おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

千葉都市モノレール「千城台」駅~JR東金線「東金」駅。その1。(「東金御成街道」をゆく。第2日目。)

2019-09-30 19:00:54 | 東金御成街道
                    9月28日(土)晴れ。
 「東金御成街道」歩き。
 今日で、終着地までの予定。というのも、歩くコースには、路線バスはなく、コミュニティバスがあるのみ。当然、鉄道はなし。「東金」駅まで行かなければ・・・、と。

 (9:22)前回の「御成台1丁目」交差点まで戻って、再開。東に向かいます。

いきなり急坂。けっこうなアップダウン。
                       車道が急に狭くなり、車が坂道をすごい勢いで下り、そして上ってきます。冷や冷やしながらの歩き。
右手は公園、池も見えます。

やっと道幅も広くなって一安心。

と、後ろを振り向くと、「ちょうちん塚」が。
 

 直線の道をつくるために、昼間は白旗、夜は提灯を目印として、小高い場所に掲げたといわれていて、その目印となった場所が、その後、一里塚となったようです。道路の向い側にも同様の塚があったようですが、現在はもう残っていません。

そこから来た道を振り返る。
 これから先、道はまっすぐですが、アップダウンが続きます。

 (9:33)上り坂の途中で、「金親(かねおや)」という宿場(間の宿)に向かいます。もともとこの道は直線でつながっていました。


車も少なくなってのんびりと。

1880年代のようす。直線になっています。

2010年代のようす。新道ができています。

「手打そば はづき」。
  

左手に長屋門。

「御成街道」。この付近に「高札場」があったか?

「長屋門」のあるおうちが続きます。

                        

                               

「大宮神社」入口脇に「御成街道」の解説板。
御成街道
 ・・・家康の命令を受けた利勝は、沿線96か所の名主を召集して村ごとに工事区間を雨時区間を分担させて昼夜兼行で造ったので別名「一夜街道」とか「提灯街道」と呼ばれている。・・・
来た道を振り返る。

(9:51)「金親町」交差点で県道53号に合流し、しばらく進むと、旧道の表示があります。県道は左に曲がりますが、旧道はそのまま直進。
 

ほんのわずかですが、旧道が残っています。振り返る。

広く、整備された道を東進。
 

(10:00)左手に御茶屋御殿跡が。

                         
御茶屋御殿跡
 徳川家康が東金への鷹狩りのために休憩所として造営したものです。このような御殿は千葉市のほかに御成街道の起点である船橋に「船橋御殿」、お狩場である東金には「東金御殿」が設営されていましたが、寛文年間(1661~72)に取り払われて、その跡地も現在大きく改変されています。この御茶屋御殿もほぼ同じ頃取り払われたものと考えられますが、跡地はよく旧態を止めています。
 御殿跡は一辺約110mの方形で、周囲に幅約5mの薬研堀の空堀と高さ約2.5mの土塁をめぐらし、南北2ヶ所の出入口があって、その内側に枡形土塁が構築されていました。内部の遺構については発掘調査により、主殿と思われる基壇部分のほか、長大な掘立柱建物跡群や井戸跡の他、17世紀中葉の陶器などの遺物も発見されています。
  

 まだ台風15号の爪痕が残って歩きにくいので、奥の御殿敷地跡までは行きませんでした。 

1880年代のようす。○が御殿跡。土塁が残っています。

2010年代のようす。右の野球場くらいの大きさ。
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JR都賀駅~千葉都市モノレール「千城台」駅。その2。(「東金御成街道」をゆく。第1日目+α。)

2019-09-24 18:59:11 | 東金御成街道
                          開発が進む中、まだまだ緑が残っています。

「御菓子司 麻布菊園」。
 「麻布」という地名と「菊園」という屋号のいわれは?
屋号 菊園 のいわれ
 先代菊園店主は、加賀百万石の城下より身をおこし、大正・昭和の御代を通じ宮中に於いて和菓子を以って御奉仕してまいりました。
宮中御儀式及び両陛下宮様方御日常の御菓子をはじめ宮中の秘菓名菓を誠心込めて謹製し、昭和三十年、長い宮中奉仕の大任を終えました。
その際、菊の園生の愈々栄えまさんことを願い、故 入江相政侍従長より『菊園』との屋号を戴き、現在に至ります。


       予約が多く、生産がまにあわないほどの人気お菓子。

(この項、「」HPより)

 けっこう車がやってきます。なかなか繁盛しているようす。

台風の影響で竹もやられています。

こちらの森も。

「若松町」交差点手前に、旧道。「佐倉街道古道」。

「国道51号線」との交差点「若松町」。
 「国道51号線」(=「佐倉街道・「成田街道」・「佐原街道」)は、佐倉~成田~佐原まで歩いた時、けっこう重なっていた国道になります。

角に小休止できるようなベンチがいくつか。

交差点を越えて、真っ直ぐに進みます。

 

 右手に「小倉自然の森」(市民緑地)」。ここも台風の被害で倒木多く、立ち入り禁止となっています。


                         

「植草学園大学」。

「春日神社」の先の「御成台1丁目」交差点。
 この先の街道はぐっと狭くなります。今回はここまで。
 右に折れて、千葉都市モノレール千城台駅に向かい、今日の下車駅「都賀」まで戻ります。
 

 学生などでけっこう混んでいます。
 懸垂型モノレールとして営業距離世界最長を誇るらしい。

都賀駅。遠ざかるモノレール。

               (「Wikipedia」より)



1880年代のようす。斜め直線が「東金御成街道」。


2010年代のようす。左下にモノレール「千城台」駅。
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JR都賀駅~千葉都市モノレール「千城台」駅。その1。(「東金御成街道」をゆく。第1日目+α。)

2019-09-20 19:35:29 | 東金御成街道
                           ここを右に曲がった道が旧道の名残。


      ○が鎌池交差点。この少し西から街道が復活。左下に「都賀」駅。(「今昔マップ」より)

 前回、当初は「千城台」駅まで歩く予定でしたが、途中でリタイア。次回の歩きを考えると、当初の予定のところまで行った方が得策。午後から晴れ間も出てきたので。

9月15日(日)。晴れ。

 しかし、台風15号の被害が甚大な千葉県。興味本位ではいけないな、と。
 歩いていると、県南ほどではないようですが、歩いた沿道の樹木にはそうとう影響があったようす。

 JR総武本線「都賀」駅下車。線路沿いに北に向かい、「鎌池」交差点まで、約25分。自衛隊駐屯地東側のきわところから、「東金御成街道」が復活します。


       交差点までのわずかな区間が街道の名残(道幅が当初のまま)。

「鎌池」交差点。

「御成街道」という表示。このあとも、街道沿いに、この表示が立っています。

JR総武本線の踏切を越えます。

左手に緑が広がります。

 その先、右手。駐車場と街道の間、少し盛り土になったところに樹木が生い茂っています。ここが「焼塚」という「一里塚」だったと言われています。特に説明板とかはありませんが、船橋から3番目の一里塚。


                     

 事前に知らないと、そのまま通りすぎてしまいそう。先達に感謝します。
 

その先に「御成街道」という表示。

振り返る。左手のところが「焼塚」。

真っ直ぐに進む街道。

「御成苑」。

 街道の左右には木々の深い緑が。しかし、先日の「台風15号」の爪痕か、折れているもの、倒れているものなどが目につきます。
 

                           

草花も根こそぎ倒れてしまっています。

途中で折れてしまった杉。

      かなり無残なようす。地面には落ちて枯れ始めた木々が。

それでも足下には可憐な花。
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JR総武本線「津田沼」駅~「四街道」駅。その4。(「東金御成街道」をゆく。第1日目。)

2019-09-18 18:49:16 | 東金御成街道
                             (12:34)「犢橋(こてはし)」の宿に向かいます。
旧家の大きな屋敷が目立ちます。


下って、また上りの坂「油作の坂」。

旧道の一部が残っているそうです。お堂の脇の左手の道。
 御成街道はほぼ直線に造成されたが、このあたりは工事を担当した村と村の接点で、東に向い工事してきた村と西に向かい工事してきた村とが目測を誤り、直線道として結びつかず、互いに主張を譲らなかったために曲がってしまったとか(「坂道散歩」さんのHPより)。

 以下、「房総史譚」HPより

2009年12月25日 (金)
御成街道の犢橋宿を想う
 御成街道の「犢橋宿」は、街道沿いに人馬継ぎ立ての業務を行う「問屋場」の他、旅人相手の旅籠屋(渡辺屋・花嶋屋など)・茶屋(新茶屋)・酒屋・駄菓子屋・餅屋・荒物屋など、15軒ほどの店屋がありました。
午後になると、華美な着物を着た「宿場女(飯盛女)」が立ち、行き交う旅人に声をかけ、また、夜遅くまで三味線の音が聞こえていたという。
・・・

「犢橋局」バス停。

実りの秋。

(12:58)「東関東自動車道」の「宮野木料金所」が右手に。

                    

マンション前の巨木。かつてもこんな並木が。

その隣に旧家らしい趣のおうち。



                     家の塀も道もどこまでも真っ直ぐ。



 (13:24)しばらく進むと、「長沼原」交差点。右の歩道が斜めに広くなっています。


               向かいは、「住友建機」の大きな敷地。

来た道を振り返る。

 ここで、「東金御成街道」は消滅します。元の道は、住友建機、その先の工場地帯、さらに自衛隊の駐屯地の中を一直線で通っていました。

 (「今昔マップ」より)
         赤い直線が「東金御成街道」(消滅部分)。

 行き止まりなので、来た道をそのまま道なりに進みます。 
「住友建機」。
 
 この先、「六方町」交差点を右折し、自衛隊駐屯地を迂回して、復活地点へ行くこともできます。
   

(13:48)が、今回はここまで。バスで「四街道」駅に向かいます。
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JR総武本線「津田沼」駅~「四街道」駅。その3。(「東金御成街道」をゆく。第1日目。)

2019-09-17 18:54:45 | 東金御成街道
                         (11:05)街道に戻って東に向かいます。

街道筋らしい旧家がいくつかあります。

                         

         「長屋門」風のおうち。

街道はまっすぐ延びています。

「長作」交差点の角にも立派なお屋敷が。

「はばたけ未来へ 長作っ子!」
                    創立140周年の小学校。

千葉市のマンフォールの絵柄。
               「大賀ハス」、市の木「ケヤキ」と市の鳥「コアジサシ」を描いたもの。

 最近、新しいデザインのものができたそうです。「マンフォールカード」より。


 ちなみに、千葉市の市章は、千葉氏の家紋「月星紋」をモチーフとしているそうです。

緩やかにアップダウンを繰り返して進む街道。

(11:30)「天戸台」交差点。
               「四街道」という地名が。

 12時前ですが、右手にある中華料理店で昼食、休憩。

再開。(12:08)右手に椎の大木。


御成街道と古木「椎の木」
 御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37㎞)道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、・・・
 ここには、街道に面して、樹齢がそうとう経った椎の木の根元近くに、「六十六部供養塔」天明7年(1787)が建っています。これは、巡礼六部行脚の供養碑で、天戸村の人々の伝える貴重な文化遺産です。・・・

        

 その先、左手に「花島観音入口と石塔」解説板。
 
・・・御成街道と南は袖ケ浦(東京湾)へ北は印旛沼へ出る「検見川道」が交差しているしているところです。このあたりは享保7年~8年頃まで牧場でした。習志野原は江戸時代徳川幕府が下野牧(野馬)を経営していたところで、 検見川道を行き交う人々は牧場を通って往来してきました。・・・

「検見川道」。

畑地が広がる。

 坂を下ると、「花見川」に架かる「天戸大橋」。上流に「花見川大橋」(↓)。


 花見川はもともと、現在の花見川区犢橋町など旧千葉郡内を水源として東京湾(江戸湾)に注ぐ小さな川に過ぎなかった。江戸時代1724年以降、印旛沼の洪水対策と干拓を目的として、同じく千葉市横戸町付近を通り印旛沼へと注ぐ勝田川、高津川 (千葉県)等の水系を花見川と結ぶ疏水工事(印旛沼干拓)が幾度となく繰り返された。これらの掘割(疏水)工事は全て失敗に終わった。江戸時代の工事に携わり死亡した人足の共同墓地が、流域の各所に存在する(千葉市花見川区横戸台など)。
 戦後になり新たな設計で放水路が起工され、1969年に現在の印旛放水路が完成した。

 江戸時代の利根川東遷事業の影響により利根川とつながる事となった印旛沼は、利根川の水位上昇によりたびたび洪水が発生するようになり、周辺の農業等への被害が深刻なものとなっていた。この印旛沼の水位上昇を東京湾に放流するため、中間地点に揚水施設「大和田排水機場」を設置し、一度汲み上げて分水界を越えた先の東京湾へ排水するという特殊な放水路である。
 途中の大和田排水機場を境にして印旛沼側の掘割工事により開削された疏水路部分である「新川」と、東京湾側の自然河川である「花見川」とを合わせて「印旛放水路」と呼ぶ。
 河川管理上は、花見川より低地である新川が印旛放水路の上流にあたる。これは大和田排水機場の排水が新川から花見川へしかされないためである。

(以上、「Wikipedia」参照)
 
                    下流方向。
この付近の今昔。

1880年代のようす。「花見川」は小川にすぎない。周囲に畑地が広がる。


2010年代のようす。「花見川」は整備されていますが、畑地は以前と変わらず。

「犢橋(こてはし)」への上り坂。少し木に覆われた道。

(12:28)「広尾」十字路。交差する道路はかつての軍用鉄道線跡。
  

(「今昔マップ」より)
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JR総武本線「津田沼」駅~「四街道」駅。その2。(「東金御成街道」をゆく。第1日目。)

2019-09-13 18:48:28 | 東金御成街道
                             どこまでもまっすぐな街道。

右手に「張替酒店」。

                    

 以下の項は、「」HPより。写真も。

・・・
 4代目店主の張替正信さんに、お話を聞きながら店内を案内してもらいました。

 張替酒店の創業は1905年(明治38年)で、今年でなんと創業114年になります。
 この建物は昭和6年に建てられて、今もなお現役で実際に住居としても使っているというのだから驚きです。釘を1本も使わずに組み上げられたそうで、今でも改修などで大工さんが来るとみなさんその技術の高さにビックリすると言います。

 大久保は現在の日本大学、東邦大学のあった場所に陸軍騎兵旅団の指令本部が置かれており駅前から続く商店街も含めて周辺には御用商人が軒を連ねていました。だから歴史あるお店もいまだに残っていて、張替酒店もその一つ。

 騎兵出身だった初代の張替一郎さんがお店を立ち上げ、以来終戦まで御用商人として軍に出入りしていました。そのため敷地の奥には、軍の偉い人を招いて宴会を開く離れもありました。

 なんと離れは今も現存している!特別に見せていただいた。

離れ。

 この場所で生まれ育った正信さんは、学校を卒業して一度は旅行会社に就職し、添乗員としてツアーの案内で全国を回りました。その後実家に戻り父の手伝いを始め、30年以上酒屋を一緒に営みました。

昔、酒樽を置いていた棚もそのまま利用している。

 自分の生まれ育った家でもあり、素晴らしい造りなのでなるべく綺麗に残したいと、店内のレイアウトも昔の良さを崩さずに現代的なレイアウトに変えていったという正信さん。
 自分が美味しいと思ったお酒は直接蔵元へ行き仕入れ先を開拓して行きました。

「今はお酒もネットで買う時代ですが、好みを聞いて、それに合うお酒を会話の中で提案していくというのは、やっぱり対面販売ならではですよね。加えてこうして残している古い建物をお店に来て見ていただけるのも、一つの楽しみにしていただければ嬉しいですね」と語ってくれた。
 確かに酒を買うだけならコンビニでも買えるこの時代。それでも張替酒店が続いているのは脈々と続く歴史に裏打ちされた信頼あってのものでしょう。それに加えてこのお店、建物そのものが魅力の一つになっていますね。
 まだ行ったことがないという人は、是非一度訪ねて見てはいかがでしょうか?
・・・

来た道を振り返る。左手に「張替酒店」。

1900年代。陸軍騎兵聯隊。(「今昔マップ」より)。

2000年代と比較。(「同」)

京成「大久保」駅付近の賑やかな通りに。ユニークな建物。



            「日大生産工学部実籾キャンバス」が左手に。

 「京成本線」の踏切を越えます。左手に「実籾」駅。

踏切を越えた付近に「一里塚」があったようですが。

右手奥、「実籾本郷公園」に古い住宅が残されているという案内があるので、坂道を下っていきます。

鴇田(ときた)家住宅(裏手から)


 旧鴇田家住宅は、享保12年(1727)から翌13年にかけて東金(御成)街道沿いに建築され、江戸時代に実籾村の名主をつとめた鴇田家の住居として、平成3年(1991)まで使用されていました。平成12年10月にほぼ建築当初の姿で移築復元され、同年11月に開館しました。
L字型に曲がった主屋は、かつて東北地方に多く分布していた「曲屋(まがりや)」であり、南関東ではきわめて珍しい建築様式です。また、身分の高い人が来訪した時に使う「ゲンカン(玄関)」や、その供の者が待機した「トモマチベヤ(供待ち部屋)」、江戸時代の民家としては貴重な客便所など、名主の家にふさわしい特色を伝えています。(「解説文」より)

建物の規模、規格。


          「曲屋(まがりや)」形式の主屋。

    

                          

 土間のカマドでは火を焚いていて、煙が漂い、いぶされた雰囲気が懐かしい。

「上宿庭(かみじゅくてい)」。

 この鴇田住宅のある「実籾本郷公園」は、けっこう木々も多く、広々としたアヤメ畑や湿原などもあって、ゆっくり散策できるところ。小休止しました。
                    案内板。
カルガモの集団が水辺に。

この地域にまつわる民話なども解説板に。



1880年代のようす。湿地帯と畑地とが区分されていて、今の「実籾本郷公園」は谷津・谷戸(谷筋)にあたる。



2010年代のようす。中央上に、京成線「実籾」駅。斜め直線の道が「東金御成街道」。中央左が「実籾本郷公園」。

 「東金御成街道」はほぼ直線で貫かれていますが、丘陵地帯と谷戸とをほぼ交互に進むので、けっこうアップダウンが多い道となっています。
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JR総武本線「津田沼」駅~「四街道」駅。その1。(「東金御成街道」をゆく。第1日目。)

2019-09-12 19:34:40 | 東金御成街道
 今回からの街道歩きは、「東金御成街道」。

 御成街道は1613年12月、徳川家康が東金へ鷹狩りに出かけるために作られた。
 家康に命令を受けた老中佐倉藩主土井利勝は船橋~東金間約37キロに及ぶ沿線の村々97ヶ所の明主を召集、村ごとに工事区分を分担させ、農民を動員し、昼夜兼行で造ったところから別名「一夜街道」「提灯街道」、また家康の名をとって「権現道」とも呼ばれている。
 下総台地の分水嶺を西南にほぼ直線につづく御成街道は道幅3間(約5.5m)、両側には松が植えらえ、小川には橋を架け谷間には土手を造り、船橋市本町4丁目、千葉市御殿町、東金市県立東金高校敷地の3ヶ所に宿泊所が建造された。
 御成街道のように真っ直ぐに造られた街道はとてもめずらしく北海道の一部を除いて他にない。
 現在の御成街道は造成や開発などで一部寸断されているところや、立派に舗装された箇所も多くあるが、街道の道筋がほぼ当時のまま残り、鷹狩りに向かう家康の面影を思いながら探訪すると楽しい。


(「」HPより)

 船橋市本町から東金市田間、山武市小松までの約37 kmをほぼ一直線に結んでいる街道である。なお東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道と呼ばれる。
 至極短期間の工期で作られたとする伝承があるが、誤りであることが史料などから確認されている。沿道の村々の農民たちが石高に応じて駆り出され、「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」などといわれ、提灯街道、一夜街道とも呼ばれるが、実際は慶長19年正月に着工し、数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した。
 なお、東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道、あるいは御成新道と呼ばれ、別のものかつ後から造成されたような印象を受けるが、実際には山武市小松までを含めた御成街道全体が同時に造成された。
 道中には将軍が休息・宿泊する為の施設として船橋御殿(現・船橋東照宮)、千葉御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、千葉御殿(千葉市中央区中央)、東金御殿(現・千葉県立東金高等学校)、土気御殿(大網白里町池田)が造られた。千葉御茶屋御殿と千葉御殿は別の物件であり、現在の千葉市内には御殿が二カ所存在していた。

(この項、「Wikipedia」参照)

 8、9日に襲った「台風15号」の甚大な被害。鉄道、電気、水道などのライフラインの復旧がままならぬ千葉県内。農作物などの被害も掌握できず。マスコミは内閣改造の話題が中心。そういえば、アベ自公政権はこうした内閣改造にうつつをぬかして、災害対策はいったいどうなっているのでしょうか? また千葉県の森田知事は・・・。

 今回歩いた地域の状況はどうだったのか? そして現状は? と大いに気になります。

 9月7日(土)。晴れ。 

 「船橋」からの道は省略し、JR総武線「津田沼」駅を降りて、いったん西に向かい、「成田街道(佐倉街道)」との分岐まで戻って、そこから歩き始めます。
 
  「成田街道(佐倉街道)」との分岐点。左手の角に「左 成田山道」と刻まれた大きな道標。

解説板。
御成街道(東金街道)について
 御成街道(東金街道)は、慶長18年(1613)12月徳川家康の名を受けた佐倉藩主土井利勝が三日三晩で造成したと伝えられています。
 家康の東金への鷹狩り等のために作られたとも言われ、船橋から東金までほぼ直線で結ばれています。徳川家康・秀忠・家光が御成街道を通り、東金周辺で鷹狩り等を催しました。将軍や大御所がお通りになる=お成りになるというので、御成街道と呼ばれたと言います。

 (前原西1丁目)は 成田街道と東金街道との分岐点です。明治12年(1879)に成田山の信徒と地元前原の有志が建てた道標があり、前面には「左成田山道」と刻まれています。また、右側面は「成田山 従是房総街道」(東金街道を房総街道としています。)左側面には「成田山道」と刻まれています。

 江戸時代、主要な街道などには、一里ごとに一里塚をおいて松などの木を植え旅人の目印としていましたが、船橋を過ぎると一里塚は次のようにおかれていました。
 ①一里塚  習志野市実籾
 ②向山   千葉市花見川区犢橋
 ③焼き塚  千葉市若葉区若松町
 ④提灯塚  千葉市若葉区千城台東
 ⑤椎の古木 千葉市若葉区富田町
 ⑥一里塚  八街市上砂
 ⑦殿山   東金市黒田
  一里塔  東金市
(⑦が2つあるのは表道と裏道の2つの道筋があったため)


分岐点付近の今昔

1880年代のようす。北に向かうのが、「成田街道」。東に進むのが「東金御成街道」。この当時は、「成田街道」の方が広い道だった。


2010年代のようす。現在は、「津田沼」駅へ向かう道でもあるので、こちらの方が広い通りに。

(9:26)「津田沼十字路」から「新京成線」の踏切を越えます。

 しばらくすると、「習志野市(藤崎)」へ入ります。まっすぐな道ですが、思ったよりアップダウンがあります。
 

(9:38)左手に旧家らしい大きな屋敷。

↓が「東金御成街道」。(南北を入れ替え)。左が「津田沼駅」方向。

四つ角に「東金御成街道」の解説板。

                       
 東金街道は、徳川家康が上総国東金(現東金市)での鷹狩りに向かうための通行路として造られたと言われ、御成街道とも呼ばれます。船橋を起点として、市内の藤崎・大久保新田・実籾を通り、犢橋(こてはし)・金親(かなおや)・小間子牧(おまごまき)を経て東金に至る約37キロメートルの道です。

 慶長18年(1613)12月、家康は翌年正月に東金で鷹狩りを行うため、佐倉藩主土井利勝に東金までの新道築造を命じ、沿道の村に工事が割り振られ、「提灯街道」「一夜街道」の別名があるように、昼夜兼行の工事でごく短期間のうちに完成させたと伝えられています。
 ただし、家康がこの道を初めて使ったのは元和元年(1615)11月ですので、実際の完成はこの頃だったと考えられます。
 この道は鷹狩りのためだけでなく、政治的・軍事的な理由から造られたという説があり、また、家康の鷹狩りには軍事訓練・周辺諸大名の牽制・権威の誇示・庶民の視察などの目的もあったと言われています。
 徳川秀忠も鷹狩りのためにこの道を何回か通行しましたが、寛永7年(1630)を最後に東金での鷹狩りは行われなくなり、この道は役人の通行路・民間の物資輸送路・庶民の生活道となり、大部分は今日も道路として使われています。
 なお、ここから南東100メートルほどの位置に一部が残る藤崎古道は、東金(御成)街道以前の道の名残であると伝えられています。

1880年代のようす。「藤崎」地区がまとまりのある集落。

2010年代のようす。左に「津田沼」駅。

周囲には緑が多くありますが、街道筋には木々がありません。

(9:55)しばらく先、右手の造園会社のデコレーション。

   夜は、さぞかしきらびやかに。

けっこう暑くなってきたので、日陰が欲しいところですが。
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葛飾区銭湯めぐり。その10。そのぬくもり。「久の湯」。「吉野湯」。

2019-09-09 18:44:36 | 葛飾銭湯
                             ㉓「久の湯」。葛飾区小菅3-11-17
 何かと気ぜわしい世間とはいささか離れて、今回、久々に銭湯巡りの報告です。

 台風15号が関東を直撃。我が家も夜中から朝方まで激しい雨風で、猫たちも不安なようすで、鳴き声がしきりに。
 電車もストップ。千葉などで大きな被害が出たもよう。

 ようやく静かになった、でもかあッと照り始めた日ざしの元、電車がいつ運行するか分からないまま、自転車でおでかけです。
 「台風一過」。空気も少しは澄んできたようで、富士山が遠くビルの間から顔をのぞかせています。
           

 でも、今日の午後は9月としては記録的な猛暑になる、との予報。36℃。その通り、たしかに暑い! 帰りもしんどいものがありました。

 しかし、陽が落ちると、ひところのような暑さは落ち着いて、銭湯通いも心地よい、ちょうどいい時節になりそう、といっても、残りわずかになった葛飾銭湯巡り。
 始めた頃は、27箇所巡りの予定(始める少し前に、一箇所、亀有にあった銭湯が廃業になりました)でしたが、その後、廃業(長期休業? )がまた1つ出て、26となった「葛飾銭湯巡り」。残りあと4つとなりました。

 京成「堀切菖蒲園」駅前の道(「川の手通り」)を北に向かい、「堀切中央病院」を越えた先、コンビニを左に入ったところにあります。
 ロケットのような煙突が目立ちます。大きく煙突には大きく「久の湯」と。

 浴室内には男湯から女湯にかけてつながる富士山が鮮やか。

 番台形式。脱衣所。とても清掃が行き届き、清潔な印象。番台から「ごゆっくり」と声を掛けられて、気をよくします。
 浴槽は、超音波気泡風呂ジェット2連の座湯、バイブラ湯、薬湯と三つ。中でも日替わりの薬湯が大人気のようで、この日は、「草津温泉」仕立て。ほのかに温泉の香りが漂います。なお、次の日曜日にはコーヒー風呂の予定で、人気があるようです。薬湯には力を入れているようで、予定表があり、好みに応じて来ることができそう(他の銭湯では「本日・・・」とあってもほぼ毎日、同じというところもあるようですが)。これはすばらしい企画。
 平日の夕方。亀有地区の銭湯のような混み具合ではなく、数人。ゆっくりと思いのままに湯船につかれます。
 
                   


㉔「吉野湯」。葛飾区堀切6-33-5

 「久の湯」と同様、京成「堀切菖蒲園」駅前の「川の手通り」を北上、「川の手通り」の右手、一本裏の暗渠をそのまま歩道にした道にあります。表の通りには「吉野湯」の看板あり。「久の湯」とは至近距離。

 大正10年創業で、以前、堀切には菖蒲園が5つあり、その中の「吉野園」から命名された、ということです。
 男湯の壁絵は「富士川 早川」。急流の富士川を描いた豪快なペンキ絵。女湯は「南紀白浜」だとか。
 男女の仕切りの壁には、男湯は厳島神社、女湯は浦島太郎が描かれた九谷焼のタイル絵(のようです)。鹿など細かい意匠にも気を配った、見事な出来映えです。
 仕切り側カラン正面には個々に30センチ四方の正方形の鏡が斜めに置いてあるのが、洒落ているか。
 年代物の扇風機、大きな鏡、ネジ巻時計など、どれも大切に使われてきたことが一目でわかります。レトロな味わいの銭湯。坪庭に面した濡れ縁(板廊下)には椅子が置かれ、身体を休めるのにちょうどいい。
 番台形式で、若女将(? 年齢不詳)が座っていました。
 ここも夕方、来ましたが、客は私を入れて4、5名。ゆっくりと入れます。
 浴槽は遠赤外線バイブラと深湯の2つに仕切られています。お湯の温度は44℃くらいで、けっこう熱め。これまでで一番熱かった感じ。でも、かえって気持ちがいい。
 脱衣所も静かな雰囲気。大型テレビでは、京急の事故を報道中、真っ裸のまま、見入っているおじいさん。女将も心なしか目のやり場に困っている風情がまた、よし。

                  

 さて残りは二箇所。新小岩駅の向こうと東京拘置所の南。どちらも遠いですが。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その7。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-09-05 20:00:31 | 八王子絹の道
                            歩道のタイル絵。
 
 
「県警本部」先にあるのは、「横浜税関」。

「解説板」。
 建物は税関らしく正面を港に向けており、塔はイスラム寺院風のドームをいただき、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。その塔は、「クイーン」の愛称で親しまれている港ヨコハマのシンボル。


 5階建てのエキゾチックな庁舎には、「ロマネスク」などの西欧建築様式が混在し、それをベージュ色の磁器タイルが優しく覆っています。
イスラム寺院を想わせる緑青色のドームは、「クイーンの塔」の愛称で親しまれています。

クイーン塔のデータ
竣工 昭和9年3月
設計者 吉武東里氏(国会議事堂も設計)と伝えられているが、詳細は不明
塔の高さ 51メートル

 横浜税関の「クイーンの塔」、神奈川県庁の「キングの塔」、横浜市開港記念会館の「ジャックの塔」は、横浜三塔と呼ばれ、横浜港のシンボルとして親まれています。

「クイーンの塔」の秘話
 関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。  
昭和7年第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められた。この時、“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”が港ヨコハマの高層建築物であった。
 塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成した。

キングの塔(神奈川県庁)
昭和3年11月竣工(高さ49m)
日本大通りに面してどっしりと構える風格はまさに”キング”。
五重塔をイメージさせる塔は、昭和初期に流行した帝冠様式のはしり。
1928年完成以来絶えず関内のシンボル的存在。

ジャックの塔(横浜市開港記念会館)
大正6年6月竣工(高さ36m)
一般の懸賞公募による設計、市民の寄付金による建造で、横浜開港50周年を記念して1917年に完成。
赤レンガと白い大理石の時計塔をシンボルに現在も公会堂として市民のために利用されています。

(この項、「」HPより)

正面玄関。特に半円形のアーチはロマネスク様式の基本要素であり、庁舎の主要なモチーフとなっています。

 正面玄関にある表札は、庁舎新築当時の大蔵大臣高橋是清の直筆と伝えられています。



                  キングの塔(神奈川県庁)」。

「象の鼻パーク」へ。

                         
象の鼻地区の波止場
 象の鼻地区の波止場は、時代とともにさまざまな愛荘で親しまれてきました。開港当初の波止場は東西2本の直線上の突堤で、東側の突堤は「東波止場」呼ばれ、主に外国からの輸出入貨物の積み卸しに使用されました。西側の突堤は「西波止場」と呼ばれ、国内貨物の積み卸しに使用されました。
 元治元年(1864)貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに「東波止場」が造られると、象の鼻地区の2つの突堤を総称して「西波止場」と呼ぶようになりました。
 フランス人建築家クリペによる「横浜絵図面」には、慶応元年(1865)当時の西波止場の姿が描かれています。当時の水際線は、現在の横浜開港記念館前の海岸通りの位置にあり、2本の突堤はそこから海に突き出ていたと考えられます。
 東波止場はフランス人居住区にあったので、「フランス波止場」とも呼ばれました。明治2年(1869)、象の鼻地区の前面にイギリス領事館(現在の横浜開港資料館の所在地)が建てられると、西波止場は「イギリス波止場」とも呼ばれました。西波止場の西側の突堤は、国内貨物用だったので「日本波止場」、税関に近いので「税関波止場」とも呼ばれました。
 象の鼻パークでは、西波止場の西側の突堤の位置を、広場の舗装パターンを変えることで表現しています。

               

象の鼻」。右が「大桟橋」。                 
 横浜港発祥の地。「象の鼻波止場」を明治中期の形状に復元し、横浜港開港150周年となる2009年(平成21年)6月2日に開園。

《歴史》
1859年(安政6年) 東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設され、横浜港が開港。
1867年(慶応3年) 東波止場が弓なりに湾曲した形に築造され、その形状から象の鼻と呼ばれるようになる。
1896年(明治29年) イギリス人技師・パーマーの設計により東波止場の先端に大さん橋が築造され、西波止場の背面が埋め立てられる。
1923年(大正12年) 関東大震災により被災。その後、象の鼻波止場(東波止場)は直線に近い形状で復旧する。
2009年(平成21年) 横浜開港150周年を記念して、象の鼻波止場が明治中期頃の形状に復元され、開園。
(以上、「Wikipedia」参照。) 

2014年3月にこの付近を訪れたので、再掲。
 
赤れんが倉庫から「山下公園」方向へ。

「新港橋梁」。

赤れんが倉庫側を望む。軌道が敷かれている。
銘板には「大正元年八月 浦賀船渠株式會社製造 」とある。

 もともとは横浜臨港線(貨物線)の橋梁で、新港埠頭が出来た明治44年(1911)に開通した臨港線に続き、大正元年(1912)に横浜税関まで開通させた際に架設したもの。

橋を越えると「象の鼻パーク」。案内図。

実際は、「新港橋梁」から来るとこのように見える。↑が象の鼻「防波堤」。



1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「象の鼻」のような形をした「波止場」になっていたことがよく分かる。
日本海軍水路寮作成海図「武藏國横濱灣」の一部(明治7年(1874年)刊行)。図の中心からやや右下に2つの波止場が確認できる。(「Wikipedia」より)
(注:Aが「神奈川砲台(台場)」、Bが「象の鼻(東波止場)」と「西波止場」)。


1970年頃のようす(「同」より)。「象の鼻」の形がまっすぐになっている(↓)。その東隣が「大桟橋」。

正面が「象の鼻」突堤。左に見えるのが「飛鳥Ⅱ」号。

芝生のところから「大桟橋」を望む。正面が「象の鼻」。


2010年代のようす。


ここも5年前と比べると整備されています。
                       「キングの塔」(左)と「クイーンの塔」(右) 

                            

 (13:51)ここが今回の終点。炎天下の中、4日がかりでした。お疲れ様でした。

 この先、「シルクセンター」の方へ向かいます。
 
                      「山下臨港線プロムナード」。線路跡が遊歩道に。

「観光案内図」。

横浜開港資料館」。

            

ペリー提督横浜上陸」図。

                           

(14:01)「シルクセンター・シルク博物館」に到着。

ビルのところに「英一番館(ジャーディン・マセソン商会)跡」碑。

             
英一番館跡
 安政6年6月7日(1859.7.1)横浜が開港した。イギリス人、ウイリアム・ケズウイックは、開港と同時に帆船で横浜に来航し、居留地一番館において貿易を始めた。この建物はジャーディン・マセソン商会と称したが、当時の人々が「英一番館」と呼んでいたのは、この地点である。

「シルク博物館」を見学し、ロビーで休憩。

 「大桟橋通り」から、みなとみらい線「日本大通り」駅へ。

                  

「日本大通り」沿いにある「神奈川運上所跡」碑。

                            
神奈川運上所跡
 開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属していた。
 慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた。
                 
 こうして急ぎ足の横浜港めぐり終了、「日本大通り」駅から帰ります(14:50)。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その6。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-09-04 20:15:05 | 八王子絹の道
                             「馬車道」。ガス灯が並ぶ。

近代街路樹発祥の地」。この付近は、文明開化の象徴のような街。

 

「馬車道」の街並み。この先、歴史的建造物や趣のある建物が並んでいます。

 
 「関内ホール」前にあるガス灯は日本で最初のガス灯を復元したもの。
 
イギリスからやってきたガス灯たち「英国国会議事堂のガス灯」
 テムズ川のほとりにそびえる高さ96mの時計塔ビッグ・ベンがシンボルとして立つことで有名な英国国会議事堂は、正式名称をウエストミンスター宮殿といい、1065年エドワード国王によって建設されました。当時の建物は1834年の火災で焼失しましたが、1852年に国会議事堂として再建、ビッグ・ベンもその時に建てられています。
 このガス灯は、この建物の北西部に立つガス灯と同じものです。
 1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道にともされたことを記念して、東京ガスの協力により設置しました。

 
     「県立歴史博物館」。「旧正金銀行本店本館」。

 幕末に横浜が開港して以来、外国との貿易・金融取引は外国の商人たちが主導していました。これを改善するため、明治13年(1880年)に国立銀行に準拠する横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう)が設立されました。「正金」とは現金の意味で、その名の通り、日本の不利益を軽減するために現金での取引を主に行いました。その後、政府の保護を受けて外国との貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長。大正時代には世界三大為替銀行の一つに数えられるまでになりました。戦後は外国為替業務を東京銀行に引き継ぎ、現在の三菱UFJ銀行の前身となっています。
 この建物は明治37年(1904年)に銀行の本店として竣工。設計は明治を代表する工学博士、妻木頼黄(つまきよりなか)で、ドイツルネサンス様式を採り入れ、屋上部分の八角形ドームが特徴となっています。大正12年(1923年)の関東大震災や昭和20年(1945年)の横浜大空襲の災禍を乗り越え、昭和42年(1967年)には増築した新館とともに、神奈川県立博物館となりました。そして明治時代の洋風近代建築物として貴重なことから、昭和44年(1969年)に国の重要文化財に指定。更に横浜正金銀行とその周辺地が戦前の貿易や金融の分野で重要な役割を果たしたことが評価され、平成7年(1995年)には、広島原爆ドームと同時に近代のものとしては初めて、国の史跡に指定されました。2F常設展示室では、東京銀行から提供された当時の資料が展示されています。
               

 (この項、「近代文化遺産見学案内所」HPより)

 
                 「馬車道大津ビル」。
 シンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠とするアール・デコ特有のスタイルを示す。特に壁面頂部の表現は典型的なものである。現在もオフィス・ビルとして使用され、馬車道の歴史的景観を構成する貴重な建物である。

 
 昭和4年(1929)に「安田銀行(後の富士銀行)横浜支店」として建てられました。現在は、「東京芸術大学 大学院映像研究科 馬車道校舎」として活用されています。

 ルスティカ積みの外壁にドリス式オーダーの付柱と半円形窓が組み合わされて配されている。当初は安田銀行横浜支店として建てられた。
 安田銀行は大正末から昭和初期にかけてほぼ同じスタイルで各地に支店を建てているが、これはそのなかでも最大規模かつ、希少な現存例。

「旧生糸検査所」。現:「横浜第2合同庁舎」。

「牛鍋」のお店。荒井屋万国橋店」。





(「」HPより)

 「牛鍋」は、牛肉を主にして、野菜などを調味料で煮た料理。文明開化の象徴として横浜が発祥のメニュー。今では、一般的に「すき焼き」と呼ばれるようになりました。醤油や砂糖をベースとした割下を使用しますが、地域や店によって味付けは異なります。
 牛鍋の本場・横浜には、100年以上前に創業した老舗店が多くあります。

(13:37)「万国橋」からの港風景。
 この先を進むと、「赤レンガ倉庫」方面になります。「海岸通り4丁目」交差点まで戻って、「海岸通り」を進みます。
 「日本郵船歴史博物館」が左手に。その前を通ったので、写真が中途半端。建物全景の写真を。
 (「」HPより)

 その先に「横浜税関ビル」。そして、「象の鼻」方面に向かいます。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その5。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-09-03 21:02:05 | 八王子絹の道
                          (13:04)商店街を抜けて、「吉田町」。
ここから港にかけての今昔。



1880年代のようす。Aが都橋、Bが吉田橋。北東に延びるのは「馬車道」。海側は外国人居留地。現在の横浜球場は、大きな「横浜公園」そこから港に伸びる広い道が「日本大通り」。東波止場:通称「象の鼻」が右上に。また、上方に、日本最初の鉄道の終点(現在の桜木町駅付近)。




2010年代のようす。Aが「都橋」、Bが「吉田橋」。大桟橋の左にあるのが「象の鼻」。この付近は、現在、もっと整備され、公園風に。また、「吉田橋」の下は「首都高横羽線」となっている。

(13:10)「吉田橋関門跡」碑。
 安政6年(1859)6月2日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
 吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
 関門は、当初港町側に設けられましたが、文久4年(1864)2月に吉田町側に移設されました。
 関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治4年に廃止されました。


吉田橋
 神奈川県横浜市中区の馬車道と伊勢佐木町の間の首都高速道路の掘割に架かる道路橋である。1869年に架けられた2代目の橋は、日本初の無橋脚鉄製トラス橋、日本で2番目の鉄製の橋梁として知られる。現在の橋は1978年に完成した5代目である。
 江戸時代に吉田勘兵衛により埋め立てられた吉田新田と、太田敬明により埋め立てられた太田屋新田の間に流れる派大岡川には、1859年(安政6年)の横浜港開港の頃に仮橋が架けられ、東海道と横浜港を結ぶ横浜道が通された。外国人居留地とその外部を隔てる関門番所がおかれ、この関所の内側にあたる一帯は現在でも関内と呼ばれている。
 3年後の1862年(文久2年)には仮橋から木造の本橋に架け替えられた。この橋は多くの橋脚を立てなければ耐えられないほどの簡易なもので、馬車の通行に支障をきたすと居留地の外国人らから苦情が寄せられた。これを受け、1869年(明治2年)にお雇い外国人の灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。鉄材はイギリスに発注され、橋長は約13間(約23.6m)、幅約5間(約9.1m)、トラスの高さは約6尺(約1.8m)で、工費は当時の額で7000円であった。
 1869年11月の完成から1874年6月までの間は馬車1銭、人力車5厘の橋税(通行料)が徴収され、「鉄」と「金銭」をかけて「かねの橋」と呼ばれた。当時の絵師たちからも評判になり、五雲亭貞秀の『横浜鉄橋之図』、三代目歌川広重の『横濱吉田橋ヨリ馬車道之真景』などの錦絵に描かれた。
 吉田橋を通じて、関内の繁栄がかつて沼地であった伊勢佐木町に広がっていくが、のちの埋め立てにより橋が道路より低くなる事態となり、1877年に信州人の宮坂初太郎・土屋茂十郎によって、5隻の台船を橋の下に並べ、潮の干満を利用して橋を1.5m扛上する工事が行われた。
 1910年5月には16万円余りの工費を投じ、橋長約20間(約36.4m)、中央径間60フィート(約18.3m)、側径間25フィート(約7.6m)の鉄筋コンクリート製3連アーチ橋への架け替え工事を着工し、1911年10月に完成した。幅は12間(約21.8m)で、7間(約12.7m)の車道の両脇に各2間(約3.6m)の歩道が設けられた。ヨーロッパ様式のモダンなデザインで、橋詰と橋脚上にはバルコニーが設けられた。車道部分には1912年に横浜市電の軌道が敷設されたが、関東大震災後に軌道は60mほど下流側の羽衣橋に移された。
 第二次世界大戦後には地盤沈下によりアーチに変形をきたしたため、軟弱地盤に耐えうる橋に架け替えられることになる。1957年9月に着工、4714万円の工費をかけ、翌年5月には橋長38.5m、総幅22mのゲルバー式混合橋が完成した。
 派大岡川は1971年に廃川となり、その跡には1978年に半地下構造の首都高速横羽線が開通した。両岸の地上部は新横浜通り(山下長津田線)の上下線が通る。この工事に合わせ、吉田橋も架け替えられることになった。
 現在の橋は1862年の木造橋から数えて5代目にあたり、1978年に完成した。2層構造で、上部は2車線の車道とその両側の歩道からなる。車道は馬車道方面から伊勢佐木町方面の一方通行で、イセザキモールは歩行者専用道路であるため、橋を渡った車両は新横浜通り桜木町方面または吉田町通りへの右折のみ可能である。欄干は、2代目の「かねの橋」をイメージした意匠が採られた。
(以上、「Wikipedia」参照。)

   
 長崎の「くろがね橋」につぐ国内2番目の鉄製の橋で、1911年(明治44年)に鉄筋コンクリート製に架け替えられました。
 左が鉄製。右が鉄筋コンクリート製。 
(この項、「」HPより)

「馬車道」側にある「解説板」。
鉄(かね)の橋
 明治2年(1869)、英国人R.H.ブラントン(1841~1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24㍍、幅員6㍍の日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄(かね)の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。

その横にある解説板。「ブラントンと横浜

 明治元年(1868)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。

 1870年の実測「横浜居留地図」が掲載されています。

方角を修正。
 左上に「吉田橋」。それに続く道が「馬車道」。外国人居留地は右下の一角に。「日本大通り」は中央の広い道。

 その「馬車道」を進みます。
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相鉄線「鶴ヶ峰」駅~「象の鼻」・「シルクセンター」~みなとみらい線「日本大通り」駅。その4。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第4日目。)

2019-09-02 19:53:50 | 八王子絹の道
                             (12:33)「戸部通り」を進みます。



1880年代のようす。すでに西の丘が開けています。そこを「横浜道」は縫うように南下します。



2010年代のようす。中央の南北に通じる道が「野毛の切通し」。右手の海はすっかり港と陸との共存地域に。
足下には「横浜道」のロゴが。

                       「温故知新のみち」。

次第に坂道になります。

             (12:47)右手は高台。

「紅葉坂」は港から南西に伸びる坂。
 近くには開港に合わせて幕府が港の運上や治安、外交などのために設置した神奈川奉行所跡があります。

 
                              野毛の切通し 
 安政6(1859)年、東海道と開港場を陸路でつなぐ横浜道を通すために野毛の山が切り開かれ、この辺りは野毛の切通しと呼ばれ、直角に曲がって、野毛、吉田橋へと続く道になりました。開港場を目指して全国から集まる人々や物資が行き交い、輸入された様々な文物もまた切通しを通り全国に伝えられました。
 現在の切通しは昭和3年(1928)に市電長者町線の整備の際に道幅を拡幅・切り下げしてできたもので、東側の石垣はその頃に築造されたものです。西側の野毛山住宅亀甲積擁壁(旧平沼専蔵別邸石積み擁壁及び煉瓦塀)(市認定歴史的建造物)と共に、往時の壮観を今に伝えています。

「野毛坂」バス停。


(12:52)「野毛坂」交差点を左折。右は野毛山公園・動物園などに通じる道。

ジャズが流れる街を東に進みます。

 (12:56)左側にある小公園には、日本近代水道最古の水道管が展示されています。
  
 明治20年(1887)日本最初の近代水道がイギリス人パーマーの指導により、ここ横浜の地に誕生しました。
 相模川と道志川の合流点(現津久井町)に水源を求め、44㎞離れた野毛山貯水場に運ばれた水は、浄水され市内に給水されました。
 この野毛坂の地下には、当時のイギリス製水道管が埋設されていて、今も働き続けています。
 当時の水道管を利用して造られたこの記念碑は、パーマーを始め多くの先人たちの偉業を偲んで建立したものです。
               

 人通りの多い賑やかな街並み。
  「野毛こうじ」。

足下のタイル絵。

 (13:03)「大岡川」に架かる「都橋」。初代の橋の名は「野毛橋」でしたが、後に架け替えられたときに「都橋」となったそうです。
 
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