おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

坂本宿。その2。(旧中山道をゆく。第9日目)

2016-03-30 22:20:09 | 旧中山道

 その先、左手にある建物は「酒屋脇本陣跡」。現在は地区の公民館として使われています。その脇には「坂本宿屋号一覧」が掲示されています。

       

 整然とした町並み。街道の中央、北、南に用水が流れています。本陣が2軒、脇本陣が4軒、さらに旅籠屋、関連施設がずらりと。かなり大きな宿場であったようです。

「脇本陣永井」。白壁と屋敷門。

                            「佐藤本陣」。
    

 坂本に二つある本陣のうち当本陣は、「佐藤本陣」また「上の本陣」と呼ばれていた。三代将軍家光は、寛永19年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務づけた。そのため、文政年間では31大名が坂本宿を往来した。
 寛政2年8月8日、坂本宿で加賀百万石といわれた松平加賀守が江戸へ信州松代真田右京太夫は帰国のため信州へで擦れ違いそれぞれ宿泊している。東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため坂本泊まりが必然となり本陣が2軒必要だった。
 安政6年(1859)2月、安中藩主板倉主計頭が大阪御加番(大阪城警備)を命ぜられ登城するとき後輩源左衛門と組頭の甚右衛門は安中藩の役人宅へお祝いに参上している。そして、御本陣番(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅(金井本陣)である。
 宿割りは脇本陣をはじめとして16宿。板倉候はじめ藩士二百余名は、7月17日朝五ッ半(午前9時)坂本に到着した。大名はじめ宮様、日光例幣使、茶壺道中で坂本宿はたいへんな賑わいであったが、その反面難渋も少なくなかった。
 
 解説板と並んで、「坂本小学校発祥の地」の石碑が建っています。敷地はともかく、この建物は、もちろん本陣時代のものではありません。つくりも旅籠屋風で、さらに小屋根(養蚕用)の乗った建物になっています。

奥に掲示してある解説文。

 明治8年4月10日、佐藤本陣(上の本陣・佐藤慎一郎氏宅)を仮校舎にあて、坂本小学校が開校されました。
 その後佐藤家は移住、現在の家屋はその跡地に明治34年3月、小竹屋の分家(「分家・小竹屋」、通称「新築・小竹屋」)として建てられたものです。

 分家・新築 小竹屋当主
 
           

左手が「佐藤本陣跡」の建物。奥に見えるのが「刎石山」。

「脇本陣みまがや」。

    
                           「うだつの上がる家」。
うだつ
 日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾。本来は梲と書き、室町以降は卯建・宇立などの字が当てられた。

《歴史》
 平安時代は「うだち」といったが、室町時代以降「うだつ」と訛った。本来は梁(うつばり)の上に立てる小さい柱のことを言ったが、そののち、自家と隣家との間の屋根を少し持ち上げた部分を「うだつ」と呼ぶようになった。桃山時代に描かれた洛中洛外図屏風にはうだつのある長屋が描かれている。桃山時代から江戸時代初期にかけては木製のうだつが存在するなど、当初は防火壁と言うよりも屋根が強風で飛んだりするのを防ぐ防風の意味合いや、また装飾的な意味合いが強かった[1]。
 その後、隣家と接するケラバ(切妻屋根の両端)部分の壁を少し持ち上げ、独立した小屋根を乗せたものを「うだつ」と呼ぶようになった(本うだつ)。さらに、本うだつの下端が、平側の1階屋根と2階屋根の間の部分にまで張り出すようになり、その壁部分が小さい防火壁として独立し、これも「うだつ」と呼ぶようになった(袖うだつ)。
 本来、町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになる。自己の財力を誇示するための手段として、上方を中心に商家の屋根上には競って立派なうだつが上げられた。
 うだつを上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、これが上がっている家は比較的裕福な家に限られていた。これが「生活や地位が向上しない」「状態が今ひとつ良くない」「見栄えがしない」という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられている。
(以上、「Wikipedia」参照)

    
                         「坂本宿・下木戸」跡。
 慶長7年(1602)、江戸を中心とした街道整備が行われたとき五街道の一つとして江戸、京都を結ぶ中山道132里(約540㎞)が定められ、この間に69次の宿場ができた。
 その一つに坂本宿が設けられ宿内の長さ392間(約713m)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸、下木戸が作られた。本木戸は下木戸と称せられ、当時の設置場所に一部復元したものである。
 木戸は、軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前6時)から暮れ六ツ(現在の午後6時)までであった。実際には木戸番が顔が識別できると判断したようである。 文久元年の絵図によると、8間1尺巾(約14.8m)の道路に川幅4尺(約1.3m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家160軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。

 雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越しまし坂本へ

 「下木戸跡」の手前、右側のちょっと奥まったところに「金井本陣跡」があります。皇女和宮も一泊した本陣です。


       
               振り返って望む。車の通りも少なく、静かで落ち着いた町並み。

こうして再び、「横川駅」に向かいます。

 15分ほどゆるやかに下り、「旧18号」から左手に折れて急な「薬師坂」を下ります。
    
                                     「薬師の湧水」。 

「川久保薬師堂」。

 元和9年(1623)碓氷関所が開設されて通行の取締りに厳しさが増し、加えて碓氷峠が間近にひかえているため旅人は難渋を極めた。そこで、無事通過と感謝を込めてこの坂に薬師如来を祀る薬師堂が建立された。また、近くに清澄な湧水があるところから心太(ところてん)を商う店があり、旅人たちはここで憩いながら旅装を都問えたり、街道の事情を知る場所でもあった。このところから心太坂といわれ親しまれた。・・・ 

                             坂の上り口にある「薬師坂」碑。

 再び「旧18号」に合流します。「霧積橋」へ。

川久保橋
 碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。この橋は正しくは碓氷関所橋と呼んで中山道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であったため増水期になると度々流失した。関所設立当初は軍事目的を優先したからである。橋が流失すると川止めとなり、旅人や書状などの連絡は中断された。このため、関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて宿継ぎ御用綱として使われ書状箱を対岸に渡すことに使われた。
 細い麻綱を投げ渡して大綱を張り、大綱に竹輪を通して麻縄を繰り、ちょうどケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。川止めとなっても増水の危険を冒して渡河する人もいた。なかでも参勤交代の大名行列は日限も予定されているので渡河を強行したという。
 大名の渡河に際しては。番頭も川原に集まり出て見届けた。

正面の坂道が「薬師坂」。

「横川駅」へ向かう一画に大きな「顕彰碑」と「解説板」。どちらも「碓氷B舎鉄道」にちなんだもの。

    

碓氷馬車鉄道(うすいばしゃてつどう)
 かつて官営鉄道横川線(現、信越本線)の横川駅前から、碓氷峠を越えた直江津線(現、しなの鉄道線)の軽井沢駅との間を連絡していた馬車鉄道である。
 半官半民の私鉄である日本鉄道によって上野駅 - 高崎駅間の路線が開通した後、官営鉄道によって1885年(明治18年)10月15日に高崎駅 - 横川駅間が開業した。その後、日本海側の直江津駅からも順次南下して線路が敷設され、軽井沢駅までの路線が1888年(明治21年)12月1日に完成した。しかし横川駅 - 軽井沢駅間には碓氷峠という古くからの難所があり、この区間は直線距離にすると10kmにも関わらず標高差が552mもあるなど、鉄道にとっては非常に急勾配となるもので、工事も長期にわたっての難航が予想された。そのため、暫定的に両駅間を馬車鉄道によって結び、東京 - 直江津間の連絡と碓氷峠の鉄道敷設に要する資材輸送手段を確保しようと考えられた。これにより、国道18号上に線路を敷設することで開業したのが「碓氷馬車鉄道」である。
 旅客、貨物が好調で車両も増備したが、急勾配、急曲線のため線路や車輪の摩耗も激しく、馬匹も2頭引きの上、片道2回交代するなど経費がかかっていた。
 そして、わずか2年後の1890年(明治23年)には鉄道庁が碓氷線の建設を決定。株主総代が4月には山縣有朋総理大臣、翌年5月には鉄道庁長官に対して会社資産の一切を買収する旨の請願書を提出したものの、「該社の設立は中山道鉄道布設の発令以降にして、早晩官設あるべきは知り渡りたる事なれば、彼等は予め今日あるを十分覚悟の上に手着手したるものにして」として却下した。元々暫定的な鉄道であったため、1893年(明治26年)にアプト式ラックレールを採用して同区間の官営鉄道線が開通すると、開通僅か5年で廃線となった。
 (以上、「Wikipedia」参照)

 「碓氷峠」をめぐる交通事情には「碓氷関所」以後も、様々な変遷といろいろな苦労と歴史がありました。

横川駅ホームからの妙義山。

                    横川駅出発09:17~横川駅到着14:20。


 次回は、いよいよ「碓氷峠」越えです。  


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坂本宿。その1。(旧中山道をゆく。第9日目)

2016-03-29 21:28:34 | 旧中山道
 こうして「アプトの道」を折り返して戻ってきました。行くときはさほど感じなかった道の傾斜。横川へ向かう時にはさっさと下っていきます。足下がどんどん進む感じ。緩やかながらけっこう上っていたのですね。
 「めがね橋」を再び通り、「碓氷湖」を眼下に見て下ります。「峠の湯」の手前に「旧中山道」との道しるべがあったので、それに従って右に折れ、「旧18号」を下って行くと、「坂本八幡宮」のところに出ます。ここから先、東が「坂元宿」。西(京方)の木戸口跡があります。振り返ると、「刎石(はねいし)山」。碓氷峠越えはその山を進みます。



 今回は、日本橋から京へ向かうコースではなくて、西から東へ歩いての紹介です。左右が反対になっています。

坂本宿(さかもとしゅく)
 中山道六十九次のうち江戸から数えて17番目の宿場。
 現在の群馬県安中市松井田町坂本。中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、参勤交代の実施に伴い、計画的に造られた。道幅が広く、整然と町並みが整備されている。西に碓氷峠、東に碓氷関所を控え、本陣と脇本陣合わせて4軒、旅籠は最盛期には40軒ある、比較的大きな宿場であった。
 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、坂本宿の宿内家数は732軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒で宿内人口は732人であった。

    (渓齊英泉 画)

 正面奥に描かれた山が「刎石山」。山容が東海道・平塚宿上方見附付近から見た、お椀を伏せたかたちの高麗山に似ています。また、左側に描かれた用水路が現在もあります。
 
坂本宿からの「刎石山」。

 左手に芭蕉句碑があります。

    

安中市指定重要文化財 芭蕉句碑
 江戸寛政年間(1790年頃)坂本宿の俳人グループ竹睡庵連が、春秋庵加舎白雄先生に依頼し選句し書いてもらった句である。
 高さ1.67m・幅 基幅1.37m・頂部幅0.6m・厚さ約0.2m 石質は刎石(安山石)で刎石茶屋の下手にあったものを明治年間に旧中山道が廃道となったため現在地に移転した。
 書体は「筑羅様」で、句は紀行文「笈の小文」にあり、奈良の吉野山を訪れたときに詠んだものである。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。

 ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かへ 

  安中市教育委員会

「坂本宿・上木戸」。奥に見える山は「妙義山」。

その木戸裏手に「橋供養」塔などが。

 各家にはかつての屋号が掲げられてあります。一直線の幅広い道の両側には多くの旅籠があった、盛況ぶりを思わせます。今は、静かな山間の集落です。
          

お店も少ない。「デイリーヤマザキ」さんとここと・・・。

             
    上州中山道筋坂本宿 丸仁屋跡。   東 江戸へ三十四里  西 京へ百二里 

 歌人・若山牧水が泊まった「つたや」跡。

 さらばなり 信濃の国の ほとゝぎす 碓氷越えなば また聞かめやも       (「独り歌へり」所収) 

 わかれても 十日ありえず あわただし また碓氷越え 君見むと行く

 秋かぜや 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸繰の唄 



小林一茶の定宿「たかさごや」
 信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763~1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
 それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石山の頂に「覗き」と呼ばれところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次の句を残している。

    坂本や 袂の下は 夕ひばり
 
その付近から刎石山を望む。

    

坂本宿のおもかげ残す「かぎや」
 「かぎや」は坂本宿時代のおもかげを残す代表的な旅籠建物である。伝承によれば、およそ370年前、高崎藩納戸約鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけたといわれる。まず目につくのは、家紋の雁金(かりがね)の下に「かぎや」と記した屋根看板である。上方や江戸に向かう旅人にわかり易く工夫されている。
 屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ又はげぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には透かし彫刻が施されている。
 間口6間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは8畳二間に廊下、中庭をはさんで8畳二間、往還に面しては二階建て階下、階上とも格子戸である。
 宿場は街道文化の溜まり場である。坂本宿も俳句、短歌、狂歌をはじめとして、とりわけ天明・寛政のころは最盛期で馬子、飯盛女にいたるまで指を折って句をひねっていたという。当時の当主鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し俳人としても傑出していた。
 
              

刎石山方向を望む。右手奥に。

            (「別離」所収)

「坂本宿」の案内図。
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横川~熊ノ平。アプトの道。その4。(旧中山道をゆく。第9日目。番外編)

2016-03-28 21:09:54 | 鉄道遺跡
 「10号トンネル」を抜けると、「熊ノ平」。「熊ノ平」は信越本線が当初単線で会った期間、横川~軽井沢間で唯一の平坦地でした。「熊ノ平」駅で上下線の列車が待ち合わせてすれ違いをしていました。その頃の熊ノ平駅は、行楽の季節には乗降客で賑わっていましたが、信越本線が複線化すると、熊ノ平駅は変電所の機能を残して、駅の期の王は必要とされなくなりました。現在は、「アプトの道」の折返し地点となっています。

手前、左手広場に「熊ノ平殉難碑」があります。

 この殉難碑は昭和25年6月9日早朝、突如として山くずれが起こり、一瞬にして埋め去られた職員と家族の50のみたまを末長くまつるため、全国の国鉄職員から寄せられた浄財で設立されたものであります。
 設立当時は線路の反対側にありましたので、参拝するためには線路を横断しなければならず、危険かつ不便なので、昭和43年12月現在地に移設しました。
 しかしながら現在のみたまには雨雪にさらされ誠に忍びない状態にありますので、今回ささやかながら霊堂を建立して、みたまをおなぐさめ申し上げることにした次第であります。

 昭和44年11月 高崎鉄道管理局

ここで「新線」(複線)と単線が合流します。

レールも架線もそのまま残り、西(軽井沢方向)へ向かっています。

                        「熊ノ平」駅の遺構。
    

信号機。

               

熊ノ平駅
 熊ノ平駅は、碓氷線が単線であったため、上り列車と下り列車のすれ違いと、蒸気機関車への給水、給炭の目的で設置されました。
 碓氷線は幹線鉄道でありながら、その急勾配ゆえアプト式よいう特殊運転方式をとらざるを得ず、動脈に出来た血栓のように隘路になってしまう宿命を負っていました。このため碓氷線には常に輸送力の増大が求められ、新技術の投入によって解決が図られ、熊ノ平駅も待避線の設置や突っ込み隧道の設置などの改良が加えられました。
 碓氷線は急勾配のため、隧道が煙突の役割を果たし、煤煙によって乗客や乗務員が大変な苦痛を強いられました。この煤煙問題の解決と輸送力増大のため、明治45年、我が国の幹線鉄道として初めて電気機関車が導入されました。
 その後、昭和38年アプト式の旧碓氷線の廃止と同41年の碓氷新線の複線化により、熊ノ平駅は信号場に降格となり、平成9年の碓氷線の廃線とともにその使命を終えました。
 熊ノ平駅周辺は、モミジの名所としても知られ、文部省唱歌「紅葉」は作者の高野辰之がこの周辺の紅葉を詠ったと云われています。

 安中市

 ここに出てくる「紅葉(もみじ)」は今でも歌いつがれている名曲です。

「もみじ」(高野辰之 作詞、岡野貞一作曲) 

1.秋の夕日に 照る山紅葉
 濃いも薄いも 数ある中に
 松をいろどる 楓や蔦は
 山のふもとの 裾模様

2.渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
 波に揺られて 離れて寄って
 赤や黄色の 色さまざまに
 水の上にも 織る錦



 高野辰之作詞の唱歌は「故郷」、「朧月夜」、「春がきた」、「春の小川」など今も口ずさまれています。。

「アプト式開通の碑」。

    
   軽井沢方向を望む。                        横川方向を望む。

 かつて賑わっていた「熊ノ平」駅付近の写真が掲示されいます。

    

突っ込み隧道?  

横川駅前にある「動輪」

    
 全国JR路線のなかで、最大の難所と言われた信越本線 横川~軽井沢間のシェルパとして平成9年9月30日まで活躍した「EF63―3号」機関車の動輪です。

横川駅構内にある「アプト式レール」。
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横川~熊ノ平。アプトの道。その3。(旧中山道をゆく。第9日目。番外編)

2016-03-27 19:53:09 | 鉄道遺跡
 次は「第3号トンネル」、「第4」「第5」と続きます。「5号トンネル」を抜けると、いよいよメインの「第3橋梁」=通称「めがね橋」となります。

狭いし、暗いし、蒸気機関車の時代は煙で、・・・さぞかし大変だったでしょう。

「5号トンネル」。

トンネル側面には金具がいくつか取り付けられています。

(11:07)着きました、「めがね」橋。

「5号トンネル」を振り返って望む。

北側には「新線」(新幹線開通後、廃線)の橋梁。

南側。ヘアピンカーブが続く「旧18号線」。

 めがね橋から旧18号まで下る遊歩道があります。下から見上げるとその迫力に圧倒されますす。
     

 碓氷川に架かる煉瓦造りの4連アーチ橋で、碓氷峠の代表的な建造物である。国鉄信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間がアプト式鉄道時代に使われた。設計者は、1882年(明治15年)に鉄道作業局技師長としてイギリスから日本に招聘されたイギリス人技師のパウナル (Charles Assheton Whately Pownall)[1]と古川晴一。
 1891年(明治24年)着工。高崎駅と直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、上述の区間だけが未開通だったため急ピッチで工事が進められ、1893年(明治26年)に竣工した。
 開業直後から強度不足による変形が指摘され、これに伴い翌1894年(明治27年)に耐震補強名目で橋脚・アーチ部の双方に対する大掛かりな補強工事が実施された。
 その後は信越本線の電化を経て1963年(昭和38年)に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用された。
 全長91m、川底からの高さ31m、使用された煉瓦は約200万個に及ぶ。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年(平成5年)には「碓氷峠鉄道施設」として、他の4つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定された。
(以上、「Wikipedia」参照)

            

国指定重要文化財 碓氷峠鉄道施設 碓氷第3橋梁(めがね橋)
                      平成5年8月17日 指定
 高崎~横川間は明治18年(1885)10月、軽井沢~直江津間は21年にそれぞれ開通しましたが碓氷線と呼ばれた横川~軽井沢間は、碓氷峠が急勾配のため、路線決定に紆余曲折し、明治26年(1893)4月開業となり、高崎~直江津間の全線が開業しました。
 横川~軽井沢間の11.2キロメートルは、千分の66.7という最急勾配のため、ドイツの山岳鉄道で実用化されていた、アプト(アブト)式が採用され、昭和38年(1963)まで走り続けました。
 この碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、26のトンネルと18の橋梁が造られましたが、現存しているなかでも、この碓氷第3橋梁は2百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋です。

 文化庁 安中市教育委員会

                

旧信越本線の碓氷第3アーチ
1、建 設 明治25年12月竣工
2、設計者 イギリス人、パウネル技師
      日本人、古川晴一技師
3、構 造 煉瓦造、アーチ橋
       (径間数4、長さ87.7メートル)
4、建設してからのあゆみ
 碓氷の峻峡をこえるため、「ドイツ」の「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用して横川、軽井沢間が明治24年から26年にかけて建設されました。
 その勾配は1000分の66.7という国鉄最急勾配です。これを昭和38年9月、速度改良のため新線の完成と同時に使用廃止となりました。
 このアーチ橋は廃止になった構造物の中では最大のものです。すぐれた技術と芸術的な美しさは今なおその威容を残しています。ここに往時を偲ぶ記念物として、その業績を長くたたえたいものです。

  昭和45年1月1日 高崎鉄道管理局 松井田町教育委員会 

       

                              

 橋の手すりには写真と解説が並んでいます。
    

碓氷峠は日本を代表する「片峠」。

 「横川」~「軽井沢」間。11.2㎞で、標高差553㍍。横川からほとんど上り道が続きます(タモリの番組の写真付き解説)。

 この先は「6号」「7号」「8号」「9号」「10号」と連続してトンネルを通過します。いくつも排気孔のあるトンネルも。

    

 ところが、「6号トンネル」には「熊出没注意」の掲示。去年4月、この付近で撮った大きな熊の写真とともに何カ所にも掲げてあります。ビックリ!
 もしトンネル内に入ってきたらお手上げ。熊除け用の大きな鈴もないし、ラジオも持ってないし、大声でしゃべる相手もいないし、・・・。

 急いでトンネルを抜けると、いました! サルが何匹も。日光と違ってえさを求めて近づいては来ないだろうけれど。
    (↓)

 「第6橋梁」。「めがね橋」に次ぐ長さ。補修の形跡がなく、建設当時のまま残されているようです。
    

    
 こうして次々と現れるトンネルを過ぎると、終点の「熊ノ平」。「アプトの道」の折返し地点。
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横川~熊ノ平。アプトの道。その2。(旧中山道をゆく。第9日目。番外編)

2016-03-25 21:26:40 | 鉄道遺跡
 碓氷峠を行き来する列車に電力を供給していた建物。かつて、軽井沢から出て碓氷峠を下る車中、このところを通過中に車窓から見たようすは廃墟のような印象で、かえって興味深く思いましたが、現在は立派に修復され、以前のような荒廃した姿はありません。

    

国指定重要文化財 碓氷峠鉄道施設  変電所(旧丸山変電所)二棟
                               平成6年12月27日 指定
 丸山変電所は、明治45年に建築され西側の建物が機械室で回転変流器と変圧器があった。東側の建物は蓄電池室で、列車が上り勾配にかかるときに必要な電力を補うための蓄電池312個が整然とならんでいた。
 建物の性格としては、工場建築に近いから、同じ煉瓦造り建築と言ってもたとえば東京駅のような華やかさはない。しかし、建物正面出入り口や側面には控えめながら装飾が施され、落ち着いた格調の高いものとなっている。
 煉瓦造り建築の最盛期の所産であることが実感され、今に伝える残り少ない遺産である。

 文化庁  安中市教育委員会

 実は裏手に回ると、かつての、荒廃したままの建物が存在します。
    

 煉瓦造りの趣がよく伝わる意匠になっています。
    

 ちなみにこの建物の他、「碓氷線」関連施設に用いられた(当時の)煉瓦は、ついこの前、廃線跡歩きをした、深谷市にあった「日本煉瓦製造株式会社」製です。不思議なご縁が続きます。

                            

 見飽きませんが、先に進みます。建物の前には、トロッコ列車の停車場・まるやま駅があります。

振り返って望む。

平日のせいか、散歩する地元の方数人以外、誰にも会わず。

この先、沿道に「熊出没注意」の掲示が。

(10:03)「霧積川橋梁」。

古い煉瓦壁なども残っている。

 その先で「アプトの道」(初期の旧線路・単線)とその後の複線化した「新線」(この線も新幹線の開通で廃線となりました)が分岐します。右に進む新線は藪の中に消えてその先にトンネルが見えます。次に合流するのは、「熊ノ平」となります。

    

    

 線路の下をくぐります。左手の大きな建物が「天然温泉 峠の湯」の裏手。

建物の背後に見えるのは妙義山。

 (10:21)トロッコ列車の終着駅「とうげのゆ」駅のところで小休止。そこで出会った方。宿の車で熊ノ平まで送ってもらって下りてきた、とのこと。のんびり歩いてきて1時間くらいだったとか。上りもたいして変わらないと思います、と。
 ここからがトンネル、橋梁が続くハイライトシーン。かつての単線時代の線路跡をゆるやかに上って行きます。

 (10:32)北原白秋の「歌碑」。
    

白秋の歌「碓氷の春」について

                    白秋
 うすいねの
    南おもてと
       なりにけり
 くだりつゝ思ふ
    春のふかきを

 この歌は近代日本詩人の巨匠である北原白秋が詠んだものです。
 大正12年春、当時38歳だった白秋が信濃を訪れた帰り、ここ碓氷峠で「碓氷の春」と題して詠んだと言われています。

 この碑は、元松井田町長の武田弘氏が白秋自筆の色紙をもとに昭和42年に横川駅近くの国道18号線沿いに建てたものです。平成13年に鉄道文化むらの開設に伴い、現在の場所に移設されました。
             松井田町
 
「第1号トンネル」。ここからは線路はなく、簡易舗装された道。

トンネル内はひんやりとしています。足元は濡れていたり、凸凹して、照明は暗め。

西側の坑口。一人で歩くと、少し不安になりそう。

振り返って望む。外に出るとホッと。 

続いて「第2橋梁」。     

 橋の上は舗装され手すりもありますが、橋梁の土台部分は煉瓦造りです。 

 続いて「2号トンネル」。
    

ちょっと広くなってそこに古いレールが。 

トンネル内、地下部分のライトアップ。

 (10:50)「2号トンネル」を抜けると、左手の眼下に「碓氷湖」が広がります。1周約1.2㎞。紅葉シーズンは最高のようです。    
                          

「2号トンネル」を振り返って望む。

湖水を見下ろす「中尾小屋」。 
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横川~熊ノ平。アプトの道。その1。(旧中山道をゆく。第9日目。番外編)

2016-03-24 21:54:47 | 鉄道遺跡
 さて、「横川」から「坂本宿」を抜けて、「碓氷峠」、そして「軽井沢宿」へ、と。
 その前に横川駅から信越線の廃線跡「アプトの道」を歩いてみようと出かけました。「熊ノ平」まで行き、帰りは途中で「坂本宿」に立ち寄って、再び「横川駅」に戻る、という計画。
 3月23日(水)。薄日が差す、そんな一日でした。
 この年になってひどい「花粉症」になって大変なようだ、と知人の噂を耳にし、さぞかし辛いでしょうね、と同情しながら、まさにその花粉が飛び始める、まっただ中での歩きでした。

 はじめにお断りしますが、前日の22日に携帯電話を変えて(といっても相変わらずのガラケイですが)写真撮影の要領も慣れないままの撮影。色が飛んでしまって、何だかセピア色の世界。色鮮やかな現地の色彩・表情とはずいぶん違っています。かえって、廃線跡の雰囲気が伝わった、昔懐かしい古い写真という感じになっていいなあと思ってもいますが。

 歩く前に学習を!

アプトの道
 JR東日本・信越本線の横川駅を基点として、旧上り本線跡を整備、丸山変電所、峠の湯を経て、旧熊ノ平信号場(駅)までの遊歩道。
 1963年(昭和38年)に廃止された旧国鉄信越線の横川駅 - 軽井沢駅間の旧線跡のうち、1996年(平成8年)より横川駅 - 碓氷第三橋梁(通称・めがね橋)間の全長4.7kmの廃線跡に遊歩道としての整備工事が行われ、2001年(平成13年)に完成した。その後、第三橋梁から熊ノ平信号場までが整備され、横川駅 - 旧熊ノ平信号場間の全長5.9kmが2012年(平成24年)3月末に完成した。

横川~軽井沢・鉄道の変遷
 上野駅-横川駅間が1885年に、さらに軽井沢駅 - 直江津駅間が1888年に開通すると碓氷峠区間が輸送のボトルネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた。なお、1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた。
 ドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)ラックレールを用いることを提案した仙石貢と吉川三次郎のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で 66.7 ‰(= 1⁄15。約 3.8 度)という急な勾配になる。
 1891年3月24日に起工したが、急勾配でアプト式のラックレールを用いるには列車の推進力を受ける道床に十分配慮する必要があり、鋼桁ではなくレンガ製のアーチを用い、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた。
 延長 11.2 km の間に 18 の橋梁と 26 のトンネルが建設され、1892年12月22日に工事が完了し、翌1893年4月1日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)として横川 - 軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また「横軽(よこかる)線」とも呼ばれる。
 トンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れ、1911年に横川駅付近に火力発電所が設けられて1912年には日本で最初の幹線電化が行われた。
 電化により碓氷線の所要時間は 80 分から 40 分に半減して輸送力は若干増強された。
 太平洋戦争後は、1963年7月15日に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が1線で開通した。同年9月30日にアプト式は廃止され、さらに1966年7月2日には、旧アプト式線の一部を改修工事する形でもう1線が開通し複線となった。これによって当区間の所要時間は旅客列車で 40 分から下り列車は 17 分、上り列車は 24 分に短縮された。
 しかし電車・気動車・客車・貨物を問わず単独での運転は勾配に対応できず、補助機関車として2両を1組としたEF63形を常に連結することとなった。そのために必ず勾配の麓側にあたる横川側に2両が連結された。
 碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の北陸新幹線高崎 - 長野間(この区間は2015年3月13日まで長野新幹線として営業)の開通によってなされた。
 その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、長距離旅客が新幹線に移行する反面で県境を越える即ち住環境を跨ぐローカル旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター鉄道などに転換されることなく廃止された。
 代替交通機関として横川駅 - 軽井沢駅間を片道34分で結ぶジェイアールバス関東小諸支店による碓氷線1日7往復の運行に移行した。北陸新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通過する。
 旧碓氷線の廃線部分 11.2 km のうち、群馬県側の約 10 km は碓氷郡松井田町(現・安中市)が買収しており、残り約 840 m についても北佐久郡軽井沢町に買取を陳情する動きがあった。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅からアプトの旧線をたどり旧熊ノ平駅までとなっている)。碓氷峠鉄道文化むらでは、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走らせている。

(以上、「Wikipedia」参照)



 JR上野駅を6時40分過ぎの高崎行きの普通電車に乗って、「横川駅」に着いたのが、9時15分頃。「峠の釜めし・荻野屋」さんのところから再開。旧道らしい雰囲気の町並み。「庚申塔」や「二十三夜塔」などの石塔が並ぶ通りを行きます。



その先右手に「横川茶屋本陣」。   

 この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。棟は居宅と同一であるが、居宅分は二階があり、本陣のほうは二階を作らず天井を高くしてある。
 居宅と本陣との境は三尺の畳敷の廊下で区切られ襖が奥まで通じている。本陣は型通り控の間が二間あり、その奥に八畳の上段の間がある。
裏庭は「皐月」を配した石組みの平庭で池があり風情があるが、外敵に備えるものであろうか、大きい木は植えていない。碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。

    昭和五十六年三月 群馬県教育委員会 松井田町教育委員会

     

その先に「碓氷関所跡東門の位置」碑。

 右手の少し高台のところにあるのが「碓氷関所跡」。
    

 碓氷関所は1616年、江戸幕府によって設置されました。中山道は重要な交通路であったため、関東入国の関門として、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視しました。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていました。
 その東門が昭和35年、柱や門など当時の部材を使って復元されました。

「碓氷御関所絵図」と東門の解説板。

おじぎ石。
                    通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた。

 (09:31)いよいよ「アプトの道」へ進みます。入口左手には「鎮魂碑」と「招魂碑」。
           

「招魂碑(右)」は、「アプト式鉄道」建設工事に伴う、500名にもおよぶ犠牲者の慰霊のため当時建設されたものをここに移転。「鎮魂碑(左)」は、信越線廃止に当たり、交通機関建設に関わり殉職された方、思わぬ災害や交通事故に遭遇し尊い命を失った人達を慰霊するために建立された、とのことです。

左手には「碓氷峠鉄道文化むら」が広がっています。

 旧信越本線の上り線を遊歩道にしてあります。レールが埋め込まれ、頭上には架線柱もそのままに残してあります。左手は、下り線を利用した、現役の「碓氷峠トロッコ列車」専用線。
    
                                         振り返って望む。

施設の解説の他、信越線にまつわる解説が随所に。

緩やかに上っていく、まっすぐに伸びた線路跡。 

かつてのコンクリート造りの崖崩れ防止壁。

 「上信越自動車道」のかなり高い橋脚をくぐると、すぐ右手に煉瓦造りの「旧丸山変電所」が。

妙義山方向を振り返る。

(09:51)「旧丸山変電所」。
                       信越線での帰り、左手によく見たものです。当時はすでに廃墟のようで、かえって印象深い建物でした。
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なし崩しへ、「非核三原則」政策骨抜きへの道。

2016-03-21 22:06:05 | 平和
法制局長官、核使用「憲法ですべては禁止されていない」

 憲法9条に関わる、解釈改憲で味をしめたアベ内閣。ついに、核兵器使用容認への道筋づくり。法制局長官のお墨付きを得ての。
 そもそも横畠法制局長官。亡くなった前長官に引き続き、安保法制の議論の時が如実に表れているように、アベの意向に沿うようなかたちでの法解釈(憲法解釈)を行ってきた。安保法制では法制局内部でのぜひをめぐる議論すらせず、歴代長官が憲法違反としてきた集団的自衛権の行使を容認する立場を打ち出した。
 昨年8月、安保関連法案の国会審議の場で、米軍などの他国軍への後方支援をめぐり、中谷防衛相は「核兵器運搬・輸送は武器の輸送という括りでは法文上、排除しない」と述べたが、今回、その流れの行き着くところ、現憲法の法解釈上でも、日本自身の「武器としての」核兵器使用を明言した。この答弁で、日本は憲法上、核兵器の保有、運搬、使用は理論的には可能になった。
 「すべては」というのがミソで、「限定的には(条件が許されれば)」認められるということ。「集団的自衛権」の行使の議論の時と同じ論法。
 日本は核兵器への転用が可能なプルトニウムを大量にため込んでいる。そういう潜在能力を誇示するためにも、すべての原発を再稼働していくというのがアベ内閣の本心。北朝鮮の無謀で挑発的な行動に対して、それを巧みに利用して「非核三原則」を「限定的」にも有名無実化しようとする策謀が見え隠れ。そのお先棒を「憲法の番人」である法制局のトップが担いでいる。
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渋滞や信号で止まっているときに後ろにトラックが近づくと、

2016-03-19 21:29:51 | 世間世界
逮捕の運転手「避難中に救助された」 広島トンネル事故

 高速道路での渋滞だけでなく、一般道でも赤信号で停まっていると、つい、後ろを見ます。大型トラックが近づいてくると、びびります。特に、渋滞の時は後ろにトラックが来ると、できる限り進路変更しています。

 それにしても毎日新聞の記事。

<山陽道トンネル事故>国交省が監査、容疑者に違反4件判明(21:15毎日新聞)

 東広島市の山陽自動車道トンネルで2人が死亡した多重衝突事故で、国土交通省は18日、渋滞中の車列に追突したトラックの運送会社「ゴーイチマルエキスライン」(埼玉県川口市)を特別監査し、運転手の皆見成導容疑者(33)=自動車運転処罰法違反(過失致死)容疑で逮捕=に関する貨物自動車運送事業法違反が4件判明したことを明らかにした。うち1件は過労運転で、今年2月だけで複数回確認したという。
 過労運転を防ぐ改善基準告示は、連続運転時間(最長4時間)、勤務終了後の休息(8時間以上)、1日の拘束時間(13時間以内)を定めている。
 国交省によると、皆見容疑者は2月、西日本への長距離運転で、これら三つの基準を複数回守っていなかった。3月の違反は確認できていない。
 また、同社は昨年12月の皆見容疑者の採用時に、義務づけられた健康診断を実施していなかった。告示で定める運転教育が不十分だった上、容疑者の初任適性診断の結果も確認できなかった。
 ・・・同社前で報道陣に対応した社員は「遺族の方には本当に申し訳ありませんでした」と謝罪した。グループ会社の幹部も対応し「(皆見容疑者は)昨年12月に入社し、試用期間も終えている。勤務状況も健康状態も問題はなかった」と話した。【内橋寿明、鴇沢哲雄、大山知香】

 もとより、運転手の事故・加害責任(自動車運転処罰法違反=過失致死容疑)は当然ありますが、主に「国交省」の発表を受けての記事だとは思いますが、運転者に違反が4件あった! これが大きく取り上げられる!
 どう考えても会社の違反でしょう。このあいだの碓氷峠の、多数の死者を出した時もそうですが、最初は運転者の責任、資質の如き、マスコミ報道。次第にそうさせていた(黙認していた)バス会社の責任、違反が明るみに出てきました。今回もそうなのではないか。

 過労運転を防ぐ改善基準告示は、連続運転時間(最長4時間)、勤務終了後の休息(8時間以上)、1日の拘束時間(13時間以内)を定めている。

 を会社は知っていて、運転者に無理に働かせていたのではないか? 同じ条件でも事故を起こさない運転手(従業員)もいるのだから、と事故を起こした責任を運転手の資質に被せるとしたら・・・。
 会社利益優先、従業員の健康管理軽視の風潮ををますます助長させることにはならぬよう、国交省も会社への責任追及も怠りなくしてほしいものです。
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残念ですが、・・・。

2016-03-18 22:11:00 | 世間世界
<気仙沼線>市、鉄路復旧を断念 BRT継続

 以下のblogの記事は2013年2月に訪れた記録です。その時のこのblogでのカテゴリーは「歴史・痕跡」でした。まさにそうなってしまうのかも知れません。痕跡すらなくなってしまうのか。
 このかんの地元の方々の復活への望み、その可能性への挑戦、しかし、現実の厳しさ。二度と戻れない他郷の光景をただただ遠くから見つめるしかない現実も・・・。
 しかし、それがけっして他人事ではなくなることもまたあり得ること。

 そんな思いも込めて、再掲。

 海岸沿いを走る「気仙沼線」。リアス式海岸に沿って、風光明媚で、漁港や海水浴場など見所満載だった路線。
かつての気仙沼線。

 東日本大震災で、線路や駅、鉄橋などが崩壊し、全線が不通となった。特に、大津波で多くの駅が流失、津谷川橋(気仙沼市本吉町:陸前小泉 - 本吉間)が落橋、各所で路盤・築堤が流失(消失)するなど、沿岸部を通る陸前戸倉 - 南気仙沼間は壊滅してしまった。復旧には自治体の復興計画による路線の変更も想定できるため、全く見通しがつかない状態に。
 そこで、2012(平成24)年5月21日より、年内のバスによる輸送開始を目指し、線路を撤去して舗装してバスが通れるようにし、また並行して走る一般道路も活用する仮復旧計画が実現。こうして、不通区間のBRT(Bus Rapid Transit・バス高速輸送システム)による運行が始まった。同年8月20日よりバス代行運転扱いとして運行を開始。BRT用の車両はJR東日本が用意し、「ミヤコ―バス」に運行を委託していたが、12月22日より、JR東日本がバス事業者となりBRTの本格運行を開始した(実際は、引き続きミヤコ―バスが行っている)。
バス。
「陸前階上」駅(バス路線)。
プラットホームはそのまま(「YouTube」より)。
この区間は、線路を撤去して舗装道路に。
橋桁や柱が崩壊し、すでに線路は撤去されている。本吉町下宿付近。
震災直後のようす。(「写真集」より)
気仙沼線。二度と見ることが出来ない鉄橋を走る気動車。
すっかり線路のなくなった築堤。(「陸前小泉」駅付近?
橋脚のみ残っている。
左奥が海。
中央奥にトンネル。
現在の鉄橋のようす。
遠く、小さな入り江(清水浜付近)に架けられた鉄橋も半分以上が崩壊。手前右は自動車の残骸の山、山。長浜街道内井田付近。
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中央本線旧線(鳥沢~猿橋)跡。その3。

2016-03-16 22:30:05 | 鉄道遺跡
 しばらく「国道20号線」を行くと、「小菅」交差点。そこを右に折れます。この道も旧甲州街道。ここから「猿橋」を渡って「猿橋宿」へ向かうことになります。
 「仙台屋食堂」の手前に先ほどのトンネルの猿橋側の坑門が桂川渓谷に向かって開いているはず。注意して歩いていましたが、「仙台屋」の前を過ぎてそのまま「猿橋」への階段を下りてしまいました。
 どうも遺構(煉瓦積み)の前にあった、大きな神社の掲示板が視界を邪魔したようで、気つかずに通り過ぎてしまいました。もともと開口部は桂川に向いていましたが、切り立った崖と生い茂った木々のために目視することはできないようです。また、「桂川」を越えていた鉄橋も撤去されています。
 ここのメインは「猿橋」と「八つ沢発電所第1号水路橋」。この「水路橋」を遠目に見て線路跡とぬか喜びしてしまいそうです。

猿橋
 江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。木造では唯一現存する刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。

《構造》
 猿橋は、桂川(相模川)の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなる地点にある。このような地点では橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。こうした条件では吊り橋が用いられるのが常だが、江戸時代にはもう一つ、刎橋という形式が存在した。
 刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。

《歴史》
 猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点付近に位置し、甲斐国と武蔵国・相模国の交通拠点に位置する。江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置された。
 猿橋の架橋については、7世紀に百済の渡来人である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。
 室町時代、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという。
 1676年(延宝4年)以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。
 この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠『峡中紀行』、渋江長伯『官遊紀勝』など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成している。文化14年(1817年)には浮世絵師の葛飾北斎が『北斎漫画 七編 甲斐の猿橋』において猿橋を描いている。
 江戸後期の天保12年(1841年)には浮世絵師の歌川広重は甲府町人から甲府道祖神祭礼の幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れている。
 広重は後に旅の記録を『甲州日記』としてまとめ、甲斐の名所をスケッチし作品にも活かしている。小島烏水によれば現存しない日記の一部には猿橋の遠景や崖などがスケッチされていたという。広重は天保13年(1842年)頃に版元・蔦谷吉蔵から刊行された大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。
 1880年(明治13年)には明治天皇が山梨県巡幸を行い、同年6月18日に猿橋を渡っている。三代広重は『諸国名所之内 甲州猿橋遠景』においてこの時の様子を描いている。
 木造で現存する刎橋はない。る
 古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、1984年(昭和59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて1851年(嘉永4年)の橋を復元したものである。
 なお、1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。

               (以上、「Wikipedia」参照)



 10年以上前の秋、ここを訪れています。そのときの写真。
          

 今回は目的が違いますが、やはりここはきちんと押さえておきます。

    

名勝 猿橋 昭和7年3月25日指定
 猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば、「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。
 史実の中では文明19年(1488)2月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶景なるを賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。
 応永33年(1426)武田信長と足利持氏、大永4年(1524)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。
 江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて9回の架け替えと、10数回に及ぶ修理が行われてきました。
 この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。
 昭和7年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和9年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生活は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。
 今回の架け替えは、嘉永4年(1851)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。
 昭和58年着工、昭和59年8月完成、総工費3億8千300万円であります。
 橋の長さ、30.9メートル、橋の幅、3.3メートル、橋より水際まで30メートルです。

 大月市教育委員会

    


目の下の淵瀬。                                           西側。
    

目の下には水路橋。

    
                「八つ沢発電所・第1号水路橋」。国の指定文化財。

↓がトンネル抗口と思われます(対岸より)。

案内板。広重の描いた浮世絵。

橋のたもとにある「忠治そば」。

    
              「猿橋宿」の家並み。
 旧線路は桂川の橋脚も撤去され、さらに「猿橋」駅への線路跡も「国道20号線」との交差地点地点も含めて、その痕跡は見当たらないようです。

「猿橋駅」から東を望む。
                                  左手奥の方で現在の線路と合流していました。
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中央本線旧線(鳥沢~猿橋)跡。その2。

2016-03-15 23:02:08 | 鉄道遺跡
 しばらく「国道20号線」沿いに進むと、右手の小高い丘が公園になっています。緑色のネットで囲まれた、この公園。国道から入るのには、階段を上らなくてはなりません。いったいどういう利用者がいるのか? 朽ちたようなベンチと奥の方に遊具がある、さびれた公園のようす。実はこれがさっきの築堤の延長で、廃線跡なのです。

西側を望む。たしかに線路跡のようです。

 私有地なのかどうなのか、そこを歩いていくと、竹藪が覆い被さってきます。
               

 かき分けて抜けると、まだ先が続きます。

が、しばらくすると、もう進むのには無理な状態に。

そこから来た道を振り返って望む。

 仕方なくここで引き返そうと思いましたが、左手のちょっとした盛り土に細道がついています。農作業用の小道なのでしょう。その道を辿ってみることに。すると、右手下の藪の向こうに、トンネルが見えます。


藪越しですので、写真でははっきりしませんが。

 直接さっきの線路跡をたどっていけば、あるいは降りてみようかと一瞬思いましたが、冒険は禁物。若ければ、たぶん藪漕ぎをしたでしょうが・・・。でも、上からでも発見できたので満足です。

再び国道に戻り、進みます。

「東京から89㎞」ポスト(13:45)。

なまこ壁の倉。

 しばらく行き、斜め右の道に入り、すぐ先で右手の坂道を上ります。
 振り返って望む。

 突き当たりには「富浜公民館小向袴着分館」。館名「・・・袴着」も興味深いですが。


(13:50)その右手奥に先ほどのトンネルの猿橋側の入口が見えます。
    

 「公民館」の位置からは下にあって、廃線後、土盛りをした様子が分かります。「公民館」側を望む。
              

 坂を下りて、今度はさっきの分岐点を右に進みます。この道が「旧甲州街道」にあたります。「行き止まり」の表示があって、この先は、私有地になるようです。

    

行き止まり。

 なお、民家の敷地を抜けていった「宮谷川」沿いに「宮谷川橋梁」の橋脚と橋台が残されているようです。
 この付近は、谷や山が入り組み、地盤などの崩壊なども激しいようで、旧道もここで途絶えてしまいます。かつての鉄道線路も維持管理の大変だったことが想像できます。

遠く南には現在の中央本線。かなり高い橋梁。

 「国道20号線」に戻り、「宮谷川」を過ぎる途中、道路沿いの目の下に古びた橋梁。「八ツ沢発電所」施設の一つ、「第3号水路」のようです。上部は煉瓦造り、下部はコンクリート構造。(14:00)
    

名勝「猿橋」のすぐそばには「第1号水路橋」があります。

「八ツ沢発電所施設は,桂川にほぼ平行して東西に延びる水路式発電所施設である。
 東京電燈株式会社が第二水力電気事業の一環として建設したもので,明治43年に着工,大正3年の大野調整池の完成をもって全体が竣工した。
 建造物は,取水口施設,第一号から第一八号の隧道,第一号開渠,第一号から第四号の水路橋,大野調整池施設,水槽余水路などで,約14kmの範囲に現存する。
 取水口の沈砂池や隧道は,土砂流入防止等を意図して長大な規模で築かれる。第一号水路橋は大支間を実現した初期鉄筋コンクリート造橋梁であり,大野調整池堰堤は大正期を代表する大規模土堰堤の一つである。
 八ツ沢発電所施設は,大規模調整池を有するわが国最初期の本格的水力発電所施設であるばかりでなく,類型の異なる複数の構造物に高度な建設技術が発揮されており,土木技術史上,高い価値がある。
 わが国の重要文化財のなかで、最大規模となる。」
(以上、「」HPより)

激しく車が行き交う国道のすぐ近くにあります。

 下の方まで降りて行った方の写真を見ましたが、なかなか見上げても壮観なようです。水路には激しい勢いで水が流れています。構造的には「東海道」歩きの時に立ち寄った京都・南禅寺の「水路閣」と同じ頃つくられた、同じような構造の建築物のようですが。


(14:10)しばらく行くと、左手に築堤跡の空き地。
                                線路は正面奥から続いていました。

右手の高台にトンネル入口跡。

 道路からそこまで踏み跡があり、ほとんど垂直の崖を上れば近くにまで行けそうな雰囲気ですが、ここも、自重。

    

「東京から90㎞」ポスト(14:15)。
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中央本線旧線(鳥沢~猿橋)跡。その1。

2016-03-13 20:10:40 | 鉄道遺跡

 このところ、寒くてぐずついたお天気。いよいよ「碓氷峠」越えと思いましたが、そんなわけでなかなか行く機会がありません。
 3月12日(土)。この日も冴えない天気。横川に行くつもりで目覚ましはかけたものの、天気予報ではどうも行く気がしない。かといって家でぐだぐだするのも・・・。そこで、今回も廃線探訪ということにします。

 出かけたのは、中央線「鳥沢」駅から「猿橋」駅まで。

 かつてはこの区間、蛇行する「桂川」の左岸(北側)に沿うように小高い山間をトンネルと鉄橋で通過していました。
 1968(昭和43)年、「桂川」をもう少し南で渡り、西に伸びる複線の新ルートになり、単線だった旧線は、廃線となりました。その後、線路は撤去され、一部は宅地化されたり、堤も削られたして、藪の中にほとんど埋もれてしまって、ただ、トンネルなどはそのまま残っているところもあるようです。もちろん、立ち入り禁止ですが。

 では行ってみるかと思い立ち、と言っても、家を出たのが10時をかなり回っていました。中央線で高尾まで行き、そこから甲府行きの電車に(本数が少ないのでずいぶん待ちました。その分、高尾で駅そばを食べて腹ごしらえ。)こうして「鳥沢」駅に着いたのは、12時40分過ぎ。これから、午後、約4㎞の探索の道のり。

 ところで、旧道歩きには、関東圏・近距離ではアプローチにJR在来線を使っています。今回、高尾を出てから先、次々とトンネルをくぐり、間近にうっすらと雪化粧した山を望み、湖や渓谷を下に見ながら通過するのは、東海道線や高崎・信越線とはかなり違う印象です。

 帰りの車内は案の定、登山者がけっこう乗っていました(すこぶる元気なジジ・ババが中心)。これもちょっと趣が違っていました。相手の方々もこちらを登山帰りと思ったでしょうが・・・。

 そういえば、昔(もう40年以上も前)、「扇山」とか「百蔵(ももくら?)山」に登ったことがありました。日陰にはまだ雪が残っていた早春だった頃・・・。これらの山は中央線の北側の山。南側にある山にも行ったことが。「倉岳山」「高畑山」?にも。下車駅は「鳥沢駅」だったか、「猿橋駅」だったか。すでに記憶はもう薄れています。

 なお、「鳥沢」、「猿橋」はどちらも「甲州街道」の宿場町。「東海道」「中山道」(まだ途中ですが)に続き、一応、「甲州街道」にも足を踏み入れた、ということになりますか。

 無人駅の鳥沢駅を降りるととすぐに「国道20号線(この付近は、旧甲州街道でもある)」に出ます。

    
                   旧道らしい家並み(「鳥沢宿」)。

 街道、右手の「セブン・イレブン」の先に「上鳥沢宿」という案内表示と「明治天皇駐蹕地」碑。

    

注:「駐蹕(ちゅうひつ)」=天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。駐輦(ちゅうれん)。

 この碑の他にも宿場にまつわる史跡がありそうですが、今回はここから少し戻って、鳥沢駅を見下ろす跨線橋へ向かいました。神社をぐるっと回ると、現在の本線から旧線路(廃止された線路)が分岐していた箇所があります。そこがスタート地点(13:05)。

左奥が「鳥沢駅」。簡素な無人駅。

西側。奥から右に折れて行くのが旧線路跡。


       左手のアパートは線路跡の上に建っているか(向きからするとそんな印象)、その右側が線路跡?

棒杭。枕木の再利用?

振り返って望む。右手が現・中央本線。空き地が線路跡? 

 かつての線路沿いらしい道を進むと、崖下の「国道20号線」へ出てしまう。線路はもっと上の方(住宅になっている)を通っていたようです。

    

「大月総合体育館入口」の交差点から「鳥沢駅」方向を望む。
                                          左手の高台上が線路跡?

(13:15)国道をはさんで橋梁の頑丈な石造りの橋台。

目の下は、「桂川」に注ぐ支流の流れ。
                                この地域は、けっこう谷が入り組み、深くなっています。

    
              しっかりした橋台。国道を鉄橋で越えていました。

南を望む。遠くに「桂川」を渡る中央本線の電車。

 線路は左手奥の高台からこちらの高台へ向かっていたようです。
              

 この先は、私有地のようなので、その先はあきらめ、再び国道を西に向かいます。築堤の上の住宅地を東から西へ進んでいたのでしょうか?
                     

 築堤の上はこんな感じ。ちなみに「国道20号線」に合流する右下の道は、「旧甲州街道」。
                     
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あれから5年。あっという間か、長く感じるか。震災5周年。

2016-03-11 21:33:31 | 世間世界
東日本大震災。今日、3月11日で丸5年。あの時もたしか金曜日でした。都庁の30階で大きな揺れを感じ、隣の高層ビルが横揺れし、ただ呆然としていたことを思い出します。それから1年間は慌ただしい月日でした。

 2013年2月。震災2年後、初めて知人の案内で気仙沼、南三陸町、仙台市閖上浜などを二日がかりで行って来ました。
そのときのことをblogに掲載しました。その内容を少しはしょって。

 東北新幹線で「古川」まで。途中、仙台付近は雪。そこから気仙沼まで車で約2時間30分。古川駅に降り立ったとき、すぐに感じたのは肌を刺す寒さ。車の表示・外気温マイナス3℃。あの日は、みぞれから雪に変わって寒さに、押し寄せてくるどす黒い大津波による海水が加わって・・・。映像では実感出来ない寒さを感じました。
 同乗の方。仕事先で出くわしたとのこと。電気も水道も止まり、足下は冷たい海水に浸かる、凍えるような寒さの中、室内の燃やせる物はすべて燃やして、皆で寒さをしのいだ、まだまだ不幸中の幸いだった、と。そう出来なかった人びとのうちで、低体温などで亡くなった方も多かった、と。

① 内陸部をしばらく東に向かい、それから北上。ふと海が見えはじめて、「海が見えますね」とつぶやくと、びっしり道の向こうは建物があってまったく海は見ることが出来なかった、と。言われてみると、すっかり視野が開けたあたりは、雑草がちらほらある空地だらけ。不明を恥じる。

気仙沼線「松岩駅」西方。

右奥の崖の中腹まで津波が押し寄せた。

左奥遠くが、気仙沼湾。

魚市場。その当時のまま、衝撃の大きさを物語る。

    
      土台のコンクリートを残すのみ。仮設の建物がちらほらあるだけ。ここでは生活の跡がまったく残っていない。

② 海岸沿いを走る「気仙沼線」。リアス式海岸に沿って、風光明媚で、漁港や海水浴場など見所満載だった路線。

橋桁や柱が崩壊し、すでに線路は撤去されている。本吉町下宿付近。

すっかり線路のなくなった築堤。(「陸前小泉」駅付近? )

現在の鉄橋のようす。

逃げ遅れ車の中に閉じ込められたまま、亡くなった方も多かったという。

南三陸町・防災対策庁舎。

すっかり何もなくなった街並みに残されている。このあたりの地名として、「塩入」「塩見」がある。もともと津波が襲いやすい地域。そのための庁舎でもあったのだが。

多くの方々が犠牲になった。献花台が置かれ、訪れる人も多い。本吉街道沿い。

すぐ脇にあった倒れたままの電柱。雑草が生い茂り、2年という年月を感じる。大震災前、周囲にはたくさんの家々が立ち並んでいた。

③ 翌日、閖上(ゆりあげ)浜を案内してもらった。途中、あそこの信号のところには何十体もの遺体が流れ着いて折り重なっていた、田んぼの用水路の中にもあった、白服の人たちが取り囲んでいるのを見ると、また遺体が見つかったんだな、と。
 まったく何もない地域が広がる。ここは住宅がたくさん建ち並んでいた場所。友人の家も失われた。車を運転しながらのつぶやきが切実だった。

はるか遠くの白雪の山並みは蔵王連山。仙台空港が遠くに見える。

一面何もない。ここの地域は土台からすっかり津波にさらわれてしまったのか。住宅地なのか田んぼなのかの区別もつかないほど。

送電線がかつてここで人びとの暮らしがあったこと、そしてこれからの再建の道の遠さを物語る。

一隅にあった卒塔婆。一周忌法要。まもなく「3回忌」を営む日がやってくる

 2013年に訪問したときからすでに(早くも)3年が経過しました。ここに写っているところも家も再建がなされているか、それとも? 

 先日、仙台に出かけたところ、避難先の立川からようやく郷里の石巻に戻り、何とか生活の目星がついた、という話を聞きました。この方のように戻って来た方も大勢いると思いますが、故郷を離れての生活を余儀なくされている方もまだまだいることも・・・。
 そのとき(2013年)、車を運転して案内してくれた方。震災で事業が思うようにいかなくなり、住まいも移り、そこで何とか頑張っていたようですが、長年の病がいっそう悪化し、今はドクターストップでままならない、とのこと。そのため、直接お会いすることが出来ませんでした。
 
 未曾有の「福島原発事故」では、今も十何万という方が帰郷できていません。一方で、私も含め、次第に当時の実感が薄れ、都会の平穏な日常生活に埋没しつつあります。原発再稼働も着々と。
 多額の税金の使い道もだんだんといい加減に(当初からそうでしたが)、福島では子ども達の甲状腺ガンが着実に増えているとか。こうした状況を見過ごすことなく、自らの生き方も含めて見つめていきたいものです。
 
 
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深谷駅~旧煉瓦製造施設(日本煉瓦製造株式会社専用線)。その3。

2016-03-10 22:05:46 | 鉄道遺跡
 そろそろ、終着点に近づきました。正面の橋が「備前渠鉄橋」。その先が、かつての「日本煉瓦製造」の敷地になります。



国指定重要文化財
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設 備前渠鉄橋(びぜんきょてっきょう)
                          重要文化財(建造物)
                          平成9年5月29日指定
 煉瓦輸送専用線用に架設された鉄橋である。
 創業当初からの輸送手段であった利根川舟運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するために建設されたのが本専用線であり、明治28年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。
 専用線には4箇所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道院技師、イギリス人チャールズ・アセトン・W・ボーナルが基本定規をを設計したI字形鋼板を橋桁とする「ボーナル型プレート・ガーダー橋」が採用された。中でも本鉄橋は15.7メートル(約50フィート)と、専用線中最長の橋桁を有している。また分岐する用水路の架設された煉瓦アーチ橋は、長さ約2メートルと小規模ながら、完全な煉瓦構造と推定される貴重な構造物である。

 文化庁 埼玉県教育委員会 深谷市教育委員会

    

備前渠から望む。

                    用水路にある煉瓦アーチ橋。
    

 ところで、「備前渠」とは? 以下、「Wikipedia」より。

 埼玉県最古の農業用水路。 
 現在は本庄市山王堂地区で利根川より取水し、深谷市、熊谷市へ流れ、福川に合流し利根川へと流れる。途中、御陣馬川や小山川と流路を共有する区間がある。埼玉県北部では、親しみを込めて「備前堀」や「備前渠」、「備前渠川」とも呼ばれている。現在でも用水路には開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。総延長は約23キロメートル、最大通水量毎秒約9立方メートルであり、利根川の右岸一帯の約1400ヘクタールの水田へ用水を供給している。

《沿革》
1604年(慶長9年) - 江戸幕府の命令により、関東代官頭伊奈備前守忠次によって計画され、20数キロメートルにわたり水路を 開削し、備前堀と名づけた。当時は正確な地図も無く、水路を開削する場所を幾度も歩いて調査し、夜には提灯を使い、土地 の高さを測り、水が流れることを確かめたりもした。鋤や鍬等で掘り、かるこ、もっこなどで土を運搬した。
 その後、洪水で烏川の流路が変わり、取水口が壊滅する。
1783年(天明3年) - 浅間山の大噴火。岩石や流木などで川底は平均2メートルも上がった。それに伴い、現在の本庄市周辺で は度々洪水となった。
1793年(寛政5年) - 取り入れ口の締め切り。下流に水が来なくなり、水争いや裁判が行われた。
1818年(文政元年) - 用水が不足し年々米が不作となる。
1828年(文政11年) - 漸く取り入れ口の復旧工事が開始される。その後43日間で通水する。取水口は利根川や烏川の乱流域に 位置するため、その後二度も変更工事が実施されている。
1961年(昭和36年) - 現在の取水口が完成する。現在、用水路と施設の管理は備前渠用水路土地改良区が行っている。

《名称の由来》

伊奈備前守忠次によって計画されたことに由来する。渠は堀、人工河川などの中国風の呼び方である。

 伊奈 忠次(いな ただつぐ)の功績として、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行ったことがあげられます。
 利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れません。
 関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来しています。
 諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたといいます。

 専用線の線路はここから敷地内に進んでいたようです。
                  かなり広い「旧日本煉瓦製造」の敷地。
     

 線路跡の遊歩道はここで終点になります。
小広場にベンチなど。



 すっかり整地された頃のようす。

 2006(平成18)年に清算・廃業するまでは工場、建物が立ち並んでいたようですが、現在は「たつみ印刷」の建物と旧日本煉瓦製造関連の建造物(国指定重要文化財)が残っているだけです。↑が「日本煉瓦製造・ホフマン輪窯6号窯」。上方に「旧事務所」、「変電室」。道路をはさんだ北側の施設は、「深谷市浄化センター」。

    
             奥に見える高い煙突が「ホフマン輪窯6号窯」の煙突。

煉瓦塀沿いに進むんで行きます。

左手には「小山川」の堤、その向こうに「赤城山」。

 工場の一部として、「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電室」が残っており、国重要文化財となっています。それらは日本煉瓦製造株式会社の事業清算の際に、深谷市に寄贈されることとなり、平成19年度に所有権が深谷市へ移転しました。現在、市ではこれらの施設の保存・活用のための作業を進めています。
 ホフマン輪窯は、深谷市の旧煉瓦製造施設ホフマン輪窯6号窯の他には、栃木県下都賀郡野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていない貴重なものです。

(「」HPより)

「旧変電室」。    

「旧事務所」。
    

 この施設は、「日本煉瓦史料館」になっていますが、閉館日のため中には入れず。
フェンス越しに。

  
                   「ホフマン輪窯6号窯」。(写真は「深谷市」HPより)

「小山川」の土手から「浅間山」(↓)。

 橋のたもとにあるお店の「自販機」でお茶を購入、土手でひと休み。

 遊歩道にはトイレは各所に設置されていますが、「自販機」はスタート地点の駅前にあるのみ。往復歩くことになる(基本的にはこうせざるをえない)ので、飲み物などの事前準備が必要です。
 こうしてひと休みをして、再び元来た道を「深谷駅」まで。往復約8㎞の道のり。
 よく整備された遊歩道で、ジョギングする人、散歩する人、犬を連れている人、自転車通学の高校生、荷台にネギを積んで通り過ぎる自転車、畑仕事をする人、・・・行きも帰りも地元の方々に出会いました。

 周囲に広がる田園風景を楽しみながら、のんびりと歩いた2時間30分でした。

    

※ 航空写真は「歴史的農業環境閲覧システム」より。
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深谷駅~旧煉瓦製造施設(日本煉瓦製造株式会社専用線)。その2。

2016-03-09 22:08:28 | 鉄道遺跡
 遊歩道(日本煉瓦製造専用線跡)は、「国道17号線」を歩道橋で越えて行きます。しばらく住宅地ですが、その先には畑地が広がってきます。

     
                                           振り返って望む。

    
                             次第に広がる畑地。

 「深谷」といえば、「深谷ネギ」が有名。駅前で食べたラーメンにも深谷ネギがたくさん入っていました。美味です。遊歩道の両側に広がるネギ畑。

    

 しばらく進み、「深谷中央病院」を過ぎると、「福川」にかかる「あかね橋」へ。かつては鉄橋でしたが、現在では新しい橋に架け替えられています。

     

左手遠くに浅間山(↓)。

 橋を越えた右手の公園に、専用線当時の「福川鉄橋」が保存されています。

    

    

福川鉄橋 深谷市指定文化財 昭和61年12月22日指定
 日本煉瓦製造株式会社専用線の福川に架設された鉄橋で、福川に架けられていたプレート・ガーダー橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーダー橋からなっていました。プレート・ガーダー橋は、全長10.1mで、明治28年(1895)の建設当初の姿をほとんどそのままに伝えており、現存する日本最古のボーナル型プレート・ガーダー橋です。
ボックス・ガーダー橋は、全長22.9mで、洪水のときに福川から溢れた水の逃げ場をあけておくために設けられたものです。当初は木桁でしたが、順治鉄桁に変えていったようです。
 ボーナル型プレート・ガーター橋は、イギリス人の鉄道技師、チャールズ・ボーナルの設計による鉄橋です。日本の近代産業革命期の明治28年から34年(1895~1901)に日本各地で建造されました。
 福川鉄橋は、日本の近代化を象徴する産業遺構として、極めて高い歴史的価値をもっています。
  深谷市  深谷市教育委員会

    

土台は煉瓦積み。線路も残してあります。

 この先も視界が広がって、畑の中を進みます。
    

 子どもの像があるところを過ぎて「国道17号・バイパス」の下をくぐります。
    

行く手の正面には「赤城山」。


2010年代のようす。

 のどかな昼過ぎ、のんびりと歩きます。左手に何やら果樹らしい木が並んでいます。横に伸びた太い幹は布で覆われ、そこから何本かの枝が上に伸びています。今まで見たことがなさそうな、・・・。想像もつきません。

    

 近くで農作業をしている方に思い切ってたずねると、「ああ、あれはイチジクだよ。うちの畑じゃないけれどね。」

 「イチジク」なら子どもの頃は庭に植わっているうちもあって、なじみ深いものでした。熟したものを食べたり、イボができると、葉っぱからでる白い汁を掛けると直るとかで塗った記憶もあります。まさかここでお目に掛けるとは思いませんでした。

イチジク
 「無花果」の字は、花を咲かせずに実をつけるように見えることに由来する漢語で、日本語ではこれに「イチジク」という熟字訓を与えている。
「映日果」は、中世ペルシア語「アンジール」(anjīr)を当時の中国語で音写した「映日」に「果」を補足したもの。通説として、日本語名「イチジク」はこれの音読「エイジツカ」の転訛とする。 ・・・
 伝来当時の日本では「蓬莱柿(ほうらいし)」「南蛮柿(なんばんがき)」「唐柿(とうがき)」などと呼ばれた。いずれも“異国の果物”といった含みを当時の言葉で表現したものである。
 日本には江戸時代初期、ペルシャから中国を経て、長崎に伝来した。当初は薬樹としてもたらされたというが、やがて果実を生食して甘味を楽しむようになり、挿し木で容易にふやせることも手伝って、手間のかからない果樹として家庭の庭などにもひろく植えられるに至っている。
 果実は生食するほかに乾燥イチジク(ドライフィグ)として多く流通する。
 生果・乾燥品ともに、パン、ケーキ、ビスケットなどに練りこんだり、ジャムやコンポートにしたり、スープやソースの材料として、またワインや酢の醸造用など、さまざまな用途をもつ。ほかにペースト、濃縮果汁、パウダー、冷凍品などの中間製品も流通している。日本国内では甘露煮にする地方もある。
 果実には果糖、ブドウ糖、蛋白質、ビタミン類、カリウム、カルシウム、ペクチンなどが含まれている。クエン酸が少量含まれるが、糖分の方が多いので、甘い味がする。食物繊維は、不溶性と水溶性の両方が豊富に含まれている。



(以上、「Wikipedia」より)

 が、見慣れていたのは、こんもりとした感じの、イチジクの木。こういう風に育てるとは知りませんでした。

HPより)

 この図でいくと、2年目以降の剪定の仕方、育て方なのですね。

 干して大きく丸めた藁束、収穫間近のネギ畑。満開の梅など春らしい道端の雰囲気を味わいながら進んで行きます。

    

    
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