おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その2。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-01-31 22:06:05 | 水戸街道

 「泉橋」(跨線橋)の上から水戸街道宿場のタイル絵が始まります。起点は「石岡」。名称も「江戸街道」。上は、「千住」宿。一茶はわかりますが、チューリップは?

 足下をたどるうちに「石岡一里塚」に到着します。
    
・・・


その途中、右手に石柱。「是よりきびさけいなり道」。

 「木比堤(きびさげ)稲荷」と表記になるらしい。ここから右に折れて行くようですが、詳細不明。

(10:19)「石岡の一里塚」。街道の両側に残っています。
    

石岡の一里塚
 一里塚は、主要街道の1里毎(約4㎞)ごとに設けられたに一種の路程標である。
 慶長9年(1604)江戸幕府が江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に築いた塚を指したのが始まりと言われる。・・・
 その後、時代の経過にともない荒廃し、改修の熱意がない地方では原形を失うものが多く、天明年間には、その大半が失われたといわれる。明治以降まで残ったものであも、その後、道路の拡張などによって失われた者が多く、今日では、両側に残っているものは少なく、特に榎が残っているものもめずらしい。
 石岡の一里塚は、旧水戸街道の府中(石岡)から長岡に通ずる街道の両側に残るもので、特に東側の塚の上に植えられた榎が、今も樹勢よく天に向かって伸びている。
 この一里塚は築造当時をしのばせ、江戸時代の交通政策を知る上で重要な史跡である。

 昭和60年1月 石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会

西側の塚。

 東側の塚の榎は二代目のようです。
    

二代目榎木
 平成14年7月、台風の影響により残念ながら、一里塚のシンボルである榎木が倒木しました。当時の榎木は、推定樹齢約400年、高さ約20メートル、幹周り約4.2メートルの大木でした。
 平成20年3月、一里塚裾野付近に育っていた苗木を移植しました。二代目の榎木として将来、初代と同じような大木に成長することを願います。
 また、県指定史跡「石岡の一里塚」は地元の子供会の協力により除草清掃を行っています。大切な文化財を将来の子供達に残していきましょう。

                                                 平成21年9月 石岡市教育委員会

「水戸街道絵図・解説板」。

 旧道はそのまま「関東鉄道バス石岡車庫」まで進み、その先で左の坂道を下って行きます。
               
「茶屋場住宅入口」。「茶屋」があった?                     左に下りて行く。


「行里川(なめりかわ)」地区に入ります。

 (10:54)左手に大きな長屋門のおうち。
    

 静かな通りの両側には大きなおうちが目立ちます。
    

 旧道は弓なりに右に曲がって県道を横切ると、冬枯れの田園風景が広がります。
     

 この付近は、「美野里」地区。合併で「小美玉市」となっています。
    

小美玉市(おみたまし)
 2006年(平成18年)3月、東茨城郡小川町・美野里町・新治郡玉里村が合併して発足した市。「小川町」「美野里町」「玉里村」の頭1文字をとって「小美玉市」と命名されました。

    
 (11:16)明和7年(1770)の道標ですが、判読不能。台座は新しいコンクリート製。

 坂道を上っていくと、「竹原宿」に入ります。右手に「竹原神社」。旧道沿いには石碑群。
    

「聖徳太子尊」碑。

 「竹原宿」は、元和年間(1615~1624)に 水戸街道の付け替え工事が行われた際に新設された宿場で、本陣・脇本陣は無く、「問屋場」が置かれ、旅籠が十軒前後あったという小さな宿場でした。
 現在の町並みに史跡らしいものは見当たりませんが、静かな町並み。大きなおうちが多い。


右側のマーケットが「問屋場」跡? 

宿内を振り返って望む。

 (11:26)国道6号線に合流し、そのまま左に曲がっていきます。正面には立派なお屋敷。


(11:31)「竹原下郷」。

国道沿いには立派な生け垣作りのおうちが目立ちます。

(11:42)「東京から85㎞」ポスト。しばらく「国道6号線」を進む。
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府中(石岡)~竹原~片(竪)倉~小幡。その1。(「水戸街道」をゆく。第5日目)

2017-01-30 21:41:49 | 水戸街道
 年明けて久々の街道歩き。1月28日(土)。快晴。風も無く少し寒いですが、歩きやすい一日。

 (9:46)前回の「丁字屋」さんまで戻って再開。


 火災後の昭和5(1930)年から6年にかけて建てられた登録有形文化財の建物が3軒並んでいます。
 手前から「福島屋砂糖店」。昭和6年に建てられた木造2階建ての伝統的な商家意匠建築。
 真ん中の建物は「久松商店」。昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。正面外壁には銅板が張られている。
 一番の奥が「十七屋履物店」。昭和5年に建てられた木造2階建ての看板建築。この地区における看板建築の先駆けとなった。
       「久松商店」と「十七屋履物店」。 

     
 「すがや化粧品店」。
 昭和5年頃建てられた木造2階建ての看板建築。屋号を冠したペディメントやコリント、イオニア様式風の柱頭飾りなど重厚な外観で、この地区における看板建築の秀逸なものの一つである。
注 ペディメント:西洋建築における切妻屋根の妻側屋根冑水平材に囲まれた三角形の部分
  コリント、イオニア様式:古代ギリシャ建築様式


        「森戸文四郎商店」
 昭和5年頃に建てられた木造2階建て看板建築。2階部分がアールデコ調の外観となっている。
 他にもまだまだあるようです。それぞれがコンクリート製ではなく、すべて木造(一部銅板)なのがすごい!

「パンとケーキの店 ビィオレ」。
 この付近に「府中宿本陣」があったようです。

 その付近から通りを望む。
    

 まだまだ「常陸国府」にまつわる「国分寺」「国分尼寺」「国衙」跡など見所満載ですが、先を急ぐことにします。
    

 「国分町府中3丁目」交差点を右に折れて、常磐線を越えて行きます(10:11)。

「跨線橋」に「水戸街道」の解説板。
 慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、街道の整備を始めました。東海道・中山道・日光街道・奥羽街道・甲州街道は「五街道」と呼ばれ、江戸幕府が直接支配していました。それに次ぐ「脇街道」の一つとして水戸~江戸間に開通したのが。この水戸街道です。石岡は当時、府中松平家の陣屋の所在地であり、水戸街道の宿駅「府中」として繁栄しました。

「杉並木」。
 昭和30年まで、ここから先約2㎞にわたり由緒ある杉並木がありました。徳川幕府時代、街道の並木として松並木は各所に見られましたが、杉並木は日光以外にはこの府中だけに許されたものでした。これは「御三家」の一つ水戸徳川家の分家である府中松平家の当時の地位の高さを物語っています。

「泉橋」。国分寺と筑波山。

 この跨線橋には「泉橋」という表示があります。現在、常磐線が敷かれているところには、かつて橋が架かっていたようです。旧街道当時の橋名が残されているのかもしれませんん。

1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。まだ鉄道が敷かれる前。←の部分。
 
 行きませんでしたが、ここで「国分寺」と「国分尼寺」について。

 国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
 正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。
 『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた[1]。
 国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
 なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。
                                      (以上、「Wikipedia」参照)
「跨線橋(泉橋)」から「石岡駅」を望む。

 かつて「石岡」から「鉾田」まで「鹿島鉄道」線がありました。すでに廃線となっています。正面奥から鉾田方向に進んでいました。現在はどうなっているのでしょうか? 「石岡駅」も大きく変貌し、近代的になっています。見た目にはまったくその存在はわかりません。廃線マニアとしては一度訪問してみたいと思います。しかし、全長27㎞以上もあるようなので、はたして?

鹿島鉄道線
 かつて茨城県石岡市の石岡駅と茨城県鉾田市の鉾田駅までを結んでいた鹿島鉄道の鉄道路線である。2007年(平成19年)4月1日に廃止となった。
 茨城県内陸部と海沿い(鹿島灘)の地域を横断する路線で、霞ヶ浦北岸を通る。地図上ではJR常磐線と鹿島臨海鉄道大洗鹿島線を結ぶように見えるが、終点の鉾田駅は大洗鹿島線の新鉾田駅とは道のりで1km以上離れており、大洗鹿島線とは接続していない。この点は、旅行者などが徒歩で乗り換えるケースは少なからず存在していたが、一時期路線バスが運行していた以外、特に接続改善は見られなかった。
 鹿島鉄道は旅客収入だけでは鉄道を維持できないほど利用者が減少していたが、航空自衛隊百里基地への航空燃料輸送の収入によって経営が成り立っていた。しかし、2001年(平成13年)8月に、鉄道に高く依存していた燃料輸送を榎本駅から百里基地へのパイプラインの老朽化と、安全保障上の対策から中止したため深刻な経営悪化が確定的になった。これに対し親会社である関東鉄道による経営支援と沿線自治体と茨城県による公的支援が5年間行われることとなり、廃線の危機は一旦回避された。しかし2005年(平成17年)のつくばエクスプレスの開業により、自社の常総線(特に取手 - 守谷間)や高速バスの利用者が減少し減収となった関東鉄道は、2007年度以降の経営支援を行わない方針とした。これを受け、親会社の支援なしでの鉄道経営は無理であるとして、鹿島鉄道は2006年(平成18年)3月30日に廃止届を提出した。なおこの時点で2007年度以降の自治体と県による公的支援をどうするかは白紙状態であった。その後ぎりぎりまで存続の道が模索されたが状況は好転せず、2007年(平成19年)4月1日に廃止された。
 廃線後の線路や駅舎は順次撤去されることになっていたが、現在は撤去作業は途中で中断され、今も線路・駅舎が一部で残っている。車両は、旧形式5両のうち4両、新形式4両のうち2両が、個人に売却され保存されている。

    

                             (以上、「Wikipedia」参照)



1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。東南に向かって弧を描く線路。
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読書「世界をわからないものに育てること」加藤典洋(岩波書店)

2017-01-13 20:14:49 | 読書無限
トランプ氏、語らぬ具体策 雇用創出・国境税掲げるが

 トランプの記者会見の模様を見聞きして、やっと読み始めた本の、今読んでいる冒頭に近い個所に目が止まりました。加藤さんには申し訳ないですが。ウルトラ右翼で、『永遠の0』の作者、百田尚樹がまったく思想的には反対とも言える宮崎さんの『風立ちぬ』に感動した、という発言に触れて、

 「情報化社会の昂進によって・・・自分の考えをもっていること、論理的であること、首尾一貫していることは、かつては好ましくもあれば必要なことでもあったのだが、いつのころからか、融通が利かず、持論にこだわり、偏狭だといったマイナス・イメージをともなうようになった。逆に、この高度情報化社会の進行につれ、あっけらかんとしていること、あっさりしていること、こだわらないこと、少しちゃらんぽらんであるくらいのほうが、ノンシャランで、好ましいことと感じられるようになったのである。」(P34)

 「百田は『風立ちぬ』の作者の『平和主義』に寛大なのではない。ただ、自分のスキゾ型の『感動』に正直なのだ。そして彼が『感動』するのに『イデオロギー』は何であろうと関係がない。『作品』が適切な『イデオロギー』を採用し、『感動』の器として機能していれば、それでよいのだからである。ここでの教訓は、ある意味でちゃらんぽらんな百田のあり方のほうが、いまの社会にはよりフィットしている、ということである。没価値的に両者の反応をみれば、後者のほうに(注:百田のほう)に『好感がもてる』ということは、そういうことなのだ。」(P35)

 トランプの発言に対してアメリカのメディアの多くは、激しい拒絶反応を示しています(日本のマスコミも)。しかし、そうしたこれまでの国民世論を導くといったような高みからの姿勢にアメリカ合衆国の人々は共感するのではなく、それらをぼろくそにののしり、自分に不都合な事柄に対してはちゃらんぽらんな受け答えに終始するトランプに快哉を送る。ここに、アメリカ社会の現実が見えてきます。

 トランプは、強気な発言を繰り返し、己の志操堅固なことを誇示しているように見えますが、たぶん、かなりの小心者で、無定見な男のようです。
 フィリピン大統領しかり。こうした為政者が大受けする時代。私宅の夫婦の寝室まで案内され、アベも見事に丸め込まれたあげく、1兆円を差し出すハメに。
 トランプも、大衆の移り気な気分を十分に心得ていて、ますますあっけらかんと、あっさりと、こだわらず、ますますちゃらんぽらんであり続けるのではないでしょうか。
 トランプはその上に、「帝王」・「救世主」気分だからもっとタチが悪そう。核ボタンをもてあそびながら、アメリカをどう導いていくのでしょうか? 
 こうなると、日本を取り巻く国際情勢も安閑としていられません。北朝鮮、ロシア、中国、韓国に続いて、宗主国・トランプアメリカが登場したのだから。安保法制がいよいよ実働化することも。「東京オリンピック」まで世界は平和を保てるのかしら

《ノンシャラン》
 無頓着でのんきなさま。なげやりなさま。

《スキゾ》
 常に制度や秩序から逃れ出てゆく。非定住的・分裂的傾向。

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身内頼み、お友達頼み。いやはやどこでも大流行。(ごまめの歯ぎしり編)

2017-01-10 20:16:55 | 世間世界
娘婿がホワイトハウスへ=上級顧問に起用―次期米大統領

 よほどお好きなんですね。自分の都合のいい人物を登用するのは。世の常とは言え、どこの国の為政者もそうなりつつあって、・・・。北朝鮮、ロシア、中国は別格としても。日本、アメリカ、・・・。

 批判には感情的に直対応するあたりにもソックリ。また、徹底的に打ちのめすのも。

 こうした輩が牛耳る世界(秩序)からは果たしていかなる世界(秩序)が生じるのか。自らの利益・主張をなんとしても、不正な手段を冒してでも通す、それがまかり通る(それを有無を言わさず通す)。それが国益に叶うことだと、いずれもが国民の支持という名目の下で?

 民主・平和・自由・平等、・・・などという言葉は死語と化してしまいそうな国際情勢。むしろ、それらを具現するためにやっているんだと自負する為政者(権力者)によって。

 間接民主主義(代議制)の危うさと共に、それをまったく踏みにじる権力者との不思議な競合、せめぎ合い、という皮肉。

 この滑稽さを笑ってはいてはすまされない、深刻な事態。

 
 元旦からお祝い事やらお悔やみやら次々と。この先もまだまだ慌ただしい日々が続く。読書も、街道歩きもままならず、ただただ「ごまめの歯ぎしり」の如く、世界を眺め、批判するのみ。 ・・・

ごまめの歯ぎしり
 実力のない者が、むやみにいきり立ったり、悔しがったりすることのたとえ。

 「ごまめ」は小さなカタクチイワシを素干しにしたもの。実力のない者のたとえ。語源は、「細群」。

 「ごまめ」を漢字にすると、「鱓」。祝い肴であることから、「五万米」、「五真米」のという文字があてられたようです。
 これを調理したものとして一般的には「田作り」「田作」。正月のおせち料理、特に関東風の祝い肴三種として欠かせないもののひとつです。
 イワシが豊漁で田に埋めて処理した時、お米が豊作となったのが始まりで、豊作を願って食べるようになった、とか。

 「田作り」。(「Wikipedia」より)
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荒川沖~中村~土浦~中貫~稲吉~府中。その8。(「水戸街道」をゆく。第4日目。)

2017-01-05 21:20:26 | 水戸街道
 (14:07)「国道6号線」をひたすら歩きます。疲れたのと昼飯も満足に食べなかったので、国道沿いのラーメン店に入ります。そこでけっこう長居をしてしまい、気がついたら3時前。再び歩き出しますが、次の「稲吉宿」までは思ったよりも長い道のり(約30分)。

「陶陶酒」の幟がある、その先を左に折れていきます(15:23)。

「旧水戸街道 稲吉宿入口」。 

 国道から左に折れる手前に「一里塚」があったそうですが、見逃しました。緩やかな上り坂を進むと、「稲吉宿」。

 喧噪の国道を離れて静かな道を進みます。早くも冬至直前の陽は西に傾き始めてきます。


    
「刀工 渡辺家」。                        宿場らしい面影を残す集落。

 「稲吉宿」は万治年間(1658年~1661年)に設置されたといいます。本陣・脇本陣・問屋が各1軒。安政年間(1854年~1860年)の旅籠数は17軒だったそうです。本陣(現 坂本家住宅)と旅籠皆川屋(現 木村家住宅)の建物が現存しています。

(15:31)右手にあるのが、本陣・坂本家。門も玄関も堂々とした造り。
    

稲吉宿本陣
 本陣は、大名や幕府の公用人が休泊に用いたところで、水戸街道で残っているのは、取手、中貫、稲吉だけである。
 本陣の屋敷は、一般の屋敷より一段高く、建物は本陣つくりと称して門、玄関、上段の間を設けてあり、玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定紋「笹りんどう」がつけられている。ちなみに当時、向側には脇本陣があった。
                                    かすみがうら市教育委員会

 稲吉宿本陣の隣に木村家住宅(旅籠皆川屋)があります。
    

                 

木村家住宅(旅籠皆川屋)
 ・・・旅籠「皆川屋」は江戸時代末期の建築で、桁行八間二階の総瓦葺という堂々たる構えをみせている。広い土間と板縁、上がりはなの階段、勝手、出格子、腰高障子、仕切り戸などが旅籠らしい。
 二階に上がると、客室の壁には墨痕も鮮やかに、遊びすぎて支払いに窮した思案の落書や愛しい女達の名前が記してあるのも面白い。旅籠「皆川屋」は水戸街道に残る唯一の旅籠である。

茨城県指定文化財   かすみがうら市教育委員会

 立派な門構えのおうちがいくつも。
    

(15:36)宿の外れに「稲吉宿」の案内板。

江戸時代の稲吉宿
《稲吉宿》
 稲吉宿のある水戸街道は、五街道以外に整備された街道の一つで、千住から水戸までを結んでいました。
 稲吉宿には、大名や旗本が宿泊する本陣や脇本陣、それに一般の人々が宿泊する旅籠がありました。また、荷物を次の宿駅に送る問屋場もあり、江戸時代後期には17軒の旅籠も造られて、大変なにぎわいを見せていました。

《助郷》  
 参勤交代により、大名や旗本が江戸と国元を行き来すると、大勢の人々が宿駅を利用することになり、通常の人馬では足りなくなりました。そこで、近隣の村々に割り当てたのが助郷です。稲吉宿では、上志筑村、中志筑村、下志筑村、上土田村、下土田村、野寺村、高倉村、雪入村の8ヵ村に割り当てられました。農民の負担が大きく、一揆の原因となりました。

《水戸街道の宿駅》
 千住―新宿―松戸―小金―我孫子―取手―藤代―若柴―牛久―荒川沖―中村―土浦―中貫―稲吉―府中―竹原―片倉―小幡―長岡―水戸

 右には当時の宿場の配置図と屋号などが絵解きされています。

 宿を抜けると、その先「国道6号線」に合流するまで、千代田町「上土田」「下土田」地区をひたすら歩きます。時折、農作業を終えて家路に向かうトラクターとすれ違うだけ。
    

この付近には、果樹園が多いようです。

来た道を振り返って望む。

一気に陽が落ちてきました。寒さも感じる夕暮れ。

(16:15)ようやく「国道6号線」と合流します。
    

西の空はあかね色。

 国道の前方にインターが見えてきました。そこには歩道がなさそうだと判断して、国道の右側を歩きます。国道に沿う右下の道が旧街道のような気もしましたが。

 インターをくぐった国道の反対側(左側)に小高い塚が見えます。それが「千代田一里塚」です。向こう側に渡れるような雰囲気はありませんので、遠くからパチリ(16:27)。
    

 その先「新治小学校」交差点を左に入っていきます。

 携帯では写真も撮れず、再び国道に合流し、「恋瀬橋」を渡り、左に折れて、府中宿(石岡市)に入ります。都会と違って街灯も沿道の明かりもポツンポツンとしかありません。足元不如意の中、ひたすら「石岡」駅まで向かいました。

(16:59)もうとっぷりと日が暮れました。遠くに筑波山のシルエット。

 (17:17)次回に「府中宿」は見学することにして、せめてかつての染物屋さん「丁字屋」の屋号だけは、と。


 やっと商店街らしい明かりの中を石岡駅に到着。けっこう思ったより時間がかかりました。道に迷った所もあったりして、約4万歩、24㎞でした(17:29)。
    
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