おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

自転車で転倒!大けがをして41日。そして、「中原街道」歩きを始めます。

2024-12-29 19:38:34 | 中原街道

右肩が思うように上がらない、使えない年末になるとは思いもよりませんでした。

が、12月28日(土)。快晴。久々に街道歩きを再開。

今回からは、「中原街道」。

江戸虎ノ門を起点として三田・馬込を通り、丸子で多摩川を渡り、佐江戸・瀬谷・用田を経て、さらに相模川を越え、平塚の中原で東海道につながるこの道は、「相州街道」「お酢街道」「江戸間道」などと呼ばれていた。ずっと後、小杉あたりでは下肥を積んだ荷車が頻繁に往来したので「こやし街道」などともよばれていました。

 徳川家康が江戸に入った1590(天正18年)には、まだ東海道は整備されておらず、家康は平塚からほぼ直線で江戸に向かうこの道を通ったのです。二代将軍秀忠が中原御殿と同じように小杉に御殿を建てたのは1608年(慶長13年)。家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍が鷹狩りなどの際、この御殿で休息し、さらに街道を通る西国の大名なども利用していたようです。

 やがて東海道が整備されると、大名行列などの多くがそちらを通るようになり、中原街道は脇往還となり、以前の賑わいを失いました。しかし、その後も沿線の物資や農産物の輸送などに欠かせない重要な道として、人々の生活に深い関わりを持ち続けてきました。

(この項「」HPより)

起点の「虎ノ門」へ。

「虎ノ門」交差点。左の建物は、「文科省」。

この付近の今昔

                                                                                                                                        

(現在)びっしり沿道には高層ビル。東南に愛宕山。       (1880年代)虎ノ門は、外濠(城内外の境目)に当たる。

歩き始めましたが、ビルの谷間を歩くことに。こういう高層ビル街を歩くことはないので、首が痛くなります。右腕も・・・                              

「金比羅宮」。丸亀藩主が四国讃岐の金比羅様を藩邸内に勧請した。 

  南方向を望む。高層ビル街。

西方向(溜池)を望む。周辺は、新しい地下鉄駅県設のため、工事中。

愛宕山方向。

ビルの窓ガラスが乱反射したような写真に。

「かしんとゆだんが事故を生む そのいっしゅんが大事だよ・・・」

我が大けがを暗示するかのような標語に一礼。

ということで、「五反田駅」まで歩くことに。この続きは、年明けに。

皆さん、良いお年を。(「北十間川・福神橋」より)

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自転車で転倒!大けがをして38日。そして、「年賀状終い」。巳年。プリントゴッコ。

2024-12-26 18:45:46 | 大けがリハビリ記

今年の元旦。年賀状。

「さて、私も馬齢を重ねて80歳となり、そろそろ「終活」を意識する年齢に差しかかりました。 人生の節目ということで、年賀状によるご挨拶は本年を限りに最後とさせて頂きたく存じます。 ・・・」

というハガキだけでなく、

そして、今年、高校時代の親友が亡くなって、奥さんから喪中はがきを受け取る時節になりました。

という小生も、去年で年賀状終い。

いっときは、100枚以上を出していた時期も。「旧年中はお世話になりました」「今年もよろしく」「お元気ですか。お会いしたいものです」という文面がかえって懐かしくなります。

そういえば、来年の干支は何のか? 年賀状に押すイラストで気づくこともなくなるか。

※2025年の干支は、「巳(ミ)」。 ヘビは脱皮しながら成長するため、「生命」や「再生」の象徴とされています。 現在でも全国各地でヘビを崇める風習が残っており、ヘビは金運にも恵まれるという言い伝えがあります。

※おのれつかず「己」、すでに半ば「已」、みいっぱい「巳」。

「伊豆島の大蛇全3ヶ所の東側」(蓮田市黒浜)。「元荒川」歩きのとき。

※この付近が、蓮田市とさいたま市岩槻区の境界線になります。

集落内の1軒に1人が夕方(3時頃)集まり、御神酒で清め「家内安全・五穀豊穣」も祈りながら作られ、「上顎」・「下顎」・「胴体」を別々に作ります。胴体は細く作りますが、これは何でも悪いことは食べてしまうようにとの願いが込められています。
胴体の巻き方は、注連縄と同じ「左巻き」に撚って作られています。藁で全長約2メートルに作り上げられた大蛇は、「破竹(はちく)」と呼ばれる竹に刺し、現在は3ヶ所に立てられています(東岩槻方面への新たな道路の完成によるため)。以前は、大蛇と共に榛名神社のお札(家内安全・五穀豊穣)を辻札として立てていたようです。これは春祈祷行事も兼ねていたものと思われます。

かつて、向いの笹山地区でも実施されていましたが、現在は行われていません。

「伊豆島の大蛇全3ヶ所の北側」。

(この項、「蓮田市」HPより)

へびうり。

        面白い奇妙な姿かたち・色あい。(「向島百花園」にて) 

 

ここで、年賀状のつぶやき編。但し、前年の年賀状のたわごと。

懐かしいね、先輩達も。手書きから干支のはんこでセッセと書いては、出していたんだから。

そういえば、何ていったけ? 昔、一枚一枚、俺たちの先輩たちを挟んでシュッパって光線を浴びさせて、やっていたよね。

たしか「プリントゴッコ」とかいったんじゃなかったっけ。

理想科学工業がかつて販売していた家庭用簡易孔版印刷機である。1977年(昭和52年)から2008年(平成20年)まで販売された。

透明フィルムカバーを跳ね上げ、専用インクを乗せた上で製版時と同様にプリンターの枠側内部に取り付け、印刷台に印刷用紙を乗せて圧着することでインクがマスターの樹脂溶解部分から紙に転写される、って「Wikipedia」では解説されているけど。

一瞬目がくらんだよね、いきなり先輩達の身体が焼き付けられるんだから。

懐かしいよね、その後はPCでやるようになって、いつしか無くなった。

今度は背中から押し込められて、すぐに完成品さ。住所も手書きでなくなるし。

でも、ここの爺さんは、住所だけは手書きで書いているよね、変なポリシー、こだわりがあるよね。

さてと、こうして元旦から一年間、この家にやっかいになっていたけど、そろそろお役御免かな。

そうそう、俺たちを参考にしながら、年賀状を書く風習だからね。

シュレッダーにかけられて粉々に。

・・・

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自転車で転倒!大けがをして36日。ようやく「お食い初め」。そして、「久留里線」。

2024-12-25 18:24:00 | 大けがリハビリ記

リハビリも順調? 右手でお箸を持って食事ができるようになりました。「お食い初め」。

お食い初めとは、生後100日を記念して行われるお祝い。お食い初めは古くは平安時代から行われている歴史のある伝統行事で、一生食べることに困らないように、と赤ちゃんの健やかな成長を願います。

お食い初めでは初めて箸を使ってお魚を食べます。実際に赤ちゃんが使って食べるわけではありませんが、初めて箸を使ってお魚を食べさせる真似をすることから「箸揃え」「箸祝い」「真魚始め」(まなはじめ)と呼ばれる場合もあります。

赤ちゃんが数か月間無事に成長してきたことを家族でお祝いし、感謝するという意味合いは変わりません。一生に一度きりのお祝い。

『吾妻鏡』には、源実朝が生後百十日目にお食い初めをしたという記述も残っています。初めて箸を使うので「箸揃え」「箸初め」「箸立て」とも呼ばれていました。そして、室町時代に書かれた『河海抄〔かかいしょう〕』に「冷泉天皇の生後百日後に御餅を供す」と記されており、この風習が「食い初め」と呼ばれるようになったそうです。

お祝い膳は、日本古来の献立「一汁三菜」が基本とされてきました。鯛など尾頭(おかしら)つきの魚と、赤飯、吸い物、煮物、香の物が献立となります。また、生後100日前後は、早い子ですと乳歯が生え始めることから、「歯固めの石」を用意し、丈夫な歯が生えるようにという願いを込めます。

喜寿を過ぎての二度目のお食い初めも乙なものです。

しかし、筋肉は確実に弱くなっていました。どこまで肩が上がるようになるのか。リハビリに励むしかないようです。

そして、JR久留里線。

久留里駅 - 上総亀山駅について2024年(令和6年)10月21日に行われた第5回検討会議で最終的な結論として「自動車中心の交通体系への移行することで利便性が高まる」との報告書が出され、同年11月27日、JR東日本は同区間の鉄道を廃止して「バス等を中心とした新たな交通体系へのモードチェンジを図ることが必要」とする方針を表明した。廃止時期や代替となるバスのルート・運行主体などは君津市と協議を進めるとしている。

木更津駅から上総亀山駅までの路線。その途中駅・「久留里駅」から終点の「上総亀山駅」までが廃線に。以前から出ていた話がいよいよ本格的になってきたようです。そこで、再掲。

久留里駅に停車中の列車。

「上総亀山」方向。

8月19日(土)に行われた「亀山音楽祭」のポスター。

車内風景。お客さんはぐっと少なく。

女子高生が一人。

久留里から3つ目が終点の「上総亀山」。乗客が少なくなる区間となる。

しかし、夏休みのせいか、キャンプに向かう子ども達や若者が乗っています。

                   

          

小櫃川?

           

       

耕作を放棄した(せざるを得ない)土地?

田畑に混じって、・・・

「平山」。

渓谷美。

列車の窓に当たる。

民家が遠くにポツンと。

「上総松丘」。

間もなく終点「上総亀山駅」。

      

「上総亀山」。

駅前広場のようす。

キャンプにいく子ども達と指導者。迎えの車に乗り込みます。他のお客さんも迎えの車に。当方は、このまま、折り返しとなる列車に乗り、木更津へ戻ることに。

行き止まりの線路。

           JR外房線「大原」までつなぐ計画が頓挫。

       

※上総亀山駅周辺には観光資源がないのでしょうか? けっしてそんなことはないようですが。

            

房総半島のほぼ中央部に位置する君津市の旧亀山中学校と隣接する坂畑小学校の2校を利用したキャンプ場です。
広々とした校庭、また校舎や体育館もご利用いただけます。ノスタルジーあふれる教室は全てがフォトスポット!動画の撮影等でもご利用ください。

(「CAMPiece君津」HPより)

       

亀山湖は1980年(昭和55年)に完成した亀山ダムによりできた人造湖です。房総半島の奥座敷として、緑豊かな大自然に囲まれ、千葉県下一の湖を有する観光地です。

四季折々の良さを感じながらのレジャーがおすすめです。都心からわずかに70分ちょっととは思えない大自然に訪れる多くの観光客が魅了されます。特に関東で一番遅いといわれる絶景紅葉にはシーズン中10万人近くの方が、色とりどりの紅葉を楽しみにいらっしゃいます。是非房総かめやまへ遊びにいらっしゃってください。

注:二箇所とも車を利用するように紹介されているのが、残念!

車の免許を返上したため、車で来ることも出来ず、諦めるしかない。残念!

こうしてタッチ・アンド・ゴーということで、折り返しの列車に乗って戻ることになります。

廃線後、交通弱者の移動手段など多くの課題があるようです。渓谷のすばらしさをどう残すか、など大いに議論して欲しいものですが。

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久々の「向島百花園」。すっかり冬模様。

2024-12-23 20:44:41 | 向島百花園

大けが後、久々の「百花園」。すっかり冬模様。

  門前の楓。

すっかり冬模様。 

                          ススキも刈り取られ、冬支度の松。

 菊も残りの秋を惜しむかのように。

  山茶花。

南天。

                       楓。 

早咲きの桜も。

 

「冬至」の日の百花園でした。何とかスマホで写真も撮れました。

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自転車で転倒!大けがをして33日。労災の手続きがようやく。そして、「紅葉狩」。三橋鷹女。

2024-12-22 18:57:29 | 大けがリハビリ記

早くも1か月。つい右肩を動かしてしまいそう。右手で少しずつ動かして食事ができるようになりつつあります。

三角巾も取れ、これからが手を上げる運動など、本格的なリハビリになりそうです。地域病院へ行くのは間遠になりそうですが。

怠ければそれだけ回復が遅れる、とか。街道歩きも復活できそう。

このかん、いつしか秋からすっかり冬へ。紅葉の華やかさも終わりに。

そこで、数年前に行われた夏の「歌舞伎鑑賞教室」を。

         

紅葉が夕日に照り映える戸隠山。余吾将軍平維茂(よごしょうぐんたいらのこれもち)が従者の右源太、左源太とともに紅葉狩にやって来る。そこには宴を張る先客がいた。聞けば、やんごとない女人が侍女たちとお忍びでお出掛けとのこと。維茂が遠慮しようとすると、その高貴な姫自ら、是非ご一緒したいと誘う。そこまで言われてひいては男がすたる。言われるままに維茂は宴に加わることにする。

さっそく酒よ、肴よと下へも置かぬもてなしぶりに、盃を重ねる維茂。腰元が舞を舞い、調子に乗った右源太、左源太も滑稽な踊りで座を盛り上げる。

なおも一献とすすめられた維茂は、その代わりにと姫に舞を所望する。恥ずかしがる姫だったが、局に手を取られ舞い始め、やがて二枚の扇をつかってあでやかに舞いすすめてゆく。

だが、ふと見ると美酒に酔いしれたか維茂はうたた寝をしている。姫は用心深く何度か様子を窺い、維茂が熟睡したことを確認すると表情を一転させ、維茂と従者を残して一同とともに山へ姿を消す。

鬼女の出現。

夜風にようやく目が覚めた維茂は、姫の正体を見届けようと山奥へ向かう。従者二人は恐れわななき、ころがるように山を下りていく。やがて維茂に追われて出てきたのは、形相凄まじい鬼女。

    

勇猛な維茂もたじたじと押されていくが、平家に伝わる名剣小烏丸(こがらすまる)の力を借り、鬼神を追い詰めていく。

信濃国の戸隠山にがおり、平維茂によってそれが退治されたというのが共通する伝説の要素である。その鬼は女性であり、名前を紅葉(もみじ)であるとするものが一般に流布されている。

                               (この項、「Wikipedia」より) 

美女が鬼に変身して暴れる、という意外性が面白い。当然、同じ役者が演じるわけですが。

華やかな舞台が繰り広げられます。

女性の俳人・三橋鷹女の有名な句、この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」を想起させます。

燃えるような夕紅葉には鷹女の句を通して、ゾクゾクとさせるものがあります。

・・・

女流俳人鷹女は、明治32年(1899)に成田町成田(現在の成田市田町)で、父三橋重郎兵衛・母みつの三女として生れました。本名はたかです。成田幼稚園、成田小学校をへて、成田高等女学校(現在の成田高等学校)を卒業しました。
 大正5年(1916)に上京、同11年(1922)に歯科医師の東謙三(号剣三)と婚姻し、夫と共に俳句にいそしみました。
 初めは「鹿火屋」、次に「鶏頭陣」などに属しましたが、のちには永く結社に拠らず、独自の句境を築きました。
   

   千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作)
 
三橋 鷹女(みつはし たかじょ)は、女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれました。

女性の情念を詠む前衛的な句風で、表現の激しさは、当時の女性俳人の中でも異色の存在でした。以下のような、まさに鬼気迫る句を残しています。

老いながらつばきとなつて踊りけり
墜ちてゆく 燃ゆる冬日を股挟み
鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪うべし


注:鞦韆=ぶらんこのこと。

成田山参道に「俳人・三橋鷹女」ブロンズ像。

                     
 女流俳人鷹女は、明治32年(1899)に成田町成田(現在の成田市田町)で、父三橋重郎兵衛・母みつの三女として生れました。本名はたかです。成田幼稚園、成田小学校をへて、成田高等女学校(現在の成田高等学校)を卒業しました。
 大正5年(1916)に上京、同11年(1922)に歯科医師の東謙三(号剣三)と婚姻し、夫と共に俳句にいそしみました。
 初めは「鹿火屋」、次に「鶏頭陣」などに属しましたが、のちには永く結社に拠らず、独自の句境を築きました。
   夏痩せて嫌いなものは嫌ひなり
   白露や死んでゆく日も帯締めて
   口中一顆の雹を啄み 火の鳥や
 などの句はよく知られています。
 昭和47年(1972)、73歳で永眠しましたが、生家に近い田町の、通称白髪毛にある三橋家墓所に葬られました。
   千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作)
 このブロンズ像は鷹女の生誕百年を迎えるに際し、市民ならびに多くの賛助者の協力によって、彼女の姿をふるさとの地成田によみがえられたものです。

                     鷹女の像をつくる会

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冬至。「冬来たりなば、春遠からじ」・「冬は必ず春となる」。ウツボグサ(空穂草、靫草)。ヘラジカ。一陽来復。我が家のネコたちは、・・・。

2024-12-21 16:09:03 | 二十四節気

今日、12月21日は二十四節気のうちの22番目「冬至」。本格的な冬将軍が訪れています。

19日には、東京や大阪、奈良などで「初雪」が観測されました。東京では平年より15日早く、昨シーズンより25日早い観測です。東京で12月中旬までに初雪が観測されるのは8シーズンぶりです。

東京。今日は穏やかな晴天。

北半球では太陽南中高度が最も低く、一年の間でが最も短くが最も長くなる日(南半球では逆転する)。

『暦便覧』では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明している。

太陽の動き

冬至は1年間で太陽の位置が最も低くなる日であり、1年間で日中が最も短くなり、冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始めるとされている。

秋分から春分までの間、北半球では太陽は真東からやや南寄りの方角から上り、真西からやや南寄りの方角に沈む。冬至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も南寄りになる。また南回帰線上の観測者から見ると、冬至の日の太陽は正午に天頂を通過する。

冬至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で極夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で白夜となる。

1年で日の出の時刻が最も遅い日・日の入りの時刻が最も早い日と、冬至の日とは一致しない。日本では、日の出が最も遅い日は冬至の約半月後(年明け)の1月上旬頃であり、日の入りが最も早い日は冬至の約半月前の12月上旬頃である

古くから中国では冬至を含む月を「子月」と呼んだ。子は十二支の1番目であり「新たな生命の種が宿る時」とされており、旧命が滅し、新種が宿るため、子は十二支で唯一、生滅同梱・新旧同梱の支となる。

天文二十四節気平気法では冬至を1年の起点としている。時刻に関しても子の時刻は23:00-0:59となっており、旧から新へと切り替わることを意味する。二十四節気を24時間上に例えると、子月後半の最初にある冬至は0:00の位置となり、次の24時間周期への移行となる。物理上は1年間の干支は冬至で切り替わることになる。

暦法上では子月前半・後半の境目である冬至が1年の始まりとなる。

日本には次のような風習がある。

・星祭(ほしまつり)
妙見系の神社等で行われる。天台宗真言宗の寺院で行われる「星供養」も俗に「星祭」といわれる。各自の生まれ年の十二支に該当する当年星を祀って、無病息災を祈る。
・冬至風呂
この日は冬至風呂と称して柚子湯に入る。天保9年の『東都歳時記』によれば流行し始めたのは江戸の銭湯からであるという

またこの日には以下のものを飲食する風習がある。

冬至粥
冬至の日の朝に小豆粥を食す。これを冬至粥という。小豆粥には疫病にかからないという伝承があり、あるいは体を暖めるためともいう。
・とうなす(かぼちゃ)
冬至にはカボチャの煮物を食べる風習がある。冬至にカボチャを食べると中風にならず、あるいは長生きするとも、栄養をとるためともいう。
・コンニャク
コンニャクを「体の砂払い」と称し、体内の悪いものを掃除するという。
・「と」の付く食べ物
冬至の「と」に因んで、豆腐唐辛子ドジョウいとこ煮。今でも冬至の前にはスーパーや魚屋でドジョウの売り出しの風景が見られる。豆腐は季節柄、湯豆腐にされることが多い。

冬至には太陽の力が最も弱まった日を無事過ぎ去ったことを祝って、世界各地で冬至祭が祝われる。クリスマスも、イラン発祥のミトラ教の冬至祭儀やドイツ北欧のキリスト教以前のゲルマン人の冬至祭がキリスト教と混淆してできたものである。

(この項、「Wikipedia」参照)

我が家には、ゆず湯に入ることとカボチャを食べる習慣はありますが。

七十二侯でいうと、

・初侯 12月22日〜12月25日頃

乃東生 なつかれくさしょうず

夏になると枯れてしまう靭草(うつぼぐさ)の芽が出る頃。靭草は芽を出す頃ですが、この草以外の草木のほとんどは枯れていきます。

ウツボグサ(空穂草、靫草)

「うつぼぐさ」(初夏。「向島百花園」にて)。

円筒形の花穂の形、もしくは花穂につく小花の形が、弓矢を入れて背中に背負った道具である靫(うつぼ)に似ていることに由来する

シソ科ウツボグサ属多年生植物の1種。日当たりのよい山地に自生する。草丈30センチメートルほどで、地下茎を伸ばして殖える。夏に紫色の花穂をつけるが、花が終わると褐色に変化して枯れたように見える。漢方でも使われる薬用植物で、別名をカコソウ(夏枯草)、セルフヒールといって、利尿や消炎に用いられる。(「Wikipedia」より)

・次侯 12月26日〜12月30日頃

麋角解 さわしかつのおつる

ヘラジカの角が生え変わる頃。枝分かれした大きな角が抜け落ち、春にまた新しい角が生え始めます。

※ヘラジカ(「Wikipedia」より)

哺乳(ほにゅう)綱偶蹄(ぐうてい)目シカ科の動物。シカ類中の最大種で、オオジカともよばれる。体長206~310センチメートル、肩高174~235センチメートル、体重350~800キログラムに達する。北ヨーロッパ、シベリア東部、中国北部、カナダ、アメリカ合衆国北部などに分布する。ヘラジカはアメリカとヨーロッパでは呼び名が異なる。ヨーロッパではエルクelkと称されるが、アメリカではエルクとはワピチをさし、ヘラジカをよぶ場合は、アルゴンキン人が称していた「小枝を食べるもの」という意味のムースmooseを用いている。ヘラジカの外見的な特徴は、手のひら状に広がった大きな角(つの)と、ウマのような長い顔、長い足、盛り上がった肩部、のどにある肉垂れなどである。巨大な角は4月に生え始め、8~9月初旬に完成し、12月から翌年1月初旬に脱落する。(「コトバンク」より)

・末侯 12月31日〜1月4日頃

雪下出麦 ゆきくだりてむぎのびる

降り積もった雪の下で、麦が芽を出しはじめる頃。重い雪の下で、暖かい春をじっと待っています。

(この項、「暦生活」HPより)

冬至の別名は「一陽来復(いちようらいふく)の日」。

「一陽来復」(いちようらいふく)は、冬至を意味し、新年の到来、悪い事が続いた後で幸運に向かう事、陰気が極まった後に冬至を境に陽気に向かう事を意味する。

ゆず湯に入り、かぼちゃを食べて、無病息災を願い、寒い冬を乗りきることに。

そして、我が家の猫たち。

ソウタは、こたつから、頭だけ出して。

ジジを見つけ、ジジにじゃれつくも、

 そのうち、

カーペットの暖かさに、ジジも一緒にゴロンと。

アンズは、マイペース。こたつの中に入ったまま。  

と、そのうち、部屋を移動。

珍しくあんずがポジションをとり、 

でも、すぐに交代。

PCの上に。

寒くても二人は元気に追いかけっこ。

そして、こちらは息子の家の「マロン」。7㎏。 

次の24節気は、23番目「小寒」(2024年1月6日)。    

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自転車で転倒!大けがをして一か月が経ちました。事故・ケガが増えているような。そして、「隅田川」・坂東玉三郎。

2024-12-19 18:42:17 | 大けがリハビリ記

職場の同僚から「つい最近、兄貴が左肩を複雑骨折したんだ。家で転んで。手術をしたばかりだ。」

けっこう、冬場になって、こういうケガの話を耳にするように。

寒さなどで体が硬くなってつまずいたり、転倒事故が増えてくるのでしょうか。

そういえば、自転車とぶつかって転倒、老人が死亡した事案がありました。自転車に乗っていた女子高校生。寒くて前方をよく見ていなかった、とか。

行くたびに、リハビリの病院でも患者が増えてきているような。

「命あっての物種」。お互いに注意しましょう。

・・・

そして、「隅田川」・坂東玉三郎。

幕が開くと、青白い舞台が一面に広がります。

渡し守が出て名乗ります。能や狂言の定番の始まりかたです。

今日は川の対岸で「大念仏(だいねんぶつ)」がある、という話をします。
念仏を唱えて供養をする集まりの、大きなものがあるのです。

狂女が出てきます。歌舞伎だと「班女の前(はんにょのまえ)」という名前が付いています。

笹の枝を肩にかついでいます。
幣(奉納用の布きれ)を結びつけた笹の枝は、能をはじめ、中世に成立した芸能に共通する「狂女」の小道具です。

「人の親の 心は闇に あらねども 子を思う道に 迷い(まどい)ぬるかな」

藤原兼輔(ふじわらの かねすけ)の歌です。900年代の人です。

班女の前が出るところの謡の文句がこれなのですが、
親心の悲しくも愚かしい、しかし有難い真理をついた歌として江戸時代は非常に有名でした。
歌舞伎、というか浄瑠璃の文句に頻出するので覚えておくといいと思います。

子供がさらわれて、探して旅をしてきた。
親子の縁はこの世だけ、一世の契りです(夫婦は二世、主従は三世)。
その短い間すらいっしょにいられないさびしさをなげきます。

渡し守に船に乗せてと頼みますが、渡し守は、「狂っているならおもしろく舞え、でなきゃ乗せない」とひどい事を言います。

隅田川の渡し守と言えば都からの旅人に優しいものなはずなのに、あなたはずいぶんひどい、と怒る班女の前。

このあと、有名な、「あの白い鳥は何?」「カモメだよ」「隅田川の渡し守なのに都鳥と言わないの?」
のやりとりがあります。
感心して、反省した渡し守は班女の前をていねいに船に載せます。

川の対岸で、さっき渡し守が話した大念仏をやっています。この由来を語る渡し守。

人買いが子供を連れて都からやってきた。
子供は慣れない旅で疲れ果て、この場所で倒れてしまった。人買いは情け知らずで子供を捨てて行ってしまった。
どことなく上品な子だったので土地の人が心配して世話したが、運命だったのだろう、死んでしまった。
都の吉田少将の子、梅若丸といった。
父は早くに死に、母に付き添っていたのだが、それももはやできない悲しさよ。
都の人が恋しいので、都からの旅人が通るこの道端に埋めてください。
そう言って死んだ。悲しいことだ。
それがちょうど一年前。その供養の念仏だ。

ショックを受ける班女の前、船から上がることもできません。

改めて事情を聞いて、探しているのが、まさにその子供だと知った渡し守、
深く哀れんで、班女の前を船から上げ、墓である小さな塚に案内します。

この前後はセリフも極端に少なくなり、班女の前の一挙一動を息を詰めて眺めるような舞台です。

言われるままに鐘を叩いて念仏を唱える班女の前。
能だと、子役のひとが一緒に念仏を唱え、塚から子供の幻が現われますが、歌舞伎では出ません。
班女の前が子供を見たと思い込んで駆け寄るのですが、子供はいないのです。
泣き崩れる班女の前。
夜が明けます。子供に見えたのは塚の上の草でした。なまじ幻を見てしまったばかりに思いはいや増します。
何もないまわりのの景色が悲しみを深めます。

(この項、「歌舞伎見物のお供」(gooブログ)HPより)

・・・

           

渡し守:坂東竹三郎

        

              

班女の前(はんにょのまえ):坂東玉三郎。

            

              

            

               

          

                   

              

                    

                              こうして、静かに幕が下ります。

「木母寺」

「木母(もくぼ)寺」は寺伝によれば、976年(貞元元年)忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した梅若丸を弔って塚(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。
 1590年(天正18年)に、徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。
 明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈によりいったん廃寺となったが、1888年(明治21年)に再興された。その後、白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した。(以上、「Wikipedia」参照。)

「⑩梅若の秋月―風流隅田川八景―」。
 「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たずねきて問わばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」との辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京の方から騙されて連れられてきた梅若丸は、病に倒れ、隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり、我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置きかえ、生前に会えなかった母子が、絵の中では仲睦まじく舟遊びをしている姿で描かれています。文化中期(1804~18年)頃の作品です。

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自転車で転倒!大けがをして28日目。三角巾で右手を。そして、「シェルブールの雨傘」。

2024-12-17 18:47:07 | 大けがリハビリ記

街道旅もできず、職場と病院の行き来で、1週間があっという間に過ぎてしまいます。そういうときは、昔観た懐かしの映画が思い出されます。特に、クリスマスシーズン。皆さんにもそれぞれ思い出す名画があると。

小生にとっては、「シェルブールの雨傘」。

ラストシーンは、クリスマス前の雪の夜。
 ギィ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)の経営するガソリンスタンドに入ってきた車の運転席にはかつての恋人・ジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)。助手席には娘のフランソワーズ(実は自分との間の子)。
 喪服姿だったような気が。

 短い言葉を交わし、車はスタンドを出ていく。俯瞰撮影に重なって降りしきる雪の中、テーマソングが流れる。

              
    
監督・脚本: ジャック・ドゥミ
音楽: ミシェル・ルグラン
出演: カトリーヌ・ドヌーヴ
    ニーノ・カステルヌオーヴォ
    マルク・ミシェル
    エレン・ファルナー
    アンヌ・ヴェルノン  

全編音楽のみで他の台詞が一切ないミュージカルであり、映画としては画期的な形式であった。ルグランによる音楽が大評判となり、特に主題曲は世界中で大ヒットした。のちに舞台化もされ、世界各国で上演されている。

第一部 旅立ち 1957年11月-
 アルジェリア戦争ただ中のフランス。港町シェルブールに住む20歳の自動車整備工ギイと17歳のジュヌヴィエーヴは結婚を誓い合った恋人同士。ギイは病身の伯母エリーズと、ジュヌヴィエーヴはシェルブール雨傘店を営む母エムリ夫人と暮らしている。エムリ夫人は2人が若過ぎる事を理由に結婚に反対するが、2人は将来生まれて来る子供の名前(女の子だったらフランソワーズ)を考えたり、自分たちのガソリンスタンドを持つ夢を語り合ったりと、幸福な恋愛を謳歌していた。
 そんなある日、エムリ夫人に莫大な額の納税通知書が届く。切羽詰まっていたエムリ夫人は、娘に説得され、大切なネックレスを売る決心をして、娘を連れて宝石店へ行った。たまたま居合わせた宝石商ローラン・カサールが、その場でネックレスを購入してくれた。
 やがてギイに召集令状が届き、アルジェリア戦争において2年間の兵役をつとめることになった。尽きる事無く別れを惜しむギイとジュヌヴィエーヴ。その夜、2人は結ばれた。ギイは幼馴染みのマドレーヌに伯母の世話を頼み、ジュヌヴィエーヴと永遠の愛を誓い合って、シェルブール駅で別れを告げ入営する。

第二部 不在 1958年1月-
 ある日、エムリ夫人は町でカサールと出会い、食事に招待する。妊娠していることを知ったジュヌヴィエーヴは、ギイからほとんど手紙が来ないことを不安に感じていた。ジュヌヴィエーヴが気分が悪いと休んだ後、エムリ夫人に引き止められたカサールは、ジュヌヴィエーヴに結婚を申し込むつもりだったことを打ち明ける。決めるのは本人なので、押しつけないように頼み、カサールはまた旅に出る。
 手紙で妊娠を知ったギイからは、2月に「男の子だったら名前はフランソワ」と喜びの返事が届く。だが、ギイを待ち続けていたジュヌヴィエーヴは、次第にカサールに心を開き、子どもを一緒に育てようという求婚を受け入れる。結婚からしばらくして、エムリ夫人も店を処分し、娘が住むパリへと移住する。

第三部 帰還 1959年3月-
 足を負傷し除隊となって帰郷したギイはシェルブール雨傘店を訪れるが、店は所有者が変わっていた。ジュヌヴィエーヴの結婚と移住を聞かされたギイは自暴自棄となり、復職した整備工場も些細なトラブルで退職して酒と娼婦に溺れる。朝帰りした彼を待っていたのはエリーズ伯母の死の報せだった。ギイは出て行こうとするマドレーヌに「僕の力になってほしい。行かないでくれ。」と頼み、一念発起し、伯母の遺産でガソリンスタンドを始めることに決めた。立ち直ったギイに、マドレーヌも心を開き、結婚する。

エピローグ 1963年12月-
 ある雪の夜、妻マドレーヌと息子フランソワがクリスマスの買い物に出ていった後、一台の車がギイのガソリンスタンドに給油に訪れる。運転席にはジュヌヴィエーヴが、助手席には3,4才くらいの女の子が乗っている。

 入営の日、シェルブール駅で別れて以来の再会だった。
 事務所で短く言葉を交わす2人。金持ちそうな毛皮のコートに身を包むジュヌヴィエーヴ。娘の名はフランソワーズだと告げ、「会ってみる?」とギイに聞くが、彼は無言で首を振り、「給油が終わったようだ」と言う。
 
 ジュヌヴィエーヴの車が去って行くのと入れ替わりに、マドレーヌとフランソワが帰ってくる。ガラス窓のカーテン越しにが家族3人で幸せに楽しく過ごす様子を映し出す。

1964年の作品。高校生の頃に観ました。感動した映画の一つでした。クリスマスの頃になると、思い出します。

 『シェルブール雨傘店』。

                      

馬喰横山駅近くにある「小宮商店」。すてきな傘屋さん。 

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自転車で転倒!大けがをして27日目。三角巾で右手を。そして、「ことわざ」。

2024-12-16 20:20:59 | 大けがリハビリ記

久々に遠出。新幹線の自由席、帰りはデッキまでたくさんの人。外国人がけっこう目立ちました。

久々の知人から、驚かれたり、慰められたり、励まされたり、・・・。足でなくって良かった! と。寝たきりになっちゃうよ。

雲一つない好天。風もない穏やかな一日・ひと時でした。

腕を三角巾で吊っていると見知らぬ人も心なしか温かく接してくれます。

かみさんには付き添って何かと世話になってばかりでした。感謝、感謝!

「夫唱婦随」ならぬ「婦唱夫随」でした。

「一葉落ちて天下の秋を知る」。富士山もすっかり冬景色。年の瀬の一日でした。

しかし、今回の大けが。「一寸先は闇」そのものでした。

と、ふと「ことわざ」を。それも今や意味合いが異なっているものに。

①「老いては子に従え」=今や「老いても子を従え」になっているような気がします。元気な年寄りが多くて、家族の者がそろそろ「引退を」などと言おうものなら、かえって意固地になって頑張っていく。家族は半分はあきらめ顔。でも平和なのかもしれませんね。

②「驕れる者は久しからず」=今は「驕れる者は久しい」になっていて、いつまでも権力の座に座って、周りの忠告も何のその。驕れるというより、驕っていないと我が身が危うい、そんな危機感がかえってますます驕り高ぶらせるかもしれせん。

③「腹は立て損、喧嘩はし損」=今は「腹は立て得、喧嘩はし得」という感じ。先に腹を立てた方が勝ち。大声でわめきたてると、周りも何だか仕方がなくなって・・・。喧嘩もした者勝ちの風潮がありそうな・・・。

④「言いたいことは明日言え」=今となってはこれじゃ、ダメ!「言いたいことは今言え」の世界。言いたい放題、言った者勝ち!「先んずる者は人を制す」の世の中。先んじられたら、人に制せられてしまうのだから。

⑤「源清ければ流れ清し」=「源は清くても流れは汚し」。出発当初は理念も目的もすばらしく何となく先を期待したが、途中であれやこれやちゃちゃが入って、次第に何だか当初の清々しさは、いつしか汚辱にまみれて・・・。

⑥「木を見て森を見ず」=「森を見てばかりで木が見えず」になってしまって。大向こうをうならせるような立派な総論を発言、大局観を感じさせたのも一瞬。個別具体的な課題や現状が見えてくると、自らの不明を恥じるどころか居直る方が多くなった。当事者はますます怒ってしまう。いやはや・・・。

⑦「七度探って人を疑え」これは本義よりも、今の世相にぴったりになってしまった!

 政治の世界も何もかも、どうも昔の格言のようにはいかないようで。

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自転車で転倒! 右肩骨折! 大けがをして25日目。三角巾で右手を。そして、橋本治(文)岡田嘉夫(絵)『マルメロ草紙』。

2024-12-14 18:36:50 | 大けがリハビリ記

「15日に出かける予定があるのですが」とお医者さんに相談すると、「三角巾は外さないように」と。胸を強く押さえていたパットを外すことが出来ました。まだまだリハビリは続きますが、次の段階に進むことが出来そうです。

さて、最近読んだ本を再掲載。

橋本 治(はしもと おさむ)

1948年昭和23年〉3月25日 - 2019年平成31年〉1月29日)。

駒場祭のイラストで注目され、『桃尻娘』(1977年)で作家としてデビューすると博学や独特の文体を駆使し、古典の現代語訳、評論・戯曲など多才ぶりを発揮する。作品に『桃尻語訳 枕草子』(1987 - 1988年)、『蝶のゆくえ』(2004年)、『初夏の色』(2013年)などがある。

(「Wikipedia」より)

このブログでも、橋本治の小説、評論をいくつかとりあげたこともあります。

久々に図書館に出かけ、手に取った小説を紹介します。

二十世紀初頭の巴里を豪華絢爛に蘇らせた傑作耽美小説!

橋本治(文)岡田嘉夫(絵)コンビが2006年から2013年まで試行錯誤を繰り広げた豪華本(定価3万5千円、発行部数150部)として刊行された『マルメロ草紙』をテキストの読みやすさを重視した新たな装いで刊行されたもの。

2021年11月第1刷発行。

時は二十世紀初頭の巴里。ブーローニュの森近くの瀟洒な屋敷で暮らす、大実業家エミール・ボナストリューとその慎ましやかな夫人シャルロット。貞淑な姉シャルロットとは対照的な生き方を求め、華やかなパリで女優を目指す妹のナディーヌ。
その館に陽に灼けた美しいショーマレー中尉が招かれて、エミールとナディーヌ、そしてシャルロットの心に波風が立ち始める。やがて、パリ社交界の中心に座す、エナメルで固めたような美貌で名高いヴェルチュルーズ侯爵夫人から仮装舞踏会の招待状が届く。館の大広間で繰り広げられる仮装舞踏会。扇情的な異国の音楽が奏でられ、エミールとナディーヌに、そしてシャルロットと侯爵夫人、ショーマレー中尉にも官能の波が押し寄せる。

ロダン、ジャン・コクトー、ニジンスキー、モディリアーニなども登場する中、煌めきに満ちた女性たちの甘酸っぱく、香気に満ちた物語。(「amazon.co.j

さて、

年老いた大樹にも、緑の若芽は息づきましょう。まだ年若い小枝の先にも、艶なる黄金の彩りは宿りましょう。それはいずれの世紀にも起こりましたこと。この世紀の初めにそれが起こりましても、なんの不思議もないことでございます。」(p9)

「ベル・エポック(よき時代)」。1890年頃の19世紀末から1914年の第一次世界大戦開幕までの時代のことを指す。

フランス第三共和政の時代

19世紀中頃のナポレオン3世皇帝時代から発展した産業革命によって、経済が隆盛し、上下水道の整備による公衆衛生の改善、交通網の発達や電話の実用化など、生活インフラが大幅に向上、さらにエッフェル塔の完成やパリ万国博覧会の開催など、パリへは世界中から富豪が集まった。その注文に答えるように芸術家、建築家、宝飾家、作家、研究者などが各分野で活躍の場を与えられ、都市文化が栄えるようになった。

                        【絵】岡田嘉夫

20世紀初頭、パリ社交界の数奇で耽美的な恋愛譚。美文調の文体から醸し出す、艶めかしさ。橋本治らしい物語。

※本文中に一カ所「1910年5月の末日(みそか)」という具体的な日にちが記されている。(p104)

マルメロ

マルメロという名はポルトガル語の「Marmelo」から来ているとのこと。

マルメロの花言葉は、「幸福」「魅惑」。「愛の糧」にも例えられる。

古代ローマ人は寝室の芳香剤としてマルメロの実を置き、ルネッサンス美術では情熱・忠誠・豊穣の象徴になった

※「かりん」とは別種のようだ。

「ふくよかに匂い立つマルメロのお酒を口に含んだショーマレー中尉は、再び口を開きます。

『察するところ、マドモアゼル・ナデイーヌは、結婚がお嫌い―ということですか? 一生をリキュールの瓶の中で暮らすのはおいやだ、と』

ショーマレー中尉を見て、そしてそのまま視線を姉のシャロットにひたと向けて、ナデイーヌは申しました。「ウイ!」

シャルロットにはその「ウイ」が「ノン」と聞こえました。」(p62)

こうして、姉妹の恋愛・葛藤・遍歴が語られます。その語り手は、ガラス工房の主宰者、アンヌ・ボナストリュー。聞き手は、離婚し、心を病んだ娘と暮らす日本女性。

「パリに来たナデイーヌの手を引いた人は、社交界にふさわしい大富豪でございました。ひそやかな恋もまございました。でも無粋なことに、その人は姉の夫。心のままに生きようとしてナデイーヌは、夢のタピスリ(掛け布)を引き破るばかりでした。」(p200)

シャルロットとエミールとの間に生まれたボナストリュー家の一人娘、アンヌ・ボナストリュー。八十歳になる彼女の口から母と叔母とにまつわる話を聞いたのは、一九八九年のこと。場所はヴエネッツイア、大運河に臨む彼女のメゾン(住居)の一室だった。」(p202)

※アンヌはナデイーヌを母親と思っていた。

「・・・人の世を逐われた女にとって、愛する人と共に世をさすらうことは、決してつらくはございません。・・・革命のロシアに潜入いたしました二人は、スパイの容疑で捕らえられ、シベリアへ送られました。別れ別れになって、その後は知れません。おそらく二人は、お互いを求めながら、飢えと寒さに死にましたのでしょう。その先は、ナデイーヌも知りませんでした。」(p214)

獄中で組み合わせて造った粗末なガラスの飾り物を手にしたアンヌ。

「それは粗末な色ガラスでございました。それを手にして、光にかざして、私はその刹那、母を思い出しました。母としてシャルロットが私の胸に訪れましたのは、その時が初めてでございました。人は心を見ます。見るべきものの向こうにございますものは、人の心でございましょう。私は、その哀れな飾り物に『母』を直感いたしました。そこにあるものは『恋しい』と思う心の色でございました。」(p215)

「心を鎖すものは、人の思惑。心を鎖す檻となるのは、官能の肉。その肉に通う血の色が赤くなれば、人の世に不幸はないはず。でも、人の血は赤く、人は不幸に泣く。泣かなくともよいのよ。ご覧(ろう)じませ、人の世はさまざま―。

そうして老婦人は立ち上がると、大運河を望む部屋の窓を開けた。人の世の騒音がそこに渦巻いて、『なるほど、不幸というものは美しいものなのかもしれない』と、私は人の世の平穏に対して、ひそかに思った。」(p217)

鬼才・橋本治の小説を久々に読みました。感動! 岡田嘉夫さんの素晴らしい絵にも感動!

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自転車で転倒! 右肩骨折! 大けがをして24日目。イロハモミジ。そして、春風亭一之輔「子別れ」。

2024-12-13 18:41:35 | 大けがリハビリ記

職場の前庭に色鮮やかな紅葉が。

   「イロハモミジ」。

リハビリ通いにも屈伸運動が加わって、年末まで。 

そして、コロナ禍の頃の、

「夏の神保町まつり 一之輔一門会」より。

                    

                   

      楽屋話ばかりで本題に入らないので、師匠に怒られる。 

師匠登場。人情話の中でも笑いと涙で聞かせる「子別れ」を。

枕で弟子達の話をからめ、先代師匠の話から、師匠として弟子のかわいさを淡々と思い出話風に語り出します。

「子別れ」人情噺の大ネタです。

上は「強飯の女郎買い」、下は「子はかすがい(鎹)」の名で呼ばれることがあります。一之輔師匠は、この下の部分を。「大酒飲みが下では酒を断って改心したのか、どうも分からない、」とか、ぼそぼそつぶやきながら。

上。熊五郎は腕のいい大工だが酒好きなのが玉に瑕。ある日、泥酔して帰ってくると妻のお光に向かって女郎の惚気話まで始めてしまい、夫婦げんかの末にお光は一人息子の亀を連れて家を出てしまう。

中。熊はお光と離縁して女郎を身請けし、一緒に暮らし始めるが、彼女は一切の家事をせず、朝から酒を飲んでは寝てばかり。結局他所に男を作って出ていってしまう。

そして下。家から出て行った親子と別れてから3年。熊は酒を断って心を入れ替え、懸命になって働いたおかげでなんとか身を持ち直し、親方の身分に。

 ある日、熊五郎はお店(たな)の番頭と茶室に使う木口を木場へ見に行く。途中で前の花魁の悪妻女房のお島、その前の亀吉の母親の良妻賢母のお徳の話や、亀吉が好きだったまんじゅうの話などする。

 話ながら歩いていると番頭が亀吉が歩いてくるのを見つける。熊五郎は番頭を先に行かせ亀吉に話かける。

熊五郎 「今度のおとっつぁんは、おめえを可愛がってくれるか」

亀吉 「おとっつぁんは、おまえじゃないか」

熊五郎 「おれは先(せん)のおとっつぁんだ。新しいおとっつぁんがあるだろ?」

亀吉 「そんな分からない道理があるもんか。子どもが先に出来て、親が後から出来るのは芋ぐらいのもんだ」

 母親のお徳は独りで仕立ての針仕事をして、貧乏暮らしをしながら亀吉を育てているという。

足元を見ると貧乏生活で、クツも履いていない、また虐められて、額に傷まで出来ている。

熊五郎はこれまでのことを亀吉に詫び、50銭銀貨の小遣いをやり、ウナギを食わせるから明日また会おうと約束する。

 家に帰った亀吉は母親の糸巻の手伝いをしている時にお金を持っているのを見つる。

                     
お徳 「なんだい、こりゃあ、まあ、50銭銀貨じゃないか。どうしたんだい、お使いを頼まれたのかい。どうしたんだい?・・・おまえまさか悪い了見出して盗んだんじゃないだろうね。はっきりとお言いな、言わないと、おとっつぁんの玄翁(げんのう)で叩くよ」、ついに亀吉は泣きながら父親に会ったこと、小遣いをもらったことを話し出す。

                   

 あくる日、亀吉は約束通りに鰻屋へ行って父親とウナギを食べていると、鰻屋の前を母親が行ったり来たり。亀吉は母親を座敷へ引き入れて両親が再会するが、二人ともかしこまって堅くなり、他人行儀でもどかしい。

      

熊五郎 「えへん、えへん、じつは昨日ねえ、亀坊に会ったんだよ。で、ウナギが食いてえって言うもんだから、じゃあ、食わせてやろうじゃねえかってことになって、・・・えへん、えへん、じつは昨日ねえ・・・」なんども同じことを繰り返していて埒があかない。

亀吉の「元のように3人で一緒に暮らそうよ」の一言で熊五郎はお徳に頭を下げ、元の鞘に収まることになります。

お徳 「こうやって夫婦が元の鞘に収まれるのも、この子が有ったればこそ。お前さん、子は夫婦の鎹(かすがい)ですね」。

亀吉 「え、あたい鎹かい、それで昨日、おっかさんが頭を玄翁(げんのう)でぶつと言ったんだ」。

約45分。父親と母親、子供と使い分けながらの熱演でした。

鎹。玄翁(げんのう)。

春風亭一之輔

1978年1月28日生まれ、千葉県野田市出身。2001(平成13)年3月 日本大学芸術学部卒業。


2001(平成13)年5月 春風亭一朝に入門
2001(平成13)年7月 前座となる 前座名「朝左久」
2004(平成16)年11月 二ツ目昇進 「一之輔」と改名
2012(平成24)年3月 真打昇進

プロフィール
主な持ちネタ:不動坊 茶の湯 鈴ヶ森 初天神 など
趣味:程をわきまえた飲酒 映画・芝居鑑賞 徒歩による散策 料理 喫茶店めぐり 洗濯
自己PR:自他共に認める「十八番」のある噺家を目指し、精進致しております。ごひいきのほど宜しくお願い申し上げます。
ホームページ:https://www.ichinosuke-en.com
Twitter:ichinosuke111

今や「笑点」の看板に。

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自転車で転倒! 右肩骨折! 大けがをして22日目。振り子運動。そして、桂文楽「明烏(あけがらす)」。

2024-12-12 20:42:06 | 大けがリハビリ記

大けがをして、早3週間が過ぎました。週3回の通院にも慣れてきました。仕事では助けられ、感謝、感謝。

右腕から胸にかけて広がっていた出血の痕もだんだんと薄くなってきました。

さて、

 八代目文楽師匠は、上品な色気ときっちりした芸が売りもので、特にこの“明烏”は得意中の得意なだし物。

気が弱く女の扱いがわからない若旦那、時次郎と吉原に誘う札付きの遊び人源兵衛と太助の二人の会話も小気味よいテンポで進む。

これは有名な話ですが、甘納豆を食べる仕草が絶妙で、この噺を聞いた後で、甘納豆がよく売れたとか。

磨きぬかれた芸は何度聞いても飽きない。完成度の高い芸となっています。

文楽師匠の最後の高座。噺の途中で登場人物の名前を忘れてしまい「また勉強して参ります」と言って高座をおり、そのまま二度と高座にあがることはなく、その後、しばらくして亡くなりました。

文楽師匠は、上野の黒門町という所に住んでいたので、今でも「黒門町の師匠」と言えばこの人の事です。

さて、お噺は、

日本橋田所町三丁目、日向屋半兵衛のせがれ時次郎。19才。勉強ばかりして青い顔して部屋に閉じこもってばかり。

今日もお稲荷さまの参詣で赤飯を三膳ごちそうになってきたと、おやじの半兵衛に報告する。おやじは跡継ぎとしてこれからの世間付き合いができるだろうか、と心配だ。


すると、町内きっての札付きの遊び人、源兵衛と多助にお稲荷さんのお籠もりに行こうと誘われたことを父親に報告する。どこにあるかと聞くと、何でも浅草の観音様の裏手にあってけっこう繁昌している、と。これは、もちろん吉原のこと。
本人には、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたら費用はおまえが全部払ってしまえと送り出す。

       

時次郎を待つ二人の会話も実に面白い。親から頼まれたいきさつを話したり、・・・。

大勢の人で賑わう吉原に着くと、あそこの見返り柳の下で待ってますから、と時次郎。

大門をくぐって吉原遊郭へ入った時次郎、お茶屋まではよかったが、大見世に入れば花魁・遊女たちが廊下をカランコロンと歩いている。いくら初心(うぶ)でも、ここがどこで、何をする所くらいは知っている時次郎。
 お稲荷さまとだましてこんな所へ連れて来られたと泣いて騒ぎ出し、帰るとだだをこねる。

源兵衛と太助は大門を三人で入ったのに、一人で出て行くと怪しいやつ思われて会所で留められ、縛られてしまうとおどして、やっと部屋に上がらせる。
 芸者連が来て賑やかな酒の座敷が始まるが、時次郎は隅で泣いている。あげくには「女郎なんか買うと瘡をかく」なんてことを言い出す始末。
 早いことお引けと、いやがる時次郎を敵娼(あいかた)の待つ部屋へ押し込む。時次郎の敵娼は十八になる浦里という絶世美女。初心な時次郎にこちらも積極的。連れの一人は、障子に穴を開けてのぞきこんだりする。

 明烏、一声鳴いて、夜が明ける。「振られた者の起し番」で、結局、敵娼に振られた源兵衛と太助は歯磨きをしながらぶつぶつ言う仕草も絶妙。甘納豆を口に放り込みながら、時次郎を起こしに来る。

      

           

※このようなしぐさで甘納豆を口に入れたいものです。早く両手が自在に!


照れているのか、布団にもぐったままの時次郎。

源兵衛「けっこうなお籠もりで。そろそろ帰るから、早く起きてください」

浦里も「若旦那、早く起きなんし」と声を掛ける。
時次郎「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて・・・・」と云う始末。

甘納豆を食べながら、ぶつくさ言う二人。
頭に来た太助、「じゃ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは横浜に行くので、先に帰りますから」

時次郎は、布団から顔を出し、「あなた方、先へ帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で留められるから」

        

※写真は、「youtube」より。

この舞台は?

「日本堤通り」をはさんで少しくねった道が「吉原」への道。手前の道路際に「見返り柳」。

見返り柳」。「吉原大門交差点」にあるガソリンスタンドの前。
「見返り柳の碑」。

 旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」の名があり、
 きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
 見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。
 かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画整理に伴い現在地に移され、また震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。      平成8年9月 台東区教育委員会


この奥に遊郭が広がっていた。

1880年代のようす。○が吉原。斜め右に「山谷堀」。

明烏」=夜明けがたに鳴く烏。また、その声。近世、男女の朝の別れの情緒を表現するのに用いられた。

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自転車で転倒! 右肩骨折! 大けがをして20日目。振り子運動。そして、「ニューシネマパラダイス」。

2024-12-10 20:36:17 | 大けがリハビリ記

今日もリハビリ。右手も少しずつ動かし始めましたが、食事などは、左手で。フォークとスプーンで、掬うように口の中へ。

風呂もシャワー。仕事も左手でパソコンに向かう。重たい荷物は手伝ってもらい、・・・。同僚に感謝、感謝!

労災手続きも何とか。

ただ、寝返りが不自由で、寝不足気味です。

そして、昔の映画のビデオを。

「ニューシネマパラダイス」。

シチリアの小さな村を舞台に映写技師と少年の心あたたまる交流を、あふれる映画愛とともに描いた不朽の名作。映画監督として成功をおさめたサルバトーレのもとに、老いたアルフレードの死の知らせが届く。彼の脳裏に、「トト」と呼ばれた少年時代や多くの時間を過ごした「パラダイス座」、映写技師アルフレードとの友情がよみがえってくる。シチリアの小さな村の映画館を舞台に、映画に魅せられたサルバトーレの少年から中年に至るまでの人生を3人の役者が演じる。アカデミー外国語映画賞やカンヌ映画祭審査員特別グランプリなど、各国で賞賛を浴びた。

1989年製作/124分/PG12/イタリア・フランス合作
原題または英題:Nuovo Cinema Paradiso
劇場公開日:1989年12月16日

映画監督のサルヴァトーレは、母からアルフレードが死んだことを知らされ、シチリアのジャンカルド村での少年時代の思い出が甦ってくる。
 戦争から戻って来ない父。母マリア(アントネラ・アッティーリ)と妹の三人暮らしだったサルヴァトーレ(「トト」)は映画好きの少年だった。そのトトを魅了していたのは映画館パラダイス座の映写室。当時は司祭の検閲があり、映画のキス・シーンは御法度。トトと映写技師・アルフレードの間には不思議な絆が結ばれていき、トトはカットされたフィルムを宝物のように集める。



 ある日、フィルムに火がつき、パラダイス座は一瞬のうちに燃え尽きてしまう。トトの懸命の救出にもかかわらず、アルフレードは火傷が原因で失明する。やがてパラダイス座は再建され、アルフレードに代わってトトが映写技師になった。検閲もなく、フィルムも不燃性になっていた。
 青年に成長したトトは、銀行家の娘エレナに恋をし、幸せなひと夏を過ごすが、彼女の父親は2人の恋愛を認めようとせず、トトは兵役についた。除隊後村に戻ってきたトトの前に、エレナは姿を現わすことがなかった。アルフレードに勧められ、トトが故郷の町を離れる。
 それから30年の月日が経った。アルフレードの葬儀に出席するためにジャンカルド村に戻ってきたサルヴァトーレ(トト)は、取り壊されることになったパラダイス座の前に立つ。
 ローマに戻り、試写室でアルフレードの形見のフィルムを見つめるサルヴァトーレの瞳に映ったのは、検閲でカットされたキス・シーンのフィルムを繋げたものだった。

 印象的なのは、少年時代。
 映画を心から楽しみ、カットされてもらったフィルムと語り合う少年・トト。そして、映画技師アルフレードとの心温まる交流。

 映画の黄金時代を彩った名画とともに進む展開。広場を中心とした日々の暮らしの中で、存在感のあったパラダイス座。その古ぼけたイメージやそこに出入りする人達の、貧しくとも笑いのある日常描写も加わって、映画の黄金時代への郷愁あふれる場面が続く。

 エレナとの恋愛にメインを置いた青年時代編は、二人をそっと見守るアルフレードの存在が光っている。
 そして、壮年時代。30年ぶりに我が家に帰り、自分の部屋に飾られた様々な少年・青年時代の思い出の品を見つめるサルヴァトーレ。取り壊されるパラダイス座の中央に立って物思いにふける。長編作品ですが、たたみかけるように展開するストーリー。そして、アルフレードの形見のフィルムを上映するラストシーンは、それまでの長いストーリーの集大成として見事なエンディング。フィルムにこめられたアルフレードの映画に対する熱い思いとトトへの深い愛情・・・。
 全編に流れる音楽も、実に感動的でした。
 劇場公開から30年以上も経っていますが、DVDでその時の感動を再び味わいました。

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自転車で転倒! 右肩骨折! 大けがをして18日目。振り子運動。戒厳令。そして、「弁天娘女男白浪」。

2024-12-08 13:45:51 | 大けがリハビリ記

けがをして18日目。6日(金)には地域病院へ。レントゲンを撮り主治医のところへ。次回は2週間後。その頃にはやっとバンドをはずせるかな、と。起きているときは、何とかキープできるが、寝相の悪さで、起きるとずれまくり。・・・

振り子運動から円運動も取り入れてのリハビリ。せめてもう少し右手が動かせるようになると、いいのですが。・・・

さて、

お隣の韓国では「戒厳令」宣言で大変な状況。それでも、即座に与野党の議員、大衆も体をはっての猛反対の行動。かつての圧政時代の経験が即座に大衆運動として機能しているようです。

日本でこういう事態になったらどうなるか? 国民は即座に反対行動に立ちあがるだろうか。「緊急事態」条項がない現状ですが。

そして、当方は、「youtube」で、元気の出る落語やらお芝居を。

今回は、

<稲瀬川勢揃いの場の口上>

舞伎座「團菊祭五月大歌舞伎」第三部。

『弁天娘女男白浪』特別ポスター。(2022・5)。

尾上右近の弁天小僧菊之助、坂東巳之助の南郷力丸、中村隼人の忠信利平、中村米吉の赤星十三郎、そして坂東彦三郎の日本駄右衛門。

                   

日本 駄右衛門

問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に廻る配附の盥越し、危ねえその身の境界も最早四十に、人間の定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の首領日本駄右衛門。

弁天小僧菊之助

 さてその次は江の島の岩本院の児あがり、ふだん着慣れし振袖から髷も島田に由井ヶ浜、打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子にて鎌倉無宿と肩書も、島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助。

忠 信 利 平

 続いて次に控えしは月の武蔵の江戸そだち、幼児の折から手癖が悪く、抜参りからぐれ出して、旅をかせぎに西国を廻って首尾も吉野山、まぶな仕事も大峰に足をとめたる奈良の京、碁打と言って寺々や豪家へ入り込み、盗んだる金が御嶽の罪科は、蹴抜の塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし、後を隠せし判官の御名前騙りの忠信利平。

赤 星 十三郎

 またその次に列なるは、以前は武家の中小姓、故主のために切り取りも、鈍き刃の腰越や砥上ヶ原に身の錆を磨ぎなおしても抜き兼ねる、盗み心の深翠り、柳の都谷七郷、花水橋の切取りから、今牛若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷神輿ヶ嶽、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎。

南 郷 力 丸

 どんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴の松の曲りなり、人となったる浜そだち、仁義の道も白川の夜船へ乗り込む船盗人、波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し、背負って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ヶ石、悪事千里というからはどうで終いは木の空と覚悟は予て鴫立沢、しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸。

以下、歌舞伎名台詞をいくつか。

お嬢吉三三人吉三廓初買、大川端の場)

月も朧に白魚の 篝も霞む春の空
つめてぇ風もほろ酔いに 心持ちよくうかうかと
浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で
棹の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手に入る百両
ほんに今夜は節分か
西の海より川のなか 落ちた夜鷹は厄落とし
豆沢山で一文の 銭と違って金包み
こいつぁ春から縁起がいいわぇ

与三郎(与話情浮名横櫛、源氏店の場)

与三郎:え、御新造さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、
    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:おぬしぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇 命の綱の切れたのを
    どう取り留めてか 木更津から めぐる月日も三年越し
    江戸の親にやぁ勘当うけ よんどころなく鎌倉の 谷七郷は喰い詰めても
    面に受けたる看板の 疵がもっけの幸いに 切られ与三と異名をとり
    押借り強請やぁ習おうより 慣れた時代の源氏店
    そのしらばけか黒塀の 格子造りの囲いもの
    死んだと思ったお富たぁ お釈迦さまでも気がつくめぇ
    よくまぁ おぬしぁ 達者でいたなぁ
    安やい これじゃぁ一分じゃぁ 帰られめぇじゃねぇか

※「安」=蝙蝠安。

清心(花街模様薊色縫、百本杭川下の場)

しかし、待てよ。今日十六夜が身を投げたのも、
またこの若衆の金を取り殺したことを知ったのは、
お月さまとおればかり。
人間わずか五十年、首尾よくいって十年か二十年がせきの山。
つづれをまとう身の上でも金さえあればできる楽しみ、
同じことならあのように騒いで暮らすが人の徳。
ひとり殺すも千人殺すも、取られる首はたったひとつ。
とても悪事をし出したからは、これからは夜盗家尻切り、
人の物はわが物と栄耀栄華をするのが徳。
こいつぁめったに死なれぬわぇ。

揚巻(助六由縁江戸桜)

こりゃ意休さんでもない、くどいこと言わんす。
お前の目を忍んでな、助六さんに逢うからは、
客さん方のまんなかで、悪態口はまだなこと、
叩かりょうが踏まりょうが、手にかけて殺さりょうが、
それが怖うて間夫狂いがなるものかいなぁ。
慮外ながら揚巻でござんす。
男を立てる助六が深間、鬼の女房にゃ鬼神がなると、
今からがこの揚巻が悪態の初音。
意休さんと助六さんをこう並べて見た所が、
こちらは立派な男ぶり、こちらは意地の悪そうな顔つき。
例えて言おうなら雪と墨。
硯の海も鳴戸の海も、海という字にふたつはなけれど、
深いと浅いは間夫と客。間夫がなければ女郎は闇。
暗がりで見ても助六さんと意休さんを取り違えてよいものかいなぁ。
たとえ茶屋舟宿の異見でも、親方さんの詫び言でも、
小刀針でもやめぬ揚巻が間夫狂い。
さぁ、切らしゃんせ。
たとえ殺されても、助六さんのことは思い切れぬ。

・・・

勢いのいい啖呵を切りたいものです。

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大雪。12月7日。おおゆき。クマの被害。シクラメン・「シクラメンのかほり」。日の入り。風花・川上弘美。

2024-12-07 20:08:50 | 二十四節気

今日は二十四節気の21番目「大雪(たいせつ)」

日本海側・北国では、予想外の大雪(おおゆき)が降り続くとの予報。東京地方はぐっと寒くなりましたが、晴れの日が続いています。

暦の上で、 大雪(たいせつ)とは本格的に冬が到来するころ。山々は雪に覆われ、平野にも雪が降り積もります。新しい年の準備をはじめる「正月事始め」もこの時期から行われます。

七十二候では、

初候 12月7日〜12月10日頃

閉塞成冬 そらさむくふゆとなる

天地の気が塞がれ、冬がおとずれる頃。空は重い雲に覆われ、生き物はじっと気をひそめています。塞ぐという言葉は、寒さから人々を守るという意味でとることもできます。

・次候 12月11日〜12月15日頃

熊蟄穴 くまあなにこもる

熊が冬ごもりの時期に入り、穴にこもる頃。春になるまで、穴の中で過ごします。熊だけではなく、しまりすや蛙、こうもりも冬ごもりを始めます。

ところが、去年も今年も!

クマの生態に詳しい東京農工大学大学院の小池伸介教授は「クマは食べられるものがなくなると冬眠に入る習性があるが、人里の柿やくりなどを食べているクマはエサがなくなるまで冬眠に入らない可能性もある」と指摘したうえで、最近になってもクマによる被害や目撃情報がある地域では引き続き、注意するよう呼びかけています。

石破茂首相は6日の参院予算委員会で、各地で相次ぐクマ被害を踏まえた対策強化に意欲を示した。出没時に対応するハンターに関し「数が足りなくなってきている。高齢化が進み、報酬も十分でない」と述べ、待遇改善の必要性に触れた。

 原因を巡り「山が荒れて食べ物がなくなり、人里に人がいなくなり、出没しやすくなった」と指摘。鳥獣が帰れる山をつくり、里山に人が戻るような環境を、長期的に整えることが抜本的な解決につながるとの見方を強調した。

 立憲民主党の徳永エリ氏に対する答弁。

・末候 12月16日〜12月20日頃

鱖魚群 さけのうおむらがる

鮭が川を遡上する頃。海で育った鮭は、産卵のために自分の生まれた川へと里帰りをします。北国では冬を代表する光景のひとつであり、迫力のある遡上を見ることができます。

川に産んだ卵は、孵化(ふか)し、鮭の稚魚(ちぎょ)となり大海へ出ます。鮭は、海で栄養補給しながら成長します。海に出てから3~4年かけて、また、生まれた川に産卵のために戻ってきます。これが鮭の遡上です。

花 シクラメン

年末から飾られることの多いシクラメン。色は赤、白、ピンク、紫と様々。トルコなどで豚がシクラメンの球根を食べたことから、「ブタのパン」「ブタのマンジュウ」とも呼ばれます。

(近所のお花屋さんにて。)

小椋佳作詞・作曲の「シクラメンのかほり」。布施明が歌ったものをよく耳にしました。が、1975(昭和50)年のヒット曲。すでに半世紀前の歌だったのですね。

シンガーソングライター小椋佳第一勧業銀行赤坂支店に勤めていた際、取引先の会社で休憩していた時に見た、自身には馴染みのない花であったシクラメンをヒントに思い浮かんだものである

・・・

(この項、「Wikipedia」より)

真綿色したシクラメンほど清しいものはない
出逢いの時の君のようです
ためらいがちにかけた言葉に
驚いたように振り向く君に
季節が頬を染めて過ぎていきました

うす紅色のシクラメンほどまぶしいものはない
恋するときの君のようです……
疲れを知らない子供のように
時が二人を追い越して行く 
呼び戻すことができるなら 
僕は何を惜しむだろう

うす紫のシクラメンほど
淋しいものはない
後ろ姿の  君のようです
・・・

果物 洋梨ようなし

洋梨はある程度熟したものを収穫し、保存し、成熟させてから食べます。そのため、食べごろの見極めが重要。シャリシャリとした食感ではなく、とろけるような甘さが特徴的です。 

魚 鱈たら

産卵期を迎えた鱈が蟹や海老など、身近な物を何でも食べてしまうことから「鱈腹」という言葉ができたといわれています。おいしい鱈は、お腹の色が白く、背中の模様がはっきりとしています。

野菜 大根だいこん

おでんや粕汁など冬のメニューにかかせない存在である大根。年末年始で暴飲暴食が多く、胃がスッキリしないときに、大根をおろして食べると、不快感を解消してくれます。

(以上は、「暦生活」HPなど参照)

ところで、冬至(12月22日ころ)に向かって日の入りがますます早くなっていくという印象でした。

が、実は、11月末から12月初めにかけてがピークのようです。日の出がだんだん遅くなることに。

(「ウエザーニュース」より)

上図のように「冬至」前が一番早く日の入りを迎えるようです。ということは、これからは少しずつ日の入りが遅くなるということ?

連日晴れの日が続く東京地方。真っ赤に映える夕陽に実感しています。

そうそう、川上弘美さんの小説に『風花』という作品があります。

そのエピローグは、女性としての生き方に、確乎とした信念や行動を持ち合わせてはいないように見えた主人公が、少しも後ろを振り向かずに、赤色の横断歩道を駆けだしていく。それを呆然と見つめる夫の姿を(作者は)「やさしく」突き放しています。そこには、自らの、一回限りの人生を、確かに生きていこうとする女性の姿とそれにとまどう男の姿が、・・・。選んだ道の行く手は、どうなっていくのか。

読者も、またここから(立ち止まるのか、駆け足になるのか)、自分の人生を見つめ直すしかないのでしょう。

本格的な冬を迎える師走。新春を迎える準備の中で、来し方行く末を思うことも大事かもしれませんね。

注:「風花(かざはな、かざばな)」

 晴天時に雪が風に舞うようにちらちらと降ること。あるいは山などに降り積もった雪が風によって飛ばされ、小雪がちらつく現象のこと。からっ風で有名な静岡県や群馬県でよく見られる。
 冬型の気圧配置が強まり、大陸から日本列島に寒気が押し寄せてくると日本海側で雪が降るが、その雪雲の一部が日本列島の中央にある山脈を越え、太平洋側に流れ込んできたときに風花が見られる。(「Wikipedia」より)

 

次は、「冬至」12月21日(土)

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