「浮花橋」から下流を望む。右岸が足立区、左岸が八潮市。
橋を渡ると、埼玉県八潮市。
今度は、左岸(八潮市側)を歩きます。左は、工場が並ぶ。
土手道。
対岸は、足立区花畑。
真っ赤な花、ピラカンサ。
工場建設中の土手の脇に「水神」。
大曽根ビオトープ。
解説板。
大曽根ビオトープの歴史
綾瀬川の名前の由来
綾瀬川は古代より、流路の定まらない川として、「あやしの川」あるいは綾のように入り組んでいたので「綾瀬川」と呼ばれたなどという言い伝えがあるように、大きく曲流していました。河川の氾濫河川の氾濫・洪水なども頻繁に発生しました。大曽根ビオトープはこのような綾瀬川の河川敷にある貴重な環境です。
大曽根の名前の由来
「曽根」は局地的に砂・土を有するやせ地の意で、綾瀬川沿岸の大きなやせ地からつけられたということです。大曽根村は、近世初期から明治22年明治22年(1889)までの村名でした。近世においては、天正18年(1590)から幕府領、寛文2年(1662)に旗本の森川領となり、明治維新まで旗本森川下総守の支配地でした。明治22年(1889)、大曽根村は町村制により南埼玉郡八幡村の大字となり、現在に至ります。
関屋(舟着き場)
大曽根の対岸の花畑は、陸上・水上の交通の要衝である「鷲宿(とりじゅく)」として栄えました。花畑にある鷲宿から対岸の大曽根への渡河地は関屋といわれ、河の関所があった場所だといわれています。綾瀬川のこの周辺に渡し船の舟着き場があり、渡しの番をする人がいました。
※「鷲宿」は「酉の市」発祥の地といわれる「花畑大鷲(とり)神社」門前町として賑わったという。
御立野跡
「御立野跡」は、近世の大曽根新田の小名で、明治期以降は大曽根の字名です。「御立野跡」は幕府御用の茅野跡で、入り会いを禁じられた地にちなんでつけられました。「大曽根新田」は、・・・享保12年(1727)の綾瀬川改修にともない、延享2年(1745)に西袋村の栗原平次右衛門ら5名が古綾瀬川を開発した地域でした。新田開発地は、古綾瀬川の流路跡と徳川家の御用茅野跡の「御立野跡」で、幕府領で代官支配地でした。
※現在、古綾瀬川の左岸が八潮市に属しているのはこの新田開発に関係しているのだろうか?
民話「蛇橋」。
綾瀬川をはさみ、たびたびの水難に苦しむ足立郡・花又村(花畑村)と大曽根村の争いに関わる民話。
・・・大曽根村の名主新八が、村を水難から救うため、堤を切ったことが分かり、家は断絶との処分が決まった。この悲惨な出来事に老母は気が狂い、「親子とも大蛇になり、恨みをはらすのだ」と叫びながら綾瀬川に身を投じたという。その後、二匹の大蛇は綾瀬川であばれまわり、村人さえもよりつかなくなった。あるとき、江戸の役人浅田近右衛門と妹のしづが船に乗り、大曽根村へさしかかると、片目の蛇と白い蛇が近右衛門にたちむかってきた。刀で切ってすてようとすると船が転覆し、妹のいしづが行方知らずとなった。調べてみると先のような話で、このことを将軍吉宗様に報告したところ、将軍が気の毒に思い、これからは二つの村が仲良くするようにと、金五両を下さった。このお金で「蛇塚」と「蛇橋」を作って供養したところ、それから蛇は出なくなったそうな。-「足立百の語り伝え」等から取材ー
この先、工場の敷地を抜け、再び土手沿いの道へ進みます。
しかし、綾瀬川に流れ込む小川を渡るための橋が崩れていて、歩行禁止。そのため、大きく遠回りして「綾瀬川」に架かる「桑袋大橋」の東詰のところから綾瀬川に向かいます。
歩行禁止の所から「綾瀬川」。
対岸に見えるのは、伝右川排水機場。
※ここで「綾瀬川」に「伝右川」、「毛長川」が合流。
足立区花畑の一部が八潮市に食い込む形で、綾瀬川の東側に広がります。その東側を歩いたことになります。
綾瀬川下流を望む。
「桑袋大橋」の上流にある橋を渡り、足立区方向へ。
道路の向こうに「東京都」「足立区」の標識が。
足立区に入ってすぐの「花畑桑袋団地」バス停から乗車、東武線「谷塚駅」へ。
「都営花畑第4アパート案内図」。(足立区花畑8丁目)
バスの終点は、足立区の「竹の塚駅」ですが、大半のお客さん(小生も含め)は、途中の「谷塚駅」(埼玉県草加市)で下車しました。
次回は、「花畑桑袋団地」バス停から再開です。