おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

関東ローカル鉄(鐵)道線総集編。その1。①小湊鐡道。②いすみ鉄道。③鹿島臨海鉄道大洗鹿島線。④JR「鹿島線」

2023-10-31 21:04:19 | ローカル鉄道の旅

①小湊鐡道(五井~上総中野)《7月22日(土)》

「海士有木(あまありき)駅」。

海士(あま)と有木(ありき)が一つになって、この地名がつきました。海士は、その昔漁夫(海人)の集落、有木のほうは附近に有木城(蟻木城とも書く。現在の泰安寺)があったため、その名がついたと云われております。(「小湊鉄道」HPより)

駅名で読み方が難しいものが出てきます。「飯給」=いたぶ、「馬立」=うまたて。

単線。けっこう横にも縦にも揺れるので、座席を立って撮影するもの大変。

ここは、早場米の産地らしく、すでに稲が黄色くなりつつあります。現在は、すっかり刈り取られた田んぼになっている。

                       

素朴な駅舎。

          車掌さんがホームで切符の回収。

②いすみ鉄道(上総中野~大原)

遠ざかる「大多喜城」(中央奥)。

「国吉駅」に着くと、駅弁などを売るおやじさんたちが入ってきます。

「国吉駅」で発売されている駅弁は「いすみのたこめし」。

古くから蛸つぼ漁が行われてきたこの辺りでは「たこめし」が漁師のまかない飯だったそう。コリコリ食感のたこの身がたっぷり。たこの味もご飯にしっかり染み込んでいます。

「たこめし」や「ポップコーン」を販売、けっこう乗客も購入しています。当方もポップコーンを孫へのお土産に購入しました。

※その後台風13号に伴う大雨被害により「いすみ鉄道」は、9月8日から列車運行を見合わせていましたが、一部の区間で復旧工事が終了し、列車運行を再開することとなった。なお、被害の大きい区間では引き続き列車運行を見合わせている。

・・・

お客様にはご不便をおかけいたしますが、ご理解くださるようお願いいたします。

運行を再開する区間 大原~大多喜間

9月13日の始発列車から通常どおりの運行を予定しています。

運行見合わせを継続する区間 大多喜~上総中野間

復旧に時間を要するため、当分の間、列車の運行を見合わせします。

(この項、「いすみ鉄道」HPより)

③「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」

※北千住から水戸・大洗を通って、佐原・成田、京成とぐるっと回ってくる。

         一両編成の気動車でワンマンカー。単線。※通常は、二両編成のようです。

沿線案内図。

   (「」HPより) 水戸~鹿島神宮

水戸の近郊エリアとして通勤・通学や、水族館(アクアワールド・大洗)や大洗マリンタワー大洗サンビーチ大洗シーサイドステーションといったマリンレジャースポットが多数点在する大洗へのアクセスに利用される。

この区間の運転本数は1時間に2 - 3本ほどあり、第三セクターの地方鉄道線としては比較的列車密度が高い。水戸 - 大洗間の区間列車が約半数を占めており、旅客輸送において大洗駅は重要な拠点駅となっている。地元密着型の路線という雰囲気。

しばらくは高架線が続く。水戸駅方向を振り返る。

しばらくすると、田園風景が広がってきます。

鹿島神宮駅から「JR鹿島線」へ乗り継ぐ。

④JR「鹿島線」鹿島神宮~佐原 

発車すると、まもなく長い橋を渡ります。

北浦橋梁。

この橋は全長1236mで、日本の鉄道橋としても有数の長さを誇ります。水上に橋脚が並び、単線の橋桁が真っすぐ伸びる光景は壮観。

「利根川」を渡ります。

           

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富士山麓電気鉄道。その7。桂川。山梨県立リニア見学センター。「田野倉」。岩殿山。「富士山七変化」。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-30 18:32:15 | ローカル鉄道の旅

運転席から。

     中央道(大月~河口湖~山中湖)。

桂川。

相模川(さがみがわ)の上流・山梨県内の呼称。富士山の伏流水を水源とする忍野八海山中湖に源を発する。由来については、かつて都留市東桂から富士吉田市明見、鐘山へと続く流域にの大木が茂っていたことに因む説都留郡のつるが蔓葛(つる)と転記され、蔓葛(かづら)の読みから桂へ転記されたとする説[石割山の石割神社の桂の神木に因む説などがあり、定かではない。

リニア実験線。

                 右手後方に「山梨県立リニア見学センター」があります。

           

・・・

 JR東海が強引に進める東京・品川―愛知・名古屋間を走らせるリニア中央新幹線。総事業費約7兆円のうち3兆円は政府の財政投融資が活用された。2017年から3年間貸し付けられたこの財投は前年の16年、当時の安倍晋三首相が盟友の葛西敬之JR東海代表取締役名誉会長(22年5月に死去)を支援するために実現させた。担保なし、30年間での元本返済、平均0・86%の低金利という厚遇した案件だ。国策民営事業に転じたリニア新幹線が目指す27年開業は、「困難」と丹羽俊介社長は明言。工事の遅れが理由だが、では開業はいつごろになるのか。また45年に大阪までの延伸は可能なのか。

 「今の状況から推察すると品川―名古屋間の開業は早くても12年後の2035年ですね」というのは「〝悪夢の超特急〟リニア中央新幹線」(旬報社、2015年度JCJ賞受賞)の著者でジャーナリストの樫田秀樹氏だ。

約30カ所で遅れ

「私はJR東海などの公開資料を基づき各工区がどのくらい予定より工事が遅れているかを調べました。表にリストアップしたのは遅れ年数のベスト7で、トップは8年遅れの神奈川のリニア神奈川駅非開削工区。7年遅れの2位は神奈川と岐阜の2区、6年遅れの3位は岐阜と長野の工区が並び、5年遅れの4位はリニア山梨県駅、3年9カ月以上の5位は愛知名城非常口、3年半以上の6位は長野坂島工区、3年5カ月の7位が長野釜沢非常口です。3年、2年、1年の遅れを含めると合計30近くにもなります」
その主な原因は①用地取得ができていない、②停車駅がなかなか決まらなかった、③入札までの作業がスムーズに運ばず工事が未契約、④住民による反対運動、⑤JR東日本との話し合いが長引いている。

交渉行き詰る静岡

  リニア新幹線と言えば、JR東海と静岡県の川勝平太知事との〝ケンカ〟が有名だ。同県の工事の遅れは3年になる。川勝知事が難題をJR東海に押し付け強硬に工事を阻んでいるのでリニア新幹線は進まないと〝川勝バッシング〟はネットなどで今でも激しい。
樫田氏は「決してリニアに反対派ではない川勝知事は、リニアを進めるにあたり47項目からなる質問書をJR東海に提出している。これには南アルプスのトンネル掘削工事などで水脈が断ち切られ大井川流量が毎秒最大2㌧減り7市2町が影響を受けるので解決策として水の戻し策要請も含まれている。JR東海の回答をのむことができれば知事は工事を認可します」という。しかし静岡はJR東海から回答をもらっていない。両者の交渉は完全に行き詰っている。このままでは工事は遅れる一方だ。
リニア裁判では国の工事認可取り消しを沿線住民から提起された東京地裁の市原義孝裁判長らは昨年9月に山梨リニア実験場周辺に暮らす原告を含む住民に騒音の状況や日陰・水枯れの有無な、農業への影響などを聞き取り調査した。18日の東京地裁の判決は国の認可取り消しを認めず、住民側の請求を棄却した。
裁判を傍聴してきた樫田氏は「山梨リニア実験線の沿線住民から聞き取り調査までした裁判官への原告の期待は高かった。2月結審から判決まで5カ月間もあったので、意味のある判決が下されると原告弁護団も考えていた。ところが判決文は、国やJR東海の主張をコピペした内容で、現地調査も触れていなかった」と悔しがる。
「不当判決」と訴える原告らは控訴する。
南アルプス市民からJR東海の工事差し止めを求められた甲府地裁の新田和憲裁判長らも9月に同じく山梨リニア実験場の周辺住民に聞き取り調査を2日間行う。判決は来年。

延伸アセス見送る

昨年4月山梨リニア実験場で試乗した岸田文雄首相は名古屋―大阪間の環境影響評価(アセスメント)作成の前倒しを表明したが、JR東海は「今年度は、アセスは見送る」と今年4月に拒否した。品川―名古屋間の工事が大幅に遅れているので、予定通りの延伸は絶望的になったからだ。
  工事の遅れによる経費の増大、人件費・建築資材の高騰などで事業費は膨れ上がる一方。本当にリニア新幹線はできるのか。
「品川―名古屋間の総事業費は7兆円を超えるのは間違いありません。9兆円に迫る可能性もある。となるとリニアがJR東海の経営の足を引っ張ることになる。再び財投がつぎ込まれるかもしれない。名古屋から大阪までの延伸は中止もあり得ます」(樫田氏)
 金食い虫でトラブル多発のリニアにJR東海は振り回され右往左往している。

JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2023年7月25日号 より

・・・

「田野倉」。
 
        あとわずかで終点「大月」駅。
 
 
「岩殿山」が見えてきます。
 
一斉に下車した後の車内。
 
JR大月駅ホームからの岩殿山。
 
                         ※標高は、634mで、「東京スカイツリー」と同じ。
 
お土産の「富士山七変化」
 
これで、ひと夏かけて行った関東ローカル各線の旅は終了です。
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富士山麓電気鉄道。その6。運転席からの眺め。「都留文科大学前」。カーブが続く。警笛。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-29 20:18:50 | ローカル鉄道の旅

「都留文科大学前」駅に近づいてきます。

               大学キャンパスは右手奥に広がります。

1953年(昭和28年)に山梨県立臨時教員養成所として発足し、1955年(昭和30年)に都留市立都留短期大学、さらに1960年(昭和35年)に4年制の都留市立都留文科大学となった。東日本エリアの公立大学で唯一の教員養成系大学であり、卒業生の多くが教職に就いている。とりわけ創設以来、小学校教員養成に力を注いできた。人口約3万人の地方小都市である都留市が大学運営を行っている市立大学である。2009年(平成21年)に公立大学法人へ移行し、2013年(平成25年)に創立60周年を迎えた。

都留市の中心部である谷村は、江戸時代に興譲館という郷学が設立されるなど、教育・文化を重視する風土があり、県立臨時教員養成所の誘致や短期大学への移行は市民の力が大きく働いた。市民のボトムアップによって設立された大学という点では日本では希有な存在である。現在、都留市は「教育首都」を標榜し、大学を政策の大きな柱の一つとして位置づけている

学訓 菁莪育才(「せいがいくさい」

初代学長諸橋轍次が学訓として選んだ言葉で、出典は『詩経』である。「社会有為の人材を育成することを楽しむ」という意。)

現在は5学科、大学院5専攻、約3000人の学生を擁するまでになった。またそれらの学科増設に対応するためにも新講義棟(現2号館)、3号館、新附属図書館の建設など、設備面も逐次拡充を行ってきた。さらに、創立60周年事業の一環として国際交流会館を音楽研究棟横に建設したほか、隣接する南都留合同庁舎の敷地へのキャンパス拡大も計画されている

その一方で国際化への対応から、学外交流への道も開拓され、1995年(平成7年)に中華人民共和国・湖南師範大学交換留学協定を締結し、1998年(平成10年)アメリカ合衆国・カリフォルニア大学と学術交流協定を締結し、どちらも交換留学することができる。さらに協定校留学として2007年度(平成19年度)よりアメリカ合衆国・セント・ノーバート大学英語版での語学研修プログラムを開始した。そのほかにも海外語学研修があり、学外交流は増えつつある。

学部生の出身地は地元都留市が約1%程度、山梨県に広げても約10%であり、残りの約90%近くは他の都道府県から学生が集まる全国区大学である。また大学には寮がないため、学生の9割近くが都留市内の大学周辺に下宿(ワンルームマンションを含む)をしている。この全国区型の傾向は都留短期大学時代から既に見られた。それは1950年代後半に全国の国立大学が2年制の教員養成課程を廃し、4年制に一本化しはじめたことによるもので、2年で教員資格が取れる都留短期大学は地元山梨県はもとより北海道から沖縄県まで全国から学生が集まった。

さらに全国区型の特徴の要因となっているのは、4年制移行直後の1961年(昭和36年)3月の入学試験から全国の大学に先駆けて、全国各都市に試験会場を設ける地方試験の導入である。これは当時の国公立大学はもちろんのこと、私立大学を含めても類を見ないものであった。以前から公立大学は国立大学と別日程であったこともあり、この地方試験によって教員志望者が「地元の国立大学の次に志望する大学」という地位を築いていった。・・・(この項、「Wikipedia」より)

※知人の娘さんがこの大学に進学し、卒業後、中学校の先生となっています。略称:つるぶん。

         街並み。

運転室越しに前方を眺めるのも、なかなか趣があります。

    

カーブが続く。

              警笛もなかなか魅力的。

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富士山麓電気鉄道。その5。遠ざかる富士山。「月光寺(げっこうじ)」。「下吉田」。新倉山浅間公園・五重塔・外国人に大人気。「中央自動車道」。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-28 20:02:31 | ローカル鉄道の旅

木造の格子仕立て。

遠ざかる富士山。

木に隠された!  

「道志」方向。

「月光寺(げっこうじ)」。

         

「下吉田」。

ブルートレインなど客車や貨車が陳列。

開業当時は貨物の取扱を行っていた駅でした。
駅前にはロータリーもあり、駅舎は建築当時、東洋一の建造物と言われていた名古屋駅を模して建てられました。
周辺にはアヤメの群生地で有名な新倉山もあります。また平成21年7月18日(土)に、工業デザイナーの水戸岡鋭治氏デザインによる駅舎に生まれ変わりました。
今回のリニューアルでは、下吉田駅が開業した当時の新しさと驚きを再び感じ取れるよう、レトロな味わいを生かしつつ、21世紀モダンの駅に生まれ変わることをコンセプトに、天井画を大胆に配置した吹き抜け、富士の稜線をイメージしたベンチ、センターテーブルが配されたコンコース等、今までの駅には見受けられなかったゆとりある雰囲気を演出し、駅にいながら富士山や桜並木などの風景を楽しめる空間を作っています。

新倉山浅間公園に建つ忠霊塔五重塔と富士山の風景が外国人の間で人気となり、その最寄り駅として外国人の利用が増えています。

           

                                    (「富士の国やまなし」HPより)

    

           

「中央自動車道」。

大月JC~河口湖~山中湖。

けっこう曲がりくねった下り。

              

隣の外国人も下吉田駅で下車。

            

               

             

「都留文科大学前」方向。

       里山風景。

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富士山麓電気鉄道。その4。「富士桜高原麦酒」・「青い富士山〈生〉」。富士山ビュー特急。ふじきゅうハイランド。富士山。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-26 20:26:22 | ローカル鉄道の旅

晴天の下での富士山。河口湖へ向かう外国人多し。

ご当地ビールがずらり。富士桜高原麦酒・青い富士山〈生〉。

富士桜高原麦酒

旨いビールは造り手の思いまでが伝わってくるもの。
本場ドイツで初めて飲んだビールは、一口飲んだだけで醸造士の熱い思いが感じられました。
もっと旨いビールを作りたい、ビール片手に楽しむ人達の笑顔がみたい。
そんなシンプルな思いから富士桜高原麦酒は出発しました。
その笑顔に出会うために、今日も思いを込めて仕込みます。

青い富士山〈生〉

外観鮮やかなティファニーブルー、泡立ち豊か、泡持ち良し、アロマフルーツのようなフルーティーなホップの香りが特徴。フレーバーホップの苦みを抑え、山梨を代表するぶどう”シャインマスカット”を感じるようなベリー系とシトラス系のフレーバー。清涼感あるドライで軽快な飲み口。

再び「河口湖駅」に。

駅舎と重なる。

構内のお土産屋さんもにぎやか。

「大月」まで「富士山ビュー特急」で戻ることに。

3号車自由席 運賃+400円。※「1号車は料金も設備も別格。

    

元の車両は、JR東海が小田急新宿駅への直通特急「あさぎり」号で使用していた371系。
JR東海での運行終了に伴い、富士急行が譲渡を受けて、同社の2000系「フジサン特急」の老朽化引退の後継としてデビューしました。
富士急行ではこれ以前に、2014年から小田急の「あさぎり」号で活躍していた20000形ロマンスカーも中古導入しており、かつて「あさぎり」号で活躍した2車種が、再び富士山麓で競演する姿が見られるようになりました。

(この項、「」HPより)

ということで、3号車自由席に。

          

この電車はスイスの列車(マッターホルン)とのコラボ。

 

「UNION D 1885 I.R」。1885年に作ったレールが、駅のホームの柱にも使われている。

         

発車を待っていると、隣のホームから大勢の外国人が下りてきます。

              

出発! 一番後ろの席ですが、「富士山駅」からはスイッチバックで先頭になります。

              

「ふじきゅうハイランド駅」。

・・・

                   

絶叫系アトラクションや趣向を凝らしたお化け屋敷で全国的にも有名な富士急ハイランド。全長2,045m、最高速度130km/h、最大落差70mを誇る絶叫ジェットコースター「FUJIYAMA」や、発射1.56秒で180kmもの時速を記録し、ゼロGフォールと呼ばれる無重力体感ゾーンを楽しめるジェットコースター「ド・ドドンパ」など、絶叫好きにはたまらないアトラクションが盛りだくさん。他にも、身の毛のよだつ恐怖を味わえる「絶凶・戦慄迷宮〜慈急総合病院〜」や難攻不落の要塞を攻略する「絶望要塞3」、さらに富士山頂と富士五湖上を飛行している気分を味わえる「富士飛行社」など、絶叫系が苦手な人でも楽しめます。さらに、人気キャラクターのテーマパーク「トーマスランド」や「リサとガスパールタウン」など、小さい子供連れでも遊べる施設があります。入園無料なので、気軽に好きなアトラクションだけ遊べるのも嬉しいところ!富士吉田観光と組み合わせて充実した休日を送ってみてはいかがでしょうか。

・・・

          

遠ざかる富士急ハイランド。

                        この方は、車掌さん。

次の富士山駅から一番前の席となります。

「富士山駅」から。

出発進行!

※実は、この特急。去り行く富士山を望むために、最後部の列車の料金は、指定席でけっこう高い!

この席では、行く手は運転席並み。が、後ろを振り向かないと富士山は見えないのです

でも、いいか!               

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富士山麓電気鉄道。その3。「モ1号」。「富士には、月見草がよく似合う」(太宰治)。掘抜き史跡館。河口湖・河口湖大橋。紅葉。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-25 20:45:29 | ローカル鉄道の旅

くっきり見える富士山。

                駅前では、土・日・祭日に関係ない外国人観光客ならでは光景が繰り広げられる。

「富士山麓電気鉄(鐵)道」。

「モ1号」。

富士急行の前身である「富士山麓電気鉄道」が1929年(昭和4年)の開業に際して新造した車両。モ1号からモ5号までの5両が製作され、富士山に向かって走る日本有数の急勾配路線用として、電気ブレーキや砂まき装置を装備するなど、急勾配対策を万全に施した、当時の最新鋭車両であった。本展示車両は、富士急行創立60周年記念事業にて、上田丸子電鉄(現・上田電鉄)に譲渡されていた車体を引き取り、整備・復元したものである。

河口湖へ向かいます。河口湖町マンホール。

          中央に富士河口湖町の町章、町の花の月見草をデザイン。

・・・

老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、
 「おや、月見草。」
 そう言って、細い指でもって、路傍の一か所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
 三七七六メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。

                                  (太宰治『富岳百景』より)

・・・

途中にあった「掘抜き史跡館」。

     解説板。

史跡 河口湖掘抜き

元禄3年(1690年)郡内領主秋元但馬守喬和の命により、河口湖船津(取水口)から嘯山を掘り抜き、赤坂(出口)まで全長約4㎞に及ぶ土木史上稀にみる掘り抜き工事にいどんだ。この工事は、毎年のように湖の増水により被害を受ける湖畔住民の惨状と、山ひとつ隔てて旱魃にあえぐ新倉村民の苦悩に心を痛め、治水と水利を併せ解決すべく着工された。しかしながら期待も空しく両口より掘り進んだ隧道に大きな違いを生じ通水出来なかった。弘化4年(1847年)工事は再開され、6年の歳月をかけ悲願の通水をみた。しかし水量は乏しく、文久3年(1863年)再び改修工事を行い、3カ年を費やし多量の通水に成功した。実に初工より170年余後のことである。増水と開田の対策としてのこの工事は、当時の測量。掘削技術からして高く評価されている。

工法:鶴嘴(つるはし)・石鑿(いしのみ)による手掘り、岩盤は焼き掘りといって火を燃やし、石質の軟化を計り崩していったといわれる。煙の処理、土砂の搬出、進路の確認等に竪穴を掘った。竪穴の深さは4~23㍍でその数9ヶ所。

総工費:12,000両

総労役:延べ10余万人(弘化4年より慶応2年)

開館していませんでした。

湖畔に新倉掘抜記念碑」があります。

河口湖。

河口湖

富士五湖の中で最も長い湖岸線を持ち、最も低い標高地点にある。面積は富士五湖では2番目の大きさで、最大水深は精進湖とほぼ同じで14.6メートル。

※湖の大きさは、大きい順に山中湖、河口湖、本栖湖、西湖、精進湖の順番となっている。

湖の中央に鵜の島(鸕鷀島)と呼ばれる小さな島がある。また、産屋ヶ崎は富士山展望の好適地とされているほか、乳ヶ崎、小曲岬(子轉ヶ崎)、長崎(胞ヶ崎)などの景勝も存在する

富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。

河口湖には天然の流出口がないため、古来より大雨により増水し、湖岸の村々に洪水被害を出した。一方で、山を挟んだ東の新倉村(現・富士吉田市新倉)では透水性の溶岩台地が広がり、水利に乏しく、湖水を新倉方面へ通水させる用水路の開発が求められていた。全長3.8キロメートルを測る日本最長の手掘りトンネルといわれる新倉掘抜江戸時代初期から工事が行われ、曲折を経て江戸後期の1866年(慶応2年)に完成し、新倉村は河口湖の水利権を保持している。1911年には新たなトンネルが掘削されたため、それ以降、新倉掘抜は利用されていない。

現在は、1917年に竣工した第二嘯川(東京電力の放水路)と1994年に完成した嘯治水トンネルを合わせた、嘯(うそぶき)川から構成される放水路により、宮川に放水される。この宮川は桂川(=相模川)の支流であるため、河口湖は相模川水系に属している。

湖の東には三つ峠、北には御坂山地黒岳節刀ヶ岳が連なり、さらに西には十二ヶ岳がそびえる。南側は開け、そこに富士山が山容を見せ、湖面に写る逆さ富士は、湖の優れた景勝である。

ブラックバスが遊漁の対象として公的に認められている湖であり、マス類の放流もバスと共に盛んであるため、周囲には貸しボート店や釣具屋が多く、さらにはコンビニにまで釣り具が置いてある。全国的にもバスフィッシングのメッカとして知られており、連日多くの釣り人が訪れる。ただし、湖底にソフトルアーが大量に残されていることが問題視され、2007年に、芦ノ湖に次いでソフトルアー使用禁止の湖となった。(「Wikipedia」より)

河畔のホテル、土産物屋街。

  湖上には「河口湖大橋」。

河口湖大橋は、国立公園特別地域に建設されるものとしては日本で初めての橋。1987年には、優れた自然観光のもとで美しい景観をもつ道路とし富士スバルラインとともに「日本の道100選」に選ばれている。

              

紅葉が始まっています。

           

観光案内図。

タッチ&ゴーですが、再び「河口湖駅」に戻ります。

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富士山麓電気鉄道。その2。道志村。「下吉田」・「河口湖」。富士山。ほうとう・吉田うどん。そして、「霜降」。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-24 20:22:02 | ローカル鉄道の旅

道志村方向。

             

「下吉田駅」でたくさんの外国人が下車します。

            

開業当時は貨物の取扱を行っていた駅でした。
駅前にはロータリーもあり、駅舎は建築当時、東洋一の建造物と言われていた名古屋駅を模して建てられました。
周辺にはアヤメの群生地で有名な新倉山もあります。また平成21年7月18日(土)に、工業デザイナーの水戸岡鋭治氏デザインによる駅舎に生まれ変わりました。
今回のリニューアルでは、下吉田駅が開業した当時の新しさと驚きを再び感じ取れるよう、レトロな味わいを生かしつつ、21世紀モダンの駅に生まれ変わることをコンセプトに、天井画を大胆に配置した吹き抜け、富士の稜線をイメージしたベンチ、センターテーブルが配されたコンコース等、今までの駅には見受けられなかったゆとりある雰囲気を演出し、駅にいながら富士山や桜並木などの風景を楽しめる空間を作っています。

※この駅で大勢の外国人が下車するのは、わけがあります。その理由は帰途で明らかに。

    (「富士急行線」HPより)

まもなく終点の「河口湖」駅に。

       

「トーマスランド25周年記念号」。

※「トーマス号」というと、「大井川鐵道(金谷~)」の「きかんしゃトーマス」が有名。

                      

たくさんの人が下車、改札口が大混雑。観光バスに乗り込む人、河口湖へ向かう人、・・・。

「河口湖」駅。

                12時少し前に到着。

富士急行線の終着駅、河口湖駅は平成18年にリニューアルオープンをしました。
富士登山のシーズンにはたくさんのお客さまで賑わっております。また、河口湖駅からも雄大な富士山を見ることができます。河口湖はもう目の前。
湖畔にはロープウェイ、遊覧船や周遊バスなどで西湖方面など、見所はいっぱいです。
また河口湖駅内にあるカフェ『ゲートウェイフジヤマ』では、「信玄ソフト」や「吉田のうどんたいやき」などのオリジナルスウィーツをはじめ、山梨県の名産品などをお土産として発売しています。河口湖観光のお帰りの際、是非お立ち寄りください。

(「富士急行線」HPより)

※家を出てからJR、富士急行線の普通電車を乗り継いで、約3時間30分。

右手に富士山。山頂にほんの少し雪が。

※現在は、もっと雪が積もっているようです。

駅舎の三角屋根と重なるように。

    「ほうとう不動河口湖駅前店」。けっこう並んでいます(外国人多し)。

「ほうとう」は山梨県民のソウルフード。山梨には、物事がうまく進んだときに「うまいもんだよ、かぼちゃのほうとう」という言い回しがあるほど、みんなに親しまれている郷土料理です。栄養満点で体がぽかぽか温まるので、寒い冬はとくに美味しく感じられます。

小麦粉を練った平打ち麺に、かぼちゃや芋類、きのこ、季節の野菜、肉などの具材を加えて、味噌仕立ての汁で煮込む素朴な料理です。古くは戦国武将、武田信玄が陣中食にしていたとも伝えられてきました。

               

ここで「吉田のうどん」も紹介しないと。

吉田のうどんって? 

日本一硬い麺に、醤油・味噌の出汁が絡むこだわりの郷土料理。
富士吉田市が誇る郷土料理・吉田のうどんの最大の特徴は、歯ごたえとコシがとても強い麺。 噛めば噛むほど素材と出汁の旨みが口いっぱいに広がる麺の虜になる人は数知れず、連日うどん店にはたくさんの人が訪れます。 麺や出汁の味を楽しんでもらうため、かけうどんやつけうどんなどシンプルな味付けのうどんが多く、キャベツや馬肉がトッピングされていることが一般的。 
 
ところで、今日は、二十四節気のうちの「霜降」。
 
朝晩の冷え込みがさらに増し、北国や山里では霜が降りはじめるころ。
露が霜に変わり、だんだんと冬が近づいてくる時期。
 
しかし、今夏の暑さがまだまだ去らず。
たしかに朝晩は涼しさを感じるし、陽の沈むのも一段と早くなった印象。
5時過ぎでは暗くなり、自転車のライトを点けないと、あぶない。
 
それでも、向島百花園などではイチョウの木もモミジも、まだまだ色づかない。
農家でもお米など暑さ負けで実りがよくない、とか。
 
この陽気はいつまで続くのか? 
 
近年の自然の営みは、暦の上の「二十四節気」の季節感・自然観とはずいぶんずれてきているようです。
 
ここで、俳句、和歌をいくつか紹介。
 
柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 正岡子規
 
奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき 猿丸太夫(『小倉百人一首』)
 
                          

裏を見せ 表を見せて 散る紅葉(もみじ) 良寛が臨終の際に、弟子の貞心尼(ていしんに)に言い残した句
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富士山麓電気鉄道。その1。富士急行線・大月駅~河口湖駅。富士山に一番近い鉄道。外国人観光客がたくさん。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-23 20:22:41 | ローカル鉄道の旅

「関東ローカル私鉄の旅」もいよいよ最終回。

10月13日(金)。快晴。

JR大月駅から慌ただしく乗り換え。

車内の様子。                                               

地元の人に交じって、大きなザックを背負った外国人がたくさん乗り込んできます。

     日本語よりも英語、中国、他の外国語と様々な会話が飛び交う。

富士急行線 (「ジョルダン」より)

山梨県大月市大月駅から富士吉田市富士山駅を経て南都留郡富士河口湖町河口湖駅までを結ぶ、富士山麓電気鉄道が運営する鉄道路線の総称である。駅ナンバリングを構成する路線記号はFJ。大月駅から富士山駅までの大月線(おおつきせん)と、富士山駅から河口湖駅までの河口湖線(かわぐちこせん)の2路線で構成されている。両線で一体的に運行されている。

JR東日本・央本線の大月駅(標高358 m)から富士山駅でスイッチバックし、富士山麓の河口湖駅(標高857 m)まで登る。地元住民の生活路線であると同時に、首都圏から富士山・河口湖周辺への観光路線でもある。正式には、途中の富士山駅を境に大月線と河口湖線に分かれているが、列車運行上は1路線として一体的に運用され、公称でまとめて「富士急行線」と案内されている。なお、2022年4月1日富士急行は鉄道事業を富士山麓電気鉄道として分社化したが、当路線については路線名称の変更はなく、案内上も変化はない。

大半を相模川上流の桂川、中央自動車道富士吉田線と国道139号(富士みち)が並行する。最急40 勾配と半径200 m前後の急曲線が小刻みに連続する線形を持つ山岳路線である。富士急行線内で特急列車富士山ビュー特急」が運転されているほか、特急「富士回遊」や普通列車などのJR中央本線高尾新宿東京方面との直通列車も設定されている。

  (この項、「Wikipedia」より)

富士山に一番近い鉄道 

富士急行線は全長26.6キロで、大月駅から河口湖駅まで運行しています。
大月駅から富士山に近づくように進み、標高差は約500mあります。
2013年に富士山が世界遺産となり富士五湖エリアは観光客や登山者から人気があります。(「富士急行」HPより)

※ 往路は普通電車、復路はで(+400円)。

 

                 しばらく里山風景が続く。左奥には「三つ峠」。

座席もいっぱいで、写真を撮るためにウロウロも出来ず。座ったまま、スマホで撮るしか・・・。

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向島百花園。晩秋の。とらのおすずかけ。そなれまつむしそう。ざくろ。みつばあけび。ねむのき。すいふよう。きつねのまご。・・・

2023-10-22 20:32:00 | 向島百花園

久々に向島百花園に。よく晴れた土曜日。日なたはぬくぬく、日陰になると、肌寒い。そんな午後。

けっこう人が訪れています。

       左:とらのおすずかけ。右:まつむしそう。

・トラノオスズカケ

四国、九州に分布する希少な植物で、現在では絶滅危惧種に指定されています。
 自然教育園のスズカケトラノオは平賀源内が江戸時代、松平讃岐守の故郷から持参し移植したと言い伝えられています。
 園内では1949年(昭和24年)に絶えたと考えられていましたが、2007年(平成19年)に58年ぶりに再発見されました。「国立科学博物館附属 自然教育園 http://www.ins.kahaku.go.jp/ 」

(この項、「雑学のソムリエ」HPより)

・ソナレマツムシソウ

秋の高原に紫色の花を咲かせ、多くの人に好まれている花にマツムシソウS. japonicaがありますが、開発・乱獲等により激減し、現在では絶滅危惧種に指定されています。
そのマツムシソウの変種にあたるソナレマツムシソウの実生株が 2 年越しで開花しました。

「ソナレ」とは磯馴なれの意味で房総半島・三浦半島・伊豆半島の限定された海岸に生育し、一部愛鷹山などの山地にも見られます。
母種であるマツムシソウは、草丈 1 mほどで開花後枯死する越年草であるのに対し、ソナレマツムシソウの特徴は、小型で土壌条件にもよりますが花が咲いても枯れずに残る多年草であること、花期にも根生葉があり葉が厚く光沢があること、花茎があまり長く伸びず、多数の花茎が見られることなどがあげられます。
本変種も母種と同じく絶滅危惧種に指定され、地元神奈川県などでは保護増殖事業が行われています。現在、手元にある実生株は草丈30cm余りで、咲き終わったものを含め、30本ほどの花茎をあげています。マツムシソウ好きの方には小型の鉢植え山草として、また花壇などの植栽材料としての利用が考えられます。(「東京農大農学部植物園から」HPより)

※「マツムシソウ(松虫草)」の名は、花の終わったあとの坊主頭のような姿が、仏具の「伏鉦」(ふせがね:俗称「松虫鉦」)に似ているところから。松虫の鳴く頃に咲くから、との説もある。(「季節の花300」HPより)

園内には、実がなっている草木も。

ふくろくじゅうり。

ざくろ。

            

みつばあけび。

果肉はそのままで甘く食べられる。

ねむのき。莢がたくさん。

       ねむのきはマメ科の植物。実がなると、納得!

 すすき三景。

             

きつねのまご。

名前の由来はよく分かっていない。花序が花の咲いたあとに伸びるのがキツネの尾のようだとか、花の形がキツネの顔を思わせるからなどの説も見かけるが、根拠に乏しい。(「Wikipedia」より)

ほととぎす。

            花の紫色の斑点のようすを鳥のホトトギス(杜鵑)の胸にある斑点に見立てたことによる。

すいふよう。

【スイフヨウとは】

・中国の中部を原産とするフヨウの園芸品種。性質はフヨウと同じだが、時間帯によって花色の変わる様を、酔客の顔色になぞらえてスイフヨウと名付けられた。花を観賞するため、庭園や公園に植栽される。

・花はフヨウと同じ一日花で、午前中は白色だが、日が暮れるに従って赤みを増し、夜には完全な紅色になる。また、夜に赤くなった花は翌朝、元気なく萎んでおり、その様も酔っ払いのそれを彷彿させる。

何事も かかる浮世か 月の雲(七十二峰庵十湖句碑)

       

もみじは、まだ色づかず。晩秋の百花園でした。

※門の額「花屋敷」太田蜀山人の筆。

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その7。谷中湖(旧谷中村)展望台。思い出橋。わたらせ自然館。「板倉東洋大前」。田中正造・川俣事件。公害の原点。福島原発事故。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-20 21:18:22 | 歴史・痕跡

「←栃木県栃木市 群馬県板倉町→」。

  谷中湖(旧谷中村)展望台。

         △印は、2019.10.13.台風19号による洪水時水位。

強風に煽られながら、上がってみます。南西方向。

南東方向。

     北東方向。

                         遠くに「谷中湖北水門」。

   北西方向。

        再び「←群馬県板倉町 栃木県栃木市→」。

         この付近は、旧渡良瀬川流路に沿って県境が入り乱れています。

「谷中湖」と離れ、「思い出橋」から東武線「板倉東洋大前」駅に向かいます。

「思い出橋」。

            

振り返る。

           

「わたらせ自然館」。

渡良瀬遊水地のインフォメーションセンター。大谷石造りの米蔵を改築利用して、緑道に続く渡良瀬遊水地の入り口に開設しました。東京ドーム700倍の面積に660種以上の植物を抱える広大な渡良瀬遊水地には、年間8万人もの人々が訪れます。その遊水地を立体模型や植物のジオラマ展示などで紹介しています。

「板倉東洋大前」駅。

                           しゃれた駅舎。

※「谷中村」と田中正造に関して。

「日光千人同心街道」歩きのときの「川俣事件記念碑」、「田中正造終焉の地碑」などについて。

川俣事件記念碑」。

                     
碑 文
 川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である
 明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた 生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった
 1898(明治31)年9月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しっを決行した
 その数一万余人 薄着姿の老人も見られたという
 時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い 多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した その演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという
 この後田中正造は足尾銅山鉱毒問題解決に献身し 議会に於いても 再三再四政府を追及したが 政府の答弁は終始曖昧に終わった
 1900(明治33)年2月13日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために 被害民たちは決死の覚悟で第4回目の東京押出しを決行した
 前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した2500余名の被害民は翌朝9時頃大挙上京請願のために同寺を出発 途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村大佐貫(現明和町)に到着 ここで馬舟各一隻を積んだ2台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手間同村川俣地区内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ち受けた300余名の警官隊に阻まれ 多くの犠牲者を出して四散した これが川俣事件である 
 この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は 村医を呼び負傷者に応急手当を施し 炊き出しを行いにぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し これを後世に伝えている
 この後 政府の措置に失望した田中正造は 衆議院議員を辞職し天皇に鉱毒問題を直訴 以後谷中村遊水池化反対闘争へと戦いを続ける 
 この地で川俣事件が発生してから100年が経過し いま足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び 環境問題にも強く訴え続けている
 この史実を風化させないために ここに川俣事件発生100年にあたり 記念碑を建立し 後世に伝えるものである。

「上宿橋」際に立つ記念碑。

正造終焉の家、佐野市指定史跡に           
 正造が息を引き取った佐野市下羽田町の庭田家が、「田中正造終焉の家」として佐野市の指定史跡に決定しました。
 正造が亡くなってちょうど100年となる9月4日付けで指定となりました。
 1913年、8月2日、河川調査から谷中村へ帰る途中、支援者だった庭田清四郎(現当主・庭田隆次さんの曽祖父)宅で病に倒れました。妻カツや木下尚江をはじめ、大勢から献身的な介抱を受けましたが、同年9月4日、同家の8畳間で亡くなりました。
                           
 『田中正造終焉の家』 佐野市下羽田町19-2
   ※ 個人宅のため、見学は要連絡(0283-23-1439)
   お問い合わせ 佐野市生涯学習課 文化財保護係 0283-61-1174
(注:2013年の記事)

田中正造翁終焉の地」碑。
 真の文明ハ(は)山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さゞるべし
 田中正造翁は運動の途中倒れ、1913(大正2)年9月4日栃木県佐野市下羽田(旧足利郡吾妻村)の庭田清四郎家で満71才の生涯を閉じた。翁は、近代日本の公害の原点・足銅山鉱毒事件」で苦しんだ被害民の救済・人権回復に半生を捧げた。
 明治政府は、被害地人民の生命と生活をかえりみず最後は谷中村を廃村にし、残留した被害民の家屋まで強制破壊した。
 翁は「亡国日本」を救う運動の中でつちかった「人権・自治・環境・自然との共生・憲法政治の確立・平和・軍備全廃」思想を百年前に主張している。翁こそ、環境人権破壊に抗する人びとの味方として永遠に記憶に留められる人物である。
 庭田家ではその後、現当主隆次氏まで4代にわたって、田中翁が病臥し死去した部屋をそのまま保存し訪れる人びとに翁の思想と行動を伝え続けている。
 庭田家の近くの雲龍寺(群馬県館林市下早川田)は鉱毒被害民運動の拠点だった。当時の住職黒崎禅翁師も被害民と共に闘い川俣事件で逮捕された。
 雲龍寺には翁の分骨地墓と「救現堂」「足尾鉱毒事件被告之碑」がある。
 庭田邸と雲龍寺には「田中正造翁終焉の地」として、「百年の悔いを子孫に伝うるなかれ」という翁の戒めを私たちに常に発信し続けている歴史的精神的遺産である。

 2017年8月吉日 記念碑建立実行委員会                    

「足尾鉱毒事件」で生涯を捧げた田中正造の墓がある雲龍寺。
 
「足尾鉱毒事件対策事務所」が置かれていた寺でもあります。

   
 ・・・この墓は田中正造の没後20年にあたる昭和8年(1933)に、渡良瀬川沿岸に住む人々の浄財によって建てられました。墓石は高さが約3m「あり、首部の細い特徴のある宝塔です。・・・墓の右手に建つ「救現堂」には正造が祀られています。「教現」は、正造が死の13日前に述べた「現在を救い給え」という祈りの言葉に由来するものです。
 日本の近代史の一編を語るとともに、低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡です。


            鉱毒にいのちのかぎり 田中正造」 

大正二年九月四日 享年七十三才 田中正造翁終焉の地」。

正造の歌「毒流すわるさ止めずバ我やまず渡良瀬利根に地を流すとも」。
 
田中 正造
 天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)。
 日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。
 生まれは名主の家ではあったが、田中本人によれば村では中流でそれほど裕福な家ではなかったという。
 父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。
 明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。
 1874年(明治7年)に釈放されて小中村に戻り、1876年(明治9年)まで隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。幕末に大沢カツと結婚している。
 1878年(明治11年)、区会議員として政治活動を再開。栃木新聞(現在の下野新聞)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。また、嚶鳴社や交詢社に社員として参加している。
 1880年(明治13年)、栃木県議会議員。1882年(明治15年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。県令(現在の知事)だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年(明治18年)逮捕される。1886年(明治19年)4月1日開会の第13回臨時県会で、議長に当選する。
 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。
 1891年(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った。1896年(明治29年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。
 1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。
 1900年(明治33年)2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。当時の総理大臣・山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。
 1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説をたびたび行った。
 12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っている。
 1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。
 1902年(明治35年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加。計画は白紙になった。
 1903年(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはじめられた。
 1906年(明治39年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。1907年(明治40年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。
 1908年(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。
 土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。71歳没。
 財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。
 雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。
 田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。
 足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山となり、現在でもその跡を残している。そして田中が明治天皇へ行おうとした直訴状は、2013年(平成25年)に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた今上天皇へと伝えられることとなった。未遂から実に112年後のことであった。

正造の墓の所在地
佐野町(現・佐野市) 惣宗寺 - 正造の本葬が行われた寺
渡瀬村(現・館林市) 雲龍寺 - 正造の密葬が行われた寺。また、鉱毒対策事務所が置かれていた寺でもある。
旗川村(現・佐野市) 浄蓮寺 - 田中家の菩提寺
藤岡町(現・栃木市) 田中霊祠 - 田中を葬るために谷中村跡につくられた祠。後に藤岡町堤外に移転。
利島村(現・加須市) - 川辺村民と利島村民が協力し、利島小学校敷地内に造営(現・加須市立北川辺西小学校。加須市麦倉所在)。
久野村(現・足利市) 寿徳寺 - 1989年に公表された6番目の分骨地。

(以上、「Wikipedia」参照。)

広大な谷中湖。サイクリングロード、散策路、釣り、水上スポーツ、老若、多くの人々の一位との憩いの場として親しめる存在となっています。その北西部に湖をハート形にしてまで残された谷中村史跡・・・。

「足尾銅山鉱毒事件」・「谷中村廃村」は、けっして120年以上昔の公害問題だ、と済ませるわけにはできません。

「チッソ水俣工場」により引き起こされた「水俣病被害者救済問題」は70年以上経った今も解決していません。

そして、何よりも12年前に起きた「福島第一原発事故」。

大量の放射線放出により、長年住み慣れた土地、家を捨て、故郷を離れざるをえなくなった多くの住民。いまだに帰村することができない地域も存在しています。政府が先導する帰還事業もほとんど進んでいません。

また、多くの漁民の反対の声を踏みにじり、「汚染処理水」海洋放出を強制的に実施しています。・・・

「百年の悔いを子孫に伝うるなかれ」という田中正造の戒めを私たちも常に心に留め、発信し続けていく重要性を感じます。  

「わたらせ渓谷鐵道」に乗ってから気になった、「足尾銅山」廃山後の地元、さらに、渡良瀬貯水池・谷中村巡りを終了します。   

関東エリアのローカル鉄道の旅。次回は、「富士山麓電気鉄道富士急行線(大月~富士山~河口湖)」。

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その6。谷中村の変遷・屋敷跡・水塚。体験活動センターわたらせ。ウインドサーフィン。県境。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-19 20:13:48 | 歴史・痕跡

解説板。

              

拡大してより詳しく、

洪水から住居を守るため施した当時の盛土や水塚(みづか・みつか)の跡が点在し、昔の面影を残しています。

・・・昭和47年(1972)、谷中村の中心部にあった役場などを残すよう関係者が話し合いました。昭和51年、役場、雷電神社、延命院などを残すことで貯水池建設工事が始まり、平成2年(1990)に現在のハート形の谷中湖が完成しました。この渡良瀬遊水池は、谷中村廃村や周辺地域の大きな犠牲の下にあることを忘れてはなりません。

栃木市 看板管理(谷中村の遺跡を守る会)

※谷中湖がハート形になっているのには上記のような経緯があったわけです。

             「谷中村の移り変わり」。

《左》渡良瀬遊水池からみた谷中村      《右》史跡保全ゾーン周辺図

はるか遠くに筑波山。

      屋敷と背後に田畑が広がっていたようす。

盛土(「水塚」)。

その上にかつての屋敷跡。小さな祠が残されています。

                

湖の方へ戻ります。

            

         「体験活動 センターわたらせ」。

「体験活動センターわたらせ」では、渡良瀬遊水地の利活用及び湿地環境等に関する情報提供、資料の公開、展示や渡良瀬遊水地の環境を生かした体験・環境学習などの支援を行っています。

谷中湖。

湖面にウインドサーファーの姿が。

       

           強風の下、けっこうスピードがあります。

             

右手には「子供広場ゾーン」。

「水辺ゾーン」。

                

    

                 「←群馬県板倉町 栃木県栃木市→」。

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その5。雷電橋。ススキ。自然のふれあい それゆけ藤岡島。谷中村史跡ゾーン。屋敷跡碑。イノシシ親子に遭遇。村役場跡。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-19 09:36:55 | 歴史・痕跡

雷電神社の先は、整地され、一面、広々としたところに。

散策路があるようですが。

雷電橋。

       

             

この一帯には、家屋や田畑、屋敷林などもあり、人々の暮らしがありました。今は、すっかりアシなどの原に。

木々が生い茂る小道。

至る所に「イノシシ出没注意」の看板があります。年寄りにはちょっと・・・、引き返すことに。

    

墓地のところまで戻ります。

                              ススキ。

湖沿いの道を再び歩きます。

                         湖面に浮島が見えます。

                 渡良瀬遊水池エコプロジェクト。

みんなでつくった谷中湖の鳥・魚のヒミツ基地 自然のふれあい それゆけ藤岡島

湖面に浮かぶ浮島は、1999年6月17日(木)、藤岡町立藤岡小学校の5年生64名が植物の苗を植栽し製作したもので、製作に参加した児童によって命名されました。

芝生の広場に出ます。

              右手奥一帯が、「谷中村史跡ゾーン」。

屋敷跡の杭が設置されています。

落合雄吉屋敷跡。

       橋を渡り、向う側に行こうとしましたが、

イノシシの親子が対岸に。

               しきりに食べ物を探しているようです。木の実でもあるのか。

しばらく眺めていると、

  走って左奥の藪の中に消えていきました。途中、じゃれあったりして、まさに自然体です。

イノシシたちが消えていく後ろをゆっくり進みます。

         

村役場跡(休憩所)。

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その4。一面ヨシの原。旧谷中村の歴史。延命院共同墓地。雷電神社跡。ヒガンバナ。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-18 09:47:49 | 歴史・痕跡

一面ヨシの原。

             

谷中湖。

小高い丘、森が点在。

                       旧谷中村の一部があった付近。

         

湖面一帯にも集落がありました。

谷中村の歴史

渡良瀬川巴波川思川の合流地点付近にあった。村の北は赤麻村で、間には赤麻沼・赤渋沼・石川沼・前原沼があった。西は旧上野国群馬県)海老瀬地区で、大正7年(1918年)に藤岡台地を開削・通水する以前は、渡良瀬川が「七曲がり」と呼ばれ屈曲して境を流れていた。これは現在も栃木・群馬県境の形として引き継がれている。

室町時代からこの地は肥沃な農地として知られていた。江戸時代には主に古河藩が開拓を行った。当時から洪水が頻発していたため、古河藩はこの地の年貢を大幅に減免する措置をとった。しかし、洪水がない年の収穫は非常に大きく、1年収穫があれば7年は食べられるとも言われたほどだったという。

1888年に全国で市町村制度改定があり、内野、恵下野、下宮の3村が合併して谷中村が成立。

主な産業は稲作を中心とする農業で、レンガ工場もあった。赤麻沼などで漁業も行われていた。詳しい記録は残っていないが、元村民の島田宗三によれば面積13平方キロメートル、人口2700人、戸数450戸。

足尾鉱毒事件

明治中期以降は、渡良瀬川が氾濫するたびに板倉町などとともに足尾鉱毒の被害を受けるようになり、以後、鉱毒反対運動の中心地となる。

1902年(明治35)、政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てる。しかし、予定地の埼玉県北埼玉郡川辺村利島村(現在の加須市北川辺地区)は反対が強く、翌年には予定地が谷中村に変更になる。

1903年1月16日、栃木県会に提案されていた谷中村遊水池化案が廃案となる。この時点で谷中村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年7月30日から実質的に谷中村に移住した。

1904年、栃木県は堤防工事を名目に渡良瀬川の堤防を破壊。以後、谷中村は雨のたびに洪水となった。同年12月10日、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。このとき、谷中村遺跡を守る会によれば、人口2500人、戸数387戸。面積1000町歩。

鉱毒により作物が育たなくなった時点での価格が基準とされたため、買収価格は1反歩あたり田が20円、畑が30円と、近隣町村に比べ非常に安かった(約5分の1といわれる)。

末期には鉱毒で免租となったために多くの村民が選挙権を失い、村長のなり手がなくなった。このため、最後の村長は下都賀郡の書記官である鈴木豊三が管掌村長という形で兼任した。鈴木は税金の未納などを理由に村民らの土地を差し押さえるなど、廃村に協力した。

栃木県は1906年3月、4月17日までに立ち退くよう、村民らに命じた。3月31日、村に3つあった小学校のうち2つが、谷中村会の議決を経ることなく強制的に廃校になった(残りの1つは藤岡町立となり、1913年3月末まで存続)。4月15日、谷中村会は藤岡町への編入合併案を否決。5月11日、栃木県は7月1日をもって谷中村を藤岡町に編入すると発表。7月1日、管掌村長の鈴木は、栃木県に、谷中村は藤岡町に編入したと報告。谷中村は強制廃村となる。この時点での人口は島田の推計で1000人、戸数140戸。しかし、一部の村民は村に住み続けた。

1907年1月、政府は土地収用法の適用を発表。村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出た。多くは、近隣の藤岡町や茨城県猿島郡古河町(現在の古河市)などの親類宅に身を寄せた。この年、島田による推計で村の人口400人、戸数70戸。最後まで立ち退かなかった村民宅は6月29日から7月2日にかけ、強制執行により破壊された。破壊された戸数は16(堤内13戸、堤上3戸)。しかしこの16戸(田中正造も含む)はその後も村に住み続けた(のちに1戸減)。

1908年7月21日、政府は谷中村全域を河川地域に指定。

1911年、旧谷中村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始。この地は現在の常呂郡佐呂間町栃木である。しかし、移住民のほとんどが定着に至らず、その後の帰県活動へと変遷することになる。

1912年、買収額を不当とする裁判の判決が出る。買収額は増やされたが村民らは不満として控訴。1919年には買収額を5割増しとする判決が出たが、村民達には既に裁判を続ける気力が残っておらず、そのまま確定した。

1914年、残留村民らが田中正造の霊を祀る田中霊祀を建設したところ、河川法違反で連行され、裁判で罰金刑を受けた。なお同様の裁判はこれ以前にも数例ある。いずれも、仮小屋に住んでいた元村民が小屋の修理をした際に河川法違反に問われたものである。

1917年(大正6)2月25日ごろ、残留村民18名が藤岡町に移住。ほぼ無人状態となる。田中霊祀も同年3月に藤岡町に移転した。

2022年10月31日現在、旧谷中村の大字に当たる栃木市藤岡町下宮と同市藤岡町内野に若干名が住み、かつての藤岡町恵下野は無住となっている。栃木市藤岡地域内に旧谷中村合同慰霊碑が、渡良瀬遊水地内に谷中村役場跡・雷電神社跡などの遺構があり、見学することが可能である。

《村民の主な移転先》

大字ごとに傾向が分かれ、下宮からは茨城県古河市、内野からは藤岡町、恵下野からは野木町への移転数が最多であった。全体での移転先は多い順に下記の通り。

(この項、「Wikipedia」より)

※以下「下野新聞」《アカガネのこえ ―足尾銅山閉山50年》より

志鳥谷中-。那須烏山市志鳥の山あいの地も移住先の一つだ。「山で地力がないから、いい作物は採れなかった」。子孫の亀田東一(かめだとういち)さん(82)は、苦労を重ねた先祖に思いをはせる。

 志鳥がある下江川村(現那須烏山市)へは県のあっせんで18戸が入植した。谷中村が強制廃村となる前年の05(明治38)年。亀田さんの曽祖父の時代だった。

 農閑期は村の経験を生かして菅笠(すげがさ)作りで生計を立てた。その後のタバコと養蚕は一時期、この地を一大産地にした。痩せ地の原野は変貌した。

 亀田さんは打ち明ける。「昔は『谷中』を口にしなかった。かつて、ばかにされるように使われた言葉だから」。年を重ね、そんな意識は自然と消えた。

 現在の志鳥谷中は田畑が連なる中、民家が点在する。

・・・

ヨシ原の奥にお墓がいくつか見えます。

小道をたどって近づきます。

                 

点在するお墓。

   雷電神社跡

雷電神社は、雷除け、雹除け、厄除け、豊作祈願などの神様です。谷中村周辺一帯は、農作業中の落雷事故を避けようと、雷電信仰が盛んでした。谷中村へ移住した田中正造が、村を守るために尽力した村民を慰め激励した場所でありました。亡くなる直前には、谷中村に帰り、この神社にて病気の治療を望んだと言われるほど雷電神社を敬愛していました。・・・この雷電神社は、谷中村廃村後も、田中正造と谷中村廃村に反対する人々が,村に残り続けたため長く残りました。建物がなくなったあとも盛り土や水塚の跡により当時を偲ぶことができます。この雷電神社跡は、谷中村の存在を後世に伝える歴史的に貴重な場所と言えます。 

 延命院跡・鎮魂の鐘。

延命院共同墓地

延命院は、その敷地から大きな寺院だったことが推察されています。延命院共同墓地は、谷中村廃村後も谷中村の人々に使われ続け、特に残留民には、雷電神社戸共に、心の拠り所となりました。谷中村が廃村になってからも、多くの墓石や供養塔が残りました。点在した石造物の大部分は、渡良瀬遊水池周囲堤の外側の旧谷中村合同慰霊碑へ移転しています。しかし、関係者の要望により、延命院の周囲には供養塔や僧侶の墓塔である無縫塔、そして村民の少数の墓石が残りました。昭和61年(1986)、埼玉県幸手市の消防署施設から延命院の半鐘が発見されました。・・・

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その3。「西橋」・「東橋」。イノシシ出没注意・うり坊。越流堤。東谷中橋(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-17 09:35:58 | 歴史・痕跡

「谷中湖」を横断する中央橋を歩きます。

「西橋」。日光連山。

「渡良瀬貯水池」。

               左右に水面が広がります。

橋の方向を振り返る。

                   中央奥は、「谷田川第一排水機場」。

快晴ですが、強風にあおれる。樹木もこんなようす。

「中の島」。そのまま東に進みます。

  「イノシシ出没注意」の看板。

・近づかない ・刺激しない ・出会ったら静かに離れましょう ・うり坊の側には親が必ずいます

イノシシの子ども時代をうり坊と呼びます。たまらなく愛嬌があり可愛らしい姿なので、キャラクターなどでも使用されることがありますし、ぬいぐるみでもよく見かけますよね。

地方、地域などによっては、うり坊のことを「うりっこ」「うりんこ」などとも呼んでいます。いずれの呼び方もかわいらしい響きです。

「うり坊」と「イノシシ」、同じ動物なのに全く呼び名が違うのは不思議ですよね。イノシシの子どもは、なぜ「うり坊」と呼ばれるのでしょうか?

その理由は、うり坊の体の縞(しま)模様にあります。縞々模様が「縞瓜」によく似ていることから、「うり坊」と呼ばれるようになりました。うり坊を上からみたときの体型も、瓜を連想させます。

この縞々は、外的から身を守るための保護色。イノシシの子どもが生まれる春頃、森の木洩れ日の下で背景に溶け込みやすい柄です。大人になると模様は完全に消え、全身くすんだ黒や茶色の毛になります。

野生下だと子どものころは敵が多く、一度に3~5頭ほど生まれても1年生き残ることができるのはその半分ほどといわれています。

うり坊と呼ばれる期間は、だいたい生まれてから4カ月ほど。授乳期が終わるころには、可愛いうり坊も大人のイノシシの姿になります。

半年もたつと模様が消え、見た目は立派なイノシシです。しかし、完全に大人というわけではなく、子どもが作れるようになるまでには1年半ほど、完全に成獣になるまでには5年ほどかかります。

ちなみに、うり坊時代の体重は、ほぼ子犬と同じぐらい。だいたい5kg前後ですが、イノシシになると、70kg以上にまで成長します。個体によっては100kgを超えることもあるのだとか。大きな体ですが、走ったりジャンプしたりするのも得意と意外と身軽です。

とても可愛らしい姿のうり坊ですが、大きくなると迫力ある姿に成長します。あの姿は、小さな間の数カ月間しかみることのできないからこそ、より愛おしく感じるのかもしれませんね。

(この項、「Chiik!」HPより)

※この後、旧谷中村跡で出くわします。

      

「東橋」。

         日光連山。 

遠くに見えるのは赤城山。 

          

右手の湖面(南ブロック)。

     対岸は「越流堤」。

            洪水時には越流堤より調節池内へ水が流れ込み下流に流れる水の量を減らす。 

来た道を振り返る。

東端の案内図。湖の中央を西から東に渡ったわけです。 

「東谷中橋」付近。  

一面、ヨシの原。

                右手奥に現在の渡良瀬川が流れている。  

この先、谷中湖の東側に沿って、北上します。        

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「渡良瀬遊水池」・旧谷中村を訪ねて。その2。下宮橋・板倉川。渡良瀬遊水池付近の今昔、目的・足尾銅山鉱毒対策。谷中湖・旧谷中村。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

2023-10-15 15:27:55 | 歴史・痕跡

「下宮橋グラウンド」。

「旧谷中村・谷中湖 (渡良瀬貯水池)」案内板。湖のハート型になっています。

この付近の今昔(「歴史的農業環境閲覧システム」」より)

                            現在のようす。県境(破線)はかつての渡良瀬川の流路。

                            1880年代のようす。かつての渡良瀬川は激しく蛇行する。                            

「下宮橋」。板倉川に架かる。

     

                 

橋を渡り、土手に上がると、眼前に大きな「谷中湖」が。

                            「道と川百選 渡良瀬遊水池」。

遠くに筑波山。

             

                            男体山など日光連山。

谷中湖は、洪水調節・水道用水の安定供給等を目的に第1調節池内に建設された貯水池の通称です。
その規模は、面積約4.5平方キロメートル、総貯水容量2,640万立方メートルで、平成2年度よりダムとしての利用を開始しました。
また、周辺を含めた広大な空間は、スポーツやレクリエーションの場として親しまれており、現在までに約百万人の人々が訪れています。

(この項、「」HPより)

※「谷中湖」は、渡良瀬遊水池の中で、唯一、常時水を貯めている。湖の北東部は、葦が生い茂る遊水池などになっている。

台風・豪雨で大量に水量が増えると、一帯が水没します。

中央の「谷中湖」だけでなく、北東、下流一帯が水没している。

             

八ッ場ダムより水を貯めた渡良瀬遊水地の誕生秘話

 2019年は29個の台風が発生し、このうち5個が日本に上陸した。特に台風19号は、列島に甚大な被害をもたらした。国土交通省によると、豪雨で川の堤防が壊れる「決壊」は7県、71河川、140か所で発生。川の水が堤防を越える「越水」は16都県の延べ285河川で発生した。

 SNSなどでは「八ツ場ダムが首都圏を救った」という情報が拡散されたが、その貯水量は7500万立方メートル。

 だが、それ以上に水を貯めたのが渡良瀬遊水地だった。渡良瀬遊水地の貯水容量は東京ドーム140杯分に当たる約1億7000万立方メートル。今回の台風では過去最大となる約1億6000万立方メートルをため込んだ。

 日本最大の遊水池の面積は3300ヘクタール。東京都内を走る山の手線内の南半分(中央線以南)の面積にも匹敵する。・・・

(この項、「橋本淳司水 ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表2019/12/30(月) 12:00」より一部引用。

足尾銅山鉱毒事件

日本の公害の原点。古河市兵衛経営の足尾銅山から流出した重金属を含む鉱滓や酸性廃水によって,渡良瀬(わたらせ)川の中・下流,利根川下流域の10万ヘクタールに及ぶ農地が鉱毒被害をうけた。被害農民は田中正造とともに明治政府に対して足尾銅山の操業停止を訴え,東京へ押し出し(大挙請願運動)を行うなど,強力な鉱毒反対運動を展開,大きな社会問題となった。政府は刑事弾圧を加える一方(川俣事件),日露戦争中に鉱毒問題を治水問題にすりかえて運動を分断し,1907年(明治40)遊水池設置のため谷中(やなか)村民の家屋を強制破壊した。今も足尾には,約2000ヘクタールの禿げ山,旧谷中村(現,栃木市)周辺に3000ヘクタールもの湿地帯が広がり,鉱毒事件の生き証人となっている。

(「山川日本史辞典 改訂新版」より)

※「田中正造」、「川俣事件」は、後述します。

・・・足尾鉱毒事件の発生当時は、鉱毒対策が目的で設けられたのではなく、洪水防止が目的とされたが、1903年の大日本帝国政府の第二次鉱毒調査委員会が、足尾銅山の渡良瀬川下流部に遊水池を設置する案を提示したことを受けて造成されており、鉱毒対策目的であることは明白であった。

法令上は、国土交通省が管轄する河川の内部になっている。足尾鉱毒事件から100年以上経って鉱毒は減少し、主に治水と利水のための地域になっている。ただし、減少したのは上流から新たに流れてくる鉱毒の量であって、遊水地の土壌には2020年現在も銅などの重金属が多く含まれている。

面積は約3300haで羽田空港の2倍以上の広さがある。ゴルフ場が造成されている場所があったり、ごく一部に旧建設省の許可を得て圃場が行われた場所があったりするが、建物はなく、若干の道路と橋のみがある。

内部に第1調節池、第2調節池、第3調節池がある。渡良瀬川の西側が第1調節池である。第2調節池は巴波川の東で、第3調節池は渡良瀬川と巴波川の北側である。第1調節池はかつてお化け沼と呼ばれ、釣り人に親しまれたが、その後の造成により南側の一部がコンクリート張りの谷中湖になった。谷中湖を除く第1調節池の大部分と、第2・第3調節池は、増水時のみ貯水する構造で、平時から池としての実態があるのは、谷中湖のみである。

(この項、「Wikipedia」より)

この付近の今昔。

   

     谷中村は廃村になり、住宅や田畑は、すべて遊水池となった。(「今昔マップ」より)                            

※1 人の住まなくなった旧谷中村の跡地に土砂が堆積して葦(ヨシ)が自生するようになり、現在では遊水地の総面積の約半分(1,500ha)にヨシ原が広がっている。ヨシは、ヨシズなどの地場産業に利用されてきた。冬の間にヨシを刈り取ったのち、3月下旬に「ヨシ焼き」が行われる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

※2「ヨシ焼き」は、去年(2022年)3月5日。江戸川歩きの初日に黒煙を目撃しました。

利根川と江戸川の分岐点から。

午前8時半、遊水地の各所で一斉に火入れ。土手に並んだ見学者は、ヨシが春風にあおられ燃え上がる様子を写真に収めていた。 同会は「例年より早く燃えた。ドローンも使い、鎮火確認もスムーズにできた」とした。

       

(この項、「下野新聞チャンネル」HP。映像は「YouTube」より))

                         ※栃木市内でもそのときの灰が降ってきたようです。

※3 旧谷中村の中心部は、「谷中村史跡保全ゾーン」として、水塚(みづか・みつか)や史跡(役場跡・雷電神社跡・延命院跡・谷中墓地等)が保全されている。          

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