おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その5。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-14 20:24:19 | 佐倉街道
 香取市内を流れる小野川ぞい、重要伝統的建造物群保存地域内に位置しております。
 明治34年(1901年)創業以来 日用品雑貨荒物卸業を営み、平成10年より和紙とお香の商いをはじめました。
 建物は、明治25年(1892年)の建築。
 昭和30年代 前部分の軒先を切り落とし改築しましたが、再度町並みの景観に合わせ創業当時に修復致しました。
(この項、「」HPより)

 「小野川」沿いに下って行きます。この地区にも両岸にすてきな古風な建物が並んでいます。


                       



1880年代のようす。「小野川」界隈の賑わいぶりが分かる。




2010年代のようす。「小野川」に架かる橋が「忠敬橋」。中央黄色い道路、右が「香取神宮」方向。左上が「佐原駅」方向。旧道は左下からの道。

    柳の新緑が川面に映える。

「開運橋」。ちょうど外国人を乗せた遊覧船が通りすぎていきます。
 

 ここから駅方向に戻ります。
「山田」さんに入ろうと思いましたが、待ち人多し。

駅前にある「伊能忠敬」像。

以下、かなりの長文になりますが、
伊能忠敬
延享2年1月11日〈1745年2月11日〉~文政元年4月13日〈1818年5月17日〉(73歳没)
江戸時代の商人・天文学家である。通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
     
 17歳になったとき、縁あって、親戚の平山家の養子となり、林大学頭から忠敬と名を付けてもらって、佐原の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿し、四歳年上のミチと結婚する。
 家業に出精して家運を隆盛に導き、名主としても頑張って、天明の大飢饉に佐原からは一名の餓死者も出さなかった。
 49歳で隠居したときは家産三万両だったという。
 50歳のとき江戸に出て、深川黒江町に隠宅を構え、寛政の改暦のため、大坂城番玉造組の同心から旗本の天文方に抜擢された新進の天文学者・高橋至時に入門する。
 天文・暦学を勉強するとともに、自宅に天文方に匹敵する規模の観測所を設けて、太陽や恒星の高度などを熱心に観測し、推歩という天体運行の計算に熱中した。

注 佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身につけていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい。(この項、「Wikipedia」より)

伊能測量のキッカケから終了まで
 忠敬は三人目の妻・お信の父で仙台藩の上級藩医・桑原隆朝とは「ウマ」があった。お信亡き後も親密な付き合いが続いていた。証拠となる史料はないのだが、状況から考えると高橋至時への入門を世話したのは桑原隆朝だった可能性が高い。
 寛政の改暦のために、高橋が大坂から下ってくるという極秘情報を桑原隆朝から聞いて、忠敬は「これだ」と思ったのではないか。天文・暦学は好きな道であるし、早速押しかけて入門する。難しい理論を習ったり、天文方なみの観測機械を自宅に据え付けて太陽や星を測った。
 勉強しているうちに、高橋至時が地球の大きさを知りたがっていることが分かる。 いつも観測していて、深川の自宅と蔵前の天文方の緯度差は一分半と知っていたから、「両地点の子午線上の距離がわかれば、地球の大きさは計算できる」そう思いつくと、すぐ実行にとりかかった。
 試測のデータは師匠に相手にされなかったが、蝦夷地までも測ったら使えるデータが得られるかも知れないといわれ、蝦夷地まで地上の距離と星の高度とを測る決意をする。第一次測量である。実現には桑庫隆朝の側面工作の力が大きかった。測量の実務については、高橋至時が細かい注意をあたえた。彼は忠敬を全面的には信頼できなかったようだ。
 忠敬ら一行6名(55歳の忠敬、内弟子の門倉隼太・平山宗平・伊能秀蔵、下僕の吉助・長助)の測量隊は、蝦夷地が寒くならないうちにと、急ぎに急いで蝦夷地の根室の近くのニシベッまで往復3,200キロを180日かかって歩測した。
 昼は交代で歩数を数え、曲がり角では方位を測る。夜は宿舎の庭に象限儀を据え付けて星の高度を測った。蝦夷地測量の成果は小図1枚、大図21枚に描いて提出された。この結果を高橋至時はみて、予想外の頑張りに感動し、よくできたと激賞した。
 費用は節約して約百両かかったが、お手当は22両だった。器具の準備に70両かかったから、初めての測量の自費負担は、約150両弱。今のお金で3,000万円位だろう。
 実績が認められ翌享和元年(1801)には、当時幕府がいちばん知りたかった伊豆半島、房総半島から三陸、下北半島まで測って、日本東海岸の図を作るように命じられる。

日本全国の測量
 蝦夷地の実測図は大変高く評価された。現在図と較べても経度を補正すれば、地形は重なる。
 第二次測量では測量方法を改善し、間縄を使って本州東海岸の測量を始める(第一次の蝦夷地測量では全行程とも歩測だった)。
 ついで、第三次測量では出羽から日本海沿岸、第四次測量では東海道・北陸道沿海、と測量が続けられ、文化元年には東日本の図が完成した。
 八月に老中・若年寄の閲覧に供し、九月、第11代将軍・徳川家斉の台覧をうける。
 ここまでは幕府が補助金を出した忠敬の個人事業であったが、このあと、忠敬は微禄だが幕臣(45俵くらい)に登用され、幕府測量隊として下役・内弟子など多数の部下をつれて、老中の御証文を持って西国の海岸と主要街道を丁寧に測量した。
 伊能隊の全測量日数の約八割は幕府事業として遂行された。
 測量旅行の回数は、10回におよんだが、忠敬は第九次の伊豆七島測量を除いて全測量に従事した。測量距離は約4万キロ、忠敬自身の旅行距離は3.5万キロに達した。すべての測量をおわり、弟子の問宮林蔵が担当した蝦夷地の測量デー夕を受けとったのち、文政元年4月13日(1818.5.27)に地図御用所であった八丁堀の自宅で没する。享年73歳。
 地図御用所では、忠敬の死を秘して地図製作の作業が続けられ、3年余り後の文政4年(1821)に完成する。上司の高橋景保は、忠敬の孫・忠誨と下役一同をともなって登城し、老中・若年寄の前に地図を提出し閲覧に供した。最終提出の伊能図の名称を「大日本沿海輿地全図」という。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなる。その後9月4日(1821.9.29)に至って忠敬の喪を発した。 
 正式な名称を「大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)」という。大図214枚、中図8枚、小図3枚からなっている。

(この項、「」HP参照。)

(以下は、「」HPによる))

第二次測量 1801年 伊豆~東日本太平洋側 230日間

第三次測量 1802年 東北日本海側 132日間

第四次測量 1803年 東海・北陸地方 219日間

第五次測量 1805年 近畿・中国地方 1年9ヶ月間

第六次測量 1808年 四国 約1年間

第七次測量 1809年 九州前半 1年9ヶ月間

第八次測量 1811年 九州後半 913日間

第九次測量 1815年 伊豆諸島 約1年間

第十次測量 1815年 江戸 約半月間
(第九次測量と第十次測量は並行して行なわれた)

 気になるのは「当時、どのような方法で測量していたのか?」ということですよね。
 忠敬は55歳(1800年)の時に第一次測量のため、蝦夷地へ向かいました。
 この時一緒だったのは息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人、それに馬2頭でした。
 この時の測量は一定の歩幅(70cm)になるような歩き方を訓練し、複数の人間が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算していくという方法でした。
 気が遠くなるようなやり方ですが、それでも毎日40kmを移動したと言うのですから、その脚力にも驚かされます。
 蝦夷地滞在は117日間にも及び、帰宅後は測量データをもとに3週間かけて地図を完成させたと言われています。
 翌年1801年には第二次測量がスタート。
 伊豆から太平洋側北端にある尻屋崎までの東日本太平洋側の測量です。
 今回は蝦夷地で用いた「歩測」による測量ではなく、一間(約180cm)ごとに印を付けた縄(間縄=けんなわ)を使う方法に変更。
 楽になったかと思いきや、海岸線は複雑に入り組んだ地形が多かったり、時には断崖絶壁に縄を張っていく測量になったりと、その苦労は尽きなかったようです。
 この第二次測量に要した日数は230日間。
 8ヶ月近い期間、様々な困難と向き合いながら測量を行なうことは、精神的にも肉体的にも相当過酷であったと考えられます。
 忠敬はここまでの測量から、子午線一度の距離を28.2里と導き出すことに成功したと言われています。

 忠敬は最終的に第十次測量までを成し遂げます。
 東日本の海岸線測量が完結した第四次測量の後、忠敬は当初の目的であった地球の大きさを求める計算を始め、その結果約4万キロという数値に辿り着きました。
 忠敬の師である高橋至時の持つオランダの天文学書の数値と照らし合わせ、両方が一致することを確認し、2人で大喜びしたそうです。
 第十次測量が終了するまでの忠敬が歩いた距離は4万キロとされ、それこそ地球1周分の距離を歩いたことになります。

 
(「伊能図 | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)」https://kochizu.gsi.go.jpHPより)

「佐原駅」。趣のある駅舎。

駅前の観光案内図。→が来た道、○が「忠敬橋」。

「水郷佐原 あやめ祭り」開催中です。

 以上、「佐倉街道」「成田街道」「佐原街道」と歩き、「小江戸・佐原」で終了です。
 「日光例幣使街道」歩きで「小江戸・栃木」を歩き、去年、「川越街道」を歩き、「小江戸・川越」にも行きました。川越はすばらしい蔵の街ですが、栃木のように「水辺に蔵造り」ということで、規模は小さいですが、佐原も魅力的。そういえば、倉敷もすてきです。

 さて、次回はどこを歩きましょうか?
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成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その4。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-13 21:51:21 | 佐倉街道
                           観光客がそぞろ歩き。外国人の姿もちらほら。「福新呉服店」「小堀屋本店」。
                       正文堂」(さわら十三里屋)。

忠敬橋」から「小野川」北側(下流)を眺める。

「解説板」。
佐原の町並
 利根川図志(1855年)に「佐原は、下利根附第一の繁昌の地なり、村の中程に川有りて、新宿 本宿の間に橋を架す、米穀諸荷物の揚げさげ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそい、両岸の狭きをうらみ、誠に、水陸往来の群集、昼夜止む時なし」と記してある。
 江戸時代の佐原は「小江戸」と呼ばれ、この周辺の町並には、国指定史跡伊能忠敬旧宅や県指定有形文化財小堀屋本店店舗、正文堂書店店舗をはじめ、土蔵造りの古い商家がある。
 また、関東三大祭りの一つとして数えられる「佐原まつり」は、豪華絢爛を競い、山車で奏される県指定無形民俗文化財佐原囃子は水郷情緒を代表するものである。


植田屋荒物店」の裏手。

南側(上流)を歩きます。
対岸には「まぎの屋菓子店」。

伊能忠敬旧宅」。

                          

 
              「樋橋(とよはし)」。
 樋橋は、江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋をつくり小野川に架けられたものです。
 もともとこの橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け板を敷いて、人が渡れるようになりました。
 橋の名は、大樋でつくられたので樋橋といい、また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたので「ジャージャー橋」とも呼ばれました。
 昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成4年に架け替えられたものです。

割烹 宮定」。
 このお店はテレビ東京の「和風総本家」のオープニングとして使われ、お店の看板を「和風総本家」に書き換えている、とか。

遅歩庵(ちぶあん)いのう」。
「樋橋」の近く、「伊能忠敬記念館」のそばにあります。「東京バンドワゴン」の看板。これは、2013年に放映されたドラマ「東京バンドワゴン~下町大家族物語」のロケで、「遅歩庵いのう」が使われた名残。ドラマの設定では、古本屋だったそうです。
  (公式ツイッターより)

 訪れた女性達が「ここに来たかったのよ」と、とても感激して記念撮影をしています。
                    

重厚な「見世倉」。

                    中村屋乾物店」。

茶屋花冠」。

奥に見える赤レンガ造りの建物は、「佐原三菱館」。
 明治の洋風煉瓦造建築の様式を受け継いだもので、外観はルネサンス建築様式、屋根は木骨銅板葺き、正面右にドームを配している。 内部は吹き抜けで、2階の周囲に回廊がある。窓や出入り口には上部巻上げ式のよろい戸、鉄製のサッシが残っている。 建築当時の図面にはこのほか、カウンター奥の壁中央に大理石張りの暖炉、南東隅には二階への螺旋階段があった。 佐原の町並みの中では、その特徴的外観からシンボル的な存在の建物である。
《大正3年築。旧三菱銀行佐原支店(それ以前は川崎銀行佐原支店)》
(この項、「Wikipedia」参照)
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成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その3。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-12 22:25:55 | 佐倉街道
                             暑くなってきます。
 右手にある、「ケーヨーデイツー佐原店」の涼しい店内で一休み。

(12:12)その先、右手に「雷神社」。旧道はこの神社の裏手を進んでいました。

この付近の今昔。

1880年代のようす。旧道は南側の集落を回り込むように進んでいた。


2010年代のようす。「ケーヨーデイツー」の先が「雷神社」で、旧道との分岐点。現在の道路は丘を切り崩し、直線化されている。

そこもスルーし、進みます。住宅地になっています。右手に「特養ホーム」。

「リーフ ガーデン」。アパートのようです。

鋭角に左折し、北に位置する佐原の市街地に向けて進んでいきます。
    
            
            
1880年代のようす。                      2010年代のようす。現在でも途中から急坂に。
急坂の「大坂」付近では曲がりくねって坂を下ったようです。

(12:22)「上宿台」バス停。

この先がかなり急な下り坂「大坂」に。

(12:26)急な下り坂の手前に大きな「馬頭観世音」と祠。                         
 現在は崖を切り崩し、少し緩やかになっていますが、かつては厳しい急坂だったようです。左手は丘陵、右手は深い谷。
 

遠く佐原の街並み。

ようやく下り坂も終わり、平坦に。

左手・「法界寺」からの道を合わせると、家並みが続くようになります。



(12:37)酒蔵「東薫酒造」。

その先に「清酒糀善」。

                          

道路をはさんで大きな木造の蔵。

古い伝統的な家屋が並ぶ中心部に入って行きます。
                   
                               
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成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その2。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-11 21:04:17 | 佐倉街道
                                「秀じい農場・バラ園」。

集落に入って行きます。

(10:32)「桜田権現前」交差点。右に折れる道が「多古」へ向かう道。

この近辺でよく見かける屋根のかたち。大きな農家の造り?

先に進みます。

街道の左右に農地が開けてきます。

(10:46)左手に「秀じい農場」という看板と直売所。

                              

 バラが咲き誇っています。実は、「大栄IC」付近にあったバラは、ここの農場の堆肥で栽培されていたものだったようです。


 

 この農場は「秀じい解体」の関連農場のようです。去年のブログより。

 秀じい解体は木造住宅専門の解体工事メーカーです。木造住宅家屋を安く解体し、その木くずを使って堆肥や野菜作物へとリサイクルしております。
 今回は野菜作物を栽培している秀じい農場の活動をお伝えします。
 解体木材を加工しできた「秀じいの堆肥」はバラ科の植物に特に効果的だと買った人からよく言われます。秀じい農場の代名詞でもあるイチゴも実はバラ科の植物であることは意外と知られていないかもしれません。
 皆様に「秀じいの堆肥」の効果を知ってほしい。そんな思いから4年前に休眠した秀じい農場直売所付近の土地を利用し、徐々にバラを植えております。
 まだまだバラ園と言えるほど育っているわけではありませんが、ゆくゆくは大勢のお客様が来ていただけるようなものにしていきたいと思います。
 今後とも『百年先を観る家屋解体』の秀じい解体をどうぞ宜しくお願いします。

                            有限会社秀じい農場
                            バラ園住所:千葉県成田市所884番地2
                            お問い合わせ(堆肥注文その他):0476-73-6318

 1年後、すばらしい「バラ園」になっています。しばし、ぐるりと。足下の板張りも廃材利用?
       

                       久々に堪能。

さて、再開。   
          (10:58)「香取市」入り。

この付近では旧道と現街道(国道)とはほぼ同じか。
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。



こんな工場も。「トラックアクセサリーヤマダ」。

畑が広がります。

写真では分かりにくいが、菜の花にモンシロチョウが群がっています。

右手に大木が見えてきます。

(11:26)木の根元に石の祠。

小さな草原。
                日本でも草原が急激に失われている、とか。ここもいつまで残っているか?

(11:35)どうもこの道が旧道らしいが、パス。

        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。←の道。

 沿道が車の販売店や食堂などかなり賑やかになってきます。(11:43)「国道51号線」も「千葉まで48㎞ポスト」。
                 

(11:50)しばらく進み、「国道51号線」から右に折れて行きます。

        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。広く、直線化されています。「国道51号線」はそのまま直進。 

                   静かな道筋に。 
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成田市コミュニティバス「大栄支所」~JR成田線「佐原駅」。その1。(「佐原街道」をゆく。第5日目。)

2019-06-10 21:26:37 | 佐倉街道
                             平成18(2006)年、「大栄(たいえい)」町は成田市と合併しました。

 「旧佐原街道」はこの先、「現佐原街道(「国道51号線」)」を歩くことになります。
 しかし、旧街道は「歴史的農業環境システム」によると、「昭栄郵便局」のところを(二軒並んで「長屋門」があった手前)右折していく道(現在は農道のような道)がそうだったようです。事前の「新・旧道」確認が不足していました。



1880年代のようす。街道は、かつての城山を回り込むように山裾を進んだ。



電子国土基本図(2010年代)。現街道(国道)は城山を切り崩してつくられたようだ。下の○が分岐点。→が旧道。上の○が支所裏の道との合流点。

 成田市コミュニティバスで「大栄支所」まで。200円で来ることができます(「千葉バス」だと520円)。
 その代わり、ぐるぐると寄り道をしながら、成田空港のすぐ脇を走ったり、森の中を行ったり、集落を進むので、開けたところ、右に左に急カーブ、・・・それでいてけっこうスピードを出します。

 (9:28)さっそく支所の裏手へ。上図の旧道歩きはパス。
この道は旧道ではありませんが、里山風景が広がります。  

田植えを終えたばかり、緑がまぶしい。

その先で旧道と合流(地図で上の○地点)。

  
 路傍の草むらに「道標」。すり減っていて読みにくいですが、「西 きちおか なり田」・「東 いのう さはら」・・・。
 この道が旧道であることには間違いなさそう。

田んぼの向こう、左手に現佐原街道「国道51号線」。

 (9:39)「馬洗(まあらい)橋」(大須賀川)。
 
 この付近の高台には、「馬洗(まあらい)城」があったようです。

「おかげさま農場」「かざぐるま」。この道は旧道ではありません。

(9:43)「国道51号線」に出ます。これから長い、国道歩きが。
                                    バス停の数で25以上?

 日ざしの割には爽やかな風が救い。

沿道も花や野菜などが目をひきます。ソラマメ。

(9:53)「千葉から41㎞」ポスト。

「歯科病理学之祖 花沢鼎先生之碑」。

  

沿道には咲き誇る草花。

「明日からあなたはこっとう屋さん」。応援します第二の人生・・・。

車の行き来が激しい、単調な国道歩き、目を和ませる草花が。

この付近は台地のため、畑地が多いようです。

(10:15)「東関道・大栄IC」へつながる道と交差します。

 

この付近の今昔。


1880年代のようす。旧道は集落を縫うように進んでいます。



2010年代のようす。「国道51号線」が中央を貫いています。旧道は、北側の広い道から右手の集落へ向かう道がそのようです。

 こうした空撮からだと何とか類推できるが、実際歩いていると、なかなか難しい。特に成田空港や東関道などの開設以来、この付近の変化は激しい。この先もそんな感じです。この旧道もパスします。

 「」HPが、旧道をできるだけ正確に辿ろうとしています。「迅速測図」(「歴史的農業環境閲覧システム」が利用している資料)をもとに、実際に歩いた記録。
 ただし、この方は成田から佐原まで休憩時間もほとんどないまま一気に歩いていて、その間にこまめに写真を撮り、「迅速測図」と比べながら歩き、細かなメモをしているんですから、驚異的でとうてい真似できません。

左手の一画にバラが咲いています。

 

 車が通過するばかりで、歩いたり自転車で通る人の姿は無く、ゆっくり眺める余裕はなさそうですが。すてきなバラがけっこう植わっています。


(10:23)「千葉から43㎞ 鹿嶋まで30㎞」ポスト。
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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その6。三橋鷹女。(「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-06-05 18:33:05 | 佐倉街道


                         

 京成成田駅前の「餃子の王将」に入り、少しのどを潤し、表参道へ。けっこうな人通り。外国人が多そうです。
 実はこのチェーン店、日頃よく利用する駅前にもあって、ちょくちょく立ち寄るお店。5月末までポイントキャンペーンをやっていて、あと少しで目標ポイント達成。と、このお店で見事、達成!

こういうカードと割引券を入手。

少し参道を進むと、右手の広場で成田の地酒の試飲会が終了間際。

(15:54)さっそく、行きに見つけた「不動仁勇」のところに。

ほろ酔い気分で散策です。右奥がここも有名な地酒「長命泉」。

長い参道をそぞろ歩きする観光客。 

建物は新旧併せ持つ印象。

全国に名の知れ渡った「なごみの米屋」。

                         店内の賑わい。

(16:04)参道の真ん中に位置する時計台。
                  十二支が描かれています。

参道は緩やかにカーブした坂道に。

右手に「俳人・三橋鷹女」ブロンズ像。

                     
 女流俳人鷹女は、明治32年(1899)に成田町成田(現在の成田市田町)で、父三橋重郎兵衛・母みつの三女として生れました。本名はたかです。成田幼稚園、成田小学校をへて、成田高等女学校(現在の成田高等学校)を卒業しました。
 大正5年(1916)に上京、同11年(1922)に歯科医師の東謙三(号剣三)と婚姻し、夫と共に俳句にいそしみました。
 初めは「鹿火屋」、次に「鶏頭陣」などに属しましたが、のちには永く結社に拠らず、独自の句境を築きました。
   夏痩せて嫌いなものは嫌ひなり
   白露や死んでゆく日も帯締めて
   口中一顆の雹を啄み 火の鳥や
 などの句はよく知られています。
 昭和47年(1972)、73歳で永眠しましたが、生家に近い田町の、通称白髪毛にある三橋家墓所に葬られました。
   千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作)
 このブロンズ像は鷹女の生誕百年を迎えるに際し、市民ならびに多くの賛助者の協力によって、彼女の姿をふるさとの地成田によみがえられたものです。

                     鷹女の像をつくる会

 三橋 鷹女(みつはし たかじょ)は、女性俳人として中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに四Tと呼ばれました。
 この方の句で印象的だったのは、

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

 です。
この句でも知れるように、女性の情念を詠む前衛的な句風で、表現の激しさは、当時の女性俳人の中でも異色の存在でした。以下のような、まさに鬼気迫る句を残しています。

老いながらつばきとなつて踊りけり
墜ちてゆく 燃ゆる冬日を股挟み
鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪うべし


注:鞦韆=ぶらんこのこと。

 蘇東坡の詩に、

 春 夜
 春宵一刻値千金 
 花有清香月有陰 
 歌管楼臺聲細々 
 鞦韆院落夜沈々


 がある。

しだいに陽が西に傾いてきます。それでも人通りはまだまだ絶えません。 

                  



名物のうなぎ屋さんが軒を連ねています。

店頭でうなぎをさばく職人さん達。手際の良さに感心。

伝統がある佇まいの建物が左手に。「大野屋」。
 成田山新勝寺山門のちょっと手前に立つ、3階建て+望楼の豪壮な木造旅館つくり。江戸時代からの宿屋ですが、現在、宿泊は対応せず、名物「うな茶漬」「うな重」「漬物茶漬け」などの料理店、および漬物店を営業しているようです。「手打ちそば」も。

(16:25)そろそろ駅に向かうことに。

                     

 次回は、「大栄支所」から佐原までです。

                   「勧進帳」。

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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その5。「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-06-04 19:00:28 | 佐倉街道
               「十余三」地区は「成田空港」によって東西に分断されています。
                                 

「十余三」地区の今昔。

1880年代のようす。茶畑や畑地が広がる。


2010年代のようす。中央(↑)に「東雲の丘」・トンネル。

周囲には里山風景が。

(12:53)「十余三第2大橋(東関道)」を越えます。

この付近は「大栄JCT」。「東関道」と「圏央道」との分岐。

沿道の新緑がまぶしい。
 

(13:02)「圏央道」の下をくぐります。

                      

 「大栄工業団地入口」交差点にある大きなスーパーで買い物がてら、のんびり休憩。

(13:48)「大慈恩寺」方向へ進むのが旧道。

               
           左に入る広い道だったようですが、「大慈恩寺」の案内板がその先にあって戻る形。そのまま行き過ぎてしまいます。

(13:53)「吉岡並」交差点で左から来る道が旧道でした。 

          
          
1880年代のようす。上に「大慈恩寺」が。          2010年代のようす。現在もしっかり旧道が残っています。

「伊能歌舞伎米」の幟。

家並みが。 
 
大きな屋敷が目立ちます。

(14:00)古い家並みを感じさせる、立派な長屋門のおうちが二軒並んでいます。


                           

「たばこ小賣所」の看板(→)のあるおうち。

(14:03)「千葉から39㎞」ポスト。

 

(14:12)この先、「成田市大栄支所」が今回の終了地点。
                            注:この庁舎は「伊能」寄りに移転し、現在は使用されていません。

 もっと先まで行こうと思いましたが、次回が中途半端になってしまいそうなので、早々終了。
 30分以上、千葉バス「京成成田駅」行きのバスを待ちます。のどかな昼下がり。

 さて、京成成田駅に着いたら、少し腹ごしらえをして、門前町を歩く予定です。
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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その4。「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-06-03 19:54:39 | 佐倉街道
                              御殿。

(11:58)「千葉から33㎞」ポスト。ダンプや物流関係の大型車が轟音を立てて通ります。
                                   人影はまったくなし。

農作業用の車も行き来。この付近は、田園地帯。「新鮮野菜直売所とよみ」。

栗園。

 (12:15)「東小学校」交差点の電柱のところに道標。「西 野毛平成田道 東 長田堀之内道」「北・・・佐原道」。
   

来た道を振り返る。

 この先、「十余三トンネル」で成田空港(滑走路)をくぐりますが、その手前、左手に展望広場「十余三東雲の丘」があり、飛行機の離着陸が眺められます。


十余三東雲の丘
 この名称は広く地域の皆さまからも親しんでもらえる施設にしたいとの想いを込めて、成田市立東小学校の子どもたちが考えてくれました。自分の学び舎である東小学校の「東」にちなんで「東雲の丘」と名付けられました。

(12:20)休憩を兼ねて上がってみます。眼下遙か遠くまで成田空港が。

見物客もいて、撮影もしています。

                         

目の前に着陸する飛行機がひっきりなしに。

成田空港を離発着する航空機一覧。

                      

「成田国際空港」には反対運動が激烈に行われました。さまざまな思い、歴史があります。このかんの経過をまとめた記事を紹介。

(「教科書に載っていない成田空港の歴史 | 羽田空港サーバー
https://www.haneda-airport-server.com/entry/20160824082852」HPより)

成田空港ができるまで教科書に載っていない成田空港の歴史
 その歴史は今から50年ほど前になります。
 当時の羽田空港の拡張工事だけでは今後の発着能力が不足することから新空港の計画がスタートします。
(注:「羽田空港の拡張工事」が出来ない理由の一つに、「アメリカ空軍管制区域(横田飛行場上空の「横田ラプコン」)などとの兼ね合いから、航空機の離着陸経路の設定が著しい制約を受ける」というのもあった。)

新空港の候補地
・千葉県東葛飾郡浦安町(現・浦安市)沖の埋め立て地
・印旛郡富里村(現・富里市)
・茨城県霞ヶ浦
・神奈川県横浜市金沢区の金沢八景沖の埋め立て地
 さまざまな候補地から最終的に成田市三里塚に決定しました。

住民には事前説明すら無し
 当時、政府は合意を得るどころか事前説明もなく強制的な姿勢をとります。
 まぁこれがすべての始まりかも知れません。当然ながら住民の猛烈な反対運動が起こります。
反対運動の拡大
 この反対運動は、次第に様々な団体などが関与して次第に革命運動レベルになります。政府の強制的な権力には力で対抗するという暴力革命により機動隊と反対派の激しい衝突にまで発展します。

東峰十字路事件
 2回の行政執行の結果、警察官3名が殉職する事件が発生します。この司法解剖の内容はあまりに残酷な内容なので記載は控えます。
 興味がある方は調べてみてください。

東山事件
 航空妨害を目的とした鉄塔を建てて対抗して、政府は当初の「1972年開港」の断念を余儀なくされました。鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、反対派支援者1名が死亡しました。

成田空港管制塔占拠事件
 開港直前になってゲリラが新東京国際空港の管制塔に進入し、管制塔内の機器を破壊しました。これらの様々な混乱により開港がさらに延期になりました。

開港後
 京成電鉄のスカイライナー車両を放火し、4両を全半焼させるというテロ事件・京成スカイライナー放火事件が起きました。また、京成本線5ヶ所で同時多発列車妨害事件も発生しました。
 開港後も航行妨害が続いたため、警察は厳重な警備を敷くことになります。また空港の安全確保のため、千葉県警察警備部に専従の機動隊「新東京国際空港警備隊」(現・千葉県警察成田国際空港警備隊)が発足しました。

反対運動の影響
 ドイツのミュンヘン国際空港はこのような紛争を避けるため、成田空港の事例について徹底した研究分析を重ね、これを元に反対派を十分に説得した上で建設されている(着工後5年で完成)。
 日本でも、成田での経験を元に大規模空港は騒音問題等が発生しにくい海上に造られるようになった。それでも関西国際空港の工事中には、成田空港反対派系の団体が空港建設の見学船を放火するテロ事件を起こしています。

東峰神社
 成田空港の滑走路のすぐ脇にあるこの神社は、一見すると飛行機マニアにはたまらないスポットですが実際は人感センサーがあちこに設置されており警察官も常にパトロールしてるために職務質問を受けることもあります。
 何故かと言うと東峰地区は、激しい成田空港建設反対運動の中でも特にB滑走路延伸計画等に伴い最近に至るまで反対運動が活発に行われている地区です。
 東峰神社はこの地区における反対運動を行う人々にとって運動の象徴ともされており、一部過激派等による空港施設や敷地への破壊工作や不審者接近を防ぐため、非常に多数の制服、私服警官が常時付近を巡回しています。

昨年まで開港から37年間もの間、成田空港には検問所がありました。
 これは上記に書いた同空港の反対派運動対策で実施されていたものです。この37年間の長期間検問が実施されていた国際空港は他に前例はなく、異例な対応です。
 検問は、成田空港駅、空港第2ビル駅の自動改札を出た先や成田空港第2ターミナル前の東成田付近の道路など計6ケ所で実施されていました。
 今後は、顔認証機能を持つカメラなどを導入して対応する予定です。
(注:2015年3月に検問は全面廃止になった。)

まとめ
 このように教科書には載っていない成田空港の歴史を紹介しました。
 たまに特番で一部成田空港の話が出る程度でかと思います。
 また当時の反対運動に関わっていた方も50年という時間によって、当時を知る方も少なくなっているのも事実です。
 成田空港を利用される際には、このような歴史を知った上で利用してみてはいかがでしょうか。


空港問題とは
 1960年代はじめ、羽田空港が10年後には過密状態になるのとの予測が出され、1961年に新たな国際空港の建設計画が浮上した。建設地をめぐって複数案が出され、候補地となった現在の千葉県富里市や八街市などでは、住民の反対運動が繰り返された。1966年新たな案として成田市の三里塚が浮上した。この案は7月4日、突如閣議決定された。
 以来、その大地で生き続けてきた用地内住民、周辺住民と、建設を推進する国家的プロジェクトとの間に厳しい対立を生み、さらに支援者をまきこんで激しい闘争の歴史を刻んできた。この地に空港を建設するということは、土とともに生産活動を展開してきた農民の魂を激しく揺さぶり、空港建設を至上命令として取り組む建設側との間にのっぴきならない摩擦や亀裂を生んだ。砦や要塞、鉄塔、団結小屋などを建設し、さまざまな手段で空港建設を阻もうとする農民と支援者、土地収用法など強制力を行使するために機動隊を動員した建設側、両者の間には、しばしば力対力の構図が生じ、その激突の中で双方に多くの犠牲者が出た。
 こうした状況の中で、1978年に空港は1本の滑走路で開港したが、両者の溝は埋まらないまま、こう着状態が続いた。それを打開するために、反対同盟と運輸省(当時)は話し合いの場を模索し、曲折を経て、両者の間に立つ隅谷三喜男を団長とする調査団が発足した。「成田空港問題シンポジウム」は、1991年から93年にわたって15回開かれ、抜きさしがたい対立を生んだその原因を検証した。結論は、空港の位置決定について地元との十分なコンセンサスがないまま、国や公団が空港建設を強行したことにあるとし、国は収用申請を取り下げ、二期工事を白紙とした。
 その後、シンポジウムの合意に基づき、地元や空港の在り方を今後どうするかについて、地元住民も参加する対等な立場での話し合い「円卓会議」(93年~94年まで12回開催)が行われた。位置決定から28年の歳月を経て、地域と空港の共生をめざす「成田空港地域共生委員会」が発足し、住民の立場から空港の運用と建設をチェックする第三者機関として活動を開始した。そのなかで、この間の歴史を正確に伝えていくことを目指す歴史伝承部会も誕生した(1997年)。この部会が、歴史館につながっていくことになる。
                                                            成田空港 空と大地の歴史館 名誉館長 新井 勝紘


「B滑走路」下のトンネルを通過し、東側に出ます(12:38)。

                       

 ちなみに「B滑走路」の南端すれすれに上述の「東峰神社」があります。

↑付近をトンネルで通過?
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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その3。「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-05-31 21:02:20 | 佐倉街道
                    喧噪の国道脇には田園風景が広がります。
(10:52)国道51号線「千葉まで30㎞」ポスト。
              成田市に入る手前に「千葉から24㎞」ポストがありました。

頭上には成田空港に離着陸する航空機の姿が。

                         
「取香川(とっこうがわ)」。「香取(かとり)」ではありません。

里山歩きのグループでしょうか、田園の中を「取香川」の上流を目指して。

相変わらず頭上にはしきりに飛行機が。


         「成田スカイアクセス線」の高架をくぐります(10:55)。

眼下には、稲を植えたばかりのみずみずしい水田。

 (11:10)その先、国道から左に分かれて上って行きますが、この付近は旧道がはっきりせず、この道も違うようです。里山歩きにはふさわしい。


                  

この付近の今昔。
            
             
1880年代のようす。街道は曲がりくねった山道。         2010年代のようす。成田線の高架下を過ぎ、すぐ左上に進む道が旧道の一部?

突然左手にラブホテルの看板が。 

廃寺となっている「神光寺」を過ぎると、(11:21)ちょっとした広場に。
「里山ロード」案内図。

その先で国道に復帰。

コンビニで飲み物を購入、小休止。旧道はこの付近で現在の国道に合流していたようです。


1880年代のようす。街道は北を大きく回り込む。


2010年代のようす。○がホテル。現国道はショートカットした道に。

 事前にこの地図をよく見ていたら、旧道を歩けたはずですが、残念!

(11:41)再開。「野毛平」バス停。
                                      成田空港の滑走路方向へ向かいます。

              →が街道(国道51号線)。 上が東方向。 

一面の野菜畑。

(11:55)「十余三(とよみ)第1橋(「東関道」)を渡ります。

                             

ところで、「十余三」とは?

 江戸時代の幕府直結の馬牧で、明治期の下総牧開墾事業で誕生した開拓地。
 明治2年から旧小金・佐倉牧の開墾が始まり、着手順序を基に開拓地名の字を付けることが取り決められ、
富(鎌ヶ谷市)、和(船橋市)、咲(船橋市)、豊季(柏市)、香(松戸市)、実(松戸市)、栄(富里市)、街(八街市)、美上(香取市)、倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市)
の字名が生まれました。

 いわれを初めて知りました。「三咲」とか「六実」、「八街」など数字の付いた、変わった地名が点在しているな、とは思っていましたが。
     
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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その2。(「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-05-30 20:24:42 | 佐倉街道
              さてまず「寺台」宿に向かい、さらに「大栄」に向かいます。「創業元禄2年 不動」のお店を左折します(10:15)。
                        
                              鍋屋源五右衛門の暖簾が。

鍋店(なべだな)の由来
当社の商号であるなべだなは古く江戸時代に遡り、金座や銀座、または釜座などのいわゆる『座』の一つである『鍋座』に由来します。
 当時鉄類は有事の際には武器製造の重要な材料であった為、幕府はこの鉄類の製造権利を信用ある地方の素封家に与えていましたが、当社の祖先はその『鍋座』を幕府より預かり管理しておりました。
 一方、元禄2年(1689年)に佐倉藩より現在の製造免許にあたる酒造株(1,050株)を戴き、成田山門前にて醸造を開始しました。
 当時老舗のことをお店(おたな)と呼んでいましたが、鍋座の『鍋』とおたなの『店』が結びついて『鍋店』(なべだな)と呼ぶようになったと言い伝えられています。 


 元禄2年(1689年)鍋店は成田山新勝寺の門前に蔵を構え、酒造りを始めましたが、現在は田園の広がる香取郡神崎町(こうざきまち)に 酒蔵を移し「仁勇・不動」を醸造しています。酒造りは、昔から新潟杜氏や南部杜氏に代表される杜氏さん達にお願いしてきましたが、『自分たちの力で個性のある酒』を造りたくて、平成9年より全て自社スタッフによる酒造りを開始しました。
 蒸米・麹・もろみに至る酒造りという『生まれ』から、おり下げ・濾過・火入れ・貯蔵、そして瓶詰めに至る『育ち』まで、全ての工程を自社スタッフで行い、各工程での酒の品質状況を常に把握することにより、多くのお客様から『おいしい!』と感じて頂ける製品を出荷することを第一に考えています。
人と人の間に酒があり、心と心の間に酒がある。そんな心に響く酒を造ることが私の使命です。
 

(この項、「」HPより)
 お酒の他にも酒粕を使用した酒まんじゅうなども販売しているそうです。

成田山方向を振り返る。


   「成田公民館」のところに「竹久夢二 叙情詩『宵待草』のヒロイン長谷川カタの居住跡地」という解説板。
 「まてど暮せど来ぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月も出ぬさうな」、竹久夢二が恋するカタへの断ちがたい思いを込めた「宵待草」のヒロインとなった長谷川カタは、成田高等女学校に勤務していた姉シマの関係で一家が田町に住んでいました。夢二とカタとの出会いは、夢二が明治43年(1910)の夏を銚子の海鹿島で過ごした時で、同じく避暑に来ていた円らな瞳の美しいカタに恋心を抱くようになり、この時、離婚していた夢二とたびたびデートをかさねていたようです。夏の終わりに、夢二に手渡した宵待草にはカタの深い意味が隠されていたように思えます。その後、カタが夢二に宛てた書簡には、二人で過ごした熱い思いが溢れています。夢二が幾度か成田を訪れたことは彼の日記に記されています。翌年の夏に夢二が再び銚子を訪れた時には、既にカタは作曲家の須川政太郎に嫁いで鹿児島へ去っており、カタとの恋は儚いひと夏の夢となってしまいました。この想いを込めて綴られた詩が「宵待草」です。田町は、叙情詩「宵待草」のバックグランドであり、ヒロインのカタが移住していた地で、「宵待草」発祥の地ともいえます。

宵待草 よいまちぐさ
日本の歌曲/恋多き竹久夢二が少女に寄せた儚き思い

 「待てど暮らせど来ぬ人を」の歌い出しで愛唱される『宵待草 よいまちぐさ』は、大正浪漫を代表する画家・詩人の竹久 夢二(たけひさ ゆめじ/1884-1934)による詩歌を原詩とする抒情歌。
 千葉県銚子市での儚いひと夏の恋を歌った夢二の詩は、1912年に雑誌「少女」で発表された後、バイオリニストの多 忠亮(おおの ただすけ)により曲がつけられ、抒情歌『宵待草』として愛唱されることとなった。
『宵待草』のモチーフとなった「マツヨイグサ(待宵草)」は、夕暮れ時に黄色い花を開き、夜に咲き続けて朝にはしぼんでしまう。黄色以外は特に月見草とも呼ばれる。一夜だけ咲くマツヨイグサ(待宵草)の儚さが、夢二自身の儚いひと夏の恋と重ねられたのだろうか。
・・・
原詩を元にメロディがつけられ、以下の歌詞で抒情歌『宵待草』として人気の曲となり、今日に至っている。

待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな



(この項、「」HPより)

 「宵待草」は「月見草」とも呼ばれ、太宰治の『富岳百景』には、
 「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草はよかった。富士には、月見草がよく似合う
 という有名な一節があります。
 竹久夢二の「宵待草」、太宰治の「月見草」は、どちらも「オオマツヨイグサ」を指しているようです。

                                      竹久夢二の絵。「黒船屋」。(「Wikipedia」より)


 かつてこの通りは、「東参道」として、けっこう賑わっていたようですが、現在は静かな家並みになっています。


                

成田山から寺台にかけての今昔。

1880年代のようす。成田山の門前町・参道の賑わいが知れます。


2010年代のようす。中央が「成田高校」。右手に「根木名川」。

 
(10:24)「名取亭」。ここから先が「寺台宿」。

「東参道」という標識。人通りはありません。

炎天下、静かな街並みを振り返る。

(10:34)「吾妻橋」からの「根木名川」。
 寺台は、根木名川に寺台河岸(黒川・山小・山六の三河岸総称)を設け、銚子・江戸方面との舟運で発展しました。また、成田山へ舟で参詣する人たちはここで舟を下り、新勝寺に向かいました。水戸街道・我孫子宿から利根川沿いに進み、根木名川から成田山へ向かうコースか?

「寺台」交差点で、国道51号線と合流。広い国道。

(10:43)左手にしゃれた、おそば屋さん。

この真っ赤な花は? 

ブラシノキ
 オーストラリア原産で、観賞用に栽培される。5-6月頃に開花し、花弁は緑で小さくて目立たないが、赤(ときに白)の長い花糸が目立つ。穂状花序をなし、花序全体がブラシのように見える。花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持つ。
果実は朔果で、見た目には枝全体を取り巻く昆虫の卵のように見える。
 花言葉「恋の炎」または「はかない恋」だとか。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その7。(「佐倉街道(成田街道)」をゆく。第3日目。)

2019-04-22 20:20:28 | 佐倉街道
                                「国道51号線」脇を走るJR成田線。「成田エクスプレス」

交差点。旧道は右に向かう(「国道409号線」)。

                           


「並木坂上」交差点へ。

「成田市」マンホール。絵柄は、ウメ。

(14:57)再び「国道51号線」へ。そのまま横断して進みます。

                               

(15:01)右手に「和算家飯嶋武雄の墓」。

飯嶋武雄は安永三年(1774)に下総国金江津村(現・茨城県稲敷郡河内町)の出身で、通称武左右衛門、雅号を桃家といい、幼少の頃から神童と呼ばれ、十二歳の時既に算法(和算)の奥義を究めたといわれています。後に江戸で私塾を開設して算法を教授。その名声は広まりましたが、不幸にして失明し帰国しました。盲目となって後も近郷を巡回し口授により算法を教え、門下生は千余名に達したといいます。
 並木町の大坂家では、その昔寺子屋を開いており、師として飯嶋武雄を迎えたということで、その門弟である神山周助らが没後まもなく墓碑を建立したものです。

その向かい側が「なごみの米屋」。「一本松通り」との標識。
「なごみの米屋」
 成田表参道に総本店がある千葉県に根付いた和菓子屋。創業者は成田山新勝寺に縁の深い諸岡長蔵で、日本初の栗羊羹を作った方。羊羹とどら焼きが人気がその他にもさまざまな和菓子を販売。

(15:07)その「一本松跡」碑。

 かつて成田街道を往く旅人たちの憩いの場となっていた一本杉はすでに枯れ、今では石碑のみ残るだけですが、「一本松通り」として今も地元の住民に慕われています。

小松が植えられています。

JR成田線の踏切を越えます。

ここにも「一本松通」の標識。
                               この道がそのまま成田山の参道につながります。

(15:21)続いて京成本線を跨線橋で越えます。

 その橋詰めに「不動尊旧跡」。「論田・阿梨耶橋」という碑もあり。京成線の陸橋に付けられた名称。「ありや」と読む。

左手がJR線、右手が京成線。その間を進みます。

(15:33)JRと京成の「成田」駅前。今回はここまで。京成電車で戻ることにします。

            
            
            
1880年代のようす。「一本松通」。               2010年代のようす。中央がJR線、左から右が京成線。←が「一本松通」。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その6。(「佐倉街道(成田街道)」をゆく。第3日目。)

2019-04-19 18:56:45 | 佐倉街道
                            (13:49)ゆっくりと上っていきます。
 里山の道に入ります。旧道が思ったよりも残っています。


                          

里山らしい雰囲気。
                            「国道51号線(現成田街道)」を進んでいては、お目にかかれません。
鬱蒼とした竹林。街道筋に目立ちます。

来た道(坂道)を振り返る。 

国道が眼の下に。坂をなくして切り通しにしたようです。

(13:59)合流地点に「伊篠(いじの)の松並木跡」がある。

                      
昭和43年の千葉県指定史跡を表す木製の大きな標柱と「【史跡】 成田道伊篠(いじの)の松並木跡」解説板。
 伊篠の松並木は国道51号線に沿った旧成田街道約800㍍の地域の松並木であった。通称杢之進並木(もくのしんなみき)といわれ、享保年中(1716~35)に佐倉七牧を支配した代官小宮山杢之進が植樹したと伝えられていたが、樹齢300年~350年であることから、年代が合わず、おそらくこれより早い時期に道中者の便を図って植えられたものと思われる。
 昭和43年4月に県の史跡として指定された当時は巨松36本が松並木を形成して、街道の美観を誇っていたが、昭和50年代になって、松喰虫の被害を受けて次々と枯れ、昭和57年7月には県の指定が解除となり、昭和59年7月に町史跡指定に変更された。
 昭和60年11月最後まで残った2本も枯損し、その後町史跡指定も解除され、今は史跡としての名称だけが残されている。

 脇に指さし道標もあり、「宗吾道」と刻まれています(指は左手をさしている)。

しばらく国道に沿った旧道を進みます。

両側は盛り土になっていて、そこに植えられていたのか? 切り株。

                   

何本か、若松が。 

満開のサクラ。振り返って望む。

左手に「道標」などいくつか。

・(正)右成田道
 (左)左いんばぬま道
 (右)万延二辛酉年正月吉日

注:「万延2年」=1861年

別の道標には
・(正)成田山  是より壱里余

(14:12)「コンビニ」のところで国道に合流。

来た道を振り返る。


1880年代のようす。曲がりくねった道となっています。街道には並木のマーク。


2010年代のようす。現成田街道は直線路に。右はJR成田線。

 何本かの若松も育っているようなので、復活させたらいいと思いますが。

国道を渡り、斜め左に入ります。また静かな里山の道。

落ち葉に敷き詰められたこんな脇道も。

(14:17)田園風景。

振り返って望む。

国道に合流する手前。緑の竹藪の中に満開のサクラ。

                 

1880年代のようす。

2010年代のようす。

(14:30)「千葉から24㎞」ポスト。

いよいよ成田市入り。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その5。(「佐倉街道(成田街道)」をゆく。第3日目。)

2019-04-18 20:52:45 | 佐倉街道
                     「酒々井宿」を出て北に向かいます。
左手に石造物が数体。

成田空港15㎞」の標示。
                           成田から佐原に行く途中、成田空港の地下道を通ります。

(13:24)左手眼下が開けてくると、「下がり松」。
「下がり松」印旛沼眺望名勝地
 下がり松は酒々井宿の北のはずれにある印旛沼に向かって視界がひらけた眺めのよい場所です。印旛沼に浮かぶ高瀬舟や漁師の小舟、遠くには筑波山まで眺めることができました。
 天保元年(1830)正月、村人がこの地の風景をいとおしみ、下がり松周辺を切り開き茶店を開いたことによって、成田山への参詣客などたくさんのお客がこの風景を眺める最適な場所となりました。
 下がり松からの風景は、酒々井の景勝地として江戸時代の終わりから明治時代にかけてたくさんの浮世絵や地誌、紀行文などに描かれました。

「下がり松の展望」
 酒々井町北の方一坂を降り、右折すれば下り松と称するところに出づ
 地形優雅近く印旛湖を眺み遠く波山の佇立せるを観・・・
 天保元年正月村人何某此の地の風景を賞し樹を伐り荊棘を抜き
 好位置を占して一茶亭を開設し衆客の観光を便す
                         『印旛郡誌』

今も遠くに筑波山(↓)が望める絶景の地。田畑が一面に。

              
      
1880年代のようす。↓付近か?「松」の標示あり。   2010年代のようす。左上は「京成酒々井駅」。


JR・京成「酒々井駅」付近へ。これから開ける土地?

 街道筋ですが、現在の駅周辺はかつては家数も少なく、酒々井の宿(中心)から北に離れたところだったようです。

ご当地キャラが描かれた案内表示。
                      本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」
 国指定史跡 「本佐倉城跡」の3代城主だった千葉勝胤をモチーフに誕生した、文武両道と勝利の神様で約500歳の「勝っタネ!くん」は、体は幸草の種・手と足は大地に根を張る根っこで出来た殿様です。
 手に持つ名刀で弱気損気は一刀両断!本左倉城に住みながら千葉県内の多くのイベントに登場して活躍しています。
         

 この地域にはそれぞれ「ゆるキャラ」が多くあるようです。これもその一つ。井戸っ子」。

(13:33)「ふれあい駅前通り」交差点。

左に曲がり、すぐ右手の道を進みます。正面の道が旧道。

                         


このお宅も珍しい姓。「小別當」さん。全国でどのくらいの方がいらっしゃるのか。
【読み】こべっとう
【全国順位】 29,034位
【全国人数】 およそ120人
【名字の由来解説】
 現千葉県北部である下総発祥ともいわれるが、伝統的な名字である。近年、千葉県に多く特に印旛郡酒々井町酒々井に集中してみられる。
(この項、「」HPより)


別当」だと、以下のようですが。
①律令制度の下で、令外官として設置された検非違使庁や蔵人所などの責任者。対外的な責任者であるとともに、天皇・太政官との連絡にあたった。後には一部の寮・司にも別当が設置された。
②各地に設置された勅旨牧の現地責任者として牧監がかれていたが、武蔵国のみは別当と称している。
③10世紀に入ると、遥任している在京国司が自己の家司を現地に派遣して在庁官人を指揮させることが行われるようになるが、その家司を目代・別当と称した。
④平安時代以降の院、女院、親王家、摂関家以下の公卿の家政を担当する院司・家司の上首(長官)のこと、後にそれらの家に設置された政所 、侍所などの家政機関の長に対しても用いられた。
 なお、鎌倉幕府の行政機関である政所、侍所などの長官を「別当」と称するのも、それらの機関が初代将軍源頼朝の家政機関が転じて鎌倉幕府の行政機関になったことに由来している。
⑤東大寺、興福寺、四天王寺などの諸大寺で、寺務を統括する長官に相当する僧職。

(以上、「Wikipedia」参照)

 「小別当(當)」は、その補佐役としての地位なのか。いずれにしても由緒ある姓には違いなさそうです。

何カ所かに道標があります。火の見櫓の三叉路に。(↓)
                     右の道標 (正面)此方酒々井停車場道 (右面)此方成田宗吾道  明治期のものらしい。
                     左の道標 (正面)二王ミち  こちらは江戸期のもので正面以外は摩滅が激しい。

ここにも。 
                 (正面)成田佐原道  宗吾安喰道 (右面)酒々井停車場 佐倉千葉道
                 (左面)酒々井停車場   道

国道と合流手前に。  
                (正)佐倉千葉道 成田佐原道 (左)上岩橋青年分団鈴木金兵エ (右)七栄三里塚道

注:道中にある道標の碑文については「旧成田街道・・・・沿道にある石造道標一覧」HPを参照しています。

 (13:44)その先で「国道51号線」に合流します。
 

(13:48)次の信号を右に入ります。信号機の下に道標が立てかけてあります。
               (正)奉納仁王尊 南 さくら道 木村十右衛門 (右)東なりた道 (左)寛政二戌十一月吉日 大崎
                                注:「寛政2年」=1790年


1880年代のようす。屈折した道(旧道)。西は印旛沼の湿地帯。


2010年代のようす。下の↓に三叉路の道標、上の↓に信号機下の道標。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その4。(「佐倉街道(成田街道)」をゆく。第3日目。)

2019-04-17 18:28:36 | 佐倉街道
                               三谷家住宅。
 三谷家は旧成田街道に面し、江戸時代からの呉服太物を扱う老舗として佐倉に唯一残っている商家。袖蔵の創建は棟札により明治17年(1884)と判明し、主屋もその頃には建っていたと考えられています。(宿内で現在も呉服店を経営)

「旧堀田邸」を出て街道に戻ります。
 「ここは武家町です」という案内板。街道とは一、二本くらい南側の住宅街の道を進むことにしました。「野狐台町」という名に引かれて。
          

左折して街道に戻ります。(11:49)案内板。

 この手前・左手に「三谷家」の住宅があります。通りを挟んだ前には大きな店構えの「寝具のミタニ」さん。

ここにも古いおうち。

(11:56)右手に「佐倉順天堂」。

                      

解説板。

 佐倉順天堂は、天保14年(1843)、長崎で蘭医学を修め、江戸で開業していた佐藤泰然(たいぜん:1804~1872)が、佐倉藩主堀田正睦(まさよし)の招きを受け、佐倉に移り、佐倉本町に蘭医学塾及び診療所として「順天堂」を開設したことに始まる。
 泰然は帝王切開などの新しい外科手術を行い、種痘の普及にも努めるなど最先端の診療を行った。また、西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。慶応元年(1865)の記録によれば、塾生は北海道から熊本県までの全国から100名にも及び、泰然の弟子は数百名、孫弟子まで含めると3000名を超えるといわれる。
 現在、佐倉順天堂記念館として一般公開されている建物は、安政5年(1858)に成田街道の向い側から移転し、その後拡充されたものの一部で、明治27年(1894)に刊行された『日本博覧図 千葉県之部 初編』に収載された銅版画にある診療棟の一部にあたる。この記念館になっている建物を含む範囲を史跡として指定し、保護している。

(この項、「千葉県教育委員会」HPより)

                   

佐倉の街並みを過ぎます。

                     (12:09)「酒々井町」へ。

 この辺りからは「佐倉街道」というよりは「成田街道」がふさわしいようです。

 成田街道の由来は佐倉道である。佐倉道は房総最大の佐倉藩や多古藩、小見川藩の北総の諸藩の参勤交代に利用された公用の道だったが、成田街道の隆盛にともない「成田道」「成田街道」と人々に呼ばれるようになっていったと云われる。
しかし、成田街道(佐倉道)という名称を冠した街道でありながら、目的地まで統一した管理下に置かれたわけではなく、新宿~八幡宿までが道中奉行支配下、大和田宿・臼井宿・酒々井宿・寺台宿が佐倉藩領という奇妙な街道であった。
 成田山への信仰は元禄の頃から盛んになってくる。町民文化の華が咲き、太平の世を迎えたこの時代、町民に財力がつき、信仰と行楽を兼ねた旅行ブームが興る。江戸から成田までは三泊四日と、最も手軽な旅程であったためか、幕末には、年間200万人が参詣に訪れていたそうだ。また、子供に恵まれなかった初代市川団十郎が、熱心に信仰を示したことなども、成田参詣がいっそう盛んになった理由の一つともいわれている。子供に恵まれなかった人気役者市川団十郎が成田山を信仰し、その信仰により男子を得たことが、庶民の目を成田山にむけさせることになったのだろう。
       (この項、「」HPより)

 その手前にあるおそば屋さんで、昼食休憩。
 再開。すぐ先、左手の坂道(旧道)を上って行きます。

(12:46)「猿楽場(さかくば)」バス停。中世の千葉氏関連の遺跡があったようです。

のどかな道筋。

1880年代のようす。○地点で左折し右折。


2010年代のようす。左折せず、道なりに進んでしまいました。
                 下方の広い道路は国道296号線。

「成田街道」という標示。 

この先で、先ほどの国道に合流します。

(12:59)「上本佐倉」交差点。左手に見える道が旧道。

しばらく進み、左折して「酒々井宿」へ向かいます。

           
 
(13:06)右手にりっぱなお屋敷。


莇 吉五郎家
 酒々井町酒々井地区は、戦国時代には本佐倉城の城下町として、また江戸時代には佐倉藩の城下町、旧成田街道の宿場町、佐倉七牧(徳川幕府直轄の野馬牧場)の野馬会所(管理事務所)・野馬払い場の所在する地として栄えた場所です。
 莇(あざみ)吉五郎家は、江戸時代の後期に油販売で成功し、明治初期の吉五郎の代には醤油醸造業を営んでいました。 
 現在の土蔵二階建て建物と平屋建物は、明治27年刊行『日本博覧図千葉県編』と同一の建物と同一の建物であるから、これ以前に建築された兼住宅建物と考えられます。
 当家は現在においても歴史ある酒々井地区の中核的な建物として歴史的景観を形成しています。
                          

注:「本佐倉城」跡は街道の北西にあるようです。

「莇(あざみ)」という姓は、かなり珍しそう。

その先にも古民家が二軒。


島田長右衛門家・島田政五郎家
・・・島田長右衛門家は江戸時代に幕府野馬御用を勤めていた家で広い敷地を有し、かつては宅地裏に野馬会所と野馬払い場が続いていました。隣接する島田政五郎家は島田長右衛門の分家であり、やはり宅地裏に野馬会所と野馬払い場が続いていました。
 現在の建物は明治10~20年頃に建てられた店舗兼住宅で、道路に面する店舗は南北棟、住宅棟は店舗と直行する町屋づくりになっています。当時の商家の邸宅として『日本博覧図千葉県編』(明治27年刊行)にも掲載されていました。・・・ 
                       


1880年代のようす。西に2箇所城の記号があり。上方が「本佐倉城」跡?


2010年代のようす。右に酒々井地区。
        
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その3。(「佐倉街道」をゆく。第3日目。)

2019-04-16 19:21:07 | 佐倉街道
                       ここも古い商家。家の前には「明治の寿るがや跡」という行灯。
                                

「美容室らぶらぶ」のしゃれた門前。
                    これまでの街道歩きでも美容院はけっこう昔の風情にマッチした粋なお店が目立ちます。

(11:10)「佐倉新町おはやし館」。
 佐倉新町おはやし館は、市民の憩いの場として、郷土の文化、伝統行事、物産などの紹介や観光情報の提供を行っています。
 江戸時代から続いている麻賀多神社の祭礼に、各町内が繰り出す山車に乗る山車人形2台が展示され、演奏される佐倉囃子伝承の場として活用されています。
 建物は2階建てで、1階は展示室、2階は多目的室となっています。おはやし館入口に展示されている山車人形は竹生島、玉ノ井です。

注:現在、佐倉には山車人形六体が残され、夫々の町内会が所有している。これらは江戸で使用されていたものを、江戸時代から明治にかけて購入した もので、これらの全てが佐倉市の指定有形文化財になっている。
 □横町・・・石橋(しゃっきょう)、 □上町・・・日本武尊(やまとたけるのみこと)  
 □二番町・・・玉の井(たまのい)、 □仲町・・・関羽(かんう)、 □肴町・・・竹生島(ちくぶじま)
 □弥勒町・・・八幡太郎(はちまんたろう)
                                
(この項、「」HPより)

その脇にも「高札場」。
「佐倉市民憲章」の他、慶応4年3月の太政官布告「人その五倫の道を正しくすべき事・・・

日本遺産 北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の街並み・城下町 佐倉」案内板。
注:「北総四都市」とは「城下町 佐倉」「門前町 成田」「商家の町 佐原」「港町 銚子

城下町「佐倉」 
 土井利勝は、江戸の東を守る要として佐倉城築城と城下町を整備しました。その後も幕府の要職に就いた有力譜代大名が城主を務め、政治・軍事の両面で江戸を支えました。
 現在も当時の道筋、地割りや建造物が残されており、秋には祭礼が行われます。佐倉囃子とともに麻賀多神社大神輿の渡御、江戸型山車や御神酒所(屋台)が曳き廻されます。
 また、当時の佐倉は蘭学の先進地でした。幕末には江戸から佐倉へ移住した佐藤泰然が順天堂を開き、日本近代医学の発祥の地となりました。このような先進性を支えたのが藩主堀田家です。旧堀田邸や甚大寺の墓所、藩校資料にその業績が偲ばれるとともに、地域の象徴として地元の人々に親しまれていたことがわかります。                                                                                  
「手づくり工房 さくら」。

街道は枡形に。右に曲がり、続いて左に。

来た道(宿内)を振り返る。この付近までが佐倉宿の中心部。

店先に山車や祭りのようすが。

 
                                              「肴町」。

しばらく直線道路。

山車飾りを外壁にはめ込んでいるおうち。江戸後期の肴町山車飾り。

左に折れ、東に向かいます。

曲がり角から振り返る。

        
        
1880年代のようす。○が曲がり角。            2010年代のようす。道筋は変わらない。

ここにも古い商家。

街道を右折、「佐倉ゆうゆうの里」を通って、「旧堀田邸」へ(11:28)。



                  
旧堀田邸(重要文化財 旧堀田家住宅)・さくら庭
 旧堀田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園です。
 主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄棟造り瓦葺きの建物5棟で構成され、明治23年(1890)に竣工しました。その後、明治44年(1911)には湯殿が増築されました。主屋や門番所、土蔵はほぼ建設当時のまま良好な状態で残されております。庭園は、芝を中心に赤松やサルスベリなどの樹木と景石や石塔を配し、高崎川と対岸の台地を借景にした眺望が広がっています。
 平成9年3月26日に佐倉市指定文化財名勝に、平成13年3月30日には千葉県指定文化財名勝にそれぞれ指定され、平成18年7月5日には住居部5棟と門番所、土蔵の合計7棟が国の重要文化財(建造物)に指定されました。更に、平成27年(2015)3月には、庭園を含む一帯が「旧堀田正倫庭園」として国名勝に指定されました。 

落ち着いた佇まいの建物と庭。

                    

             
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