1月26日(日)晴れ。所用ではじめて岐阜県美濃市に出かけました。
新幹線「岐阜羽島」駅まで迎えに来てもらいました。開業当時は周りには何もなかったこの駅もビジネスホテルなどができて、少しは賑やかな感じ。
車で約1時間。高速道路ができ、名古屋に行くのにもけっこう便利になった、とのこと。
美濃市は、日本の中心部または岐阜県の中心部に位置しています。夏の猛暑でも有名。2007年8月16日には最高気温40.0°Cを観測、
2018年には7月18日(40.6°C)、8月3日(40.3°C)、8月6日(40.3°C)、8月8日(41.0°C)の計4回、40°C以上の最高気温を観測した。このうち
8月8日に観測した41.0°Cは、岐阜県下呂市金山(2018年8月6日)、高知県四万十市江川崎(2013年8月12日)と並んで国内観測史上2番目に高い記録で、岐阜県内の観測史上最高気温でもあった。・・・
この地はいろいろ見所があるところのようですが、ちょっと帰りの車で寄っただけでした(それも一か所)。
美濃町線 旧美濃駅
名古屋鉄道美濃町線の前身は、地元有志の方々により誕生した美濃電気軌道株式会社が美濃並びに関と岐阜間の交流を図るため、明治44年(1911)2月に神田町駅から上有知間を開業しました。
大正12年(1923)10月に美濃駅が当所に開設されて以来、地域住民をはじめ多くの方々の重要な交通機関として、地域相互の交流・発展に貢献してまいりました。
しかし、日本経済が急速な発展を遂げるとともに車社会の進展により、平成11年(1999)4月1日には、美濃町線新関駅から美濃駅間が廃線となりました。
ここに残る旧美濃駅は、美濃町駅から美濃駅間の廃線にあたり、先人が築き上げられた功績を称えるとともに、永く歴史にとどめるものであります。
美濃市
より詳しく。
登録有形文化財旧名鉄美濃町線美濃駅本屋・プラットホーム及び線路
指定年月日 平成17年2月9日
旧名鉄美濃駅は、大正12年10月1日に現在地にて開設されたもので、平成11年4月1日の名鉄美濃町線新関-美濃間の廃止により、当時の駅舎、プラットホーム、線路が保存されているものです。
名鉄美濃町線・岐阜市内線の前身である美濃電気軌道株式会社は明治42年資本金50万円、社長才賀藤吉(大阪電気商)、取締役松久永助・正木三郎四・須田清英(美濃町)他4名で設立されました。明治44年2月1日に神田町(岐阜柳ヶ瀬)-上有知間24.9㎞を開業し、開通当初は終点である上有知電車停留所は臨時につくられ、明治44年4月1日現駅舎から300m北側に初代駅舎が建設されました。また、上有知町から美濃町へと町名が改称されたため、駅名も美濃町電車停留所と改称しました。大正12年10月1日国鉄越美南線美濃町駅が開通し、また広岡町通りが開通するのに伴い、美濃電美濃町駅舎は現在の地点に移転して新たな駅舎が建設され、駅名も新美濃町駅と改称されました。
保存されている駅舎・プラットホーム・線路(カーネギー製、1919年)はほぼ当時のままであり、大正期の近代建築の様相をそのまま残しています。美濃橋(重要文化財)とともに、大正期の貴重な近代化遺産です。
(この項、「
」HPより)
地元の方々の保存運動、維持などが熱心に取り組まれているようです。
駅舎内。右の電車は段ボール製。
使用車両のパネルが掲示されています。
改札窓口には何やら写真がいっぱい。
「野口五郎」の出身地だそうで、気がつくと、至る所に若い頃の写真などが所狭しと飾られています。
「西城秀樹」「郷ひろみ」とともに、新御三家の一人として、男性アイドルとして一世を風靡しました。妻はタレントの三井ゆり。子供は一女一男。
芸名は北アルプスにある「野口五郎岳」に由来する。現在では歌手・野口五郎の知名度が高く、山の名前が歌手にちなんで付けられたと誤解している人もいるという。なお、黒部五郎岳にちなんだ「黒部五郎」も芸名の候補となっていた。野口五郎とどちらかを選ぶように言われ「山の名前を芸名にするなら高い山のほうがいい」と考えて、黒部五郎岳 (2840m) よりも高い野口五郎岳 (2924m) にちなんだ野口五郎を選んだという。当初は「水城哲也」という芸名でデビュー予定であった。(この項、「Wikipedia」参照)
ちなみに初代「御三家」は、「橋幸夫」「舟木一夫」「西郷輝彦」だったかな?
すでに齢65歳を過ぎているようです。
ちなみに、我が家の近所に「野口六郎」商店というのがありました。そこは、更地になり、マンション建設中です。
旧ホームにはモ510形512号、モ600形601号、モ590形593号、モ870形876号(前の部分だけ)が保存車輌として展示されています。
路面電車なのが魅力。地元密着の庶民の足という印象。
車内にも入れます。家族連れが運転席に。楽しく操作しています。
この先が旧線路跡で、道路となっています。
また、
「
うだつの上がる町並み」も観光地として有名なようです。
・・・「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のことで、裕福な家しか「うだつ」を造ることができなかったため、庶民の願望から「うだつを上げる・うだつが上がらない」の言葉もできました。
美濃市は、江戸時代の商人の町で、この「うだつ」が多く残っています。
・・・
(「ぎふの旅ガイド」https://www.kankou-gifu.jp/ HPより)
ここは、車から横目で眺めただけでしたが。
岐阜県美濃市は、美濃和紙を基幹として栄えた商人の町です。長良川左岸の小倉山城の築城にあわせて造られた城下町は、二筋の大通りを中核とした「うだつの上がる町並み」として重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、2014年(平成26年)11月には本美濃紙「日本の手漉き和紙技術」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。美濃和紙とうだつが上がるのどかな町並みを歩いてみませんか?
(「
」HPより)
そう、「美濃紙(和紙)」の町としても有名です。
和紙とは・・歴史が産み、育てた紙
・・・
日本での紙の基礎を作ったのは、聖徳太子で朝鮮から製紙の方法が渡ってきました。これが日本における最古の記録ですが、それより100年も前に福井県の今立町では紙漉きが行われていたという説があります。現存する、わが国で漉かれ、年代の明らかな最古の紙は、正倉院に伝わる702年(大宝2年)の美濃、筑前、豊前の戸籍用紙です。
明治時代、インクや印刷機、洋紙が流入し、生活様式の変化もあり、和紙は洋紙に実用品としての地位を徐々に奪われた形になりました。現在では、生産量は伝統工芸品として漉かれることがほとんどです。
現在、優美な和紙は美術の分野などではもちろん、耐久性、強靱(きょうじん)性を生かし文化財の修復に使用されるほか、天然素材の地球環境に優しい製品として、日本国内のみならず、世界中から和紙への注目が高まっています。江戸時代以降に海外から入って来た、木材パルプを原料とした機械生産による紙を、和紙と区別して言います。ここでは、和紙と用紙との違いを、歴史背景も絡めて紹介します。
「洋紙は100年、和紙は1000年」という言葉があります。文字通り、和紙と洋紙では紙の耐久性に大きな違いがあります。
木材パルプとインクを使用した洋紙は、多くの薬品を使いほとんどが酸性であるため、100年も経つと黄ばんでボロボロになってしまいます。
しかし、和紙は天然の植物繊維を、漉くことによって繊維を絡ませることができるため、強靭で保存性に富んでいます。日本で漉かれた紙で最も古いものは、正倉院に保管されている、大宝2年(702年)の日付のある美濃、筑前、豊前で作られた戸籍に使われたもので、洋紙は、19世紀中ごろに作られた本の3分の1が、今では補修もできないほど劣化してしまっていたといいます。
見た目の美しさも、大きな違いです。洋紙では白くするために薬品などを使います。和紙の中にも化学薬品を使っていて、時間がたつと黄ばむものがありますが、そうでない和紙は逆に時間とともに光線にあたって白くなる性質があります。和紙は長く大事に使うことによって、時間とともに味わいとすっと手になじむ触感が感じられます。手漉きのため一枚一枚いちまい違った持ち味の和紙は、天然素材で地球に優しく、美しい和紙は、世界からも注目されています。
加工しやすく、強靭であるという点でも違います。洋紙は、低コストで大量生産するために、木材の繊維をすり潰して粉末のようにして使います。
しかし、和紙は繊維をすり潰さず、漉すことでそのまま生かすため、繊維が持つ本来の強靭さを失わず、加工性に富んだものができます。
和紙は加工用として、雨傘・提灯・行灯・下駄の泥よけ・着物・食器など、私たちの生活と密着な関係にありました。現代では、国内だけでなく世界中で、美術品や文化遺産の補修など、さまざまな用途で和紙が使われています。
「美濃和紙」1300年の歴史
美濃和紙の紀元は、およそ1300年前、天平9年(737年)ころ。奈良時代の「正倉院文書」の戸籍用紙が美濃和紙であったことが記されています。
和紙の生産に必要なものは、原料である楮、三椏、雁皮がとれること。そして良質の冷たい水が豊富にあることです。美濃は、その二つの条件を満たしており、しかも都にも近かったため、和紙生産地として栄えました。・・・
民間でも広く美濃和紙が使われるようになったのは、室町・戦国時代の文明年間(1468~1487年)以後でした。
美濃の守護職土岐氏は製紙を保護奨励し、紙市場を大矢田に開きました。紙市場は月に六回開かれたので、“六斉市”と呼ばれ賑わいました。この紙市によって、近江の枝村商人の手で、京都、大阪、伊勢方面へも運ばれ、美濃の和紙は広く国内に知られることとなります。
大矢田の紙市は、天文9年(1540年)年には上有知(美濃町)に移ってきました。当時戦乱が続いており、上有知(美濃町)より長良川を利用すれば一夜にして交易港である桑名の港に到着できるうえ、運送は便利で危険が少なく安全であったからです。
そして、慶長5年(1600年)、徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川畔に小倉山城を築城しました。慶長11年(1606年)ごろには、現在も残る町割が完成します。さらに、現在川湊灯台として知られる「上有知湊」を開きます。上有知湊は、船運による物資集散の拠点として、また、和紙を中心とした経済活動の拠点と成長していきます。
こうして、江戸時代には藩の保護や一般需要の増加もあり、美濃和紙は幕府・尾張藩御用紙となっていきました。
明治維新以後も、国内の需要の高まりや海外市場の進出などもあり、美濃は紙と原料の集積地として栄えました。
しかし、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資不足、人材不足などが生産に大きく影響し、陰りを落とすようになっていきました。
・戦後には石油化学製品の進出が続きます。美濃では日用品を主とした素材を中心に生産していたため、これらの打撃はとても大きいものでした。 昭和30年には1200戸あった生産者が、昭和60年には40戸に減ってしまいました。
・・・
「美濃和紙」は機械で漉く和紙を含め、美濃で作られた和紙全般のことを指します。美濃和紙の中でも、重要無形文化財指定の決まった材料、決まった道具を使って認められた一部の職人が漉いた和紙のみ「本美濃紙」と呼ぶことが出来ます。上品な色合いと、薄くても布のように丈夫で陽の光に透かしたときの優雅な美しさから、本美濃紙は江戸時代以来最高級の障子紙として高く評価されてきました。
長い歴史の中で伝統の技を受け継ぎ、本美濃紙は昭和44年に国の重要文化財に指定されました。平成26年には、ユネスコ無形文化遺産(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)に日本の手漉き和紙和紙技術(石州半紙・本美濃紙・細川紙)が登録され、世界的に評価されました。
和紙の原料
楮(こうぞ) クワ科
現在の主な産地は高知県、茨城県。かつては岐阜県美濃でたくさん取れました。繊維が太く長いため、強い紙が作れます。奉書紙、水墨画用紙、書道用紙などから、和紙人形、工芸品の紙にいたるまで幅広く使われます。
三椏(みつまた) ジンチョウゲ科
主な産地は四国・中国地方の山地。繊維が短くやや強さをかきますが、表面が滑らかで光沢のある紙ができます。襖(ふすま)紙、印刷用紙などに用いられます。
雁皮(がんぴ) ジンチョウゲ科
栽培が難しいため山野に自生しているものを使います。細かい繊維で、薄くて強い光沢のある紙ができます。また虫害に強いので保存が必要な紙などに使われます。
トロロアオイ アオイ科
紙漉きに欠かせないネリ(粘液)として、トロロアオイの根が使われます。くだいた根を水につけると、ドロドロの透明の粘液がとれます。粘液を入れることで、原料が漉槽全体に浮遊するので、漉簀(すきす)の上に汲んだ原料をうまくからませることができます。これにより薄くても強い紙が作れるわけです。・・・
(この項、「
」HPより)
「美濃和紙あかりアート展」(「© 美濃和紙あかりアート展実行委員会」HPより)
帰りに、「関」という地名を目にしました。運転してくれた方に、「この関というのは《関の孫六》で有名な日本刀の・・・」「その通りです。」
鎌倉時代の昔から孫六の息吹が現代によみがえる、日本刀鍛錬。まさに秘伝の妙技。
関市に刀鍛冶が誕生したのは鎌倉時代。刀祖「元重」がこの関の地に移り住み、刀鍛冶を始めたといわれています。良質の焼刃土と炉に使う松炭、そして長良川と津保川の良質な水・・・刀鍛冶にとって理想的な風土条件を備えたこの土地にいつしか多くの刀匠が集まりました。室町時代には刀匠が300人を超え、「折れず、曲がらず、よく切れる」といわれた関の刀は、その名を全国に広めていきました。戦国時代には、武将の間で愛用され、無類の切れ味を発揮したといわれています。
特に「関伝」を有名にしたのは、「
関の孫六」で知られる「二代目兼元」です。兼元(孫六)は、独特の鍛刀法(四方詰め)により頑丈な刀を作ることに成功しました。その後、関市は日本一の名刀の産地として繁栄し、この卓越した伝統技能が現代の刀匠や刃物産業に受け継がれています。そして、今や世界でも有数の刃物の産地として知られています。
(この項、「
」HPより)
「美濃焼」にも触れたいところですが、字数に関係で残念ながら省略。・・・
岐阜の「高山」にはかつて何回か出かけたことがありましたが、岐阜県は印象の薄い県でした。「美濃」は初めて。まだまだ見所がありそうな、岐阜も奥行きの深いところのようです。
今、NHKの大河ドラマ「
麒麟が来る」でご当地は盛り上がっているようです。「美濃国」といえば、斎藤道三。それに仕えたとされるのが明智光秀が、主人公。一時期、女優交代劇で、話題になりましたが・・・。
次回(2月2日)は「美濃」が舞台のようです。
また、機会があったら、じっくりと歩いてみたい、と。案内してくれた方に感謝、感謝。
冬の最中、穏やかな日差しのもとでの一日でした。暑い夏はちょっと遠慮したいですが。