おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

川又~一級河川荒川起点」碑。(「荒川を遡る」総集編。その3。)

2021-10-06 20:51:52 | 荒川を遡る

「西武秩父」駅から中津川行きのバスに乗って、9時40分過ぎに到着。

これから約2時間。雨が降りしきり中、さて、どうしたものか?

せっかくだから行けるところまで、と大学生の青年と林道を歩き始めます。

東京発電(株)川又発電所。

入川渓谷。

しばらくすると、左手に「入川渓谷夕暮キャンプ場」。

キャンプ場の西隅に前田夕暮の歌碑。           

前田夕暮は、終戦の年この地に疎開し、山林事業を営みながら、2500あまりの歌を詠んだ。

1925年(大正14年)、亡父から跡を継いだ歌人の前田夕暮を社長とする関東木材合名会社がその拠点を両神村小森から大滝村入川へと移したことで、入川は一つの集落を作るほどの繁栄を導いたと言われている。

前田夕暮は明治から昭和期にかけて自然主義の代表歌人として、牧水・夕暮時代と称される一時代を画しました。そんな日本を代表する歌人、前田夕暮氏の名前から入川渓谷夕暮キャンプ場と名付けました。(「入川渓谷夕暮キャンプ場」HPより)

山を開き土を平坦して建てし工場 その隅にしろし栃の太幹

そこからの入川渓谷。 

 

実は、この先、トロッコの線路跡をたどるように進みます。「入川軌道(森林軌道)」跡。しっかり線路が残っています。

森林で切り出した木材運搬に活躍したのが、「入川軌道」。前述の「関東木材合名会社」が運営。

最初は人力でトロッコを押していたが、やがて馬が引くようになり、戦後はエンジンを積んだ内燃機関車が4~5連結のボギーを引いて運搬していた。レールの幅は普通の鉄道よりも狭いナローゲージ(762mm)で、機関車の重さは4.5~6トン。

終戦後も町の復興の為に木材の需要も多く、大変な賑わいをみせたが、安い輸入材や環境破壊に押されて昭和45年、森林軌道の幕を閉じた。

     

2010年代のようす。右手に「川又」バス停。「入川」沿いに上って行きます。(「歴史的農業環境システム」より)

すぐ先に「トラウトオン!入川」。

         

トラウトオン!入川(入川渓流観光釣場)は奥秩父・荒川の源流に位置し、全長1000メートルに及ぶ専有釣り場、10000平方メートルに広がる敷地面積。まさにプレミアムな大自然を満喫できます。

この日も家族連れでしょうか、何組か釣りを楽しんでいます。

ここまでは、何台か車とすれ違いましたが、この先からは人とも出会わず、雨の中の歩きとなります。

      

この地域一帯は、「東京大学秩父演習林」となっています。

東京大学秩父演習林

秩父演習林は、全国に7か所ある東京大学の演習林の1つです。
6000ha近くにおよぶ広大な森林を保有し、冷温帯域の森林生態系に関する教育研究活動を幅広く展開しています。秩父演習林は奥秩父山地に広大な森林を有するフィールドステーションです。

標高差の大きい急峻な山岳地形をもち、関東地方では数少ない原生状態の森林が広範囲にわたって残存している特徴を生かして、冷温帯域の森林生態系(森林動態・生物多様性・生物害)に関する教育研究活動を幅広く展開しています。

(この項「東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林 秩父演習林」HPより)

ここからは左手の道を進む。

足元には枕木が埋まっています。これからトロッコ線路跡を進みます。

「荒川起点」碑付近にある「解説板」。

森林軌道の歴史(入川軌道)

こんな山奥でレールに枕木、不思議に思いませんか。重い木材を満載してガタゴト、ガタゴト、ギシギシここには昭和23年から45年の間トロッコが走っていた道。当時はここと同様の森林軌道が日本のあちこちにありましたが今ではほとんど姿を消してしまいました。

この解説板にあるように、「荒川起点」碑までの道はトロッコが走っていた道です。所々に架けてある橋も整備されていて、線路伝いにまったく不安なく歩くことができます。渓谷美を愛でるよりも、興味はこちらの方に。

この辺りですれ違ったのでしょうか?

渓谷側の軌道が崩れ、レールがなくなっているところもあります。

このように渓谷側に落ちてしまったレール。

 

今にも向こうからトロッコがやってくるような・・・。

下流方向。整備された鉄橋。

こんな急峻な崖沿いに線路を敷設したものです。戦前から盛んだった林業が、戦後は復興のため、山奥から木材を切り出している頃のようすが偲ばれます。

厳しい自然環境のもと、永年の風雪の経過のなかで、すでに線路が失われたところや線路幅が一様でなくなった箇所もたくさんあります。

が、これほどきちんと整備された道になっているとは思いませんでした。

山側から一気に落ちる沢の流れ。                 

こうしたところには小さな鉄橋が架けられています。

新緑の頃、また紅葉の時期は最高の景観。

かなり雨脚が強くなってきますが、木々におおわれているせいか、風がない分、助かります。

 ようやく到着します。

                        大きな案内板が設置されています。

しかし、そこには「一級河川荒川起点」碑の解説は記されていません。

この付近だろうと右から流れる沢(赤沢)、左からの流れ(入沢)を眺めましたが、どこにあるのか? と。

ごろごろと岩が重なる中、ちょっと迷います。

     

右と左との沢が合流するところにありました! 

 

     

2010年代のようす。↓に「一級河川荒川起点」碑。源頭は左下に流れる沢を詰めたところ、甲武信岳の直下になるようです。

そこまで上るのには本格的な登山となります。

ここまで、「川又」から約2時間。青年とお互いに記念写真を撮ります。

この雨の中では途中で引き返してしまったかもしれません。同行の青年に感謝、感謝です。

注:この入沢と赤沢の合流点から中川との合流点までの流路延長173 kmが、一級河川としての「荒川」。

来た道を再び戻ります。振り返り、振り返り。

ようやく川又に戻ってきました。

荒川河口(中川との合流点)からここまで。173㎞の「荒川」を遡る旅も終わりです。

熊谷まで関東平野を流れ、熊谷から長瀞・秩父・三峰口まで、そしてその上流の渓谷美、と変化に富んだ歩きでした。

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秩父湖~川又(往復)。栃本関。(「荒川を遡る」総集編。その2。)

2021-10-05 19:59:02 | 荒川を遡る

                  荒川上流を目指します。

「秩父湖」バス停から川又まで。

往路は湖畔・荒川沿いの道、復路は栃本集落の道。

どちらも旧「国道140号線(秩父街道)」。アップダウンはありますが、舗装道路を歩きます。

「三峯神社」へはダムを左折して行きます。秩父湖で下車したのは二人のみ。満員のバスはそのまま「三峯神社」へ。

二瀬ダム。水面はかなり低く。

「大洞川」。奥に吊り橋。          

途中の二股、栃本への道を分けて、左を進みます。旧国道140号線。

荒川に架かる吊り橋。但し、立入禁止。

「秩父湖吊橋」。この直下まで「湖岸遊歩道」。

眼下に荒川。ススキが揺れる。

木漏れ日の下を。右に左にカーブしながら上っていきます。

護岸工事。目がくらむような真下に荒川。

歩き始めてから約1時間。「不動滝入口四阿」に到着。「不動滝」への案内板が。

不動滝のいわれ

荒川に流れこむ大除沢がつくる不動滝は落差50mもあり、その荘厳さを不動明王になぞらえて不動滝としたのでしょう。大除沢には、昭和の初期に多くの山林業者が入山していて、その人たちは守護神として不動様を信仰したといいます。徳川時代の末期には、行者が修行場として使用したともいわれています。

荒川に架かる「不動橋」を渡った対岸にあるようです。

           (「彩の国さいたま」HPより)

大滝・落合橋の先で右に分岐した「(新)国道140号線」が近づいてきます。新旧の国道がこの先で合流し、雁坂峠トンネルを抜け、甲府に向かうことになります。

 

右手のトンネルが「(新)国道140号線」ルート。

「R140彩甲斐街道」。「これより滝川渓谷 この先300m左折入川渓谷 雁坂トンネルまで7k 甲府へ52k」。

川又といっても何か特にあるわけではありません。大きめな「観光トイレ」と「四阿」と観光案内板、そして駐車スペース。

少し先に「扇屋山荘」。民宿と売店を兼ねた施設。前を通りましたが、営業しているかどうか不明でした。

ほんの少しだけ入川(荒川)沿いに上ってみました。

       

 

下を見ると、透き通るような、まさに「水色」の流れ。

すっかり見とれてしまいます。

 

実は、この上流にキャンプ場があり、さらにその先まで進むことが出来ます。次回、そこまで入ってみようと思います。そのさらに上流に進むと、「一級河川荒川起点の石碑」があるようです。(源流はもっと上流になりますが)

四阿で昼食休憩して、栃本に向かいます。

下流方向。

     

2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。行きは、荒川に沿った道を進み、帰りは栃本集落への道。「栃本関」から北西に向かう道は、かつては信州への道でした。

栃本までは約20分の上り坂。

古風で落ち着いた風情の家並み。

        

山間の傾斜地に家々と耕地。

栃本は、白泰山から東に延びる尾根の上の地すべりによってできたなだらかな地形に形成された集落です。尾根の北側の中津川の谷には秩父帯と四万十帯の境界があります。秩父帯の険しい地形に比べ、やや穏やかな地形の四万十帯の地域を古い街道は通過しています。(「ジオパーク秩父」より)

  右手に荒川沿いの山々。

国指定史跡「栃本関跡」。

江戸幕府は、関東への「入り鉄砲」と関東からの「出女」を取り締まるため主要な街道に関所を設けた。

栃本関は、中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。

そのはじまりは、戦国時代、甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所を置いて山中氏を任じたと伝えられるが、徳川氏の関東入国以後は、天領となり、関東郡代伊奈忠次が慶長19年(1614)大村氏を藩士に任じたという。以後、大村氏は幕末まで藩士の職を代々つとめた。

関所の役宅は、文政元年(1818)と文政6年(1823)の二度にわたって焼失し、現在の主屋は幕末に建てられたもので、その後2階を建て増しするなど改造されたが、玄関や上段の間及び外部の木柵などには、関所のおもかげをよく留めている。

そこからの山並み。           

これから先、下り道となって秩父湖へ戻ります。

途中、廃校になった「上中尾小学校」。

1909年(明治42年)開校、1981年(昭和56年)閉校。
1937年(昭和12年)から1949年(昭和24年)まで、児童用の寄宿舎があったそうです。その後、滞在型の私立養護学校「光の村養護学校・秩父自然学園」として活用。その養護学校も閉鎖となり、今に至っています。道路側から校舎内を覗くと、作業場のような雰囲気。

校舎は昭和7年(1932年)に竣工。

校庭の片隅に記念碑が二つありましたが、立入禁止のため、確認できませんでした。

この校舎は、山中節治さん(1895~1952)の設計。大正・昭和初期に函館をはじめ国内で活躍した建築家で、兄の関根要太郎さんとともにモダン建築家として活躍した方。そのため、この校舎は解体されず残されているようです。

(「今昔マップ」より)

○が小学校。古くからあったことが分かります。

小さな集落が今も。急峻な山裾に開かれ、斜面に家々が点在している。

さらに下ると、「麻生加番所」跡。

                   

寛永20年(1643)、幕府の役人が当村巡見の際、栃本関の警備の手薄なのを見て、麻生に加番所を設置するよう指令があり、設置されたものである。施設は名主宅を役所とし、別に間口3.6m(2間)、奥行2.7m(1.5間)の番人詰所があった。

この番所の建設補修費すべて古大滝村によりまかなわれた。番屋は現存せず、現在の家は安政4年(1857)11月焼失のため新築されたものであり、今も同家を「番所」と呼んでいる。千島家は鉢形北条の奉行、千島下総の末裔といわれている。

こうして、再び「秩父湖」に戻ってきました。

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三峰口駅~秩父湖。そして今日は「大安」。衆議院選挙投票日は「仏滅」。(「荒川を遡る」総集編。その1。)

2021-10-04 19:53:23 | 荒川を遡る

9月26日。やっと「一級河川荒川起点」碑までたどり着きました。

秩父鉄道「三峰口駅」。SLに乗車したときも含め、何度も乗り降りしました。秩父鉄道の沿線風景は見ごたえがあります。

ところで、秩父鉄道「樋口駅」の手前。「撮り鉄」の某議員が「勝手踏切」を渡って、書類送検された(不起訴)地点近くも歩きました(「国道140号線(彩甲斐街道)」)。

熊谷からやってくるSLがカーブする先のところ。たしかに絶好の撮影ポイントです。そういえば、SLに乗ったときもやたら(この場所とは限りませんが)汽笛を鳴らしていました。

SLが運行されるときは、特に、沿線には撮影する人が随所に。はじめはサービスで鳴らしているのかと安直に思いましたが(そんなはずはあるわけがありませんね)、確かに危険で、迷惑な行為です。

鎌倉から出る「江ノ電」も撮影ポイントがあって、そこにも「鉄道マニア」が、さらにJRの小海線・野辺山駅付近(JR最高地点)、・・・(かくいう小生もそこで撮りました。)。

「撮り鉄」には、けっこう撮影ポイントが全国にはあるようです。

先日も利根川沿いに架かる東武線鉄橋付近には「撮り鉄」の人達が陣取っていました。ここもカーブがほどよくて、撮影に絶好!

 トンネル、鉄橋、カーブ、駅のホームの先端、・・・。お仲間と示し合わせて撮りにいくようです。(件の議員もそうだったようですが)

なかなか本題に入りません。

今回から総集編。秩父鉄道「三峰口」駅から「荒川起点」まで。荒川河口から三峰口駅までの総集編の続きです。

荒川に架かる「万年橋」。  

 

            

この付近が「金蔵落しの渓流」。

紅葉の時期にはさぞかし見事。

眼下は荒川の清流。上流。

「道の駅大滝温泉」。

ここで、右手のお店「郷路館」で手打ちそばを食べ、小休止。美味しいお蕎麦でした。  

店内に国語学者の金田一晴彦さんの似顔絵とコメントが。「春風秋雨是人生」と。

「大滝橋」。

             

右手から「中津川」が合流。

                            「落合橋」。

新しい「国道140号線」は中津川沿いに進み、「大峰トンネル」を経て、川又で再び合流します。「秩父湖」方面には荒川沿いの旧国道を行きます。

車の量が少なくなります。

しばらく進むと、「三十槌の氷柱」の看板。

(HPより)

この先、ダムサイトに向かう急カーブの上り坂が続きます。最後のひとふんばり。車から気の毒そうな視線が。

やっと今回のゴール地点が見えてきます。

「二瀬ダム」。

上りが続き、脱水症になるような暑い一日。

秩父湖バス停近くのお店で買ったビールが格別に美味しかった。

自民党の岸田文雄総裁は4日、次期衆院選について「19日公示―31日投開票」とする意向を固め、党幹部に伝えた。臨時国会で首相に指名された後、会期末の14日に衆院を解散する。新内閣発足後の4日夜の記者会見で表明する方針だ。新政権発足直後の選挙が得策と判断した。新型コロナ感染者数が減少し、緊急宣言が解除された現状での衆院選実施が望ましいことも考慮した。複数の関係者が明らかにした。(「共同通信」より)

総理就任・国会解散は「大安」。公示日、投票日はともに「仏滅」。吉と出るか凶と出るか。与野党にとっての正念場を迎えます。

お上のやることに無関心、冷ややかに見つめるのではなく、ぜひ投票に行きましょう。

「ハロウィン」で浮かれる場合ではなさそうです。

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西武観光バス「川又」~荒川起点(往復)。その4。「一級河川荒川起点」碑。「滝沢ダム」。(「荒川を遡る」第12日目。)

2021-10-03 16:24:13 | 荒川を遡る

入川もますます渓谷らしくなってきます。眼下に流れる入川。

山側から一気に落ちる沢の流れ。

                   

こうしたところには小さな鉄橋が架けられています。

新緑の頃、また紅葉の時期は最高の景観。

かなり雨脚が強くなってきますが、木々におおわれているせいか、風がない分、助かります。

 ようやく到着します。

                        大きな案内板が設置されています。

しかし、そこには「一級河川荒川起点」碑の解説は記されていません。

この付近だろうと右から流れる沢(赤沢)、左からの流れ(入沢)を眺めましたが、どこにあるのか? と。

ごろごろと岩が重なる中、ちょっと迷います。

     

右と左との沢が合流するところにありました! 

 

     

2010年代のようす。↓に「一級河川荒川起点」碑。源頭は左下に流れる沢を詰めたところ、甲武信岳の直下になるようです。

そこまで上るのには本格的な登山となります。

ここまで、「川又」から約2時間。青年とお互いに記念写真を撮ります。

この雨の中では途中で引き返してしまったかもしれません。同行の青年に感謝、感謝です。

注:この入沢と赤沢の合流点から中川との合流点までの流路延長173 kmが、一級河川としての「荒川」。

来た道を再び戻ります。振り返り、振り返り。

ようやく川又に戻ってきました。

荒川河口(中川との合流点)からここまで。173㎞の「荒川」を遡る旅も終わりです。

熊谷まで関東平野を流れ、熊谷から長瀞・秩父・三峰口まで、そしてその上流の渓谷美、と変化に富んだ歩きでした。

荒川をめぐる地元の人々の暮らしを垣間見、「荒」川との闘い、治水、橋の工夫などや四季折々の自然とのふれあいもすばらしいものがありました。

機会があれば、見落とした場所なども含め、もう一度歩いてみたいところも、数多くありました。

毎日、見る「荒川」にいっそうの親しみを感じます。

 

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西武観光バス「川又」~荒川起点(往復)。その2。東大演習林。十文字峠への山道を。(「荒川を遡る」第12日目。)

2021-09-30 18:39:19 | 荒川を遡る

                すぐ先に「トラウトオン!入川」。

         

トラウトオン!入川(入川渓流観光釣場)は奥秩父・荒川の源流に位置し、全長1000メートルに及ぶ専有釣り場、10000平方メートルに広がる敷地面積。まさにプレミアムな大自然を満喫できます。

施設マップ。

(この項、「トラウトオン!入川」HPより)

この日も家族連れでしょうか、何組か釣りを楽しんでいます。

ここまでは、何台か車とすれ違いましたが、この先からは、人とも出会わず、青年と雨の中の歩きとなります。

道標「←十文字峠 川又→」

      

落ち葉が積もる中を。

この地域一帯は、「東京大学秩父演習林」となっています。

「サワラの森」。巨木が立ち並ぶ。

ヒノキに比べ湿地を好み、川沿いに自生する。山野に生えるが、しばしば造林されたり、公園などでは、植栽されている。直幹性で樹高は、通常30mになる。園芸品種が多く、庭にも植えられる。ヒムロヒバ、ヒヨクヒバ(イトヒバ)、シノブヒバなど。

サワラ=椹。ヒノキに比べて、さわらか(さっぱり軽軟)な木の意。ヒノキ科ヒノキ属。日本特産の針葉樹。

東京大学秩父演習林

秩父演習林は、全国に7か所ある東京大学の演習林の1つです。
6000ha近くにおよぶ広大な森林を保有し、冷温帯域の森林生態系に関する教育研究活動を幅広く展開しています。秩父演習林は奥秩父山地に広大な森林を有するフィールドステーションです。

標高差の大きい急峻な山岳地形をもち、関東地方では数少ない原生状態の森林が広範囲にわたって残存している特徴を生かして、冷温帯域の森林生態系(森林動態・生物多様性・生物害)に関する教育研究活動を幅広く展開しています。

(この項「東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林 秩父演習林」HPより)

ここからは左手の道を進む。

足元には枕木が埋まっています。これからトロッコ線路跡を進みます。

「入川軌道(森林軌道)」跡。

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西武観光バス「川又」~荒川起点(往復)。その1。入川渓谷。前田夕暮歌碑。(「荒川を遡る」第12日目。)

2021-09-29 10:59:54 | 荒川を遡る

9月26日(日)。雨のち曇り。

やっぱり入川渓谷にある「一級河川荒川起点」の標識まで行ってみようと。先週の日曜に引き続いて川又までやってきました。

「西武秩父」駅から中津川行きのバスに乗って、9時40分過ぎに到着。

途中からけっこう雨が激しくなってきました。川又で下車したのが二人。若い方と小生。

これから約2時間。雨が降りしきり中、さて、どうしたものか?

せっかくだから行けるところまで、と林道を歩き始めます。

東京発電(株)川又発電所。

入川渓谷。

右手の崖からは滝のような水の流れ。

四阿からの入川の流れ。

しばらくすると、左手に「入川渓谷夕暮キャンプ場」。

「施設マップ」。

キャンプ場の西隅に前田夕暮の歌碑。           

前田夕暮は、終戦の年この地に疎開し、山林事業を営みながら、2500あまりの歌を詠んだ。

1925年(大正14年)、亡父から跡を継いだ歌人の前田夕暮を社長とする関東木材合名会社がその拠点を両神村小森から大滝村入川へと移したことで、入川は一つの集落を作るほどの繁栄を導いたと言われている。

前田夕暮は明治から昭和期にかけて自然主義の代表歌人として、牧水・夕暮時代と称される一時代を画しました。そんな日本を代表する歌人、前田夕暮氏の名前から入川渓谷夕暮キャンプ場と名付けました。(「入川渓谷夕暮キャンプ場」HPより)

山を開き土を平坦して建てし工場 その隅にしろし栃の太幹

そこからの入川渓谷。

    

 

実は、この先、トロッコの線路跡をたどるように進みます。「入川軌道(森林軌道)」跡。しっかり線路が残っています。

森林で切り出した木材運搬に活躍したのが、「入川軌道」。前述の「関東木材合名会社」が運営。

最初は人力でトロッコを押していたが、やがて馬が引くようになり、戦後はエンジンを積んだ内燃機関車が4~5連結のボギーを引いて運搬していた。レールの幅は普通の鉄道よりも狭いナローゲージ(762mm)で、機関車の重さは4.5~6トン。

終戦後も町の復興の為に木材の需要も多く、大変な賑わいをみせたが、安い輸入材や環境破壊に押されて昭和45年、森林軌道の幕を閉じた。

これから向かう楽しみが増えました。    

キャンプ場から出てきた方に「どうですか、この先の道は? 」

「この間の台風で荒れてしまったが、きちんと整備し直してありますよ。道はまったく心配ありませんよ。この先、林道の途中で左の道を進んで下さい。」と。

この話に気をよくして、それでは行けるところまで、と。雨の中、歩き始めました。

すると、前を歩く青年、カメラ片手に写真を撮りながら上ってきます。声をかけたところ、「荒川の起点のところまでいくつもりです。」

これはありがたい。「ご一緒させてもらっても、いいですか? 」

道々、尋ねると日大芸術学部の学生、とのこと。

足手まといだったことでしょうが、結局、往復、ご一緒させてもらいました。

     

2010年代のようす。右手に「川又」バス停。「入川」沿いに上って行きます。(「歴史的農業環境システム」より)

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西武観光バス「秩父湖」~川又(往復)。その4。「秩父往還道」。栃本関跡。上中尾小学校。(「荒川を遡る」第11日目。)

2021-09-24 18:47:05 | 荒川を遡る

                      栃本までは約20分の登り道。振り返り望む。

帰路は、昔からの街道で、旧国道140号線の道を。

古風で落ち着いた風情の家並みが続く。

        みごとな松が門前に。

山間の傾斜地に家々と耕地。

 

埼玉と山梨を結ぶ国道140号は「彩甲斐街道」と呼ばれています。古くは「秩父往還」という武州と甲州・信州を結ぶ街道でした。

 当地の往来を監視する目的で戦国時代に武田信玄によって設けられたのが栃本の関所です(国指定史跡)。警固を厳重にするため、少し下った麻生(あそう)に加番所も設けられました。栃本から右へ折れると白泰(はくたい)山を越えて信州へ、左へ行くと雁坂峠を越えて甲州に至ります。

栃本は、白泰山から東に延びる尾根の上の地すべりによってできたなだらかな地形に形成された集落です。尾根の北側の中津川の谷には秩父帯と四万十帯の境界があります。秩父帯の険しい地形に比べ、やや穏やかな地形の四万十帯の地域を古い街道は通過しています。(「ジオパーク秩父」より)

「日本の道百選 秩父往還道」。

  右手に荒川沿いの山々。

国指定史跡「栃本関跡」碑。

解説板。

江戸幕府は、関東への「入り鉄砲」と関東からの「出女」を取り締まるため主要な街道に関所を設けた。

栃本関は、中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。

そのはじまりは、戦国時代、甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所を置いて山中氏を任じたと伝えられるが、徳川氏の関東入国以後は、天領となり、関東郡代伊奈忠次が慶長19年(1614)大村氏を藩士に任じたという。以後、大村氏は幕末まで藩士の職を代々つとめた。

しかし、藩士1名のみでは警備が手薄であったため、寛永20年(1643)秩父側の旧大滝村麻生と甲州側の三富村川浦とに加番所を付設して警固を厳重にした。したがってその後、み

関所の役宅は、文政元年(1818)と文政6年(1823)の二度にわたって焼失し、現在の主屋は幕末に建てられたもので、その後2階を建て増しするなど改造されたが、玄関や上段の間及び外部の木柵などには、関所のおもかげをよく留めている。

そこからの山並み。

                

 

これから先、下り道となって秩父湖へ戻ります。

途中、廃校になった「上中尾小学校」が。木造校舎。

1909年(明治42年)開校、1981年(昭和56年)閉校。
1937年(昭和12年)から1949年(昭和24年)まで、児童用の寄宿舎があったそうです。その後、滞在型の私立養護学校「光の村養護学校・秩父自然学園」として活用。その養護学校も閉鎖となり、今に至っています。道路側から校舎内を覗くと、作業場のような雰囲気。

校舎は昭和7年(1932年)に竣工。

校庭の片隅に記念碑が二つありましたが、立入禁止のため、確認できませんでした。

この校舎は、山中節治さん(1895~1952)の設計。大正・昭和初期に函館をはじめ国内で活躍した建築家で、兄の関根要太郎さんとともにモダン建築家として活躍した方。そのため、この校舎は解体されず残されているようです。

(「今昔マップ」より)

○が小学校。古くからあったことが分かります。

小さな集落が今も。急峻な山裾に開かれ、斜面に家々が点在している。

さらに下ると、「麻生加番所」跡。

                   

寛永20年(1643)、幕府の役人が当村巡見の際、栃本関の警備の手薄なのを見て、麻生に加番所を設置するよう指令があり、設置されたものである。施設は名主宅を役所とし、別に間口3.6m(2間)、奥行2.7m(1.5間)の番人詰所があった。

この番所の建設補修費すべて古大滝村によりまかなわれた。番屋は現存せず、現在の家は安政4年(1857)11月焼失のため新築されたものであり、今も同家を「番所」と呼んでいる。千島家は鉢形北条の奉行、千島下総の末裔といわれている。

こうして、再び「秩父湖」に戻ってきました。

「秩父湖」バス停。

待てども待てどもバスが来ません。30分以上待って、やっと。ところが、満員。やっとのことで乗り込み、そのまま超密集の中で、「西武秩父」駅へ。

池袋まで「S-TRAIN」に乗りました。「元町・中華街」行き特急。

            

 

 

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西武観光バス「秩父湖」~川又(往復)。その3。川又。入川渓谷。(「荒川を遡る」第11日目。)

2021-09-23 19:50:37 | 荒川を遡る

川又といっても何か特にあるわけではありません。大きめな「観光トイレ」と「四阿」と観光案内板、そして駐車スペース。

少し先に「扇屋山荘」。民宿と売店を兼ねた施設。前を通りましたが、営業しているかどうか不明でした。

↓が川又。

広く深い奥秩父山地のほんのとば口に位置します。「国道140号線(彩甲斐街道)」雁坂トンネルから甲府へ向かう、埼玉県側の出口(入口)です。

中央、最奥に位置する「甲武信岳」。

名の如く「甲州(山梨)」「武蔵(埼玉)」「信州(長野)」との県境。信濃川(千曲川)、荒川、笛吹川との分水嶺にもなっています。

かつて、長野県側(信濃川上)から登山したことがありました。また、北奥千丈岳とか、・・・若き頃の思い出です。

荒川はその東南に源流点があります。そこまで行くのは、今日はなしに・・・と。が、ほんの少しだけ入川(荒川)沿いに上ってみました。

       

下を見ると、透き通るような、まさに「水色」の流れ。

すっかり見とれてしまいます。

 

実は、この上流にキャンプ場があり、さらにその先まで進むことが出来ます。次回、そこまで入ってみようと思います。そのさらに上流に進むと、「一級河川荒川起点の石碑」があるようです。(源流はもっと上流になりますが)

(「Googleマップ」より)

引き返して「扇屋山荘」のところまで来ると、雁坂峠(トンネル)方向から下りてくる、笑い声も交えた、元気な7,8人のジョギングの集団と遭遇しました。ビックリしました。このあと、栃本から秩父湖へ向かう間に何度か出会いました。

四阿で、昼食休憩して、栃本に向かいます。

下流方向。

     

2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。行きは、荒川に沿った道を進み、帰りは栃本集落への道。「栃本関」から北西に向かう道は、かつては信州への道でした。

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西武観光バス「秩父湖」~川又(往復)。その2。不動滝入口四阿。新旧国道。そして、仲秋の名月。(「荒川を遡る」第11日目。)

2021-09-21 19:44:38 | 荒川を遡る

木漏れ日の下を。右に左にカーブしながら上っていきます。

護岸工事。目がくらむような真下に荒川。

道路右手の切り立った崖から一気に流れ落ちる流れ。難工事だったようすが分かります。

そういえば、歩く途中、地面に水の流れがけっこうあります。道路上が半分、水浸しになっている箇所も。右手の崖側から流れてくるようです。右は落石よけのネットやコンクリート壁が続き、左は、急峻な崖下に荒川の渓流。

歩き始めてから約1時間。「不動滝入口四阿」に到着。「不動滝」への案内板が。

不動滝のいわれ

荒川に流れこむ大除沢がつくる不動滝は落差50mもあり、その荘厳さを不動明王になぞらえて不動滝としたのでしょう。大除沢には、昭和の初期に多くの山林業者が入山していて、その人たちは守護神として不動様を信仰したといいます。徳川時代の末期には、行者が修行場として使用したともいわれています。

荒川に架かる「不動橋」を渡った対岸にあるようです。

           (「彩の国さいたま」HPより)

四阿から。濃い緑。

荒川に一気に下って行く道。 

足元不如意な年寄りにはクワバラ、クワバラ。小休止して、先に進みます。

右手の小高いところに「民宿 ふるさと」。

発電所関連工事現場? 

大がかりな工事のようです。休日のため工事は行われていませんでしたが、機械音が響いています。

背後は深い森。

ようやく川又に近づいてきました。

大滝・落合橋の先で右に分岐した「(新)国道140号線」が近づいてきます。新旧の国道がこの先で合流し、雁坂峠トンネルを抜け、甲府に向かうことになります。

もう少しで「川又」。

右手のトンネルが「(新)国道140号線」ルート。

「R140彩甲斐街道」。

「これより滝川渓谷 この先300m左折入川渓谷 雁坂トンネルまで7k 甲府へ52k」。

             そして、仲秋の名月。満月。 

中川・高砂橋から。

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西武観光バス「秩父湖」~川又(往復)。その1。二瀬ダム。秩父湖。吊り橋。(「荒川を遡る」第11日目。)

2021-09-20 20:42:48 | 荒川を遡る

9月19日(日)快晴。久々の荒川。秩父湖から川又を往復。約14㎞。

7月31日以来。前日の大雨もあがり、連休中ということで、電車もバスも満員。

二瀬ダムサイト。

「三峯神社」へはダムを左折して行きます。秩父湖で下車したのは二人のみ。満員のバスはそのまま「三峯神社」へ。

二瀬ダム。水面はかなり低く。

「大洞川」。奥に吊り橋。

       (「googleマップ」より)

さて、荒川の上流に向かって歩きます。

     

秩父湖付近で標高約550㍍、栃本集落は約750㍍。川又は栃本より少し低い。その上り下りの往復です。往路は、湖畔、荒川に沿った道、復路は山沿いの栃本を通る道を。

往路では誰とも出会わず、車とバイクの行き来のみ。

川又からの帰りには、雁坂峠から下りてきたジョギングのメンバーに抜きつ抜かれつ。といっても、彼らが休憩している時のみこちらが過ぎるだけで、快適な走りをする集団にはあっという間に追い抜かれます。

途中の二股、栃本への道を分けて、左を進みます。旧国道140号線。

その左下には、湖岸を進む「遊歩道」がしばらく続きます。

8月とは違って、日差しは強いが、杉林の濃い緑と涼風と渓谷の水音が心地よい。

旧国道140号線。

荒川に架かる吊り橋。但し、立入禁止。

「秩父湖吊橋」。この直下まで「湖岸遊歩道」。

ここにあった「注意書き」。

危ない 氷上の遊戯(釣り・スケート等)湖水の変動により結氷状態が不安定となることがあり、非常に危険ですから禁止します。

とあります。冬場の厳しい寒さを表す表示。 最近は温暖化で・・・。それでも、冬場はそうとう寒くなるようですが。

眼下に荒川。ススキが揺れる。

下流(「二瀬ダム」方向)。

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SL PALEO EXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その3。+西武鉄道特急ラビュー(~池袋)。(「荒川を遡る」番外編。)

2021-08-09 20:30:12 | 荒川を遡る

武甲山が左手に見えてきます。石灰岩の採掘で階段状の山容。孫に、石灰岩からセメントとして、さらに、コンクリートとして大きな建物に使われるんだよ、と説明しましたが、フンフンと頷くだけ。

あらためて「武甲山」。 

山名:日本武尊が、自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したという伝説が元禄時代の頃から定着した。

南方(ハワイの方)にあった火山島が活動を終え、浸食によって削られサンゴ礁を纏うようになる。サンゴによってできた石灰石を載せた海山は、プレートの動きにより北上し、深い海溝に引きずり込まれる。そして大陸プレートに押しつけられはがれ落ち、やがて隆起し浸食されることで地表に現れた山が武甲山。

武甲山の石灰岩は日本屈指の良質な大鉱床であり、可採鉱量は約4億トンと推定されている。山の北側斜面が石灰岩質であるために古くから漆喰などの原料として採掘されていた。明治期よりセメントの原料として採掘が始まり、特に1940年(昭和15年)に秩父石灰工業が操業を開始して以降、山姿が変貌するほど大規模な採掘が進められ、とくに北斜面で山体の崩壊が著しい。

1900年(明治33年)年)には標高1,295メートルとされた。元の山頂付近は1980年9月頃に採掘のために爆破されている2002年(平成14年)に改めて三角点周辺を調査したところ、三角点より西へ約25m離れた地点で標高1,304mが得られ、国土地理院はこれを武甲山の最高地点と改めた。そして、地図上では1,295mの三角点と最高地点1,304mの両方を表示することとした。

(この項、「Wikipedia」参照)

注1:ヒマラヤ山脈のエベレストの頂上や、アルプス山脈のアイガー等は石灰岩でできている。日本では武甲山の他、伊吹山や藤原岳など全山、石灰岩。日本には採掘しやすい場所に高品位の石灰岩が大量に存在し、数少ない国内で自給可能な鉱物資源。伊吹山も東海道新幹線から眺めると、石灰岩採掘のため、大きく山容が変化していることがわかる。

注2:石灰岩の主成分である炭酸カルシウムは雨水に溶解するため、溶食によって鍾乳洞を造り、特徴的なカルスト地形を形成する。日本では秋吉台や吉備高原、また四国西部や北九州地域にカルスト地形が存在する。また、風化に強いが溶食され易いことから、中国の桂林のような特異な地形を形成する場合がある。また、南西諸島の沖永良部島、喜界島、伊良部島のような隆起性珊瑚礁と呼ばれる島々では、現在も島周辺で大量の造礁サンゴが石灰岩を生成し、島自体は成長を続けている。これらの島は大部分が石灰岩でできている。

秩父駅に到着。

武甲山が間近に。 

                                                                                                                                                                               

                      

いよいよ終点の三峰口駅へ。上り坂のせいか、あえぎあえぎ上る感じが蒸気機関車らしい。

         

右手に荒川。深い谷になっていて、流れを見ることはできません。

       

ようやく三峰口駅へ到着。

右手に「転車台」があります。

 一般的には、蒸気機関車の方向転換に用いるものとして知られています。蒸気機関車の全盛期には各地の機関区や拠点駅・起終点駅に必ず設けられていましたが、蒸気機関車が廃止され、方向転換の必要がない電気機関車ディーゼル機関車などが増加するにつれ不要となり撤去され、あまり見られなくなってきました。ここは、その貴重な現役の転車台。

客車から切り離される蒸気機関車。ホーム下から見上げると、けっこう大きく複雑な構造をしています。

遠ざかる蒸気機関車。

さて帰り。

駅周辺でのんびりしてもいられず、慌ただしく羽生行きの普通電車に。

ラッピングカー仕立て。

帰りの電車は快調に「御花畑」駅まで。ここで「西武秩父駅」に向かいます。

秩父鉄道食べ物路線図。

西武秩父駅は垢抜けした雰囲気の駅舎と付属設備。そして、乗った特急は、2019年(平成31年)3月に運行を開始した、愛称は「Laview(ラビュー)。愛称の「Laview」は以下の頭文字に由来。

  • L - 贅沢(Luxury)なリビング(Living)のような空間
  • a - 矢(arrow)のような速達性
  • view - 大きな窓から移りゆく眺望(view)

流線型の車体、足元まで広がる大きな車窓、明るいモノトーンの車内・座席・・・、孫達もびっくり、喜んでいました。

蒸気機関車、ラッピングカー、最新鋭の特急電車、と変化に富んだ乗り物の旅に孫たちも満足したようです。

実は、「荒川を遡る」歩きでは、秩父鉄道の最寄り駅の行き帰りに2度往復で。今回で、3度目の乗車。

           

次回の「荒川を遡る」歩きでも往復、乗る予定なので、その時にまとめて紹介します。

そうして、風呂に入り、夕飯を食べて満足顔の孫達が帰ったあと、土産で買った秩父の地酒を飲みます。

           

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SL PALEO EXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その2。(「荒川を遡る」番外編。)

2021-08-08 15:43:27 | 荒川を遡る

この付近では、「荒川」沿いを国道140号線と並行して走ります。

長瀞駅に向かって進む。

時折、眼下に荒川の流れ。

対岸に「日本イスエード(株)」。

        

長瀞駅ではたくさん下車。その先の「荒川橋梁」で荒川の清流を眼下に。歩きでは河原から見上げました。秩父鉄道はここから荒川右岸沿いの河岸台地を終点の三峰口駅まで進んで行きます。

鉄橋からの荒川の流れ。

下の写真は、歩いたときの写真。ちょうど石灰岩を載せた貨物列車が通過中でした。

車内のポスターより。

橋梁の下から眺め、今回は上から眺め、と貴重な体験をしました。

瞬間的でしたが、孫達は長瀞の渓谷を見下ろしてビックリしていました。

荒川右岸の河岸台地。

            

「大野原」駅の手前、右手に大きな工場が。

大きなセメント工場。

秩父太平洋セメント 本社・工場。

石灰石の大鉱床として知られる武甲山のふもとの地に、秩父セメントが創業したのは1923年で元々の工場は秩父市の市街地に近いところにあったが、朝鮮戦争による特需を受け、生産力を増強するため、別の敷地に新しい工場を建てる計画が持ち上がる。

秩父セメント第2工場、現在の秩父太平洋セメント秩父工場の基本設計を会社が依頼したのは、当時、東工大教授だった谷口吉郎で、谷口はそれまでにも東京工業大学水力実験室(1932年)や慶應義塾の校舎(1949年)などの作品を手がけていたが、大学の卒業設計では「製鉄工場」を題材にしていた。それだけに本格的な工場設計の機会を得て、大いに意気込むが生産性の高さのほか安全と衛生の面からも優れ、しかも美しさを兼ね備えた、理想の工場を実現しようとしたという。実施設計には日建設計工務(現日建設計)が当たり、1956年に竣工した。

秩父セメントは1990年代に進んだセメント業界の再編により小野田セメント、日本セメントと次々と合併を果たし、太平洋セメントとなってさらに2000年に太平洋セメントの子会社として秩父太平洋セメントが設立され、この時ほぼ同時期に秩父セメントの第1工場が操業を停止。その結果、秩父セメント第2工場は現在、秩父太平洋セメント秩父工場と名前を変えている。

この工場施設は美しく分割された壁面、中央を貫く幅の広い通路、その両側に、圧倒的なボリュームで建築群が建ち並んでおり、第1期工事の建物に限ってみても、建築面積で1万坪(約3万3000m2) を超えて、巨大な建築だが絶妙なボリューム配分と、リズミカルに連続するボールト屋根の効果で、単調さを全く感じなくさせている。このほか特筆されるのが立面の美しさで、谷口作品に共通する縦に長い四角形のパターンで構成される端正なプロポーションによる壁面分割は、スチールサッシ、スレート、レンガ、コンクリート打ち放しなど、様々な素材を用いながら、外壁を覆い尽くしている。これだけ大規模な建築でありながら、このデザインの密度が隅から隅まで保たれているという。

(この項、「Wikipedia」参照)

圧倒的な存在感があります。 

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SL PALEO EXPRESS。車窓から。熊谷~三峰口。その1。そして「立秋」。(「荒川を遡る」番外編。)

2021-08-07 20:09:28 | 荒川を遡る

電気機関車に引かれてホームに。

フリー切符1,600円。

孫達とその父親と4人で秩父鉄道の蒸気機関車「SL PALEO EXPRESS」に乗って、「熊谷」から「三峰口」まで。

熊谷駅 10:12発 三峰口駅 12:45着。

当初は、往復ともSLに乗る予定でしたが、2時間以上乗っているうちに、孫達は飽きてしまったようで、往復はやめ、途中で変更。

帰りは、普通電車で「御花畑」駅へ。そこから「西武秩父」駅まで歩き、「西武秩父」駅からは、14:24発の特急ラビュー「ちちぶ30号」に乗って池袋まで、とあわただしい「ミニ周遊」の旅に。

「緊急事態宣言」が首都圏に発出される前に予約したので、ちょっと迷いましたが孫達の期待もあったので、出かけることに。

車内や駅構内などは子供連れがいましたが、思ったよりも少なめで、お互いに安心。

車内のようす。

                    

客席はレトロ調。懐かしい雰囲気。蒸気機関車に乗ったのは、50年以上昔に、会津若松に出かけた時以来? 

孫達は蒸気の大きな音と煙、匂いにいささか不安気。大人達はけっこう気分を味わっているようですが、・・・。

沿線でもSLの写真を撮る人がたくさん。手を振って見送ってくれています。

何日もかけて歩いたコースを汽車の旅で再確認。スピードはかなりゆっくり。昔もこんなだったのかな、と。

ところで、客車を牽引する蒸気機関車「C58 363」とは?

1944年(昭和19年)2月19日に川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造された(製番2941)。同年4月2日に釜石機関区(現・釜石線営業所)に配置され、5か月後の9月5日に仙台機関区(現・仙台総合鉄道部)に転属した。1950年(昭和25年)11月1日に長町機関区(現・仙台総合鉄道部)に転属してからは、主に入れ換え作業に使用された。・・・主に東北地方で使用された。累計走行キロ数1,054,826kmで廃車となり、1973年5月31日から国鉄からの貸与という形で埼玉県北足立郡吹上町(現・鴻巣市)立吹上小学校に展示された。

廃車から15年後、国鉄分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月6日に、翌年に開催された'88さいたま博覧会の目玉として復活することが決定し、車籍を復活。同年3月26日に高崎運転所(現・高崎車両センター)に配置され、そのまま東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。車籍復活後、大宮工場(現・大宮総合車両センター)や大阪府サッパボイラでの復元工事を実施し、同年12月26日に工事が完了、同年12月28日付けでJR東日本から除籍され、動態保存を行う秩父鉄道に移籍。1988年(昭和63年)2月22日から同鉄道で試運転が開始され、同年3月15日から秩父本線熊谷 - 三峰口間で「SLパレオエクスプレス」として運転を開始した。・・・

(この項「Wikipedia」参照)

名前の由来

「パレオ」は秩父地方におよそ2000万年前に生息していた海獣パレオパラドキシアにちなんだ名前です。
パレオパラドキシアとはラテン語で「昔の不思議な動物」という意味があるそうです。大昔、秩父地域は海の底にあったことが数々の化石により証明されていますが、その中でもパレオパラドキシアの化石は珍しく、世界でも数体しかありません。
その貴重な文化遺産から「パレオ」を、急行を意味する「エクスプレス」とあわせて、「パレオエクスプレス」という愛称が生まれました。
※パレオパラドキシアの骨格復元像が埼玉県立自然の博物館(上長瀞駅下車徒歩5分)に展示されています。

(この項「秩父鉄道」HPより)

秩父鉄道はトンネルが一ヶ所もないので、実現したのか? 一方、秩父市などでは建物が沿線に建ち並び、煙や音で悩まされているのでは? そんな感想を持ちながらのSLの旅でした。

田園風景が広がります。

   

孫二人は車内販売のアイスに夢中。

「入船寿司」。TV番組で観たことが。

     小前田駅。

寄居駅に到着。

「荒川を遡る」歩き旅の第6日目の下車駅でした。

この先、歩きでは、荒川沿いに玉淀から長瀞と、荒川の景観を眺めながらの旅ですが、車内からよく見えません。

左に「国道140号線(「彩甲斐街道」)。ここを歩きました。

         

 

波久礼駅。印象深い駅名。

そして、今日が二十四節気の一つ「立秋」。秋の気配が立ち始める日です。七月節。『暦便覧』では「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明しています。

「夏至」と「秋分」の中間で、この日から立冬の前日までが秋という区分になりますが、日本ではまだまだ猛暑が厳しい時期です。

立秋からの暑さを「残暑」といい、手紙などの時候の挨拶は、この日から暑中見舞いではなく残暑見舞いを出すことになります。

ちなみに旧暦では今日は、まだ6月29日です。

「七十二候」では、三つに分け、

・初侯 8月7日〜8月11日頃 涼風至(すずかぜいたる)

夏の暑い風から、秋の涼しい風に替わりはじめる頃。まぶしく輝いている太陽も日射しを和らげ、夕方に鳴く虫たちの音色も涼しさを演出してくれるはず。

・次侯 8月12日〜8月16日頃 寒蝉鳴(ひぐらしなく)

夏の終わりを告げるかのように、ヒグラシが鳴いている頃。ヒグラシは日の出前や日没後によく鳴き、過ぎゆく夏を惜しんでいるかのように聞こえてくる。

・末侯 8月17日〜8月22日頃 蒙霧升降(ふかききりまとう)
 
森や水辺に白く深い霧がたちこめる頃。朝夕のひんやりとした心地よい空気の中、深い霧が幻想的な風景をつくりだす。

藤原敏行の歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(古今和歌集)が有名。

また、これからの長雨は「秋雨」と呼びます。

台風の到来する季節にもなってきます。今日、明日が心配。

次の「処暑」までしばらくの我慢。

コロナ禍での夏、残暑お見舞い申し上げます。

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秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その4。三十槌の氷柱(みそつちのつらら)。二瀬ダム。(「荒川を遡る」第10日目。)

2021-08-05 18:43:45 | 荒川を遡る

                       「道の駅大滝温泉」観光案内図。

道の駅には、車で見える方の姿のみ。徒歩の客は見当たらない。ま、この炎天下で歩く人はまずいないのでしょう。

今回、地元の方を含め、歩いている人とはまったく出会いませんでした。

蔵造り。

二階建て。現代風の建物ですが、沿道の部分は昔ながらの店構え。食堂か何かだったのか?

          

ここから約4キロの道のりで「秩父湖」に。

旧大滝村役場。

2005年4月1日に、秩父市吉田町荒川村と新設合併し、新たに秩父市となった。

面積は約332km2、埼玉県の自治体の中で最も広かった。旧村域全体が秩父多摩国立公園に指定されていた

秩父山地の主脈を村域とし、村域の97%は山林である。村内には甲武信ヶ岳をはじめ、標高2,000m級の山々が12峰連なり、そこから荒川が流れ出している。よって、「荒川の源流郷」でもある。

山:甲武信ヶ岳、三宝山雲取山和名倉山御岳山三峰山三国山両神山など

河川: 荒川、中津川滝川大洞川大血川など

湖沼: 秩父湖奥秩父もみじ湖  

(この項「Wikipedia」より)

この手前に対岸に向かう「大滝橋」がある。

荒川の流れ。

             

右手から「中津川」が合流。

「落合橋」。上流。

新しい「国道140号線」は中津川沿いに進み、「大峰トンネル」を経て、川又で再び合流します。「秩父湖」方面には荒川沿いの旧国道を行きます。

かつては奥に建物があった。

車の量が少なくなります。

                   

しばらく進むと、「三十槌の氷柱」の看板。

奥秩父の冬の名勝「三十槌の氷柱(みそつちのつらら)」は、岩肌から湧き出る湧水によりつくりあげられる、高さ約8m、幅約30mにもなる大規模な氷のオブジェです。
天然の氷のため毎年、姿も変わります。
荒川源流の大自然の中、氷柱は1年で最も寒さの厳しい1月中旬から2月下旬までご覧いただけます。
※氷柱は天候や気温などで条件が変わる場合がございますので、ご了承ください。

(「ぶらっとちちぶ―秩父観光協会」HPより)

     

      

この先、ダムサイトに向かう急カーブの上り坂が続きます。最後のひとふんばり。車から気の毒そうな視線が。

やっと下り坂になり、一気に秩父湖へ。

舗装道路でなければ深山の雰囲気が。

やっと今回のゴール地点が見えてきます。

「二瀬ダム」。

荒川は名前が示す通り古くから氾濫を繰り返す河川であった。1947年昭和22年)のカスリーン台風によって流域は更なる被害を受けた。建設省(現・国土交通省関東地方整備局)は荒川の治水を図るべく「荒川総合開発事業」に着手。この中でダムによる洪水調節を目論んだ。こうして計画されたのが二瀬ダムであり、1952年(昭和27年)より建設が開始され1961年(昭和36年)に完成した。

ダムの型式は重力式コンクリートダムアーチ式コンクリートダムの利点を兼ね備えた重力式アーチダムであり、ダムの高さは95mである。荒川沿岸の洪水調節、荒川沿岸の既得農地に対する慣行水利権分の農業用水補給を図る不特定利水、および埼玉県企業局による水力発電が目的の多目的ダム特定多目的ダム)である。

(この項「Wikipedia」より)

上流を望む。

「みやま商店」に入ってビールでのどを潤し(今回の旅で会話したのは、食堂の方とここのご主人と二人だけ)、1時間近く待って、西武秩父駅行きのバスに乗りました。

暑い一日でしたが、眼下に、しだいに渓谷に変わっていく荒川を眺めながらの歩きでした。

次回は、ここから「川又」まで往復することになりそうです。

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秩父鉄道三峰口駅~西武観光バス「秩父湖」。その3。三峰ロープウェイ。道の駅大滝温泉。(「荒川を遡る」第10日目。)

2021-08-04 21:45:34 | 荒川を遡る

大輪は、三峰神社参拝の拠点として賑わったところ。表参道の入口にあたり、三峰の門前町として栄えた。

左手には「一之鳥居」。また、参道へ通じる、荒川に架かる橋は朱塗りの「登竜橋」。

「三峰ロープウェイ」の発着場所でもあった。現在は、神社まで2時間あまりの道のりとなる「三峰山ハイキングコース」(表参道・裏参道)の起着点となっている。

注:「三峰ロープウェイ」=「大輪」駅と「三峰山頂」駅を結んでいた。1939年(昭和14年)開業、2007年(平成19年)廃止。現在、西武観光バスが三峯神社への路線バスの運行を開始し、現在平日6往復、土休日7往復運転している。

学生の頃、友人とここから三峰山山頂までロープウェイで行き、そこから雲取山まで歩いたことがあります。それ以来、登山が面白くなって、山登りを始めました。

「ぶらっとちちぶ―秩父観光協会―」HPより)

懐かしい映像を「youtube」から借用。1993年(平成5年)8月撮影。

     

               

「三峰まんじゅう本舗」。

先に進みます。

眼下に荒川の流れ。

右側には崖が迫る。

三峰山方向?

雲取山方向? 

対岸には「蕎麦カフェ神庭」。

      (「Googleマップ」より)当日は休業でした。

そろそろ昼飯タイム。

と、「道の駅大滝温泉」。

   

ここで、右手のお店「郷路館」で手打ちそばを食べ、小休止。美味しいお蕎麦でした。  

店内に国語学者の金田一晴彦さんの似顔絵とコメントが。「春風秋雨是人生」と。 

 

      道の駅大滝温泉にある歌碑。
 日本三大峠の一つとして「日本書紀」にも歌われた雁坂峠を金田一春彦文学博士が詠んだ歌を記したもの。
 

秩父往還   ぶなの木林
      石坂(ごうろ)登れば   雁坂峠
      甲斐の平野は   眼下に開け
      富士は大きく   正面に
           
    日本武尊も   岩根を伝い
      日には十日の   雁坂峠
      三峰詣での   信徒の群も
      繭を葛籠(つづら)の   女子衆も
           
    旅人泣かせの   八里の道も
      今は昔の   雁坂トンネル
      大滝の湯から   川浦の湯へ
      夢の通い路   小半時

「道の駅「大滝温泉」~金田一春彦の詩碑~

 

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