おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成高砂駅~京成金町駅。その7。地球釜。赤レンガの建物は。水戸街道新宿道標。

2020-07-13 19:40:35 | 沿線歩き

                       地球釜

この赤褐色の鉄の球体は「地球釜(通称)」と呼ばれる損紙を蒸して再生するための蒸釜です。
この地には、本区における近代工業の先駆けとなる工場である三菱製紙株式会社中川工場がありました。
日露戦争後、紙の需要が増加したことで、合資会社三菱製紙所は紙の大消費地である東京に注目しました。
工場建設の適地としては、本所方面への連絡が容易で、常磐線などの鉄道もあり、横浜方面と直接船で航行できる中川と江戸川に挟まれた、葛飾区新宿が選定されました。工場名を「三菱製紙所中川工場」と決めて、大正4年から建設を始めて大正6年に操業を開始しました。

創業当初に製造された製品には、煙草口紙用紙をはじめ、教科書用紙、模造紙などがあり、その後、大蔵省印刷局から受注した葉書用紙も重要な製品となりました。第二次世界大戦の戦時中には、写真印画紙用原紙(パラタイ紙)の製造をはじめ、軍関係の地図用紙等の抄紙や新紙幣の抄造と旧紙幣の処理なども行っていました。戦後、中川工場は、昭和21年4月に大蔵省から紙幣用紙抄造管理工場に指定され、戦争で被災した大蔵省印刷局王子工場が復興する昭和24年まで紙幣用紙の抄造を行いました。

損紙等をパルプにする作業に使われたのが、昭和20年から21年にかけて設置された球型の蒸し釜です。この蒸し釜は、地球釜とも呼ばれ、厚さ16mmの鉄板32枚を鋲で球体に仕上げたもので、最大内径4.27mの大きさです。釜の中に、損紙等(5t)と水(9,000g)を入れ、毎分1回転の速度で回転させながら蒸気を注入して蒸し、紙の繊維を解きながらほぐし再生原料として使用しました。
三菱製紙中川工場は、昭和22年のキャスリーン台風によって被害を受けましたが、その後、復興を遂げ、パラタイ紙やアート紙を量産し、新たにOA関連の感熱紙やインクジェット紙などの製造も手掛けるなどして操業を続けました。しかしながら、工場の移転が決まり、平成15年3月に86年余りの歴史に幕を下ろしました。

その後、UR都市機構が土地を取得し、隣接する三菱ガス化学株式会社の工場も含めた土地区画整理事業や道路等の基盤整備により、まちの骨格を整え、葛飾区、民間事業者とともに新しいまちづくりを進めてきました。

中川沿いには、三菱製紙中川工場をはじめとして、いくつかの製紙工場が建設され操業していました。現在では、製紙産業は姿を消してしまいましたが、この地球釜は、本区の近代産業の幕開けの地であることと、かつての製紙産業を記念するモニュメントとして貴重な近代遺産であります。

 

広場を進むと、遠くに。

        

「地球釜」。

               

                                                    

2012年3月頃のようす。

大きな鉄製の球体。あちこち移動しながらやっと落ち着く先を見出したようです。
大きな公園の水辺のところに安置される予定。

2009年4月のころの地球釜。更地にポツンと取り残されていました。

その頃、線路沿いに赤レンガの建物が二棟が残っていました。

  

この建物はその後、どうなったのでしょうか? 今回もあったところに行きましたが、マンションの工事中で確認できず。

近づくと、かなり存在感あり。

水面に映る「地球釜」。

自然の雰囲気がよし。

東側を望む。

せせらぎにモニュメント。

「地球釜」が向こうに。

      校舎。

戻ります。振り返る。

そのまま南に下ると、「大堰枠」という交差点が残っています。上流の小合溜から「東用水」と「小岩用水」の水路との分岐点。

かつての「東用水」跡の通りを新宿方向へ。新金貨物線の踏切。以前は、鉄橋になっていました。

        

2009年頃のようす。鉄橋です。下は埋め立てられた「東用水」。

「三重田街道」の由来は不明。

「水戸街道・新宿」方向。「水戸街道」時代の時と同じように鈎型の道が残っています。

この道が「現・水戸街道(国道6号線)」と接するところに道標。周辺の再開発で撤去されていたものが以前の場所に戻ったようです。この道標は、「水戸街道」から分岐する「佐倉街道」へ(成田山、千葉寺を示す)の道標。

「水戸街道石橋供養道標」

この道標は、水戸道と佐倉道の分岐点に、地元の万人講・不動講・女中講が共同で架橋した27の石橋供養のために建てたものです。

 

 

              

 多くの石橋を架けた功徳を偲んで建てた供養の碑を兼ねています。

右 なりたちば寺道 
左 水戸街道 

 
左)安永六丁酉年八月吉日 石橋供養石

右)成田山 さくらミち
  万人□、不動□、女中□

裏)安永二年巳ノ十月廿三日ゟ同酉ノ十一月廿三日まで石橋廿七ヶ所建立仕候為供養尊像辻石立置申候               

正面奥の道が「佐倉街道」。

「佐倉街道」歩きは、以前、ここから佐倉、成田、そして佐原まで完歩しました。

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京成高砂駅~京成金町駅。その6。三菱製紙所中川工場引き込み線跡。東京理科大。

2020-07-10 19:33:49 | 沿線歩き

                      引き込み線跡

イトーヨーカ堂(屋上は、自動車教習所)の西側の縁を進んで、水元公園に向かう道路を横断していました(道路の中央が「小合溜」からの水路があったため、鉄橋でした)。以前、水元公園に行くとき、その線路を渡って行ったものです。

さて、久しぶりに(10年ぶり?)JR金町駅の北側に。

北西に「東京理科大」の広大なキャンパスがあります。かつては「三菱製紙所中川工場」の敷地でした。

JR線から中川工場への引き込み線は現在?

道路の向こうは、線路跡が遊歩道に。

正面が「東京理科大」。

振り返る。

正面が線路跡。

JR線側には大きなマンション。

明るく広々とした空間に。

左手に「東京理科大」が広がっています。

この付近の移り変わり。

     

1970年代のようす。線路の北に広がる工場。

     

2010年代後半のようす。中央上が東京理科大を含む広大な再開発地域。引込み線跡も残っている。                   

葛飾にいじゅくみらい公園」案内図。

以前と変わらぬ位置にある神社境内に平成15年に建立された「三菱製紙工場跡」と記された黒御影石の小さな碑。

再確認が済んで、再び「理科大」の方へ。

図書館棟。

葛飾区科学教育センター未来わくわく館」が併設されています。

遠くにスカイツリー(↓)。

ここからぐるっと回ってくると、

左手には大型商業施設。さらに高層マンションが建設中。

   高層マンション。

右手は理科大。

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京成高砂駅~京成金町駅。その5。水戸街道=国道6号線。金町駅周辺再開発。

2020-07-09 21:12:58 | 沿線歩き

                       「柴又街道」。金町から小岩まで南北に貫く。

 

                      右手一帯が「金町浄水場」。

左手が京成線。かつての人車鉄道と同じ路線。

この道路下に上水道管がある? 「水道みち」。

高砂、金町間を結ぶ京成電車。

「水戸街道(国道6号線)」を渡る。

   松戸方向を望む。

 「水戸街道」は、葛飾の「環七」手前からけっこう渋滞が日常化しています。現在、「亀有警察署」付近では、そのため拡幅工事が進められています。以前、ここは、京成金町線、柴又街道との平面交差になっていて、いつも渋滞が発生していましたが、平成7年にこの陸橋が完成してからは少しスムーズになりました。しかし、現在でも松戸側から来た場合は陸橋上から延々と渋滞が発生しています。

水戸街道
 江戸側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれた。本来、街道は行き先の名称を冠したため水戸側では江戸街道と呼ばれた。
 現在、水戸街道は国道6号の東京都墨田区向島~茨城県水戸市までの区間の愛称である。国道6号に対して「水戸街道」と呼ぶ一方、街道筋が新道・バイパスの開通等により国道6号から外れた部分については「旧水戸街道」として区別することが多い。
 水戸以北は岩城街道(または磐城街道)と呼ばれ、岩沼宿で奥州街道と合流し、仙台まで続いていた。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではあったが、奥州街道ほどには栄えなかったとされる。明治時代以降は水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道として扱われた。
 水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸常駐の定府大名であったため国許である水戸と当主が居住する江戸との間で緊密に連絡を取りあう必要があった。このため街道筋には水戸徳川家専用の施設が多数もうけられていた。また幕末百話によると宿場人足も水戸様御用を笠に着て横暴な振る舞いが多かった。(以上「Wikipedia」参照)

交差点手前付近に一部、旧道が残っています。

 ↓の部分。右斜めが金町線。

間もなく左手に「京成金町」駅。

       

JR常磐線・金町駅。

久しぶりに来て、駅前が再開発で様変わり。

【葛飾区金町】下町情緒×再開発で魅力創出
東京23区の東部に広がる葛飾区は古くから住宅地として開発が進み、下町らしい情緒が漂う街として注目されています。JR常磐線の「金町」駅、京成金町線の「京成金町」駅周辺も温かみのある街並みに活気あふれる商店街が広がります。
エリアの西には江戸川が流れ、「水元公園」など大規模公園が近く、自然に親しめるスポットに恵まれていることも魅力です。JR常磐線の東京メトロ千代田線直通電車で「大手町」駅にダイレクトアクセスできるなど、都心からアクセスしやすい立地ながら暮らしやすい街として人気を集めてきました。

近年は「金町」駅を挟んで南北で再開発が行われ、タワーマンションが誕生するなど、新旧の魅力を併せ持つ街に進化しています。再開発に合わせて「葛飾区立中央図書館」、「葛飾にいじゅくみらい公園」、「未来わくわく館」など公共施設も整備され、暮らしの利便性が大幅に向上しています。2013(平成25)年には「東京理科大学 葛飾キャンパス」がオープンし、アカデミックな雰囲気も漂うようになりました。
今後も複数の再開発や「東京理科大学 葛飾キャンパス」の拡充などが予定されており、さらなる魅力が誕生することも期待されています。

下町情緒が漂う金町エリアですが、近年は再開発が進み、近代的な街並みへと進化してきました。「金町」駅の南口側では金町六丁目地区の再開発が2009(平成21)年度に完了し、住宅やショッピング施設などが入る「ヴィナシス金町」が誕生しています。

「金町」駅の北口側にはかつて「三菱製紙 中川工場」が広がっていました。「三菱製紙 中川工場」は2003(平成15)年に閉鎖となり、跡地の再開発が広がりました。2005(平成17)年には新宿六丁目地区地区計画が都市計画決定され、公園や教育施設、住宅の整備が始まりました。
教育施設は「東京理科大学 葛飾キャンパス」として、2013(平成25)年4月にオープンしています。公園も2013(平成25)年4月に「葛飾にいじゅくみらい公園」が開園しました。
「東京理科大学 葛飾キャンパス」と「葛飾にいじゅくみらい公園」は一体的に整備されたことが特徴です。「東京理科大学 葛飾キャンパス」を挟むように「葛飾にいじゅくみらい公園」が広がり、ともに憩いの場として親しまれています。また、「東京理科大学 葛飾キャンパス」内には遊びながら科学を学べる「未来わくわく館」も誕生し、家族で楽しむことができるスポットとなっています。

「東京理科大学 葛飾キャンパス」と「葛飾にいじゅくみらい公園」は一体的に整備されたことが特徴で、ともに憩いの場として親しまれています。また、「東京理科大学 葛飾キャンパス」内には遊びながら科学を学べる「未来わくわく館」も誕生し、子どもに人気のスポットになりました。
住宅は2016(平成28)年2月に地上37階840戸の大規模タワーマンション「シティタワー金町」が完成しています。
「三菱製紙 中川工場」跡地の再開発は今も行われています。「シティタワー金町」の隣接地では地上19階610戸の大規模マンション「シティテラス金町」が建設中で2021(令和3年4月に完成する予定です。「東京理科大学 葛飾キャンパス」も南西側に敷地を拡充する計画があり、2022(令和4)年度の供用開始を目指しています。

「金町」駅の南口バスターミナルに面した金町六丁目駅前地区の再開発は、2006(平成18)年6月に準備組合が設立され、2010(平成22)年3月に都市計画決定、2015(平成27)年11月に再開発組合の設立認可を受けていました。2018(平成30)年12月に着工を迎え、2021(令和3)年夏予定の竣工を目指して工事が続けられています。

金町六丁目駅前地区の再開発では地下1階地上21階高さ約86mのビル「プラウドタワー金町」が誕生し、約190戸の住宅のほか、地上1階から3階にはショッピング施設も入る予定です。完成すれば、暮らしの利便性が大幅に向上するだけでなく、新たな金町エリアのシンボルとして親しまれることになるでしょう。
「金町」駅の北口側でも再開発の検討が進められています。「イトーヨーカドー 金町店」、「金町自動車教習所」とその西側約3ヘクタールを対象とした東金町一丁目西地区の再開発は平成28年に再開発準備組合が設立されました。

今のところ、ショッピング施設や自動車教習所が入る地上3階建ての1期棟、約700戸の住宅とショッピング施設、公共施設などで構成される地下2階地上44階の2期棟、公共施設などが入る地上3階建ての3期棟を整備する構想になっています。
2019(令和元)年度の都市計画決定、2020(令和2)年度の再開発組合設立認可を目指し、2021(令和3)年度に着工、1期棟は2024(令和6)年度、2期棟2027(令和9)年度、3期棟は2029(令和11)年度の完成を予定しています。
東金町一丁目西地区の再開発が実現すれば、金町エリアのさらなる利便性向上も期待されます。

(この項、「」HPより)

「葛飾図書館」もある高層ビル。

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京成高砂駅~京成金町駅。その4。金町浄水場取水塔。帝釈天参道。「お帰り寅さん」。

2020-07-08 19:49:09 | 沿線歩き

                     金町浄水場・取水塔。

金町浄水場は、大正15年8月、当時の南葛飾、南足立、北豊島3郡の12町村を給水区域とする「江戸川上水町村組合」の施設として給水を開始しました。昭和7年に東京市に引き継がれ、その後数回の拡張改良工事が行われ、平成4年には、東京都で初めてオゾンと生物活性炭とを組み合わせた高度浄水施設の運転を始めました。JR常磐線金町駅から南へ1㎞、江戸川河口から17㎞上流に位置し、周辺には柴又帝釈天や矢切の渡しなどの名所旧跡があります。
江戸川の右岸にある2基の取水塔から表流水を取り入れ、金町浄水場内へ導水しています。
三角形のトンガリ帽子の屋根を持つレンガ造りの第2取水塔は、昭和16年に完成しました。映画「男はつらいよ」シリーズや漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にも登場し、その可愛らしいデザインは地域のシンボルとして親しまれています。

(この項、「」HPより)

江戸時代における上水の変遷 
徳川家康が1590(天正18)年に入ったときの江戸は、海岸線は江戸城大手門近くまで迫り、現在の日比谷公園・皇居外苑のあたりは日比谷入江と呼ばれる浅海でした。


小石川上水・神田上水・溜池上水
家康はただちに堀を開削、山を切削してその土で日比谷入などを埋め立て、河川の改修を行いました。また、家康は生活用水の確保のため、家臣の大久保藤五郎に上水をつくるように命じたのです(「小石川上水」)。この小石川上水が江戸における最初の水道となり、その後の江戸のまちとともに神田上水へと発展していきました。
徳川家康は江戸に幕府を開いた1603年(慶長8)頃、小石川上水が拡充・整備され新市街地へ給水されたと考えられています。同時に、赤坂の溜池を水源とする溜池上水も江戸の西南部に給水されていました。しかし、その後の江戸の人口は増加の一途をたどり、二つの上水では増大する水需要に応じることができなくなったのです。


排水管の付設
1652(承応元)年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立て、工事請負人を庄右衛門、清右衛兄弟、総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治を命じました。1653(承応2)年4月4日着工、11月15日には羽村取水口から四谷大木戸までを8か月で掘り上げられました。1654(承応3)年6月には虎ノ門まで地下に石樋・木樋による配水管を付設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水されました。


亀有(本所)上水・青山上水・三田上水・千川上水
1657(明暦3)年、明暦の大火により江戸の町は大半を焼失(江戸城天守閣消失)。この災害を契機として幕府の大幅な復興再開発により、江戸はさらに周辺部へ拡大発展。拡大した江戸周辺地域に給水するため、1658~1672(万治・寛文年間)年に亀有(本所)上水、青山上水、三田上水が開設。1696(元禄9)年には千川上水が開設された。亀有上水は中川を水源とし、他の三つの上水はいずれも玉川上水を分水して水源とした。亀有上水は本所・深川方面に、青山上水は麻布・六本木・飯倉方面に、三田上水は三田・芝方面に、千川上水は本郷・浅草方面にそれぞれ給水された。このように、元禄から享保にかけて六つの上水が江戸の町を潤していたのである。
 
明治時代における上水の変遷 
明治維新を経て、東京は近代国家の都市としてのまちづくりが始まりました。文明開化によって、鉄道、煉瓦街、ガス灯に象徴されるようなまちづくりが進みました。しかし、水道は江戸時代の神田・玉川上水のままでした。当時は、浄水処理がなされていない河川の水がそのまま石樋(せきひ)や木樋(もくひ)によって東京の上水井戸に配水されてました。
水道の近代化は、明治維新後の行政の混乱、水道を所管する組織の変転などによって遅れていました。適正な補修が行われてこなかったことから、木樋は腐朽し、東京の水質は悪化していきました。また、当時の上水は自然流下であったため圧力がなく、火災の消火にもそれほど威力を発揮することはできませんでした。
このような状況のなか、1874(明治7)年に政府が上水の改良の検討を始めました。また、その翌年には東京府も東京府水道改正委員を設置して、上水改良の検討を始めました。このとき検討されたものは、原水を沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというものでした。しかし、この案は巨額の費用と道路整備などの都市計画全体との調整を図ることが不可欠であったため、さらなる検討が必要だったのです。東京府は、近代水道創設の検討を進める一方で、既存の木樋や上水路の補修を行うとともに、水源汚染の取り締まりを強化しました。しかし、1886(明治19)年に、コレラが東京を襲い多数の死者を出すことになり、近代水道創設促進に拍車がかっかたのです。


金町浄水場の歴史
江戸川上水町村組合の施設として始まった金町浄水場。その後東京市(都)に引き継がれ、東京の水需要の増加に対応するため、拡張工事が行われ、浄水能力の向上してきた。現在、高い品質の水をつくるために最新の設備が導入されている。

・・・

2011年の原子力発電所事故への対応
2011年3月23日、金町浄水場の水道水から1キロあたり210ベクレルの放射性ヨウ素が検出された(東京都発表)。これは、乳児の飲み水についての国の基準の2倍を超えるものであった。2011年の原発事故後、金町浄水場は放射性物質の除去効果が期待できるとして浄水に使う粉末活性炭の量を通常の3~4倍にして対応した。
現在は、日量150万立方メートルの全量に高度浄水処理を導入している。

・・・

(この項、「江戸川区フォトライブラリー」edogawa-photo.net › 江戸川区の川・海 より)

再び「柴又駅」方向へ。

    「武蔵野の路 水元・柴又コース」。

                

遠くにスカイツリー(↓)。

「帝釈天」参道のお店。

                

 

            

参道のお店の店先には「お帰り寅さん」のポスターが。

          

(「YouTube」「お帰り寅さん」予告編より)

こうして柴又探索を終え、「京成金町駅」へ向かいます。

 

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京成高砂駅~京成金町駅。その3。長屋門。矢切の渡し。野菊の墓。水原秋桜子句碑。

2020-07-07 20:10:56 | 沿線歩き

            山本亭の裏庭から表へ。

防空壕跡。

洋館(鳳凰の間)の外壁。

よく手入れされた庭。

長屋門。こちらが正面入口。

 武家屋敷に見られる伝統的な長屋門に、洋風の意匠を取り込んだ、和洋折衷の造りになっています。六角形のタイルが敷かれた床、ステンドグラスの窓など、洋風に装飾された和装建築に、建造当時の流行を垣間見ることができます。 建物の両側にある部屋は、当時、門番が常駐し、客人のお付きの者や人力車の車夫などが待機していたところ。

玄関。

通りを挟んだ向こうにあるのは、「寅さん記念館」。

見どころ

 大船撮影所から移設した「くるまや」や、あの”タコ社長”の「朝日印刷所」のセットに加えて、寅さんが実際に使用した実物の革カバンなどの展示コーナー、「寅さんと一緒に楽しむ鉄道の旅」をテーマに、昔懐かしい駅舎や駅務室、客車ボックスシートに座って名シーンを楽しめるコーナーなどで『男はつらいよ』の世界を再現。また、寅さんと一緒に記念写真をとることができる記念撮影コーナー(有料)や作品に関するクイズにチャレンジできるQ&Aコーナーもお楽しみいただけます。
 併設する「山田洋次ミュージアム」は、映画『男はつらいよ』シリーズの原作・脚本・監督を務め、寅さん記念館名誉館長・葛飾区名誉区民であり、2012年に文化勲章を受章した山田洋次監督の、これまでに携わってきた数々の作品や映画づくりへの思いを9つのテーマでつづられたミュージアムです。
 2019年に新設されたTORAsan cafeと合わせてお楽しみください。

(この項、「」HPより)

ということで、省略。「矢切の渡し」に向かいます。

小説「野菊の墓」や、歌謡曲「矢切の渡し」で有名な唯一現存する江戸川の農民渡船で、矢切と葛飾区柴又を結んでいます。 
  
「矢切の渡し」の歴史について 
  
「矢切の渡し」は、江戸時代初期、地元民専用に耕作や対岸の農地への移動手段として使われるとともに、日用品購入、寺社参拝などの目的のために、徳川幕府が設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、「金町・松戸の渡し」と呼ばれていた。 
これらの渡しについては、江戸幕府による直轄事業として行われていた。 渡し場で使われていた船は、金町村と松戸村で 2隻ずつ出していたが、その後、松戸町だけで船を出すようになる。 当時の渡航運賃は1人3文。馬も5文で乗ることができたといわれている。 
  
1740年頃、渡しの運営が幕府による直轄事業から、幕府と松戸町、町民による半官半民の運営体制となったことから、百姓たちにも渡し業を請け負わせた時代もあったそうである。 
  
明治初期には、関所廃止及び陸運の発達のため、鉄道や主要幹線道路などに橋が開設されるようになり、各地で渡し船を廃止するところが場を閉めるようになった。 
隅田川では、戦後まで運行を続けている渡し舟もあったが、「佃の渡し」が昭和39年、「汐入の渡し」が昭和41年を最後に廃止され、現在、東京近郊で定期的に運行されている渡しは、「矢切の渡し」のみとなっている。 
なお、「矢切の渡し」は、「下矢切の渡し」とも呼ばれる時期もあったそうである。 
松戸市下矢切と東京都葛飾区を結ぶ、現在の「矢切の渡し」の運行航路の他に、1877年(明治10年)から1910年(明治43年)まで、この上流である上矢切から金町間を往来した「上矢切の渡し」が運行されていたからである。 
  
この「矢切の渡し」が世に広まったのは、1906年(明治39年)、雑誌「ホトトギス」に発表された、矢切を舞台に、政夫と民子の悲恋の物語を描いた小説「野菊の墓」の一節、「僕の家といふは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上で矢切村と云っている所。」として描かれたことによるとされている。 
(下矢切の西連寺の境内には、小説の一節を描いた「野菊の墓文学碑」が建立されている。) 
 
この渡しが全国的に有名になったのは、1982年(昭和57年)に細川たかし氏が歌った、歌謡曲『矢切の渡し』が大ヒットしたことや、フーテンの寅さんが柴又を舞台に各地を訪れる映画『男はつらいよ』が上映されたことで、「矢切の渡し」が全国的有名となり、再び脚光を浴び、年間20万人以上の観光客が乗船する時期もありました。 
  
「矢切の渡し」は、有限会社矢切渡船で運営・運行しているが、明治時代から、杉浦家において、世襲制で代々運行を引き継いでいる。 
現在もなお、帝釈天や寅さん記念館&山田洋次ミュージアム、山本亭などがある対岸、葛飾区柴又などを訪れる人の観光コースとして、運行を続けている。 


  
〈参考〉 
「矢切の渡し」を紹介する看板の文面について 
  
松戸側 
矢切の渡しは 松戸市下矢切と東京都柴又を往復する渡しで、その始まりは380余年前、江戸時代初期にさかのぼります。 当時、 江戸への出入は 非常に強い規則のもとにおかれており、 関所やぶりは 「はりつけ」になろうという世の中でしたが、 江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、 その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。これが矢切の渡しの始まりで、いわゆる農民渡船といわれるものです。 
明治以降は、 地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され 現在では 唯一の渡しとなっています。 この矢切の渡しの庶民性と矢切の里の素朴な風景は、 千葉県の生んだ歌人でもあり、小説家でもある伊藤左千夫の小説“野菊の墓”の淡い恋物語の背景となっており、その小説の中で美しく描かれております。 
  
葛飾側 
元和2年(1616) 、幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点15ヵ所を定船場として指定、 それ以外の地点での渡河を禁止しました。 
その1つが矢切の渡しで、 この付近を通る国分道に架かる渡しで、主に近郷の農民が対岸の農耕地へ渡るために利用していました。 
現在、 都内に残る唯一の渡し場で、 今も昔ながらの手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切との間を往復しています。 伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、 ヒット曲「矢切の渡し」を生んだ地としても有名です。 

(この項、対岸の「」HPより)

葛飾側から対岸を望む。

伊藤左千夫「野菊の墓」

 僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。 
 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。 
「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」 
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」 
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」 
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」 
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」 
 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。 
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」 
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」 
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」 
「僕大好きさ」

・・・ 

船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽がつまって声が出ない。民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫でたり襟を撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じい米沢紬に、品のよい友禅縮緬の帯をしめていた。襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。 

・・・

毎日七日の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。その翌くる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。 

 民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。 

 

 

 

 

(「YouTube」より)

道標。

 

水原秋桜子句碑。

             葛飾や桃の籬も水田べり

 水原秋桜子先生(明治25年~昭和56年)の作 先生は東京神田の生まれ。はじめ高浜虚子に師事したが、やがて「ホトトギス」を去り、昭和6年から「馬酔木」を主宰した。葛飾の自然をこよなく愛し、しばしば訪れて、世に「葛飾詞」といわれる、多くの作品を残した。 この句は、大正15年の作。対岸の市川真間あたりの風景を詠んだもので「葛飾詞」の代表作のひとつ。その頃の水郷葛飾の春の田園の美しさを流麗典雅の響きでうたっている。

『葛飾』水原秋桜子の第一句集。

昭和5年(1930年)4月、『葛飾』馬酔木発行所刊。

・・・

梨咲くと葛飾の野はとのぐも曇り

連翹や真間の里びと垣を結はず

連翹や手児奈が汲みしこの井筒

葛飾や桃の籬も水田べり

草餅や帝釈天へ茶屋櫛比(しつぴ)

注:「櫛比(しつぴ)」=櫛(くし)の歯のように、ほとんどすきまもなく並んでいること。

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京成高砂駅~京成金町駅。その2。川千家。川甚。山本亭。

2020-07-06 20:59:01 | 沿線歩き

          柴又駅前のモニュメント。「人車鉄道」。

明治32年(1899)、葛飾に人車鉄道という珍しい交通機関が誕生した。常磐線金町駅前から柴又・帝釈天までの約1・4キロを、はっぴ姿の押夫が定員6名の人車を汗をふきふき押すという、のんびりした乗り物であった。庚申の日には、1日1万余人を乗せた記録が残っている。

他の面にも 「帝釈天」。

「柴又」、「矢切の渡し」などの解説が。

奥に見えるのは、寅さんを見送るさくら像。

江戸川土手の方に進みます。「川千屋」。

その奥に「川甚」。

どちらも柴又では有名な料亭。

川千家

 東京都葛飾区柴又にある鰻料理を中心に川魚料理を出す老舗企業である。 

 創業は安永年間であると言われている。[1] 柴又帝釈天で帝釈天の板本尊が1778年に発見され、江戸市中などから柴又へ参拝に来る客が増えて、そうした客をもてなすために柴又界隈の農家が副業で江戸川でとれる川魚料理を振る舞うようになったのが柴又界隈で川魚料理店ができた機縁と言われている。 
川千家もそうした中でできた店の一つで、天明年間にはさらに参拝客が増えて、柴又界隈では宿泊施設も兼ねた茶屋も多く出来た。 
 1900年に金町駅から柴又に鉄道(京成線ではなく人力車両)が通った頃には、それまで川沿いにあった川千家は現在の参道に移転。 
 当主は7代目 天宮吉五郎、 8代目 天宮久七、 9代目 天宮吉久、 現在は10代目 天宮久嘉にあたり川千家には多くの著名人も訪れて、柴又を代表する川魚料理屋になっている。 
 川千家は柴又を舞台にした映画などにしばしば登場した。 まず獅子文六作「大番」で撮影に使われ、淡島千景と加東大介が訪れた。(1955年) 
 また国民的映画シリーズ「男はつらいよ」でも帝釈天参道の撮影の際に何度も登場し、ロケ地として協力している。 第23作目では結婚式会場として登場している。 
 山田洋次監督『東京家族」(2013年)では、親子の出会いの場として同店内で撮影されている。

(この項、「Wikipedia」参照)

鰻(うなぎ),鯉(こい),川魚といえば 川千家,と親しまれ続けて250年.老舗の味をご宴会で.個室100名様迄対応可.
柴又帝釈天、矢切の渡し、寅さん映画等でお馴染みの下町情緒溢れる柴又で、江戸時代より変わらぬ味を守り続ける川千家の鰻・鯉料理に舌鼓を打つ。
そんな粋なひと時を過ごしてみるのはいかがでしょう。食堂、お座敷(コース)、仕出し、お持ち帰りがございます。お一人様から大勢様まで、お祝い事からご法事まで、様々な場面でご利用下さい。
皆様のお越しをお待ち申し上げております。

(この項、「川千屋」HPより)

川甚

川甚は江戸後期の寛政年間に創業しました。古くは江戸川の畔にあり、川から船で直接お部屋へ上がっていただけました。明治38年の写真や、当時の文学作品でその姿が描かれています。その後、大正初期の河川の改修工事、昭和の国道の整備などで現在の場所へ移りました。場所や建物は移り変わりましたが、本館から眺める矢切の渡しは、当時の空気を思い起こさせてくれます。


 寅さんの故郷、原風景である柴又。ここ川甚は、映画「男はつらいよ」の記念すべき第一作に登場しました。寅さんの妹さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の結婚披露宴の舞台です。本館の門構えは、式に遅れて来たたこ社長(太宰久雄)が原付で乗り付けたシーンそのままです。
今もなお1969年公開当時と同じ姿で、そこにあります。


 文人たちにも愛された川甚。様々な文学作品の舞台として描かれました。
 ・ 夏目漱石『彼岸過迄』より
敬太郎は久し振りに晴々とした良い気分になって水だの岡だの帆かけ舟などを見廻した。 
......二人は柴又の帝釈天の傍まで来て「川甚」という家に這入って飯を食った。
 ・ 尾崎士郎『人生劇場』より
道が二つに分かれて左手の坂道が川魚料理「柳水亭」(これは後の「川甚」)の門へ続く曲がり角までくると吹岡は立ちどまった。
 ・ 谷崎 潤一郎『羹』より
巾広い江戸川の水が帯のように悠々と流れて薄や芦や生茂った汀に「川甚」と記した白地の旗がぱたぱた鳴って翻っている。
 ・ 松本清張『風の視線』より
車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍しいしゃれた玄関の前庭にはいった。 
「川甚」という料亭だった。
 文人たちにも愛された川甚。様々な文学作品の舞台として描かれました。

 昭和の時代、お客様の余興の一環として、サイン帳に一筆記していくといった風潮がありました。残された4冊のサイン帳は昭和20~40年代のもので、松本清張をはじめ、三島由紀夫、黒澤明、手塚治虫など文学、映画、芸能など各界を代表する人々の名前が数多く記されています。

こうしたサインの数々を新館にて展示しております。明治から昭和の川甚の写真もございます。
ご来店の際は是非ご覧ください。

(「」HPより)

「川甚」を右折すると左手に「山本亭」。

 

「山本亭」解説板。

この建物は、地元ゆかりの山本工場(カメラ部品製造)の創立者である山本栄之助翁の自宅でした。
関東大震災後、当地に移り住み、以後4代にわたって使われていたものを、昭和63年に葛飾区が取得し、平成3年4月から一般に公開しました。建物は、1階400㎡、2階50㎡の木造瓦葺き2階建てで、地下室、土蔵、長屋門なども備え、大正5年から昭和5年の間に数回にわたる増改築を重ね、現在の姿となりました。伝統的な書院造りと洋風建築を複合した和洋折衷の建物と、純和風の庭園とが見事な調和を保っており、その文化的価値は、国内はもとより海外においても高く評価されています。

 

 大正末期から昭和初期に増改築された、当時には珍しい二世帯住宅です。建物は、床の間・違い棚・明かり障子・欄間からなる書院造り、数奇屋風の天井、下端部は石張りで上部は白漆喰塗りの土蔵などの伝統的な和風建築と、壁には大理石のマントルピース、寄木を用いたモザイク模様の床、ステンドグラスをはめ込んだ窓、ガラス製ペンダント照明を用いた、昭和初期独特の洋風建築が複合されています。池泉・築山・滝などを設けた典型的な書院庭園も国内外を問わず高く評価されています。

 米国の日本庭園専門誌にランクイン
米国の日本庭園専門誌「Sukiya Living(数寄屋リビング)/ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」が実施した日本庭園のランキング調査の結果、山本亭の庭園が2019年4位にランクインしました。
このランキングは、全国900カ所以上の旧所名跡、旅館、旧別荘を対象としています。順位が発表された2003年以降、山本亭は7位以内にランクインし続けています。

(この項、「」HPより)

2019年日本庭園ランキング上位5位

1位 足立美術館(島根県安来市)

2位 桂離宮(国有財産)(京都府京都市) 

3位 皆美館(料亭旅館)(島根県松江市) 

4位 山本亭

5位 玉堂美術館(川合玉堂・日本画家)(東京都青梅市)

このランキングは全国900ヶ所以上の名所旧跡を含む庭園を対象に実施されるもので、世界各国の専門家達が真に日本を代表するくつろぎと美の空間を総合的に判断して評価しています。

注:「Wikipedia」によると、このランキングは、「庭と家が一体となった日本的な生活環境」を楽しめることを評価する志向性を掲げており、山本亭はホスピタリティ面も含めた「おじいちゃんの家の座敷で美しい庭を見ながらのんびり過ごすような和みの空間」(大意)が高い好感度を得ている、とのこと。 

さっそく見学させてもらいます。

       落ち着いた居間と庭の雰囲気が見事。

奥行きを感じさせるしつらえ。

                       

まさに評価の通り、のんびりと庭を眺めながら爺さん、婆さん、孫達が語らうそんなひとときを感じさせます。

         濡れ縁から。

洋間。 「鳳凰の間」。 

玄関にある人力車。  

「花菖蒲」。 

「市松人形」がありました(青戸の「松菊」さん)。

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京成高砂駅~京成金町駅。その1。帝釈人車鉄道。柴又。寅さん。

2020-07-03 20:59:36 | 沿線歩き

            今回は、高砂と金町を結ぶ「金町線」沿線歩き。

                                                                           高砂から分岐して金町までの単線。

京成金町線の起源は、柴又 - 金町間で人が車両を押して動かす人車軌道を運行していた帝釈人車鉄道である。1897年(明治30年)に日本鉄道により金町駅が開業し柴又帝釈天への参詣者が増加した。その交通の便を図ろうと1899年(明治32年)に帝釈人車鉄道が設立され、同年内に柴又 - 金町間で営業を開始した。線路は全線複線で、折り返しのため柴又駅・金町駅の終端部はループ線になっていた。客車は1両6人乗りで64両あり、通常1人で押していたという。1907年(明治40年)には帝釈人車軌道と社名を改めた。 
1909年(明治42年)、成田山や柴又帝釈天の参詣客輸送を目的に、京成電気軌道(現在の京成電鉄)が設立された。京成電気軌道は、帝釈天を通り金町への路線を計画していたが、ルートの重なる帝釈人車軌道は、1912年(明治45年)に軌道特許を京成電気軌道へ譲渡した。 
同年、京成電気軌道は後に押上線・本線の一部となる押上 - 市川(現在の江戸川)間と、支線として曲金(現在の京成高砂) - 柴又間を開業させた。翌1913年(大正2年)には柴又 - 金町間の人車の運行を終了し、単線電化で柴又 - 金町間を延伸して電車の運行を開始した。 
2006年(平成18年)12月、京成電鉄は成田空港線開業に伴う踏切遮断時間増加防止策として、本線高架化を待たずに金町線のみ京成高砂駅付近を高架化する工事は2010年7月5日に完成した。

(この項、「Wikipedia」参照)。以下は「葛飾区史」HPより)  

 明治から昭和にかけ、人が動力となって線路上の車両を押す人車鉄道は、全国に29あった。帝 釈人車鉄道は、日本鉄道海岸線(現JR常磐線)金町駅と柴又帝釈天間の約1.5㎞を結ぶ全国で5番目の人車鉄道として、明治32(1899)年 12 月 17 日に開業した。車両は、10人乗りが59両、6人乗りが5両あった。複線で、車両を押す押夫は、普段は4人であったが、60日毎の庚申の日には120人前後の臨時押夫が雇われ、2人で押した。運賃は、片道5銭、往復9銭であった。
 明治45(1912)年4月27日に京成電気軌道と特許権と財産の譲渡契約を結び、大正元(1912)年8月19日に解散した。京成電気軌道は、電化工事の終了まで人車を運行したが、翌年10月2日に人車鉄道は電気による鉄道へと姿を変えた。なお、不要になった車両は、大正4(1915)年11月に開業した茨城県の笠間稲荷人車軌道で再利用された。
 人車鉄道が複線であったことは、絵葉書からも確認できる。
 
帝釈人車鉄道(絵葉書)(明治38〔1905〕年頃)

後ろ姿の人物は、右から押夫・乗客・題経寺(柴又帝釈天)の住職であろうか。帝釈天を見ている貴重な1枚である。

 
明治42(1909)年の地形図に見る軌道

ジオラマ「帝釈人車鉄道」(「寅さん記念館」内)

        

               (「YouTube」より)

(「今昔マップ」より)   「京成電鉄」となり、高砂駅まで接続している(右図)。「金町浄水場」も出来ている。斜めの線が「上水道」道。

さて、現代の金町線。

高砂駅では高架線ですがすぐに地上線に。目の前を通過する電車。

すぐに柴又駅となります。

                  

線路脇の商店街。 

柴又駅。けっこうな乗降客。

何といってもここは、「寅さん」。

フーテンの寅像
寅さんは損ばかりしながら生きている
江戸っ子とはそういうものだと
別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家族思いで金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
そんな無欲で気持ちのいい男なのになぜかみんなに馬鹿にされる
もう二度と故郷になんか帰るものかと哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことをいったい何十辺くり返したことだろう
でも故郷は恋しい
変わることのない愛情で自分を守ってくれる
妹のさくらが可哀想でならない
―ごめんよさくら いつかはきっと偉い兄貴になるからな―
車寅次郎はそう心に念じつつ故郷柴又の町をふり返るのである
 1999年8月 山田洋次

「寅さん」で全国に知れわたった葛飾柴又
 映画「男はつらいよ」は、柴又で生まれ育った主人公の「寅さん」こと車寅次郎が、全国各地を旅しながら、柴又に帰ってきてはさわぎを起こす話で、人情味あふれる様子がえがかれています。  1969(昭和44)年に始まり、1995(平成7)年の最終作までに全48作が公開され、映画館で見た人の数は8000万人以上です。この映画と寅さんのセリフ「私、生まれも育ちも葛飾柴又です」により、柴又は全国的に有名になりました。監督の山田洋次さんは葛飾区の名誉区民になっています。

 

案内板。

柴又

正倉院に残る養老5年(721年)「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記されている「嶋俣里」(しままたのり)の比定地である。男165人、女205人の42戸370人が居住していたという。以後「嶋俣」の地名は応永5年(1398年)の葛西御厨田数注文に至るまで文書に多数見受けられ、永禄2年(1559年)の小田原衆所領役帳において初めて「柴俣」(しばまた)が登場する。

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その7。北総線・新柴又駅。葛飾区と江戸川区の区界。

2020-07-01 21:23:59 | 沿線歩き

                       江戸川河川敷

土手下に旧家? りっぱなおうち。

北総線沿いに歩きます。

沿道は公園、遊歩道。

「新柴又駅」。

新柴又駅は、東京都葛飾区柴又五丁目にある、北総鉄道北総線の駅。葛飾区の最東端の駅。北総線唯一の自社管轄駅。

京成金町線「柴又」駅、京成本線「小岩」駅には、それぞれ歩いて10分ほどかかる。この3つの駅を結ぶ道が「柴又街道」でもあります。

この付近は、葛飾区と江戸川区の区界が複雑に入り組んでいて、分かりにくい地域。 

「オトカツの日常 otonano-katsushika.blogspot.com › blog-post_28」HPを見ると、江戸川区側は区画整理がされ、葛飾区側はされていないので、地図上ではっきり区界が分かるようです。

「葛飾区史」より)

(「今昔マップ」より)

区画整理後のようす。              2005年頃のようす。斜め直線に延びる道が「柴又街道」。

江戸川区側は、田畑の区画整理の完成後、それが戦後、宅地化されていったことが分かる。道も碁盤の目のようになっている。葛飾区側は、宅地化の際にも旧来のあぜ道風の曲がりくねった道がそのまま残っているところがある。

高砂駅に向かう北総線。

「小岩用水」跡の道。南方向。「鎌倉かなえ通り」につながります。

「桜二橋」。

北西に向かう水路。下に水路が残っている?

車両基地への線路。

上が北総線、下が京成本線。

再び高砂駅に戻ってきました。

次回は、金町線(高砂~柴又~京成金町)の沿線を。

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その6。サイクリングロード。北総線・新柴又駅。

2020-06-30 21:14:41 | 沿線歩き

       江戸川の堤を北に向かいます。サイクリングロードが続きます。

        遠くにスカイツリー(↓)。  

河川敷には野球場が続きます。  

「海から14.25㎞」表示。

グランドではラグビーの 練習中。  

「海から一五㎞」表示。  

のんびりと歩いていきます。      

遠くに北総線の鉄橋。  

土手下が自動車道路。

左下に「佐倉街道」が見えてきます。

「親水さくらかいどう」となっています。

「親水さくらかいどう」側から土手を見上げる。

 佐倉街道が江戸川の土手にぶつかる手前には、「水神」と大きく刻まれた石碑とすぐそばに「善兵衛樋(ひ)」があります。
 この辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、1878(明治11)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
 1924(大正13)年、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったものが、「水神」碑です。人々には、まさに「水神」様に思えたのでしょう。

 「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。

この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続きます。

「北総線」の鉄橋が近づいてきます。

   「北総鉄道」。

 北総鉄道は、その設立の経緯から千葉ニュータウンの建設と密接なつながりを持ち、その社史は千葉ニュータウン建設の歴史の一部でもある。また成田空港と都心部のアクセス手段は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の成田エクスプレスおよび、それまで京成本線を経由していた京成電鉄のスカイライナーが担ってきたが、北総鉄道の保有する北総線が、成田スカイアクセスの一部区間を担うことになったことも、千葉ニュータウン建設の歴史と共に重要な要素となっており、千葉ニュータウン開発が収縮した後は、沿線開発と空港連絡鉄道としての役割が同社の歴史となっている。 
 千葉ニュータウンの建設は1966年に千葉県が構想を発表し、1969年に都市計画を決定した。1970年に小室地区から事業が着手されたものの、用地買収が計画通りに進まず、その間に東京圏への人口集中が鈍化し、住宅確保の緊急性が薄れたこともあって、当初の計画から大幅な変更・縮小を余儀なくされていた。これにより、当時都心への唯一の鉄道アクセス手段であった北総開発鉄道の旅客数低迷にも直結し、同社の経営が悪化する主因となった。そのような動きにより、2004年7月に、行政改革の一環として行われた特殊法人の見直しに合わせ、住宅・都市整備公団が鉄道事業から撤退することになったのに伴い、「開発」の名を社名より外して北総鉄道株式会社とし、「北総・公団線」と呼ばれた路線名も「公団」を外して「北総線」とした。 
 2010年7月17日より、北総線を経由して都心と成田空港を結ぶ成田スカイアクセスの開通により、第二種鉄道事業者として京成電鉄が運行するスカイライナーやアクセス特急が北総鉄道の線路を利用することになり、京成電鉄から得られる路線・施設使用料収入が収益改善に貢献し、2012年に債務超過状態を会社設立から40年かけて解消した。 

 北総鉄道は、首都圏の通勤路線の中でも、運賃が際立って高い。これは、元々の建設費用が高く付いたことと、千葉ニュータウン事業計画の未達(当初の計画人口34万人に対して2017年7月末時点の人口は97,965人)による利用の少なさに由来する。中距離の運賃設定は、JR東日本(大都市近郊区間)はもとより、大手私鉄と比較しても高額になっている。 
 さらに、乗継割引が若干あるものの、直通先に京成電鉄、東京都交通局(都営浅草線)、京浜急行電鉄と事業者が連続することから、都心部や京急線との間を利用する場合は事業者ごとにそれぞれの運賃が加算され、トータルで更に高額となる。 
(参考)新鎌ヶ谷駅 - 品川駅間の運賃 (2019年11月現在)
東武アーバンパークライン(船橋駅)、JR横須賀・総武快速線経由: 680円
北総線・京成押上線・都営浅草線・京急本線経由: 1150円

 北総鉄道の定期券の割引率について、1か月有効の通勤定期券の割引率は30%である(都営線まで乗り継ぐ場合は3社線割引で京成・北総線分は5%引きとなり割引率は33.5%となる)。6か月有効の定期券で割引率40.15%となり、平均して週5日以上利用しない場合は、普通乗車券や回数券の単価のほうが安価となる。 
北総線内にある駅の定期券売り場では、京成電鉄が発行する京成カードのみではあるがクレジットカードによる定期券購入が可能である。ただし、定期券が高額なため、定期券売り場には「京成カードで定期券を購入される場合は、カードのご利用可能枠をご確認下さい」という旨の掲示がある。PASMO定期券で北総線の定期券を発行した場合、万一紛失しても再発行が可能である。 
 なお、沿線の印西市・白井市では過去に「北総線通学定期券助成」制度を設けていた(有効期間が2010年7月16日を超えない通学定期券のみ有効だった)が、後述の値下げ実施に併せて定期券の割引率も引き上げられたため終了した。 

 成田スカイアクセス開通後は、北総線の線路で京成電鉄が空港アクセス列車を運用しているため、北総鉄道に線路・施設使用料収入が見込まれることから、沿線市町村・一部県議会の議員は、北総線の運賃を引き下げるよう関係機関などに求めている。 
 北総線沿線自治体の市民有志は「財布落としても定期落とすな」と言われると国会でも指摘された北総線の高額な運賃の現状、および成田スカイアクセスの運賃が、北総線沿線利用者の高負担で支えられている現状を改善する事を目的として、有志グループ「北総線の運賃値下げを実現する会」を結成し、北総線の運賃値下げを求める住民運動を起こした。 
2010年5月、沿線住民ら5人は国を相手に、京成への運賃認可取り消しを求め提訴した[17]。2013年3月26日「運賃設定に問題は認められない」として東京地方裁判所は原告敗訴の判決を下した。原告は控訴したが、2014年2月19日に東京高等裁判所は控訴棄却、2015年4月21日に最高裁判所も同じく上告棄却としたため、原告敗訴が確定判決となった。 
・・・ 
 印西市は北総鉄道の株主であり、同市の板倉正直市長は千葉ニュータウン鉄道が京成電鉄と北総鉄道から徴収する線路利用料の格差に着目して、株主として運賃引き下げを求めている。 

(この項、「Wikipedia」参照)

「新柴又駅」方向。

案内図。上が西南方向。

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その5。小岩市川の渡し跡・関所跡。「小岩菖蒲園」。

2020-06-29 20:09:44 | 沿線歩き

                   小岩市川の渡し跡・小岩市川関所跡
 江戸時代の初め、両国から竪川の北岸を東にすすみ、逆井(さかさい)の渡しで中川(旧中川)をわたり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へ向かう道がひらかれました。「元佐倉道」とよばれ、明治8年(1875)に千葉街道と改称されています。江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間延絵図』には「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。
 江戸から佐倉へ向かう道筋には、千住から新宿(葛飾区)に至って水戸街道から分かれ、小岩に至る佐倉道があり、江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。
 江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関所がおかれていました。『新編武蔵風土記稿』の伊与田村の項に「対岸は下総国葛飾郡市川村なれば、小岩市川御番所という」とあります。これは幕府の設けた関所のひとつで、常時4人の番士が配属されていました。上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治2年に廃止されました。

1880年代のようす。↓が渡し場。

2010年代のようす。対岸に旧道の痕跡あり。 

そこから土手下を振り返る。

対岸を望む。

京成電車の鉄橋。

鉄橋の向こうにある「小岩菖蒲園」へ。

江戸川河川敷に広がる小岩菖蒲園は、地元の方から寄贈された花菖蒲をもとに、区が回遊式の庭園にしたものです。約4,900平方メートルの菖蒲田には5月から6月に約50,000本の花菖蒲が咲き誇り、都会のオアシスとして都内名所の一つになっています。菖蒲田周辺にはさまざまな野草がみられます。(「江戸川区」HPより)

   解説板。

    

訪問したときは、まもなく満開を迎える頃でした。

            

三々五々、見物の人々が。

京成線鉄橋の北側に広がる。

対岸(国府台)には、「和洋女子大」。

             

 

              

周囲には、紫陽花が植えられ、目を楽しませてくれます。

         

     

             

小さいながらも草原もあってちょうどいい遊び場、休憩場所に。

   無料駐車場が完備。

              

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その4。古代東海道。伊与田の道標。佐倉街道。

2020-06-26 20:36:58 | 沿線歩き

                 「古代の東海道」東側を望む。「上小岩遺跡通り」。

西側を望む。

環七と新中川にはさまれ、この道沿いにある「葛飾区立奥戸小学校」脇に設置されている説明板。上が南。

 「古代東海道」(武蔵の国府―府中市―・平城京―奈良市―~下総の国府―国府台―、常陸の国府)の跡。大化の改新以後、国内の道路整備の一環として、宝亀2(西暦771)年に制定された道路だという。現在も隅田川・東武線鐘淵駅付近から、葛飾区内を東西に貫く道として江戸川・京成小岩駅付近まで、その跡をたどることができます。

「上小岩遺跡」解説板。

上小岩遺跡は、区内で最も古く大きな遺跡とされ、現在の北小岩6、7丁目付近と推定されています。この地域はもとの上小岩村にあたることから遺跡名を上小岩遺跡とよんでいます。
 上小岩遺跡は、昭和27年に当時の小岩第五中学校の生徒が自宅裏の用水路から土器片を発見し、同校の中村教諭に連絡したことからその存在が知られるようになりました。その後、中村氏らの調査によりこの遺跡が古墳時代前期(今から1600年前)を中心とする低地の集落遺跡であることがわかりました。
 出土品は、弥生時代中期のものが発見されており、古墳時代前期の土器類が中心です。とくにS字状の口縁をもつ台付カメが大量に出土したほか、土錘も多く出土し、半農半漁の生活をしていたことがうかがえます。          昭和63年3月 江戸川区教育委員会

江戸川駅に向けて進む。

踏切を渡って北側に。北からの緑道と交差。

「上小岩親水緑道」。

この緑道沿いに、この辺りに住んでいた古代人の生活が絵画に描かれています。ただし、古墳、集落跡など定住生活をしていたという遺跡・痕跡がまだ発見されていないそうですので、あくまでも想像の世界。しかし、古代から人々の生活があったことは事実で、「古代東海道」が通っていたのもそういう前史があるからでしょう。

「上小岩親水緑道」について、一度記事にしたことがありますが、この機会に改めて。

 旧佐倉街道が江戸川の土手にぶつかる手前、「水神」と大きく刻まれた石碑は、すぐそばにある「善兵衛樋(ひ)」とかかわりがあります。
 この辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、1878(明治11)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
 「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
 この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続いています。とても気分のいい道筋です。京成電車の線路にぶつかるまでの遊歩道です。途中には、ベンチがあったり、草花や木々が植えられ、流れには、魚も泳いでいました。ところどころ、モニュメント風な大きな石組みが無造作に置かれています。
 当時からの通称は、「北小岩川」。下水道の整備に合わせて親水緑道としたそうです。さらに、このあたりでは、弥生時代後期から古墳時代にかけての遺跡が見つかっているために、古代の歴史をテーマに整備した、とのこと。
 小岩保育園近くには、古墳時代の遺跡の発見にちなみ、当時から江戸時代までのこの付近の人々の生活が絵画で表現されています。そういえば、道の所々に置かれたマンホールには、古墳時代の土器が描かれています。
 静かな住宅の間を抜けるように続く流れに沿った道。かつてのように、近在の水田に水を供給したという面影は全くありませんが、地元の住民の憩い・潤いと今でもなっていることは、すばらしいことです。
 

マンホールの絵柄。

(2009年4月 投稿)

ガード下の画。

 真ん中の画は、「茅の輪くぐり」。カヤで作った大きな輪を八の字にくぐり、災厄をはらう神事。すぐ近くの北野神社(北小岩3丁目)で行われる年中行事。「茅の輪くぐり」は別名「夏越大祓(なごしのおおはらい)」とも言われ、毎年6月30日頃に行われる夏越しの行事。北野神社で使用される「茅の輪」は、直径約2.5メートル。江戸川沿いでカヤの刈り取りを行い、少しずつ束ねながらひとつの輪に仕上げ、境内に設置します。

江戸川駅。

駅前の商店街―佐倉街道(市川街道)。

商店街案内図。

「カフェワカタケ」店先にある「伊与田の道標」。安永4(1775)年建立。

伊豫(与)田村はこの地域の旧名。この地を開拓した藤原伊豫にちなんでいます。

安永4年(1775)建立。銘文は正面に「是よりあさくさくわん世おん(浅草観世音)道、伊与田(伊予田)村中」とあり、側面にはそれぞれ「右舟ばし迄三り(里)、いちかわ道」「左にいしく(新宿)道、いわつきぢおんじ(岩槻慈恩寺)迄七り」と刻まれています。原位置はやや北によった旧観世音道の入口にあり、その後糀屋商店前に移設されて保存されていましたが、平成17年(2005)に現在地へ移設されました。

京成線のガードをくぐる。

「御番所町跡」解説板。
御番所町とは関所前の界隈のことですが、京成江戸川駅から南へ蔵前橋通りに至る道路部分を区史跡として登録しています。ここは佐倉道と元佐倉道の合流するところで、南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』(1828年成立)の「伊予田村」の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。『徳川実紀』延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるものと考えられます。角屋、筑前屋、清水屋などの旅籠を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などがならんでいたと伝えられます。角屋は近年まで同じ場所で旅館を営業していました。江戸川につきあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。
道標は今も原位置にあり、道路の様子も昔をしのばせます。そのほかにも、江戸川の川岸にあった常燈明(宝林寺)や関所役人中根平左衛門代々の合葬墓(本蔵寺)など当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。

この付近が交通の要所であったことを示す道標等の文化財が多く残っています。

正面が元佐倉道(旧千葉街道)。

ここで合流して、左(東)に折れると、関所・渡し場。

 

突き当たりが江戸川の堤。

 

佐倉道と元佐倉道の合流点に残る「御番所町の慈恩寺道石造道標」。慈恩寺は、埼玉県岩槻市にある天台宗の古刹で、坂東三十三観音霊場十二番の札所。

案内板によると、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えた道標だった、とのこと。 
「・・・銘文は安永4年(1775年)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の3方向を示しています。
銘文 正面 右せんじゅ岩附志おんじ道 左リ江戸本所ミち 右面 左リ いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 左面 右 いち川ミち 
安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 」

小岩市川渡しの目印だった「常燈明」。
 もともと、小岩市川の渡し場に建てられていた。この渡しは江戸時代には成田山新勝寺や千葉寺詣での人たちで賑わっていた。そのため、「佐倉街道」は「成田街道」とも呼ばれた。
 この「常燈明」は、天保10(1839)年、千住総講中によって献灯されたもの。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mある。
昭和9年(1934)の江戸川改修に当たり、宝林寺に移されました。

                                     1880年代のようす。元佐倉道と佐倉道と合流し、江戸川を渡る。

                                     2010年代のようす。江戸川の改修で渡しへの道や街並みは、河川敷の中に。

 

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その3。高砂団地再開発。鎌倉かなえ通り。柴又街道。

2020-06-25 19:35:45 | 沿線歩き

              京成本線沿いに歩きます。

高砂駅南側の商店街。

線路沿いの道は住宅地。

高架は「北総線」、下に京成本線。

右手に大きな公園。

線路南側一帯に大規模な再開発計画が進んでいます。かつては5階建ての都営住宅がたくさん建ち並んでいたところです。それらが高層アパートに変わり、さらに「Google」でも再開発を待つ空き地が目立ちます。

高砂地区開発協議会(創出用地地区勉強会)の活動について(「葛飾区」HPより)

都営高砂団地では、平成21年から開始された建替え事業により、従来3~4階建て程度だった住棟を10~12階建てに高層化したことから、広大な用地が創出されることとなりました。この建替えに伴い創出される用地(創出用地)を高砂のまちづくりに活かしていくため、創出用地地区勉強会を発足し検討を行っています。
 創出用地地区は、平成23年度に高砂地区開発協議会が作成した『高砂駅周辺まちづくり方針』においては、防災性や住環境の向上を図るまちづくりとして「創出用地ゾーン」と位置付けられ、「住宅整備とともに生活基盤となる商業、医療・福祉施設が複合したまち」等と表現されています。

「高砂北公園」。

5年、10年と来ない間にまるっきり様変わり。

 

空き家になった棟。                

店舗なども1階部分にありましたが、すっかりなくなりました。どこに移転したのでしょうか?

再開発を待つ。

                        

この団地には知人も住んでいて、かなり以前、何度か訪問したことがあります。下町色満開の団地風景でしたが、今後はどうなっていくのでしょうか?

1970年代のようす。団地が広がっています。

                     

 

成田空港に向かう「北総線」が離れていく。

「葛飾区 総合教育センター」。旧明石小学校。

用水路跡の道。

橋名が残っています。「かまくらはし」。

 近世の新田村。「新編武蔵」に、「昔相州鎌倉郡ヨリ源右衛門トイヘルモノ。来リテ開發セシユヘ。此名アリト云」と明記されている。また村内から曼荼羅が掘り出されたため、曼荼羅村の別名もあった。

線路の向こうを望む。

○の地点。(「今昔マップ」より)

踏切を渡ります。高砂方向。

踏切右手の一画に。

この辺りは鼎橋跡。青面金剛像は道標になっていて「右面 右江戸みち奥戸渡し迄半道 左面 橋向左矢切渡しみち」。「小合溜」からの引き水路で「大堰枠」で「東用水」と分岐した「小岩用水」に架かっていた橋が「鼎橋」。

鼎の足が3本であることから、3という数を表すことがある。  

                                     1880年代のようす。○付近か? 三叉路になっているような印象。

右斜めの道(道標では左)を行くと、柴又方面に進み、左斜め(道標では右)を行くと、奥戸の渡しに着く。

                                        2010年代のようす。位置がすこしずれていますが。

中央左の斜めの道が「小岩用水」。              

                                

線路の向こうに続く。

線路脇の解説板。                         「小岩用水の沿革」。

小岩用水は、小合溜井(現在の水元公園)を用水源とする上下之割用水の主要分水路です。江戸時代の中期享保14年(1729)、8代将軍徳川吉宗の幕府勘定方であった井沢弥惣兵衛は利根川の旧河道を締め切って小合溜井を設け、中川・上下之割用水を整備しました。                                         上下之割用水は東葛西領50余村を潤す灌漑用水で、岩槻橋を経て大堰で小岩用水を、新宿村と曲金村境付近で東井堀、さらに細田村と奥戸新田付近で西井堀と中井堀を分流しています。小岩用水は下之割と呼ばれた現在の江戸川区方面への主要用水路でした。                                              当時の葛西領は上下之割用水と西の葛西用水の2大用水の本・支流が縦横無尽に走る水田地帯で、葛西3万石の米どころとなっていました。また畑地では小松菜などの野菜が作られ、大消費地江戸を支える農村地帯として重要な役割を担っていました。                                                  近代に入って都市化の進行と共にともにこれらの用水路は次第にその役割を減じ、戦後は工場や家庭からの排水が流れ込む排水路となっていきました。昭和39年(1964)4月、葛飾区移管され、その後下水道の完備とともに緑道として整備されて現在に至っています。

南に向かう用水路跡。

「鎌倉かなえ通り」。

             

「柴又街道」にぶつかります。

  

「食べログ」で「柴又街道がスイーツ街道な件」として紹介されています。

 葛飾区の金町から柴又、江戸川区の小岩と縦断する柴又街道。実は葛飾区や江戸川区を代表するスイーツの名店は柴又街道沿いに揃っています。スイーツに関しては都心に敵わない印象の葛飾区ですが、ご紹介する柴又街道沿いのスイーツ4軒は都心の名店にも負けない魅力を持っています。車で回って食べ比べても損は無し!? 
・・・
柴又街道を移動してスイーツ巡りいかがでしょうか?
北から金町の「ラ・ローズ・ジャポネ」、柴又の「い志ゐ」、新柴又の「ビスキュイ」、京成小岩の「ラトリエドゥシュクル」とご紹介しております。都心の一流ホテル出身のパティシエたちが下町葛飾エリアに新風を巻き起こしているのかも知れません…。

左手が「京成小岩駅」方向。

小岩駅ホーム。

       

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その2。曲金村(高砂)。用水路跡。立体交差事業。

2020-06-24 20:07:12 | 沿線歩き

               京成線のガード。この道路はかつての用水路跡。

これは「東用水」跡の道路。

小合溜から「大堰枠」で分岐した水路は、京成電車の高架線手前で二つ(「東用水」・「西用水」)に分岐します。京成線の北側。右が「東用水」左が「西用水」。どちらも京成線をくぐる。葛飾区内の用水路跡はほぼ探索済みで、ブログにも掲載。「河川痕跡」(カテゴリー)。

                                                                          1880年代のようす。○が分岐点。分岐点の上の道は新宿から分かれた「佐倉街道」。

中央に、「中川」を渡し舟で渡り、柴又帝釈天へ通じる道がある。

                                                                          2010年代のようす。→が撮影位置。中央の川は「新中川」。

「高砂橋」を振り返る。

もう一つの用水(「西用水」)跡。

火の見櫓。

「スカイライナー」が通過中。

「京成高砂駅」。

駅前のようす。

              正面の高架線は、「金町線」。

A:京成本線 B:北総線 C:金町線 (上が南方向)

地名の由来 
【高砂】1932(昭和7)年まで「曲金」とよばれていました。曲金は約620年前の室町時代の資料にも出てくる古い地名です。明治時代になると、地元の人から読みにくいなどといわれました。そのため1932(昭和7)年に葛飾区が誕生したときに、それまで使われていた小字名(村より小さい単位の地名)の中から一番縁起のよい「高砂」を地名にしたのです(曲金村高砂という地名がありました)。なお、駅の名前は地名より早く、1913(大正2)年に曲金から高砂に変更されています。(「葛飾区史」HPより)

中川(旧・古利根川)がこの付近で大きく曲がっていたことによるとか。直角に近い角度ならまさにさしがね。
 「金」は「鐘」とも記す。

墨田区に「鐘ヶ淵」という地名があります。

「隅田川」は西から流れてきて、ここで大きく流れの向きを変えて南へ向かっていく。ここが鐘ヶ淵。その形が大工道具の指矩(さしがね)を思わせるというので、“かねが淵”の名で呼ばれるようになったと伝えられていますが、他説には、ある寺が移転する際、ここで梵鐘が川に落ちて沈んだままになっていることが由来とも。かつては綾瀬川が合流するところで、船人にとっては難所でもあり、その意味でも有名なところだったのです。

                     1880年代のようす。「曲金村」という表示。

墨田区鐘ヶ淵付近。

同上。↓が綾瀬川との合流地点。

この踏切は「開かずの踏切」としていつも交通渋滞。車はここを避けて通るため、細い道に入りこみ、交通事故も。早く高架駅にしてほしいところ。

「連続立体交差事業の??!」。

残念! すっかりかすれてしまっています。

          

 

 

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青砥駅~江戸川駅~北総線「新柴又」駅。その1。「環七」。メトロセブン。新金貨物線。

2020-06-23 21:03:20 | 沿線歩き

今回からは、青砥駅から高砂~小岩~江戸川(京成本線)、「江戸川」の河川敷にある「小岩菖蒲園」に寄り、土手を歩いて、北総線「新柴又駅」、そして青砥駅まで戻る、という沿線歩きの記事。約19,000歩。

ちょっと古い地図ですが、A=青砥、B=江戸川、C=新柴又。○が高砂。江戸川河川敷に「小岩菖蒲園」。 (「今昔マップ」より)

6月6日(土)晴れ。午後。

高架下を進みます。

「環七」を横断。「青砥橋」が右手に。

近年になるまで足立から葛飾地域の「環七」部分は未開通でした。
○の部分。

 昭和20年代。この付近はまだ田んぼがあって、農道が道路として使用されていました。

かつてのあぜ道跡。左手が用水路跡。

           正面奥が「環七」。

              

田んぼ(○)。昭和30年代に入り、あっという間に宅地が進みました。「大日本機械工業」(光自転車)という大きな工場の跡地に当時都内でも有数の公団住宅ができ、周囲にも一般の住宅が建ち並びました。↓は中川を越す「水道鉄管」橋(現在はない)。冒険好きな子はここを渡っていました。


 東京都道318号環状七号線

 東京都大田区平和島を基点に、世田谷区、杉並区、練馬区、北区、足立区、葛飾区などを経由して江戸川区臨海町に至る主要地方道(都道)。 
「東京都市計画道路幹線街路環状第7号線」として整備されたことから、環七通り(かんななどおり)あるいは環七(かんなな)の通称で呼ばれる。 23区内を環状に廻る一般道としては本道路が最も外側に位置する。 

 ・・・1985(昭和60)年1月、葛飾区青戸八丁目から奥戸陸橋までの区間(京成本線との立体交差の関係で工期が延びたため)が供用開始されたことで、当初構想から58年後に全線開通となった。 

「環七」に地下鉄を通す計画があります。

以下、「鉄道計画データベース」HPより。

エイトライナー・メトロセブン
 エイトライナーとメトロセブンは、環八と環七という環状道路の地下に鉄道を通そうという計画です。葛西臨海公園-亀有-赤羽-荻窪-田園調布の約59.7kmを結びます。国土交通省では、両路線をあわせて「区部周辺部環状公共交通」という名称で呼んでいます。開業予定時期は未定です。

エイトライナー・メトロセブンの概要
 東京都心から約10km圏を走る環状鉄道計画です。エイトライナーが「環八」、メトロセブンが「環七」の地下を走り、両線は赤羽で接続し直通します。導入空間の道路が異なるため「エイト」と「セブン」と別の名称になっていますが、実質的に同一路線に近いと言えます。
 メトロセブンは、葛西臨海公園(JR京葉線)-葛西(メトロ東西線)-一之江(都営新宿線)-(JR総武線新駅)-青砥(京成本線)-亀有(JR常磐線)-北綾瀬(メトロ千代田線)-六町(つくばエクスプレス)-西新井(東武伊勢崎線)-赤羽(JR東北線)を結びます。全長は28.8kmです。
エイトライナーは、赤羽(JR東北線)-志村三丁目(都営三田線)-上板橋(東武東上線)-東武練馬(東武東上線)-平和台(メトロ有楽町線)-練馬春日町(都営大江戸線)-練馬高野台(西武池袋線)-井荻(西武新宿線)-荻窪(JR中央線)-高井戸(京王井の頭線)-八幡山(京王線)-千歳船橋(小田急線)-二子玉川(東急田園都市線)-上野毛(東急大井町線)-田園調布(東急東横線)の30.9kmです。
エイトライナーは、さらに蒲田を経て羽田空港に至るという構想もあります。田園調布-羽田空港間は、東急多摩川線、蒲蒲線(計画中)、京急空港線が担うことになりますが、それを含めれば、葛西臨海公園-羽田空港の総延長73.4kmという壮大な鉄道路線になります。


 そもそもエイトライナーとメトロセブンは、それぞれの沿線自治体が推進する別の計画でしたが、1997年に両促進協議会が連携することを確認。「エイトライナー・メトロセブン合同促進大会」を開くなどして、協力して建設を推進しています。そのため、導入空間の道路名が違うだけで、実質的には一つの路線です。国土交通省の運輸政策審議会答申第18号でも、両路線をまとめて「区部周辺部環状公共交通」と呼んでいます。
 エイトライナー、メトロセブンとも事業化はされておらず、開業予定時期などは未定です。東急多摩川線への乗り入れも考慮して普通鉄道の計画が基本ですが、スマートリニアメトロを導入する議論もあり、確定していません。事業費は、普通鉄道の場合で1兆229億円、スマートリニアメトロの場合で9377億円と概算されています。

・・・

エイトライナー・メトロセブンの今後の見通し
 答申第198号では、「事業性に課題があるため(中略)事業計画について十分な検討が行われることを期待」としたうえで、「需要等も見極めつつ中量軌道等の導入や整備効果の高い区間の優先整備など整備方策について、検討が行われることを期待」と記されました。
 すぐに着工できるような条件が整っているような表現ではありませんが、優先的な整備区間を見極めて事業性を整えれば、着工の可能性はありそうです。
その優先整備区間についてですが、費用便益比を重視するなら、田園調布駅-荻窪駅間が最も優勢で、次に荻窪駅-赤羽駅間、赤羽駅-亀有駅間、亀有駅-葛西臨海公園駅間という順序になります。要するに、田園調布から時計回りに整備していく形になります。
 それでも採算面で不安があるため、答申でも指摘された「中量軌道等の導入」が検討されるとみられます。中量軌道等としては、リニアメトロのほか、モノレールや新交通システムも候補に挙がりそうです。ただ、これらは東急多摩川線への乗り入れができないため、羽田空港方面へのアクセス性が下がるという難点があります。
 その羽田空港アクセスですが、蒲蒲線 (新空港線)ができれば、田園調布から京急蒲田駅での乗り換えだけで羽田空港に着くことができるようになります。すると世田谷区、杉並区方面からエイトライナーを使った空港アクセスが可能になり、この新線の有用性は高まるでしょう。そのため、エイトライナーの整備は蒲蒲線の動向次第、という側面もあります。
 何しろ約60kmにも及ぶ長大路線のため、着工から全面開業までの道のりは遠いものがあります。1兆円規模の事業費がかかりますので、実現するにしても、数十年先を見据えたプロジェクトになることでしょう。・・・

 

その代替路線として京成バスによって「シャトルセブン」が運行されています。なかなかの人気路線です。

シャトルセブン(環七シャトル)

 東京ディズニーリゾートより葛西臨海公園駅に向かい、葛西臨海公園駅からは環七をひたすら北上し、葛西駅・一之江駅を経由し小岩駅・亀有駅方面へ急行運転する。愛称は「シャトルセブン」。2007年4月1日に1年間の予定で試験運行を開始し、利用者が定着してきたことから2008年も増便の上で試験運行を継続することとなった。この試験結果が良好だったため、2009年から本格運行に移行した。

 2018年1月14日から新小岩駅 - 東京ディズニーリゾートを結ぶシャトルセブンの派生系統となる特急バスが運行を開始した。

(この項、「Wikipedia」参照)

「中川」を「高砂橋」で越えます。

下流方向。

 現在の中川の流路は、その上流部は明治時代以前の庄内古川(幸手市高須賀より上流は島川)と、下流部は古利根川(利根川東遷事業以前の利根川本流で東京湾へ注ぐ河口部は現在の旧中川)とを、松伏町大川戸から松伏町下赤岩まで大正・昭和に開削された河道で接続して造られた。それ以前は古利根川が亀有付近で分流した河道のうち、江戸川区西葛西付近の河口へ向かう河道を中川と呼んだ(西へ向かうもうひとつの河道は現在の古隅田川)。 
この水系整備により、島川・庄内古川より東京湾河口までが中川として扱われ、合わせて古利根川、元荒川、綾瀬川なども中川水系とされた。 
なお庄内古川は、江戸時代以前の渡良瀬川の権現堂川より下流の流路を流れた。渡良瀬川の下流は古くは太日川と呼ばれた。太日川は江戸時代に整備され現在の野田市関宿・幸手市西関宿から南流する江戸川となり、庄内古川とは吉川市付近で合流した。松伏町金杉と吉川市上内川の境界周辺に庄内古川の流路跡となる旧堤防が残されている[6]。 
中川の河口部は現在の旧中川を流れて東京湾へ注いでいたが、荒川放水路の開削に伴い河道は分断され、現在の旧中川が切り離された。

(この項、「Wikipedia」参照)

旧中川。

中川(古利根川)が明治末の荒川放水路開削によって分断され、中川は荒川沿いに流れるようになり、西側の部分が取り残されてしまいました。現在、上流は江戸川区・墨田区、下流は江戸川区・江東区の区界となっています。

振り返ると、遠くにスカイツリー。

「新金貨物線」を越えます。

新金貨物線の旅客を目指す葛飾区が、新年度予算で事業化のための調査費を計上します。10年間で100億円を積み立てる基金や専任部署も新設して、旅客化実現へ本気を見せてきました。

新金貨物線とは
新金貨物線は、新小岩信号場と金町駅を結ぶJR総武線の貨物支線の通称です。大正15年に新小岩操車場とともに建設され、東京臨海部と千葉方面との貨物輸送を担う路線とされてきました。
しかし、武蔵野線、京葉線の開業により、貨物列車が南流山~西船橋~蘇我間を経由するようになったため、新金貨物線を経由する列車の本数は近年少なくなっています。地元・葛飾区では旅客化を求める声が高まっていて、2018年度には区が基礎的な調査も実施し、「新金貨物線の旅客化検討資料」として公表しました。

電車とライトレールの2案
資料によりますと、旅客化が検討されている区間は、新小岩駅~金町駅の7.1km。現状は電化単線で、複線化用の空間が確保されています。旅客化の検討では単線のままで、途中駅に交換設備を設けます。
貨物列車の運行は存続するという前提で、旅客列車の車両は通常の電車とライトレールの2案を候補としています。
・・・
新小岩駅と金町駅は、総武線、常磐緩行線との乗り継ぎを考慮した位置を想定します。所要時間は10駅で22分、7駅で17.7分となっています。
概算事業費はライトレールが約250億円、電車が約200億円と試算されています。

画像:葛飾区「新金貨物線旅客化の検討資料」
国道6号線とどう交差するか
旅客化のための最大の問題点は、国道6号線との交差です。ここを踏切とすると、国道の渋滞発生が予想されます。立体化するとなると巨費がかかります。
検討案では、踏切ではなく交通信号とし、道路側の交通信号にあわせて旅客列車を通過させ、道路交通への影響を抑える構想を示しています。
ただ、貨物列車(「旅客列車」の誤りか)が走行する場合は、鉄道が交通信号で道路と交差することは前例がなく、構想の実現には高いハードルがあります。

(この項、「」HPより)

以前、「新金貨物線」の沿線歩きをしています。(ブログに投稿済)

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京成上野駅~青砥駅。その13。補足編。市松人形「人形松菊」。貸本屋「楽文堂書店」。

2020-06-19 20:02:41 | 沿線歩き

                            「人形松菊」。

青砥駅近くにある「市松人形」のお店。以前から気になっていたお店です。

雛人形・市松人形の松菊へようこそ 

松菊では一般的な人形から個性的な人形へと研究を重ね納得のいく作品づくりを心掛けております 
また、自由に着せ替えができる裸市松人形も取り扱っております。更には市松人形以外にも江戸雛や 
木目込み人形などの江戸人形を部品から製造しています。また,松菊では、年間100体以上の修理を、 
手掛けています。ガラスケースの修理も承ります。ぜひご相談ください。

江戸市松人形とは

 日本の人形とは平安時代に新生児の無病息災を祈るため、枕元に置いた天児や這子と呼ばれるものが原形ではないかといわれ、京都で発祥したものです。
その後、江戸時代となり諸大名が参勤交代の折に苗字帯刀を許された人形師たちが随行し,その弟子たちが各地に人形を普及させました。更に元禄年間には江戸の 町人文化が発達し幾多の名士の指導のもとに多くの職人が技術指導を確立してそれぞれの雛人形、五月人形、市松人形、風俗人形などを作り、江戸人形の伝統の基礎を気づきました。
当時爆発的な人気を博した歌舞伎役者「佐野川市松」の若衆姿を再現した人形がこれまで続いている市松人形の由来です。
人形に切りの粉を固めた桐塑の生地に胡粉を塗り重ねることで、生き生きとした表情を創り、目玉はガラス、頭髪は人毛や絹糸を用いて、 衣裳は古いちりめんなどを着せて自由に着せ替えができるのが特徴の日本の伝統的な人形です。

裸市松人形
 
松菊では、自由に着せ替えができる江戸衣裳市松人形の製造も行っています。

市松人形の為の着物。

人形師紹介

菊地之夫‐Yukio Kikuchi‐ 東京都伝統工芸士 昭和32年 葛飾 青戸 生れ
略歴 松菊は、先々代かせ、現在の墨田区東向島で菊地人形製作所として発足。昭和53年には、青戸にて製造を一本化し、数々の修業を経て、五月人形・ひな人形等の製造法も身につけ、現在その技術を磨き、伝統の技法により一品物の人形を手掛けている。

(この項、「人形松菊」HPより)

「歴史資料室」も設置されているようです。

久々に通りかかったら「貸本屋」さんが取り壊されることに。既に更地になっています。 

 取り壊される直前の写真。

子供の頃は漫画本、長じて小説などを借りに行きました。1日10円だったかいくらだったか。病弱な旦那さんと元気な奥さんの二人で経営。中学から高校、大学の頃までけっこう乱読気味で、江戸川乱歩、横溝正史とか小説雑誌、「ガロ」(注1)とか少し背伸びをした本などせっせと毎日のように借りに行きました。ちょっと本屋さんで買いにくい小説なんかも取り置いてもくれました。そのうち、ご主人が亡くなって店も閉めました。その頃には、自分で本を買ったり、近所に公営の図書館が出来、そこで借りたりしてすっかり縁遠くなりましたが、奥さんが年老いてもお一人で生活していたようです。鉢植えの花々をせっせと世話をしていました。「月下美人」(注2)というすてきな花もありました。いつしか姿が見えなくなり、そのうち家を取り壊す張り紙がされました。

注1「ガロ

『月刊漫画ガロ』は、1964年から2002年頃まで青林堂が刊行していた漫画雑誌。大学生など比較的高い年齢層の読者に支持され、独創的な誌面と伝説的経営難の中で独自の路線を貫き漫画界の異才をあまた輩出した。創立者は白土三平、初代社長兼編集長は、青林堂創業者の長井勝一(ながい かついち)。1998年からは青林堂の系譜を引き継いだ青林工藝舎が事実上の後継誌『アックス』を隔月で刊行している。 
『ガロ』は先見性と独自性で一時代を画し、単なる漫画雑誌には止まらない足跡を出版界に遺した。また、独自の作家性を持つ個性的な漫画家たちの作風は「ガロ系」と呼ばれ、『ガロ』出身ではない作家でも「あの作家はガロ系」としばしば表現される。彼らの作風は、海外のオルタナティヴ・コミックの作家たちとも親和性が高い。 

日本初の青年漫画雑誌『月刊漫画ガロ』は、それまで貸本漫画の出版などで知られていた編集者の長井勝一と漫画家の白土三平により1964年7月24日に創刊された。誌名は白土三平の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取っているほか我々の路すなわち「我路」という意味合いもあり、またアメリカのマフィアの名前(ジョーイ・ギャロ)も念頭にあった。誌名の複数の候補からガロを選んだのは長井の甥である[3]。題材・内容とスケールから連載する場所がなかった白土の漫画『カムイ伝』の連載の場とすることが創刊の最大の目的だった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。 
長井勝一は後年「執筆者が7人以上いないと雑誌と認めてもらえなかった」と創刊時を振り返っており、水木しげるや白土三平が複数の名義を使い執筆者を水増ししての創刊だった。当初は白土三平の赤目プロの援助を受けて刊行された。雑誌のロゴも白土が発案し、レイアウトのほとんどを白土が構成した。表紙のレイアウトは週刊誌『朝日ジャーナル』を意識した。『ガロ』に触発された手塚治虫は虫プロ商事より『COM』を創刊、『カムイ伝』に対抗した『火の鳥』を連載する。ともに全共闘時代の大学生に強く支持されていった。 
1960年代の『ガロ』は、白土三平の『カムイ伝』と水木しげるの『鬼太郎夜話』の2本柱でおよそ100ページを占め、残るページをつげ義春、滝田ゆう、つりたくにこ、永島慎二などがレギュラーとして作品を発表していた。新人発掘にも力を入れていた当時の青林堂には、毎日のように作品が郵送で届き、多いときには2日、最低でも3日に一人は作品を小脇に抱えた若者が訪れた。 
『ガロ』は商業性よりも作品を重視しオリジナリティを第一としたため、編集者の干渉が比較的少なく、作家側にすれば自由に作品を発表できた。また、新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。こうしたことはそれまで漫画という表現を選択することのなかったアーティストたちにも門戸を開放する結果となり、ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。・・・

(この項「Wikipedia」参照)

注2「月下美人」。サボテン科クジャクサボテン属の常緑多肉植物。夜に咲き始め翌朝までの一晩でしぼむ。 

     (「Wikipedia」より)

すでにすっかりなくなってしまったんでしょうか?

貸本文化は江戸時代からのようです。

江戸時代、出版技術の発展による刊行物の増加や写本の流通量の増加によって、一般大衆にも読書の習慣が広まった。江戸時代の庶民にとっては、本を買い求めて読むよりも、貸本屋や行商人から見料を払って読むのが一般的であった。長友千代治は、『きのふはけふの物語』の「ものゝ本売に下」という記述から、貸本屋の誕生を寛永はじめ頃と推定し、元禄頃になると貸本中心の行商本屋が出現したと指摘している。 
貸本屋は、版元からの直接購入、貸本屋同士の売買、貸本類仕入所などからの購入、貸本屋自身による作成の4つの方法で商品を揃えた。江戸時代の貸本屋大野屋惣八の扱った蔵書を見ると、人情本・洒落本・滑稽本・草双紙をはじめ、井原西鶴や曲亭馬琴といった有名作家の作品、軍書や兵書、浄瑠璃本や実録本まで、そのジャンルは近世文学全般に及んでいる。 
 20世紀初頭から、貸本屋は江戸川乱歩や手塚治虫を始めとする数多くの大衆小説家や漫画家の作品を刊行して読者層を増やし、怪奇漫画や貸本劇画などの新しい文化を生み出した。 
 戦後、小説や漫画単行本、月刊誌を安く貸し出す貸本の店が全国規模で急増した。のちに登場するレンタルビデオ店の先駆的な存在である。貸本の店は大衆娯楽小説や少年漫画などの単行本、成年・少年・婦人雑誌などを提供する場として1960年代初頭まで日本全国にあふれていた。1940年代末からは漫画を中心に貸本の店専用書籍も刊行され、『墓場鬼太郎』(『ゲゲゲの鬼太郎』の原型)などを生んだ。 
 1950年代後半からは図書館の充実、図書全般の発行部数の増加、出版社が販売する雑誌の主軸が月刊誌から児童や庶民でも安価に購入できる週刊誌へ移行した事などにより、一部の店舗が一般書店に転向したほかは急速に減少、1960年代半ばに店舗を持たずに各家を回る巡回式貸本業がいったんほぼ消滅し、貸本専用書籍も1960年代をほぼ最後に後を絶った。 
 現在貸本の店は小規模で経営する店舗が少数存在するのみである。「貸本」自体は、無店舗経営で本を宅配する業者などの誕生や後述する大規模ビジネスへの移行の動きなど、新しい段階へと移行する兆候を見せ始めている。しかし、現在の貸本は、ほぼ通常の販売用の書籍・雑誌のみになっているため、著作権者側から目を付けられるようになった。2006年、貸本には著作権者が貸与権を行使して使用料を徴収するようになった。以後、漫画を中心に新しい動きが広がっている。・・・

(この項「Wikipedia」参照)

少、青年期の読書体験としてはずいぶんお世話になりました、感謝。感謝。 こうして昔ながらの文化も消滅していくのでしょうね。いや、新しい形態で継承されていくのでしょうか。

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