橋」は渡らず、手前を左折して川沿いに進みます。

「高齢者専用住宅 シルクロード鑓水」。

嫁入橋」を渡ります。 
                                            「大栗川」。上流に「御殿橋」。
 「嫁入橋」という名前のいわれは何でしょうか? 興味ありますが。

「柚木街道」に出ると、「谷戸入口」という信号。横断して、南に向かいます。

ここで「谷戸」について。
 谷戸(やと)とは、多摩丘陵・三浦丘陵・狭山丘陵・房総丘陵・武蔵野台地・下総台地といったの関東の丘陵地・台地の縁辺部が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形のこと。谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれる。
 これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)、「谷」(やと)を、東北地方では「谷地」(やち)を使っている場合が多い。
 これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している。
 なお、多摩・三浦丘陵における谷戸地形の成因は主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ雨水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進んで谷あいの平坦面が形成されたと考えられている。

土地利用
 大量の水を使う水稲耕作において水利の確保は重要な課題のひとつとなるが、日本において稲作が始まってからしばらくの間は利水・治水技術が発達していなかった(当初の鉄製品は朝鮮半島からもたらされる希少なものであり、農具は木製が多く、用水路開削などには多大な労力を要した)頃には、集水域であるから湧水が容易に得られ、しかも洪水による被害を受けにくい谷戸は、排水さえ確保できれば稲作をしやすい土地であった。よって丘陵地内にあっては古くから稲作が営まれており、中世までには開発が進んでいたものと考えられている。
 こうした土地は森林が近接する谷あいの農地であることから、日当たりを確保するため、田に近接する斜面では「あなかり」などと呼ばれる下草刈りが定期的に行われており、また近接する森林では薪などを取ることができ、そうした行為には慣例として入会権が認められていた。労力さえかければ生活に必要な食糧・燃料・道具などの材料を調達するに適した土地であったと考えられている。
 反面、こうした場所は尾根筋に挟まれた狭隘な地形であるために日照時間が短く、水はけが悪い場合には湿地状態になっていることが多い。また湧水地に近接する谷戸田へは農業用水を直接引き入れると水温が上がらないうちに入ってしまうこととなり(多摩地域では谷戸に流れる冷たく分解前の腐植質が混じる水を「黒水」と呼んだ)、水を引き回すなどして温める工夫が求められる上、収穫される米の食味が悪くなるとの指摘がある。
 戦国時代以降になると治水・利水技術が進展し、諸大名が石高向上のための稲作振興策を推進したため、関東においても新田開墾が進み、平野部での稲作が盛んになった。
 明治以降になると中央集権化が進められ、それまで地域毎に藩主導で行われていた農業振興策が縮小・廃止されるようになり、「高度経済成長」期になると農機や化学肥料の導入をはじめとする集約化が進められ、エネルギー源も薪から化石燃料へと転換した影響を受けて、前述のような谷戸地形の優位性が失われるとともに欠点が目立つようになり、谷戸田は衰退することとなった。また、湿度が高く宅地とするにも不向きであることから、耕作放棄後には荒れ地になっていたり、建設残土などにより埋め立てられている場合すらある。
 しかしながら、都市化が進む地域においては緑地や水源地としての希少性・貴重性が認められて保全する動きが出てくるとともに、近年は後述するような価値も認められるようになっている。

生態系
 生物多様性の重要性が認識されるようになった近年、前述のような独特の条件がある谷戸の生態系に注目が集まるようになった。
たとえば、トウキョウサンショウウオやヤマアカガエルなどの絶滅危惧種や地域固有種が、開発を逃れた谷戸に生息していることが多い。また、急激な都市化が進められた関東地方において今なお従来の生態系が残っている場合があることから、里山や雑木林などとともに価値が見直されはじめている。

 以下、鑓水付近の谷戸について、「谷戸めぐり 鑓水の地名」yato.no-mania.com/ ブログを参照し、紹介します。
 なお、この方は、「多摩の原風景を求めて歩き回っています」との自己紹介にあるように、踏査したブログには写真も多く掲載されていて、たいへん興味ある内容です。
谷戸めぐり
 谷戸、里山は今や貴重な存在と成っていますが、そもそも多摩の原風景と言えば当にそれでした。 このブログではそんな多摩の原風景をご紹介し、未来にこの素晴らしい風景を伝える一助と成ればと思って開設しました。 また記録の意味も含めて、宅地化されて失われてしまった谷戸や、人工の谷戸や里山も紹介します。

子ノ神谷戸(ねのかみやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、厳耕地谷戸支谷
河川:大栗川源流部子ノ神谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
 鑓水の谷戸群は大栗川の北岸を中心に非常に良く残っている。
逆に南岸は公園化や学校、宅地化により消滅しているところが多く対照的だ。
 子ノ神谷戸は現在は諏訪神社に合祀されているこの地の鎮守・子ノ神神社があったことに由来しているそうで、先述の北岸の谷戸群の一つである。
ただ厳耕地谷戸、嫁入谷戸に比べて荒れ地が多く、荒廃した印象が強い。
 中流域までは農地と宅地が点在しているが、谷頭部は近くに霊園が開発されて尾根の一部が削られたりしたせいもあり、夏場は立ち入ることが出来ないほどの藪になってしまっている。

嫁入谷戸(よめいりやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、嫁入谷戸本谷
河川:大栗川源流部嫁入谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
 嫁入谷戸とは変わった名前の谷戸もあるものだと思っていたが、これには深い理由があるようだ。この地に昔、夜な夜な現れて舞いを踊る巫女が現れ、村の若者が皆魅了されてしまった。これは魔性の類だと言うことになって、屈強なものが弓を射かけると、たちまちに姿は消え、次の日、弓に射貫かれ田に横たわる狐が発見された。
 この巫女伝説に由来し「弓射谷戸」となり転訛して「嫁入谷戸」となったという説がそれだ。大栗川を挟んだ対岸には「巫女の沢」という名前もあり、この伝説に因む名はこの地の特徴の一つとなっている。
 しかし「弓射」の転訛で「嫁入」というものの、昔から「狐の嫁入り」という言葉もあることから、もっと深い事実が元になっているのかなと想像を掻き立てられる話である。
 他の説では、鑓水商人の家に、三井家から嫁入りがあったことに因むというのもあるが、なんとなく個人的には前者が有力な気がしてならない。
 この谷戸はこの地域の他の谷戸と同じく大栗川の源流部に辺り、当谷戸の水路もそのまま他の谷戸からの水と合わさり大栗川となって多摩川に向かって流れて行く。
 この谷戸は先端部が二分岐しており、本谷と支谷ともに現在でも耕地、水田として現役である。
・・・
 谷頭部から下流を見下ろすと、すぐ先にはニュータウンの林立する高層ビルが見えるが、ニュータウンのほど近くなのに、鳥のさえずり、小川のせせらぎ、葉擦れの音以外にはまず余計な音が無く、非常に静かな場所だ。この付近まで歩いてきたら、この里山の音に耳を傾けて、じっくり癒されたい。

厳耕地谷戸(がんこうちやと・げんこうちやと)
住所:東京都八王子市鑓水
所属:多摩丘陵、厳耕地谷戸本谷
河川:大栗川源流部厳耕地谷戸川
水系:多摩川水系
・・・
 八王子市鑓水は今でも谷戸と里山の景観を色濃く残している貴重な地域で、多摩丘陵の昔の雰囲気を肌で感じられる少ない場所の一つとなっている。
 当地は鑓水のほぼ中央に位置しており、八王子バイパスの方面の尾根、御殿山方面からの抜け道が走っている関係上、自然豊富ながら交通量も多く、徒歩で散策していると極めて煩わしく感じる。
 当地は歴史的に見ても重要な土地柄で、近くに「絹の道」という昔道があり、絹糸の売買で財をなした鑓水商人の館などが保存されており、これを土台とした絹の道資料館は散策の途中に是非とも寄りたい場所である。
 ちなみに「資料館」には鑓水の昔の姿のジオラマがおいてあり、当地周辺の谷戸の分布などを探る一級の資料となっている。
 歴史的に重要で、ニュータウン開発地区に入らなかったことなどから、この地は谷戸と里山の景観をとどめていると言っても良いのだが、すぐ近くにニュータウンがあったり、八王子方面から横浜方面を結ぶ八王子バイパスや、16号御殿山交差点など、交通の要衝の近くにあることなどで、開発の波は徐々に押し寄せてきている。
 鑓水地区でも東谷戸、日影谷戸、巫女の沢などはすっかり宅地化が進み、その他の谷戸にも耕作放棄から宅地化への流れが見え隠れしてきているし、
当地の小支谷も霊園開発などが行われており、消滅までは行かなくとも、景観の変貌は着実に現実の問題となってきている。
 当地では一部に水路やビオトープを作って、蛍を楽しめる場所造りの取り組みがスタートされていたり、隣の柚木地区の公園化による里山の保護活動とのシンクロによって、様々なアイディアが入ってきているのは歓迎すべき事だろう。
 歴史と里山の宝庫となって時代へ残したいものである。

「板木谷戸」と呼ばれる道筋に。

(13:21)右手に茅葺きの「小泉家屋敷」。
 小泉家の主屋(建築面積112平方㍍)は明治11年(1878)に再建されたものであるが、木造平屋建て入母屋造り、茅葺き、田の字形四間取りで、この地方に旧来からみられる典型的な民家建築をしている。
 屋敷地の面積は約33.2アールで、南面した道路沿いには宅地、田畑地となっており、背後の畑地から北側にかけては山林で次第に高くなり尾根に達している。
 敷地内には主屋のほか納屋・堆肥小屋・稲荷社・肥衣塚などが点在し、多摩丘陵地帯の一般的農家の屋敷構え・生活形態を知る上で貴重な民俗資料となっている。
                     

その先、道はカーブして上っていきます。右手には鬱蒼した森が。
                                     「鑓水板木の杜緑地」。
「解説板」。
鑓水板木の杜緑地
 この地域一帯は岩盤の層があり、山の中腹に槍状の先のとがった道具で突いていくと、地下水が湧き出てくる。
 この水を節を抜いた竹で導き瓶などに貯え、飲料水として利用してきた。これを筧(かけひ)と言い更にこの瓶から水を流れるようにしたものを『鑓り水』と言うが、これが鑓水の由来と考えられる。
 また、板木という名は古文書のある古絵図に記された「伊丹木」に由来する。これはアイヌ語で「きれいな清水が湧き出る所」という意味として伝わっているが、この地は古くはアイヌ民族が住んでいたと思われる。
 というのは、この地域から発掘された縄文土器の紋様と、アイヌ人が現在でも使用している衣装の文様とよく似ているのが、なによりの証拠と考えられているからである。
 そして、の「伊丹木」が後に「板木」に変化したのではないかと考えられている。
 なお、この緑地内の尾根道は、旧鎌倉街道と呼ばれ、相模を通り甲州・秩父方面へと通じ浜街道と共に重要な街道であった。

この辺りは、「心霊スポット」としていっとき有名なようです。
 ①鑓水峠(大塚山公園)にあった、明治8年に建立された道了堂跡
 昭和38年(1963)、堂守の老婆が殺されて、後、廃寺になった。そのため、稲川淳二の怪談「首なし地蔵」の舞台ともなっている(地蔵に触れると呪われる云々)、とか。
 ②そしてここ「鑓水板木の杜緑地(鑓水公園)」。
 昭和48年(1973)不倫の清算に失敗した立教大学の助教授が、交際相手である女子大生を殺害し埋めた事件。助教授は事件発覚前に妻と子供とともに一家心中をとげ、遺体発見まで長い日数がかかり、そのかん、マスコミでもセンセーショナルに扱われました。そんないわれがあるようです。
 たしかに「大塚山公園」は何だか辛気くさい印象があります。しかし、ここは? あえて公園内には立ち入りません。

「鑓水中」に沿って車進入禁止の広い歩道を進みます。「絹の道」と足下に。

(13:30)「穂成田歩道橋」。見晴らしのいい高台を進みます。

                          

 「鑓水小山給水所」を通り、それまでは炎天下。ここで少し緑陰でホッと。広い歩道を終え、「町田街道」へ向かって下って行きます。
(13:40)「町田市」入り。

なだらかですが、けっこう長い下り坂。

右手に緑濃き公園が広がります。
 
                    (13:48)「小山田端自然公園」。

「町田街道」に出る手前で左折し、細い道に入ります。

「町田市汚水マンホール」。
                      中央に市章、周りに市の花サルビアの花を放射状に描いています。
 今回、このデザインが変更になりました。

新デザインマンホールふたを設置しました 更新日:2019年3月14日
 現在、市で使用しているマンホールふたのデザインは、1989年(平成元年)に作成したもので、使用開始から約30年が経過しています。近年では、地域に由来する文化や歴史、名所、名産などがデザインされたご当地マンホールふたに注目が集まっており、本来のマンホールふたとしての役割に加えて、地域をアピールする役割も担っています。市でも、市民生活を支える下水道事業へ関心を持っていただくことを目的として、町田の魅力を発信する新たなデザインのマンホールふたを作成しました。
 新たなデザインは、町田市と大学との連携に関する協定を締結している学校の学生に作成いただいた案の中から、市民の皆様を中心に投票を行い、決定したものです。
 約4ヶ月の製造期間を経て、ついに新デザインマンホールふたを設置しました。
 ぜひ実物をご覧ください!
 デザイン投票では、市民の皆様を中心に総勢6041名に投票いただきました。
 汚水管の部、雨水管の部それぞれについて、最も得票数が多かった以下のデザインを、マンホールふたの新たなデザインとして採用します。
※デザインは安全性確保の観点等から一部を補正・修正する場合があります。カラーはイメージです。
汚水マンホールふたデザイン

デザインコンセプト:
 デザインのテーマは「愛あふれる町田」です。「町田」の漢字に含まれる「田」の形の区切りに、「家族愛」の花言葉を持つ市の花サルビアと、カワセミのつがい(メスは嘴の下部が赤い)を配置しました。

雨水マンホールふたデザイン

デザインコンセプト:
 町田リス園のリスをモチーフに、爽やかな印象を持ってもらえるように、降る雨を眺めるリスのシルエットと水の流れを合わせた切り絵風のシンプルな絵柄にしました。

(この項、「」HPより)

(13:53)静かな住宅街を進みます。

庭に咲いている紫陽花。
                   「ピラミッドアアジサイ」?

 「京王相模原線」のガードをくぐり、しばらく進むと、「町田街道」に合流します。が、左手を見ると、奥の高台に「多摩境」駅。暑いし、足も痛いし、ここで今回はおしまいに(14:00)。

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JR「八王子駅」~京王線「多摩境駅」。その3。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第1日目。)

2019-06-20 20:28:23 | 八王子絹の道
                         「絹の道資料館」。

バス停「絹の道入口」。その先、左手を行くと「絹の道資料館」へ。

                                 

(11:44)「大栗川」に架かる「御殿橋」を渡ります。 

欄干にあるレリーフ。
                 「武蔵国南多摩郡由木村鑓水 大塚山道了堂境内之図」。往時の賑わいが偲ばれます。  

「絹の道」という表示。

(11:49)左手のガードレールの崖際に大きな榎。「一里塚」跡といわれています。

眼下に里山風景が広がります。

(11:50)炎天下、ようやく「絹の道資料館」へたどり着きました。

 「休憩室」があり、ここで昼食がてら大休止。やっと着いた! という感じ。
「国道16号線」へ出るまで、→の道を歩いてきたようです(上が南)。

市史跡 絹の道
 「絹の道」は、横浜が開港し、鉄道が発達する明治の中ごろまで輸出用の生糸が多数運ばれたルートの一つです。現在、御殿橋のたもとから「絹の道碑」の前までの約1.5㎞が「絹の道」として市の史跡に指定されています。このうち、特に昔の面影をよく残す未舗装部分約1.0㎞は文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれました。

絹の道資料館
 ・・・市指定史跡「絹の道」の中心的な施設として、かつての鑓水の生糸商、八木下要右衛門家屋敷跡に休憩所を兼ね備えた資料館を建設することになりました。
 この計画にしたがって、昭和62年から、発掘調査による遺構の確認や、石垣の復元などを経て、生糸商人屋敷の景観をイメージした木造の門や、入母屋屋根をもつ絹の道資料館が平成2年3月に開館しました。
         

 展示室には絹の道の歴史、生糸や養蚕の生産技術、鑓水商人の事績や、絹の道に関連したキリスト教布教などパネルや資料が展示されていて、見所多し。

 さて、いよいよ史跡「絹の道」へ向かいます。
 本来なら下って来る予定でしたが、上って鑓水峠・大塚山公園へ。
             

(12:23)しばらく進むと「絹の道」への分岐点。
                                  案内板や「秋葉大権現」など3基の石塔があります。

 
                                     →は「絹の道」の後、たどる尾根道。
市指定史跡 絹の道
 安政6年(1859)の横浜開港から明治の初めの鉄道の開通まで、八王子近郷はもとより長野・山梨・群馬方面からの輸出用の生糸が、この街道(浜街道)を横浜へと運ばれた。
 八王子の市にほど近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、財力もあって地域的文化も盛んとなり、鑓水は「江戸鑓水」とも呼ばれた。
 なお、この「絹の道」という名称は、地域の研究者が昭和20年代の末に名づけたものである。

歩き始めは、舗装道路ですが、そのうち山道になります。

                               来た道を振り返る。

 ここからは順序を変えて、①峠(大塚山公園)から下ってくる写真構成にします。

小高い木々に覆われ、眺望は悪い。

                            

下り坂。

④階段脇に「絹の道」と刻まれた大きな石塔と案内板。

                                 
 
⑤雨上がりのため、足下が滑りやすいので要注意。左右に竹林が。

                     

⑥小さな谷を隔てて、住宅が何棟も。「北野台住宅団地」。

⑦木洩れ日の中、山道を下ります。

                              

 

振り返る。

⑧こうして再び舗装道路に出て、「絹の道」分岐点となります。

                     「絹の道資料館」前の道。     

 ほぼ尾根筋なのに、ところどころ、窪地状のところを進むので、大雨の時は、ぬかるみを歩くことになりそうです。かつては大きな荷物を背負っての歩き。通行量の増大で、次第に道にくぼみが出来たのでしょうか。かなり難儀をした、と。

 結局、大塚山公園(鑓水峠)を往復して約35分でした

 ところで、
「鑓水」という地名の由来は?
 鑓水は大栗川の源流部 にあたり湧水が大変豊富であった。そのため、多摩丘陵の斜面に槍のように尖らせた竹筒を打ち込んで飲料水を得ていた。この方法を「ヤリミズ」と言い、地名の由来になったと言われる。

「鑓水商人」とは
 江戸時代、鑓水は生糸の取引で「江戸鑓水」と呼ばれるほどにぎわいをみせ、鑓水商人という商人集団が生まれた。日米修好通商条約により横浜港が開港すると、高値で売りたい養蚕農家と生糸の欲しい外国商社との間を取り持ち、各地から生糸を買い集め、鑓水村にある自前の蔵に蓄え、頃合いをみて高値転売を行うという手法で一層発達した。この時代、平本平兵衛・八木下要右衛門・大塚徳左衛門・大塚五郎吉などの商人が活躍し、1851年(嘉永4年)には、まだ鎖国中にもかかわらず、外国人を接待するための「異人館」と呼ばれた螺旋階段つきの洋館まで建てられ、開国後にはイギリスの外交官、アーネスト・サトウも「異人館」を訪れ、宿泊したという。鑓水は最盛期を迎えるが、そのほとんどが明治時代の中ごろまでには没落してしまった。

(以上、「Wikipedia」参照)。どうも後半は身も蓋もない表現ですが。

 そこで、

みなさんは、絹の道と呼ばれる道が、八王子に残っているのを知っていますか?
「絹の道」と刻んだ石の記念碑がたてられている鑓水峠から、南へ下る約1.5kmの短い区間ですが、八王子の史跡として保存され、平成8年(1996)には全国の歴史ある道の中から特に昔の面影を残す道筋を選んだ《歴史の道・百選》に指定されました。

どんな歴史がある道なのか調べてみましょう。

絹の道のはじまり
 絹の道の歴史は、安政6年(1859)の横浜港開港にはじまります。開港と同時にはじまった外国との貿易の中で、輸出品の中心となったのが生糸でした。そして、八王子から横浜港へ大量の生糸を運ぶために使われたのが、絹の道でした。でも、当時はこの道は「浜街道」と呼ばれていました。「絹の道」という名称は、昭和20年代末に地域の研究者・橋本義夫氏らによって名づけられ、今ではすっかり定着しています。当時の生糸の主な生産地 は、上州(群馬県)、甲州(山梨県)、信州(長野県)などでしたが、つくられた生糸の多くは、八王子の市に集められ、多摩丘陵をこえ町田をとおり横浜に運ばれました。
 また、絹の道は、八王子に西洋文明を伝える道でもありました。

なぜ八王子は、運搬の基点になっていたのでしょう
 もともと八王子の周辺では、養蚕や機織りが盛んに行われていましたが、養蚕地帯の中でも横浜港に近く、江戸にも近いといった地理的条件に恵
まれていました。そのうえ、商売がうまく、江戸時代から生糸の取り引きを盛んに行っていた鑓水商人と呼ばれた人たちの活躍も大きかったようです。

生糸はどのように運ばれたのでしょう
 当時は、まだ鉄道も自動車もありませんでしたので、もっぱら人々の肩に背負われたり荷車に積まれたり、牛馬で運ばれたりしていました。現在でも絹の道を歩いてみると、お椀のようにくぼんだ道が続いているところがあります。そのような道の形からも、当時の往来の激しさが想像できます。大栗川沿いには、道しるべもたっています。慶応元年(1865)に 絹の道がにぎわっていた頃のもので、正面には八王子道、左側、はら町田・神奈川・ふじさわ、右側、はし本・津久井 つくい ・大山ときざまれてあります。当時の人はここで道を確認していたのでしょう。
 このように、にぎわっていた絹の道も明治22年(1889)の甲武鉄道(今の中央線)の八王子までの開通や明治41年(1908)の東神奈川と八王子 をむすぶ横浜鉄道(今の横浜線)の開通など新しい交通路が開かれると、その役割を終えていきました。

鑓水商人
 現在は、のどかな風景をみせる鑓水の集落ですが、当時は生糸の取引で栄え、にぎわいをみせていました。鑓水は横浜への生糸の積み出しに活躍した商人たちの根拠地で、彼らは、鑓水商人と呼ばれました。
 鑓水商人は、横浜開港前からすでにはなやかに活躍していた生糸商人で、鑓水の地が「江戸鑓水」と呼ばれるほどに繁栄させ、代々名を継いでいました。横浜港が開港すると、彼らは、それまでの経験をいかし、さらに富を増やしていったのです。鑓水商人として、平本平兵衛・八木下要右衛門・大塚徳左衛門・大塚五郎吉などの名前が知られています。
 しかし、彼らの没落は早く、それぞれの事情のため、明治の中頃までには商人としての活躍を終えてしまいます。活躍の場を失っていった背景には、国の政策によって、機械製糸の大工場で作られた生糸が、大きな問屋の手に渡り輸出されるようになった時代の流れもありました。

(この項、「絹の道と鑓水商人 - 八王子市図書館
https://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/004.pdf」より。ただし、小学生向き。フリガナは省いた。)

この付近の今昔。



1880年代のようす。街道は尾根筋を通り、鑓水村から「御殿橋」(○)を渡っていく。




2010年代のようす。北側は住宅開発が進んでいるが、南側はまだ里山の風景を残している。
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JR「八王子駅」~京王線「多摩境駅」。その2。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第1日目。)

2019-06-19 20:38:36 | 八王子絹の道
          汚水用マンホールの蓋。デザインは江戸時代末期より八王子市に伝承されている人形劇「車人形」。カラーのものもあるようです。

八王子車人形

 文政8年(1825)に現在の埼玉県飯能市に生まれた初代西川古柳(にしかわこりゅう)(山岸柳吉)によって、江戸時代末に考案されました。
 文楽系の三人遣いを、「ろくろ車」と呼ばれる車をおさめた箱に腰掛けて操る一人遣いに改良しました。右手で人形の右手、左手で人形の左手と首、さらに指で目・口・眉まで動かします。人形が舞台に直接足をつけて演技が出来るため、独自の躍動感が生まれます。このような構造は世界でも類がないといわれています。
 平成8年には国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選定されました。
(この項、「」HPより)

 マンホールのデザインは「三番叟」と思いますが。

「万町(よろずちょう)」(途中の看板に「まんちょうと読む人手を上げて」とあります)を経て、「黄金橋」を渡ると、左手に短く旧道が残っています。

1880年代のようす。○の部分。

2010年代のようす。右が「八王子医療刑務所」。



                      

左手には「八王子医療刑務所」。

(9:52)「子安町」交差点を過ぎて、京王線のガードをくぐります。

                右手に「京王片倉」駅。


「北野街道」を横断し、その先の「住吉橋」を渡ります。

 この先「鑓水峠」までの道筋は、住宅開発等で不明なところが多くなります。「国道16号線」から左に折れて、JR横浜線「片倉駅」方向に進みます。
 折れる手前、国道沿いにすてきなお店「コーヒーブリックス」。


1880年代のようす。道は二手に分かれている。
                   右の道は「鑓水峠」へ、左の道は「御殿峠」方向(現「国道16号線」)。


2010年代のようす。様変わり。旧道の痕跡?

(10:04)JR横浜線の高架が見えてきます。左手に「片倉駅」。 

「兵衛川」にぶつかります。正面には大きな屋敷。

「釜貫橋」を渡って、向こう側に。

                           

「野菜無人販売所」。いまだ健在。

(10:10)この付近は、昔ながらの道とおうちが。

(10:14)住宅地を歩き、「日本文化大学」前へ。

 この辺りから道を間違えてしまい、大学脇の西側の細い坂道を進んでいきます。本来は、左の道を行かなければならなかったのですが。
 でも、静かな住宅地の中の小道。意外と風情がありました(負け惜しみ)。

「シルクロードハイツ」の表示を見つけ、この道かな、と。

「八王子バイパス」先、「鑓水峠」への階段に行けず。(「」HPより)

その手前をウロチョロ。

 この付近の今昔。

1880年代のようす。谷戸を縫うようにして進む。


2010年代のようす。すっかり住宅団地に。


宅地造成中の「鑓水峠」北付近。1970年代。 
                     

(10:39)西に行きすぎて、「都立片倉高校」のところに出てしまいます。

 ますます日ざしは強くなるし、初めて履いたスニーカーのせいで、両脚のつま先は、次第に痛くなるし、・・・。
 路線バスがあれば乗ろうかと、「国道16号線」へ出て、南下します。
「東京工科大学」のりっぱなキャンパス。

(11:00)上り坂で振り返ると、奥多摩の山並みが遠くに。 

「御殿峠」に着きます。バス停を見ると、次が「鑓水」。気を取り直して。

なかなか外観の凝ったお店「パペルブルグカフェ八王子」。

 こだわりぬかれた中世南ドイツ騎士の館をモチーフにしたお店です。
 パペルブルグはJR横浜線 八王子みなみ野駅から徒歩20分ほど、鑓水の東京環状(国道16号)沿いにある【Pappelburg】と書かれた看板が目印のコーヒー専門店です。
 駐車場(20台)もありますので、お車でもご利用いただけます。
 店内は完全分煙となっており、タバコを吸われる方でも安心です。
 パペルブルグの主なメニューは、マンゴーパフェ、フレンチトースト、パスタランチ、ビーフシチューランチ、B・L・Tランチなどがあります。
 館内外の壁には本格的なフレスコ画が描かれており、訪れる人々に感動を与えます。
 多摩美術大学との連携によって忠実に再現された店内と、お店自慢のメニューの数々から、オーナーのこだわりがひしひしと伝わってくることでしょう。
 

(この項、「」HPより)

(11:11)「鑓水北」交差点。左手奥の森の向こうに「鑓水峠」?  

 結局、二手に分かれた旧道の、西側の道の一部を進んできたわけです。
 次が「鑓水」交差点。そこを左に折れて歩くと、目的地に着くようす。せっかくここまで来たのだから、と。

空はますます青く。

(11:33)「多摩美術大学」。

 さて、行き着くのやら。
 
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JR「八王子駅」~京王線「多摩境駅」。その1。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第1日目。)

2019-06-18 19:52:51 | 八王子絹の道
                                「絹の道」。
 この前、かつての職場の同僚たちと飲み会がありました。
 皆さん、お元気です。ま、だいたいが健康問題とか、今の許せない(やるせない)政治(アベ政権)の状況とか、そんな会話の中で、それぞれの趣味の世界、今関わっていることなどの話のついでに街道歩きの話になります。
 ある方から「いっそ本場のシルクロードでも歩いたら」と、年も費用も考えず、そんな話が。まさか今さら中国の奥地、砂漠地帯を歩くということにはならんでしょう、と。
 そこで話は別の話題に。
 帰宅して、そういえば、日本にも身近なところにあったっけ。「シルクロード」が。・・・
 そう、「シルクロード」八王子から横浜まで。
 しかし、調べてみると、すでに失われてしまった道が多い。街道歩きが国道歩きではちょっと。思ったより、右に左に旧道が残っているようです。
 そこで、今回から2,3回に分けて歩いてみることにします。しかし、これからは梅雨時、晴れれば蒸し暑い炎天下。どうなることやら。・・・ 

(「」HPより)

 日本全国街道歩きの達人のHPをよりどころにして歩きます。 

 まず事前学習。『Wikipedia』を参照して。

神奈川往還(かながわおうかん)   注:「絹の道」は、後年名づけられた呼称。
 現東京都八王子市周辺と同神奈川県横浜市を結んだ道。別称として浜街道、武蔵道、絹の道があるほか、横浜側では八王子街道とも呼ばれる。経路は現在の町田街道および国道16号に相当する。

注:現「国道16号(東京環状)」は、八王子市鑓水付近からは大きく離れ、「町田街道」さらに「旧国道16号」が旧「神奈川往還」の道筋に近い。

 従来より八王子周辺は多摩郡や甲州・武州各地で生産された生糸の集散地として栄え、この生糸を江戸や多摩郡の各地域へと出荷していたが、江戸時代末期の1859年(安政6年)に横浜港が開港すると貿易が活発になった。海外への貿易品の中心は、生糸や絹製品であったため、輸出のため横浜方面へも出荷が行われるようになり、浜街道と呼ばれるようになった。八王子から町田を経て横浜港までの約40km の街道は、鑓水商人(やりみずしょうにん)と呼ばれる多くの絹商人の往来が盛んとなって、のちに絹の道と称されるほど発展するようになる。
 この浜街道は、現在の町田市相原町字坂下付近と町田市鶴間字大ヶ谷戸付近までの間で二通りの経路に分かれており、ひとつは主流であった現在の町田街道の経路である。八王子を出発し鑓水峠を越えたところで武蔵国多摩郡の相原村(現町田市)に入り、境川の東側(武蔵国内)となる同郡原町田村を中継地として抜け、鶴間村(以上、現東京都町田市)、都筑郡今宿村(現神奈川県横浜市旭区)などを経由して横浜港へ向かっていた。
 もうひとつの経路として、相原村(現在の相原坂下交差点付近)で分岐して境川を渡って相模国高座郡橋本村に入り、同郡の淵野辺村、上鶴間村(以上、現神奈川県相模原市)、下鶴間村(現神奈川県大和市)などを経由した後に再び境川を渡って武蔵国多摩郡の鶴間村に入ったところで上記の経路と合流する現在の国道16号に相当する経路がある。
 但し、上記の原町田を抜ける経路のほうが発展していたことや距離が近かったことなどから、もっぱら裏街道のような存在であった。こちらは後に国道16号(東京環状)として発展することになる。
 かつての浜街道の名残は八王子市鑓水、町田市小山町、町田市原町田(町田駅周辺)のほか、町田市鶴間(横浜町田IC付近)から横浜市旭区川井宿・今宿・鶴ヶ峰周辺までにかけての国道16号線旧道区間に見られる。
 一方相模国を経由するルートでは、第二次世界大戦時に相模原都市建設計画(いわゆる「軍都計画」)が持ち上がり、都市整備によって全く違う道へと姿を変えてしまったため、相模原市内では淵野辺付近から上鶴間付近までの旧16号線と呼ばれる道路や、村富神社付近、西門(相模原)から氷川町までの道路、そして橋本駅北口周辺に見られる程度である。
 明治時代に入り1908年(明治41年)に街道と並行して横浜鉄道(現JR横浜線)が開通すると、絹の運搬は鉄道に取って代わられることとなり、「日本のシルクロード」とまで呼ばれた街道は、次第に廃れていった。

絹の道
江戸時代の幕末から明治時代にかけて、八王子から横浜まで生糸をや絹織物が運んだ裏街道として繁栄し、八王子市の鑓水峠の近くには「絹の道」と刻まれた石碑も建てられている。御殿橋から「絹の道」碑までの約1.5 kmの区間は八王子市の史跡に指定されており、現在も往時のたたずまいを残していて「歴史の道百選」にも選ばれている。
 八王子は「桑の都」とよばれるほど養蚕が盛んで、江戸時代後期以降は生糸や織物の生産が活発になり、「八王子織物」として知られていた。鑓水商人とよばれる八王子の商人たちは、鎖国の時代にオランダの東インド会社と密貿易をおこなうために、絹織物を隠密に運搬していた。「絹の道」とよばれたそのルートは、八王子の鑓水村から小山(現・町田市)を経て市が開かれていた原町田(現・町田市)に至り、神奈川街道を通って横浜の保土谷から東海道の芝生村を経て、関内に達する約40 kmの道のりであった。
 広義の「絹の道」は、この八王子から町田を経て横浜に至る経路全体を指していうこともあるが、町田 - 横浜間は「神奈川街道」「横浜街道」「浜街道」「町田街道」などの別称があるため、狭義の「絹の道」は、鑓水 - 町田間の経路を一般に指す。

鑓水商人
 中央高地、北関東および多摩地域で生産された生糸が八王子や原町田周辺に集められるようになると、特に多摩郡由木村鑓水(現:八王子市鑓水)の商人が仲買として活躍し「鑓水商人」の名で知られるようになる。絹取引で富を築いた鑓水商人たちの屋敷が、街道に沿って軒を連ねた。
 江戸幕府は、鑓水の商人たちが生糸を横浜に運んで密貿易をすることを取り締まるために「五品江戸廻令(ごひんえどまわしれい)」を出して、生糸、呉服、水油などの五品目はすべて江戸経由で運ばなければならないように義務付けられたが、これを無視して「絹の道」を通って横浜に運搬する者が後を絶たなかった。

(以下は、「自由民権運動 - BIGLOBE www7a.biglobe.ne.jp/~sagamihara/fuukei/03)harataima/silk.htm」HPより)
自由民権へ道
 一方「絹の道」は、文明開化の道、伝道の道でもあった。生糸の生産者、養蚕家、絹商人たちが外国商人との交渉により、キリスト教や、文明開化の新しい思想に接触してカルチャーショックを受け、それを媒介にして政治的民権的自由を求めて、民権運動が発展してきた。そして「絹の道」が日本での重要な伝播の道となったのである。秩父事件(秩父大宮)、武相困民党事件(相模原・八王子)、群馬事件(妙義山)というような三大暴動および自由民権の政治結社とが「絹の道」に集中している。

注:多摩地域は「五日市憲法」で有名なとおり、明治時代に自由民権運動が盛んだった土地。それが、三多摩が元々の神奈川県から東京都に移管された一つの原因ともいわれている。(相模国→武蔵国)

 前日は、大雨。一転して雨上がりの快晴。6月16日(日)。「甲州街道」歩き以来、久々にJR「八王子駅」下車。

 (9:27)スタート。「甲州街道」の「八日町」交差点から「国道16号線」を南下します。

                     (9:31)「横浜まで41㎞」。

しばらく進むと、(9:40)道路標示では「横浜まで39㎞」ポスト。
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成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その5。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-14 20:24:19 | 佐倉街道
 香取市内を流れる小野川ぞい、重要伝統的建造物群保存地域内に位置しております。
 明治34年(1901年)創業以来 日用品雑貨荒物卸業を営み、平成10年より和紙とお香の商いをはじめました。
 建物は、明治25年(1892年)の建築。
 昭和30年代 前部分の軒先を切り落とし改築しましたが、再度町並みの景観に合わせ創業当時に修復致しました。
(この項、「」HPより)

 「小野川」沿いに下って行きます。この地区にも両岸にすてきな古風な建物が並んでいます。


                       



1880年代のようす。「小野川」界隈の賑わいぶりが分かる。




2010年代のようす。「小野川」に架かる橋が「忠敬橋」。中央黄色い道路、右が「香取神宮」方向。左上が「佐原駅」方向。旧道は左下からの道。

    柳の新緑が川面に映える。

「開運橋」。ちょうど外国人を乗せた遊覧船が通りすぎていきます。
 

 ここから駅方向に戻ります。
「山田」さんに入ろうと思いましたが、待ち人多し。

駅前にある「伊能忠敬」像。

以下、かなりの長文になりますが、
伊能忠敬
延享2年1月11日〈1745年2月11日〉~文政元年4月13日〈1818年5月17日〉(73歳没)
江戸時代の商人・天文学家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
     
 17歳になったとき、縁あって、親戚の平山家の養子となり、林大学頭から忠敬と名を付けてもらって、佐原の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿し、四歳年上のミチと結婚する。
 家業に出精して家運を隆盛に導き、名主としても頑張って、天明の大飢饉に佐原からは一名の餓死者も出さなかった。
 49歳で隠居したときは家産三万両だったという。
 50歳のとき江戸に出て、深川黒江町に隠宅を構え、寛政の改暦のため、大坂城番玉造組の同心から旗本の天文方に抜擢された新進の天文学者・高橋至時に入門する。
 天文・暦学を勉強するとともに、自宅に天文方に匹敵する規模の観測所を設けて、太陽や恒星の高度などを熱心に観測し、推歩という天体運行の計算に熱中した。

注 佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身につけていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい。(この項、「Wikipedia」より)

伊能測量のキッカケから終了まで
 忠敬は三人目の妻・お信の父で仙台藩の上級藩医・桑原隆朝とは「ウマ」があった。お信亡き後も親密な付き合いが続いていた。証拠となる史料はないのだが、状況から考えると高橋至時への入門を世話したのは桑原隆朝だった可能性が高い。
 寛政の改暦のために、高橋が大坂から下ってくるという極秘情報を桑原隆朝から聞いて、忠敬は「これだ」と思ったのではないか。天文・暦学は好きな道であるし、早速押しかけて入門する。難しい理論を習ったり、天文方なみの観測機械を自宅に据え付けて太陽や星を測った。
 勉強しているうちに、高橋至時が地球の大きさを知りたがっていることが分かる。 いつも観測していて、深川の自宅と蔵前の天文方の緯度差は一分半と知っていたから、「両地点の子午線上の距離がわかれば、地球の大きさは計算できる」そう思いつくと、すぐ実行にとりかかった。
 試測のデータは師匠に相手にされなかったが、蝦夷地までも測ったら使えるデータが得られるかも知れないといわれ、蝦夷地まで地上の距離と星の高度とを測る決意をする。第一次測量である。実現には桑庫隆朝の側面工作の力が大きかった。測量の実務については、高橋至時が細かい注意をあたえた。彼は忠敬を全面的には信頼できなかったようだ。
 忠敬ら一行6名(55歳の忠敬、内弟子の門倉隼太・平山宗平・伊能秀蔵、下僕の吉助・長助)の測量隊は、蝦夷地が寒くならないうちにと、急ぎに急いで蝦夷地の根室の近くのニシベッまで往復3,200キロを180日かかって歩測した。
 昼は交代で歩数を数え、曲がり角では方位を測る。夜は宿舎の庭に象限儀を据え付けて星の高度を測った。蝦夷地測量の成果は小図1枚、大図21枚に描いて提出された。この結果を高橋至時はみて、予想外の頑張りに感動し、よくできたと激賞した。
 費用は節約して約百両かかったが、お手当は22両だった。器具の準備に70両かかったから、初めての測量の自費負担は、約150両弱。今のお金で3,000万円位だろう。
 実績が認められ翌享和元年(1801)には、当時幕府がいちばん知りたかった伊豆半島、房総半島から三陸、下北半島まで測って、日本東海岸の図を作るように命じられる。

日本全国の測量
 蝦夷地の実測図は大変高く評価された。現在図と較べても経度を補正すれば、地形は重なる。
 第二次測量では測量方法を改善し、間縄を使って本州東海岸の測量を始める(第一次の蝦夷地測量では全行程とも歩測だった)。
 ついで、第三次測量では出羽から日本海沿岸、第四次測量では東海道・北陸道沿海、と測量が続けられ、文化元年には東日本の図が完成した。
 八月に老中・若年寄の閲覧に供し、九月、第11代将軍・徳川家斉の台覧をうける。
 ここまでは幕府が補助金を出した忠敬の個人事業であったが、このあと、忠敬は微禄だが幕臣(45俵くらい)に登用され、幕府測量隊として下役・内弟子など多数の部下をつれて、老中の御証文を持って西国の海岸と主要街道を丁寧に測量した。
 伊能隊の全測量日数の約八割は幕府事業として遂行された。
 測量旅行の回数は、10回におよんだが、忠敬は第九次の伊豆七島測量を除いて全測量に従事した。測量距離は約4万キロ、忠敬自身の旅行距離は3.5万キロに達した。すべての測量をおわり、弟子の問宮林蔵が担当した蝦夷地の測量デー夕を受けとったのち、文政元年4月13日(1818.5.27)に地図御用所であった八丁堀の自宅で没する。享年73歳。
 地図御用所では、忠敬の死を秘して地図製作の作業が続けられ、3年余り後の文政4年(1821)に完成する。上司の高橋景保は、忠敬の孫・忠誨と下役一同をともなって登城し、老中・若年寄の前に地図を提出し閲覧に供した。最終提出の伊能図の名称を「大日本沿海輿地全図」という。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなる。その後9月4日(1821.9.29)に至って忠敬の喪を発した。 
 正式な名称を「大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)」という。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなっている。

(この項、「」HP参照。)

(以下は、「」HPによる))

第二次測量 1801年 伊豆~東日本太平洋側 230日間

第三次測量 1802年 東北日本海側 132日間

第四次測量 1803年 東海・北陸地方 219日間

第五次測量 1805年 近畿・中国地方 1年9ヶ月間

第六次測量 1808年 四国 約1年間

第七次測量 1809年 九州前半 1年9ヶ月間

第八次測量 1811年 九州後半 913日間

第九次測量 1815年 伊豆諸島 約1年間

第十次測量 1815年 江戸 約半月間
(第九次測量と第十次測量は並行して行なわれた)

 気になるのは「当時、どのような方法で測量していたのか?」ということですよね。
 忠敬は55歳(1800年)の時に第一次測量のため、蝦夷地へ向かいました。
 この時一緒だったのは息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人、それに馬2頭でした。
 この時の測量は一定の歩幅(70cm)になるような歩き方を訓練し、複数の人間が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算していくという方法でした。
 気が遠くなるようなやり方ですが、それでも毎日40kmを移動したと言うのですから、その脚力にも驚かされます。
 蝦夷地滞在は117日間にも及び、帰宅後は測量データをもとに3週間かけて地図を完成させたと言われています。
 翌年1801年には第二次測量がスタート。
 伊豆から太平洋側北端にある尻屋崎までの東日本太平洋側の測量です。
 今回は蝦夷地で用いた「歩測」による測量ではなく、一間(約180cm)ごとに印を付けた縄(間縄=けんなわ)を使う方法に変更。
 楽になったかと思いきや、海岸線は複雑に入り組んだ地形が多かったり、時には断崖絶壁に縄を張っていく測量になったりと、その苦労は尽きなかったようです。
 この第二次測量に要した日数は230日間。
 8ヶ月近い期間、様々な困難と向き合いながら測量を行なうことは、精神的にも肉体的にも相当過酷であったと考えられます。
 忠敬はここまでの測量から、子午線一度の距離を28.2里と導き出すことに成功したと言われています。

 忠敬は最終的に第十次測量までを成し遂げます。
 東日本の海岸線測量が完結した第四次測量の後、忠敬は当初の目的であった地球の大きさを求める計算を始め、その結果約4万キロという数値に辿り着きました。
 忠敬の師である高橋至時の持つオランダの天文学書の数値と照らし合わせ、両方が一致することを確認し、2人で大喜びしたそうです。
 第十次測量が終了するまでの忠敬が歩いた距離は4万キロとされ、それこそ地球1周分の距離を歩いたことになります。

 
(「伊能図 | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)」https://kochizu.gsi.go.jpHPより)

「佐原駅」。趣のある駅舎。

駅前の観光案内図。→が来た道、○が「忠敬橋」。

「水郷佐原 あやめ祭り」開催中です。

 以上、「佐倉街道」「成田街道」「佐原街道」と歩き、「小江戸・佐原」で終了です。
 「日光例幣使街道」歩きで「小江戸・栃木」を歩き、去年、「川越街道」を歩き、「小江戸・川越」にも行きました。川越はすばらしい蔵の街ですが、栃木のように「水辺に蔵造り」ということで、規模は小さいですが、佐原も魅力的。そういえば、倉敷もすてきです。

 さて、次回はどこを歩きましょうか?
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成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その4。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-13 21:51:21 | 佐倉街道
                           観光客がそぞろ歩き。外国人の姿もちらほら。「福新呉服店」「小堀屋本店」。
                       正文堂」(さわら十三里屋)。

忠敬橋」から「小野川」北側(下流)を眺める。

「解説板」。
佐原の町並
 利根川図志(1855年)に「佐原は、下利根附第一の繁昌の地なり、村の中程に川有りて、新宿 本宿の間に橋を架す、米穀諸荷物の揚げさげ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそい、両岸の狭きをうらみ、誠に、水陸往来の群集、昼夜止む時なし」と記してある。
 江戸時代の佐原は「小江戸」と呼ばれ、この周辺の町並には、国指定史跡伊能忠敬旧宅や県指定有形文化財小堀屋本店店舗、正文堂書店店舗をはじめ、土蔵造りの古い商家がある。
 また、関東三大祭りの一つとして数えられる「佐原まつり」は、豪華絢爛を競い、山車で奏される県指定無形民俗文化財佐原囃子は水郷情緒を代表するものである。


植田屋荒物店」の裏手。

南側(上流)を歩きます。
対岸には「まぎの屋菓子店」。

伊能忠敬旧宅」。

                          

 
              「樋橋(とよはし)」。
 樋橋は、江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋をつくり小野川に架けられたものです。
 もともとこの橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け板を敷いて、人が渡れるようになりました。
 橋の名は、大樋でつくられたので樋橋といい、また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたので「ジャージャー橋」とも呼ばれました。
 昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成4年に架け替えられたものです。

割烹 宮定」。
 このお店はテレビ東京の「和風総本家」のオープニングとして使われ、お店の看板を「和風総本家」に書き換えている、とか。

遅歩庵(ちぶあん)いのう」。
「樋橋」の近く、「伊能忠敬記念館」のそばにあります。「東京バンドワゴン」の看板。これは、2013年に放映されたドラマ「東京バンドワゴン~下町大家族物語」のロケで、「遅歩庵いのう」が使われた名残。ドラマの設定では、古本屋だったそうです。
  (公式ツイッターより)

 訪れた女性達が「ここに来たかったのよ」と、とても感激して記念撮影をしています。
                    

重厚な「見世倉」。

                    中村屋乾物店」。

茶屋花冠」。

奥に見える赤レンガ造りの建物は、「佐原三菱館」。
 明治の洋風煉瓦造建築の様式を受け継いだもので、外観はルネサンス建築様式、屋根は木骨銅板葺き、正面右にドームを配している。 内部は吹き抜けで、2階の周囲に回廊がある。窓や出入り口には上部巻上げ式のよろい戸、鉄製のサッシが残っている。 建築当時の図面にはこのほか、カウンター奥の壁中央に大理石張りの暖炉、南東隅には二階への螺旋階段があった。 佐原の町並みの中では、その特徴的外観からシンボル的な存在の建物である。
《大正3年築。旧三菱銀行佐原支店(それ以前は川崎銀行佐原支店)》
(この項、「Wikipedia」参照)
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成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その3。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-12 22:25:55 | 佐倉街道
                             暑くなってきます。
 右手にある、「ケーヨーデイツー佐原店」の涼しい店内で一休み。

(12:12)その先、右手に「雷神社」。旧道はこの神社の裏手を進んでいました。

この付近の今昔。

1880年代のようす。旧道は南側の集落を回り込むように進んでいた。


2010年代のようす。「ケーヨーデイツー」の先が「雷神社」で、旧道との分岐点。現在の道路は丘を切り崩し、直線化されている。

そこもスルーし、進みます。住宅地になっています。右手に「特養ホーム」。

「リーフ ガーデン」。アパートのようです。

鋭角に左折し、北に位置する佐原の市街地に向けて進んでいきます。
    
            
            
1880年代のようす。                      2010年代のようす。現在でも途中から急坂に。
急坂の「大坂」付近では曲がりくねって坂を下ったようです。

(12:22)「上宿台」バス停。

この先がかなり急な下り坂「大坂」に。

(12:26)急な下り坂の手前に大きな「馬頭観世音」と祠。                         
 現在は崖を切り崩し、少し緩やかになっていますが、かつては厳しい急坂だったようです。左手は丘陵、右手は深い谷。
 

遠く佐原の街並み。

ようやく下り坂も終わり、平坦に。

左手・「法界寺」からの道を合わせると、家並みが続くようになります。



(12:37)酒蔵「東薫酒造」。

その先に「清酒糀善」。

                          

道路をはさんで大きな木造の蔵。

古い伝統的な家屋が並ぶ中心部に入って行きます。
                   
                               
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成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その2。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-11 21:04:17 | 佐倉街道
                                「秀じい農場・バラ園」。

集落に入って行きます。

(10:32)「桜田権現前」交差点。右に折れる道が「多古」へ向かう道。

この近辺でよく見かける屋根のかたち。大きな農家の造り?

先に進みます。

街道の左右に農地が開けてきます。

(10:46)左手に「秀じい農場」という看板と直売所。

                              

 バラが咲き誇っています。実は、「大栄IC」付近にあったバラは、ここの農場の堆肥で栽培されていたものだったようです。


 

 この農場は「秀じい解体」の関連農場のようです。去年のブログより。

 秀じい解体は木造住宅専門の解体工事メーカーです。木造住宅家屋を安く解体し、その木くずを使って堆肥や野菜作物へとリサイクルしております。
 今回は野菜作物を栽培している秀じい農場の活動をお伝えします。
 解体木材を加工しできた「秀じいの堆肥」はバラ科の植物に特に効果的だと買った人からよく言われます。秀じい農場の代名詞でもあるイチゴも実はバラ科の植物であることは意外と知られていないかもしれません。
 皆様に「秀じいの堆肥」の効果を知ってほしい。そんな思いから4年前に休眠した秀じい農場直売所付近の土地を利用し、徐々にバラを植えております。
 まだまだバラ園と言えるほど育っているわけではありませんが、ゆくゆくは大勢のお客様が来ていただけるようなものにしていきたいと思います。
 今後とも『百年先を観る家屋解体』の秀じい解体をどうぞ宜しくお願いします。

                            有限会社秀じい農場
                            バラ園住所:千葉県成田市所884番地2
                            お問い合わせ(堆肥注文その他):0476-73-6318

 1年後、すばらしい「バラ園」になっています。しばし、ぐるりと。足下の板張りも廃材利用?
       

                       久々に堪能。

さて、再開。   
          (10:58)「香取市」入り。

この付近では旧道と現街道(国道)とはほぼ同じか。
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。



こんな工場も。「トラックアクセサリーヤマダ」。

畑が広がります。

写真では分かりにくいが、菜の花にモンシロチョウが群がっています。

右手に大木が見えてきます。

(11:26)木の根元に石の祠。

小さな草原。
                日本でも草原が急激に失われている、とか。ここもいつまで残っているか?

(11:35)どうもこの道が旧道らしいが、パス。

        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。←の道。

 沿道が車の販売店や食堂などかなり賑やかになってきます。(11:43)「国道51号線」も「千葉まで48㎞ポスト」。
                 

(11:50)しばらく進み、「国道51号線」から右に折れて行きます。

        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。広く、直線化されています。「国道51号線」はそのまま直進。 

                   静かな道筋に。 
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成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その1。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-10 21:26:37 | 佐倉街道
                             平成18(2006)年、「大栄(たいえい)」町は成田市と合併しました。

 「旧佐原街道」はこの先、「現佐原街道(「国道51号線」)」を歩くことになります。
 しかし、旧街道は「歴史的農業環境システム」によると、「昭栄郵便局」のところを(二軒並んで「長屋門」があった手前)右折していく道(現在は農道のような道)がそうだったようです。事前の「新・旧道」確認が不足していました。



1880年代のようす。街道は、かつての城山を回り込むように山裾を進んだ。



電子国土基本図(2010年代)。現街道(国道)は城山を切り崩してつくられたようだ。下の○が分岐点。→が旧道。上の○が支所裏の道との合流点。

 成田市コミュニティバスで「大栄支所」まで。200円で来ることができます(「千葉バス」だと520円)。
 その代わり、ぐるぐると寄り道をしながら、成田空港のすぐ脇を走ったり、森の中を行ったり、集落を進むので、開けたところ、右に左に急カーブ、・・・それでいてけっこうスピードを出します。

 (9:28)さっそく支所の裏手へ。上図の旧道歩きはパス。
この道は旧道ではありませんが、里山風景が広がります。  

田植えを終えたばかり、緑がまぶしい。

その先で旧道と合流(地図で上の○地点)。

  
 路傍の草むらに「道標」。すり減っていて読みにくいですが、「西 きちおか なり田」・「東 いのう さはら」・・・。
 この道が旧道であることには間違いなさそう。

田んぼの向こう、左手に現佐原街道「国道51号線」。

 (9:39)「馬洗(まあらい)橋」(大須賀川)。
 
 この付近の高台には、「馬洗(まあらい)城」があったようです。

「おかげさま農場」「かざぐるま」。この道は旧道ではありません。

(9:43)「国道51号線」に出ます。これから長い、国道歩きが。
                                    バス停の数で25以上?

 日ざしの割には爽やかな風が救い。

沿道も花や野菜などが目をひきます。ソラマメ。

(9:53)「千葉から41㎞」ポスト。

「歯科病理学之祖 花沢鼎先生之碑」。

  

沿道には咲き誇る草花。

「明日からあなたはこっとう屋さん」。応援します第二の人生・・・。

車の行き来が激しい、単調な国道歩き、目を和ませる草花が。

この付近は台地のため、畑地が多いようです。

(10:15)「東関道・大栄IC」へつながる道と交差します。

 

この付近の今昔。


1880年代のようす。旧道は集落を縫うように進んでいます。



2010年代のようす。「国道51号線」が中央を貫いています。旧道は、北側の広い道から右手の集落へ向かう道がそのようです。

 こうした空撮からだと何とか類推できるが、実際歩いていると、なかなか難しい。特に成田空港や東関道などの開設以来、この付近の変化は激しい。この先もそんな感じです。この旧道もパスします。

 「」HPが、旧道をできるだけ正確に辿ろうとしています。「迅速測図」(「歴史的農業環境閲覧システム」が利用している資料)をもとに、実際に歩いた記録。
 ただし、この方は成田から佐原まで休憩時間もほとんどないまま一気に歩いていて、その間にこまめに写真を撮り、「迅速測図」と比べながら歩き、細かなメモをしているんですから、驚異的でとうてい真似できません。

左手の一画にバラが咲いています。

 

 車が通過するばかりで、歩いたり自転車で通る人の姿は無く、ゆっくり眺める余裕はなさそうですが。すてきなバラがけっこう植わっています。


(10:23)「千葉から43㎞ 鹿嶋まで30㎞」ポスト。
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葛飾区銭湯めぐり。その5。そのぬくもり。「寿湯」、「富士の湯」、「日の出湯」。

2019-06-07 20:31:57 | 葛飾銭湯

⑬「ことぶき(寿)湯」。葛飾区堀切6-8-6
 「区立双葉中」北側の道を西に向かい、「南綾瀬小」の手前から住宅街へ入ってしばらく進むとあります。
 昭和20年代の創業とかですが、15年前に浴室を、4年ほど前に脱衣場を改装しているそうで、浴室。床、壁共にきれいです。男湯の脱衣場の奥にお座敷があるのが面白い。風呂上がりにごろんと横になり、新聞を読んでいるお客さんがいます。背景画は富士山が奥に描かれていますが、手前にはそそり立った岩山(島? )があって滝も流れています。なんというか不思議な光景で、実に迫力満点。一見の価値あり。
 浴槽の半分が浅い気泡風呂、そして、超音波気泡ジェット2連の座り風呂、強力ジェットバスが魅力です。薬湯もあり。清潔感があって雰囲気、よし。
                   

⑭「富士の湯」。葛飾区堀切4-58-26
 「南綾瀬小」を左折(「川の手通り」)し、「平和橋通り」を右折すると、左手のマンションの脇に煙突が。
 50年以上は暖簾を掲げているとのこと。昭和59年に改装し、男湯には富士山、女湯にはアルプスを想像させる山々がタイルモザイクで。
 最近は、かつてのペンキ絵ではなくタイルモザイクで、という銭湯もけっこうあるようです。
 「富士の湯」という銭湯は区内に3つあり、近くには「第4富士の湯」というお風呂屋さんがあります。しかし、「第1」~「第3」という数字を付した「富士の湯」はこの「第4」以外にはありません。
 かつて、「堀切菖蒲園駅」の南側に「第一富士の湯」さんがあったようですが、すでに廃業。
 「超音波風呂」、「ニューバイブラ」という看板が掲げられています。「ジェット風呂」はなかなかよかった。
                   

バイブラ 
 代表的な気泡浴のひとつで、浴槽の床に埋め込まれたマットから細かい気泡が吹き出し浴槽全体に広がる風呂のこと。床板から発生した気泡がはじけるときに発生する超音波が骨の芯まで浸透し、ストレス解消やリラクゼーション効果だけでなく疲労回復や血流促進などによく効くと言われている。
 同じ気泡浴でも、ジェットバスはノズルから出る噴流に気泡が混じって出てくるが、バイブラバスは下部から気泡のみが発生するといった違いがある。
             
(この項、「」HPより)

⑮「日の出湯」。葛飾区堀切1-15-7
 「堀切菖蒲園」の南、ほど近くにあります。住宅街の中にある大きな煙突を目印にやってきました。入口はちょっとためらってしまうほど年期が入った印象。
 番台のおじいさん(おばあさん)が背中を丸くして座っています。声を掛けてやっと気づくほど。
 脱衣所の床は板張りが不安定、ロッカーもそうとう傷んでいる。トイレも、庭も、・・・これまで訪問した銭湯とはちょっと趣が違う印象。「旧き良き昭和の雰囲気を醸し出している」といえなくもありませんが。
 しかし、ここのタイル装飾は、出色のできばえ。
 浴室の壁にある細やかなタイル絵は、男湯は金閣寺と舞妓さんが描かれ、実に見事! また、女湯は西洋風のお城が描かれています。さらに、床面にはカニやハマグリも。
 お客さんは数人、皆、顔見知りのようで、互いに挨拶を交わし、背中を洗い流しあっています。
 これまでの銭湯では会話する方は多くいますが、背中を流し合うのは、初めての光景。見慣れない小生にもきさくに声を掛けてきます。女湯からも楽しげな会話が聞こえてきます。まさにアットホームな銭湯。
 湯舟は大小一つずつ。大きい方はジェット風呂(といってもおとなしい)。どちらも2、3人入れば、いっぱい。岩風呂風なのがおもしろい。しかし、湯船の床がモザイクなのか、はがれてしまったのか、かなり足下が気になります。
                  

 今回はこのお風呂屋さんの訪問記を引用させてもらいます。

・・・現在の建物は前回の東京オリンピックの年、昭和39(1964)年に建てられ、今も当時のままの姿を保っている。ところどころ傷んだ箇所は見受けられるが、清掃は行き届いている。私は傷んだところですら日の出湯の55年の歴史を感じて、ついカメラを向けたくなる。
 今回、日の出湯さんを撮影対象に選んだ理由の1つは、壁面や床面に施されたタイルの装飾である。床面のタイルは特に珍しく、大小様々な形のタイルと蟹や貝のタイルが不規則に配置されていて、そこだけ切り取ると銭湯の床とは思えない世界観が現れる。
 撮影するに際し、タイルの配置とアングルの切り取り方のバランスを考慮して撮影していた為、この床面だけで30分は時間を掛けたのではないだろうか。床ばかりを眺めている私を見て、さぞ日の出湯の方々は「困った人が来てしまった」と首をひねったことだろう。その他、壁面のモザイクタイル絵も素晴らしい。さまざまな色のタイルを使って、グラデーションを再現していたり、水面に映る建物の反射まで再現してる箇所は必見である。
 現在の日の出湯は、さほど混んでもいないし、お客さんがいないと早く閉めることもある。今回の写真が東浴のホームページで紹介されても、「お客さんが増える訳がない」とご主人は自嘲気味である。それはそうかも知れない。写真の力で人を動かすことがたやすくないことは知っている。でも、写真でこういうものがあったと伝えることはできる。あとはそれを見た人がどう思うかに委ねられているような気がする。
 想像してみて欲しい。55年前の高度成長期の真っ只中、老人から子供まで入り乱れ混み合う浴室で、言葉を覚えたての幼子が床を指差して『かにぃ!』と発している風景を。
 来年は否が応でも東京はオリンピック一色に染まるだろう。2度目のオリンピックを迎える日の出湯に入りながら、半世紀前の浴室に思いを馳せる。そんなひと時もよいのではないだろうか。
                                    写真家 今田耕太郎
(この項、「」HPより)

 上記の訪問記には「日の出湯」のすばらしいタイル装飾の写真が掲載されています。

 風呂から出て、外に出ると、大きなスーパーが二軒、さらに大規模な建売住宅造成など、かつてのごみごみした住宅街、町工場が変貌しつつあることを実感。
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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その6。三橋鷹女。(「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-06-05 18:33:05 | 佐倉街道


                         

 京成成田駅前の「餃子の王将」に入り、少しのどを潤し、表参道へ。けっこうな人通り。外国人が多そうです。
 実はこのチェーン店、日頃よく利用する駅前にもあって、ちょくちょく立ち寄るお店。5月末までポイントキャンペーンをやっていて、あと少しで目標ポイント達成。と、このお店で見事、達成!

こういうカードと割引券を入手。

少し参道を進むと、右手の広場で成田の地酒の試飲会が終了間際。

(15:54)さっそく、行きに見つけた「不動仁勇」のところに。

ほろ酔い気分で散策です。右奥がここも有名な地酒「長命泉」。

長い参道をそぞろ歩きする観光客。 

建物は新旧併せ持つ印象。

全国に名の知れ渡った「なごみの米屋」。

                         店内の賑わい。

(16:04)参道の真ん中に位置する時計台。
                  十二支が描かれています。

参道は緩やかにカーブした坂道に。

右手に「俳人・三橋鷹女」ブロンズ像。

                     
 女流俳人鷹女は、明治32年(1899)に成田町成田(現在の成田市田町)で、父三橋重郎兵衛・母みつの三女として生れました。本名はたかです。成田幼稚園、成田小学校をへて、成田高等女学校(現在の成田高等学校)を卒業しました。
 大正5年(1916)に上京、同11年(1922)に歯科医師の東謙三(号剣三)と婚姻し、夫と共に俳句にいそしみました。
 初めは「鹿火屋」、次に「鶏頭陣」などに属しましたが、のちには永く結社に拠らず、独自の句境を築きました。
   夏痩せて嫌いなものは嫌ひなり
   白露や死んでゆく日も帯締めて
   口中一顆の雹を啄み 火の鳥や
 などの句はよく知られています。
 昭和47年(1972)、73歳で永眠しましたが、生家に近い田町の、通称白髪毛にある三橋家墓所に葬られました。
   千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作)
 このブロンズ像は鷹女の生誕百年を迎えるに際し、市民ならびに多くの賛助者の協力によって、彼女の姿をふるさとの地成田によみがえられたものです。

                     鷹女の像をつくる会

 三橋 鷹女(みつはし たかじょ)は、女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれました。
 この方の句で印象的だったのは、

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

 です。
この句でも知れるように、女性の情念を詠む前衛的な句風で、表現の激しさは、当時の女性俳人の中でも異色の存在でした。以下のような、まさに鬼気迫る句を残しています。

老いながらつばきとなつて踊りけり
墜ちてゆく 燃ゆる冬日を股挟み
鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪うべし


注:鞦韆=ぶらんこのこと。

 蘇東坡の詩に、

 春 夜
 春宵一刻値千金 
 花有清香月有陰 
 歌管楼臺聲細々 
 鞦韆院落夜沈々


 がある。

しだいに陽が西に傾いてきます。それでも人通りはまだまだ絶えません。 

                  



名物のうなぎ屋さんが軒を連ねています。

店頭でうなぎをさばく職人さん達。手際の良さに感心。

伝統がある佇まいの建物が左手に。「大野屋」。
 成田山新勝寺山門のちょっと手前に立つ、3階建て+望楼の豪壮な木造旅館つくり。江戸時代からの宿屋ですが、現在、宿泊は対応せず、名物「うな茶漬」「うな重」「漬物茶漬け」などの料理店、および漬物店を営業しているようです。「手打ちそば」も。

(16:25)そろそろ駅に向かうことに。

                     

 次回は、「大栄支所」から佐原までです。

                   「勧進帳」。

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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その5。「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-06-04 19:00:28 | 佐倉街道
               「十余三」地区は「成田空港」によって東西に分断されています。
                                 

「十余三」地区の今昔。

1880年代のようす。茶畑や畑地が広がる。


2010年代のようす。中央(↑)に「東雲の丘」・トンネル。

周囲には里山風景が。

(12:53)「十余三第2大橋(東関道)」を越えます。

この付近は「大栄JCT」。「東関道」と「圏央道」との分岐。

沿道の新緑がまぶしい。
 

(13:02)「圏央道」の下をくぐります。

                      

 「大栄工業団地入口」交差点にある大きなスーパーで買い物がてら、のんびり休憩。

(13:48)「大慈恩寺」方向へ進むのが旧道。

               
           左に入る広い道だったようですが、「大慈恩寺」の案内板がその先にあって戻る形。そのまま行き過ぎてしまいます。

(13:53)「吉岡並」交差点で左から来る道が旧道でした。 

          
          
1880年代のようす。上に「大慈恩寺」が。          2010年代のようす。現在もしっかり旧道が残っています。

「伊能歌舞伎米」の幟。

家並みが。 
 
大きな屋敷が目立ちます。

(14:00)古い家並みを感じさせる、立派な長屋門のおうちが二軒並んでいます。


                           

「たばこ小賣所」の看板(→)のあるおうち。

(14:03)「千葉から39㎞」ポスト。

 

(14:12)この先、「成田市大栄支所」が今回の終了地点。
                            注:この庁舎は「伊能」寄りに移転し、現在は使用されていません。

 もっと先まで行こうと思いましたが、次回が中途半端になってしまいそうなので、早々終了。
 30分以上、千葉バス「京成成田駅」行きのバスを待ちます。のどかな昼下がり。

 さて、京成成田駅に着いたら、少し腹ごしらえをして、門前町を歩く予定です。
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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その4。「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-06-03 19:54:39 | 佐倉街道
                              御殿。

(11:58)「千葉から33㎞」ポスト。ダンプや物流関係の大型車が轟音を立てて通ります。
                                   人影はまったくなし。

農作業用の車も行き来。この付近は、田園地帯。「新鮮野菜直売所とよみ」。

栗園。

 (12:15)「東小学校」交差点の電柱のところに道標。「西 野毛平成田道 東 長田堀之内道」「北・・・佐原道」。
   

来た道を振り返る。

 この先、「十余三トンネル」で成田空港(滑走路)をくぐりますが、その手前、左手に展望広場「十余三東雲の丘」があり、飛行機の離着陸が眺められます。


十余三東雲の丘
 この名称は広く地域の皆さまからも親しんでもらえる施設にしたいとの想いを込めて、成田市立東小学校の子どもたちが考えてくれました。自分の学び舎である東小学校の「東」にちなんで「東雲の丘」と名付けられました。

(12:20)休憩を兼ねて上がってみます。眼下遙か遠くまで成田空港が。

見物客もいて、撮影もしています。

                         

目の前に着陸する飛行機がひっきりなしに。

成田空港を離発着する航空機一覧。

                      

「成田国際空港」には反対運動が激烈に行われました。さまざまな思い、歴史があります。このかんの経過をまとめた記事を紹介。

(「教科書に載っていない成田空港の歴史 | 羽田空港サーバー
https://www.haneda-airport-server.com/entry/20160824082852」HPより)

成田空港ができるまで教科書に載っていない成田空港の歴史
 その歴史は今から50年ほど前になります。
 当時の羽田空港の拡張工事だけでは今後の発着能力が不足することから新空港の計画がスタートします。
(注:「羽田空港の拡張工事」が出来ない理由の一つに、「アメリカ空軍管制区域(横田飛行場上空の「横田ラプコン」)などとの兼ね合いから、航空機の離着陸経路の設定が著しい制約を受ける」というのもあった。)

新空港の候補地
・千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地
・印旛郡富里村(現・富里市)
・茨城県霞ヶ浦
・神奈川県横浜市金沢区の金沢八景沖の埋め立て地
 さまざまな候補地から最終的に成田市三里塚に決定しました。

住民には事前説明すら無し
 当時、政府は合意を得るどころか事前説明もなく強制的な姿勢をとります。
 まぁこれがすべての始まりかも知れません。当然ながら住民の猛烈な反対運動が起こります。
反対運動の拡大
 この反対運動は、次第に様々な団体などが関与して次第に革命運動レベルになります。政府の強制的な権力には力で対抗するという暴力革命により機動隊と反対派の激しい衝突にまで発展します。

東峰十字路事件
 2回の行政執行の結果、警察官3名が殉職する事件が発生します。この司法解剖の内容はあまりに残酷な内容なので記載は控えます。
 興味がある方は調べてみてください。

東山事件
 航空妨害を目的とした鉄塔を建てて対抗して、政府は当初の「1972年開港」の断念を余儀なくされました。鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、反対派支援者1名が死亡しました。

成田空港管制塔占拠事件
 開港直前になってゲリラが新東京国際空港の管制塔に進入し、管制塔内の機器を破壊しました。これらの様々な混乱により開港がさらに延期になりました。

開港後
 京成電鉄のスカイライナー車両を放火し、4両を全半焼させるというテロ事件・京成スカイライナー放火事件が起きました。また、京成本線5ヶ所で同時多発列車妨害事件も発生しました。
 開港後も航行妨害が続いたため、警察は厳重な警備を敷くことになります。また空港の安全確保のため、千葉県警察警備部に専従の機動隊「新東京国際空港警備隊」(現・千葉県警察成田国際空港警備隊)が発足しました。

反対運動の影響
 ドイツのミュンヘン国際空港はこのような紛争を避けるため、成田空港の事例について徹底した研究分析を重ね、これを元に反対派を十分に説得した上で建設されている(着工後5年で完成)。
 日本でも、成田での経験を元に大規模空港は騒音問題等が発生しにくい海上に造られるようになった。それでも関西国際空港の工事中には、成田空港反対派系の団体が空港建設の見学船を放火するテロ事件を起こしています。

東峰神社
 成田空港の滑走路のすぐ脇にあるこの神社は、一見すると飛行機マニアにはたまらないスポットですが実際は人感センサーがあちこに設置されており警察官も常にパトロールしてるために職務質問を受けることもあります。
 何故かと言うと東峰地区は、激しい成田空港建設反対運動の中でも特にB滑走路延伸計画等に伴い最近に至るまで反対運動が活発に行われている地区です。
 東峰神社はこの地区における反対運動を行う人々にとって運動の象徴ともされており、一部過激派等による空港施設や敷地への破壊工作や不審者接近を防ぐため、非常に多数の制服、私服警官が常時付近を巡回しています。

昨年まで開港から37年間もの間、成田空港には検問所がありました。
 これは上記に書いた同空港の反対派運動対策で実施されていたものです。この37年間の長期間検問が実施されていた国際空港は他に前例はなく、異例な対応です。
 検問は、成田空港駅、空港第2ビル駅の自動改札を出た先や成田空港第2ターミナル前の東成田付近の道路など計6ケ所で実施されていました。
 今後は、顔認証機能を持つカメラなどを導入して対応する予定です。
(注:2015年3月に検問は全面廃止になった。)

まとめ
 このように教科書には載っていない成田空港の歴史を紹介しました。
 たまに特番で一部成田空港の話が出る程度でかと思います。
 また当時の反対運動に関わっていた方も50年という時間によって、当時を知る方も少なくなっているのも事実です。
 成田空港を利用される際には、このような歴史を知った上で利用してみてはいかがでしょうか。


空港問題とは
 1960年代はじめ、羽田空港が10年後には過密状態になるのとの予測が出され、1961年に新たな国際空港の建設計画が浮上した。建設地をめぐって複数案が出され、候補地となった現在の千葉県富里市や八街市などでは、住民の反対運動が繰り返された。1966年新たな案として成田市の三里塚が浮上した。この案は7月4日、突如閣議決定された。
 以来、その大地で生き続けてきた用地内住民、周辺住民と、建設を推進する国家的プロジェクトとの間に厳しい対立を生み、さらに支援者をまきこんで激しい闘争の歴史を刻んできた。この地に空港を建設するということは、土とともに生産活動を展開してきた農民の魂を激しく揺さぶり、空港建設を至上命令として取り組む建設側との間にのっぴきならない摩擦や亀裂を生んだ。砦や要塞、鉄塔、団結小屋などを建設し、さまざまな手段で空港建設を阻もうとする農民と支援者、土地収用法など強制力を行使するために機動隊を動員した建設側、両者の間には、しばしば力対力の構図が生じ、その激突の中で双方に多くの犠牲者が出た。
 こうした状況の中で、1978年に空港は1本の滑走路で開港したが、両者の溝は埋まらないまま、こう着状態が続いた。それを打開するために、反対同盟と運輸省(当時)は話し合いの場を模索し、曲折を経て、両者の間に立つ隅谷三喜男を団長とする調査団が発足した。「成田空港問題シンポジウム」は、1991年から93年にわたって15回開かれ、抜きさしがたい対立を生んだその原因を検証した。結論は、空港の位置決定について地元との十分なコンセンサスがないまま、国や公団が空港建設を強行したことにあるとし、国は収用申請を取り下げ、二期工事を白紙とした。
 その後、シンポジウムの合意に基づき、地元や空港の在り方を今後どうするかについて、地元住民も参加する対等な立場での話し合い「円卓会議」(93年~94年まで12回開催)が行われた。位置決定から28年の歳月を経て、地域と空港の共生をめざす「成田空港地域共生委員会」が発足し、住民の立場から空港の運用と建設をチェックする第三者機関として活動を開始した。そのなかで、この間の歴史を正確に伝えていくことを目指す歴史伝承部会も誕生した(1997年)。この部会が、歴史館につながっていくことになる。
                                                            成田空港 空と大地の歴史館 名誉館長 新井 勝紘


「B滑走路」下のトンネルを通過し、東側に出ます(12:38)。

                       

 ちなみに「B滑走路」の南端すれすれに上述の「東峰神社」があります。

↑付近をトンネルで通過?
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