おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

八高線(高崎~八王子)。その5。小川町駅~毛呂駅。(附)武者小路実篤「新しき村」。

2024-08-31 15:36:01 | ローカル鉄道の旅

しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。

            

住宅が増えてきます。 

「明覚(みょうかく)駅」。 

埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線である

ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。

※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。

            駅舎。(この項「Wikipedia」より)

        田んぼが広がる。

        

住宅が建ち並ぶ。

越生(おごせ)駅で東武線と接続します。

越生駅・東武線ホーム。

東部越生線。坂戸で東武東上線と接続する。

             

武州入間郡越生郷、越辺(おっぺ)川の渓口集落として発展し、相州より上州に通ずる街路にあたり、その中枢の宿場町として栄えました。昭和30年に梅園村と合併し、越生梅林、黒山三滝等の景勝の地があり、太田道潅(どうかん)で有名な山吹の里にも近く、観光客で賑(にぎ)わっています。駅名は町名より命名されました。

※越生梅林は、埼玉県入間郡越生町の越辺川沿いに広がる梅林です。南北朝時代太宰府から武蔵国小杉村へ天満宮を分祀する際に梅を植えたのが、その起源と言われています。その後、越辺川左岸が梅の生育に適していたことから梅を多く植え、その実で梅干しを作るなどしたことから、梅の里として知られるようになりました。

        

現在の越生梅林は梅園神社向かいの越辺川岸に位置し、約2haもの広大な面積を有する梅園として整備されています。水戸偕楽園、熱海梅園と共に「関東三大梅林」の一つに数えられ、「白加賀」「越生野梅」「紅梅」など様々な品種の梅の木が約1000本植えられています。中には650年以上も前に植えられたという古木もあるとか。春先には辺り一帯に梅の花の香りが漂い、いち早く春の訪れを感じられるスポットとして人気を集めています。 川に面した東側の梅林から河原に降りることもでき、見上げるように眺める梅林の風景もまた風情があり見事。天気の良い日は梅の花を眺めながらお弁当を食べる観光客の姿もよく見かけます。

(「」HPより)

越生は難読地名の代表格です。 その語源については諸説がありますが、平野と山地の接点にあたる越生からは、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えなければなりません。 それに由来した『尾根越し(おねごし)』の『尾越し(おごし)』という言葉から変化したという説が有力視されています。

(この項、「」HPより)

東武線から離れていきます。

「毛呂(もろ)駅」。

埼玉県入間郡毛呂山町大字岩井にある駅。八高線の当駅以北は高崎支社管轄であり、隣駅の高麗川駅以南は八王子支社管轄となる。

※毛呂山町

秩父山地関東平野が接する八王子構造線にまたがり、西部の緩やかな山地は標高約300 - 400mで、外秩父山地の東縁部にあたり、秩父古生層が広く分布している。一部が県立黒山自然公園に指定されており、農業用灌漑貯水池である鎌北湖はその中心となる湖である。この湖から飯能市天覧山まで奥武蔵自然歩道が伸び、ユズをはじめとする果樹園や畑が多く自然環境に恵まれていることから、観光客がハイキングなどに訪れている。

南部の丘陵地帯には武者小路実篤が理想社会を目指して創設した「新しき村」があり、1939年宮崎県から移住して以来、現在も農業を基盤とした共同生活を続けている。

中央部から東部にかけては越辺川(おっぺがわ)と高麗川に挟まれた標高約60m前後の平地で、表面は関東ローム層に覆われている。

町内を走る東武越生線は坂戸駅で東武東上線に接続し、沿線は東京都内の通勤圏に入ることから町内には住宅団地が多い。武州長瀬駅近辺に1959年(昭和34年)に武蔵野霊園が開園したのと合わせて日生団地と長瀬団地といった郊外住宅団地が造成されたのがはじまりで、両団地の成功と都市化はさらなる住宅団地造成と、他デベロッパーによる同駅周辺の住宅団地の造成を呼び込み、かつては森林で占められていた武州長瀬駅近辺は町の全世帯数の35%(1972年当時)を占める町内の一大住宅団地エリアを形成するに至った。近年においても、1997年(平成9年)からガーデンシティ目白台の開発が行われている。

また、首都圏からのアクセスも良く地形が適当であったことからゴルフ場も多く開発されている。

・・・

※「新しき村」

武者小路実篤の理想郷の100年後 「新しき村」が挑む再生への道 永沼仁

「白樺派」

※主な同人に、作家では志賀直哉有島武郎木下利玄里見弴長與善郎の他、美術家では柳宗悦有島生馬、美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路はその明るい性格と意志の強さから思想的な中心人物となったと考えられている。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼い頃からの知人も多く、互いに影響を与えあっていた。

の作家、武者小路実篤(1885~1976)が開いた理想郷「新しき村」が大きな転機を迎えている。100年を超え存続してきたものの、本拠地の「村民」は減り続け、今や3人だけ。再生に向け、新たな挑戦が始まった。

 埼玉県毛呂山町の丘陵地。茶畑が広がるのどかな景色を見ながら村に入ると、2本の柱が目に入る。

 「この門に入るものは自己と他人の 生命を尊重しなければならない」

 「自他共生」などを説き、理想の社会をめざした実篤の考えの一端が伝わってくる。

 村では現在、40~70代の男性3人がそれぞれ別棟で暮らし、協力しながら無農薬で米や茶を栽培している。

1918年にスタート

 始まりは、大正時代にさかのぼる。ロシア革命の翌年、第1次世界大戦が終わった1918年。国内では、米騒動スペイン風邪が流行していた。

 そんな不安定な時代に、実篤は、仲間と宮崎県の山間地を開拓した。一定の労働をすれば衣食住が平等に保証され、自由に余暇を過ごせる「人間らしい生活」のできる場をめざした。

 しかし、ダム建設で主な農地が水に沈むことになり、39年に現在の場所に本拠地を移した。

※宮崎においても、ダム完成後、別の地に移って存続している。

 当初、村外からの経済支援が欠かせなかった。だが、戦後に始めた養鶏事業が成功した。58年には、村の事業だけで自分たちの生活費をまかなえるようになったという。60、70年代には若者の入村や出産が相次ぎ、幼稚園もつくった。村の人口は、最盛期で60人を超えた。

 しかし、その後は高齢化と村民の減少が進む。卵価の低迷などによる収入減が大きな理由だった。

 財政を安定させようと始めた太陽光発電が、窮状に拍車をかけた。2010年に導入したものの、固定価格買い取り制度が終わり、売電価格が大幅に下落したからだ。

 村の先行きが見通せなくなり、一部では「解散」もささやかれた。100周年を迎えた18年に8人いた村民のうち、70、80代の5人が昨年春、去っていった。

 村を運営する一般財団法人の理事長を務めていた寺島洋さん(81)も、その1人だ。村内で結婚し、約60年暮らした。愛着は強いが、村の立て直しを主導することに限界を感じた。

 自分が村から離れれば、少しでも経費が減らせる。「新たな人たちにバトンタッチする時期だと思い、決断しました」という。

再生のバトンを渡されたのは

 施設の老朽化は目立つ。村内にある、実篤の遺品を展示する美術館を訪れる人はまばらだ。従来のやり方では村の維持は難しい。

 村の再生を託されたのは「武者小路」だった。・・・

※武者小路実篤の孫にあたる武者小路知行さん。 知行さんは現在、調布市武者小路実篤記念館の理事長を務めている。

武者小路知行が理事長に就任しました. 令和4年5月27日. 埼玉県に対し、当法人を公益法人とするための公益認定の申請をしました。 (「新しき村」HPより)

・・・

大正年間、新しき村について、理想主義は夢想主義に終わる(山川均)、経済的には資本主義の圧迫を受けて失敗する(河上肇)と、酷評されていた。しかしながら、実篤が「自己を生かし、他人も生かす生活」の理想を貫いた新しき村は、現代の経済第一主義のなかでもなお生き続けているように思えます。

・・・

次の駅が八王子駅に向かう電車との乗換駅・「高麗川駅」。

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八高線(高崎~八王子)。その4。寄居駅~小川町駅。

2024-08-30 21:03:28 | ローカル鉄道の旅

「寄居駅」付近の今昔。

                                (現在)。「荒川」・景勝地「玉淀」。

                           (1880年代)。

寄居駅の南、「秩父往還」沿いに集落(寄居宿)。 

「荒川」を鉄橋で渡りますが、撮れませんでした。

3年前、「荒川」を遡上したときに「寄居駅」(秩父鉄道)で下車し、そこから荒川沿いを歩きました。その時の記録。

・・・

2021年4月24日(土)。晴れ。秩父鉄道・寄居駅南口から東武東上線・玉淀駅へ向かい、そこから「荒川」へ。

宮沢賢治歌碑。

        毛虫焼くまひるの火立つこれやこの秩父寄居のましろきそらに

        つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ

正喜橋」。

佐々紅華作曲の「寄居小唄」の歌曲碑。

寄居小唄    金子虹作詞 佐々紅華作曲

色はうす紅 玉淀さくら 霞む日ごとの 水かがみ
まわる日傘に ほろほろと さても愛しい 花が散る

よりい良いとこ 秩父の山が 雪のけはいの 品のよさ
娘まけるな 紅つけて シャンとすませよ ミスよりい

城は鉢形 御城下町に 昔 ならした 意地もある
思いきるまい 心なら せめて二度咲け 山つつじ

埼玉県立自然公園 玉淀」碑。

「玉淀」の名称は昭和6年4月29日に命名され、玉は埼玉の玉で美しいの意味であり、淀は水のよどんだところという意味があります。すなわち埼玉県にある美しい玉のような淀んだ地という意味で、昭和10年に県指定名勝として文化財指定を受けています。

      対岸は、「鉢形城」址。

「八高線」踏切。

「八高線・荒川橋梁」が左手奥に。

・・・さて、今回。

しばらく荒川の右岸沿い、「鉢形城」跡付近を通過し、南下します。

雨脚も強くなったり弱くなったりする中、

      丘陵地帯を進む。

「折原駅」。

駅舎はなく、簡易な待合室があるのみで、乗車駅証明書発行機が設置されている。入口付近に簡易Suica改札機がある。                         

      ・・・

森の中を進んでいきます。  

  

「竹沢駅」。撤去された線路。

※以前は相対式ホーム2面2線を有し、両ホームは跨線橋で連絡していたが、2016年10月15日に上下線ホームが片側一つになった。 

JR東日本によると、1日平均乗車人員は31人で、乗車人員を把握出来る埼玉県内の駅の中では最も少ない。これは、周辺住民の多くが東武東上線東武竹沢駅を利用していることが大きな要因となっている(東上線運行本数は八高線と比べて遥かに多く、現状では利便性に格段の開きがある。     

「小川町駅」に近づきます。  

「小川町駅」。

再び「東武東上線」との乗換駅になります。

秩父山系の山々は京都の東山や北山を思わせ、中央の槻川は加茂川、比叡山には都幾山が対比され、全国に「小京都」と云われるところは多いが、この町ほど町の輪郭や寺社から名所まで、よく似ている町はないと云われています。駅名は古くからの町名をとり、命名されたものと思われます。

(この項「」HPより) 

・・・ 

昭和30年2月11日、比企郡小川町、大河村、竹沢村、八和田村の1町3か村を合併し、昭和31年1月1日、寄居町大字西古里と鷹巣の各一部を編入して、現在の小川町が誕生しました。当町は、埼玉県の中央部よりやや西に位置し、面積は60.36平方キロメートルです。
周囲を緑豊かな外秩父の山々に囲まれ、市街地の中央に槻川が流れる小川町は、歴史を誇る小川和紙や小川絹をはじめ、建具、酒造などの伝統産業で古くから栄えた町です。また、歴史を秘めて佇む史跡や往時の面影を留める町並みなど、その風情から、いつしか「武蔵の小京都」と呼ばれるようになりました。

小川町和紙体験学習センター 

                  

この項、「」HPより) 

廃線跡。気動車の「気」。左手は、「県立小川高校」。

小川町の町並み。   

   山並みがしばらく続く。 

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八高線(高崎~八王子)。その3。児玉駅~寄居駅。

2024-08-28 18:30:09 | ローカル鉄道の旅

「児玉駅」。

               

埼玉県本庄市児玉町児玉にある駅。1931年昭和6年)7月1日鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅 - 倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。児玉出身の、

盲目の国学者 塙保己一 

塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。
7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。
 保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続編1185冊は、現在、日本の文学・歴史等を研究する上で欠くことのできない重要な資料となっています。

保己一の生まれた保木野地区には生家(国指定史跡)と墓があり、アスピアこだま内には保己一の遺品や関係資料(埼玉県指定文化財)を展示する塙保己一記念館があります。(この項「本庄市」HPより)

群書類従』(ぐんしょるいじゅう)国学国史を主とする一大叢書

塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。歴史学国学国文学等の学術的な研究に多大な貢献をしている。

右手に奥武蔵の山々が見え始めます。

左手は田園地帯。

一転にわかにかき曇り、大粒の雨が降り始めました。

      

「用土駅」。

おしゃれな駅舎のようです。(「Wikipedia」より)

『新編武蔵風土記稿』の用土村の項に「村内に鎌倉古道あり、小前田村の方より入り、児玉郡八幡山町へ通ず」とある。

この付近の今昔。

                               (現在)「宿」という地名が残されている。

                               (1880年代)顕著な道が通る。旧道か?

左手から秩父鉄道が迫ってきます。

  

「寄居駅」に近づきます。

「東武東上線」ホームが左奥に。

「寄居駅」。

秩父鉄道の秩父本線(秩父線)、東武鉄道の東上本線東上線)、JR東日本の八高線の3路線の接続駅となっており、東上線に関しては当駅が終点となっている。

                    

駅名の由来秩父山麓の豊かな緑と荒川の名水で有名なこの地は、秩父地方の出入口として重要な位置を占め、この町を通過しなければ、峠よりほかに道はなし、といった立地条件を背景に多くの人が寄り集る場所と云われたことから、「寄居」という名前が生れ駅名にも命名されました。
戦国時代には特に重要な拠点として登場しています。(この項、「」HPより)

八高線・高崎行きの列車。

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八高線(高崎~八王子)。その2。倉賀野駅~児玉駅。

2024-08-27 20:04:53 | ローカル鉄道の旅

倉賀野駅を過ぎると、最初の踏切が「日光例幣使街道」、その次の跨線橋が「旧中山道」。

二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。

※「日光例幣使街道」と「中山道」。(「例幣使街道」を歩いたときの記録。)

倉賀野宿・「中山道」との分岐点。

    右が「中山道」、左が「日光例幣使街道」。


「常夜灯」。正面「日光道」右側面「中山道」左側面「常夜燈」。

「道標」。正面「従是 右 江戸道 左 日光道」。

JR線を越えます。

※「中山道」歩きのときの記録。


「←倉賀野宿1.3㎞、→新町宿3.9㎞」。

  
         「高崎線」の上下線を跨線橋で越えて行きます。

・・・

さて、列車は、「烏(からす)川」を越えます。

ザ・ガーデンゴルフクラブ」。

烏川の河川敷にある。

    「烏川」。

烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。

(「国土交通省」HPより)

※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。

「北藤岡駅」先で、高崎線と離れていきます。

「高崎線」。

     田園地帯をゆく。

「上越・北陸新幹線」。

「群馬藤岡駅」。

             

「神流(かんな)川」。

神流川は、三国山の西側より多野山地へ曲がりくねりながら流れ、下久保ダムを通り、群馬県と埼玉県の県境を流れ、新町地先で烏川に注いでいます。流域面積は407km2、流路延長は87.4kmです。(「同」HPより)

 「丹荘(たんしょう)駅」。

丹荘駅の住所は埼玉県児玉郡神川町植竹。では、「丹荘」という駅名はどこからきているかというと、武蔵七党の一つ丹党の荘園があった地域に由来する。丹党は古代豪族多治比氏の末裔で、天慶年間(938〜947)に丹治武信が武蔵国に流されたのが祖という。武信はのちに許されて帰京したが、孫の峯時が秩父郡石田牧の別当となって土着、以後武蔵国西部から群馬県にかけて広がった。八高線でも丹荘駅の次は群馬県の群馬藤岡駅である。

丹党は児玉党ともに武蔵七党の中では大きな勢力を持ち、一族はこの付近の地名を名字として名乗った。江戸時代の摂津麻田藩主青木家が丹党の子孫を称しているなど、丹党の末裔という武家は多い。

(この項、「」HPより)

※1947年(昭和22年)から約40年間、後に上武鉄道となる日本ニッケル鉄道(日丹線)の起点駅で、1941年9月に日本ニッケル工業(現・朝日工業)~丹荘駅間6.1kmを結ぶ路線として開業。廃線跡は、「健康緑道」という遊歩道になっている。

     (「Wikipedia」より)

       「児玉駅」。  

実りの秋、間近。

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八高線(高崎~八王子)。その1。高崎駅~倉賀野駅。

2024-08-26 19:03:56 | ローカル鉄道の旅

久々に列車の旅。去年の夏は、関東エリアの地方鉄道に乗りましたが、まだ残っていた「八高線」にチャレンジ。

高崎線で高崎まで。そこから「八高線」に乗って八王子まで。そこから中央線で戻ってきました。

八高線(はちこうせん)

東京都多摩地域南西部の八王子市から北上し、埼玉県の西部および北西部を経由して群馬県南部の高崎市を結ぶ路線。

八王子駅から群馬県高崎市倉賀野駅でを結ぶ鉄道路線地方交通線)。実際の運行は倉賀野駅を始発・終着とする列車はなく、同駅を経由する全列車が高崎線に乗り入れて高崎駅を起終点としている。

関東山地東麓を経由して全長92.0kmを結ぶ(倉賀野~高麗川 58.9K+高麗川~八王子 33.1K)。

全線単線であり、沿線には昭島市福生市飯能市寄居町藤岡市といった都市が存在する。開業時は1か所だけトンネルがあったが、現在は全線に渡ってトンネルは一切なく、これは地下トンネルや海底トンネルを含むトンネルが1つもないJRの在来線では路線単位で最長である

1996年(平成8年)に埼玉県日高市高麗川駅より南側が電化された。その際に運転系統は高麗川駅を境にして南北で完全に分断され、高麗川駅以南の列車は川越線との直通運転を行うようになった。高麗川駅以北の区間は埼玉県内では唯一、かつ群馬県内ではわたらせ渓谷鉄道線とともに数少ない非電化区間となっている。

「高崎駅」で八高線のホームへ。2番線と4番線の先にホームがあります。

「中山道」歩きや去年のローカル鉄道の旅などで、高崎駅は何度か利用しましたが、幹線駅らしい雰囲気のある駅です。

※高崎駅は古くから交通の要衝として栄え、9路線が乗り入れる県内最大かつ北関東有数のターミナル駅として機能している。新幹線開業前は東京方面から上越線方面と信越本線方面との分岐点として機能していた。長距離輸送の役目を新幹線に譲ったが上越新幹線北陸新幹線の分岐点となっているほか、在来線においても群馬県内各地へ向かう各路線のターミナル駅としての役割を担っている。

八高線・気動車(ディーゼル車)「高麗川」行きが到着。

車内のようす。

        横一列のロングシートと2人+1人掛けのクロスシートを合わせた仕様。

              

部活帰りの高校生や地元の方、観光客は?

向かいのホームに「上信電鉄」(高崎~下仁田)の電車。去年の夏に乗りました。

12:56発 高麗川行きの出発。左が「上越・北陸新幹線」。

                 

倉賀野までは高崎線と並走。

                       

この先で高崎線と分かれて進みます(烏川を越えた後で再び並走します)。ここからが「八高線」。

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「虫ききの会」・向島百花園。8月23日夕。

2024-08-24 20:25:24 | 向島百花園

8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。

江戸時代から続く伝統行事のようです。この期間は、夜の9時まで開園。

相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。

荒川・四ツ木橋より。

           遠くにスカイツリー。

向島百花園。

   

                   

園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。

                

風鈴の音が響く。

カルガモの姿はありませんが、

虫たちの展示。

遠くにスカイツリー。

しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。

  

    

別の場所から。

             

                   

園内からのスカイツリーもなかなか趣がありました。

参加者も和やかな雰囲気。                                

      問ふごとき しかと見つめる 赤蜻蛉

   

          闇廻り 虫の音に酔う 江戸なごり

                    

                      さりげなく めくる歳時記 虫の園

若いカップルが興味深く、

  

      「御成座敷」。

               期間中、お点前の会が開かれています。

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処暑。8月22日(木)。8月31日(土)・二百十日。綿の花。木槿。鰯・秋刀魚。秋の七草。

2024-08-22 18:35:39 | 二十四節気

今日、8月22日は、24節気の14番目「処暑(しょしょ)」。立秋から二番目。この時期から次第に夏の暑さが収まってくるとされています。

※「処」という文字には「とめる」「とまる」などといった意味があり、この時期から次第に暑さが収まってくるとされている。

お米や梨など色んな穀物・果実が実り始める頃、でも今や、収穫期がどんどん早まったり、熟しすぎる、今日この頃。

お米も高騰! 買占めもあるようで、品切れ状態。

暦の上では、「厳しい暑さの峠を越し、朝夕は涼風が吹き始め、山間部では早朝に白い露が降り始め、秋の気配を感じる」とか。

ところが、今年はどうも順調に秋が来ているとは思えません。

関東地方。いきなり突然の激しい雷雨。安定しないお天気です。それでも東京地方。日中はかなり蒸し暑く、出歩くといっぺんに汗が噴き出しますが、夕方は、雨が降り、風も出て少し涼しく感じられます。

ところで、この頃は台風のシーズンでもあります。

「二百十日(「立春」から数えて210日目)」、「二百二十日」は、ともに台風襲来の特異日とされています。

「二百十日(「立春」から数えて210日目)」。今年は、8月31日(土)。

しかし、最近はどうも台風の到来も早め早めのようで、6号、7号と東日本を中心に大きな被害を受けています。10号が週明けに本州を直撃のようです。

七十二侯でいうと、

・初侯 8月22日〜8月26日頃

綿柎開 わたのはなしべひらく

綿を包む柎が開き始める頃。柎とは花の萼(がく)のことです。柎が開き始めるとふわふわとした綿毛が中からとび出してきます。この綿毛が木綿の糸や布になります。

(「みんなの趣味の園芸」より)

・次侯 8月27日〜8月31日頃

天地始粛 てんちはじめてさむし

ようやく暑さが静まる頃。天気図には秋雨前線が登場し、冷たい空気とともに秋を運んできます。とはいっても、日中はまだまだ暑く、夏の気候が続きます。

・末侯 9月1日〜9月6日頃

禾乃登 こくものすなわちみのる

日に日に稲穂の先が重くなってくる頃。稲穂はこぼれるように実り、色づき始めます。しかし、この時期は台風が襲来してくる時期であり、各地で農作を祈るお祭りが開催されます。                      

            実りの秋。

《旬のもの》

 木槿(むくげ)。韓国では、国の繁栄を意味する花として国花になっています。
 
(「Wikipedia」より)
 
 マツムシ

果物 葡萄(ぶどう)

 鰯(いわし)、秋刀魚(さんま)

※秋刀魚は不漁で価格が高騰。栗やカボチャも。味覚の秋がピンチ!

 秋の七草

(この項、「暦生活」HPなどを参照しました。)

※「秋の七草」

覚え方は「お好きな服は」(おすきなふくは)。

おみなえし、すすき、ききょう、なでしこ、ふじばかま、くず、はぎ。

     ききょう。

ふじばかま。

くずの棚。

               花が咲いています。

すすき。                     

萩。           

萩のトンネル。             

白い花の萩。            

次は「白露」―9月7日(土)―となります。

※「秋の七草」の写真は、昨年8月下旬「向島百花園」にて。

※「向島百花園」では、今週末令和6年8月22日(木)~8月25日(日)9時~21時(入園時間は20時30分まで)

に「虫ききの会」が開かれます。

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朝から暑い! 猫たちもぐったり。でも、食欲だけは衰えず。酷暑の、ある日。(DAYS with CATS)

2024-08-21 19:33:50 | わがやの猫たち

我が家の猫たち。最近は、仲良く、

近くに。

それでもあんずは2歳年上

                           上と下に。

          玄関に誰か来ると、同時に視線を向ける。

そのうち、ふらっといなくなるあんず。

「ネコは液体である」。小さな洗濯かごに納まるソウタ(5.8k)。

飽きてウロウロ。机の脚の下でモゾモゾ。

                 しっぽがユラユラ。

ひっくり返ってガリガリ。

いつもの寝姿。クーラーの効く部屋で。

こんな寝方も 頭は?しっぽは? 小さな箱がつぶれそう。                   

 

それでも、12時頃になると、ムックリ起きだして、啼いて上に行こうと催促する。

そして、

                           

ということでした。

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『第一回あかね噺の会』林家楽一「紙切り」・お囃子教室・鏡味仙成「大神楽」・林家けい木「つる」。・。(「落語鑑賞教室」その6。)

2024-08-18 18:35:04 | 落語の世界

寄席では、落語を2本見せると、次は必ず落語以外の演芸を見せる。紙切りを始めとして、漫才、漫談、奇術、太神楽、三味線漫談、ウクレレ漫談、バイオリン漫談、ものまね、など、目先の変わる芸を見せる。

落語2本あると、必ず次は「楽しい演芸」となる。

「紙切り」といえば、林家正楽さん。お客さんの注文に応じてハサミ一つで紙を切る。実に味のある芸でした。

「切れない」と言わない寄席紙切り芸の第一人者、林家正楽さん死去…76歳 2024/01/26 12:30

 東京都出身。高校卒業後、会社勤めを経て1966年に二代目林家正楽に入門した。林家小正楽を経て2000年に師匠の名跡を継いで三代目正楽を襲名。

どんな注文でも「切れない」とは決して言わず、ひょうひょうとした一人語りと共に体をユラユラと動かし、短い時間で紙を切り抜くスタイル。寄席でトリの一つ前に出演する色物「膝代わり」の代表選手として信頼も厚く、20年に芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)、23年に松尾芸能賞の功労賞を受賞した。今年度の浅草芸能大賞の大賞にも選ばれていた。(この項、「讀賣新聞オンライン」より)

この正楽さんの一番弟子「林家楽一」さん。

  紙とハサミとトーク。

「あかね噺」にちなんで。                

イラストを見ながら。

           

続いて、

    

             太鼓や笛などは二つ目・前座の担当。

「さつまさ」。

「ワンピース」より 

「太神楽」。

中学2年で太神楽師を志すが、国立劇場太神楽研修生の募集要件が中学卒業以上から23歳までというものであり、第7期募集時は中学3年であったため応募できなかった。そのため、直接鏡味仙三郎に入門志願を行い、1年間の稽古を経て第7期の3年間の課程の2年目に聴講生として編入している[2][3]

研修を修了した2014年4月に仙三郎に入門。芸名「仙成」。落語協会での前座修行に入る。

2015年に前座修行を終え、鏡味仙三郎社中に加入。

2021年に師匠仙三郎が死去。兄弟子鏡味仙志郎と共に鏡味仙志郎・仙成を結成。同年3月、令和2年度国立演芸場花形演芸大賞銀賞を受賞。

              

    

司会を担当していたのは、林家けい木さん。

     

 八っつあんが隠居のところに遊びに来た。「鶴の面白い話をしてあげよう。鶴は昔『首長鳥』と言ったんだ。それが鶴となったんだよ。大昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~』っと飛んできて、巌頭の松に『ポイ』と留まった。その後から雌の首長鳥が『る~』っと飛んできて、『つる』になったんだよ」、「えぇ?ツーと来てルーと来たから鶴になったんですか。『ヘー』と来て『ビー』と来たら今頃ヘビになっていたな」。もう一度その話を聞いて、飛び出した。

「昔は首長鳥と言ったんだが、どうして鶴というようになったか、知りたいだろう」、「知りたくない」。聞けとうるさく迫った、「俺は忙しいんだ。早くしろよ」。

 「大昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~る~』っと飛んできて、巌頭の松に『ポイ』と留まった。その後から雌の首長鳥が・・・。(沈黙、首をかしげて)昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~る~』っと飛んできて、巌頭の松に『ポイ』と留まった。その後から雌の・・・。さようなら」。
もう一度、隠居に教えててもらうと「つーとるーを離すんですね」。

 「源ちゃん、さっきの話ねぇ~~」、「まだその話しているのか。仕事をしろよ」、「大昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~』っと飛んできて、巌頭の松に『る』と留まったんだよ。その後から雌の首長鳥が、ん?・・・。大昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~』っと飛んできて、巌頭の松に『る』と留まったんだよ。その後から雌の・・・。(泣き声になって、もう一度言ったが、雌が)・・・」、「こいつ泣き出したよ。それで雌はなんて飛んできたんだよ」、「黙って飛んできた」。

噺の内容が単純でわかりやすい。次の回では「寿限無」を。これからの成長を期待。

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『第一回あかね噺の会』・柳亭小痴楽「明烏」。(「落語鑑賞教室」その5。)

2024-08-15 20:56:27 | 落語の世界

「明烏」は、八代目桂文楽師匠の得意中の得意なだし物。八代目文楽師匠は、上品な色気ときっちりした芸が売り。

・・・「明烏、一声鳴いて、夜が明ける」。「振られた者の起し番」で、結局、敵娼に振られた源兵衛と太助は歯磨きをしながらぶつぶつ言う仕草も絶妙。甘納豆を口に放り込みながら、時次郎を起こしに来る。

      

           

この、甘納豆を食べる仕草が絶妙で、この噺を聞いた後で、甘納豆がよく売れたとか。

※「明烏」は「明け方(朝)に鳴くカラス」を意味し、転じて男女の夜の契りの終わりを意味する。

さて、今回演じる「柳亭小痴楽」さん。

”クビ”になって初めて、落語への意識がガラッと変わりました

 五代目痴楽の次男として生まれ、幼い頃から独演会の手伝いに駆り出されていたという小痴楽師匠。落語家の道へと進んだのもその影響かと思いきや、きっかけは父とは別人の落語だったと話す。

 「15歳ぐらいの頃、たまたまCDプレーヤーに入っていた八代目春風亭柳枝師匠の『花色木綿』という噺を聞いたんです。当時僕は漫才が好きで落語には全く興味がなかったんですが、聴いている間ずっと爆笑で、『これ、すごくいいじゃん!』って。漫才は相方が必要だけど、落語だったら一人でできるって思っちゃったんですよ」

 当初は「中途半端な気持ちでやれるもんじゃない」とケンもホロロだった父だが、「それでも落語がやりたい」と食い下がる息子に、「じゃあこれを読んでみろ」と1冊の本を差し出した。

 「それが立川談志師匠の『現代落語論』でした。読んでみたらものすごく面白くて、親父に『この人、すごい落語家なんだな』って言ったら、今度は談志師匠の落語のカセットを貸してくれたんです。ところが、落語を聴き始めたばかりの子どもに談志師匠の高座は難しくて、つい『談志の落語は良くねぇな』みたいな生意気なことを言ったら、外に放り出されて親父にボコボコにされました。『今度落語家になりたいなんて言ったらただじゃおかねぇからな』と怒り狂って。きっと、何も知らねえくせに落語をなめるなよっていう気持ちだったんでしょうね」

 取り付く島もない怒りぶりに、しばらくは顔を合わせることを避けていたという小痴楽師匠。だが、改めて話し合う時間も持てないうちに、突然父が病に倒れてしまう。幸い一命は取り留めたものの、意識が戻るまでに2カ月近くかかり、言語障害などの後遺症も残った。

 「それで親父もちょっと気弱になったんでしょうね。ようやく言葉が出せるようになった頃、『やりたいんだったらやれ』と、桂平治(現・十一代目桂文治)師匠のところに入門させてくれたんです。その頃僕はもう高校を辞めてしまっていたので、何も深く考えず、16歳で落語の世界に飛び込みました」

 しかし、その覚悟のなさがやがて大きな挫折を招くことになる。1年たっても2年たっても寝坊癖が治らず、師匠の大切な羽織を寝過ごして高座に届け損なうなどのしくじりが続き、18歳にして父の元に帰されてしまうのだ。

 「つまりはクビです。でも、一度破門となってしまうと落語界では生きていけないので、『お父さんとこ戻んなよ』って、破門という経歴が残らないよう、みんなで体裁を整えてくれたんです。そういうのを見ていたら、本当にものすごく迷惑をかけたんだな、と初めて身に沁みました。それまでは落語家になるために修業を“している”だったのが、修業を“させてもらっている”に変わった瞬間でした。その反省から、自分では『破門になった』って言っています。あの時から本当に落語に対する意識がガラッと変わりましたね。口は悪いままですけど(笑)」

 以来父の門下で修業を積むが、残念ながら2009年、父は他界。父の弟弟子である柳亭楽輔の門下に移り、同じ年に二ツ目に昇進。神田松之丞(現・神田伯山)や桂宮治ら二ツ目の落語家と講談師が結成したユニット「成金」に参加するなど活躍の場を広げ、2019年、ついに真打への昇進を果たす。披露パーティでは「寝坊だけは気をつけます」と挨拶をし、大きな笑いを誘った。

(この項、「文春オンライン」より)

郭話・「明烏」を演じるにはまだまだ。というのが正直な印象。テンポで勝負、からの精進が楽しみです。

「阿良川志ん太」にそっくり。

なかなかの男前。

田所町3丁目にある日向屋の若旦那・時次郎は部屋に籠もって本を読むのが好きという堅物で、悪所遊びとは無縁の人物である。あまりの堅物ぶりに父親である大旦那も、遊びも知らぬ世間知らずでは店を継がせられないとして、2人の遊び人に息子を遊郭に連れていってくれるよう頼む。費用は店持ちということで2人も喜んで引き受ける。

2人はお稲荷様に参拝すると嘘をついて若旦那を連れ出す。吉原に入ってさすがに周りの様子がおかしいと若旦那も怪しみだすが、2人に上手く言いくるめられてしまう。

店に入って遊女たちに囲まれ、ようやくここが話に聞く遊郭だと気づき、慌てて逃げ出そうとするが、2人は大門には見張りがいて勝手には出られないと脅す。それを真に受けて若旦那は諦め、店一番の美しい花魁と一夜を共にすることになる。

翌朝、2人はどちらも女に振られたまま朝を迎える。若旦那も同じだろうと様子を見に行く。

源兵衛「けっこうなお籠もりで。そろそろ帰るから、早く起きてください」

浦里も「若旦那、早く起きなんし」と声を掛ける。
時次郎「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて・・・・」と云う始末。

頭に来た太助、「じゃ、ゆっくり遊んでらっしゃい。先に帰りますから」

時次郎は、布団から顔を出し、「あなた方、先へ帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で留められるから」

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いました!向島百花園のカルガモたち。8月13日。午後の園内。

2024-08-14 18:37:02 | 向島百花園

強い日差しの下、愛用の折りたたみ自転車で久々に向島百花園へ。風があるので、少しは走りやすい。でも、暑い!

      

葛の葉の下。

                涼しげな風鈴の音。

            

さまざまな花が咲き、実っています。

            

       

  

      

        

池の方に進むと、カルガモの姿。

こちらにも2羽。

 

まとまって木の陰に。

カルガモの泳ぎを見ながら、四阿で休んでいると、

ヤマバトが水を飲みに。まだ小さい。

遠くから鳴き声が聞こえると、そちらの方に飛んでいきました。

ドバトも。鳥たちも喉が渇くのでしょうね。

さて、腰を上げて帰ろうとすると、カルガモの姿が見えません。

右の側溝のところに集まっているようです。

 

池へ引き込む用水路。ここが涼しいのでしょうか? 数えると、7羽います。

係の方に尋ねると、「親鳥は朝から出かけて夕方帰って来るようでね。どこか次の住処を探しているのでしょうか。」

前回来たときは、1羽も見ませんでした。おそらく藪の中にでもいたのでしょう。

ま、安心しました。

移動するまでのひとときをこの池で過ごして下さい。

        

               「東京スカイツリー」。

強い台風7号が関東地方に接近する、とのこと。明日から荒れ模様になるのでしょうか?

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『第一回あかね噺の会』・春風亭一朝「三方一両損」。(「落語鑑賞教室」その4。)

2024-08-13 19:13:21 | 落語の世界

「あかね噺連載1周年記念」。トリは、春風亭一之輔の師匠である「春風亭一朝」。

 落語家・春風亭一朝(72)は寄席に欠かすことのできない存在だ。江戸前の語り口でトリでの熱演はもちろん、浅い出番でサラッとつなぐこともできる。・・・寄席を大事にする思いは、弟子の春風亭一之輔(45)ら一門弟子にも受け継がれている。

 そもそもは大師匠にあたる8代目林家正蔵(後の彦六)に入門志願した。当時、正蔵にはあとむ(現・八光亭春輔)、九蔵(現・三遊亭好楽)の2人が前座にいたため、正蔵から総領弟子の5代目柳朝を紹介され一番弟子となった。初めての弟子をもった柳朝は楽屋でこう宣言したという。「ウチに入った弟子だからな! いじめたら張り倒すぞ、この野郎」。一朝は「助かりましたね」と述懐する。

 修業も一風変わっていた。当時は師匠宅で住み込みで掃除や洗濯など身の回りの世話をするのが通常だったが、柳朝は違った。「お前はウチに女中に来たわけじゃないから、掃除などはやらせない。ウチにも来なくていい。とにかく稽古しろ」。噺を教わる先輩も柳朝が選び、頼んでくれた。「師匠はその日の気分によってやるたびに違っちゃう。『基礎ができていないとダメだ』と前座のころはあまり稽古してくれなかったです。二ツ目になってからはボンボンやってくれましたけど…」。柳家小三治、9代目入船亭扇橋、三遊亭円窓、三遊亭円弥らから多くの噺を教わった。「小三治さんは(二ツ目の)さん治時代でしたからね」。柳朝が見込んだ噺のしっかりとした落語家から薫陶を受けた。「一月で5、6席覚えましたよ。稽古は苦しいけれど癖がつくと覚えるのが早くなるんです」。前座で覚えた噺は120を越えた。「1回覚えた噺は何十年やっていなくても、聞き直すとだんだん出てくるんです。忘れていない。面白いもんですね」

 現在は6代目柳朝、一之輔、三朝、一左、一蔵の5人の真打ちを含め10人の弟子がいる大きな一門になった。一朝一門の掟は「うそをつくな」「稽古しろ」だという。弟子の指導も師匠・柳朝のやり方を踏襲している。「一之輔も色んな人に頼んで稽古を付けてもらいました。色んな人に教わると、いいところが所々出てくるんです。そして自分にあった人が出てくるんです。その人だけに教わっていると、“小型化”みたいになる。(弟子で)私に似ているやつは誰もいないです」と笑った。

 弟子のことを語る一朝のまなざしは優しい。一之輔の真打ち昇進披露興行では、期せずして師弟で毎日ネタを変えたという。「せっかくだから同じ噺をやっても…と思っていたら一之輔も(毎日)変えてきた。そうしたら新宿(末広亭)の5日目だったかな。一之輔が『もう勘弁してください。大人げないですよ』と言ってきた。私は『どこまで続くかな。こいつも強情だから』と思っていたんです。楽しかったですよ」。

 初めて会ったときのことも鮮明に覚えている。「第一印象というか『この子なら大丈夫だな』という判断はだいたい当たっています」と一朝は言う。「一之輔は、(緊張で)どもるし…。でも、すごくいい目をしていた。決心が固いなと思いました。一蔵も同じですよ。あの(大柄な)体つきなので、一瞬『やばい』とひるみましたけど…」。弟子の成長が楽しみでもある。「お客さんから(弟子が)『良くなったね』と言われるのが一番うれしい。弟子へのジェラシー? 全然ないです。とにかくうれしいです」。

 一朝は笛の名手でもある。「談志師匠のお弟子さんが笛を習うというので、私も祭りのお囃子を吹きたかったので、紹介してもらいご一緒したんです」。談志一門の弟子は上達せずにすぐやめたが、笛の師匠から「あなたは残りなさい」と引き留められた。「鳳聲克美」の名前で名取にもなり、二ツ目時代には歌舞伎座、新橋演舞場などで歌舞伎の笛を務め「落語家やめませんか」と言われたことも。「歌舞伎で江戸言葉がいっぱい出てくる。こういう言葉はいいなというのを噺の中に取り入れます」。千住で生まれ、大工など職人の言葉を耳にして育った江戸っ子の一朝だが、歌舞伎の名優の台詞回しなどを近くで体感したことも江戸前の芸に生きている。

 今後はどのような噺に取り組んでいくのだろうか。「若い頃に覚えたけれどしっくりこなくて、高座にかけていない噺をまたやってみようと思う」と貪欲だ。師匠・柳朝ゆずりの「『天災』『三方一両損』のような江戸っ子の出てくる噺も大事にしたい」と言う。さらに「火焔太鼓」の名前を挙げた。前座時代に、古今亭志ん朝が柳朝に稽古した際に同席していた。「師匠は乱暴で志ん朝師匠を自宅に呼びつけて稽古してましたね」。「火焔太鼓」は昨年、初めて高座にかけた。

 一朝は3月23日に国立劇場小劇場で「見参!!一朝一門 隼町の会」に出演、一之輔とは初のリレー落語「百年目」を披露する。昭和の名人・三遊亭円生が得意としたネタで一朝は円生の弟子の円弥から教わった。国立劇場は立て替えのため10月で閉館となる。「あそこは地下に泳げるくらいの大浴場があるんですよ。国立演芸場の出番が終わって『今から湯行ってくるよ』なんて言ってね」と笑う。小劇場はTBS落語研究会でもおなじみだ。「前座をやって、二ツ目は笛で毎回入っていた。(新しい国立劇場が)どういう風になるか楽しみだし、修業した場所がなくなる寂しさもある」という。

 師匠が名乗った「柳朝」の名跡は総領弟子に襲名させ、出ばやし「さつまさ」は一之輔が使用している。「私は『林家』を尊敬しているで、少しでも林家に近づこうと…」。出ばやし「菖蒲浴衣」は使用する部分は違うものの先代正蔵と同じ。一朝の名前も二ツ目昇進の際に大師匠から名付けてもらった。三遊一朝は落語中興の祖と言われる三遊亭円朝の弟子で、先代正蔵にとっては稽古を付けてもらった恩人。最後は自身が名乗ろうと決めていた名前だった。「『一朝』をやるよ。私もそんなに長生きできないから」と言われたという。「ウチの師匠が『俺が欲しかった名前だ』というので『柳朝と取り換えましょうか?』って言ったら、怒ったね!」。正蔵、柳朝への尊敬の念を持ち続け、これからも高座で江戸前の芸をきわめていく。(高柳 義人)

(この項「春風亭一朝、師匠の柳朝、大師匠の正蔵から受け継ぐ江戸前の芸・一之輔は「すごくいい目をしていた」

一朝師匠。

イッチョウ懸命頑張ります」がキャッチフレーズ。必ず最初に。

今回の演目は「三方一両損」。

左官の金太郎は、三の金が入った財布を拾い、一緒にあった書付を見て持ち主に返そうとする。財布の持ち主はすぐに大工の吉五郎だとわかるが、江戸っ子である吉五郎はもはや諦めていたものだから金は受け取らないと言い張る。金太郎もまた江戸っ子であり、是が非でも吉五郎に返すと言って聞かない。互いに大金を押し付け合い、けんか沙汰に。

大家が仲を取り持とうとするが、今度は吉五郎が大家に向かって「くそったれおおや」と威勢のいい啖呵を切る。

長屋に戻ってきた金太郎は、大家に一部始終を話すが、両町内でけんか沙汰になっては、と、奉行所に持ち込まれ、名高い大岡越前(大岡忠相が裁くこととなった。

    

           

双方の言い分を聞いた越前は、どちらの言い分にも一理あると認め、その上で、自らの1両を加えて4両とし、2両ずつ金太郎と吉五郎に分け与える裁定を下す。金太郎は3両拾ったのに2両しかもらえず1両損、吉五郎は3両落としたのに2両しか返ってこず1両損、そして大岡越前は裁定のため1両失ったので三方一両損として双方を納得させる。

そして場が収まったところで越前の計らいでお膳が出てくる。普段は食べられないご馳走に舌鼓を打つ二人を見て越前は、いかに空腹だと言っても大食いは身体に悪いと注意する。すると、二人は答えた。

「多かあ(大岡)食わねえ。たった一膳(越前)」。

こぎみのいい江戸落語を視聴させてもらいました。  

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『第二回あかね噺の会』・柳家喬太郎「擬宝珠」。(「落語鑑賞教室」その3。)

2024-08-12 14:11:39 | 落語の世界

「キョンキョン」の登場。

膝を悪くしたようで、上方のように「見台」を置き、

「けっして笑点の司会をねらっているわけではありませんから」。

それでもお元気。

演目は、「擬宝珠」。あまりやらないお噺のようですが。

まくらで「緑青がふいた10円玉は最近見かけませんね」とさりげなく。

若旦那は原因不明の神経病にかかってしまう。年老いた両親は大変心配する。息子の悪友・熊さんに「倅は何か心に思い続けていることがあるに違いない。なんとか倅に聞き出してほしい」と。

「煮干しが食べたい」と勘違い。「煮干しじゃ無くて、擬宝珠だよ」

若旦那は金属をなめるのが趣味。カレーライスよりもスプーンをなめるのだ、と。

隅田川(おおかわ)に架かるの橋の欄干の擬宝珠をなめつくした、と。

若旦那は「実は私は観音様の五重塔のてっぺんにある擬宝珠がなめたいんだ」という。

「倅もやっぱり擬宝珠が好きだったのか。ばあさんとあちこちなめ歩いたものだ」と。

「橋の欄干のは、擬宝珠。五重塔のてっぺんにあるのは、宝珠だ」と。

そこで、たくさんお布施を包み、頼み込んで、足場を組んでもらう。

若旦那はトントン上がって、

宝珠をペロペロとなめた。


「五重の塔は、うまかったか」
「沢庵の味がしました。よほど塩がきいておりました」
「塩は三升か、四升か、五升か」
「なあに、六升(緑青)の味がしました」。

「10円玉」が、ここで活きてくる。

恭太郎師匠は、さすがです。

※ 屋根の頂上や刹柱先端のものは〈宝珠〉で,高欄のものを〈擬宝珠〉という。

(「Wikipedia」より)

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『第一回あかね噺の会』・林屋つる子「反対俥」。(「落語鑑賞教室」その2。)

2024-08-11 21:38:24 | 落語の世界

林屋つる子「反対俥」。

※林家つる子

 (中央大学 文学部人文社会学科 中国言語文化専攻)
2010(平成22)年9月林家正蔵に入門
2011(平成23)年3月 前座となる 前座名「つる子」
2015(平成27)年11月1日 二ッ目昇進

さて「反対俥」。

 桂文治の噺、「反対俥」によると、 

 今は無くなってしまった人力車だが、その当時の話です。
 今川(いまがわ)橋で客待ちの居眠りをしている車夫に声をかけた。「万世橋から上野までやってくれ」の注文で、とろりとろりと走り始めた。と思ったが、かじ棒が上がりすぎ車夫は空中で足をばたつかせ、走り初めても提灯が借り物だからと、丁寧にゆっくりと走らせて(歩いて)いる。若い車夫に抜かれると「若い者に花を持たせやしょう」と動じない。今度は年取った車夫に抜かれて「年寄りにも花を持たせましょう」。心臓が悪いので、走ると死んじゃうかも知れません。その時は身寄りがないので、お弔いをお願いします。
 急いでいるので降ろしてもらった。
 「そこにいる若いの、早そうだな」。俺は早いよ、と言うなりかけだした。まだ乗っていないのに・・・。角を曲がって戻ってきた「道理で軽かった」。乗るから「万世を渡って北へ真っ直(つ)ぐやってくれ」、アラよっ、アラよっと走り始めた。風を切って走った。土管を飛び越え、しゃべる車夫の唾が風に飛ばされ客に飛んだ。土手に突き当たり俥はやっと止まったが、そこは埼玉県川口と書いてあった。「『北に』と言われたのでここまで来たが、上野なら戻ります」。
 またアラよっ、アラよっと走り始めた。「こないだは急行列車を追い抜いた」。今は汗が目に入って前が見えない。「止めてくれ」、「勢いが付いているので止まらない。トラックが来たら避けてください」。「お客さん、保険に入っていますか」、「そんなのには入っていないヨ」。「奥さんはいますか」、「二十八だよ」。「二十八で後家さんにしては可哀相。奥さんだけでも私が引き取りましょう」、「冗談言っちゃいけねェ~」。

(この項、「」HPより)

「落語芸術協会」HPでは、

あらすじ

日本橋あたりで上野の駅まで人力に乗った男。最初に乗った俥は遅くてしょうがない。乗り換えると、今度は威勢がよくて早い俥。どんどん飛ばして気持ちいいが、そのうち止まらなくなってしまう。やっとのことで止まると、そこは仙台だった。あわてて引き返すと今度は小田原。「これでは終列車に間に合わない。」「なぁに、明日の一番には間に合いますよ。」

・・・

しかし、今回、かなり改作しています。前半の車夫の話は短くして後の車夫が話の中心に。客の言動を主にして、人力車のとてつもない早さを表現。この落語は、耳で聞くよりも実際に演じる姿を見るのが魅力。

そして、つる子さん。口角、泡を飛ばしての熱演。喬太郎師匠だったら腰をひねってリタイヤーになるに違いなさそう。

ドラム缶を飛び越える仕草、3つ並んでいるのも飛び越える。・・・

ようやく着いたところがなんと「鎌倉」。そのかんに川にそのまま突っ込んで水中を。

さかなのつもり。

「行きたいのは大宮だ」そこで北に引き返す。後ろ向きになって走る。

     

途中で芸者衆にぶつかり、池に落としてしまう。「芸者を上げなよ」「芸者を上げるくらいなら車引きなんぞやってない」というオチ。観客も拍手。お囃子まで入って、

本人も苦笑い。

で終わらず、また走り出し、やっと大宮に。

「いけねえ、土産買うのを忘れた」「ではまた」「待て、懐に生きのいいうなぎが付いてきた」とやっとオチに。

大熱演でした。

2021年に演じていたのと同じようですが、相変わらずの熱演でした。この方の他の演目も見たいものです。

 ※人力車(じんりきしゃ)とは、人の力で人を輸送するために設計された車。

日本では、主に明治から大正・昭和初期に移動手段として用いられたが、現在も観光地などで用いられている。人力俥とも表記する。

(「」HPより)

今や外国人にも大人気。浅草などではひっきりなしに。猛暑の中、若い方が頑張っています。

夏目漱石は「落ちぶれ果てて車引き」などと言っていますが。

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『第二回あかね噺の会』・桃月庵白酒「替り目」。(「落語鑑賞教室」その1。)

2024-08-10 14:17:08 | 落語の世界

暇に任せてたまには落語でも、と。「youtube」で探していましたら、こんな動画がありました。

「『あかね噺』連載2周年記念 『第二回あかね噺の会』に潜入! 桃月庵白酒 古典落語『替り目』」。

『あかね噺』連載2周年突破を記念して行われたリアル落語イベント『第二回あかね噺の会』。 『あかね噺』に縁のある演目を落語家たちが実際の高座で披露! 今回の演目はあかねが披露した古典落語『替り目』。

『少年ジャンプ』で連載の漫画。

というわけです。

※小生、この年になって、『少年ジャンプ』は読む(見る)機会は、なし! 今も連載中?

演者の「 三代 桃月庵白酒」。 

昭和43(1968)年 鹿児島県生まれ

【芸歴】
平成 4(1992)年 4月 早稲田大学中退後、六代 五街道雲助に入門
前座名「 はたご 」
    同     年 6月 上野鈴本演芸場にて初高座
平成 7(1995)年 6月 二つ目に昇進 「 喜助 」に改名

平成17(2005)年 9月 真打に昇進 「 三代 桃月庵白酒 」を襲名

※師匠の「六代 五街道雲助」さんは、2023年7月21日、重要無形文化財保持者(人間国宝)に。落語家の人間国宝は五代目柳家小さん(1995年)、三代目桂米朝(1996年)、十代目柳家小三治(2014年)に次ぐ4人目の認定となりました。

さて、この演目。

酔っ払って自分の家の前で車に乗って帰ってくる。女房は早く寝かせようとするが、寝酒を飲まなければ寝られないとからむ。仕方なく女房は夜明かしのおでん屋へ出かけていく。亭主はその間にうどん屋をつかまえて酒のかんをつけさせ、にか食べてほしいというのを追っ払ってしまう。うどんやにお燗をつけてもらった後、新内流しを呼び込んだと思ったら、義太夫流しだった。夜中に大音声で、うるさいうるさい!

そこへ女房が帰ってきた。

実に飲みっぷりや絡みが抜群。

「おや、どうやっておかんをしたの」「いまうどん屋につけさせた」「なんか食べたの」「なにも食わねえでけんつくを食わせた」

気の毒に思い、自分が食べると言い、

女房 「うどん屋さ~ん、うどん屋さ~ん」

通行人 「おい、うどん屋、呼んでるで」

うどん屋 「呼んでるって、どこです?」

通行人 「向こうの家やないかい」

うどん屋 「えぇどこの~、だぁはぁ~、向こうへは行けま せん」

通行人 「何で?」

うどん屋 「 いま時分行ったら、ちょうど銚子の替わり目でございます」。

他にも面白い演目がありましたので、勝手にUPします。

※映像などは、すべて「youtube」より。

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