おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その7。大きくカーブする流路。神明橋。桜堤通り。文教大学越谷キャンパス。出津橋。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

2024-06-30 19:53:50 | 元荒川

東武線のガードをくぐって先に進みます。

           

越谷駅と北越谷駅は直線の線路で隣同士ですが、元荒川は半円状で迂回します。

             ○。明治時代から現在までほとんど変わらない流路。(「今昔マップ」より)

東武線鉄橋方向を振り返る。

左岸のようす。

         桜堤通りになっていますが、右岸は炎天下の道。

ところどころ、花壇があり、

ベンチなどもあります。

                       

「神明橋」。

               

           中央の車道部分は古そうなトラス橋

振り返る。

この橋を渡り、左岸に移ります。

                   桜並木の下。

河川敷には耕作地が広がっています。

       

対岸に「文教大学」キャンパスが見えてきます。

前方には「出津橋」(人道橋)。

文教大学越谷キャンパス。

出津橋。学生たちが通行中。

今回は、ここまで。「北越谷駅」に向かいます。

炎天下、けっこう疲れました。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その6。新宮前橋。久伊豆(ひさいず)通り。越ヶ谷御殿跡。伏越(ふせごし)。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

2024-06-29 18:49:26 | 元荒川

元荒川歩きを再開します。                     

 

カラフルな遊歩道になっています。右手が元荒川。     

葛西用水は、元荒川を「伏越」で越えて流れてきます。

※伏越(ふせごし)

用水施設排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)

振り返る。右が葛西用水。

    

「新宮前橋」。

「宮前橋」。

「久伊豆(ひさいず)通り」となっています。

            東の方に「久伊豆神社」があります。※「くいず(クイズ)」ではありません。

埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社がかつて「久伊豆明神」と称しており、総本社とされている。祭神は大己貴命。埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。

(この項、「Wikipedia」より)

緑道から橋を望む。

この先、左手の高台に、「越ヶ谷御殿跡」碑。

越谷市には「御殿町」と呼ばれる地名があります。これは、慶長9年(1604)に徳川家康が放鷹時の宿泊所などのために、現在の御殿町地内に御殿を設営したことによるとされています。御殿に関する詳細は不明ですが、その広さはおよそ現在の御殿町全域と推定されています。越谷市教育委員会では、昭和47年に御殿町一帯を「越ヶ谷御殿跡」(こしがやごてんあと)として市の旧跡に指定し、昭和61年には埋蔵文化財包蔵地として周知し、保護を図っています。
もともと御殿町には越ヶ谷郷の土豪会田出羽の陣屋があった場所でしたが、家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれています。その後、明暦の大火(1657)で江戸城が消失した際に越ヶ谷御殿を江戸城二の丸に移すため解体されたと伝えられています。江戸城二の丸に移されるまでの約50年の間に、徳川家康、徳川秀忠(2代将軍)、徳川家綱(4代将軍)が度々訪れたとの記録も残されています。その跡地は畑地として開発され、現在に至っています。

(この項、「越谷市」HPより)

ちょうどこの場所の、元荒川の左岸から右岸のところに葛西用水との伏越があります。

                     (現在)「伏越」付近。

北から南に流れるのが葛西用水(逆川)。東武線鉄橋の下流の橋が旧日光街道に架かる「大沢橋」。北に「北越谷駅」。

                     (1880年代)。

注目すべきは、現在のような瀬割堤はない。さらに、自然堤防があり、瓦曽根溜井がかなり大きいものであったことがわかる。

※現在の越谷市役所、市民会館付近も溜井の中にあった。

現在)◎が市役所。

(1880年代)○付近も瓦曽根溜井になっていた。

「元荒川橋」。

       「しらこばと」のモニュメント。

大沢橋(旧日光街道)のたもとに、「元荒川緑道(中流部)散策案内」。

大沢橋から東武線鉄橋を望む。

鉄橋と併設された人道橋。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その5。逆川・葛西用水。越谷市中央市民会館。コシガヤホシクサ。旧日光街道・越ヶ谷宿。越谷駅。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

2024-06-27 19:23:58 | 元荒川

「溜井(逆川・葛西用水)」。

                          花しょうぶが満開。

「元荒川」。

「越谷市役所」・「越谷市中央市民会館」が見えてきます。

           「コシガヤホシクサ成育試験実施中」。

               

「平和橋」(葛西用水)「新平和橋」(元荒川)。

越谷市中央市民会館。

平和橋・新平和橋。

いったん、東武伊勢崎線「越谷駅」に向かい、小休止。

「越谷・松伏水道企業団」のマンホール。

                  「越松水」「仕切弁」。※越谷市の花、松伏町の花が共に菊です。

旧日光街道。日光街道歩きのときに通過しました。

日本橋から3番目の宿場が「越ケ谷宿」でした。

越谷駅。

以下、日光街道歩きのときの記録。

・・・

越ヶ谷宿に入ってくると、道沿いに古い家屋が残っています。

 道幅は往時のようですが、すっかり雰囲気は近代的。「越ヶ谷宿」を示す標識は見当たりません。

唯一、この幟が。

 「越谷本町商店会」は、「越谷」駅の東側を走る旧日光街道(県道54号線)沿いの商店街だ。瓦屋根の蔵造りが印象的な昔ながらの商家や土蔵が立ち並び、建造物によっては驚くほどコンディションの良い状態で残っている。越ヶ谷宿は江戸時代に整備された江戸・日本橋に次ぐ3番目の宿場町で、慶長7(1602)年に徳川家康が奥州街道(後の日光街道)を公道に指定して以降、道沿いに商家や旅館が次々と建てられ街並みが整備された。

    
                      

宿場町の趣きを残す旧商家の「塗師屋」。 黒い漆喰造りの旧家」(小泉市右衛門家)で、かっては「漆」を扱い、江戸時代には呉服商を扱った商家。

日用品や荒物を扱う「鍛冶忠商店」。
 商店会の中程にある「鍛冶忠商店」は1900(明治33)年に建てられた立派な商家で、屋号からも推察される通り当時は鍛冶屋を営んでいた。現在は日用品雑貨・荒物の販売店として業態を変えて営業を続けており、お盆など季節ものの提灯や菅笠、和紙、藁工品(筵、こも、荒縄)など、店頭に並ぶ商品も趣き深いものが多い。

 越谷名物のくわい饅頭が並ぶ「岡埜製菓店」。昔なつかしい手作りの和菓子がガラスケースに並ぶ「岡埜製菓店」は、1892(明治25)年創業の和菓子の老舗だ。ここでしか味わえない越谷名物の「くわい饅頭」は冬場の限定商品で、軒先に「くわい饅頭販売中」の旗がかかげられると季節を感じるという地元客も多い。
 ところ狭しと金物が並ぶ「木下半助商店」。このほか旅籠の名残を感じさせる佇まいの「白屋旅館」、親子3代昔の味を引き継ぎながら毎日出来たての豆腐を販売している「木田とうふ店」、工芸品のだるまや雛人形、桐たんす屋などの商店が点在しており、江戸を往来する旅人で賑わった当時の日光街道の面影残る街並みが続く。

(以上、案内文は、「越谷本町商店会」HP参照)

    

    

・・・ 

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その4。瓦曽根堰(かわらぞねせき)スポット広場。葛西用水。旧赤水門スポット広場・瓦曽根堰。。しらこばと橋。瀬割堤。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

2024-06-26 22:02:01 | 元荒川

右岸の河原。

「瓦曽根堰(かわらぞねせき)スポット広場」。

              

  正面は、「しらこばと橋」。   

 

                     解説板。

「葛西用水」の成立

享保(1719年)すでに開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井・松伏溜井・瓦曽根溜井・亀有溜井を連結させた十ヶ領、三百村、領石高13万3千石(年貢米)の大用水が成立し、葛西用水と呼ばれた。

「葛西用水」流路図。

「利根川」から取水された「葛西用水」は、「大落古利根川」、「逆川」を経て、ここまで流れ、この後は、「元荒川」から離れ、八潮市、足立区、葛飾区、墨田区まで続くことになります。

※「溜井」は河川を堰き止めて洪水対策や農業用水とした施設。近世初頭に瓦曽根溜井が建設され、中期以降に石堰が設けられた。中土手(元荒川と溜井を分ける土手)には竹を植えたり畑があった。また港の役割をする河岸場もあり、高瀬舟などによる物資流通の拠点でもあった。この堰は今のしらこばと橋の辺りにあり、石堰は大正期まで使われていた。

※「中土手(元荒川と溜井を分ける土手)」=「瀬割堤」

2つの河川が合流したり、隣あって流れるために、流れの異なる2河川の合流をなめらかにしたり、一方の川の影響が他の河川におよばないように2つの川の間に設ける堤防 。

この付近は、「旧赤水門スポット広場」として整備されています。

          

「瓦曽根堰」遺構。

                       「赤水門」。

元荒川に架かる人道橋。

                            「赤水門橋」。   

元荒川と溜井の間の土手(瀬割堤)を歩きます。

       

瓦曽根堰(旧名堰枠)。                

「しらこばと橋」。

斜張橋。橋は県および市の鳥である向かい合った2羽のシラコバトが、大空に向かって飛び立つ様子をモチーフとしている。主塔から放射状に延びるケーブルを鳥の羽に見立てている。市のランドマークのひとつであり、夜間は橋のライトアップも実施されている。(「Wikipedia」より)

※「しらこばと」

ハト科に属し、シラバト、ノバトなどとも呼ばれ、山鳩(キジバト)の仲間ですが、やや小型で尾だけが長く、ほっそりしています。首に黒い横線が走っているのが特徴で、国内では、主に本県の東部地域を中心に生息しています。

昭和31年(1956年)に「越ヶ谷のシラコバト」として国の天然記念物に指定されており、昭和40年11月3日に「県民の鳥」に指定されました。

県のシンボルであり、コバトンやさいたまっちのモデルにもなっています。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その3。越谷レイクタウンの今昔。大相模スポット広場。不動橋。動端落し(どうばたおとし)。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

2024-06-25 19:33:50 | 元荒川

右岸沿いに大きく広がる「遊水地」。

南方に「越谷レイクタウン」があります。

「越谷レイクタウン」の今昔。

                           (現在)

大規模な商業施設、住宅地となっている。

                           (1970年代)

ほとんど、田んぼや畑であった。※市街化調整区域

左岸の大きな建物。「越谷東高校」。

舗装された道なので、照り返しがけっこうキツイ。

早く木陰の下に。

ほっと一息。

    「大相模スポット広場」。所々にこうした小公園風な施設がある。

           

「不動橋」が見えはじめる。

         

「不動橋」のたもとに、「相模町スポット広場」。

                      木陰が涼しい。水分補給などで小休止。

         「元荒川緑道(下流部)散策案内」。

来た道を振り返る。

「不動橋」。

※「不動橋」の由来は沿岸にある「大聖寺(大相模不動尊)」から。

「しらこばと橋まで1,050m」

「動端落し(どうばたおとし)スポット広場」。   

        元荒川への流入口。

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雨降りの午後。向島百花園。アジサイ。リンドウ。ヤマユリ。ハンゲショウ。ネムノキ。カルガモ・ヒナたち。オナガ。

2024-06-24 20:14:33 | 向島百花園

雨降りの午後。向島百花園。

                 アジサイには、雨が似合う。

降ったりやんだりのお天気。入園者も少なく、のんびりと散策。

タイサンボク。

  

    ヤマユリ。

リンドウ。

               

ハンゲショウ(半夏生)。

      ネムノキ。

                 

カザグルマ。  

カルガモたちはどうなったか? 四阿で雨宿りをしていると、現れました。親鳥とヒナたちがスイスイと水面を。

     ヒナは、合計7羽。

親鳥のあとをついていきます。正面の叢に。

     

 

雨脚が強くなってきました。親子であちこち ウロウロ。天敵の野良猫がうろつかないうちに。

ヒナたちが叢の中に。

そのうち姿が見えなくなりました。

さて、帰ろうかとすると、「オナガ」が。

              

※オナガ 

オナガといえば名前の由来でもある尾羽根の長さとともに、「ゲーッ・ゲッゲ」 などという悪声が特徴です。このため「声がうるさい鳥」というイメージだけをお持ちの方が多いかもしれません。

 ところが近くできちんと観察すると、スマートな体形で、頭は黒く、翼や長い尾は青、さらには尾羽の先端に白のワンポイントと美しい鳥なので、観察会などで望遠鏡を覗き「オナガってこんなにきれいだったのですか?!」という感想を述べる方も多いです。尾が長いので全長は37cmほどもありますが、尾を除く体の大きさはムクドリ大です。

 外敵を警戒する時などはうるさいだみ声で騒ぎたてますが、カップルの相手などに対しては「キュルルル」といった甘い声も出します。

 オナガは、地球上ではユーラシア大陸の東西両端の2つの離れた地域に分かれて分布しています。分布の一方はロシア東部、中国東部、日本など東アジアで、もう一方はイベリア半島の一部です。この2つの地域のオナガは遺伝子的には種レベルでの差異がみられ、2つの分布域に隔離されてからかなりの時間が経過していることが伺われるそうです。

 日本国内でも不思議な分布をしており、1970年代までは本州と九州に留鳥として生息していましたが、1980年代には西日本での繁殖記録が全くなくなり、急に姿が見られなくなってしまいました。この原因はわかっていません。

 現在は日本海側では石川県以北、太平洋側では、神奈川県以北、内陸部では長野県以東で見られ、これらの地域ではむしろ増加しているともいわれます。同じ1980年代に福島県付近などでは分布が拡大したことが報告されています。

 オナガは、里山や市街地など人家の周辺に見られ、群れで生活しています。群れの結束が強く、両親以外の群れのメンバーがヒナに餌を運ぶことが観察されています。カラスや猫等の外敵に対しては群れのメンバー総動員で攻撃します。カラス科の鳥だけに、知能の発達も良いようです。

 三鷹市内では、秋に柿の実などを、群れでついばみにくる姿が目立ちますが、留鳥で、一年中見られる鳥です。

(この項、「」HPより)

   

けっこう目立ちます。園内の木々を飛び回っています。

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その2。吉川橋。中島橋。元荒川緑道。自然堤防。大成橋。越谷レイクタウン事業・大相模調整池。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

2024-06-23 19:34:31 | 元荒川

中川の一つ上流にある「吉川橋」。

大正6年 「古利根橋(2代目吉川橋)」・木造の橋。この先で、「元荒川」が「中川」に合流します。

        左手が「元荒川」、右手が「中川」。

付近は、工事中。

               左手に「中島橋」。正面に、「河川管理境界標示 ←元荒川 →中川」。

越谷市内のマンホール。

「越松水消火栓 消防士ガーヤちゃん」。越谷特別市民「ガ-ヤちゃん」が消防士にふんしたデザイン。

元荒川の最下流に架かる「中島橋」。

中川方向を望む。

上流に向かって歩き始めます。

左右両岸に「元荒川緑道」がありますが、右岸を歩きます。

「飯島排水機場」からの流れ。

                                   その先に「大成スポット公園」。

緑道には、休憩ベンチ・簡単な運動器具・トイレなどが整備されています。

左手に土手状の盛り土が続いています。

この付近の今昔。

                           (1880年代)元荒川沿いの微高地で自然堤防が形成されている。

                           (現在)住宅地や畑地などになっている。土手沿いに水路。

            

対岸のようす。

国道4号線・「大成橋」。

    「水道管橋」

その先に、「大相模調整池」・ 水源。

           

※ 埼玉県越谷市が推進する地区整備事業の越谷レイクタウン事業の一環として施工され、「新しく水との共存文化を創造する都市」をスローガンに、事業区画のほぼ中央に39.5haという広さの水害対策を視野に入れた調節池(調節容量120万立方メートル)として建設された。地域住民の憩いの場として池の一部を開放し、自由に利用出来るようになっている。

元荒川流域は比較的低地が多く、特に越谷市は水路に囲まれ、洪水に多く悩まされてきた経緯がある。そのためニュータウンの建設にあたり、洪水時に元荒川から導水・貯水し、豪雨が去ったあとに中川へ排水する巨大な調節池を建設する計画が推進された。面積は約40ha、深さ最大約5mの貯水池が完成し、120万立方メートル(東京ドームと同程度)の水を受け入れることが可能となった。

完成翌年の2015年9月に台風18号による平成27年9月関東・東北豪雨が発生し、埼玉県内で最も被害を受けた越谷市内では、最多の床上浸水が175棟、床下浸水が584棟に上った。調節池より北側の地区に集中しており、河川の排水機能が追い付かず、せんげん台駅周辺など、場所によっては1m近い水深になった。越谷市の至るところで冠水が発生したものの、その際越谷レイクタウンでは、周辺より嵩上げされた地盤であることや、容量いっぱいまで貯水したことによって浸水被害はなかった。また、調節池より下流域での浸水被害は少なく、被害軽減の効果が実証された

※「大相模調整池」。(写真は、「Wikipedia」より)

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JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その1。吉川。中川。「月の公園」。吉越橋。越谷市へ。(「元荒川」をゆく。第1日目。)

2024-06-22 20:55:02 | 元荒川

川歩き。これまで、「利根川(沼田まで)」「荒川」「隅田川」「江戸川」「中川」「新中川」「(大落)古利根川」「多摩川(断続的)」と歩いてきました。

今回から「元荒川」を「中川」との合流地点から水源まで遡ることにします。

ただ流域は暑さが並みではないところ。熱中症に気を付けながら、歩く距離も短めに。5日くらいかけて歩くつもり。

また上流は最寄り駅が遠いので、バスを利用する予定。本数があまりなさそうですが。

「元荒川」約60㌔。

現在、埼玉県熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発する。

おおむね南東方向に流れ、行田市鴻巣市久喜市桶川市蓮田市白岡市を経由する。途中、鴻巣市袋付近で武蔵水路と、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で見沼代用水と立体交差する。白岡市西付近で星川が合流すると川幅を大きく広げ、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川合流する。

以前の元荒川は1955年(昭和30年)頃までは荒川扇状地湧水を水源としていたが、高度経済成長期に水源が枯渇したため、現在の源流はポンプで汲み上げられた地下水(人工水源)であり、1日7000 tの地下水が汲み上げられている

かつては荒川の本流であったが、1629年伊奈忠治により熊谷市久下で荒川が締め切られ、本流からは切り離された(荒川の西遷)。また、かなり蛇行した流路であったが、同時期に流路を整備されている。

※下流付近の流路が間違っています。

そういうわけで、暑い一日。

JR武蔵野線「吉川駅」下車。

吉川市のマンホール。

 市制施行20周年記念のカラーマンホール。市のイメージキャラクターの「なまりん」と桜の花と市章、「なまずの里吉川」、「よしかわ」「おすい」の文字が入っています。

中川の土手に上がります。

                        武蔵野線の電車が通過中。

上流を望む。

                      「吉越橋」。 

土手下に、「月の公園」。

そこから、「吉越橋」を渡って中川の右岸に向かいます。

「吉川市」から「越谷市」へ。

下流を望む。

上流を望む。

                 「元荒川」の流れの方向?          

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夏至。やっと「梅雨入り」。ウツボグサ。アヤメ。半夏・半夏生。冷酒。夏越(なごし)の祓・水無月(みなづき)祓。

2024-06-21 19:43:49 | 二十四節気

今日、6月21日は、「夏至」。二十四節気の第10番目。関東甲信越地方もやっと「梅雨入り」。

今日は朝からシトシトかと思えば、激しくなったりと変化が激しい雨降り。九州などでは大雨になっているようですが・・・。

さて、「夏至」。

「夏、至る」とあるように、いよいよこれから夏の盛りに向かっていく頃。北半球ではこの日が一年のうちで最も昼の時間が長い。反対に、南半球では、この日に最も昼の時間が短くなる。

暑さは日に日に増していくが、日照時間は「冬至」に向かって少しずつ短くなっていく。「立夏」と「立秋」のちょうど真ん中となる。

七十二侯でいうと、

・初侯 6月21日〜6月25日頃

乃東枯 なつかれくさかるる

冬至の頃に芽を出した「靫草(うつぼぐさ)」が枯れていく頃。

「うつぼぐさ」(「向島百花園」にて)。

円筒形の花穂の形、もしくは花穂につく小花の形が、弓矢を入れて背中に背負った道具である靫(うつぼ)に似ていることに由来する

・次侯 6月26日〜6月30日頃

菖蒲華 あやめはなさく

アヤメが花を咲かせる頃。アヤメが咲くと、梅雨到来といわれていた。  

アヤメ? (「日光東往還」南河内町にて)

アヤメもショウブも漢字で書くと、同じ「菖蒲」。アヤメは「文目」、「綾目」とも書く。

ショウブというと「堀切菖蒲園」の花菖蒲をすぐ連想します。他のところにも名所がたくさん。

     

               

・末侯 7月1日〜7月6日頃

半夏生 はんげしょうず

半夏(からすびじゃく)が生える頃であり、半夏生の名をもつ草の葉が白く染まる頃。

農家にとっては大事な節目の時期で、「畑仕事を終える」「水稲の田植えを終える」目安で、天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、採った野菜は食べてはいけないとされたりした。

この頃に降る雨を半夏雨(はんげあめ)と言い、この雨が降ると大雨が続くと信じられていた。

サトイモ科の植物。別名や、乾燥させた根茎は半夏(はんげ)の名で知られる。花は小型の仏炎苞で、ひものような付属体が上部に伸びるのが特徴。

※この「半夏」と「半夏生」とは別の植物

半夏生

上の方の葉っぱが、ペンキをべったり塗ったように白くなるのがおもしろい。

・花期に葉が白くなるのは、虫媒花であるために虫を誘う必要からこのように進化したのではないか、いわれている(白くて目立つ)。

・花は葉と同じく白で、紐状。

・花が咲き終わって夏の盛りの頃になると、白い葉の白い部分は色落ちして、ふつうの緑色っぽくなる。

・葉の半分ほどが 白くなることから、「半化粧」(はんげしょう)とか「片白草」(かたしろぐさ)とか呼ばれるが、「半夏生(はんげしょう)」の名でも知られる。

ハンゲショウ(半夏生)の群生。

       

                  (三浦半島・小網代の森より)。

のものとして

果物 夏みかん

さかな 鮎

野菜 オクラ

たしなみ 冷酒

行事

夏越の祓(なごしのはらえ)

6月の末日(晦日)は、12月の大晦日と同じく「大祓(おおはらえ)」の日。各地の神社では、 茅(ちがや)というイネ科の植物で編んだ直径数メートルの輪をくぐる「茅の輪くぐり」が行われる。心身を清めて災厄を祓い、無病息災を願う行事。

「夏越の祓」は、〈水無月祓〉として、兼好法師の『徒然草』にも出てきます。

《折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ》※この段の内容は、季節感にあふれ、今でも当てはまっています。

「・・・灌仏くわんぶつの比、祭の比、若葉の、こずゑ涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月さつき菖蒲あやめふく比、早苗さなへとるころ水鶏くひなの叩くなど、心ぼそからぬかは。六月みなづきころ、あやしき家に夕顔ゆうがほの白く見えて、蚊遣火かやりびふすぶるも、あはれなり。六月祓みなづきばらへ、またをかし。

 七夕たなばた祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒よさむになるほど、かり鳴きてくる比、萩の下葉したば色づくほど、早稲田わさだすなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分のわきあしたこそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語げんじのものがたり枕草子まくらざうしなどにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつり捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。・・・」

・・・

7月7日は都知事選挙。

候補者が多数で、掲示板も足りなくなる騒ぎ。いろんな思惑があるようですが、かえって白けきって、若者などはそっぽを向き、投票率は上がりそうには思えない。そうなれば組織ががっちりしているところが、勝利。

はたしてどうなるか?

次は、「小暑」(7月6日)。

※旧暦では1~3月が「春」、4月~6月が「夏」、7月~9月が「秋」、10月~12月が「冬」。

今の季節感覚だと、春と秋が短くなり、「夏」がえらく長くなっている感じですね。

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あんずとソウタ。我が家の猫たち。不思議な動物。(DAYS with CATS)

2024-06-18 19:46:08 | わがやの猫たち

6月16日(日)。13回忌法要を済ませて、帰宅。息子夫婦から父の日のプレゼント。

やはり、ビール。サントリーのセット。

箱から出した途端、ソウタがすぐ、

底の浅い箱に入っています。

                  よほど箱好きなようです。入りきれないしっぽ。

そのうち箱もつぶれて、

 

                 

そして、昨日。この格好は? 頭は? しっぽは? 

                    

ソウタ。家人が出かけると、ジジを咥え、雄たけびをあげながら、家の中を走り回るようです。

帰ってくると、必ずジジがそばに。

家に来たときはこんな小さかったソウタ。

                      

ふだんは、

              

             

一方のあんずは3歳になっても大きくなく、「可愛いわね」と声を掛けられる存在。

       

          

                   

家人の姿が見えなくなると、「ニャーニャー」啼いて探し回り、見つけると、背中に飛び乗る。ただし、女性の方のみ。

男性には目もくれないどころか、近づくと、かみつく。ガードが堅い。

ふだんは、押し入れの中で、おやすみ。

そんな猫たちです。

            仲がいいのか、悪いのか。猫の世界は不思議です。

そんなことを肴に、おいしくビールを飲み干しました。

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。国道356号。銚子大橋。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-17 21:01:22 | 銚子往還

賑やかな町並みに入ります。漁港らしいお店なども。

        

「鈴木海苔株式会社」。

しばらく進み、「国道356号」に合流し、「銚子大橋」に向かう交差点へ。

左に「銚子大橋」。利根川最下流の橋。

以下は、利根川歩きのときの記録。・・・

銚子大橋。

            橋の長さと利根川の川幅の広さにビックリ。

対岸(波崎)。

      

              「銚子大橋と利根川」。

日本最大の流域面積をもつ利根川は、別名を「坂東太郎」といい、群馬県北部の大水上山に源を発し、関東平野を貫流して銚子市から太平洋に注いでいます。その延長は322㎞で、日本で2番目の長さです。その利根川河口に昭和37(1962)年に対岸の茨城県波崎町(現神栖市・かみすし)とを結ぶ銚子大橋が架けられました。延長1450mは川面に架けられた橋では日本一の長さです。現在は、斜張橋(ハープ橋)に架け替えられ、観光スポットとなっています。

※「神栖市」=東は太平洋鹿島灘)に面し、南は利根川常陸利根川)が流れる。かつては広大な面積の池「神之池(ごうのいけ)」があったが、現在は鹿島開発のため一部を残して大部分が埋め立てられている。

     対岸を望む。

上流方向を望む。

    ハープ橋。

・・・

ここが「銚子往還(飯岡灯台~)」との追分になります。

総武本線「旭駅」の先で二手に分かれた「銚子往還」。松岸町での追分と併せて二カ所の追分にたどり着きます。

右に行くと「銚子駅」。

この先は、前回、行きました。

しばらく歩いた左手に「飯沼観音」(今回の「佐原銚子街道」のゴール)があります。ここまでで旅の終わりとします。

この「あぶら屋」さんも関連がありそうです。

銚子駅から成田線で帰途につきます。「下利根漁業協同組合」。

              利根川一帯も漁業の盛んな土地柄であることがわかります。

「下総豊里」駅。

この駅で下車して「佐原銚子街道」を歩きました。約12㎞。

成田線にも利根川歩きを含め、何回もお世話になりました。

車窓より。

利根川から離れて成田へ向かいます。

これで、3ルートにわたった銚子までの街道歩きが、完結です。

房総往還(「内房線」沿線)、房総東往還(「外房線」沿線)、そして銚子往還(「総武本線」沿線)、「佐原銚子街道(「成田線」沿線)。さらに、「佐倉・成田・佐原街道」「東金御成街道」「鮮魚街道」「木下街道」を含めて、けっこうたくさん街道を歩きました。

それぞれの街道は、まだまだ海、川、山など自然がたくさん残され、農業、漁業などの地元の産業も豊かな土地柄を味わうことができました。

残るは「大多喜街道」「久留里道」?

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その5。松岸駅。飯沼観世音江一里。銚子市のマンホール。利根川・銚子港。桝形。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-16 18:07:39 | 銚子往還

「松岸町北」。

ここを右に曲がって進むと、「松岸駅」に。

JR「松岸駅」。

「松岸駅」は「総武本線」(千葉~銚子)と「成田線」(成田~松岸)が合流する駅。

「金井栄蔵商店」。

           街道筋らしいお店。

実は、この道は利根川歩きのとき、土手が工事中のため、途中から通った道です。

利根川の土手に行ってみましたが、相変わらず工事中(何年越しでしょうか)でした。

この先、街道から少し右に入ったところに、

石碑「飯沼観世音一里」。残り4キロ。

残りわずかに。

庚申塔などが一か所に集められています。

銚子市のマンホール。

図柄は「犬吠埼灯台」と「カモメ」と市の魚「イワシ」。

利根川沿い・銚子港の一角。

           

街道に戻ると、「木内旅館」。

この先、桝形になっています。

                  

この付近の今昔。

                               (現在)

〇が桝形の部分。赤い線が国道356号線(利根水郷ライン)。

                               (1880年代)

街道は利根川・銚子港沿いに進んでいる。

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その4。飯沼観世音江二里。余山貝塚。四日市場町。大網からの「銚子往還」との追分。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-15 20:59:04 | 銚子往還

しばらく進んだ右手に、石碑「飯沼観世音二里」。あと8キロ。

その先、右手に入る道が旧道です。

                       

田畑が広がります。

            遠くには風力発電所。

国道356号線に復帰。 

田んぼが広がる。  

 

右に入る道も旧道のようですが、省略し、国道をそのまま進みます。

「高田川」。利根川方向。

           上流方向。

バス停「余山(よやま)」。   

「余山貝塚」は、利根川に注ぐ高田川東岸の標高約7メートルの浜提上の集落によって形成された長軸約140メートル、短軸約70メートルの広がりを持つ貝塚です。

貝塚は縄文時代後期から晩期を中心にして形成されていますが、弥生、古墳、奈良・平安時代に至る遺構や遺物も出土しており、原始から古代の長期間にわたって継続した遺跡です。

余山貝塚は明治時代中ころから多量の人骨や遺物が出土することで考古学界に知られるようになり、考古学史上著名な貝塚のひとつです。貝塚は、チョウセンハマグリが主体として構成され、そのほかの貝も鹹水(かんすい)産であることから貝塚形成時は太平洋に面していたと考えられています。

出土した遺物は土器のほかに土製耳飾り、大量の貝輪、各種の石器及び骨角器類などがあります。

また、貝塚から出土した土偶一点が重要文化財に指定され、現在は兵庫県西宮市の辰馬考古資料館に所蔵されています。

                

貝塚には吉野長太郎が昭和8年(1933年)に建立した「コロポッグル喰ひ遺したり四千年」の石碑があります。

(この項、「」HPより)

キャベツ畑。     

Jteウインド奈村第一」。

              鮮魚店のようです。

「国道356号」・「高橋食堂」から左に入っていきます。

         

利根川の土手に近づきます。

 

           

「四日市場町青年館 入口」。 

総武本線「旭駅」から歩いてきた「銚子街道」との合流点(追分)にいよいよ近づいてきました。

「銚子往還」が右からきます。

内房線「大網駅」から6日間かけ、ここにたどり着いたのは、2ヶ月前。

「銚子往還」。東房総台地を越えてここまで来たわけです。

この付近の今昔。  

        (現在)〇が追分。         (1880年代)集落内。

飯岡灯台から歩いてきた、もう一つの銚子往還との出会いが、この先の銚子駅付近であります。

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その3。ジグザクな道筋。「滑川家住宅母屋・長屋門」。椎柴駅。野尻町交差点。利根水郷ライン。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-13 19:32:08 | 銚子往還

銚子市立椎柴小学校。

見事な槙の生垣。

右左折します。

             

  

桝形のような形状の道筋ですが、

かつては利根川沿いの道だったので、それと関連があるか、と。

庭一面に「かきつばた」。

バス停「野尻」。

※「野尻」は、野尻河岸に多くの河岸問屋が存在し、舟運で栄えた集落でした。

左手に大きな長屋門が見えてきます。

「滑川家住宅母屋・長屋門」。

滑川家住宅主屋

滑川家は所蔵している「家系譜」によると、応仁の乱(1467~1477)の時滑川内匠助がこの地に住み始めたと伝えられています。江戸時代に入り代々「藤兵衛」を名乗り、名主として海運業に従事していました。
主屋は木造瓦葺き2階建てで、主体部、座敷部、玄関(旧帳場)部から成り立っており、1873年(明治6)に建築されたことが確認できます。滑川家は江戸時代末期には日本橋牡蠣殻町に出店を構えており、座敷部は加賀藩前田家の下屋敷(現東京都板橋区加賀)建物を買い受け、移築したといわれています。座敷部の室内意匠と仕様は、上級武家住宅風の造りとなっています。

滑川家住宅長屋門

長屋門は、梁間3間、桁行8間半の木造平屋建て、屋根は寄棟造、桟瓦瓦葺きで背面西寄りの部分に幅1間の下家が付いています。建築年代は、天保年間(1830-1844)の飢饉の時に「救い普請」として建てられたといわれています。

多くの河岸問屋が存在していた野尻河岸において、舟運で栄えた集落の往時の様子を示す貴重な建物であると同時に、旧銚子街道に面しており、街路景観の重要な構成要因になっています。

 

来た道(「佐原銚子街道」)を振り返る。

バス停「椎柴駅」。

「椎柴駅」は、利根川歩きの初日、その帰途に利用した駅です。

 「椎柴駅」。

「国道356号(利根水郷ライン)」に合流します。

「野尻町交差点」。

               利根川沿いに進んできた国道を振り返る。

この付近の今昔。

                           (現在)西北からの黄色い線が旧街道。

利根川河川敷が広がる。

                           (1880年代)

野尻河岸があり、集落が形成されている。

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成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その2。里山風景。牛舎。水準点・海抜6.8m。「利根かもめ大橋」。ジグザクな道筋。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)

2024-06-12 21:01:11 | 銚子往還

周囲に広がる田園地帯を、

                        「成田線」上り電車が通過中。

                 

左手に牛舎があります。

                   真っ黒な体に目が光る。久々に見ました。

                  

バス停「塚本町」。

家並みが続くようになります。

                  落ち着いた街並み。

石碑。忠魂碑? 詳細不明。地元の方はおわかりでしょうが。

遠くの踏切を下り電車が通過中(↓)。

久々に木漏れ陽の中を歩きます。

水準点。海抜6.8m。この付近、緩やかな上り下りがある道筋。

風力発電所の風車が見えます。

「利根かもめ大橋有料道路」。

利根かもめ大橋は、利根川に架かる利根川河口から数え2番目の橋です。
慢性的な渋滞が激しい銚子大橋の混雑解消と、千葉県東総地域と茨城県鹿行地域を結ぶ幹線道路として両県の地域発展に寄与するものです。

              

(この項、「」HPより)

「利根川」歩きの時の記録。

             

   

・・・

この先、道はジグザグに進みます。

この付近の今昔。

                           (現在)ジグザクな道筋。利根川の流域整備がされている。

                           (1880年代)「至 東京道」とある。

千葉町(市)に向かう、これまでの銚子往還ではなく、利根川沿いに木下・我孫子方向に進み、水戸街道に合流していた道のようです。

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