小学校での銃乱射事件によって大勢の児童・教師が亡くなったことを受けても、今もなお、なかなか銃規制が進まないアメリカ社会。むしろ、全校に武装警官を配置することを主張し、銃規制の動きに真っ向から反対する全米ライフル協会(「NRA」)。日本人からみるとかなりの違和感を持つアメリカ社会における銃規制のあり方。
この書は、2004年に発刊、その文庫版として2008年に出版された。今回の事態を受けて現在のアメリ民主主義社会の成り立ちを改めて理解する上で格好のテキストに。
特に銃規制の是非を巡る論議の核心、「憲法修正第二条」。日本国憲法では基本的人権保障条項十箇条の第二条に当たる、という。
「規律ある民兵は自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」(本書P65)
この解釈をめぐって、銃規制推進派と反対派は真っ正面から対立しているのがアメリカの現実。前者は当時の民兵、現在の州平の一員となるかぎりにおいて、市民の武器保有が認められると主張、後者は「市民皆武装」こそ、連邦中央政府権力の専制化を防ぎ、市民の自由を守るのに不可欠な個人の権利であり、アメリカ民主主義の生命線だと反論する。
こうした相反する立場を紹介しながら、後者の規制反対派の優勢なことが、アメリカ民主主義の実態を体現している、と。「銃が増えれば犯罪が減る」との合い言葉が一般化しているアメリカ社会。そうした個人が銃を持つことを容認する「アメリカ民主主義」が、海外派兵などの実例につながっている、と。
黒人の基本的人権や参政権などについて、合衆国憲法は修正がたびたびなされながらも、この項については210年以上に亘って一度も修正されてこなかったアメリカの歴史。そこに、筆者はアメリカ民主主義の内在する本質的な問題があると捉える。「人民武装の権利」がアメリカの対外的な戦争荷担(海外派兵。多くは、「(アメリカ流)民主主義・自由・平和」を守るという大義名分によるのだが)にも結びついていることへの危惧の念が示されている。最初の出版が「イラク戦争」開戦から一年後という時期であったことにも深く関連する。
「クワとライフルを持って」とは、アメリカ大陸の東岸から太平洋に面する西側へ開拓していく時のスローガン。この言葉に、その後も引き続く「アメリカという国」が民主主義というオリジナリティを自負し、誇りを持つ根底に、「アメリカ中心主義」があり、個々のアメリカ国民が固有の権利として持つ、銃による武力行使権という「DNA」がある、と。
そもそも「アメリカという国」の建国は、黒人、先住インディアンに対する徹底した差別と排除のなかで始まった。そこでは、個人・集団による銃という武器を手にした圧倒的する武力行使が主要な役割を果たしたことも、事実(長い間の黒人差別撤廃運動などのうねりの中で、憲法上での人権諸権利は確立されていくが)。
その後、民兵は「南北戦争」を契機に、アメリカ合衆国軍という強力な常備軍となり、さらに二度の世界大戦を経て、今や世界一の軍隊にまで巨大化してしまった。そのDNAには、抜きがたい「市民皆武装」がある、と。広島、長崎への原爆投下、東京大空襲等の無差別攻撃についても、罪悪感はない(「民主主義」の旗の下で、反ファシズム戦争終結のため、当然)。
「刀狩り」によって武器を支配階級の「武士」にのみ与えた政策以来、軍隊・警察など以外には銃刀所持を認められない日本人。その日本がアメリカと日米安保体制の下で同盟関係を強固にしていくことの意義を考えるとき、こうした銃を持つ民主主義国・「アメリカという国」の成り立ちと現実を捉え直す必要がありそうだ。
アベさんが実現を期す「集団的自衛権」の確立とは、日米同盟の質的転換・深化であり、その表向きの第一義は、アメリカ軍が攻撃された場合、日本の「自衛隊(「国防軍」)」は、アメリカ軍とともに武力を行使するということになるのだから。
さて、お正月は読書三昧の予定ですが・・・。
この書は、2004年に発刊、その文庫版として2008年に出版された。今回の事態を受けて現在のアメリ民主主義社会の成り立ちを改めて理解する上で格好のテキストに。
特に銃規制の是非を巡る論議の核心、「憲法修正第二条」。日本国憲法では基本的人権保障条項十箇条の第二条に当たる、という。
「規律ある民兵は自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」(本書P65)
この解釈をめぐって、銃規制推進派と反対派は真っ正面から対立しているのがアメリカの現実。前者は当時の民兵、現在の州平の一員となるかぎりにおいて、市民の武器保有が認められると主張、後者は「市民皆武装」こそ、連邦中央政府権力の専制化を防ぎ、市民の自由を守るのに不可欠な個人の権利であり、アメリカ民主主義の生命線だと反論する。
こうした相反する立場を紹介しながら、後者の規制反対派の優勢なことが、アメリカ民主主義の実態を体現している、と。「銃が増えれば犯罪が減る」との合い言葉が一般化しているアメリカ社会。そうした個人が銃を持つことを容認する「アメリカ民主主義」が、海外派兵などの実例につながっている、と。
黒人の基本的人権や参政権などについて、合衆国憲法は修正がたびたびなされながらも、この項については210年以上に亘って一度も修正されてこなかったアメリカの歴史。そこに、筆者はアメリカ民主主義の内在する本質的な問題があると捉える。「人民武装の権利」がアメリカの対外的な戦争荷担(海外派兵。多くは、「(アメリカ流)民主主義・自由・平和」を守るという大義名分によるのだが)にも結びついていることへの危惧の念が示されている。最初の出版が「イラク戦争」開戦から一年後という時期であったことにも深く関連する。
「クワとライフルを持って」とは、アメリカ大陸の東岸から太平洋に面する西側へ開拓していく時のスローガン。この言葉に、その後も引き続く「アメリカという国」が民主主義というオリジナリティを自負し、誇りを持つ根底に、「アメリカ中心主義」があり、個々のアメリカ国民が固有の権利として持つ、銃による武力行使権という「DNA」がある、と。
そもそも「アメリカという国」の建国は、黒人、先住インディアンに対する徹底した差別と排除のなかで始まった。そこでは、個人・集団による銃という武器を手にした圧倒的する武力行使が主要な役割を果たしたことも、事実(長い間の黒人差別撤廃運動などのうねりの中で、憲法上での人権諸権利は確立されていくが)。
その後、民兵は「南北戦争」を契機に、アメリカ合衆国軍という強力な常備軍となり、さらに二度の世界大戦を経て、今や世界一の軍隊にまで巨大化してしまった。そのDNAには、抜きがたい「市民皆武装」がある、と。広島、長崎への原爆投下、東京大空襲等の無差別攻撃についても、罪悪感はない(「民主主義」の旗の下で、反ファシズム戦争終結のため、当然)。
「刀狩り」によって武器を支配階級の「武士」にのみ与えた政策以来、軍隊・警察など以外には銃刀所持を認められない日本人。その日本がアメリカと日米安保体制の下で同盟関係を強固にしていくことの意義を考えるとき、こうした銃を持つ民主主義国・「アメリカという国」の成り立ちと現実を捉え直す必要がありそうだ。
アベさんが実現を期す「集団的自衛権」の確立とは、日米同盟の質的転換・深化であり、その表向きの第一義は、アメリカ軍が攻撃された場合、日本の「自衛隊(「国防軍」)」は、アメリカ軍とともに武力を行使するということになるのだから。
さて、お正月は読書三昧の予定ですが・・・。