おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武伊勢崎線「川俣」駅~東武佐野線「佐野」駅。その4。(「日光千人同心街道」第6日目)

2018-12-20 20:01:35 | 日光千人同心街道
                          (12:37)「田中正造終焉の地」との立て看板。 手前の大きな「庭田家」のやしきが終焉の家。
 なお、この看板は立派な記念碑が出来る前に立っていたもののようです。

正造終焉の家、佐野市指定史跡に             
 正造が息を引き取った佐野市下羽田町の庭田家が、「田中正造終焉の家」として佐野市の指定史跡に決定しました。
 正造が亡くなってちょうど100年となる9月4日付けで指定となりました。
 1913年、8月2日、河川調査から谷中村へ帰る途中、支援者だった庭田清四郎(現当主・庭田隆次さんの曽祖父)宅で病に倒れました。妻カツや木下尚江をはじめ、大勢から献身的な介抱を受けましたが、同年9月4日、同家の8畳間で亡くなりました。
                           
 『田中正造終焉の家』 佐野市下羽田町19-2
   ※ 個人宅のため、見学は要連絡(0283-23-1439)
   お問い合わせ 佐野市生涯学習課 文化財保護係 0283-61-1174
(注:2013年の記事)

田中正造翁終焉の地」碑。
 真の文明ハ(は)山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さゞるべし
 田中正造翁は運動の途中倒れ、1913(大正2)年9月4日栃木県佐野市下羽田(旧足利郡吾妻村)の庭田清四郎家で満71才の生涯を閉じた。翁は、近代日本の公害の原点・足銅山鉱毒事件」で苦しんだ被害民の救済・人権回復に半生を捧げた。
 明治政府は、被害地人民の生命と生活をかえりみず最後は谷中村を廃村にし、残留した被害民の家屋まで強制破壊した。
 翁は「亡国日本」を救う運動の中でつちかった「人権・自治・環境・自然との共生・憲法政治の確立・平和・軍備全廃」思想を百年前に主張している。翁こそ、環境人権破壊に抗する人びとの味方として永遠に記憶に留められる人物である。
 庭田家ではその後、現当主隆次氏まで4代にわたって、田中翁が病臥し死去した部屋をそのまま保存し訪れる人びとに翁の思想と行動を伝え続けている。
 庭田家の近くの雲龍寺(群馬県館林市下早川田)は鉱毒被害民運動の拠点だった。当時の住職黒崎禅翁師も被害民と共に闘い川俣事件で逮捕された。
 雲龍寺には翁の分骨地墓と「救現堂」「足尾鉱毒事件被告之碑」がある。
 庭田邸と雲龍寺には「田中正造翁終焉の地」として、「百年の悔いを子孫に伝うるなかれ」という翁の戒めを私たちに常に発信し続けている歴史的精神的遺産である。

 2017年8月吉日 記念碑建立実行委員会

                     

佐野が生んだ偉人  その行動と思想」HPより
9.谷中村跡 〔所在地図〕
◆足尾鉱毒事件により地図から抹殺された悲劇の村
 明治10年(1877年)以降、足尾銅山から排出された鉱毒のため洪水のたびに、渡良瀬川の流域の村々では、作物が枯れ、豊富な魚介類が死滅するという被害が出ていた。明治33年(1900)に被害民が大規模な抗議行動(第4回東京大挙押出し)を起こした川俣事件、明治33年(1901年)の田中正造の天皇直訴事件等で、社会の耳目を集め国会でも大きな問題になった。
 明治政府は鉱毒事件の解決のため、毒の水をためる調節池(渡良瀬遊水地)の建設を行うことを計画した。その犠牲になったのが谷中村の住民である。谷中村では村ぐるみで「藤岡村との吸収合併」「土地の不当買収」「住民の強制立ち退き」に反対したが、施政権のある当局には勝てず明治39年(1906)、谷中村は藤岡町に合併され法律上、消滅した。結果的に土地は不当に安い値段で当局に買い上げられ、被害民たちは近隣の村々に、遠くは北海道の荒涼地へ移転していった。
 その後も387戸、2,500余人の住民のうち16世帯約100名は、谷中村の遊水池化に反対し買収に応ぜず提内に留まっていた。これに対し、西園寺公望内閣は明治40年に土地収用法の適用認定を公告、谷中村を隣接の藤岡町に吸収合併させて、谷中村を地図上から、更には公の資料から全て抹殺しようと謀り、明治40(1907)年6月29日より7月5日までの7日間にわたって谷中村残留民家16戸の強制破壊を強行した。
 強制破壊後も谷中村残留民は、仮小屋を作り悲惨な生活を強いられながら抵抗を続けたが木下尚江らの勧告もあって大正6年(1917)、強制破壊から10年におよぶ反対運動を断念、全ての戦いが終わり谷中村は名実ともに消滅した。
               


(12:41)道は「県道7号線」を横断し、「才川」に沿って進みます。

                                

 旧道は、しばらく進んで、右に曲がり、直進。そのまま県道と東武線を越えて行きますが、なかなか通りの向こう側に渡れません。しかたなく県道をそのまま歩きます。

(13:07)東武線「田島」駅。旧道は線路の向こう側を行く。

(13:23)「秋山川」のところで旧道と合流。

???土蔵造りの建物をリフォーム。

「天明宿」(佐野)への道。


(13:37)重厚な建物の旧家。

                               

「佐野ラーメン」のお店。かつての建物を生かす。

そんなお店が目に付きます。


(13:44)こちらは「郷土銘菓舗 金福」。

凝った意匠の屋根。

一方ではこんな洒落たおうちも。

 通りの左には田中正造の本葬を行った「惣宗寺(佐野厄除け大師)」がありますが、翁の墓の前には石川啄木の歌碑があるそうです。
 夕川に 葦は枯れたり 血にまとう 民の叫びの など悲しきや

(13:47)「例幣使街道」との合流地点「本町」交差点に着きます。

「例幣使街道」西方を望む。

庵看板(屋根付きの看板)のあるお店を見ながら佐野駅へ。

JR「西八王子」駅から東武線・JR線「佐野」駅まで。今回で完歩。

 「国道16号線」をはじめ、幹線道路が多く、けっこう車の通りが激しい中での歩きでしたが、なかなか変化に富んだ、見所の多い道筋でした。
 特に後半、田中正造にまつわる遺跡にはかなり興味をひかれました。機会があれば、「旧谷中村」を訪れてみたいと思います。

《今年歩いた街道》
①日光御成街道(本郷~幸手)
②青梅街道(新宿三丁目~「奥多摩湖」)
③日光例幣使街道(倉賀野~下今市)
④日光千人同心街道(西八王子~佐野)
⑤川越街道(板橋~川越)
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東武伊勢崎線「川俣」駅~東武佐野線「佐野」駅。その3。(「日光千人同心街道」第6日目)

2018-12-19 20:18:00 | 日光千人同心街道
                             (11:34)街道を先に進むと「佐野口門跡」へ。道路の拡幅工事中。

 まだまだ館林宿にはかつてを偲ぶ建物などがあります。
                 奥にりっぱな門。

 先を急ぎます。交差点の先の三叉路を右に曲がっていきます。そこには道標が二基。右には「右 さの とちぎ道」左には「らいでん道」とあります。
 この「らいでん」は、ここからはほぼ東にあたる、板倉町にある「雷電神社」のことか。
  


1880年代のようす。○が分岐点。



2010年代のようす。現在の分岐点は少し下方に。

まっすぐな道が続きます。

(11:51)東武佐野線の踏切を越えます。

視界が開けてきます。

遊水池。水鳥の姿も。

しばらくすると、「下早川田(しもさがわだ)」の集落へ。この先は「矢場川」と「渡良瀬川」の土手に。

「矢場川」は、「例幣使街道」歩きで太田から八木(福居)への途中で渡り、「渡良瀬川」は同じく天明(佐野)へ向かうときに渡りました。

集落のようす。

                            りっぱなおやしき。

                   

土手から集落を見下ろす。

(12:08)「海まで155㎞」標示。向こうの橋は「渡良瀬大橋」。

土手下には石塔群。

               「渡良瀬大橋」。

                         「渡良瀬川」上流方向。

↓は、「足尾鉱毒事件」で生涯を捧げた田中正造の墓がある雲龍寺。
 このお寺は、館林市に属しています。

(12:24)そこへ寄り道します。 
「足尾鉱毒事件対策事務所」が置かれていた寺でもあります。

   
 ・・・この墓は田中正造の没後20年にあたる昭和8年(1933)に、渡良瀬川沿岸に住む人々の浄財によって建てられました。墓石は高さが約3m「あり、首部の細い特徴のある宝塔です。・・・墓の右手に建つ「救現堂」には正造が祀られています。「教現」は、正造が死の13日前に述べた「現在を救い給え」という祈りの言葉に由来するものです。
 日本の近代史の一編を語るとともに、低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡です。
鉱毒にいのちのかぎり 田中正造」 

大正二年九月四日 享年七十三才 田中正造翁終焉の地」。

正造の歌「毒流すわるさ止めずバ我やまず渡良瀬利根に地を流すとも」。
 
田中 正造
 天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)。
 日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。
 生まれは名主の家ではあったが、田中本人によれば村では中流でそれほど裕福な家ではなかったという。
 父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。
 明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
 1874年(明治7年)に釈放されて小中村に戻り、1876年(明治9年)まで隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。幕末に大沢カツと結婚している。
 1878年(明治11年)、区会議員として政治活動を再開。栃木新聞(現在の下野新聞)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。また、嚶鳴社や交詢社に社員として参加している。
 1880年(明治13年)、栃木県議会議員。1882年(明治15年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。県令(現在の知事)だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年(明治18年)逮捕される。1886年(明治19年)4月1日開会の第13回臨時県会で、議長に当選する。
 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。
 1891年(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った。1896年(明治29年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。
 1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。
 1900年(明治33年)2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。当時の総理大臣・山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。
 1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。
 12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っている。
 1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。
 1902年(明治35年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加。計画は白紙になった。
 1903年(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。
 1906年(明治39年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。1907年(明治40年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。
 1908年(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。
 土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。71歳没。
 財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。
 雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。
 田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。
 足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山となり、現在でもその跡を残している。そして田中が明治天皇へ行おうとした直訴状は、2013年(平成25年)に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた今上天皇へと伝えられることとなった。未遂から実に112年後のことであった。

正造の墓の所在地
佐野町(現・佐野市) 惣宗寺 - 正造の本葬が行われた寺
渡瀬村(現・館林市) 雲龍寺 - 正造の密葬が行われた寺。また、鉱毒対策事務所が置かれていた寺でもある。
旗川村(現・佐野市) 浄蓮寺 - 田中家の菩提寺
藤岡町(現・栃木市) 田中霊祠 - 田中を葬るために谷中村跡につくられた祠。後に藤岡町堤外に移転。
利島村(現・加須市) - 川辺村民と利島村民が協力し、利島小学校敷地内に造営(現・加須市立北川辺西小学校。加須市麦倉所在)。
久野村(現・足利市) 寿徳寺 - 1989年に公表された6番目の分骨地。

(以上、「Wikipedia」参照。)

(12:34)街道に復帰、東武線の脇を進みます。
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東武伊勢崎線「川俣」駅~東武佐野線「佐野」駅。その2。(「日光千人同心街道」第6日目)

2018-12-18 21:08:17 | 日光千人同心街道
                                 (10:35)館林の市街地へ。
この付近に「館林城江戸口門」があったようです。

                         「館林駅入口」交差点。


館林市概要
 館林市は古くから開けていた地域で60基以上の古墳が存在したとされますが、最大とされる山王山古墳や富士塚古墳などは全長50m前後の為、巨大な豪族とまではいかない勢力が分布していたと思われます。
 鎌倉時代になると幕府の御家人である佐貫氏が館林市周辺を支配しますが、時代が下るにつれて一族の舞木氏が台頭し、下克上の世になると舞木氏の被官赤井氏が取って代わります。赤井氏は館林城を居城とし、小田原北条氏と組みし勢力を広めていた為、関東管領を譲渡された上杉謙信(春日山城の城主、越後守護職)と上野国諸侯と対立し、永禄5年(1562)には上杉勢の侵攻により館林城は落城し、赤井氏は武蔵忍城(埼玉県行田市)に落ち延びていきました。
 謙信が死去すると小田原北条氏が支配し、天正18年(1590)の小田原の役で没落すると徳川家支配になり館林には重臣である榊原康政が10万石で入封し館林藩を立藩します。
 以後も東国の抑えの城として幕府から重要視され徳川綱吉を筆頭に松平氏、太田氏、井上氏、秋元氏など親藩や有力譜代大名が藩主を歴任し明治維新を迎えます。

ちょっと周囲を散策。
(1)館林駅(2)竜の井(3)毛塚記念館(4)大道寺(5)旧町屋地区の住宅(6)青梅天満宮(7)外池商店(8)旧二業見番組合事務所
(9)青龍の井戸(10)鷹匠町長屋門(11)鷹匠町武家屋敷武鷹館(12)土橋門(13)第二資料館(14)旧秋元別邸

 実際に歩いたのは(7)から(11)までですが。

青龍の井戸」。

                      
青龍神社概要
 この井戸は、江戸時代に福寿院(現在は廃寺)の境内にあり、伝説によると、延宝年間(1673~1681年)に突然清水が湧き上がり、中から女官姿の「青龍権現」が姿をあらわしたことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったといわれています。
 当時は徳川綱吉が館林の城主となった頃で、城下は、御三家の一つである水戸家に並ぶほどのこれまでに例を見ない隆盛をほこっていたことから、ますます良い兆しであるとして、人々の大変な噂となりました。
 この話を聞いた綱吉の生母「桂昌院」は井戸のかたわらに「青龍権現社」を再建したといわれ、綱吉も5代将軍となると10石をの来印地を寄進したと伝えられており、神社の入口には、現在でも「葵の御紋」が見られます。
 又、この井戸と善導寺(現在は移転)境内の「竜の井」と「城沼」とが一つにつながっていたという伝説もあり、こうしたことから、7月10日の縁日荷は、延命長寿の霊験があるこの井戸の水を参拝者に与える習わしがありました。
 平成10年に、井戸の調査がおこなわれましたが、井戸の深さは7㍍程、井戸の断面は、深さ約3㍍のところで大きく膨らみ、集水のための工夫が施されていることがわかりました。 現在でも、冷たくてきれいな水がこんこんと湧き出しています。
 
旧二業見番組合事務所」。
昭和前/1938
木造2階建、瓦葺、建築面積195㎡ 1棟
群馬県館林市本町二丁目1704
登録年月日:20160225
登録有形文化財(建造物)

 料亭と芸妓置屋の二業の旧組合事務所。木造二階建で通りに西面する。一階は事務室と座敷、二階は舞台を持つ畳敷の大広間をおく。通りに面する西面は入母屋造屋根の妻と唐破風造の玄関を見せ、二階には左右対称の切妻屋根を並べるなど、和風意匠で華やかに飾る。
この建物は昭和13年(1938)に芸妓屋業と料亭業の二業を取り仕切る事務所として建てられたもので、木造2階建、入母屋、桟瓦葺、妻入、外壁は1階が下見板張、2階が真壁造、白漆喰仕上げ、延床面積約390㎡。正面は左右対称で両側を前に出させる事で切妻屋根が重なるようにし、2階には手摺を廻し楼閣風の意匠にしています。
 玄関は大きな唐破風屋根を設えて建物を強く印象付けると同時に利用するお客様にとって非日常空間を演出する効果があったように思われます。その他にも花を模った止め瓦や照明、土間のタイル、折り上げ天井、懸魚などなど細やかな意匠や工夫が随所に施されてます。
 2階には芸妓さんの練習舞台があり3方の壁には松や竹が描かれ当時の華やかな空間が残されています。
 旧二業見番組合事務所は所謂、料亭建築で、外観や内部の細かな意匠に至るまで通常の町屋建築や農家建築、武家屋敷には無いある種の艶っぽさが感じられます。

「料理屋」・「芸者置屋」・「待合」の3種の営業を「三業」、前2者のみを「二業」という。

注:待合と料亭(料理屋)の大きな違いは、前者では料理を直接提供しない(板場がない)ことである。料理は仕出し屋などから取り寄せる。待合は席料を取るほか、取り寄せた料理に手数料を乗せ、これらが主な収入になる。また、待合では(料理屋と異なり)客の宿泊用に寝具を備えた部屋があり、ここで芸妓や私娼と一夜を過ごす客も多かった(東京などでは、娼妓は遊郭以外で営業できないため、待合へ呼ばれることはない)。なお、芸妓と客の同宿はほとんど黙認状態であったが、売春が公認されていたわけではない。
 その他、門口に盛り塩、帳場に縁起棚、あるまじき所に酒樽、眉毛のあとの青いかみさんが待合の特徴と言われた。
 同じ待合という名を冠していても、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、小待合、安待合と呼ばれ、連れ込み宿同様に使われる店もあり、内実は相当な違いがあった点に注意すべきである。格式ある待合・料亭は「一見さんお断り」が当然であった。永井荷風は「おかめ笹」の中で芸者と気軽に遊ばせる白山などの小待合の様子を描写している。有名な阿部定事件の舞台は、尾久(荒川区)の待合である。
 第二次世界大戦後、待合は「料亭」と名を変えた(このため、かつての料亭は「割烹」と称することが多くなった)。料亭と名前は変わっても、相変わらず政治家の会合や企業の接待などに使われていたが、次第にバー、クラブ、ゴルフなどと接待の場も多様化し、芸妓が減少するのと並行して、廃業する店が多くなった。
(この項、「Wikipedia」参照)  

 「肴町」。

突き当たりには「外池商店」。
外池商店(館林市)概要:
 外池商店は江戸時代中期に近江国(現在の滋賀県)から当地に移住して創業、「和泉屋」の屋号で醤油や味噌などの醸造業を営んでいました。現在の店舗は昭和4年(1929)に建築されたもので、木造2階建て切妻、瓦葺、平入り、桁行4間、1階正面は下屋が張り出し、2階は格子戸となっています。表門から敷地内に入る事が出来、背後にある土蔵は創建当時に建てられ建物で近年改修して"百々歳蔵"として多目的利用されています。

「まちなか散策」絵図。

右に折れ、左に曲がると「長屋門」。


鷹匠町長屋門
 旧野辺町(三野谷)の豪農「松沢家」が利用していた長屋門を利用して、武家屋敷長屋門として、平成21年に新築したもの。長屋門は武家の屋敷門の一つで、長屋の間に門があることから長屋門といわれており、門の両側の部屋は使用人の部屋や物置として使われていました。

続いて「武家屋敷武鷹館」へ。
 「鷹匠町」。



                          庭側から外を。



                         
旧館林藩士住宅
 この建物は、旧館林城の侍町の一つである「外伴木」(現在の尾曳町)に現存した館林藩の中級武士の住宅で、秋元藩時代には、藩士「伊王野惣七郎」の居宅として、廃藩後は、旧藩士の「山田家」の住宅として今日まで受け継がれてきました。
部屋を横一列に配置する武家住宅特有の間取りが特徴で、長年住宅として使われてきたことで、間取りなどに変化はありましたが、調査により、建築当初は間口約8間半、奥行はお勝手を入れて4間半、建坪は28坪(92.56㎡)であることがわかりました。棟札が発見できなかったため、建築年は明確にできませんが、柱間の長さや間取り、柱配りなどから、江戸時代後期に造られたものと考えられています。
群馬県内においても、現存する数少ない武家住宅の一つで、江戸時代の建築様式や武士のくらしを伝える歴史的価値の高い建造物として、平成11年に館林市指定重要文化財に指定され、平成12~13年にこの場所に移築復元しました。
長屋門
 「長屋門」は、近世の武家屋敷の表門の形式の一つで、物置や使用人などの住居も兼ねていました。
この長屋門は、木造瓦葺き平屋建て、屋根構造は和小屋組で、中央部に門扉、両袖に部屋が配置されています。建築年代は棟札がなく明確にはできませんが、大正期の建築と考えられています。
旧城下に江戸時代の長屋門が現存しないこともあり、江戸時代の武家屋敷街の格式や雰囲気を伝える貴重な建造物と考えられます。また、附属する住宅は、昭和29年に増築されたものですが、従来の日本建築の工法を伝えています。「旧館林藩士住宅」の移築に合わせ、管理や活用のための設備として、外観を活かして整備しました。

外観のようす。

「館林の街並みと建造物」ポスター。

通りの向かい側には「田中正造資料館」。

                   

大手町にある「正田邸」。
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東武伊勢崎線「川俣」駅~東武佐野線「佐野」駅。その1。(「日光千人同心街道」第6日目)

2018-12-17 21:20:27 | 日光千人同心街道
                       
 「日光千人同心街道」歩きも最終回。正味5日半。
 健脚なら3日半くらいで、歩き通せる行程。

 街道の名称もずばり「日光街道」から「日光脇街道」。今や「日光脇往還」となって、「八王子千人同心街道」という名称はあまりみかけなくなった街道。
 もともと「千人同心街道」、「日光火之番街道」、「八王子千人同心街道」、「日光脇街道」、「日光脇往還」、「日光裏街道」などとあったようですが。
 JR中央線「西八王子」駅からはたしかに遠ざかりました。東京→埼玉→群馬と歩いてきて、最終地は栃木と歩いてきたわけです。旧国名では武蔵→上野→下野。

(9:22)前回の地点から再開。

(9:28)しばらく進むと、左手、一本松の根元に「富士山供養」塔。
 
 この供養塔は、富士参拝に向かう老人がこの地で力尽き、田の水面に映る富士を見て息絶えたのを、村人が弔ったものと伝えられているようです。

 そういえば、吹上駅からの歩きで、国道17号線バイパス「前谷歩道橋」下で振り返ると、屋根の向こうに真っ白な富士山が意外に大きく見えました。 昔は、この辺りからでもおそらく見えたにちがいありません。今は高いところからでしか見えないでしょうが。
  
のどかな道を進みます。

                      落ち葉が敷き詰められた路地。

集落を抜けると周囲はすっかり冬模様の田畑。

「矢島」交差点で「国道122号線」に合流します。
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。旧道は田んぼの中を進み、旧青柳橋方向へ。   

        
                            ○が旧青柳橋付近。対岸に旧道の一部。

街道沿いのお店。「上州まごころうどん 雷電の里」。

(9:41)「矢田川」に架かる「青柳橋」を渡ります。下流に旧青柳橋がありました。


               「館林市」入り。

その付近まで行ってみようとしましたが、軽トラと農作業中の声。

旧道らしき道を歩いて国道に復帰します。

館林市の大きな観光案内板。

幹線道路らしくダンプや貨物がひっきりなしに轟音を上げて通りすぎます。


1880年代のようす。すでに現在の道路と重なる。


2010年代のようす。区画整理した田畑が広がっている。


(10:00)しばらく進むと、「茂林寺入口」交差点。
                     
                     「歩道橋」から街道を見下ろす。

「茂林寺」といえば、「分福茶釜」。

分福茶釜
 日本中で語り継がれている昔話のひとつ。文福茶釜とも表記する。
 そのルーツは群馬県館林市の茂林寺に伝わる伝説で、茂林寺には現在も狸が化けたとされる茶釜が伝わっている。

あらすじ
 古道具集めが一番の趣味である和尚さんが茶釜を買って寺に持ち帰る。茶釜を見ると汚れていたので弟子の小僧さんに茶釜を磨くよう命じるが、洗っている途中に茶釜が痛がったので、和尚さんに報告する。和尚さんは茶釜を水で満たし火に懸けたところ、何事もなかったので「雑念があるからだ」と小僧さんを叱る。しかししばらくすると茶釜が熱さに耐え切れず動き出したので気味が悪くなった和尚さんはたまたま近くを通りかかった貧しい古道具屋に茶釜を売ることにする。
 古道具屋はその夜奮発して鯛を買うが、食べようとしたところ鯛がなくなっていた。途方にくれる古道具屋だったが、茶釜を背負ったタヌキが「魚を食べたのは自分です」と白状する。茶釜は仲間との化け比べで元に戻れなくなったタヌキが化けたものだった。
 同情した古道具屋はタヌキが元に戻れるまでの間家に泊めることにする。タヌキはお礼に、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して古道具屋は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である。

 見世物小屋が繁盛した後の結末が二つに分かれる

① 古道具屋がタヌキを元の姿に戻す方法を模索するが、タヌキは化けたままで居続けた疲れから病にかかり、古道具屋の看病も虚しく元に戻れないまま死んでしまう。悲しんだ古道具屋は茶釜を引き取った寺で和尚さんに全てを話してタヌキを供養してもらい、茶釜は寺の宝として安置される。

② タヌキはかつて和尚さんに食べ物を恵んでもらった恩があり、古道具屋が再び寺を訪れた際にその事を思い出した和尚さんと再会を喜んで寺で暮らすことになる。茶釜は毎日お供え物をもらい家宝になる。

月岡芳年画『新形三十六怪撰』より「茂林寺の文福茶釜」。タヌキが僧に化けたという説に基いて描かれたもの。

(以上、「Wikipedia」参照)

ぶんぶく茶釜
放送回:0004-A 放送日:1975年01月28日(昭和50年01月28日)
あらすじ
 和尚さんが古い茶釜を買ってきて、お湯を沸かそうと火にかけたところ、茶釜が「熱い!」と悲鳴をあげた。気味悪がった和尚さんは、古道具屋にただで譲った。
 古道具屋は家に持って帰って、その茶釜がタヌキが化けたものだと知る。タヌキはその姿のまま元に戻れなくなってしまったというので、古道具屋はタヌキの言われたままに見せ物小屋を作ってやり、分福茶釜と銘打って見せ物をしてたくさんのお金を稼いだ。
 やがてタヌキは病気を患い、茶釜の姿のまま死んでしまった。古道具屋は茶釜をお寺に運んで供養してもらった。その茶釜は茂林寺に今も伝えられているという。
(稿: 蔵人 本掲載日2012-8-14 14:35 )

(この項、「」HPより)

行かない代わりにパチリ。

(10:06)「諏訪町」交差点(Y字路)を右に曲がります。


 この先、かつては1㎞以上、杉並木が続いていましたが、道路拡幅工事等ですっかりなくなっています。

りっぱなお屋敷。

 いよいよ「館林」の中心部に入っていきます。
 
「新宿2丁目」交差点。

東武伊勢崎線の踏切を渡ります。しばらく待って振り返ると、電車が通過中。

(10:30)「舗装道路完成記念」碑等。この付近まで杉並木だったか?

来た道を振り返る。「新宿1丁目」付近。
 注:「新宿」の読みは「しんじゅく」。
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その6。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-14 19:33:52 | 日光千人同心街道
                               「川俣宿」。
        
        
        
1880年代のようす。直線に延びるのが「川俣宿」。    2010年代のようす。当時のままの街道。

かつての賑わいをよそに。

(13:57)土手のすぐ下、左側に「旧本陣塩谷家」。

土手で車が通行止めのため、車が少なく静かで落ち着いた街並み。
小公園には、
 
富士見の渡しと日光脇往還
 川俣集落は、旧日光脇往還(現在の旧122号線)を挟んで、両側に家並みが密集して形成されているが、これは江戸時代に宿場であった名残である。江戸時代には、利根川沿いに渡船場も船着場も存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川の渡津、水運の河岸としても栄えた。
 日光脇往還は、往古より奥州への行路として利用されていたが、日光廟の建立に伴い江戸~日光の参詣道としても利用され「日光脇往還」と呼称されるようになった。」この道路は、江戸日本橋~鴻巣迄は中山道と重なり、鴻巣より行田(忍)―新郷―川俣―館林の4宿を経由し佐野(天明)に至り、佐野~日光迄は例幣使道と重複する。このためこの4宿を含む鴻巣~佐野間を「日光脇往還」と称する場合もある。・・・・
 川俣宿は、古文書によれば、寛永20年(1643)頃には宿駅として成立していたものと推定される。また元禄元年(1688)には助郷村として12ヶ村が指定され、大名の通行時等の場合、この村々が応援の人馬を負担したことが知られている。
 川俣渡船場は、元和2年(1616)に、関東16渡津の一つに挙げられ、渡船者の厳重な取り締まりが行われるなど、江戸防衛のための拠点とされていた。また渡船場から富士が美しく見え、庶民からは「富士見の渡し」と称されていた。
 川俣河岸は、江戸初期より廻米(年貢米)や材木の津出し(船による江戸への)積み出しの拠点として機能し、弘化3年(1846)においては、館林領48ヶ村の内27ヶ村の年貢を扱っていたと記録されている。
 以上のように江戸時代に繁栄を極めた川俣宿は、明治40年(1907)の鉄道の開通により、その役割を、現在に到った。
           明和町川俣宿保存研究会
現在の街並み。


その向かいに大きく立派な「川俣事件記念碑」。

                     
碑 文
 川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である
 明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた 生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった
 1898(明治31)年9月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しっを決行した
 その数一万余人 薄着姿の老人も見られたという
 時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い 多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した その演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという
 この後田中正造は足尾銅山鉱毒問題解決に献身し 議会に於いても 再三再四政府を追及したが 政府の答弁は終始曖昧に終わった
 1900(明治33)年2月13日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために 被害民たちは決死の覚悟で第4回目の東京押出しを決行した
 前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した2500余名の被害民は翌朝9時頃大挙上京請願のために同寺を出発 途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村大佐貫(現明和町)に到着 ここで馬舟各一隻を積んだ2台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手間同村川俣地区内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ち受けた300余名の警官隊に阻まれ 多くの犠牲者を出して四散した これが川俣事件である 
 この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は 村医を呼び負傷者に応急手当を施し 炊き出しを行いにぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し これを後世に伝えている
 この後 政府の措置に失望した田中正造は 衆議院議員を辞職し天皇に鉱毒問題を直訴 以後谷中村遊水池化反対闘争へと戦いを続ける 
 この地で川俣事件が発生してから100年が経過し いま足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び 環境問題にも強く訴え続けている
 この史実を風化させないために ここに川俣事件発生100年にあたり 記念碑を建立し 後世に伝えるものである。

「上宿橋」際に立つ記念碑。 

宿内を振り返る。

 川俣宿を出てからは、二手に分かれる「国道122号線」の間、斜めに進んでいきますが、全面工事中のため迂回、途中から旧道に戻ります。


(14:24)今回はここまで。

右折して、(14:32)東武伊勢崎線「川俣」駅。
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その5。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-13 20:54:30 | 日光千人同心街道
                             「須永家本陣」の「椎の木」。

かつての建物はありませんが、門があって解説板も立っています。

                          

椎の木。根元が太く、樹齢400年とか。
上新郷のシイノキ
 前の道は日光へ参詣するための街道であり、日光脇街道と呼ばれています。また、日光山の火防の任にあたった八王子千人同心が通行した道でもあるため、八王子千人同心道とも呼ばれています。
 当地は新郷宿であり、継ぎ立ては館林から行田へ向かう時のみの片宿場でした。これは脇街道にみられたものです。
 当家は忍藩主の命により本陣を務めていました。このシイノキは推定で400年の樹齢を持ち、高さおおよそ18㍍、幹回りは7.15㍍です。

文化財に関する解説板。
①徳川斉昭の和歌
 市指定文化財「富士山の図」をみて詠んだ和歌です。徳川斉昭(寛政12年-万延元年)は水戸藩の第9代当主で藤田東湖らを登用して藩政改革を行い、将軍は賞讃しましたが、幕府からは急激な改革をきらわれ、謹慎を命ぜられました。その後、情勢の変化により幕政に参与しましたが、将軍のあとつぎの問題で実子の慶喜(のちに15代将軍となる)を推し、井伊直弼らと対立し、安政の大獄で処罰されました。尊皇攘夷派を主導し、桜田門外の変の原因をつくるなど、歴史に大きな足跡を残した人物です。

②佐藤延昌の箱書
 徳川家康の忌日に日光東照宮で行われる4月大祭に、2代将軍秀忠から12代将軍家慶までみずからが計19回も日光に社参しました。最後は天保14年(1843)のもので、総勢14万人にも及びました。このとき、徳川御三家も日光脇街道を通行し日光に参詣しました。徳川斉昭の一行はこの本陣に往きは4月11日に立ち寄り、そこで上記の和歌を詠みました。本陣は、その和歌を入れる箱を作り、4月22日の帰路で再び休憩した際に、従者の佐藤延昌にその由来を書かせたものです。
 
③黒沢翁満の書
 黒沢翁満(寛政7年-安政6年)は、伊勢桑名に生まれ、桑名藩士に仕え、文政6年(1823)の藩主松平忠尭の領地替えに従い、忍藩に移りました。晩年は大坂留守居役となり、同地で没しました。賀茂真淵や本居宣長の学風を学び、国学を研究し様々の書物を著しました。この書は、徳川斉昭の和歌をみて、そのすばらしさに感激して記したものです。

④富士山の図
 地袋に描かれたふすま絵です。詞書きに天保十四年四月八日とあることから、徳川斉昭の寄宿の直前に描かれたもので、これを見た斉昭の心を動かし、和歌を詠ませました。縦20㌢、横40㌢の大きさです。描いたのは晴真です。

 時系列的には④→①→②→③ となります。
この解説文には和歌などの内容が記されていません。そこで、「クニの部屋 -北武蔵の風土記-郷土作家の歴史ハックツ部屋」HPから引用します。

徳川斉昭の和歌 ―川沿いの郷土史(6)―2006年04月13日 | 利根川・荒川の部屋

 天保14年(1843)4月10日、徳川斉昭は日光社参のため江戸の「礫川の邸」を出立。桶川の宿に泊まったあと、新郷宿の本陣に到着したのは正午だった。
 斉昭一行は本陣で休憩を取る。そのとき斉昭の目に映ったのは、地袋に描かれた「富士山の図」だった。
 天保14年4月8日に「晴真」という者が描いた絵で、斉昭らが休憩に立ち寄るのを見越して筆を執ったのかもしれない。
 斉昭自身、そう感じたらしく、「我ための設にや有むと思ひ」和歌を詠んだという。

 利根川の水は鏡か真なる
 思ひするかの不二のうつし絵

 徳川斉昭は力強い字で記し、本陣を出立した。無事に日光社参を済ませた斉昭ら一行は、帰路に再び上新郷の本陣に立ち寄る。
 すると、本陣の主が徳川斉昭の和歌を収める箱を用意していた。その箱に記す書を求められたので、斉昭の家臣“佐藤延昌”(さとうのぶまさ)が筆を執り、和歌を詠んだ経緯を書き記した。
 これが「佐藤延昌の箱書」である。
 のちの時代、忍藩の国学者だった“黒沢翁満”(くろさわおきなまろ)は、本陣が所蔵する徳川斉昭の和歌に感激する。
このような田舎の家に斉昭の和歌という宝があり、「ふたつなき家のたからとあふけこの山より高き君の恵を」と、翁満自身が和歌を書き記すのだった。
  
その先で「県道59号線」と交差。
                   交差点右に見えるのは「愛宕神社」で、「愛宕塚古墳」でもあります。

こぶりだが、よく整った「勘兵衛松並木」。

(13:25)並木の中には昭和3年建立の「勘兵衛松碑」と解説板。

 


 徳川三代将軍家光公日光御社参ノ道路タルヲ以テ風致ヲ添ユルタメ時ノ忍城主ニ於テ勘兵衛ナル者ニ命ジテ植樹セシモノトノ伝説ニ其キ大正十五年二月十三日本県史蹟名勝天然記念物調査会ニ於テ審査ノ結果天然記念物ト認定セラル
 明治維新当時ニハ百本以上の樹数アリシモ年々風雪に害セラレ枯損ノタメ遂ニ現在三十八本トナリシヲ時恰モ今上天皇御即位ノ大禮ヲ挙行ノ秋ニ際シ稚松五十本ヲ補植シ以テ奉祝記念トス

 昭和三年十一月  北埼玉郡新郷村長渡辺喜代三郎

注:江戸時代から残る松は、現在、1本のみだそうです。

足下には松が描かれたタイル。

「並木橋」。
 
                   

左手が開けてきます。赤城山(赤)と日光・男体山(黒)が遠くに。

街道は利根川の土手に突き当たります。

(13:40)江戸時代は渡し舟でしたが、今は「昭和橋」で対岸へ。

ここには「川俣関所(新郷川俣関所)」が設けられました。

「昭和橋」の橋のたもとに建てられているのは「史蹟 川俣関所址」碑と解説板。




 定
一、此関所を通る輩
  番所の前にて笠
  頭巾をぬぐべき事
一、乗物にて通る面々は
  乗物の戸をひらくべし
  但、女乗物は番の輩
  指図にて女に見せ
  可通之事
一、公家・門跡衆・諸大名
  参向の節は 前かどより
  其沙汰可有之間不及 
  改之 自然不審の儀
  あらば可為各別事

  右 可相守此旨者也
  仍執達如件
 貞享三年四月
    奉行 

                           
旧跡 川俣関所跡
 川俣関所は慶長年間(1596~1615)に設けられ、明治2年(1869)に廃止されるまでの役260年間続いた。
 この関所は江戸城警備のため設けられ、一般に「出女に入鉄砲」といわれるが、江戸に人質になっている諸大名の夫人の脱出を防ぎ、また江戸の安全をはかるため鉄砲の入るのを厳しく取り締まった。日の出に開門、日の入りに閉門し、夜中は一般人の通行を禁じた。
 関所は利根川沿岸に設けられたものであるが、河川改修のためその路は川底になってしまった。
 関所路は、はじめ史跡として県の指定を受けその後昭和32年の改修工事により現在の地に碑が移転され、昭和36年9月1日旧跡と指定変更された

                               注:関所(跡)は昭和32年の河川改修の際に川底になってしまいました。

対岸を望む。

上流方向を望む。

下流方向を望む。↓は筑波山。



1880年代のようす。かなりの大河のようです。渡し船もなかなか大変だった? 対岸が「川俣宿」。関所の標示はない。

注:この地図では、右岸側にも「本川俣」という地名があります。「川俣」村は、「利根川」東遷によって分断されてしまったのでしょうか? 



2010年代のようす。今も昔も渡河の大変さには変わりなさそうです。

「利根川」。

                      

(13:48)男体山が遠くに(↓)。
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その4。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-10 22:18:17 | 日光千人同心街道
                               「横田酒造」。

先ほどとは違って車もほとんど来ない、静かな旧道を進みます。
 

突き当たりを左に折れる、その手前にあるのが「横田酒造」。
 横田酒造は、文化2年(1805年)創業。江戸に下った近江商人・横田庄右衛門が良い水を求めてこの地に造り酒屋を開いたのがはじまりです。『日本橋』の酒銘は、横田庄右衛門が若き頃、お江戸『日本橋」の酒問屋で修行し、独立する際、「初心忘れるべからず」との思いを込めて、自らの修行の地を酒銘にしたことに由来します。現代では地名を商標登録することは大変困難なことであることから、極めて貴重な商標といえます。また『浮城』は、地元行田の忍(おし)城が石田三成軍の水攻めでも落ちず、この城は水に浮くのかと恐れられたという故事から名づけられました。
酒造りは、原料の吟味にはじまります。まず酒米は、日本一といわれる兵庫の山田錦および長野の美山錦等を、玄米のまま取り寄せます。仕込み水は、秩父源流の荒川水系の伏流水が湧く自家井戸から採取します。水質は弱軟水。醗酵がゆるやかで、まろやかな酒に仕上がります。
(「」HPより)

 そういえば、道を間違えて戻る途中の小さな橋の名が「日本橋」。こんな場所に、と思ったのですが。
来た道を振り返る。

右から来る「県道7号線」に合流します。



(11:27)すぐに左に秩父鉄道「東行田駅」。

                        

踏切の先にある「長久寺」「久伊豆神社」を過ぎ、しばらくは「県道7号線」を進みます。

 「国道125号線(行田バイパス)」を通過します。(11:40)その手前に「歌劇」という名の喫茶店。特徴ある建物に、珍しいネーミング。


「小見真観寺古墳」 

 (11:50)その先に「虚空蔵山古墳」。そこに少し旧道があります。
 

その少し先にあった「やぶ」蕎麦屋さんで昼食休憩。
(12:24)再開し、「武蔵水路」を通過。
                          
武蔵水路について
 昭和30年代、首都圏では経済成長に伴う人口の増加や生活の多様化により水道用水の需要の増加が著しくなりました。それに加え、昭和30年代後半から渇水が続き、東京オリンピック直前には深刻な水不足となり、真夏の首都は、「東京砂漠」と言われるほどの厳しい状態となりました。
 そこで、既存の農業用水の安定化を軸に立案された利根導水路計画の一環として武蔵水路が計画され、都市用水及び浄化用水として利根川の水を首都圏に運ぶものとしました。
 地元の方々のご理解とご協力により水路は短期間で完成し、清澄な利根川の水を休みなく送り続けています。
 なお、平成27年度までには通水能力の回復や水路全体の耐震化を行い、リニューアルした施設へと生まれ変わりました。
武蔵水路の役割
武蔵水路は、利根川と荒川を結ぶ延長14.5kmの水路で3つの役割を担っています。
①都市用水の導水 
利根大堰で取水した東京都と埼玉県の都市用水を荒川へ導水しています。(導水した水は、下流の秋ヶ瀬取水堰などで取水され、東京都の朝霞浄水場や埼玉県の大久保浄水場などへ送られています。)
②浄化用水の導水 
荒川水系の水質改善のため、浄化用水を導水しています。浄化用水は、秋ヶ瀬取水堰から新河岸川へ朝霞水路を通じて流れこみ、下流の隅田川の浄化も行なっています。
③周辺地域の内水排除 
周辺地区の河川の洪水や市街地からの出水を取りこみ、荒川に排水する事により浸水被害を軽減します。  


(以上、「利根導水総合事業所」HPより)

 交差する「見沼代用水」など他の水路とはサイフォンの原理などで交差しています。 
けっこうな水量です。

上流方向を望む。

次の「新郷宿」に向けて「県道7号線」を進みます。

広々として一面、田畑に。

                            

「荒木」交差点を道なりに右に。

振り返ると、遠く上州の山々が。

↓は浅間山? 右が榛名山?


(12:50)「羽生市」の標識の手前に旧道。右手に入ります。

                             

(13:08)T字路を左折する手前に「南陽醸造」。銘酒「花陽浴(はなあび)」。
                           
                       

◆花陽浴(はなあび)とは?
太陽の陽ざしをたくさん浴びて大輪の花を咲かそう!
飲む人も造る人も、みんなの花が咲きますように!

南陽醸造株式会社
〒348-0041 埼玉県羽生市大字上新郷5951 
(平日9時~17時)

自宅兼店舗につき営業時間外のお電話はお控え下さい。
裏口からの侵入は寿命が縮まりますのでご遠慮下さい。

敷地内では少年野球「新郷マリナーズ」所属の元気な孫3人が放課後、練習をしております。
彼らの豪速球と豪快なスイングには十分ご注意下さい。
※団員募集中
(酒蔵のおかみマチコより)
(「」HPより)

埼玉の地酒~花陽浴 <はなあび>
■ 花陽浴 南陽醸造(株) 埼玉県羽生市上新郷5951 TEL:048-561-0178
 創業は明治3年(1870年)南陽醸造(株)蔵元の初代、須永亀吉は現在の羽生市下新郷の出身で、茨城県古河市で酒造りの修行を積んだ後、清き水湧くこの地に開蔵しました。
 銘柄「南陽」の由来は、中国魏の時代、文帝(曹操の息子曹丕)の命により寿命をもたらす霊泉探しに南陽県(現・河南省南陽県)鹿県山奥に分け入った勅使一行が700年も時を遡る穆王に召し使われたという不思議な童児と遭遇し、霊験あらたかな妙文を使った昔話がもとになっています。また、南陽市は諸葛亮孔明が隠棲し晴耕雨読の日々を過ごしていた故地として有名です。
 仕込水は、埼玉伏流水(荒川水系と利根川水系)の井戸水を使用。軟水のため、酒質はやわらかく、口当りの良いまろやかな酒ができます。酒米は、主に美山錦、八反錦を使用。炭素ろ過することなく、大変手間のかかる瓶燗急冷を行っております。
                           
(この項、「」HPより)

 あちこちの街道歩きをしていると、こうした地酒をつくっているところ、それも隠れた銘酒が多いですね。

この先で「新郷宿」に入ります。

新郷宿
 館林宿から忍宿へ向かうときだけの片継ぎという変則的な宿場。江戸時代後半頃から木綿と藍の生産が盛んになり、4と9のつく日に行われる市では青縞木綿の取引で大変賑わったといいます。

(13:14)「宿中」バス停。

前方に大きなシイの木が。
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その3。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-07 21:00:43 | 日光千人同心街道

                        「足袋蔵」。
                     奥にも連なっています。




(10:34)交差点の角には「旧忍貯金銀行」。
 市中心部に位置する鉄筋コンクリート造2階建ての本格的銀行建築です。忍貯金銀行の店舗として昭和9年(1934)に竣工しましたが、戦時中に行田足袋元売販売株式会社が建物を買収しました。戦後足袋会館(足袋組合の会館)となり、昭和44年(1969)から武蔵野銀行行田支店となっています。県内でも数少ない戦前の銀行建築であり、足袋産業とも深く関わる行田を代表する近代化遺産です。

高札場跡」碑。

 この付近には「旧 牧野本店店舗」や「足袋博物館」がありますが、省略。

交差点を右折して街道を進みます。

 随所に城下町らしく工夫された解説板やブロンズ像が信号機器などを隠すように設置されています。
 


忍城新城下町「浮き城のまち・行田」
 忍城御三階櫓の復元を機に、行田の市街地では城下町の香りのするまちづくりが進められてきました。
 浮き城の径、街路灯、御影石の歩道、あきんど館の建設、電線地中化、モニュメントの設置と新城下町の風情が現れました。
 忍城の城下町として栄えたこの通りは、16世紀にはもう市が立ち、にぎわいを見せていました。徳川家康をはじめとする多くの大名、文人、商人がここを行き交っていたのです。
 どうぞ皆様も楽しみながらこの街をそぞろ歩いてください。

「埼玉県信用金庫」付近が「忍宿本陣跡」。

その先に「旧山田清兵衛商店」。

                       
 十万石の本店として知られるこの黒漆喰塗りの重厚な店蔵は、元は呉服商山田清兵衛商店の店舗として明治16年(1883)に棟上げされたものです。行田では珍しい江戸様式の店蔵で、昭和27年(1952)に青柳合資会社の足袋蔵となり、昭和44年(1969)から十万石の店舗となりました。昭和53年(1978)に改修が行われ、外壁にナマコ壁が設けられています。行田を代表する店舗と言えます。       

落ち着いた街並み。景観がよく保たれています。

        
国宝金錯銘鉄剣と古代蓮のロマン
 関東最大の古墳群「さきたま風土記の丘」は日本最大の円墳である丸墓山古墳をはじめ9基が現存しています。
 特に稲荷山古墳から出土した国宝金錯銘鉄剣(古墳群内の県立さきたま資料館に展示)は、金で115文字が刻まれ、神秘的な輝きを放っています。

 2千年の時を経て自然発芽、開花した古代蓮(行田蓮)。「古代蓮の里」では7月から8月には濃いピンク色をした大きな花が古代のロマンを感じさせてくれます。


知将石田三成の水攻めにも屈せぬ 天下の浮き城
 天正18年(1590)、石田三成は軍勢2万3千を率い忍城を取り囲んだ。丸墓山の陣を張り、水攻めが良策であるとして、1週間で28キロもの水攻めの堤を完成させ、利根川・荒川から水をひいた。
 しかしながら、水攻めを行ってもなかなか落城せず、三成は、水の中に浮き上がって見える城を見て、「忍城は浮き城か」となげく。
 現在でも「石田堤」として一部が残っている。

           
 (10:47)宿場のはずれ付近にある「大長寺」の門前には芭蕉の句碑。
 
大長寺の芭蕉句碑
 この句碑は、元は桜町の小沼の池付近にあったもので「忍名所図会(おしめいしょずえ)」にも記述が見られます。区画整理の際に、ここに移されたと伝えられています。
 碑表には「古池や蛙飛こむ水の音 芭蕉翁」と句が刻まれ、碑裏には「多少庵秋瓜謹書」とあります。・・・
(「」HPより)
 なお、行田市内には芭蕉句碑が7つあるそうです。

 「日光千人同心街道」は「大長寺」の手前を左に入って行きますが、「大長寺」からそのまま「国道125号線」を進んでしまい、おかしいなと気がついて戻ります。
 約20分のロスタイム。



100㍍ほど先、右手に「行田馬車鉄道発着所跡」碑。

(11:13)その先のT字路を右に曲がると、「忍城長野口御門跡」碑。
 長野口は忍城の城下町行田の東北隅に位置し、長野口御門が設けられて、忍城の北東の守りの拠点になっていました。・・・
 その当時、長野口がある下町は愛宕神社の門前町として市が立ち、忍城開城後には遠く京都の宮津からも商人が訪れていました。忍川には船着場が設けられ、城下町行田の玄関口として人の行き来が盛んであったようです。
 江戸時代の享保13年(1728)に見沼用水が開削されるとやがて船運が盛んになり、長野口は船着場として繁栄していきます。そして幕末には、長野口には番所や高札場が設けられるほどの賑わいをみせるようになりました。
 しかしながら明治維新後に長野口御門は取り壊され、船運も鉄道の発達とともに衰退して、かつての賑わいは失われてしまいました。

                   
 
「忍川」河畔に「船着き場跡」碑。

ここで、小休止。

カラフルな秩父鉄道の電車が左手に。



1880年代のようす。街道の他は主要道なし。宿場の東北に枡形や船着き場が見える。


2010年代のようす。市街地開発が進んだが、旧道の道筋は残っている。中央に見えるのが秩父鉄道「行田市」駅。

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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その2。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-06 18:56:49 | 日光千人同心街道
                             「行田史跡・観光案内図」。
                                



1880年代のようす。お城やお濠がそのまま残っています。右端の道が街道。



2010年代のようす。まったくの様変わり。再建されたお城と下方の池だけが残るのみ。(「水城(すいじょう)公園」として整備されたのは1964年。

 かつての忍城の周辺の外堀跡を整備した公園である。忍城が取り壊されたあと、外堀は忍沼と呼ばれていたが、北部から次第に埋め立てられ、行田市役所や市立体育館が建設された。そして現在、水面が残る南端部が1964年(昭和39年)4月、埼玉県内最初の都市計画公園である水城公園として開園した。広さは約10.3haである。
 水城公園の前身となる公園として成田公園(のち忍公園)が城跡周辺に所在していたが、これは明治政府が1873年(明治6年)に近代化路線の一環として、太政官公布で公園制度を発足させ整備したもので、さいたま市浦和区の調公園(当時は浦和公園偕楽園)に次いで埼玉県内で2番目の公園として、1875年(明治8年)に開園したものであった。当初の計画では陸上競技場や体育館などを園内に併設する予定であった。
 公園南側には忍・行田公民館と図書館があった。図書館は移転し跡地が駐車場となり、2017年に公民館もやや北側に新築移転し、2018年に南側駐車場の拡張工事が行われている。
 また、水城公園の広場には桜が200本植えられており、桜の名所にもなっている。外堀跡の水面にはホテイアオイの群落がある。
2018年には、旧忍町信用組合店舗だった洋館(市の文化財)が園内に移築された。
(以上「Wikipedia」参照)
   
     (写真は、「」HPより)

通りの左手にある「水城公園」にちょっと立ち寄ります。

(10:07)釣りを楽しむ人びと。

北西に大きく広がる公園のようです。

観光案内図。 

2年前に移築された「旧忍町信用組合店舗」。
 旧忍町信用組合店舗は、現在の埼玉県信用金庫(本部・熊谷市)の前身である忍町信用組合が1922(大正11)年、同市行田に開設した木造二階建てのコロニアル様式の洋館です。現在は、カフェとして営業中。

先を急ぐためにここまで。

 街道をしばらく行くと、左手にある木造2階建ての建物。昭和初期に荒井八郎商店の「足袋原料倉庫」として使用していたもので、現在は陶芸工房として利用されています。
 

(10:16)その先に「和牛懐石・彩々亭」。
「解説板」。
旧荒井八郎商店事務所兼住宅・大広間棟・洋館
 この3棟の建物は、いずれも「穂国足袋」などの商標で知られた荒井八郎商店の創業者荒井八郎氏が建設したもので、現在は和牛懐石「彩々亭」の店舗となっています。東手前の事務所兼住宅が昭和元年、中央の大広間棟が昭和7年、西奥の洋館が昭和10年に建設されたと伝えられています。
 荒井八郎氏は行田足袋被服工業組合理事長や全日本足袋工業組合連合会理事など足袋業界の要職を歴任するとともに、戦後参議院議員に当選するなど政治家としても活躍しました。・・・


かつて「足袋御殿」と呼ばれたお屋敷
 昭和の始め、足袋の産地として栄えていた行田。中でも荒井八郎氏は、一代で財を築き上げた足袋屋の名士で、彼が贅を尽くして建てた邸宅が「足袋御殿」と呼ばれました。これを料亭として復元させたのが彩々亭です。
 館内は趣のある廊下、アンティークなランプシェード、風変わりな襖や障子など随所に大正ロマンの雰囲気が漂う和洋折衷造り。
 また各室窓から覗く、かつて昭和天皇がご覧になられた庭園は、富士山の溶岩でつくられたという築山があり、その上からは滝が流れています。
 窓から眺めるだけでなく、よろしければこの緑あふれる庭園を散策してみてはいかがでしょうか。
・・・
(「」HPより)

                        


その先の交差点を左に曲がると、宿場の中心街に。左の路地に入ります。
 ここは「忍城佐間口」があった場所です。
 
 天正18年(1590)に石田三成らの軍勢が忍城を攻めた際、忍城主成田氏長の家臣正木丹波守利秀が「佐間口」の守りを固め、死闘を繰り広げたと伝えられます。
 この天神社付近がその「佐間口」にあたり、定かではありませんが、正木丹波守の屋敷がこの付近にあったという説もあります。
・・・

街道に合流すると左右に足袋蔵、見世蔵があります。

「足袋蔵」。 
 「ほうらい足袋」、「栄冠足袋」の商標で知られた奥貫忠吉商店が大正5年(1916)に棟上した二階建てと三階建ての足袋蔵です。敷地内には昭和5年(1930)棟上の住宅、明治43年(1910)棟上の足袋蔵(土蔵)等も残されています。現在住宅がカフェに、足袋蔵がギャラリー、パン屋、事務所に各々再活用されています。ギャラリーでは不定期ながら展覧会等が開催され、貴重なアート発信の場となっています。

 「大澤蔵」。
 行田で唯一の鉄筋コンクリート組煉瓦造2階建ての足袋蔵で、「花型足袋」の商標で知られる大澤商店が大正15年(1926)に竣工させたものです。間口4間半、奥行2間半の行田では珍しい袖蔵形式の蔵で、南隣には昭和3年(1928)竣工の木造二階建ての住宅が、後ろには明治時代末期建設の足袋蔵が続いています。いずれも当時の足袋商店の栄華を伝える貴重な近代化遺産です。 
                      


ここで、「行田と足袋」のお話

足袋蔵のまち行田
 利根川、荒川の二大河川に挟まれ肥沃(ひよく)な大地を有する行田。
綿や藍が栽培され藍染の綿布製造が始まり、これを原料に足袋づくりが始まりました。
 伝承によると、享保年間(1716年から1735年)に 忍藩主が藩士の婦女子に足袋づくりを奨励したといわれています。
 明治になりミシンが使われるようになると、足袋の生産量は増大。
 忍商業銀行や行田電燈株式会社が設立され、資金と電力供給が安定し、ミシンの電動化が進みました。
 以後、名実ともに行田の足袋は日本一に。
 靴下が普及した今でも足袋の生産は続けられ、新製品を国内外へ発信。「足袋と言えば行田」と親しまれています。
 (HPより)

足袋とは
 足袋のはじまりについては、いろいろな説があります。
 奈良時代の貴族は、布でできた指のまたわれのない「しとうず」というものを沓の下にはきました。これがのちに指のまたわれができて、足袋になったという説。
 また、革の「しとうず」をはいていた武士が、指のまたをわり、これが足袋になったという説等、さまざまな説があります。
 むかしの足袋は、足を袋状につつんで、くるぶしのところをひもで結ぶ紐足袋でした。材料は革でつくられていましたが、江戸時代、明暦の大火(1657)のあと、革の値段が高騰すると、廉価な木綿がつかわれるようになり、木綿足袋にかわりました。
 またコハゼは江戸の後半にはありましたが、明治になってからコハゼがけの足袋が主流になったといわれています。
 また「たび」という名前については諸説があり、足袋の形が鼻に似ているので「多鼻」から、という説や、旅に使うので「旅靴」がタビになったとい う説、昔の足袋底が1枚革の単皮だった為、「タンビ」が「タビ」に変わったという説などがあります。


(この項、「行田市郷土博物館」HPより)

注:「こはぜ」
 真鍮 (しんちゅう) ・角・象牙などでつくった爪形 (つめがた) の留め具。書物の帙 (ちつ)や足袋・脚絆などの合わせ目をとめるもの。(「広辞苑」)

HPより)

「足袋蔵のまち行田」。まだまだ見所満載の行田です。

TBSのドラマ「陸王」のロケ地にもなっているようです。
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JR高崎線「吹上」駅~東武伊勢崎線「川俣」駅。その1。(「日光千人同心街道」第5日目。)

2018-12-05 20:55:44 | 日光千人同心街道
                                 「佐賀橋」。
 11月23日(祝)。快晴。あと2回で完結するつもりの「日光千人同心街道」。
 このところ、軟弱路線でゆとりある行程。今回は忍宿(行田)の街並みを通ります。時間的には今回もさほど掛からずに。

(9:04)前回の終了地点。左に曲がると、旧中山道に合流します。 

                            

西に進む「旧中山道」とほんのわずか重複します。

「吹上本町」交差点の手前を左に折れるのが「千人同心街道」。

「吹上本町」で左折する旧中山道(正面の道)。南東を望む。「中山道」という標識あり。

「日光千人同心街道」。 

「佐賀橋」の下を流れるのは「元荒川」。かつての荒川本流。桜並木。

 (9:14)上流にある「新佐賀橋」は土木学会推奨の土木遺産。


               


土木遺産 新佐賀橋
竣  工 昭和8年(1933)
構造形式 鉄筋コンクリートアーチ橋
認定理由 元荒川では珍しいアーチ型の橋で、開腹式アーチ構造が美しく、親柱や高欄に花びら風の装飾が施されている また、川とのふれあいの場として、ランドマークになっていることが評価された
エピソード かつて行田市にあった陸軍演習場の視察に訪れる皇族が橋を渡るため、豪華な外観に仕上げられたと伝えられている 
  住宅地を抜け、「国道17号線(現「中山道」)」を横断、「県道66号線」に合流します。
        

周囲が開けて田んぼが広がります。高架線は「上越新幹線」。 

           新幹線が通過中。

 (9:28)ほどなく変わった名前の橋、「がんがら大橋」。前身は「雁柄橋」と呼ばれた石橋だった、とか。
 

下に流れる用水は「がんがら落とし」という農業排水路。
  
 「がんがら大橋」の親柱は変わった形をしていて、左岸側には蓮の花、右岸側にはコスモスの花が描かれています。それぞれが行田市と吹上町のシンボルとなっています(「古代蓮の里」=行田市、「荒川コスモス街道」=吹上町)
 歩道上には、かつてこの路線(行田と結んでいた)を運行していた「忍馬車鉄道(のち「行田馬車鉄道」)」の様子を描いたプレートがはめ込まれています。


行田馬車鉄道

吹上村にて(大正初期)
 行田馬車鉄道(ぎょうだばしゃてつどう)は、かつて埼玉県北足立郡吹上村(現在の鴻巣市)の国鉄高崎線吹上駅前から、現在の行田市中心部までを結んでいた馬車鉄道線である。
 1901年(明治34年)6月に日本鉄道吹上停車場から行田を経て長野村に至る馬車鉄道が開業した。創業時は忍馬車鉄道。発起人は忍町(行田市)の橋本甚五郎ら15名で北埼玉郡忍町行田(行田市)の青縞卸商や足袋製造業者が中心となって設立した。
 1905年(明治38年)5月、忍馬車鉄道の経営陣は新たに行田馬車鉄道を設立し前会社の事業を引き継いで経営したが、1922年(大正11年)に北武鉄道(後の秩父鉄道秩父本線)の開通によって会社に大きな影響を受けた。
 1922年(大正11年)12月には行田 - 鴻巣間に乗合自動車の営業を開始し、1923年(大正12年)馬車鉄道を廃止して乗合自動車専業となり社名を行田自動車と改めた。 (以上、「Wikipedia」参照) 

        
        
        
        
1880年代のようす。馬車鉄道ができる前。         2010年代のようす。上方では旧道は失われている。道の付け替えがあったか。

東に向かいます。直線道路が続きます。馬車鉄道が走っていた道?
 

 「国道17号線(熊谷バイパス)・前谷」交差点歩道橋からの眺め。


                      
                         「歩道橋」下で振り返ると、屋根の向こうに真っ白な富士山が意外に大きく(↓)。

街道際に大きな「常夜燈」。

 (9:59)「忍宿(行田)」の街中に入って行きます。明治中期以降、江戸当時の旧道も失われているようです。
        
        
1880年代のようす。○が右折点。              2010年代のようす。

    
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東武東上線「東松山」駅~JR高崎線「吹上」駅。その2。(「日光千人同心街道」をゆく。第4日目。)

2018-12-03 21:35:10 | 日光千人同心街道
 「長島記念館」の先で土手にぶつかり、荒川の広大な河川敷となります。目の前には1,000㍍以上もあるという、日本一長い「荒川水道橋」。




1880年代のようす。街道は幅の狭かった荒川を渡し船で渡り、吹上方面に向かいました。



2010年代のようす。まったく様変わりしている荒川河川敷。整備され流路変更されているようです。長く延びているのが「荒川水道橋」。

 土手に上がり、上流にある「大芦橋」を渡り、対岸へ。「大芦橋」は「和田吉野川」と「荒川」との二つの川、さらに河川敷を越える長大な橋。

自転車道の案内板。

(14:01)「大芦橋」。
 県道の熊谷市側から進むと、まず緩い上り勾配で和田吉野川を渡河し、次いで和田吉野川と荒川を隔てる背割堤と、鴻巣市大芦との市境である荒川の河道跡が残る河川敷を跨ぎ、最後に荒川を渡河する橋梁である。荒川を越えた後も広大な河川敷がしばらく続き、600メートルほど進むと左岸堤防に至る。河口から68.4 kmの地点に架かる全長1,016.0メートル、総幅員10.5メートル、有効幅員9.0メートル(車道7.0メートル、歩道2.0メートル)・・・。
歴史

冠水橋の旧大芦橋(昭和30年代) 
 大芦橋が開通する以前は木造の冠水橋(かんすいきょう)、さらに以前の昭和初期頃迄は橋はなく、いつから存在していたかは定かではないが、八王子千人同心道(日光脇往還)に属する「大芦の渡し」と呼ばれる官設の渡船で対岸を結んでいた。・・・
 大正時代には渡船場の川上側に仮橋が架設されていた。また、大芦の渡しのすぐ下流側には松山道に属する「五反田の渡し」と呼ばれる私設の渡船が設けられ、こちらも渡船場に河岸が併設され、冬季には川下側に仮橋が架設されていた。
 昭和初期頃架設された冠水橋は橋脚、橋桁共に木製で現在の橋の300メートル下流の荒川のみに架けられ、和田吉野川を渡るには抜水橋である吉見橋を渡る必要があった。冠水橋は北足立と大里を結ぶ重要な交通路となっていたため、洪水で不通となるたびに緊急事態になり復旧までの間、水量がまだ相当ある中、緊急に仮橋が架けられ、この様なことはのちの永久橋が架けられるまで何度も繰り返された。1949年(昭和24年)8月にはキティ台風で流失し、1965年(昭和40年)5月の台風で損壊し、3か月後の8月22日台風17号の洪水で相次いで流失した。

1966年に架け替えられた旧大芦橋(1966年)

 現在の大芦橋は1979年(昭和54年)10月に竣工した。河川敷は左岸(鴻巣市側)に広くとられている。その広い河川敷を活用した農地の他、運動場や軽飛行機の発着場等のレクリエーション施設がある。毎年秋には左岸堤防(荒川花街道)や河川敷でコスモス祭りが行われ、開花期は行楽客で賑わう。春季はコスモスが植えられていた場所にポピーの花を見ることもできる。

(以上、「Wikipedia」参照)

「鴻巣市」に。

「荒川」。川幅はさほどではありませんが、河川敷が大きく広がっています。

1,000㍍以上もある橋で渡りきるのに15分以上かかりそうです。振り返る。

橋の下流にある水道橋も長い、長い。

眼下に田畑が広がっています。

                       

やっと渡り終えて土手下の道を進み、旧道に復帰します。
                    (14:22)「医王寺」(青い屋根のお寺)付近から旧道が復活するようです。

        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。」↑が「医王寺」。→が旧道。

「右 松山道 左 五反田かし(河岸)」。

住宅地をくねくね曲がりながら進みます。
 

(14:34)「なんでもや」さん。昔よくあった万屋(よろずや)さん? 

左手にある秋池家の板塀が珍しい。舟板を転用したものだそうです。
 

(14:47)JR高崎線の踏切に近づきます。

「松山街道踏切」。地元では今たどってきた道をそう呼んでいるようです。


    右手には「吹上」駅。

 街道はこの先、左手の細い道に進みますが、今回はここまで。
        
1880年代のようす。○が中山道との合流点。        2010年代のようす。
斜めの直線は鉄道。                   右手下に「吹上」駅。

 注:「吹上」宿は間の宿として賑わったところ。

(14:51)そのまままっすぐ進み「旧中山道」を右に曲がり「吹上」駅に向かいます。
                
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東武東上線「東松山」駅~JR高崎線「吹上」駅。その1。(「日光千人同心街道」をゆく。第4日目。)

2018-11-30 18:29:04 | 日光千人同心街道
                                  東武東上線「東松山」駅。

 11月17日(土)。晴れ。家にくすぶっていても思い、午後から街道歩きを。昼過ぎに東武線「東松山」駅に到着し、歩き始めます。
 3時少し前にJR線「吹上」駅に到着。前回、ここまで歩くのは無理だったので(「東松山」駅を過ぎると最寄りの駅がなくなってしまう)。今回の3時間足らずでは、かなり中途半端な感じですが・・・。
 次回には東武線の「川俣」駅か「茂林寺前」駅まで進んでおけば、最終回の佐野まではさほど距離がなくてすみます。
 「八王子千人同心街道(日光脇街道)」は、最寄り駅としては「西八王子」駅から「佐野」駅まで。
 達者な方なら4日間で歩けるところを5日半ですので、かなり楽な行程となりました。

(12:14)↓が旧道。

すぐ「下沼公園」の脇に。


その先辺りから街道筋の旧家らしいおうちがちらほら。
                                    家の両側に「うだつ」のあるおうち。

堂々とした見世蔵。

                                  

(12:23)「歯科 嶋田医院」。大正初期に建てられた洋館。
 元は、旧松山郵便局だったようです。

お隣の建物。

かなり痛んではいますが。

                 「埼玉新聞東松山通信部」の看板。

宿場のはずれには「八雲神社」。その先に「上沼公園」。 

 宿場を出ると、のどかな道筋になります。
 
                                            カルガモの群れ。
「東松山市民病院」の下、切り通しの道を進みます。

「滑川(なめかわ)」。

(12:55)「馬頭観音」のところを右折し、「東平」の歩道橋を渡ります。

「国道407号線」。

「県道66号線」から「加藤農園」の脇を左折する細い道が旧道。振り返る。



熊野神社の脇を抜けると、県道に再び合流します。里山風景。

 (13:22)県道をしばらく進み、右の道に入ります。
 熊谷市に。

農家や住宅が続く道。

農産物販売所。久々に見ました。

のんびりと歩きます。来た道を振り返る。

小さな集落となります。
                この先で、旧道は左手に入り、コの字型で春日神社の前を通っていましたが、省略。

いつしか田んぼが広がる道へ。

 旧道は田んぼの中を進んでいたようですが、そのまままっすぐな道を荒川に向かって歩いて行きます。



1880年代のようす。左手ジグザクに進む道が街道。



2010年代のようす。斜め直線の道が歩いたコース。右手上に「長島記念館」。

 (13:46)そのまま進むと、左手奥に見えてきたのが「長島記念館」。
長島記念館
 平成4年に没した 元埼玉銀行頭取 長島恭助が 生前に蒐集した 絵画・刀剣等の美術工芸品を展示しているスペースです 当所に本拠を置く 財団法人長島記念財団は 故人の事蹟を顕彰するため 平成5年に発足した財団法人で長島記念館を開設し また県下の高校生・大学生を対象に奨学事業を 展開しております


                          

石蔵。

              
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その5。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-28 19:45:43 | 日光千人同心街道
                            「江戸時代のままの石橋」。

 通りを右手に進むと、「高済寺」。戦国時代に高坂館(やかた)があった場所とのこと。江戸時代には「高坂藩陣屋」となりました。
「高済寺」門前の「庚申塔」。

 この付近には「江戸時代のままの石橋」があるはずなので、都幾川河川敷の「リバーサイドパーク」内をうろうろしましたが、見つからず。工事中の係員に尋ねたところ、「この先のところにありますよ。ま、何の変哲もない橋ですよ。」と。
 (12:39)たしかにその通り。石橋のそばにはシートが無造作に置かれ、水の流れもさえない雰囲気。
 解説板にある「長さ約370㎝・幅約150㎝」とは思えない、といってはいけないか。埋もれてしまったのかもしれませんが。


ちょっとその上を歩いて、江戸時代を味わうことに。

解説板。
石橋及び石橋供養塔
 この石橋は、八王子・日光道が松山方面に抜ける「高坂の渡し」の手前の水路に設けられたもので、往時の姿のまま残されています。長さ約370㎝・幅約150㎝の一枚岩です。
 石橋供養塔は橋の新設や架け替えに際し、橋がいつまでも利用できることや通行人の安全を祈って造られたものです。現在は保存のため、原位置より北側に移されています。材質は安山岩で高さ約120㎝・幅約41㎝・奥行き約27㎝の角柱です。・・・左側面には、松山・行田・熊谷道の道標銘、・・・

そのそばに「石橋供養塔」。道標も兼ねています。

                            

 この先は旧道は河川敷内となって消滅するので、そのまま進んで、「国道407号線」に出て、「新東松山橋」を越えます。


旧道は左の河川敷から渡し場を経由し、右に抜けたようです。

 少し上流にある「東松山橋」を渡り、田んぼの中の道を歩く方もいますが・・・。


 (13:02)国道から右に入り、田んぼの中の道を進みます。国道には上下線とも車がひっきりなしに通るので、渡るのは大変危険です。
 
         旧道は右手の田んぼの中を進んでいたようです。              前方右手の森は「将軍塚古墳」。



1880年代のようす。当時も現在も田んぼの中の一本道。



2010年代のようす。かつてのように田んぼの中の道。中央の直線道路は国道407号線。

一面、田んぼが広がっています。

 

 (13:15)県道に合流して少し右に進むと、「将軍塚古墳」。


                     
                         鬱蒼とした森の中にあります。
 近くにあった切り株に腰掛けて、休憩。
「農村センター」信号脇にある「野本村道路元標」。

しばらく静かな住宅街を進みます。

前にも見かけた大きなユズ? 

「上野本の獅子舞」解説板。江戸時代から続く伝統行事のようです。

(13:52)しだいに住宅が建て込んできます。この先が「若松町一丁目」五叉路に。



 コンビニ右横の道を進みます。途中には。

かつての街道筋らしいおうち。

 この先で、少し残っている旧道を歩いて、東武線「東松山」駅に向かいます。

 時間も早いですが、今回はここまで。(14:22)「東松山」駅は煉瓦造りで趣のある駅舎。 


                   

注:「深谷駅」駅舎は赤煉瓦の生産地という関連で、東京駅を模して造られています。

駅構内の案内図。→が街道。赤い線がその旧道。
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その4。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-27 18:43:06 | 日光千人同心街道
                           街道は小学校の敷地内(右手)を進んでいたようです。

「薬師堂」。

 この先で旧道は消滅し、その先も、住宅公団(UR)の北坂戸団地の開発によって消滅しています。東武線の跨線橋を越えて線路の西側にあるの団地へ。

 跨線橋から南側を望むと、遠くに富士山が(↓)。

左下の小学校から分かれた旧道も○では不明。

北坂戸団地。

(11:16)団地のはずれ、県道の向こうに「昔を偲ぶよすがの場所」。

「上吉田の座標」。

𦾔(旧)日光街道の碑」。
 上吉田の起原については明らかでないが、正代氏文書に拠れば承元4(1210)年3月29日の記録に沙弥行速が小代有平に与えた譲り状によしだむらの四至として東こさむのつつみ南あとかは西大とうのふるみち北たむきのさかひを挙げてすでに集落が存在した事を示し居る 降って天正10(1582)年武田勝頼の敗死によりその家臣が此処に帰農し江戸中期には49戸を数える集落となった 又この街道は戦国時代、小田原北条氏が鉢形厩橋忍城との連絡路として利用し、江戸初期日光東照宮造営15年後の慶安4(1651)年八王子千人同心がその火の番役を仰せつかり、勤務の為50人ずつ半年交代で日光へ往来した為日光街道と名付けられ、八王子から始まって坂戸宿を通り当集落付近を横切り松山吹上忍を経て例幣使街道に合流した
 この街道に沿うむらの入口に雨降山の石灯籠と馬頭観世音供養塔が建てられた頃植えた吉田の松はその樹形が美しいことで道往く人々に永く親しまれて来た
 慶応6(1866)米価暴騰に堪えかねて飯能暴動と云われる吾野谷等の山村民の蜂起による「打ちこわし」が日光街道を坂戸宿まで押し寄せたとの情報に急遽むら中の家々で炊き出しを行い、これを両問屋に持ち寄り酒と握り飯を振る舞ったため一揆は乱暴することなく過ぎたと言い伝えて居る 明治以降近衛第1第14師団の秋季演習の都度在郷軍人青年団員が湯茶の接待に当り、また行軍の靴音に子供達が胸躍らされたのもこの吉田の松付近であった
 昭和農業恐慌の救農事業として道路改修が行われ昭和40年代北坂戸団地が日本住宅公団の手によって造成され街道は全くその姿を失うに至った 今むらの人々相諮り協力して「吉田の松」周辺の荒廃を修復し且つ𦾔日光街道の碑を建て後世に伝えると共に昔を偲ぶよすがとする次第である 

さらに「石灯籠」、「馬頭観音」や形のいい松が植わっています。

            

来た道。ただし、この道が旧道どうかは定かではない。  

県道を渡って道なりに進みます。

「昔を偲ぶよすがの場所」(↓)を振り返る。  

田んぼの中の道に向かいます。

                           

この辺りの道も不明。


 さきほどの県道に突き当たります。旧道はそのまま「越辺川(おっぺがわ)」に向かったのか? 


                       

振り返って望む。

 土手で行き止まりになるので、県道で東武線の下をくぐり、「国道407号線」へ向かいます。(11:35)「越辺川」に架かる「高坂橋」を渡り、「高坂宿」へ入ります。


                         

                                 

西方の鉄橋(上流)を通る東武線。その付近に渡し場があったか?

 国道をしばらく進むと、左に広い分かれ道。ついその道へ進んでしまいましたが、この道は「高坂駅入口」交差点に通じる道で、旧道ではありません。途中で気づいて国道に戻ります(ロスタイム)。 


                    注:このルートではありません。
  
国道を進み、「東松山市高坂市民活動センター」を左に曲がります。 



 (11:50)「川越・児玉往還」と合流して、「九十九川」に架かる「坂下橋」を渡ると、「高坂宿」。


ゆるい上り坂を行きます。左手に祠。 

宿場らしい雰囲気はないが、りっぱなおうちが目立つ。

            

時に昔の雰囲気が残るおうちも。

ほぼ直線に進む街道。

先の方に旧家らしい建物が。

宿内でも一番立派なおうち。

                        

新しいおうちが目立ちます。

かつての家紋入りの鬼瓦が門前に。

門と古木を残してあります。

 (12:20)街道は新しい道で遮られます。そのまま進むと「都幾川」の広い「リバーサイドパーク」内に。
 

 「高坂駅」を中心に、周囲一帯が区画整理され、道路の拡幅整備が進み、大きく様変わりしている印象。そのためか、かつての街道の面影はほとんど見られなくなっています。
 宿内の途中にあった「六地蔵」「馬頭観音」以外、かつて路傍にあった石仏や道標などは見つけられませんでした。

        
         
                
1880年代のようす。                    2010年代のようす。
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その3。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

2018-11-26 19:42:48 | 日光千人同心街道
          (9:42)「日光街道(千人同心街道)」と「川越街道(越生道)」との交差点(脚折才道木)角にある「道標」。

↓のところに「道標」。



                         
才道木日光街道道しるべ
 この道しるべは、江戸時代の八王子と日光、川越と越生を結ぶ重要な街道が交わった場所にあります。形は角形の石柱で、大きさは高さ73センチ、幅23.5センチ、厚さ15センチ、刻まれた干支から文政4年(1821)のものであることがわかります。
 道しるべの各面には「北 日光 さかと 道」、「東 江戸 川ごへ 道」「南 八王子 たかはぎ 道」「西 慈光 をこせ 道」と刻まれています。南北は、この道が八王子から高萩(日高市)、坂戸を経て日光へ通じる日光街道であったことを表しています。・・・また、東西は川越街道(越生道とも呼ばれた)であったことを示し、東は川越を経て江戸へ通じ、西は、越生を経て古刹慈光寺(ときがわ町)へ通じることを表しています。 
 

歩道橋には「日光街道」という名称が。

歩道橋の向こうにはどなたかのりっぱな「顕彰碑」。

「坂戸宿」へ向かいます。

一番下の道が「日光街道」。

(10:11)「関越道」をくぐる。

「日光街道」という標識。

東武越生線、続いて東武東上線の踏切を渡ります。

東武越生線。

東武東上線。

「坂戸宿」の現在のようす。

                                

 (10:30)「坂戸神社」からしばらく進んだ「日の出町」交差点の角が「旅籠角屋跡」。交差点手前の祠に「延命地蔵」。
 

振り返って望む。

特に宿場らしい建物などは見当たらない、近代的な家並み。

と、それらしい見世蔵造りのおうち。

その先に「解説板」。
歴史の道・日光脇街道
 近世における江戸より日光への道は、「日光街道」と将軍社参の道である「日光御成道」がよく知られていますが、この街道以外にも、裏街道、脇街道と呼ばれる道は、各地に存在しています。
 坂戸を通る道は、「日光脇街道」と呼ばれ、日光東照宮の火の番(警護)をつとめた「八王子千人同心」が勤務地への往来に使った道になります。
 明六つ(午前6時頃)に八王子を出発した千人同心の一行は暮六つ(午後6時頃)に「坂戸宿」に到着し、最初の宿泊地としますが、日光までの21次を3泊4日で歩き通しました。当時の坂戸宿は、坂戸神社から坂戸小学校に向かう通りで、道幅2間半(約4.5㍍)、民家180余軒が軒をつらねていたと言われ、今は宿場の面影も薄れてしまいましたが、北東へ進み坂戸小学校に突き当たった所には、往時のままの姿で道しるべ(宝暦10年)が残っています。
 日光への道はここで二つに分かれ、左が脇往還になりますが、住宅開発や道路網の整備が進み、かつての道筋は、大きく変化してしまいました。

↓が「日光脇街道」の道筋。

「坂戸市文化会館」前にも「坂戸宿」の解説板。
坂戸宿
 「坂戸の宿はさかさ宿」と伝わるように、坂戸小学校前の交差点付近(下)から、坂戸神社方向(上)へと発展してきました。元町(4丁目)、仲町(3丁目)本町(2丁目)の順に整えられ、1丁目(本町)に宿並みが整備されたのは、江戸時代になってからです。
 坂戸宿の開設は、天正12年(1584)に河越城代大道寺駿河守政繁が主君・小田原北条氏の命を受け、元坂戸(北坂戸)から、農家39軒を移して、新しく集落を整備したのが始まりといわれています。
 坂戸宿を通過する街道は、八王子・高萩から坂戸を経て、高坂・松山・吹上・忍・館林に通じる当時の幹線道路で、江戸時代になると徳川幕府によって、「日光脇街道」として整備され、関東郡代配下の「八王子千人同心」が日光火の番(警備)のために往来した道で、八王子を出発して最初の宿泊地でした。しかし、当時は旅館も無く、隊員達は、周辺の農家に分宿したと伝えられ、享保8年(1723)になって、現在の日の出町交差点角に旅籠「角屋」が開業すると、同心隊の役付け隊員のみが角屋に泊まり、平隊員50人近くは、依然周辺の農家に分宿したといいます。
 江戸時代の坂戸宿は半農半商の宿場で、この通りにおいて、3・8日に開かれた坂戸の市は、他の地域の市日とずれていたため、広い範囲から生産・生活物資が持ち込まれて賑わいました。後に店売りが始まり、市日以外の商売が定着して、宿通りは発展しました。

坂戸小学校前の道しるべ(↓)。

 
道しるべ
 道しるべは、街道の三叉路や十字路の角に建てられ、他国から来た旅人が道に迷わないようしてあります。ここに残る道しるべは、坂戸宿4丁目の皆さんが旅人の安全を願って建てたもので、この道路が江戸時代の承応元年(1652)に日光脇街道に定められ、往来する旅人が増えたためと考えられます。
 道しるべは、坂戸市内に現存する最古のもので、角柱四面に「右 よしミみち、左 日光道、松山道、願主講中、坂戸町中四丁目、宝暦十庚辰六月吉日」と刻まれています。
 「右よしミみち」とあるのは、右の道をたどると坂東33観音のうち11番目の札所「安楽寺吉見観音」があり、札所巡りの盛んであった当時としては、観音霊場めぐりに往来する人たちが多く、坂戸宿を出外れた三叉路で、右か左か思案する姿が見られたためと想像できます。
 また、「左日光道」とあるのは、当時、八王子同心が日光東照宮の火の番(警備)にあたるため、八王子から日光への往来に使った道筋にあたったためで、今日まで多くの人々の往来を見守ってきました。

注:「宝暦10年」=西暦1760年。

振り返って宿内を望む。



1880年代のようす。○が道しるべのある三叉路。



2010年代のようす。西方は東武東上線。
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