おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

帯坂。「番町皿屋敷」。九段坂。(「九段下」から「市ヶ谷」まで。その3。)

2015-09-11 23:07:51 | 都内の坂めぐり

 「市ヶ谷」駅から「靖国通り」に出て、右手。三菱UFJ銀行の脇を緩やかに上る坂が「帯坂」。

「帯坂」。

 この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が、髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(1624~1643)外堀普請の後に市ケ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。

 怪談『番町皿屋敷』

 牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。
 承応2年(1653年)正月2日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。
 やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
 この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず、了誉上人は250年前の1420年(応永27年)に没した人物である。また千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった、というようにまったくの史実ではないという。
 が、東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られ、東海道・平塚宿にもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「元文6年(1741年)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。

 (以上、「Wikipedia」参照)

 以前、「平塚宿」を通ったときの記録。

「お菊塚」。平塚駅近くの「紅谷町公園」の一画にある。

説明板。

 番町皿屋敷・お菊塚

 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
 この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
 昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
 平塚市観光協会

お彼岸で香華が手向けてあった。小さな公園ですべり台がぽつんとある、その脇にあった。

 (2014・9・27記) 

 「帯坂」。短くゆるやかな坂で、気づかずに通り過ぎてしまいそうな坂。両側は「ゼンセン会館」「自動車会館ビル」「日本棋院」などの建物が連なり、人の行き来も激しい通り。

    

○が「帯坂」。

 「靖国通り」を「九段下」方向に進みます。

途中に設置された「解説板」。

 現在の九段上界隈は、江戸時代の早い時期から武士の屋敷として整備された町です。
 この界隈が九段と呼ばれるようになったのは、江戸時代も中ごろのことでした。幕府は四谷御門の台地から神田方面に下る坂にそって石垣の段を築き、その上に江戸城で勤務する役人のための御用屋敷を造りました。当時の石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれ、のちに町名にもなったのです。
 関東大震災以前は今よりさらに勾配がきつく、坂の下に荷車を後押しして生計を立てる「押屋」が常に集まり、客を待っていたほどでした。
 また、坂上にある靖国神社は、新宿から神田方面に抜ける主要地方道302号線の中心にあたり、靖国通りという呼称もここから生まれています。
 九段坂は四谷御門の台地の東端に位置し、坂を上りきった場所からは神田や日本橋、浅草、本所はむろんのこと、遠くは安房国や上総国(ともに現在の千葉県)の山々まで見渡せました。さらに西に目を向ければ、道の正面に富士山の全容を見ることができました。坂を上りきった界隈が明治から昭和のはじめまで富士見町とよばれていたのもそのためです。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 中央の坂が「九段坂」。等高線が続き、かなり長く続く急坂であったことが分かります。当時から道幅は広かったようです。

 「今昔マップ」によれば、神保町付近の標高は1~2㍍、九段坂上では25~26㍍と表示されています。

「九段坂上」交差点から。左手が「靖国神社」。

坂を下っていきます。

解説板。

 「坂の多い東京の中でも九段の坂は霞んで見えるほど長かった」(『明治東京名所図会』)というかつての九段坂は、また現在とは比較にならぬほど勾配もきつかったという。
 関東大震災(大正12年)後、坂の頂上を市ヶ谷寄りに移し傾斜をゆるくする工事が行われ、市電(都電)が坂の中央に設置された。現在は靖国通りの一部として車の往来が激しい。
 坂下の田安門近くには、常燈明台(正式には高燈籠)という燈台がある。かつては坂上の靖国神社前にあったこの燈台の灯は、品川沖の舟ばかりではなく、遠く房総からも望見されたという。

                      

    
 「歩道橋」から坂上を望む。                     坂下を望む。 

「靖国神社」の石垣。何層にもなっている。 

     

 この坂を九段坂といいます。古くは飯田坂ともよびました。「新撰東京名所図会」には"九段坂は富士見町の通りより飯田町に下る長坂をいう。むかし、御用屋敷の長屋九段に立し故、これを九段長屋といいしより此坂をば九段坂といいしなり。今は斜めに平かなる坂となれるも、もとは石を以て横に階をなすこと九層にして且つ急峻なりし故車馬は通すことなかりし"とかかれています。坂上は観月の名所としても名高かったようで、一月二十六日と七月二十六日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。

 月末の26日というと、下弦の月もそうとうの下弦。月の出は真夜中過ぎ。そんな時刻まで待っているとは何と風流な人士達と思います。

お堀の蓮。

「九段下」付近から。右手奥に靖国神社の大鳥居。 

「九段会館」。

 九段会館(くだんかいかん)

 旧称は軍人会館(ぐんじんかいかん)。
 二・二六事件では戒厳司令部が置かれた。ホールやレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式、各種公演、会議、試写会などに使用されていたが、2011年(平成23年) 3月11日 東京観光専門学校の卒業式の最中に東日本大震災が発生し、天井仕上げ材の一部崩落で2名が死亡、26名の重軽傷者が出た。
 この事故を受け、経営主体であった「日本遺族会」は会館の営業を終了し、建物を国に返還することになり、2014年に老朽化のため取り壊されることが決定した。

 「大震災」当日、そんな事故があったことも知らず、新宿から徒歩で帰宅中に、ここを通りかかったのです。

「俎橋」からの日本橋川。
   
 
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幽霊坂。富士見坂。一口坂。・・・(「九段下」から「市ヶ谷」まで。その2。)

2015-09-10 22:49:55 | 都内の坂めぐり


 坂下から「東京大神宮」に沿って左に進みます。「早稲田通り」を越えると、目の前に大きな建物群。「飯田橋サクラテラス」。かつてのこの付近のイメージは一変。
 昨年10月に完成、オープンしたようです。テナント、商業施設、オフィスビル、住宅と・・・、複合施設。
 山野勝さんの書では、もちろん記載されていません。それを頼りに歩いていって、ビックリ! さて「幽霊坂」は?
 「飯田橋サクラテラス」の先を左に折れると、道筋はかつてのまま。この辺りは、「富士見1丁目」、「2丁目」。ここに「幽霊坂」が三個所ある、とのこと。このネーミングは、地元の方にとっては、迷惑至極、・・・。

「幽霊坂」①。

「幽霊坂」②。

「幽霊坂」①を振り返る。
 左手は「東京逓信病院」敷地。大きな空き地も。

「幽霊坂」③。但し、私有地につき、通行止め。

ぐっると回り込んで坂下から。

 「白百合学園」のところを右折します。

「富士見坂」。西に向かう坂道。

 「靖國神社」の裏手にあたる道。ここにも機動隊員が待機して警戒に当たっています。

        

 かつては富士山が見えたのでしょうが、現在は見ることはできないようです。右手が「法政大学」、左手が「三輪田学園」。

    

 蔓もどき情はもつれやすき哉 虚子

 この句は高濱虚子の作品で。1947年に詠まれ、1948年10月の「ホトトギス」に掲載されました。その後、1958年12月に、虚子の集大成である「虚子百句」が出版され、これを機会に、終生の友情の証しとして、三輪田元道校長にこの句が贈られ、1959年6月に校内に、句碑が建立されました。
 現在の句碑の位置は、1901年9月から1909年12月にかけての虚子の住居、及び「ホトトギス」の発行所(麹町区富士見町4丁目8番地)筋向かいに当たります。高濱家と三輪田家が、松山市が縁で、筋向かいに住み、親しく付き合っていたことから、校舎改築を機会に、この場所に句碑を移設しました。
 虚子は1920年12月から鎌倉市に転居しましたが、三輪田眞佐子と養子の元道も鎌倉市に別宅を持っており、親しい付き合いが、そこでも続いていました。
 また、虚子の長女の眞砂子は、本校、高等女学校を1915年に卒業しました。

 三輪田学園

 何だか意味深長な句です。

坂下から振り返る。長い直線の坂。

左に折れると、「一口坂」。

坂上から。

来た道を振り返る。

 「一口坂」は、「靖国通り」とぶつかります。「靖国通り」には「一口坂」というバス停があります。



交差点名は、「ひとくちざか」。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
↓が「富士見坂」、→が「一口坂」。

 この地域。「冬青木坂(もちのきざか)」「二合半坂」、「一口坂(いもあらいざか)」、「幽霊坂」、」と曰く因縁のある坂道歩きを堪能できます。

 忘れてならないのは「帯坂」。それに「九段坂」。この二つは、次回に。

 今日の大災害。「政(まつりごと)荒ければ、天怒る」という昔から言われていることばをつい思い出した。
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中坂。冬青木坂。二合半坂。・・・(「九段下」から「市ヶ谷」まで。その1。)

2015-09-09 23:38:52 | 都内の坂めぐり

 今日は大変な荒れ模様。一日中、家にこもっています。そこで、先日歩いた坂道をレポート。各地に被害続出の中で不謹慎ですが。

 都心に出る機会があると、ちょっと坂道を。というわけで、今回は、九段下から市ヶ谷まで。約1時間のコース。
 この地域は、「九段」、「暁星」、「和洋」、「白百合」、「三輪田」、「法政」・・・と学校施設が集まったところ。小学生、中学生、高校生、大学生たちが多く行き交います。下校時の子ども達の賑やかな声に混じっての散策。 

案内板。

A:中坂、B:冬青木坂(もちのきざか)、C:二合半坂、D:幽霊坂付近、E:富士見坂。「富士見坂」はに坂下で「一口坂(いもあらいざか)」に合流します。計、六つばかりの坂道の探索です。

A:中坂(なかざか)

 この坂を中坂といいます。『御府内沿革図書』によると元禄3年頃(1690)までは武家地となっており坂はできていませんが、元禄10年(1697)の図以降になると中坂が記載され、元禄14年(1701)以降の図には世継稲荷神社も見ることができます。なお、『新撰東京名所図会』には「中阪は、九段阪の北方に在り。もと飯田阪といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中坂と称するは、冬青坂と九段坂の中間に在るを以てなり。むかし神田祭の山車等は、皆此阪より登り来れるを例とせり。」とかかれています。

B:冬青木坂(もちのきざか)

 この坂を冬青木坂(もちのきざか)といいます。「新編江戸志」には「此所を冬青木坂ということをいにしへ古びたるもちの木ありしにより所の名と呼びしといえど、左にあらず。此坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まがえり。この樹、先きの丙午の災に焼けてふたたび枝葉をあらはせじとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています。

C:二合半坂(にごうはんざか)

 この坂は二合半坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。
 『再校江戸砂子』という史料には、日光山が半分見えるためと書かれています。なぜ「日光山が半分見える」と「二合半」になるのでしょう。このことについて、『新撰東京名所図会』という史料での考えを紹介しましょう。
 富士山は麓から頂上までを十分割して一合・二合・・・と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。
 この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。

D:幽霊坂(ゆうれいざか)

「幽霊坂①」、「幽霊坂②」、「幽霊坂③」と三つ。

E:富士見坂(ふじみざか)

 この坂を富士見坂といいます。同名の坂は各地にあり、千代田区にも3ヶ所をかぞえます。もともと富士見町という町名は富士山がよく見える台地につくられた町ということでしょう。むかしはこの坂から富士山の美しい姿が見えたことによりその名がつけられたということです。坂の下で一口坂と合流します。

一口坂

 この坂を一口坂といいます。「麹町区史」には「一口坂の一口は大坂のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで、電車一口坂停留所から北へ九段電話局の前を新見附へ降る坂である」とかかれています。疱瘡をいもがさとかへもと呼んで疱瘡を洗う(治す)という意味として知られています。ただこの疱瘡に霊験あらたかな社がどの辺にあったのかということは不明です。

 では、以上を頭に入れた上で、ぐるりと回ってきましょう。

中坂上近くの古いお屋敷。

「中坂」の左手、「和洋九段女子中学校・高等学校」の校舎沿いにある「硯友社跡」碑。

 この地に明治時代の文学結社、硯友社の社屋がありました。
 硯友社は、明治18年(1885)2月、尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らで結成され、回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊、明治21年(1888)市販されるにおよび明治20年代の文壇に多くの影響を与えました。
 同人には、川上眉山、巌谷小波・広津柳浪らも参加しています。
 明治30年代以後衰退し、紅葉の死によって消滅しました。

 平成4年(1992)3月 千代田区教育委員会

坂下方向を望む。

    

坂上を望む。

直線で緩やかに西へ向かって上る坂。けっこう広い。

坂の途中にある「滝沢馬琴硯の井戸跡」碑。

 滝沢馬琴は、安政5年(1793)27歳の時から文政7年58歳まで神田同朋町に移るまでこの元飯田町に住みました。ゆかりの井戸がこの中坂下に残っています。自ら曲亭馬琴と号して南総里見八犬伝・椿説弓張月・俊寛僧都島物語等の多くの読本を残しました。

 マンションのところにあるようですが、行きそびれました。



 滝沢馬琴は、江戸時代の著名な小説家。『南総里見八犬伝』の作者として知られています。寛政5年(1793)27歳で当時飯田町中坂と呼ばれたこの地の履物商伊勢屋に婿入りし、58歳で神田同朋町に移るまでここに住んでいました。付近に立つマンション入口に井戸枠が設置されています。東京都の旧跡に指定されています。

HPより。写真も)

「南堀留橋」付近から「中坂」を望む。

首都高の下に「日本橋川」。

 もと来た道を戻って右折し、最初の道を左折します。「冬青木坂」。

    

 「冬青」と漢字で書いて、「ソヨゴ」と読みます。ソヨゴ(冬青)は、モチノキ科モチノキ属の常緑小高木。そこで、「冬青木」と書いて「モチノキ」と読んだようです。

     (「Wikipedia」より)

 ところが、千代田区の説明によると、「モチノキ」ではなかった、という。果たして真相は? この坂は、右手、石垣の向こうには「フィリピン大使館」があり、静かな町並みで坂らしい雰囲気のある坂です。

    
                          坂上から坂下(東)を望む。

 坂を登り切って、突き当たりを右に折れます。緩やかに北へ下って行く道ですが、途中から急坂となります。

  「二合半坂」。

坂の両側は「暁星高」などの学校施設。

 ここまでは緩やかに下ってきますが、ここで様相が一変、急坂を下ることになります。

    
 坂下を望む。                       振り返る。

 かつては今以上に急坂だったようです。


      1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 ↑が「中坂」、←が「冬青木坂」、→が「二合半坂」。道筋は現在もほとんど変わらない。地図下方が現靖国神社の敷地。楕円形は当時、競馬場と記されています。

 ところで、国会も波乱含み。いよいよ自公政権が「安保法制」を強行採決へ。400人も議員がいて、アベに? を付ける人間が20人以下というていたらく。公明党にも造反議員は一人も出ることなく、まさに「粛々」と行う。しかし、そういう思惑通りにいくかどうか。国会前での連日の抗議行動に及ばずながら参加しようと思いつつ、・・・。

 知人からこんなメールが。

 会場は混雑でお会いできないかもしれませんが、友人知人に声をかけて集まりましょう。

 9月12日(日)辺野古新基地反対 14時
 9月10日(木)国会正門前座り込み行動13時~17時 夜は集会18:30~
   ~
   11日(金)14日(月) 15日(火) 16日(水) 17日(木)18日(金)
  と座り込み&夜の集会が連続してあります。山場は、採決前の14日だといわれています。

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仙台坂。南部坂。木下坂。ベルリンの壁。・・・(南麻布の坂。その3。)

2015-09-07 23:02:04 | 都内の坂めぐり

 先ほどの分かれ道に戻り、そのまま右へ進んで行くと、「仙台坂」へ。

この付近の案内図。

 中央の斜めの道が「仙台坂」。右上部の広い緑のところは、「有栖川記念公園」一帯。公園をはさんで「木下坂」、「南部坂」があります。

「本村公園」の先にあった古い木造の建物。

 この付近は、坂道が多く、区画が細かく入り組んでいて、民家も多い。昔懐かしい雰囲気のある町並みです。将来、大きな開発事業が始まれば、すっかり変貌しそうな地域(「六本木」界隈のように)。空き地もある中で、昔からのおうちもまだまだあります。

    
                             「仙台坂」。
 坂の南側一体が仙台藩伊達氏の下屋敷であったところからその名に呼ぶこととなった。

坂の途中から坂下を望む。


「仙台坂」の右手に「韓国大使館」があるため、坂周辺にも現代版見附・検問所が設置されていて、機動隊員があちこちに配置されています。

坂の上部にある標識。そばに機動隊員が立っていたので、顔が写らないようトリミング。

 この右手側の坂が「一本松坂」(から「大黒坂」「暗闇坂」へと通じる坂道)。これから北の方面の坂は「麻布十番駅付近の坂」編で紹介済み。

坂下を望む。

 仙台坂を上って、「運動公園」のところを左折すると、「南部坂」。

    

南部坂
 有栖川宮記念公園の場所が赤坂からうつってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)

 ここにもあるように、『忠臣蔵』の名場面のひとつ、大石良雄が瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られる「南部坂」とは別。 

 坂の左手に「ドイツ大使館」。その壁には「ベルリンの壁」にかかわる歴史パネルが掲示されています。

    

    

 同一の場所にこける、東西に分断された「ベルリンの壁」が存在していた頃とベルリンの壁の崩壊、東西ドイツの統一後のようすがパネルで紹介されています。

ブランデンブルグ門。

年表。 壁の構築。

                   

坂下から坂上を望む。

「有栖川宮記念公園」を右に回り込むと、「木下坂」。

木下坂
 北側に大名木下家の屋敷があり、その門前に面していたために、呼ばれるようになった坂名である。

    
 坂の途中から。左側が「有栖川宮記念公園」。                    坂下。 

広尾駅付近の商店街。

 この付近は、老若男女、さまざまな言語が飛び交う街でした。
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阿衡坂。奴坂。薬園坂。釣堀坂。絶江坂。・・・(南麻布の坂。その2。)

2015-09-05 20:16:18 | 都内の坂めぐり

 新坂を上りきると、坂上は十字路。そこを右に折れると、ゆるやかな下り坂となり、「本村小学校」前へ。その坂が、「阿衡坂」。この坂には標識が見当たりませんが、横関英一著「江戸の坂 東京の坂」(ちくま学芸文庫)に詳細に記されています。

 ・・・この辺は、昔の(麻布)白金御殿の一部であって、かつての保科肥後守の下屋敷があったところである。・・・阿衡とは、天子の補佐たる摂政または宰相の異称である。ここではもちろん、徳川将軍の補佐役という意味であろう。そして、ここの保科肥後守が、その阿衡なのである。保科肥後守は、もちろん保科肥後守正之のことである。・・・二代将軍秀忠の実子で、三代家光につかえ、四代家綱の摂政の仕事をつとめた。・・・(子の)正容は五代綱吉に信頼され、六代家宣、七代家継につかえたのである。保科肥後守は、父子共に侍従となり、将軍のおそば近くにあって、まことにりっぱな阿衡であったというべきである。・・・「アコウサカ」は、保科肥後守の下屋敷脇の坂なので、その名を、阿衡坂と呼んだのであろう。

(「同書」P319)

「阿衡坂」。西を望む。

 なお、「本村小学校」の東奥には、「衆楽園」という釣り堀があるそうです。後に出てくる「釣堀坂」とは少し位置がずれていますが。

 さて、「阿衡坂」を進むと、道は急な下りになり、今度は急な坂を上って行きます。この坂は「奴坂」と呼ばれているようです。

 以前は以下のような標識があったらしいですが、見当たりませんでした。

奴坂
 竹が谷の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやつこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の三説がある。(「東京23区の坂道」HPより)

「奴坂」。坂上より望む。

両側の住宅を縫うようにして進む。右手は「本村公園」。

 「奴坂」を上り、突き当たりを右折します。「ドムス南麻布」のところで道は二手に分かれますが、右に行くと、「薬園坂」、左に行くと「絶江坂」へ。まず、右手に進みます。

    
                           薬園坂
 江戸時代前期、坂上の西側に幕府の御薬園(薬草栽培所、小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂、役員坂と呼ぶ。

 「小石川植物園」とこことはそうとう場所が離れていますが、そのいきさつは

・・・貞享元年(1684)廃園となって、小石川御殿(白山御殿)の地に新設された小石川御薬園に移されることになった。その後、一部残された御花畑に白金御殿が建てられたのだ。小石川御薬園は享保6年(1721)、薬種に関心のあった八代将軍吉宗によって約4万4800坪の広大な園地に拡大された。現在、そこは小石川植物園、東京大学大学院理学系研究科附属植物園になっている。

(山野勝「江戸と東京の坂」P27)

    坂下から上を望む。

 「薬園坂」の途中、西に下る坂があります。「釣堀坂」。明治以降の坂ですがなかなか雰囲気のある小道です。戦前、釣り堀があったので付けられた名とか。坂の西側は上り坂になります。

    
  「薬園坂」から望む。                       西側の坂。私有地のようです。

緑に囲まれた坂道。

「明治通り」を左折し、「明称寺」の先を左折すると、「絶江坂」。
 
   絶江坂
 承応2年(1654)坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変った。

坂の途中から「明治通り」方向を望む。

      周囲は寺町。曲がり角から。




 (「歴史的農業環境閲覧システム」より)↓が「絶江坂」と思われる。上に「仙台坂」の名が見える。

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新富士見坂。青木坂。狸橋。新坂。・・・(南麻布の坂。その1。)

2015-09-03 21:40:47 | 都内の坂めぐり

 9月2日(水)。朝方は強い雨でしたが、午後からはウソのように晴れ上がり、久々のいいお天気。出かけたついでに日比谷線の「広尾」駅で下車。久々の坂巡り。このエリアは、各国の大使館が集まっているところ。ドイツ、フィンランド、フランス、イラン、韓国、・・・。「仙台坂」付近は、「韓国大使館」があるため、「アメリカ」「中国」大使館並みの厳重警戒区域。「アメリカ大使館」のときのように、周囲は現代の「見附」になっていて、機動隊員が厳重警戒中。

 けっこう毛色、肌色、言語、さまざまな外国人にすれ違うところ。小学生も日本語から英語などさまざまな声が聞こえててきます。午後の日差しの下で、そんな街を散策。約1時間半。

 参考にさせて戴いたのは、山野勝さんの『古地図で歩く 江戸と東京の坂』(日本文芸社)。今回はその「南麻布の坂」。
                       

 山野さん、ついこの間、朝日の夕刊に登場していました。
 刻々と変化する都心部。それでも坂や道路は江戸時代とほとんど変わらない、歩くと、そんな発見もあって楽しい探索ができます。

 さらに、


は、東京23区に700以上存在する「名前の付いた坂道」を実際に歩いて集めたサイト。
 現地を踏査して写真もたくさん掲載されています。坂の上下方向などが地図入りで克明に記され、特に、区などが設置した「解説板」を網羅し、紹介しています。このサイトもけっこう参考にさせていただきます。

 「広尾」駅を出て、「外苑西通り」から「三菱UFJ銀行」を左に曲がります。しばらく進んで、右に。「廣尾稲荷」の横を進みます。

「新富士見坂」。左。クランク状になった坂が「新富士見坂」。

新富士見坂
 江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に明治末、大正ころに開かれた坂で富士がよく見えるための名であった。

 富士見坂(青木坂)の北側にある坂道。クランク状に直角に2回(北へ、東へ、というぐあい)曲がります。

左、右と直角に折れ、その先のようす。

坂の途中から西を見ても富士は見えません。

曲がり角にあったかつてのコンクリート製の柵。ここにだけ残っています。

 突き当たりを右に折れると「青木坂」になります。けっこう急な坂。

    

青木坂
 江戸時代の中期以後、北側に旗本青木氏の屋敷があったために呼ばれた。青木邸は現在、フランス大使館敷地内になっているようです。

 急坂を下って天現寺方向へまっすぐ下って行きます。はるか向こうに富士山が、と一瞬思いましたが、もはや望むことはできません。



坂下から坂上を望む。

 天現寺橋の交差点を歩道橋で渡って、反対側に行き、「明治通り」を左に向かいます。

「天現寺橋」。下の川は「渋谷川」(港区に入ると「古川」)。この付近は渋谷区と港区の区界。

川の向かい側は渋谷区、こちら側は港区。

「古川」に架かる「狸橋」。

     

狸橋の由来

むかし橋の西南にそば屋があって子供を背負い手拭をかぶったおかみさんにそばを売ると、そのお金が、翌朝木の葉になったといいます。
 麻布七不思議の一つで、狸そばと呼んだのが、地名から橋の名になりました。
 ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚があったからともいっています。

  昭和53年 港区

「天現寺橋」と「狸橋」との間に渋谷区と港区の境界があります。

下流方向(東方向)を望む。


 「明治通り」を進むと左手に「光林禅寺」。ここには、アメリカ公使館通訳・ヒュースケンとイギリス公使館通訳・伝吉のお墓があります。

 1855年から下田に到着するまでの日本に向う南方航路の印象、外交折衝や日本での見聞をつづった『ヒュースケン日本日記』((Japan Journal, 1855-1861)青木枝朗訳、校倉書房のち岩波文庫)は幕末外交史の貴重な資料となっています。

「新坂」。 

 新しい坂の意味であるが、開かれたのは、明治20年代と推定される。

 もともとは江戸時代に開設されたものだが、その年代は定かでない。しかし、この坂は、明治初年に坂の中腹部分がいったん失われて、その後(大正13年以前)に再整備されている。そのときに新坂という苗尾得たという説もある。(上掲書P21) 

    
    1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 「光林寺」の東側にある「新坂」は、この当時はまだない(失われている)ことがわかる。

 ゆるやかですが、けっこう長い坂道。自転車に乗った低学年の小学生が勢いよく上って来ましたが、途中で自転車を押して上がっていきます。

    
 坂の途中から。                        上がりきったところから。

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大黒坂。七面坂。一本松坂。さくら坂。・・・(麻布十番駅周辺。その2。)

2015-06-27 13:22:56 | 都内の坂めぐり

 「暗闇坂」の上で「大黒坂」と「一本松坂」と出会います。左に下りる坂が「大黒坂」。その坂を下りる途中、「七面坂」。



     1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 中央付近の十字路が「暗闇坂」(北から上ってくる坂)、「大黒坂」(東から上ってくる坂)、「一本松坂」(南に上っていく坂)、「狸坂」(西へ下りる坂)とが交わる地点。今もほぼ当時のままの道筋です。
 「暗闇坂」から左に折れ、「大黒坂」を下ります。

    
     坂下から上を望む。正面奥が十字路。

大黒坂(だいこくざか)
大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺があったために呼んだ坂名である。

 「大黒坂」を少し下って行くと、左手の下り坂が「七面坂」。

    

七面坂(しちめんざか)
坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。

 坂を上って元のところへ。今度は、南に向かいます。角に標識と「一本松」があります。

    

一本松坂(いっぽんまつざか)
源経基(みなもとのつねもと)などの伝説をもち、古来植えつがれている一本松が坂の南側にあるための名である。

    

一本松の由来
 江戸砂子によれば天慶2年西暦939ごろ六孫源経基 平将門を征伐して皈(「帰」の異体字途此所に来り民家に宿す 宿の主粟飯を柏の葉に盛りささぐ 翌日出立の時に京家の冠装束を松の木にかけて行ったので冠の松と云い又一本松とも云う
 注 古樹は明治9年辰年焼失に付き植継ぎ 昭和20年4月又焼失に付き植継ぐ。

    
                                          一本松。
その坂を上ると左手にあるマンション。「元麻布フォレストタワー」。 

この付近の案内図。

 再び十字路に戻って、今度は西に向かいます。「狸坂」。

    

狸坂(たぬきざか)
 人をばかすたぬきが出没したといわれる。旭坂ともいうのは東へのぼるためか。

坂沿いのお屋敷。

    
                          坂下から上を望む。

 この付近には、「宮村坂」、「狐坂」があるようですが、道に迷ってうろうろしていると、「中国大使館」の警備にあたる機動隊員があちこちに。「麻布高校」と「中国大使館」との路地を行ったり来たりしましたが、・・・。そのまま「狸坂」に戻って坂道を下ってしまいました。その坂が「狐坂」?
 そして、右に折れて「北条坂」の方向へ進みました。
 
「愛育病院前交差点」を右に折れると、「北条坂」。

北条坂(ほうじょうざか)
 坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったためにこの名がついた。

    

 坂下は「外苑西通り」になります。下の方の坂には「鉄砲坂」という標示がありました。

         

鉄砲坂(てっぽうざか)
 江戸時代、坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名がついた
 
 「中国大使館」前の通りの西側には「中坂」、「芥坂」、また「大横丁坂」とかあるらしいので、再び戻って「中国大使館」前をうろちょろしましたが、機動隊が交通規制を始め、警察車両も出てくるようなものものしさに諦めました。

 「麻布税務署」の先の信号を左折、「富士見坂」(「大横丁坂」? )。

    

「内田坂」から「妙経寺」の脇の階段を下りて「さくら坂」に出ました。

さくら坂(旧玄蹟坂)

    

「六本木ヒルズ」建設に伴い新たに作られた道です。もとの玄碩坂です。その名の通り、桜並木の美しい道です。


 <番外>

 玄碩坂(げんせきざか)
  近くに玄碩という僧が住んでいたので、坂名にしたと言い伝えている。藪下という所へおりる坂で藪下坂とも呼んだ。
  六本木ヒルズの建設に伴い、この坂道の風景は写真にあるかつてのものから現在大きく様変わりし、現在玄碩坂は「さくら坂」と 呼ばれる坂になっています。写真に見える標識も撤去されています(2003年5月)。

(この項、HPより拝借しました。)

坂の途中の公園。子ども達の元気な声が。

    

 駐車場の案内を兼ねて案内図があちこちに。

    

 ただ、「さくら坂」か「けやき坂」かがはっきりしないような表記になっています。特に左の案内図。

これには「さくら坂」(→)と。

これが「けやき坂」。

 「さくら坂」同様に六本木ヒルズ完成に伴いできた坂道です。六本木ヒルズの目抜き通り。

            



    1880年代のようす(「同」より)。

 中央付近が現在の「テレビ朝日」、「六本木ヒルズ」などの地域。毛利庭園の池は規模は縮小されていますが、残っています。
 「玄碩坂」は、「さくら坂」になりました。現「けやき坂」は新しくつくった坂。
 「六本木ヒルズ」の西側の通りは寺町通りだったことが分かります。「妙経寺」、「専称寺」、「長幸寺」などが今も残っています。

 結局、駆け足での探訪。どこにも寄らず、暑い日差しの下でした。今度はゆっくりと散策したいものです。





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鳥居坂。於多福坂。暗闇坂。・・・(麻布十番駅周辺。その1。)

2015-06-25 22:50:41 | 都内の坂めぐり

 6月24日(水)午後。ちょっと出かけた帰りに、大江戸線「麻布十番」駅で途中下車して、さっそく坂道探索と。「永坂」から少し西へ入って、それから南に下って、と時間もないが、ぐるりと回ってみようという魂胆。
 が、「元麻布3丁目」にある「中国大使館」付近はものものしい警戒。またしても四方八方「見附」。その周囲には坂もありますが、交通規制が始まるやら、道路には機動隊が昔懐かしい(?)ジュラルミンの盾を脇に置いての警戒・誘導。手持ちの地図を見ながらうろうろしましたが、結局、その付近には行けませんでした。
 だから、きわめて中途半端な「坂」探索。

 「麻布十番」駅の長い階段を上がって地上に。「外苑東通り」(「青山一丁目」付近で分岐)を西に向かうと、「鳥居坂下」の交差点(「外苑東通り」は二本あるのか? )。この坂を上ることから開始。
坂下の標識。

鳥居坂
 江戸時代なかばまで坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間(1688~1703)ごろ開かれた道である。

坂の途中から坂下を望む。

    

港区指定文化財 名勝 旧岩崎庭園
 
 現在の国際文化会館の庭園の前身は、昭和4年(1929)に三菱の四代目当主岩崎小彌太(1879‐1945)が建設した岩崎家鳥居坂本邸の庭園で、京都の造園家「植治〈うえじ〉」の小川治兵衛の作庭によるものでした。「植治」の歴代当主小川治兵衛は数多くの庭園を作庭しており、近代日本庭園作庭の先駆者として著名です。
本庭園は、崖に面した南側と鳥居坂に面した東側に植栽が施され、その内側に池を設けた池泉回遊式の日本庭園であり、入り口部の岩組なども優れています。また、昭和5年(1930)の「東京市麻布区鳥居坂町 岩崎邸実測平面図」と比較しても、作庭当初の姿を大筋において残していることがわかります。
岩崎邸は昭和20年5月の空襲で焼失し、その後、昭和30年には国際文化会館が建設されました。この建物は前川國男・吉村順三・坂倉準三の共同設計による戦後日本の優れた建築の一つですが、旧岩崎邸の庭園との調和を最大限に考慮する姿勢が認められますす。
 本庭園は、近代日本庭園として優れたものであるとともに、国際文化会館と調和した景観を創り出している点からも高く評価されます。

 平成17年10月25日 港区教育委員会

        

(写真は、HPより)



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

 江戸時代のこの地には多度津藩京極家(1万石)の屋敷がありましたが、明治時代に入り、井上馨の屋敷となりました。上の『五千分ノ一東京図』に見える「井上(馨)邸」がのちの旧岩崎邸で、現「国際文化会館」の敷地。
 坂の途中の左の屋敷跡には、赤レンガの塀が現存しています。 その向かい側が現「東洋英和女学院」の敷地。南北に延びる坂道は、左が「鳥居坂」、右が「永坂」。その間にある「潮見坂」「於多福坂」なども確認できます。

遠方に「六本木ヒルズ」。

なお、「鳥居坂」については、
《鳥居坂ものがたり - 港区「www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/.../01_roppongi02.pdf」》に過去の歴史や写真と現在のようすが詳細に記されています。

坂を下り、途中から東(左)に入ります。

 この先のカギ型に下りる坂が「潮見坂」のようですが、沿道の工事中でトラックで道路が占拠されているので、その間を下って行きます(写真は撮れず)。その先が「於多福坂」。

    

於多福坂
 坂の傾斜が途中でいったんゆるやかになってまた下ったので、顔のまん中の低いお多福面のようだと名づけられた。

    
 坂下から。                             坂上から。

坂上にある標識。正面左手が「フィリピン大使館」。

 突き当たりを左に折れて、再び「鳥居坂」へ。下校中の制服姿の女子小学生達(低学年)の間を縫いながら、そのまま南に下って「外苑東通り」を越えます。「外苑東通り」の北側が「麻布台」、通りの南側は「元麻布」付近の坂道となります。

大通りを越すと、正面の上り坂が「暗闇坂」。

    

暗闇坂
 樹木が暗いほどおい茂った坂であったという。以前の宮村(町)を通るため宮村坂ともいった。

 今でも右側は高い崖で、木が覆い被さるように茂っているところがあります。南へ曲がりながら上る急な坂道で、上る車の通りもけっこうある道です。途中、左手に「オーストリア大使館」があります。坂上で、「大黒坂」、「一本松坂」と交わります。

    
 坂の途中から坂下を望む。                      坂上の標識。      


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庾嶺坂。新坂。地蔵坂。神楽坂。三年坂。・・・(市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その4。)

2015-06-23 21:19:41 | 都内の坂めぐり

 「外堀通り」を進み、「家の光会館」の脇からすぐ左に上る坂。

     庾嶺坂(ゆれいざか)

 江戸初期、この坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍秀忠が中国江西省の梅の名所大庾嶺に因み命名したと伝えられる。別名「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。

 他の異名としては、「幽霊坂」、「唯念坂」など、全部で6つの呼び名があるようです。標識には「庾嶺坂」を採用しています。この名の方が趣があると・・・。

 今は、かつて「梅林」があった雰囲気は感じられませんが、坂の左側は緑が続きます。右手の「若宮八幡神社」の先を左折して道なりに行きます。この坂が「新坂」。

    
                            新坂(しんざか)

「御府内沿革図書」によると、享保16年(1731)4月に諏訪安芸守(戸田左門)の屋敷地の中に新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。

緩やかに上り、住宅地を道は西に進んで行きます。

 突き当たりを右折し、さらに少し広い道になる手前を右折して進むと、「地蔵坂」。

  
                     地蔵坂(じぞうざか)

 この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。

急な坂を下りきると、そのまま「神楽坂」方向へ。

    

神楽坂(かぐらざか)
 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

繁華街。これまでの道筋とは段違い。

 続いて、「善国寺」の先を左折して「三年坂」に向かいました。両側はお店がずらりと並んだ道筋。入口には、
     「本多横丁」の標識。

本多横丁(ほんだよこちょう)

 神楽坂には横丁が沢山ありますが、この本多横丁は神楽坂の横丁では最も大きい横丁。むかし本多家の屋敷があったことから本多横丁と呼ばれるようになったとのことです。
 本多家とは、江戸時代の大名格の武家で石高1万500石。この本多家の屋敷が江戸中期から明治の初期までこの辺りにあったとことで、当時は「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたらしいです。
 本多修理とは、江戸時代後期(幕末)の福井藩の家老で「本多 修理(ほんだ しゅり)」。
 本多修理は「Wikipedia」によると、嘉永2年(1849年)に家督を継いで藩主・松平慶永に仕え、慶永の藩政改革のブレーンのひとりとして活動し、主に軍制改革で功績を挙げました。
 安政の大獄で慶永が隠居した後は養子の松平直廉に仕え、第1次長州征伐では幕府軍の副総督となった直廉の軍事総奉行として小倉まで従軍し、明治時代に入ると再び慶永(春嶽)に仕え、側近として活動しました。
 尚、この本多横丁は、終戦後の一時期、スズラン通りと呼ばれた事もあったそうです。

(以上、「東京 神楽坂 ガイドkagurazakaguide.web.fc2.com/1020.html」HP参照。)

 そのHPに以下のような記事も。

 「三年坂」は、本多横丁を含んでいます。 「神楽坂通り」から「軽子坂」の延長線の道と交差するまでが本多横丁で、これをさらに進み大久保通りまでのなだらかな坂道が「三年坂」です。

 なるほど、これで納得です。さらに、

三年坂

 大久保通り、筑土八幡町交差点近くから、南に登り、神楽坂通りに至る比較的長い坂道です。傾斜は緩やかです。坂下は津久戸町、坂上は神楽坂三丁目と四丁目の境界で、道の両側は飲食店が並んでいます。
 三年坂については、横関英一『江戸の坂東京の坂』において、一般に寺や墓地の近くにあり、「その坂で転んだものはすぐにその土を三度なめないと三年以内に死ぬ」という迷信があったとされていたことに名称が由来するとのこと。
 標識は、設置されていません。「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」とはさすがに公衆の目に触れる説明を書いたものは設置できなかったのであろうと想像されます。

HPより。

 さらにナットク! しかし、この「三年坂(三念坂)」こそ、京都水の「三年坂」にも劣らない道筋です。

         
 「本多横丁」案内図。              「神楽坂案内図」。

 人通りも激しく、一杯機嫌の集団もちらほら。小学校か中学校のクラス会が終わった人達が店を出てきたところ。年格好は60代後半くらいの男女のグループ。道の真ん中で、恩師らしい人を囲んで大声で騒いでいる内に、一人の男性が見事に転んだ! 慌てて駆け寄る仲間。すぐ元気に立ち上がったが。・・・

 「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」 
 
 エッ!

    
                   「三年坂」から「本多横丁」を望む。    

        坂下から。

 「三年坂」の途中を右折すると、「軽子坂」。

    

軽子坂

 この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。
 軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。

 「飯田橋」駅方向へ下る広い坂。いったんこの坂を下って、再び「神楽坂」方向に戻りました。

 土曜の午後というせいか、けっこうな人通り。

    

神楽坂には横丁(小路)が縦横に。「神楽小路」。まだまだ探索のし甲斐がありそうです。

    




1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 上方、斜めの道が「神楽坂」。「合(逢)坂」、「祐源坂(庾嶺坂)」、「軽子坂」などが確認できる。

 なお、神楽坂は通りの名称で言うと「早稲田通り」です。 
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歌坂。逢坂。「さねかずら」。「掘兼の井」。・・・(「市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その3。)

2015-06-22 23:22:37 | 都内の坂めぐり

上がって右に折れ、突き当たりを右折すると、「歌坂」。    

歌坂(うたさか)
  雅楽(うた)坂ともいう。一説には「善告鳥(うとう)(海鳥の一種)」の口ばしに似た地形であることからともいう。「うとう」が「うた」になり、歌坂に転じたものであろう。

 この付近、坂下の外濠沿いを船河原といった・・・。その岸に望む坂であった。王子のウトウ坂(大坂)が、坂下を岸町と呼ぶのと同じ地形的状況からこの歌坂も古くはアイヌ語のウタ(ウトウと同義で、突端とか出崎という意味)から着ているという説が信憑性をもってくる。・・・古い坂名と思われる。(石川悌二「江戸東京坂道事典」より) 

西南に下る坂道。法政大学の校舎が左手に。

 「歌坂」を上って、道なりに左折、突き当たりを右に進みます。左手に瀟洒な和風の建物。
 
    
                     「朝霞荘」。建築家・故黒川紀章さんの作品。

 閑静な住宅街の一画にあり、周囲の環境に調和するように設計され、「損保ジャパン」の厚生施設となっています。

右手に下る坂が、「逢坂」。    

逢坂(おうさか)
 昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地に来た時、美しい娘と恋仲になり、のち都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂とよばれるようになった。

 これも石川悌二さんの前掲書によって詳述します。

 『紫の一本』はこの坂にまつわる次のような古い伝説をのせている。むかし、奈良朝のころに小野美佐吾という人が武蔵守となって都からこの地に赴任し、「さねかづら」という美女に逢って相愛の仲となったが、やがて都から帰還の命令がきたために心を残して戻っていった。けれども男の「さねかづら」への思慕はつのるばかりで、やがて病没した。
 そして男の魂は女の夢枕に立って、彼女をこの坂上によび寄せて再開したのだという。植物のサネカズラは、モクレン科の常緑蔓性灌木で、一名ビナンカズラともよばれるので、「美男坂」という坂名はこのサネカズラから転じたものであろう。


 ここでは、奈良時代となっていますので、万葉集の時代。こうした逸話はもちろん、小野美佐吾の歌はありませんが。


 玉くしげみむろの山のさな葛
       さ寝ずはつひにありかつましじ
                        藤原 卿
                    《万葉集巻二―94》

 万葉集にはサネカズラを詠んだ歌が10首ある。この鎌足の歌もその1つである。「玉くしげ」はみむろの山(今の三輪山)の枕詞。「さな葛」はサネカズラのことで、「さ寝ずは」のさ寝をおこす序となっている。「ありかつましじ」のありは今の状態でいること、ましじは「ないであろう」の意である。
 歌は「三輪山のサネカズラのように、あなたと一緒に寝ないでは今のように生き続けることはできないであろう」という意味である。鏡王女が鎌足に贈った歌にたいする鎌足の返歌である。
 サネカズラは図鑑などでは関東以南に多い常緑蔓性の木本植物とされているが、実際には福島県浜通りの海岸沿いを点々と北上し、仙台市まで分布する。枝はいくつにも分かれてもつれあう。その様を男女がむつみあっているようにみて「サネカズラのように」と詠んだのである。ストレートでしかも露骨な表現で好きになれないが、万葉研究者たちは「開放的で率直な表現である」などとほめている。また、サネカズラの枝は2つに分かれた後、先の方でまた2本が絡み合うことから、「後でまた逢う」の意にも用いられている。次の人麻呂の歌はその例である。

 さね葛のちも逢はむと夢のみに
         うけひわたりて年は経につつ
                          柿本人麻呂
                   《万葉集巻十一―2479》

 「あなたに後でまた出合おうと夢みつつ、年だけがたっていく」という意である。鎌足の歌に比べずっと品の良い歌と思う。
 本種の分布からいえば福島県は北限に近いが、松川浦の砂洲のクロマツ林床には多産する。夏に葉腋に一個の淡黄白色花をつけ、秋に赤熱する。
 別名ビナンカズラは枝皮の粘液を水に溶かし頭髪を整えたことからきている。美男になったかどうかは定かでない。

(「ふくしまの植物たち 福島県文化振興財団」「www.culture.fks.ed.jp/b_fk/shokubutsu/syokubutu.../setumei_p011.htm」HPより)

 よく知られている「さねかずら」は、百人一首の歌でしょう。

名にし負はば逢坂山のさねかずら 人に知られで来るよしもがな  三条右大臣

歌意

 逢坂山のさねかづらではないが、そのさねかづらをたぐり寄せるように、人に知られずにこっそりとあなたと逢う方法があればいいのだが・・・。

 「逢(坂山)」と「逢う」、「さねかづら」と「小寝(さね)」、「来る」と「繰る」(たぐり寄せる)という掛詞や縁語が巧みに用いられています。
                 (「Wikipedia」より)

 そのまま下って行くと「外堀通り」に出ます。その途中にあるのが、「築土神社」。「掘兼(ほりかね)の井」の説明板。

        

史跡 掘兼の井(ほりかねのい)
 新宿区市谷船河原町9番地
 掘兼の井とは「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないように言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精魂つきて死んでしまったという。
 
 平成3年11月 新宿区教育委員会

 なかなかすさまじい「いじめ」の話を載せてあります。「掘兼の井」は、全国にあるようですが、一般的には「まいまいず井戸」と称されているらしい。

 「まいまいず井戸」とはかつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種で、地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう。

 「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれる。「まいまいず井戸」は既に古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難井之井)がこれを指すものと見られる。

 いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)

 はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)

 武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)

 汲みてしる人もありけんおのずから 堀兼の井のそこのこころを(西行)

 井はほりかねの井。玉ノ井。走井は逢坂なるがをかしきなり。(『枕草子』 清少納言)

など、和歌や文学作品に多数登場する。埼玉県狭山市堀兼に「堀兼之井」の旧跡が現存するが、「ほりかねの井」という言葉が、特定の井戸を指すものかどうかについては不詳である。「まいまいず井戸」全般を指す一般名詞とも考えられ、「まいまいず井戸」は武蔵野を象徴するものとして平安時代の都人にまで知られていたようである。江戸時代には「まいまいず井戸」に関する考証が盛んに行われたが、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には「『ほりかねの井』と称する井戸跡は各地にあり、特定の井戸のことと定めるのは難しい」との記述がある。
 こうした独特の構造の井戸が掘られた背景には、武蔵野台地特有の地質学的背景がある。武蔵野台地は多摩川によって形成された扇状地であり、武蔵野台地には脆い砂礫層の上に更に火山灰の層があるため、特に国分寺崖線から上は地表面から地下水脈までの距離が長い。従って武蔵野台地では他の地域よりも深い井戸を掘らなければ地下水脈に達しないにも拘らず、地層が脆いために地下水脈まで垂直な井戸を掘ることが出来ない時代が長かったのである。そこで、一旦地表面からすり鉢状に地面を掘り下げて砂礫層の下の粘土層を露出させ、そこから改めて垂直の井戸を掘って地下水脈に至るという手段が採用された。一般の井戸に比べてこのような「掘り難い」方法によって掘られた井戸が「まいまいず井戸」である。

 (以上、「Wikipedia」参照)

 かつて行ったことがある「まいまいず井戸」=「掘兼の井」。JR羽村駅北口にありました。
二回りして井戸に着く、そのくるくる回る道をかたつむりになぞらえたという説明文がありました。

 かなり困難な井戸掘り作業であったことが分かります。 

 町名に注目! 「船河原町(町会)」とあります。

 地形的に(外堀があるので)こういう町名になったと思いましたが、実は、

 船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあったが、1589年江戸城拡張の際、氏神の築土神社と共に牛込見附(現JR飯田橋駅)付近へ移転。さらに1616年築土神社が筑土八幡町に移転後、同町も筑土八幡町近くの現在地へ移転した(平凡社 『郷土歴史大事典』参照)。ところが戦後、築土神社は千代田区九段に移転。他方で船河原町は現在地に留まったことから、地理的に神社から最も遠い氏子となってしまった。そこでここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを冠したものと思われる。

(この項「」HPより)

 いずれにしてもこの辺りの地名や史跡、坂名には一筋縄ではいかない、いわく・因縁があるようです。

坂の途中から見上げる。

坂下にある標識。
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鼠坂。「浄瑠璃坂の仇討ち」。払方町。鰻坂。・・・(市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その2。)

2015-06-20 21:25:50 | 都内の坂めぐり
 「芥坂」を戻って、今度は左に曲がります。
「芥坂」上から下を望む。

西に向かって急角度で曲がりながら一気に下りていく坂。「鼠坂」。

鼠坂(ねずみざか)
 細くて狭い坂だったから、まるで鼠がとおるほど狭かったからそう名づけたのであろう。

坂の途中から見上げる。
 坂下は「中根坂」につながります。工事中のフェンス。石垣がかつてを偲ばせます。この坂も周囲が大きく変化すると、雰囲気がずいぶん変わるはずです。

 そこに向かう途中、「大日本印刷市谷松柏寮」のところに、
「浄瑠璃坂の仇討跡」。

新宿区指定史跡
 浄瑠璃坂の仇討跡   指定 昭和60年11月1日

 浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
 源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年(1672)2月3日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
 源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり6年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。

     平成3年1月 東京都新宿区教育委員会

 興味深いお話です。
 
浄瑠璃坂の仇討

 寛文8年3月2日(1668年4月13日)、下野興禅寺(宇都宮市)で宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の法要において、奥平内蔵允)と奥平隼人の2人がささいなことから口論となり、憤慨する内蔵允が隼人に抜刀した。
 居合わせた大身衆の同輩・兵藤玄蕃などの仲裁により、双方はそれぞれの親戚宅へ預かりの身となった。だが、その夜、内蔵允は切腹する。
 藩の処分は事件から半年を経た9月2日(10月7日)に下された。隼人へは改易、内蔵允の嫡子・源八(当時12歳)、ならびに内蔵允の従弟・伝蔵正長へは家禄没収の上、追放が申し渡された。両成敗ならば隼人は切腹となるはずである。隼人の親子らは、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せた。
 そのためこの処分は不公平である、と追放された源八とその一族に同情に同情して自ら浪人の身となって源八の助太刀をかってでた主な奥平家の藩士は、40数名におよんだ。
 源八一党からの襲撃を不安視した隼人は、江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の鷹匠頭・戸田七之助の屋敷へ身を移した。
 寛文12年2月3日(1672年3月2日)未明、源八とその一党42名が隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入った。屋敷から引き上げて牛込御門前まで来たところで、源八は隼人と対決し、討ち取った。
 源八ら一党は、幕府に出頭して裁きを委ねた。源八の殊勝な態度に感銘を受けた大老・井伊直澄による幕閣への影響力が大きかった為、結果としては、死一等を減じて伊豆大島への流罪という処分に落ち着いた。
 流罪から6年後、天樹院(千姫)13回忌追善法要にともなう恩赦によって赦免された源八は、のちには彦根藩井伊家に召抱えられた。
 源八の一族40人以上が徒党を組んで火事装束に身を包み、明け方に火事を装って浄瑠璃坂の屋敷に討ち入ったという方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件において赤穂浪士たちが参考にしたとされている。
 この仇討ちは、伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と並ぶ仇討ちとして、当時は大変な評判となり、江戸の瓦版をにぎわせて「武士道の範」として世間に感銘をあたえ、歌舞伎や講談の題材としても取り上げられた。のちに起こった赤穂浪士の討ち入りと合わせて江戸三大仇討ちと称されることも多い・・・

(以上、「Wikipedia」参照)

 ここに登場する「伊賀越の仇討ち」。
 
伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)

 寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれた。
激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。
 寛永9年(1632年)、忠雄が疱瘡のため死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらったが、源太夫の兄・渡辺数馬は、主君忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいたので、脱藩する。
 剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、寛永11年(1634年)11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。
 数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、川合武右衛門の4人。
 11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まる。逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。又五郎を倒すのは数馬の役目で、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。
(以上、「Wikipedia」参照)

 この「伊賀越の仇討ち」は、「東海道」を歩き、沼津宿にさしかかり、「狩野川」沿いの道に進んで、「黒瀬橋」の下を通り抜けるたところにある「平作地蔵の祠」で関わりがありました。(以下、再掲)

  
                        「平作地蔵の祠」と解説板。

日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来

 この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが、有名な浄瑠璃 『伊賀越え道中双六』 に出てくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。
 地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ、自分は旅人の荷担ぎを事として居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫、渡辺数馬の為、平作は自害して、その居場所を聞き出す。

 沼津千本浜の場面

 平作は決心して自害し 『死に行く仏の供養として聞かせてくれ』 と申します。十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 『仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田でおうたと人の噂』 と。浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。平作のおかげで数馬の義兄荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討の本懐を遂げることが出来、平作の義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。

                                      山王前自治会

 ここでは「日本三大仇討の一」となっています(この場合は、「曽我兄弟の仇討ち」と「忠臣蔵」と合わせて、そのように称するようです)。また、芝居では、「沼津(千本松)」の場がけっこう上演されるようです。

 「泉岳寺」付近や「本所松坂公園」も散策しましたので、これで「江戸三大仇討ち」に関わる史跡を訪れたことになります。

 「鼠坂」を戻り、そのまま直進し、突き当たりを右折し、その先を左折すると「鰻坂」。この辺りは、「牛込払方町」

緑濃きおうち。「払方」という地名。

 払方町は、隣接する市谷砂土原町、市谷船河原町と並び江戸期に大名屋敷を持ち、明治時代より都心部有数の高級住宅街であり、元祖山の手の一つである。(「Wikipedia」より) 

 江戸時代には、この区域のほとんどは、武家地によって占められており、町名にも武家地であったことに由来するものがみうけられます。
 納戸町、払方町、細工町、これらは、居住していた武士(同心)の役職名に由来して命名されたものです。
 納戸役は、将軍のてもとにある金銀・衣服・調度の出納や大名旗下の献上品・将軍の下賜品を取り扱っていたもので、その内の下賜品を取り扱ったのが、払方です。御細工は江戸城内建物・道具の修理・製作にあたっていました。
 また、二十騎町は、先手与力の屋敷地であったことに由来しています。1組10人で構成される先手与力が、2組20人居住していたことから、二十騎町と俗称され、現在の二十騎町となりました。

HPより)

    
 
鰻坂(うなぎざか)
坂が曲がりくねっているから鰻のような坂だという意味で鰻坂とよばれた。「御府内備考」の払方西文政丁亥書上に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々」と記されている。 

広い通りを横切った先がその名の通りの「鰻坂」という雰囲気。

    
 坂下から。                             坂上から。
        
       「鰻の寝床」のように長く細く曲がっている。

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左内坂。中根坂。浄瑠璃坂。芥坂。・・・(市ヶ谷駅から飯田橋駅まで。その1。)

2015-06-19 22:06:59 | 都内の坂めぐり

 6月6日(土)。午後2時頃から4時頃。JR「市ヶ谷」駅で下車して、「左内坂」から。・・・上がったり、下ったりで「神楽坂」まで。新宿区のエリアですが、町の名称も由緒あるものが入り組んで存在している町並み。前回の六本木付近に比べて、昔ながらの坂道が続きます。
 「市ヶ谷橋 」を渡って、まずは案内図で確認。ここは、一部を除いて標識が建っています。

「左内坂」。「外堀通り」を渡ったところにある。

    

左内坂(さないざか)
 この坂は江戸時代初期に周辺の土地とともに開発されたもので、開発名主島田左内の名に因み左内坂と呼ばれるようになった。島田家はその後明治時代まで名主をつとめ、代々島田左内を名乗ったという。

けっこう長くて急坂。

市ヶ谷駅方向に向かう道として人通りもあり、両側には商店も並んでいますが、段違いに斜めに。激しい雨とか雪の時には、下るのに足もとが心配なほどの急坂。下っていく車の姿もすぐに見えなくなるほど。

その坂をあえぎあえぎ上ると、左手が自衛隊の広大な敷地。
                                                 正面を右折します。

    

 左手が「日本学生支援機構」。もとは、「日本育英会」。学生時代、大変お世話になりました。ここの坂が、「安藤坂」?

 その先は「大日本印刷」の大がかりな建設工事が盛んに行われていて、道の様子も広くなるなど、まだ建物が立ち上がっていないせいなのか、明るく広々とした雰囲気に。

           「中根坂」にさしかかる。

上り詰めたところにある標識。    

中根坂(なかねざか)
 昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。

 「安藤坂」から緩やかに下って、また上りになる坂道です。周囲は、「大日本印刷」関連の施設が並びます。再び下って十字路を左に曲がって、広い道を「外堀通り」方向に緩やかに下って行きます。途中、右斜めに上る坂があります。「長延寺坂」。

    

長延寺坂(ちょうえんじざか)
 昔、この坂の上に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂を通ったことから自然にそうよばれるようになったという。

    坂上から望む。

 いったん「外堀通り」出て、その先、左手の坂道を上ります。「浄瑠璃坂」。

浄瑠璃坂(じょうるりざか)
 坂名の由来については、昔、この坂で「あやつり浄瑠璃」の小屋興行を行ったから。近くに光円寺があり、その本尊の薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主であるからなどの諸説がある。

 この坂もけっこう長い坂。

    
 坂の途中から坂下方向を望む。                  坂上から望む。

 突き当たりをすぐ左折すると、西南に向かう坂道があります。「芥坂(ごみざか)」

「芥坂」の歩道橋付近から振り返る。

「歩道橋」に「ごみ坂」とある。

 今でこそ歩道橋によって南側の通りと結んでいますが、もともとは、そうとうな急坂だったような。崖の上から下へまさにゴミ捨て場のようになっていたのでは。その名のように、歩道橋下はかなり低くなっています。

    

                  





                  1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 現在の自衛隊の敷地は「陸軍士官学校」でした。坂の名前も「左内坂」「安藤坂」「中根坂」「芥坂」等が記されています。また、「長延寺」の名も。坂道に関してはほとんど現状と変化がないのも驚くほどです。

 
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島崎藤村旧居跡。鼬坂。永坂。更科。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その4。 )

2015-06-17 22:10:36 | 都内の坂めぐり

 「外苑東通り」に向かう坂道「鼬坂」の途中には、
「島崎藤村旧居跡」。
 「メゾン飯倉」の下には、(株)東京楽天地が昭和48年4月3日に建てた石柱と説明文を彫った石板があります。

 藤村は71才の生涯のうち文学者として最も充実した47才から65才(大正7年~昭和11年)までの18年間 当地麻布飯倉片町三十三番地に居住した。
 大作「夜明け前」 地名を冠した「飯倉だより」 童話集「ふるさと おさなものがたり」などは当地での執筆である

付近のようす。

「鼬坂」。「外苑東通り」から望む。
鼬坂(いたちざか)

外苑東通りの「外務省外交史料館(飯倉公館)」前から南方に下る坂道です。港区麻布台3丁目4番と5番の境界にある坂道です。坂上は外苑東通り。

 「鼬坂」のほか、「植木坂」、「鼠坂」については、どこの坂道がそれぞれの名称に該当するのか諸説あるようで、文献によってその示す場所が異なっているとのこと。石川悌三「江戸東京坂道事典」はこの坂を「植木坂」としています。
「鼠坂」、「植木坂」は、どちらも別の坂道に港区設置の標識がありますが、「鼠坂」の説明では一名「鼬坂」と書かれているし、「植木坂」の説明でも「外苑通り」から下りるところ、とも書かれています。はたして真相はいかに?

 「飯倉片町」の交差点を西に進み、最初の角を左折すると、緩い下り坂。その途中遠くに「標示」が。


     
永坂(ながさか)
 麻布台から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が住んでいたともいうが、その確証はえられていない。


 しばらく下ると、頭上に首都高が通る「麻布通り」に合流します。合流するまでが「永坂」なのか? もっと下っていた先までなのか? 

合流点の三角地帯に「永坂上児童公園」があります。ということは、もっとしたまで「長く」続く坂だったようです。

    
      広い通りを道なりにどんどん「新一の橋」方向に下って行きます。

坂の途中から望む。右が首都高。

ありました! かなり下った右側に「永坂」という標識が。

坂下から坂上を望む。

右の角にある「麻布永坂 更級本店」。

 更科(さらしな)は、蕎麦屋の老舗のひとつ。江戸の蕎麦屋の老舗としては、砂場、藪とあわせて3系列が並べられることが多い。

 創業は江戸時代寛政元年(1789年)と伝えられている。信州の織物の行商人をしていた清右衛門なる者が、江戸での逗留先としていた麻布・保科(ほしな)家に勧められ、麻布永坂町で蕎麦屋をはじめた、とされている。開店に際し清右衛門は太兵衛に名を改め、開店時に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げたという[1]。「更科(さらしな)」は、蕎麦の産地である信州更級(さらしな。現長野市、千曲市、埴科郡坂城町の一部)に保科家の「科」の文字を組み合わせたもの。なお、信州更級は当時よりソバの産地であったため、他にも「さらしな」を名乗る蕎麦屋は存在していたようである。
 更科の特徴は、蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦(更科蕎麦)である。これがいつ頃からのものかは明らかになっていないが、1750年頃にはすでに存在していた模様。更科の特徴として打ち出されたのは江戸時代末期から明治時代のことと考えられている。
 更科は、明治10年代までのれん分けなどを一切しておらず、(旧)布屋太兵衛の一軒のみでの営業だった。のれん分けがはじまり、更科を冠した蕎麦屋が増え始めるのはそれ以降のことである。現在では東京都港区麻布十番にある3軒の更科のほかにも、都内の芝大門、神田錦町、有楽町などにのれん分けをした更科の店がある。

麻布十番にある3つの更科
 昭和恐慌による出資先麻布銀行の倒産、戦時体制による統制などに加え、七代目松之助の放蕩が駄目押しになり(旧)布屋太兵衛は昭和16年(1941年)にいったん廃業する。戦後、七代目松之助から屋号使用の許諾を受けたとする馬場繁太郎が「永坂更科本店」を開業する。屋号の使用につき裁判となるが、七代目が馬場に渡した承諾書がでてきたため和解。馬場側が「永坂更科本店」の永坂と更科の間をあけ「麻布永坂 更科本店」とし、「永坂更科」を強調しないことで合意する。
 かつての更科とは無関係の人間が出店したことを受け、七代目松之助と当時の麻布十番商店街会長である小林勇などが中心となり、昭和24年(1949年)に「永坂更科 布屋太兵衛」を再興する。このとき法人として店名の「永坂更科」を商標登録し、また「(旧)布屋太兵衛」の屋号も「永坂更科 布屋太兵衛」側に引き継がれることになる。
 その後、昭和59年(1984年)に八代目松之助が独立して麻布十番に開店するが、屋号に「布屋」を用いていたため永坂更科布屋太兵衛側と裁判となる。商標権をもたない八代目松之助は布屋を名乗れず、自身の姓である「堀井」をつけ店名を「総本家 更科堀井」に改称した。
 このため、現在は「麻布永坂 更科本店」(七代目から屋号使用の許諾を受け開業)、「永坂更科 布屋太兵衛」(店舗・会社組織として株式会社永坂更科布屋太兵衛が(旧)布屋太兵衛を継承)、「総本家 更科堀井」(店主が(旧)布屋太兵衛の創業者の直系)の3店が存在することとなる。いずれも近隣にあり、3店が並ぶ麻布十番は更科系老舗の密集地帯となっている。
(以上、「Wikipedia」参照)


 知りませんでした! 更科は蕎麦系としては、かなり好んで食する方ですが、近所にはないので、なかなか・・・。
 坂下の「新一の橋」交差点を渡って、通りの反対側を少し上がると、「永坂更科発祥之地」。

碑文

永坂更科発祥之地
    昭和五十四年十一月吉日
      永坂更科布屋太兵衛 建之

 その下に細かい字でいきさつが彫られていますが、判読不能につき、省略。

そこから坂下「麻布十番」駅方向)を望む。右が首都高。

 今回、なかなか変化に富んだ町並みを探索しました。高層ビルの間に昔ながらの平屋建てや木造建築があったり、路地があったり、表通りの賑やかな都心らしい雰囲気とはひと味違った街の姿を垣間見ました。都内の坂はまだまだ見所が満載です。



 1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 中央左下が「麻布十番」駅付近。「永坂」が南北に延びています。右上の道が現「外苑東通り」。中央、「嶋津邸」付近は「狸穴公園」など現在も緑が多く残っています。
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行合坂。落合坂。三年坂。雁木坂。狸穴坂。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その3。)

2015-06-16 18:39:31 | 都内の坂めぐり
 小休止して、再開です。再び「六本木一丁目」駅地下街の坂(「エスカレータ」を利用してですが)を上がって地上に。「麻布通り」を少し「飯倉」方向(南)に進むと、行く手の先で上りと下りになる坂が「行合坂」。

    
                              「行合坂」。

 双方から行き合う道の坂であるため行合坂と呼んだと推定されるが、市兵衛町と飯倉町の間であるためか、さだかでない。

 「行合坂」と直角に交わる坂が「落合坂」。東西に延びる坂道。

     
                              「落合坂」。

「我善坊谷」へ下る坂で、赤坂方面から往来する人が、行きあう位置にあるので、落合坂と呼んだ。位置に別の説もある。



 この道の両側には江戸時代には「御先手組」の屋敷が並んでいました。

「先手組(さきてぐみ)」

 江戸幕府の軍制の一つ。職制上は若年寄に属し、治安維持の役割を担った。先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した。
 しかし、江戸時代に入ってからは戦乱があまり起こらなかったので、平時は江戸城に配置されている各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めた。先手頭は、六位相当の布衣役で、役高1500石のほかに役扶持として60人扶持が支給された。また、先手頭は「各大名家の『御頼みの旗本衆』とされ、幕府との事前打合や報告同行などを勤めるため、由緒ある旧家の人が任命されていた。
 時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた。
 同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。(以上、「Wikipedia」参照)

 明治になってからは、小さな住宅が建ち並ぶ街になったようです。西側が大きく変貌する中でまだかつての面影を残しているところです。

                     坂下から西を望む。


下りきって「稲荷坂[我善坊谷坂]」との交差点にある標識。

西北に上がる坂。稲荷坂(我善坊坂)? 

 この坂の途中は、趣のある住宅街。坂上から望む。

稲荷坂〈我善坊谷坂〉(いなりざか〈がぜんぼうだにざか〉)
 麻布台1丁目1番と2番の間を西北に上る坂道です。

    
                            三年坂(さんねんざか)
                
 いつの頃よりこの坂がそう呼ばれたのか、誰に名づけられたのか、定かではありません。しかし、東京が江戸と呼ばれていた時代には無名ではあります。すでにこの坂がありのち石段になったようです。また、三年坂は別名三念坂などとも呼ばれ同じ名前の坂がほかに数箇所あります。
 京都清水のそばに同名の坂があります。昔の人が遠くふるさと京都をしのぶ気持ちを坂の名前にこめたとしたらロマンでしょうか。

 坂らしい坂。南にある坂と同様の「雁木坂」とも呼ばれたらしい。振り返ると、眺望もすばらしい。京都・清水の三年坂(三寧坂)と比べるのはどうかと思いますが・・・。

     

坂道を上がると、左側は「霊友会」の施設。

しばらく進と、左手に急な石段。雁木坂。

雁木坂(がんぎざか)
階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたからともいい、当て字で岩岐坂とも書く。

    
                                    木漏れ陽の下の急坂。

東京タワーに通じる坂道「永井坂」。     

永井坂(ながいざか)
江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた。

「榎坂(えのきざか)」。

 飯倉交差点から西へ上がる坂。正面のお店の名に「榎」という文字が。
 その坂を上がっていくと、左手が「ロシア大使館」。ここも厳重な警戒網。バリケードがあって、ここも現代の「見附」。大使館の先を左折すると、「狸穴坂」。

    

狸穴坂(まみあなざか)
まみとは雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類で昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。

 坂上部の東側(左側)は「ロシア大使館」になります。

     
                               坂下から。
     
    
 「狸穴公園」を右折して行くと、

 「鼠坂」

 細長く狭い道を江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった。一名鼬(いたち)坂で上は植木坂につながる。

    
 坂下から。                              坂上から。

 この付近には、「狸」がいたり「鼠」がいたり「鼬(いたち)」がいたり、さらには「溜池」があったりと、高台と谷と湿地が入り組んだ土地柄だったようです。今やその面影もありません。

坂上で西南(左)に向かう急坂が植木坂。

     
    坂下から。                           坂上から。
植木坂(うえきざか)
 この付近に植木屋があり菊人形を始めたという。外苑東通りからおりる所という説もある。

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桜坂。スペイン坂。道源寺坂。御組坂。偏奇館跡。・・・(虎ノ門~麻布台の坂。その2。)

2015-06-15 22:20:18 | 都内の坂めぐり

 霊南坂から西南付近は、けっこう坂道が入り組んでいて、「桜坂」、「榎坂」、「鼓坂」、「三谷坂」、「新榎坂」などと名づけられているようです。「桜坂」の標識のみ確認できましたが、他は・・・。そこで、不明なところは、『江戸東京坂道事典』コンパクト版 石川悌二著(新人物往来社)を参考にさせていただきました。

「霊南坂」を右折したところにある坂道。「榎坂」? 下方に見える坂が「桜坂」。坂の途中に「霊南坂教会」、坂下の左手角に「榎坂ビル」があります。

榎坂
 赤坂一丁目十番、アメリカ大使館正門前を霊南坂から西北に下る坂道で『紫の一本』には「榎坂 溜池堤より赤坂の方へ行く坂なり、大木の榎一本あり。・・・」・・・(「上掲書」 P185)
 江戸時代初期、「溜池」の水を苦労して築き留めた、その功のしるしとして榎を植えたことに由来する、と説明されています。

「サントリーホール」へ通じる歩道橋から下を望む。「桜坂」or「鼓坂」 
                  

鼓坂
 この坂は霊南坂教会(赤坂一丁目一三番)の北わき、同一二番との間を西へ下る坂で、桜坂の南に並んでいる。(「同」P186)
ということから、この坂は、「鼓坂」と思われます。

 素人考えですが、「鼓」坂は、上にもあるように溜池「堤」に下る坂だったとすれば、「堤」坂ということに? 「桜坂」は明治中期に新設された坂ですので、江戸期にはこの「鼓(堤)坂」が西北に下る坂だったっような・・・。

 この付近を上ったり下ったりしながら歩き回りました。

  「三谷坂」? (左)六本木一丁目と(右)赤坂一丁目の境にある。「ホテルオークラ東京別館」から西北へ下る道。

山谷坂(さんやざか)
 坂下はもとの麻布谷町であるが、同町はそれよりむかし今井三谷町とよばれていた。したがって、この坂も今井三谷町にかかるので三谷坂とよんだのであろう。(「同」P194)
 
 再び「桜坂」を下って行きます。

    
                                   右手には「SAISON さくら坂」。

桜坂
 明治中期に新しく作られた道筋で坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからその名がついた。

    
桜の季節はさぞかしすばらしい道に。                     坂下から見上げる。

 「ANAコンチネンタルホテル東京」の脇に下りて、「六本木通り」に出ます。左に曲がり、しばらく進むと、右手の坂が「スペイン坂」。

    
                          付近の案内図。右図で右にカーブする坂が「スペイン坂」。


スペイン坂の由来

 1986年(昭和61年)、20年近い歳月を経て、赤坂(Akasaka)と六本木(Roppongi)の結び目(Knot)にアークヒルズ(ARK HILLS)は誕生しました。当時の民間における都市再開発事業としては最大級の規模(総敷地面積56,000㎡)を誇り、共同住宅、オフィス、ホテル、テレビスタジオ、コンサートホールなどを組み合わせた複合型街づくりは、その後の都心部における再開発事業のさきがけとなりました。
 そのアークヒルズの南方に位置するこの坂道は、六本木通りからスペイン大使館につながることから「スペイン坂」と名付けられ、多くの人々に親しまれています。
 春には、両側の歩道に植えられた桜が坂道を被うように咲き乱れ、都心における桜の名所としても知られています。

 2001年1月1日     アークヒルズ自治会 森ビル株式会社

左手が「森ビル」。

坂の途中から「六本木通り」方向を望む。

  すぐ南隣の坂が「道源寺坂」。

道源寺坂

江戸時代のはじめから坂の上に道源寺があった。その寺名にちなんで道源寺坂または道源坂と呼んでいた。

    
 左手に「道源寺」。                           坂下を望む。

江戸時代からの坂らしい坂が残っていることにビックリ!

 「スペイン大使館」を左奥に見て、坂上を右に曲がります。

    
御組坂

 幕府御先手組(おさきてぐみ・戦時の先頭部隊で、常時は放火・盗賊を取り締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となった。

 タイル舗装のしゃれた坂道。この付近も大きく変貌していて、この坂も江戸期の道とは少し異なるようです。
 
 現在、「泉ガーデンタワー」となっている付近には、かつて永井荷風が住んだ偏奇館(戦災で焼失)がありました。
    
        記念碑。                            「泉ガーデンタワー」の一角。

偏奇館跡

 小説家永井荷風が、大正九年に木造洋風二階建の偏奇館を新築し、二十五年ほど悠悠自適の生活を送りましたが、昭和二十年三月十日の空襲で焼失しました。
 荷風はここで「雨蕭々」「墨東綺譚」などの名作を書いています。
 偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情趣に郷愁をみいだすといった、当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。

    冀くば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ
    われ一人住むといへど
    幾年月の過ぎ来しかた
    思い出の夢のかずかず限り知られず
                     「偏奇館吟草」より

  平成十四年十二月     港区教育委員会

 この付近も1990年以降の大規模な都市開発により、曲がりくねった坂道・石段があり、崖にへばりつくようにあった木造の家屋群などもすっかりなくなって、高層ビル街に変貌。
 「偏奇館」があった付近の家屋や地形を含めてまったく跡形もなくなってしまいました。「偏奇館跡」碑の位置も実際にあった場所よりも北にずれているようです。

そのまま道なりに進んでいくと、右手の角には、「山形ホテル跡」。

 此処は、大正9年から昭和元年まであった山形ホテルの跡地である。
 永井荷風は、此処から北百米程の処に木造2階建ての洋館を建て、『偏奇館』と称した。
 25年ほど独居自適の生活を送ったが、昭和20年3月10日の空襲で焼失した。
 荷風は其処で『雨瀟瀟・雪解』『墨東綺譚』などの名作を書いている。
 荷風の日記『断腸亭日乗』には山形ホテルが登場する。彼は此処を食事、接待のために頻繁に利用した。
 当時、山形ホテルの北側は崖になって、間に小さな谷間を挟んでその対岸に偏奇館が建っていた。
 山形ホテルの主人、山形巌の子息が俳優山形勲(大正4年ロンドン生まれ、平成8年没)である。衣笠貞之助監督『地獄門』(昭和28年)今井正監督『米』(昭和32年)など、代表作は数多い。
 永井荷風の研究家である、評論家川本三郎は著書『荷風と東京』(平成8年、都市出版)で、荷風と山形ホテルに一章を割いている。
 昭和47年に麻布パインクレストが統治に竣工した。爾来30年が経過、都心部での住民書道によるマンション建替えの嚆矢として今般麻布市兵衛ホームズが完成した。

 平成16年10月 麻布市兵衛ホームズ ・・・

          「碑」から北側を望む。

 右折して六本木通りに出ます。ここで、小休止。南北線「六本木一丁目」駅の地下街で、と。はるか地下深くまで下りるために連続するエスカレータ・階段が今どきの急坂になります。

           

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