おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

わくらの渡し。油堀川の跡をたずねて。その2。ついでに清澄通りへ。

2013-02-28 19:13:09 | 河川痕跡
 北詰にあった「説明板」より。

 この付近は、幕府賄方組屋敷があり椀をしまう倉庫があったことから「わんぐら」「わぐら」といった。明治二年からこの付近の町名を深川和倉町といい、油堀川に「わくらの渡し」があった。
 昭和四年、ここにはじめて和倉氏橋がかけれられ、橋は長さ二〇・四メートル、幅十一メートルの鉄橋であった。
 昭和五十年、油堀川がうめられたので和倉橋はとりはずされた。

左が保存してある和倉橋の「親柱」。
南詰にある説明板。

 深川の橋
高速道路9号線の下には木場から隅田川へ抜ける運河、油堀川があった。ここに関東大震災後の昭和4年、震災復興事業の一つとして和倉橋が架けられた。橋が架かるまでは、「和倉の渡し」と呼ばれた渡し舟によって両岸が結ばれていた。「和倉」の名は、その北岸の町、和倉町からつけられた名である。
 町割の造成や橋の架設は大火災がきっかけになることが多いが、この和倉橋のように震災復興も深川の発展にとって大きな役割を果たしたといえる。
 現在、深川に架かる橋もまた、昭和初期に造られたものが多く、橋たもとの親柱などに往時のデザインをしのばせている。

 
 江東区立数矢小学校の裏手に当たる。
東側(木場公園方面)を望む。

 両国へ向かう「清澄通り」沿いで目にとまったあれこれを。
「海辺橋」。仙台堀川に架かる橋。明治後期の大開発まで、まだこのあたりは海辺近くだった、と。
 その橋の北詰にある芭蕉にちなんだモニュメント。
背後のつくりといい、何だかみすぼらしい趣だが、「採茶庵跡」碑と出立姿の「芭蕉像」。隅田川河畔にある「ブロンズ像」もイマイチだったが・・・。

 芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において、代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったが、また平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建て、みずからも彩茶庵と号した。芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり、元禄2年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出立した。
     昭和33年(1958)10月1日    江東区第7号

 芭蕉が奥の細道の旅に出る前、しばらく杉山杉風の別墅採茶庵に住み、元禄2年(1689)5月16日仙台堀川の土手から船で出発した、とこと。
「仙台堀川」。隅田川方向を望む。
「清澄庭園」と清澄通りに挟まれた細長い商店の連なり。「旧東京市営清澄庭園店舗向住宅」という、れっきとした名を持つ。かつては総戸数48戸あった、という。1階が店舗で2階が住まい。関東大震災後の復興事業の一環として東京市が昭和3(1928)年に建てたもの、らしい。ということは、85年前の建物。
この一画。いつまでこのまま残っているのか? まさにレトロな雰囲気。今でも現役というのがすごい! 
「二代目中村芝翫」宅跡。小名木川・「高橋」のたもとにある。
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油堀川の跡をたずねて。その1。

2013-02-27 23:25:09 | 河川痕跡
 元弾正橋探索のついでに。油堀川(運河)の跡を。
「油堀川」。元禄年間に掘られた隅田川から木場に至る運河。現在の佐賀町、福住町の両岸には特に油問屋が多く、緑橋の南西には油商人会所もあり、油堀河岸とか油堀と称された。昭和50年(1975年)に埋め立てられ、そのあとに首都高速9号深川線が建設された。
明治中期のようす。中央の斜め南東に急角度で進むのが「油堀川」。北西から南東へに進んでいるのが「仙台堀川」。クロスして南西に向かうのが「大島川西支川」。この付近は、堀割が縦横にあった。西が隅田川。

 首都高の橋脚は、かつての運河の流れに沿って続いていく。
「隅田川大橋」からのスカイツリー。上は、首都高。隅田川上流に架かる橋は、「清洲橋」。
隅田川下流。「永代橋」。月島方向。
深川・木場方向を望む。埋め立てられた油堀川の上が首都高。
隅田川との合流点。かつて水門があったところ。
駐車場。
「緑橋」。現在、「仙台堀川」から南に分岐している「大島川西支川」に架かる橋。大島川は、埋め立て以前には「油堀川」を横切っていた。関東大震災に伴う復興橋の一つ。
 大島川西支川は、右岸佐賀2丁目・左岸福住2丁目で仙台堀川から分かれ、大横川(旧大島川)へ至る延長約820メートルの河川。両岸は、元禄期までに埋立てられた。川沿いには河岸地が設けられ、かつては荷物の積み降ろしなどでたいへん賑わっていた。本川の大島川は、木場5丁目から隅田川へ注ぐ河川。名称は、北岸の大島町(現永代2丁目の内)に因む。昭和40年(1965年)に、名称は大横川に統一された。西支川・東支川に大島川の名称が残されたが、平成4年(1992年)、東支川が区立木場親水公園となったため、現在の地図上では西支川のみが河川としてその「大島川」という名称を受け継いでいる。
かつての護岸壁の名残りのようだ。
壁を隔てて少し高いところに駐車場などがある。一部にレンガが使われていたり、苔むしたようすが時を感じさせる。
大きくカーブしている。川幅は20㍍以上で、けっこう広かったようだ。「門前仲町」駅に近くになると、かなり大きな駐輪スペースになる。
広々とした空間が広がる。門前仲町方向を望む。
首都高橋脚の北側。木々の植わった遊歩道になっている。かつては川沿いの倉庫街だったところ。
現在の木場公園付近。区割りされた堀が続く。下方西側に現在の首都高の深川ランプがある。
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渋沢栄一・佐久間象山

2013-02-25 22:21:11 | 歴史・痕跡
 「旧大島川西支流」にかかる永代通り・福島橋の手前に、「渋沢栄一宅跡」(永代2-37)、橋を渡った所には「佐久間象山砲術塾跡」(永代1-14)の説明板があった。二つとも同じ時期に設置されたようだ。

説明板。
江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 渋沢栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のたまに尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会

・ 渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
・ 家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
・ 「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
・ 郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。
・ 栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。
・ 明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
・ 1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
・ 栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
・ 栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。(「渋沢栄一記念財団」HPより。)

 北側に「渋沢シティプレイス永代」「渋沢永代ビル」の大きな建物がありました。



江東区登録史跡
佐久間象山砲術塾跡
 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化8年(1811)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保4年(1833)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840~1842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。
 嘉永3年(1850)7月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。嘉永3年(1850)12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌嘉永4年(1851)再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・阪本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。
 平成21年(2009)3月  江東区教育委員会

 象山は、当時の日本における洋学の第一人者。嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。
 彼の門弟には吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えた。
 元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に「公武合体論」と「開国論」を説いた。しかし、当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、7月11日、三条木屋町で暗殺される。享年54。
 勝の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となった。象山暗殺の報を聞いたときは「蓋世の英雄」と評価し、その死を悼んだ、という。

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「元弾正橋(八幡橋)」あれこれ。その2

2013-02-24 22:27:11 | 歴史・痕跡
 そこで・・・。
以下の内容(鉄橋の構造その他)は、
「わが国最初の国産鉄の構造物 八幡橋(元弾正橋)」(財)建材試験センター 木村麗
によるところ、大です。

①弾正橋の命名の由来は。
 『弾正橋(だんじょうばし)』 は、江戸城馬場先門と本所・深川方面を結ぶ重要な交通路(皇居の二重橋前から八丁堀方面に向う、現「鍛冶橋通り」)にあり、(中央区)京橋と八丁堀との間・楓川に架けられた橋。
 橋の名の由来は、橋の東側(八丁堀側)に江戸時代初期に町奉行を勤めた島田弾正の屋敷があったことから。
 橋が架けられたのは、江戸時代の初期、寛永年間 (1624~1643) と伝えられ、その頃の『弾正橋』(「元弾正橋」)は、現在の「鍛冶橋通り」よりも少し下流(南側。一説では、現在の『弾正橋』の50~60m下流)に架かっていた。
 楓川は、江戸時代にこの近辺の土地が造成・整備され、その際に出来た人工の堀。日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し、京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る約1.2kmの人口の堀。現在は首都高速都心環状線がその跡を通る。特に日本橋川から江戸市中に物資を運びやすい楓川周辺には商人や職人が多く住み、川岸には河岸や蔵が並び、経済の中心として栄えた。
 なお、新馬橋より弾正橋までの部分は、楓川の跡を利用した高速道路なので、地上を通る道路の下を通る構造となっている。そのため、新場橋、久安橋、宝橋、松幡橋、弾正橋は残されている。また、永代通りに架かる千代田橋は、その上を高速道路が通っているにもかかわらず、欄干、橋柱などが当時のまま残され、海運橋は橋柱のみ保存されている。

②廃橋はいつの時点か。橋名は「旧」なのか「元」なのか。
 大正2年(1913 年)、新しい弾正橋が現在の鍛冶橋通りにある位置に架けられたため、当初の弾正橋は「元弾正橋」と改称された。その後、大正12年(1923年)関東大震災後の帝都復興計画で、大正15 年(1926 年)に「鍛冶橋通り」が拡幅され、現在の弾正橋に架け替えられ、元弾正橋は廃橋となった。元弾正橋は、鍛冶橋通りにある現在の弾正橋より下流(南側)に位置したことから、道路の拡幅工事によって廃橋になった、と考えられる。ただ、①の一説(50~60㍍南側)だと違うようだが。いずれにせよ、いきさつからみて「旧弾正橋」と称したことはなく、「元」弾正橋と称するのが正しいようだ。(江戸期の「(木橋としての)弾正橋」→明治期の「元弾正橋」→大正期の「旧弾正橋」→「現弾正橋」という経過をたどった、と。)

③日本製の鉄を初めて使用したのか。
 わが国の鉄骨構造の最初のものは、明治元年(1968 年)に、長崎市の中島川に架けられた銕橋(くろがねばし)通称「てつばし」、明治2年(1969 年)に横浜市にかけられた吉田橋で、いずれも橋長20m、錬鉄製で、材料・設計とも輸入品であった。そのため、わが国最初の国産鉄を用いた構造物は、明治11 年(1878 年)に製作された元弾正橋といわれている。
 なお、どこの製鉄所(例えば釜石などにはあったが)で作られたかは不明なようで、当時ではまだ満足な反射炉もないため、鉄鉱石からではなく、伝統的な製鉄法(たたら)で、砂鉄から製造したとも考えられる、とのこと。
 また、八幡橋(元弾正橋)の引張材の留付けには、現在、ナットが用いられているが、このナットの形状は、当時のものではないようにも見受けられる。
 江東区に保管されている、昭和4 年に現在の地に移設された際の震災復興橋梁図面「八幡橋 一般構造圖、橋台構造圖、縦横断面圖。江東区昭和3 年4 月」によると、補修工事等の際に、ナットは交換された可能性もある、とのこと。
 八幡橋(元弾正橋)が架けられた頃、例えば、同志社クラーク記念館では推定明治25年製のボルト・ナットを、唐招提寺では明治期の修復において類似のボルト・ナットを使用されていたことが発見されたりしている。いずれも輸入錬鉄鋼材のようである。
 八幡橋(元弾正橋)が当時からナット形式であったか明確ではないが、ナット形式の場合、引張材の錬鉄やナットは輸入のものである可能性も考えられる。(上記資料による)

④工部省赤羽製作所はどこにあったのか。
 八幡橋(元弾正橋)を製作した赤羽製作所は、現在の東京都港区三田一丁目付近にあった、工部省管轄の官営工場の一つ。明治4年に工部省内に開設された製鉄寮に製鉄所が創られ、明治6年に製作寮に移り「赤羽製作所」が設置された。明治10年に工作局が置かれると、これに属し赤羽工作分局となった。元弾正橋の他、「高橋」(深川)や「浅草橋」(どちらも当時の橋は、現存していない)も製作している。当初の様子は、以下の記事から伺える。

「工部省製鐵所 赤羽に建設 竿鐵・平鐵も出来る (明治四年九月 新聞雑誌一三)」
 今般東京芝赤羽元久留米藩邸ニ於テ、工部省製鐵所ヲ設ケラルルヨシ、竿鐵、平鐵等ノ如キ我邦ニテ未ダ見ザル品モ容易ク得ルニ至ルベシ、其器械衆目ヲ驚カス機關ナリト云。」

⑤今ある鉄橋では最古に属するとは。
 現存する最古の鉄橋は、大阪・心斎橋らしい。「心斎橋」は、もともと長堀川に架かっていた橋。それまであった木橋が1873年(明治6年)、本木昌造の設計によって鉄橋に生まれ変わった。ただし、ドイツ製で、大阪で2番目、日本で5番目の鉄橋だった。廃橋後、いくつかの場所に移設されたが、鶴見緑地公園の緑地西橋として現存し、日本現存最古の鉄橋と言われている、とのこと。すると、「元弾正橋」は、現存する道路橋としては2番目に古いものとなるらしい。

⑥ウィップル形トラス橋とは。
 ボーストリング形ともいう。ウイップル形トラス橋は、米国人スクワイアー・ウイップル氏の特許が基本となっている。

⑦鋳鉄、錬鉄の違いとは。
 銑鉄(鋳鉄)は融けやすいので鋳造により各種の構造物の製造に用いられた。しかし、脆くて大きな橋などの材料としては用いることができなかった。
 銑鉄の炭素含有量を減らすことができれば純鉄に近い炭素量の少ない鉄ができる。炭素が抜けると、鉄の融点は上昇し粘りけが強くなる。  高温の「反射炉」の側面から取り出したものが錬鉄。初期の錬鉄は純度の低いものであったが、反射炉の構造と規模が改良されて、純度の高い物が得られるようになった。
 錬鉄の赤熱塊を蒸気動力で圧延して錬鉄材を作り構造材が作られた。1889年完成のパリのエッフェル塔は錬鉄製であり、当時の橋、鉄道レールなども錬鉄製のものが多かった。現在は、より強度があって、加工もしやすい鋼鉄に。
 「元弾正橋」については、アーチ部には鋳鉄(ちゅうてつ) 製の5本の直材を繋ぎ、その他の引張材には錬鉄(れんてつ) が使われた、鋳錬混合の橋で、明治・大正期に数多く架設される 「錬鉄トラス橋」 の基となる橋であった。近代橋梁史上や技術史上においても非常に価値の高い橋である。

⑧今の「弾正橋」は。
 
 現在の『弾正橋』 は、大正15年(1926年)、「鍛冶橋通り」 の拡幅開通に伴って架設されたもので、関東大震災の復興事業による橋梁の一つ。その時に、「元弾正橋」は、廃橋となった。
 その後、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)に、「楓川」が埋め立てられ、その跡に首都高速道路が開通したため、その上を通るように架けられている。それに合わせて、橋の両側(北・南)に公園が設置されるなどの改修工事、さらに、平成 5年(1993)には再整備された。
「楓川弾正橋公園」。
 北側の公園には 『元弾正橋』のモニュメントや川筋のモニュメントが設けられ、現在は、サラリーマンなどの喫煙スペースに。
小さなモニュメント。元の橋を縮尺してあるように見える(橋のたもとの記念碑では「象徴的に復元」とある)。
遠景。
「弾正橋」。
橋上の首都高。

⑨「元弾正橋」の架橋時と現在の構造上の相違は。
架橋時:橋長 8 間2 尺(約15.2㍍)、橋幅 5 間(約9.1㍍)。
現在:橋長 15.2㍍、橋幅2㍍。
 長さは変わらないが、幅が狭くなっている。これも、資料によってもともと(元)弾正橋として架橋されたときから橋幅は2㍍だった、という説もあるが、現在の実際の幅から考えてみて、かつてはもっと幅が広かったと考えるのが、妥当ではないか。
 なお、現在の「元弾正橋」は、赤く塗られているが(「富岡八幡宮」との関連あり?)、架橋当時は何色だったのか? モニュメントでは黒っぽい色をしているが。
 「廃橋となった元弾正橋は、東京市最古の鉄橋を記念するため、昭和4 年(1929 年)深川区(現江東区)油堀川支川に移し、再用された(昭和3 年12 月3 日起工、昭和4 年5 月1 日竣工)。富岡八幡宮の東隣であるため、橋名は八幡橋と改められた。この時、橋幅は2m ほどに狭まり、床版の前面打換えが行なわれたとの記録がある。」(上記資料より)
 

⑩「三ツ橋」とは。
 かつて、北東から楓川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差しており、この交差点に近い楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と総称していた、とある。江戸名所図会にも「三ツ橋」として紹介されており、『弾正橋』(楓川)、『白魚橋』(京橋川)、『真福寺橋』(三十間堀) は、三橋合わせて 俗に『三ツ橋』 と呼ばれ、その眺めのよさから江戸の名所の一つとなっていたようだ。
 現在、これらの川は全て埋め立てられ、これらの橋もすべて廃橋になり、現在は『弾正橋』 だけが残っている。
「楓川」跡の首都高。「弾正橋」。
「弾正橋」にあった標識。「白魚橋駐車場」とある。「白魚橋」は駐車場名として残っている。

 一ツ所に橋を三所架せし故にしか呼べり。北八町堀より本材木町八丁目へ渡るを弾正橋と呼び、(寛永の頃今の松屋町の角に、島田弾正少弼やしきありし故といふ。)本材木町より白魚屋鋪(やしき)へ渡るを牛の草橋(注:後の白魚橋)といふ。又白魚屋鋪より南八町堀へ架する橋を、真福寺橋と号くるなり。
記念碑にある「三ツ橋」の図。江戸期。
「八幡堀緑道公園」内にある「東京名所図会(正しくは「新撰東京名所図会」か?)。左奥に見える橋が鉄橋になった「弾正橋」。手前の橋は、「白魚橋」。ここでは、二つの橋しか描かれていない。
それよりも前・明治中期のようす。四方に橋が架かっているように見える。

⑪「八幡橋」の下の緑道は
『元弾正橋』 が移設された江東区の 「富岡八幡宮」 の東隣には、当時は「油堀川支川(八幡堀)」 が流れており、当初はれっきとした堀に架かる橋であった。昭和51年(1976 年)には堀も埋め立てられ、「八幡堀緑道公園」となり、『八幡橋』 は緑道公園を跨ぐ歩行者専用橋となっている。
 「油堀川」(下之橋から木場に至る運河。元禄年間に掘られた運河で物資の運搬が盛んだった。現在の佐賀町、福住町の両岸には特に油問屋が多く、緑橋の南西には油商人会所もあり、油堀河岸とか油堀と称された)は、昭和50年(1975年)に埋め立てられ、そのあとに首都高速9号深川線が建設された。「油堀川支川(八幡堀)」は、「富岡八幡」「深川不動」「深川公園」を取り囲むように流れていた。
「油堀川」埋め立て後の首都高深川線。
「八幡堀緑道公園」のようす。
公園の入り口付近にある旧大島川(大横川)に架かっていた橋「新田(にった)橋」。
説明板。
 かつて、この付近は水路が縦横に走っていた。埋め立てられて橋なども消失したが、まだまだその痕跡は多くあるようだ。
明治中期のようす。中央付近が「富岡八幡宮」。周囲の堀が「油堀川支川(八幡堀)」。この少し南側は海岸線だった。

⑫芭蕉の句について
「三ツ橋」。弾正橋の橋のたもとにある記念碑と同じ絵柄。左が「真福寺橋」中央奥が「牛の草橋(白魚橋)」手前が「弾正橋」。
 『江戸名所図会』(三ツ橋)の挿絵に『風羅袖日記』「八町堀にて」として載っている芭蕉の句。
『風羅袖日記』 八丁堀にて
   菊の花さくや石屋の石の間
                      芭蕉
(きくのはな さくやいしやの いしのあい)
元禄6年秋の作。
 注:江戸時代、「八丁堀」付近には石屋が多かった。船での運搬に便利だったためである。

寛政11年(1799年)10月発刊。
文化元年(1804年)、『芭蕉袖日記』として再刊。860句余りが収録されているが、そのうち存疑95句、誤伝21句、とのこと。この句を芭蕉が作ったことは、間違いないらしい。

素綾自序
 其いつ歟、芭蕉袖日記といへる発句集を師より伝はりて、陀袋にこめをきし事年あり。其句数七百五十有余なりし、予また十余り九とせばかり前の頃、牛路鯨浜にさすらひて、蕉翁のツエを曳れしふる道をしたひ、都鄙に間々書おかれたる色紙、短冊の句々を写し得て、武蔵野、野ざらし、鹿島、よし野、更料(科)、奥の細道等の紀行に洩たるを加へ、都て八百六十余句とはなれりける。
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「元(旧)弾正橋」(八幡橋)あれこれ。その1

2013-02-23 21:07:59 | 歴史・痕跡
 とても由緒ある橋。そのせいか、説明用のプレートがいくつも存在。

その1
橋の東詰めにある「説明版」。

国指定重要文化財(建造物)
旧弾正橋(八幡橋)
 富岡一-一九―富岡二-七
 昭和五二年六月二七日指定
 八幡橋は、明治十一年東京府の依頼により、工部省赤羽製作所が製作した長さ十五・二メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正二年(一九一三)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は昭和四年(一九二九)五月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬鉄混合の橋であり、かつ独特の構造手法で施工している。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。
江東区教育委員会

その2
八幡堀緑道公園にある「説明版」。
(重複する部分は避けて)

 八幡橋は東京市で最初に架けられた鉄橋である。(・・・)現存する鉄橋としては最古に属するものであり、また菊の紋章のある橋としても有名である。(・・・)独特の構造手法を用いて施工してあり、技術史の上でも価値の高い橋である。

その3
人力車をモチーフにしたブロンズ像にある「説明版」。上部に「東京名所図会」の絵柄が刻まれている。

 八幡橋は明治11年(1789年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
 現在の中央区宝町3丁目付近に位置します。弾正橋は馬場先門から本所深川とを結ぶ重要街路の一つで文明開化のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。
 しかし昭和4年(1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。現在では江東区が大切に保存しています。
 この東京名所図会(三ツ橋の現況)には明治34年(1901年)頃の弾正橋(左奥)が描かれており、当時の情景が偲ばれます。弾正橋、白魚橋、真福寺橋とをあわせて三ッ橋と呼ばれ、古くから人々に親しまれていました。

その4
米国土木学会からの「土木学会栄誉賞」記念碑の銘文。

 八幡橋は明治11年(1878)我が国において最初に日本製の鉄を使って造られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋になっています。橋の形(ウィップル形トラス)は、米国人スクワイアー・ウィップル(SQUIRE・WHIPPLE)氏の特許が基本となっています。
 ウィップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建造物「八幡橋」の優れた製作技術に対して平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。

 このように記念碑があって、それぞれ興味深い表現がありました。大枠では相違点はありませんが、それでもいくつかの疑問・興味がわき出てきました。
 
①弾正橋の命名の由来は。
②廃橋はいつの時点か。橋名は「旧」なのか「元」なのか。
③「三ツ橋」とは。
④日本製の鉄を初めて使用したのか。
⑤工部省赤羽製作所はどこにあったのか。
⑥現鉄橋では最古に属するとは。
⑦ウィップル形トラス橋とは。
⑧鋳鉄、錬鉄の違いとは。
⑨今の「弾正橋」は。
⑩元の橋と現在の橋との構造上の違いは。
⑪「八幡橋」の下にはかつて堀があった。・・・
 けっこう気になる点が出てきました。

朱塗りの橋。現在は歩道橋として利用。菊の紋が見える。
東側。階段が付けられ、人の通行のみ。
近所の小学校。「区立数矢小学校」の下校風景。校名は、江戸時代、この地にあった三十三間堂での弓術競技「通し矢」(通称「大矢数」)に由来している(「矢数」ではなくて「数矢」とひっくりかえっているのが、おもしろい)。
大勢の子ども達が渡っていく。
橋の下からのようす。
いささか無骨な印象が、またいい風情。
緑道公園の南側から望む。


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「田園に死す」(古きよき映画シリーズその25)

2013-02-22 19:55:31 | 素晴らしき映画
 寺山修司の作品をもう一つ。公開当時(1974年)の、ラストシーンが今でも脳裏に鮮明に(家の壁が倒れると、新宿駅西口の雑踏。押し入れのふすまを開くと機関車が通り過ぎるシーンだったのは、「書を捨てよ町に出よう」だったか。)。恐山のおどろおどろしい風景も実際訪ねたことがあったので、興味を持った。そして、再び。

《あらすじ》 
 下北半島・恐山の麓。父に早く死なれた少年は、母と二人で暮している。狂ってしまった柱時計が時を打ち続ける、薄暗い家での生活。
 ある日、村にやって来たサーカス小屋へ紛れ込んだ私は、空気女・一寸法師たちから遠い町の事を聞く。

 私は、家出をすることを決心し、同じように生活が嫌になった、という隣の人妻と共に村を離れる約束をする。駅で待ち合わせをして線路を歩く二人。

 実はここまでは、映画監督となった現在の私が制作した自伝映画の一部であった。試写会に来ていた評論家から私は、「もし、君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなると思うか」と尋ねられた。
 過去の私が母親を殺せば自分がどうなるのかを知るためにやって来た「私」は、20年前の少年時代の自分自身に出会うことになる。

 少年の私は、本当の少年時代がどのようなものであったかを語る。・・・
 二人で話をするうちに、少年は母親を捨てて上京することを決意する。しかし、出発の準備を整える中、出戻り女によって童貞を奪われてしまう。

 たまらなくなった少年は一人、故郷を離れていく。
 今、現在の私は20年前の母親と向き合って食事をしている。突然、家の壁が崩壊すると、そこは新宿駅西口広場の雑踏だった。


《スタッフ》
原作 寺山修司
脚本 寺山修司
音楽 J.A.シーザー
撮影 鈴木達夫
企画 葛井欣士郎
配給 ATG
美術 粟津潔

《キャスト》
私:菅貫太郎
少年時代の私:高野浩幸
人妻:八千草薫
空気女:春川ますみ
草衣:新高恵子
せむしの少女:蘭妖子
牛:三上寛
批評家:木村功
詩人:粟津潔
嵐:原田芳雄

 原作の歌集からいくつもの歌が詠まれていく。映画全体として、かつてのような強いインパクトを感じなかったのは時代の流れか、はたまたこちらの感性の衰えか。あまりにも時代の流れは速すぎるのか。今や、一人ひとりの感性を超えて、人びとの生活の場としての町も村も崩壊しているのか。・・・

①大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ
②新しき仏壇買いに行きしまま行方不明のおとうとと鳥
③ほどかれて少女の髪に結ばれし葬儀の花の花言葉かな
④亡き母の真っ赤な櫛を埋めに行く恐山には風吹くばかり
⑤針箱に針老ゆるなりわれとわが母との仲を縫い閉じもせず
⑥たった一つの嫁入り道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり
⑦濁流に捨て来し燃ゆる曼珠沙華あかきを何の生贄とせむ
⑧見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし
⑨とんびの子なけよ下北かねたたき姥捨て以前の母眠らしむ
⑩かくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭り
⑪亡き父の位牌の裏のわが指紋さみしくほぐれゆく夜ならむ
⑫吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず
⑬売りにゆく柱時計がふいになる横抱きにして枯野ゆくとき

 これらの歌に、新鮮さ・前衛性を感じるか。懐かしきふるさと・郷愁を感じるか、うさんくささを感じるか。寺山修司への評価(現的意義)ともつながる。・・・

赤一色の湖水。恐山の風景。奇形の乳児。間引きの風習。
菰に包まれ流された胎児を追うように流れてくる五段飾りの雛人形。

白く化粧する登場人物。黒一色の老婆の群れ。狂ったたくさんの柱時計。おびただしい数の遺影写真。古めかしい音楽。異形のサーカス団員。・・・。まさに寺山ワールドで、懐かしい印象の映画作り。

 今となってはあまりにも「古色蒼然」とした印象ではあった(芝居を最初に観た時のインパクトがあまりにも強くて・・・)が、これから初めて観る方達にとっては驚きの、疑問の、連続?


 ワンシーン(現在の私と評論家の会話)。

 「対象化したとき、自分の風景は厚化粧したにせ物になってしまう。」
 「人間は記憶から解放されない限り本当に自由になることはできない」

 こうした視点は、歌人・寺山のこだわり続けたものなのかもしれない。また、スタッフ、役者等々、多彩なメンバーだったことを改めて実感。影響のある一つの演劇シーンを飾っていた面々。 
コメント (3)
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名取市閖上(ゆりあげ)浜。大震災の爪痕。その3。

2013-02-20 19:01:21 | 歴史・痕跡
名取市閖上(ゆりあげ)浜
 名取川河口にある浜の名前です。河をはさんで北側は仙台市になります。
 宮城県の地名でも難読とされる閖上(ゆりあげ)ですが、今回の震災で甚大な被害を受けました。
 名物朝市の場所も流されました。朝市は日曜日・祝日に開催され、なんども足を運んだ場所です。秋には秋刀魚祭りがあって、気仙沼で水揚げされた秋刀魚の振る舞いがあり、その場で焼いて食べることができました。
 朝市は名取市内で再開されています。いつの日か閖上で朝市を開きたいとの願いのもと、月1回程度開かれるようです。
 閖上の地名の由来については、以下のとおりとなっています。
閖上公民館トップページ
"名取川河口にある閖上浜は,昔「名取の浦」と呼ばれていた。
清和天皇の貞観(しょうかん)13年,この海岸に霊験あらたかななる十一面観音像が,波に"ゆり上げ"られたのを漁師がみつけた。それ以来この浜を「ゆりあげ浜」とよんだ。
現在高舘山の那智神社に安置されている那智観音像がそれであると伝えられている。
「ゆりあげ浜」の文字を「閖上」と書いたのは,いつ頃か定かではないが,次のような話が伝えられている。
昔,仙台藩主が大年寺山を参拝したおり,山門内からはるか東に波打つ浜を見て「あれはなんというところか」と家来にたずねた。
「ゆりあげ浜と申します」と答えたところ,重ねて「文字はどのように書くのか」たずねた。「文字はありません」と答えると,藩主は「門の内側から水が見えたので,これからは門の中に水をかいて『閖上』とよぶように」といわれた。
それから「閖」の文字ができたと言い伝えられている。"
閖上の地名の由来
"昔、何代目かの殿様が大年寺の参拝を終わって、石段を降りかけると、惣門内から遥かに名取川が生みにそそぐ河口付近の水が光って見えたので、近侍の者に「あれは何処か」と訊ねた。近侍の者が「ゆり上げで浜でございます」と答えると、殿様は即座に「門の中に水が見えたのであるから、これからは門の中に水を書いて『閖上』とするように」と命ぜられたことに始まったといわれている。また、地元では承応年中(一六五二~一六五五)に火災が頻発したので、この地の水門神社(湊明神)の神託を乞うたところ、神名を地名にすれば永く火災を除くといわれ、神名{水門」を一字に合成し「閖」と作字して地名にあてたという。"
 最初は、「水が光って見えた」というところから、門構えに「光」をいれて書き、後に「水」に変わったという話をどこかで聞いた気がしているのですが、勘違いかもしれません

(以上、「SendaiGumbos 仙台ガンボス: 閖上浜 doraneko-festival.blogspot.com/2011/03/blog-post_31.html」より引用させてもらいました。)

 翌日、ここを案内してもらった。途中、あそこの信号のところには何十体もの遺体が流れ着いて折り重なっていた、田んぼの用水路の中にもあった、白服の人たちが取り囲んでいるのを見ると、また遺体が見つかったんだな、と。
 まったく何もない地域が広がる。ここは住宅がたくさん建ち並んでいた場所。友人の家も失われた。車を運転しながらのつぶやきが切実だった。
はるか遠くの白雪の山並みは蔵王連山。仙台空港が遠くに見える。
一面何もない。ここの地域は土台からすっかり津波にさらわれてしまったのか。住宅地なのか田んぼなのかの区別もつかないほど。
冬の太陽の光がまばゆいほど。
送電線がかつてここで人びとの暮らしがあったこと、そしてこれからの再建の道の遠さを物語る。
一隅にあった卒塔婆。一周忌法要。まもなく「3回忌」を営む日がやってくる。
ほとんどの船が破損したり、流されたりした中で、奇跡的に残った知人の船。こうして今も無傷で停泊している。
 娘の名を付けて、「ASUKA」と。これからの希望を明日に託して。
 二日間、案内してくれた知人、その関係者の方々に感謝、感謝。また来ます。

 人に話せるほどの苦しみ、悩みや望みは、まだまだ軽いもの。人に語れない苦悩、そして願いは、ぐっと心の奥に秘めたまま。
 今回の震災。本当に「難儀だった」ことを思う。厳しい現実・過去を受け入れ、黙して語らない(語れない)深い思いは、未来への深い祈りに通じる。そんな人びとのあるがままの生き様をしっかり受け止めなければ、と。
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JR気仙沼線。南三陸町防災対策庁舎。大震災の爪痕。その2

2013-02-19 20:56:44 | 歴史・痕跡
 海岸沿いを走る「気仙沼線」。リアス式海岸に沿って、風光明媚で、漁港や海水浴場など見所満載だった路線。
かつての気仙沼線。

 東日本大震災で、線路や駅、鉄橋などが崩壊し、全線が不通となった。特に、大津波で多くの駅が流失、津谷川橋(気仙沼市本吉町:陸前小泉 - 本吉間)が落橋、各所で路盤・築堤が流失(消失)するなど、沿岸部を通る陸前戸倉 - 南気仙沼間は壊滅してしまった。復旧には自治体の復興計画による路線の変更も想定できるため、全く見通しがつかない状態に。
 そこで、2012(平成24)年5月21日より、年内のバスによる輸送開始を目指し、線路を撤去して舗装してバスが通れるようにし、また並行して走る一般道路も活用する仮復旧計画が実現。こうして、不通区間のBRT(Bus Rapid Transit・バス高速輸送システム)による運行が始まった。同年8月20日よりバス代行運転扱いとして運行を開始。BRT用の車両はJR東日本が用意し、「ミヤコ―バス」に運行を委託していたが、12月22日より、JR東日本がバス事業者となりBRTの本格運行を開始した(実際は、引き続きミヤコ―バスが行っている)。
バス。
「陸前階上」駅(バス路線)。
プラットホームはそのまま(「YouTube」より)。
この区間は、線路を撤去して舗装道路に。
橋桁や柱が崩壊し、すでに線路は撤去されている。本吉町下宿付近。
震災直後のようす。(「写真集」より)
気仙沼線。二度と見ることが出来ない鉄橋を走る気動車。
すっかり線路のなくなった築堤。(「陸前小泉」駅付近?
橋脚のみ残っている。
左奥が海。
中央奥にトンネル。
現在の鉄橋のようす。
遠く、小さな入り江(清水浜付近)に架けられた鉄橋も半分以上が崩壊。手前右は自動車の残骸の山、山。長浜街道内井田付近。
逃げ遅れ車の中に閉じ込められたまま、亡くなった方も多かったという。
南三陸町・防災対策庁舎。
すっかり何もなくなった街並みに残されている。このあたりの地名として、「塩入」「塩見」がある。もともと津波が襲いやすい地域。そのための庁舎でもあったのだが。
多くの方々が犠牲になった。献花台が置かれ、訪れる人も多い。本吉街道沿い。
すぐ脇にあった倒れたままの電柱。雑草が生い茂り、2年という年月を感じる。大震災前、周囲にはたくさんの家々が立ち並んでいた。
JR・古川駅構内。
色とりどり。
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気仙沼。大震災の爪痕。その1。

2013-02-18 23:12:08 | 歴史・痕跡
 東日本大震災。3月11日で丸2年。震災での犠牲者の3回忌法要も行われる。この2年、早いと感じるのか、長く感じるのか。やっと機会を得て、初めて知人の案内で気仙沼、南三陸町、仙台市閖上浜などを二日がかりで行って来た。
 東北新幹線で「古川」まで。途中、仙台付近は雪。そこから気仙沼まで車で約2時間30分。古川駅に降り立ったとき、すぐに感じたのは肌を刺す寒さ。車の表示・外気温マイナス3℃。あの日は、みぞれから雪に変わって寒さに、押し寄せてくるどす黒い大津波による海水が加わって・・・。映像では実感出来ない寒さを。
 同乗の方。仕事先で出くわしたとのこと。電気も水道も止まり、足下は冷たい海水に浸かる、凍えるような寒さの中、室内の燃やせる物はすべて燃やして、皆で寒さをしのいだ、まだまだ不幸中の幸いだった、と。そう出来なかった人びとのうちで、低体温などで亡くなった方も多かった、と。
 震災の直後、山形の知人の元に行ったときの話でも、電気が止まり、こたつ、ファンヒーターなどの暖房器具が使用できない、幸い物置に昔ながらの古いストーブがあったので助かった、ないところは大変だった、と。それを思い出す。電化製品どっぷりの生活、都会でも同様になるはず。
 内陸部をしばらく東に向かい、それから北上。ふと海が見えはじめて、「海が見えますね」とつぶやくと、びっしり道の向こうは建物があってまったく海は見ることが出来なかった、と。言われてみると、すっかり視野が開けたあたりは、雑草がちらほらある空地だらけ。不明を恥じる。
 お寺に立ち寄ることにしたが、震災後、街道沿いから左に曲がって上っていく、その角が分からくなり、道に迷ったこともあった、と。目印の建物がすっかり津波で流され、跡形もなくなっていたので・・・。今、土台も片付けられ、更地のまま。そこはお店をやっていたが、一家3人とも皆、犠牲になった、と。
 お寺はその家の裏手、ちょっとした高台にある。どうして裏手の方に逃げなかったのかな? 津波の情報が正確に伝わっていない、電気が止まってラジオを聞けず、携帯も電池切れ、そういう方が多かった。それに二日前にもあった大きい揺れの時、津波の予報よりも低かった、だから今度もたいしたことがない、と。結果、その付近はすべて全滅! 死者・行方不明者も、大勢。かえって東京などの方がTV情報が的確だった、現地はまったくの無情報状態だった、と。
 そういえば、福島原発事故でも同じような状況が。的確な情報も伝わらないまま、高濃度の放射能汚染に晒された・・・。
お寺のある高台から。すっかり更地に。直後の映像、写真ではびっしり建物、船が流され、散乱していた場所。気仙沼線「松岩駅」西方。線路も完全に消失している。
右奥の崖の中腹まで津波が押し寄せた。
左奥遠くが、気仙沼湾。内陸の奥まで遡上してきたことが知れる。
お寺のご住職からいただいた当時の記録写真集。
震災直後の松岩地区(「写真集」より)。
気仙沼港。衝撃で曲がったままの鉄柱。遊覧船の船着き場付近。
(「写真集」より)
魚市場。その当時のまま、衝撃の大きさを物語る。
まだまだ手つかずの状態。
魚市場のようす。
土台のコンクリートを残すのみ。
仮設の建物がちらほらあるだけ。我が家のの近所でこうした土台があると、いよいよここに家が建つ。ここが玄関で、このあたりが風呂場か、などと夢がある。しかし、ここではそうした生活の跡しか残っていない。この落差・衝撃は大きい。

大きな施設があったのだろう、更地になっていた。
頑丈な汐留め用の扉が根こそぎ奪われ、支柱が曲がったまま。

注:冒頭の写真。奥に見えるのが「大島」。港から船で30分かかるとのこと。ここの出身の方とも話を聞く機会があった。

 
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「草迷宮」(古きよき映画シリーズその24)

2013-02-15 23:42:25 | 素晴らしき映画
 亡き寺山修司の監督作品。「演劇実験室・天井桟敷」の雰囲気が懐かしく、異才の作品を再び。泉鏡花の「草迷宮」が原作。

《あらすじ》
 明は、死んだ母親の口ずさんでいた手毬唄の歌詞を知りたくて旅をしている。彼は校長や僧を訪ねるが、満足な答えを得ることが出来ない。手毬歌と関わって想い出すのは死んだ母親との生活。
 紅い帯に導かれるように裏の土蔵に近づいた明。そこには、千代女という淫乱な狂女がいて、少年の明を誘惑する。

母に知られ、母親に木に縛られてひどく叱られ、母は、二度と近づかないよう手毬歌の呪文を体中に書く。

 ある日、明は美しい手毬少女の後を追いかけているうちに、たくさんの妖怪が棲みつく屋敷に入り込んでしまう。大小の手毬が飛びかう中、妖怪達の挑発、格闘、・・・。

生首だけの母を前にした女相撲の土俵入り。
 いつか対岸にいる母親(幻想)に近づこうとして川でおぼれかけた少年明の葬いの場面に変わるが、それは、夢だった。

しかし、どこまでが夢でどこまでが過去で、どこが現在なのか(あるいは未来なのか)判然としないまま。
 こうしてまた、明は手毬歌の歌詞を探し求める旅を続けざるをえない。それは今や生死すらはっきりしない美しく妖艶な母の姿を求める旅でもあるのか。

 夢か現かの境を行き交う明。三役を演じる伊丹十三がおもしろい。

 1979年、フランスのプロデューサー、ピエール・ブロンベルジュが制作したオムニバス映画「プライベート・コレクション 」中の一編として2つのエピソード作品と共にパリ市内約30の映画館で上映された。日本では寺山修司が亡くなった1983(昭和58)年年に、寺山修司追悼特集として公開された。

《スタッフ》
企画・制作:ピエール・ブロンベルジュ
原作:泉鏡花「草迷宮」より
脚本:寺山修司、岸田理生
監督:寺山修司
撮影:鈴木達夫
音楽:J・A・シーザー
美術:山田勇男
協力:演劇実験室・天井桟敷、劇団ひまわり、漆原辰雄、植村良己

《キャスト》
三上博史 … 明(少年時代)
若松武 … 明(青年時代)
新高恵子 … 母親
中筋康美 … 千代女
福家美峰 … 美登利
伊丹十三 … 老人 / 僧 / 校長 (三役)

 海岸の砂丘、川の流れ、古い屋敷、土蔵、・・・、ありふれた風景の中に潜む(誘う)迷宮の存在、映像的なおもしろさがあります。妖怪屋敷の場面は、天井桟敷の舞台を彷彿とさせ、テント小屋で何度も観た、あのおどろおどろしさ、不思議な魅力が再び。天井桟敷が懐かしい。
 出演者もそれぞれ、懐かしい。特に音楽を担当したJ・A・シーザーさん。「演劇実験室・天井桟敷」に入団して、音楽と演出を担当。1983年には、自ら「演劇実験室◎万有引力」を結成。そこでの芝居を何度か観たことがあります。
 
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反省だけなら猿にもできる。「反省」という言葉すらない面々。

2013-02-13 00:08:52 | つぶやき
海江田氏、選挙で小沢氏の「お力添え」要請へ(読売新聞) - goo ニュース
 ホントウに懲りない方々。民主党撃沈の因になっても「全く反省の色がない」小沢さんに媚びを売ってどうする? 泣き虫・海江田さんも、衆院大敗北の反省の色、全くなし。岩手だけの問題ではないでしょう。他にも悪影響を与え「民主党存在そのものの存続危うし」という危機感に裏付けられた洞察力もこれぽっちもなし。
 「反省猿」
 調教師(猿回し)の太郎さんがニホンザルの次郎に仕込んで演技させていたお笑い路線の一芸が「反省」。
さんざん悪さをしでかした次郎が、その後で太郎の立てた膝に(太郎さんが言う「反省!」の掛け声と同時に)手を付いて首をうなだれてみせる、といったもので、CMにも出演、90年代初めにブームとなりました。

 
 この方針によって、いよいよ参院選をもって民主党は消滅でしょう。あの熱狂的なブームは何だったのでしょうか?

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「スイミングプール」(古きよき映画シリーズその23)

2013-02-12 20:50:46 | 素晴らしき映画
《あらすじ》
 新作の執筆に行き詰まっていた中年の女性推理作家サラは、出版社の社長ジョンが所有する南フランスにある別荘を紹介され、出かけることに。庭先のプールの覆いをめくると、枯れ葉が浮き汚れている。

 新天地で気分も一新し、パソコンで執筆を始めたある夜、ジョンの娘と名乗る「ジュリー」がやって来る。ジュリーは枯葉の浮くプールを全裸で泳ぐ。
 昼食に出かけたサラは、別荘へ戻り自室で昼寝をする。ジュリーは、白いワンピースの水着で泳ぎ、プールサイドでまどろんでいると、サラが昼食に通うカフェのウェイターであるフランクが立っていた。

 サラは、次々と男を誘い込み、奔放な振舞いをするジュリーに惑わされながらも、次第に関心を持ち始める。ジュリーの日記を盗み読み、プールサイドに落ちていたジュリーの下着を拾い、自室にしまい込み、執筆を進める。
 新たにジュリーが連れてきた男は、フランク。3人で踊るが、そのうちサラはフランクと濃厚なダンスを始める。それに嫉妬するジュリー。ジュリーはフランクと真夜中のプールで全裸で戯れる。ベランダ越しに目撃したサラは、プールに石を投げ込む。
 翌日、プールは覆われている。巻き取ると、ジュリーが使っているビーチチェアが投げ込まれていた。
 サラは、ジュリーがフランクを殺害したことを知り、二人で死体を庭に埋め、衣類は焼く。ジュリーは、サラの作品「ジュリー」も証拠になるから焼いて欲しいと頼む。
 その翌日、別荘の管理人マルセルに庭の異変に気づかれたサラは、自ら全裸の姿をさらしてマルセルを自室に誘う。
 ジュリーは、サントロペのレストランで働くと告げて別荘を出る。燃やされたはずの母の小説コピーが、サラ宛に残されていた。
・・・。

《監督》
フランソワ・オゾン
《脚本》
フランソワ・オゾン
エマニュエル・ベルンエイム
《キャスト》
シャーロット・ランプリング - サラ
リュディヴィーヌ・サニエ - ジュリー
チャールズ・ダンス - ジョン
ジャン=マリー・ラムール - フランク
マルク・ファヨール - マルセル

 この作品。最後まで見終わると、ミステリアスな印象が残る。誰の『現実』を描いているのか。展開の上で、どこまでが現実で、どこが空想場面なのか。例えば、プールサイドでまどろんでいる白い水着のジュリーの横に立つフランク、二人がそれぞれ自慰する場面。
 ジュリーの正体も? サラの空想上の産物なのか、とも(最後のシーンで登場するジュリーはまるで他人)。
 映画の中で、スイミング・プールは、最初、シートで覆われ落ち葉やゴミだらけのままだったのがさーっと取り払われると、きれいな水面が現れるシーン。あるいは、サラの部屋の十字架。取り払い戸棚にしまったはずのものが駆けられている。・・・
 裸のシーンやセックスシーンが多いのに惑わされ、表面的にはそれほど複雑でない(ようにみえる)ストーリーを追っているうち、台詞や登場人物を見逃すとちょっとしたどんでん返しにあい、あれ! という風になってしまう。その意味では、目も心も(頭も)楽しませてくれる作品です。

シャーロット・ランプリング。存在感のある演技を披露。
リュディヴィーヌ・サニエ。魅力的で、観た映画(DVD)では、「La petite Lili」に出演している。
 この映画は、チェーホフの代表的戯曲「かもめ」になぞらえて制作された作品。内容的には、それほどいい出来ではなかったが。
ただ明るい太陽と島々の風景がすばらしかった。女優になることに憧れる女主人公(サニエ)が中年の映画監督に誘われ、都会に出て行こうとする場面。
「かもめ」の台詞を語る場面。映画監督を目指す恋人が撮ったビデオに出演したときのシーン。この上映会でもめ事が起こり、話が展開していく。「私はかもめ、いいえ、私は女優」という名台詞は、残念ながら出てこなかった。
 
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読書「霊の巻―思想の身体」(鎌田東二編)春秋社

2013-02-11 18:03:10 | 読書無限
 このシリーズ。「愛」「戒」「霊」「死」「徳」「狂」「悪」「性」「声」の全9巻より成り立っています。 編著者の3名(島薗進、黒住真、鎌田東二)は、宗教学者、スピリチュアル、歴史などに造詣の深い方々。島薗さんは「宗教学、近代日本宗教史、死生学など勉強してます。最近は仏教にも関心あり」と自らツイッターに。鎌田さんは、実践的な宗教体験を通して霊的世界を体感している、とか。
 かくして、登場する方々は、いずれも書斎のこもって云々という方々ではないのが、魅力的(ある意味、うさんくささも含めて)です。
 個人的には興味深い話題が取り上げられています。この巻では、島田裕巳「仏教における霊の問題」、田中貴子「泉鏡花『草迷宮』と『稲生物怪録』」、川村邦光「戦死者の亡霊と帝国主義」巻末対談では、中沢新一が登場。
 島田さん。生者の悟り(解脱)の問題意識から出発したインド仏教が、日本では死んでから「ホトケ」に成る、という仏教に生まれ変わった(変質していった)のか、先祖の「霊」への現代的な関わり、特に新宗教の立場、葬儀形態の変化などへの問題提起。
 川村さん。靖国に「神」「英霊」として祀られる戦死者。靖国神社での儀式を深い感動を持って受け止め、さらには戦場に赴く若き兵士たちに対して、英霊となってくることを歌にも詠み鼓舞していた民俗学者、歌人・折口信夫が、硫黄島での養子の戦死の報をうけて、大きく変化していく、その心の変容・・・。
 中沢さんと鎌田さんの対談では、岡本太郎の「太陽の塔」と「明日の神話」という作品を取り上げつつ、生者、死者とが混沌として受容されていた縄文的世界観の現代的意義などが熱く語られていきます。

 学術書(?)として異色のシリーズ。時にはあれこれ批判されがちな(一癖も二癖もある)方々の登場。その組み合わせが、実におもしろいものでもありました。
 
 
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読書「あの頃の空」(佐江衆一)講談社

2013-02-08 21:16:12 | 読書無限
 この本を手に取り、作者の名前を見て、30年、あるいは40年以上前、どこの出版社かも忘れましたが「新進作家叢書」(たぶん黒が基調の装丁だったような・・・)とか言ったシリーズものが刊行されたとき、黒井千次さんとかと並んで一冊あった、その記憶が鮮やかに蘇ってきました。もうすでに家の本棚にはなく、その後、この方の小説は読んだ記憶がありませんでした。
 後書きにもあるように、すでに齢78歳を超えたという。息の長い小説家(しかも短編小説家)であることに気づかされました。一つひとつの「短編」の内容もさることながら、「短編集」全体を通して、冷静、沈着な眼差しを感じる作品。
 久々に読んで、それぞれのお話に身につまされる思いで、どことなく胸に響く感じがしました。特に最後の一編「花の下にて」は、西行法師の歌をヒントに、先立った夫や息子の元に、これから赴こうとする老婦の思い。他人様に(かわいい孫達も含め)老醜のぶざまな様を見せずに死に行く決意と実行を淡々と描く。作者自らの理想とする死に様(実は叶わない)をもイメージしているのでしょうか。
 このように、取り上がられた作品は、喜寿を超えた作者の来し方、行く末(これはもう厳然として限りがある)を市井の人びとの生き様になぞらえて描いています。
 「リボン仲間」は、地名や駅名、施設名など固有名詞をあえて用いてリアリティを持たせていながら、すてきな物語になっています。内容は想像の世界でしかないですが、こういうのもありかな、という風に楽しめました。
 「公園」。戦前、戦中、戦後、そして現代とめまぐるしく変貌してきた「東京下町」が舞台。作者の心象スケッチという雰囲気がよくでています。ベーゴマや三角ベースの野球など懐かしいことばが出てきます。東京大空襲で焼け残ったコンクリートの建物のことなど、実に身近なことごとに改めて幼少期の頃を思い出しました。
 その他の作品も、読者である我が身にもあてはまりそうなお話ばかり。ついつい共感してしまう己に、何となく歯がゆい思いもするという複雑な心境のまま、読み進みました。
 あの男の顔、あの幼なじみの女性の顔、つれあいや子ども達の顔などが登場人物に重なって見えてきました。
 「あの頃の空」は、多くの老境に達した人びとにとってそれぞれどんな色の、雲行きの空だったのでしょうか。もちろん、「あの頃」も千差万別ですが。 
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読書「スポーツの世界は学歴社会」(橘木俊詔・齋藤隆志)PHP新書

2013-02-07 22:19:44 | 読書無限
 ちょっとおもしろい本。なるほど。実力がものをいう世界、と思っていたスポーツ界が実は学歴、もっといえば学閥社会であった! という内容。長く選手を続けられ、引退後も指導者になるのにも、特定の大学(例えば、早稲田)が有利になっているなど、「計量経済学」の手法でのデータ分析。
 「プレジデント」などの雑誌・週刊誌などで特集する、どの大学出身者に社長が多いか、どの大学が有名企業に就職できるか・・・、という同じような内容。「一覧表」など、よく見かける大学名が上位順に掲載されている。
 サッカー、ラグビー、駅伝、相撲の5スポーツを取り上げて、「スポーツ=実力」との幻想を数字の上で、打ち砕く。
 相撲については、中卒から大卒にシフトしていることを指摘するが、外国人力士の存在という分析はなく、本書の狙いに反する故かちょっと物足りない(まだまだ実力が物言う世界?)。
 特に、興味を持ったのが、「ピーターの法則」を引用した内容。

「ピーターの法則」
1.能力主義の階層社会に於いて、人間は能力の極限まで出世する。すると有能な平(ひら)構成員も無能な中間管理職になる。
2.時が経つに連れて人間は悉く出世していく。無能な平構成員はそのまま平構成員の地位に落ち着き、有能な平構成員は無能な中間管理職の 地位に落ち着く。その結果、各階層は無能な人間で埋め尽くされる。
3.その組織の仕事は、まだ出世の余地のある、無能レベルに達していない人間によって遂行される。
(「Wikipedia」による)
 
 なるほど! 得心が行った!
 今回の女子柔道界の騒動。学閥があるせいのか、派閥のせいなのか。柔道界にもはびこる「階層社会」。覚えめでたく行き着いて監督(指導者)になったために、指導するのに(暴)力でしか押さえ込めなかった。
 「窮鼠猫をかむ」。「無能」な管理・経営能力の乏しい指導部・上層部はおそらく鼠ごときが何を抜かすか程度に考えていたのだろうか? あるいは、のちのちにまで影響するぞ、と脅かしたのか・・・。あるいは派閥間の暗闘があるのか(そうなると、スポーツ界も、世間によくある派閥争いとたいして変わりがない)。
 こうして、スポーツの祭典・オリンピックの感動を再び! と美辞麗句を並び立てても、すでにどろどろした闇の中の世界と化した(「オリンピック」ならぬ「檻ンピック」に)。さらに、体罰や上下関係のゆがみが出てきたのでは、と思う。
 この本の中でも、
 
 「ここで興味深いのは、桑田が盛んに『野球界では、失敗したら選手を先輩やコーチ、監督が殴ったり、いじめたりすることがある』と語り、まちがった野球道を批判していることだ。」(P252)
 
と。
 真の指導者養成。プロ野球を問わず、柔道などでも指導者「ライセンス」制の導入が求められてくる。すでにサッカーやバレー、バスケットなどでは、以前から、きちんとした「指導者養成」システムがある。学閥・派閥のしがらみを超える取り組みがスポーツ界にも必要なのではないだろうか。それでも、学閥はなくならない! とこの書では嘆いてもいるが。


 
 
コメント (1)
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