(10:44)いよいよ勝沼の町に入ります。
「大善寺」。
このお寺は別名ぶどう寺と言って、甲州ブドウ発祥の地です。奈良時代、当地で修行中のお坊さんの夢の中に、ブドウを持った薬師如来が現れたため、ブドウの作り方を村人に教え、この地方にブドウ作りが盛んになったとの言い伝えがあるようです。
「東京から118㎞」ポスト。
柏尾の交差点。旧道は「国道」から右に入っていきます。
さっそく沿道にはぶどう園が軒を連ねています。
(10:57)「国見坂」の標示。
元和7年(1621)甲州街道の往還筋の地名として定められた。
行く先を望む。
収穫前ですが、見事なぶどう棚。
黒塀の続く建物が左手に。「ワイン民宿鈴木園」。
19世紀建築の古民家にアンティーク家具をしつらえた和洋折衷の宿です。
ご朝食は薪ストーブのある食堂で。長年をかけて園主が収集したアンティークギャラリーと地下ワインセラーもお楽しみ下さい。
(「じゃらんネット」より)
(11:02)「上行寺前」交差点。
勝沼宿は元々甲斐武田氏の一族の勝沼氏により開かれた町で1618年(元和4年)に宿場に指定されました、1686年(貞亭3年)には上町、仲町、下町、横町、上新町、下新町に町割りがなされています。
1843年(天保14年)には、家屋192軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋23軒、問屋場1軒と比較的規模の大きい宿場で、この辺りの経済の中心地でした。
右手に「勝沼宿脇本陣跡」標柱。
(11:08)「上町」の交差点を過ぎて右側には「勝沼本陣」跡。「槍掛けの松」碑。
本陣に大名、公家などが泊まると槍を立て掛けた松。
ぶどうで栄えたこの宿場町には、旧道らしい立派な商家建物が並んでいます。
勝沼宿仲松屋
勝沼宿仲町の仲松屋住宅は、江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治時代の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした、板葺、二階建建築で、通り土間を挟み明治後期に一階を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。
西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵屋敷などから構成されている。
東西両屋敷群は江戸時代後期から、明治時代の勝沼宿の建築を知る上で貴重である。
勝沼町 教育委員会
三階建ての蔵。修復工事中。
旧田中銀行社屋 国登録有形文化財
明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた洋風の建物。大正9年より昭和7年ごろまで「山梨田中銀行」の社屋として利用されていました。
外壁は砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに洋風建築の名残があります。建物内はその後の変遷でだいぶ間仕切り等変更されていますが、落ち着いた室内になっています。
また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。
勝沼町 教育委員会
(11:13)ここまで炎天下の中を歩いてきたので、休ませてもらおうと中に入りました。中から70代後半の方が現れ、この建物の歴史や勝沼宿の変遷などお話を伺いながら、おにぎりを。その方もコンビニ弁当を広げて一緒に食事。飲み物も出してもらいました。
「今日は暑いから誰も来ないよ」「無理しない方がいいよ」「東京や横浜の人が多くくるね」
「8月のお盆の頃はけっこうにぎやかだよ」「鉄道が遠いので昔と同じような街並みだよ」
「戦時中は北白川宮様が疎開してたり、他にもけっこう偉い人も来ていたよ」
「なんてたってワインはおいしいさ、でも、飲み過ぎると腰に来て立てなくなっちゃう。昔は飲み過ぎて足を取られて道路で寝転んでいる人もいたね」
などとけっこう長話。入ってくる風が涼しくて何よりです。
1階は銀行当寺のカウンター風。棚には台帳や計算機などが置かれています。手動でゼンマイを回して音を出す蓄音機なども。残念ながら取っ手がなくなったので回すことはできなくなっていますが。
「この辺りでは蚕もやっていたんで、出荷する繭を担保にして金を貸したりしていたんだね、保管するための倉庫もあった」・・・
「大善寺」。
このお寺は別名ぶどう寺と言って、甲州ブドウ発祥の地です。奈良時代、当地で修行中のお坊さんの夢の中に、ブドウを持った薬師如来が現れたため、ブドウの作り方を村人に教え、この地方にブドウ作りが盛んになったとの言い伝えがあるようです。
「東京から118㎞」ポスト。
柏尾の交差点。旧道は「国道」から右に入っていきます。
さっそく沿道にはぶどう園が軒を連ねています。
(10:57)「国見坂」の標示。
元和7年(1621)甲州街道の往還筋の地名として定められた。
行く先を望む。
収穫前ですが、見事なぶどう棚。
黒塀の続く建物が左手に。「ワイン民宿鈴木園」。
19世紀建築の古民家にアンティーク家具をしつらえた和洋折衷の宿です。
ご朝食は薪ストーブのある食堂で。長年をかけて園主が収集したアンティークギャラリーと地下ワインセラーもお楽しみ下さい。
(「じゃらんネット」より)
(11:02)「上行寺前」交差点。
勝沼宿は元々甲斐武田氏の一族の勝沼氏により開かれた町で1618年(元和4年)に宿場に指定されました、1686年(貞亭3年)には上町、仲町、下町、横町、上新町、下新町に町割りがなされています。
1843年(天保14年)には、家屋192軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋23軒、問屋場1軒と比較的規模の大きい宿場で、この辺りの経済の中心地でした。
右手に「勝沼宿脇本陣跡」標柱。
(11:08)「上町」の交差点を過ぎて右側には「勝沼本陣」跡。「槍掛けの松」碑。
本陣に大名、公家などが泊まると槍を立て掛けた松。
ぶどうで栄えたこの宿場町には、旧道らしい立派な商家建物が並んでいます。
勝沼宿仲松屋
勝沼宿仲町の仲松屋住宅は、江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治時代の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした、板葺、二階建建築で、通り土間を挟み明治後期に一階を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。
西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵屋敷などから構成されている。
東西両屋敷群は江戸時代後期から、明治時代の勝沼宿の建築を知る上で貴重である。
勝沼町 教育委員会
三階建ての蔵。修復工事中。
旧田中銀行社屋 国登録有形文化財
明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた洋風の建物。大正9年より昭和7年ごろまで「山梨田中銀行」の社屋として利用されていました。
外壁は砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに洋風建築の名残があります。建物内はその後の変遷でだいぶ間仕切り等変更されていますが、落ち着いた室内になっています。
また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。
勝沼町 教育委員会
(11:13)ここまで炎天下の中を歩いてきたので、休ませてもらおうと中に入りました。中から70代後半の方が現れ、この建物の歴史や勝沼宿の変遷などお話を伺いながら、おにぎりを。その方もコンビニ弁当を広げて一緒に食事。飲み物も出してもらいました。
「今日は暑いから誰も来ないよ」「無理しない方がいいよ」「東京や横浜の人が多くくるね」
「8月のお盆の頃はけっこうにぎやかだよ」「鉄道が遠いので昔と同じような街並みだよ」
「戦時中は北白川宮様が疎開してたり、他にもけっこう偉い人も来ていたよ」
「なんてたってワインはおいしいさ、でも、飲み過ぎると腰に来て立てなくなっちゃう。昔は飲み過ぎて足を取られて道路で寝転んでいる人もいたね」
などとけっこう長話。入ってくる風が涼しくて何よりです。
1階は銀行当寺のカウンター風。棚には台帳や計算機などが置かれています。手動でゼンマイを回して音を出す蓄音機なども。残念ながら取っ手がなくなったので回すことはできなくなっていますが。
「この辺りでは蚕もやっていたんで、出荷する繭を担保にして金を貸したりしていたんだね、保管するための倉庫もあった」・・・