明治34年(1901年)創業以来 日用品雑貨荒物卸業を営み、平成10年より和紙とお香の商いをはじめました。
建物は、明治25年(1892年)の建築。
昭和30年代 前部分の軒先を切り落とし改築しましたが、再度町並みの景観に合わせ創業当時に修復致しました。
(この項、「」HPより)
「小野川」沿いに下って行きます。この地区にも両岸にすてきな古風な建物が並んでいます。
1880年代のようす。「小野川」界隈の賑わいぶりが分かる。
2010年代のようす。「小野川」に架かる橋が「忠敬橋」。中央黄色い道路、右が「香取神宮」方向。左上が「佐原駅」方向。旧道は左下からの道。
柳の新緑が川面に映える。
「開運橋」。ちょうど外国人を乗せた遊覧船が通りすぎていきます。
ここから駅方向に戻ります。
「山田」さんに入ろうと思いましたが、待ち人多し。
駅前にある「伊能忠敬」像。
以下、かなりの長文になりますが、
伊能忠敬
延享2年1月11日〈1745年2月11日〉~文政元年4月13日〈1818年5月17日〉(73歳没)
江戸時代の商人・天文学家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
17歳になったとき、縁あって、親戚の平山家の養子となり、林大学頭から忠敬と名を付けてもらって、佐原の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿し、四歳年上のミチと結婚する。
家業に出精して家運を隆盛に導き、名主としても頑張って、天明の大飢饉に佐原からは一名の餓死者も出さなかった。
49歳で隠居したときは家産三万両だったという。
50歳のとき江戸に出て、深川黒江町に隠宅を構え、寛政の改暦のため、大坂城番玉造組の同心から旗本の天文方に抜擢された新進の天文学者・高橋至時に入門する。
天文・暦学を勉強するとともに、自宅に天文方に匹敵する規模の観測所を設けて、太陽や恒星の高度などを熱心に観測し、推歩という天体運行の計算に熱中した。
注 佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身につけていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい。(この項、「Wikipedia」より)
伊能測量のキッカケから終了まで
忠敬は三人目の妻・お信の父で仙台藩の上級藩医・桑原隆朝とは「ウマ」があった。お信亡き後も親密な付き合いが続いていた。証拠となる史料はないのだが、状況から考えると高橋至時への入門を世話したのは桑原隆朝だった可能性が高い。
寛政の改暦のために、高橋が大坂から下ってくるという極秘情報を桑原隆朝から聞いて、忠敬は「これだ」と思ったのではないか。天文・暦学は好きな道であるし、早速押しかけて入門する。難しい理論を習ったり、天文方なみの観測機械を自宅に据え付けて太陽や星を測った。
勉強しているうちに、高橋至時が地球の大きさを知りたがっていることが分かる。 いつも観測していて、深川の自宅と蔵前の天文方の緯度差は一分半と知っていたから、「両地点の子午線上の距離がわかれば、地球の大きさは計算できる」そう思いつくと、すぐ実行にとりかかった。
試測のデータは師匠に相手にされなかったが、蝦夷地までも測ったら使えるデータが得られるかも知れないといわれ、蝦夷地まで地上の距離と星の高度とを測る決意をする。第一次測量である。実現には桑庫隆朝の側面工作の力が大きかった。測量の実務については、高橋至時が細かい注意をあたえた。彼は忠敬を全面的には信頼できなかったようだ。
忠敬ら一行6名(55歳の忠敬、内弟子の門倉隼太・平山宗平・伊能秀蔵、下僕の吉助・長助)の測量隊は、蝦夷地が寒くならないうちにと、急ぎに急いで蝦夷地の根室の近くのニシベッまで往復3,200キロを180日かかって歩測した。
昼は交代で歩数を数え、曲がり角では方位を測る。夜は宿舎の庭に象限儀を据え付けて星の高度を測った。蝦夷地測量の成果は小図1枚、大図21枚に描いて提出された。この結果を高橋至時はみて、予想外の頑張りに感動し、よくできたと激賞した。
費用は節約して約百両かかったが、お手当は22両だった。器具の準備に70両かかったから、初めての測量の自費負担は、約150両弱。今のお金で3,000万円位だろう。
実績が認められ翌享和元年(1801)には、当時幕府がいちばん知りたかった伊豆半島、房総半島から三陸、下北半島まで測って、日本東海岸の図を作るように命じられる。
日本全国の測量
蝦夷地の実測図は大変高く評価された。現在図と較べても経度を補正すれば、地形は重なる。
第二次測量では測量方法を改善し、間縄を使って本州東海岸の測量を始める(第一次の蝦夷地測量では全行程とも歩測だった)。
ついで、第三次測量では出羽から日本海沿岸、第四次測量では東海道・北陸道沿海、と測量が続けられ、文化元年には東日本の図が完成した。
八月に老中・若年寄の閲覧に供し、九月、第11代将軍・徳川家斉の台覧をうける。
ここまでは幕府が補助金を出した忠敬の個人事業であったが、このあと、忠敬は微禄だが幕臣(45俵くらい)に登用され、幕府測量隊として下役・内弟子など多数の部下をつれて、老中の御証文を持って西国の海岸と主要街道を丁寧に測量した。
伊能隊の全測量日数の約八割は幕府事業として遂行された。
測量旅行の回数は、10回におよんだが、忠敬は第九次の伊豆七島測量を除いて全測量に従事した。測量距離は約4万キロ、忠敬自身の旅行距離は3.5万キロに達した。すべての測量をおわり、弟子の問宮林蔵が担当した蝦夷地の測量デー夕を受けとったのち、文政元年4月13日(1818.5.27)に地図御用所であった八丁堀の自宅で没する。享年73歳。
地図御用所では、忠敬の死を秘して地図製作の作業が続けられ、3年余り後の文政4年(1821)に完成する。上司の高橋景保は、忠敬の孫・忠誨と下役一同をともなって登城し、老中・若年寄の前に地図を提出し閲覧に供した。最終提出の伊能図の名称を「大日本沿海輿地全図」という。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなる。その後9月4日(1821.9.29)に至って忠敬の喪を発した。
正式な名称を「大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)」という。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなっている。
(この項、「」HP参照。)
(以下は、「」HPによる))
第二次測量 1801年 伊豆~東日本太平洋側 230日間
第三次測量 1802年 東北日本海側 132日間
第四次測量 1803年 東海・北陸地方 219日間
第五次測量 1805年 近畿・中国地方 1年9ヶ月間
第六次測量 1808年 四国 約1年間
第七次測量 1809年 九州前半 1年9ヶ月間
第八次測量 1811年 九州後半 913日間
第九次測量 1815年 伊豆諸島 約1年間
第十次測量 1815年 江戸 約半月間
(第九次測量と第十次測量は並行して行なわれた)
気になるのは「当時、どのような方法で測量していたのか?」ということですよね。
忠敬は55歳(1800年)の時に第一次測量のため、蝦夷地へ向かいました。
この時一緒だったのは息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人、それに馬2頭でした。
この時の測量は一定の歩幅(70cm)になるような歩き方を訓練し、複数の人間が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算していくという方法でした。
気が遠くなるようなやり方ですが、それでも毎日40kmを移動したと言うのですから、その脚力にも驚かされます。
蝦夷地滞在は117日間にも及び、帰宅後は測量データをもとに3週間かけて地図を完成させたと言われています。
翌年1801年には第二次測量がスタート。
伊豆から太平洋側北端にある尻屋崎までの東日本太平洋側の測量です。
今回は蝦夷地で用いた「歩測」による測量ではなく、一間(約180cm)ごとに印を付けた縄(間縄=けんなわ)を使う方法に変更。
楽になったかと思いきや、海岸線は複雑に入り組んだ地形が多かったり、時には断崖絶壁に縄を張っていく測量になったりと、その苦労は尽きなかったようです。
この第二次測量に要した日数は230日間。
8ヶ月近い期間、様々な困難と向き合いながら測量を行なうことは、精神的にも肉体的にも相当過酷であったと考えられます。
忠敬はここまでの測量から、子午線一度の距離を28.2里と導き出すことに成功したと言われています。
忠敬は最終的に第十次測量までを成し遂げます。
東日本の海岸線測量が完結した第四次測量の後、忠敬は当初の目的であった地球の大きさを求める計算を始め、その結果約4万キロという数値に辿り着きました。
忠敬の師である高橋至時の持つオランダの天文学書の数値と照らし合わせ、両方が一致することを確認し、2人で大喜びしたそうです。
第十次測量が終了するまでの忠敬が歩いた距離は4万キロとされ、それこそ地球1周分の距離を歩いたことになります。
(「伊能図 | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)」https://kochizu.gsi.go.jpHPより)
「佐原駅」。趣のある駅舎。
駅前の観光案内図。→が来た道、○が「忠敬橋」。
「水郷佐原 あやめ祭り」開催中です。
以上、「佐倉街道」「成田街道」「佐原街道」と歩き、「小江戸・佐原」で終了です。
「日光例幣使街道」歩きで「小江戸・栃木」を歩き、去年、「川越街道」を歩き、「小江戸・川越」にも行きました。川越はすばらしい蔵の街ですが、栃木のように「水辺に蔵造り」ということで、規模は小さいですが、佐原も魅力的。そういえば、倉敷もすてきです。
さて、次回はどこを歩きましょうか?