おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR熊谷駅~本庄駅。その6。牛舎。上毛三山。本庄一中・高。養蚕農家。(「利根川を歩く」4回目。)

2021-10-31 19:03:36 | 利根川を歩く

                   

さて、再開。本庄駅まで歩きます。利根川土手からはけっこうありますが。

再び埼玉県入り(本庄市)。

土手下に牛舎。乳牛のようですが。

児玉地域には、約40戸の酪農家があり、約2,000頭の乳牛が飼育されています。乳牛は、栄養豊富な飼料とうもろこし、牧草、配合飼料等をたくさん食べて、酪農家の適切な飼養管理により高品質生乳が生産されています。(「埼玉県」HPより)

「179.0㎞」ポスト。浅間山が遠くに。右が「榛名山」。

榛名山。

          

ここで、上毛三山(じょうもう さんざん)について

群馬県にある山、赤城山(あかぎやま)・榛名山(はるなさん)・妙義山(みょうぎさん)の総称である。このうち、火山である赤城山と榛名山は、いずれも那須火山帯に属している。 市街地からでも山並みがよく見えることもあり、群馬県民にはとても親しまれている。群馬県内の中学校・高校の校歌にこの語句が含まれていることが多く、群馬県の郷土かるたである上毛かるたにも、これらの山について詠まれた歌がある。群馬県で北を見て、中央の榛名山が一番若い山で、右(東)の赤城山が次に侵食が進んだ山で、左(西)の妙義山が一番侵食が進んだ山である、という説明がよく行われる。

西「妙義山」。中央「榛名山」。東「赤城山」。

・毎年1月1日に群馬県を舞台に行われる全日本実業団対抗駅伝大会(ニューイヤー駅伝)は、上毛三山のそれぞれを見ながら走る100kmのコースとなっている。

・群馬県内の小学校では、運動会のときの組分けを、この上毛三山の名前を用いて「赤城団」「榛名団」「妙義団」の3組とし、対抗させる例が多数存在する(地域によって異なり、また人数が少ないと紅組、白組とする場合もある。逆に人数が多い場合は、同じく有名な山である浅間山を追加して「浅間団」としたり、白根山を追加して「白根団」としたりすることもある)。 川の名前を用いて、「利根団」「碓氷団」「烏団」の場合もある。

上毛かるた大会では、団体戦に限り「す」「も」「の」は『三山札』という役札となり、全部取ると10点が加算される

※「す」→「裾野は長し赤城山」、「も」→「紅葉(もみじ)に映える妙義山」、「の」→「登る榛名のキャンプ村」

上毛新聞のコラム「三山春秋(みやましゅんじゅう)」は、上毛三山にちなんで名づけられたものである。

(この項、「Wikipedia」参照。写真含む。)

これら上毛三山に加えて、浅間山、奥秩父の山々、と見飽きません。

振り返る。

        こちらは山が見えない。栗橋付近では「筑波山」が見えましたが。

「本庄第一高校・中学校」が見えてきます。

中学と高校の間を抜けて、本庄駅方向へ。バスの便がありませんので。

赤城山。今回の見納め。

               急な階段を下りて。

                 

のどかな田園風景。

養蚕農家の名残り。

蚕は、群馬の農村経済を支える柱でした。「身上(家財、財産)をつくるのもつぶすのも蚕」といい、座敷を蚕室とし、「身上がけ」「命がけ」で蚕を飼いました。それだけに、人々は蚕を大切に「オカイコ」「オカイコサマ」「オコ(蚕)サマ」と尊称で呼ぶのが普通でした。そんな養蚕は、群馬の民家構造にも大きな影響を与えました。
 富士見村原之郷や渋川市赤城町勝保沢、片品村針山では、掃き立ててから2階で飼育し、下の炉で松などの太い薪を燃やして煙を立てる「いぶし飼い」を行っていました。天井の板はすき間を開けて、暖かい空気が上昇するように、2階はまわりに障子をめぐらし、床にむしろをひきました。
 大正から昭和にかけて、稚蚕期に蚕室を目張りして、養蚕火鉢などで保温する密閉育になると、稚蚕期は下の座敷で飼い、大きくなったら2階も含め家全体を使って飼うようになります。一般に、養蚕農家の二階は、蚕室として活用できるように、仕切が無く広々としています。さらに、2階への採光や、壮蚕期に必要な空気の流れを良くするため、さまざまな民家構造が考え出されていきました。
 北部山間部にある、茅葺き屋根の妻を切り落とした民家。赤城南麓に分布する、茅葺き屋根の前面ヒラの一部を切り落とした赤城型民家。あるいは、榛名山麓のやはり前面のヒラを切り落としてそこに庇(ひさし)をつけた榛名型民家。屋根の棟の上に、換気のために建てられた高窓(ヤグラ。ウダツとも言う。)も養蚕農家の特徴です。

この項、「心にグッグと群馬県」HPより)              

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JR熊谷駅~本庄駅。その5。伊勢崎市境島村。島村渡船。島村蚕のふるさと公園。養蚕業。(「利根川を歩く」4回目。)

2021-10-29 20:20:49 | 利根川を歩く

「176.0㎞」ポスト。

なぜ、利根川の右岸、埼玉県側に入りこむように「群馬県伊勢崎市」があるのでしょうか? 

かつて蛇行していた「利根川」の流れに沿って、県境があるためです。

2010年代のようす。境島村の飛び地のようにあります。かつては地続きの土地でした。

1880年代のようす。旧利根川のようす。流れが幾本かに分かれ蛇行している。北が「上野国」南が「武蔵国」。

(「歴史的農業環境システム」より)

対岸の伊勢崎市街地。

      

群馬県内を歩く。

河岸に何やら標識が。「渡船場案内」のようです。

                 「島村渡船」。

島村渡船は、利根川により南北に分かれた境島村を結ぶ9人乗り(内1名は渡船夫)の渡し船であり、伊勢崎市道(境)6-603号線の一部です。江戸時代中期頃から始まったと伝えられており、昭和26年4月1日に群馬県に移管、平成24年4月1日から伊勢崎市に移管され、管理運行を行っています。水位の変動や天候により運休になることもありますのでご了承ください。

                  

※令和元年10月の台風19号による大雨の影響で、船着き場や航路が被害を受け境島村渡船は現在運行を行えない状況にあることから、令和3年度は運休としますのでお知らせします。

(この項、「」HPより)

伊勢崎市境島村は、河川改修などによる流路変更によって地内の真ん中を利根川が貫流しており、付近に橋がないことから住民の交通の便のために運航されている。運賃は無料である。自転車も荷物として持ち込める。

使用されている船は川舟タイプの船で、エンジンも装備されており基本的にはエンジンを使って進むが、船着場付近ではを使用する。付近は河川敷が広く、堤防から船着場まで両岸とも250メートルから300メートルある。もとは群馬県道295号新地今泉線代替の渡船であり、群馬県営であったが境町(現在では伊勢崎市)に運航が委託されていた。2012年4月1日に当該区間が県道から伊勢崎市道に移管されたため、渡船も運営主体が伊勢崎市に替わった。・・・毎年5月の第3日曜日には「島村渡船フェスタ」が開催される。

(この項、「Wikipedia」参照)

                     2010年代のようす。が「渡船場」。

案内板。

左手に下って行きます。「島村蚕のふるさと公園」へ。

              

            「田島弥平旧宅周辺地図と島村渡船のご案内」。

田島弥平旧宅主屋全景(南東から)

田島弥平旧宅は、田島弥平(文政5年(1822年)生、明治31年(1898年)没)による、近代養蚕法「清涼育(せいりょういく)」の開発と、ヤグラ(越屋根、天窓ともいう)付き総二階建ての近代養蚕農家建築の原点となった建物です。伊勢崎市境島村地区は、江戸時代中期から蚕種(さんしゅ=カイコの卵)製造の盛んな地域で、田島弥平家も有力な蚕種製造農家でした。 蚕の飼育は難しく、年によって収量の差が大きかったため、弥平は各地の養蚕方法を研究し、蚕の飼育には自然の通風が重要であると考え「清涼育」を大成し、安定した繭の生産に成功しました。 

また、「清涼育」に適した蚕室の工夫を行い、文久3年(1863年)には棟上に換気設備(ヤグラ)を備えた瓦屋根総二階建ての住居兼蚕室を建築しました。桁行き約25.38メートル、梁間約9.4メートルの大規模な建物で、1階を住居、2階を蚕室としました。 弥平は「清涼育」の普及のため明治5年(1872年)に『養蚕新論』を著し、ヤグラを付けた養蚕農家建築は、その後の近代養蚕農家建築の標準となりました。

幕末の横浜開港後、島村の蚕種製造農家は、当時微粒子病で養蚕に壊滅的な被害が出ていたヨーロッパ向けの蚕種輸出に積極的に取り組みました。

微粒子病が克服され、横浜からの蚕種輸出が振るわなくなると、島村では明治12年(1879年)から明治15年(1882年)の間、蚕種をイタリアへ輸送し現地で直接販売する直輸出を行いました。弥平はこの第1回の渡航メンバーの一人です。

最後の直輸出を担当した田島啓太郎がイタリアから顕微鏡を伝えると、弥平は顕微鏡を用いて蚕の病気の検査・研究を行いました。後に、住居兼蚕室の2階北隅には顕微鏡室が増築されています。

明治初期、生糸増産のために先進地の視察を行う際には、器械製糸は富岡製糸場に、養蚕技術は田島弥平に学ぶのがモデルコースでした。また、富岡製糸場の外国種などの試験飼育の要請に応え、繭品種の改良や統一運動に協力しました。

境島村の「田島弥平旧宅」は、平成24年9月19日の官報告示により、国史跡に指定されました。 旧宅には、文久3年(1863年)建築の主屋が現存するとともに、当時の蚕室建物跡、桑場、蚕種保管の種蔵などの遺構が残ります。田島弥平の業績は高く評価することができ、近代養蚕業の発展を知る上で重要な場として国史跡に指定されました。

富岡製糸場、田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴の4つの資産で構成する「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、平成26年6月25日、世界遺産に登録されました。

(この項、「」HPより)

先を急ぐため、寄りませんでした。公園内の駐車場には、けっこう車が駐車して見学客なども多いようです。

       トイレやベンチなどがあり、休息に絶好です。

         

                植えてある桜並木は「河津ザクラ」のようです。

※養蚕業の現状

日本の繭生産量は、今から約80年前1930年(昭和5年)の40万トンをピークに減少し、昭和40年代に持ち直しの傾向が見られたものの、2016年(平成28年)には約130トンまで落ち込んでしまいました。

富岡市においても昭和43年に3010戸の養蚕農家で1441トンあった繭生産量が、平成26年には12戸の養蚕農家で約4.2トンと激減しています。

また、繭生産量の減少に伴う製糸業の衰退も著しく、平成元年に53あった国内製糸工場数は、平成20年にはわずか4工場を残すのみとなってしまいました。そのうちのひとつが富岡市の隣、安中市にある碓氷製糸株式会社です。

これら衰退の原因は、安い労働力に支えられた海外の低価格繭の流入、後継者不足など社会的構造の変化、また、日本人の生活様式が和装から洋装へ変化したことにより絹の消費量が減ったことなどがあり、その難しい対応に迫られています。

しかし、平成27年以降の富岡市内の養蚕は、養蚕農家以外にも地域団体や民間事業者が養蚕を開始したことに伴い、平成26年の繭生産量4176kgから昭和58年以来32年ぶりに増加に転じました。令和元年は、11養蚕農家、2地域団体、2民間事業者が養蚕を行い、繭生産量は6930kgとなりました。

   (「」より)

 

かつて、埼玉県・群馬県・栃木県など関東平野の北西部では桑畑をずいぶん見かけましたが、今回はまったく見ることがありません。世界「遺産」でしかない、というのが現実でしょうか。桐生出身者としては、とても残念です。

 

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JR熊谷駅~本庄駅。その4。薄(ススキ)。上武大橋モニュメント(機銃掃射の跡)。(「利根川を歩く」4回目。)

2021-10-28 20:28:35 | 利根川を歩く

           河川敷に「深谷ねぎ」の大きな畑。収穫期が異なるネギ畑が整然と。

農作業中の姿も。

    薄の穂が風になびく。

            

歩く人がいない「利根川自転車道」をテクテクと。

             

河川敷のグランドの脇にトイレがあったので立ち寄ります。

土手を見上げる。

「自転車(専用)道」ということで、要所要所に大きな休憩施設があります(歩く者にとってはかなりの距離がある)が、歩行者には、途中、ベンチもトイレも設置されていません。階段もほぼなし。

                   

「173.5㎞」ポスト。

グランド脇の「深谷ねぎ」畑。    

上武大橋」を過ぎる。

                 

この付近は江戸時代から北越街道のルートであり、「中瀬の渡し」と呼ばれる官営の渡船が設けられた渡河点で、1883年に木造の船橋「向島橋(ごうそうばし)」(509 m)が架けられた記録があるが、これを改めて永久橋となったのは1934年竣工の橋が最初である。・・・群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が通っており、かつては道幅が狭いうえに大型車の通行量が多く、すれ違いにも苦労したため特に通勤・帰宅ラッシュが激しかった。また、道路橋の上流側には1982年(昭和57年)3月完成の側道橋があり、歩行者・自転車はここを通行する。 1992年平成4年)2月20日国道17号 上武道路が開通し、3.5 kmほど下流に新上武大橋が架けられ、ほとんどの大型車はこちらを通るようになった。これにより一定の渋滞緩和の効果はあったものの、以前に比べて減少したとはいえ未だに大型車の通行もあることから、朝の通勤時間帯は相変わらず渋滞が発生していた。

架橋後80年近くを経過して老朽化が著しく、また幅員が狭いため、2013年より橋の架け替え工事を始め、今までの橋の川下側に架設され、2018年3月17日15時に新橋が供用開始された

役割を終えた旧橋は2018年9月より解体され、親柱とトラス橋の部材の一部が橋の袂の深谷市側において「上武大橋のあゆみ」と名付けられたモニュメントとして保存されている。この部材には太平洋戦争大東亜戦争)時にアメリカ軍によって付けられたとされる弾痕が残る。

(この項、「Wikipedia」参照)

左手、橋のたもとを見上げたときに、橋桁のモニュメントがあると気づきましたが、こういう曰く因縁があるとは思わず、スルーしてしまいます。そこで、

旧上武大橋橋桁に残る機銃掃射弾痕

(「 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 ...https://senseki-kikou.net › 」)の投稿写真を転載させていただきます。

モニュメント。

      機銃掃射の跡。貫通している。

この先で、「群馬県伊勢崎市境島」に入ります。

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JR熊谷駅~本庄駅。その3。「蛇長すぎる」。「小山川」。「新上武大橋」。(「利根川を歩く」4回目。)

2021-10-27 20:09:56 | 利根川を歩く

                 「小山川」。奥に見える橋が「小山川橋」。中央は「榛名山」。

     「赤城山」。

「小山川橋」を渡って利根川沿いに。

    

空はますます青く澄み渡る。

「小山川」上流。

                中央奥に見える橋が「新上武大橋」。左から浅間山、榛名山、赤城山。

下流(利根川との合流点)を望む。

集落への道。ここにも「まむし注意」の看板。

やたら目につく看板です。

少し下流の対岸・大泉町の広報でも、注意情報!

利根川堤防周辺(仙石・古海地区)におきまして、毒蛇である「マムシ」の目撃情報がありましたので、付近を通行する場合は十分注意してください。「マムシ」などの毒蛇を発見した場合は、刺激を与えずにその場から離れて、絶対に近付かないください。

なお、「マムシ」などの毒蛇に噛まれた場合は、速やかに最寄りの医療機関または救急搬送可能な医療機関を受診してください。

伊勢崎市内を流れる利根川の河川敷には
「マムシ注意」の看板がたくさん立っています。

伊勢崎市議会議員多田稔さんのブログでこんな記事がありました。2014年の記事を紹介。

伊勢崎市は平野部の都市なので、もともとマムシはいなかったはずです。
しかし平成19年(2007年)台風9号により、上流の南牧村に大雨が降ったときに流木などといっしょに下流の伊勢崎にマムシも流れ着いて、それが繁殖したという話です。「散歩させていた犬がマムシにかまれた」、という噂を、何年も前に聞きました。
しかし、その後はっきりした目撃情報は無かったので、一種の「都市伝説」のようなものかと高をくくっていましたら大間違いでした。
渡船フェスタで大賑わいだった境島村地区の渡船乗り場にも、マムシ注意の看板があります。
田島弥平旧宅がある、利根川南岸の島村地区にも土手の近くにはマムシ注意の看板があります。島村小学校にもありました。
まもなく田島弥平旧宅は世界遺産になる予定ですので、そうなれば大勢の人が来るはずです。
では実際にマムシがいるのか?
救急搬送を担当する伊勢崎消防本部の警防課長さんに本日たずねたところ、なんと、島村渡船の船頭さんが、1年間で5匹もマムシを捕まえたそうです。
・・・

この記事から既に7年経過しても、まだまだ「マムシ注意」の看板が至る所にあるのは、やはり・・・。

そういえば、今回歩いている途中、道路上で蛇を見つけ、一瞬飛び退きました。死んでいるヘビだったので、一安心。まさかマムシではないでしょうが。

ルナールの『博物誌』でしょうか、「ヘビ長すぎる」という格言がありますが、どうもヘビは苦手です。長くなくても・・・。

再び利根川沿いの道へ。

「170.5㎞」ポスト。

河川敷にはたくさんの木々が。

「新上武大橋」の下。

                「防災情報」解説図。大洪水に備えて。かなりの高さの水位を想定。

新上武大橋

1992年2月20日国道17号 上武道路開通に伴い、利用が開始された埼玉県深谷市高島と群馬県太田市武蔵島町を結ぶ利根川および小山川を渡るである。

橋の群馬県側から東京日本橋)までの距離がちょうど80kmである。千葉県銚子市の利根川河口までは171kmである。

新上武大橋は、利根川を渡る944.5mの長大橋で、群馬県内の一般国道としては最長の橋である。親柱は埼玉県側が飛翔するシラコバト、群馬県側は疾走するをデザインしている。埼玉県側に新上武大橋に連続して橋長206.8mの取付高架、および小山川埼玉県道45号本庄妻沼線を跨ぐ橋長185.5mの小山川橋とその取付高架があり、これらを含めると全長は約1.6kmになる。 橋の名前の由来も上流の「上武大橋」の新橋ということから「新」と付いた。

(「Googleマップ」より)

(この項、「Wikipedia」参照)

 

左手の家並み。

遠く奥秩父の山々。

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JR熊谷駅~本庄駅。その2。浅間山。深谷ねぎ。渋沢栄一。(「利根川を歩く」4回目。)

2021-10-26 21:49:45 | 利根川を歩く

                          「167.0㎞」ポスト。中央に「浅間山」。

利根川河畔に沿った一直線の道。サイクリングも軽快に行き来しています。

                  

中央遠くには「浅間山」、北側に少し雪が。

右手が榛名山。

その左手が「妙義山」、独特の山容です。表・裏と登山道があり、けっこうスリリングな登山でした。

また左手にはテーブルマウンテンとして有名な「荒船山」が見えます。

さらに左手には奥秩父の山々。

奥秩父の山々、中央遠く「両神山」の向こうに見えるのは、「甲武信岳」付近?

「赤城山」と「榛名山」の間、中央遠くには上越国境の山々。もうすでに真っ白です。

立ち止まっては、眺め眺めなので、なかなか進みません。山の地図を持参すればよかった!

利根川の流れもますます青く澄んでいます。

サイクリング。すれ違う顔を見ると、若者に混じって、小生と同世代の人が目につきます。

お元気ですね! お互いに目配せ。

            

左手に街並みが開けてきます。深谷市に入ったか? 

遠くに橋が見えてきます。

                 「新上武大橋」(「国道17号線(中山道)」)。

「利根川」から離れ、「小山川」沿いの道を進みます。

      

2010年代のようす。左が「新上武大橋」。「利根川」と「小山川」の間には集落があります。利根川の氾濫によって生じた微高地。「前小屋」地区。対岸の太田市には「前小屋町」がある。

                     1880年代のようす。利根川の氾濫原が中央に。

   上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)の国境にあたる。

「深谷市」。

さっそく「深谷ねぎ」の畑。

深谷市はネギの生産量日本一の市であり、深谷ねぎは全国的なネギのブランドとして定着している。

深谷ねぎは品種名ではなく、深谷地方で栽培されたネギの総称である。根深ネギ・千住群に属する。品種は多数存在する。深谷市外で栽培されたネギも「深谷ねぎ」の名称で販売されている。そのため、深谷市では「少し贅沢深谷ねぎ」というロゴマークと文字の商標登録し、深谷ねぎのブランド力向上の取り組みを行っている

深谷ねぎの特徴は、繊維のきめが細かく柔らかいこと、糖度が高く甘いこと、白根の部分が長く、皮を剥くと白く美しいこと、などが挙げられる。特に、糖度は10〜15度前後の糖度があるといわれており、その糖度はミカンなどの果物に匹敵する。冬の深谷ねぎは特に甘いため、すき焼きに砂糖は入れないという人もいる。

深谷ねぎの歴史は明治時代に始まる。深谷市周辺は幕末から明治初期にかけて栽培が盛んであり、また蚕種の一大産地であった。特に養蚕は盛んで、昭和初期には耕地の64%が桑畑であった。深谷ねぎは、明治初期に藍の値が暴落したことをきっかけにして、明治30年頃から新しい作物として本格的栽培が始まった。しかし、深谷ねぎは成長に応じて土を盛り上げる必要があるが、利根川流域の沃土は粘度が高く耕作に体力が必要で、深谷市南部に移り住んだ家もあった。

大正初期、今度はネギ相場が暴落した。その際、八基村(現在の深谷市八基)の農業指導者渋沢治太郎は、深谷町の乾物問屋・永徳屋商店に依頼して、北海道東北地方へ深谷ねぎの商標を付けて出荷した。これが、深谷ねぎの名称の始まりであると言われている。その後、1929年(昭和4年)の世界恐慌による価暴落を受け、耕地の大規模な作物転換を図り、深谷ねぎが大規模に生産されるようになった。

埼玉県北部では、かつて利根川の氾濫が度々起こった。深谷市内にある「西島」「内ヶ島」「血洗島」などの「島」がつく地名は、かつて利根川の氾濫によって生じた微高地であるといわれる。しかし、幾度の氾濫によりこの地域には肥沃な土壌が形成された。この沃土は粘質が高く硬いのが特徴である。また、水はけが良くネギを育てるためには最適な土壌である。古代から、この地域では肥沃な土壌を用いて造りが行われていた。

深谷市における深谷ねぎの中心的生産地は北部(利根川・小山川流域)と中南部(櫛挽台地)の二つに分かれている。深谷市北部の深谷ねぎは特に美味とされる。深谷市中南部もネギの産地であり、北部に匹敵する量のネギが栽培されている。

(この項、「Wikipedia」参照)

深谷ねぎは一年中収穫されますが、収穫期によって「春ねぎ」「夏ねぎ」「秋冬ねぎ」に分かれます。薬味やなべ物、お味噌汁などに欠かせないねぎですが、深谷ねぎの旬はなんといっても12月頃から出荷が始まる「秋冬ねぎ」。寒さで甘みが増す冬の時期、深谷の大地が育んだ、甘くてやわらかい深谷ねぎのおいしさをぜひ堪能してください。

(「」より)

    
                              深谷駅・駅舎。

 この駅舎。東京駅丸の内駅舎の煉瓦が「日本煉瓦製造深谷工場」でつくられたものであることから、1996(平成8)年の改修に当たって東京駅の半分の大きさに模した煉瓦張りになっています。この煉瓦工場を設立したのは、渋沢栄一さん。

紙幣の肖像が変更に。その一万円札には福沢諭吉から渋沢栄一へ。

郷里の深谷市はもちろん、江東区にも縁が深いようです。かつてブログに投稿したものを再掲。

「旧大島川西支流」にかかる永代通り・福島橋の手前に、「渋沢栄一宅跡」(永代2-37)の説明板があった。

説明板。
江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 渋沢栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会

・ 渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
・ 家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
・ 「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
・ 郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。
・ 栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。
・ 明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
・ 1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
・ 栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
・ 栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。(「渋沢栄一記念財団」HPより。)

 北側に「渋沢シティプレイス永代」「渋沢永代ビル」の大きな建物がありました。

・・・

深谷市といえば、今や、なんといっても「渋沢栄一」さんですが、「深谷ねぎ」も頑張っています。

濃い緑、まだ薄緑、整地したばかりの畑、と植えた時期によってさまざまなネギが。

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JR熊谷駅~本庄駅。その1。刀水橋。赤城山。榛名山。日光連山。・・・(「利根川を歩く」4回目。)

2021-10-25 20:13:48 | 利根川を歩く

刀水橋。左奥は日光連山。

熊谷駅からバスで「妻沼川岸」まで。「刀水橋」のたもとからスタートです。前回、前々回とはうってことなり、快晴。

JR本庄駅までの予定。

刀水橋(とうすいばし)

群馬県太田市古戸町と埼玉県熊谷市妻沼の間の利根川に架かる国道407号。河口 から164.5 Kmの地点。長さ809.6 m、幅員15 m。「刀水」は利根川の異称である(注)。

古戸(ふっと)橋として1886年(明治19年)に開通した。現在の橋は1971年(昭和46年)に完成した4代目。4車線のため、交通量も多く、大型車の通行が頻繁であり、JR熊谷駅東武伊勢崎線太田駅東武小泉線西小泉駅を結ぶ路線バスも走っている。下流側には1989年(平成元年)完成の側道橋(刀水橋側道橋)があり、歩行者・自転車はここを通行する。なおこの橋の近くに道路橋はなく、左岸の群馬県大泉町や太田市市街地などと右岸の熊谷市の各地域を最短で結ぶにはほぼ必ず本橋を通行するためボトルネック状態となっており、特に平日朝の通勤時間帯には両岸を往来する自動車で本橋周辺で渋滞が発生する。(この項、「Wikipedia」参照)

注:「刀水橋」の由来

①・・・利根川の名称が出てくる最初の文献『万葉集』には、「刀禰(トネ)」と記され、「刀」という漢字が用いられている。そこから利根川の異称として「刀水(とうすい)」があったことから。

②・・・その昔、新田義貞が鎌倉を攻略、凱旋の際にこの利根川で刀を洗ったという伝説にちなんだ。

新田義貞は、現在の群馬県太田市出身といわれ、対岸が太田市であるため、②の説は興味深いが、文献的には伝説に過ぎないようです。

新田義貞

元弘の乱1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦鎌倉幕府北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。

後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した

東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった軍記物語太平記』等でその活躍が描かれ、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰された。(この項、「WIkipedia」参照)

「利根川自転車道」を進みます。「164.5㎞」付近。

「刀水橋」を振り返る。

雄大な赤城山が。

行く手に大きく広がる「赤城山」、「榛名山」、「妙義山」、「浅間山」、「日光連山」、遠く雪をかぶった谷川岳など「上越国境の山々」、そして「奥秩父の山々」を遠くに眺めながらの歩きです。

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秩父鉄道西羽生駅~JR熊谷駅。その7。東武鉄道熊谷線・妻沼駅跡。(「利根川を歩く」3回目。)

2021-10-24 20:57:21 | 鉄道遺跡

東武鉄道熊谷線未成線の跡をたどって、旧妻沼駅跡まで。

第二期工事区間である新小泉駅 - 妻沼駅間開通前に終戦を迎え、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成した段階で工事は終了しました。そのため、利根川を挟んで南北に分断された形で営業を行うことになり、その南側が熊谷線です。

なお、橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されましたが、利根川左岸堤防内(群馬県側)に1脚のみ残っています。

右岸(妻沼側)から対岸を望んだ写真が上の写真。中央付近に橋脚が残っているそうです(「いずみ総合公園町民野球場」そば)。

(「Wikipedia」より)

この道(未成線跡)を進んでいくと、熊谷線の終点「妻沼」駅跡に出ます。

  一直線の道路。

「熊谷線」は、熊谷駅から妻沼駅までを結んでいた東武鉄道の鉄道路線。地元では妻沼線(めぬません)とも呼ばれていた

もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期に、群馬県太田市中島飛行機(現・SUBARU)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅 - 東武小泉線西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として1943年昭和18年)12月5日に熊谷駅 - 妻沼駅間が開業した。

熊谷市石原付近(上熊谷駅 - 石原駅中間地点のやや石原駅寄り、かつての熊谷線と秩父鉄道の分岐点)で秩父鉄道をオーバークロスして秩父鉄道の南側に平行して建設、熊谷駅南側に熊谷線のホームを設置する予定であったが、そのための盛土を構築する時間はないため秩父鉄道の複線化用地と熊谷駅ホームを借用し、熊谷駅 - 上熊谷駅 - 熊谷市石原付近を仮線として開通した。軍事路線であったため、ほぼ一直線に邑楽郡大泉町を目指すルートとなっている。住民の生活路線として建設されたものではなかったので、沿線の集落、交通を考慮したルートではなかった。

しかし、第二期工事区間である新小泉駅 - 妻沼駅間開通前に終戦を迎え、戦後、治水上の都合から工事の中断は直にはできず、利根川を渡る橋梁の橋脚部分が完成するまで行い終了した。そのため、利根川を挟んで南北に分断された形で営業を行うことになった。その南側が熊谷線である。なお、橋脚は1979年(昭和54年)に撤去されたが、堤内の1脚のみが群馬県側に残っている。

東小泉駅 - 熊谷市石原付近まで複線化用地があったが、急を要するため一部の路盤は単線分しかなく、残った用地での耕作は事実上黙認され、熊谷市妻沼町の台帳に登録されていない幻の耕地ということになり、戦後の食糧難時にそこで収穫された物はヤミ食料として出回ったといわれ、熊谷線はヤミ食料の買い出しで大変混雑した。今でも水田の中にある杭までが東武鉄道の所有地である。

開通以来赤字続きだったこともあり、1983年(昭和58年)5月31日の運行限りで廃線となった。

開通当初は、館林機関区所属の蒸気機関車B2型27・28号機牽引で運転されていた。熊谷駅 - 妻沼駅間は工員輸送しか行われず、資材輸送は行われなかった。日夜を違わずピストン輸送が行われ、妻沼駅から工場までの連絡は東武バスによって刀水橋を経由して行った。妻沼駅に着いた列車からバスへの乗り換えがうまくいかないと憲兵が飛んできたそうである。また熊谷線は米軍機による被害はいっさい出さなかったが、乗務員は乗客を守るために米軍機を見つけると木立の陰に列車を停車させ隠すなどしていた

終戦後は工員輸送も終わり、利用者の比較的少ない熊谷線は本線よりも低質な石炭をまわされたため、高崎線とのオーバークロスで蒸気機関車の蒸気圧が上がらないために勾配を登るのが大変で低速運転となり「埼玉県立熊谷商業高等学校の生徒たちはあまりに遅いので列車を飛び降り、土手を下って学校に行ってしまった」という話も聞かれた。後にはやや改善したものの、その鈍足ぶり(熊谷 - 妻沼間10.1キロを24分)から、沿線乗客には揶揄混じりの「のろま線のカメ」「カメ」と呼ばれていた。

1954年(昭和29年)に旅客列車の無煙化を図り、3両導入した東急車輌製の気動車キハ2000形は17分で走破し、またその姿から「特急カメ号」という呼び名で親しまれた。しかしその後「特急」の部分が取れてしまい、「カメ号」に戻った。

(この項、「Wikipedia」参照)

ところで、「荒川を遡る」シリーズで番外編として「熊谷」駅からの廃線跡(「かめの道」)をJR線のところまで歩きました。そこで、「熊谷線」の終点のところへ行ってみることにしたわけです。

桜並木脇の四阿。

途中、左手にある「熊谷市立妻沼展示館」に保存されている「キハ2002」。

 

「ドラッグストア」のところが旧妻沼駅待合室跡? または車庫?

 

杉戸機関区妻沼派出所の跡は現在空き地となっています。

現在の朝日バス熊谷駅 - 妻沼線の「ニュータウン入口」停留所付近のようす。

廃止後駅舎はしばらくの間廃止代替の急行バスの待合室として利用されていましたが、道路拡張の際に撤去されました。

熊谷駅方向に一直線で進む線路跡の道路。

                     右手の福祉施設がかつての駅舎跡?

熊谷線の出発駅付近に残る熊谷線跡の緑道「かめの道」だけでなく、終点の妻沼駅跡を探ることができました。

                     

1970年代のようす。中央下部が妻沼駅舎、画像中央上部が杉戸機関区妻沼派出所。

すでに廃線になって、使用されていないようです。

                     

2010年代のようす。まだ未整理のままの空き地となっています。現在は上方に「ドラッグストア」。下方に福祉施設。

「朝日バス」の路線バスでJR熊谷駅まで戻ります。

JR熊谷駅付近の熊谷線跡。

西を望む。左は新幹線の高架。

新幹線、秩父鉄道、熊谷線(跡)、JR高崎線(上野東京ライン・湘南新宿ライン)と並んでいます。

この先で高崎線は右に曲がっていきます。秩父鉄道と併行して熊谷線(跡)が進みます。

 

線路はそのまま残っています(右手奥)。

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霜降(そうこう)。初時雨・芭蕉。紅葉・猿丸太夫。霜降り肉。

2021-10-23 19:00:19 | 世間世界

                    (「日本気象協会」HPより)

快晴ですが、北風が強い。西高東低の冬型。

<近畿で木枯らし1号> 近畿で木枯らし1号が吹きました。発表期間開始の目安となる二十四節気の「霜降(そうこう)」が今日で、早々に発表となりました。去年と同日で過去最も早い記録に並んでいます。〉(「ウエザーニュース」より)

関東地方もそうなるのではないでしょうか?

今日は、二十四節気のうちの「霜降」。

朝晩の冷え込みがさらに増し、北国や山里では霜が降りはじめるころ。だんだんと冬が近づいてくる。といっても、暦の進み以上に寒さが一段と。いきなり夏から冬へという感じ。秋が来ないうちに冬?

北国では霜どころか初雪の便りも。

「七十二候」でいうと、

・初侯 10月23日〜10月27日頃

霜始降(しもはじめてふる)

霜がはじめて降りる頃。

・次侯 10月28日〜11月1日頃

霎時施(こさめときどきふる)

通り雨のように雨が降りはじめる頃。雨が降ったかと思えば、すぐに青空が顔を出す。初時雨は、人々や動物たちが冬支度をはじめる合図だといわれている。

※「初時雨」というと、芭蕉の句を思い浮かべます。

初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり(はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)

 元禄2年9月下旬の作。作者46歳。『猿蓑』撰集の冒頭句。
猿蓑』の其角の序には、

「只俳諧に魂の入りたらむにこそとて、我が翁行脚の頃、伊賀越えしける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入れたまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此の集をつくりたて、猿蓑とは名付け申されける。」とある。
 
 また、芭蕉真蹟では、
「五百里の旅路を経て、暑かりし夏も過ぎ、悲しかりし秋も暮れて、古里に冬を迎え、山家の時雨にあへば」と前詞がある。『奥の細道』の旅を終えて帰郷の折、伊賀越えの山中に初時雨にあって詠まれたものとされている。
 
芭蕉最高傑作の一つ。

・末侯 11月2日〜11月6日頃

楓蔦黄(もみじつたきばむ)

もみじや蔦が色づいてくる頃。葉が赤色に変わることを「紅葉」と呼び、銀杏のように黄色に変わることは「黄葉」と呼びます。また、秋の山が紅葉することを「山粧う(よそおう)」という。

※「紅葉」というと、『小倉百人一首』中の「猿丸大夫」の作を。

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき

花札の絵柄。

(「七十二候の項は、「暦生活」HPより)

我が家でも、冬支度。こたつはまだですが、暖房用のカーペットに変え、冬物の服装の準備。昨日は、冬物のコートで雨の中を。

しかし、日本の四季は最近では「二季」に。夏から冬、冬から夏という具合な印象。

「秋が来ない」。人生で、「飽きが来ない」のはいいことですが。

霜降(しもふり)「肉」といえば、牛肉で脂肪が筋肉の間に細かく網の目のように入っている肉のこと。豚肉や馬肉にも用いられる。筋肉(筋繊維)の間に入った脂肪は「サシ」と呼ばれており、それが細かいほど上質とされる。

たまには高級な霜降り牛を食してみたいものです。

写真は神戸牛の霜降り。

(「Wikipedia」より)

 

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秩父鉄道西羽生駅~JR熊谷駅。その6。日本学生航空連盟妻沼訓練所。妻沼ゴルフ場跡。(「利根川を歩く」3回目。)

2021-10-22 20:28:00 | 利根川を歩く

                      「妻沼滑空場」。

土手下に                                                                                                                                                                                                                                                                  

                 「日本学生航空連盟妻沼訓練所」。

関東平野北西部の利根川右岸(埼玉県側)河川敷に位置する東日本地区の主力訓練所です。
 長さ1,500mの滑走路3本(内中央の1本は着陸専用)がある第1滑空場と、川下側にサッカー場を挟んで長さ1,200mの第2滑空場があります。
 運航がおこなわれている時には、航空無線局「めぬまフライトサービス」130.5MHzを開設し、付近を航行する航空機への情報提供をおこなっています。

日本学生航空連盟は大学・高校の航空部・グライダー部が加盟する全国組織です。関東・中部・関西・九州の各地区に飛行練習の拠点となる訓練所(グライダー滑空場)を設け各校の活動を支援するとともに、競技会の開催、航空スポーツの普及啓蒙活動を行っています。

グライダースポーツとは?

 鳥のように空を飛べないか?

 飛ぶことに挑戦した先人たちの時代、空は命を懸けた冒険の世界でもありました。
 現代では技術や科学が飛躍的に発展し航空は確立された交通手段として私たちの生活に密着していますが、依然として空はエキサイティングで未知に溢れた世界です。
 
 グライダーは英語ではセイル・プレーン(Sail Plane)とも呼ばれます。ヨットのことをセイル・ボート(Sail Boat)と言います。空のヨット――グライダーも風を読み、風を使って飛びます。 風――大自然のエネルギーが作り出す上昇気流を使って、より高く、長く、遠く、速く飛ぶための航空機です。
 上昇気流は地域、季節、地形、天気、時刻などにより千差万別、予測はできても飛んでみないとわからないものです。グライダーの醍醐味はこうした気流を相手に、自分の知力と技量を尽くして飛ぶところにあります。
 強い上昇気流を掴んでグイグイと高度を上げていく爽快感、広がる眺望。高度が確保できたら遠くまで足を延ばしてみるのもいいでしょう。
 風が掴めるようになって最初は日本滑空記章や国際滑空記章が定める滞空時間、獲得高度、飛行距離の達成がいい練習目標になります。
 さらに高度、距離、平均速度(タイム)などの記録に挑戦したり、競技会で他人と腕比べをするのも遣り甲斐がある道です。

 もちろんマイペースで空を飛ぶこと自体を楽しむのも大いにありです。

 日本国内に限らず様々な地形や気象条件で飛ぶことも視野を広げます。今では若い人から現役をリタイアした年配者まで海外での飛行を楽しむ人たちが増えてきました。オーストラリアなどのダイナミックな気象条件下、広大な空を飛びまわるのはやめられない魅力があります。

 グライダーは老若男女問わずそれぞれに合わせた楽しみ方ができるスポーツと言えるでしょう。

 またサイエンスとしても大気の動きを利用するグライダーは気象学の発展に寄与してきました。最近ではアルゼンチンのアンデス山脈に発生する山岳波(ウェーブ)を使って20,000mを超える高度に到達し、ウェーブが成層圏にまで及ぶことを実証。南極地方のオゾンホール発生メカニズムの解明にも活用されています。

       

                     

(この項、グライダーなどの写真を含め、「公益財団法人 日本学生航空連盟」HPより)

純グライダーは動力がなく自力では離陸できないため、ウインチ曳航、飛行機曳航により離陸する。

「妻沼滑空場」ではウインチ曳航でした。

ウインチ曳航は、グライダーに800~1,500mほど延ばした金属または化学繊維製のワイヤーロープを取り付け、これをエンジンまたは電動モーターにより動かされるウインチを使用して高速で巻き取る。それによりグライダーは急激に加速、上昇していく。最高高度(300~600mほど)に達したらグライダー側でフックを操作しロープをはずす。

ちょうど訓練中だったようです。たくさんの人が集まっています。次々と離陸し、旋回し、着陸しています。晴れていればもっとよく見えたはず。でも、土手に座って、そのようすを見ながら小休止します。

           

              フックを切り離す。

土手下には格納庫。

    

        着陸。 

         

先に進みます。「162.0㎞」ポスト。  

「妻沼滑空場」を振り返る。

この先、河川敷には「妻沼ゴルフ場」があったはずですが、雑草と所々に灌木が名残のように立っているのみ。

「ゴルフボールに注意」の標識がポツンと。

「妻沼(めぬま)ゴルフ場」は2020年6月30日をもって、32年の歴史に幕を閉じる事になった、とのこと。この地域を除いて、上流及び下流の利根川堤防についてはほぼ整備が終了し、残されたこの区域の堤防工事が本格化されることになり、同ゴルフ場が閉鎖となったわけです。

   「163.0㎞」ポスト。  

1年あまりでここまで草木が生い茂るようになるのですね。

 

この付近で、後ろからランナーが続々と通りすぎていきます。ゼッケンを付けたランナーが何人か談笑しながら、また必死に走る人など、さまざま。

     

この先、「刀水橋」の手前で、土手を下り、妻沼市街地へ。

 土手を振り返る。ランナーが続く。

 

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秩父鉄道西羽生駅~JR熊谷駅。その5。葛和田(くずわだ)渡船場。妻沼(めぬま)滑空場。(「利根川を歩く」3回目。)

2021-10-21 20:20:28 | 利根川を歩く

                                  「158.5㎞」ポスト。                            

   河川敷には車が数台。

土手下は大きな屋敷林のある家々が続きます。

        

 

利根川総合運動公園 葛和田サッカー場。定期バスの停留所もあります。

この右岸には、「葛和田の渡し 葛和田渡船場」。左岸には、「赤岩渡船場」(群馬県千代田町)があります。

埼玉県道・群馬県道83号熊谷館林線の代替渡船であり、利根川上で唯一の「水上県道」扱いで運賃は無料である

群馬県営で千代田町に運営が委託されていることから、渡し舟は千代田側に居ることが基本となっており、堤防の中腹に建っている小屋に待している船頭へ直接声を掛ける。一方、葛和田側から乗る場合には桟橋から150m程手前の河川敷上にある熊谷駅行きバス停前に設置されたポールに黄色の旗を揚げて合図し、千代田側の船頭へ利用の意思表示をする。

なお、自転車原付バイクも載せることが可能で、周辺住民のほか、利根川沿いのサイクリング客の利用もある。利用者数は年間平均2万人程度となっている

歴史的には「赤岩の渡し」とも呼ばれる。熊谷側では「葛和田の渡し」とも呼ばれる。なお、この地点で渡船を使わずに陸上を迂回して対岸に行くには、下流側4〜5kmの武蔵大橋か、上流側6〜7kmにある刀水橋まで遠回りしなければならない。(この項、「Wikipedia」より)

・・・

葛和田の渡し(赤岩渡船)は埼玉県熊谷市葛和田と群馬県邑楽郡千代田町赤岩の間を通る利根川の対岸同士を結ぶ渡船です。埼玉県道・群馬県道83号、熊谷館林線の代替渡船で、県道の一部として位置づけられる『県道扱いの渡し船』です。

■葛和田の渡し(赤岩渡船)の由来

文献には、永禄年間(1560年頃)に上杉軍の渡過に使われた記録もある歴史ある渡船。江戸時代には年貢米や参勤交代の荷物をはじめ、生活物資等の集積場としても賑わいました。明治時代の中頃には鉄道等をはじめとする交通機関が発達したため、渡船場としての機能だけが残りました。大正15年(1926年)からは群馬県が運営し、昭和24年(1949年)に群馬県から千代田町へ運営が委託されました。

■葛和田の渡しに乗ってみよう!

渡し船は基本的に千代田側に接岸されており、葛和田側から乗るには土手下の待合所に設置しされたポールに黄色い旗を揚げ、千代田側に合図して船の到着を待って乗船することができます。(乗船の際の注意点は、渡船場掲示板に明記されています)
車だと通り過ぎるだけの利根川も、渡船でゆったりと景色を楽しみながら渡ってみてはどうでしょう。自転車(原付バイク)の乗船も可能で、周辺のサイクリングコースの一環として利用することもできます。

(この項、「」HPより)

対岸(左岸)には、渡し舟が停泊中で目視できますが、写真は曇りのため撮ることができません。残念!

右岸「葛和田渡船場」。

左岸「赤岩渡船場」。(「Googleマップ」より)

(「歴史的農業環境システム」より)

なお、「赤岩渡船場」には、常夜燈等のモニュメントがあるようです。

 

対岸(群馬県千代田町方向)

妻沼滑空場」が近づいてきます。

グライダーが何機も駐機しています。上空にはグライダーが。

             

 

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秩父鉄道西羽生駅~JR熊谷駅。その4。福川水門。熊谷市へ。荻野吟子記念館。(「利根川を歩く」3回目。)

2021-10-20 20:09:09 | 利根川を歩く

振り返る。

                今にも雨が降り出しそうな空模様。

「利根川自転車道」案内。

眼下に広がる田園地帯。

さすがに歩いている人はいません。

対岸は、群馬県邑楽郡千代田町。

遠くに「利根大堰」。

「福川水門」が見えてきます。

「刀水橋まで9㎞」。サイクリング車が通過。

今回は、「刀水橋」の手前で、妻沼に向かう予定です。

正面に「福川水門」。「156.0㎞」ポスト。

利根川に合流する「福川」。

「さすなべ排水機場」。

「福川水門」。

昭和53年度完成。
福川と利根川の合流部に位置し、逆流防止目的として建設された。
利根川上流河川事務所の中で一番大きい水門。

「福川」上流方向。

「福川水門」橋を渡り、行田市から熊谷市へ。

対岸左手に「赤岩渡船場」。

「福川」の流れ。

再び利根川沿いの道を。

             

土手下には「俵瀬」集落が。

「熊谷市立荻野吟子記念館」。

嘉永4年(1851年)に荻野吟子は、現在の熊谷市俵瀬に生まれました。自分の体験から女性医師の必要性を痛感し、医師になることを決意します。
当時、女性には医師の道は閉ざされていましたが、目の前に立ちはだかる壁を信念とたゆまぬ努力で克服し、明治18年(1885年)医術開業試験に合格して、日本の公許女性医師第1号となった埼玉県三偉人の一人です。
記念館は荻野吟子の生家の長屋門を模した、瓦葺屋根・漆喰一部下見板の和風建築で、部屋は展示室と休憩室に分かれ、展示室には荻野吟子の生涯を時代に合わせて説明した年表や資料を展示しています。

熊谷市立荻野吟子記念館は、平成31年4月1日から指定管理者制度を導入し、特定非営利活動法人 めぬまガイドボランティア阿うんの会が管理運営を行っています。

埼玉誕生150周年特設WEBサイト「Colorful」に埼玉偉人特集が紹介されています。塙保己一、渋沢栄一、荻野吟子の3偉人です。詳しくはクリックしてください。

荻野吟子“女性医師”の道を切り開け!」医師は男性がなるものされていた明治時代、多くの壁にぶつかりながらも、不屈の決意で自らを奮い立たせ、女性として初めて開業試験に合格。女性医師第一号となった。その後も、さまざまな社会的活動に身を投じていく…。数々の困難を乗り越えてきた吟子の知恵を読み解いていく。詳しくはクリックしてください。NHK Eテレ・東京 3月23日(火) 22:00〜22:45

(「荻野吟子記念館」からのお知らせNEWSより)

※荻野吟子の生涯は、渡辺淳一作「花埋み(はなうずみ)」として小説化され、その後、テレビドラマ化や舞台化されている。

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秩父鉄道西羽生駅~JR熊谷駅。その3。見沼代用水路・武蔵水路・埼玉用水路・邑楽用水路(おうらようすいろ)。(「利根川を歩く」3回目。)

2021-10-19 19:01:40 | 利根川を歩く

               「利根大堰」。この先は、湖のような大きな広がり。

     

2010年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

「利根大堰」沈砂池からの取水口。

右から「見沼代用水路」、「武蔵水路」、「埼玉用水路」、「邑楽用水路(おうらようすいろ)」。

見沼代用水路


利根川東遷によって、水資源を失った地域にあった「ため池」(「見沼」など)の代わりに利根川から取水して農業用水とするため施工された。

地域としては

 

武蔵用水

利根川と荒川を結ぶ延長14.5kmの水路で3つの役割を担っている。
①都市用水の導水 
利根大堰で取水した東京都と埼玉県の都市用水を荒川へ導水している。(導水した水は、下流の秋ヶ瀬取水堰などで取水され、東京都の朝霞浄水場や埼玉県の大久保浄水場などへ送られている。)
②浄化用水の導水 
荒川水系の水質改善のため、浄化用水を導水している。浄化用水は、秋ヶ瀬取水堰から新河岸川へ朝霞水路を通じて流れこみ、下流の隅田川の浄化も行なっているす。
③周辺地域の内水排除 
周辺地区の河川の洪水や市街地からの出水を取りこみ、荒川に排水する事により浸水被害を軽減する。  


(「利根導水総合事業所」HPより)

埼玉用水路

1968に開削された灌漑用水路利根川利根大堰から引いた水で、この用水路が開削される前に直接取水をしていた羽生領用水路葛西用水路、古利根用水路及び稲子用水路へ供給する農業用水として開削された。延長は16.7Km。現在は水資源機構で管理され、埼玉県内の約12,000haの農地を灌漑している。

邑楽用水路(おうらようすいろ)

群馬県邑楽郡千代田町明和町を流れる用水路

利根大堰から取水する。大分水工で180度向きをかえ、北に流れながら利根川を伏越(サイフォンの原理)で交差し、利根川左岸を平行するように東へ向きを流れ、流域の周囲を灌漑する。大堰から東へ流れる利根加用水もある。 いくつかの用水路を分岐し随所に設けられた調節堰を通過しつつ利根川の左岸を並行して流れ千代田町、明和町、板倉町を経て埼玉県加須市(北川辺地区)に至り終点となる。 途中新堀川を掛樋(河川の上を通す水路の橋)で、谷田川放水路を伏越で交差する。流路幅は1.7 m - 3.1 mほどある

※それぞれ、その一部を「街道歩き」、「荒川歩き」などで出会っています。

・見沼代用水

見沼代用水と毛長川との交差する地点。つい最近までは、見沼代用水は「伏越」で毛長川の上を越えていました。現在は、北から流れてきた見沼代用水を直接、毛長川に落とす仕組み、橋も立派になりました。
毛長川との交差する地点。左右に流れているのが毛長川。

見沼代用水の上流。

・武蔵水路(「日光千人同心街道」)

「武蔵水路」水門から荒川本流方向を。

埼玉用水路

「葛西用水」。「埼玉用水」から取水。

・邑楽用水路

「上宿橋」際に立つ「川俣事件衝突の地」記念碑。(「日光千人同心街道」)

 

・・・

上流。広大な流れ。

工事が進む。

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秩父鉄道西羽生駅~JR熊谷駅。その2。「利根大堰」。ミサゴ。(「利根川を歩く」3回目。)

2021-10-18 19:44:15 | 利根川を歩く

           この付近ではまだ本格的な堤防強化工事は始まっていないようですが。

霞む「利根川」。

今回、「利根川自転車道」を通るサイクリング車やマラソンランナーにけっこう出会いました。 

 「152.5㎞」ポスト。

上流に「利根大堰」が見えてきます。

行田市。田園地帯。

「サケ」の絵が。サケの遡上があるようです。

「利根大堰」。

埼玉県行田市群馬県邑楽郡千代田町の県境、利根川本川・河口から154km地点に建設された、日本でも屈指の規模を誇るである。

沿革

高度経済成長期において、東京都の水需要の急激な増大は深刻な問題となっていった。この為、建設省(現・国土交通省)は、東京の水需要を多摩川から利根川に転換すべく、1963年に利根導水路計画を立案した。元々、東京(江戸)を水害から守るという目的で利根川東遷事業を進めたという経緯があり、水利権の問題はあったが、時の建設大臣池田内閣河野一郎の政治的決断で計画されたといわれる。

1964年東京オリンピックを前にして、東京は未曾有の大渇水(通称・東京砂漠)が起こり、危機的状況に陥った。東京都の緊急要請により、建設省は朝霞水路を通して緊急取水を実施した。その後、1965年には荒川秋ヶ瀬取水堰が建設され、朝霞浄水場へ導水するための整備を行った。

こうした中で利根川は「水資源開発促進法」に基づく指定河川となり、水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)が「利根川・荒川水資源開発基本計画」に従い、利根川から水道用水を取水する為に見沼代用水元入がある地点に利根大堰を建設し、首都圏の水需要に応えようとした。堰は1968年4月に完成した。

利根大堰の目的

  1. 武蔵水路・見沼代用水・埼玉用水路葛西用水路への導水を通じて東京都・埼玉県への上水道と利根川中流部への灌漑
  2. 邑楽用水路を通じての群馬県邑楽地域への灌漑
  3. 余剰水を使って当時水質汚濁が深刻であった隅田川の水質浄化
  • 現在でも利根川上流ダム群の水は利根大堰を経て、東京都の上水道の40%、埼玉県の上水道の70%を供給している。
  • この堰で取水された水は、荒川、秋ヶ瀬取水堰、朝霞浄水場を経由して東村山浄水場まで行く事もある。

環境保護と地域との共生

利根川はサケ自然遡上の南限河川と言われているが、1970年代を境に、遡上数が減少の一途を辿っていた。これに対し群馬県前橋市では有志が集い、サケの放流事業を継続しているが、水資源機構は1983年から自然保護の一環としてサケの遡上調査を行い、サケを堰より上流に放流する作業を連年行った。

更にサケの遡上を助ける為に、1995年から1997年にかけて、従来からあった魚道の大改築を実施した。こうした官・民の共同作業によって、サケは次第にその遡上数を回復させ、2005年には利根大堰地点で2,000尾以上のサケが前橋方面への遡上が確認された。この他、アユについても遡上数の上昇が認められている。さらに、サケの遡上を間近で見られる施設である大堰自然の観察室も堰の1号魚道脇に併設されている。

なお、堰の上流側160m、下流側200mは禁漁区域に指定され、釣りを始めとした魚を獲る行為が禁止され、それを示す標識が川岸に設置されている。禁漁区域を除く場所でも水産資源管理のため、アユは1月1日から5月31日まで、サケは年間を通して禁漁期である。

(この項、「Wikipedia」参照)

河岸近くに下りてみます。

シラサギでしょうか、けっこう水鳥の姿が。魚を狙っている様子です。

 

                                ライブカメラより。

何人かカメラマンがいます。望遠レンズで川面に焦点を合わせて待ち構えているようす。

「何を撮っているんですか」「ミサゴが魚を捕らえる瞬間を待っているんだ」「ミサゴ? 」「大型の鳥だよ。サケなんかを掴む瞬間は迫力あるよ。」

ミサゴ

全長54–64cm。翼開張150–180cm。体重1.2–2kg。雄雌ほぼ同じ色彩で、背中と翼の上面は黒褐色、腹部と翼の下面は白色で、顔も白く、眼を通って首に達する太い黒褐色の線が走る。後頭部に小さな冠羽がある。嘴は黒く、脚は青灰色。

魚を好んで食べることから別名ウオタカ(魚鷹)とも

タカ科と区別される特徴として、spicule と呼ばれる足の外側にある魚を捕らえるための棘、反転する第1趾(猛禽類ではミサゴだけである)、鼻孔の弁、密生し油で耐水された羽毛があげられる

生態

主に海岸に生息するが、内陸部の、広い河川、河口等にも生息する。水面をゆっくりと低空飛行し獲物を探す。春・秋の渡りの季節には長野県などの内陸部を移動する個体が観察される。単独かつがいで生活する。

食性は肉食性で主に魚類を食べるが、爬虫類鳥類貝類を食べることもある。獲物を見つけると素早く翼を羽ばたかせて空中に静止するホバリング飛行を行った後に急降下し、水面近くで脚を伸ばし両足で獲物を捕らえる。

文化

日本において、ミサゴは魚を捕るタカとして古来より知られ、『日本書紀』では覚賀鳥と記されているほか、『太平記』、『看聞日記』、『古今著聞集』など、様々な文献で記述が確認できる。

本草綱目啓蒙』において、ミサゴは捕らえた魚を貯蔵し、漁が出来ない際にそれを食すという習性が掲載され、貯蔵された魚が自然発酵腐敗でもある)することによりミサゴ鮨となると伝えられていた。

ミサゴ鮨については『甲子夜話』(松浦静山)、『椿説弓張月』(曲亭馬琴) 『[味]』(秋山徳蔵著)などにも登場する。ミサゴが食べ残した魚に尿をかけて岩の凹みに貯蔵したことにより発酵し、尿の塩分と酸味によってうまみが増した魚を人間が食したのが寿司の起源であると伝承される。そのため、「みさご鮨」の屋号を持つ寿司屋は全国に少なからず点在している。また『広辞苑』にも「みさごすし」の項目があり、ミサゴの尿の塩分とは記述されず「潮水がかかって自然に鮨の味となったもの」と解説され、同様に、日本国語大辞典では、海水がかかって自然に発酵することで酢に漬けたような魚肉になると解説される

この逸話に対して反論者もいる。動物研究家實吉達郎は自著『動物故事物語』において、ミサゴにそのような習性もなければ十分な魚を確保する能力もないとし、この話を否定している。

(この項、「Wikipedia」より)

(※ そういえば、この先、歩いている途中で、上空から川面近くでホバリングをしている一羽の大型の鳥を見つけました。写真を撮りそこない、残念! )

ネットには、ミサゴがサケ・アユなどを捕らえる瞬間の写真がたくさん掲載されていますが、著作権の関係で紹介できず。確かに迫力があります。

しばらくその場にいましたが、残念ながらその瞬間を見ることが出来ませんでした。

   

土手に戻り、先に進みます。

「海から154.0㎞」ポスト。

 

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秩父鉄道西羽生駅~JR熊谷駅。その1。川俣締切跡。「あゝ上野駅」。川俣関所跡。(「利根川を歩く」3回目。)

2021-10-17 17:13:39 | 利根川を歩く

                      「川俣締切阯」碑。

「解説板」。

写真には写っていませんが、右にある星形の碑は、「〆切神社」と刻まれています。

 

このところ、土曜日になると「利根川歩き」に出かけていますが、前回、今回と「曇り時々雨」に。特に、今回は肌寒い一日でした。

東武伊勢崎線「羽生」駅から秩父鉄道に乗り換えて一駅、「西羽生」駅で下車。「昭和橋」を目指して約30分。「道の駅はにゅう」へ到着。ここから「利根川歩き」再開。

敷地内にある「解説板」。

川俣締切跡は、それまで合流していた会の川を文禄3年(1594)に締め切った跡である。近世以前の利根川は武蔵・下総両国の国境を南に流れ東京湾に注いでいた。・・・羽生領における新郷川俣付近における会の川筋の締切は、江戸開府前に行われ、その最初の工事であった。

当時、利根川の流れは幾筋にも分流しており、新郷川俣付近においては、南流して現在の加須市志多見、加須を経て川口に向かう会の川の川筋と現在の河道を東流する一流とに分かれていた。文禄元年(1592)に忍城主となった松平忠吉の命を受け、付家老の小笠原三郎左衛門吉次が指揮して、新郷に堤を築いて会の川筋を締切り、同3年に利根川本流を東流させたと伝えられている。この工事は困難をきわめ、僧侶が人身御供として入水したという伝説が残されている。この締切り工事により、会の川や古利根川が利根川から切り離され、以後、江戸や流域の治水がはかられるとともに、利根川流域の広大な新田開発が進められていった。

隣にある「顕彰碑」。

「あゝ上野駅」の歌詞が刻まれています。この歌は井沢八郎が歌って大ヒットしました。今でも口ずさむことができます。

「上野は俺らの心の駅だ」というフレーズが印象的。

羽生の作詞家 関口義明先生の顕彰碑

・・・日本の高度経済成長期 集団就職列車が昭和29年4月から昭和50年3月まで運行されました 東北方面から上野駅に到着した就職者は 今日では60 70歳代となり その当時の人は無論のこと「あゝ上野駅」は郷愁を誘う人生の応援歌として 今尚若い人にも愛され歌われております・・・

現役の頃に接した青少年の中には、この集団就職列車で東北から上京してきた人も多くいました。「金の卵」という言葉もあった時代。まさに映画「三丁目の夕日」の世界でした。

ここで、当時のことをふと思い出します。

さて、利根川歩きを始めます。「昭和橋」橋詰めの向こうには、「川俣関所址」碑があります。

      

 

ここは、「日光千人同心街道(八王子~佐野~日光)」の道筋です。その時のブログを再掲。2018年12月投稿。

ここには「川俣関所(新郷川俣関所)」が設けられました。

「昭和橋」の橋のたもとに建てられているのは「史蹟 川俣関所址」碑と解説板。




 定
一、此関所を通る輩
  番所の前にて笠
  頭巾をぬぐべき事
一、乗物にて通る面々は
  乗物の戸をひらくべし
  但、女乗物は番の輩
  指図にて女に見せ
  可通之事
一、公家・門跡衆・諸大名
  参向の節は 前かどより
  其沙汰可有之間不及 
  改之 自然不審の儀
  あらば可為各別事

  右 可相守此旨者也
  仍執達如件
 貞享三年四月
    奉行 

                           
旧跡 川俣関所跡
 川俣関所は慶長年間(1596~1615)に設けられ、明治2年(1869)に廃止されるまでの役260年間続いた。
 この関所は江戸城警備のため設けられ、一般に「出女に入鉄砲」といわれるが、江戸に人質になっている諸大名の夫人の脱出を防ぎ、また江戸の安全をはかるため鉄砲の入るのを厳しく取り締まった。日の出に開門、日の入りに閉門し、夜中は一般人の通行を禁じた。
 関所は利根川沿岸に設けられたものであるが、河川改修のためその路は川底になってしまった。
 関所路は、はじめ史跡として県の指定を受けその後昭和32年の改修工事により現在の地に碑が移転され、昭和36年9月1日旧跡と指定変更された

注:関所(跡)は昭和32年の河川改修の際に川底になってしまいました。

対岸を望む。

上流方向を望む。

・・・今回は曇り空で視界不良。

「昭和橋」。

「日光千人同心街道」。

     道筋には、「勘兵衛松並木」などがあります。

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東武線栗橋駅~羽生駅。その7。葛西親水公園。芭蕉句碑。毘沙門山古墳。秩父鉄道。(「利根川を歩く」2回目。)

2021-10-16 20:59:41 | 利根川を歩く

       

同じ所からの写真ですが、写真がぶれているように感じませんか。特に左側。目の錯覚? 手前の看板は焦点がぼけていません。鉄橋の構造が? 

実際には違和感はありませんでしたが、投稿してみて面白く感じました。

東武線の鉄橋の手前で土手を下りて、「葛西親水公園」に。

「葛西用水元圦(いり)跡」碑。

※【圦】《圦樋(いりひ)」の略》土手の下に(とい)を埋め水の出入り調節する場所。水門樋口(ひぐち)。(ひ)の口。

 葛西用水は万治3年(1660年)徳川幕府の天領開発策により関東郡代伊奈半左衛門忠克によって、利根川右岸、現在の羽生市大字本川俣の地に取水口の設置と用水路が開鑿され、以来永年に亘り幾多の変遷を経て農業用水を取水してきましたが、水資源開発公団(現 独立行政法人水資源機構)による利根大堰および埼玉用水の完成に伴って昭和44年(1969年)にこの元圦を廃止するに至り、以後埼玉用水の葛西用水分水工から取水することになり現在に至っています。
 そして、この旧元圦樋管吐口及び、用水路跡地は羽生市のご理解により葛西親水公園として生まれ変わり、地域住民の憩いの場として利用されています。

 

「葛西用水取水口跡」

葛西用水は見沼代用水、明治用水とともに日本三大用水と称され万治3年(1660年)関東郡代伊奈忠克によって開削され、昭和43年(1968年)埼玉用水完成にいたるまで308年間通水し、東部穀倉地帯をうるおしてきた。通水量毎秒16トン灌漑面積6,500ヘクタールにおよび羽生市の治水にもきわめて大きな関係があり史跡として指定した。「水清く 人美し」。

※「明治用水」=西三河地方南西部に農業用、工業用のを供給する用水である。幕末明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水だったため、明治という元号を冠するエポックメイキングな命名がされた。大正時代には、農業王国として、中原に位置する安城市が「日本デンマーク」と称して教科書に掲載されるほど、画期的な成功を収めた。安城ヶ原の開発により、10万以上の収量となった。(当時、岡崎藩が5万石)

(この項、「Wikipedia」より)

「明治用水」は、「東海道」歩きの際、三河安城付近で出会っています。

現在は、暗渠化の工事が進み、自転車専用道路などになっています。

・・・


    

昭和47年(1972)のようす。

 写真左側が明治川神社と鳥居で、奥の橋が東海道(旧国道1号線)。神社と明治本流との間には、県道豊田安城線があります。

・・・

昔の葛西用水圦樋管。

昭和43年までの旧圦樋管

現在の葛西用水分水工。

奥に見えるのは、明治27年(1894)建設のレンガ造りの樋管を復元したもの。利根川とはつながっていません。

羽生市として、「利根川」スパー堤防建設の進捗により、現在の「葛西親水公園」を別の場所に移す構想があるようです。

そのせいか、四阿などほとんど整備がされていないようす。公園の朽ちたようなベンチに座って休憩しようとしましたが、「まむし注意」の看板を見て、すぐに退散!

四阿。

常日頃、身近に接している「曳舟川」の源がここにあったわけです。機会があったら、ここから墨田区まで歩いてみようと思います。

ここから遠く墨田区まで。

「埼玉用水」から取水。

              

この先で、「葛西用水」から離れ、東武伊勢崎線「羽生」駅に向かいます。

駅近くで松尾芭蕉の句碑を発見。「春もやゝ けしきととのふ 月と梅」。

   

向島百花園でおなじみの句です。

ここで出会うとは思いませんでした。

道路を挟んだ北側にある神社は、「毘沙門山古墳」の塚上にあります。その神社と関連がありそうです。

毘沙門山古墳

全長64m、高さ5m、後円部直径約35m、前方部を西に向ける2段築成の前方後円墳です。
明治36年東武鉄道の線路敷設のため前方部西側の一部が切り取られ、その際に埴輪の破片が発見されました。築造年代は、埴輪から6世紀後半代と考えられています。なお、毘沙門山古墳の東南方の毘沙門塚古墳(「塚畑」と呼ばれていた所)から、昭和32年に円筒埴輪が発見されています。

(この項、「」HPより)

羽生駅から。右手が東武線、左手が秩父鉄道。右手奥の森が「毘沙門山古墳」。

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