「USA JAPAN」。
中にはこんな屋台風のお店も。
「バンコク屋台料理」。けっこう混んでいます。
(13:52)ミリタリールックのお店。
「16 FUSSA BASE SIDE STREET」のフラッグが並んでいます。
「第二ゲート」付近。基地沿いの16号線が延々。約4キロ。
途中からは道の両サイドに基地が広がります。
(14:06)「羽村市」入り。
(14:14)「横浜から53㎞」ポスト。
「ドン・キホーテ」とその先に横浜家系ラーメン屋さん。ちょっと遅い昼食を。
再開。(14:46)この先付近から基地内の滑走路が見渡せます。
左に踏切。八高線の電車が通過中。
基地の拡張で八高線や16号線も路線変更されたらしい。
滑走路の北端?
(15:09)「新青梅街道」との交差点。基地内の旧道とつながる道へは交差点を鋭角に右に折れていきます。
(15:15)旧道の復活地点から基地内を望む。
そこから「箱根ヶ崎」宿に向けて進みます。
「新青梅街道」に遮られてしまうので、先ほどの交差点に戻ります。旧道に復帰、この先、青梅街道と少しの区間が重なります。
旧家の雰囲気を残す「関谷」家のところで右折してくるのが「旧青梅街道」。
(15:28)「明治5年創業 漢方の會田」。
「旧日光街道」交差点。
今回はここまで。JR八高線「箱根ヶ崎」駅から戻ってきます。
(15:38)南を望む。
1880年代のようす。2010年代のようす。→が「千人同心街道」。
箱根ケ崎村(大字箱根ケ崎、箱根ケ崎西松原、箱根ケ崎東松原、南平地区)
箱根ケ崎村
語源は、古語で「ハコ」は神の棲む、「ネ」は山を意味するという説があります。
この地区にある狭山池は、中世までは今よりもずっと広大で、面積は10町(10万平方メートル)以上もあったといわれ、狭山丘陵の西端に位置することから、後世鎌倉街道と呼ばれるようになった古街道が通っていました。箱根ケ崎の名称が古文献に現れるのは、戦国時代後期の天文年に北条氏照が発したに「筥根賀崎」と書かれています。
しかし、江戸時代前期の古地図には箱根ケ崎の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。
そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われます。
慶安5年(1652年)に八王子千人同心の日光勤番が始まると、同心達が日光へ往来するための勤番経路として日光街道が整備され、その沿線上に位置した箱根ケ崎村は、幕府より人馬の継立てを命じられ日光街道の旅人の往来が活発となり、箱根宿として発展しました。
このため、村山村の現箱根ケ崎地区に人口が増加し、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。
(以上、「」HPより)
中にはこんな屋台風のお店も。
「バンコク屋台料理」。けっこう混んでいます。
(13:52)ミリタリールックのお店。
「16 FUSSA BASE SIDE STREET」のフラッグが並んでいます。
「第二ゲート」付近。基地沿いの16号線が延々。約4キロ。
途中からは道の両サイドに基地が広がります。
(14:06)「羽村市」入り。
(14:14)「横浜から53㎞」ポスト。
「ドン・キホーテ」とその先に横浜家系ラーメン屋さん。ちょっと遅い昼食を。
再開。(14:46)この先付近から基地内の滑走路が見渡せます。
左に踏切。八高線の電車が通過中。
基地の拡張で八高線や16号線も路線変更されたらしい。
滑走路の北端?
(15:09)「新青梅街道」との交差点。基地内の旧道とつながる道へは交差点を鋭角に右に折れていきます。
(15:15)旧道の復活地点から基地内を望む。
そこから「箱根ヶ崎」宿に向けて進みます。
「新青梅街道」に遮られてしまうので、先ほどの交差点に戻ります。旧道に復帰、この先、青梅街道と少しの区間が重なります。
旧家の雰囲気を残す「関谷」家のところで右折してくるのが「旧青梅街道」。
(15:28)「明治5年創業 漢方の會田」。
「旧日光街道」交差点。
今回はここまで。JR八高線「箱根ヶ崎」駅から戻ってきます。
(15:38)南を望む。
1880年代のようす。2010年代のようす。→が「千人同心街道」。
箱根ケ崎村(大字箱根ケ崎、箱根ケ崎西松原、箱根ケ崎東松原、南平地区)
箱根ケ崎村
語源は、古語で「ハコ」は神の棲む、「ネ」は山を意味するという説があります。
この地区にある狭山池は、中世までは今よりもずっと広大で、面積は10町(10万平方メートル)以上もあったといわれ、狭山丘陵の西端に位置することから、後世鎌倉街道と呼ばれるようになった古街道が通っていました。箱根ケ崎の名称が古文献に現れるのは、戦国時代後期の天文年に北条氏照が発したに「筥根賀崎」と書かれています。
しかし、江戸時代前期の古地図には箱根ケ崎の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。
そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われます。
慶安5年(1652年)に八王子千人同心の日光勤番が始まると、同心達が日光へ往来するための勤番経路として日光街道が整備され、その沿線上に位置した箱根ケ崎村は、幕府より人馬の継立てを命じられ日光街道の旅人の往来が活発となり、箱根宿として発展しました。
このため、村山村の現箱根ケ崎地区に人口が増加し、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。
(以上、「」HPより)