東京都立墨田川高校。府立七中を前身とする、進学重点の単位制高校で下町の伝統校。この高校には、かつて墨田区の墨堤通り・隅田川に架かる水神大橋(荒川区に通じる)の手前に、「堤校舎」と呼ばれる校舎が存在した。
この校舎は、1986(昭和61)年4月に創設され、2003(平成15)3月で閉校となった。17年間の校舎だった。
写真は、現在の様子。校門のコンクリート塀が残ってはいるが、校名のプレートは外されている。中は、校舎の跡形もなく、どこに何があったのかも分からない。中央奥に見えるのが、「梅若伝説」で名高い、木母寺。その奥の方が、「水神」様の隅田川神社に続く。
敷地内を見ると、所々に盛り土があるのは、整地がまだなのか、雑草が生い茂って、広大な空き地となっている。辺り一面、今の季節、レンゲが生い茂り、昔懐かしい、自然の雰囲気が残されている。「都有地」だが、今後はどうする予定なのか?このままでも惜しくはなさそうだが。
1980年代後半は、高校進学率の上昇と共に、一気に生徒急増期を迎え、都立高校は、どこも臨時増学級を行ったり、新設高校建設が始まっていた。クラス定員も50名が基準。その上に、臨時増学級。10クラスもあるような学校も。10学級の学年を3回募集した学校もあった。
そうすると、高校全体で30学級、1500名の生徒たち。学校行事一つとっても何をやるにも大所帯だった。
正規の教員も一杯いたが、間に合わず、非常勤の先生もたくさんいた。活発といったらそのようだが、まさに急場しのぎの施策であることには間違いない。
堤校舎もその一つ。全館「プレハブ」。何しろ一時しのぎの学校だから恒久的な建物を建設する気は、都教委には全くなかった。
夏は暑く、冬は寒い。体育館はあるものの(木母寺側に)、大きなグランドはない。堤通りを隔てた東側、「カネボウ」の空き地、そこがグランド。だから移動するだけで、時間がなくなるという案配。それでも、皆(生徒も先生も)我慢した。
10年くらい経って生徒急増期も終わりになり、廃校と話も出てきたが、もう少し、もう少し、という学校側の要望で少しずつ設置期間が伸びた。けれども、ついに廃校の時がきた。もともと墨田川高校の分校だから、本校に戻ったと言うかたちにして。
あれから7年。今や跡形もなくなった堤校舎。インターネット上での堤校舎に関する「HP」もなくなった。グランドは、まだまだ健在らしいが。
この校舎は、1986(昭和61)年4月に創設され、2003(平成15)3月で閉校となった。17年間の校舎だった。
写真は、現在の様子。校門のコンクリート塀が残ってはいるが、校名のプレートは外されている。中は、校舎の跡形もなく、どこに何があったのかも分からない。中央奥に見えるのが、「梅若伝説」で名高い、木母寺。その奥の方が、「水神」様の隅田川神社に続く。
敷地内を見ると、所々に盛り土があるのは、整地がまだなのか、雑草が生い茂って、広大な空き地となっている。辺り一面、今の季節、レンゲが生い茂り、昔懐かしい、自然の雰囲気が残されている。「都有地」だが、今後はどうする予定なのか?このままでも惜しくはなさそうだが。
1980年代後半は、高校進学率の上昇と共に、一気に生徒急増期を迎え、都立高校は、どこも臨時増学級を行ったり、新設高校建設が始まっていた。クラス定員も50名が基準。その上に、臨時増学級。10クラスもあるような学校も。10学級の学年を3回募集した学校もあった。
そうすると、高校全体で30学級、1500名の生徒たち。学校行事一つとっても何をやるにも大所帯だった。
正規の教員も一杯いたが、間に合わず、非常勤の先生もたくさんいた。活発といったらそのようだが、まさに急場しのぎの施策であることには間違いない。
堤校舎もその一つ。全館「プレハブ」。何しろ一時しのぎの学校だから恒久的な建物を建設する気は、都教委には全くなかった。
夏は暑く、冬は寒い。体育館はあるものの(木母寺側に)、大きなグランドはない。堤通りを隔てた東側、「カネボウ」の空き地、そこがグランド。だから移動するだけで、時間がなくなるという案配。それでも、皆(生徒も先生も)我慢した。
10年くらい経って生徒急増期も終わりになり、廃校と話も出てきたが、もう少し、もう少し、という学校側の要望で少しずつ設置期間が伸びた。けれども、ついに廃校の時がきた。もともと墨田川高校の分校だから、本校に戻ったと言うかたちにして。
あれから7年。今や跡形もなくなった堤校舎。インターネット上での堤校舎に関する「HP」もなくなった。グランドは、まだまだ健在らしいが。
廃校になったとは聞いていましたが、いつのまにか校舎は撤去されてたんですね。
私が入学する前は7年学校なんて言われていましたが17年も続いてたんですね。
記事を読んで感慨深くなりました。今度の休日にでも訪問してみようと思いました。ありがとうございました。