おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その5。東北新幹線。利根川橋。房川渡し。栗橋関所趾。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-03-04 20:14:13 | 利根川を歩く

                  「東北新幹線」。

橋脚付近でも護岸工事が進んでいます。なかなか土手に上がる道がないまま、県道を進みます。

整備が進む道路。

土手に近づく。

新設された土手に上がる階段。上は未整備の公園と整備された土手の道。

久々に見る利根川の流れ。

                       東北新幹線の橋脚と筑波山。

栗橋(宿)の街並み。

宿場だった栗橋には「日光街道(道中)」歩きの際に通過しました。

栗橋宿
 日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述もある。
 この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。
 慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。当初、日光街道は手前の幸手宿から北東の栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に向かっていた。その後、1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に日光・奥州街道の正式な宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介は、栗橋宿の本陣を代々務めた。
 栗橋宿の規模は、1843年(天保14年)の記録によると、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、家数404軒、人口1,741人であったという。

下流を望む。

                       「海から129.5㎞」。     

上流には、「国道4号線(日光街道)・利根川橋」が。

       

利根川橋
 埼玉県久喜市栗橋北と、茨城県古河市中田を結ぶ利根川に架かる道路橋である。
 江戸時代この場所の右岸には栗橋関所、左岸には中田宿があり、その間を渡船で結んでいた。橋は東海道の大井川と同じような江戸防衛という軍事的な理由などで建設されなかったが、徳川将軍が江戸から日光東照宮へ参拝するときだけは、和船を並べ上に板を渡した船橋(せんきょう)が作られた。
 明治時代に入り、明治天皇が何度か東北巡幸した際も、仮設橋を用いて一行を渡河していた。やがて陸軍の近代化に伴って、部隊の移動に支障があるような河川に架橋する計画が持ち上がり、1924年(大正13年)に内務省の手によって旧上り橋が完成した。利根川の中・下流域で最初に架けられた近代的な道路橋である。
 第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)9月に発生したカスリーン台風による災害後の利根川改修工事によって、堤防のかさ上げと古河側の引堤が行われ、それにあわせて橋脚のかさ上げと橋桁が増やされた。
 やがて高度経済成長期を迎え、交通量が増加したことから1966年(昭和41年)に上流側に新橋を建設、1924年に建設された旧橋を旧上り・新橋を下り専用とした。
 近年、橋を通る車両の大型化による負荷の増大と、建設から80年近くが経ったことによる老朽化や、橋脚数が多いことによる出水時の河川に対する悪影響などの理由により、旧上り橋が架け替えられることになり、2005年(平成17年)から旧上り橋の下流側で工事が行われ、2009年(平成21年)12月に新上り橋が供用を開始した。廃橋となる旧上り橋は撤去されるが、土木工学史上価値のある近代化遺産であることから古河総合公園内で一部が保存される予定である。
(以上、「Wikipedia」参照)

利根川橋のたもとへ。

                    遠くに赤城山。  

          

                 奥武蔵の山々が遠くに。 

道路脇の一画に石碑が。「栗橋関所趾」の碑でした。

 

   解説板。

・・・この碑は、大正13年(1924)に旧番士3家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の書で旧堤上に建碑されたものである。度重なる堤防改修工事で、この碑も移動を繰り返してきた。この地は現在行われている利根川の堤防強化対策事業に伴い、仮移転したものである。

房川渡と栗橋関所
 江戸幕府は江戸の街を防衛する理由から、大河川に橋を架けることを禁じた。したがって、日光街道の利根川渡河には房川渡(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが設置された。 この舟渡しに置かれた関所が栗橋関所であった。栗橋関所は正式には「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。 中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、「入鉄砲に出女」を取り締まっていた。
 1869年(明治2年)、明治維新の最中に栗橋関所は幕府と共に姿を消した。なお、房川渡は東京から東北方面へ向かう交通路として明治以降も存続したが、1924年(大正13年)の利根川橋完成によってその役割を終えた。 

全景。  

                     1880年代のようす。渡し場がある。

                     2010年代のようす。利根川橋が工事中。

2016年6月・「日光街道歩き」のときも、この付近で利根川護岸工事が大規模に行われ、周辺一帯が区画整理などで掘り返されていました。

河川敷では工事中。

                    上流にはJR宇都宮線の鉄橋。

利根川歩きの上流編の出発地に到着。これで銚子河口からここまでつながりました。

      

            「利根川を歩く」第1回目(2021年10月)のときの写真。 

利根川橋と筑波山。     

東武線「栗橋駅」に向かいます。

「国交省 利根川上流河川事務所」前庭に、護岸工事で使われた機関車・貨車が展示されています。

庁舎の一角に、加藤製作所製の小型機関車(自重7t・日野自動車製70馬力エンジン搭載)と、ナベトロ(積載量1m3)と呼ばれる貨車3台が連結されて保存されています。増水期の度に猛り狂ってきた利根川を諫めるべく、繰り返されてきた治水工事の担い手として活躍した旧建設省所有機です。

 こういったトロッコに限らず、大昔の建設省はトラックやブルドーザーなどの施工機械も、施工に必要な材料も、場合によっては人夫も全て自前で調達し、直営で工事を遂行していました。
 現在は工事を発注し請負契約を結んで施工しますから、施工機械も材料も作業員も請負企業持ち(一部特殊な材料は支給することがあります)。現・国土交通省が施工機械を保有することはありません。あるとすれば、災害時に出動する排水ポンプ車か、投光器搭載車くらいのものです。

 トロッコ自体は、今でもトンネル工事などで用いられているので、実は然程珍しいものではありません。
 このトロッコ機関車が貴重なのは、機関車自体の古さに加え、発注機関が公共事業を直営していた時代の名残を今に伝えるからです。(「国交省 利根川上流河川事務所」HPより)

栗橋駅にあったポスター。

             こういう企画があるとは知りませんでした。

掲示されている宿場をすでにクリアしてしまっている小生には今さらですが、すばらしいアイデアだと思います。

さて、これで「利根川を歩く」は、沼田の手前までつながりました。その先の上流は、雪が溶ける陽春になってから出かけることにします。

利根川から江戸川が分岐する「関宿城博物館」まで行ったので、次回は、「江戸川」を歩いて下ることにします。

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東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その4。新利根川橋。旧赤堀川。五霞町。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-03-01 21:02:53 | 利根川を歩く

            河川敷の工事が盛んに行われています。

新利根川橋。

              国道4号線・春日部古河バイパスが通る。

        

茨城県猿島郡五霞町と茨城県猿島郡境町との間の利根川赤堀川)を渡る、国道4号春日部古河バイパスである。

1981年昭和56年)4月7日日本道路公団が建設し、20年の償還期間を設けた有料道路として、往復2車線の暫定供用を開始した。2001年平成13年)4月7日に無料開放され、国道4号春日部古河バイパスの一部として管理されている。なお橋脚・橋台等の下部工は竣工時から往復4車線分準備していたものの、長らく暫定2車線のままであった。その後、圏央道の建設工事に並行する形で、4車線化工事を実施し、2015年(平成27年)3月27日に4車線化された

上流の利根川橋の交通量の負担軽減が、架橋目的の一つであったが、有料橋だった当時、通行料金を嫌って所要時間がそれほど変わらない、下流の境大橋へ迂回する車両が殆どで、当初計画していた建設費用や用地費用129億円を通行料金で徴収する償還計画が、計244億円の債務を抱えたまま償還が破綻した

(この項、「Wikipedia」より)

※現在の利根川は、江戸時代、「赤堀川」として開削された。

     

1880年代のようす。現利根川は、「赤堀川」と記されている。南方に流れるのが「権現堂川」。

 

     

2010年代のようす。左は「東北新幹線」。右に、「国道4号線バイパス」と「圏央道」が利根川を渡っている。

浅間山噴火による土砂堆積などの問題に対する治水の目的で、文化6年(1809年)と明治4年(1871年)の2度にわたって行われた赤堀川拡幅を行い、利根川の水の大半が常陸川方面に流れるようになり、赤堀川は事実上利根川の本流が流れることとなった。昭和3年(1928年)に権現堂川が廃されて以降は、かつての赤堀川・常陸川筋が完全に利根川の本流となっている。

土手には咲き始めた菜の花。

                遠くに浅間山。

正面右に赤城山、左に浅間山。

対岸は、茨城県古河市。

  筑波山。

「海から126㎞」。

  遠くに日光連山。

振り返る。

舗装道路はここまで。この先は工事中。

「海から127㎞」。

           

土手下の県道に下ります。

 

迂回して進む。

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東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その3。関宿水閘門。旧水位観測所。圏央道。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-02-28 19:35:55 | 利根川を歩く

                    「関宿水・閘門」。手前が「水門」。奥が「閘門」

関宿水門(上)旧水位観測所。

中の島公園に隣接する「関宿水閘門」は,利根川から江戸川へ入る水量を調整する水門と,船の運航のために水位を調整する閘門となっています。建設工事は,江戸川流頭部の改修工事に伴い,1918(大正7)年に着工,1927(昭和2)年竣工しました。

現在,閘門機能は河川交通の衰退とともにその役目を終えました。

2003年には,社団法人土木学会がその歴史的価値と,利根川改修事業のシンボル的存在として,同学会推奨土木遺産に認定されました。

関宿水閘門概略図

利根川方向中の島公園概略図江戸川下流方向


関宿水門
大正7年に着手し,昭和2年に完成しました。

関宿閘門(こうもん)
閘門は現在、常時開いています。

旧水位観測施設
昭和38年~63年の25年間,水位を観測してきました。現在は水晶式観測機に代わっています。

(この項、「五霞町」HPより)

      水流が激しい。下流に向かって。

利根川方向。

利根川土手に。

                       「海から122㎞」。

筑波山。

前方に「圏央道」。

菜の花が開花間近。

圏央道が工事中。4車線化に伴う橋梁工事のようです。

圏央道(首都圏中央連絡自動車道)は、都心から約40~60キロメートルを環状に連絡する全長約300キロメートルの高規格幹線道路です。東名高速、中央道、関越道、東北道、常磐道、東関東道等の放射状に延びる高速道路や都心郊外の主要都市を連絡し、東京湾アクアライン、東京外かく環状道路などと一体となって首都圏の広域的な幹線道路網を形成しています。

(この項、「国交省関東地方整備局」HPより)

もう少し先まで土手を歩けそうです。

         

富士山(↓)。

浅間山。

ここまで来たら、「まむし注意」の看板が目立つように。上流編で見かけた看板。野田市まではなかったのですが。

舗装され、広い自転車道。快晴の下、しかし風に煽られ、歩行困難。

眼下の田園風景。

「海から124㎞」。

         

赤城山。

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東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その2。栗橋へ。中の島公園。江戸川。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-02-27 20:17:05 | 利根川を歩く

さて、栗橋へ歩き始めます。10㎞ほどなので、2時間半くらいで着くだろうと。

ところが、猛烈な北風に向かって進むので、土手の道はけっこうしんどい。さらに護岸工事中のため、通行止めがあって迂回するなどして思ったよりも時間がかかりました。

それでも、「利根川」歩きの初日の出発地まで到達。そして、東武日光線「栗橋駅」まで。

前方が利根川土手。

        前回は右手の堤を必死に駆け上がりました。

建物を回り込み、裏手へ。

               江戸川沿いの道に出ます。

江戸川と利根川の合流点まで道があるようです。博物館の係員に聞いたところ、工事用の道路があるが、今日はぬかるんでいて大変だと思う、とのこと。そこへは「江戸川歩き」の時に行くことにし、「中の島公園」へ。

この付近から、しばらくは「茨城県猿島郡五霞町」になります。

     

1880年代のようす。「権現堂川」以北が現在の五霞町区域になっています。

          

2010年代のようす。この付近は千葉県野田市、埼玉県幸手市・久喜市、茨城県五霞町と入り組んでいます。

筑波山。

赤城山と圏央道。

富士山。

江戸川下流方向。

橋を渡って中の島公園へ

利根川方向。

                     江戸川にある「関宿水閘門」と中の島公園。

旧国鉄・江戸川橋梁(復元)。

      

この橋は、1907(明治40)年に総武鉄道の小岩~市川間で横断する江戸川に3連の100フィートポニー形ワーレントラス橋として架橋されていた江戸川橋梁です。・・・日本の鉄道橋梁の歴史において貴重な土木遺産である・・・

       「江戸川の物語はここ中の島から始まる」解説板。

江戸川は、かつて太日川といわれ、渡良瀬川の下流部として東京湾に注いでいました。16世紀(※17世紀の誤り)の初め、徳川幕府は江戸を洪水から守り、新田開発を行うため、利根川東遷という大規模な流路付け替え工事を実施し、それまで東京湾に流れ込んでいた利根川を渡良瀬川とともに東方の鬼怒川に導き鹿島灘(太平洋)へ放流させました。この工事によって太日川は利根川の派川となり、また舟運の発展と共に江戸に通じる舟路として「江戸川」と呼ばれるようになったのです。

現在、江戸川は千葉県関宿町(現野田市関宿)、茨城県五霞村(現五霞町)で利根川から分かれ、東京湾に注ぐ全長55㎞の一級河川となり、その役割は、首都圏域の洪水防御とともに生活・工業用水等の水源、さらに都市部に残された貴重なオープンスペースとして重要な働きを担っています。

「中の島公園」。こぶしの花。

この先が、利根川との分岐点。

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東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その1。関宿城博物館。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-02-26 20:01:47 | 利根川を歩く

ということで、関宿城博物館を改めて訪問。そして、上流編の出発地・栗橋まで歩こうという算段。

2月23日(祝)。快晴。しかし、北風、猛烈に強し。

土手上は吹き飛ばされそうで、強風に向かっての歩行。途中、護岸工事の警備員さんから「風に飛ばされないよう、気をつけて下さいよ」と激励(注意)されます。

東武アーバンパークライン(東武野田線)「川間駅」からバスを乗り継ぎ、ようやく10時前に「関宿城博物館」に到着。さっそく城内へ。

                  

アプローチには、

蛇籠とは、災害復旧および河川改修の時に使われる工法の一つで、竹で亀甲状に編んだ円筒状の籠の中に自然石などを詰めて川底に入れ、川の流れを止めたり、弱めたりするものです。現在は素材は竹だけではなく、メッキをした鉄線で、護岸・根固め・水制・床止め・耐震・擁壁・排水といった、様々な目的で用いられています。蛇籠の名称の由来は、「形が蛇に似ているから」とか、「昔から川には蛇の伝説がつきものであったから」という説があります。

          

この小舟は、母屋より高く土を盛った「水塚」(みづか)の軒下に吊るして洪水避難用に使われたもの。

65歳以上は無料。検温や手指消毒、住所登録などしっかり行ってから館内に入場。

     

「暴れ川」利根川とは、治水工事など長年の闘いの歴史。そうした先人のようすが視覚的に解説されています。

明治時代の築堤工事。

江戸幕府による「利根川東遷」事業以前、以後のようす。開削工事進展による河川の変遷。海運による繁栄・・・。

 

     

舟運の拠点だった関宿河岸。積み荷を扱う商人が集まり、蔵が建ち並び、市場が開かれました。茶屋、旅籠、遊郭、賭場などもあった。 

利根川水運の主役として活躍した高瀬船の3分の1模型。

高い帆を掲げた高瀬船。河岸問屋としょうゆ蔵の風景も再現されている。利根川水運の発達で、野田・銚子のしょうゆ、佐原の酒、流山のみりんなどの産業が発達した。

  

          

関宿城の模型。

           利根川と逆川・江戸川に囲まれた平城。

関宿絵図。

4F・天守閣(展望台)に上がってみます。四方が見渡せます。

利根川の流れ。

        筑波山。

富士山。

      

         利根川に架かる橋は、「圏央道」。その奥に赤城山。

見学を終えて、栗橋に向かって歩くことに。

この施設は充実していて、なかなか見応えがありました。

アクセスとしては東武線・川間駅からのバスか車で来るしかない、と不便ですが。

そこで、「関宿城」について、「Wikipedia」によって。

関宿城

千葉県野田市関宿三軒家にあった日本の城である。室町時代簗田満助または簗田成助によって築かれたとされ、以降簗田氏嫡流の関宿簗田家の居城になったと伝わる。江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれた。

・・・利根川水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点であった。戦国時代には関東の中心部における最重要拠点であった。関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評した。

戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられた(関宿合戦)。北条氏康・氏政氏照父子が、上杉謙信佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を、3度に渡り攻撃。最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした。

建造物としては「御三階櫓」と呼ばれる天守状のが代用として建築され、1671年に再建された際には江戸城の富士見櫓を模して再建されたという。現在千葉県立関宿城博物館に御三階櫓を模した模擬櫓があるが、この模擬櫓は1995年に建てられたもので、城跡とは無関係な場所に建てられている。藩政時代に御三階櫓が築かれた場所は河川改修により旧状をとどめていない。

また、市内関宿台町にある元藩主久世家の菩提寺である実相寺の客殿は、文久2年(1862年)に坂下門外の変、また公武合体(または外交方針である航海遠略策)の失敗などの責任を問われ、失脚した前老中久世広周が謹慎した関宿城本丸新御殿の一部を明治4年(1871年)に移築したものと伝わり、市の名所となっている。    

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東武線「野田市駅」~「川間駅」。その3。関宿滑空場。境大橋。日光東往還。関宿城博物館。(利根川を歩く。第17回目。)

2022-02-25 19:54:29 | 利根川を歩く

                 

少し空が明るくなってきました。この分では雨に降られずに「関宿城」までたどり着けるか。

「海から115㎞」。

中洲のような砂地が目立ちます。

グライダーの姿(↓)

           方角からみて、江戸川河川敷にある「関宿滑空場」を飛び立ったようです。

空を飛ぶことが好きな愛好家が操縦するグライダーが飛んでいます。昭和45年(1970年)に運用を始めたわが国で面積が最大の公共用滑空場です。草地の滑走路は長さ1500m、幅100m。昭和63年(1988年)には「房総の魅力500選」にも選ばれています。2棟の格納庫に加え80人が宿泊できる施設があります。(「NPO法人関宿滑空場」HPより)

関宿の街並み。

     

「海から118㎞」。

        遠くに「関宿城博物館」が見えてきます。

「海から119㎞」。

左手遠くに「関宿城博物館」の天守閣。

       

境大橋。「海から120㎞」。

日光脇街道上の茨城県西地区と千葉県北西部を結ぶ重要な橋の1つで、橋長569.9m、幅員7mの連続プレートガーダー橋である。 1964年昭和39年)2月12日有料橋として供用開始1977年(昭和52年)10月20日無料開放されると同時に、橋の管理は茨城県知事が行っている。すぐ下流側には1973年(昭和48年)に完成の側道橋(境大橋歩道橋)がある。境町側の橋詰には国道354号と接続する変形交差点や道の駅さかい、さかいショッピングモール、温泉施設がある。野田市側には、関宿城を再現した千葉県立関宿城博物館や、利根川の江戸川ではなく銚子側に誘導し、江戸水害防止や水運の便を図った堤防棒出し跡がある。本橋の混雑緩和のため1990年平成2年)、下流側に下総利根大橋が建設された。

(この項、「Wikipedia」より)

※「日光脇街道」=「日光東往還」「日光東街道」

歴史
1616年に徳川家康が死去し日光東照宮へ埋葬された。その日光へ、歴代将軍が参拝を行うために使われた日光街道の脇街道として整備された道。別名を関宿道、多功道、久世街道、結城街道とも言われ、実際には御社参のほかに、参勤交代の大名通行路や物資の輸送など庶民の往来も多くあったよう。また、俳人小林一茶が旅した道としても有名である。
野田市役所入り口脇の案内板によると、『水戸街道(国道6号線)向小金付近を起点に北上、山崎から関宿を通り利根川を渡って境から結城など10の宿を経て雀宮(栃木県宇都宮市)で日光街道と合流する。17里14町(約70キロkm)の道のり…』とあり、現在、JR常磐線南柏駅西口からほど近い水戸街道と県道柏・流山線との交差点が日光東往還の起点になっており、信号機には「旧日光街道入口」の名が付されている。
宿場は山崎、中里、関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功の10ヶ所設けられ、街道には一里塚が設けられていた。

(「」HPより)

この街道も歩いてみたい街道の一つです。

これまで「日光街道(道中)」「日光例幣使街道・壬生道」「日光御成街道」「日光千人同心街道」と「日光」に関わる街道を歩いていますので、この街道が残りの一つ?

ここまで来て、「まめバス」の「関宿城博物館」の出発時間にぎりぎり間に合うかどうか、になってしまいました。写真を撮ったり、周囲を眺めたりする時間もなさそう。

橋のたもとから、お城に向かって一直線。

立入禁止の立て札も無視し、一枚も写真を撮らず、必死で城の崖を登り、出発1分前に何とか間に合いました。

次回、関宿城博物館を見学することに。疲れました!

土手から振り向いてパチリ。

この付近の今昔。

                     

1880年代のようす。「日光東往還」沿いに宿場町が形成されている。対岸には渡し舟で渡った。

中央に城の印がある。利根川から「逆川」が流れ、「江戸川」(右)と「権現堂川」(左)に分岐している。

     

2010年代のようす。「関宿城博物館」が上方に。河川整備により、権現堂川は江戸川・利根川とは分断されている。

利根川に架かる橋が「境大橋」。

権現堂桜堤が築かれたのは16世紀のことでした。昔からこの周辺は多くの川が複雑に交錯する地域で、たびたびの洪水に悩まされていました。特に、渡良瀬川からの大量の水を中川へ運んでいた権現堂川は暴れ川で、ひとたび大規模に決壊すると遠く江戸までが水浸しになったそうです。
 江戸時代、隅田川経由で東京湾へ注いでいた利根川は、大規模な開削工事によって渡良瀬川と合流させ、権現堂川を経て旧江戸川(太日川)から東京湾へ注ぎ込むルートへと変更されました。しかし、権現堂川は利根川の途轍もない水量を捌ききれません。洪水のたびに、何度も何度も高い堤防が作り直され、現在の桜堤ができあがりました。
 その後も利根川の東遷事業は続き、17世紀中ごろ約60年かかって利根川は銚子から太平洋に注ぐことになったのです。しかし、それでも権現堂川には捌ききれない水量が流れていたようで、たびたび水害が起こりました。結局、昭和初年に利根川と中川を結ぶ権現堂川は堰き止められ、「行幸(みゆき)湖」という調整池になりました。
 ・・・
(以上、「」HPより)

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東武線「野田市駅」~「川間駅」。その2。ハングライダー。下総利根大橋。ラジコン。利根川河川敷の火災。(利根川を歩く。第17回目。)

2022-02-24 20:14:20 | 利根川を歩く

                          「海から108.0㎞」。

眼下の野田市木間ケ瀬地区。「関宿城」はまだまだ遠い。

工事専用道路が続く。

足もとには咲き始めた菜の花。

上空にはハングライダーが

    悠々と旋回中。

うっすらと遠くに筑波山。

田園風景が広がる。

              

「海から110㎞」。

携帯電話無線塔? 防災無線塔?

気の毒なくらい、まばらな菜の花ですが。

            

「海から111㎞」。

          遠くに「下総利根大橋」が。

   

利根川を架橋し、茨城県坂東市と千葉県野田市を結ぶ有料道路です。当有料道路整備により、地域住民の生活圏の拡大、茨城千葉両県の交流増進、首都圏近郊農業の振興等により、地域の活性化に寄与しております。

(この項、「」HPより)

※開通後、30年間の有料期間ー普通車210円、大型車(I)320円、大型車(II)730円、軽車両等20円ーが終了し、1990年(平成2年)1月11日無料化になった。

      

薄日が差してきました。

眼下には住宅が増えてきます。                       

「海から113㎞」。

ラジコン飛行機の音が。

                  

小さい上、急速に旋回し、さらに急降下するので写真は難しい。目の前で見ると、結構大きいのですが。

        

護岸工事は随所で。

             右手、河川敷の道路。

・・・

昨日の利根川右岸(熊谷市妻沼・「刀水橋」付近)河川敷の火災。去年、「利根川」歩きで通ったところです。

河川敷には「妻沼ゴルフ場」があったはずですが、護岸工事のため閉鎖になり、雑草と所々に灌木が名残のように立っているのみでした。

利根川を歩いている印象では、中流付近では随所で護岸工事が大がかりに進められていて、工事車両も多く、作業員もたくさん作業しています。

この付近は、本格化な工事が始まっていなかったのか。

大きな人的・物的被害もなさそうなので、一安心です。

 「海から163.0㎞」ポスト。  

 (2021年10月の記事より)

少し下流にはグライダーが発着する「妻沼滑空場」がありますが、そこへの被害はなかったようです。

この付近が、今歩いている河川敷の一部のように枯れ草でいっぱいだったら、火が付けばあっというまに燃え広がったにちがいありません。

出火原因の究明が必要に思います。

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東武線「野田市駅」~「川間駅」。その1。芽吹大橋。ノスリ。海から105.0㎞。(利根川を歩く。第17回目。)

2022-02-23 19:53:34 | 利根川を歩く

                    対岸を望む。

2月19日(土)。午後から雨との予想もありましたが、利根川までやってきました。

前回の終了地点だった「野田スポーツ公園」までの「まめバス」の到着時間がうまく合わないので、野田市駅から岩井車庫に向かう「茨城急行自動車」に乗って「芽吹大橋南詰」まで。

約4㎞省略。その分、海から121㎞地点にある「関宿城博物館」まで歩けるか、と。

一方、「まめバス」の「関宿城博物館」出発時間に間に合わないと、前回同様、2時間近く待つことになります。そこで、最後は大慌て。

そんなバタバタの記録です。

               「芽吹大橋」。

     

岩井市莚打と野田市目吹を結ぶ県境の橋で、「(茨城・千葉)県道3号線」が通過。

※莚打は「ムシロウチ」と読む。

※「芽吹」は、地名としては野田市「目吹」。

茨城県・千葉県によって計画され、1958年昭和33年)に日本道路公団の管理する有料橋として供用を開始した。1968年(昭和43年)に茨城・千葉県に管理が移管され、通行料が無料となった。その後1985年(昭和60年)に下流側に歩行者用橋が建設されて開通した。開通前は古河市にある国道4号利根川橋取手市にある国道6号大利根橋まで大きく迂回しなければ東京方面に行くことができなかったが、本橋の開通によって都心までの所要時間が大幅に短縮された。これによって岩井市(現坂東市)周辺は東京圏向けのレタスハクサイなど近郊農業を中心とする農業によって大きく成長した。

その後、本橋の慢性的な混雑緩和のため1980年(昭和55年)に下流側に新大利根橋1990年(平成2年)に上流側に下総利根大橋が建設されたが、双方とも有料道路だったこと〈新大利根橋は2010年(平成22年)に、下総利根大橋は2020年(令和2年)に無料化〉、特に新大利根橋までは直線距離でも13 kmほど離れていること等から、交通量が大きく分散するまでには至っていない。(「Wikipedia」より)

芽吹大橋の開通は、昭和33年(1958)12月23日です。この日は東京タワーの完工式の日でもあるので、芽吹大橋と東京タワーは同い年ということになります。現在も坂東市と千葉県野田市との交通の要となっています。

橋が完成するまで当時の人々は、対岸の野田へ行くには利根川に何カ所かある渡し船を利用しており、とくに現在の小山地区にあった「小山の渡し」は人だけでなく自動車も輸送しました。小山の渡しは岩井と野田の間の路線バスの経路でしたので、バスは渡し場まで来るとそのまま渡し船に乗せて対岸へ輸送されましたが、バスが川へ転落する事故があってからは、岸壁でバスを降りて乗客のみが船に乗って川を渡るようになったそうです。

この付近は自然豊かで、ノスリの姿を見かけることもあります。

朝日を受ける利根川、千葉県側からは筑波山、茨城県側からは富士山を望める日もあり、利便だけではなく目も楽しませてくれる橋です。

(この項、「」HPより)

※「ノスリ」タカ科の鳥。(写真は「Wikipedia」より)

この付近の今昔。

1880年代のようす。上流の離れたところに渡し場がある。

2010年代のようす。左岸・右岸とも微高地となっている。

野田市目吹・筵打地区。

上流方向。

       「海から104.5㎞」。

「海から105.0㎞」。護岸関連工事が行われています。

上空にはモーターハングライダーのエンジン音が。(↓)

   左には、耕地が広がる。

振り返る。自転車道が続く。

       

今にも雨が降り出しそう。              

     

        対岸は、「坂東場外離着陸場」。何機ものハングライダーが離着陸しています。

(「Googleマップ」より)

晴れていれば気分は爽快なはずですが。風が穏やかな分、楽です。

     

 

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その6。つくばエクスプレス。利根運河。大利根温泉。道標。野田スポーツ公園。

2022-02-20 20:22:14 | 利根川を歩く

         「柏市サイクリング道路」となります。遠くに柏市の街並み。

「海から91㎞」。          

       

「海から94㎞」。    

つくばエクスプレス。      

正面遠くに筑波山。         

「海から95㎞」地点。

            左は、「常磐自動車道」。

    「利根運河」水門。                           

利根運河                

「利根運河遊歩公園」。

                      解説板。利根川から江戸川までの水路が示されています。

利根運河の水門を回り込み、利根川の土手に。

右手にゴルフ場が広がっています。「クリアビューゴルフクラブ&ホテル」。

        

「海から97.5㎞」。

この先で土手の道は途切れてしまいます。

ホテル脇の道を通って「県道7号線」へでます。しばらくは県道歩き。

野田市まめバス停留所「大利根温泉」。

1958年(昭和33年)、住宅用ガス供給のために天然ガスを採掘したところ、温泉が湧出した。

1964年(昭和39年)に地産が経営に乗り出し、温泉プールやゴルフ場が併設するレジャー施設「大利根温泉チサンセンター」が開設された。1972年(昭和47年)には、後に「チサンホテル大利根」となる宿泊施設も誕生した。

しかし1980年代には源泉が枯渇し、現在は温泉の提供はしていない。

地産の経営破綻により、チサンホテル大利根は2005年(平成17年)10月11日に、ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツ系列の「クリアビューゴルフクラブ&ホテル」となった。

ただし、ホテル前のバス停留所名は依然として「大利根温泉」となっており、当時の名残をとどめている。

(この項、「Wikipedia」より)

「福田郵便局」の角を右折し、「野田市立福田第一小学校」を過ぎた角に道標など石塔がたくさん置かれています。

   

左「下総国葛飾郡保木間 流山・東京道」    右「 右木野崎 左瀨戸・柏」  

※どちらも明治以降の道標で、右は明治10年建立、大正9年再建とあります。明治前の古い石塔もありますが、この付近の道路整備等でこうして一ヶ所に集められたようです。

のどかな田園風景。

右に曲がると、いきなり前方が開けてきて、利根川の土手になります。正面に筑波山。

       左がスポーツ公園、右がゴルフ場とグランド。

左側に「スポーツ公園」広場。

土手を望む。

「海から100.0K」。

河口(銚子港)からようやく「100㎞地点」に到達しました。もう少し感動深い標識かと思いましたが、・・・。

下流方向を望む。

少し先まで歩こうと思いましたが、強風にあおられてここで断念。

    「海から100.5㎞」。

 

ところで、この付近、利根川をはさんで対岸も野田市になっています。かつての流れに沿ったかたちです。                                         

2010年代のようす。右側の三日月状の部分が旧利根川の流路で、現在も野田市になっています。

      

1880年代のようす。大きく右に迂回している。

点線が「北相馬郡」(現茨城県常総市)と「東葛飾郡」(現千葉県野田市)との境。         

長い時間待って、午後4時半過ぎのまめバスに乗り、ようやく東武線「野田市駅」まで。

駅の周囲は「キッコーマン醤油」の工場や関連施設。

遠くに見えるのは、「もりのゆうえんち」の観覧車。

    

                      

ということで、海から100㎞までの総集編でした。

昨日(19日)。曇り空の下、「海から121㎞」地点の「関宿城博物館」まで歩きました。

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その5。古利根沼。小堀の渡し。田中調整池越流堤。七里ヶ渡

2022-02-18 22:14:38 | 利根川を歩く

                    「海から77㎞」ポスト。

左の道は「県道170号」。

「利根川ゆうゆう公園」。

      オフロードのサイクリング コース。何人か練習しています。

この先には、サッカー場と野球場のほか、ピクニック テラスなどがあります。                 

「仲馬倶楽部」。 

遠くに日光連山。

「海から80㎞」。

突然、左下の道路際に「茨城県取手市」の標識が。ここまでの道筋は、「千葉県我孫子市」でしたが。

      

           正面の道路から右側一帯が取手市になります。どういうわけ?

実は、かつての利根川の流路にあたるのが、現在の「古利根沼」。

流路変更によって現在の利根川になりましたが、そのまま取手市の一部(小堀地区)が利根川をはさんで残っているわけです(↓)。川の付け替えが行われたことで、取手市(当時は取手町)の飛び地ができてしまったのです。

                                       (「今昔マップ」より)

また地名の「小堀」は「こぼり」ではありません。「 おおほり」です。「小」なの「大」という読みになるという不思議(地元の熱意?)。

       建物の向こうに「古利根沼」が広がっています。

        利根川に通じる水路が見えます。

   

      (「」HPより)

取手市役所などに出かけるにもオオゴト。近くの橋は「国道6号線」のみ。

小学校、中学校も取手市立の学校に通うことに。

学校に関してはあくまでも取手市の学区になります。 小学校は取手小学校、中学校は取手東中に通学することになります。(いずれも利根川の対岸) ただ、行政側で小堀地区への循環バスを走らせています。 小堀地区と取手駅や市民センター・取手小・取手東中を結ぶバスで、無料で乗車できます。 幼稚園に関しては義務教育ではありませんので、近隣のお好きな所へ。 取手市でも我孫子市でもOKです。 ちなみに、取手市には市立幼稚園がありますが、我孫子市には市立幼稚園がありません。 我孫子市内は全て私立幼稚園で、我孫子市民ならば我孫子市からの私立幼稚園への通園補助金が出ます。 (取手市民の場合は、仮に我孫子市内の幼稚園に通園しても、通園費などの補助は取手市の基準で適用されます。)

(この項、「」HPより)

循環バスだけではありません。渡船があります。

「小堀(おおほり)の渡し」の幟。

上流に向かいます。

「小堀(おおほり)の渡し」は、茨城県取手市内を結ぶ取手市営の渡船(とせん)(渡し舟・渡し船)です。利根川をはさみ、市内中心部と小堀(おおほり)地区を結び運航しています。

奥に「古利根沼」。

     旧利根川の土手跡が沼まで続く。

再び「千葉県我孫子市」に。

常磐線・上野東京ラインの鉄橋が間近に。重なるように「大利根橋」が向こうに。

      

                 「東我孫子カントリークラブ」。

「国道6号線(水戸街道)」・「大利根橋」。

左手遠くに「富士山」(↓)。

「海から86㎞」ポスト。

遠く、我孫子市の街並み。

しばらく行くと、土手の道は通行禁止に。その先は「田中調整池越流堤」。ここまでの堤防の高さより一段低くなっていて、堤防が頑丈に造られています。

実は広大な農地は貯水池の役割も担っているのです。

2019年の台風19号では利根川や荒川水域では大きな被害を受けました。その時、この一帯は、堤防を越境させ田畑に流し、下流への被害を少なくした、と。

せっかく丹誠込めて育てた稲などの野菜が、一瞬のうちに水没してしまうことは忍びない感じがしますが、利根川下流一帯の浸水被害を少なくするための施設として機能しています。

堤を下り、「二号排水路」沿いを進みます。

一羽のシラサギが。            

気がつくと、一般の(干拓した)田畑では、田畑の他に家屋が点在していますが、この地域には温室などの小さな工作物はありますが、家屋はまったく見当たりません。目的がはっきりしているわけです。

再び土手の道へ。

             

「海から89㎞」。

足もとの土手には菜の花がさきはじめています。この先、斜面には菜の花(もしかしたら「セイヨウカラシナ」? )が群生しています。本格的な開花にはまだ先のようですが。

          満開には見事な菜の花の群生に。

新大利根橋。

         

橋のたもとに。

七里ヶ渡跡

七里ヶ渡は、布施と戸頭(取手市)との間に設けられていました。

江戸幕府は元和2年(1616)8月、この地を関所の役割を兼ねた定船場としました。当時の渡船地点は明治13年作成の迅速測図、昭和31年頃の写真や当時の利用者の話等からこのあたりであったと推測されます。

幕府が江戸の防衛の意味から、利根川に橋をかけなかたこともあり、下総と常陸を結ぶ要衝としてこの七里ヶ渡は栄え、布施村には5軒の旅籠があって宿場町的な繁栄も見られました。また水戸街道の脇往還としての役割も果たしていたことから往来が多かったようです。

七里ヶ渡には布施河岸が併設されていました。当時、東北地方・利根川下流・霞ヶ浦沿岸の荷物は、利根川をさかのぼり、関宿を迂回して江戸に向かうのが常でした。それが上流に洲ができて船の往来が困難になったため、布施河岸で荷を下ろし、陸路で江戸川の加村河岸(流山市)へ運ぶようになりました。

明治23年に利根運河が開通すると、利根川をさかのぼってきた船は、利根運河を通じて江戸川に出るようになり、布施河岸の役目は終わりましたが、七里ヶ渡は昭和30年頃まで続けられました。

利根川上流河川事務所

     

今回は茨城県取手市、千葉県我孫子市・柏市にまたがる歩きでした。

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その4。若草大橋。木下・布佐河岸。手賀川。そして、天使のささやきの日。

2022-02-17 20:55:39 | 利根川を歩く

                     田園地帯が広がる。

対岸にある「大利根飛行場」。

印旛水門。

ここからは、1月22日(土)。

長門川

利根川と北印旛沼とを連絡する役割を果たす。それゆえ短区間ながら印旛沼水系全体に係る流域を擁し、印旛地域の水量調節に活用される治水上重要な河川である。事実上印旛沼唯一の流出河川となっている。(「Wikipedia」参照)

川面にはモーターボートが。

「海から67㎞」。

「生板鍋子新田」。何と読むのでしょうか?

「まないたなべこしんでん」。対岸の茨城県稲敷郡河内町にも同名の地名があります。「大徳鍋子新田」という地名も。由来は?

家並みが増えてきます。

「若草大橋有料道路」が間近に。

若草大橋有料道路につきましては,利根川の上流と下流に架橋されていた栄橋及び長豊橋の渋滞緩和を目的に,茨城県道路公社が有料道路事業により平成18年に建設し,その建設の際の借入金を,通行料金収入により償還することとしております。

(「」HPより)

       

左手遠くに雪に覆われた富士山が。

突然、銃声が聞こえてきます。猟銃でしょうか、河原で二人のハンターの姿。犬もしきりに吠えています。

       

「海から70㎞」。

                          標識の右奥遠くに富士山(↓)

「海から72㎞」「西」地区。

印旛郡栄町から印西市木下(きおろし)へ。しだいに市街地になってきます。

      

整備が進む河川敷。

「木下東」交差点。    

「海から74㎞」。

木下(きおろし)の町に入ってきます。「川魚料理 銚子屋」の看板が見えてきます。

           「←JR木下駅」・「木下河岸跡→」。

2010年の11月末、「木下街道」歩きでここに着きました。

「木下河岸跡」解説板」。

「木下街道」(現「市川・印西線」)は、江戸時代初期に行徳河岸(現市川市)と木下河岸(現印西市)を結ぶ往還として、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿がおかれました。人の行き来だけでなく、銚子方面から江戸日本橋の魚市場へと鮮魚を送る道としても重宝されました。貞享4年(1687)、松尾芭蕉は「鹿島紀行」の旅で木下街道を利用しました。

※「きおろし」は、伐採され河川で運ばれた材木を下ろしたことに由来するらしい。

現在の河岸のようす。

      上流方向。               

かつては印西の中心地(印西市役所の最寄りの鉄道駅は「木下駅」。)でしたが、今や「千葉ニュータウン」にお株を奪われた印象です。

北総線「千葉ニュータウン中央」駅前のようす。

「手賀排水機場」。

本施設は、国営手賀沼干拓事業により昭和31年に完成した排水機場です。降雨時には流域約160km2※1(柏市、印西市、我孫子市、鎌ケ谷市、白井市、流山市及び松戸市)から手賀沼に流入する洪水を手賀川の流末にて毎秒40m3※2で利根川へ強制排水することで、受益地3,400haを保全しており、近年では、流域の都市開発や道路等の浸水対策にも効果を発揮し、農地以外の社会共通資本の防災対策上も重要な施設となっています。

手賀川。

        遊覧船の船着き場もある。

手賀沼では、大きな干拓が2度行われている。第一干拓では、現在の下手賀川付近、第二干拓では今の手賀川北岸が埋められた。これにより、ほとんどが水田となり、残った部分が手賀川となった。

「今昔マップ」より、「干拓前後」。新田開発と住宅地化。

「海から75㎞」。

我孫子市に入ります。

 河川管理境界「←取手出張所 安食出張所→」。

「栄橋」が見えてきます。

「生(鮮魚)街道」の起点・網代場付近にある「馬頭観音堂」が眼下に。

「鮮魚街道」は、ここから終点・松戸河岸まで歩きました。(2020年9月)

解説板。

          布佐「利根川」河岸から松戸「江戸川」河岸までの道筋。

「鮮魚」の「せん」は、「魚」を三つ重ねたもの「鱻」が本字。

もともと急流箇所である布佐・布川間の狭窄部下流にあたり、海から昇る魚が一旦留まるため、網、投げ網の漁場となりました。後に水運の発達と共に船着場も出来て栄えました。  

現在は、網代場もすっかり住宅地になってしまい、「観音堂」だけが唯一面影を宿すのみです。

※網代(あじろ)

  1. 網の代わりという意味。
  2. 定置網の漁場。また、いつも魚群が集まってくる場所。
  3. 湖や川に柴や竹を細かく立て並べ、魚を簀の中に誘い込んで獲る仕掛け。

栄橋。

上流を望む。

我孫子市のマンホール。

我孫子市のシンボルである「手賀沼」と、市の鳥「オオバン」、市の花「ツツジ」、をデザインしたもの。

オオバン

頭をフリフリ泳ぐ真っ黒い鳥    白い額がトレードマーク

                 (「Wikipedia」より)

     

今回の掲載地図(部分)。

 

ところで、

今日、2月17日は、天使のささやき記念日」。天使のささやき=ダイヤモンドダスト

1978年(昭和53年)2月17日北海道幌加内町母子里(もしり)で日本最寒記録の-41.2℃を観測したことを記念し、制定された。

日本では1902年(明治35年)1月25日北海道旭川市で-41.0℃を観測し、日本最低気温として気象庁に公式登録された。その76年後の1978年に北海道幌加内町母子里の北海道大学付属演習林近隣の気象観測施設で-41.2℃を観測した。わずか0.2℃差で日本最寒の地となったが気象庁の観測対象から外れているため認められず、非公式記録のままとなっている。

気象庁測候所が観測した記録であると確認された場合のみ日本最寒記録として認定される。今回の場合は気象庁の施設ではなかったため認定されなかった。

ダイヤモンドダストは、極寒の時期にいくつもの気象条件が揃ったときだけに出現する、美しい自然現象です。氷点下10℃以下の快晴の早朝に、無風状態で湿度があると水蒸気が急速に冷却されるため、雲になる前に氷の粒になります。空中で舞い散るこの無数の氷の粒が、日光に反射してキラキラと輝くことから命名されたようです。別名として「天使のささやき」などとも表現されています。

(「GoodDay北海道」HPより)

一方で、今日は、日本海側を中心に、大荒れの雪模様。ダイヤモンドダストという(神秘的な)雰囲気ではなさそうですが。

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その3。神崎大橋。道の駅発酵の里こうざき。圏央道。常総大橋。長豊橋。

2022-02-16 21:01:47 | 利根川を歩く

                            ハングライダー。

利根川上空を悠々と旋回中。

河川敷の発着場。

「神崎大橋」。

                       「海から49㎞」ポスト。

神崎町。 

対岸の東町。

遠くに「圏央道」の橋脚が。

「海から51㎞」ポスト。その先を左折して「道の駅発酵の里こうざき」に向かいます。                       

千葉県神崎町の「道の駅 発酵の里こうざき」は、全国初の「発酵」をテーマとした道の駅。地元をはじめ全国の発酵食品を取り揃えた「発酵市場」がユニークです。味噌や甘酒、それにお酒と品ぞろいも豊か。

創業300年を超える2軒の蔵元を中心に、酒、味噌、醤油など発酵文化で栄えた「神崎町」を具体的に表した道の駅です。

けっこう賑わっています。最寄り駅から歩くと遠いですが、もう一度来てみたい道の駅でした。

「圏央道」新利根川橋。

「海から54㎞」ポスト。

午後2時過ぎ。空を見上げると、成田空港に着陸する飛行機が増えてきます。

(↓)。

常総大橋が身近に。

「海から54.5㎞」ポスト。

   常総大橋。

この日はここで終わり、滑河駅に向かいました。

その後、1月8日に再開しました。

久々の雪景色になった関東地方。その2日後の「利根川」歩きでした。滑河駅下車。

土手下や周囲の家々、田畑は、まだ雪景色のまま。

       

「下総利根宝船公園」。             

上空には、ひっきりなしに飛行機が。

 「尾羽根川水門」。   

「海から57㎞」ポスト。

はるか遠くまで雪景色の田園地帯。

                  左下は「国道356号(利根水郷ライン)」。

     根木名川水門。

「海から59㎞」ポスト。

十日川排水機場。

「海から60㎞」ポスト。やっと60キロ進みました。

 

遠くから近づく飛行機。頭上を。

長豊橋。「海から61㎞」。

       

栄町に入ります。

左側一帯が工場地帯になります。「日本食研製造(株) 千葉工場」、「(株)紀文食品 東京工場」・・・。

工業団地が終わると、田園地帯が開けてきます。

「矢口スーパー堤防」標識。

記念碑が利根川右岸、国道356号 利根水郷ライン沿いの紀文工場の脇の小広場に石碑と説明板が設置されている、とのこと。

※工業団地が大きく広がっていたのは、この事業の一環。                                                                 

下流を振り返る。

        「ここから〈長豊橋にかけて〉矢口(やこう)スーパー堤防」。

大きく広がる田園地帯。

                       左奥に工業団地。

「海から64㎞」ポスト。

「栄町運動公園(「水と緑の運動広場」)」。奥には大きな野球場(ナイター設備完備)や多目的グランドなど。

堤防を望む。

「海から65㎞」ポスト。

       

今回の掲載地図(部分)。

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その2。小見川大橋。東関東自動車道。鹿島線。水の郷さわら。

2022-02-15 20:25:59 | 利根川を歩く

「海から27.0㎞」ポスト。

「小見川大橋」。

JR水郷駅の付近。「利根川」から「常陸利根川」=霞ヶ浦から流れ=にかけて、田んぼが広がっています。

                     2010年代のようす。                

正面遠くに筑波山。     

「海から32.0㎞」ポスト。

        「東関東自動車道・利根川橋」。その先には、                       

「鹿島線」の鉄橋。

来た道を振り返る。

          手前が「鹿島線」鉄橋。奥が「東関道」の橋脚。

香取駅に向かう電車。

利根川に架かる鉄橋。                

右手、対岸遠くに筑波山が見えています(正面奥)。

          川面には、たくさんの水鳥。

川辺に大きな鳥居。「浜鳥居・常夜灯・与謝野晶子歌碑」。

ここに建立されている常夜灯(香取市指定文化財)は、明和6年(1769)に三社参詣の講中の人々が航路の安全を祈願し香取神宮に奉納した。高さは2.8まり、利根川を行き交う船の目印となった。その傍らに、歌人与謝野晶子の歌碑がある。晶子はは、明治34年(1911)に銚子を訪れた際に津宮に立ち寄り、鳥居河岸の宿屋で歌を詠んだ。

かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋

与謝野晶子歌碑。

          

この先で、「国道356号線(利根水郷ライン)」が左手から近づいてきます。

 

           「海から37㎞」ポスト。

       

                    遠くに見える橋は、「水郷大橋」。

国道沿いの「道の駅」だけでなく、利根川を活かした「川の駅」という二つの施設があり、まとめて「水の郷さわら」。

※利根川水運を利用し、江戸との舟運により栄えた商都・佐原にオープンした「水の郷さわら」は、全国初となる「道の駅」と「川の駅」が一体となった複合施設。   

     

正面には、「たぬき島」。 

「海から39.5㎞」ポスト。

ここから新しい自転車道に。我孫子まで続くようです。

水郷大橋。

左手は「利根川両総水門」。

対岸は、茨城県稲敷市。

左手。田園地帯が広がる。

「海から42.0㎞」ポスト。                         

国道356号線(「利根水郷ライン」)。 

成田空港から飛び立つ飛行機が頻繁に頭上を通過(↓)。

             

「海から45㎞」表示。↓は流れる方向を示すもの。

神崎(こうざき)町に入る。             

「海から47㎞」ポスト。頭上にモーターパラグライダーのエンジン音。 

     

今回掲載した地図(部分)。                 

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その1。銚子漁港。銚子大橋。利根かもめ大橋。利根川河口堰。

2022-02-14 20:29:23 | 利根川を歩く

                     「海から0.5㎞」標識。

やっと「海から100㎞」地点をクリアしたので、総集編を。

利根川

日本最大の流域面積をもつ。別名を「坂東太郎」。群馬県北部の大水上山に源を発し、徳川幕府の「利根川東遷事業」により、群馬、埼玉、千葉と関東平野を貫流し、銚子市から太平洋に注ぐ。その延長は322㎞で、日本で2番目の長さ。

※「322㎞」は、上越新幹線の東京駅から新潟駅までとほぼ同じ長さ。

※日本で最も長い河川は「信濃川」で、長さは367㎞。「甲武信岳」を水源とし、長野県を通り、新潟県新潟市の日本海へ注ぐ一級河川。ただし、「信濃川」と呼ばれるのは新潟県のみで、長野県の部分は「千曲川」と呼ばれる。第3位は北海道の「石狩川」。

JR総武本線「銚子駅」から銚子電鉄に乗り換え、「本銚子駅」で下車。ここから漁港まで歩き、スタート。

銚子港突端にある「千人塚」からの銚子漁港と利根川のようす。

銚子漁港に停泊するたくさんの大型船。水揚げなど活気のある時間帯を過ぎてしまいました。

   

しばらく進んだところにある「ミロツ鼻跡」碑の裏の岸壁に「0㎞」表示があったようです。

利根川河口に1962(昭和37)年に対岸の茨城県波崎町(現神栖市・かみすし)とを結ぶため、「銚子大橋」が架けられました。延長1450mは川面に架けられた橋では日本一の長さ。現在は、ハープ橋に架け替えられて観光名所になっています。冬は北風が冷たそう。

対岸を望む。

造船会社の船着き場からの「銚子大橋」。

         

「海から7.50㎞」ポスト。

               遠くに見える橋は、「利根かもめ大橋」。

土手の左側を走る「国道356号線(利根水郷ライン)」。「利根水郷ライン」は「国道356号」から分かれ、「県道170号」となり、我孫子市の「国道6号線(水戸街道)」に合流するまで、ほぼ90キロ、「利根川」沿いに進みます。

    

「海から9.5㎞」地点の先に、「利根かもめ大橋」。

             

堤防関連工事が進んでいます。

 「桜井浜」。     

上流側。

             鹿島臨海工業地帯の工場群が遠くに。

「海から14.0㎞」。      

銚子市の先は「東庄(とうのしょう)町」。

利根川に出ると、そこから「大利根サイクリングロード」が始まり、佐原まで続きます。

     

「海から16.0㎞」ポスト。

遠くに「利根川河口堰」完成年1971年)が見えてきます。   

     「18.0㎞」ポスト。

            河口堰に合わせて「利根川大橋」が併設されています。

     

「利根川治水百年記念」モニュメント。「川の流れと共に歩んだ地域の苦楽」「歴史の重み」を表現しています。

     

             「コジュリン公園」野鳥観察デッキ。

この付近の今昔。利根川の治水工事がいかに難工事、大工事であったかが分かります。

                                                                                                                               

2010年代のようす。上の流れは、常陸利根川。            1880年代のようす。水路が入り乱れている。     

左手に黒部川。

           

          

今回、掲載した部分(地図)。                 

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JR天王台駅~東武線野田市駅。その6。野田スポーツ公園。海から100㎞。キッコーマン醤油。(利根川を歩く。第16回目。)

2022-02-12 20:19:55 | 利根川を歩く

のどかな田園風景。

もう少し利根川寄りの道もあるようですが、バス通りを進みます。

  

右に曲がると、いきなり前方が開けてきて、利根川の土手になります。正面に筑波山。

       左がスポーツ公園、右がゴルフ場とグランド。

     

ゴルフ場は「野田市開発協会」の管理施設で、隣接する「野田市スポーツ公園」の施設として運営されています。

「市民特割」、「市民デー」、「レディース&シニアデー」などが「パブリック」という趣旨に沿った催しがあるようです。

河川敷の「ひばりコース」、丘陵の「けやきコース」の二つがあります。

「ひばりコース」。

    「けやきコース」。

左側に「スポーツ公園」広場。

土手を望む。

「海から100.0K」。

河口(銚子港)からようやく「100㎞地点」に到達しました。もう少し感動深い標識かと思いましたが、・・・。

下流方向を望む。

少し先まで歩こうと思いましたが、強風にあおられてここで断念。

    「海から100.5㎞」。

「スポーツ公園」に戻りましたが、風をよけるような施設はなし。親子連れは元気に遊び回っています。テントがいくつか張られ、風よけには抜群、でも小生は、・・・。

こうして「まめバス」をひたすら待ち続けました。

ところで、

この付近、利根川をはさんで対岸も野田市になっています。かつての流れに沿ったかたちです。

                                          

2010年代のようす。右側の三日月状の部分が旧利根川の流路で、現在も野田市になっています。

      

1880年代のようす。大きく右に迂回している。

点線が「北相馬郡」(現茨城県常総市)と「東葛飾郡」(現千葉県野田市)との境。         

長い時間待って、午後4時半過ぎのまめバスに乗り、ようやく東武線「野田市駅」まで。

駅の周囲は「キッコーマン醤油」の工場や関連施設。

遠くに見えるのは、「もりのゆうえんち」の観覧車。

    

野田市といえば、醤油。醤油と言えば、

キッコーマンしょうゆの歴史

しょうゆの郷(ふるさと)で生まれたキッコーマン

キッコーマンのしょうゆづくりの始まりは、江戸時代初期。現在の千葉県野田市で、江戸へのしょうゆ供給地としてその礎を築きました。野田は、関東平野に育まれた良質な大豆と小麦、江戸湾の塩など、原料の確保に最適の土地でした。また、潤沢な水と気候、江戸川の水運にも恵まれ、しょうゆのふるさととして大きく発展と繁栄を続けます。

そして1917年、野田のしょうゆ醸造家一族が合同して設立したのが「野田醤油株式会社」。キッコーマンの前身となる会社です。

野田醤油株式会社は、恵まれた地の利に安住せず、各醸造家の秘伝の技と知恵を結集し、その技術力と団結によって、より高品質で安定したしょうゆの供給をめざしました。設立当時は200以上あったしょうゆの商標も、1940年までに「キッコーマン」に統一され、現在に至るまで、六角形に「萬」の字のマークは「キッコーマン」ブランドのおいしさと品質の象徴として受け継がれています。

 
 

妥協なき品質の追求

日本の伝統調味料として、食卓にすっかりとけ込んでいるしょうゆ。だからこそ、キッコーマンは、その品質を大切に守り続け、一方で、さらなる品質の向上にも努めてきました。
第二次世界大戦とその混乱期には、著しい食糧難から、従来の高品質な本醸造しょうゆをつくることが困難になりました。そうした中でも、変わらぬ品質へのこだわりをもち続けたキッコーマンは、国内の需要をまかなえる新しい技術を開発し、日本の食文化の伝統である本醸造しょうゆを守り抜いたのです。日本が豊かになり、しょうゆ市場も成熟しつつあった1980年代後半、市場を活性化すべく、キッコーマンは新たなしょうゆの開発に乗り出します。

めざしたのは、「特選しょうゆの品質を超えるしょうゆ」でした。そこで、原料に丸のままの大豆を使う伝統的な醸造方法が採用されたのですが、大量生産がむずかしく、高コストという課題がありました。しょうゆのトップメーカーとしてキッコーマンは、品質がよいのはもちろんのこと、多くの方に納得いただける適正な価格でなければならないという考えのもと、高品質と生産性の両立をめざして、何度も技術改良を重ねました。そして1990年、より深みのある味わいがリーズナブルな価格でお求めいただける『特選丸大豆しょうゆ』が発売されました。家庭用しょうゆに新たな定番を送り出したのです。・・・

(この項、「」HPより)

もう一社忘れてはならないのは、「キノエネ醤油」。

時代を遡ること、190年。キノエネの歴史は、天保の時代の幕明けとともにはじまりました。以来、一世紀半の歩み。社会の変動、環境の変化、予期せぬ天災、幾多の障害を乗り越え、一筋に貫いてきたことはしょうゆづくりにかける一途な情熱と信念、そして努力。現在も変わらず守り続けるその姿勢。育て、守り続けているところに伝統の心があるのです。

’この項、「キノエネ醤油株式会社」HPより)

こうして、銚子、野田と醤油醸造の二大拠点を訪れました。

あと2回で栗橋(上流編で歩き始めたところ)に着けそうです。

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