おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

震災復興小学校。震災復興小公園。

2023-09-01 19:25:13 | 震災復興小公園

※今日、9月1日は、関東大震災が起きて100年。関東地方は、壊滅的状態に。

さまざまな催しが行われました。学校では避難訓練なども。

混乱に乗じて起こった「朝鮮人虐殺事件」は、当時の史料、目撃談などによってその実態が明らかになってきています。しかし、歴代政府は、公式の記録は見つからない、として口を閉ざしています。さらに、そういう事実はなかった、という言説もしばしば。・・・書けばキリがありません。

今回は、以前、掲載した「復興小学校」「震災復興小公園」について再掲します。

※掲載してからずいぶんと経過していますので、ご注意を!

震災後、木造校舎がほとんど焼け落ちた、という教訓から、校舎を鉄筋コンクリート建築に、隣接して小公園づくりなどの取り組みがなされました。ただし、下町の学校は1945年・東京大空襲によって再び廃墟・焼失となってしまいます。

 復興小学校は、1923(大正12)年には発生した「関東大震災」後に復興事業の一環として建築された一連の小学校の総称。
 関東大震災により、東京市立小学校は大きな被害を受け、全195校のうち無傷で残ったものは2校にすぎず、約2/3が倒壊・焼失した。
 復興事業にあたり東京市は、不燃化構造とするため鉄筋コンクリート建築を採用しました。また、52の学校では、公園を併設するなどの試みも行われた(「震災復興52小公園)。
 復興小学校として建築された小学校は全部で117校。建設時期は1924年から1935年にかけての時期(多くは1928年頃までに完成)。
 なお、同時期に建設された鉄筋コンクリート造りの学校建築の中にも、厳密には復興小学校ではないものが含まれている。それらを「改築小学校」と呼んだ。校舎の被害はさほど大きくなかったが、鉄筋コンクリート建築によって建て直したというものや震災前には小学校として存在していなかったが、震災後に鉄筋コンクリート建築の校舎を新築して開校したものも含まれている。

復興小学校一覧
1926年(大正15年、昭和元年)建設

・九段小学校(千代田区三番町16)
 建設当時は「上六小学校」。2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。西側に隣接して東郷元帥記念公園がある。

・坂本小学校(台東区下谷1-12-8)
 建設当時は「入谷尋常小学校」。小学校としては廃校になり、建物は2006年1月現在残されてはいるが、跡地利用が検討されており、解体される可能性もある。

1927年(昭和2年)建設
・元町小学校(文京区本郷1-1-19)
 小学校としては1998年に廃校。南側には同時期に作られた元町公園が残されている。

1928年(昭和3年)建設
・阪本小学校(中央区日本橋兜町15-18)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。なお、本校は1873年に「第一大学区第一中学区第一番小学阪本学校」として開校した、都内最古の小学校のひとつであり、文豪谷崎潤一郎の母校としても知られる。北側に隣接して阪本町公園がある。
・十思小学校(中央区日本橋小伝馬町5-1)
 小学校としては廃校になり、中央区の施設「十思スクエア」として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東側に隣接して十思公園がある。
・早稲田小学校(新宿区早稲田南町25)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京大空襲では4分の3が損害を蒙った。
・下谷小学校(台東区東上野)
 1990年に清島小学校と統合し閉校。その後は、近隣にある岩倉高等学校の代用校舎としてなど、活用されている。

1929年(昭和4年)建設
・常盤小学校(中央区日本橋本石町4-4-26)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。西側に小規模ながら常盤公園が隣接している。
・泰明小学校(中央区銀座5-1)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東北東側に小規模だが数寄屋橋公園が隣接している。
・城東小学校(中央区八重洲2-2-2)
 建設当初は「京橋昭和小学校」。2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。

1930年(昭和5年)建設

・黒門小学校(台東区上野1-16-20)
 2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。
・明化小学校(文京区千石1-13-9)
 2013年現在も小学校の現役校舎として使われている。2014年度には140周年を迎える。

1932年(昭和7年)建設
・広尾小学校(渋谷区東3-3-3)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。建築当時は校舎の隅に消防署が併設され、消防車用の車庫と望楼が組み込まれた(1947年に消防署は移転)。様式はインターナショナル・スタイル。

1934年(昭和9年)建設
・四谷第五小学校(新宿区新宿5-18-21)
 2008年から、よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京本部として使われている。日本におけるDOCOMOMO150選。改築小学校。

1935年(昭和10年)建設
・高輪台小学校(港区高輪2-8-24)
 2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。耐震性能などの向上を目指した全面改修工事が行われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。いわゆるモダニズム系のデザインであり、あまり古い建物には見えない。なお、本校校舎も狭義の「復興小学校」には含まれない(震災後に開校したため)。

建設時期不明
・京華小学校(中央区八丁堀3-17-9)
小学校としては廃校になり、中央区の施設「京華スクエア」として使われている

 震災復興校舎で現在も小学校の校舎として使用されている二つの学校を紹介します。

①東浅草小学校
 (またまた「www.maroon.dti.ne.jp/~satton/kyouiku/matutiyamael.html」さんより引用させていただきます。なお、このブログは、台東区の歴史・文化・産業など網羅されていて、たいへん興味深く、示唆に富んだ内容になっています。)‎

☆明治6年5月 浅草聖天町、待乳山中腹に第5中学区三番公立小学校として敷地37坪の中に誕生。前身は明治五年に今戸六七番地の潮江院内に設立された習成舎の分校であった。
「明治五年 第五大区十一小区浅草聖天町、待乳山山上ニ共立学校習成舎ヲ開キ、同六年二月府立トシテ名ヲ命ス」(東京府志料)。習成舎には待乳山山腹に分校があったが、学制施行にともなって公立小学校に改称されている。この小学校が第五中学三番小学校待乳山学校である
 習成舎は相当規模も大きく寄宿舎も設け、授業内容のかなり程度が高く第五大区唯一の区学校であった。習成舎は明治二年に、浅草の有志が清島町誓願寺内に設け漢籍、英字、習字を教授していた。これを引き継いで明治十二年に下谷西町3-21に習成小学校が創立された。校地は筑紫柳川藩藩主、立花家の敷地を無償で供出されて出来たものだった。
 明治19年に小学校の統廃合が行われたが、下谷小学校が坂本3丁目から車坂町33に移転する際にこの習成小学校は下谷小学校に統合された。廃校となった習成小学校跡地は、明治33年に西町女子小学校として独立し、さらに西町小学校となるのである。

☆明治12年 吉野町正法寺境内にあった開明学校を分校とし、男子は本校、女子はこの分校で授業を行った。児童数は164名
☆明治16年10月 亀岡町1丁目1番地(現在の都立台東商業高校付近)に移転し、新校舎落成。敷地105坪、木造2階建て1棟、平屋1棟、建坪84.5坪
☆明治19年11月 待乳山尋常小学校と改称。児童数240名。小学校令発布、小学校は高等.尋常の二科とし、児童は6歳から14歳まで8ケ年を学令とした
☆明治23年4月 高等科併置
☆明治24年12月 地方(ぢがた)今戸町に移転(現在地)敷地342坪、校舎16.7坪で費用は5200円であった。
☆明治25年 校章を制定。待乳山の「待」の字を真ん中にして、旭日の光の模様を型どり、校運の隆昌を祈念したものだった。
・・・(中略)
☆大正12年9月 関東大震災発生、倒壊はまぬがれたが類焼する。10月青空バラック校舎で授業再開。登校児童は4分の1の約400名であった。
☆昭和3年5月 鉄筋コンクリート3階建て現校舎落成。建坪1149坪、建築費38万6300円。全教室スチームを通すモダンな造りであった。校旗を作り、以後5月31日を開校記念日とした。
☆昭和4年3月 校歌制定

☆昭和16年 国民学校令施行、4月1日より東京市待乳山国民学校と改称。児童数1204名
☆昭和19年8月 第3学年以上の児童、384名を宮城県赤湯に集団疎開させる。
☆昭和20年3月 東京大空襲で通学区域全焼。学校は羅災者を収容。
☆昭和22年3月 浅草区と下谷区が合併して台東区が発足。4月、台東区立待乳山小学校と改称。
☆平成13年4月 田中小学校と統合し、待乳山小学校の場所で「東浅草小学校」となる。

上六小学校 千代田区 上六番町34 1903年 1925年10月 1926年8月
現・九段小学校

練成小学校 千代田区 五軒町31 1878年 1928年9月 1929年10月 2010年6月、3331 Arts chiyoda(アート施設)に

日本橋区
常盤小学校 中央区 本石町13 1873年 1928年3月 1929年5月
東京都歴史的建造物

阪本小学校 中央区 阪本町41 1873年 1927年2月 1928年3月

十思小学校 中央区 小伝馬上町45 1897年 1927年10月 1928年12月
1907年、高等科廃止 1916年、上野女子高等小学校と合併 現・十思スクエア

城東小学校 中央区 通2-5 1875年 1927年8月 1929年4月

箱崎小学校 中央区 箱崎町3-1 1909年 1927年2月 1928年3月
2010年7月、東京舞台芸術活動支援センター「水天宮ピット」に

京橋区
泰明小学校 中央区 銀座西通5-4 1878年 1928年6月 1929年6月
空襲で職員室・校長室ほか6室破壊 殉職教員4名・負傷3名(1945.1.27) 焼夷弾直撃を受け焼失(1945.5.25) 東京都歴史的建造物

京華小学校 中央区 元島町2 1901年 1928年5月 1929年4月
現・京華スクエア

京橋昭和小学校 中央区 南槙町4 1906年 1928年4月 1929年3月 1928年6月、南槙町小学校と実田小学校と合併 現・城東小学校
桜田小学校1928年12月 1929年11月 1991年、廃校

愛宕高等小学校 港区 愛宕町2-5 1908年 1927年9月 1928年12月
戦後、港工業高校の校舎に 2004年3月、閉校 現況不詳

下谷区
黒門小学校 台東区 西黒門町5 1904年 1929年4月 1930年7月

下谷小学校 台東区 北稲荷町53 1886年 1928年1月 1928年12月
仮校舎等として暫定利用

柳北小学校 台東区 向柳原町2-1 1876年 1925年11月 1926年11月
現・リセ・フランコ・ジャポネ・ド東京(中・高等科)

小島小学校 台東区 小島町48 1908年 1927年9月 1928年8月
現・小島アートプラザ・台東デザイナーズビレッジ

待乳山小学校 台東区 地方今戸町15 1873年 1927年6月 1928年5月
2001年4月、田中小と統合、東浅草小学校に

田中小学校 台東区 田中町94 1929年 1929年4月 1930年5月
2001年4月、待乳山小と統合、東浅草小に

震災復興52小公園編

《墨田区》

38中和公園 昭4(1929)年 中和小学校(2013,10,15掲載)

西側から望む。北側には「中和小学校」。

公園との仕切りは、緑の大きな網。開閉が出来るようになっている。すでに放課後。指導員の元で数人の児童が遊んでいた。墨田区内で現存する小学校の中では最も古い歴史をもつ小学校。

39業平公園 昭5(1930)年 業平小学校(2013,10,9)

西側を望む。かつての面影はなさそう。樹木を一列に配置した、中央の大きな広場の存在が当時のコンセプトの一端を残している。道路をはさんだ向かい側が「業平小学校」。

道路をはさんでいるため、学校+公園というかたちではなく、それぞれ独立したものになっている。

40横川公園 昭6(1931)年 横川小学校(2013,10,14)

 横川小学校の南に接した東西に細長い公園。当初よりも校地を拡張したために細長く小さくなったのか?
公園側の校門。登下校時のみ開放する感じ。西側に遊具。東は広場。

41江東公園(現・両国公園) 昭4(1929)年 江東小学校(現・両国小学校)(2013,10,14)
パーゴラ(藤棚)。支柱に当時の雰囲気を残している。
公園入口付近から藤棚方向を望む。
「両国小学校(旧名「江東小学校」)(西側)と道路をはさんでいる。東側が公園。 公園内のところどころに、「両国小」という立て札があって、植物の世話などを行っているようすあり。建設当時の学校・公園という考え方を引き継いでいる印象。

42茅場公園 昭6(1931)年 現存せず (JR錦糸町駅南口、現・丸井の南にあった。江東橋3-8。)
(2013,10,16)

 戦後、区画整理で消滅(代替公園「江東橋公園」)。今や賑やかな飲食街の一角。「丸井」、かつて大きな都電の車庫だったところの裏手。代替の「江東橋公園」は少し西に行った「都立両国高校」の近くに位置。
 学校は廃校になったが、しばらく校舎は残っていた。
パーキングタワーと隣のマンションが校舎跡地?
左の雑居ビル付近が公園跡地?
江東橋公園。

43若宮公園 昭6(1931)年 外手小学校(2013,10,14)
広場から南側を望む。正面が藤棚・テラス。
 ただ、車が通る道路をはさんでいるせいか、小学校との連関は薄いようだ。
 道路をはさんで西側には、「外手小学校」。この学校は、地元の方がつくった私立学校がはじまりとか。この地域は、石原寄りの隅田川に面する地域で、かつては「大川」(隅田川)の土手の外にあるために「外土手村」と言った。その後、「外手町」となった、とか。歴史・伝統のある学校。


44菊川公園 昭5(1930)年 菊川小学校(2013,10,15)
菊川小学校との仕切りは開かれ、ハードルが公園内まで並べられて体育の授業中。
木々もほどよく配置されている。校庭にもなる中央、東側の運動広場と遊戯施設がある西側とを明確に区分したかたち。

45永倉公園 昭5(1930)年  現存せず(「日進小学校」(現竪川中学校)の南側にあった。校地拡張のため消失。亀沢4-11。)(2013,10,16)
竪川中と「三つ目通り」との角地にある公衆トイレには、「永倉」という表示が。旧本所区永倉町。
ガード下の細長い地域に学校と接して公園があった。
 「日進小学校」は、復興公園の北側に併設された小学校。元・三笠小学校。1916年4月、日進尋常小学校に改称、1928年6月、高等科を併置、1945年、空襲で校舎全焼。
「日進公園」。右の建物は、地域のコミュニティーセンターとして存在する「家庭センター」。
 1971(昭和4)6年に竪川中の校地拡張のため消失した「永倉公園」の代替として公園をつくり、「日進」という名を付した。

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旧台東区立坂本小学校校舎。関東大震災後建てられた「震災復興小学校」の一つ。

2022-02-21 20:25:13 | 震災復興小公園

今朝の「朝日新聞」都内版に「旧台東区立坂本小学校校舎解体」が掲載されていました。すでに廃校となっていましたが、その後どうするか、さまざまな意見があったようです。

ようやく暫定案ができ、結果的には解体して更地になるようです。

関東大震災後に建築された「復興小学校」の一つ。公園と一体化した「震災復興小公園」事業とは別に建てられた校舎です。

以前掲載したことがありますので、再掲します。

2013ー10ー27

 今回は、公園を伴わない「復興小学校」の一つで、現在も残り、活用されている校舎を訪ねました。「台東区立坂本小学校」。
 
ここで、「復興小学校」についてのおさらい。(以下「Wikipedia」参照。)

 復興小学校は、1923(大正12)年には発生した「関東大震災」後に復興事業の一環として建築された一連の小学校の総称です。
 関東大震災により、東京市立小学校は大きな被害を受け、全195校のうち無傷で残ったものは2校にすぎず、約2/3が倒壊・焼失しました。
 復興事業にあたり東京市は、不燃化構造とするため鉄筋コンクリート建築を採用しました。また、52の学校では、公園を併設するなどの試みも行われました(「震災復興52小公園)。
 復興小学校として建築された小学校は全部で117校。建設時期は1924年から1935年にかけての時期(多くは1928年頃までに完成)。
 なお、同時期に建設された鉄筋コンクリート造りの学校建築の中にも、厳密には復興小学校ではないものが含まれています。それらを「改築小学校」と呼びました。校舎の被害はさほど大きくなかったが、ついでなので鉄筋コンクリート建築によって建て直したというもの。更にそれ以外に、震災前には小学校として存在していなかったが、震災後に鉄筋コンクリート建築の校舎を新築して開校したものも含まれます。

復興小学校一覧
※以下のリストは復興小学校を網羅したものではない。

1925年(大正14年)建設
・明石小学校(中央区明石町1-15)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。北側に隣接していた公園の大半は失われたが、わずかながら残ってはいる。建築学会から重要文化財相当と指定されている。2010年8月9日から取り壊しが開始された。
 
1926年(大正15年、昭和元年)建設
・九段小学校(千代田区三番町16)
建設当時は「上六小学校」。2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。西側に隣接して東郷元帥記念公園がある。
・坂本小学校(台東区下谷1-12-8)
建設当時は「入谷尋常小学校」。小学校としては廃校になり、建物は2006年1月現在残されてはいるが、跡地利用が検討されており、解体される可能性もある。


1927年(昭和2年)建設
・元町小学校(文京区本郷1-1-19)
小学校としては1998年に廃校。南側には同時期に作られた元町公園が残されている。文京区が区施設の建設を計画したことから解体の懸念が強まっていたが、2010年段階ではその計画はたなざらしとなり、建物は耐震補強の上で2016年まで順天堂大学にレンタルされることになった。

1928年(昭和3年)建設

・阪本小学校(中央区日本橋兜町15-18)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。なお、本校は1873年に「第一大学区第一中学区第一番小学阪本学校」として開校した、都内最古の小学校のひとつであり、文豪谷崎潤一郎の母校としても知られる。北側に隣接して阪本町公園がある。
・十思小学校(中央区日本橋小伝馬町5-1)
小学校としては廃校になり、中央区の施設「十思スクエア」として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東側に隣接して十思公園がある。
・早稲田小学校(新宿区早稲田南町25)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京大空襲では4分の3が損害を蒙った。
・下谷小学校(台東区東上野)
1990年に清島小学校と統合し閉校。その後は、近隣にある岩倉高等学校の代用校舎としてなど、活用されている。

1929年(昭和4年)建設

・常盤小学校(中央区日本橋本石町4-4-26)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。西側に小規模ながら常盤公園が隣接している。
・泰明小学校(中央区銀座5-1)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東北東側に小規模だが数寄屋橋公園が隣接している。
・城東小学校(中央区八重洲2-2-2)
建設当初は「京橋昭和小学校」。2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。

1930年(昭和5年)建設

・黒門小学校(台東区上野1-16-20)
2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。
・明化小学校(文京区千石1-13-9)
2013年現在も小学校の現役校舎として使われている。2014年度には140周年を迎える。

1932年(昭和7年)建設

・広尾小学校(渋谷区東3-3-3)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。建築当時は校舎の隅に消防署が併設され、消防車用の車庫と望楼が組み込まれた(1947年に消防署は移転)。様式はインターナショナル・スタイル。

1934年(昭和9年)建設

・四谷第五小学校(新宿区新宿5-18-21)
2008年から、よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京本部として使われている。日本におけるDOCOMOMO150選。改築小学校。

1935年(昭和10年)建設

・高輪台小学校(港区高輪2-8-24)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。耐震性能などの向上を目指した全面改修工事が行われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。いわゆるモダニズム系のデザインであり、あまり古い建物には見えない。なお、本校校舎も狭義の「復興小学校」には含まれない(震災後に開校したため)。

建設時期不明

・京華小学校(中央区八丁堀3-17-9)
小学校としては廃校になり、中央区の施設「京華スクエア」として使われている
・窪町小学校(文京区大塚3丁目)
2006年現在も小学校の現役校舎として使われている。耐震性能などの向上を目指した全面改修工事が行われている。なお、本校校舎は狭義の「復興小学校」には含まれない(「改築小学校」にあたる)。


「言問通り」を挟んで。校舎の通り側に面した全景。

 上記に引用した「Wikipedia」とは少し異なっていて、1996(平成8)に廃校となってからも、区の施設として利用されており、現在は都の教職員組合や東京都美術館リニューアル準備室が入居して、現役中。
 ただ、外見からはあまり手を入れた様子もなく、このまま朽ち果てる(撤去、解体される)のを待つ、という感じがしないでもありませんが。

正門の門柱には、しっかりと校名が。

正面玄関。校章も残っていました。

階段室。

玄関のアーチ。

入口や階段室にアーチ状の造形を持つ。復興小学校のひとつの様式。

円柱が並ぶ外壁。

校庭側(南西側)から。コの字型の校舎配置。

体育棟?

東側の校舎側面。

校舎裏手の小道。
ツタ、雑草で覆われた建物。

あえて手を入れないのか。

しっかりした鉄筋造りの建物のようだ。

「都教組台東支部」とあった。

 
正門前の通り。向こうの広い道路が「言問通り」。右が入谷交差点。左へ行くと、JR鶯谷駅方向。

「言問通り」から入谷方向を望む。校舎の向こう遠くにスカイツリー。

 JR線からも近く、また、言問通りと国道4号線(昭和通り・日光街道)という交通量の激しい交差点から、道一歩入ったところにある、古き「近代」の趣。

1970年代のようす。○。
 
・・・
 
訪問してから9年の年月が経ちました。
 
今後の予定は、台東区によると、以下のようになるようです。保存して欲しいとの声もありましたが、結局、解体することになります。
 
・既存の校舎建物を除却した上で暫定的に広場として整備し、地域の交流や憩い、安全を創出します。
・敷地西側、南側の区道を拡幅し、地域の防災力を向上させます。
・敷地北側の都道(環状第3号線用地)の行政財産使用継続の解消を図ります。
 
<今後のスケジュール(予定)>
 令和3年度上期       広場整備の検討
   3年度下期~4年度  校舎解体、整備工事
   5年度         活用開始
 
こうしてまた一つ、伝統ある古い校舎がなくなります。上記の小学校の中にも既に役割を終えた校舎もあるようです。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその6。江東区編。

2014-02-22 19:51:46 | 震災復興小公園

《江東区》

46元加賀公園 昭2(1927)年 元加賀小学校(2013,10,9掲載)
 開園当時の施設が残っている。
壁泉付露床。
藤棚から西の広場を望む(樹木は植えていないので、近所の幼稚園、子供会などの運動会・催し物には最適)。中央が「壁泉付き露床」。

校庭との間にはフェンスと植え込みがあり、それぞれの独立性が高いものになっている。学校の校庭との通用口が二カ所。それぞれ立派な門扉で、簡単に出入りできるようにはつくられていない。

47八名川公園 昭5(1930)年 八名川小学校(2013,12,2)
藤棚をあしらったテラス。
公園側の通用門。
小学校のフェンス脇には花壇があって、目を楽しませる工夫がされている。

48森下公園 昭5(1930)年 深川小学校(2013,12,3)
 公園の名称と小学校名が異なる組み合わせ。
通りをはさんで存在する。右が「深川小」。
広々とした中央広場。
藤棚のあるテラス。

49臨海公園 昭5(1930)年 臨海小学校(2013,12,4)
臨海小の校庭拡張の影響か、内側にカーブしたかたちになっている。
校庭とのフェンス。

50東陽公園 昭2(1927)年 東陽小学校(2013,12,6)
永代橋通りと高層ビルに囲まれた公園。
右奥が「東陽小学校」。
学校との関連は薄い。

51扇橋公園 昭5(1930)年 扇橋小学校(2013,12,6)
カーブした藤棚。
藤棚から小学校方向を望む。
学校は、全面改築中。

52川南公園 昭6(1931)年 川南小学校(2013,10,10)
 一体的に使われている公園。
校庭と公園の出入口。
 戦後、復興した校舎の位置は、戦前とほとんど変わりませんが、公園は、学校側にプールができ、手狭な印象。
 当時のままの二連式滑り台。
正面に子どもを描いたレリーフ。
公園の西側から東を望む。


(「震災復興52小公園」の原資料は、「kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index/park.html」さんより引用。番号は便宜的に付した。)

 なお、( )内は、掲載した日付です。公園、小学校の現状や歴史、周辺地域の話題など盛りだくさんなつもり。詳しく知りたい方はぜひ訪問して下さい。

 「震災復興小学校」として鉄筋コンクリートづくりの校舎があったが、戦災で大きな被害を受けたり、その後の統廃合によって取り壊されてしまい、現在、現役校舎、あるいは他の用途として使われているものも含め、数少なくなってしまっています。
 「震災復興52小公園」の中で紹介した以外の小学校(隣接した「小公園」がないか、あるいは小規模のもの)で、当時のままの校舎が残っている小学校(他の用途に転用したものも含む)を訪れ、掲載しています。まだ行きそびれている校舎も訪ねて、別の機会にまとめる予定です。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその5。墨田区編。

2014-02-21 22:11:34 | 震災復興小公園
《墨田区》

38中和公園 昭4(1929)年 中和小学校(2013,10,15掲載)
西側から望む。北側には「中和小学校」。

公園との仕切りは、緑の大きな網。開閉が出来るようになっている。すでに放課後。指導員の元で数人の児童が遊んでいた。墨田区内で現存する小学校の中では最も古い歴史をもつ小学校。

39業平公園 昭5(1930)年 業平小学校(2013,10,9)
西側を望む。かつての面影はなさそう。樹木を一列に配置した、中央の大きな広場の存在が当時のコンセプトの一端を残している。道路をはさんだ向かい側が「業平小学校」。
道路をはさんでいるため、学校+公園というかたちではなく、それぞれ独立したものになっている。

40横川公園 昭6(1931)年 横川小学校(2013,10,14)

 横川小学校の南に接した東西に細長い公園。当初よりも校地を拡張したために細長く小さくなったのか?
公園側の校門。登下校時のみ開放する感じ。西側に遊具。東は広場。

41江東公園(現・両国公園) 昭4(1929)年 江東小学校(現・両国小学校)(2013,10,14)
パーゴラ(藤棚)。支柱に当時の雰囲気を残している。
公園入口付近から藤棚方向を望む。
「両国小学校(旧名「江東小学校」)(西側)と道路をはさんでいる。東側が公園。
 公園内のところどころに、「両国小」という立て札があって、植物の世話などを行っているようすあり。建設当時の学校・公園という考え方を引き継いでいる印象。

42茅場公園 昭6(1931)年 現存せず (JR錦糸町駅南口、現・丸井の南にあった。江東橋3-8。)
(2013,10,16)

 戦後、区画整理で消滅(代替公園「江東橋公園」)。今や賑やかな飲食街の一角。「丸井」、かつて大きな都電の車庫だったところの裏手。代替の「江東橋公園」は少し西に行った「都立両国高校」の近くに位置。
 学校は廃校になったが、しばらく校舎は残っていた。
パーキングタワーと隣のマンションが校舎跡地?
左の雑居ビル付近が公園跡地?
江東橋公園。

43若宮公園 昭6(1931)年 外手小学校(2013,10,14)
広場から南側を望む。正面が藤棚・テラス。
 ただ、車が通る道路をはさんでいるせいか、小学校との連関は薄いようだ。
 道路をはさんで西側には、「外手小学校」。この学校は、地元の方がつくった私立学校がはじまりとか。この地域は、石原寄りの隅田川に面する地域で、かつては「大川」(隅田川)の土手の外にあるために「外土手村」と言った。その後、「外手町」となった、とか。歴史・伝統のある学校。


44菊川公園 昭5(1930)年 菊川小学校(2013,10,15)
菊川小学校との仕切りは開かれ、ハードルが公園内まで並べられて体育の授業中。
木々もほどよく配置されている。校庭にもなる中央、東側の運動広場と遊戯施設がある西側とを明確に区分したかたち。

45永倉公園 昭5(1930)年  現存せず(「日進小学校」(現竪川中学校)の南側にあった。校地拡張のため消失。亀沢4-11。)(2013,10,16)
竪川中と「三つ目通り」との角地にある公衆トイレには、「永倉」という表示が。旧本所区永倉町。
ガード下の細長い地域に学校と接して公園があった。
 「日進小学校」は、復興公園の北側に併設された小学校。元・三笠小学校。1916年4月、日進尋常小学校に改称、1928年6月、高等科を併置、1945年、空襲で校舎全焼。
「日進公園」。右の建物は、地域のコミュニティーセンターとして存在する「家庭センター」。
 1971(昭和4)6年に竪川中の校地拡張のため消失した「永倉公園」の代替として公園をつくり、「日進」という名を付した。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその4。台東区編。

2014-02-20 23:53:22 | 震災復興小公園
《台東区》

公園名   開園年   隣接の小学校
23東盛公園 昭3(1928)年 東盛小学校(2013,10,21掲載)

 西に接する小学校の校名は、「東泉」(昭和21年竜泉国民学校と合併し、東盛の「東」と竜泉の「泉」の一字ずつをとり「東泉」とした)となったが、公園名は「東盛公園」。よく整備され、開放的で広い公園。

校庭との境は、開閉が出来るフェンス。学校+公園という初期の目的は残されているようです。

24山伏公園 昭6(1931)年 山伏小学校(2013,10,23)

 北側の区立駒形中学校(旧山伏小学校の敷地)と隣接し、公園の一部は、駒形中のグランドになり、当初の時よりも小さくなっている。

公園から望む駒形中学校。この中学校は運動系が盛んのようで、大きなグランドを所有している。

25入谷公園 昭6(1931)年 台東小学校(2014,2,14)
 全面的な改修工事が行われたようで、かつての面影はなく、明るく開放的な公園。公園名も「金杉公園」となっている。
右手が球技場、左手が遊具のある公園。奥に見えるのが、「柏葉中学校」。

 もともとあった「入谷小学校」の校舎はなくなり、「柏葉中学校」のグランドとなっている。


26西町公園 昭5(1930)年 西町小学校(2013,10,25)

 「西町小学校」は、1998年統合で廃校になり、跡地には、「永寿総合病院」が建っている。
上野や御徒町からも近く、行き交う人々が多い。右(北側)が病院の建物。

27御徒町公園 昭6(1931)年 御徒町小学校(201,2,11)

 ここは、かつての復興公園の面影を残している公園。パーゴラ(つる棚)などもあり。

旧「御徒町小学校」の跡地につくられた「御徒町台東中学校」。

28石浜公園 昭5(1930)年 石浜小学校(2013,10,22)
中央に運動広場。東側に遊具施設。

「石浜小学校」
 明治40年創立。校舎は長らく震災復興校舎(昭和2年竣工)を使用していたが、昭和50年に新校舎に建て直され、現在に至る(平成元年~3年にかけて改修あり)。
 ここに校庭との出入口がありました。公園を利用することもあるようです。

29千束公園 昭5(1930)年 千束小学校(2013,10,23)
広い運動広場。

公園側からフェンス越しに校庭を望む。
 千束小学校の児童数は、現在、200名ほど。1学年1学級ということになる? 小規模校故の良さも悩みもありそう。

30小島公園 昭6(1931)年 小島小学校(2013,10,26)
「旧小島小学校」の南側に隣接する。
 旧校舎はそのまま「Taito Designers Village」(併設として「小島アートプラザ」)として利用されている。
半円柱状(丸い搭状)の外観。運動場に面した南西の角。

31富士公園 昭6(1931)年 富士小学校(2013,10,22)
公園の北側に浅草警察署の大きな建物がある。

道路を挟んだ東に「富士小学校」。正面が道路側にあり、公園とは独立した存在となっている。

32田原公園 昭6(1931)年 田原小学校(2013,11,2)

 大半を校庭にとられて、実に小さな公園となっている(戦前からこんじまりとした公園になってはいたが)。校庭との間に大きい出入口あり。

なかなかしゃれた校舎。

33金竜公園 昭6(1931)年 金竜小学校(2013,10,23)

「図書館」の南側に公園が広がる。

 「金竜小学校」は 1986(昭和61)年、100mほど北の現在地に移転。その跡地には、 2001(平成13)年、「台東区生涯学習センター(「区立中央図書館」)」が建設された。


34松葉公園 昭6(1931)年 松葉小学校(2013,10,25)
中心となる広場。
 日本では1928(昭和3)年に始まったラジオ体操。戦中戦後には休止されていたのが、戦後、1951(昭和26)年に再開したのが、ここ松葉公園だったそうだ。

道路を挟んで西側に「松葉小学校」。公園とは切り離されている。校舎は、ユニークな建物と色彩。

35精華公園 昭5(1930)年 精華小学校(2013,11,2)
公園中央広場。広いスペースの公園。校名の「精華」はなくなったが、公園の名として残っている。

「蔵前小学校」校舎。
 平成15年4月、精華小学校、小島小学校、済美小学校の統合により、「精華小学校」の跡地に「台東区立蔵前小学校」として開校。

36柳北公園 大13(1924)年 柳北小学校(2013,10,28)
広場。南側には「柳北小学校」、北側に隣接する校舎は、「都立忍岡高校」。

「柳北小学校」の廃校後、一時期、フランス人子女が通う〔東京リセ・フランコ・ジャポネ東京校〕の中等科・高等科の校舎として使用していたが、移転し、今年の4月から、一階部分には「柳北保育室」が開設されている。
南側からの眺め。震災復興校舎としての特徴がうかがわれる。
 コの字型の校舎だった。正門が公園に面していて、中庭が校庭。現在は、西側の校舎は取り壊され、「柳北スポーツプラザ」という建物になっている。

37玉姫公園 昭5(1930)年 正徳小学校(2013,10,21)
 東京大空襲で壊滅した地域。戦後、小学校は、廃校になってしまい、敷地は、「蓬莱中学校」になった。

大きな運動場があるが、厳重な囲い。北側の公園の一角では、将棋などを楽しんでいる人たち。
「蓬莱中」跡地には、「老人ホーム 浅草ほうらい」が建つ。

 なお、台東区内には震災復興校舎がいくつかあり、まだ現役校舎として活躍しているものも。その訪問記は別の機会に。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその3。港区、文京区編。

2014-02-19 21:06:09 | 震災復興小公園
《港区》
 公園名  開園年   隣接の小学校
19桜田公園 昭6(1931)年 桜田小学校(2014,2,8掲載)
小学校時代のグランドがそのまま残っている。

「桜田小学校」→「港区生涯学習センター」。改修工事のため、全面シートに覆われている。
「同」工事前のようす。(「港区」公式HPより)

20南桜公園 昭4(1929)年 南桜小学校(2014,2,10)
 再開発で隣接していた南桜小の震災復興校舎を取り壊し、大きな公園に変貌。
都会のど真ん中にこれだけの開放的な空間。
 公園内には、「南桜小学校」当時のものがいくつか残されている。
二宮尊徳像。他にも記念碑など。

《文京区》

21新花公園 大15(1926)年 湯島小学校(2014,2,15)


道路を挟んで南側に「湯島小学校」。
 震災復興52小公園建設当時は、「新花公園」は、この位置ではなかった。学校の東側に接していた。その公園を校地として広げ、代替地として現在の位置に公園を移した。

22元町公園 昭5(1930)年 元町小学校(2013,10,8)
 昭和57年(1982年)に伊藤邦衛によって原型に忠実な改修が行われ、当時の設計思想を現在に伝える唯一の小公園となっている。
 復元されたモダンなデザインの擁壁や壁泉、太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)、左右対称の2連式滑り台などは、いずれも小公園の特徴的な様式である。
壁泉。
パーゴラ(つる棚)。
二連式滑り台。

元町小正面。校章が外された跡が痛々しい。現在は、「順天堂病後児ルームみつばち」など、一部使用されている。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその2。中央区編。

2014-02-18 21:57:07 | 震災復興小公園
 公園名   開園年  隣接の小学校

8常磐公園 昭6(1931)年 常磐小学校(2013,12,12掲載)
線路際の道と学校の建物にはさまれた小さな公園。

東側の校舎(震災復興校舎)。この校舎は東京都選定歴史的建造物に指定されている。

9久松公園 昭5(1930)年 久松小学校(2013,12,15)
公園東側。プールが隣り合っていて、細い通路。奥に運動場・児童公園が広がる。学校開校時は午後4時までは学校の校庭として使用、その後、児童公園として開放される仕組み。

校舎全景。

10十思公園 昭5(1930)年 十思小学校(2013,12,13)
緑も多く、よく整備されている。「時の鐘」や記念碑などは開園当時のまま。伝馬町牢屋敷跡にある。

十思小学校→十思スクエア。旧校舎をそのまま使用している。

11箱崎公園 昭4(1929)年 箱崎小学校(2013,12,16)
平日の昼休みなどにはサラリーマンなどで賑わうような印象。

「箱崎小」→「日本橋高」→「水天宮ピット」となったが、震災復興校舎当時のまま。

12蛎殻町公園 昭6(1931)年 有馬小学校(2013,12,17)
現在の公園正面。門構えと築地塀が特色。
 設立当初とは学校と公園の位置は異なるが、一体型というコンセプトは引き継がれている。利用に当たっては有馬小・幼稚園の児童・幼児等が使用する時間帯と一般が利用できる時間帯が区分されている。

ベランダには「祝 開校140周年 開園68周年」の文字。

13鉄砲洲公園 昭5(1930)年 鉄砲洲小学校(2013,12,22)
新校舎建設と合わせて整備されたようす。
 
鉄砲洲小学校→中央小学校(旧京華小学校と旧鉄砲洲小学校が統合されて誕生した)。外壁などのつくりは、かなり斬新なデザイン。

14京橋公園 昭5(1930)年 京橋小学校(2014,1,5)
公園の東側から。復興小公園につきものだったコンクリート製の二連式すべり台が、2011年8月、老朽化等のために撤去され、モニュメントとして写真とともに掲示されている。

 震災復興校舎だった「京橋小学校」は、統廃合ですでになく、「京橋プラザ」という大きな複合高層住宅になっている。建物の1階コンコースに旧京橋小のモニュメントがあり、かつてを偲ばせる。

15築地公園 昭5(1930)年 築地小学校(現存せず)※ 校地拡張のため、消滅。
 「築地小」は、「京橋小」と統合して、現在、「京橋築地小学校」。
(「京橋築地小」HPより)

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。矢印が旧築地小。公園が隣接されている。右下が「築地本願寺」。

16越前堀公園 昭5(1930)年 明正小学校(2013,12,31)
四阿風。史跡・記念碑などや緑も濃く大人もゆっくりと楽しめそう。

「明正小」は旧校舎(震災復興校舎)を取り壊し、新築中。全面シートに覆われている。公園側から。

17月島第一公園 昭2(1927)年 月島小学校(2014,1,9)
広い中央広場。トイレ棟がユニーク。

 小学校はすぐ近くの工場跡地に移転。 
小学校の跡地は、「月島区民センター」「月島図書館」などの施設が入った建物になっている。

18月島第二公園 大15(1926)年 月島第二小学校(2014,1,8)
「月島第2小」側からの公園。広いスペースの公園となっていて、かつての「震災復興公園」としての面影はないが、住民の憩いの場所として賑わっている。北側には超高層マンション。

大きな校舎。それでも、児童数の増加のため増改築工事が始まる。

 ※ 2013年12月29日掲載の『第一大学区第一中学区第一番小学 阪本学校』としての歴史を持つ「阪本小」、隣接する「坂本町公園」。小学校校舎は震災復興校舎だが、ここでいう「震災復興52小公園」には含まれていない。
公園側からの校舎。
校舎側から公園の北方向を望む。

 なお、「阪本小」のように「震災復興校舎」が現役校舎として使用されているものもある。また、他の施設として転用されているケースも。それはまた別の機会に。
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「震災復興52小公園」の現状。まとめその1。千代田区編。

2014-02-17 20:55:53 | 震災復興小公園
 公園名   開園年  隣接の小学校

《千代田区》

1上六公園 昭4(1929)年 上六小学校(2014,1,28掲載)
「上六公園」を下に望む。北側にある東郷元帥記念公園と一体化。樹木も多く、高低に富んでいる。大幅に改修されている。
千代田区内では唯一復興校舎が、現役の校舎として残されている。特徴的な正面玄関の庇。現九段小学校。ただし、現在、改築改修計画が進められている。

2西小川公園 昭5(1930)年 西神田小学校(2014,1,27)
大幅な改修のため面影なし。
西神田小学校も廃校、跡地(正面)は、多目的な「西神田コスモス館」に。記念碑が設置されている。

3錦華公園 昭4(1929)年 錦華小学校(2014,1,26)
このあたりは、門柱など開園当時のままの雰囲気。お茶の水幼稚園がもともとの公園の敷地内にでき、手狭な印象。
校舎も全面改築され、校名も変わり、「お茶の水小学校」へ。漱石も学んだ、歴史と伝統のある学校。

4淡路公園 昭5(1930)年 淡路小学校(2014,1,25)
開放的な芝生の広場に。一帯の再開発地域の一環として大変貌。
淡路小学校の跡地は、超高層ビル「Waterras」に大変貌。かつての面影はまったくなくなって、新たな地域交流の場所として機能させていくようだ。

5神田公園 昭6(1931)年 神田小学校(2014,1,23)
公園の西北側から。ここも復興震災公園の面影はない。水回りが豊か。
現・千代田小学校。立派な建物。

6練成公園 昭6(1931)年 練成小学校(2014,1,21)
かつての面影はなく、「アーツ千代田」と開放的かつ融合的な公園に。
旧「錬成中学校」の校章がそのまま残っている正門。

7芳林公園 昭5(1930)年 芳林小学校(2014,1,22)
立派な門柱。ここも大改修。かつての面影はない。小学校からは歩道橋で行き来する。
旧芳林小学校も校舎も解体。公園から現・昌平小校舎(豪華な印象)を望む。

(公園名等は、「kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index/park.html」さんより一部引用。番号は便宜的に付した。)

 住んでいるあたりの雪はほとんど消えましたが、多摩の方はまだまだ。もっと西の山梨でも大変な状態が続いているようす。そして、今週の水/木がまた危ない。
 以前は、関東に雪が降り始めると、だんだん春が近づいてきたことが知れた。寒気と暖気のせめぎ合いで次第に春らしくなっていく。だから、少ししんどい思いをしても何とか過ごせました。
 しかし、今はそんな悠長なことは言っていられません。まさにいのちと暮らしを直撃。

 これも、温暖化のなせる「異常気象」のようです。

 「八王子」の友人、「前橋」の友人、そして「仙台」の知人からの悲鳴にも似た連絡あり。ここ数日の「苦闘」を。
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竹町公園(旧竹町小学校、現平成小学校)。(震災復興52小公園。番外編。その13。)

2014-02-16 21:15:04 | 震災復興小公園

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が「竹町小学校」の位置、赤い線がのちの「佐竹商店街」。東側の通りが現在の清洲橋通りにあたる。(「佐竹商店街」「三味線堀」跡などについては、昨年の11月11日付けで紹介済み)

1941(昭和16)年頃。赤丸が竹町小学校、下谷(現竹町)公園。「佐竹本通り」が「佐竹商店街」。
(「竹町 - DTIwww.maroon.dti.ne.jp/~satton/taitou-imamukasi/syouwa16/taketyo.html」より)。‎

 近隣の台東区立小学校では震災復興公園に関わる学校も多い。そうした土壌があったのでしょうか、竹町(たけちょう)公園と旧竹町小学校の関係は、まさに震災復興52小公園と同様の発想があったと思われます。
小学校と公園の関連が似ている。この公園は、小学校の校庭に面してつくられた公園仕様。


平成小学校南側に公園が広がっている。
校庭とのフェンスにある出入口。残念ながら校庭側は花壇で占められている。
コンクリート製の花壇が並んでいる。
西側に段差をつけて遊具がある。
東側は広場。学校側にコンクリート製の昇降台が設置されている。毎朝のラジオ体操の会場に。
古い樹木も。
フクロウ。
「佐竹商店街」のマスコットは「竹にフクロウ」。
地名にちなんで、公園の一角には、小さな竹林。
「平成小学校」正面玄関。ネーミングは? 複数の学校が統合して一校になると校名がもめますが。ただし、併設の幼稚園名に「竹町」が残っている。
(「平成2年に二長町小学校と統合されて平成小学校となり、永い歴史を閉じた竹町小学校です」mixiコミュニティより引用)

 この公園と小学校との関係は、「震災復興52小公園」当時のコンセプトを引き継いでいるように思えます。
 90年以上前の、小学校を機縁とする地域コミュニティ計画が、今も地域にとって必要なことを実感しました。

地名由来。
エリア。

 明治5年(18729秋田の久保田藩主佐竹邸、伊勢の津藩主藤堂邸、伊予の大洲藩主加藤邸、秋田の矢島藩主生駒邸と周辺の屋敷が合併して竹町はできた。町名の由来はこの地に最も広大な敷地を有した佐竹邸の西門扉に竹を用いたことにちなむという。
 この地は竹町と命名されてからめざましい発展を遂げて、佐竹邸の跡地は講談寄席や料理店がならび大変にぎわった。その後、大正12年(1923)の関東大震災で一面焼失したが、聖人や職人の町としてよみがえった。そして第二次世界大戦で二度にわたる空襲を受けたにもかかわらず他にさきがけて復興し現在の姿になった。

 学校と公園のある場所が、佐竹邸跡。また、「秋葉神社」は佐竹邸の屋敷神として、現在も公園の脇に存在しています。

公園の周囲には、古い民家がまだ残っている。
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新花公園(湯島小)。(震災復興52小公園。その40。)

2014-02-15 14:42:51 | 震災復興小公園
 東京地方、いやオール関東で先週の大雪が溶けないうちに、またしても大雪。夜明け前から大雨。今度は大雨洪水警報が各地に出される始末。風も強い。
 そんな中、近所の子ども達が登校する姿がちらほら。雪道で傘を差して・・・。土曜授業をやっているせいらしい。雪道で行き惑う低学年の子ども。子どもは行かないわけには(学校もやらないわけには)いかないのかね。いつも見慣れた朝方の風景も、今朝はちょっと同情。

 こちらは、先日、ちょっと肌寒かった日に出かけたところをレポート。「震災復興52小公園」巡りも、いよいよ最終回。

③文京区立新花公園(湯島小学校)





左が1880年頃のようす。赤丸が湯島天神下の「切通坂」。矢印が現在の「湯島小」付近。当時は、もう少し南側、「新花町」・霊雲寺に接する辺りにあったようだ(下の赤丸付近)。右の写真はほぼ同じ場所の1970年頃のようす。位置もそうだが、道路が130年以上経過しても現在とほとんど変化していないことに気づく。(いずれも「歴史的農業環境閲覧システム」より)

目に飛び込んでくるのは、クジラ。小さな公園なので存在感抜群。親子連れが遊んでいた。
道路を挟んで南側に「湯島小学校」。実は、震災復興52小公園建設当時は、「新花公園」は、この位置ではなかった。学校の東側に接していた。


 これまでの震災復興52小公園とは配置が異なっていることに気づく。小学校の東側にあった公園を校地として広げ、代替地として現在の位置に公園を移した。上の右の写真では工事中であることが分かる(「湯島小」沿革史参照)。
当時のイメージ(「震災復興52小公園フレーム www.geocities.jp/zouenkasyudan/52parks/」より引用)。

《湯島小学校》


明治 3(1870)東京府に6つの小学校ができる。その1校として、本郷丸山本妙寺におかれる。
   4(1871)湯島切り通し坂の麟祥院内の家に移り、小学校第4校として開校する。文部省の管理。児童数32名
   5(1872)学制がしかれ、東京府庁の管理となる。
   6(1873) 改めて公立小学校となり、第4中学区第1番小学湯島校となる。
   9(1876) 湯島新花町に新校舎落成。
   15(1882) 尋常小学校となる。
・・・
41(1908) 学制変更により、東京市湯島尋常小学校となる。(修業年限6年)
・・・
大正 12(1923) 関東大震災が起き、校舎が全焼する。
  14(1925) 新花町2番地に新校舎を作り始める。
15(1926) 鉄筋コンクリート造りの校舎落成式。
・・・
昭和 15(1940) 新花公園との境をとり去り、運動場を広げる。(紀元2600年記念事業)
・・・
昭和 20(1945)3 9 空襲により、学校付近は全部焼失し焼け野原となった時、学校も南西の17教室と便所を焼失する。
・・・
昭和 38(1963) 全教室にテレビが設置される。
・・・
昭和 46(1971 校庭東側の新花公園を校地にする。(新花公園は校舎北側の現在地に移設する)
・・・
平成 23(2011) 開校140周年記念式典を行う。
(以上「湯島小」HPより)

 以上でも分かるように、長い歴史と伝統を誇る小学校。沿革史を見ても、実に細かく記録が残されていて興味深い。
 もともとは、江戸時代の寺子屋を起源とし、1872年(明治5年)の学制施行前からの小学校として存在。
 日本の小学校の中で、最も長い歴史と伝統を持つ学校の一つ。開校当時から、周辺には「湯島聖堂」や「昌平坂学問所(東京大学の前身)」などがあって、文化、歴史、自然に恵まれているところにある。

校庭の東側。このあたりが元の「新花公園」だったか。左に「百葉箱」がある。

※「百葉箱(ひゃくようそう、ひゃくようばこ)」
 温度計や湿度計を入れ、正確な気温を計測するために設置された(屋根付きの)箱。


古い樹木が残っている。
校庭の一角。緑が多い。
校庭(南側)から校舎を望む。グランドの隅に何やら鉄製の大きな釜状のものが置かれている。
はたして何?


 伝統と歴史のある雰囲気でした。

 これで、「震災復興52小公園(復興小学校)」巡りを終わります。

 千代田、中央、台東区などでそれぞれ数校ですが、現役のまま活躍している校舎が残っていることに感動。
 一方、公園は戦災やその後の復興、さらには近年の公園改修、校舎改築、校地拡張などで大きく変化。ほとんど昔のままの姿をしているところはありません。わずかに二連式すべり台などが数カ所残るのみ。
 一番最初に訪問した「文京区立元町公園」は、1982(昭和57)年、元の姿をよみがえらせる改修が実施され、「震災復興52小公園」当時の設計・思想が残る唯一の小公園となっています。
 ただ、「パーゴラ(つるだな)」が多くの公園にあることで、建設当時のコンセプトが引き継がれているのには驚きました。
 また、学校と一体化という当時の思想が残っていて、墨田区などでは学校のグランドと公園との仕切りが自在になっているところもあるなど、まだまだかつての趣が残っているようです。

 関東大震災からすでに90年以上経過、その復興事業としての「震災復興52小公園」。その当時の考え方のいい面を現在、継承されてきているかどうか。

・小公園の配置は、児童数・校庭の広狭・既設公園の配置などを勘案し、都市計画的に決定される。
・耐震強度を高めた小学校に隣接し、教材園及び運動場補助等の目的を有するとともに、地域の防災拠点とする。
・広場を中心に敷地の40%を植栽地とし、道路に沿う外周部分には低い鉄柵を施し、容易に出入り可能なものとする。
・植栽には防火・防音・防塵効果に優れた常緑樹を採用し、学校教材のために多種類の樹木と潅木を使用する。
・震災復興の名の下に公園を近代文化の普及・啓発のための展示場として演出する。


 児童生徒の通学・学習上の安全管理、施設管理・維持など多くの課題もありますが、地域と学校の関係において、小学校と隣接する公園との有機的な取り組みという発想の必要性を改めて感じました。

 そこで、「震災復興52小公園」ではありませんが、その発想に通じる(かもしれない)学校と地域公園の関係を示すケースを、次回は紹介。

 外を見ると、やっと雨も上がり、明るくなってきました。さて、雪かきでもしましょうか。といったん中断して再開。  
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入谷公園(入谷小学校)。現金杉公園。金杉通り。(震災復興52小公園。その39。)

2014-02-14 22:30:10 | 震災復興小公園
 台東区は、あと一つ「入谷公園(現・金杉公園)」が残ってしまった! そこで、先日。

②入谷公園(現金杉公園)入谷小学校(すでに廃校。現柏葉中学校)

 全面的な改修工事が行われたようで、かつての面影はなく、明るく開放的な公園。乳幼児連れの親子が大勢いて、遊んでいました。
砂場の上のふじだな。
右手が球技場、左手が遊具のある公園。奥に見えるのが、「柏葉中学校」。
中学校側から公園を望む。もともとあった「入谷小学校」の校舎はなくなり、「柏葉中学校」のグランドとなっている。


もともとあった(?)古木。
柏葉中学校用の災害用倉庫が二連。
震災復興公園の面影は見当たらなかった。

 公園の位置は、町名では「入谷」。公園名は西側の道路「金杉通り」にあやかったもの。「金杉通り」にはかつて上野駅東側から続いていた都電が通っていた。
1910年代後半から20年代前半。「昭和通り」が出来る前のようす(「今昔マップ」より)。「金杉通り」が上野から三ノ輪へ通じる幹線道路であったことがわかる。
1920年代後半から30年代。「昭和通り」が完成後のようす(「同」より)。赤丸が「入谷小学校」の位置。赤い線が市電(のち都電)の路線。

 注:昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、建設された道路。当時東京市市長だった後藤新平の原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められ1928年(昭和3年)に完成した。(「Wikipedia」より)

「三ノ輪」方面を望む。
上野駅方向を望む。

昔ながらの商家。
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御徒町公園(御徒町台東中)。なんじゃもんじゃの木。朝顔市。・・・(震災復興52小公園。その38。)

2014-02-11 20:16:34 | 震災復興小公園
 残っていた三つ。

①台東区立御徒町公園(旧御徒町小学校→御徒町台東中)

 御徒町の賑やかな通りをちょっと入ったところ。「多慶屋」の裏手にあたります。日中のせいか、大人の姿が目立ちました。せわしなく行き交う人。たたずむ人。・・・ 
神社の脇の池。
フェンスを隔てて中学校。以前のような関連性はなさそう。
 右端に見える木が「なんじゃもんじゃの木」。10メートル以上にもあるように見えるこの大木は、有名らしい。
なんじゃもんじゃの木。

説明板。

 この木は、俗に「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれ、朝鮮・中国にも分布していますが、日本では本州木曽川流域と九州(対馬)に知られている珍しい木です。昔、代々木青山練兵場にあった大木より株分けして、台東4丁目の荒沢瑛治郎氏が大事に育てたものです。
 木の高さは10メートルを超え、4,5月頃には雪が降り積もったような白い花を咲かせます。
 珍木であるため、異称が多く、ロクドウボク(六道木)、アンニャモンニャ、フタバノキナタオラシなどとも呼ばれています。台東区

 ナンジャモンジャとは、見慣れない立派な植物、怪木や珍木に対して地元の人々が付けた愛称。すなわち、特定の植物の種名ではない。ヒトツバタゴを指すことが多いが他の樹種の場合もある。(「Wikipedia」より)
 今では、都内の公園などにも植えられているようです。
 この公園のは、「ヒトツバタゴ」。真冬なので、その名に反して、葉が一つもなく残念。小さいプロペラのような白い花をたくさん咲かせるようです。

 こんな風に咲くらしい。

http://www.hana300.com/nanjam.html様よりお借りしました(この写真は、江戸川区清新町緑道にあるもの)。
「パーゴラ(pergola)」つる棚は、健在。
右奥が中学校。
テラスのようになっている。
整然とした並び。これも復興公園にはよく見かける。
公園内外の仕切りが低くなっているのも、特徴の一つ。

「御徒町」の由来板。
 
 この付近一帯は、徳川三代将軍家光(1623~1651)のころ、徒士(かち)組の屋敷地でああった。徒士組とは徒歩組、歩行組ともいわれ、徒歩で主君にお供したことにもとづく名称である。江戸幕府の職制では若年寄に属し、その職務は将軍外出の際の沿道警備、江戸城中玄関廊下の警戒であった。
 この地は、江戸末期に至るまで徒士組の屋敷が多かったことから、御徒町、徒町と呼ばれるようになって、明治5年(1872)徒士組屋敷および周辺の武家屋敷などと併せ、御徒町は正式に誕生した。
 文化文政(1804~1830)のころ、この付近では朝顔作りが盛んであった。今でこそ、朝顔といえば入谷であるが、この地こそ朝顔作りの発祥の地である。

 下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である徒士が多く住んでいたことに由来しています。彼らは、御徒町周辺において屋敷というよりも長屋に住み、禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をして生活していました。その内職の一つが朝顔作りであったようです。

 
 
 左が1880年頃のようす、右が1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 朝顔市
 この入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政の頃です。最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されておりましたものが、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴いまして、入谷に居りました十数件の植木屋が造るようになります。そしてその出来栄えが大変素晴らしかったので、明治中期になりますと、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。なぜ入谷の朝顔がこんなに盛んになったのかと言いますと、入谷田圃の土が朝顔造りに適していたこともありますけれども、当時流行しました朝顔と言いますのは「変わり咲き」です。この「変わり咲き」と言いますのは朝顔の花が、桔梗の花のように咲いたり、牡丹の花のように咲いたり、二重に咲いたりして、花粉の交配によって色々な花を咲かせる事ができたので、最盛期には一千種類もの朝顔があり、変化にとんだ花を咲かせ楽しませてくれてたのであります。
 もちろん現在のような丸い朝顔も江戸末期には大輪咲き朝顔とし盛んに栽培されておりましたが、変化咲き朝顔の不思議な美しさが江戸の人々にブームを巻き起こします。当時の模様を下谷繁盛記(大正三年明治教育社発行)によって観ますと、「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは、明治二十四・五年頃にして、其の頃は、朝顔を造る植木屋十数件を数え、入谷の通りは、毎朝、往来止めとなる程なりし也。殊に、当時は、周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼しき朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たり敷かば、観客頗る多く、非常の盛況を呈したり。」と記載されております。また、明治二十年七月五日発行の朝野新聞には、「府下にて朝顔の名所といえば誰も入谷たることを知る位なるが、同商も追々欧州植物培養の方法に倣い近年は頗る進歩し、昨年の出来に比較すれば、本年は余程の上出来にて、来る十五日より縦覧さする由なるが、本年は品数も数百種の多きに及び、頗る見事なるべしといえば、朝寝坊先生は早起きして此の美花を観玉へ。」とあるぐらい有名に成ります。
 ところが、このように大変盛んに造られておりました入谷の朝顔も、世情が怪しくなって来ました大正二年意地づくで踏み留まっていた植松(植木屋)の廃業を最後に、とうとう入谷の地から姿を消してしまいます。それに伴い変化朝顔もいつしか人々から忘れられて現在のような円形の朝顔えとその主流は変わって行きます。そしてそれから三十五年立ちました昭和二十三年、戦後のすさんだこの世の中を少しでも明るくしようと言うことで、地元有志の方と下谷観光連盟(昭和25年)の協力を得て、江戸情緒豊かな夏の風物詩、入谷の朝顔市が復活したのであります。


公式HPより)

旧御徒町小学校の跡地につくられた「御徒町台東中学校」。

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南桜公園。(震災復興52小公園。その37。)

2014-02-10 23:09:00 | 震災復興小公園

②南桜公園(南桜小学校)



1970年頃のようす(「同」より)。↓が「南桜公園(南桜小学校」、→が「桜田公園(桜田小学校)」。

東南方向から公園を望む。けっこう広いスペース。


都会のど真ん中にこれだけの開放的な空間はなかなかありそうにもない。


ベンチ。
公園案内板。
芝地区旧町名由来板。
 
 公園内には、廃校になり、校舎自体も完全に消滅した「南桜小学校」当時のものがいくつか残されている。
安倍能成書の「みんな手をつないで」。
「創立80周年記念碑」。
二宮尊徳像。かつては多くの小学校で見かけたが。裏手が喫煙スペースになっていて尊徳さんのお尻を見ながらタバコをくゆらせている。
桜の古木。かつて、校庭・公園を彩っていた。
ソメイヨシノの古木。


南桜公園と南桜小学校の説明板。かつてのようすを示す写真を掲示してある。これは公園全景。建設当時のままに学校と公園が一体化している。
南桜小学校、在りし日の校舎(震災復興校舎)。

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港区立桜田公園。・・・そして大雪。(震災復興52小公園。その36。)

2014-02-08 17:11:04 | 震災復興小公園
 港区にあった「震災復興52小公園」二箇所の現状報告。それぞれ公園は大きく変化し、またどちらも併設の小学校は廃校になっています。桜田小校舎は「生涯学習センター」として大改修、南桜小の跡地はもともとの公園と一体化して、大きな公園となっています。

①桜田公園(桜田小学校)


 関東大震災後の震災復興都市計画事業でつくられた55箇所の公園のひとつです。東京市により昭和6年に開設され、昭和25年10月1日付で東京都より港区が移管を受け、管理を行っています。
 当初は桜田小学校に隣接して開設されましたが、平成3年3月に小学校は統廃合により廃止されました。(「港区」公式HPより)
 注:ここでは、公園の数が「52」ではなくて「55」となっている。

上の赤丸が桜田公園、下の○が「南桜公園」。

案内図。新橋駅から至近距離。

小学校のときの運動場のラインがそのまま残っている。

「港区生涯学習センター」。工事中のため、全面シートに覆われている。
「同」工事前のようす。(「港区」公式HPより)

遊具コーナー。サラリーマン達の憩いのスペースという感じ。グランドは駐車場としても利用されている。
かつての趣とは異なっているようだ。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右手がJR「新橋」駅。校舎の西側部分は取り壊され、東側の一部が「生涯学習センター」として活用されている。



出かけたときは、真冬とは思えないぽかぽか陽気の一日でした。

 そして、今日2月8日(土)。大雪警報が出されました。北国から見ればたわいないような積雪ですが。
お昼過ぎ。
およそ1時間後。
それから1時間後。
それでも車の轍が。
柚の木にヒヨドリが来て実をついばんでいる。


これは、我が家のネコの足跡。さっと飛び出しさっと戻ってきました。

そして5時過ぎ。
独特の色合いに。

 これからまだまだ降るそうです。明日のお出かけはどうしませうか?
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上六尋常小学校。東郷尋常小学校。九段小学校。(震災復興52小公園。その35。)

2014-01-29 23:31:02 | 震災復興小公園
 千代田区内では唯一残っている震災復興校舎。現存する数少ない復興校舎の中でも最古。公園側が正面玄関。



《九段小の沿革》(「九段小」HP参照)

明治36年 東京市上六尋常小学校認可。開校式。
大正12年 関東大震災のため校舎は全焼、重要書類は全部無事
15年 現在の鉄筋コンクリート建築の新校舎竣工し落成式を挙行
昭和 9年 名称を東京市東郷尋常小学校と改称
・・・
  21年 東京都九段国民学校と改称
  22年 東京都千代田区立九段小学校となる
・・・
  50年 校舎北側土手改修
平成 5年 東京都千代田区立千代田九段小学校となる
   6年 東京都千代田区立九段小学校となる
   7年 校章・校歌制定
・・・
  21年 本校校舎、経済産業省「近代化産業遺産」に認定

復興校舎の特徴をよく表している正面玄関の庇。
校庭側の外観。
円柱形の柱、放物線を描いたような丸窓、大きな窓等これまで見てきた復興校舎のスタイル(二つのパターンのうちの一つ)がうかがわれる。
通用門からの外観。外壁は塗装し直してある。
裏門の門柱と庇。
北側の階段(東郷公園からの坂)から見た景観。奥の建物の形状(土筆の塔?)が特徴的。


北側の土地(東郷公園)との高低差はかなりあり、崖になっている。
廊下には、書き初めがずらっと掲示されていた。

校内のようす。(「九段小」HPより)

 現在、施設整備計画が検討されています。基本設計計画が着々と進んでいるようです。

九段小学校・幼稚園施設整備計画

 教育委員会では、校舎・園舎の整備に計画的に取り組んでいます。このたび、竣工後約80年が経過している九段小学校・幼稚園について、施設の老朽化に対する改善と、良好な教育環境の整備の検討に着手しました。施設整備の検討にあたり、地域の皆さんや関係者等の意見を反映させるため、「九段小学校・幼稚園施設整備検討協議会(会長:田中康博氏(三番町町会会長))」を設置し、平成24年7月17日に第1回の会議を開催しました。
 これまで協議会では、施設整備における前提条件の整理について議論、整備手法の検討、校園舎整備にあたっての諸課題について検討を行い、第6回では、平成24年度に協議いただいた内容を踏まえたまとめを行いました。平成25年度初回となる第7回では、プロポーザル方式により決定した基本設計業者の紹介と、今後の検討の進め方について確認を行い、第8回及び第9回では校舎・園舎の敷地レイアウトについて検討を行いました。第10回では校園舎の建築物としての価値とその継承について委員の皆さんが感じる校舎の良さや思い入れを中心にご意見をいただきました。今後も引き続き、協議会委員の皆さんの意見を伺いながら、施設整備を進めていきます。
(「千代田区」HPより)
 
 こうした区の計画・方針に対して、同窓会や建築学会などから現状の校舎を保存すべきだ、全面改築への危惧などの意見具申や運動が起こっているようです。早急な決定を避けて、時間をかけてじっくり議論すべきです。かつての中央区立明石小などのように、行政主導での全面改築になっては取り返しがつきませんから。

 さて、10月から始めた、墨田区、江東区、台東区、中央区、千代田区と探索した「震災復興52小公園」シリーズもいよいよ大詰め。残すは港区内の二つと、落としていた台東区二つ、文京区の一箇所のみ(のはず)となりました。
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