明治28(1895)年 和歌山・岐阜・愛知から179戸が「屯田兵」の募集に応じて、入植したのが、現在の愛別町の始まりという。そのうち、愛知県東春日井。そこからの入植者の子孫と知り合いになり、この間、旭川に出かけたときにその愛別まで車に乗せて貰った。 今でこそ、東旭川、永山、当麻は、見渡す限りの水田地帯が広がっている。さらにその奥に愛別がある。石狩川とその支流が流れる山間の土地。まだまだ周囲の山には雪が残り、庭先にはかき寄せられた雪がうずたかく積まれて残っていた。
開墾当時の様子は、クマザサや立木の広がる人跡未踏の原野。そこを開墾していったという。近所のお寺には、当時の方々の墓石が残っていて、墓石には労苦の跡が記されていた。そのお寺は平成10(1998)年に創建100周年を迎えたという。入植してまもなく、その方々の願いによって、菩提寺が建立されたことになる。
都会にあるようなお寺とは違って、田んぼの中に建っている。敷地を区切る塀もなく、墓地の仕切りは、畦道という感じ。周りを水田や畑に囲まれた広々とした敷地に立派な本堂があった。
すぐそばを鉄道が通り、その向こうは石狩川。今は車の時代。当時はどれほど出かけるにも難儀しただろうかと思いやる。今でも買い物も街中までけっこうな距離。車でまとめ買いをしてくるしかない。キノコの栽培農家が多いとのこと。シメジ、なめたけ・・・。
けれども、維持・経営はなかなか大変らしい。
夕方の風も冷たくなってお家を辞した。帰りは石狩川沿いの国道。川筋を離れると、一気に西に向かって一直線の道路がどこまでも続く。そして、旭川の街に戻った。
飛行機までの時間、町はずれの食事どころで、「男山」をしこたま飲んだ。そのおかげで、帰りの飛行機はぐっすり寝て、気がついたら羽田だった。
雪解けで流れが速い。川でおぼれると遺体が上がってこないという。
ここにもフキノトウ。
橋の左の方が、町の中心部。
開墾当時の様子は、クマザサや立木の広がる人跡未踏の原野。そこを開墾していったという。近所のお寺には、当時の方々の墓石が残っていて、墓石には労苦の跡が記されていた。そのお寺は平成10(1998)年に創建100周年を迎えたという。入植してまもなく、その方々の願いによって、菩提寺が建立されたことになる。
都会にあるようなお寺とは違って、田んぼの中に建っている。敷地を区切る塀もなく、墓地の仕切りは、畦道という感じ。周りを水田や畑に囲まれた広々とした敷地に立派な本堂があった。
すぐそばを鉄道が通り、その向こうは石狩川。今は車の時代。当時はどれほど出かけるにも難儀しただろうかと思いやる。今でも買い物も街中までけっこうな距離。車でまとめ買いをしてくるしかない。キノコの栽培農家が多いとのこと。シメジ、なめたけ・・・。
けれども、維持・経営はなかなか大変らしい。
夕方の風も冷たくなってお家を辞した。帰りは石狩川沿いの国道。川筋を離れると、一気に西に向かって一直線の道路がどこまでも続く。そして、旭川の街に戻った。
飛行機までの時間、町はずれの食事どころで、「男山」をしこたま飲んだ。そのおかげで、帰りの飛行機はぐっすり寝て、気がついたら羽田だった。


