おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その2。厚木基地。「大和ゆとりの森公園」。春日新道・本寥川。廻り坂。道標。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-02-26 19:11:52 | 中原街道

横田基地。広大な敷地。

                     遠くに富士山。

左から来る「現中原街道」と合流します。現在の中原街道は厚木基地を大きく迂回しています。

           左手に「大和ゆとりの森公園」。

南北に長い敷地の公園となっており、ところどころに人気エリアが存在しています。

  1. 仲良しプラザ・売店
  2. わんぱく広場
  3. ふわふわドーム
  4. 健康器具
  5. 多目的リンク
  6. 芝生グランド
  7. テニスコート
  8. 中規模多目的スポーツ広場
  9. 大規模多目的スポーツ広場
  10. ゆとりの森スポーツハウス
  11. バーベキュー広場

右奥に数機の航空機。

歩道沿いに進みます。

             右手が基地、左手が公園。正面には丹沢、富士山。

公園側にある「誘導灯」(滑走路の延長上)。

                 

        

「綾瀬大橋入口」交差点。

左折して進みます(旧道に復帰)。基地内を進んだ旧街道はここからかつての道筋に。

「中原街道(春日新道)」。

「本寥川(ほんたてかわ)」バス停。

寥川。

緩いアップダウンが続きます。

「綾瀬市浄水管理センター」。

     大和市と綾瀬市との市境。

「廻り坂」バス停。

直線の道が続きます。

庚申塔など。

「西 厚木 ? 江戸 道」。

「鶴ヶ岡」バス停。

旧家らしい大きなお屋敷。

梅が満開に。

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小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その1。引地川。「厚木基地」。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-02-25 21:02:10 | 中原街道

今回からは、小田急江ノ島線・桜ケ丘駅からJR相模線・寒川駅まで。

2月23日(日)。晴れ。

駅前案内図。上は南方向。

       ※駅構内の案内図は、えてして上が北ではない場合が多い。下車した客の目線に合わせたものか?

「中原街道」に復帰。右に進みます。

踏切を越えた左手に、

解説板。「桜株十一面観世音菩薩の由来」。

此の尊像は昭和11年10月23日瀬谷村の秋の祭りと大和村小学校の運動会の見学の帰りに当時、もの珍しいオート三輪車にて、13名の者が同乗して、小田急桜株一号踏切にさしかかる折から驀進して来たりし江ノ島行きの電車に接触し大音響とともに三輪車もろとも11名即死、2名が重症という大惨事をまきおこし、これを契機に部落の先輩諸志が、交通事故防止を呼びかけ、設立運動をおこし翌昭和12年有志の善意が高まり、浄財のご喜捨により、当時綾瀬村報恩寺の住職の御懇篤なるご教導を仰いで、11名の尊きご魂のご冥福をを祈るために十一面観音菩薩が踏切わきのこの地に安置され、そして二度とこのような事故をおこさぬよう、永遠に交通安全を願い菩薩のご加護を祈願し慈に尊像を設立致しました。桜ヶ丘自治会

※「桜株」は「桜ヶ丘」の旧地名。

 「新道下大橋」。

「引地川」。

読み方・振り仮名は行政上は「ひきじがわ」で統一されたが、「ひきちがわ」「ひきぢがわ」などもある。河口はシラスウナギの捕獲で有名である。

河川名の由来には諸説があるが、台地からの出口に当たる藤沢市稲荷付近で、砂丘を断ち切って河道を付け替えたことによるという説が有力である。かつては場所により長後川、大庭川、清水川、堀川などの名称で呼ばれていた。

湘南砂丘地帯に出てからは、かつては自由蛇行を繰り返し、大水の度に河道がつけ変わっていた。昭和初期に神奈川県の手で河川改修が行われ、現在の河道に固定された。相模湾東部の沿岸流は東流するため、河口は東に移動しがちで、江戸時代の絵図には境川下流部に合流するものも見られる。(「Wikipedia」より)

現中原街道は、大きく左に曲がる。

が、旧道は右に進んでいきます。

右手に厚木基地のフェンスが続きます。

厚木海軍飛行場。

神奈川県綾瀬市大和市にまたがる軍用飛行場で、アメリカ海軍海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。県内で唯一、固定翼ジェット機が離着陸できる航空施設である。航空管制は海上自衛隊が行なっている。

アメリカ海軍は空母ロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)艦載機の第5空母航空団(CVW-5)の本拠地として使用しており、海上自衛隊は第4航空群、実験航空部隊の第51航空隊、輸送航空部隊の第61航空隊の航空基地として使用している。

通称は厚木基地厚木飛行場。海上自衛隊の基地としては厚木航空基地、在日米軍施設としては厚木海軍飛行場と呼ばれる。米軍内における名称はNaval Air Facility Atsugi米海軍厚木航空施設)である。

1945年(昭和20年)8月30日ダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。このとき、彼が細いコーンパイプを咥えてタラップを降りる写真(『ライフ』カメラマンのカール・マイダンス撮影)が現存し、日本の敗戦や連合国による占領時代を象徴する1枚としてしばしば用いられる。

総面積約506.9 haのうち、約395 ha(全体の約78 %)が綾瀬市で、残りが大和市である。

(「」より)

※厚木基地は綾瀬市と大和市にまたがって所在しており、厚木市にはない。なぜ厚木基地という名称なのか、由来については諸説あるが、いずれも確証がない。

上記の写真でも分かるように、市街地に囲まれている。騒音訴訟が5次にわたって行われ、さくねん11月20日に第5次訴訟の地裁判決が出ました。

・・・

 「とんでもない不当判決だ」。第5次厚木基地騒音訴訟で、横浜地裁は20日、過去分の騒音被害に対する損害賠償のみを認めた。閉廷後、弁護士らが「差し止め認めず」などと書かれた紙を掲げると、地裁前で待ち構えていた原告団からは怒号が上がった。

自衛隊機差し止め認めず 過去被害に59億円賠償命令―第5次厚木基地騒音訴訟・横浜地裁

 午後2時半からの判決言い渡しは、裁判長が主文を読み上げただけで閉廷。傍聴していた原告らも裁判所前で合流し、約100人が怒りや不満をあらわにした。

 原告団副団長の高久保さん(80)は、「第4次訴訟の地裁判決では飛行差し止めを認めたのに、今回は認めず怒りを感じている。裁判所は爆音被害者のことをまったく考えていない」と憤った。

 原告団はその後、横浜市内で報告集会を開催。福田護弁護団長は「(第4次訴訟の)最高裁判決をただ引用するだけで、(われわれの主張に)耳を傾けようとする姿勢がない判決だった」と批判した。一方、認められた賠償額については「基準額は過去最高の水準だった」と評価した。

 原告団長で神奈川県大和市議の大波修二さん(78)が「控訴したい」と宣言すると、会場からは拍手が湧き起こった。

(「時事ドットコムニュース」HPより)

フェンス沿いの直線道路を進む。 

日曜日のせいか、飛行機の騒音は聞こえなかった。

※本来の旧道は基地内にあったか?

この付近の今昔。

                             (現在)黄色の線が現中原街道。

                             (1880年代)現基地内を直線で進んでいた。

       左手には「富士山」。

振り返る。

「代官3丁目」バス停。

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「向島百花園」。その3。「福来雀・すずめ踊り」。

2025-02-23 21:08:12 | 向島百花園

すずめ踊り 出演:福来雀」。

仙台すずめ踊りとは

慶長八年(1603年)、仙台城移徒式(新築移転の儀式)の後の宴席で、泉州・堺(現在の大阪府堺市)出身の石工(いしく、石垣造りの職人)さんが、藩祖伊達政宗公の御前で即興で披露した踊りがはじまりと言われています。

踊る姿が餌をついばむ雀に似ており、伊達家の家紋も「竹に雀」であることから『すずめ踊り』と呼ばれました。仙台発祥の郷土芸能であるすずめ踊りは石工の子孫によって伝承されて来ましたが、近年では市民の間にも広がり多くのグループ(祭連=まづら)が創られるようになりました。

5月の「仙台・青葉まつり」など様々なまつりやイベントで披露されるすずめ踊りは各祭連が工夫を凝らした振り付けやお囃子を競い合い、年々その規模を拡大しています。

仙台すずめ踊りの踊り

「はねっこ踊り」とも呼ばれるすずめ踊りはそもそも即興の踊りですが、伝承された踊りをベースに考えられた基本となる動きが存在します。

中腰でやや前かがみの姿勢、手には扇子を持ち体の前で大きく開いたり閉じたり左右に振ったりします。足は左右に「ぴょんぴょん」跳ねながら体の前に蹴り出すような動きが基本のようです。あとはお囃子に合わせ思い思いに楽しく体を動かすのがすずめ踊りです。

ちなみに伝承されている踊りは、片足で数歩飛びながら体の前で腕を回転させるような動きとなっています。 現在、各祭連ではそれぞれ振り付けを創作してその技や美を競い合っています。

すずめ踊りは初代園主・佐原鞠塢の出身地・仙台発祥の踊りで、墨田区ゆかりの浮世絵師・葛飾北斎の「北斎漫画」にも描かれている。

今回出演する「福来雀」さん。仙台出身の仲間が中心となり、都内において「すずめ踊り」普及のため活動中。

お子さんも参加、踊ります。

途中で、すずめ踊りに関するクイズがあったり、踊りの基本の手ほどきがあったりします。

観ている人も巻き込んでの演技。

ところで、

ふくら雀は、冬になると外でまんまるに膨らむ雀のことをいいます。

            (「ORINCON NEWS」より)

寒さから身を守るために自分で羽の中に空気の層をつくりますが、見た目がふっくらしていることからその名前が付けられました。

その佇まいから、豊かさを表す縁起ものとされ、「福良雀」「福来雀」と書くこともあります。また、雀自体に「厄をついばむ」意味があり、一族繁栄や家内安全の象徴とされてきました。

ただ、見た目にかわいらしいふくら雀ですが、雀にとって冬は辛くて過酷な季節。
普段は地面で草の根などのエサを探していますが、寒い季節は木の上にいることが多く、食料にありつけないことも..。

さらになるべく体温が下がらないよう集団で寄り添い、あたため合いながら厳しい寒さに必死で耐えているのです。

※都会の雀たちには無縁な印象ですが。

        

            

    見事に決まりました。

先週の大道芸といい、今回の「すずめ踊り」といい、こうした芸を観ることができ、ありがとうございました。

   

春もやゝ けしきとゝのふ 月と梅 はせを(芭蕉)」。          「藤牡丹枝垂」。

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2月22日(土)。にゃんにゃんにゃんの日。(DAYS with CATS)

2025-02-22 22:22:22 | わがやの猫たち

今日はにゃんにゃんの日のようです。3年前はすべて「2」が並ぶにゃんにゃんにゃんにゃんにゃ~んの日でした。

その時の記事。

2022年2月22日。

「2」が5つも並ぶ日に。そこで、マスコミも「にゃん」「にゃん」「にゃん」「にゃん」「にゃん」と。

我が家にも猫が2匹。「ニャン」「ニャン」というわけです。

2才になった雌の「アンズ」と5ヶ月を過ぎた雄の「ソウタ」。

猫たちとのおつきあいもかれこれ40年以上に。最初は神社に小さな段ボールに入った、生まれたばかりの猫の兄妹。

「タロウ」と「モモ」。あわせて「桃太郎」。20年近く面倒を見てきました。友人から頼まれ、「育ててくれる」と言った息子も、もう40才を過ぎました。

次々に亡くなった後、娘夫婦の猫たちの面倒も見てきましたが(といっても、ほとんどかみさんの世話ですが)、その猫たちも年を取って亡くなり、と思っていると、新しく動物病院で預かっていた「アンズ」が。

一人じゃかわいそうといっているうちに、船橋に住む息子から「近所の家で保護されたようだ」と生まれて一ヶ月も経っていないような子猫を。

ということで、相変わらず猫たちとの生活が続いています。

しっぽが長い「ソウタ」は、やんちゃな男の子。家中を飛び回っています。今日も台所で。
 
 
さんざん遊んで、あとはグッスリ。体重は、すでに3.2㎏。
 
 
一方のしっぽがちぎれた「アンズ」は2才。小さい頃のかみつき癖もなくなり、おっとりと構えたお姉さんぶり。体重はソウタに抜かれて3.1㎏。とっくみあいをしても負けそうです。
 

 さっさと高いところへ。

 その日の朝の「朝日新聞」の1面の広告欄。

そして今年は、

ところで、

2月22日の「猫の日」にちなんだ商戦が活気づいている。コンビニでは、猫の肉球をイメージしたスイーツなどオリジナル商品が昨年より大幅に増えた。ペットショップは猫専用のトリミングでアピール。「ネコノミクス」と呼ばれる猫関連の商品やサービスが生み出す経済効果は2兆9000億円との試算もある。商売繁盛を招き寄せられるか。

 セブン―イレブン・ジャパン(東京)は、

愛猫家の社員が開発に携わり、関連商品を昨年の5種類から23種類に増やした。特にティラミスの上に、肉球の形にホイップクリームを手絞りしたスイーツ「肉球ティにゃミス」(299円)や「肉球のおだんご きにゃこムース&黒糖ゼリー」(324円)など肉球推しの商品が並ぶ。

 ファミリーマート(東京)は、

「ファミリ~にゃ~ト大作戦!」と銘打ったキャンペーンを実施中だ。ヤマト運輸とコラボした「クロネコとシロネコのビスケットサンド」など21種類を扱う。売り上げ目標は前年の2割増し。「猫は癒やしのシンボル。経済への影響力は高まっていく」(担当者)と期待する。

 猫専用のトリミングサービスを一部店舗で導入したのはイオンの子会社イオンペット(千葉県市川市)。トリミングは犬向けが主流だが、猫への施術を求める声などを受け、専門のトリマーを育成した。飼い主からは「抜け毛やもつれが減った」などと評判で、全国展開を目指す方針という。

 ペットフード協会によると、2024年の猫の飼育数は約915万5000匹で、14年以降は犬を上回って推移している。関西大学の宮本勝浩名誉教授は猫の経済効果について、25年は前年比4145億円増の約2兆9086億円と推計する。

  

(この項、「時事通信」HPより)

そして、つい買ってしまう。

・・・

今。あんず:5歳(3k) ソウタ:3歳(6k)

相変わらず水飲みを。

   あんず。

そうた。

というくつろぎかた。

我が家は、のどかな一日です。

せめて投稿日時を「2」ぞろいで。

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向島百花園。梅まつり。その2。梅も咲きそろい、ほかの木々や草花も早春の装いに。

2025-02-21 19:39:53 | 向島百花園

2月16日(日)。晴れのち曇り。向島百花園。午後3時から「福袋雀」さんたちの「すずめ踊り」が披露されるというので出かけました。

開演前に園内を一めぐり。

梅も1週間前に比べてずいぶん開花が進んでいます。

しろかが。

「唐梅(とうばい)」。

紅色の花弁に赤い筋が入り、花弁先端がぼかしとなる中輪八重咲き種。開花は2月上旬。。

 紅千鳥。

                

メジロが来てくれるでしょうか?

「あおじく」。

花も美しく、花梅としても実梅としても楽しめる早生品種。果実は黄緑色、中粒~やや大粒、梅酒にしても梅干にしても楽しめる。

「塒出錦(とやでのにしき」。

・花色:紅色八重の中輪。

・咲き始めの時期:2月上旬~

・枝に斑が入る特徴(錦性)がある。 枝に錦が多く、緑色の枝が少ないのが特徴。

※塒(とや)は「鳥の巣」や「鳥籠」を意味する言葉。

 

               「緑萼梅(りょくがくばい)」。

梅は通常、萼(ガク)の部分が赤いが、この梅は緑色をしているのが特徴。

「臥龍梅(がりゅうばい)」。まだ若木のようです。

他の梅より開花が少し遅く、3月の上旬頃に見頃を迎え八重の花を付ける。その姿が「臥せた龍」に似ているところから「臥龍梅」と名づけられている。

左が安藤広重、右がゴッホ。(「Wikipedia」より)

  「臥龍梅」は、 江戸名所図絵には「その花一品にして重弁、薫香深く、形状あたかも竜が蟠(わだかま)り臥すようである」と記されています。

 以下、江東区の作成した説明板の文章。
 
 (亀戸の)梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは、本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵と称していましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、八代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。
 江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。
 明治43(1910)年、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸町・大島町・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。

「紅冬至」。

極早咲き種で1月中旬には満開となる。花は淡紅色、一重咲きの中輪で盆栽などに多く用いられる。

「まゆみ」。

「ふりそでやなぎ」。やっと芽吹いてきました。

「ぼけ」。

「福寿草」。

スカイツリー。

「梅を詠む」。

・梅が香や 背伸びした妻 のめりかけ  ・江戸の春 今も薫るや 梅まつり

・寄りそゐて 紅梅色の 胸の内 ・・・

「北斎漫画」をビデオで紹介。

              (「すみだ北斎美術館」提供)。

ところで、「すみだ北斎美術館」での新しい企画。

         

商業的な出版物である浮世絵は、絵師だけでは成り立たず、企画から販売まで手掛ける板元、板木を彫摺する彫師と摺師が必要となります。中でも世の流行を見極め、売れ行きの伸びる企画を立案し、絵師の起用から彫師・摺師の指揮までを担う板元は、いわば浮世絵師の総合プロデューサーにあたる重要な存在でした。本展は、その板元たちが北斎をどのようにプロデュースし、どのような作品を世に生み出したかを辿る展覧会です。

江戸のメディア王と評され、北斎の才能に早くから目をつけていた蔦屋重三郎をはじめ、「冨嶽三十六景」をヒットさせた西村屋与八、『北斎漫画』を出版した永楽屋東四郎といった江戸の板元たち、また伝統木版として、浮世絵制作、北斎からインスパイアされた現代アーティストの作品を紹介します。江戸時代の蔦屋重三郎から現代まで浮世絵業界を支えるプロデューサーズの世界をお楽しみください。
会期
2025年3月18日(火)~5月25日(日)
※前後期で一部展示替えを実施
前期:3月18日(火)~4月20日(日)
後期:4月22日(火)~5月25日(日)
主催 墨田区・すみだ北斎美術館。
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雨水(うすい)。2月18日(火)。三寒四温。朧月夜。ミニ・ダム。寒桜(元朝桜)。

2025-02-18 20:19:24 | 二十四節気

                       (写真は、「暦生活」より)

暦の上で今日が「24節気」の2番目「雨水」です。「立春」から数えて15日目ころ。3番目の「啓蟄」(3月5日)までの期間を指します。

雨水(うすい)とは、降る雪が雨へと変わり、雪解けが始まる頃のこと。草木が芽生える頃で、雨水は農耕を始める時期の目安とされてきました。春一番が吹くのもこの頃ですが、本格的な春の訪れにはまだ遠く、時に大雪が降ったりもします。

『暦便覧』には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されている。実際は積雪のピークであり、それゆえ、この時節から寒さも峠を越えたと見ることもできる。(「Wikipedia」より)

日本海側などの大雪・寒波は、今日からまだまだ続くようです。来週初めころには収まってくれるといいのですが。

しかし、三寒四温を繰り返しながら、本格的な春に向かいます。

※「三寒四温」=寒い日が三日ほど続き。その後四日間ぐらいは暖かくなること。これを繰り返しながら、だんだん春らしく、暖かくなる。この言葉は、もともと中国東北部や朝鮮半島北部で、冬の時期に、寒さと暖かさの周期を表す言葉として使われ、その後、日本に伝わりました。しかし、「西高東低」の気圧配置が続く日本の冬にはあてはまらないようです。

日本では早春になると低気圧と高気圧が交互にやってきて、低気圧が通過し寒気が流れ込んで寒くなった後、今度は高気圧に覆われて暖かくなり、周期的な気温の変化を繰り返すことが多くなります。このため、日本においての『三寒四温』という言葉は、寒暖の変化がはっきりと現れる春先に用いられるようになりました。

※一方で、インフルエンザが相変わらず流行中。さらに花粉症が大流行の兆し。今日あたりでも、皆さん、しっかりマスクを着用しています。高齢者など、かえって油断してはならない時期となっている、とも。

「七十二侯」で区切ると、

・初侯 2月19日〜2月23日頃

土脉潤起 つちのしょううるおいおこる

冷たい雪が暖かい春の雨に代わり、大地に潤いをあたえる頃。寒さもゆるみ、眠っていた動物も目覚めます。

・次侯 2月24日〜2月28日頃

霞始靆 かすみはじめてたなびく

霧やもやのため、遠くの山や景色がほのかに現れては消え、山野の情景に趣が加わる頃。春に出る霧を霞(かすみ)と呼び、夜の霞は朧(おぼろ)と呼ばれます。

朧月夜』作詞高野辰之、作曲岡野貞一

  1. 菜の花畠に、入日薄れ、
    見わたす山の、霞ふかし。
    春風そよふく、空を見れば、
    夕月かかりて、にほひ淡し。
  2. 里わの火影ほかげも、森の色も、
    田中の小路をたどる人も、
    かはづのなくねも、かねの音も、
    さながら霞める 朧月夜。                                           

朧月夜(おぼろづくよ、おぼろづきよ)

源氏物語』の登場人物。六の君、有明の君、尚侍君(かんのきみ)とも呼ばれる。

花宴」の巻で初めて登場し、以降、「葵」、「賢木」、「須磨」、「澪標」、さらに「若菜」上下などに登場する。

「朧月夜」は、大江千里和歌「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしく(似る)ものぞなき」を口ずさみながら源氏のもとに現れるところから物語が展開する。当時権勢を誇った桐壺帝の右大臣の六の君(六番目の娘)で、弘徽殿女御の妹という高貴な生まれで、艶やかで奔放な気性の女君。

姉弘徽殿女御の産んだ東宮(後の朱雀帝)女御に入内する予定だったが、宮中の桜花の宴の夜に思いがけなくも光源氏と出会い、後に関係が発覚して入内は取り止めになる。葵の上の死後、右大臣は源氏と結婚させることも考えたが、弘徽殿女御が猛反対し、源氏自身も既に紫の上を妻にしていたため実現しなかった。

後に尚侍(ないしのかみ)となって弘徽殿に移る。その美貌と当世風で華やかな人柄から朱雀帝の寵愛を一身に受ける一方、源氏との逢瀬も密かに続けていた。朱雀帝は自身が源氏の魅力に及ばぬことを認め、朧月夜を責めなかったが、彼女との関係が発覚したことが右大臣と弘徽殿大后の怒りを買い、源氏須磨流しの一因となった。

源氏が須磨に流されていた時に父の太政大臣(元右大臣)が死去。朱雀帝退位の後に再び源氏と関係を持つが、最後は源氏にも告げずに院の後を追い出家、物語から退場する。

※「右大臣」は、源氏の政敵。源氏は、政敵の娘との恋愛関係になった。源氏が20歳のころ。

 (この項、「Wikipedia」参照)

・末侯 2月29日〜3月4日頃

草木萌動 そうもくめばえいずる

足もとや庭木の先にほんのりと薄緑に色づく芽が見られる頃。やわらかい春の日差しの中、草木が芽吹き、新しい命が生まれます。

「ふりそでやなぎ」。(「向島百花園」にて)

(この項、「暦生活」HP等参照)

「雨水」にお雛様を飾れば良縁に恵まれるとされ、地方によっては、お雛様を飾る風習があるようです。

「雨水」を「天水・あまみず」ととらえると、「墨田区役所」交差点にある、

ミニ・ダム」雨水を資源に活用しましょう。

雨水タンクの設置助成

墨田区が発信した雨水利用は、世界に広がっています。節水にも一役を買う雨水タンク、設置してみませんか?
雨水利用は……

  • まちに小さなダムをつくり、水源を確保します
  • 雨水を貯めるので、都市の水害防止につながります
  • 災害のとき初期消火の水や生活用水に使えます
  • ヒートアイランド対策として打ち水に使えます

(「墨田区」HPより)

たしかに街のあちこちで見かけます。

言葉 獺魚を祭る(かわうそをまつる)

中国古代の天文学での七十二候では、雨水の初候は「獺祭魚(かわうそをまつる)」でした。かわうそが捕らえた魚を川岸に並べている様子が、人が祭りのときに物を供える様子に見えたことから生まれた季節の名前です。

(この項、「暦生活」HP等参照) 

正岡子規は、雅号として「獺祭書屋主人」を使っている。そのため、9月19日の命日を「糸瓜忌」と並んで、「獺祭忌」とも呼ばれている。

「獺祭」という日本酒。同社のHPには「獺祭」命名由来を以下のように語っている。

『弊社の所在地である獺越の地名の由来は「川上村に古い獺(編集部注:かわうそ)がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになったといわれておりますが(出典;地下上申)、この地名から一字をとって銘柄を「獺祭」と命名しております。獺祭の言葉の意味は、獺が捕らえた魚を岸に並べてまるで祭りをするようにみえるところから、詩や文をつくる時多くの参考資料等を広げちらす事をさします。獺祭から思い起こされるのは、明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が自らを獺祭書屋主人と号した事です。「酒造りは夢創り、拓こう日本酒新時代」をキャッチフレーズに伝統とか手造りという言葉に安住することなく、変革と革新の中からより優れた酒を創り出そうとする弊社の酒名に「獺祭」と命名した由来はこんな思いからです。』

(この項、「風の旅行社」HPより)

東京・向島百花園では「梅まつり」が行われていますが、各地では、早くも桜の開花が。

ここは、すでに満開の「寒桜(元朝桜)」。

        

                        眼下に南房総の海。(2024年1月27日。南房総市にて)

次は、「啓蟄(けいちつ)」3月5日(水)。

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「相鉄線・三ツ境駅」~「小田急・桜が丘駅」。その3。「境川」・新道大橋。(「中原街道」をゆく。第4日目+α)

2025-02-17 18:35:13 | 中原街道

丹沢の向こうに富士山。

「宗川(そうせん)寺」。

宗川寺は寛永2年(1625)富士重須本門寺第十二世日賢上人開山、開基は石川宗川。
山門を入ると左右の夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、近所より多くの参詣があり、いまは横浜市の名木と指定された大樹である。
「宗川寺」バス停。

中原街道瀬谷問屋場跡
中原街道瀬谷問屋場は天正6年(1578年)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸ー平塚間五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果した。(これより東方80米、桧林がその跡である。)(瀬谷区役所掲示より)

「境川」に架かる「新道大橋(しんみちおおはし)」が見えてきます。

上流方向。

下流方向。

「新道大橋」。

※「山山家」は地元では評判のいい居酒屋さんのようです。インパクトがあるネーミングと外装。

欄干の照明灯が洋風。

振り返る。「横浜市瀬谷区」。

「境川」は、源流から河口(江ノ島)まで歩いたことがあります。

※源流から町田市先までは「都県境」(東京都と神奈川県の境)。中流から、神奈川県内を流れる。

境川は、県北部の城山湖付近を源として都県境を南下し、藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ、流域面積約211平方キロメートル、延長約52キロメートルの二級河川です。

片瀬橋から河口を望む。江ノ島を望む。

その時の写真(右岸沿いから見た「新道大橋」)。

                      

「大和市」へ。

上り坂が目の前に。この付近から、道路の拡幅工事が大がかりに行われています。

来た道を振り返る。

                   けっこう上ってきたようです。

自転車が必死に。下りも大変そう。

「都市計画道路丸子中山茅ヶ崎線街路整備事業」。大和市内の県道45号線の4車線化事業のようです。

坂を上ると、丘陵へ。

             心なしか富士山が大きく見えてきます。

「桜並木歩道橋」。右に折れると、「桜ヶ丘駅」に。

「桜株」バス停。

付近に「桜株」という地名があり、駅周辺にの名所が多かったことから、「桜ヶ丘」と名付けられる。「桜株」にしなかったのは、駅の開業前に桜株の踏切(通称、中原街道との踏切(現・桜ヶ丘1号踏切))で踏切事故があり、イメージが悪かったためである

大和市のマンホール。

             大和市の市の花「ノギク」のデザイン。

駅前のロータリー。

          「大和市コミュニティーバスやまとんGO」

今回はここまで。小田急江ノ島線「桜ヶ丘駅」から「中央林間駅」。東急田園都市線に乗り換えて、渋谷経由・半蔵門線で戻ってきました。

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「相鉄線・三ツ境駅」~「小田急・桜が丘駅」。その2。「梛(なぎ)の木石碑」。「海軍道路(環状4号線)」。(「中原街道」をゆく。第4日目+α)

2025-02-16 21:32:59 | 中原街道

相変わらずアップダウンが続く道。

「梛(なぎ)の木石碑」。

弘化元年(1844年)江戸城に大火がありその際、この中瀬谷の「島津久利」が、薩摩から取り寄せた梛の木の苗を植樹して育てたものを伐採して、中原街道を江戸まで急送して江戸城を復興させたという。

※梛木・ナギの木は古来から縁起がいい植物とされ、日本各地の神社でご神木とされているほか、呼び名が凪(なぎ)に通じることから、海の安全のお守りともされている。

20m以上の大木になり、葉脈に沿った方向に引っ張ると、なかなか引きちぎれないことから、「チカラシバ」「センニンリキ」「ベンケイナカセ」などの別名がある。

(「」より)

※碑の周囲にはこうした巨木はありません。小さな空間にベンチが二つ。

「梛の木石碑前」バス停。

碑の前から振り返る。

先に進む。ゆるい上り坂。

右前方遠くに富士山。

けっこうはやっている味噌ラーメン店「麺場 田所商店」。

交差している道路は、「海軍道路(環状4号線)」。

海軍道路(瀬谷区・瀬谷中学校前交差点 - 瀬谷区・旧国道16号). 市内2位の長距離直線道路である。

元「上瀬谷通信施設」の西側を通っているため、通称「海軍道路」。

上瀬谷通信施設(かみせやつうしんしせつ)は神奈川県横浜市旭区上川井町瀬谷区北町瀬谷町に所在した在日アメリカ海軍基地(面積:2,422,396m2)。旧日本海軍の基地を第二次世界大戦後に接収して運し、2015年6月30日に施設を含めた土地全体が日本へ返還された

上瀬谷通信施設の海軍広場のヘリポート、2011年11月8日の防災訓練で撮影

旧日本海軍の倉庫施設として使用されていたものが、太平洋戦争の終戦により米軍に接収され通信基地となった。いったん接収解除されるも1951年に再接収された。返還時には部隊は常駐しておらず、在日米海軍厚木航空施設司令部の管理下となっていた。

海軍道路の桜並木(2024年)

フェンス等で囲まれて事務所などが位置する囲障区域は立入禁止区域となっていたが、囲障区域外は農耕野球場等の使用が認められているほか環状4号線(通称「海軍道路」)が通過して一般の通行が認められていた。海軍道路沿いはが多く植栽されて花見スポットとしても知られ、毎年4月の第1週目の土曜日に施設内の海軍広場で「日米親善桜祭り」が開催された。

瀬谷区の15パーセント (%) 近くの面積を占めていたことや本施設が海外からの微弱電波を受信する目的であったことから、同区の北半分は米軍から「電波障害防止地域」に指定されて1995年3月まで建物の高さ規制などが課され、瀬谷区の開発が遅れた

上瀬谷通信施設周辺の空中写真

画像上方に東名高速道路横浜町田インターチェンジ、左上から右側中央にかけて斜めに走る道路は国道16号保土ヶ谷バイパス、通信施設敷地中央を南北に走る直線道路が通称「海軍道路」である。
1983年撮影の6枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

(この項「Wikipedia」より)

「地神前」バス停。

この先、左手に「地神」と彫られた石塔など数基がまとめられている。

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「相鉄線・三ツ境駅」~「小田急・桜が丘駅」。その1。「三ツ境(みつきょう)駅」。「二ツ橋地名由来の碑」・石橋供養塔・道標。和泉川。厚木街道。(「中原街道」をゆく。第4日目+α)

2025-02-15 14:18:35 | 中原街道

夕方から予定が入り、短い距離を歩くことに。往復の電車賃を考えると、ずいぶんの無駄遣いでしたが。

前回の駅、相鉄本線「三ツ境駅」から小田急江ノ島線「桜が丘駅」まで。その先まで歩いても、バスで「桜が丘駅」まで戻るしかなさそうなので。

※「三ツ境」は「みつきょう」と発声するようです。「みつさかい」ではない!

駅前の歩道橋から、

遠くに真っ白な富士山。

               手前に丹沢・一番左が大山。

駅前から「中原街道」へは、住宅地で迷いましたが、やっと

                                 「中原街道」へ。

「二つ上橋」交差点。

※「二ツ橋」は和泉川下流(南)に架かる橋。

「二ツ橋地名由来の碑」。

           隣に「瀬谷村瀬・・・」、「石橋供養塔」など

  

「相模野の 流れもわかぬ 川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな(道光親王 文明16年11月 詠)

 しみじみと 清き流れの 清水川 かけわたしたる 二ツ橋かな(徳川家康 慶長18年12月 詠)

二ツ橋地名の由来はこの歌のいずれかは詳さではないが、二首ともにこのあたりの清らかなたたずまいにふれて詠まれたもので その昔は豊かな自然に恵まれた土地であったと思われます。

二ツ橋学舎跡

ここより東方100mにある二ツ橋学舎跡は、文久3年(1863)山名平左衛門義実が此の地に学舎を創設、武相二州に亘って学業の実を挙げその子弟から数多くの人材を輩出、明治大正の時代にかけての指導者は山名先生の訓育によるものが多かったと伝えられています。」

しみじみと 清き流れの 清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな 

徳川家康公詠まれたるものと伝えられ二ツ橋町名の源となる

中原街道道標。「右 八王子往来 左 神奈川往来」。

この付近の今昔。

                               (1880年代)「二ツ橋村」とある。

※北上すると、「川崎宿」にも通じていた。

                             (現在)「和泉川」の川筋が整備されている。

※中原街道と交差する直線道路は「厚木街道」。旧厚木街道は「三ツ境駅」付近に残っている。

和泉川は、旭区との境にある瀬谷市民の森付近を源流として、瀬谷区・泉区をとおり、戸塚区で境川に合流しています。瀬谷区内では、二ツ橋から宮沢の約2.8km区間で6つの水辺が整備されており、この長い区間が水と緑で繋がっていることが一番の魅力となっています。

(右が北方向)

「南台」交差点。交差するのは「厚木街道」。

江戸時代は大山道、相州道とも呼ばれ、厚木より東海道 保土ヶ谷宿神奈川宿を結ぶ道であった三ツ境から東希望が丘、二俣川小学校前を通り、本村町本宿町三反田町市沢町を経て保土ヶ谷区内に入る道で、江戸時代より明治中期まで賑わった旧道とされる。(「Wikipedia」より)

西方向。

○が、「二ツ橋地名由来の碑」がある交差点。↓が「厚木街道」、直線化されている。 (「今昔マップ」より)

先に進みます。

「茅ケ崎まで20k」。

現在の「中原街道」は、茅ケ崎に向かいます。

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「向島百花園」梅まつり・2月8日(土)。霜柱。「大道芸」・出演:浅草雑芸団(あさくさざつげいだん)・放下芸・大黒舞・南京玉すだれ。紅白の梅。焼き芋。

2025-02-12 18:37:54 | 向島百花園

草をすっかり刈り取られた地面に、霜柱。

久々に見ました。コンクリートで固められた近頃では珍しい。子供のころ、近所の地面で見かけ、足ふみをした思い出が。

土の香りが漂う感じです。踏めないのが残念!

早春の園内。

大道芸の始まる時間まで園内を。

木瓜(ぼけ)。

「ネムノキ(合歓木)」。大きな莢がたくさん。マメ科らしい。

ネムノキは樹高8mほどに育つ落葉高木です。枝は横に張り、夏には羽状複葉を広げて心地よい緑陰をつくります。葉は夕方になると閉じ、その姿が眠りにつくように見えるところからネムノキの名前がつきました。6月から7月に、枝先に淡紅色の長い雄しべをもつ花が20ほど集まって咲く姿は繊細でかわいいものです。

という説明を鵜呑みにすると、早春のようすにビックリ。

「れんぎょう」。

日本及び中国を原産とするモクセイ科の落葉低木。丈夫な性質を持ち、日本全国の公園や道路の植え込み、寄せ植えの花木として広く使われる。レンギョウが日本へ渡来したのは平安時代初期あるいは江戸時代(1681~1683)で、当初は薬用植物として扱われた。

・英語ではゴールデンベルと呼ばれ、その名のとおり春になると枝一面に鈴のような黄色い花を鮮やかに咲かせる。狂い咲きも多く、真冬以外はチラホラと花を咲かせる。

「まゆみ」。

マユミが属するニシキギ科のニシキギの名は、錦のような紅葉の美しさから名づけられましたが、その仲間のマユミも秋になると、茶色がかったオレンジ色に紅葉する、とても美しい落葉低木です。それにもまして美しいのが、朱色がかった赤色の四角い果実で、熟すと中から、紅オレンジ色の仮種皮(かしゅひ)に覆われたタネが現れ、落葉後も残ります。
マユミは日本に自生する植物なので、栽培は容易で、病害虫もほとんどなく、日なたに植えれば、毎年美しい紅葉と果実を楽しむことができます。
木の質は緻密で、粘りがあり、古くはマユミの木で弓をつくったことから「真弓」と呼ばれるようになったといわれます。現在でも将棋の駒などの材料として利用されます。

・・・

園内放送があり、「大道芸」が、もうじき始まるようです。

この解説は、来週16日(日)に行われる「すずめ踊り」。

出演:浅草雑芸団(あさくさざつげいだん)。

≪浅草雑芸団≫
1985 年に、「大道芸で遊ぼう」という趣旨で始めた研究・実演団体。故・坂野比呂志の指導を受け、がまの油売り、飴売り、バナナの叩き売りなど坂野の芸を継承する一方で、のぞきからくりや、ろくろ首(見世物)の復元なども行う。 2001 年より、祝福芸はるこまを軸として、門付け芸や道行の芸能にも挑戦。年に一度、日本の大道芸探訪の舞台公演も行っている。

放下芸(ほうかげい)、大黒舞い、南京玉すだれ等の大道芸が披露されました。

演技中、上空に航空機が。皆で空を見上げる。

大黒舞い。

南京玉すだれ。

1
アさて アさて アさて さて さて さて
さては南京玉すだれ
チョイと伸ばして チョイと伸ばせば
浦島太郎さんが浜辺にて 魚釣る竿にさも似たり
魚釣る竿がお目にとまれば元へと直す
2
さてさてさてさて さては南京玉すだれ
チョイと伸ばして チョイと伸ばせば
瀬田の唐橋 唐金擬宝珠 擬宝珠ないのがお慰み
瀬田の唐橋 お目にとまれば元へと直す
・・・7
さてさてさてさて さては南京玉すだれ
チョイと返してチョイと返せば 万国国旗にさも似たり
万国国旗が お目にとまれば しだれ柳に早変わり
しだれ柳に飛びつく蛙(かわず) 蛙いないがお慰み
それでは皆様 お達者で あらエッサッサ〜

3時から30分。風が冷たくなってきました。その中での熱演に感謝、感謝‼

※大道芸人は、路上で歌、口上、踊り、軽業、楽器の演奏などを披露し、歴史的には投げ銭を取ることで生計を立ていた。

門前に紅白の梅。

帰りには、いつも出店している焼き芋屋さんで「焼き芋」(¥350)を買いました。

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「向島百花園」梅まつり・2月8日(土)。月影。緑萼梅。冬至梅。八重寒紅・・・。福寿草。

2025-02-11 20:01:16 | 向島百花園

向島百花園で「梅まつり」が始まったので、2月8日(土)に訪問しました。風は冷たいですが、快晴。

「白加賀」「紅千鳥」などは大木などは、まだ咲いてはいませんが、早咲きの鉢植えなどけっこう咲いていました。

「月影」。

※水戸「偕楽園」内にあるウメの中でも、花の形、香り、色などが優れているウメを「水戸の六名木」と呼んでいますが、その一つに「月影」。

人出もそこそこ。外国人もチラホラ。

 緑萼梅。

梅は通常、萼(ガク)の部分が赤いものなのですが、この梅は緑色をしているのが特徴です。中国が原産地で、日中友好の品として中国から各地に寄贈されているようです。

「とうじばい」。

冬至梅 

野梅性の早咲き品種で白花の花梅の代表格です。花は白の中輪花で一重咲きです。
開花期が12月中旬~2月中旬と早く、冬至のころに咲くのが名前の由来です。お正月用の梅として使用されています。
枝が細く、鉢植えや盆栽に向きます。

「唐梅」。

紅色の花弁に赤い筋が入り、花弁先端がぼかしとなる中輪八重咲き種。開花は2月上旬。

「八重寒紅」。

野梅系の中では最も赤い種類で、1月中旬には開花する早咲き。中輪八重咲き種で、花弁は波うつ。

「八重野梅」。

早春に花を咲かせる八重野梅。花びらが何重にも重なり華やかな印象です。開花すると花とともに良い香りを楽しむことができます。枝が細かく出るので樹形を作りやすく、盆栽に適しています。

これらの梅はほぼ満開でした。

福寿草。

「江戸の福寿草売り」。

江戸時代、福寿草は新春を祝う縁起物として人気がありました。天秤棒を担いで福寿草の鉢を販売する様子は四季の風物詩として多くの浮世絵に描かれています。

花言葉は永久の幸福、思い出、幸福を招く、祝福。

ただし、毒草。

フクジュソウは全草が有毒で、その毒成分は強心配糖体のシマリンとアドニンで、飲食すると嘔吐、呼吸困難になり心不全に至る危険性があります。 薬用としての利用は禁物です。(「」HPより)

地植えでも咲いています。

スイセンも花開く。

ふりそでやなぎ。これから、という感じ。

・花芽は、最初は赤い皮に包まれているが 早春、白い毛に包まれた部分が出てくる。この様子がとても美しい。

 さらにそのあと、猫柳そっくりのもじゃもじゃが出てくる。  おもしろい♪

・柳の葉っぱがたくさん垂れた姿を 「振袖姿」にたとえた、とのこと。

 また、1657(明暦3)年の  「明暦の大火(別名:振袖火事)」で 火元とされた、本郷の本妙寺というお寺があるが、そ の本妙寺に植えられていた本種を、新たに命名する際に「振袖火事」の名から「振袖柳」とした、との説もある。

(この項「」HPより)

          「スカイツリー」。

広場では、大道芸が行われていました。それらは次回。

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三ツ境駅」。その5。都岡(つおか)辻。帷子川・「御殿橋」。階段を上がる旧道。矢指(やさし)一里塚跡。矢指市民の森。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-10 20:18:15 | 中原街道

やっと下り坂に。

 「都岡(つおか)辻」バス停。

?? 「米国車両保管施設」。

           ホットロッダーかアメ車好き以外立入禁止。アメ車が展示されています。

その手前には「水道道プロムナード 帷子(かたびら)川ルート」。

「帷子川」に架かる「御殿橋」。

旧中原街道の一部である『御殿橋』は、東海道の裏街道にかかる橋として、歴史的な価値を持ったものである。道は虎ノ門に通じ、古くは、徳川家康が江戸入場のとき(天正18年=1590年)に、この橋を通行したといわれています。
 家康は、その後この橋を改修し、鷹狩りや民情視察などでよく利用したとのこと。
 また、江戸時代初期(慶長18年=1613年)に家康が相州高座郡の中原御殿(平塚市)へ行く途中、この付近でお茶をたてたので、このあたりを「御殿丸」という字がついたという。橋の名称も徳川家康にちなんでつけられたものである。

「帷子川」。

安藤広重「帷子橋と帷子川」。

帷子川は旭区若葉台に源を発しています。中堀川、今井川などの支流を合わせ、相鉄線に沿って流れます。横浜駅西口付近で石崎川、新田間川、派新田間川に分派し、横浜港に注いでいます。昭和33年、台風22号(狩野川台風)が流域に大災害をもたらしました。これを契機に本格的な河川改修工事が始められました。横浜市の事業区間は、中堀川合流点より上流の6.17kmです。
 現在、帷子川は年超過確率1/6.3の規模の降雨に対応できるよう河川改修を実施中で、下川井町周辺まで改修が完了しています。また、河川敷空間(中堀川合流点~鶴舞橋、延長600m)を有効に利用し、地形や自然、水の流れなどの渓谷風景が生かされた親水公園を整備しました。工事は昭和58年度に着手され、昭和63年度に完成しました。この親水公園は市民の皆さんが、水辺に親しめるよう「水と緑と歴史のプロムナード事業」の一環として整備しました。(「横浜市」HPより)

※現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、かつては「かたひら」と呼ばれていた。その地を流れていたので「かたびらかわ」と呼ぶようになったともされているが、名称の由来については諸説ある。

※「帷子」=帷子は裏地のない1枚の着物のこと。装束をつけるときに汗取り(下着)として着たり、夏に身につける着物として用いられた。

「保土ヶ谷バイパス」が見えてきます。

くぐると、左手に急な階段が。

「平塚の中原から江戸の虎ノ門に通じる旧街道 1590年家康が江戸入城の時に利用した。」と記されてある。

急な階段で、当方、疲れ気味なので、少し回り道をして旧道に入ります。

旧道は階段を上ったあと、この地点まで上がってきます。

旧道に復帰。

右手に「一里塚跡(矢指(やさし)の一里塚)」碑。

旧中原街道の一里塚があったところです。中山の宮下(現緑区中山町)へ一里、桜株(現大和市上和田)へ一里です。

左手、眼下を望む。

旧道は丘陵の端を進んでいく。この辺りの標高は、80m程。この付近もけっこう起伏があるところのようです。

展望台にある案内図。

「史跡 岩船不動尊」。

先に進みます。カーブの様子など、旧道らしい道筋。横浜市のマンホール。

「矢指市民の森」まで来ましたが、たまたま休憩中のタクシー運転手に声をかけたら、OKしてくれたので、「三ツ境駅」までタクシーで。

まだまだ先はあったのですが、今回はここまで。

         ↓が旧道。                           (「今昔マップ」より)

「三ツ境駅」。

        遠く西の方に丹沢山塊が見えます。一番左が「大山」?

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三ツ境駅」。その4。相変わらず、上り下りの坂道が続く。「よこはま動物園ズーラシア」。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-09 18:23:23 | 中原街道

2段階の上り坂に。右手に「は」という大きな看板。

歯医者さん? 「はま寿司」の看板でした。

先が見えないので、下りかと思うと、それが・・・

いったん下った先に、はるか高い上り坂が見えてきます。

けっこう疲れる道筋です。オートマの車だと何の苦もなさそうですが、マニュアル車だとけっこうギアの切り替えが大変かも知れません。

雪国のように積雪があったら、路面凍結でも大変な事態になりそうなくらい、車が連なっています。

「中堀川プロムナード」。

雨水排水路として使われていた中堀川を下水道整備に伴い、せせらぎが流れる水と緑が豊かなプロムナードとして再生したもの。中原街道が起点で左手下に続きます。

↓がこの付近。                                 (「今昔マップ」より)

中原街道は、ほぼ直線道路のため、丘陵地帯と谷戸(谷筋)とを上ったり、下ったりする道筋になっている。

※千葉の「東金御成街道」(津田沼~東金)も、ほぼ直線で造った道なので、丘と谷と交互につながり、上り下りの連続で腰を痛めました。

地元の方も自転車は大変そう。電動アシスト自転車でないと、上りは大変。下りは今度はスピードが出て・・・。

青年が中原街道を自転車で制覇しようというのでしょうか、必死にペダルをこいでいます。数は少ないようですが。

「よこはま動物園ズーラシア」。

「生命の共生・自然との調和」

「生命の共生・自然との調和」をメインテーマに掲げるよこはま動物園ズーラシア。

この「ズーラシア(ZOORASIA)」という愛称は、動物園(ZOO)と広大な自然をイメージしたユーラシア(EURASIA)の合成語で、平成8年(1996年)秋に市民公募で選ばれました。

生息環境展示や世界の気候帯・地域別にゾーニングすることにより、世界旅行ができる動物園として植物や自然環境について楽しく学べます。

 

      

園長から皆様へ 村田 浩一

よこはま動物園(ズーラシア)は、世界中の野生動物を、展示、飼育、繁殖させている国内でも最大級の動物園です。

絶滅寸前の希少種の野生復帰や、そのための研究にも積極的に取り組んでいます。

野生動物を展示飼育する目的と意義は、野生動物の生態や行動を身近に学んでもらうこと、目の前にいる野生動物が暮らすことのできる地球環境の豊かさを知ってもらうこと、命の大切さを再認識してもらうこと、そしてヒトと野生動物が共存できる世界の大切さを理解してもらうことです。また、動物を観察することで自分たちの生活-ライフスタイルを見つめ直し、新たな生き方の発見につながることにも期待しています。

ズーラシアは、環境教育と野生動物保全と動物学研究とリクリエーション(ライフスタイルの再創造)を目的として一般公開されている生き生きとした『総合地球環境ミュージアム』とも言えます。

私たちが心から望んでいるのは、ズーラシアで遊び、楽しみ、そして感動する中で、ズーラシアが皆さまに伝えたい目的や意義を知らず知らずの内に学び身につけてもらうことです。

どうぞ、ズーラシアで動物たちとの出会いを大いに楽しんで下さい。私たちも、皆さんが動物園で楽しみながら学べるよう、精一杯のお手伝いをしたいと思っています。

ズーラシアへのご来園をお待ちしています! 

(この項「よこはま動物園ズーラシア」HPより)

上り坂。

「神奈川県立横浜旭陵高等学校」。

          この左手前に旧道が残っていたようです。

振り返って望む。上り下りが激しい。

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三ツ境駅」。その3。リハビリも一段落。落合橋・鶴見川。JR横浜線。長坂・長坂谷(ながさかだに)公園。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-08 20:27:53 | 中原街道

昨日、7日で「東部地域病院」での診察を終えました。

「手術しなくてよかったですね。ホオー、そこまで手が動かせるようになったんですね。ここまで回復出来たのは、リハビリを行っているからですね。今日で診療は終わります。リハビリはもう少し続けてもいいかもしれません。」

「たいへん助かりました。有り難うございました。・・・」

11月21日に大けがをして、2ヶ月半。リハビリは今月末までは通うことにします。

※3月1日から利用している路線バスの料金が値上げされるそうです。タイミングよすぎ!

ということで、3ヶ月続いた病院通いも、もうじき終わりに。

職場をはじめ、知人・友人の皆さんに、心配やらご迷惑をおかけしました。お詫びするとともに、厚く御礼申し上げます。

・・・

さて、「中原街道」歩きの報告。その3。

「緑産業道路」との合流へ。 

                      右折して進みます。この道が「中原街道」になります。

「地蔵尊前」バス停。広い幹線道路になる。

けっこうはやっているおそば屋さんのようです。

           「蕎麦処 味奈登庵」。

向かいには大きなタヌキ。「不用品引き取り」

「箱根」の大型スクリーン。「仙石原のすすき」。

「鶴見川」下流方向。

           上流方向。

この先、長い上り坂が見えてきます。 

「落合橋」土手沿いに遊歩道。

「落合橋」バス停。

「中山橋」。JR横浜線に架かる陸橋。

眼下に横浜線の線路。

「中山交差点」。

左手に旧道が短く残っています。

       

旧道を振り返る。

長い坂「長坂」を上り始めます。

振り返るとけっこう上ってきました。町並みが遙か彼方に。けっこう😇しんどい!

この辺りが一番高いところ? イヤ、まだまだ上りが。

「遊水池」。

上がって来た坂道を振り返る。

車はひっきりなしに続く。

頂上付近に「長坂谷(ながさかだに)公園」。

「長坂谷」という名が谷戸の地形を連想させるが、公園は丘の上の立地で周囲に視界が開けている。・・・「長坂谷公園」となる以前は「長坂スポーツランド」として利用されていたが、芝生広場や遊具類などを拡充し、2001年(平成13年)に「長坂谷公園」となり、翌2002年(平成14年)に全面開園となったものという。公園は中原街道の東側に位置し、公園東側は緑区上山の町が近く、南側は旭区との区境に接している。・・・。広い敷地の中にテニスコートや野球場などを配した「運動公園」だが、草はらの広場や大型の遊具類も設置されており、子ども連れで訪れてのんびりと過ごすのにもよいところだ。

ここで小休止。

「境」バス停。ここからしばらく下り坂。

「長坂」信号。

通りの向こうの森は、「四季の森公園」

県立四季の森公園は、里山の風景が残る風致公園です。
早春、キブシの花が咲くと、ナノハナ、サクラ、ヤブデマリが次々と開き、夏にはホタルやトンボ等の虫たちが姿を見せ、秋は紅葉が園内を美しく彩ります。その名のとおり、一年を通して四季を楽しめます。

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三つ境駅」。その2。佐江戸町へ向かう下り坂。バスの便の減少。飛び出し坊や。佐江戸町。「戸・砥」の考察。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-06 19:00:00 | 中原街道

下り坂。かなりの急坂。

といっても、緩い上り、下り坂はあります。

道のわきに小さな祠。

「滝ケ谷戸」バス停。坂の多い街ですが、バスの本数は極めて少ない。

車などの便のない、お年寄りは気の毒な感じ。

バス停にやってきた老女。「減らされる一方よ。ホント困っちゃうわ。横浜市は何をやってんのかね」。

久々の「飛び出し坊や」風の看板。自作? 小さく、やさしい顔立ち。

東海道歩きの時には滋賀県付近からゴールの京都まで、たくさん見かけましたが、関東では珍しい。

※飛び出し坊やは、1973年に滋賀県東近江市にある「久田工芸」にて誕生しました。もともと地元の看板屋さんだった久田工芸が社会福祉協議会より「急増している子どもの飛び出し事故を防ぐ看板を作ってほしい」と依頼を受けたことがきっかけでした。

1973年に誕生した飛び出し坊や。2023年で生誕50周年です。

閑話休題。

「佐江戸町」に入ります。

「山王前」の信号で右の道を進みます。 

                                           マンションに「佐江戸」の地名が。

 

                                 「佐江戸」交差点。

※この付近の標高は11.8m(「今昔マップ」による)なので、40mほど下ってきたことになります。

「恩田川」が「鶴見川」に合流する「佐江戸」は交通の要衝であった。鎌倉時代には武蔵国都筑郡佐江土郷と呼ばれた。戦国時代猿渡内匠助小机城(今の港北区小机町)の支城として佐江戸城を築いたとされる。猿渡氏は大國魂神社の神主家であった。隣の川和町でも川和城が築かれており、重要な地であったことが分かる。この頃は北条氏尭の領地であり、記録には北条氏尭が百姓に、今後は人夫役などを全て免除するとしたとある。

江戸時代以降は都筑郡佐江戸村であった。1671年継立場を巡って中山村と対立。幕府は当村であると判断を下した。江戸後期には神奈川宿の助郷役となった。1889年市町村制によって都筑郡都田村大字佐江戸に変更。1934年1月町制が施行されたことに伴い都筑郡川和町大字佐江戸に改称。1939年4月、横浜市港北区に編入され、大字佐江戸の地に佐江戸町を新設。小麦を中心とした農業が盛んだったが、やがて都市向けの野菜を栽培する近郊農業が盛んになる。1956年池辺町と境界変更があった。1969年10月、横浜市の分区に伴い、緑区に編入。1994年11月、港北区・緑区の再編に伴い新設された都筑区に編入。(「Wikipedia」より)

※1 佐江戸の由来には、「もともとは西土だったが、徳川入国以来、ひだり江戸に当たるので、左江戸と書き、のちに佐江戸となった」という言い伝えや、「村の外から病や悪いものが入らぬよう道祖神(サエノカミ)を祭った所をサエドということからこの地をサエドと呼び、佐江戸という漢字を当てた」という説などがあります。(「no+e とうーむゅらす」HPより)

※2 この北西、恩田川・鶴見川沿いに「青砥」という地名があります。「青砥」は東京にもあります。

東京都葛飾区青戸(京成電鉄の「青砥駅」は「青砥藤綱」にあやかったもので、地名は「戸」。

「戸」は、「津」と同意で、船運に関わる地名。中川(古利根川)に面しています。この佐江戸の「戸」も「鶴見川」に関わり、船運に関わる地名と考えられます。江戸時代になって「江戸」という字を当てはめたもののようです。

「佐江戸」バス停。 

  丘陵の東南の端、「中原街道」沿いに、町が形成されている。              「今昔マップ」より) 

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 →が中原街道。○青砥という地名があります。              (「同上」より)

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