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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

新聞・マスコミの信頼性も地に墜ちた感じ。

2012-10-31 23:13:18 | つぶやき
美代子被告の別人の顔写真、新聞・TVに掲載 尼崎変死(朝日新聞) - goo ニュース
 マスコミ。「右ならえ」、横並びで記事化する。そういう傾向がこのところひどすぎます。「新聞」をもとにした学校現場での教育活動を積極的に勧めている新聞各社。これでは信頼を失うものでしかない。
 「『原発とメディア 新聞ジャーナリズムの2度目の敗北』(上丸洋一)朝日新聞出版」(例の「週刊朝日」の編集も行っている)という書を読んでいますが、その書では「満州国」(日中戦争)と「原子力」の報道のあり方を「ジャーナリズムの敗北」として取り上げています。お上の主張通り、それが国民の意向でもあると追従記事を書き(横並びで)、積極的に支えていった「歴史」。
 今回。国民の関心をもとにした報道合戦。警察当局からの積極的な情報提供もあるとは思いますが、特ダネを求める余り、裏付けの不明確なまま記事に。それを「共同通信」が配信し、他のマスコミが安易に利用して流す。ついこの間あったばかりの事態(あのときの「共犯者」は「時事通信」だったか)が、再び「讀賣新聞」を発端にして行われてしまいました。TV、新聞等のマスコミ人の劣化が甚だしい感じがします。
 そういえば、イシハラさんの都庁を去るときのバックミュージックは、彼らしい「ロッキーのテーマ」(不撓不屈の闘志あふれる)が流れていたと思いますが、毎日新聞では「マイウェー」だったとか。人生の終点、墓場に行くときのメロディーを流していたとは意外でした。
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河原道。前堰川跡緑道。

2012-10-30 21:20:23 | 河川痕跡
 千葉街道・江戸川総合文化センターの反対側の小道が「河原道」。「元佐倉道(千葉街道)」から分岐して南東・篠崎の「河原の渡し」まで進む道。江戸川の対岸が河原村。今でもくねくねと曲がった道が続きます。途中、菅原橋を経由して流れてくる「中井堀」とそこから分岐した「前堰川」を越します。しばらく進むと、「環七」。その先も「新中川」まで続きます。その先の道、現在では分からなくなってしまいました。
明治13年作成の地図。中央の元佐倉道から分岐しているのが「河原道」。途中で横切るのは、曲がった細い川が「前堰川」、直線の水路が「中井堀」。
道の入り口付近に「道標」あり。
町工場の間を進みます。
正面の狭く曲がった道。工場の間を抜けてくるのが、「前堰川」緑道。
仲居堀通り。
?? 帽子のモニュメント。茂みの中から頭だけ。
道の脇にある園芸販売所「喜楽園」。かなり広い土地で野菜も扱っています。昔ながらの直売のお店。
住宅街に入ってもくねくねと曲がった道。
西から続く道。いくつにも分かれていきます。現在は青い部分が「新中川」。「新中川」の手前、中央の二股のところに「道標」あり。東に見える水路は「東井堀」。
新中川。「大杉橋」。
対岸の方の道は、宅地開発等のため、不明に。


 ついでに途中でぶつかった「前堰川」跡緑道の探索。
入り口には特に表示がない。ここに「江戸川区緑道 前堰川」とあった。
分岐して南西に進む。
途中で大きな工場の間を抜けていく。
工場の騒音と匂いと・・・、活気がある道筋。かつてはどぶ川だった?
ささやかなモニュメント「わらじ」。
「俵」と「ふるい」。なかなか味のある小作品群。
南方向へ広い道が続きます。
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今さら、という感じもしますが。マクルーハン。

2012-10-28 22:03:22 | つぶやき
 私自身は、「基本的にニュースしか見ない(それもNHK)。 テレビに費やしていた時間分、ネットにシフトした」と。テレビ以外のメディアにより時間を割くようになった派ですが・・・。
 ふと、ずいぶん前に一世を風靡したハーバート・マーシャル・マクルーハン(1911年7月21日 - 1980年12月31日)を思い浮かべました。メディアに関する理論で知られた人。今ほどパソコン通信が日常化していなく、さらにTVもカラーではなかった時代に、「メディアはメッセージである」という主張を展開しました。

•強化(Enhance):それは何を強化し、強調するのか?
•回復(Retrieve):それはかつて廃れてしまった何を回復するのか?
•衰退(Obsolesce):それは何を廃れさせ、何に取って代わるのか?
•反転(Reverse):それは極限まで推し進められたとき、何を生み出し、何に転じるのか?

 という視点でメディア(媒体)を分析評価、新聞は廃れ、TVが主要なメディアになっていくと予言した、という風に読んだことがありました。まだ大学生頃の(60年代後半)の記憶です。
 今のTVへの評価、その後のメディア発達の現状を彼ならどう捉えているでしょうか。ちょっと図書館に探しに行こうかと・・・。
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GEIDAI TAITO SUMiDA Sightseeing Art Project

2012-10-27 16:25:01 | 隅田川

 「GTS観光アートプロジェクト2012」が10月10日から11月11日まで開催されています。そこで、野外作品を駆け足でぐるっと回ってきました。スカイツリー・ビューポイント作品だそうです。
  墨田区区役所前ふれあい広場。「スカルプチャーツリー」。スカイツリーの形(下部)。木彫りの十二支が取り付けられています。
中からのスカイツリー。窓越しの感覚で見るかたち。
飛行船がオブジェの上を通過。
スカイツリーを双眼鏡で。
GTSBench。墨田区役所前ふれあい広場にて。
北十間川に架かる「枕橋」際。「ゆるぎツリー」。スカイツリーがさざ波を浮かべる水面に映るイメージ。
左が東武線の高架。
隅田公園(台東区・吾妻橋西詰そば)。「グリーンプラネット」。お椀型の作品。穴からのぞくと、花壇の向こうに隅田川対岸の景色。
秋の陽光が漏れてきました。
隅田公園(台東区・言問橋西詰南)。「LOOK」。ベンチから隅田川をはさんでスカイツリーが目の前に。
ベンチの間から。
隅田公園(台東区・言問橋西詰北)。「スカイネスト(空の巣)」。第一展望台の一部をトレースした三日月型の鳥の巣。
中には大小様々な鳥たち。その向こうにスカイツリー。
 隅田公園散策のついでに。
「山の宿(しゅく)の渡し」跡の碑。
「山の宿の渡し」
 吾妻橋の上流、東武鉄道・隅田川橋梁の付近にあった渡し。渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれ、その町名をとって命名されたようです。また、「花川戸の渡し」と称されたり、東岸(対岸)の船着場が北十間川・枕橋のたもとにあったので「枕橋の渡し」とも。渡船創設年代は不明ですが、江戸中期には運行され、浅草寺への参拝客や墨堤の花見客などで賑わいました。
 
 江戸時代。江戸市中の防衛上から、当初架けられた橋は日光街道・「千住大橋」。そのため、隅田川の渡しはたくさんありました。以下、ご紹介。

・汐入の渡し
 現在の千住汐入大橋付近にあった。1890年(明治23年)から1966年(昭和41年)まで汐入(現在の荒川区南千住八丁目)と千住曙町の鐘淵紡績会社を結び、女工たちの通勤用として運行されていた。それ以前からも渡しはあった、とのことらしい。隅田川で最後まで運行されていた渡し。

・水神の渡し
 現在の水神大橋の100mほど下流にあった真崎稲荷と隅田川神社を結んでいた渡し。
・橋場の渡し
 「白鬚の渡し」とも称される。記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い渡し。現在の白鬚橋付近にあった。律令時代より制定があり、承和2年(835年)の太政官符に「武蔵国と下総国の国境の住田河(隅田川)には現在4艘の渡し舟がある。岸は崖で広く、橋が造れないので2艘から増船した」と書かれたものが残っており、この「住田の渡し」とはこの渡しと想定されている。
 奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。
 橋場はその歴史的な土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並んでいた。そのため有名な料亭なども多く華族や文人などが出入りしていた。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。
・今戸の渡し
 「寺島の渡し」とも称される。現在の桜橋の上流付近にあった渡し。橋場に対して、新しく作られたということで「今」戸と呼ばれたという。
・竹屋の渡し
 「向島の渡し」とも称される。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来する。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島・三囲(みめぐり)神社を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 - )頃には運行されており、1933年(昭和8年)の言問橋架橋前後に廃された。
・竹町(たけちょう)の渡し
 「駒形の渡し」とも称される。現在の吾妻橋と駒形橋のほぼ中間の場所にあった渡しで、江戸期に吾妻橋が架橋されたことによって利用者は減ったものの、1876年(明治9年)まで運行されていた記録が残っている。
・御厩(おうまや)の渡し
 「御厩河岸の渡し」とも称され、現在の厩橋付近にあった。川岸に江戸幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側に付随施設の厩があったのでこの名がついた。元禄3年(1690年)に渡しとして定められ、渡し船8艘、船頭14人、番人が4人がいたという記録が残る。渡賃は1人2文で、武士は無料。1874年(明治7年)の厩橋架橋に伴い廃された。
 
 この他にも、上流・下流にはたくさんの「渡し」が存在していました。
 閑話休題。

花川戸公園。「石の舟」。台東区立福井中学校(廃校)の礎石を基盤としてその上に大きな玉石を設置。その石にブロンズの人や動物の頭部(顔)が埋め込まれています。
「石の舟」の向こうにスカイツリー。
花川戸公園。アート&サインベンチ「ササエル」のうちの一つ。
源森橋。「ササエル」のもう一つ。夜景。
小梅児童遊園。「おぼろけ」。スカイツリーの足下の風景をぼやかすことでスカイツリーを浮かび上がる、というコンセプト。
業平橋下・大横川親水公園。「Reflectscape」。スカイツリーの方向を見上げるスタイルの反対バージョン。背にして自分とスカイツリーを一体化させる企み。ここはなかなかの撮影ポイントになっています。


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橋下さんに決意を促し。民主党も腹を決めて。

2012-10-26 10:04:33 | つぶやき
石原都知事辞職、新党結成へ 第三極主導、最大の賭け(産経新聞) - goo ニュース
 これで、橋下さんにも大阪市長を辞任して選挙に出るよう、促したのではないか。二枚看板で一気に国家制度の「維新」をはかるつもり。原発や消費税などはまさに「小異」でしかない。「大義名分」・錦の御旗で選挙に打って出て、多数派を狙う。
 民主党。二人の間で選挙態勢が整わないうちに、都知事選との同日選挙にして、解散、総選挙にシフトするほうがいいと思う(できたら野田さんを代えて)、というのがど素人の意見です。(都知事選、不戦敗になった上に)衆院選でもボロ負けするデメリットを少しでも減らすために。
 それにしても、イシハラさん、御年80歳。ご本人、気分の高揚に比べて、足下も目つきもおぼつかない感じ。何で俺なの、若い奴らはどうなっているんだ、という言葉には、若い者には任せておけない、というとてつもない自負(尊)心。かえって危ない、危ない。
 どこの国の指導者もせいぜい60代まで。いったい日本はどうなっているんだ、と。
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本郷用水親水緑道。江戸川スーパー堤防。

2012-10-25 20:09:55 | 河川痕跡
 旧江戸川から鹿骨用水まで約1.6㎞。徒歩で20分ほど。戦後つくられた農業用水路跡。広い道路、広い歩道。その間にゆったりとした空間で親水緑道があります。ただ、樹木があって緑が濃いのは江戸川堤近く。他は開放的な水路になっていて、水生の草花と泳ぐ鯉の姿が親水らしい雰囲気をつくっています。沿道のここかしこには、大きな鉢に花々が植えられて地元の環境つくりがうかがえます。「篠崎公園」から徒歩でぐるりと回りましたが、篠崎公園付近には、スーパー堤防建設反対ののぼりが目につきました。
 「親水緑道」を含む広い道路つくりも、それに関連した事業なのかどうかはわかりませんが、「税金の無駄遣い」というのぼりなど、莫大な税金を投入しての大事業。いつしか「コンクリートから人へ」というスローガンをかなぐり捨てて、「3・11大震災」復興という名目で、「防災」にかこつけた大型公共事業があちこちで始まっていくようです。
河川敷。緑の帯が取水口からの導入路。対岸は、市川市大洲。
土手から見下ろす。中央の緑地帯が「本郷親水緑道」。
幼稚園が近くにあって、賑やかな子供たちの声が。
土手の直下。
泳ぐ鯉の姿。勢いよく跳ねるのも。
「篠崎街道」と交わるところにある「案内板」。
「篠崎街道」。昔のままの道筋で曲がりくねっている。拡幅工事が始まっている。
広い舗道。
かつて用水だった頃のイメージを蘇らせるのか、勢いよく水が流れ出る工夫・装置がここかしこに。
水辺の草花。空を映す流れ。明るい感じがします。
篠崎公園を横切り、「柴又街道」と交差。
「鹿骨親水緑道」との合流付近。
田園地帯だった頃を彷彿とさせる大きな屋敷。
「篠崎公園」南側の空地。立て看板。
「スーパー堤防の事業計画」。今の堤防をただかさ上げするだけでなく、なだらかな土手を200㍍ほど造成して(堤防の高さの約30倍)その上に街並みをつくり、道路を造るという膨大な事業。
空地は、「はなの広場」となづけられ、コスモスがたくさん咲いている。この広場も事業が始まるまで。そのあとは大がかりな工事計画に含まれて、消滅?
「広場」に隣接する寺院にある「スーパー堤防反対」ののぼり。多くの家々に掲げられています。行く末ははたして。
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読書「日本文学盛衰史」(高橋源一郎)講談社

2012-10-24 23:51:43 | 読書無限
 今回のテーマは、「言文一致体」の創始とそれにかかわっての「自然主義文学」の栄枯盛衰史。作者お得意の時空を越えての文学散歩。
 日本の近代文学の夜明けは、二葉亭四迷から始まった、というのが定説。「言文一致」とは、日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと。ただし、ご承知の通り、話した通りそのままに文章として書くということではない。音声言語とそれに対応する文字言語をもとにする文章表現。
 明治時代に言文一致運動の実践によって、それまで用いられてきた文語文に代わって行われるようになった。まさに表現上革命的なことであった。これによって近代文学が成立したといえる。一つご紹介。

 余が言文一致の由來     二 葉 亭 四 迷
 言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來──も凄まじいが、つまり、文章が書けないから始まつたといふ一伍一什(いちぶしじゅう)の顚末(てんまつ)さ。
もう何年ばかりになるか知らん、餘程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京辯だ。即ち東京辯の作物が一つ出來た譯だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おつしや)る。
 自分は少し氣味が惡かつたが、いゝと云ふのを怒る譯にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、圓朝ばりであるから無論言文一致體にはなつてゐるが、茲にまだ問題がある。それは「私が……で厶います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行つたものかと云ふことだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の點もないではなかつたが、直して貰はうとまで思つてゐる先生の仰有る事ではあり、先づ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き初めた抑もである。
 暫くすると、山田美妙君の言文一致が發表された。見ると、「私は……です」の敬語調で、自分とは別派である。即ち自分は「だ」主義、山田君は「です」主義だ。後で聞いて見ると、山田君は始め敬語なしの「だ」調を試みて見たが、どうも旨く行かぬと云ふので「です」調に定めたといふ。自分は始め、「です」調でやらうかと思つて、遂に「だ」調にした。即ち行き方が全然反對であつたのだ。
 けれども、自分には元來文章の素養がないから、動(やゝ)もすれば俗になる、突拍子もねえことを云やあがる的になる。坪内先生は、も少し上品にしなくちやいけぬといふ。富さんは(其の頃『國民之友』に書いたことがあつたから)文章にした方がよいと云ふけれども、自分は兩先輩の説に不服であつた、と云ふのは、自分の規則が、國民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行儀作法といふ語は、もとは漢語であつたらうが、今は日本語だ、これはいい。併し擧止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗禮を受けてゐないから、これはいけない。磊落といふ語も、さつぱりしたといふ意味ならば、日本語だが、石が轉つてゐるといふ意味ならば日本語ではない。日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であつた。日本語でも、侍る的のものは已に一生涯の役目を終つたものであるから使はない。どこまでも今の言葉を使つて、自然の發達に任せ、やがて花の咲き、實の結ぶのを待つとする。支那文や和文を強ひてこね合せようとするのは無駄である、人間の私意でどうなるもんかといふ考であつたから、さあ馬鹿な苦しみをやつた。
 成語、熟語、凡て取らない。僅に參考にしたものは、式亭三馬の作中にある所謂深川言葉といふ奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑に落こちた凧ぢやあるめえし、乙うひつからんだことを云ひなさんな」とか、「井戸の釣瓶ぢやあるめえし、上げたり下げたりして貰ふめえぜえ」とか、「紙幟(のぼり)の鍾馗といふもめツけへした中揚底で折がわりい」とか、乃至は「腹は北山しぐれ」の、「何で有馬の人形筆」のといつた類で、いかにも下品であるが、併しポエチカルだ。俗語のは茲に存するのだと信じたので、これだけは多少便りにしたが、外には何にもない。尤も西洋の文法を取りこまうといふ氣はあつたのだが、それは言葉の使ひざまとは違ふ。
 當時、坪内先生は少し美文素を取り込めといはれたが、自分はそれが嫌ひであつた。否寧ろ美文素の入つて來るのを排斥しようと力めたといつた方が適切かも知れぬ。そして自分は、有り觸れた言葉をエラボレートしようとかゝつたのだが、併しこれは遂う遂う(とうとう)不成功に終つた。恐らく誰がやつても不成功に終るであらうと思ふ、中々困難だからね。自分はかうして詰らぬ無駄骨を折つたものだが……。
 思へばそれも或る時期以前のことだ。今かい、今はね、坪内先生の主義に降參して、和文にも漢文にも留學中だよ。

 日本語において、古典的な文体である文語は主に平安時代までには、完成。中世以降、次第に話し言葉との乖離が大きくなっていった。明治時代には、文学者の中から改革運動(言文一致運動)が起こった。坪内逍遥に刺激を受けた二葉亭四迷の『浮雲』などが言文一致体の小説のはじまりとして知られている。当時、四迷以外にも、多くの作家が言文一致の新文体を模索した。四迷の「だ」調に対して山田美妙の「です」調の試み。(最近、山田美妙の初期作品集が図書館にあったので、ぱらぱらとめくってみたら実に面白かった。今度はじっくりと読んでみたいと思う。)
 一方でまだ紅葉、露伴などによって文語体の作品も多く書かれ、また一葉は古文の呼吸をつかった雅文体で「にごりえ」「たけくらべ」などの作品を書いた。鴎外も、「舞姫」や「即興詩人」は文語体。さらに評論の分野では、透谷や秋水は、漢文書き下しの文体を使って論文を書いた。
 というような文学史的知識をベースにして読むと、けっこうオモシロイ小説になっている。盛「衰」というか「興隆」だと思うが、今、捉え直すと(今の文学の衰退、風潮・文学の果たす役割・・・という視点から)、わずか100年でかえって「文学」よいう表現形式が衰退したきっかけになった、とも言える。そこが作者・タカハシさんの狙いでしょう。
 ところどころ、漱石の作品「こころ」の深読み・「K」とはいったい何者か? 修善寺の漱石になぞらえた「原宿の大患」などはオモシロイ。田山花袋の「蒲団」のパロディ-になると、ちょっとついて行けなくなる読者も。やり過ぎ・遊びすぎ。
 柴田翔の「されど我らが日々」、堀田善衛の「若い詩人たちの肖像」、さらにゴーギャンの「我々はどこから来たのか・・・」などを章立てにして進めていくあたりは、「快作」「怪作」? 帰去来の辞まで登場させる。
 漱石にあやかった章が多い中、鴎外には恐れをなしたと見えて、「歴史其儘と歴史離れ」と。
 最後は、それぞれの人々の終焉を描いていく・・・。
 表現上の革命が名実ともに思想と一致して「小説」「文学」として結実していったかどうか。個人的な内面の発露と言う表現形式が同時代的な社会、あるいは将来の社会・人間社会と切り結ぶことへの不徹底さが、今日の文学の貧困さ(漱石を超えられない)の遠因になっているのではないか、というのが作者の思いの根底にあるような・・・(勝手な読みですが)。
 登場する文学者たち。尾崎紅葉、二葉亭四迷、山田美妙、川上眉山、北村透谷、樋口一葉、国木田独歩、石川啄木、夏目漱石、森鴎外、田山花袋、島藤村。・・・。
 〈昭和18年8月、島崎藤村死去。〉
 
 透谷が亡くなって四十九年が過ぎ去っていた。
 島崎藤村、本名春樹、享年七十二。日本近代文学の詩と小説の両方をその中央で駆け抜け、その同志たちすべてを見送った末の死であった。
 この藤村の最期を伝える記事に続き「真劍な討議 文學者大會、けふの日程」という記事が見える。・・・
 「共榮圏の決戰文化を確立して敵米英撃滅を期する『第二回大東亞文學者大會』けふ第二日は、いよいよ議題に入り・・・この日開會劈頭
 『島崎藤村氏追悼竝びに”藤村賞”設定につき張我軍氏から提案が行われる豫定である。」(P593~594)
 
 ぼくは瞑目する。
 すると、微かに聞こえてくる、滝壺の向こうに落ちていった一千億人の悲鳴。耳を澄ませば、その中に、確かに未来のぼくの悲鳴も混じって いるのだ。(P596)     

 
 文学に関わり続けることによって(身を置くことによって)、文学の有り様・所為を、我が身を含めて問い続けようとする作者の熱い思いが伝わってくる末文。
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野田退陣。総選挙。ぜひ。

2012-10-23 20:59:09 | つぶやき
野党、首相の任命責任を追及 法相辞任、仙谷氏も批判(朝日新聞) - goo ニュース
 こうなるのは、「センコク承知」っていうけれど、仙石さんに言われたくない。
 ここまできて支持率一ケタになりそうな気配。野田さんもいさぎよく辞めて、次の首相のもとで、総選挙。民主党は負けるけれど、橋下さんが「朝日」とケンカしているうち、まだまだ選挙態勢ができていないのは、公明・学会以外は、どこも同じ。
 ずるずる伸ばして「衆参同時」になったら、衆議院も参議院も自・公・維新・その他で過半数になって「安部」ライトウィング内閣のやりたい放題に。こっちの方がイヤだ!
 今の参議院、「自・公・維」では過半数にならない。ここは、国民のためにも総辞職してさっさと選挙準備。代表下ろしを民主党、必死にやるしかない、という民の声は届かないのでしょうか、野田さ~ん。
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読書「その暁のぬるさ」(鹿島田真希)集英社

2012-10-21 21:24:12 | 読書無限
 この方の作品は、三冊目。以前二冊読んでいます。


・「黄金の猿」(鹿島田真希)文藝春秋社(2009-09-14投稿)
 このところ、純文学系では、女性作家が元気なようです。日本文芸家協会が編纂した『2009文学』でも、掲載された短編小説の3分の2が女性作家でした。
 最近読んだ、鹿島田さんも元気な作家の一人です。「黄金の猿」三部作を中心に何編かまとめられています。
 私小説的な要素を感じさせる中で、肉体と精神の微妙なずれの中で感じる心身の疎外感。その中で、マグマのように蓄えられた性的な怨念、こだわり、諦観」みたいなものが、押さえきれずににじみ出てくる、というような印象を受けました。
 特に性的なコンプレックス(本来の用い方での)が、表象化されているところに、とても面白く、一気に読み終えました。
 1976年生まれ。略歴に「17歳、正教会信徒となる」とあるように、宗教体験に基づく作風が感じられます。


・「ゼロの王国」(鹿島田真希)講談社(2009-09-22投稿)
 二冊目の紹介。ちょっと奇妙な恋愛「譚」というべきか。彼女の信仰体験がベースにあって展開される、男女の風変わりな恋の物語。
 今までの宗教小説(例えば遠藤周作、三浦綾子、高橋たか子・・・)などとは、趣がとても異なる。自らの信仰告白にも似ていた作家、小説の書き手に対する批判的な視点がある。信仰への確信やその反対の懐疑が、個人的なものではなくて、他の人々との共同(生活)において確立していく、というような。
 教会での共同作業・奉仕活動などを通じて交流を持つ男女の込み入った関わり、それはまた、恋愛、愛情、結婚といったものがいかに希薄なものでしかないかを、実に屈折した文体で描いている。あくまでも、思春期の頃、教会での信仰体験を持ち、おそらくは、それを今は客観的に見つめている人間・女性の目からなのだが。
 主人公・吉田青年の奇妙な話はまだ続くらしい。そして、ワインなどやたらとお酒をけっこうたしなむ、登場人物のそれぞれの物語。
 
 
 さて、芥川賞を取った作品ではなくて、今回は、表題の作品集。
 最初に気づいたのが、文体。特に敬語の用い方が独特。太宰治が「斜陽」で用いたような慣れない感じの使われ方に(わざとらしい)。登場人物も保育園の同僚の女性たちは「和紙の方」とか「女(たち)」つき合っていた男に「あの人」というように表現(「和紙の方」提喩としておもしろいネーミングだが)。場面でも、「「源氏物語」の「雨の夜の品定め」的シーンも。男がつき合っていた(気になった)女をつれづれのままに語り出す・・・。女たちが男どもを品定めする、というパロディやら「月」を眺めるシーンとか作品中にも「古典作品」への慣れ親しみが随所に出ている。全体の雰囲気、特に五感での味わい方がどことなくかそけく、つかみどころのないモノローグ調。他者との関連の中で受け止める愛憎、好悪などの感覚をコントロールできない自分の世界を持っている主人公。
 「月」(満月であれ、三日月であれ)の光の濃淡が随所にちりばめられている。とりわけ暁どきのつかみ所(自らの心の持ちよう)のなさを表象していた。
 もう一つの「酔いどれ四季」。おいしいお酒とおいしい食事。原稿にからんだ、編集者の男との会話、食事の楽しみ。特に酒にうつつを抜かす二人。そういえば、「その暁の・・・」の中に「久保田の千寿」という、色も味も香りもいいお酒の銘柄が一カ所出てきた。よほどの酒好き同士の会話。連載小説の内容は、ホモセクシャルな世界。書いている主人公は「処女(男)」の女性? 男性。すぐに憑依する編集者。 その語りがヒントとなり連載が続いていく。不思議な世界。以前読んだ作品との脈絡が今一つ読み切れなかった。読み手として不覚! 
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安部公房「友達」「未必の故意」

2012-10-20 16:48:49 | 読書無限
角田被告宅に十数人生活、不明4人も住民登録(読売新聞) - goo ニュース
 大変不謹慎ですが、ずいぶん昔観た(目を通した)安部公房の『友達』(昭和42年作)という戯曲を即座に連想してしまいました。突然独身の男の元に八人家族がなだれ込んでくる。男とその連中の家族関係、人間関係もまったくない中で、居座り(通報を受けてやってきた管理人や警官にも愛想よく振る舞い、事件性をまったく感じさせず、むしろ巻き込んで)、次第に居場所のみならず、男の心身を占有し、ついには檻(格子状の靴箱だった)に入れ、殺してしまう。八人の間に起こる対立も、一人の敵を追い込むことによって家族間の「絆」を作り出していく。そして、死んだ男の部屋から笑いを残して、一家は次の犠牲者を求めて出て行く(たぶん)。
 都会の「孤独」に対置される「連帯」とかいうものの、裏に秘めたおぞましさ・不条理を描き出していました。
 もちろん、次元も違うし、今回の猟奇的な犯罪行為を、小説的世界という風に見立てるつもりはありません。しかし、例えば、かつてあった「連合赤軍リンチ事件」になぞらえてこの「事件」を論評する、というより、安部公房の作品の持つある種の先見性をふと思いました。
 そういえば、やはり安部さんの作品で『未必の故意』という戯曲。これ以上やったら相手が死んでしまうことが予見できるのに、集団で暴力行為を行って人を殺めてしまう(自分が他の皆と一緒に手を下さなければ、今度は自分がやられる)という芝居もありました。
 「事実は小説よりも奇なり」では済まされない問題ですが、ますます不可解な事件になっています。
 マスコミも周辺記事ばかりで、あまり本質に迫っていない感じが(最初の頃の及び腰スタイルは少し改善されていますが)します。
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このまま「廃刊」がいいのでは

2012-10-19 00:21:25 | つぶやき
朝日新聞出版が「おわび」 週刊朝日の橋下市長連載で(朝日新聞) - goo ニュース
 主たる執筆者の佐野氏。例の東電OL殺人事件の裁判に関して、終始、えん罪を主張していた(と思う)。再審請求が認められた時のマスコミでの発言でも、ジャーナリストとしての人権意識をそこそこ持ち合わせた人物という風に思っていた。
 今回のスタンスを見ていると、この方、興味本位で何事にも関わる人物、ましてセンセーショナルに取り上げられることを期待する。「興味本位」とは、ある意味、読者の志向を先回りする嗅覚の持ち主。
 いったい何が(誰が)そういう御仁をしてこのような内容を書かせたのか。橋下さんに指摘されて「おわび」をするくらいなら、掲載する前にきちんと内容をチェックするものだが、まったく編集体制・機能がなっていない。
 どの週刊誌も、自前の記者が書くものはまずなくて、外注・持ち込み原稿ものばかり。さらに日限を切っての編集・・・、それにしてもお粗末至極。
 雑誌系の「ポスト」、「文春」、「新潮」なども、不正確な憶測・陥れ記事で、次々と訴訟問題を抱えている。新聞社系。どこも春先になると、「高校別大学合格者」などという右ならえの特集ばかり。今の時期はちょうど記事も不足し、発行部数も減? そこで飛びついたのか。
 橋下さんが激怒したから矛先を収める、などという「こそく」なことではなく、この際、「人権意識の欠如」「社会的責任のなさ」「マスコミとしての逸脱」等の責任を取って廃刊にすべきだ。
 「おわび」や連載中止、編集長の退任くらいで一件落着させるつもり? 「言論・出版の自由」などというものを振りかざしての居直りは許されない、と思う。
 この間のいきさつ(掲載した経過など)うやむやにせずにきちんと検証し、誌上で明らかにすることが第一歩だ。「朝日新聞」もそういう姿勢を堅持してもらいたい。
 シンタロウさんをはじめ、「右」的な連中がそれみたことかとほくそえむのを見聞きするのも、実にイヤなものです。
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かわいさ余って・・・ならぬ、もともと憎さ百倍? 矛先が間違っている!

2012-10-18 19:31:33 | つぶやき
橋下氏、朝日新聞の取材拒否へ…週刊朝日記事で(読売新聞) - goo ニュース
 橋下さんの憤りは当然。ただし、「朝日新聞」に対する取材拒否は行き過ぎだと思うが。
 大阪市長選の時にも、橋下さんの出自をめぐって一部週刊誌等でこうした言論がなされた。いわば地元大阪を含め、政界・財界・マスコミ界の間では公然の秘密だった。
 今回、衆議院選挙間近と言われる中、いよいよ国政に打って出る政党の党首。そこを狙っての特集・連載記事。「ひそひそ話」、「実は奴は被差別の出身なんだ」、という「卑怯」なやりかたではなく、大きな影響力のある媒体を用いて、堂々と公表しよう(議論しよう)としているのか。さもなければ、センセーショナルに取り上げて部数UP、売らんかなの魂胆のみか。それにしても・・・。
 橋下さんの「独断的」「攻撃的」な資質がどこから生まれてきたか、そういう視点から彼の出自を取りあげたのだ、という。が、れっきとした名前の呼び方「はし・もと」ではなく「ハシ・シタ」と呼称したのは、差別意識そのものだと感じる。「橋」の「下」、まさに「差別」的言辞そのもの。
 住井すえさんに『橋のない川』という被差別に生きる人々、被差別解放運動を扱った、すばらしい作品がある。被差別の苦しみ、悲しみ、悩み、そして人間としての自覚と覚醒、地域の人々を巻き込んでの解放運動の困難な歴史を描いた作品。
 「橋」のない「川」。どこまで行っても両岸を結ぶ橋がない。物語の一貫したテーマである差別する側と差別される側に橋が架かってないことへの苛立ちや腹立たしさを暗示したもの。そこに、何とかして橋を架け、ともに関わり合っていける人間社会のありよう。そうした事柄を読者に地道に語りかけている作品。ふと思い出した。
 さて、こういう記事でほくそ笑む人々はどういう人々なのだろう。読者へのかかわり方のスタンスは? 
 小生、橋下的政治立場にはまったく同意・共感もしないが、「週刊朝日」誌上での今後の展開が気になる。
  
 
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椿。一之江名主屋敷。

2012-10-17 22:30:39 | 歴史・痕跡
明治13年作成の地図。右上部(北東)にあるのが「谷河内」その南西に「椿(一之江新田)」その北が「新郷」。「谷河内」「椿」付近の水路は、「東用水」(とその分水路)。左(西)側の「水路」は「中(仲)井堀」。二つの水路の水源は、「小合溜井」(現「水元公園」内)。西に見える広い水路は「一之江境川」。右下(南東)に見える川が「江戸川」。その上の集落は「今井」「鎌田」。左(西)は東一之江。斜めの道は「行徳道(現「今井街道」)」。現在は、地図上では中央付近・南北に「新中川」。また「谷河内」「椿」を分断するかたちで京葉道路、首都高が東西に貫いている。
「東京都史跡・江戸川区史跡 一之江名主屋敷」。長屋門。
 「パンフレット」によれば、この屋敷は、江戸時代はじめ、「谷河内」と同様に低湿地だった「椿」地区に新田(一之江新田)を開発し、代々名主を務めてきた田島家の居宅で、現存する主屋は安永年間(1772~1780)に再建されたもの。中世土豪風の屋敷の構えで、江戸初期からのすがたをそのまま伝えるものとしては都内23区では唯一の遺構、とのこと。
 昭和30年代後半まで、当時のままのように周辺はほとんどが水田でしたが、近年の宅地化、区画整理事業、さらに京葉道路、首都高の建設などで大きく変貌しています。
 しかし、ひとたび長屋門をくぐると、屋敷全体が江戸時代の生活の雰囲気を体験できる場所となっています。囲炉裏、奥座敷、入側、流し、土間、竈(「へっつい」ともいう)など懐かしい趣がありました。
 小学生が校外学習で大勢訪問して、ボランティアの方からの説明を熱心に聞いていました。
主屋全景。曲がり家つくり。東側(右)の建物が土間。
奥座敷。
便所付近からの屋敷林。
次の間から奥の座敷へ。
土間の屋根裏。頑丈な骨組み。
茅葺き屋根。

中世の土豪風屋敷構えの特徴である、周囲に巡らした堀の跡。
ススキ。
屋敷林。木漏れ日がすばらしい。
竹林。
庭園。
周囲にかつての面影はなさそう。唯一、この道は昔と変わらない道。南は首都高の橋脚。
田んぼへのあぜ道?
このあたりは「春江町2丁目」。「椿」という地名はこの「のぼり」に。
「椿」は「八石」とも称された。その名にちなんだ公園。用水路跡の道路脇。開拓の結果、「八石」しか収穫できなかったのか、それとも「八石」も収穫できたのか。いずれにしても先人の労苦を偲ばせる名称。
 ところで、「石」と言う単位は、大人1人が1年間に食べる米の量を基準にして設定されたもの。キロに換算すると約150kg。(1石=10斗=100升=1,000合)。
 米を生産する田の面積は反(段)で表す。300歩(1歩は、6尺四方・1坪―ただし明治以降になって。それ以前はもう少し広かった―)が1反(約1,000㎡)。(「1畝」という単位は、30歩。10畝が1反)

 1反という単位は1石の米が取れる面積。もちろん、農業技術の進歩や田の良し悪しによっても取れ高は変わるので、1反=1石という関係は厳密には成り立たない。ちなみに、江戸時代には良い田だと1反当たり2石以上の収穫があったとか(現在は全国平均でも4石以上)。こういう風にとらえると、江戸時代初期、ここ「椿」の地での「一之江新田」開拓がどの程度の規模だったかが想像できそう。
南を望む。
「鹿本通り(「東用水」跡)」との交差点。北からやってきた「鹿骨親水緑道」はここまで。

(補足)この地は一之江村の草刈場で、一面の茫々たる原野の中に椿の木が多数茂っていて「椿場」とか「椿っ原」と呼ばれていた。堀田図書は、豪農田島庄兵衛の世話になり、その娘を後妻に迎えて姓を田島に改め、荒野の開発に勤しんだ。従う者11人、粒粒辛苦数十年の後、一面の椿っ原も漸く美田となり一之江新田村を称えた。以後図書家は名主を務め、今日まで10数代を連綿として繋いでいる。
 「椿町」は、椿の自生する美しい土地柄だったことにより命名された。「春江」は、椿から「春」の字を引き出し、一之江から「江」の字を採って合成した地名。(「補足」の部分は、「東京の地名の由来 東京23区辞典」様より拝借しました。なお、地元「城立寺」の御住職が執筆の中心となって、郷土史として「椿物語」という本が出版されています。大変参考になりました。)
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「東井堀親水緑道」。(「東用水(東井堀)」跡をたどる。その2)

2012-10-16 22:55:20 | 河川痕跡
「江戸川区」のHPより(2011年9月1日更新)。
 
東井堀親水緑道 (江戸川区登録史跡 東井堀跡)
 東井堀は、古くは農業用水や物資の輸送路として利用され、江戸川区民の生活を支えてきました。
 小合溜井(現在の都立水元公園内)を水源とする、上下之割用水(別名は大用水)は、新宿(葛飾区)で左に小岩用水を振り分け、少し南下した所で東用水(東井堀)を分水していました。東井堀は、松本・鹿骨を貫き谷河内・南篠崎などを流下して、前野から旧江戸川に注いでいました。
 井堀とは用水路のことで、当時の江戸川区の村々では笹ヶ崎・上篠崎・下篠崎・上鎌田・下鎌田・一之江新田・谷河内・新堀・鹿骨・松本・興之宮・上一色の12ヵ村が利用していたと言われています。
 近年は用水路としての役目を終えた東井堀は、ほとんどが道路になり、そのうちの京葉道路から瑞江駅前通り(都市計画道路補助第288号線)までの区間(谷河内2丁目から南篠崎4丁目)が、平成8年に親水緑道として整備されました。(第1期区間)
 そして今回親水緑道として整備されたのが、南篠崎町五丁目・江戸川一丁目の最下流部です。(第2期区間)

 
 以上のように、葛飾区との区界付近から京葉道路まで「鹿本通り」として道路化していた「東井堀(東用水)」は、京葉道路を越えると、「東井堀親水緑道」として蘇ります。京葉道路から旧江戸川まで。今回はその探索。
京葉道路を渡った首都高橋脚の下。緑地になっています。石と茶色の砂地。コンセプトが今一つ不明。子供の帽子がぽつんと落ちていた。
「東井堀」の流路跡であることは確か。
ここから「東井堀親水緑道」が始まる。
車道をはさんで水路と反対側の歩道には、「カリン」の並木。大きな実がなっていた。「カリン酒」ってあったような。
途中で「南篠崎つつじ公園」に。
「柴又街道」を斜めに行ったところから再び「緑道」に。
よく整備された緑道が続く。
かつての水田や畑があった農村地帯を思わせる通り。
「天祖神社」付近から北西を望む。
「篠崎街道」と交差。振り返って来た道を望む。
このあたりから水路も広くなり、用水路をたどる感じに。
用水路を覆うような樹木、大きな魚影も。
このような塑像も二つほど。
旧江戸川近くは工事中のため、ここまで。
旧江戸川との合流地点付近。対岸は、千葉の行徳方面。
大きな施設の「篠崎ポンプ所」。
旧江戸川付近で「東井堀」に合流している「篠田堀親水緑道」。
「篠田堀」。江戸川との間の大きな敷地にあるのが「王子板紙江戸川工場」。
途中からの桜並木がすばらしい。「篠崎堤の桜」の碑。「篠田堀」はかなり以前からの用水路。
桜の季節にはさぞかし見事だろう。
明治13年頃のようす。北西から流れてきて、途中で南に折れている水路が「篠田堀」。対岸は、行徳。
「行徳」の南東、東京湾沿いには塩田が多くあった(現在の「千鳥町」付近)。
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上小岩遺跡。上小岩親水緑道。(「古代東海道」の跡をたどる。その3)

2012-10-15 20:08:34 | 歴史・痕跡
 「上小岩親水緑道」について、一度記事にしたことがありますが、この機会に改めて。

 旧佐倉街道が江戸川の土手にぶつかる手前、「水神」と大きく刻まれた石碑は、すぐそばにある「善兵衛樋(ひ)」とかかわりがあります。
 この辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、1878(明治11)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
 1924(大正13)年、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったものが、この「水神」碑です。人々には、まさに「水神」様に思えたのでしょう。
 「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
 この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続いています。とても気分のいい道筋です。京成電車の線路にぶつかるまでの遊歩道です。途中には、ベンチがあったり、草花や木々が植えられ、流れには、魚も泳いでいました。ところどころ、モニュメント風な大きな石組みが無造作に置かれています。
 当時からの通称は、「北小岩川」。下水道の整備に合わせて親水緑道としたそうです。さらに、このあたりでは、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡が見つかっているために、古代の歴史をテーマに整備した、とのこと。こうして、旧佐倉街道も含め、かつての自然を再現(?)し保存することは、とてもいいことです。
 小岩保育園近くには、古墳時代の遺跡の発見にちなみ、当時から江戸時代までのこの付近の人々の生活が絵画で表現されています。そういえば、道の所々に置かれたマンホールには、古墳時代の土器が描かれています。
 静かな住宅の間を抜けるように続く流れに沿った道。かつてのように、近在の水田に水を供給したという面影は全くありませんが、地元の住民の憩い・潤いと今でもなっていることは、すばらしいことです。
 静かで落ち着いた散歩道をゆっくり楽しむ老夫婦の姿が印象的でした。(2009年4月7日 投稿)
 
 今回、「古代東海道」跡をたどったついでに再び取り上げてみました。
「上小岩遺跡通り」(古代東海道)と交わるところ。「上小岩親水緑道」はこの通りをはさんで南北につながっています。
京成線の線路際。南の入口。ここから北に向かいます。
案内図。
親水緑道沿いにある。このあたりの人々の生活が絵画に。ただし、古墳、集落跡など定住生活をしていたという遺跡・痕跡がまだ発見されていないそうだ。あくまでも想像の世界。しかし、古代から人々の生活があったことは事実で、「古代東海道」が通っていたのもそういう前史があるからだろう。
 「土器片が用水路で発見された」と伝えられるが、その用水路が「北小岩川」とすれば、田畑への転換、戦後の急速な宅地造成。現在は、個人住宅がびっしり建ち並ぶ一画。新築・改築の際に地面を掘り返して遺跡を発掘するということは、至難の業であろう。幻の、古代人の営んだ「集落」に終わってしまうかも知れない。大規模な再開発計画でもあれば、その時に・・・。
 つい何となく『徒然草』第三十段を思い浮かべる。
 「年月経ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば・・・、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
 思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ、古き墳は犂かれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。」

古代から江戸時代まで。
土器が描かれたマンホールのふた。
「上小岩遺跡」の解説。
車の往き来が激しい通りとの交差もなく、老若男女、それぞれ静かな散策が楽しめる。
江戸川から引いた「善兵衛樋」の落ち口。「上小岩親水緑道」はここからの流れをもとにしている。石組みの間から流れ落ちる水の勢いは強く、下流までその勢いは落ちない。水量が豊かな緑道。
明治13年作成の地図。左上に「上小岩」という地名が見える。北小岩川(現在の「上小岩親水緑道」)は、左端(西側)を流れていた(地図上は、まだ記入されていない。)
 

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