おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

半藤一利さんを偲ぶ。

2021-01-14 19:35:06 | 読書無限

半藤一利さんが亡くなりました。

つい最近も読んだばかりでした(保阪正康さんとの対談)『そして、メディアは日本を戦争に導いた』。

今、読んでいる丸谷才一さんの『月とメロン』にも登場します。

むろん、『決定版 日本のいちばん長い日』、『日露戦争史』など大部のものから軽い(といっては失礼ですが)ものなどけっこう濫読気味に。

何を隠そう、墨田区にある「曳舟図書館」(「京成曳舟」駅至近)には、墨田区ゆかりの作家として、半藤一利さんの作品がずらりと並んでいます。それを借りて読んだ、ということですが。

このブログでも何冊か取り上げました。追悼の意味で再掲。

 

自称(他称もありか。自他共に認める)歴史「探偵」・半藤一利さんの書。永井荷風の日記「断腸亭日乗」を題材に、荷風の同時代的昭和史を、ちょっと遅れてやってきた筆者が後追いしながら、昭和30年代までの自己史をも語るという趣。
 後書きで、ご本人は「荷風さんの昭和」という題名が気に入っているようですが、読後感としては、初出の時のように「荷風さんと『昭和』を歩く」という方が適切な感じがします。
 戦争へ、破滅へと進んでいった「乱世」の日本、昭和3(1928)年~昭和20(1945)年。その時代を荷風の日記を基としながらそこから派生した話題を披露していく(歴史の裏側・真実を探偵していく)、という変幻自在な文章タッチ。恐れ多くも天下の文人・荷風さんを旅先案内人(杖代わり)にしてとは、大胆不敵です。
 P278の「付記」
 『日乗』原本の扉の表記が昭和16年8月以降から「昭和」が追放され、西暦で統一されているという。荷風の魂はもはや日本から離れ、西欧とくにフランスこそが自分の精神の故郷と、この扉の表記で示したのであろうか。ふたたび「昭和」が原本の扉に記されるのは昭和21年、日本占領がはじまってからである。おおかたの日本人が日本の過去をぶざまにののしりだしたとき、荷風の心はかえって日本へ向いたというのであろう。この壮大なへそ曲がりを見よ、である。

 このあたりが、半藤さんの「荷風」像の基と言えそうです。そして、ご自身のスタンスでもあるか。向島に生まれ、隅田川の産湯につかったご自身の、失われた(つつある)地域社会への熱い思いを語っていきます。
 俗世間にあって、その世界から超越しつつ、遠く、広く世界を歴史(未来)を見透かしていた荷風。その荷風の孤独な晩年の言動を尊敬の眼差しで(それでいて記者としての目はぬかりない)見つめる半藤さんの血気盛んな、若き頃。その頃から、こうして自らも半生を振り返る時期が迫ったときに、改めて荷風の偉大さに気づかされる、そんな思いが伝わってきます。
 読者の一人としては、隅田川、浅草、向島・・・、長年なじんできた土地でもあるので、よりおもしろさが増してきました。

半藤一利。東京下町生まれ。東京大空襲の体験も。「文藝春秋」に所属していたこともあり、一頃は保守派の論客でしたが(今も?)、太平洋戦争当時の日本軍部(特に日本陸軍)及び靖国神社におけるA級戦犯の合祀には極めて批判的で、昭和天皇の戦争責任についても否定していません。また近年は護憲派としての活動を積極的に行っています。
 そのため、保守派のドン(?)西尾幹二などから手厳しく批判されています。
 対する保阪正康。第二次世界大戦当時の軍部については極めて批判的であり、「大東亜戦争は自衛の戦争」と主張する靖国神社にも否定的。そのため総理大臣の靖国神社参拝にも極めて批判的で、一般人の靖国神社参拝についても「個人の自由」としながらも、「靖国神社に参拝することは靖国神社の主張を受け入れるということだ」と批判的です。
 これもまた、保守派論壇からは批判も多く、小林よしのりからは、当時の国際関係を無視しての、当事者の聞き書きスタイルの歴史観は、「蛸壺史観」とやはり手厳しい(どっちがそうなのか、と思いますが)。
 この二人。反対の立場から言わせれば、「俗人」(世俗)受けする歴史観の持ち主? 
 いずれにせよ、保守派からは目の敵に近い存在。戦争の犠牲となった自国の民衆、朝鮮半島をはじめ、他国の人々の目線から歴史を読み解くなどというのは、正統派歴史学者から言わせれば邪道なのかもしれません。
 かといって、西尾や小林の依拠する(きちんと学んだのだか、考えもせずに受け入れただけなのか、わかりませんが)、説く歴史観も、またきわめて偏っているとしか思えません。
 そこでこの書。とことん彼らが忌み嫌う、俗物受けするタイトル(小見出しで)で対談しようという、ある意味、痛快な小気味よい対談集になっています。その志たるやよし!
 だから、昭和を点検すると題していても、その内容は昭和20年8月15日敗戦に至るまでの「戦前昭和」を点検する、という内容になっていて、ま、反対派の「こいつら、また何を勝手なことを、俗受けする言葉で言い出すか」という手ぐすね引いて待っている連中をちょっと手玉にかけている、といった風情です。これが、お見事です。
 さて、対談の内容は、日本が負けることは明らかだったのに、どうして昭和20(1945)年8月15日まで続いたのか、とりわけ「ポツダム宣言」受諾まで20日間。この間に広島・長崎の原爆をはじめ、どれほど多くの犠牲が出たか・・・。そこにまで次第に話を狭めていくかたちになっています。
 では、何が「失敗の本質」であったのか。「どうせ」「いっそ」「せめて」。このありふれた言葉をもとに、半藤さんが他の書で昭和前史を読み解いていったわけですが(むしろ日本人の心性が、この三語によって括られる、とのことで)、その続編という趣です。まさに対談のなかでのベーシックなキーワードとなっています。
 この対談では、この三つの言葉の他に、「世界の大勢」「この際だから」「ウチはウチ」「それはおまえの仕事だろう」「しかたなかった」の五つ。
 証拠隠滅とか公文書の破棄とかで、資料も実は乏しい昭和戦争史。それは今でもなお闇の中のものも多いのです。そうした中での、ある意味、歴史を「探偵する」、そういうおもしろさがあります。その手法の中で、続々と登場する人物の発言、人となり、責任感、責任回避、黙殺、・・・、生身の人間像が浮かび上がっていきます。
 そうして読み進むうちに、実はこの対談は、けっしてかつての敗戦という結果に至った、戦ばなしではないことに気づかされます。
 今の官僚機構。役所や組織の体質、政治家の処世・・・。特に五つのキーワードがずばり大きく言えば、今の日本の政治状況、国際関係などの混乱につながっている体質。勤め先の上司の姿勢、無責任体制、成果主義、結果オーライ・・・、などまったく60年以上も少しも変わっていないことに気づきます。
 特に身近な官僚組織。個人的な思惑だけで、組織を勝手に動かし、計算尽くの人間関係がかえって無責任体制を生み、誇大報告(失敗を隠蔽し)で上司をだまし、縦割り組織の中で見て見ぬふりをする、他の部署の過ちを冷笑する、「ホウ・レン・ソウ」が根回しにすり替わり、そして、上も、中間も、ぜったいに責任を取らない、部下にその損失・失敗を押しつける・・・、そんな組織が今もはびこっている。ここに目を向けなければならないなのに、誰も気づいていて言わない! そこに歴史の悲劇があり、教訓があるはずなのですが。

 「昭和史の語り部」半藤さんのあちこちで発表された文章をまとめたもの。発表時期は1973年から2007年まで。表題のような括りで、ひとまとめにしてある。
 そこに見えるのは、一貫性ということである。歴史観というか、歴史の見方が一貫していることに驚嘆さえ感じる。ここに、筆者の面目躍如たる所以がある。
 
 歴史における「真」と「実」の問題。事実としての「実」はちょっと資料を探れば手に当たる。しかし「真」は、多くを読み、調べたところで簡単に手に入るものではない。常に歴史に親しみ、追体験し、想像力をふくらませ、よく考えながら育成していく「歴史を見る眼」の問題。自分の見方をもつことなくしては、歴史を楽しみ、そこから意義や教訓を多く引きだすことができない。
 
 このように喝破する筆者。長年の編集者としての眼が養った、確信から生み出されたものである。
 では、何が「失敗の本質」であったのか。「どうせ」「いっそ」「せめて」。
 すでに昭和20年に入って日本が負けることは明らかだったのに8月15日まで続いたのか、とりわけ「ポツダム宣言」受諾まで20日間。この間に広島・長崎の原爆をはじめどれほど多くの犠牲が出たか・・・。
 このあたりの実証的な分析が見事だった。学者でもなく、評論家でもなく、たんなる一市民の目でなく、複眼的な評論姿勢がすばらしい。

 吉川英治の小説「三国志」。高校のころ読んだことがあったが、長じてから、ずっと後に書かれた横山光輝の漫画「三国志」。。長編の漫画で、何十巻あったかしら、次々と買い込んでは私のようないい大人も読んでいた。それからゲームの「三国志」(私はやらなかったが、ちょっとした大人も夢中になっていたそうだ)。こうみると、世代を超えて人気のある物語が、「三国志」のよう。
 本場の中国でも京劇でさかんに演じられる。かつて日本に来た京劇で関羽にまつわるものを観たことが。あの独特の、キーの高い発声と賑やかな音楽と派手な立ち居振る舞いに圧倒されたことをふと想い出した。
 この本は、画家の安野さんが「繪本三国志」の出版記念に企画された、作家の半藤さんとの対談集。 談論風発。お二人の自在な対談が楽しめる。
 現地に取材して中国の悠久の大地に根ざし、栄枯盛衰の時代に目を向けた対話の妙から始まり、歴史観、人物観など時に日本の戦国時代の武将像や明治以降の軍部のあり方など、時空を越えた対談が興味を大いに誘った。
 3世紀に書かれた古い歴史書の「三国志」(正史)そのものよりも、14世紀に書かれた小説の「三国志演義」のほうが一般的にはなじみが深かったらしい。何しろ、蜀の興隆と滅亡の歴史が中心。劉備玄徳や諸葛亮孔明など多彩な登場人物が織りなす、感動のドラマ仕立てだから。三国のうち、魏や呉は旗色が悪かった。お二人は、それをふまえた上で、教養豊かな三国志論を語り合っている。それでいて、コンパクトに仕上がっている。安野さんの絵も、小さいながらいくつも紹介されている。味わい深い絵の数々。・・・

(本の写真は、すべてAmazonより)

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「日本橋川」。その5。「桃乳舎」。江戸橋。日本橋。魚市場。そして「箱根駅伝」。

2021-01-08 20:01:59 | じじばばがゆく

              「桃乳舎」。レトロな建物が存在感、抜群。

ちょっと横道に入ったところにあるお店よ。オフィス街の裏手。近くのサラリーマンの方々に人気のお店。あまり女性客はいないわね。以下は、「」HPさんの訪問記事。

茅場町駅から約10分の箇所、オフィス街のやや裏手に突然と古めかしいビルが出現します。それが今回伺った桃乳舎。創業明治22年のこのお店は、元々ミルクホールとして始まり、喫茶店へ拡大。そして食堂へと変遷していったとのこと。現在のビルは昭和8年に建てられたとのこと。人気の秘密は味と価格にあります。見てください、この価格!ランチなんと500円!!!雰囲気も味も、昭和の王道で、本当にタイムスリップしたような気分になれました。味、クオリティ、量、値段全部が素敵で、12時前から行列が出来る意味が理解できました。ここはみんなが一度は行くべきお店です、はい。

 

(写真は、「食べログ」HPより)

昔からけっこう地元では有名な「大衆食堂」だったようね。行く機会はなかったけれど。

ここにも。エンブレムがすてきね。

次は「江戸橋」。

 17世紀に大船町(後に本船町)と本材木町の間の日本橋川に架けられた。当初の位置は現在より下流にあり、すぐ東脇を楓川が縦貫していた。1632年(寛永9年)成立の『武州豊嶋郡江戸庄図』では写本によって江戸橋が描かれているものといないものがあり、創架年代を1631年(寛永8年)頃とする説と、次に登場する『正保年間江戸大絵図』までの間とする説がある。橋名の由来は、隣の日本橋との連想から命名されたとする説の外、都市化以前の江戸中心部が この周辺だったのではないかと推測する説がある。

橋の下は漁船や乗合の舟が集まり、南側には船宿があった他、隅田川の舟遊びのための屋形船なども停泊していた。南西側は木更津河岸と呼ばれ、江戸と上総国木更津を行き来する木更津船が発着した。南詰には明暦の大火後防火のため江戸橋広小路が設けられ、賑わった。

1875年5月に石橋に、1901年には鉄橋へ改架されている。 1927年(昭和2年)昭和通り開通に伴い現在地に架け直された。

(この項、「Wikiprdia」参照)

                      1880年代のようす。江戸橋が「石橋」の頃。

                     2010年代のようす。「楓川」などは首都高や昭和通りに。                                                  

こう見ると、「日本橋川」の川面が残されたのは、奇跡的なことかもしれないわ。

 

             

『名所江戸百景 日本橋江戸ばし』歌川広重画。

やっと「日本橋」に到着しました。 

                                         頭上は「首都高」の橋脚。                   

「日本橋由来の碑」。

日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
昭和十一年四月
日本橋區

              

日本国重要文化財「日本橋」
・構造、形式
石造り二連アーチ橋 高い欄付(青銅製照明灯を含む)
附 東京市道路元標 一基 
・所有者
 国(建設省:現国土交通省)
・指定年月日
平成11年5月13日 指定(建 第2362号)
・指定の意義
明治期を代表する石造りアーチ道路橋であり、石造り石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である。また、土木家、彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり ルネッサンス式による橋梁本体と和漢折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており、意匠的完成度も高い。
建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定

重要文化財日本橋」 附東京市道路元標(一基)

                   所在地:日本橋室町1丁目~日本橋1丁目
日本橋の創業は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な5つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街のの中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気のある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。
現在の日本橋は明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。・・・照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも風洞生銘はで、青銅の照明灯装飾品の麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像は、、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名o の揮毫は、第15代将軍徳川慶喜の筆によるものです。

また、「東京市道路元標」は昭和42年(1967)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣佐藤栄作の筆による「日本国道道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。  平成31年3月         中央区教育委員会

「道の起点としての日本橋」。     

        

「三越」。

     「野村證券」。

上流(「神田川」方向)を望む。

 

下流方向(「隅田川」方向)を望む。橋脚がかなり無粋だわね。

東海道五十三次之内 日本橋 朝之景 / 歌川 広重

 日本橋は五十三次の出発点であり、ここより京都までは124里半(約492km)である。鐘が七ツ(午前四時)を打つと木戸が開かれ、一日が始まる。朝焼けの空を背景に、日本橋の近くの肴市場から威勢のいい魚商が魚をかついでゆく。大名行列が橋を渡ってくる。犬が遊んでいる。塀や甍の直線に日本橋の力強い曲線の構成が、街の活気をさらに強調している。そして橋の中央から高く立つ毛槍が爽快な旅立ちを表わしている。

(「知足美術館」HPより)

 明治時代のようす。活気のある風景。(「Wikipedia」より)

川下りが出来るのね。今度乗ってみたいわ。

この付近の案内図。

あら、一番大事なこと、忘れてるじゃない。今回の目的。これを撮らなきゃダメよ。

「日本橋魚市場発祥の地」。「乙姫像」。

「乙姫像」下の解説文。

本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝに運送して日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所圖會にのこれる日本橋の魚市 魚河岸のありしはこのあたりなり旧記によればその濫觴は遠く天正年間徳川家康の関東入国と共に摂津國西成郡佃 大和田兩村の漁夫三十餘名江戸にうつり住み幕府の膳所に供するの目的にて漁業營みしに出づその後慶長のころほひ幕府に納めし残餘の品を以てこれを一般に販売するに至り漁るもの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ市場の形態漸く整ふさらに天和貞享とすゝみて諸國各産地との取引ひろくひらけ従ってその入荷量の膨張驚くべきものありかくしてやがて明治維新の変革に堪へ大正十二年関東大震災の後をうけて京橋築地に移転せざるの止むなきにいたるまでその間じつに三百餘年魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神発祥の地としてよく全國的の羨望信頼を克ちえつゝ目もあやなる繁榮をほしいまゝにするをえたりすなはちこゝにこの碑を建てる所以のものわれらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらずひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり

東京に江戸のまことの 
しぐれかな

昭和二十九年三月

旧日本橋市場関係者一同に代わりて
日本芸術院会員 久保田万太郎 撰
日本芸術院会員 豊道慶中 書

さすが「久保万」ね、みごとなものね。

左の解説板。

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。
なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
この魚河岸は、大正十二年(一九二三)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(一九五四)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

平成十九年三月

中央区教育委員会

実はこの日(1月3日)は「箱根駅伝」2日目だったのね。

上の写真で手前に置いてあるのはTV用の機材。

この先、左折していよいよゴールというところ。けっこう警察官や実行委員が出ていて、立ち止まらないで! という案内を。まだまだ時間が早いので、人はいなかったけれど。(結果はご承知の通り)。

「高速道路」の橋桁に「日本橋」だって。おかしいわよね。

さて、ここまでね、戻りましょうか。ちょっとお茶でもしますか。3密を避けて。

「日本橋魚河岸」。

             「両替商の街」。

ちょっと見て、あの細長いビル。お寿司屋さん。頑張っているわね。

             「昔からある店」寿司貞。

ではまた。ごきげんよう。

・・・

この散策から5日が過ぎ、「緊急事態宣言」が発出されました。

去年の4月よりもかなり緩やかな印象。飲食店ばかりやり玉にしているけれど、通勤とか何とかならないのかな。

飲食して家に帰って家族に感染させるのが悪い、っていう話しだけれど、どうもそれだけじゃなさそうよ。

箱根駅伝だって観戦は遠慮して下さいって言ったって、けっこうな人出だったようだし。

国民には我慢を強いて、これを乗り切れば、オリンピックが開催できれば、って何とか支持を取り戻せる、って。

党利党略で生命や生活を軽んじていけないわよね。

だいたい、中国や韓国、ベトナムなどからの入国は制限しないらしいじゃない。

そもそも、年末年始は感染が少なくなるか、と思ったなんて言っているようじゃ、どうしようもないわよね。

って、やっぱり最後は、愚痴やら不満やらになってしまったわね。

 

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「日本橋川」その4。湊橋。茅場橋。鎧橋。または、「首都高」地下化計画。

2021-01-07 19:57:12 | じじばばがゆく

               「湊橋」。二番目の橋。

ここで、「日本橋川」「神田川」「外濠」の全容を。             (「」HPより)

 

  

この橋は、霊巌島(現在の新川地区で通称こんにゃく島と呼ばれていた。注:埋め立て地で地盤がゆるかったため、「こんりゃく」といわれた)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679年)に架けられました。

 この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んで樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所図会」によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋をはさんだ川岸には倉庫が建ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。

 橋名の由来については、江戸湊の出入口にあったところから、湊橋と名付けられたものです。

 現在の橋は、関東大震災の復興期に再建されたもので、平成元年度の整備事業において、装いを新たにしました。

橋脚の真ん中には、帆かけ船をデザインした徽章。

「隅田川」方向を望む。「豊海橋」が見える。

「日本橋」方向。首都高の橋脚が林立。

この先、川を望むのか、首都高の橋脚を眺めるのかって感じになってしまうわね。

首都高の地下化計画が始まったようだけど。

・・・

日本橋川上空の首都高速は1964年の東京オリンピック前に建設され、半世紀以上が経過。1日約10万台の自動車が走行して損傷が激しいため、神田橋JCT(ジャンクション)付近(千代田区内神田2丁目)から、江戸橋JCT付近(中央区日本橋小網町)にかけての延長約1.8kmの構造物を更新、地下化する事業を進める。

 日本橋川周辺は国家戦略特区の都市再生プロジェクトとして多くの再開発計画が立ち上がっており、首都高速の日本橋区間地下化事業や、東京都の「補助第96号線整備」も、周辺の計画と連携しながら景観・環境改善に向けて推進しているところだ。

 日本橋区間地下化事業では、地下埋設物移設や常盤橋出入口・呉服橋出入口・江戸橋出入口撤去などを経て、地下化工事の準備が完了。日本橋川の水位を下げ、地上から地盤を掘削、支障となる橋脚の移設などを行ない、シールドマシンによるトンネルの掘削が終わるのが2035年ごろ。そして高架橋の撤去工事が2040年ごろに終わる予定だ。

(この項、「トラベルWatch」HPより)

(「首都高速道路日本橋区地下化事業」HPより)

20年先か、う~ん、まだまだ先なのね。

「箱崎料金所」。

「茅場橋」。

上流を望む。

「新大橋通り」にある橋。さりげないモニュメント。

                     1880年代のようす。「茅場橋」はない。

                     2010年代のようす。橋の頭上には「首都高」。

 

次が「鎧橋」。

鎧橋が最初に架かったのは明治5年(1872年)で、当時の豪商が自費で架けたのが始まりです。橋が架けられたのと前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、この地は大いに賑わいました。

 その後、明治21年(1888年)には鋼製のプラットトラス橋に架け替えられました。

 その頃の様子を文豪 谷崎潤一郎は「幼少時代」でこんな風に書いています。

 「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・

 私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・

 対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」

 現在の橋は昭和32年(1957年)7月に完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。

 橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます。

橋の名前に由来するのは、「鎧の渡し」。「鎧」と「兜」で対になっているわけね。向かいの兜町側に由来の示す碑が建てられているみたい(未確認)。

「Wikipedia」で補足するわ。

この付近は、古くはの生い茂る沼地で、江戸時代徳川家康江戸城築城計画に合わせて埋め立てられた。橋が架かる以前は、渡船「鎧の渡し」が両岸を結んでいた。鎧の名の由来には2通りの言い伝えがある。一つは源頼義が奥州討伐の際にこの場所で暴風雨に遭い、自分のを海中へ投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ風がおさまったのが始まりとする説、もう一つは平将門と鎧を奉納したのが由来とする説である。

鎧の渡しは50 mほどの渡しで、賃料は1人1文、武士僧侶山伏医者は無料だった。『市中取締類集』に嘉永3年(1850年江戸町奉行へ賃料の値上げを訴えた記録があり、鎧の渡しの実態を知ることが出来る。これによると極印のある渡し船は2艘、水主(船頭)は4人(1人・日給150銭+飯料150銭)、運賃の受け取り役である渡銭は2人(1人・日給53銭+飯料150銭)。有料利用者数は1ヶ月3万7千人で、近くにある無料の江戸橋を利用する者も多かったことを考えると、1日1200人以上の有料利用者数はかなり多いといえよう。しかし、人件費だけで歳出の85%に達しており大幅な赤字だった。特に支出を圧迫している水主の給金を減らそうにも日本橋川筋は特に通船数が多く、人件費が嵩んでも腕の良い船頭を選ばざるを得ない事情があったようだ

初代の橋が架けられたのは1872年明治5年)で、三井・小野・島田の3人の豪商が費用を出し合って建設された。周辺は江戸時代から米問屋や酒問屋が多く、1871年第一国立銀行本店、1878年には東京証券取引所の前身である東京株式取引所が開設されるなど商業の町として発展した。1888年(明治21年)4月7日にトラス橋に架け替えられ、路面電車が走るようになった。1915年(大正4年)に拡幅工事が行われたが、1946年昭和21年)には老朽化により本橋の都電の通行を終了。1957年(昭和32年)7月には、現在のゲルバー桁橋に架け替えられた

『名所江戸百景』「鎧の渡し小網町」。歌川広重画。谷崎が描いたように、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。

川向こうに「東京証券取引所」。頭上は、「首都高」で覆われている。

 

都電が通っていた頃の「鎧橋」と現在。

「ぺんてるビル」がこの奥に。クレヨン、サインペン、シャープペンシル・・・。けっこうお世話になっているわよね。

さて先に進みますか。次は「江戸橋」かな。その前にとっておきの建物を紹介するわね。

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「日本橋川」その3。「豊海橋」。あなご、または「チンアナゴ」。

2021-01-06 18:44:40 | じじばばがゆく

                「豊海橋」。梯子を横にしたような骨組み。

「日本橋川」河口にある最初の橋ね。

それじゃあ、橋の方に移動しましょう。あれ、眼の下に船が。「日本橋川」を上流の方へ進んで行くようね。屋形船でもなさそうだし、小ぶりの船。

              

橋のたもとに立派な解説板。

 豊海橋
日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至っています。
現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に復興局が架設したもので、形式名はフィーレンデール橋といいます。この名は考案者のフィーレンデールの名をとったものです。
梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたものでう、我が国では本橋以外に数例しかなく、希少価値の高い橋です。
「豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は明月の光を得て白昼に見るよりも梢画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。(永井荷風「断腸亭日乗」)

「日本橋川」に架かる橋一覧。

こちらの解説板。

 現在の豊海橋は、大正15年(1926)5月起工、昭和2年(1927)9月竣工。
日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。
明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。
福田武雄はフィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感のある豊海橋を完成しました。この様式は日本で数カ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区有形文化財に登録されています。
平成14年3月 中央区教育委員会

たしかに独特の橋のかたちだわね。

川沿いには行けないから、この道を進みましょう。けっこうお店もあるのね。

 

「hinoban」。                   「あなご屋 銀座ひらい」の厨房のようね。 

 

(写真は「ぐるなび」HPより)

日本料理において、マアナゴウナギと同様に開き、天ぷら蒲焼煮穴子寿司種、八幡巻牛蒡をアナゴの身で巻いたもの)などで食べられている。蒲焼では、たれの状況次第では、より高価なウナギとアナゴは味が区別できない場合もあるという。一本丸ごと揚げた天麩羅は天丼や天ぷらそばなどに乗せると丼からはみ出す様が見栄えがし、価格も手ごろなため、名物としている店も多い。

江戸時代から東京湾羽田沖で捕れたものが江戸前の本場物とされ、現在でも東京湾岸各地で漁場となっている。また、瀬戸内海で捕れたものなども地元や関西地方で珍重されている。

岡山県郷土料理として生の幼魚(ノレソレ)をポン酢で食べる「ベタラ」がある

広島県廿日市市宮島宮島口では穴子の蒲焼を飯に載せた「あなご飯」が名物である。山陽本線宮島口駅駅弁として考案されたのが元祖で、宮島名物として定着した。千葉県富津市ではアナゴのことを「はかりめ」と呼ぶ

(この項、「Wikipedia」より)

漢字で書くと「穴子」でしょ。ほら、スカイツリーにある「すみだ水族館」じゃ、「チンアナゴ」が人気なのよね。

目が大きくて、体は細長い魚よ、巣穴から半身を乗り出したり、引っ込んだりしてかわいらしいわね。中には身体が全部穴から出っちゃって慌てふためくようす(そうかどうかわからないけど)が面白い。いつまで見てても飽きないわ。観賞魚として人気があるようね。今度行ってみて下さい。

(写真は、「Wikipedia」より)

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日本橋川。その2。永代橋。または「アベノミクス」の先兵・日銀の功罪。

2021-01-05 18:59:41 | じじばばがゆく

                      「永代橋」。

やっと「隅田川」と「日本橋川」の合流点に着いたわね。向こうに見えるのが、「永代橋」ね。昔は、この付近にあったのよね。

                        

1880年代のようす。「永代橋」。           2010年代のようす。下方は佃島。

けっこう眺めはいいわね。川風もまた、よしか。

永代橋

元禄11年(1698)に架橋された木造の永代橋は、現在の「永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれていたことからと名づけられたようですが、一説には5代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名づけられたとも伝えられています。江戸時代には橋桁が高く取られたこともあり、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく眺望よし」などといわれるほど、の美しい景色が広がっていました。

歌川広重が江戸後期に描いた「東都名所永代橋全図」には、隅田川河口のこの辺りに多数の廻船が停泊している様子がうかがえます。また、永代橋西詰のにぎわいとともに、高尾稲荷社へ参詣する人々の姿などももいられ、詩情豊かな情景が描かれています。

なお、永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897)のことで、道路橋としては初めてとなる鋼鉄橋に生まれ変わりました。その後、関東大震災で被災したため、大正15年(1897)に現在の橋へと架け替えられました。上流に架かる清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重厚感あふれる永代橋は、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。

歌川広重「東都名所永代橋全図」

「隅田川」と「日本橋川」付近の賑わい。

右奥が佃島、対岸には深川新地とあり、永代橋が深川八幡宮への道であると共に、深川の街並みが南にも広がっていったことがよくわかる。佃島沖には、帆を降ろした大型の弁財船が停泊し、荷を移した小舟が隅田川の上流へと帆を上げている。永代橋が太鼓橋になっていて、帆掛け船が通過できるようになっている。

栄泉「東都永代橋之景」。

でも、悲劇があったのよね、文化4(1807)年には深川八幡の祭礼に向かう混雑で橋桁が落下し、1,500人余りが溺死したって話し。詳しくは「Wikipedia」を参照してね。

文化4年8月19日、深川富岡八幡宮で12年ぶりの祭礼日(深川祭)が行われた。久しぶりの祭礼に江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せた。また、一橋家の船が永代橋を通過する間、橋を通行止めにしたのも混乱に拍車をかけたと伝わる。ところが、詰め掛けた群衆の重みに橋が耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ちた。だが後ろからの群衆は崩落に気が付かず続々と押し寄せ、崩落部分から雪崩をうつように転落した。

御船手組や佃島の漁師までが救援に駆けつけて必死に救出作業を行ったが、数日前の雨の影響で水質が良くなかった事もあって救助は難航、溺れた者の中にはそのまま行方知れずになった者もいた。事故の翌日の記録として、救助された者780名でうち440名が亡くなっていたとされている。また、遺体の確認も混乱を極め、家族が誤った遺体を引き取ってしまう例も発生した。・・・

死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超える大惨事となった。これは史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が下記の狂歌や『夢の憂橋』を著している。

永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼

また、町中に貼られた落書の中に以下の句が記されていたと伝えられている

御祭へ 行のの道は 近けれど まだだしも見ず 橋の落たて

曲亭馬琴は『兎園小説余録』に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている。

また、当時の逸話として様々な話が伝えられているがその一つとして、本郷の麹屋の主人が祭礼を見ようと永代橋に向かう途中でスリに2両2分が入った袋を盗られたのに気づき、「金が無いのに祭りを見ても仕方がない」と思って帰宅したために事故に巻き込まれずに済んだ。ところが翌日に奉行所から主人の遺体が上ったので確認に来るように命令があり、主人が奉行所に自分は無事に帰宅した旨を申告すると役人は主人の名前が記された2両2朱が入った袋を証拠として見せた。主人からその袋を盗られて見物を諦めて帰宅したという話を聞いた役人は「恐らく、スリが盗みの後に見物に行こうとして永代橋から落ちて溺死したのだろう」と述べて、主人に袋を返すとそのまま帰宅させたという

落橋事故後、交通の要衝としての橋の維持に幕府も理解を示し、再び架橋された。

また、深川木場の材木問屋が深川万年町(当時、現在の江東区深川)の海福寺に犠牲者の供養塔を建立した。その後、海福寺そのものが現在の目黒区に移転したため、供養塔も一緒に移転されている

ということね。

そうそう、赤穂義士が本所の吉良邸から泉岳寺へ引き上げる時に渡った橋としても有名よね。

 

ちょっと待ってよ! この付近に「日本銀行創業の地」碑があったんじゃない。

奥に「日本IBM箱崎ビル」。

 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄   

「アベノミクス」という、ジャブジャブ金融緩和の主役よね、日銀。景気回復・デフレ脱却を至上命令にして、ゼロ金利。結局金余りになって、株式市場に大がかりに投資。今や、一番の株主になっているみたいよ。

年金の資金なんかもどんどんつぎ込んでいるらしいし、株が暴落したらどう責任をとってくれるのかしらね。

「年金は減額します」、でも「自助」で乗り越えて下さい、ってことになるの。

国の借金は増えるばかりだし、「今さえよければ」「自分(たち)さえよければ」ってやり方、いつか破綻するわよね。

その責任、借金返済は、後世の人にすべてかぶせてしまうわけ。

今の株高だって、一般の生活感覚とはずいぶん離れている感じがするわよね、まるで実体経済と合ってないような気がするわ。 

結局、金持ち優遇政策だったのよね。お金持ちには「共助」なんて考え、まるでないわよ。持たざる者、人にあらず、じゃね。 

「隅田川」、「日本橋川」、「亀島川」に囲まれたところが、「霊岸島」ね。

ここは、「Wikipedia」をお借りするわね。

この地域は、もと平川(元の神田川)の派川・八丁堀川の河口に面した隅田川の中洲で、江戸中島とよばれていた。徳川家康による江戸普請によって中島を埋め立てた。霊岸橋の南側の亀島川側から永代橋の南側へかけて霊岸島を掘削し、これが後に「新川」の通称で呼ばれるようになった。新堀を隔てた北側を箱崎島(現・日本橋箱崎町)、南側を霊岸島といった。さらにさらにその南側にも小規模なコの字型の堀が福井藩邸を囲むようにあり、こちらは「越前堀」と呼ばれた。霊岸島の呼称は、かつて八丁堀北東の一州にあった霊巌寺に因むが、明暦の大火で寺は深川へ移り、跡地に町家が成ったとされる。

八丁堀へつながる新堀は、さらに西の道三堀飯田堀と続く日本の江戸時代における海運の要であり、越前堀には御船手組屋敷が並び、霊岸島の南端には船見番所が置かれていた。また木場につながるこの地には船大工が多く住み、河岸には酒問屋が多く集まったという。・・・

そこは、かつて歩いたことがあるわよね。



1880年代のようす。赤丸が「豊海橋」(当時は「木橋」か?)。すぐ東、隅田川に架かる橋は、「永代橋」。中央の○が「越前堀公園」「明正小」付近。下の○が「越前堀」下流。上流の部分はすでに埋め立てられている。中央の水路が「新川」。左端、霊岸島を取り囲むように流れている「亀島川」に合流する水路が「八丁堀(桜川)」。

                     2010年代のようす。島の縦横に幹線道路。

                

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「日本橋川」。その1。または、間の抜けたことになりそうな「緊急事態宣言」。

2021-01-04 19:57:55 | じじばばがゆく

    「清洲橋」から「小名木川」」を望む。川向こう、中央付近「隅田川」河畔に「芭蕉像」。

あけましておめでとうございます。相変わらず歩き好きね。なんで今回、「日本橋川」なのよ。

銚子の海から「利根川」を船で運び、「利根川」河岸の布佐から鮮魚街道・陸路で松戸の「江戸川」河畔、そこから「江戸川」を下って、江戸川区の「新川」に入り、「旧中川」から江東区の「小名木川」を通り、日本橋の市場まで「日本橋川」を、って、けっこう大変な道のりだったのね。

「小名木川」や「新川」は、行徳の塩や近郊の野菜なんかも運んだのか。

で、今回が最終回、日本橋まで、というわけか。付き合わされる、ってわけね。ま、久々の外出だわね。

でも、なんで「水天宮」からなのよ?

 

首都高」下。かつての運河の跡。

なるほど。このあたりは、隅田川の中洲になっていたわけね。

1880年代のようす。→が「小名木川」。

2010年代のようす。架かる橋は、「清洲橋」。 「箱崎JCT」付近

これから「清洲橋」に行って、そこから南下して、やっと「日本橋川」に向かうのね。

下流方向。

上流方向。遠くにスカイツリー。

こんなことよりもさ、「緊急事態宣言」がやっと出るらしいじゃない、でも、まだ検討中だってさ。出すとしても、今度の土曜日からだって。何考えているのかしらね、だいたい去年の11月頃に出すべきだったんじゃないの。

2Fに意のままに操られ、頭が上がらない、ガースー。「GO TO 何とか」にかまけて、ズルズル判断を伸ばし、伸ばしてやっと今? それも検討するだけで終わりにするつもり?

だいたい国交相、公明党じゃないの、あの方、11日過ぎには元に戻すのが当然だ、なんて感染拡大中に発言しちゃうしさ。「小さな声」は聞くつもりなしね、あの方々。

年明けには感染が拡大するぞ、って言われていたのに。国民の神経を逆なですることで満足なのかしら。支持者にさえ受ければいいってわけね。

これじゃ、「緊急事態宣言」を出すタイミングの悪さは、まさに「異常事態(宣言)」よ。

そもそも「Go To」は問題ない、会食が問題だ、原因だなんて言ってるけど、ホントかしら?

実は「Go To」を利用して出かけたのよ。たしかに安くなって助かったわよ。でも、サービスポイント、現地で使う金券。

結局、それで夕飯を食べに行ったらさ、もう混んでて、混んでて、お客さんが一杯。若いグループなんか、マスクなしでどんちゃん騒ぎよ。「旅の恥はかきすて」じゃないけど。

地元の若者だったかもしれないけれど。あの飛沫を浴びて感染なんてこともあり得るんじゃないかな。

あら、こっちは静かなものよ。マスクを外して食べて、マスクをかけて会話・・・、尾身さんや神奈川県知事のご推奨方式よ。面倒だったわ。

あれが一番の原因だと思うわ。飲食店ばかりを責めては気の毒よ。旅行代だけを割り引くなら、飲み食いは、ほどほどに、って考える旅行客だっているはずよ。

それに、そこの地域は、「魚民」と「セブンイレブン」でしか使えないようになっていて。国道沿いでけっこうお店があるのに。

居酒屋に行く人が多くなるように仕向けているとしか考えられない。それも、地元のお店じゃなくて、全国展開のチェーン店。

おかしくない、発想が。結局、大きな旅行代理店と大企業がうまく儲ける仕組みになっている。2Fの思うままなのよ、政治献金がらみでね。

「Go To  Eat」の方が問題ありだったんじゃないの? 誰も指摘しないし、これも利権がらみのようだけど。

そのあと、飲み食いに自制心がなくなって、考えすぎかしらね、やっぱり。

これだけ続くと、自粛、自粛がマンネリ化しちゃって。

そう、友人のお宅でもコロナが出た。幸いに軽く済んだらしいけど、年末は大変だったようよ。

大阪は緊急事態宣言を要請しないようね。急拡大は抑えられている、ワクチンの接種など克服に向けた歩みは進んでいるってさ。飲み屋さんの閉店時間も今の8時から9時と遅くするみたいよ。ブレーキを緩めて経済を回さないと、って。さすが大阪、ど根性路線ね。

(注:実際歩いたのは1月3日午後でしたが、今書いている時点でのお話になってしまいました。あしからず。)

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