おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武線・幸手駅からJR線・古河駅まで。一里塚。内国府間。・・・(「日光道中」をゆく。その19。)

2016-05-31 22:28:58 | 日光道中

 「日光道中」を京成線「千住大橋」駅から始めて、

第1日目》京成線「千住大橋」駅~東武線「新田」駅 (東京都~埼玉県)
《第2日目》東武線「新田」駅~東武線「春日部」駅  (埼玉県)
《第3日目》東武線「春日部」駅~東武線「幸手」駅  (埼玉県)


 こうして、今回は《第4日目》東武線「幸手」駅~JR東北本線「古河」駅。いよいよ埼玉県から茨城県に入ります。

 5月28日(土)。曇りのち晴。東武線「幸手」駅から再開。朝ゆっくり出てきたので、9:15着。

右手に小公園があり、「幸手宿」の解説板。
                           ここは、「問屋場」の跡のようです。旧道の道筋が変わっていないのが驚きです。

下に絵図が載っています。

吉宗が食べたお弁当の献立
 享保13年(1728)8代将軍徳川吉宗は、65年ぶりに日光社参を実現しました。幸手宿を4月14日に通り、昼食所として聖福寺があてられました。昼食の弁当は、御麦めし中心で、吉宗が好んだのかご飯に砂糖と胡椒が添えられています。 

 焼豆腐 ひじき 山芋 煮しめ蓮 香の物・・・などが記されています。

本陣知久家
 知久家は宿場の本陣・問屋を務め、江戸時代の交通制度を長く支え続けました。また、幸手宿の名主を務めました。なかでも6代目知久文左衛門景信は、天明の飢饉で困窮した人々を救済し、権現堂の水防見回り役も務めました。
 

 そこで、「幸手宿」の紹介。
幸手宿
 江戸・日本橋から数えて6番目の日光街道および奥州街道の宿。現在の幸手市中部から北部にかけての旧街道筋付近にあたる。南から北に900メートル程度の範囲で広がっていた。
 幸手は、奥州に通じる渡しがあった場所として古くから栄えていた。 かつて、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸し、中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古書に残っている。 鎌倉時代には鎌倉街道が通じ、軍事・交易上でも交通の要衝として栄えていた。室町時代以降は一色氏の領地となり、天神神社付近に陣屋が築かれていた。
 江戸時代になると、一帯は江戸幕府直轄の天領となった。日光・奥州街道と日光御成道との合流点として、さらに筑波道が分岐する宿場町となった。
下総国葛飾郡に属していた。万治年間(1658年-1660年)より武蔵国桜井郷田宮の庄(武蔵国葛飾郡)に属するようになり、田宮町または薩手・幸手町と称されるようになった。その後、元禄年間(1688年-1704年)より幸手宿と称されるようになった。
 天保14年(1843年)当時の人口は3,937人、家数962軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒であった。 両隣の杉戸宿や栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場規模であった。純粋な宿場としては千住、宇都宮、陸奥白川、越ヶ谷に次ぐ大きさであった。

権現堂河岸
 江戸時代前期、伊奈氏により利根川東遷事業が行われ、権現堂川、江戸川が整備された。新田開発による米作の増大と相まって、これらの川を利用した江戸との間を結ぶ舟運が発展し、川沿いに作られた権現堂河岸には回船問屋が軒を連ねていた。

(以上、「Wikipedia」参照)

               広重画。


     

幸手宿本陣 知久家跡
 知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄でした。初代帯刀は、長野県伊奈郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治3年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くしました。
 明治6年、知久家の書院で小学校が開設され、明治9年、明治天皇が東北巡行の折に宿泊されています。
 屋敷は、間口約39m・奥行き約80mで、約千坪ありました。

 幸手市教育委員会

けっこう古いお屋敷が残っています。

「←日光御廻道」。

 この道そのものではなく、この先にそういう道がある感じですが、・・・。

 宿場特有の枡形に近づいてきました。日光道中は、宿場にこういう枡形がしっかり残っているようです。宿場内や宿場を出ると、長い直線路になるのが特徴のような気がします。

    
                                             振り返って望む。
 その曲がり角・右手に「一里塚」跡があります。
    

一里塚跡江戸・日本橋から12里目。
 徳川家康は慶長9年(1604)に、全国の主要な街道に一里塚を築かせました。江戸日本橋を起点として1里(約4m)毎に街道の両側へ、5間(約9m)四方の塚を築きその上に榎等を植えて目印にしました。榎は根が深く広がるので、塚が崩れにくかったのです。
 一里塚は、大切な距離標だったばかりでなく、荷役人の賃金計算の距離基準であり、旅人の休憩所ともなりました。
 幸手の一里塚は、明治の初めまでここの両側にありました。

 幸手市教育委員会



1880年代のようす。○が枡形。左下先が「日光御成街道」との合流点。

行く先を望む。

その先の信号を左に進みます。

 一直線の道が延びています。
    
                                  ふるさとのみち 日光街道。

 しばらくすると、「内国府間」という交差点で「国道4号線」と合流します。
 ところで何と読むのか分かりません。「ないこくふかん」「うちこくふあいだ」この先にも「外国府間」という地名もあります。これなんか「がいこくふかん」?

 正解は、うちごうまです。まったく読めませんでした。いわれは?

           
                 「宇都宮 59㎞ 小山 29㎞ 古河 15㎞」。

 このまま国道を進めば「行幸橋」で「中川」を渡りますが、その手前の信号で右に折れて、「権現堂堤」へ寄ってみます。

「らき☆すた」ともここでお別れ。
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雨のち晴れ。そぞろ歩き。でも、足取りはそっと、そっと。(「神宮絵画館」前にて) 

2016-05-29 21:56:28 | じじばばがゆく
 5月某日。雨のち晴。「神宮絵画館」前での「独白編」。

気持ちいいわ~ 雨上がりの雰囲気。清々しい気分が。とっても、すてきだわ。

ほら、空気が新鮮って、こんな感じなんだ。都会の中に、こういうところが残されているなんてね。

もし、10歳若かったらどうなっていたかしらね。

ハッピーな気分になれるのかしら、それとも、・・・。

やっぱり気分がいいわ。気持ちいい。

こうしているなんて、何だか変だわね。

緑がきれい。あれ、ヒマラヤスギっていうの。新緑ってやっぱりいいわね。

犬たちのお散歩か、あそこでは撮影会なのかな~。邪魔になっていないかしらね。

青空が見えてきたわ。空気が澄んできている感じ。

向こうじゃあイベントでもやるのかな。ずいぶんテントが張ってあるけれど。

ほら、見てよ、年取った方が座り込んじゃって、階段の上で。

気持ちいいわ~。久々よ、こうして出歩くのも。

もちろん女性としての身だしなみよ、これも。当たり前じゃない、しょうがないじゃない、年のせいよ。

旦那も出不精だし、私もどちらかというと家でいる方が。

もう毎日家事に追われているんだから。男の人みたいに暇じゃないわよ。足の指も痛いし、腰も痛いし、・・・。

あら、いけない! メモ用紙忘れてきちゃったわ、さっきのところに。あら、イヤだ!

せっかく予定を書いておいたのにぃ~。あのメモ用紙好きだったのよね、う~ん、残念!

ヤクルトなのよ、ヤクルト。今度、神宮に来るわよ、交流戦。山田ア~! とかいって、ストレス発散よ。ストレス発散!

もちろん、傘、持参だわよ。

ああ、でもどうなるのかしらね、老後は。

旦那は何だか老人ホームの算段をしているみたい、お母さんの。

2000万だって。月々に25万とか。こちらは触れないようにしているわ。

母親なんか、82歳で亡くなったけど。ホントに寝込んだのは2ヶ月くらい。胃がんの手術をして何とか持ち直して元気になった。

でも、プールに行って泳いできたら肝臓の数値が急に悪化して。プールのせいじゃなくて、肝臓に転移していたんじゃないかと思うけど。

そう、今で言う在宅治療のはしりみたいだった。

でも、最後まで面倒見ることができたし、死に目にもあえたし。かかりつけのお医者さんもものすごく親切にしてくれた。

なかなかそうはいかないわよね、最期は病院ってなっちゃうじゃない。家族に迷惑をかけたくない、って。

暇つぶしに旦那とも会って話してみようかって。

実はこの方とはいろいろありまして、なんて言ってごらんなさいよ、「さざ波」どころではなくて、「大津波」よ。「大津波」。

10年若かったらどうなっているかしらね。でも、かえってどうにもならないかも。

べたべたするのは嫌い、な方かな、昔から。子ども達にもそうだったかも。

でも、不思議な縁よね。どこまで行くやら、どこまで年取っていくやら。

また時間が取れたら、連絡するわよ。

ますますせっかちになっているんだから、もう。

又会える日まで、お元気でね。こういう挨拶は当然のことよ、いつどこで何があるか分からないんだから。

お互いにお体、ご自愛のほどを。

今度は7月だったけ? その前に必ず連絡するわよ、心配しないで。

さてと、今日もテニスを見ないとね。あとBSも。

そうそう、弟に買ったチョコはどうしたかしら、あら、忘れたかしら。

そう、どういうわけか縁遠くて独り者なの。で、姉としてはけっこう心配しているのよ、何かあったたら大変じゃない。

ま、よかった! 預かってくれていたのね。また、あそこに忘れてきたんじゃないかと思ったわよ。



聖徳記念絵画館
 東京都新宿区の明治神宮外苑にある美術館。
 神宮外苑の中心的な建物で、幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示している。維持管理は宗教法人明治神宮の予算で賄われており、他からの援助は一切受けていない。警察官により常に厳重に警備されている。
 明治天皇崩御後に建築計画が持ち上がり、1926年(大正15年)に旧青山練兵場の跡地に建設された。そもそも明治神宮外苑の造営の主たる目的でもある建物である。現在でも、建築当初のままのドーム状の荘厳な建物を見ることができる。
 1968年(昭和43年)には、明治維新100年目を記念して絵画館学園が同建物内に開校され、絵画や陶芸などを学ぶ施設も備わった。また、1990年(平成2年)からは同建物の夜間のライトアップが実施されるようになり、絵画館が神秘的な雰囲気を伴って東京の夜の景色を飾るようになった。2011年(平成23年)、「直線的意匠と先駆的技術を採用した、わが国初期の美術館建築」と評価され、明治神宮宝物館と共に国の重要文化財に指定された。
(以上、「Wikipedia」より。写真も。)

                      
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らき☆すた。几号水準標。たにし。「幸手宿」。・・・(「日光道中」をゆく。その18。)

2016-05-28 21:55:25 | 日光道中
 先を続けます。そろそろ紫陽花の季節。


再び東武線の踏切を渡ります。遠くに「幸手」駅。

 沿道には「カスリーン台風」での浸水水位の赤テープ。
          軒下まで来ています。

古いおうち。

    らき☆すた」のシール。
「小早川ゆたか」              「柊つかさ」

???

 「おやじ」にはまったく分かりません。そこで、例によって「Wikipedia」のお世話に。

 『らき☆すた』は、美水かがみによる日本の4コマ漫画作品、およびそれを原作としたゲーム、アニメ、小説作品。KADOKAWA(角川書店ブランドカンパニー)の月刊ゲーム雑誌『コンプティーク』において2004年1月号より連載されているほか、『コンプエース』など数誌で掲載されている。

《概要》 
 小柄でアニメやゲームが大好きな、オタクな女子高生(7巻より大学生)泉こなたと、その友人でゆったりした性格の柊つかさ、つかさの双子の姉でしっかり者でツッコミ役の柊かがみ、容姿端麗で博識ながら天然な所がある高良みゆきの4人を中心として、その周囲の人々も含めたまったりとした普段の生活を描いている。
 タイトルはLucky Star(ラッキー スター)が原義であり、単行本表紙のロゴにもそうデザインされている。作者の美水によれば「女の子が学園生活を送る漫画のタイトル」としてイメージした結果、女優が演じるという意味合いの「スター」と、「幸運」や「気まぐれ」という意味を持つ「ラッキー」をあわせたとしている。
 そもそもは『コンプティーク』誌でわずか3ページの4コマ漫画連載枠が空いたための掲載だったが、人気を博したためページ数も増え、さらに『月刊少年エース』や『月刊コンプエース』など、掲載誌も増えていった。
 2005年8月24日にドラマCDが発売され、さらに2005年12月1日にはニンテンドーDSで『らき☆すた 萌えドリル』が、2007年5月24日には同じくニンテンドーDSで続編の『真・らき☆すた萌えドリル 〜旅立ち〜』が発売された。2007年4月から9月にかけてテレビアニメ版が放送され、それに連動する形で2007年1月からラジオ番組『らっきー☆ちゃんねる』も放送が開始した。2008年1月24日には『真・らき☆すた』の予約特典であった恋愛アドベンチャー「らき☆すら -Lucky☆Star RAvish Romance-」が、PlayStation 2用アドベンチャーゲーム『らき☆すた 〜陵桜学園 桜藤祭〜』というタイトルに変えて発売された。2008年夏にはOVAとアニメ版の声優によるドラマCDが発売、2009年12月にはPlayStation Portableで『らき☆すた ネットアイドル・マイスター』が発売された。『月刊コンプエース』2011年4月号および『コンプティーク』2011年4月号にて作品初のミュージカル化作品『らき☆すた≒おん☆すて』の企画が発表され[3]、2012年9月20日から30日まで東京ドームシティアトラクションズ内にあるシアターGロッソで上演された。
 また、サイドストーリーとして登場人物の1人で情報ページ『らっきー☆ちゃんねる』のキャプテン・小神あきらを主人公にした『あきらの王国』が『コンプエース』(Vol.014(2007年6月号増刊)~)で、『萌えドリル』シリーズのオリジナルキャラクター、宮河ひなた・ひかげ姉妹を主人公にした『宮河家の空腹』が『コンプH's』(Vol.7〜Vol.9、休刊)、『コンプエース』(2009年6月号〜2013年3月号)を経て『コンプティーク』(2013年3月号〜)でそれぞれ連載されており、『宮河家の空腹』は2013年4月よりWebアニメとして配信された。

《主な舞台》

 アニメ版の舞台は埼玉県春日部市をモデルにしている。
陵桜学園高等学校(りょうおうがくえんこうとうがっこう)/陵桜学園高等部(りょうおうがくえんこうとうぶ)
 こなた達が通う学校。埼玉県内にあるという設定。こなた達の学年で13クラスもあるマンモス校。女子の制服はセーラー服で、スカートと襟の色が冬服は赤で夏服は青。プールはあるが、体育の授業になぜか水泳は入っていない。アニメ版では作者の出身校(春日部共栄高等学校)がモデルとなっている(エンディングクレジットの「スペシャルサンクス」で表記)。
鷹宮神社(たかのみやじんじゃ)
 柊姉妹の父が宮司を務める神社で、柊家はこの境内に居住する。家の電話機は古い黒電話で電電公社の600形電話機である。アニメ版でのモデルは埼玉県久喜市(旧北葛飾郡鷲宮町)にある鷲宮神社。こちらの最寄り駅は東武鉄道伊勢崎線鷲宮駅下車5分程度。埼玉新聞での掲載4コマなどでは鷲宮神社がそのまま登場しているが、あくまでもモデルとしてである。
糟日部駅(かすかべえき)
 アニメ版にのみ登場、鉄道会社は糖武鉄道(とうぶてつどう)と表記されている。モデルは東武鉄道伊勢崎線・野田線春日部駅。泉家の近所埼玉県幸手市と思われる。『陵桜学園入学案内書』の「らき☆すた関連マップ」でも東武鉄道日光線幸手駅が「泉家の最寄り駅」として記載されており、アニメ版では幸手市内や権現堂堤がモチーフとして用いられている。
 幸手市は作者の出身地であり、作者の旧居が2009年春に泉家を再現する形でギャラリー兼交流施設「きまぐれスタジオ 美水かがみギャラリー幸手」として2011年初めまで開館していた。

・・・

《聖地巡礼と地元での町おこしイベント》

 「聖地巡礼」の対象のひとつとされている鷲宮神社。鳥居の側にあるのが大酉茶屋わしのみや
アニメ雑誌『月刊ニュータイプ』2007年8月号の付録「『らき☆すた』的遠足のしおり」にて、埼玉県北葛飾郡鷲宮町(現在は久喜市に合併)の鷲宮神社を始めとした、いくつかの場所が本作の舞台の1つであると紹介されたことをきっかけに、ファンが聖地巡礼と称して登場した場所を訪れるようになった。
 鷲宮神社においては、彼らが絵馬に『らき☆すた』の登場人物の絵を描いて奉納する、記念撮影を行う、コスプレ姿で参拝するなどの行動がマスメディアを通じて報じられた。
 初詣の参拝客も、2008年にはこの年の埼玉県内第3位となる約30万人、また2009年には同第2位となる約42万人に達し、関係者の驚きを呼んだ。なお、初詣の参拝客の過去最高は2014年現在、2011年から4年連続で約47万人であり安定している。
 こうした「巡礼」を受け、鷲宮町商工会は、町独自のオリジナルグッズを制作、同会青年部の運営する大酉茶屋わしのみやや町内の複数の商店にて発売し、作者や出演声優の鷲宮神社への公式参拝イベントを開催した。その他にも歳末セールで『らき☆すた』のキャラクターをあしらったスクラッチカードを用いるなど、様々な地域振興策に取り組んでいる。鷲宮町もこうした経緯から2008年4月1日付で柊一家を町内の架空の住所に住民登録し、同年4月7日より特別住民票の交付を行った。また毎年9月に行われる鷲宮神社の土師祭では、2008年より『らき☆すた』のキャラクターを描いた「『らき☆すた』神輿」(下記写真参照)が練り歩くようになり、報道などで話題となったほか、2010年に行われた上海国際博覧会でのジャパン・ウィーク「CoFesta IN 上海」ではこの神輿の特別公演が行われた。
 さらに、作者の美水の出身地であり、作中ではこなたの住んでいる町とされる幸手市の商工会でも、『らき☆すた』を元にした地域振興策として、歳末セールで『らき☆すた』をフィーチャーした企画を実施、オリジナルグッズの製作・発売を行ったほか、関連イベントの開催するなど、様々な企画を行い、2009年3月28日には美水家が転居に伴って空き家となった旧居を無償で商工会で借り受け、泉家を再現したギャラリー兼交流施設「きまぐれスタジオ 美水かがみギャラリー幸手」を開館(2011年1月10日に閉館)、2010年1月1日付けで泉一家をギャラリーの所在地に住民登録し、同年1月3日より特別住民票の交付を行った。またエコポイントの交換商品として、幸手市共通商品券「らき☆すた商品券フルコンプセット3000 円分」を用意した。メインの舞台となった春日部市でも、鷲宮・幸手双方にグッズのための桐細工を提供しているほか、春日部独自の商品開発も行っている。また3市町の商工会・商工会議所等関係各所で相互連携しており、各商工会の間で版権データの共有や今後のイベント開催・グッズ販売での共同事業の展開などに取り組んでいる。
 2007年12月からの2008年5月までの半年間の鷲宮町での経済効果は4170万円、商工会の2007年度決算での歳入合計が前年度比36%増の8000万円になったと発表、幸手市も約2500万円の経済効果があったと商工会が発表している。また「聖地巡礼」「オタクツーリズムや漫画・アニメ等を用いた町おこし(「萌えおこし[24]」とも呼ばれる場合がある)の成功例として経済的・学術的観点からも注目されるようになり、鷲宮町商工会でも北海道大学観光学高等研究センターと共同でメディアコンテンツと地域振興のあり方に関する研究プロジェクトを行っている。
 このほか、2009年より埼玉新聞に断続的に記事や漫画が掲載され、2010年からは土師祭や鷲宮・幸手両商工会のスタンプラリーに埼玉新聞社が主催社として参加、2012年6月からは国土交通省関東地方整備局荒川上流河川事務所の新聞広報に本作のキャラクターが起用され、制作した埼玉新聞と読売新聞埼玉版に掲載されている。また、舞台を沿線に持つ東武鉄道と『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の舞台となった秩父市を走る秩父鉄道共同で両作品がコラボレーションした記念切符を2012年1月に発売、2012年6月24日と2013年6月23日には埼玉西武ライオンズが「らき☆すたデー」と銘打ったイベントを開催し、コラボグッズの販売やつかさ役の福原香織やかがみ役の加藤英美里による始球式や一部回ので場内アナウンスを行っている。
 この集客効果は、埼玉県の観光課に「観光資源として力を持っているんだ」と認識させ、2013年より「アニメ・マンガまつり in 埼玉(アニ玉祭)」開催へのきっかけとなった。

 何だかちっとも分かりませんでした

 「倉松川」に架かる「志手橋」を渡ると、「幸手宿」の中心部に入ります。
    

来た道を振り返って望む。

神明神社とたにし不動尊

 ・・・境内には成田・菅谷両不動尊があり、菅谷不動尊は「たにし不動尊」ともいわれています。眼病の人が、たにしを描いた絵馬を奉納すれば御利益があるといわれ、この絵馬は他にはあまり例がないものです。・・・
 神社の前の道は、江戸時代の五街道のひとつである、かつての日光道中です。志手橋を渡ったこの周辺は幸手宿の入口で、開発者の新井右馬之助にちなみ、右馬之助町と呼ばれていました。
 また、江戸時代にはここに高札場があり、幕府の掟や法令などを書いた高札が掲げられていました。
 
 幸手市教育委員会

几号高低標(英国式水準点)
 この案内板の後ろの石は、以前奉納された灯籠の基礎の部分で、長い年月の間に上部が壊れたために脇の置かれていたものです。
 その側面に不の記号が刻まれていますが、これは「几号高低標」といいます。
 明治7年(1874)にイギリス式の測量方法が導入され、東京・塩竃(宮城県)間の水準測量を行った際に神社の鳥居や灯籠等に設置したもので、横線は測量に用いる平板を表し、下の部分は三脚を表しています。

 幸手市教育委員会 

          

 「幸手駅入口」交差点の右手角には伝統的な商家の趣のおうち。
     

 その脇には、
    幸手宿まちなみマップ」。

国登録有形文化財 元醤油醸造業 上埜屋の屋号でパリ博万博銅メダル

国登録有形文化財「岸本家住宅主屋」は、かつて醤油醸造業を営み、屋号「上庄(うえしょう)」と呼ばれ、幸手宿指折りの商家として栄えていました。
 当会では、往時の幸手の繁栄を物語る貴重な遺産であるこの建物を後世に伝える、また活性化の核として活用するため、国の補助事業を活用し「済世をはたしました。

さらに、交差点の左手、一角には「明治天皇行在所跡」碑。

 明治天皇は、明治9年6月奥羽巡幸の際、14年7月、同10月、山形・秋田・北海道巡幸の際、29年10月近衛師団演習天覧の際に幸手を通られ、明治9年には元本陣の知久家に、あとは右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しています。・・・



 解説碑がありますが、まったく判読不能。

 そこで、その解説板。明治天皇行在所説明板。

        説 明
 明治十四年山形秋田両縣及北海道還幸の砌十月十日行在所となり 明治二十九年十月近衛師團小機動演習天覽のため埼玉縣下行幸の際 同月二十日より二十二市行在所となりたる處にしてよく𦾔規模を存せり
        注 意
一、火気に注意する事
一、工作物樹木等を損傷せざること
  昭和十年十一月二日 文部省

 何とも仰々しい表現です。「東海道」など旧街道筋には「明治天皇行在所跡」などの碑がよく見られますが、多くは昭和に入ってから建てられたもので、当時の国の状況・方向性(国体護持)をよく示しています。この10年後、「大東亜戦争」は多くの犠牲のもとに敗北に終わります。

交差点近くにある古い商家。

 この先に「幸手宿」の中心的な建物が残っているようですが、今回はここまで。信号を左に折れて「幸手」駅に向かいました。

(14:12)途中のお店には「幸手宿」の文字が。
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茨島一里塚。幸手宿へ。日光御成街道。・・・(「日光道中」をゆく。その17。)

2016-05-27 21:24:07 | 日光道中
 直線道路で、特に撮るべきものないので、沿線の大型店舗(食べ物屋さん)でも撮っていこう。
    
                                       「東京から44㎞」ポスト。

時間の関係かどこも車が一杯。

左側の方が少し田圃や東武線の線路が見えますが。

はるか前方に「山田うどん」の看板。「山田うどん」はこの辺りの定番。  

 (13:08)何の気なしに近づいてみたら、何と「茨島一里塚」解説板。
          

 慶長9年(1604)、江戸幕府は大久保石見守長安に命じて、東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五街道をはじめとする主要街道に一里塚を築かせた。江戸日本橋を起点とし、一里ごと(約4キロメートル)に街道の両側に大きさ約9メートル四方の塚を築き、道のりを表す印として旅行者の目安とした。
 ここ茨島一里塚は、杉戸宿と幸手宿との中間に位置し、塚の上には榎が植えられてあった。次の一里塚は、それぞれ清地村三本木(杉戸町)と内国府間村(幸手市)にあり、いずれも榎が植えられていた。
 こうした一里塚も明治時代なかば以降には交通の発達や道路の拡張工事にともない取り去られてしまった。

 杉戸町教育委員会

 この一里塚は、江戸・日本橋から11里目。

その付近から振り返って望む。

幸手市に入ります。

        (13:15)「東京から45㎞」ポスト。

「爆弾ハンバーグ」のお店。

 (13:23)ようやく国道から離れて左の道を進みます。
    

 しばらくのどかな田園風景が広がります。カルガモのつがい。
    

畑の向こうを東武線の電車が通過中。

東武線の踏切。

    
                  田植えを終えたばかりの田圃が一面に。

「上高野村道路元標」。「幸手市南公民館」正門脇にあります。

 御成街道ぞいの石井酒造前の橋のたもとに建てられていたもので、平成2年1月の歩道工事のとき、旧日光街道ぞいでもあるこの場所に移転されました。
 道路元標とは、市町村の道路の起点となるもので、この地点から他の地点への距離を測定したものです。
 この元標のの年代は不明ですが、大正8年(1919)に法律の定めにより各市町村に一ヶ所ずつ建てられることになった、という記録が残っているので、合併以前の旧村時代のものと考えられます。

 幸手市教育委員会 幸手市南公民館 

 その先にの「圏央道」の高架下をくぐります。この付近の旧道は少し替えられたようです。
    

    

 (13:42)この先で、「日光御成街道」との合流点に。「ベルク」に突き当たります。左からの道が「日光御成街道」。

    

日光道中・日光御成道合流点

 日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね、千住から草加・粕壁を通り幸手へと至り、ここで日光御成道と合流します。
 川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。
 また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行き交ったことと思われます。

 幸手市教育委員会

       
     「日光道中」。                     「日光御成街道」。

 (HPより)



1880年代のようす。↓が合流地点。
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角穀。カスリーン台風。(「日光道中」をゆく。その16。)

2016-05-26 23:17:28 | 日光道中
(12:25)再開です。駅前には食べ物屋さんが思ったよりもなくて、飲み屋さんの「庄や」さんがお昼もやっていたので、そこで昼食。

まだまだ古いおうちが残っています。古びた「板ガラス」の看板。

なぜか沿道には酒屋さんが目立ちます。

 宿場特有の舛型に近づく手前には道標が。「左 久喜方面 右 幸手方面」。

お休み処のような一画には浮世絵。

浮世絵『日光道中杉戸』
 この浮世絵は安藤広重の作と伝えられる。タイトルは「杉戸宿」となっているが、宿内ではなく清地村・近津神社東側一帯にあった弁天池を描いているとの説がある。
HPより)

    

角穀跡/小島定右衛門邸
 宿場の特徴のひとつでもある町端の「枡型」。その道沿いに堂々たる風格を見せる古民家が「角穀」です。母屋と蔵が並ぶ優美さは道行く人の心にひときわ刻み込まれてきたことでしょう。
 かつて敷地内には、表の蔵(袖蔵)に続きさらなる他の蔵三つが連なっていました。敷地を囲む外壁にも収納空間があったといいます。屋内では大木を使った梁や柱が木材の美しさを際立たせています。また、母屋二階から見晴らす街道のほぼ全景には、ここからでしか味わえない爽快さが感じられます。
 創業は二代目小島定右衛門によるそうです。屋号は枡型の通りの「角」にある「米穀問屋」を意味しています。日本橋蛎殻町や門前仲町といった場所の、四つの商店と情報を共有し、相場の変動にあわせた米取引を行いました。米の輸送する際には、近くを流れる大落古利根川を利用していたそうです。角穀は、杉戸宿の面影を今に伝える貴重な建物です。
                       

 「草加宿」の時と同じような「枡形(曲輪)」=「曲尺手(かねんて)」となっている道筋、建物も立派です。

(12:35)振り返って宿内を望む。

1880年代のようす。

現在のようす。

「宝性院」。

電柱に巻かれた赤いテープ。
 これは、昭和22年カスリーン台風での実蹟浸水深を示すもの。ここは、0.4m。

カスリーン台風



 1947年(昭和22年)9月8日未明にマリアナ諸島東方において発生し、次第に勢力を増しながら9月14日未明には鳥島の南西 400 km の海上まで北上。このとき中心気圧は 960 mb (960 hPa)、最大風速は 45 m/s に達していたと推定されている。
 その後台風は、15日未明に紀伊半島沖の南、北緯32度付近で進路を北東に変え、勢力を弱めながら同日早朝に遠州灘沖合いを通過(中心気圧は 970 mb と推定)。夜に房総半島南端をかすめ、16日には三陸沖から北東に去っていった。
 台風接近時の日本列島付近には前線が停滞していたと推定されており、そこに台風によって南からの湿った空気が供給され前線が活発化。これが9月14日から15日にかけての戦後治水史上に残る大雨を降らせた。
 この台風による死者は1,077名、行方不明者は853名、負傷者は1,547名。その他、住家損壊9,298棟、浸水384,743棟、耕地流失埋没 12,927 ha など、罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらした。
 特に、群馬県の赤城山麓や栃木県の足利市などにおいては土石流や河川の氾濫が多発し、これらの被害者を中心に群馬県では592人、栃木県352人の死者を出している。また、利根川や荒川などの堤防が決壊したため、埼玉県東部から東京都23区東部にかけての広い地域で家屋の浸水が発生した。
 なお、東北地方では北上川が氾濫。岩手県一関市などで被害が出ており、岩手県内では109人の死者を出している。

 カスリーン台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県北埼玉郡東村(現在の埼玉県加須市[大利根地域・北東部])での利根川堤防の破堤である。利根川の水は全て「新川通」という人工の直線河道に集中することになっていた。それに加え、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点もあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていた。
 こうした要因によって、15日午後9時ごろには堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに北埼玉郡東村の利根川右岸提が 340m にわたって決壊。濁流は南に向かい午前3時には北葛飾郡栗橋町(現在の久喜市[栗橋区域・北部])、午前8時には南埼玉郡鷲宮町(現在の久喜市[鷲宮区域・西部])、午前10時には北葛飾郡幸手町(現在の幸手市中心部付近)、午後1時には南埼玉郡久喜町(現在の久喜市[久喜区域・中心部付近])に到達する。濁流の進行速度は決して早いものではなかったが、濁流がどこに流れるか、どこに避難するべきかという情報に乏しかったため、避難はスムーズに行かなかった。
 一方、荒川では15日夜に熊谷市付近で堤防が決壊しており、洪水は16日の午前中には北埼玉郡笠原村(現在の鴻巣市東部)に到達し、元荒川沿いに流下していく。
 利根川の濁流は庄内古川、古利根川周辺を中心にいくつも決壊を引き起こしながら、17日未明には南埼玉郡春日部町(現在の春日部市)、同日夜には元荒川からの水をあわせて北葛飾郡吉川町(現在の吉川市)に達し、現在の中川付近と江戸川に挟まれた地域を流下しながら、18日の夕方には埼玉県と東京都の境界付近である大場川および小合溜井の「櫻堤」(現在の水元公園付近)まで達し、そこで濁流の進行は一時的に食い止められる。
 しかし、水は「櫻堤」に堰き止められてどんどんと溜まる一方であり、これが決壊すれば東京の下町は一気に濁流に飲み込まれる事となる。そこで、東京都知事は内務省、埼玉県知事、千葉県知事と協議の上、隣の江戸川右岸提を爆破して江戸川に水を逃がす事を決定。進駐軍の工兵隊が現場に急行するが、思いのほか堤防は頑強で爆破は失敗してしまう。そうしているうちに、19日未明ついに「櫻堤」が崩壊。その日のうちに金町、柴又、小岩付近は水没した。
 19日午後3時ごろようやく爆破が成功し、「櫻堤」付近の水は江戸川へと流れ始めたが、同じころ南埼玉郡八條村(現在の八潮市)で中川の右岸が決壊、綾瀬川の東側も水没する。そして20日午前3時に亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には立石・四ツ木付近まで浸水する。金町方面に流れた水は、20日夕方には船堀付近に到達し、そこから荒川や旧江戸川を経て東京湾へと注ぎはじめた。
 このカスリーン台風を教訓として、経済安定本部は水害による大都市への被害を防ぐことを目的に本格的な治水事業に乗り出す。・・・

(以上「Wikipedia」より)

 これは建て直す以前の古い我が家にもかなり後まで浸水の爪痕が残っていたので、直接は経験はしませんでしたが、床上浸水の跡として記憶しています。この後も相次ぐ台風や高波被害によって、東京の下町東部では、新中川の開削や東京湾の海岸堤防の建設など防災計画が進みました。

 この先もこの赤テープが出てきますが、進むにつれてだんだん浸水水位が深くなっていきます。「日光街道」沿道も大きな被害にあったことが分かります。

    
                          右手に大きなお屋敷。

沿道には「杉戸宿」案内石柱。

道路の向こうの電柱にも浸水水位の赤テープ。1mを越えています。

来た道を振り返って望む。

(12:45)しばらく進むと、「国道4号線」に合流します。その先には、ペコちゃんポコちゃんが屋根の上に。この先は、3㎞近く、ひたすら国道歩き。
           
 
 ところで、どっちがペコちゃん? それに、「ポコちゃんペコちゃん」という言い方が正しいのか?
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「バラの家」。三本木一里塚。杉戸宿。・・・(「日光道中」をゆく。その15。)

2016-05-25 21:47:05 | 日光道中

向かい側のにコンビニの看板に「めだか」。販売しているようです。


(11:10)左側にちょうど満開を迎えたバラ園。

色とりどりのバラの花と香りに誘われて少し寄り道。店内はお客さんで賑わっています。たくさんの種類の苗木の販売を行っています。今回は鑑賞するだけですが。

    

    

 しばし堪能し、街道歩きを再開。「堤根」交差点のY字路で左の道に入ります。
    

 しばらく進むと、右手のおうちの生け垣に隠れるように「三本木一里塚」の解説板があります。つい見逃してしまいそう。
                           三本木一里塚 

 ここの日光街道一里塚は、江戸に向かって左側が堤根村地内、右側が清地村内で、大きさが縦・横ともに約9m、塚の上に榎が植えられていた。しかし、明治時代半ば以降には、交通の発達などによって取り払われてしまった。なお、江戸に向かって次の一里塚は、小渕村(春日部市)に、日光に向かっては、茨島村(杉戸町)にあって、いずれも榎が植えられていた。
 こうした一里塚ができるまでには、まず慶長5年(1600)徳川家康が江戸を中心に、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道を整えた。その後、慶長9年(1604)主な街道に、道のりを表す目印として、日本橋から一里(約4km)ごとに塚を築いて旅行者の目安とした。

     杉戸町教育委員会

いよいよ「杉戸宿」の中心部へ。

杉戸宿
 現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町中心部に相当する。日光街道の江戸・日本橋から数えて5番目の宿場。
 古くから利根川(現・古利根川)の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこが杉の木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。
 宿場自体は五街道の整備に伴い、1616年(元和2年)に近郊の郷村を集めて成立した。宿場は街道に沿って町並みを構成し、5と10のつく日には六斎市が開かれ、近郷商圏の中心地となっていた。町中は新町・下町・中町・上宿に分かれ、それぞれに名主や問屋が置かれ、本陣・脇本陣はいずれも中町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、杉戸宿の距離1里21町、町並8町20間、道幅5間、人数1663人(男789人、女874人)、家数365人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒(大4・中7)、問屋場1軒、宿建人馬25人25疋であった。
 現在の町並みは、都市化の影響をさほど受けていないためか旧家も比較的よく残り、旧宿場街の面影を感じさせる。(以上、「Wikipedia」より)

 右手にお茶の老舗「いとや」さん。どっしりとした店構えです。
    

(11:34)「杉戸町役場」の先には「関口酒造」。

     

豊嶋屋/関口式右衛門邸
 街道沿い、まさに江戸期を思わせるたたずまいの大きな古民家が豊嶋屋です。現在は屋号を関口酒造としています。
 創業1822(文政5)年とされ、現在で14代目。長きに渡り地域に愛されてきました。造り酒屋では現当主曰く、6代とも8代とも伝えられ、江戸期からの老舗です。
 代々の家系史によると、祖先は今川義元の養女になり、家康の正室にもなった築山御前がおられるとのこと。一族は桶狭間の戦いのあと、現在の町東端鷲巣に移り住んだそうです。
 初代がこの地で創業を選んだのは古利根の恵みと村名清地を「清き地」と捉えたことが考えられるそうです。明治時代、陛下の巡幸では、当家の井戸を御前水として飲まれました。
 日本酒の銘柄は、古くから「豊泉」を主力とし、現在は杉戸にちなむものも揃えています。宿場絵ラベルの「杉戸宿」をはじめ「清地村」「日光街道すぎと七福神」といった逸品です。

   

その先には酒屋の「伏見屋」。

 その先、JA農協の前には遊歩道ができています。かつての用水路跡のようです。
     

南側用水路の由来
 南側用水路は、江戸時代初期の万治3年(1660年)、利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が作られた際に、その支流として当時の幸手領南側一帯(幸手市から杉戸町を経て春日部市まで)に農業用水を供給するために設けられました。
 杉戸町を9.5kmに渡り流れる南用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に深く係わりながら、身近な水辺として親しまれてきました。
 しかしながら、農業用水のパイプライン化により、昭和63年3月に300年あまりに渡る用水路としての役割を終えました。
 南側用水路の跡地は杉戸町の貴重な都市空間であり、町民共通の財産でもあります。
 この遊歩道は、貴重な南側用水路の跡地を町民の皆さんにより親しんで頂けるように、遊歩道として整備したものです。

   平成6年7月

近津神社。

近津神社
 近津神社は清地村の鎮守です。2001(平成13)年に火災被害を受けましたが、2007(平成19)年の再建時に鎮守の杜も整備され、清々しい境内となっています。
・・・
 石祠や石碑といった石造物に至っては枚挙にいとまがありません。その中の一つに花塚という碑があります。杉戸宿では俳諧が流行していました。それを表すよう碑面には往時のものと思われる作品が刻まれています。

 横断歩道の先には解説碑。杉戸宿ではこの石柱が案内してくれます。近づくと、「2016 日光街道 杉戸宿 宿 400th」という文字。
         

慎ましく営業している? 「銭湯」。

「本陣跡地前」交差点。

(11:48)三井住友信託銀行のところに「明治天皇御小休所跡」碑。

 そろそろおなかも空いてきたので、ここを左折して「東武動物公園」駅に向かいました。

途中にあった案内板。  
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小渕一里塚。追分。北緯36度線。「九品寺」道標。・・・(「日光道中」をゆく。その14。)

2016-05-24 23:18:16 | 日光道中
「新町橋」を渡ってしばらく先の交差点を左斜めに。
                      

その先、右手に「小渕一里塚跡」碑と「庚申塔」。

 日光から江戸に向かうとすぐ見つかりますが、東京から来ると、見逃してしまいそうな位置にあります。
                         

 前方にY字路。ここは、「日光街道」と「関宿(せきやど)往還との追分。
                         

(10:16)大小二つの道標があります。      

 右の小さな道標は宝永6年(1709)のもので、「右方 せきやど道、左方 あふしう道」と刻まれています。左の大きい道標は宝暦4年(1754)のもので、正面に「青面金剛」左面には「左 日光道」と刻まれています。
                         

 「せきやど道=関宿往還」は「日光東往還」と呼ばれ、水戸街道・小金宿と我孫子宿の間、向小金より北東、かつての小金牧内、現在の柏市豊四季字新木戸(JR常磐線南柏駅付近)で分岐し、関宿、結城といった城下町を経て、日光街道・石橋宿と雀宮宿の間、かつての河内郡茂原新田御料、現在の下野市下古山と河内郡上三川町鞘堂の境付近(JR宇都宮線宇都宮貨物ターミナル駅付近)で日光街道に合流する街道で
 この地点を通っていたわけではなく、この追分が直接「せきやど道」そのものとの分岐ということではなさそうです。

右手には白壁の塀に囲まれたお屋敷。

来た道を振り返って望む。

 そのすぐ先で「国道4号線」に合流し、さらに「国道16号線」と交差します。
                             

                       (10:22)「東京から37㎞」ポスト。

左手奥に「観音院」というかなり古びたお寺。

その先で、春日部市から杉戸町に入ります。

左手には梨畑。

 (10:35)その先の駐車スペース手前には「北緯36度線」の地球儀のモニュメント。
                       

    

年季の入った「解説板」。

 「すきすきすぎーと36」。同じ緯度線上にはチンタオ、ナッシュビル、ラスベガス、グランドキャニオン、テヘラン、杉戸町、ジブラルタル、地中海、カラコルムがあるそうです。

しばらく進んでから、左の道に入ります。
                      分岐点には家庭用?スロット、パチンコ台を並べたお店があります。

しばらく行くと、左手に「九品寺」。

(10:53)境内には「日光街道」の道標があります。

    

日光街道の道しるべ
 この道しるべは、天明4年(1784)堤根村の農民42人が協力して、新川村(春日部市)の石工・星野常久に作らせ、江戸と日光方面を知らせた。また、この向かい側の高野家が、立場を営み、馬で荷物を運ぶ人・駕籠をかつぐ人・旅人・馬などが休む場所となっていたので、この道しるべを多くの人が見ながら旅を続けていたと思われる。
 この石塔は、庚申の夜、人間の身体にあって人を短命にするという、三尸(さんし)を除いて、青面金剛に疫病の予防治療と長生きができるように祈る庚申信仰を表すものであり、道しるべを兼ねたものである。
 なお、見ざる・聞かざる・言わざるは、三尸になぞらえ、眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという意味がある。

 杉戸町教育委員会

    

 また、道標の左下には几号水準点が刻まれています(○のところ。「不」)。草加宿のはずれの神社で見たものと同じです。
                  

そこから行き先を望む。

真向かいのおうち。ここが立場だった家? 

地酒の「杉戸宿」を売っているお店。

左手にある立派なお屋敷。

 その先の「堤根(南)」交差点で「国道4号線」に合流します。
来た道を振り返って望む。

                        (11:08)「東京から40㎞」ポスト。
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春日部駅から幸手駅まで。問屋場跡。高札場跡。・・・(「日光道中」をゆく。その13。)

2016-05-23 21:05:09 | 日光道中
 5月20日(金)。
 このところ、「日光道中」にご執心。何しろ関東平野をまっしぐらということで、ほとんどここまで高低差がなく、平らな道をひたすら。ならば、かせげるだけかせいでおこう、という次第。
 今日もそんな気分で、9時45分過ぎから2時10分頃まで。約12㎞の道のり。ところで、春日部市は「彫刻のある街づくり」を提唱していて、駅東口から旧道へ出るまで沿道には素敵な彫刻があちこちに。
 上の作品は、「春 大地からこんこんと湧きあがる水」という作品。

他にも    など。


 街のポイント、ポイントに展示されています。機会があったらじっくりと。(以上、写真は「かすかべ遊学」HPより)

 (9:55)旧道に戻って再開。

埼玉県信用金庫春日部支店前の解説板。

日光道中粕壁宿
 日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳6年(1716)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。
 粕壁宿は、江戸時代元和2年(1616年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録よると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。

注:「三枚橋」は、「春日部市民会館」付近にあった橋のようです。



1880年代のようす。


現在のようす。(いずれも「歴史的農業環境閲覧システム」より)東武線「春日部」駅は下方。

シャッターに粕壁宿の絵。

その先に「問屋場跡」の解説板。

日光道中粕壁宿 問屋場跡
 問屋場は、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配した施設である。粕壁宿では、輸送に必要な人足35人、馬35疋の常備が課せられていた。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く、月に6度の市が立った。なお、問屋場は文政9年(1826)に三枚橋に移転した。向かいの神明通りは、名主や本陣を勤めた見川家の屋敷内の通路であった。通り沿いの神明社には、道化の屋敷神といわれる見川稲荷が残っている。

 平成27年7月 春日部市教育委員会

    
 その先右手には、「永嶋庄兵衛商店」。創業は「慶長年間」とか。「慶長」は、天下分け目の関ヶ原の合戦、豊臣の滅亡、徳川幕府の成立など日本史の上では激動の時代。お米などを扱うお店のようで、けっこう人の出入りがありました。。

「無洗米専門店 伝統のお米屋「十九代目庄兵衛」 - Rakuten.ne.jp」(www.rakuten.ne.jp/gold/naga-shou)

 残念ながらこの浮世絵は実は東海道の大津宿のものです。


 東海道五十三次 大津 走井茶屋 絵師 安藤広重

蔵造りの建物。裏手に長く家屋が続きます。

中央奥に「最勝院」。
 その手前の交差点を右に折れ、「新町橋」を渡ります。

その交差点のところに黒光りした蔵造りのおうち。 

高札場跡 浜島家住宅土蔵
 この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。 

     新町橋 上喜蔵河岸跡」。

 新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29㍍)、横幅3間((約5㍍)の板橋で、高欄が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように板橋が架けられた。新町橋の上流には上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い6月中旬~8月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。

    
                       「新町橋」と「大落古利根川」の流れ。
 
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粕壁宿。脇本陣跡。「ミセと蔵」。クレヨンしんちゃん。・・・(「日光道中」をゆく。その12。)

2016-05-20 22:11:17 | 日光道中

 粕壁宿
 五街道(日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)の整備に伴い、 江戸時代に整備され、日光街道及び奥州街道に設置された宿場町。 江戸・日本橋から数えて4番目の宿場町である。 現在の春日部駅東口の旧街道一帯が、かつての粕壁宿である。

 「かすかべ」の表記は何度か変更されている。南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから「春日部」の地名が生まれたとされる。その後、江戸時代正保年間(1645年頃)には「糟壁」、「糟ヶ辺」という表記が交互で使われており、元禄年間(1700年頃)に「粕壁」、「糟壁」と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。高橋至時・伊能忠敬らによる「大日本沿海輿地全図」では「粕壁」と記されている。

 天正18年(1590年)小田原征伐後、徳川家康が関東移封となり江戸城に入城した。五街道の整備が進められ、粕壁宿が、日光街道及び奥州街道の宿駅として開設したのは、元和2年(1616年)である。
『日光道中宿村大概帳』によると天保14年(1843年)の調査では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、規模は23宿のうちの6番目であった 。
 街道沿いには青物店、穀物店、精米・精麦店、飲食店などが建ち並び、4と9のつく日には六斎市が開かれ、商業の町として近世以降発展した町であった。 江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取った。
 また、岩槻宿と関宿を結ぶ道が通ることからも商業・交通の要地として商人や旅人でにぎわったという。日光街道・奥州街道の宿場町であり、また古利根川を通じて、江戸と結んだ物資の集散地として栄えた。
 一方で、水被害に襲われる土地条件の悪さから、農業不振に悩まされた地域でもあったという。

 江戸・日本橋から約36㎞ほど。ここが一泊目だったようです。1日に9時間ほど歩くのですから、昔の人は健脚ですね。

お店の前の木製ベンチ。「日光道中 粕壁宿」。 

 (13:36)何やら宿場内の案内用の立派な柱。近づくと「脇本陣」とあります。

         

この付近に「本陣跡」の標識があるらしいですが。向こうのデパートは今、改装中。かつては「ロビンソン百貨店」? その後、「西武百貨店」になって現在は・・・。

    
                                 「匠大塚」が入るそうです。これってお父さんの方?

    
                        「新宿」とか「上宿」とかの表示が。

沿道には古くて大きな屋敷が残っています。

来た道を振り返って望む。

    
 (13:46)大きな「道標」には、「西南い八つき」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれています。

 どっしりとした格調高い白壁のおうち。
    

 その先しばらく進むと「ミセと蔵」という案内表示。
    

ミセと蔵
 中宿(仲町)と呼ばれるこの辺りには、江戸時代に米問屋などの商家や、旅籠屋などが多く建ち並んだ。粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行きの長い敷地で、街道の並びには商業空間としての「ミセ」を、その奥には生活空間としての「オク」がつくられた。このような短冊状の地割は江戸時代の多くの宿場町にみられる歴史的な景観のひとつである。街道の北側の商家は古利根川沿いまで蔵を連ね、舟を乗りつけて荷を上げ下げしていた。現存する蔵造りの建物は、火災よけのため、幕末から明治期にかけて建てられたものが多い。

 平成27年7月 春日部市教育委員会 

    

    

夕方から人が来るというので、今回はここまで。

(13:56)春日部でこの子を外せないでしょう。
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Toritateて何もなしで「粕壁(春日部)」へ。備後一里塚跡。・・・(「日光道中」をゆく。その11。)

2016-05-19 22:10:10 | 日光道中
 先に進みます。このあたりからは旧道らしく曲がっていて道幅も狭く、車もけっこう通り過ぎるので、前にも後ろにも注意しながら歩く必要があります。
 しばらく進むと、東武線の踏切を渡ります。

    

 踏切からしばらく進むと、「草加バイパス」(国道4号線)陸橋下の「大袋駅入口交差点」。左手が東武線「大袋駅」。



沿道には何ヶ所か小さな墓地が点在しています。家の脇にあるのがこの付近の風習なのか?

旧道のようす。

 旧道を進むと「陸橋入口」。ここで「国道4号線」に合流します。
中央奥が来た道(旧道)。

                            「日本橋から30㎞」ポスト。

 そろそろ昼食。しばらく進んで、左に折れて「せんげん台」駅前に。「なか卯」に入ってここで、昼食・休憩。けっこう日差しも強くなってきました。
 再開。(12:26)「新方川」に架かる「戸井橋」を渡ると、春日部市にはいります。
    

正面の「道路表示」は「小山 古河」という地名が。栃木県もそう遠くなさそうですが。
                                 

 「国道4号線」ということで、車の通行量も多いようです。道沿いにはいろいろなお店が立ち並んでいます。自転車通学生が勢いよく通り過ぎていきます。


「武里駅」入口を過ぎて備後という地域に入ります。右側には田園風景が広がります。緑も濃い中に、立派なお屋敷が。
    

 (13:00)その先、「備後(北)」交差点には右手に「備後一里塚跡」碑。
    

碑の裏手は「大落古利根川」。    
                     

大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)
 埼玉県に流れる一級河川。利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7キロメートル。
 その名のとおり徳川家康江戸入府以前の利根川であり、文禄3年(1594年)に会の川が羽生市上新郷で、元和7年(1621年)に浅間川が久喜市高柳で締め切られ上流を失ったものである。後排水路となり、「大落」とは農業排水を落とすの意味である。
 かつては、加須市川口付近にあった会の川と浅間川の合流点を始まりとしたが、現在の当川の上流は葛西用水路で、久喜市と杉戸町の境界にある葛西橋が現在の起点である。杉戸町・宮代町・春日部市・越谷市・松伏町の境界付近を流れ、松伏町と越谷市の境で中川に合流する。おおむね北葛飾郡市と南埼玉郡市の境界に沿っている。

ゆるやかな流れ。畑や住宅地が広がる。

             (13:15)「日本橋まで34㎞」ポスト。

「東武野田線」のガードを過ぎる。

さらに「35㎞」ポストを過ぎ、「一宮交差点」を左へ進みます。旧道は、斜め左の道。春日部駅方面を目指します。いよ「粕壁(春日部)宿」。
                      


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。←が現在の「一宮交差点」付近。
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イシハラの時には何も言わず、何も言えず。今、かさにかかっての口撃は?

2016-05-18 00:09:41 | 平和
舛添氏批判「ひとごとのよう」 枝野氏、谷垣氏に疑問

 明らかに舛添を降ろし、「橋下」担ぎ上げの布石? アベのえげつない「一石二鳥」作戦。
 参院選に向けた「おおさか維新」との連携作戦とみた。橋下の参院選出馬は無理だと、しからば・・・。
 こうして野党は翻弄されるがまま。
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越ヶ谷宿。塗師屋。鴨場。・・・(「日光道中」をゆく。その10。)

2016-05-17 22:31:03 | 日光道中

             
 越ヶ谷宿に入ってくると、道沿いに古い家屋が残っています。遠くには「栃木銀行」の建物。都内ではお目にかからない銀行。さすが日光道中です。


 道幅は往時のようですが、すっかり雰囲気は近代的。「越ヶ谷宿」を示す標識は見当たりません。唯一、この幟が。


 「越谷本町商店会」は、「越谷」駅の東側を走る旧日光街道(県道54号線)沿いの商店街だ。瓦屋根の蔵造りが印象的な昔ながらの商家や土蔵が立ち並び、建造物によっては驚くほどコンディションの良い状態で残っている。越ヶ谷宿は江戸時代に整備された江戸・日本橋に次ぐ3番目の宿場町で、慶長7(1602)年に徳川家康が奥州街道(後の日光街道)を公道に指定して以降、道沿いに商家や旅館が次々と建てられ街並みが整備された。

    
                      宿場町の趣きを残す旧商家の「塗師屋」。
 黒い漆喰造りの旧家」(小泉市右衛門家)で、かっては「漆」を扱い、江戸時代には呉服商を扱った商家。
日用品や荒物を扱う「鍛冶忠商店」。
 商店会の中程にある「鍛冶忠商店」は1900(明治33)年に建てられた立派な商家で、屋号からも推察される通り当時は鍛冶屋を営んでいた。現在は日用品雑貨・荒物の販売店として業態を変えて営業を続けており、お盆など季節ものの提灯や菅笠、和紙、藁工品(筵、こも、荒縄)など、店頭に並ぶ商品も趣き深いものが多い。

 越谷名物のくわい饅頭が並ぶ「岡埜製菓店」。昔なつかしい手作りの和菓子がガラスケースに並ぶ「岡埜製菓店」は、1892(明治25)年創業の和菓子の老舗だ。ここでしか味わえない越谷名物の「くわい饅頭」は冬場の限定商品で、軒先に「くわい饅頭販売中」の旗がかかげられると季節を感じるという地元客も多い。
 ところ狭しと金物が並ぶ「木下半助商店」。このほか旅籠の名残を感じさせる佇まいの「白屋旅館」、親子3代昔の味を引き継ぎながら毎日出来たての豆腐を販売している「木田とうふ店」、工芸品のだるまや雛人形、桐たんす屋などの商店が点在しており、江戸を往来する旅人で賑わった当時の日光街道の面影残る街並みが続く。

(以上、案内文は、「越谷本町商店会」HP参照)

    

    

 (10:11)「越ヶ谷本町」の交差点を過ぎると、「元荒川」に架かる「大沢橋」で渡ります。「元荒川」は、旧中山道歩きで通った、熊谷駅の南側・久下付近を源流とする川。左には東武線の鉄橋。「元荒川」を右に進むと、「越ヶ谷御殿跡碑」(市旧跡)があります(訪問は省略)。

    

振り返って望む。

 しばらく進むと、北越谷駅前のライオンズステーションタワーに到着します。さらに5分程行くと、東武スカイツリーラインの高架をくぐります。

本来の旧道はこの道のようです。南を望む。

 道なりに進むと、すぐ目の前は「元荒川」に面した「北越谷第五公園」となります。

    

 路傍には、「道標」と二基の石塔。道標の正面には「青面金剛」、左面には「右 のしま」とあります。
       

 この先に「宮内庁埼玉鴨場」があります。
    

 越谷市大林地区にある宮内庁埼玉鴨場は、明治41年につくられた約10ヘクタールの面積を持つ御猟場だ。
 ここでは、天皇・皇族の方をはじめ、外国からのお客さんなどたくさんの人が訪れて鴨の猟を楽しんでいる。
 そもそもなぜ、越谷に埼玉鴨場があるのだろうか。 それはもともと昔から、元荒川の沿岸のあたりに野鳥がたくさん集まり、 江戸時代には幕府や紀州藩の鷹場があった。 かの徳川家康もここの地を訪れ、鷹狩りをしていたそうだ。 それが明治41年になり、正式に宮内庁埼玉鴨場として創立された。
 鴨は渡り鳥なので、毎年秋になるとシベリア方面からエサを求めに日本へ飛んできて、翌年の春に帰ってゆく。 また飛来してくる鴨も、マガモ、コガモ、オオガモ、オシドリなどと種類が多い。 なのでここ越谷にも、秋から春にかけて数えきれないくらいの鴨が埼玉鴨場に集まってくる。



 昭和32年3月11日の新聞記事によると、この日、天皇皇后両陛下や皇太子、皇族揃って埼玉鴨場を訪れた。 多くの越谷市民は両陛下たちが来ることを知らなかったため、この日は沿道の出迎えが少なく静かだったとのこと。
 最近では越谷も都市化され賑やかさを増しているが、 そのような中でも、越谷市環境保全区域となっている宮内庁埼玉鴨場には、 多くの樹木が生い茂り、自然の緑地帯がまだまだ残っており、非常に貴重な場所になっている。 ただし一般の方は、特別な企画(越谷市の市政移動教室など)以外自由に出入りできないのでご注意を。
※鴨場内部の撮影も禁止されています。

参考文献:「越谷の歴史物語(第三集)」1983年3月15日 越谷市教育委員会
文章:「越谷っ子」特派員:阿部智恵美

HPより)

 鴨場は狩猟期以外には地元住民の見学会なども行っているようです。

「公園」と「鴨場」の位置関係。
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東武「新田」から「春日部」まで。蒲生の一里塚。越ヶ谷宿。・・・(「日光道中」をゆく。その9。)

2016-05-15 22:49:59 | 日光道中
 
 5月7日(土)
(8:52)再び東武線「新田」駅から前回の終着点まで戻り、再開。今回は「春日部」駅まで。駅から東に向かい、綾瀬川にぶつかり、前方を望むと「蒲生の一里塚」のこんもりした木立が見えます。

 綾瀬川に架かる「蒲生大橋」を越えて行きます。橋の真ん中が草加市と越谷市の市境。橋のところに高浜虚子の句が。
「舟遊び 綾瀬の月を 領しけり 俳人 高浜虚子」。 

    

蒲生大橋
 「日光道中分間延絵図(文化3年・1806年完成)」によると、この橋は、大橋土橋と記されており、長さ12間4尺、幅2間1尺、綾瀬川に架けられた土橋で、御普請場。足立郡と埼玉郡の境と解説されている。
 昭和51年に永久橋に架け替えられた時の橋歴書によると、大正7年6月、はじめて木橋として架橋され、その後昭和40年及び48年補修整備や重量制限(2㌧)を施行してきたが、交通量の増大に伴い上記に永久橋として架け替えられた。
 草加市と越谷市の行政界が橋の中心を横断する。

 「蒲生大橋」を渡ったすぐ右手の古い木々が生い茂るところが「蒲生の一里塚塚」。
    

蒲生の一里塚
 一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。
 文化年間(1804~1818)幕府が編さんした「五街道分間絵図」には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基ずつ設けられていたことが分かる。
 現在は、高さは2㍍、東西幅5.7㍍、南北幅7.8㍍の東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
 また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ2.5㍍のケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。
 多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、「蒲生の一里塚」は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。

 昭和61年10月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 植竹誠一郎

    

 「綾瀬川」と「出羽堀」との間の道を進みます。


途中にあった石塔の「馬頭観音」(右)と「不動尊」(左)。不動尊の台座は道標で「是よりこしがや路」とあります。
       

しばらく進むと、右手に「清蔵院」の冠木門。

 その先で旧国道4号線に合流し、北へ向かいます。かなりの直線距離になります。「日光道中」は現在もあちこちで直線道路になっています。周囲が畑や田んぼの中をまっすぐに進んでいたのでしょうか?



途中にあった「十九夜塔」。

 東武線「蒲生駅入口」交差点を過ぎてしばらく進むともうJR武蔵野線「南越谷駅」になります。「新越谷駅」入口交差点、JR武蔵野線の高架付近。



「久伊豆科学」?「くいず」? 。
 「クイズを科学する」会社でしょうか? よく見ると、「ひさいず」でした。会社名は「久伊豆神社」にちなんだもののようです。

 (9:48)「瓦曽根」ロータリーのY字路で旧道は左へ入って行きます。

     

里程表
東京雷門 三里    草加(草の陰で不明)
浦和   三里半   吉川   〃
大宮   五里    野田   〃
川口   四里    粕壁   〃
鳩谷   三里    岩槻   〃

右側にある「照蓮院」。

 いよいよ「越ヶ谷宿」に入っていきます。

越ヶ谷宿
 江戸時代に整備された宿場町の一つで、江戸・日本橋から数えて3番面の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)。江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。
 越ヶ谷宿は越ヶ谷と大沢の二つの町を合わせた範囲の宿場町であり、その規模は千住宿に次ぐ規模となった。
越ヶ谷宿は、江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の宿場に取立てられ、正式な宿場となった。 元荒川の対岸である大沢村も町場化し、越ヶ谷の伝馬上の助郷村として大沢宿が成立しており、 慶安3年(1650年)には越ヶ谷宿・大沢宿に地子免許が与えられていた。
 越ヶ谷宿の開発は、寛永12年(1635年)の参勤交代制の制定、寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)越ヶ谷宿は、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の合体により完成したという 。
 江戸時代初期、元禄9年(1696年)には、越ヶ谷と大沢の規模は、伝馬制に伴い、越ケ谷、大沢両町に各5,000坪の地子免がなされ、越ヶ谷9町20間、大沢9町27間とほぼ均等の町場が形成されたという。
 越ヶ谷御殿とは、慶長9年(1604年)に徳川家康によって設けられた御殿。現在の越谷市増林にあった御茶屋御殿を現在の越谷市御殿町に移築され「越ヶ谷御殿」と称した。この辺りは元荒川沿いの低湿地地帯で、昔は野鳥が多く、徳川家康や徳川秀忠もしばしばこの御殿に宿泊し、民情視察を兼ねて鷹狩りを重ねていた。
 しかし、明暦3年(1657年)の大火により江戸城が焼失したために、この御殿を解体し、江戸城の再建に利用され江戸城二の丸に移された。一帯は一部を除き畑地として開発されたが「御殿」の名はその地名として残り、住居表示施行の際に「御殿町」として正式な地名となっている。
 越ヶ谷宿の行政単位は、越ヶ谷町が本町、中町、新町に、大沢町が上宿、中宿、新宿に分けられていた。
 当初、越ヶ谷町の会田一族には、本陣、問屋役持回りなど宿場の要職に集中していた。ところが、安永2年(1773年)越ヶ谷町と大沢町両町惣百姓大評定のうえ伝馬業務両町合体を決めた。また、越ヶ谷宿の宿駅機構の改革とその伝統的権威の多くの失墜のため、安永3年(1774年)に、越ヶ谷宿の本陣は越ヶ谷町の会田八右衛門から、大沢町の福井家へ移った。
 そのため、越ヶ谷町は商店の集中が見られる地域、大沢町が旅籠機能の集中が見られる地域という特徴的を持った町場を造っていった。
 『日光道中宿村大概帳』天保14年(1843年)によると、越ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒が設けられていた。宿内の家数は1,005軒、人口は4,603人であった。
 飯盛り旅籠は、境板橋の右手一帯(越ヶ谷)に23軒が集中し、千住宿を除いた日光街道に於いて最大の花街を形成したという。
 越ヶ谷宿は、何度か大火の危険にさらされた。寛政6年(1794年)1月では、越ヶ谷町167軒焼失した。また、文化13年(1797年)3月では大沢町大火・本陣ほか197軒焼失等多数の大火が起こっている。
                   
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百代(はくたい)橋。松尾芭蕉文学碑。・・・(「日光道中」をゆく。その8。)

2016-05-13 22:31:39 | 日光道中

橋名
 「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり 松尾芭蕉 奥の細道」
 お隣には「奥の細道国際シンポジウム ドナルド・キーン記念植樹」。

    
 百代橋から南を望む。                         北を望む。

    
                松尾芭蕉文学碑。

 ことし、元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ共、耳にふれていまだ目に見ぬさかひ、若し生(き)て帰らばと、定めなき頼(み)の末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着(き)にけり。痩骨の肩にかかれる物先(づ)くるしむ。
 只身すがらにと出(で)立(ち)侍るを、紙子一衣は夜の防ぎ ゆかた 雨具 墨 筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打(ち)捨てがたくて、路次の煩(ひ)となれるこそわりなけれ。
 西村本「おくのほそ道」より

《現代語訳》

 今年は元禄二年であろうか。奥州への長い行脚の旅ただふと思いたって、知らない土地の空の下で白髪になってしまうほどの嘆きを重ねたとしても、噂には聞いていてもまだ目にしていない土地(を見たいと思い)、もし生きて帰ってこられたならと、あてもない期待を行く末にかけて、その日ようやく草加という宿場にたどりついた。やせ細った肩にかかる荷物がまず私を苦しめる。
 ただ身ひとつでと出発したのに、紙子一衣は夜の寒さを防ぐものだし、ゆかた、雨具、墨、筆など、あるいは、断りにくい餞別などはさすがに捨てることができなくて、道中の悩みとなっていることはどうしようもないことだ。

「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり 秋桜子」

水原秋桜子
 ホトトギス派の俳人として知られる。東京神田生まれ、本名水原豊。獨逸学協会学校(現・獨協大学)、第一高等学校、東京大学医学部に学び、産婦人科医として学位を受けた。
 俳句の世界では、高浜虚子の高弟で、雑誌『ホトトギス』の中心的な俳人であった。彼と草加との関わりは昭和初期にさかのぼる。東京から春日部の安孫子医院へ通勤していた秋桜子にとって、草加は通り道であった。当時の草加は、かつての宿場町を抜けると、のどかな農村風景が広がっていた。「草紅葉草加煎餅を干しにけり」「蝉時雨草加の町はなほありぬ」「畦塗りが草加の町をかこみける」。秋桜子は生涯に1万句にも及ぶ俳句を残しているが、その中ではっきりと地名を表した句は少ない。

HPより)

まもなく松並木も終わりを告げます。振り返って望む。

「今様草加宿」。

(13:28)「外環」陸橋をくぐると、絵タイル。

草加と「おくのほそ道」
 俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄2年3月27日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
 この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
 平成8年3月吉日

    

 もう少し「綾瀬川」沿いに歩き、西に折れて東武線「新田」駅に向かいました。う~ん、「中山道」軽井沢から先はしばらくほっておいて、まず「日光街道」を制覇しようかな。約150㎞の旅程のはず。11日か12日で歩ければ、と。

日光街道(日光道中)
 江戸時代に設けられていた五街道の一つ。
 江戸日本橋(武蔵国豊島郡日本橋、現在の東京都中央区日本橋)を起点とし、日光坊中(下野国都賀郡日光東照宮、現在の栃木県日光市山内)に至る街道。
 道中には21の宿場が置かれていた。日本橋から宇都宮までの道程は奥州街道と共通であった。この区間にはもともと古道奥州道があったが、日光街道の開通とともに日光街道と称されるようになった。
 現在も国道4号(宇都宮市以南)と国道119号の通称として用いられる。
 日光街道は江戸時代に徳川幕府の政策として整備された五街道のひとつで、1636年(寛永13年)江戸 - 下野国日光間に開通した。江戸から徳川家康を祀る日光山に至る主要道路として東海道に次いで整備されている。
 もともと日本橋から宇都宮城(宇都宮宿)までの区間には古道奥州道が通っており、その北部区間の宇都宮城下から鉢石宿間にも古道日光街道が通っていたが、宇都宮 - 日光間にはその東側に新たにこれと並行する道が設置されている。宇都宮城下では城主本多正純の下で宇都宮城の整備と町割りが行われ、その西部に宇都宮宿が新たに設けられた。
 日光街道は旧奥州道を辿って北上し、宇都宮城の手前の不動堂付近で古道奥州道から外れ、城の西側方面に一旦折れた後に北上する経路が取られ、宿内の新石町と伝馬町、本郷町の界隈に新奥州街道との追分が設けられた。
 ここより奥州街道は東進し、日光街道は北進する。かつて沿道には杉の木が植えられ、特に松平正綱は約20年に亘って植樹を続けたといわれている。現在も栃木県日光市の一部区間に日光杉並木として残されている。
 日光西街道または日光中壬生通りと呼ばれる街道は、小山宿(現小山市)北部の馬頭観音堂付近(喜沢村または木沢村)で分岐し、壬生城下壬生宿、鹿沼城下鹿沼宿などを経て今市宿に至り、ここで再び日光街道にもどる。
 日光街道の敷設の目的として、歴代徳川将軍の東照大権現への参拝、すなわち日光東照宮への参詣と云われているが、もともと五街道を計画したのは徳川家康であり、その際に日光山の参詣を目的とする街道を徳川幕府の政策上の重要路線としていたとは考えにくい。
 実際、徳川幕府の将軍家が日光参詣する折には、江戸城下の本郷追分から日光御成街道を通るのが通例であり、幸手宿までの区間は日光街道は使われておらず、また小山宿以北は日光街道だけでなく、壬生道および日光例幣使街道を経て日光へ至る経路も併せて用いられており、このことからも、本来江戸から下野国を経て奥州方面に至る物流の動脈路線として計画、整備されたものであることが容易に推察される。
(以上、「Wikipedia」参照)
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曽良、芭蕉像。名勝「草加松原」。綾瀬川。・・・(「日光道中」をゆく。その7。)

2016-05-12 20:07:03 | 日光道中
 (12:40)「曲輪」を過ぎると、再び「旧国道4号線(「日光道中」)」に合流して一路、蒲生に向かいます。ここからが「綾瀬川」沿いに、景勝地・「草加松原」の遊歩道が続きます。その向かい側に小公園。そこには「奥の細道」で芭蕉のお供をした「曽良」の像があります。

 解説板。

松尾芭蕉翁像と河合曾良像
 河合曾良像とこの先の札場河岸公園内の松尾芭蕉翁像とは100㍍程離れ、建立された年も異なりますが、二つの像は対をなす作品です。これらの像は、元禄2年弥生27日(1689年5月16日)、草加に奥の細道への歩みを印した俳人・松尾芭蕉と門人・河合曾良の旅姿を表現しています。両像とも草加出身の彫刻家・麦倉忠彦氏の作品です。芭蕉翁像は、1989年に奥の細道旅立ち300年を記念して市民団体「芭蕉像をつくる会」が建立しました。一方、曾良像は、2008年に草加市制50周年を記念して市民団体「河合曾良像をつくる会」が建立しました。いずれも市民からの浄財を募って建設資金としています。芭蕉翁像は友人や門弟たちの残る江戸への名残を惜しむかのように見返りの姿をし、曾良像は先を行く芭蕉を案じて、何かを呼びかけているようです。曾良像の建立を報じる広報そうかには「20年前に芭蕉翁像は制作されており、ようやく2体がめぐり会いました」と記され、制作者や市民の息の長い活動と情熱を讃えています。

 ぐるりと「日光道中」の宿場名が。
    

「草加せんべい発祥の地」という大きな石碑。

 左に折れて橋を渡ると、右手が「綾瀬川」沿いに「札場河岸公園」。ここはよく整備された公園で、「望楼」「芭蕉像」などや休憩施設、さらに甚左衛門堰などがあります。休憩するにはもってこいの場所です。

               

望楼
 望楼とは、遠くを見渡すための櫓のことをいいます。常に見張りを置いてまちなかの火事発生の発見に努めるための施設でした。 
 この望楼は、石垣の上に埼玉県産のスギ、ヒノキを使った木造の五角形の建築物で、高さは11.1mあり、内部は螺旋階段になっています。午前9時から午後5時までの間は、自由に内部に入ることができ、草加市を一望することができます。

                         

 芭蕉像は先ほどの曽良像と相対するかのように江戸方向を向いています。

        

国指定名勝「おくのほそ道の風景地草加松原」
 この国指定名勝は、松尾芭蕉が弟子・河合曾良と「おくのほそ道」の旅で記した一群の名所、由緒、来歴の地からなる一体の風致景観であり、この「草加松原」も後世の人々の風景官に影響を与えているものとして、「殺生石」「黒塚の岩屋」「大垣船町川湊」等と合わせて指定されました。
 「草加松原」は、634本の松が植えられた綾瀬川沿いに延びる全町1.5㎞の石畳の遊歩道として整備されており、江戸時代の舟運の荷の上げ下げ場として復元された札場河岸公園や対岸に整備された広さ約4.1㏊の綾瀬川左岸広場と一体となって、市民の憩いの場やレクリエーションの場としても親しまれています。

 国指定「おくのほそ道の風景地」とは?
    

    

    などです。

 「スタンプラリー」の紹介を。

とき : 平成28年4月29日(金・祝)~平成29年2月28日(火)
参加特典 :
参加賞…5か所以上の名勝地を巡った方全員に奥の細道むすびの地記念館受付にて粗品(手ぬぐい)をプレゼント

ダブルチャンス賞…5か所以上の名勝地を巡り、応募した方抽選で30人に関係市町の特産品(3,000円相当)をプレゼント
平成28年度応募期限:平成29年2月28日(火)
応募場所:奥の細道むすびの地記念館受付

踏破賞…全ての名勝地を巡った方全員に大垣市特産品(1,000円相当)をプレゼント
受付場所:奥の細道むすびの地記念館受付

お問合せ : 大垣観光協会
〒503-0923 岐阜県大垣市船町2-26-1 TEL:0584-77-1535


(以上、「大垣観光協会」HPより)



「句碑」。
 「巡礼や草加あたりを帰る雁 (高浜)虚子」。子規の句は見逃しました。

「綾瀬川」。

 かつては綾瀬川とその脇にあった用水との間を歩いていたようです。用水路は現在は「旧国道4号線」の拡幅で暗渠。 
 汚染度が全国で1、2位を争うほどだった(特に都内に入ってからは)「綾瀬川」もここはきれいな流れになり、時折、大きな魚が飛び跳ねる姿も見られます。

  
  
  
1880年代のようす。                   現在のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

「日本の道百選 日光街道」。

 ここから1㎞以上にわたって松並木の道になります。ジョギング、散歩、犬を連れて、・・・さまざまな人々が行き交う。思い思い、のんびりと歩いています。途中に句碑や石碑が設置されています。
 以前、この脇(旧国道4号線)を何回か車で通過したことがあります。そのときに松並木や太鼓橋が印象に残りましたが、歩いたのは初めて。

          
        「矢立橋」。太鼓橋になっています。芭蕉の「奥の細道」にあやかって名付けられた橋。

若い松並木。50年後、100年後はさぞかし見事な松並木に。

     
          「名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原 ドナルド・キーン」。

        

        「おくのほそ道の風景地 草加松原 指定日 平成26年3月18日」。
 日光街道草加宿の北側に位置する草加松原は、一節には寛永7年(1630)の草加宿開宿時、または天和3年(1683)の綾瀬川改修時に松が植えられたと伝えられ、江戸時代から日光街道の名所として知られていました。
 平成26年(2014)3月、この草加松原は「おくのほそ道の風景地」の一群をなすものとして、国の名勝に指定されました。今なお、松尾芭蕉の「おくのほそ道」の時代の雰囲気を色濃く伝える風致景観として、高く評価されたことによるものです。
 元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉は門人の河合曾良を伴い、江戸深川を旅立ちました。古歌の名所、由緒、来歴の地を訪ね陸奥・北陸路を旅し、これにより日本を代表する紀行文学「おくのほそ道」を完成させました。
 深川から船で千住に向かった芭蕉は、そこで見送りに来た人たちに別れを告げ、歩みを草加に進めます。

 「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加という宿にたどり着きにけり」

 この日は、今の暦では5月16日に当たります。初夏の陽光を浴びながら、芭蕉は旅の感慨を新たにしたのかもしれません。
 芭蕉の旅路を見送った草加松原は、度重なる手入れや補修が行われ、明治維新前後まではおおむね500本前後で推移していました。
 しかし、昭和8年(1933)には、国道4号(現在の県道足立越谷線)の道路拡幅工事に伴い、松の伐採計画が持ち上がりました。また、昭和40年代には、高度成長に伴う公害の影響で、成木は70本程度まで減少してしまいました。なお、このような危機の度ごとに松並木保存の機運は高まり、ことに、昭和51年(19769には市民団体「草加松原松並木保存会」が発足し、同会を中心とした多くの市民による松の保護・補修が行われるとともに、市民と行政が一体となった保存運動によって草加松原は護り継がれ、現在は遊歩道として訪れる人々の憩いの場となっています。
 なお、名勝指定を後世の市民に伝え残すため建立された標識(記念碑)は、草加市ともゆかり深い日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーン氏の揮毫になるものです。

 平成27年3月 草加市教育委員会
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