おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

九十九里鐵道廃線跡。その6。「真亀川」。用水路となっている廃線跡。「堀上(ほりあげ)」駅。「国道126号」。九十九里鐵道の東金駅跡。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-22 18:37:19 | 鉄道遺跡

真亀川の土手から廃線跡(片貝駅方向)を望む。

向こう岸(東金駅方向)に行くため、県道の橋を渡ります。

あぜ道から橋台跡を望む。

田植えの準備が進む。 

「真亀川」下流方向。

                 新しい橋を建設中。 

土手の部分も工事中なので、県道から回り込んで、廃線跡の水路の出会いまで歩きます。

            県道沿いの「ラーメン自動販売機」。最近はやっているようです。

水路になっている廃線跡。「真亀川」方向。

東金市浄化センターの用水路として転用したようです。幅は思ったよりも広い。

「東金駅」方向。

水路脇の道を歩きます。

                           南側に広がる田畑。

しだいに住宅地に入っていきます。

    ボケの花。

「堀上(ほりあげ)」駅は、どの付近にあったのか? 

      

        ↓が「堀上駅」(があったところ)。(「今昔マップ」より)

この先、広い「国道126号」を越え、JR東金駅まで廃線跡は続きます。

            正面の道路ではなく、右手の住宅・空地が廃線跡のようですが。

国道126号線。けっこう交通量の多い幹線道路。

国道を渡って東金駅方向へ向かいます。

右奥の方に廃線跡が続きます。

東金市の市章・桜。(「市役所」前)

JR東金」駅前東口広場。

駐輪場になっている付近に九十九里鐵道の東金駅がありました。

「九十九里鐵道」線は、しばらくJR線に沿って進み、廃線跡にある「山武健康福祉センター」から東に向きを変え、「片貝駅」方向に進んでいきます。

JRホームから廃線跡を望む。

天気は大変良かったのですが、風がものすごく強く、歩くのも大変、田んぼに転げ落ちてしまうか、と。足もとも悪く、・・・。それでも何とか片貝海岸から東金駅までたどり着きました。

路線そのものの距離は8.6㌔ですが、海岸まで歩いたり、回り道をしたので、10㌔くらいの歩きでした。

九十九里町側の遊歩道(軌道道)、路線跡の草道、田植えの準備が始まった水田、住宅地の生活道路、用水路脇の細道、大きな犬に吠えられたり、地元の方と話をしたり、・・・そして、唯一の遺跡・橋台の発見など、けっこう変化のある廃線跡探索でした。

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九十九里鐵道廃線跡。その5。草の生い茂る線路跡・生活道路・田んぼの中の路盤。「家徳」駅。唯一の遺構・橋台跡。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-21 21:32:44 | 鉄道遺跡

通りを越えて、廃線跡を進みます。

しばらく進むと、砂利道に。この先は、土手(路盤)に戻る。

脇道から廃線跡を望む。

振り返る。

          立て看板は、「関東天然瓦斯」の看板だった?

舗装された、生活道路に。

振り返る。微妙なカーブが線路を彷彿とさせる。

都内では見かけない消火栓。

少し広くなったところ。菜の花が満開に。

この付近に「家徳」駅があったようです。

             右の↓が「家徳」駅、左が「堀上」駅。(「今昔マップ」より)

両側に家並みが続きます。

この先、廃線跡は田んぼの中の道に。

右が線路跡(路盤)。

歩いている道は線路跡ではありません。線路跡にはけっこう草が生い茂り、歩くのを躊躇。

唯一の遺構・橋台跡を発見。

片貝駅方面を望む。

東金駅方面を望む。

↓が橋台跡。

「真亀川」に突き当たります。

廃線跡は、この先、水路となって東金駅方向へ進みます。

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九十九里鐵道廃線跡。その4。県道脇を通る。田植えの準備・水田。線路のデザイン。荒生(あらおい)駅跡? 九十九里町から東金市へ。遊歩道から堤上の細道を。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-19 21:26:03 | 鉄道遺跡

「西」駅から次の駅跡へ。

                       廃線跡としてけっこう広く残っています。                            

県道に接近する廃線跡。

振り返る。

田植えの準備が始まっています。

廃線跡の部分?

黄金色の葦(?)の波。

振り返る。

足元には線路のデザイン。

            右手は住宅。左は田畑。            

            

右手に大きな公園。

          九十九里町と東金市の境。バス停。駅の跡ではなさそうです。

ここまでが遊歩道(九十九里町)。振り返る。

この先は廃線跡の堤になります。県道の方に迂回して進みます。

「九十九里町」ともお別れ。東金市入り。

踏み跡があります。

                 遠くに車が駐車中。

    刈られた土手を歩く。

真夏時の草がいっぱいのときには、歩きにくそう。

             右手は工場。

左手には水田が広がる。

あぜ道に咲く紫の花。

新しい広い道を通過。

荒生(あらおい)駅跡?

廃線脇の草。これは?

         

この先で廃線跡は藪の中に隠れてしまいます。

来た道を振り返る。

再び廃線跡が右手に現れます。

用水路を挟んだ脇の道を歩くことにします。

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九十九里鐵道廃線跡。その3。関東天然瓦斯。「←2.5㎞ 甘藷栽培発祥地」・青木昆陽。「西」駅。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-18 20:41:25 | 鉄道遺跡

随所にベンチなどが設置されています。

「関東天然瓦斯」。

南関東ガス田のうち千葉県茂原市を中心とした一帯の鉱区の採掘権を所有し、水溶性天然ガスの採取・販売及びヨウ素の製造・販売を営んでいる。可採埋蔵量973億立方メートルと推定される合計714平方キロメートルの鉱区で、天然ガス採掘権を有する。ただし、天然ガスの生産は地盤沈下をもたらすため、千葉県との協定に基づいて制限している。可採埋蔵量は、現在の生産量の600年分にあたるという

※房総東往還歩きのとき、茂原付近で「大多喜ガス」の大きなガスタンクを見ましたが、廃線後の九十九里鐵道の敷地もこの会社の所有地になっているのでしょうか。

農家の間の道を抜けて行きます。

左方向。

      右方向。

この広い土地には、駅舎でもあったのでしょうか?

      

左手に田んぼが広がります。

右手にはバスが通る県道が。

大きな敷地。                        

振り返る。

通りを越えるとモニュメント。

「←2.5㎞ 甘藷栽培発祥地」。

江戸時代、飢饉による餓死者を救うために、青木昆陽(1698~1764)はこの地で甘藷(サツマイモ)の試作を行いました。現在その試作地に「関東地方甘藷栽培発祥の地」の石碑が建てられています。

サツマイモの普及に努め、栽培奨励を幕府の政策に乗せたのが甘藷(かんしょ)先生として有名な青木昆陽(1698から1769)である。昆陽の墓が、目黒不動瀧泉寺の裏手にあるのをご存じだろうか。樹木に囲まれ、ひっそりとたたずむこの墓は、国の指定文化財(史跡)となっている。

青木昆陽は、江戸日本橋に生まれ、幼い頃からの学問好きであった。享保4年(1719年)に京に上り、儒者伊藤東涯に学んだ。昆陽が甘藷のことを知ったのは、この頃だったといわれている。その後、江戸に帰った昆陽は私塾を開いていたが、町奉行大岡忠相に推挙され、以降、幕府に仕えた。

享保17年(1732年)に「天下飢饉、疫癘(えきれい)行る」と「武江年表」享保17年の項に書かれ、多くの死者を出した大飢饉が起った。昆陽は、甘藷(かんしょ)が地味の肥えていない土地でも十分に生育することに目をつけ「蕃薯(ばんしょ)考」を著し幕府に上書した。これが将軍吉宗にとりあげられ、甘藷(かんしょ)の試作を命じられた。昆陽は早速種芋を取寄せ、小石川御薬園(現:文京区白山東京大学附属小石川植物園)で試作を始めた。1度は失敗したものの、2度目に良好な結果を得ることに成功した。ここで採れた芋は種芋として各地に配られ、甘藷(かんしょ)栽培が定着するもととなった。この功績から昆陽は甘藷(かんしょ)先生と称されるようになったのである。

その後、昆陽は、蘭学研究に打ち込み数々の名書を著し、有数の蘭学者となった。

(この項、「」HPより)

ここが「西」駅跡のようです。

上下線の行き違う駅だったのでしょうか?

                          (「今昔マップ」より)

まだまだ探索が続きます。

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九十九里鐵道廃線跡。その2。遊歩道・「軌道道(きどうみち)」。九十九里町天然ガス。運行当時のようす。「学校前」駅(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-17 19:44:28 | 鉄道遺跡

東金駅まで向かって出発です。

右の道路は廃線跡ではありません。左の住宅が廃線跡に建てられたもの。敷地が四角でなく、細長い三角形になっています。

            左手が軌道跡。

→が線路跡。上が「片貝駅」。

通りを越えると、廃線跡は右にカーブします。

この先で、遊歩道になります。

自転車道と歩道と分離。遠くに大きなガスタンク。

「九十九里町」とある。

千葉県は、南関東ガス田の中心地で天然ガスが採取される地域。九十九里町では、地元の天然ガスを原料とした都市ガスを供給しています。

交差する道路の足もとには、

                       九十九里町の町章とガスバルブ。

用水路を越えます。

現役の頃からあったのでしょうか? 

振り返る。

周囲には田んぼが広がります。

「きどうみち」。

営業当時のようすはどうだったのでしょう? 

九十九里鐵道線は、千葉県東金市の東金駅と山武郡九十九里町の上総片貝駅を結ぶ8.6㎞の路線で、1961年に廃線となりました。1926年の開業後、成東(なるとう)町(現・山武市)や千葉市への延伸は実現しませんでした。九十九里鉄道では、小さな車体の単端式ガソリンカーが使われていました。客車の前面にフォード社製のエンジンを取り付け、バックができない構造のため、終点で向きを変える必要がありました。廃線間際には、鉄道と並行する未舗装の道路に自社の定期バスも運行し、列車と交互に運行しました。乗客が上総片貝駅で尋ねると、駅員が「列車が速いかバスが速いか」を、案内してくれたといいます。

映像は、1961年放送「NHKニュース」より。(「NHKアーカイブス」HPより拝借)

       

               前面にエンジン。

           女性の乗務員。

出発する列車。

畑仕事をしている方に、「これから東金まで歩いて行くんですが」「そうですか。昔はここに汽車が走っていましてね」と畑仕事の手を休めて、懐かしそうに話してくれました。

※設置されていた駅

「東金(とうがね)」 -「 堀上(ほりあげ)」 -「 家徳(かとく)」 - 「荒生(あらおい)」 -「 西(にし)」 -「学校前(がっこうまえ)」 -「 上総片貝(かずさかたかい)」

         右手に「九十九里町立片貝小学校」。

  左手には「九十九里病院」。この付近は、少し広くなっていて、「学校前」駅があったようです。

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九十九里鐵道廃線跡。その1。片貝海岸・九十九里モニュメント。「上総片貝駅」跡。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-16 18:25:46 | 鉄道遺跡

かつて、JR東金線「東金駅」から九十九里浜の「上総片貝駅」まで「九十九里鐵道」線がありました。

※「九十九里鐵道」

現在はバス専業であるが、社名に「鐵道」が付くのは、1926年(大正15年)から1961年(昭和36年)までの間、東金駅から九十九里町の上総片貝駅までを結んでいた鉄道路線(1931年まで軌道)を有していた名残である。鉄道路線は千葉市や山武郡成東町(現・山武市)への延長も計画されていたが実現せず、1961年3月1日に廃止された。その後も社名に「鐵道」の名を残し、バス停名には片貝に「駅」が冠されるなど、鉄道の名残が見られる。(「Wikipedia」より)

九十九里鐵道線は、千葉県東金(とうがね)市の東金駅と山武(さんぶ)郡九十九里町の上総片貝(かずさかたかい)駅を結ぶ8.6㎞の路線で、1961年に廃線となりました。 

廃線跡は、九十九里町側は「遊歩道(軌道道(きどうみち)」や一般道路として、また、東金市側は水路やかつての雰囲気のまま残されているようです。

さっそく廃線跡を歩いてみました。

「東金駅」からバスで終点の手前「片貝」まで行き、そこから「東金駅」まで廃線跡を戻りました。

※線路(廃線跡)とほぼ並行し、県道が「片貝」まで続いています。

           九十九里浜・片貝海岸(北方向)。

まず片貝海岸まで出て、九十九里の海(太平洋)を望んでから、と。

(南方向)。

九十九里海岸のモニュメントが砂浜に。

            風が強く、人っ子一人いません。

                 

             「TOKYO ← KUJUKURI → HAWAI」。

陸地側。

しばらく眺めて出発! 

「九十九里有料道路」入口。

大きなおうち。

             

来た道を戻って右折すると、

旧「上総片貝」駅。

現在はバスのターミナルになっています。バスの社名には、「・・・鐵道」が付されています。

       

↑が駅の位置、赤線が「軌道道」。                     (「今昔マップ」より)

バス停「片貝駅」。

減便のお知らせ。

平素より、九十九里鉄道をご利用頂き誠にありがとうございます。

この度、限りある乗務員数での運行の維持、経費及び収支的にも大変厳しく、現状を維持する事が大変困難でいます。又、乗務員不足・2024年乗務員改善基準変更等の対応によるダイヤ改正、減便を行います。

1/22(月)より片貝~千葉の片貝ライナーを減便

3/18(月)より一般路線を減便

何卒ご理解ご協力の程よろしくお願いします。

※この路線会社も人手不足などで厳しい経営状態なのでしょうか?

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二つの引き込み線跡をたどる。その4。新茂原貨物駅跡。構内のさび付いた線路・朽ちた建物・信号機・・・。道路に残る線路。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

2024-01-04 19:41:26 | 鉄道遺跡

引き込み線は外房線本線から左へカーブし、「阿久川」左岸沿いに進んでいました。

     

航空写真での「新茂原貨物駅跡。」全景(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

                                                                          現在の様子。建物が残っています。

かつての正門か? 

外房線踏切近くに道路上の線路跡。

                    

外房線・本納駅方向。右に貨物駅・駅舎跡。

草むらから覗くと、

          プラットホーム上部。地面は、コンクリートで覆われています。

現在は、資材置き場。

周囲は田園地帯。

        

北側から望む。

すっかりさび付いた線路。

              

構内信号機。  

     

北側の踏切に行ってみます。

本線からの引き込み線。

本納駅方向。

   

         貨物駅へ。

道路上の線路。

今回は、ここまで。「本納駅」まで歩きます。

※「伊南房州通往還(房州東往還)」で歩いた道を戻ることに。

本納駅。

こうして「三井化学」に関連する二つの廃線跡を探りました。

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二つの引き込み線跡をたどる。その3。バラスト(砂利)。関東天然瓦斯。標識。外房線との分岐点。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

2024-01-03 16:25:54 | 鉄道遺跡

バラストが残されている線路跡。

              

線路跡に残る標識(↓)。鉄道標識のようですが、詳細不明。

旧敷地内にある標識。

       「管理者 関東天然瓦斯株式会社」。旧線路の地中には、天然ガスのパイプが敷設されているようです。

新茂原貨物駅方向。

            右手の鉄柵は、鉄道由来のもの。           

旧貨物線・線路跡。

              

振り返る。左が線路跡の草むら。

                               

この付近では、線路跡が明確。(「三井化学」方向。)

外房線方向を望む。

             

「三井化学工場」方向を望む。線路跡はこの先埋もれてしまいます。

外房線方向。

外房線との分岐点。

           

            線路跡。カーブしているようすが分かります。

跨線橋下。

遠くに新茂原貨物駅(跡)が見えます。

(↓)。

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二つの引き込み線跡をたどる。その2。三井化学工場構内に入る貨物線跡。阿久川沿い。草むらの中にバラスト(砂利)。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

2023-12-31 20:10:08 | 鉄道遺跡

阿久川」の左岸の遊歩道を歩きます。右は、「沢井製薬 関東工場」。

「沢井製薬」と「三井化学」の間にある道路はかつての三井化学への貨物線跡のようです。

右が「三井化学」、左が「沢井製薬」。

この道をたどってみます。

沢井製薬。

しばらく直線の道。

広い道にぶつかります。

この付近で貨物線は、工場構内に入って行ったようです。

阿久川沿いに戻り、北西にあった「新茂原貨物駅」跡に向かいます。

ここでおさらい。(「」HPより拝借)

三井化学茂原工場敷地までの間に、3系統のルートで旧国鉄と連絡した貨物の専用線が敷設されていた。 1941年(昭和16年)に旧海軍茂原航空基地への引込線としての敷設が最初で、専用線の南方ルートは茂原駅の南側で房総東線から上り方向に東へ分岐北上し旧海軍茂原航空基地に接続していた。

1957年(昭和32年)旧海軍茂原航空基地跡が東洋高圧工業茂原工場になり旧国鉄との専用線が西方ルートの現在の外房線経塚高架橋の先、上り方向東へ分岐する専用線が新しく設けられた。(※茂原駅東口から歩いた遊歩道がこれに当たる.

1968年(昭和48年)10月に東洋高圧工業は合併により三井東圧化学となった。房総東線(現在の外房線)の貨物列車は土気-大網間は勾配がきつく急勾配の土気-大網間を避けるために貨物列車が、大網-成東-佐倉と東金線、総武本線へと迂回していた。

1972年(昭和47)の大網駅のスイッチバック解消以後も短絡線が残され貨物の多くは三井東圧の専用線を発着していた。1972年に房総東線が電化され外房線となり、茂原市内の外房線の高架化の計画により、茂原駅の客貨分離が決定された。

1986年(昭和61年)に本納~新茂原間に新茂原貨物駅が開設され、同時に三井東圧専用線の旧国鉄との接続は北方ルートとなる。新茂原貨物駅の発着線南端から外房線に並行して南下した後、1つ目の陸橋をくぐるあたりで東にカーブし、阿久川の東岸沿いに三井東圧化学へと至る専用線が新しく敷設された。(※これが今回のコース。

三井東圧化学は1997年(平成9年)10月1日三井石油化学と合併し三井化学となる。

1996年3月16日貨物列車の設定及び専用線発着コンテナ貨物・専用線発着車扱貨物の取扱を廃止。同時に三井東圧化学専用線が廃止。1997年(平成9年)3月 新茂原駅での貨物取扱廃止に伴い、大網駅短絡線を廃止した。

右手の草むらがかつての貨物線跡。右は沢井製薬。

直線の草むらが続く。

振り返る。

右手のさびた鉄柵がかつての線路エリアであったことを偲ばせる。

         

阿久川の対岸。

            左右には、のどかな田園風景が広がる。

ちょっと足を踏み入れてみましたが、歩けるような状態ではありません。

バラスト(砂利)が残されているようなところも。

※線路の砂利は、バラスト(ballast)と呼ばれるもの。 線路や道路に敷く小石や砂のことで、略してバラスとも言います。 これには、レール・まくらぎへの荷重を受けるクッションの役割があります。 列車の走行を安定させると同時に、砂利と砂利との隙間が音を吸収し、線路周辺の建物などに伝わる振動を軽減させます。

東海道新幹線やJR在来線、中部地方の私鉄などにバラストを供給している会社に聞いた。まず、岩盤にダイナマイトを仕掛けて、大きな塊の岩を取り出す。ダイナマイトといっても「ドッカーン!」と爆発させるわけではなく、「ポン!」という感じで、岩盤にひび割れを作る程度だという。切り出した岩をショベルですくい上げてダンプカーに乗せ、山の麓の砕石プラントへ運ぶ。

プラントで機械を使って岩を砕いていく。ただし、初めからバラスト用に砕くというわけではない。砕いていくうちに、さまざまな形の砕石ができる。その中から鉄道用に適したバラストを選別して貯めておき、鉄道事業者の要請を受けて必要な量を納入する。ざっくりと説明すると、このような流れになっているそうだ。

鉄道用に適したバラストは拳骨のような形をしており、細長い石や扁平な石は不可。大きさは60mm~20mmで、適度な硬さが必要。石の種類としては安山岩や玄武岩などの火山岩で、火山帯が広く分布する日本ではどこの山にでもある石といえる。ただし、組成によって密度が違うため、上質な岩盤を見極める必要がある。

(この項、「マイナビニュース・鉄道トリビア」より) 

今年はここまで。

昨年末からの都県境歩きに続き、炎天下の関東ローカル鉄道の旅、そして「伊南房州通往還(房総東往還)」の御宿まで、と。そんな1年でした。

皆さん、良いお年を。(「北十間川・福神橋」より)

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二つの引き込み線跡をたどる。その1。茂原駅から三井化学工場へ。高架線脇の遊歩道。大きく右へ。合流地点か? 「萩原交通公園」。「房総東往還」と交差。(「房総東往還」を歩く。番外編。)

2023-12-30 19:58:50 | 鉄道遺跡

「房総東往還」を歩くために、外房線を何度も利用していますが、「本納駅」と「新茂原駅」の間に気になる建物が。

また、「房総東往還」の時に、貨物線跡が遊歩道になっていることを知りました。

そこで、今回、「茂原駅」から「本納駅」まで歩き、この二ヶ所を確認しました。

12月28日。曇り。北風寒し。

茂原駅。

高架線の下が遊歩道になっています。

この道が「三井化学」工場からの貨物線跡。

    振り返る。

 ↓が「三井東圧」からの貨物線。その後、整備されて遊歩道に。(「今昔マップ」より)

※○が本線との合流地点と思われます。

「房総東往還」道を渡ります。

                    正面の道が「農総東往還」。

「高師」交差点。

大きく右にカーブします。

右奥に「県立長生高校」。

             「房総東往還」は、長生高校の東を通ります。

「信号」と刻まれた標石。

茂原駅からの高架線が下がってきます。

              「萩の台踏切」(茂原駅方向を望む)。

この付近から遊歩道は右にカーブします。この付近が引き込み線(貨物線)と本線の合流地点?

         

               左手には大きなマンション。

来た道を振り返る。

本線との間にある小公園。

          空き地。

「萩原交通公園」。

この遊歩道は、昔の貨物列車の旧引き込み線路を利用したもので、茂原駅の高架下から上林地区の阿久川まで続いています。木陰の続く散歩道で、ジョギングコースとして親しまれているほか、市民や学生などの通勤、通学路として日々利用されています。萩原公園は、交通公園とも呼ばれ、体験型公園として自転車の練習や一般道路の交通を安全に疑似体験でき、本物の機関車が展示されるなど小さな子ども達が安心して遊べる公園として夏休みなどは多くの方に利用され、また、緑豊かな住民の憩いの場としても親しまれています。  

※案内図の→が、「房総東往還」。  

この先を歩きます。

「房総東往還」道と交差します。茂原駅方向。

                    新茂原駅方向。

阿久川に出ます。

             対岸には「三井東圧・現三井化学」。かつての「茂原海軍航空基地」の跡地。

この付近の今昔。

 ○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。             (「今昔マップ」より)

※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。

「千葉県立茂原樟陽高等学校」の敷地もかつての基地内。

※海軍基地当時の引き込み線は基地から茂原駅近くまで直線で存在していました。今回の引き込み線は三井時代のもの。

阿久川。

引き込み線は工場内に向かい、廃線跡としてたどれるのは、ここまでのようです。

左が三井化学。

「関東天然ガス」の標識。

続いて、阿久川沿いに進み、もう一つの廃線跡を探ります。

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秩父鉄道西羽生駅~JR熊谷駅。その7。東武鉄道熊谷線・妻沼駅跡。(「利根川を歩く」3回目。)

2021-10-24 20:57:21 | 鉄道遺跡

東武鉄道熊谷線未成線の跡をたどって、旧妻沼駅跡まで。

第二期工事区間である新小泉駅 - 妻沼駅間開通前に終戦を迎え、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成した段階で工事は終了しました。そのため、利根川を挟んで南北に分断された形で営業を行うことになり、その南側が熊谷線です。

なお、橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されましたが、利根川左岸堤防内(群馬県側)に1脚のみ残っています。

右岸(妻沼側)から対岸を望んだ写真が上の写真。中央付近に橋脚が残っているそうです(「いずみ総合公園町民野球場」そば)。

(「Wikipedia」より)

この道(未成線跡)を進んでいくと、熊谷線の終点「妻沼」駅跡に出ます。

  一直線の道路。

「熊谷線」は、熊谷駅から妻沼駅までを結んでいた東武鉄道の鉄道路線。地元では妻沼線(めぬません)とも呼ばれていた

もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期に、群馬県太田市中島飛行機(現・SUBARU)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅 - 東武小泉線西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として1943年昭和18年)12月5日に熊谷駅 - 妻沼駅間が開業した。

熊谷市石原付近(上熊谷駅 - 石原駅中間地点のやや石原駅寄り、かつての熊谷線と秩父鉄道の分岐点)で秩父鉄道をオーバークロスして秩父鉄道の南側に平行して建設、熊谷駅南側に熊谷線のホームを設置する予定であったが、そのための盛土を構築する時間はないため秩父鉄道の複線化用地と熊谷駅ホームを借用し、熊谷駅 - 上熊谷駅 - 熊谷市石原付近を仮線として開通した。軍事路線であったため、ほぼ一直線に邑楽郡大泉町を目指すルートとなっている。住民の生活路線として建設されたものではなかったので、沿線の集落、交通を考慮したルートではなかった。

しかし、第二期工事区間である新小泉駅 - 妻沼駅間開通前に終戦を迎え、戦後、治水上の都合から工事の中断は直にはできず、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成するまで行い終了した。そのため、利根川を挟んで南北に分断された形で営業を行うことになった。その南側が熊谷線である。なお、橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されたが、堤内の1脚のみが群馬県側に残っている。

東小泉駅 - 熊谷市石原付近まで複線化用地があったが、急を要するため一部の路盤は単線分しかなく、残った用地での耕作は事実上黙認され、熊谷市妻沼町の台帳に登録されていない幻の耕地ということになり、戦後の食糧難時にそこで収穫された物はヤミ食料として出回ったといわれ、熊谷線はヤミ食料の買い出しで大変混雑した。今でも水田の中にある杭までが東武鉄道の所有地である。

開通以来赤字続きだったこともあり、1983年(昭和58年)5月31日の運行限りで廃線となった。

開通当初は、館林機関区所属の蒸気機関車B2型27・28号機牽引で運転されていた。熊谷駅 - 妻沼駅間は工員輸送しか行われず、資材輸送は行われなかった。日夜を違わずピストン輸送が行われ、妻沼駅から工場までの連絡は東武バスによって刀水橋を経由して行った。妻沼駅に着いた列車からバスへの乗り換えがうまくいかないと憲兵が飛んできたそうである。また熊谷線は米軍機による被害はいっさい出さなかったが、乗務員は乗客を守るために米軍機を見つけると木立の陰に列車を停車させ隠すなどしていた

終戦後は工員輸送も終わり、利用者の比較的少ない熊谷線は本線よりも低質な石炭をまわされたため、高崎線とのオーバークロスで蒸気機関車の蒸気圧が上がらないために勾配を登るのが大変で低速運転となり「埼玉県立熊谷商業高等学校の生徒たちはあまりに遅いので列車を飛び降り、土手を下って学校に行ってしまった」という話も聞かれた。後にはやや改善したものの、その鈍足ぶり(熊谷 - 妻沼間10.1キロを24分)から、沿線乗客には揶揄混じりの「のろま線のカメ」「カメ」と呼ばれていた。

1954年(昭和29年)に旅客列車の無煙化を図り、3両導入した東急車輌製の気動車キハ2000形は17分で走破し、またその姿から「特急カメ号」という呼び名で親しまれた。しかしその後「特急」の部分が取れてしまい、「カメ号」に戻った。

(この項、「Wikipedia」参照)

ところで、「荒川を遡る」シリーズで番外編として「熊谷」駅からの廃線跡(「かめの道」)をJR線のところまで歩きました。そこで、「熊谷線」の終点のところへ行ってみることにしたわけです。

桜並木脇の四阿。

途中、左手にある「熊谷市立妻沼展示館」に保存されている「キハ2002」。

 

「ドラッグストア」のところが旧妻沼駅待合室跡? または車庫?

 

杉戸機関区妻沼派出所の跡は現在空き地となっています。

現在の朝日バス熊谷駅 - 妻沼線の「ニュータウン入口」停留所付近のようす。

廃止後駅舎はしばらくの間廃止代替の急行バスの待合室として利用されていましたが、道路拡張の際に撤去されました。

熊谷駅方向に一直線で進む線路跡の道路。

                     右手の福祉施設がかつての駅舎跡?

熊谷線の出発駅付近に残る熊谷線跡の緑道「かめの道」だけでなく、終点の妻沼駅跡を探ることができました。

                     

1970年代のようす。中央下部が妻沼駅舎、画像中央上部が杉戸機関区妻沼派出所。

すでに廃線になって、使用されていないようです。

                     

2010年代のようす。まだ未整理のままの空き地となっています。現在は上方に「ドラッグストア」。下方に福祉施設。

「朝日バス」の路線バスでJR熊谷駅まで戻ります。

JR熊谷駅付近の熊谷線跡。

西を望む。左は新幹線の高架。

新幹線、秩父鉄道、熊谷線(跡)、JR高崎線(上野東京ライン・湘南新宿ライン)と並んでいます。

この先で高崎線は右に曲がっていきます。秩父鉄道と併行して熊谷線(跡)が進みます。

 

線路はそのまま残っています(右手奥)。

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西武観光バス「川又」~荒川起点(往復)。その3。森林軌道(入川軌道)跡。(「荒川を遡る」第12日目。)

2021-10-01 18:50:06 | 鉄道遺跡

ピカピカのまま、落ち葉の中に埋もれて、しっかり線路が残っています。

「荒川起点」碑付近にある「解説板」。

森林軌道の歴史(入川軌道)

こんな山奥でレールに枕木、不思議に思いませんか。重い木材を満載してガタゴト、ガタゴト、ギシギシここには昭和23年から45年の間トロッコが走っていた道。当時はここと同様の森林軌道が日本のあちこちにありましたが今ではほとんど姿を消してしまいました。

この解説板にあるように、「荒川起点」碑までの道はトロッコが走っていた道です。所々に架けてある橋も整備されていて、線路伝いにまったく不安なく歩くことができます。渓谷美を愛でるよりも、興味はこちらの方に。

この辺りですれ違ったのでしょうか?

渓谷側の軌道が崩れ、レールがなくなっているところもあります。

このように渓谷側に落ちてしまったレール。

 

今にも向こうからトロッコがやってくるような・・・。

下流方向。整備された鉄橋。

こんな急峻な崖沿いに線路を敷設したものです。戦前から盛んだった林業が、戦後は復興のため、山奥から木材を切り出している頃のようすが偲ばれます。

厳しい自然環境のもと、永年の風雪の経過のなかで、すでに線路が失われたところや線路幅が一様でなくなった箇所もたくさんあります。

が、これほどきちんと整備された道になっているとは思いませんでした。

そのため、「一級河川荒川起点」碑まで無事にたどり着けました。

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「かめの道」。東武熊谷線跡をたどる。その2。SLパレオエクスプレス。立夏。(「荒川」を遡る。番外編。)

2021-05-05 20:20:34 | 鉄道遺跡

              線路脇の緑道に入ります。亀の姿が。ここから東武熊谷線跡の遊歩道。

                                                                          

「百米塚」。終点まで続くのでしょうか? 

まだ左手には旧線路が続いていますが、この先、秩父鉄道の構内へ?

               

枝垂れ桜が地面すれすれまでたくさん咲いています。

こちらにも八重桜。(撮影時:4月10日)

 

緑豊かな遊歩道。動物のモニュメント。

               

ポツンと一本、ポールが。かつては踏切の信号機だったようですが・・・。

広場風のところへ。

駅舎風の休憩所。ここに駅はありませんでした。

その先、機関車風のコンクリート製の建物。

「かめ号」、「熊谷 妻沼」。1989年に建てたもの。

そこから振り返る。

レールをかたどった柱に「かめのみち」。

ここまで「熊谷線」また「かめのみち」に関しての解説板がまったくありません(気がつかなかっただけかもしれませんが)。できたら、かつての様子も含め、解説がほしいところです。

石碑。「紫・・」。どういういわれがあるのでしょうか?

通りを渡って、広いところへ。

正面に小高い丘、その向こうに「JR線」。

線路の向こうに「クマガヤ」という植栽。

熊谷線はJRを跨線橋で越えていました。線路は向こう側に延びていきます。

            

線路の向こうへ行くのには、ぐるっと回らなければなりません。今回はここまで。機会があったら、終点の妻沼まで行ってみます。

                                          2010年代のようす。遊歩道は、手前から始まる。

 

帰りは、秩父鉄道「石原駅」から。待っていると、SLが通過していきました。

 

 

C58363(シゴハチ サンロクサン)は、かつて東北地方などの旧国鉄(現在のJR)で活躍したSLです。
1972年に現役引退後は、吹上町立吹上小学校の校庭で小学生と一緒にのんびりと余生を送っていましたが、さいたま博覧会(1988年3月19日から5月29日まで熊谷市で開催)にあわせて「SL運行を!」の声があがり、その大役にC58363が抜擢されたのです。
1987年に車籍を復活。1988年に秩父路のSLパレオエクスプレスとして誕生しました。

名前の由来

パレオパラドキシアの骨格復元像

「パレオ」は秩父地方におよそ2000万年前に生息していた海獣パレオパラドキシアにちなんだ名前です。
パレオパラドキシアとはラテン語で「昔の不思議な動物」という意味があるそうです。大昔、秩父地域は海の底にあったことが数々の化石により証明されていますが、その中でもパレオパラドキシアの化石は珍しく、世界でも数体しかありません。
その貴重な文化遺産から「パレオ」を、急行を意味する「エクスプレス」とあわせて、「パレオエクスプレス」という愛称が生まれました。
※パレオパラドキシアの骨格復元像が「埼玉県立自然の博物館」(上長瀞駅下車徒歩5分)に展示されています。

(以上、「秩父鉄道」HPより)

孫を誘って乗ってみようかな、と。

補足:旧中山道歩きのとき、「国道17号線」で交差した「かめの道」。

「日産サティオ」裏手の公園にあります。
「かめのみち」。機関車も描かれています。

「国道17号線」を越えて続く「熊谷線跡」。

さて、今日は、「立夏」。立夏は春分と夏至のちょうど中間にあたる。この頃には、以下のように時期の移り変わりの三段階で、

「蛙始鳴」。(かわずはじめてなく)水田で初めて蛙が鳴くのを聞く時期。オスが求愛のために鳴いているとも。

「蚯蚓出」。(みみずいづる)土から蚯蚓が出てくる時期。冬眠していた蚯蚓が活動を始める。

「竹笋生」。(たけのこしょうず)たけのこが土から顔を出す時期。この場合のタケノコは、細目のマタケなどをさすようだ。

とされています。

また、「端午の節句」でもあります。

旧暦では午の月は5月にあたり、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の午の日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった

歌川広重

端午節に菖蒲などの多種の薬草を厄除けに用いることは中国の南朝梁・隋朝の文献に記されており、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある

日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる

鎌倉以降の時代になると、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また、菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされたと仮説されている。そして男の子の成長を祝い、健康を祈るようになった。、武者人形や金太郎武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、現在に至る典型的な祝い方である(ただし「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが、京都を含む上方では、当時は見られない風習であった)。鎧兜には、男子の身体を守るという意味合いが込められている。

江戸時代まで、端午の日に子供は河原などで石合戦をする「印地打ち」という風習があったが、負傷者や死亡者が相次いだために禁止となった。また、印地打ちが禁止になった後、菖蒲を刀の代わりにした「菖蒲切り」というチャンバラが流行した

端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習がある。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。

なお、男の赤ん坊をもつ家庭にとっては初節句となるため、親族総出で盛大に祝われることも多い。特に、家意識が強い地域ではその傾向が顕著である。・・・

(この項、「Wikipedia」より)

今年は(去年も)、新型コロナ感染症の蔓延のため、東京、大阪などでは「緊急事態宣言」が発出され、思うように行き来や会食などはできません。せめて、菖蒲湯とか柏餅くらいは、ささやかに。

目には青葉 山ほととぎす 初鰹」(山口素堂)のごとく、初鰹で一杯! てなわけには、なかなか、いかないご時世です。

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「かめの道」。東武熊谷線跡をたどる。その1。線路はそのままに。(「荒川」を遡る。番外編。)

2021-05-04 18:34:17 | 鉄道遺跡

「熊谷駅」に着いて、もう一箇所探索したいところがあります。それが「東武鉄道 熊谷線跡」。

久々の廃線跡歩きです。

「熊谷線」は、熊谷駅から妻沼駅までを結んでいた東武鉄道の鉄道路線。地元では妻沼線(めぬません)とも呼ばれていた

もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期に、群馬県太田市中島飛行機(現・SUBARU)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅 - 東武小泉線西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として1943年昭和18年)12月5日に熊谷駅 - 妻沼駅間が開業した。

熊谷市石原付近(上熊谷駅 - 石原駅中間地点のやや石原駅寄り、かつての熊谷線と秩父鉄道の分岐点)で秩父鉄道をオーバークロスして秩父鉄道の南側に平行して建設、熊谷駅南側に熊谷線のホームを設置する予定であったが、そのための盛土を構築する時間はないため秩父鉄道の複線化用地と熊谷駅ホームを借用し、熊谷駅 - 上熊谷駅 - 熊谷市石原付近を仮線として開通した。軍事路線であったため、ほぼ一直線に邑楽郡大泉町を目指すルートとなっている。住民の生活路線として建設されたものではなかったので、沿線の集落、交通を考慮したルートではなかった。

しかし、第二期工事区間である新小泉駅 - 妻沼駅間開通前に終戦を迎え、戦後、治水上の都合から工事の中断は直にはできず、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成するまで行い終了した。そのため、利根川を挟んで南北に分断された形で営業を行うことになった。その南側が熊谷線である。なお、橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されたが、堤内の1脚のみが群馬県側に残っている。

東小泉駅 - 熊谷市石原付近まで複線化用地があったが、急を要するため一部の路盤は単線分しかなく、残った用地での耕作は事実上黙認され、熊谷市妻沼町の台帳に登録されていない幻の耕地ということになり、戦後の食糧難時にそこで収穫された物はヤミ食料として出回ったといわれ、熊谷線はヤミ食料の買い出しで大変混雑した。今でも水田の中にある杭までが東武鉄道の所有地である。

開通以来赤字続きだったこともあり、1983年(昭和58年)5月31日の運行限りで廃線となった。

開通当初は、館林機関区所属の蒸気機関車B2型27・28号機牽引で運転されていた。熊谷駅 - 妻沼駅間は工員輸送しか行われず、資材輸送は行われなかった。日夜を違わずピストン輸送が行われ、妻沼駅から工場までの連絡は東武バスによって刀水橋を経由して行った。妻沼駅に着いた列車からバスへの乗り換えがうまくいかないと憲兵が飛んできたそうである。また熊谷線は米軍機による被害はいっさい出さなかったが、乗務員は乗客を守るために米軍機を見つけると木立の陰に列車を停車させ隠すなどしていた

終戦後は工員輸送も終わり、利用者の比較的少ない熊谷線は本線よりも低質な石炭をまわされたため、高崎線とのオーバークロスで蒸気機関車の蒸気圧が上がらないために勾配を登るのが大変で低速運転となり「埼玉県立熊谷商業高等学校の生徒たちはあまりに遅いので列車を飛び降り、土手を下って学校に行ってしまった」という話も聞かれた。後にはやや改善したものの、その鈍足ぶり(熊谷 - 妻沼間10.1キロを24分)から、沿線乗客には揶揄混じりの「のろま線のカメ」「カメ」と呼ばれていた。

1954年(昭和29年)に旅客列車の無煙化を図り、3両導入した東急車輌製の気動車キハ2000形は17分で走破し、またその姿から「特急カメ号」という呼び名で親しまれた。しかしその後「特急」の部分が取れてしまい、「カメ号」に戻った。

熊谷線で使用されていたキハ2000形。
                 (熊谷市立妻沼展示館の保存車キハ2002)

(以上、「Wikipedia」参照)

                                          1970年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

この時点ですでに廃線化されているような様子ですが。

 

その廃線跡が公園、遊歩道として残されています。「中山道」歩きのときに公園の一画に立ち寄りました。その時以来、気になっていた廃線跡です。

(「」HPより)

ということで、廃線跡をたどっていきます。

秩父鉄道線の隣に途切れた線路。熊谷駅方向。

この先、踏切の向こうには線路が続きます。右はJR高崎線。

秩父鉄道・上熊谷駅。

「国道407号線」の陸橋から西を望む。

          

草地の続くところに線路が。

次の踏切から熊谷駅方向を望む。

西を望む。左は新幹線の高架。

新幹線、秩父鉄道、熊谷線(跡)、JR高崎線(上野東京ライン・湘南新宿ライン)と並んでいます。

この先で高崎線は右に曲がっていきます。秩父鉄道と併行して熊谷線(跡)が進みます。

 

線路はそのまま残っています(右手奥)。

新幹線敷地と秩父鉄道との仕切りには枕木が。

次の踏切から廃線跡を望む。この先で秩父鉄道と離れ、右方向に進む「熊谷線」。右奥の茂みまで続く線路。舗装道路にも跡が。                                                                         

 

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名鉄線「旧美濃駅」。路面電車。野口五郎。うだつが上がる。美濃和紙。関の孫六。美濃焼。・・・

2020-01-29 18:41:49 | 鉄道遺跡
                      1月26日(日)晴れ。所用ではじめて岐阜県美濃市に出かけました。
 新幹線「岐阜羽島」駅まで迎えに来てもらいました。開業当時は周りには何もなかったこの駅もビジネスホテルなどができて、少しは賑やかな感じ。
 車で約1時間。高速道路ができ、名古屋に行くのにもけっこう便利になった、とのこと。
 美濃市は、日本の中心部または岐阜県の中心部に位置しています。夏の猛暑でも有名。2007年8月16日には最高気温40.0°Cを観測、2018年には7月18日(40.6°C)、8月3日(40.3°C)、8月6日(40.3°C)、8月8日(41.0°C)の計4回、40°C以上の最高気温を観測した。このうち8月8日に観測した41.0°Cは、岐阜県下呂市金山(2018年8月6日)、高知県四万十市江川崎(2013年8月12日)と並んで国内観測史上2番目に高い記録で、岐阜県内の観測史上最高気温でもあった。・・・

 この地はいろいろ見所があるところのようですが、ちょっと帰りの車で寄っただけでした(それも一か所)。

          
美濃町線 旧美濃駅
 名古屋鉄道美濃町線の前身は、地元有志の方々により誕生した美濃電気軌道株式会社が美濃並びに関と岐阜間の交流を図るため、明治44年(1911)2月に神田町駅から上有知間を開業しました。
 大正12年(1923)10月に美濃駅が当所に開設されて以来、地域住民をはじめ多くの方々の重要な交通機関として、地域相互の交流・発展に貢献してまいりました。
 しかし、日本経済が急速な発展を遂げるとともに車社会の進展により、平成11年(1999)4月1日には、美濃町線新関駅から美濃駅間が廃線となりました。
 ここに残る旧美濃駅は、美濃町駅から美濃駅間の廃線にあたり、先人が築き上げられた功績を称えるとともに、永く歴史にとどめるものであります。
                                                                美濃市
より詳しく。
登録有形文化財旧名鉄美濃町線美濃駅本屋・プラットホーム及び線路
指定年月日 平成17年2月9日
 旧名鉄美濃駅は、大正12年10月1日に現在地にて開設されたもので、平成11年4月1日の名鉄美濃町線新関-美濃間の廃止により、当時の駅舎、プラットホーム、線路が保存されているものです。
 名鉄美濃町線・岐阜市内線の前身である美濃電気軌道株式会社は明治42年資本金50万円、社長才賀藤吉(大阪電気商)、取締役松久永助・正木三郎四・須田清英(美濃町)他4名で設立されました。明治44年2月1日に神田町(岐阜柳ヶ瀬)-上有知間24.9㎞を開業し、開通当初は終点である上有知電車停留所は臨時につくられ、明治44年4月1日現駅舎から300m北側に初代駅舎が建設されました。また、上有知町から美濃町へと町名が改称されたため、駅名も美濃町電車停留所と改称しました。大正12年10月1日国鉄越美南線美濃町駅が開通し、また広岡町通りが開通するのに伴い、美濃電美濃町駅舎は現在の地点に移転して新たな駅舎が建設され、駅名も新美濃町駅と改称されました。
 保存されている駅舎・プラットホーム・線路(カーネギー製、1919年)はほぼ当時のままであり、大正期の近代建築の様相をそのまま残しています。美濃橋(重要文化財)とともに、大正期の貴重な近代化遺産です。
(この項、「」HPより)

 地元の方々の保存運動、維持などが熱心に取り組まれているようです。
駅舎内。右の電車は段ボール製。

使用車両のパネルが掲示されています。

改札窓口には何やら写真がいっぱい。
「野口五郎」の出身地だそうで、気がつくと、至る所に若い頃の写真などが所狭しと飾られています。

 「西城秀樹」「郷ひろみ」とともに、新御三家の一人として、男性アイドルとして一世を風靡しました。妻はタレントの三井ゆり。子供は一女一男。
芸名は北アルプスにある「野口五郎岳」に由来する。現在では歌手・野口五郎の知名度が高く、山の名前が歌手にちなんで付けられたと誤解している人もいるという。なお、黒部五郎岳にちなんだ「黒部五郎」も芸名の候補となっていた。野口五郎とどちらかを選ぶように言われ「山の名前を芸名にするなら高い山のほうがいい」と考えて、黒部五郎岳 (2840m) よりも高い野口五郎岳 (2924m) にちなんだ野口五郎を選んだという。当初は「水城哲也」という芸名でデビュー予定であった。(この項、「Wikipedia」参照)

 ちなみに初代「御三家」は、「橋幸夫」「舟木一夫」「西郷輝彦」だったかな?

 すでに齢65歳を過ぎているようです。
 ちなみに、我が家の近所に「野口六郎」商店というのがありました。そこは、更地になり、マンション建設中です。

 旧ホームにはモ510形512号、モ600形601号、モ590形593号、モ870形876号(前の部分だけ)が保存車輌として展示されています。


                          

 
                          路面電車なのが魅力。地元密着の庶民の足という印象。

車内にも入れます。家族連れが運転席に。楽しく操作しています。

この先が旧線路跡で、道路となっています。

          

 また、うだつの上がる町並み」も観光地として有名なようです。

 ・・・「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のことで、裕福な家しか「うだつ」を造ることができなかったため、庶民の願望から「うだつを上げる・うだつが上がらない」の言葉もできました。
美濃市は、江戸時代の商人の町で、この「うだつ」が多く残っています。
 ・・・
(「ぎふの旅ガイド」https://www.kankou-gifu.jp/ HPより)
ここは、車から横目で眺めただけでしたが。

 岐阜県美濃市は、美濃和紙を基幹として栄えた商人の町です。長良川左岸の小倉山城の築城にあわせて造られた城下町は、二筋の大通りを中核とした「うだつの上がる町並み」として重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、2014年(平成26年)11月には本美濃紙「日本の手漉き和紙技術」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。美濃和紙とうだつが上がるのどかな町並みを歩いてみませんか?
(「」HPより)

 そう、「美濃紙(和紙)」の町としても有名です。

和紙とは・・歴史が産み、育てた紙
・・・
 日本での紙の基礎を作ったのは、聖徳太子で朝鮮から製紙の方法が渡ってきました。これが日本における最古の記録ですが、それより100年も前に福井県の今立町では紙漉きが行われていたという説があります。現存する、わが国で漉かれ、年代の明らかな最古の紙は、正倉院に伝わる702年(大宝2年)の美濃、筑前、豊前の戸籍用紙です。
 明治時代、インクや印刷機、洋紙が流入し、生活様式の変化もあり、和紙は洋紙に実用品としての地位を徐々に奪われた形になりました。現在では、生産量は伝統工芸品として漉かれることがほとんどです。
 現在、優美な和紙は美術の分野などではもちろん、耐久性、強靱(きょうじん)性を生かし文化財の修復に使用されるほか、天然素材の地球環境に優しい製品として、日本国内のみならず、世界中から和紙への注目が高まっています。江戸時代以降に海外から入って来た、木材パルプを原料とした機械生産による紙を、和紙と区別して言います。ここでは、和紙と用紙との違いを、歴史背景も絡めて紹介します。
 「洋紙は100年、和紙は1000年」という言葉があります。文字通り、和紙と洋紙では紙の耐久性に大きな違いがあります。
木材パルプとインクを使用した洋紙は、多くの薬品を使いほとんどが酸性であるため、100年も経つと黄ばんでボロボロになってしまいます。
 しかし、和紙は天然の植物繊維を、漉くことによって繊維を絡ませることができるため、強靭で保存性に富んでいます。日本で漉かれた紙で最も古いものは、正倉院に保管されている、大宝2年(702年)の日付のある美濃、筑前、豊前で作られた戸籍に使われたもので、洋紙は、19世紀中ごろに作られた本の3分の1が、今では補修もできないほど劣化してしまっていたといいます。
 見た目の美しさも、大きな違いです。洋紙では白くするために薬品などを使います。和紙の中にも化学薬品を使っていて、時間がたつと黄ばむものがありますが、そうでない和紙は逆に時間とともに光線にあたって白くなる性質があります。和紙は長く大事に使うことによって、時間とともに味わいとすっと手になじむ触感が感じられます。手漉きのため一枚一枚いちまい違った持ち味の和紙は、天然素材で地球に優しく、美しい和紙は、世界からも注目されています。
加工しやすく、強靭であるという点でも違います。洋紙は、低コストで大量生産するために、木材の繊維をすり潰して粉末のようにして使います。
しかし、和紙は繊維をすり潰さず、漉すことでそのまま生かすため、繊維が持つ本来の強靭さを失わず、加工性に富んだものができます。
 和紙は加工用として、雨傘・提灯・行灯・下駄の泥よけ・着物・食器など、私たちの生活と密着な関係にありました。現代では、国内だけでなく世界中で、美術品や文化遺産の補修など、さまざまな用途で和紙が使われています。

「美濃和紙」1300年の歴史
 美濃和紙の紀元は、およそ1300年前、天平9年(737年)ころ。奈良時代の「正倉院文書」の戸籍用紙が美濃和紙であったことが記されています。
 和紙の生産に必要なものは、原料である楮、三椏、雁皮がとれること。そして良質の冷たい水が豊富にあることです。美濃は、その二つの条件を満たしており、しかも都にも近かったため、和紙生産地として栄えました。・・・
 民間でも広く美濃和紙が使われるようになったのは、室町・戦国時代の文明年間(1468~1487年)以後でした。
美濃の守護職土岐氏は製紙を保護奨励し、紙市場を大矢田に開きました。紙市場は月に六回開かれたので、“六斉市”と呼ばれ賑わいました。この紙市によって、近江の枝村商人の手で、京都、大阪、伊勢方面へも運ばれ、美濃の和紙は広く国内に知られることとなります。
 大矢田の紙市は、天文9年(1540年)年には上有知(美濃町)に移ってきました。当時戦乱が続いており、上有知(美濃町)より長良川を利用すれば一夜にして交易港である桑名の港に到着できるうえ、運送は便利で危険が少なく安全であったからです。
 そして、慶長5年(1600年)、徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川畔に小倉山城を築城しました。慶長11年(1606年)ごろには、現在も残る町割が完成します。さらに、現在川湊灯台として知られる「上有知湊」を開きます。上有知湊は、船運による物資集散の拠点として、また、和紙を中心とした経済活動の拠点と成長していきます。
こうして、江戸時代には藩の保護や一般需要の増加もあり、美濃和紙は幕府・尾張藩御用紙となっていきました。
 明治維新以後も、国内の需要の高まりや海外市場の進出などもあり、美濃は紙と原料の集積地として栄えました。
 しかし、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資不足、人材不足などが生産に大きく影響し、陰りを落とすようになっていきました。
・戦後には石油化学製品の進出が続きます。美濃では日用品を主とした素材を中心に生産していたため、これらの打撃はとても大きいものでした。 昭和30年には1200戸あった生産者が、昭和60年には40戸に減ってしまいました。
・・・
「美濃和紙」は機械で漉く和紙を含め、美濃で作られた和紙全般のことを指します。美濃和紙の中でも、重要無形文化財指定の決まった材料、決まった道具を使って認められた一部の職人が漉いた和紙のみ「本美濃紙」と呼ぶことが出来ます。上品な色合いと、薄くても布のように丈夫で陽の光に透かしたときの優雅な美しさから、本美濃紙は江戸時代以来最高級の障子紙として高く評価されてきました。
 長い歴史の中で伝統の技を受け継ぎ、本美濃紙は昭和44年に国の重要文化財に指定されました。平成26年には、ユネスコ無形文化遺産(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)に日本の手漉き和紙和紙技術(石州半紙・本美濃紙・細川紙)が登録され、世界的に評価されました。
和紙の原料
楮(こうぞ) クワ科
 現在の主な産地は高知県、茨城県。かつては岐阜県美濃でたくさん取れました。繊維が太く長いため、強い紙が作れます。奉書紙、水墨画用紙、書道用紙などから、和紙人形、工芸品の紙にいたるまで幅広く使われます。
三椏(みつまた) ジンチョウゲ科
 主な産地は四国・中国地方の山地。繊維が短くやや強さをかきますが、表面が滑らかで光沢のある紙ができます。襖(ふすま)紙、印刷用紙などに用いられます。
雁皮(がんぴ) ジンチョウゲ科
 栽培が難しいため山野に自生しているものを使います。細かい繊維で、薄くて強い光沢のある紙ができます。また虫害に強いので保存が必要な紙などに使われます。
トロロアオイ アオイ科
 紙漉きに欠かせないネリ(粘液)として、トロロアオイの根が使われます。くだいた根を水につけると、ドロドロの透明の粘液がとれます。粘液を入れることで、原料が漉槽全体に浮遊するので、漉簀(すきす)の上に汲んだ原料をうまくからませることができます。これにより薄くても強い紙が作れるわけです。・・・
(この項、「」HPより)

 「美濃和紙あかりアート展」(「© 美濃和紙あかりアート展実行委員会」HPより)
 

帰りに、「関」という地名を目にしました。運転してくれた方に、「この関というのは《関の孫六》で有名な日本刀の・・・」「その通りです。」

 鎌倉時代の昔から孫六の息吹が現代によみがえる、日本刀鍛錬。まさに秘伝の妙技。

 関市に刀鍛冶が誕生したのは鎌倉時代。刀祖「元重」がこの関の地に移り住み、刀鍛冶を始めたといわれています。良質の焼刃土と炉に使う松炭、そして長良川と津保川の良質な水・・・刀鍛冶にとって理想的な風土条件を備えたこの土地にいつしか多くの刀匠が集まりました。室町時代には刀匠が300人を超え、「折れず、曲がらず、よく切れる」といわれた関の刀は、その名を全国に広めていきました。戦国時代には、武将の間で愛用され、無類の切れ味を発揮したといわれています。
 特に「関伝」を有名にしたのは、「関の孫六」で知られる「二代目兼元」です。兼元(孫六)は、独特の鍛刀法(四方詰め)により頑丈な刀を作ることに成功しました。その後、関市は日本一の名刀の産地として繁栄し、この卓越した伝統技能が現代の刀匠や刃物産業に受け継がれています。そして、今や世界でも有数の刃物の産地として知られています。
(この項、「」HPより)

 「美濃焼」にも触れたいところですが、字数に関係で残念ながら省略。・・・

 岐阜の「高山」にはかつて何回か出かけたことがありましたが、岐阜県は印象の薄い県でした。「美濃」は初めて。まだまだ見所がありそうな、岐阜も奥行きの深いところのようです。

 今、NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」でご当地は盛り上がっているようです。「美濃国」といえば、斎藤道三。それに仕えたとされるのが明智光秀が、主人公。一時期、女優交代劇で、話題になりましたが・・・。
 次回(2月2日)は「美濃」が舞台のようです。

 また、機会があったら、じっくりと歩いてみたい、と。案内してくれた方に感謝、感謝。
 冬の最中、穏やかな日差しのもとでの一日でした。暑い夏はちょっと遠慮したいですが。
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