おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「上信電鉄・上信線」その2。フリー乗車券。南高崎。佐野のわたし。「佐野橋」。謡曲「鉢の木」。烏(からす)川。根小屋(ねごや)。(関東ローカル私鉄の旅。その6。)

2023-08-31 19:32:19 | ローカル鉄道の旅

駅名一覧。

             「上州富岡」、「下仁田」が主要駅。

フリー乗車券。割引率は低い。

いろんな形式の電車。

             

「南高崎」。

ホームの先端から出入り。

田園が広がります。

      

高架は、「上越新幹線」。

「佐野のわたし」。

駅名の由来は当駅にほど近い場所を流れる烏川にかつて渡し船があったことによる。

渡し船はなくなったが、現在でも「佐野橋」が架けられ「渡し」の役割を担っている。しかし、佐野橋は洪水時に橋げたが流される流れ橋である。

2019年令和元年)10月12日には令和元年東日本台風(台風19号)に伴う河川増水の影響で橋桁部分および橋脚4基が流失したことにより通行不能となったが、約8300万円をかけて復旧工事を終え、翌2020年7月22日から利用を再開した

「佐野橋」。

     (この項、「Wikipedia」より)

烏川を挟んで群馬県高崎市の上佐野町側と同市佐野窪町側を結ぶ橋長113 ・幅員2.3 mの木橋で、洪水の際に橋桁部分が流失することを考慮した流れ橋として設計されている。橋脚はH鋼製で11本(12径間)を有し、その上に木製の橋桁が載る構造である。市は現在の場所に橋が架けられた時期ははっきりしないとしている。

橋がある辺りにはかつて舟を並べて板を渡した舟橋が架かっており、橋を渡って逢瀬を重ねていた男女が親に橋板を外されたことで川に転落して命を落としたという伝承がある。この「佐野の舟橋」は芸術芸能の世界においては度々題材となって全国に知られる歴史を持つ

万葉集東歌)において「かみつけの佐野の舟橋とりはなし親はさくれど吾わはさかるがへ」と詠まれて「佐野の舟橋」は悲恋の舞台として知られるようになった。歌枕として西行藤原定家といった著名な歌人の題材になり、能楽の演目のひとつである謡曲船橋」もこの物語を題材とした。 

江戸時代には絵画「諸国名橋奇覧」シリーズにおいて葛飾北斎が舟橋を題材として「かうつけ佐野ふなはしの古づ」を描いている。

周辺には、謡曲「鉢木」の舞台である「常世神社」や藤原定家をまつる「定家神社」が存在する。

上記のように、「鉢(の)木」は、ここ「佐野」が舞台となっています。

※栃木県(下野国)佐野市という説もある。

謡曲「鉢の木」

鎌倉時代中期。大雪が降る中、鎌倉を目指す一人の旅僧が、上野国(こうずけのくに)佐野を訪れます。旅僧は雪のため先に進むことができず、道中にあった家を尋ね、主人の妻に宿泊を請います。やがて帰宅した主人の佐野源左衛門尉常世(さののげんざえもんのじょうつねよ)はその頼みを聞きますが、貧苦のために宿を貸すことはできないと一度は断ります。しかしその後、妻の助言もあり、去った旅僧を追いかけ、一晩家に泊めることにします。寒さが厳しくなってきたため、常世は大切にしていた梅と桜と松の三本の鉢の木を火にくべて、旅僧をもてなします。旅僧が常世に名前を尋ねると、名乗るほどの者ではないとしつつも、やがて旅僧に名を告げ、さらには親族に領地を横領されたために零落した身を述べます。それでも鎌倉で事変などあれば誰よりも先に駆けつけるつもりであることを旅僧に語ります。翌朝、お互いは名残を惜しみながらも旅僧は常世のもとを後にします。

それから日のたったある日、鎌倉の北条時頼は関東八州の武士に召集をかけます。召集を聞きつけた常世は、みすぼらしい出で立ちながら、鎌倉へと駆けつけます。一方、時頼は部下の二階堂に、ちぎれた甲冑を着て、錆びた薙刀を持ち、痩せた馬を連れている武士を探し出して、自分の前に参上させるように申しつけます。二階堂はさらに従者に言いつけて、そのみすぼらしい武士、すなわち常世を見つけ出します。

常世が参上すると、以前家に泊めた旅僧が実は時頼であったことに気が付きます。今回の召集は、時頼が常世の言葉に偽りがないかを確かめるためのものだったのです。時頼は実際に鎌倉にやってきた常世を称賛して、横領された土地の回復を約束し、三本の鉢の木のお礼に、梅、桜、松加賀国田庄、越中国井庄、上野国井田庄の領土)にちなんだ三ヶ所の庄を与えます。常世は喜んで上野国へと帰って行きます。

                 この項、「」HPより)

※この謡曲は、「いざ鎌倉」という、ことわざの由来となった。

烏(からす)川。

群馬県高崎市倉渕町の鼻曲山に源を発し、おおむね南東に流れる。高崎市下豊岡町付近で碓氷川、高崎市阿久津町付近で鏑川合流、さらに佐波郡玉村町と埼玉県児玉郡上里町の境界付近で神流川と合流する。そこから僅かの間、群馬県・埼玉県の県境を成し、利根川に合流する。 

「烏川」の由来

水源にある黒い岩が烏のくちばしに似ているからなど、次のように諸説あります。
・水源が、カラスのくちばしのような形の岩壁で「烏口」といわれるため
・日本武尊(ヤマトタケル)が東征の時にひどい日照りにあい、烏がこの水源に案内したから
・水源の地形が唐臼に似ており、カラウスがカラスに転化した
・烏を神使とする熊野信仰と関係がある
・川に空州(水のないところ)が多いから
・鵜や烏が群棲していたことによる 
                    

          

烏川を越えると、「根小屋(ねごや)」駅へ。

振り返る。

             下流に「佐野橋」。 

「根小屋(ねごや)」。

根小屋城

烏川鏑川に挟まれた丘陵帯のうち、北方向に張り出した丘陵の先端に位置する山城である。標高は180mほどで南北に280m、東西250mに広がる。また南の尾根続きの南東丘陵部には山名城が存在する。

築城は永禄11年(1568年)または同13年(1570年)とされる。永禄11年(1568年)に甲斐国武田信玄が駿河国・今川氏の領国への侵攻すると(駿河侵攻)、武田氏と相模国北条氏康との間で甲相同盟が崩壊する。これにより武田氏と後北条氏の領国が接する上野は係争地となり、武田氏は後北条氏への備えとして、山名城・鷹ノ巣(茶臼山城)の間に根小屋城を築城した。築城された当初は狼煙台としての機能が主であったという。

(この項、「Wikipedia」より)            

「高崎商科大学前」。

沿線は、けっこう史跡が多い地域です。

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「上信電鉄・上信線」その1。高崎~下仁田。富岡しるく。狭軌(ナローゲージ)・四日市あすなろう鉄道。金井沢碑。(関東ローカル私鉄の旅。その6。)

2023-08-30 20:35:00 | ローカル鉄道の旅

回から「上信電鉄上信線」編。高崎駅~下仁田駅。8月25日(金)。快晴。

JR「上野」から「高崎」まで。在来線で約2時間。ここから乗り換えます。

帰路の途中、世界遺産に登録された「富岡製糸場」の最寄り駅「上州富岡駅」で下車する予定。

「鉄道むすめ 富岡しるく」さんがお出迎えです。

1895年明治28年)に上野鉄道(こうずけてつどう)として設立され、1897年(明治30年)に開業し、同年中に高崎 - 下仁田間が全通した。現存する日本の私鉄路線のなかでは、南海電気鉄道阪堺鉄道)・伊予鉄道西武鉄道(川越鉄道)についで4番目に開業しており、法人として存続する東日本最古の私鉄でもある。古くは高崎の地元資本に加え、三井財閥の資本も設立に関わった。

さらに下仁田から余地峠を越えて佐久鉄道(現:JR東日本小海線羽黒下駅まで延伸する計画を立て1921年大正10年)8月25日上信電気鉄道へ社名変更した。当該区間の工事と路線営業のための免許を取得したが、世界恐慌により頓挫。中込方面へのバス路線を開設しただけで(後に廃止)、鉄道の延伸は実現しなかった。

※「上野(こうずけ)国」

現在の群馬県のほぼ全域を占めた旧国名。 律令制下で 東山道 に属す。「延喜式」( 三代格式 )での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。 国府 は現在の前橋市元総社町、国分寺は高崎市 と前橋市の境におかれていた。

(この項、「Wikipedia」より)

                                 (「」より)

創業時、「上信電鉄」の軌道は狭いものでした。

過去の軌間 762 mm (2 ft 6 in)

 このように狭い軌道を《ナローゲージ》と言います。

※「ナローゲージ」=「特殊狭軌」

鉄道における線路レール間隔をあらわす軌間が、標準軌の1,435 mm(4フィート8+12インチ)未満のものを指す。

現在、国内に残るナローゲージ(特殊狭軌)は、三岐鉄道北勢線(三重県桑名市・いなべ市)、四日市あすなろう鉄道の内部線・八王子線(三重県四日市市)、そして黒部峡谷鉄道本線(富山県黒部市)の3社4路線のみ。

※「四日市あすなろう鉄道内部線」には、旧東海道歩きで乗りました。

・・・

              バスよりも狭い? 車内のようす。

 軌間762mmという特殊狭軌の軽便鉄道として建設され、現在も当時のままの軌間で運行されています。 

「四日市」駅に到着の電車。

・・・

        現在は、標準軌に。上毛電鉄と同様、電化路線。

待合室(現在使用中止)。 

         

                 かつて使用していた客車を活かした施設。貴賓室風。

            

            この惹句は? 高崎駅に戻ってきて理解しまた。 

出発です。

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8月26日(土)。「向島百花園」。虫ききの会。8月26日(土)。

2023-08-29 20:38:20 | 向島百花園

35度以上の猛暑日が続く東京地方。墨田区の「向島百花園」では、恒例の「虫ききの会」(8月25日~27日)が催されました。

そこで、26日(土)の夕方、出かけました

入口。灯りが各所に。

上弦の月が南天に。31日が満月・スーパームーン。

            風鈴の音が、涼しげ。

      萩のトンネル。

              

次第に夕闇が深く、

火入れ式が始まります。

         参加者も和やかな雰囲気。

   

       わだかまり 消えて今宵は ちちろ鳴く                               

      問ふごとき しかと見つめる 赤蜻蛉

   

          闇廻り 虫の音に酔う 江戸なごり

                    

                      さりげなく めくる歳時記 虫の園

若いカップルが興味深く、

  

      離れ座敷。

             浴衣姿がぼんやり浮かぶ。

「スカイツリー」も七色に。

水面に浮かぶ雪洞。

去年よりも虫の音が少なかったような、・・・。残暑が続き、虫も疲れたのかな。

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「上毛電鉄」。その6。「富士山下」。渡良瀬川。「丸山下」。「西桐生」・駅舎。末広町。JR桐生駅。ひもかわうどん。(関東ローカル私鉄の旅。その5。)

2023-08-28 20:28:28 | ローカル鉄道の旅

「富士山下」。

駅名の由来となった富士山(ふじやま)は、いわゆる富士信仰による各地の「富士山」のひとつで山頂には浅間神社もあるが、標高は160メートル、駅からの高さは約40メートルの小さな山であり、静岡・山梨県境の富士山(ふじさん)からは直線距離でも約130キロメートル離れている。しかし、その字面から外国人観光客が「ふじさん」の最寄駅と勘違いする事もあり、2013年(平成25年)に「ふじさん」が世界遺産に登録されると当駅の存在も合わせて注目されるようになった[

上毛電気鉄道では誤乗車を防ぐPRを行うとともにこの紛らわしい駅名を逆手に取った事業を展開し、2013年(平成25年)8月28日、「ふじやま」に登頂しかつ山頂の浅間神社内の祠にて記念撮影した写真を、先着50名限定で同9月1日 - 同10月31日の期間同社ホームページ上に掲載し、さらに掲載者には登頂記念認定証を進呈すると発表した。また同日、同社ネットショップ上において「富士山下駅」記念入場券セットが発売開始された

2014年(平成26年)には、当駅を富士山の最寄駅と勘違いした外国人観光客を題材とした、Googleの検索アプリのCMが制作されている

(この項、「Wikipedia」より)

「渡良瀬川」を渡ります。

                

渡良瀬川は、 群馬県  と 栃木県 の境にある 皇海山 ( すかいさん ) という山から始まります。 最初は松木川という小さな流れですが、いくつかの小さな流れが集まり、渡良瀬川と名前も変わります。
群馬県みどり市 大間々町 ( おおまままち ) までは急な流れですが、 桐生 市、 足利市に入ると 川幅 も広がり、 栃木市藤岡町では渡良瀬 遊水地 とおり、 茨城県古河市で 利根川に合流します。
渡良瀬川の流域は、 上流から 下流までの間に合流する、桐生川や 巴波川 ( うずまがわ ) 、 思川 ( おもいがわ ) など23の 支川 を合わせるとその面積は2,621km2となり、群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県の4県にまたがります

渡良瀬川の川の長さは107.6kmで、 前橋 から東京までの 直線距離とほぼ同じ長さになります。渡良瀬川が流れる市町村は、13市町もあります。

                 (「」HPより)

「丸山下」。

「はしる水族館」。

終点の「西桐生」駅に着きます。

高校生が多数、乗車。

     待合室。

ホーム。

駅舎外観。

        

市内案内図。

ここからJR桐生駅まで向かいます。

桐生市のマンホール。

          市のシンボル桐の花を図案化した市章、亀甲模様で、穴あきタイプ。雨水用。

末広町アーケード。

             この一画にかつての本籍地がありました。今やどこであるか、不明。

                    

駅前広場。

           

南口から「海鮮ダイニング 美喜仁館」で昼食。海なし県で美味しいお寿司と刺身を食べました。

お土産は、「ひもかわうどん」。

こうして「上毛電鉄」の旅は、終了。

帰途は両毛線で「栃木」まで。そこから東武線に乗り換えて、帰京しました。

機会を作り、JR「桐生」からの「わたらせ渓谷鉄道」に乗る予定です。 

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「上毛電鉄」。その5。赤城・特急「りょうもう」。桐生球場前。自転車持ち込み。天王宿。桐生明治館。(関東ローカル私鉄の旅。その5。)

2023-08-27 20:24:01 | ローカル鉄道の旅

「赤城」。

  • 開業時は新大間々駅で、昭和25年4月30日先代、昭和駅舎が完成。
    昭和33年11月1日に現在の赤城駅に駅名変更。
    平成14年7月24日、昭和駅舎営業終了。
    平成15年1月16日、現駅舎営業開始。群馬県知事、大間々町長他多数出席のもと開所式を開催。

「大間々」(「わたらせ渓谷鉄道」の「大間々」と混同)が「赤城」に変更されたと思っていましたが、頭に「新」が付いていたのですね。

また、「桐生市」と思っていましたが、「みどり市」に属しているのですね。

昔、親戚の葬儀の時、母親に連れられて東武浅草駅から乗って、この駅で降りた記憶があります。特急電車「りょうもう」だったか、どうか。

向こうのホームに特急「りょうもう」が停車中。

「りょうもう」は、東京と栃木・群馬方面をつなぐ東武鉄道の特急列車の愛称。200型・250型車両が使用され、主に浅草駅〜赤城駅間を伊勢崎線・桐生線経由で運行しています。(「東武鉄道」HPより)

           

駅舎。

駅前広場。

その後、両親も亡くなり、まったく疎遠になってしまったわけです。

当時、この付近には、田んぼとか畑(桑畑)がたくさんあって、緑が多かった記憶が。今は、すっかり市街地になっています。

ずいぶんと大きな駅になっています。

しかし、電車が出発すると、沿線には緑が残って(このように太陽光パネルが設置されていますが)いました。

山並みは変わらず。

         

    桑畑は見当たらない。

「桐生球場前」。

             この駅は、桐生市相生町。

自転車の青年が下車。

上毛電鉄では、持込料無料で車内に自転車を持ち込むことができます。子供も大人も、ママチャリから本格的なロードバイクまで、「電車+自転車」でエコな旅はいかがでしょうか?
平日:【下り】中央前橋発 5:25・中央前橋発7:47 ~ 終電まで 
     【上り】大胡始発 5:59 ・ 西桐生発 5:49 ・ 西桐生発 8:00 ~ 終電まで  
土曜・日曜・祝祭日(春・夏・冬休み期間中):終日全電車

         桜並木。

視界が開ける。

             

「天王宿(てんのうじゅく)」。

この駅近くに「桐生明治館」があります。

桐生明治館(きりゅうめいじかん)

群馬県桐生市相生町にある、明治初期(1878年)の擬洋風建築である。「旧群馬県衛生所」の名称で、重要文化財に指定されている。

館内には、明治期のピアノやオルガン、洋風建築に関する資料などが常設展示され、資料館として活用されている。 会議室や展示室は、会議・展示会場として利用が可能である。

建築物としての歴史は、1878年(明治11年)に衛生所兼医学校として、前橋に新築されたことに始まる。その後、山田郡相生村に移転した際に大幅に改築されたが、重要文化財に指定された後、保存修理工事を行い、創建当初の姿に復元された。

(「Wipedia」より)

ポスター。

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「上毛電鉄」。その4。大胡(おおご)・樋越(ひごし)・北原(きたはら)・新屋(あらや)。粕川(かすかわ)。膳(ぜん)。前橋市から桐生・みどり市へ。(関東ローカル私鉄の旅。その5。)

2023-08-26 20:07:40 | ローカル鉄道の旅

電化路線。ワンマンカー。

一面、太陽光パネル。

「SUNAGA」。

改修中の壁沿いに。

                  かつての電車のミニチュア?

「大胡(おおご)」。

        

           開業時からの駅舎、構内には変電所、車両検修所などが併設されている。

           平成23年7月1日 パーク&ライド駐車場および駅前ロータリートイレ一部リニューアル。

           国の登録有形文化財に登録。

 車内風景。

             

左手に赤城山。残念ながら雲の奥。

道路はどこも舗装整備されています。

              

             どこの地域も、「自動車社会」になっているのですね。

「樋越(ひごし)」。

「北原(きたはら)」。しばらく無人駅が続きます。

稲。

トウモロコシ畑。

「新屋(あらや)」。

              

「粕川(かすかわ)」。           

  • 平成16年11月30日 現駅舎新築。粕川村村長他、多数出席のもと開所式を開催。

            

「膳(ぜん)」。

この駅までは前橋市でしたが、この先の駅は、桐生市、みどり市になります。

「新里(にいさと)」。

  • 開業時は武井駅で昭和23年5月1日、300m中央前橋方面に移設し駅名変更。
    昭和24年4月15日 停車場に改良。
    平成10年3月27日 現駅舎営業開始。

          

「新川(にっかわ)」。

             森と田畑と、住宅と。

    

「東新川(ひがしにっかわ)」。

        

次の駅が「赤城駅」で、東武鉄道の特急「りょうもう」号が発着(浅草~赤城)する駅となります。

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「上毛電鉄」。その3。桃ノ木川。上武道路(国道17号線)。「県立心臓血管センター」。猿橋。関東平野。(関東ローカル私鉄の旅。その5。)

2023-08-24 20:56:43 | ローカル鉄道の旅

雲に覆われて、残念ながら赤城山の裾野しか見えません。

「上泉駅」を過ぎると、「桃ノ木川」を渡ります。

※「桃ノ木川」

群馬県前橋市、その中央部に桃ノ木川が流れている。一見、赤城山を源流とする自然河川と錯覚するが、実は利根川を分流する農業用水路である。その水源は昭和村の綾戸ダムであり、渋川市の佐久発電所に導水して電気を起し、その放流水を桃ノ木川と広瀬川に取り入れている。

 したがって広瀬川も桃ノ木川と同じ兄弟川である。この二つの川は、前橋市の北部で「広桃用水制水門」のゲートで分流されて、それぞれの役目を果たす旅に出る。それぞれの特徴を考えてみよう。まず桃ノ木川は最初から農業用水として前橋市東部の広大な田園を潤し、両毛線の駒形駅近くで広瀬川に合流する。川の長 さはたったの15kmにもかかわらず、その間、幾筋もの分水・合流を繰り返し、赤城山からの自然河川をもあわせて、その存在感は侮れない。一方の広瀬川は、前橋市街地にある4箇所の発電所で電力を生み出し、市街地を離れて前橋市南西部の田園を潤す。桃ノ木川と合流してから尚、下流域を網の目のように分流合流を繰り返して農業用水の使命を果たし、最終的には伊勢崎市境平塚で利根川に帰還する。(「群馬風便り」HPより)

「赤坂」。

「上武道路(国道17号線)」。

「上武道路(じょうぶどうろ)」

埼玉県熊谷市西別府上武インターチェンジ深谷バイパス分岐)から群馬県前橋市田口町に至る国道17号バイパスである。上武国道(じょうぶこくどう)や上武バイパスとも呼称される

国道17号 現道は中山道で、埼玉県熊谷市深谷市本庄市・群馬県藤岡市高崎市等を経由して前橋市へ向かう。しかし渋滞が多く、そのバイパスである深谷バイパスも渋滞するため、それらの根本的解決を目的として計画されたのが当バイパスである。地域高規格道路熊谷渋川連絡道路」の一部として整備されるため、熊谷市 - 前橋市間をなるべく短距離で結んでおり、本庄市や、藤岡市、高崎市を通らずに群馬県太田市伊勢崎市等を経由する。

「心臓血管センター」。   

  • 昭和40年9月8日 前橋病院前信号所として開設。
    平成6年4月10日 循環器病センター駅として旅客営業開始
    平成13年6月1日 病院の改名により、現駅名に変更。

         奥には「群馬県立心臓血管センター」。

ぐんまリハビリ パーク「猿橋」。

      

           南方向。

             関東平野が広く大きく広がっています。

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「上毛電鉄」。その2。「はしる水族館」。停留所と停車場。前橋高校。(関東ローカル私鉄の旅。その5。)

2023-08-22 20:21:56 | ローカル鉄道の旅

ホームのようす。

夏休み・平日のせいか、乗客は少ない。

車内には魚がいっぱい描かれています。

「はしる水族館」。

               海なし県なりの工夫。子供たちが描いた絵が一面に。暑い夏にはふさわしい企画。

しばらく市街地を走る。

「城東(じょうとう)」。

  • 開業時は「一毛町」駅で、平成6年4月10日に駅名変更。

車内のようす。経営的には、厳しい印象。

「三俣(みつまた)」。     

  • 開業時は停留所で昭和31年8月25日、自動信号化に伴い、300m西桐生方面に移設し、停車場に改良。

※「停留所」と「停車場」の違い

「停留所」とは、乗客の乗降りの為に路面電車が停車する、鉄道で言う「駅」に相当する場所、またはバスが同様にその為に停車する場所を指して使う言葉。

「停車場」とは、鉄道が停車することができる場所の総称。

旅客鉄道において、乗客が乗降りできる各駅や、単線の路線で上下の列車がすれ違う為に停車する場所、または点検などの為にそこに留めると決まっている場所など、停車が可能な場所。

ということは、この駅はかつて「路面電車」扱いで簡易な駅舎のみ?  

 

「片貝(かたかい)」。

                   群馬県立前橋高校の最寄り駅。

※群馬県立前橋高等学校

1877年(明治10年)9月、東群馬郡曲輪町(現・前橋市大手町)の旧前橋城内に設立された公立の第17番中学利根川学校をルーツとする。その後、1879年(明治12年)6月に利根川学校を閉鎖し師範学校内に群馬県中学校を開設する。その後さらに名称、設置場所などの幾多の変遷を経て、1901年(明治34年)4月に群馬県立前橋中学校となる。1948年(昭和23年)、学制改革によって、群馬県立前橋中学校は群馬県立前橋高等学校と改称、改編。4年後の1952年(昭和27年)、失火により、校内建築物は講堂と体育館を除いて全焼したが、まもなく再建された。当時の校舎復興に尽力した生徒の母親達の組織が「前橋高校母の会」として残り、PTAとは別に現在も活動中である。1979年(昭和54年)、天川地区の区画整理事業によって校地南側の道路が拡幅されることに伴い、校庭が道路用地として大きく削られることになったため、前橋市下沖町に新築移転した。なお、移転の際、生徒達が前橋高校の校旗を先頭として、自分の使う机を担ぎながら、文京町から下沖町まで移動した。

卒業生に多くの有名人を輩出している。

(この項、「Wikipedia」より)

    老人の利用者が目立つ。

           足の不自由な方などにとって大事な移動手段。     

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「上毛電鉄」。その1。JR前橋駅・「サイタ サイタ チューリップ ノ ハナガ」。前橋市の花バラ。生まれ故郷・桐生。(関東ローカル私鉄の旅。その5。)

2023-08-21 19:55:13 | ローカル鉄道の旅

今回は、上毛電鉄に。JR前橋駅で下車、上毛電鉄の始発駅「中央前橋駅」まで徒歩で約15分。終点の「西桐生駅」までの旅。

8月18日(金)。晴れ。

前橋駅から中央前橋駅までメインストリート「けやき通り」を歩く人もほとんどいない炎天下。

前橋駅。

ところで、前橋駅の発車ベルが「咲いた咲いたチューリップの花が」のメロディー。

作曲した方が前橋の出身のようです。

駅前のモニュメント。

サイタ サイタ チューリップ ノ ハナガ、
ナランダ ナランダ アカ シロ キイロ、ドノ ハナ ミテモ キレイ ダナ。

         「井上武士」。

井上 武士は、日本の作曲家。東京音楽大学教授。群馬県勢多郡芳賀村(現在の前橋市)出身。代表作は「チューリップ」「海」。作曲数は約500曲とも200曲以上ともされ、日本音楽史上に残る数々の唱歌・童謡の作品を遺した。上記2曲は日本の歌百選に選ばれている。

※「海」 

海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む

海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら

海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国

前橋市のマンホール。

                 市の花バラが蓋一面い描かれている。

上毛電鉄「中央前橋駅」。

              

      

                                  (「上毛電鉄」HPより)

赤城山南麓を東西に横断する線形で、赤城山系が一望でき、桐生市内では渡良瀬川を渡る。沿線途中はおおむね小規模の町や農業地帯である。主力は朝夕の高校生通学輸送である。

10数年前より、上毛電鉄では利用客減少による経営危機が問題となり、国の赤字補填の補助も打ち切られたことから、群馬県では鉄道を道路と同じ社会的インフラとみなして、設備の維持経費を県や地元自治体が負担する上下分離方式に基づく支援体制を整えました。

※「群馬式上下分離方式」

上毛電鉄の利用者数は、1965年の958万人をピークに減少の一途をたどっていました。1974年以降は経常損失が恒常化。そのため、1976年より国と県から鉄道軌道欠損補助を受けるようになります。

沿線自治体は、1980年に「上毛線再生等検討協議会(現・上電沿線市連絡協議会)」を発足。上毛電鉄の利用促進などの取り組みを始めます。しかし、利用者の減少に歯止めがかからず、1989年の輸送人員は362万人にまで落ち込みます。

1995年、国は鉄道軌道欠損補助を2年後の1997年に廃止することを公表します。毎年1億円前後の補助を受けていた上毛電鉄にとって、最大のピンチです。そこで沿線自治体は1996年、「上毛線再生等検討協議会(現・上毛線再生協議会)」を組織。自治体の補助額は、トータルで年間約3億円以上。2018~22年度の第4期経営再建計画では、5年間で総額19億5,000万円を支援しています。負担割合は、車両などの設備更新に関しては国、県、沿線自治体がそれぞれ3分の1ずつ、線路や車両の維持については県が6割、沿線自治体が4割としています。

・・・

実は、桐生は生まれたところ、前橋は母親の生まれたところ。まさに故郷を感じる土地。しかし、3歳頃に東京に出て以来、もう40年以上訪れたことがありません。

地元の親戚ともすっかり疎遠になり、住まいも分からず。

次第に記憶も薄れ、唯一、2歳頃、桐生市の「水道山(公園)」(今も健在らしい)で撮った古びた写真のみ。

それでも、「桐生」には不思議と愛着があります。

こうして、初めての「上毛電鉄」。

「利根川」歩きのとき、「中央前橋駅」の北西に位置する「広瀬川」沿いに「萩原朔太郎記念館」など訪ねたことがあります。

萩原朔太郎記念館」。

萩原朔太郎(1886~1942)は、1886(明治19)年に前橋で生まれ、38歳までこの地で過ごしました。1917(大正6)年刊行の第一詩集『月の吼える』と、1923(大正12)年刊行の詩集『青猫』によって日本近代詩史に不滅の金字塔を打ち立てました。

詩人の生家は、1968(昭和43)年まで前橋市千代田町2丁目にありました。往時の姿は左図に示したとおりですが、現在はポケットパークを残すのみとなっています。

生家の一部だった「土蔵」「離れ座敷」「書斎」を敷島ばら園内に移築復元し、1980(昭和55)年より「萩原朔太郎記念館」として長く保存公開していましたが、敷島公園からこの地に移築し、2017(平成29)年4月より同じく「萩原朔太郎記念館」として公開しています。

広瀬川を挟んで向かいに位置する前橋文学館の展示とともに、詩人の息遣いを感じ取っていただけたら幸いです。

※生家は「萩原医院」として、広大な敷地内に診察室や病室などがありました。

書斎。

生家の裏庭にあった味噌蔵を改造したもので、1913(大正2)年10月に工事を始め、約2ヶ月を要して完成しました。内部はすべてセセッション式に統一され、二重カーテンレール荷は東京三越から取り寄せたカーテンが吊り下げていました。特注品の机と椅子には朔太郎が考案した草花模様の衣装が施されています。『月に吠える』『青猫』などの作品はこの部屋で主に書かれたものです。また、マンドリンの演奏などにも使われ、書斎兼音楽室として使われていました。室生犀星や北原白秋と親しく語り合ったのもこの部屋でした。

屋根に猫のオブジェ。

書斎の屋根の上に設置してある猫のオブジェは前橋市出身の陶作家、林麻衣子さんの制作によるもの。

「広瀬川」の流れ。青く澄んでいて素晴らしい。

川沿いの遊歩道は「広瀬川詩の道」と名付けられ、前橋市が主催する現代詩を対象とした文学賞「萩原朔太郎賞」の受賞作品の詩碑が建てられています。

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「関東鉄道常総線」+「真岡鉄道」。その8。転車台。部活帰りの高校生たち。「SLキューロク館」開館?周年。JR下館駅~小山駅~。(関東ローカル私鉄の旅。その4。)

2023-08-20 18:44:11 | ローカル鉄道の旅

転車台。SLのための施設。

それにしても、右手の山中、地下に軍需工場があったとは。

        

          

発車直前に、部活帰りの高校生がたくさん乗ってきます。

                      炎天下、お疲れさま。それにしても皆、元気です。

茂木駅から北の方向。

田園風景を見ながら帰途へ。                     

      

途中駅で下車する高校生たち。

             

SLキューロク館開館2周年。

現在は、開館して10年が経ちました。

    

「折本」。

           次第に市街地に近づきます。

下館駅へ。正面に「筑波山」。

関東鉄道乗り場。

こうして取手~下館~茂木、と二つの私鉄に乗りました。

帰りは、JR下館駅から小山駅に出て、戻ってきました。

動画からいくつか紹介。

関東鉄道。

            

               

                    

真岡鐵道。

         

どちらの路線も沿線には田園風景が多いですが、関東鉄道は通勤・生活路線という要素が強く、真岡鐵道は通勤・生活よりも観光や通学に多く利用されている、という印象でした。               

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「関東鉄道常総線」+「真岡鉄道」。その7。市塙。茂木。旧東京芝浦電機(現:「東芝」)高射砲製造地下工場跡。「モビリティリゾートもてぎ」(関東ローカル私鉄の旅。その4。)

2023-08-19 21:48:55 | ローカル鉄道の旅

「市塙(いちはな)」。

武者絵。

市貝町の代表駅であり、町営バスの始発駅となっています。
駅舎に描かれているのは、田野辺集落に伝わる県の無形民俗文化財である「武者絵」。

※当初は「市場縄」と呼ばれ、承平7年(937年)益子氏一族の市花十郎直政がこの地に館を築いた際に「市花」と改め、その後「市塙」に変化したという。この館は「市花輪館」または「市花館」と呼ばれていた。

(「Wikipedia」より)

天矢場。

茂木から市貝町にかけてそびえる峠の頂上付近にあり、茂木駅から天矢場駅ににかけては真岡線最大の勾配がある区間です。

次が終点「茂木(もてぎ)」※「もぎ」ではありません。

「道の駅 もてぎ」。

        鯉のぼり。

「茂木駅」直前の左手に「旧東京芝浦電機(現:「東芝」)茂木工場(軍需工場)」跡・「特殊地下壕」跡・「高射砲地下工場」跡があります。

垂直な岩肌を見せているところ。現在は封鎖されています。

        

              

空襲が激しくなり、川崎にあった工場の一部がここに移転し、高射砲の砲身を製造するための地下工場ができたようです。

時間があれば行って見たかったところですが。

線路を延伸する予定地だったところ。

「茂木駅」方向を望む。

茂木町のマンホール。

中央に町の花:キキョウ、鳥:ウグイス、木:ケヤキを組み合わせた町のコミュニケーションマークを配し、那珂川を挟み、町の花キキョウと町を 囲む山々をデザイン。

駅前のようす。 

茂木駅。

茂木は東方にる「モビリティリゾートもてぎ」で世界的に有名なようです。

(「」HPより)

モビリティリゾートもてぎMobility Resort Motegi

栃木県芳賀郡茂木町にあるモビリティテーマパーク1997年8月より「ツインリンクもてぎ(Twin Ring Motegi)」の名称で営業開始。四輪のSUPER GTや、二輪のMotoGP日本グランプリ(もしくはパシフィックグランプリ)が開催されるサーキットを併設している。2022年3月より「モビリティリゾートもてぎ」に名称を変更した

本田技研工業(ホンダ)が鈴鹿サーキットに次いで建設した、2つ目のサーキットオーバルトラックロードコースの2つのコース(周回路)を併設し、両方を同時に運用できる世界初のサーキット施設である1989年に開発を開始し、1997年8月に営業が開始された[1]。1998年には本田技研工業創立50周年記念イベント「ありがとうフェスタinもてぎ」が開催された運営の「株式会社ツインリンクもてぎ」はホンダの100%子会社「株式会社ホンダモビリティワールド」が前身となる。その後、鈴鹿サーキットを運営する「株式会社鈴鹿サーキットランド」と合併した新会社「ホンダモビリティランド株式会社」が運営を行っている現在はレジャー&リゾート施設となっており、サーキットの他に、遊園地ホテルがある。

2022年3月1日より名称を「モビリティリゾートもてぎ」に変更した。(「Wikipedia」より)

※2011年の東日本大地震でオーバル(周回路)の路面の凹凸がひどく、安全面で不向きになり、改修の必要性が出たが、採算の見込みが立たないまま、放置。イベントでの車両走行や自転車の耐久レースやマラソンなどに活用することがあり、スーパーGTではスタンド席を設置している。

さて、これから下館に戻ります。

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「関東鉄道常総線」+「真岡鉄道」。その6。益子・益子焼・用の美。七井。多田羅・たたら製鉄。(関東ローカル私鉄の旅。その4。)(関東ローカル私鉄の旅。その4。)

2023-08-17 20:46:19 | ローカル鉄道の旅

イチゴ栽培のハウス? 

「西田井」。

「益子(ましこ)」。

○益子の歴史
益子には、室町、鎌倉まで遡るような貴重な文化財が町の中心を取り巻くように点在しています。関東甲信越四大古塔のひとつとして知られるのが、西明寺の三重の塔。1537年西明寺城主益子家宗の建立で、和洋唐様の様式をもっています。本堂は1394年益子勝直によって開扇供養が行われ、1701年の大改修で現在のかたちになりました。中備のかえる股には十二支が刻まれています。純唐様式の楼門も威風堂々たるもの。このほか、山の玄関口に位置する大倉神社(807年)と綱神社(1194年)、側柱が角柱内部が円柱で阿弥陀堂式の平面を構成する地蔵院本堂(1504-1520)、大沢文庫を設けて名僧を輩出した円通寺(1402年)、日本で唯一、笑い閻魔大王を安置している閻魔堂(1714年)など、興味深いスポットは書き尽くせません。

○益子の歳時記
はっきりとした四季、ゆるやかな起伏の山、自然環境に恵まれた益子では、その風土を生かした農業や産業が営まれてきました。中心部から少し足を延ばせば豊かで懐かしさを感じさせる里山の景色が広がります。冬から春にはいちご狩り、初夏にはあじさい公園のあじさい、夏はブルーベリー狩り、秋には実った田んぼの眺めやいも堀りやりんご狩り、ぶどう狩りとその時ならではの味覚や景色が楽しめます。

益子焼は江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まると言われます。以来、優れた陶土を産出すること、大市場東京に近いことから、鉢、水がめ、土瓶など日用の道具の産地として発展をとげます。

      (「KOGEI JAPAN」HPより)

現在、窯元は約250、陶器店は50。若手からベテランまでここに窯を構える陶芸家も多く、その作風は多種多様です。春と秋には陶器市が開かれます。
1924年、濱田庄司がこの地に移住し、「用の美」に着目した柳宗悦らと共に 民芸運動を推めるかたわら、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は 「芸術品」としての側面も、もつようになります。
 
※1「用の美」=飾らない美しさと、道具としての機能性を併せ持つ美しさ。 道具 は使われてこそ美しい という考え方。柳宗悦(やなぎ むねよし)による。民藝運動の創始者である柳宗悦は、生活道具として使われていた民藝品に新たな価値を見出し、“用の美”と称えた。
※2「民芸」=「民衆的工芸」の略語。
 
民芸運動を推進した陶芸家。
「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」 と書き残す。
1955年第1回無形文化財保持者に指定される。
1968年文化勲章受賞。
 
 
独自の「縄文象嵌」の世界を築いた陶芸家。
1946年濱田庄司門下に。1962年日本民芸館賞を受賞。
1996年重要無形文化財保持者認定を受ける。
「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」 と書き残す。
1955年第1回無形文化財保持者に指定される。
1968年文化勲章受賞。
 
以下は、「Wikipedia」による。

古くから窯が開かれ江戸時代終盤に大塚啓三郎により窯業が始まり、陶製日用品を作る陶器生産地として栄えた。大正に入り濱田庄司が「民芸」を持ち込み「民芸の町・益子」と謳われるようになり、その後、数多くの陶芸家志望の人々が移住し「陶芸の町・益子」を築き上げ、現在の「益子焼」を作り上げていった。

益子焼の陶土は、豊富にあるものの肌理が粗く精巧な器を作るには向かなかったため、当初の益子焼は主に水がめ火鉢などの日用品として製作されていた。その後、1927年から創作活動を開始した濱田庄司によって花器茶器などの民芸品が作られるようになり、日本全国に知られることとなる。1959年には、加守田章二が開いた窯により民芸一辺倒だった益子の作陶に現代的な独創性が加えられた

1979年には通商産業省(現・経済産業省)から伝統的工芸品に指定された。地域団体商標にも登録されている。また、イギリス陶芸家バーナード・リーチなどの普及活動がある。

益子焼(蕎麦猪口)

砂気の多いゴツゴツとした土の質感をもつ。材料の性質上割れやすく、重いという欠点もある。

益子焼の最も基本的な釉薬は漆黒(しっこく)や「柿」と呼ばれる赤茶色、飴色(あめいろ)を出す鉄釉(てつゆ)である[6]。石材粉や古鉄粉を釉薬にし、で色づけを行う為、重厚な色合いとぼってりとした肌触りである。こうした昔ながらの施釉(せゆう)は土鍋や土瓶、片口といった、肉厚な陶器に使われる。

民藝運動以来、濱田が得意とした杓掛け・流し掛け・掻き落としの技法を使った紋様を施した鉢や皿などが有名となった。他にも信楽焼流の絵付けを施した山水土瓶や、呉須(コバルト顔料)を使った陶器も多い

・・・

陶器市(祭)の時期ではないのか、乗り降り客はほとんどいません。機会があれば、駅周辺を歩きたいところですが。

周囲には田園風景が広がる。

                  

「七井」。

        部活の高校生たちが下車。

「七井(なない)」とは「たくさんの井戸があった」の意味で、水資源が豊富な農耕に適した土地であったことに由来する地名。

生徒が渡った後、上り線に。

「多田羅」。

            「多田羅(たたら)」とは、日本で近代にかけて発達した「たたら製鉄」が由来。

※たたら製鉄(たたらせいてつ、:Tatara)

日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称である。砂鉄鉄鉱石粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高いを生産できることを特徴とする[1][2]近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った[3]明治以降急激に衰退し、現在では、日本刀の原材料「玉鋼」の生産を目的として、北海道にあるものなどが稼働している。

たたら」という用語は古くから「鑪」や「踏鞴」、「多々良」などと表記されてきたが[4]、それらは製鉄のさいに火力を強めるために使う鞴(ふいご)を指し、既に「古事記」や「日本書紀」にその使用例がある。また、近世以降に屋内で操業されるようになると、たたら炉のある建物を意味する「高殿」という表記も使われるようになった。

このような経緯から、「たたら」という言葉は製鉄法の他に鞴や製鉄炉、それらを収めた家屋をも指す広い意味で用いられたが、20世紀に入った頃より、特に製鉄法を指して「タタラ製鐵法」、「たゝら吹製鐵法」といった用語が使われ始めた。また、たたらで製鉄をおこなう工程のことを「たたら吹き」と言い、現在では「たたら製鉄」と同じ意味で使われる場合がある

一方で「たたら」という呼称そのものの語源については不明であり、確実なことはわかっていない。一説によれば、サンスクリット語で熱を意味する「タータラ」に由来すると言い、他にもタタール族を介して日本にもたらされたためとする説がある大和言葉に語源を求める説もあり、「叩き有り」からの転化、簡略化であり「踏み轟かす」の意、とする文献が存在する

この地域に「たたら製鉄」農機具を製造する施設があったのか?

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盛夏。台風7号。「終戦」記念日。向島百花園。江戸風鈴。カルガモ・オナガ。秋の七草。・・・

2023-08-15 12:53:50 | 向島百花園

台風7号が紀伊半島に上陸。近畿地方を縦断。中国や東海でも大きな被害が出そう。東京地方。明け方、雨が降ったものの、晴れてきました。

そして、今日は「終戦記念日」、本当は敗戦の日。「敗戦」を「記念日」というのは、というわけかどうか。

「終戦」記念日。

「敗戦」を認めないという気持ちが国民(指導者)にあったのか、戦争責任はうやむやのまま。「戦後」は、勝者・アメリカにお追従、今日に至る日本「国家」。・・・

と言い出せば、言いたいことはたくさん。「2023年は? 」と問われて、「戦争前夜」と答えたタレントもいるようだが。

岸田の言動を見ると、国民の憂い、不満をそっちのけで、むやみにはしゃぎすぎている。そのうち、きな臭い世の中になりつつあるような、・・・。

天気も政治も荒れ模様寸前の盛夏の中、晴れ間を見計らって久々に「向島百花園」へ。

8月14日(月)。

風鈴の音も軽やかな園内。しばし、外界の喧噪を忘れて。

             

             

        

        

         

                    

四阿のところにカルガモ。他はどこに?

がまの穂。

ユリ。

ザクロ。

池の真ん中に移動したカルガモ。

すると、オナガの一群がやってきました。池を旋回し、松の枝にとまり、

ひとしきり激しく鳴き声を立てたあと、飛び去りました。

(↓)。

その後は元の静寂に。

「向島百花園」では、8月下旬から9月下旬にかけて、

「虫ききの会」(8/24~8/27)。「月見の会」(9/28~9/30)。「萩まつり」(9/16~10/1)が開かれます。

「虫ききの会」=去年の様子

行灯や雪洞が灯され、草むらからコオロギ、スズムシなどの声が響く。

 

                                袖ふれて一期一会の虫の声

「月見の会」=去年。ただし、ビルの谷間にあるため、月の出は望めませんでした。

 水面に映える雪洞。

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「関東鉄道常総線」+「真岡鉄道」。その5。真岡(もおか)鐵道。下館二高前。久下田(くげた)。トウモロコシ畑。真岡・SLキューロク館。(関東ローカル私鉄の旅。その4。)

2023-08-14 20:17:33 | ローカル鉄道の旅

出発です。

沿線には、益子焼で有名な「益子」があります。

                     「益子焼上り窯(益子町)」。

「下館~茂木」。

              途中15駅、所要時間1時間13分。11:10発、12:23到着。

下館二高前。

見えている校舎は下館中学校。

田園風景が広がる。

「折本」。

上り列車と行き違う。

            

       

「久下田(くげた)」。

              

駅舎内には多目的施設「さくらホール」が併設されています。「久下田」の「くげ」とは白鳥(鵠)のことで、白鳥が付近の水田に住み着いたことを由来とする地名です。(「真岡鐵道」HPより)

※「境川」歩きの時、「江の島」近くに「鵠沼(くげぬま)」という地名がありました。同じ謂われがあるようです。

刈り入れを終えた田んぼ。

この付近も、早場米の産地。

トウモロコシ畑。

田んぼとトウモロコシ畑と。

親子連れが前方で行く手を見つめる。

                   どこまで行くのでしょうか?

この付近はトウモロコシの産地。

                  

          遠くには「筑波山」から続く山並み「八溝山地(やみぞさんち)」

・・・前方に蒸気機関車をかたどった駅舎が。

          

「真岡駅」に到着です。

                 

親子連れはここで下車しました。お目当ては?

真岡駅はSLを形取った複合施設で、真岡駅子ども広場、真岡駅前交番、真岡鐵道株式会社の本社が併設され、関東の駅100選にも選ばれています。
また、真岡鐵道の車両基地があり、東口には2013年にSLキューロク館がオープンしました。(「真岡鐵道」HPより)

1912年明治45年)4月1日に、下館 - 真岡間の官設鉄道真岡軽便線が開業し、真岡駅が開設された。翌年1913年大正2年)7月11日に、真岡軽便線は真岡駅から七井駅まで延伸された

・・・1987年(昭和62年)4月1日に、日本国有鉄道(国鉄)が分割民営化され、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となった。翌年1988年(昭和63年)4月11日に、JR東日本真岡線第三セクター真岡鐵道になった。同時に真岡駅は呼称を「もうか」から「もおか」に変更した

1997年(平成9年)3月30日に、SLの形の新駅舎が完成し、供用開始された。同年、関東の駅百選に選出された

真岡市では、2012年現在井頭公園で展示されていた9600形49671号機を駅東口に移設展示し、廃車車両も外観整備をした上で移動させ真岡駅全体をSLミュージアムとして新たな観光名所を計画。2012年7月には、展示車両のひとつであるスハフ44 25が駅構内へ搬入2013年(平成25年)4月28日に、SLキューロク館が開館した

               

真岡駅西口を入口とし、駅構内西側の側線群、SL格納庫、転車台、展示車に沿った歩道を開放して真岡まるごとミュージアムとしている。

(この項、「Wikipedia」より)

施設の名称は、館内に展示している9600形蒸気機関車が大正時代の代表的な蒸気機関車の一つであり、太いボイラー、短い化粧煙突、低い二つのドームにかたどられた雄姿で、「キューロク」の愛称で多くの人々に親しまれたことから「SLキューロク館」と名付けました。

(この項、「」HPより)

車窓から。

        

              

               親子連れは、喜々としてホームに降り立ちました。

※真岡市は北関東にある栃木県の南東に位置し、東に連なる八溝山地、西に流れる鬼怒川を抱える自然豊かな都市です。
首都東京から90キロメートル圏内に属し、東京駅から東北新幹線を使えば約1時間40分の距離にあります。
年間の平均気温は13.0度(最高19.0度、最低7.7度)、平均降水量は1275.9ミリメートル。
雪はときどき降りますがそれほど多くはなく、比較的温暖で暮らしやすい気候です。
市の面積167.34平方キロメートル、人口79,539人(平成27年国勢調査より)。
かつては農業を産業の基盤とするまちでしたが、現在は91社におよぶ企業が操業する大規模な工業団地を有するハイテク都市として発展を続けています。農業・商業・工業がバランスよく調和した理想的な地方都市です。

平成21年3月に二宮町と合併したことにより、いちごの生産量が日本一になり、また茨城県との県境になりました。
名前の「真岡市」の由来には、鶴が舞い降りた丘、「舞丘(まいおか)」と呼ぶようになって、舞丘が「もうか」といわれるようになり、「真岡」と書かれるようになったなど諸説あります。

                                        (「真岡市観光協会」HPより)

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「関東鉄道常総線」+「真岡鉄道」。その4。下館駅・筑西市。キハ2400(2402)形。真岡(もおか)鐵道へ。(関東ローカル私鉄の旅。その4。)

2023-08-13 20:46:49 | ローカル鉄道の旅

再び田園風景が広がります。

振り返る。

           どこまでも直線の線路。

車内風景。

上り線との行き違い。

住宅が増えてきます。

               遠くに筑波山の山並みが。    

左手(西側)の風景。

   大谷川。

                

終点下館駅に着きます。

「キハ2400形(2402)」。

1922年9月3日、現在の関東鉄道の前身の一つとなった鹿島参宮鉄道株式会社が開業しました。関東鉄道は、この日を開業日としてカウントしています。
 2022年9月3日に開業100周年を迎える、ということになります。その前年となる今年(2021年)、開業100周年を前にした企画として、常総線の「キハ2400形」の内2両が「レトロ塗色」(昭和40~60年代の、朱色とクリーム色のツートンカラー)に変更されています。(「下館レイル倶楽部」HPより)

JR下館駅ホームから「真岡鐵道」に乗り換えます。

乗り換え時間があるので、駅構内で休憩。

下館駅(筑西市)。

筑西市は、下館市・関城町・明野町・協和町の1市3町が合併し、平成17年3月28日に誕生しました。

東京から北へ約70km、茨城県の西部に位置し、東西は約15km、南北は約20kmで、面積は205.3km2です。
 南は下妻市及び日本を代表する科学技術中枢都市「つくば」を含むつくば市に隣接し、東は桜川市に、西は結城市、八千代町及び栃木県小山市に、そして北は栃木県真岡市に隣接しています。
 地形はおおむね平坦で、鬼怒川・小貝川などが南北に貫流し、肥沃な田園地帯を形成しています。
 標高は、約20mから60mで、北部には、阿武隈山系の一部につながる丘陵地帯があり、その標高は約200mとなっています。
 気候は太平洋型の気候であり、四季を通じて穏やかです。
 道路体系は、市のほぼ中心を東西方向に国道50号、南北方向に国道294号が整備され、この2路線が交差した部分が市の中心部になります。 さらにここから石岡市方面やつくば市方面、古河市方面に、放射状に県道が整備されています。
 鉄道については、東西にJR水戸線が走り、下館駅を起点として、南は取手まで関東鉄道常総線、北には茂木まで真岡鐵道真岡線が運行されています。
 この度合併して誕生した筑西市では、「人と自然、安心して暮らせる共生文化都市」を新市の将来像に置き、県域を越えた北関東連携軸の新たな拠点として、産業や観光・レクリエーション、文化をリードする魅力ある都市圏の形成を目指していきます。

(この項、「」HPより)

駅前。

            

待合室。

             JR水郡線の案内図があります。水戸から郡山まで。今度チャレンジしてみたい路線です。

さて、「真岡(もおか)鐵道に乗り換えて終点の「茂木駅」まで。

         

    

歴史は古く、1912年明治45年)の官設鉄道真岡軽便線(もうかけいべんせん)下館駅 - 真岡駅間の開業に始まる。1920年(大正9年)には茂木駅まで全通した。しかし、地域の流動に合わない線形で、県都宇都宮との連絡鉄道(改正鉄道敷設法別表第37号「栃木県市塙ヨリ宝積寺に至ル鉄道」)も計画されたが実現に至らなかった。なお、最初の着工前には、下館駅でなく、隣の川島駅を起点とし、一部工事も着工がされていたが、災害などで中止され、結局下館起点に変更となった。

国鉄再建法施行により、1984年(昭和59年)に第2次特定地方交通線に指定され、1987年(昭和62年)にJR東日本に承継されたのち、1988年(昭和63年)に真岡鐵道に転換された

(「ジョルダン」より)

                                          (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

※「下館駅」から北上するのが「真岡鐵道」、南下するのが「関東鉄道」。

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