先日、文科省は、小学校からの英語教育を積極的に進める方針を明らかにしたようです。申請特区以外では認められなかった、正規な授業形態としての「英語」の学習、これをどこの小学校でも行うことが出来ることになりました。
数年前から、語学は小さいうちから接していた方がよい、特に外国語はそうだ、ということで、あちらこちらの小学校では、外国人の補助講師を積極的に採用、日本人教師とともに発音・会話の教育活動・学習を取り入れました。
その「屁」理屈では、アメリカ人の子どもは、生まれた時から英語に堪能だ、何の苦もなく英語を話す!日本人も、外国語、特に英語に小さいときに馴らしておけば、自在に英語を操れるようになれる!
母国語としての英語と、外国語としての英語をごちゃまぜにした議論が、平気でまかり通る「早期英語教育」推進の勢いは止まりません。NOVAなどどこかの英語塾とタイアップして、プログラム学習をさせる学校もあるようです。
近年、英語教育への批判は、「どうして6年も10年も学んでいても、ろくに英会話も出来ないのか!」「生きた英語教育でなければダメだ!」・・・。それほどこれまでの学校英語への批判はすさまじいものがありました。
その行き着く先が「小学校から英語を学ばせる」ことに。
たしかに、最近の学校では、国語・数学・社会・理科などの授業に比べて、英語教育が一番大きく変化してきています。その重点は、話すこと、聞くことの徹底ともいえます。ですから、今の中学・高校の英語の授業は、外国人を補助員とした会話重視。その端的な例が、今年のセンター試験から「リスニング」が取り入れられたことです。200点満点の外国語の配点、さらに50点が「リスニング」に加点されました。高校でも、事前に受験対策としてリスニングの練習も重ねてきたようです。
それがますます低年齢化して、小学校で教わるのですから、外国人の補助講師、ボランティアの採用など、現場は人集めからその教授法から大変な状況になっています。今、各小学校が争うようにして「うちでは英語を正規の授業として取り入れています」が売りになっているのですから。
中には、「イマージョン教育」つまり、一般教科までも英語で授業する学校までも登場しています(沼津市の加藤学園の実践が有名)。日本にいて、日本に住む日本人に、日本語でなくて英語ですべて授業する!ここまで来ているのです、今の早期英語教育は!まるで「英語教育」が「英語教育狂乱」状態ですね。
それでいて、成果が本当にあるのでしょうか? 日常的な挨拶程度の会話程度しか身に付かない!文法も何も教わらなくて、ただただ話し、聞くだけ。小さい時から英語が面白くなればいい、大きくなって役に立つ程度にしか思えません。
強力な推進派の発言では、「必死になって相手と向き合うことで、他者に耳を傾け、自分の意見を明確に伝えるという、今の子に欠けがちな態度を身につける芽が作れる」(津田英語会・天満美智子会長)とか。何!躾教育・道徳教育なのか、英語教育は!
だいたい、「自分の意見を明確に伝える」といいますが、その自分の意見そのものはどうやって養うのでしょうか? きちんとしたものの見方・考え方、それはとりもなおさず国語力(日本語力)と密接に絡んできているのだと思います。読書体験、友人との対話・遊び・・・。そうしたことを通じての、基本的な人間性の育成は、実は日本語力の育成と関係するのです。なぜなら、日本語を母国語とする人々は、日本語でもって考え、語り、書き、聞くのですから。
それをいいかげんに扱っておいて、「英語」の担い手つくりに焦ると、かえってバイリンガルどころか、思考も行動も中途半端なアイデンティーのない人間つくりになりかねません。「楽しい英語」(ゲーム・挨拶)で物怖じしない態度を養ったところで、それが何につながっていくのでしょうか?
30年以上も昔、近所の小学生で「英ペラ少年」とあだ名されていた子どもがいました。教育熱心な親が、当時はしりだった英語塾に通わせていたのです。会話も流ちょう、発音も見事!感心していました。その少年も、中学・高校と進むにつれて、英語が特別に上手になったわけでもなく、普通の少年・青年になって、それなりの学校に進学し、それなりの社会人となりました。それがその子にとって、幸福だったのか、時代が早すぎたのかそれは分かりません。
ただ言えることは、日本語社会にあって、親の過度な期待、学校の思惑、会話塾の商魂だけで、子どもを弄んではならないということを感じるです。
それに、どうして英語なのでしょうか? 群馬県太田市は、英語教育の特区申請を行ったとき、その理由として外国人住民が多いことをあげました。しかし、多いとされるブラジル国籍の外国人が話すのは、ポルトガル語です。にもかかわらず、太田市の小学校では、英語を外国語として学ばせています。
数年前から、語学は小さいうちから接していた方がよい、特に外国語はそうだ、ということで、あちらこちらの小学校では、外国人の補助講師を積極的に採用、日本人教師とともに発音・会話の教育活動・学習を取り入れました。
その「屁」理屈では、アメリカ人の子どもは、生まれた時から英語に堪能だ、何の苦もなく英語を話す!日本人も、外国語、特に英語に小さいときに馴らしておけば、自在に英語を操れるようになれる!
母国語としての英語と、外国語としての英語をごちゃまぜにした議論が、平気でまかり通る「早期英語教育」推進の勢いは止まりません。NOVAなどどこかの英語塾とタイアップして、プログラム学習をさせる学校もあるようです。
近年、英語教育への批判は、「どうして6年も10年も学んでいても、ろくに英会話も出来ないのか!」「生きた英語教育でなければダメだ!」・・・。それほどこれまでの学校英語への批判はすさまじいものがありました。
その行き着く先が「小学校から英語を学ばせる」ことに。
たしかに、最近の学校では、国語・数学・社会・理科などの授業に比べて、英語教育が一番大きく変化してきています。その重点は、話すこと、聞くことの徹底ともいえます。ですから、今の中学・高校の英語の授業は、外国人を補助員とした会話重視。その端的な例が、今年のセンター試験から「リスニング」が取り入れられたことです。200点満点の外国語の配点、さらに50点が「リスニング」に加点されました。高校でも、事前に受験対策としてリスニングの練習も重ねてきたようです。
それがますます低年齢化して、小学校で教わるのですから、外国人の補助講師、ボランティアの採用など、現場は人集めからその教授法から大変な状況になっています。今、各小学校が争うようにして「うちでは英語を正規の授業として取り入れています」が売りになっているのですから。
中には、「イマージョン教育」つまり、一般教科までも英語で授業する学校までも登場しています(沼津市の加藤学園の実践が有名)。日本にいて、日本に住む日本人に、日本語でなくて英語ですべて授業する!ここまで来ているのです、今の早期英語教育は!まるで「英語教育」が「英語教育狂乱」状態ですね。
それでいて、成果が本当にあるのでしょうか? 日常的な挨拶程度の会話程度しか身に付かない!文法も何も教わらなくて、ただただ話し、聞くだけ。小さい時から英語が面白くなればいい、大きくなって役に立つ程度にしか思えません。
強力な推進派の発言では、「必死になって相手と向き合うことで、他者に耳を傾け、自分の意見を明確に伝えるという、今の子に欠けがちな態度を身につける芽が作れる」(津田英語会・天満美智子会長)とか。何!躾教育・道徳教育なのか、英語教育は!
だいたい、「自分の意見を明確に伝える」といいますが、その自分の意見そのものはどうやって養うのでしょうか? きちんとしたものの見方・考え方、それはとりもなおさず国語力(日本語力)と密接に絡んできているのだと思います。読書体験、友人との対話・遊び・・・。そうしたことを通じての、基本的な人間性の育成は、実は日本語力の育成と関係するのです。なぜなら、日本語を母国語とする人々は、日本語でもって考え、語り、書き、聞くのですから。
それをいいかげんに扱っておいて、「英語」の担い手つくりに焦ると、かえってバイリンガルどころか、思考も行動も中途半端なアイデンティーのない人間つくりになりかねません。「楽しい英語」(ゲーム・挨拶)で物怖じしない態度を養ったところで、それが何につながっていくのでしょうか?
30年以上も昔、近所の小学生で「英ペラ少年」とあだ名されていた子どもがいました。教育熱心な親が、当時はしりだった英語塾に通わせていたのです。会話も流ちょう、発音も見事!感心していました。その少年も、中学・高校と進むにつれて、英語が特別に上手になったわけでもなく、普通の少年・青年になって、それなりの学校に進学し、それなりの社会人となりました。それがその子にとって、幸福だったのか、時代が早すぎたのかそれは分かりません。
ただ言えることは、日本語社会にあって、親の過度な期待、学校の思惑、会話塾の商魂だけで、子どもを弄んではならないということを感じるです。
それに、どうして英語なのでしょうか? 群馬県太田市は、英語教育の特区申請を行ったとき、その理由として外国人住民が多いことをあげました。しかし、多いとされるブラジル国籍の外国人が話すのは、ポルトガル語です。にもかかわらず、太田市の小学校では、英語を外国語として学ばせています。