おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その3。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-09-30 21:44:25 | 奥州街道

いよいよ喜連川宿(城下町)に入って行きます。

 「喜連川」は、古くは「狐川」と称していました。そういう関係でしょうか? 「きつねの嫁入り」というイベントのポスターが随所に。
                

 (「フィオーレ喜連川」HPより)


 「狐の嫁入り」は、お天気雨のことを指しているのかとばかり思いましたが、それだけではなくて、・・・

 夜間の山野に怪火(狐火)が連なって見えるものを「狐の嫁入り」と呼ぶ。
 昭和中期頃までは、結婚式においては結婚先に嫁いでゆく嫁が夕刻に提灯行列で迎えられるのが普通であり、連なる怪火の様子が松明を連ねた婚礼行列の様子に似ているため、またはキツネが婚礼のために灯す提灯と見なされたためにこう呼ばれたものと考えられている。遠くから見ると灯りが見えるが、近づくと見えなくなってしまい、あたかもキツネに化かされたようなため、などの説がある。徳島県では、こうした怪火を嫁入りではなくキツネの葬式とし、死者の出る予兆としている。
 これらの怪火の正体については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものとも考えられている。また戦前「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事があり、虫送りの灯を見誤ったとする可能性も示唆されていている。

 天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶ。
 天気雨をこう呼ぶのは、晴れていても雨が降るという嘘のような状態を、何かに化かされているような感覚を感じて呼んだものと考えられており、かつてキツネには妖怪のような不思議な力があるといわれていたことから、キツネの仕業と見なして「狐の嫁入り」と呼んだともいう。ほかにも、山のふもとは晴れていても山の上ばかり雨が降る天気雨が多いことから、山の上を行くキツネの行列を人目につかせないようにするため、キツネが雨を降らせると考えられたとも、日照りに雨がふるという異様さを呼んだともいう。

                                         (以上、「Wikipedia」参照。ただし、要約)

 なるほど! 興味深い話がありました。今年は10月23日(日)だとか。さて、どれくらいの新郎新婦の方々が応募してくるのでしょうか? こちらの方がもっと興味深い。

「案内図」。県道沿いの静かな街並み。

(11:11)街道から左折して路地を行くと「武家屋敷跡」にある「御用堀」。
                         

                              落ち着いたたたずまいのおうちが並んでいます。
     

「解説板」。

御用堀
 本町の河川を概観すると県北部山岳地域と関東平野の接点にあるため一般に奥が浅く流れも急でしかも水量に乏しい。この御用堀は水源を県北部高原山系に発し塩谷町、氏家町を流れて町内早乙女、小入、野辺山に至るこの辺の荒川から分流する用水を運ぶ御用堀である。璉光院下及び辻畑等の水田23、5ヘクタールに灌ぎ、その上150余戸の用水となる農耕に欠することのできない水、各戸の日常生活、防火用水とも言われ、その昔、沿岸の人達は米を研ぎ、歯を磨き、顔を洗った清流であった。今は昔の物語である。時代の流れとともに河川は汚れ、昔日の面影さらになく、昔の人々の郷愁をさそう御用堀である。今も河は静かに流れる。

                                 昭和60年度喜連川商工会むらおこし事業

現在は清流が戻り、鯉がたくさん泳いでいます。

観光案内所。大正モダンな建物。

 右手、「かぶらぎ時計店」(隣の店は閉店?)の建物は往時の旅籠屋「山田屋徳平」だった家。横から見ると往時のようす。



 (11:18)左手奥に見えるのが再現された「喜連川城大手門」。門の奥の高台には「スカイタワー」。
    

 「大手門」からすぐ先、右側に「街の駅本陣」の看板が出ている所がかつての喜連川本陣跡。現在は大正時代の警察署を「カフェレストラン 蔵ヶ崎」として利用しています。ここにも水が湧き出ていて、飲むことができます。
    

街の駅「本陣」について
 喜連川宿は奥州街道十宿の内①白沢宿②氏家宿に次ぐ第三の宿で、本陣・脇本陣・旅籠茶屋が軒を連ね、喜連川足利氏〔格式十万石実高壱万石〕の城下町も兼ね殷賑(いんしん)を極めた。
 本陣とは、参勤交代の大名や公用の幕府の役人が定宿とした高級旅籠で問屋を兼ねる所が多かった。当宿には、奥羽・越後・下野の三十七大名が三月から六月にかけて投宿している。
 当宿の本陣は、江戸中期には郡司十左衛門、斎藤仁右衛門等が経営したが、後期には当街の駅所在地で上野太郎平が経営に当った。
 明治になり本陣跡には警察署、郵便局、銀行が開設された。当「街の駅」舎は大正15年に建築された喜連川警察署の建物で、大正期の警察庁舎で現存するものは全国に数か所しかないという貴重な建造物である。

「観光案内図」。

 ここで「喜連川宿」について

喜連川宿(きつれがわじゅく)
 奥州街道(奥州道中)の20番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県さくら市喜連川。
 江戸時代、喜連川城の城下に奥州街道(奥州道中)氏家宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国塩谷郡にあった。1843年(天保14年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、喜連川宿は家数290軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、人口1,198人であった。
 氏家宿本陣は上野家、脇本陣は永井家が担っていた。
 氏家宿から北に向かうと一里塚を通り弥五郎坂(やごろうざか)を下る。弥五郎坂はかつて早乙女坂(さおとめざか)ないし五月女坂(そうとめざか)と呼ばれていたが、戦国時代にこの坂で宇都宮氏当主宇都宮尚綱が那須氏家臣の鮎瀬弥五郎の矢を受けて戦死、のち鮎瀬弥五郎が尚綱を供養して五輪塔を建立したことから、弥五郎坂と呼ばれるようになったという。この五輪塔は今弥五郎殿(やごろうでん)と呼ばれ、弥五郎坂の頂上部に建っている。
 弥五郎坂を下ると道祖神、羽黒社を過ぎ、下妻道(しもつまのみち)との追分を左折すると喜連川宿に入る。宿内には龍光寺、薬師堂、喜連川神社、専念寺などの寺社が建ち、また宿内道側に一里塚があった。宿の北端の奥州道中筋は鉤状となっており、これが宿の内外を分けていた。
                                                                  (以上、「Wikipedia」参照。)

人通りも少なく、車もほとんど通らない閑寂な街並み。

「紙屋」という和菓子屋さん。

左手のおうちからJAZZの調べと子ども達の歓声。「はやき風」というカフェ? 何やら大人と子どもでそれぞれ作品を製作中です。
                       

 「ささや」という呉服屋さん。裏手に蔵がある古そうなお店。
    

 (11:33)「たかしお薬局」の先、「台町交差点」の手前を右に下りる細道を行きます。この道が「旧奥州街道」となります。宿場出入口特有の「鈎の手」になっています。

「宿内」を振り返って望む。左が「たかしお薬局」。

「台町交差点」。その手前の細い道を右折。

 (11:38)下った突き当りを左折して「内川」の土手に出て、「金竜橋」を渡って行きます。

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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その2。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-09-29 23:10:29 | 奥州街道

 「松山」交差点の先で国道293号線は右手にカーブしていきますが、旧道(奥州街道)はそのまままっすぐ「弥五郎」坂を上って行きます。


左手、用水路の向こうには田んぼが広がります。

 (10:06)その分かれる手前、右の角にある自動車整備工場の前に新旧2体の大黒天の像があり、古い方の台座には明治時代の測量に採用された水準点があり、「不(に似た記号)」の記号が刻んであります。これは、日光街道沿いにも何ヶ所か残っていて、実際に見ることができます(「草加宿」、「幸手宿」などで)。


旧道に入って左手の畑に石仏、石碑が並んでいます。

右側には「奥州街道」の標識が立っています。

 (10:11)その先右側に石段があり、上り口に「早乙女古戦場」の標柱と説明板が立っています。石段を登ると、鞘堂が建っていて、鞘堂の中には供養塔(五輪塔)が納まっているそうですが、省略。
    

古戦場
 天文18年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。

坂の途中から来た道を振り返って望む。

正面左手の小高い丘一帯が古戦場跡。

古戦場の先、右手には「早乙女坂温泉」。けっこう来客が多そう。

「セブンハンドレッドクラブ」入口が頂上で、そこから下り坂になります。

 (10:19)峠から少し下ると、右側に古道の入口が見えてきます。左の道へ行くと「河東碧梧桐句碑」があると案内板の地図に記されています。どちらに進んでも先で一緒になる、と。
                     

史跡 奥州街道(古道) さくら市指定(平成17年2月9日指定)
 慶長6(1601)年徳川幕府は全国支配のため、江戸と各地を結ぶ五街道の整備を始めた。奥州街道は、慶長9(1604)年、東山道(関街道)に代わり正街道となり、奥州の諸大名の参勤交代や、奥州と江戸を結ぶ、文物交流の中心的役割を果たした。奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮宿から分岐して白河へ向かう。さくら市には、奥州街道のほか、会津中街道、会津西街道、原街道の結節点となり、交通の要衝地として栄えた氏家宿と、喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿があった。この古道は、たびたび山腹が崩壊するなど、難所の一つであったため、明治13(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめている。

 古道は少し上ったあとすぐ下り坂になります。足元は舗装された道ですが、倒木があったり、苔むした箇所があるなど荒廃しているようで、ほとんど人が通らないようすです。
    

 時折、鳥の飛び立つ音やガサガサ物音がしたり、もちろん誰との会わない山道。熊でも出てきたらどうしよう、この先、道はあるのか、と少々不安な気分。
    

 しばらく下って行くと右手に「高塩背山の墓入口と」書かれた説明板が立っていて、その脇に細く草深い山道があります。
                           

歌人 高塩背山 明治15(1882)年~昭和31(1956)年
 さくら市を代表する歌人、高塩背山は本名を高塩正庸。代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれ、教員を勤めた時期もあったが、生涯の大方を祖父伝来の神職をまっとうした。
 24歳の頃から作歌を志し、一時、尾上紫舟に師事して、歌と書の指導を受けた。才能を開花させてからは、郷土の自然を題材に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を終生作り続けた。
 中央歌壇への投稿を通じ、若山牧水と交友が生まれ、明治43年には牧水の「創作」に参加、主軸歌人の一人として活躍をした。長く続く親交の中で、牧水は3度、喜連川の背山をたずね、酒と短歌を交えたひとときを過ごしている。その時牧水が詠んだ歌は背山の歌と並び喜連川神社に歌碑として建っている。
 代表歌集「狭間」「移りゆく自然」にあるように、郷土の風景を慈しみ74歳で没した歌人は、永眠の地を愛した喜連川の街並みが見える高台にしたかったのではないだろうか。
  山上より町を
   我が街を埋めつくして流れゐる
   朝の濃霧を丘の上ゆ見つ
   うち渡す峡間の町の夕けむり
   若葉の上にたなびきながるる


草むらに覆われてしまった「道標」。

「高塩背山」の墓入口を過ぎると前方が開けてきます。ほっと一安心。人家が見えてきたら、「古道」も終わり。
    

(10:34)その右手の丘に庚申塔等が建っています。

 小さな集落に入って「旧道」はそのまままっすぐ進むようです(「旧道」は消滅している感じです)。「桜並木」という道しるべを頼りに、たんぼ道へ。遠くに「県道(新道)」沿いの桜並木。
    

 「荒川」土手を目指して歩いていると、彼岸花(曼珠沙華)が咲き誇っています。秋たけなわ。
    
                               遠くに見えるのが「喜連川スカイタワー」。「東京スカイツリー」よりも前にできたそうです。
 
 ただし、2011年の「東日本大震災」によって敷地の一部が崩落したほか、塔内のエレベーター制御盤、空調設備が全損した。震災以降、お丸山公園(喜連川城城址)全体が立入禁止となっていましたが、かねてからタワーは採算性の低い施設であったため復旧を断念。シャトルエレベーターとともに営業廃止が決定しました。ただしタワーには防災無線や電波塔が設置されていることから塔体そのものは存置されるようです。
                          
                     
 道はじきに「荒川」土手に突き当たるので、右折して「連城橋」を渡ります。「連城橋」を渡る手前、右手の信号の前に寛延元年(1748))建立の道標が建っています。「右 江戸道 左 下妻道」と刻まれています。「下妻道」は、荒川沿いに真直ぐ行く道。
    

 「荒川」は、埼玉県、東京都を通り東京湾に注ぐ「荒川」とはもちろん違います。
 
 この「荒川」は、栃木県北東部を流れる那珂川水系の一級河川。
 栃木県塩谷郡塩谷町大字上寺島の高原山系釈迦ヶ岳に源を発し南東へ流れる。矢板市の南端を東に流れ、さくら市喜連川および葛城の境界部で八方ヶ原に源を発する内川を合わせ、那須烏山市では大きく左右に蛇行しながら南東に流れ、芳賀郡市貝町の北東辺を翳めて那須烏山市向田にて江川を合わせると、次いで同所および下境の境界部にて那珂川に合流する。
    
                                               (以上、「Wikipedia」参照)

 (10:57)「連城橋」を渡ると「喜連川宿」に入ります。
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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その1。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-09-27 22:24:53 | 奥州街道
 うっとうしい雨ばかり、久々に晴れ間が広がった、9月25日(日)。「奥州街道」の2日目。
 事前の天気の予想は曇りのち雨でしたが、一日中、晴れ。しかし、実に蒸し暑い一日でした。
 8:40少し前にJR「氏家」駅に到着。そこから旧道まで戻って左折。

 その前に「氏家宿」の解説を。

氏家宿
 奥州街道(奥州道中)の19番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県さくら市氏家。
 氏家宿は、江戸時代に奥州街道(奥州道中)下野国塩谷郡にあった宿場町で、白沢宿の次の宿駅である。天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、氏家宿は家数235軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、人口879人であった。 氏家宿本陣は平石家、脇本陣は伝馬屋が担っていた。
 江戸時代、氏家宿南傍の鬼怒川東岸にあった阿久津河岸(あくつかし)は、主に東北地方で獲れた米ほか特産物を鬼怒川の水運を利用して江戸に送るための集積地となり、このため氏家宿の旅籠もたいへんな活況を呈したと云われている。氏家には会津西道、会津北道、原方道、水戸道が開通し、交通の要衝地となった。江戸の常盤津の歌人等も多く氏家に移住したといい、江戸末期には卯の花連(うのはなれん)と呼ばれる俳句会が生まれた。その歌集には、水戸道を通って10里ほどの太平洋沿岸村落から氏家宿に四季折々に海魚が大量に運び込まれ、鶏卵や川魚、塩辛等しか食せない山路にしては珍しく海魚を食すことが出来たことが書かれており、このような宿場は氏家宿以北、仙台や酒田に至るまで無かったと云われている。
 現在、氏家宿は栃木県さくら市にあり、市域には東京から栃木県を経て東北地方を結ぶ国道4号および鉄路JR宇都宮線(東北本線)が通るが、JR氏家駅が宿の西側に置かれ周辺の市街地化とともに宿並は廃れたものの、主要国道の経路が氏家市街地から反れている為、喧騒からは隔離された比較的静かな装いを呈している。

本陣  平石六右衛門
脇本陣 伝馬屋
旅籠 ほてい屋市兵衛
休所 うすいや秀八
旅籠 石井孫兵衛

                                  (以上、「Wikipedia」参照)

旧道沿いのおうち。

 「上町交差点」で「奥州街道」は右に折れていきます 。その先、沿道の左手には見応えのあるおうちが二軒並んでいます。手前が、「村上家」、その隣が「瀧澤家」のお屋敷です。(08:55)

    

 左の屋敷:桜野村の名主の家で、道に面した門は「分間延絵図」にも描かれた近世の門です。
 右の屋敷:明治の豪商。豪壮な長屋門のある「瀧澤家」。

 今日は休館日で鐡竹堂の外観しか見られず。
    

栃木県指定有形文化財建造物(平成10年1月16日指定)
           瀧澤家住宅(鐡竹堂・蔵屋敷・長屋門) 
 瀧澤家住宅は旧奥州街道に面して、伝統的な板塀を巡らし、堂々たる長屋門を開くなど、屋敷構えは今なお旧家の面影を留めている。
 瀧澤家は、明治になって紡績等の事業で財をなした旧家であり、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓にも尽力した人物として知られる。指定の3棟は、明治25年(1892)10月23日に氏家町で陸軍大演習が行われた時、喜平治宅が明治天皇の休息所に充てられた際、新築あるいは増築されたものと考えられている。

○鐡竹堂(南北6.5間×東西7間)
 鐡竹堂は明治天皇の休息所として使用された建物で喜平治の雅号「鐡竹」にちなんで名付けられた。平屋建ての入母屋造りで北側の庭園に対して4室をL字型に並べ、東側正面に車寄せを張り出している。北西の6畳間が主室で、床、違い棚、付書院を完備し、金地の、襖絵素木の格天井とするなど、天皇の御座所にふさわしい造りとなっている。休息のために揃えた調度品とともに当時のままの姿で残されている。

○蔵座敷(桁行4.5間×梁間4間)
 蔵座敷は、総2階建、切妻瓦葺の伝統的な土蔵の屋根のほぼ中央に洋風の望楼を乗せた特徴のある建物である。望楼は方形造銅板平葺、四面に装飾的な上部半円状の扉を開き、周囲には洋風唐草模様の鉄柵を巡らしている。洋風望楼は、明治初期洋風建築の大きな特徴の一つであり、この地方においても、明治期の旧奥州街道沿いに同様な洋風望楼を乗せた建物が幾つか存在していたといわれるが、現存するのはこの建物だけである。
 この洋風望楼部分は明治20年の建造当初のものではないことが内部構造から判明しており、明治25年の行幸が増築のきっかけになった可能性が高い。

○長屋門(桁行8.5間×梁間2.5間)
 長屋門は、入母屋造、桟瓦葺で左右を小部屋とし、中央部を門とする典型的な長屋門形式である。門は内寄りに門柱を立てて両開きの扉を吊り、東側に通用門(潜門)を開く。正面1階には出窓形式の武者窓を背面2階に格子戸を設けている。
 地方に残る長屋門の中でも最大級のこの長屋門は建築年代を確定する資料は残されていないが、門の飾り金具にはすべて菊花が用いられていることや部材の腐食度から見て、鐡竹堂と同時期の建築と推定できる。

                                     栃木県教育委員会・さくら市教育委員会

奥に見えるのが「蔵座敷」。洋風の望楼がユニーク。

    
                            広い敷地が続く。

 (09:02)少し進んだ左側の田圃の脇に、十九夜塔や二十三夜塔等が4基あります。
         

その先、左側にも石仏が。

沿道には門構えの立派なお屋敷。

 (09:25)しばらく進むと、「桜野交差点」で「国道239号線」と合流します。田園地帯が広がります。
    

            実りの秋。

直線道路をひたすら歩く。

 (09:50)国道に合流して30分程進んだ「松山交差点」の手前右側のおうちの民家の門前に、一里塚の標柱と解説板があります。
    

奥州街道一里塚(史跡)
 近世になると江戸を中心にして諸街道が整備され、宿場や一里塚などが設けられた。一里塚は主要街道の一里ごとに目印として両側に塚を築き、榎や松などを植えた。奥州街道は日光街道と宇都宮で分岐して白河までを指し、これらの街道にも一里塚が設けられた。
 氏家地内には堂原地蔵堂南側と挟間田の二か所あったが、堂原一里塚は明治以降消滅した。挟間田の一里塚も北側は破壊され、南側に一基が現存するだけになった。
 延宝6年(1678)の宿並絵図によると、この地点は、奥州街道の北側は下松山村、南側は狭間田新田村で、一里塚は両村の宿並中央部に一基ずつ明記されている。江戸日本橋を起点として32里目にあたる一里塚である。
 奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内唯一の一里塚として確認できるものである。

                           氏家町教育委員会

注:「氏家町」は喜連川町と合併して「さくら市」になっています。

庭の盛り土の上に祠があります。

そこから来た道を振り返って望む。

「松山」交差点角にある建物? 

金魚池。
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読書「昭和の戦争 日記で読む戦前日本」(井上寿一)講談社現代新書

2016-09-26 21:15:03 | 読書無限
 行き帰りの電車の中で読み進めていた書。全体の流れは分かっていたつもりの昭和前史。1928(昭和3)年6月4日、張作霖爆破事件から筆を起こし、1945(昭和20)年、敗戦までの歩みを政治家、軍人、作家などの、公刊された「日記」をもとに、「昭和の戦争」を解き明かしていきます。
 ここで「昭和」の「戦争」とあるのはけっして日中戦争」から「太平洋戦争」、そして敗戦と続く20年の対外「戦争」のみを意味しているのではなさそうです。
 勝算もないままに、無謀な対中、対米英戦にしゃにむに突き進んだ陸軍、海軍(それも双方の戦略観、主義、主張のためにがんじんがらめになっての不協和音の中での)軍部、それに対抗するすべもなく無定見で右往左往し、結局は追認していく政党政治家達、という構造的な体質・体制下。
 その中にあって、戦争回避を願い、「立憲君主制」のもとでの政党政治のあり方を何とか追及しようと苦心した、働きかけていった人たちの「戦争」でもあった、と。
 筆者が特に取り上げているのはそうした人々の日記を重要視していることからもうかがわれる。特に「清沢洌」さんへの思い入れは強いように感じる。
 その他にも、古川ロッパ、永井荷風、高見順、伊藤整、若き日の山田風太郎などの日記もからめながら、戦争の実相に迫っていく。

 筆者が総括としてあげている点を列記したい。(P243)

① 立憲君主制の危機の時代
 現地軍対陸軍中央、陸軍対海軍、外務省対軍部、政党間対立、これらの対立が複雑にからみ合って、立憲君主制は機能不全に陥っていく。・・・極限の戦時体制下にあっても、・・・権力の遠心化と責任主体の喪失状況のなかで、「聖断」による降伏決定が下された。

② 「ファシズム」と民主主義は紙一重
 一方の政治勢力は「ファシズム」体制の確立を求めて、戦争をはじめる。他方の政治勢力は平和と民主主義を守ろうとする。この対抗関係において、戦前昭和の歴史は、前者の勝利=後者の敗北の過程ではなかった。両者は同床異夢の関係だった。・・・戦争は体制変革と体制破壊の二つの作用を併せ持つ。このような戦争の機能に依存する新体制の追及の末路は、帝国日本の崩壊だった。平和と民主主義は、協調外交と政党政治の相乗作用によって発展する。この定石通りの選択をすることの重要性を示唆している。

③全体戦争の全体性
 1945(昭和20)年まで、断続的に戦争が続いた。人人々の生活の隅々まで戦争の影響が及んだ。のちの世代の私たちは、・・・そんな同時代の人々になぜ戦争に反対しなかったのかと問いかけるのは、的外れである。
 永井荷風を苛立たせた従順さと伊藤整を不思議がらせた平静さは、戦時下の人びとがそれぞれの立場で戦争の責任を引き受けながら、運命を受容したことの表われだった。 

 「新書」という形式、さらにもとは「日経新聞」での連載記事だったこともあって、わかりやすい反面、突っ込みが足りない点があるのは致し方ないか。
 
清沢 洌(きよさわ きよし)
 1890年(明治23年)2月8日 - 1945年(昭和20年)5月21日)は、ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。

 外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。
 1907年(明治40年)、17歳のとき当時の同地での渡米熱をうけて、研学移民(学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州に渡航した。シアトル、タコマで病院の清掃夫、デパートの雑役などを務めるかたわらタコマ・ハイスクール、ワシントン大学などで学んだ。
 1911年(明治44年)頃からは現地の邦字紙の記者となり、数年にして現地日本人社会で著名な存在となった。当時はアメリカ西海岸において日本人移民排斥運動が高潮に達していた。日本人に対する蔑視と敵意を、日本国内の為政者として、あるいは恵まれた立場の在米外交官としてでなく、日本政府からの庇護の薄い移民という立場で味わったにも拘わらず、清沢は晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた希有の自由主義平和思想家であった。
 1918年(大正7年)帰国した清沢は、貿易関連の仕事を転々とした。
 1920年(大正9年)には中外商業新報(現在の日本経済新聞)に入社した。ここでもはじめは米国関連、日米問題関連のエキスパートとしての執筆活動を行ったが、大正デモクラシー、政党政治の伸長、関東大震災後の混乱(なお清沢は妻子をこの震災で喪った)、日本の満州進出などを受けて、国内問題や対中関係も彼の執筆対象となっていった。
 1927年(昭和2年)には東京朝日新聞に移籍し、またこの頃から新聞以外での著作活動も精力的に始まった。清沢の基本的な立場は、対米関係においては協調路線、国内では反官僚主義・反権威主義、対中関係では「満州経営」への拘泥を戒めるものであって、石橋湛山のいわゆる「小日本主義」と多くの共通点をもっていた。だが清沢のリベラルな論調は右翼勢力からの激しい攻撃にさらされた。特にその著作『自由日本を漁る』所収の「甘粕と大杉の対話」(大杉栄殺害犯として獄中にある甘粕正彦憲兵大尉を大杉の亡霊が訪ね、甘粕の迷妄を論破する、というストーリー)は国体を冒涜するものとして批判された。
 1929年(昭和4年)には清沢は東朝退社に追い込まれ、以後は生涯フリーランスの評論家として活動することになる。
 フリーとなった清沢は1929年から1932年(昭和7年)までの3年間のほとんどを欧米での取材・執筆活動にあてることとなる。
 1929年にはアメリカの「暗黒の木曜日」とそれに続く大恐慌を現地で体験する。
1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議は、雑誌「中央公論」の特派員という肩書で取材した。会議では、補助艦の対米比率7割死守を図る日本海軍側代表団と清沢は互いに批判的な関係にあり、清沢は「六割居士」という綽名を頂戴する始末であった。その他、この欧米滞在中にはチェコスロバキア外務大臣ベネシュ、イタリア首相ムッソリーニ、実業家ヘンリー・フォードなどと会見、それら会見記は公刊されている。
 1931年(昭和6年)の満州事変勃発、1932年の第一次上海事変は滞米中に遭遇しており、日本の大陸進出に対するアメリカの厳しい世論を目の当たりにすることにもなった。
 1932年、帰国した清沢は日本の内政・外交に対する鋭い評論を行うこととなる。満州国単独承認問題、国際連盟における満州問題の討議、引き続くリットン調査団派遣を巡って国内世論は沸騰していたが、「国を焦土と化しても」日本の主張を貫徹する、と答弁した外相内田康哉、スタンドプレーに終始し意味のある成果を引き出せなかった国際連盟首席全権松岡洋右をそれぞれ批判した「内田外相に問ふ」「松岡全権に与ふ」は、この時期の代表的評論である。また、数多くの国内講演、著作、雑誌論文などを通じて、清沢は商業主義・迎合主義に流されやすい日本のジャーナリズムに対する批判と、自己の漸進主義とでもいうべき自由主義の立場を明らかにしていった。
 1937年(昭和12年) - 1938年(昭和13年)には、堪能な語学力を買われてロンドン開催の国際ペン・クラブ世界会議の日本代表という立場で再び欧米を訪問し、各所で精力的な講演活動を行う。日中戦争の勃発・激化を受けて欧米の対日感情は極度に悪化していたが、愛国者を自負する清沢はむしろ積極的に講演で、あるいは現地新聞への投書などを通じて日本の立場の擁護・正当化を行っていった。皮肉なことに、彼自身が国内で反対の論陣を張っていた硬直的・非協調的外交政策のスポークスマンの役を担わされたわけである。また駐英大使を務めていた吉田茂とは、このロンドンでの新聞投書による世論工作の過程で親しくなっていったという。
 帰国後の清沢は、再び本来の対米協調を主軸とした外交への転換を訴える立場を取り、「新体制」「東亜新秩序」などの言葉に代表される抽象的かつ空疎な政策を諫め、アメリカを威嚇することで有利な結果を得ようとする外交政策の愚を説き、ドイツとの連携に深入りすることなく欧州情勢の混沌から距離をおくことを主張したが、事態は1940年(昭和15年)の日独伊三国軍事同盟、1941年(昭和16年)の日ソ中立条約、南部仏印進駐とそれらに対する米国の一連の対抗措置は、ことごとく自らが提言した潮流と相反する方向へ進んだ。
 1941年2月26日、情報局は各総合雑誌に対し執筆禁止者のリストを交付し、清沢の名前もそこに含まれていた(他には矢内原忠雄、馬場恒吾、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳、等)。これ以降の清沢は時事問題に対する直接的な意見の表明は不可能となり、外交史に関する著作という形で間接的に当時の政策を評論することとなった。幕末開国時から日ソ中立条約までを俯瞰する『外交史』およびその増補改訂版として太平洋戦争開戦までを記す『日本外交史』は著名であるし、大久保利通がいかにして征韓論を打破し、台湾出兵およびその後の北京における対清交渉を果断にまとめていったかを賞揚する『外政家としての大久保利通』は、昭和戦前期日本外交に対する痛烈な批判となっている。大久保の外戚である吉田茂(妻が牧野伸顕の娘で、利通の孫にあたる)がこの本を贈呈されて一読、感銘を受けた旨を記した清沢宛の書簡が現存している。その他、石橋湛山が主幹を務める「東洋経済新報」誌上では匿名執筆の形で時事問題をしばしば論じる一方で、ダンバートン=オークス会議にて討議された国際連合憲章原案をいち早く入手、分析批判し、清沢の対案を同誌上で提示している(石橋の勧めもあったという)点などは、その先見性を示すものといえる。
 1942年(昭和17年)開戦1年後、清沢は「戦争日記」と題した、新聞記事の切抜きなども含む詳細な日記を記し始めた。いずれ時期が来れば、日本現代史(昭和史)の著述にあたり、その備忘録とするつもりであったとされる。官僚主義の弊害、迎合的ジャーナリズムの醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記録する(広い意味でファシズムへの抵抗を示した)。この日記は1954年に『暗黒日記』の題名で、東洋経済新報社で出版され、数社で新版刊行された。
 1945年(昭和20年)5月21日、終戦を目前に急性肺炎により東京築地の聖路加病院にて急逝した。吉田茂、石橋湛山という後に首相となった2人を知己にもち、戦後存命であれば政界・言論界で重きをなしたであろう知米派知識人の、55年の短い生涯であった。
                                        (以上、「Wikipedia」参照)
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宇都宮宿~白澤宿~氏家宿。その5。(「奥州街道」をゆく。第1日目。)

2016-09-24 20:20:40 | 奥州街道

 この道に入ると、とたんに周囲が田んぼが広がり、人家がぽつぽつある、農道のような道になります。

(14:46)「お伊勢の森」。田んぼの中にある小さな森。

お伊勢の森・奥州街道
 お伊勢の森神明宮は、遠く村の発生とともに祀られたのであろう。旧奥州街道を少し離れた所に四角四面に石を積んだ石塚があり、その中に伊勢神宮の内宮・外宮その他の末社を勧請したのが祀られていた。あたり一面が森をなしていたことから、俗に「お伊勢の森」と言った。ここに詣でることにより、同じご利益があり、いくつかの霊験談が伝説化されて残っている。
 すぐ前の道が昔からあった古道で、東は古宿(現古町)、西は将軍地蔵~阿久津へと通じている。徳川幕府が開かれるとともに氏家村にも宿場や伝馬の制が敷かれるようになり、氏家宿ができた。・・・

直線の道が続きます。

すぐ前方にJRの踏切があります。

JR宇都宮線の電車が通過中。

踏切には「旧奥州街道踏切」と記されています。

「氏家」駅方向。

 のどかなたんぼ道。
    
                                  晴れていれば奥日光の山並みが見えそうですが。

       一面、大豆畑。

(15:01)住宅街にさしかかって正面のT字路を左折。

 その右の角に奥州街道道標や馬頭観音等が建っています。
    

解説板はかすれて判読不能。道標もほとんど判読できません。
 道標には「右 江戸海道」「左 水戸 かさま 下だて 下づま」と記されているようです。
 ここは「氏家宿」の南端でもあり、奥州街道は鉤の手に曲がり、木戸番所が設けられていました。

「氏家宿」内のようす。

「道標」等がある角を振り返って望む。

 宿内には古くてりっぱなおうちがあります。
    
                                      「伝馬町」という表示。

    

                       


15:13)しばらく進んだ右側に「寛方・タゴール平和公園」があります。

荒井寛方(あらいかんぽう・1878~1945)はここに生まれ、日本画家をめざして巣立ちました。仏画を志した寛方は原三渓やアジアで初めてノーベル文学賞を受賞した詩聖タゴールの知遇を受け、日本画の教授として渡印しました。その間、アジャンタ壁画模写の難事業を成し遂げ、多くの人々と交わり、日印文化交流の架け橋となりました。
 この公園は、荒井寛方の業績を顕彰するとともに、寛方とインドのノーベル賞詩人で思想家のタゴールの友情を記念して作られた公園です。園内にはタゴールが寛方に贈った惜別の詩を刻んだモニュメント、寛方の代表作を陶板画にして飾ったギャラリー、茶室やせせらぎ配した庭園などが設けられています。

    

                    

「氏家仲町」。「108」で「東野」。 

「穀町」。

 今回は、ここまで。JR「氏家」駅に向かいます。 

途中にあった居酒屋さん。看板に「かえるの塩焼」?!  

駅の近くにはしゃれたレストラン?
    

参番館」。「氏家オープンダイニング、ダイニングバー」・・・。                                         
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宇都宮宿~白澤宿~氏家宿。その4。(「奥州街道」をゆく。第1日目。)

2016-09-23 20:30:47 | 奥州街道
 「白澤宿」の中心部は350㍍ほどで終わって「枡形」(西の出入口)になってしまいます。
 それほど大きな集落ではありませんが、何だかもったいないほどの町並みです。宇都宮の繁華街から歩いてもわずか3~4時間で着くところなのですが、まだ街道情緒を残す建物などが残っています。


 新しいおうちも目立ちますが、敷地は街道筋らしく、間口が狭く奥行きが長い。これまでの東海道など街道歩きでしばしば見てきたようすと変わりません。


(12:28)正面が枡形(鈎の手)になります。

 その突き当たりには「澤姫」という地酒を造っている「井上清吉商店」。「真・地酒宣言」。杉玉もしっかり。
    

宿内を振り返って望む。左奥から来ます。

 (12:30)右折し、しばらくして渡る橋が「九郷半橋」。
    

 この先が道を間違ったところ。案内板でもあったならば(もしかしたら見逃したのかもしれませんが)と悔いても後の祭り。
 宿場を出ると、広い道が西(左)にカーブしていきます。目の前のまっすぐな道はちょっと細くて何だか心許ない。つい広々とした道路の方へ向かってしまいました。
 先達の案内書を見ると、「しばらく行くと、鬼怒川の土手に出る」という風にあります。そのうち出会うだろうと歩いて行きました。いっこうに「鬼怒川」にぶつからない。
 変だと思ったときはすでにかなり来てしまった! 「白澤宿」を出たら、そのまま先ほどの道を北に向かわなければならなかったのです。そのため、「白澤の一里塚跡」記念碑にも遭わないはず。路線バスの行き先が「白沢河原」とあったのを思い出しました。その道の先に終点があったわけです。・・・

向こうに見える山は「笠松山」?

(12:41)土地改良工事のモニュメント? ユニーク!

 (13:09)ひたすら歩いてやっと「鬼怒川」に架かる「阿久津大橋」のたもとに着きました。右手から来る道が鬼怒川の土手道。
    

 土砂降りの雨に遭わなかったのがせめてもの慰め。車以外はまったく誰にも会わない車道を歩いてきたのでした。「鬼怒川渡し場」跡の標識も見ずじまい。
 この先もまた大変! 「阿久津大橋」を行かなければならないのですが、車道のみ。歩行者用の道はなく、端にある白線だけが頼り。
 車はどんどん飛ばして来るし、大きな車でも来たときには冷や冷やもの。何しろ人がこんな橋の上を渡っているなどと運転手は思いもしないはず。お互いに冷や冷や。
 後ろから刎ねられたらたまったものじゃないと反対車線の方に行こうとしても車の列は途切れない。危険極まりない歩き。

         

(13:13)橋の真ん中付近で「さくら市」になります。

下流側。 

河原を見下ろすと、鮎釣りの人がそこかしこに。

下流。河原の様子からけっこう幅が広い川です。

 橋を渡って突き当たりを左折して行きます。(13:27)途中、「浮島地蔵」「船玉神社」の案内表示があります。「鬼怒川」べりにあるようですが、雨が降ってきそうで、省略。この道が旧道かどうか定かではなく、ちょっと不安に。

 右手に蕎麦畑が広がり、その先に食堂があったので、道を聞きがてらビールと地元のうどんを食し、ゆっくり休憩。

「勝山食堂」さん。親切に教えてくれました。

 (14:20)そのすぐ先、右手に「将軍地蔵」。
    

将軍地蔵
 源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ淵の悪蛇のため進めません。秀円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、勝山城を守護する寺院として堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てました。
 室町時代のころ、ここから日光山へ修行にいったお坊さんが意地悪山伏に素麺を無理やり食べさせられて気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べ尽くしたので山伏は降参しました。お坊さんは将軍地蔵の姿となりお坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ、日光責め・強飯式が起こったと言われています。戦国時代に那須勢が攻めてきて焼き打ちをしたので満願寺は焼けてしまいました。
 江戸時代には再建されて堂原地蔵堂となり奥州街道の道中安全に利益があるので有名となり、遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されています。
  

 境内には古くて大きなイチョウがあります。推定樹齢約600年、樹高28.2㍍、目通周囲4.9㍍。
    
           堂原の公孫樹(天然記念物)

 本来の旧道はこの先工場の敷地内でなくなってしまっているらしいので、そのまま進んで、「ベイシア」への入口を右折していきます。
(14;28)

 道路をはさんで左手は「さくら市ミュージアム」「勝山城址公園」となっています。

 「スーパーベイシア」の駐車場に沿って左に行くと、上下線片側2車線、中央分離帯もがっちり設置された「国道4号線」にぶつかってしまいます。
 旧道はそのまま向こう側につながっていきますが、信号機がなく、車はひっきりなしに通過するので、ここも危険極まりありません(「阿久津大橋」よりも危険! )。
 遠く左には信号のある交差点、南には横断歩道橋。そこで、横断歩道橋を行くことにします。

「スーパーベイシア」正面。

 (14:36)歩道橋から望む。
    
 「那須塩原」方面。                        「宇都宮」方面。
 
国道4号線の距離表示「東京まで124㎞」ポスト。

正面の道から、

この道へ。
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宇都宮宿~白沢宿~氏家宿。その3。(「奥州街道」をゆく。第1日目。)

2016-09-21 21:23:22 | 奥州街道
 (11:40)前方に「ここから白沢宿内」の案内表示が見えてきます。が大事なヒント。

                   
 横断歩道橋のある分岐点になりますが、左にカーブする道路の方が広く、車もそちらへ。ついその道を行ってしまう場合もありそう。正解は右に少しカーブしている道が白沢宿への道。

 (11:50)しばらく進むと、右手に四阿風の休憩施設。ここで、こちらも小休止。
「ここは江戸より30里」という説明。
 右奥の建物の周囲には「立ち入り禁止」のロープが張ってあります。いったい何があったのか?

大きな石塔「勝善神」。

 路傍に建てられている「馬頭観音」が馬の安全や健康を祈ったり、死んだ馬の冥福を祈ったりするものであるのに対して、
勝善神は、主として馬産地において名馬の誕生を祈願する意味の強い信仰であるようです。
 「勝善」や「ショウデン」も蒼前〔ソウゼン〕がなまったものといわれています。
 「日光道中」でも「宇都宮宿」を出た先に、大きな「勝善神」碑がありました。

長い下り坂になります。

 (12:14)ゆるやかな下り坂の途中、左手に「やげん坂」の解説板があります。

    
やげん坂
 この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研やげん)に坂の形が大変似ているところから、「やげん坂」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
 また慶長14年(1609)白沢として町割ができる以前からここには海道の道しるべとして夫婦の大きな榎があった由緒あるところです。                       河内町

「やげん坂」を振り返って望む。

(12:15)前方に公衆トイレのような建物。

 近づいてみると、江戸時代の公衆便所でした。残念ながらトタン板で囲まれていて、様子はうかがえません。


その代わり、当時の絵が。

 なかなかユニークな紹介。この後も「白沢宿」に対する地元の熱意を感じさせるものがいくつも。 



 落ち着いた町並みが続きます。それぞれのおうちにはかつての屋号などが掲げられています。
    
        「碇屋」。                                「樋口屋」。    

 (12:20)「白沢宿」という交差点を左に折れると、「白沢宿」の中心部。側溝には豊かに水が流れ、水車も設置されるなど、情緒ある町並みが現れます。
    

「住吉屋」。
                     連子格子のある旅籠屋らしい雰囲気を残しています。。

「本陣・宇加地家」。

奥には江戸末期の本陣の建物が見えます。

 その前には、「白沢宿」解説板などが立っています。旧型の郵便ポストも。


    

白沢宿
 奥州街道(奥州道中)の18番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県宇都宮市の北東部、白沢町白沢宿。
 白沢宿(白澤宿)は、江戸時代に奥州街道(奥州道中)下野国河内郡にあった宿場町で、宇都宮宿の次の宿駅。江戸から丁度30里余に位置する。
 天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、白沢宿は家数71軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠13軒、人口369人であった。
 白沢宿本陣は宇加地家、脇本陣は福田家が拝命していた。白沢宿の名物として鬼怒川の鮎と白沢の牛蒡(牛房:ごぼう)が知られていた。当時、稚児ヶ坂の中程に茶屋があり、四季を問わず牛房汁を出していたと言われている[1]。
 宇都宮宿から白沢街道(旧奥州道中)を歩くと稚児ヶ坂(ちごがさか、ちがさか)を登り切った宝木台地の北東端付近に白沢地蔵堂(しらさわじぞうどう)が、またこの宝木台地を下る薬研坂(やげんざか)を下りて左折した宿内には村社白髭神社(しらひげじんじゃ)が、また宿の北端には薬師堂(やくしどう)が建つ。坂上の白沢地蔵堂は鎌倉時代に源頼朝の命を受けて一族で奥州に下向した伊沢家景が旅中に病死した実子の亡骸を葬って祀ったのが起源、また、白髭神社は白髪神社とも書き白沢宿の名前の起源とも云われるが、不詳である。
 薬師堂は宇加地家墓所に併設する。奥州道中は薬師堂の辻口で右折し宿外に出て九郷半川および西鬼怒川(にしきぬがわ)を渡って白沢の一里塚(しらさわのいちりづか)に至る。この一里塚は江戸より30番目、30里に当たる塚で当時は鬼怒川の河原にあったが、度々の水害で破壊され痕跡が残っておらず、現在は白沢河原に白沢各自治会によって記念碑が建てられている。
 現在、白沢宿は東京から栃木県を経て東北地方を結ぶ国道4号のルートから外れており、白沢宿を通る旧奥州街道沿道には鬼怒川から取水された用水が両側を流れ、その用水には水車が設けられ、沿道の民家には屋号が掲げられているなど、江戸期の静かな風情を髣髴させる宿並みとなっている。
(以上、「Wikipedia」参照)

 上に出てくる「白沢の一里塚」記念碑は、道を間違えてしまい、行きそびれたので紹介します。



私たちの地域には「白澤の一里塚の碑」があります。
奥州街道白澤宿の会では、江戸時代に多くの人たちが利用した一里塚の歴史を構成に伝えるため、会員と地元白沢河原、白沢甲部、白沢南の各自会の皆さんの協力を得て、ここに白澤の一里塚の碑を建立しました。
 設置場所は、白沢河原自治会内、奥州街道、鬼怒川と西鬼怒川の間、関東バス白沢河原バス停に隣接しています。
 一里塚は旅人が目的地へ到達するまでの目標と、馬や駕籠の賃銭の支払いの目安に、江戸幕府によって慶長9年(1604年)に設置されました。
 江戸・日本橋を起点にして奥州街道はじめ五街道の両側に一里毎に設けられた塚は、一般に9メートル四方で、この上に榎が植えられました。
 これは、一里塚であることの目的と旅人の日除けの役割を果たしました。
 古文書には、白澤の一里塚は日本橋から30番目で、かつては鬼怒川の河原にあったため、たびたび洪水で壊れてしまったと記されています。
 近年、白澤七福神めぐりに県内外よりウォーキングを楽しむ方が増えています。
 皆さんも是非「白澤七福神めぐり」に合わせて、白沢の一里塚にお立ち寄りください。

                                       (地域情報紙かわち 第15号)

※右の「解説板」
ここは江戸より三十里

 江戸江    参拾里 四町 弐拾間
 宇都宮宿江  弐里弐拾八町

白澤宿 与利

 氏家宿江   壱里半
 喜連川宿江  参里 拾八町
 佐久山宿江  六里 拾弐町 参拾六間
 大田原宿江  八里 壱町  拾七間
 ・・・(中略)
 白河宿江   拾八里参拾四町 拾九間半 (69。6㎞)

 奥州道中白河宿より、宇都宮宿迄弐拾壱里余りを、膝栗毛によって踏破した記念にこの高札を掲げる。 

 平成参年(一九九一)拾壱月四日
   奥州街道白澤宿の会
   奥州街道膝栗毛の会
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宇都宮宿~白沢宿~氏家宿。その2。(「奥州街道」をゆく。その第1日目。)

2016-09-20 21:01:24 | 奥州街道
 (09:25)「幸橋」を渡ったとたん、前方にすばらしい景観が目の前に広がります。近代的ビル(ホテル)を借景にし、風格のある存在感を示す「旧篠原家住宅」。国の重要文化財に指定されています。

    
 篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦までは醤油醸造業・肥料商をを営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。市内の店蔵の中で、改造がほとんどせれておらず、かつ、石蔵を伴って残されているものは数少ない。
 住宅の一階部分の両側には、暑さ約8㎝の大谷石が貼ってあり、この店蔵の特色になっている。帳場の奥に約45㎝角のケヤキの大黒柱がある。これは二階の大広間(20畳敷き)の床柱を兼ね、さらに棟木まで延びており、建築的に大変珍しいものである。全体的には装飾性は少ないが、よい材料を贅沢に使っており、美しく豪華に造られている。なお石蔵3棟のうち最も古いものは、嘉永4年(1851)に建てられたものである。

    

 ここを左折して「県道125号線」を北東に進みます。「新幹線」の高架の手前で右への分岐がありますが、そのまま直進して「新幹線」の高架下を抜けます。この県道は、「白沢街道」と銘打たれています。

 両側には立派な門構えや大谷石を用いた蔵造りのあるお屋敷が続いています。(09:53)

    

    

「巨峰直売します」。 

 先達によると、沿道には「松並木」名残りの松が一本立っているとのことでしたが、県道の拡幅整備工事のためでしょうか、見当たりません。すでに切り倒されたようです。
 また、この付近には、「根来塚」「土堂原地蔵」といった「宇都宮藩」、「旧奥州街道」にまつわる史跡があるとのことでしたが、沿道には案内表示もなく、そのまま見過ごしてしまいました。この先の「旧奥州街道」。「一里塚」、「鬼怒川渡船場」跡など、近年の道路整備、沿道の住宅整備などで失われてしまったもの(ところ)が多いようです。先達の記録を参考にして歩き回りましたが、空振り! に。

 「白沢宿」内以外は、ほとんど案内表示も見当たらず、旧道歩きは迷いやすくなっています。

松の木があった(らしい)地点から振り返って望む。

しばらく進むと「地蔵前」というバス停。(10:25)
 この付近に「土堂原地蔵尊」があるのかと思って「栃木銀行」裏など探してみましたが、見当たりませんでした。はてさて?

 その先辺りから「海道」という名称が出てきます。

 「海道」という漢字は、文字通り「海」沿いの大道で、「東海道」はそれに当てはまりますが、「海」沿いではない、その他の大道も「・・・海道」と記していたようで、「五街道」が定まった後でも、「奥州街道(道中)」は、奥州「海道」と称しましたが、享保元年(1716)、江戸幕府は東海道以外は「海道」ではないとして、公式的には「奥州道中」となりました。しかし、「日光」や「甲州」と同じように「街道」と表記する(言う)こともあったようです。
 また、それまでと同様に「海道」と記すことや町名として「海道」と称した地もあったようです。(そういえば、日光道中・「小山宿」の先の道沿いの小さな公園の名が「海道公園」とありました。)

           (10:41)

 県道(「白沢街道」)を北上し、「下川俣町」交差点で「国道119線」の高架下をくぐると、周囲が開けてきます。
今にも降ってきそうな厚く黒い雲。

足元には「ツユクサ」。

 しばらくして「海道町」に入ります。

「おとり鮎」。鮎の友釣りのための? 後に「鬼怒川」を渡ったときに、たくさんの釣り人を見かけました。


 沿道には桜あるいは杉などの並木が現れはじめます。
       

ナシ狩り。

「海道小学校」案内板。

(10:58)「馬頭尊」。

「下野菓心庵 高林堂」付近の並木。車の通りも少なく、天気さえよければ快適な散歩道。
    

「海道端霊園」。

田園風景が広がります。すでに稲刈りも終わったところも。

道はゆるい上り坂にさしかかります。(11:24)「稚ヶ坂」バス停。

 約800年前の建久二年、伊沢家景が初代奥州惣奉行に任命され、妻子や家臣を連れ陸奥国へ向かったが、子の菊丸が発病し奥州街道「奥州道中」の稚児ヶ坂(現在の王子板紙㈱日光工場近く)で病状が悪化し亡くなった。街道脇に葬って供養されたが、里人はこれを哀れみ、誰言うことなく、この坂を稚ヶ坂と呼ぶようになった。
 今も面影を残す稚ヶ坂に沿う西側歩道には大木となった桜並木がある。悲話と共に満開の桜並木の景観は住民と通行者の心を癒してくれる、私たちのロマンチックポイントとして大切に保存していかなけばならない。
 (以上、「稚ヶ坂(ちがさか)第一自治会」HPより)

   桜並木。

坂の上、右手に稚児を祀った「地蔵堂」? 

(11:30)振り返って望む。

 坂上の左に広がる工場は「王子マテリア日光工場」。主に段ボール原紙を製造しています。

坂上から10分ほど進むと、「白沢宿」入口になります。
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宇都宮宿~白沢宿~氏家宿。その1。(「奥州街道」をゆく。その第1日目。)

2016-09-19 20:37:08 | 奥州街道
 雨続き。強い(余談ですが、台風で「強い」とか「弱い」とかは予想雨量や範囲の大小ではなく、風の強さで判断されるようです。まさに大風。)台風も週明けに近づくとの予報。「中山道」はいよいよ泊まりがけでないと無理な旅程、それも2泊3日(今度は、「下諏訪」までとなりそうだから)? ちょっとお休みして日帰りで行けるところ、ということで「奥州街道」(宇都宮~白河)を先にこなしてしまおうと。そこで、「五街道」歩きは、しばらく「奥州街道」を、ということで、その第1日目。

 9月16日(金)。曇り時々小雨。かなり蒸し暑い天気。
 「東武宇都宮」駅に降りたって、「日光道中」と「奥州街道(道中)」との分岐点(追分)へ。
ここが出発点(08:40)。
 「日光道中」はここを左折しますが、「奥州街道」はまっすぐ東へ向かいます。宇都宮一のメインストリートで道路も広く、宇都宮の繁華街。江戸時代当時の宿場町としての面影は見当たりません。

すぐ先の歩道の右手には「高札場跡」

「伝馬町」付近。通勤、通学時とあって、人も車もたくさん。

 「日光道中」との追分付近と「みずほ銀行」付近には二つの本陣があったということですが、その痕跡(案内板等)はありません。  


    
   「釜川」に架かる都(みやこ)橋。江戸時代は、太鼓橋で池上橋と呼ばれていたそうだ。

 「県庁前」バス停の先の交差点を右折します。渡ってすぐ、左手の奥まったところに「史蹟 行在所向明館」の碑(08:52)。
    

道の正面には「オリオン通り」というアーケード街。

 その道が旧奥州街道となります。左折して進みます。   
    
   オリオン通り。旧街道は宿場特有の枡形になっていて、右左折を繰り返します。(順に、右折・左折・左折・右折・左折)

 ここで、「宇都宮宿」について。
 日光街道および奥州街道の17番目の宿場。宇都宮城の城下町にあり、両街道の追分であったほか、国内各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
 宇都宮宿は、宇都宮城の城下町であり宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町でもあった宇都宮が、徳川家康の命により慶長7年(1602年)に伝馬・宿駅を命ぜられた。
 以来、宿場町となり人足25人と馬25頭の常備が義務付けられていた。一方で地子免許状が交付され土地税は免除となり負担軽減の措置が執られていた。
 元和3年(1617年)に徳川家康が日光山に祀られ、寛永13年(1636年)に徳川家光によって現在の東照社が日光に造営され、さらに正保2年(1647年)に朝廷より東照社に宮号が宣下され日光東照宮となると、日光街道は参詣道としての重要度も急速に高まり、文政期には日光街道を参勤する大名家は41家を数え、五街道では東海道の146家に次いで多いなど通行量が増大した。
 伝馬役は日光街道と奥州街道の追分である伝馬町、池上町界隈で受け持っており、宇都宮宿で最も栄え、多くの商家や問屋が店を構え、寛文10年(1670年)には本陣と脇本陣が置かれている。大黒町には木賃宿が設けられ一般旅客の宿泊所となっていたほか、挽路町や材木町には造り酒屋や遊郭などもあった。蓬莱町、大黒町、歌橋町などの界隈では七の付く日に市が立ち、たいへん賑わったと伝えられている。また、日光街道には2宿に貫目改所が設けられたが、ひとつは千住宿に、そしてもうひとつが宇都宮宿新石町に置かれていた。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、宇都宮宿は南北20町(約2.2km)、東西18町58間(約2.1km)の規模で、本陣は2軒、脇本陣は1軒設けられ、旅籠が42軒あった。宿内の家数は1219軒、人口は6,457人であった。
 門前・寺社を含めた宇都宮城下では、天保15年(1844年)の記録によると、家数1,693件、人口15,500人であり、江戸初期には32町であったのが、後期には48町まで増えている。本陣は日光道中と奥州道中の追分に当たる伝馬町および池上町に1軒ずつ、脇本陣は伝馬町に1軒、それぞれ所在した。
                                            (以上、「Wikipedia」参照)

「オリオン通り」から「日野通り」に入ります。

「日野町」。
 慶長3年(1588)、蒲生秀行が宇都宮城主になったとき、蒲生氏の出身地である近江国日野(現・滋賀県蒲生郡日野町)の商人を東勝寺の跡地に住まわせたのが、町名の起こりといわれています。この町は奥州街道に面し、荒物屋・呉服屋・小間物屋などが軒を並べていました。 

 左側に二荒山神社参道があります。二荒山神社は延喜式内社で、下野国一宮で、宇都宮の語源となった神社です(いわれにはいくつか説あり)。

 「日野通り」の突き当たりを左折し、すぐ右折して「大町通り」に入ります。
    

(09:10)右手に「おしどり塚」への案内碑。

 奥には公園があります。
    

 おしどり塚は鎌倉時代に無住法師の「沙石集 」によって紹介された旧跡地であり、次のような話が伝えられている。
 鎌倉時代のころ、この付近を流れていた求食川(あさりがわ)で猟師が一羽の雄のおしどりを射とめ、その首を切り、身体だけを持ち帰った。
 翌日、同じ場所でうずくまっている雌のおしどりを射ると、その翼の下には昨日のおしどりの首がしっかりと抱きかかえられていた。
 猟師は鳥のもつ愛情に深く心を打たれ、今までの殺生を悔い、石塔を建てて供養したという。

 「大町通り」の突き当たりを左折して「幸橋」へ向かいます。
(09:15)「大町通り」を振り返って望む。 

「幸橋」の手前には、「橋爪氏の墓」という解説板。
 それによると、お堂の中の二つの五輪塔は源頼朝が奥州の藤原氏を攻めたとき、祈願成就の御礼の生け贄として橋爪俊衡と弟秀衡の墓と伝えられているとのこと。

 「田川」に架かる幸橋を渡ります。「幸橋」は、宇都宮宿の出口に当たります。
    

 いくつかのレリーフがあり、かつての様子がうかがわれます。
    
        幸橋遠景。                           夕涼み風景。

 「幸橋」を過ぎると、旧道は次の宿場「白沢宿」へ向かいます。
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読書「弱さの思想 たそがれを抱きしめる」(高橋源一郎+辻信一)大月書店

2016-09-16 21:44:06 | 読書無限
 平日の毎朝、8時ちょっと過ぎ。障がい児と母親(たぶん)が特別支援学校に向かうバスを待っている。小学生中学年ほどの体格の男の子を見守りながら、時には笑顔で話しかけ、時には疲れた顔をしてたたずんでいる。時々、障がいを持った、低学年らしい女の子とお母さん(おそらく)がそこに並んでいる。母親は、ほとんど一人で歩けない、かといって車いすというほどではない女の子を抱えながら、待っている。
 母親同士で会話をしていることもあるし、互いに無言のこともある(こちらが通り過ぎる間のことだけかもしれないが)。男の子の方は毎日見かけるが、女の子の方はそうでもない。雨の日は休みがちなのかもしれない、このところの雨続き(時には強い雨)でちょっと姿を見せないこともある。
 毎日、その4人(時には2人)の姿を見ながら通り過ぎる。

 このあいだ、神奈川の障がい者施設でおおぜいの障がい者が殺害された。犯人の青年は、障がい者への憎悪と執念で、かつてナチスが正当化した「障がい(かれにとっては、文字通り「害」)者」抹殺を現代の日本に蘇らせた。

 今、ブラジル・リオでは「パラリンピック」が行われ、これまで以上に、マスコミは日本人の活躍ぶり(メダルを取った選手にはことさら)を取り上げている。4年後の東京オリンピックを意識してなのだろう。その多くは、美談仕立てで。
 厳しい障がいを持ちながらも、周囲の献身的な協力のもと、自らの最大限の可能性(身体・運動能力)を必死に追求し、活躍する選手たちの姿は多くの感動を与えている。障がい者への差別意識を克服しつつ、より深い理解、支援も進むことになるのは間違いない。
 一方で、そうした華々しい活躍の蔭で、名も無く生きていく障がい者とそれを支える肉親、家族、教員、スタッフ、さらに支援者たちの努力、悩み、楽しみ、その複雑な思いにどこまで心を馳せることが出来るのか。パラリンピックの報道が、今の(これからの)日本の障がい者の実態(障がい者に関わる人々の現状)につながっていくのだろうか。
 障がい者の多くが警察やマスコミによって(家族からの要望もあったからのようだが)匿名(記号)のままに生命を絶たれたことへの思いもまた、・・・。

 「障がい者」=「弱者」、「老人」=「弱者」、「病人」=「弱者」。それ故、健常者=「強者」は「弱者」に対してあたたかい手をさしのべよう、支援策を充実させよう、地域から、みんなで、と声高に・・・。その内実はいかがであろうか? 

 この書は、明治学院大国際学部で2010年から2013年にかかて行われた、作家・評論家の高橋源一郎さんと文化人類学者でナマケモノ倶楽部世話人の辻信一さんとの共同研究「弱さの研究」がもととなった対談集。2014年発刊。 
 構成は、

 第1章 ぼくたちが「弱さ」に行きつくまで
 第2章 ポスト3・11~「弱さ」のフィールドワーク
 第3章 弱さの思想を育てよう

 の3章からから成り立っている。 

 特に第2章で取り上げられた「フィールドワーク」とそこから得た考察が興味深い。

①反原発の島、祝島(岡山)
②子どもホスピス(イギリス)
③精神病院が真ん中にある町(オランダ)
④アトリエ エレマン・ブレザン(志摩半島)
⑤宅老所「井戸端げんき」(木更津)
⑥生活介護事業所「でら~と」「らぽ~と」(富士)
⑦きのくにこどもの村学園(和歌山)
⑧山伏修行(羽黒山)

 そこでは、死に向かうこと、死を看取ること、年老いていくこと、精神や知的、身体的障がいがあることなどが即、「弱さ」=「敗北」「敗け」ではないということを身体の奥で味わい、実感したことを、深い経験をもとに「考察」する。知的営為も、所詮、身体知に及ばないことをも。
 
 特に、辻さんの『変革は弱いところ、小さいところ、遠いところから』というタイトルの本の中で、北海道浦河にある「ベテルの家」という精神障がい者たちを中心とするコミュニティーとの出会いがきっかけとなったこと、また高橋さんの身体的な衰え(死への思い)、学生運動などを通してのこれまでの人生、子育ての中でつかんだこと(つかまされたこと)などを背景に、二人の共同研究として「弱さの研究」を始めたきっかけから、その後の取り組みをもとにしての真摯な語り合いになっていく。
 その過程を(フィールドワークを)通して、世間的には「弱者」としてひとくくりにされてしまう人々や関わり合っている人々との対話、現実の中から学ぶ(学びほぐす)ことの大事さを伝えている。

 「負ける」の対義語は「負けない」だが、「負けない」と対になるのは「勝つ」ではなく、「勝たない」ということになるのだ、とも。
 小学校から勝った、負けたという競争社会。勝ちが50%で負けが50%ではない、勝者は1人(せいぜい3位まで)残りは、すべて「負け」。こういう経済至上主義、能力・能率至上主義の世の中で、実は、誰もが経済的、肉体的、精神的敗者(弱者)になる可能性がある。では「弱者」=「負け」なのか。そうではなく「負けない」「勝たない」こと。
 そこから、「弱者」に対して「強者」として対応するのではなく、むしろ「弱者」から気づかされる、まなび直すという価値観が生まれ、人間相互の関わり合いがこれからは大事なのではないか、と。そこに新しい人間としての価値、社会的価値が生じてくる、と。そうした生き方をさまざまな体験、事象、活動、見聞の中から試行錯誤しつつ獲得していくことの大切さを訴えている。

 副題の「たそがれを抱きしめる」という一種、情緒的な表現。「たそ」「かれ」どき、夕暮れ。自己と他者、お互いに顔の識別がつかない暗さ。しかし、すぐに、もっととっぷりと暮れ、彼我が闇に包まれ、「たそ」「かれ」ともに真っ暗になってしまう。その瞬間のあわいに、真の人間同士の一瞬のつながりがあること、そこを見つめ、とらえ直す(「抱きしめる」)。そんなきっかけにもなる書。 
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読書「デモクラシーは仁義である」(岡田憲治)角川新書

2016-09-14 21:32:01 | 読書無限
 このところ、全国的な秋雨前線、台風の余波で、東京地方も雨続き、ときにはバケツをひっくり返したような豪雨も。北海道や岩手では台風によって大きな被害を受け、ままならぬ様相。
 「中山道」歩きも出来ず、「奥州街道(宇都宮~白河)」にも行けず、・・・。読書三昧の日々、といっては、今も悪戦苦闘を余儀なくされている災害地の方々に申し訳ないが。

 今回は、ちょっと矛先を変えて。

 ところで、「仁義」とは? 

 「仁」、「義」は儒教(創始者:孔子、孟子)でいうところの五常(仁、義、礼、智、信)の徳性の二つ。
 なかでも「仁」は最も最高の徳目。『論語』では、さまざまな説明がなされているが、「己れの欲せざるところ、これを人に施すなかれ」がよく知られている。すなわち、「仁」とは、思いやりの心。
 もともと「仁(ジン)」という漢字は、イ(人・にんべん))と二(に)から成り立っていて、「二人の人間が信頼し合う。隣人愛。思いやり」等の原義がある。

 一方、義とは正しい筋道に則り、利欲にとらわれず、なすべきことをすること。
 この「義」という漢字は、「羊」と「我」から成り立っている。「戈」という字は「矛」と同じで、武器として用いられる《ホコ》を表す象形文字。これに、ギザギザした刃を付けた象形文字が「我」の原義。
 上に付く「羊」という字は、《ヒツジ》を正面から見た様子で、動物を表す漢字では、唯一、完全な左右対称(シンメトリー)になっていて、美しいものをも意味する。(ちなみに、「羊」+「大」で、「美」という漢字になる)。
 「義」は、「羊」《美しい》と「我」(ぎざぎさで形状が整っている刃)の字義が統合されて、「きちんとしていて、傍目から見て美しい」ということから、正しい筋道というのが、漢字の原義。
 このことから、「人として当然のこと。人道的に筋道が通って理に適っている」という意味となった。
 「仁」「義」は本来、儒教道徳で最も重んじられる根本理念なわけです。

 この「仁」と「義」とが合わさり、「仁義」という一語になると、「仁義なき戦い」などでおなじみのやくざの世界での「仁義」になる。
 そして、それには二つの意味があるようだ。
 その一つは、彼ら特有の倫理観に基づいた、「ヤクザとして踏み行うべき道」、「ヤクザ社会における義理、人情」のこと。
 もう一つは、初対面の挨拶として行う特定の儀礼様式のことで、「仁義をきる」というもの。面識のない相手方に対し、独特の言い廻しで先ず自己の姓名所属団体等を披瀝した上、用向きを述べるしぐさ。
 
 はたしてこの筆者は、どういう根拠で「デモクラシーは仁義である」と啖呵を切ったのか、あるいは、幾分、後ろめたさも加わって話しかけてきたのか。それは読んでのお楽しみ。
 しかし、やくざ世界でも今や仁義が廃れ(たらしい)、かたぎの世界でもすでに「仁」「義」が地に墜ちて、幾ばくぞ。
 政治の貧困、無知蒙昧。ただ小学校の学級会で学んだ「多数決」を金科玉条の如く「民主主義」とは「多数決」と我が物顔で己の我を通して快哉と叫ぶ御仁たちに任せる「代議制」とははたして何であるのか。結果、「デモクラシー」はもう死語になってしまったのか。

 が、政治の世界にすでに「仁」「義」はとっくに廃れてしまっているのをただただ嘆くだけでいいのか、冷やかかなまなざしで見てていいのか。

 手垢にまみれた「デモクラシー」でも、「暮らし」を営む国民への一抹の淡い期待を持って。
 足許を昏くする何者かに対して、そして自分自身の足許のおぼつかなさの正体、そこへの筆者の忸怩たる思いが、読者に対してこんなやり方で「仁義」を切ったのだろうか。
 
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読書「幽霊 近世都市が生み出した化物」(髙岡弘幸)吉川弘文館

2016-09-09 19:13:15 | 読書無限
 夏休み期間中に両国・「江戸博」で開催されていた『大妖怪展』。つい行きそびれてしまったので。無論、「幽霊」と「妖怪」とは異質なもの。そのあたりを。

 ところで、小池さんの『たまもの』。その「たま」は、人魂(ひとだま)というように「魂」、「霊魂」も意味しています。また、「もの」も「物の怪(もののけ)」というように、化け「物」を意味することも。すると、小池さんの小説『たまもの』の「たまもの」は、「霊魂」や「物の怪」を指していたのか、とも。ま、そんな雰囲気はありませんでしたが。

 この書は、「歴史文化ライブラリー」の一つ。この叢書は民俗学、文化人類学、考古学、近世史など、歴史・文化にちなんだ話題を一般の人にもわかりやすく、かつ、学術的に追求したシリーズです。「吉川弘文堂」らしい企画物。

 「幽霊」の正体とは何か。いつ、いかに生まれ、さらに可視化されてゆく(目撃される、描かれる)ことで、世にも怖い存在(畏怖の対象)になっていったのか。そして、現代になり、現世と来世、死者と生者とが断絶する中で、かつて怖い存在だった幽霊がすっかり現代の人々の目には見えなくなってしまった(怖れの対象ではなくなった)のか。

 筆者は、近世以前の「鬼」「化物」とは異なって、はからずもこの世を去らざるを得なくなった(死んだ、殺された、非業の死を遂げた)死者が、その恨み、悲しみ、執着などによって、再び生者の世界にさまよい出て「幽霊」として可視化されていく過程、それは近世社会になり、次第に都市化(ムラからマチへ)していく中で、強固な武士社会の確立(身分制度)、家制度(家父長制)の徹底、さらに貨幣経済の進展などがその根底・基盤にあったことを丁寧にひもときながら、「幽霊」の本質に迫っていきます。
 古今の文献的な史料にのみ依拠するのではなく、柳田国男などの先人の手による民俗学の成果の上に立って、実証的に迫っていきます。「幽霊」への迫り方は謎解きのような切り口で、とても精緻で、巧妙です。

 日本人は「喜び」や「悲しみ」「怒り」といったさまざまな感慨を、幽霊すなわち死者に託して表現してきた。だからこそ、私たちは、幽霊が沈黙し、姿さえ無くしてしまったことの意味を深く考えなければならないのである。幽霊は、いつ、再び姿を現わし、かそけき声ではあるが、何かを語るようになるのだろうか。それは、私たち「生者」がどのように社会と向きあうかによって決まるのである。(P234)

 近年の、阪神淡路大震災、東日本大震災などの相次ぐ自然災害や子殺し、親殺し、障害者殺人などの凶悪犯罪が頻発する中で、多くの人々の非業の死が度重なる。そうした状況の中から、新たな「幽霊」が登場することもありうることでしょう。
 一方で、たとえそうなったとしても、目撃される「幽霊」の正体、現象がたんなる「都市伝説」として葬り去られるとしたら、今、この世に生きている、私たち自身の「生」に対する実感の希薄さとも重なるのではないでしょうか。また、社会に対する感性の鈍化につながっているのではないでしょうか。

表紙の絵は(伝)円山応挙「幽霊図」。

「ニッポンの妖怪文化」(《ユリイカ》7月号)

 こちらこそ、「江戸博」の企画に合わせた特集。多士済々、多岐に亘って「妖怪」を俎上にのせています。水木しげるの世界、「妖怪ウオッチ」の世界まで、漫画文化から春画まで、サブカルチャーとしての括りを批判的に乗り越えて、ニッポンの文化にとっての「妖怪」の世界に迫っていきます。

 2冊が期せずして「妖怪」「化物」「幽霊」のそれぞれの位置づけと関わりについて探求する、興味深いものでした。

 すでに「江戸博」での特別展も終わり、「谷中・全生庵」での円朝ゆかりの幽霊画の公開も終了しました。

 そうそう、ずいぶん前に(いつごろだったか)TVを見てたら、そのときにスタジオに掲げられていた絵の幽霊の目が動いたのをしっかり見たことがありました。
 その衝撃は今でもはっきり覚えています。けっして都市伝説の類いではありません。いつ頃、どのチャンネルのどういう番組かは忘れてしまいましたが。 
  
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読書「たまもの」(小池昌代)講談社。

2016-09-05 22:18:11 | 読書無限
 久々に小池さんの作品。

 「たま(もの)」にまつわるお話、「たま」尽くし、と言ってはかなり誤解が出てきそうですが。

 「わたし」が40歳になった頃、幼なじみの男から一歳にもならない、「山尾」という名の男の子を預かり、育てていく物語。「山尾」という名は、百人一首の「あしびきの 山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ」から採ったと聞かされます。預かった、独り身の「わたし」には、おそらく「ながながし夜をひとりかもねむ」にも彼女なりの思いが込められているのでしょう、「杉本氏」「先生」などとの行き会い、別れた、その深い経験・思いともオーバーラップさせながら。

 このお話には、たしかに「たま」(あるいは玉状のもの)がしばしば登場します。
 「臭玉」(口臭の原因ともなっている存在を初めて知りました! )、「南京玉すだれ」、「ちんちんの左右のたま」、「紅玉」(リンゴの種類)、そして「卵落としコンテスト」(大学で行われた、卵を落としても割れない包装工夫コンテスト)、・・・。

 預けていった男は半年後には音信不通になってしまっていました。その「山尾」も小学6年生。いつまで一緒にいられるのか、一緒にいたらいいのか、そんな心配、不安もよぎります。

 そんな矢先。雪の降る中、「山尾」は3時間も行方が分からなくなる。

 挿話として「蒼い箱」(人の訴えを聴くだけの仕事。あなたは話すより聴くほうがうまい、と頼み込まれての仕事)での内容が(女性からの性の悩み・・・)織り込まれていますが、あまりにもありきたりで通俗的すぎて、印象はあまりよくありません。ただ「聞く」のではなく「聴く」(耳をそばだててきく)という働きは、感性を大事にする「わたし」に生来、備わっているものなのでしょう。

 別れ際の「先生」の言葉。

 ・・・あなたはぼくの話をいつも格別の熱心さで聞いてくれた。しかしこのあいだは少し違った。あなたはぼくの危機を感じとってくれたのでしょう。なぜ、わかったのでしょうねぇ。それで思った。あなたという人は、聴く人なんだってね。つまり受信機。発信器ではなく。そういう人がこの世にはいる。目立たないが、ひっそりいる。裏道のつき草のように。(P157)

 ここに登場する「つき草」は「ツユクサ(露草)」のこと。畑の隅や道端で見かけることが多い草花。
 朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから「露草」と名付けられたという説があります。英名の Dayflower も「その日のうちにしぼむ花」という意味を持っています。
 古くは「つきくさ」とも呼ばれていました。「つきくさ」は月草とも着草とも表され、花弁の青い色が「着」きやすいことから「着き草」と呼ばれていたものと言われていますが、『万葉集』などの和歌集では「月草」と表記されることが多いようです。
 花の青い色素はアントシアニン系の化合物で、着いても容易に退色するという性質を持ち、この性質を利用して、染め物の下絵を描くための絵具として用いられました。
 『万葉集』には月草(つきくさ)を詠ったものが9首存在し、古くから日本人に親しまれていた花の一つ。
 朝咲いた花が昼しぼむことから、はかなさの象徴として詠まれたものも。

・つき草のうつろいやすく思へかも我(あ)が思(も)ふ人の言(こと)も告げ来(こ)ぬ(巻4 583)
・つき草に衣(ころも)ぞ染(し)むる君がためしみ色(或 まだらの)ごろもすらむと思(も)ひて(巻7 1255)
・つき草に衣(ころも)色どりすらめどもうつろふ色と言うが苦しさ(巻7 1339)
・つき草に衣(ころも)はすらむ朝露にぬれての後はうつろひぬとも(巻7 1351)
・朝露に咲きすさびたるつき草の日くたつ(或 日たくる)なへに消(け)ぬべく思ほゆ(巻10 2281)
・朝(あした)咲き夕(ゆうべ)は消(け)ぬるつき草の消(け)ぬべき戀(こひ)も吾(あれ)はするかも(巻10 2291)
・つき草の假(か)れる命にある人を(或 假なる命なる人を)いかに知りてか後もあはむといふ(或 あはむとふ)(巻11 2756)
・うち日さす宮にはあれどつき草の移ろふ心わが思はなくに(巻12 3058)
・百(もも)に千(ち)に人はいふともつき草の移ろふこころ吾(われ)持ためやも(巻12 3059)

 俳句においては、露草、月草、蛍草などの名で、秋の季語とされます。
(以上、写真を含め、「Wikipedia」参照。)

 さて、そんな「わたし」にとっての「たまもの」とは何なのだろう。受け身ではなく、聴く耳を持つ(といわれた)自分にとって、それは「山尾」か、それとも、・・・。 

 それぞれの人生における「たまもの(賜物)」にはどういうものがあるでしょうか、あったでしょうか。
 生きとし生ける者(同士)のなりわい。様々な出会いと別れの中で味わってきた「たまもの」を大事にする、また、他者にとっての「たまもの」になりうる、そんな人生を送りたいものです。たとえその多くが「玉」石混淆だったとしても。

 ささやかなことを大事に大事に歌う。(P11)

 こうしたさりげないフレーズが随所にちりばめられています。
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のーこめんと、とは実に意味が深い。(じじばばがゆく。)

2016-09-02 22:30:19 | じじばばがゆく
 どうなるかと思ったが、何とか間に合った! 台風一過って感じだが、・・・東北や北海道は大変になるそうだ。

 たしかに一昨日あたりの予報では、直撃のような雰囲気だったがね。ま、よかった。

 いい景色だな、さすが高い所だけのことはあるね。スカイ・ツリーが目の前に見えるし、こっちは見飽きてるがね。

 まずは乾杯といくか。へえ、けっこうな値段だな、景観料込みという感じかな。

 今日はそちらさんのおごりだろ。そうじゃない、割り勘だって、ま、仕方がないか。

 こっちは利き酒セットにしよう。それにこれがいいや、稲庭うどん付きのやつ。

 二人でくればいいじゃない、わざわざ俺を呼び出さなくてもさ。わけがあるって。それはお二人の勝手なご都合でしょうが。

 この間までアメリカの青年がHomestayで来ててさ、こっちは丸っきり英語がダメ、青年は、日本語がおぼつかない。そんなお互いでも何となく交流ができるんだから不思議だよね。BeerとEdamameが取り持ち役だったんだけど。

 でも、長い付き合いだよな、お二人とも。もう50年くらい、いや、もっと長いか。そう、半世紀か、半世紀。

 ま、お互い、結婚から子育てと長い中断はあったけど・・・。

 そろそろ「終活」でも考えないと、お互いに。そんな年齢ですか、寂しいけどね。

 それで何だっていうの、今日は? お二人の間で複雑な問題でも抱えているって、そういうことでもないだろう。

 そういえば、この前の例会に来なかったですね。ハワイに行くとか何とかで。 

 お互い、所帯を持って、もう子どもも自立しているだろ、まだ一人娘が残っているって、それはそれは。で、30過ぎか。

 ま、それはそれでいいんじゃないの。傍がやきもきしたってどうなるのではないさ。

 こっちだって、出戻りの息子がいるし、もうじき40だよ、40。娘じゃなくて息子だよ、息子。

 娘さんばかりというのも大変だけど、すでに立派に所帯を持ってるのは、一番!

 へえ、お姑さんともうまくやっているのか、それはけっこう、けっこう。

 そちらは最近施設に入っているって聞いたけど、お母さんの方さ、あなたの筈はないでしょ。

 そうか、積年の恨み辛みが溜まっているということか。みんな、義母や本当の娘達が自分抜きで事を進めているって、それはそれでいいんじゃないの。何でも知っていなくちゃ、って考えることはないさ。

 そう思うでしょ、あなたも。

 ノーコメントですか、よく意味が分からない。

 それで言いたいことが一杯あるって、それは棺桶にまでしまっておくものさ。ま、話は聞くけどさ。

・・・

 そうか、40年か。こんな年になってまでも、まだまだわだかまりっていうか、こだわりがね。俺ならポンポン言っちゃうね、はっきりと。しまっておくことないって。

 それで夫婦間に深い溝が出来たらどうしようかって、そん時はそん時よ。さざ波が津波になったらおおごとだけど。

 お隣さんはさっきから黙々と御食事をお召し上がりのようですが、何かご意見でも。

 ノーコメントってそれはないでしょ、それはないと思いますよ。もうちょっと親身に。いや、失礼しました。

 あれ、話している間にうどんが固まって、稲庭じゃなくて裏庭になっちゃた。よく意味が分からないって。

 分からなけりゃ分からないでいいの。

 ところでさ、前々から気になっていたんだけどさ、お二人はどういう付き合い方をしているの? 

 人から聞いたんだけど、ほらあなたたちも知っているあの方から。

 映画に行ったり、お芝居を見に行ったりしているとか。お互い、相手には話しているの、出かけることを。

 ま、心配はしてないだろうけれど。ねえ?

 ノーコメントって、そうか、たしかにウマが合うのはいいことだけどね。ときには姉的存在、ときには妹的存在って、言い方がうまいね。

 旦那と奥さんと一緒に行かないの? 出不精っていったって。そっちは、旦那とは?
 
 ノーコメントって。意味があるんだか、ないんだか、・・・。 

 ま、あんまり深い意味にとらえちゃいけないかな。でも、仲良きことは善きことかな、って武者小路実篤かな、にんじんの絵かなんかに添えてあるの、違ったか。

 でも、白樺派っていうのは嫌いでね、あの脳天気振りがさ、有島は別だけど。反対から読むとバカラシ、って。

 でも、終活の一つにっていうのも「あり」かな、こういうのもな。今生の最後を迎えるに当たっては。

 何でも話し合える間柄っていいよな。夫婦だってホントの話はしずらいし・・・。

・・・

 あるがまま、つくろわず、飾らず、素直に、って難しいけど、いいよなあ。

 筑波山があそこだよ、あっちは日光の山だな。雨のち晴か。ほら、見なよ、西の空に虹が二重にかかっている。へえ、珍しいな。

 反対は駅側ですね。電車がおもちゃみたいに見える。あれは、東京タワー。あっちの方が断然いいね、雰囲気は。 

 ま、またゆっくりお会いしましょう。6日間連続で働いていたし、早く家に帰らないとね。 

 俺はなかなかそういう機会も出会う人もいないしね。お互いに不思議な縁かも。

 いい話を聞かせてもらったって、何にもためにならんわ、俺の言うことなんか。うらやましいって思うって。


 古稀とは思えない、まだまだ心も体も若い(若作りの、若いつもりの)「三人会」も愉しい。

 不思議なお二人の関係にも、乾杯! 三人の関係にも、やっぱり乾杯!
 

 8月末日。大雨のあと、午後の錦糸町にて。 

 これからどうするって? どうなったか? って。Beerを二杯飲んで・・・。

 その件に関しては、のーこめんとですな。

          (「簾」HPより)
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