その先、左手にある建物は「酒屋脇本陣跡」。現在は地区の公民館として使われています。その脇には「坂本宿屋号一覧」が掲示されています。
整然とした町並み。街道の中央、北、南に用水が流れています。本陣が2軒、脇本陣が4軒、さらに旅籠屋、関連施設がずらりと。かなり大きな宿場であったようです。
「脇本陣永井」。白壁と屋敷門。
「佐藤本陣」。
坂本に二つある本陣のうち当本陣は、「佐藤本陣」また「上の本陣」と呼ばれていた。三代将軍家光は、寛永19年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務づけた。そのため、文政年間では31大名が坂本宿を往来した。
寛政2年8月8日、坂本宿で加賀百万石といわれた松平加賀守が江戸へ信州松代真田右京太夫は帰国のため信州へで擦れ違いそれぞれ宿泊している。東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため坂本泊まりが必然となり本陣が2軒必要だった。
安政6年(1859)2月、安中藩主板倉主計頭が大阪御加番(大阪城警備)を命ぜられ登城するとき後輩源左衛門と組頭の甚右衛門は安中藩の役人宅へお祝いに参上している。そして、御本陣番(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅(金井本陣)である。
宿割りは脇本陣をはじめとして16宿。板倉候はじめ藩士二百余名は、7月17日朝五ッ半(午前9時)坂本に到着した。大名はじめ宮様、日光例幣使、茶壺道中で坂本宿はたいへんな賑わいであったが、その反面難渋も少なくなかった。
解説板と並んで、「坂本小学校発祥の地」の石碑が建っています。敷地はともかく、この建物は、もちろん本陣時代のものではありません。つくりも旅籠屋風で、さらに小屋根(養蚕用)の乗った建物になっています。
奥に掲示してある解説文。
明治8年4月10日、佐藤本陣(上の本陣・佐藤慎一郎氏宅)を仮校舎にあて、坂本小学校が開校されました。
その後佐藤家は移住、現在の家屋はその跡地に明治34年3月、小竹屋の分家(「分家・小竹屋」、通称「新築・小竹屋」)として建てられたものです。
分家・新築 小竹屋当主
左手が「佐藤本陣跡」の建物。奥に見えるのが「刎石山」。
「脇本陣みまがや」。
「うだつの上がる家」。
うだつ
日本家屋の屋根に取り付けられる小柱、防火壁、装飾。本来は梲と書き、室町以降は卯建・宇立などの字が当てられた。
《歴史》
平安時代は「うだち」といったが、室町時代以降「うだつ」と訛った。本来は梁(うつばり)の上に立てる小さい柱のことを言ったが、そののち、自家と隣家との間の屋根を少し持ち上げた部分を「うだつ」と呼ぶようになった。桃山時代に描かれた洛中洛外図屏風にはうだつのある長屋が描かれている。桃山時代から江戸時代初期にかけては木製のうだつが存在するなど、当初は防火壁と言うよりも屋根が強風で飛んだりするのを防ぐ防風の意味合いや、また装飾的な意味合いが強かった[1]。
その後、隣家と接するケラバ(切妻屋根の両端)部分の壁を少し持ち上げ、独立した小屋根を乗せたものを「うだつ」と呼ぶようになった(本うだつ)。さらに、本うだつの下端が、平側の1階屋根と2階屋根の間の部分にまで張り出すようになり、その壁部分が小さい防火壁として独立し、これも「うだつ」と呼ぶようになった(袖うだつ)。
本来、町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになる。自己の財力を誇示するための手段として、上方を中心に商家の屋根上には競って立派なうだつが上げられた。
うだつを上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、これが上がっている家は比較的裕福な家に限られていた。これが「生活や地位が向上しない」「状態が今ひとつ良くない」「見栄えがしない」という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられている。
(以上、「Wikipedia」参照)
「坂本宿・下木戸」跡。
慶長7年(1602)、江戸を中心とした街道整備が行われたとき五街道の一つとして江戸、京都を結ぶ中山道132里(約540㎞)が定められ、この間に69次の宿場ができた。
その一つに坂本宿が設けられ宿内の長さ392間(約713m)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸、下木戸が作られた。本木戸は下木戸と称せられ、当時の設置場所に一部復元したものである。
木戸は、軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前6時)から暮れ六ツ(現在の午後6時)までであった。実際には木戸番が顔が識別できると判断したようである。 文久元年の絵図によると、8間1尺巾(約14.8m)の道路に川幅4尺(約1.3m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家160軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。
雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越しまし坂本へ
「下木戸跡」の手前、右側のちょっと奥まったところに「金井本陣跡」があります。皇女和宮も一泊した本陣です。
振り返って望む。車の通りも少なく、静かで落ち着いた町並み。
こうして再び、「横川駅」に向かいます。
15分ほどゆるやかに下り、「旧18号」から左手に折れて急な「薬師坂」を下ります。
「薬師の湧水」。
「川久保薬師堂」。
元和9年(1623)碓氷関所が開設されて通行の取締りに厳しさが増し、加えて碓氷峠が間近にひかえているため旅人は難渋を極めた。そこで、無事通過と感謝を込めてこの坂に薬師如来を祀る薬師堂が建立された。また、近くに清澄な湧水があるところから心太(ところてん)を商う店があり、旅人たちはここで憩いながら旅装を都問えたり、街道の事情を知る場所でもあった。このところから心太坂といわれ親しまれた。・・・
坂の上り口にある「薬師坂」碑。
再び「旧18号」に合流します。「霧積橋」へ。
川久保橋
碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。この橋は正しくは碓氷関所橋と呼んで中山道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であったため増水期になると度々流失した。関所設立当初は軍事目的を優先したからである。橋が流失すると川止めとなり、旅人や書状などの連絡は中断された。このため、関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて宿継ぎ御用綱として使われ書状箱を対岸に渡すことに使われた。
細い麻綱を投げ渡して大綱を張り、大綱に竹輪を通して麻縄を繰り、ちょうどケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。川止めとなっても増水の危険を冒して渡河する人もいた。なかでも参勤交代の大名行列は日限も予定されているので渡河を強行したという。
大名の渡河に際しては。番頭も川原に集まり出て見届けた。
正面の坂道が「薬師坂」。
「横川駅」へ向かう一画に大きな「顕彰碑」と「解説板」。どちらも「碓氷B舎鉄道」にちなんだもの。
碓氷馬車鉄道(うすいばしゃてつどう)
かつて官営鉄道横川線(現、信越本線)の横川駅前から、碓氷峠を越えた直江津線(現、しなの鉄道線)の軽井沢駅との間を連絡していた馬車鉄道である。
半官半民の私鉄である日本鉄道によって上野駅 - 高崎駅間の路線が開通した後、官営鉄道によって1885年(明治18年)10月15日に高崎駅 - 横川駅間が開業した。その後、日本海側の直江津駅からも順次南下して線路が敷設され、軽井沢駅までの路線が1888年(明治21年)12月1日に完成した。しかし横川駅 - 軽井沢駅間には碓氷峠という古くからの難所があり、この区間は直線距離にすると10kmにも関わらず標高差が552mもあるなど、鉄道にとっては非常に急勾配となるもので、工事も長期にわたっての難航が予想された。そのため、暫定的に両駅間を馬車鉄道によって結び、東京 - 直江津間の連絡と碓氷峠の鉄道敷設に要する資材輸送手段を確保しようと考えられた。これにより、国道18号上に線路を敷設することで開業したのが「碓氷馬車鉄道」である。
旅客、貨物が好調で車両も増備したが、急勾配、急曲線のため線路や車輪の摩耗も激しく、馬匹も2頭引きの上、片道2回交代するなど経費がかかっていた。
そして、わずか2年後の1890年(明治23年)には鉄道庁が碓氷線の建設を決定。株主総代が4月には山縣有朋総理大臣、翌年5月には鉄道庁長官に対して会社資産の一切を買収する旨の請願書を提出したものの、「該社の設立は中山道鉄道布設の発令以降にして、早晩官設あるべきは知り渡りたる事なれば、彼等は予め今日あるを十分覚悟の上に手着手したるものにして」として却下した。元々暫定的な鉄道であったため、1893年(明治26年)にアプト式ラックレールを採用して同区間の官営鉄道線が開通すると、開通僅か5年で廃線となった。
(以上、「Wikipedia」参照)
「碓氷峠」をめぐる交通事情には「碓氷関所」以後も、様々な変遷といろいろな苦労と歴史がありました。
横川駅ホームからの妙義山。
横川駅出発09:17~横川駅到着14:20。
次回は、いよいよ「碓氷峠」越えです。