おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

2020春。「墨堤通り」+「向島見番通り」+花街。その3。「青柳正家」。「めうがや」。・・・

2020-03-31 20:59:44 | じじばばがゆく
青柳正家
青柳正家のこだわり
 昭和24年の第1回全国銘菓奉献結成式典において、当店の味に大変満足されたのを機縁に、一條実孝公によって命名されたものです。その格式高い「正家」の名を賜った昔から現在まで変わらず、最上級の材料を吟味し、心を込めた手作りにて「すべてのお客様に満足いただける商品」をと努めております。
 和菓子の心「春夏秋冬」の季節感をお届けできるよう、ひとつひとつ大事にお作りしております。
 毎日を特別にする日々のお茶のお供に、大切な方への贈り物に。
 お客様のご用命をお待ち申し上げております。
                                             (この項、「2020 © 菓匠 青柳正家」HPより)

 「正家」と命名した、一条実孝自らが筆を取った看板を掲げています。

工芸菓子「牡丹」。菓子の材料で制作してある。

 この界隈には、意匠の凝った飲食のお店や伝統工芸のお店などがあります。

こちらは「向島七福 すずめのお宿」。江戸蕎麦の店。

 

 江戸と東京を味わう――。江戸の食文化【江戸蕎麦】を向島花街で伝える。天ぷらや蕎麦前で一献も
 江戸時代に医食同源として根付いた【江戸蕎麦】。
 当時は醤油の替わりに味噌を大根おろし汁に溶いた“江戸つゆ”で食していました。
 そんな江戸っ子が好んだお蕎麦を気軽に味わえる「向島七福すずめの御宿」。
 蕎麦は国産玄蕎麦100%の自家製粉を使用。
 揚げ前カウンターで愉しむ【天ぷら】や蕎麦前料理、コース料理など、幅広いメニューをご用意しています。
 心温まるおもてなしと共に、お蕎麦でまず一献いかがでしょうか。
                      (この項、「食べログ」HPより)
 「抜け雀」という古典落語があります。一文無しの絵師が宿賃代わりに衝立に描いた雀が抜け出し、「雀のお宿」と評判になって大繁盛するお話ですが、それにあやかったネーミングなのでしょうか。

こちらも「江戸蕎麦」屋さん。僖蕎(ききょう)」。

  
 長年培った和食の技術を礎とし、江戸の「粋」を東京の花街・向島にて体現致しました。時節により蕎麦粉の産地を吟味し、職人が丁寧に手仕事で打ち上げます。厚削りの香りが際立つ、から目のつゆで頂く江戸前二八そばと素朴で旨いつまみを迎える豊富な地酒。そばと季節料理の会席や個室もご用意し、家族のお食事やご接待など幅広くご利用頂けます。江戸の「粋」を東京の「モダン」な空間で感じるひと時。「江戸蕎麦 僖蕎」が新しい味わいと愉しみの場を花街・向島にてご提案いたします。

                      (この項、「一休.com」HPより)

めうがや」。  

 「向島めうがや」は慶応3年(1867)の創業。
 初代・長七が万治2年(1659)創業の「めうがや足袋総本店」(旧日本橋区浪花町二番地)より暖簾わけを許されたのが始まりで、元は浅草田町(現台東区浅草五丁目)に店を構えたが、2代目・七蔵を経て3代目・由太郎のとき現在地に移転した。
 関東大震災後の帝都復興事業に伴う区画整理を契機としての移転であった。
 4代目の定男を経て、現5代目の芳和がその伝統を受け継いで今に至っています。


向島めうがや5代目 石井芳和 職歴42年
ひとこと
足袋でお悩みの方には是非御誂えをおすすめ致します。きちんと御つくりさせて頂きます。
趣味
銭湯めぐり、落語
・ 平成30年度 墨田区伝統的手工芸技術保持者 表彰
・『平成25年度・東京都優秀技能者(東京マイスター)知事賞』受賞
・ 墨田区登録無形文化財保持者 平成24年認定
・ すみだマイスター 平成5年認定
・ 墨田区伝統工芸保存会会員
・「すみだモダン」2010認証
・「すみだリーディングファクトリー2018」選定
(この項、「」HPより)

 通りすがりにお店の中を覗くと、ご主人がミシン掛けをしていました。
 古くから料亭の女将や芸妓さんを得意先にもつ、あつらえ足袋の老舗。花街の女性の足元を細く美しく見せる江戸足袋を作り続けています。

このお店も落とせません。カド 季節の生ジュース くるみパン」。
 このお店の内装を担当したのは、作家・志賀直哉の弟の建築家、志賀直三。若い頃に留学した、ロンドンのパブを再現した、とか。
 店内は、絵画などが辺り狭しと飾られ、バロック調、ルネサンス調、ロココ調・・・。まさにヨーロッパスタイルの趣き、らしい。一度は入るとその装飾に皆がびっくりする(らしい)。しかし、生ジュースやくるみパンは店主自慢の絶品(のようです)。
 一人で入るのには、勇気がいるかな。

この先、右手に「見番」の大きな建物があります。

一角に煉瓦塀が残っています。内側には何もありません。

                          

めっぽう古そうなおうちがあったりします。

スカイツリーを見上げる。

やはりこの界隈は奥が深い街並みです。まだ探索は続きます。
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2020春。「墨堤通り」+「向島見番通り」+。花街。その2。「見番」。「櫻茶ヤ」。・・・

2020-03-30 19:39:27 | じじばばがゆく
                       「美家古(みやこ)」他にも古くからの料亭が点在しています。

「壱松(いちまつ)」、「市山(いちやま)」、「入舟(いりふね)」、「きよし」、「櫻茶ヤ(さくらちゃや)」、「すみ多(すみだ)」、「千穂(せんすい)」、「千代田(ちよだ)」、「月笛(つきぶえ)」、「道成寺(どうじょうじ)」、「波むら(なみむら)」、「ふ多葉(ふたば)」、「美家古(みやこ)」

     (以上、「向嶋墨堤組合」HPで紹介されている料亭)

おもてなしの心
 料亭と言う響から連想される「贅を尽くした雅やかで高貴な処」と評されることが多々あります。実際はそれほど敷居は高くありません。お客様のご予算、内容に応じてご利用いただけるのも料亭の仕組みです。風情を重んじ、旬の素材で季節を食彩共に愛でる料理と落ち着きのある部屋、さりげなく置かれている調度、床の間、おもてなしの心。全ての纏まりが醸し出す無形の演出、日本の食文化,、伝統を受け継ぎ次世代に継承する事が私共の使命と考えております。

 門口を通ると広がる和の空間、粋と寂の趣を控えめにしつらえた佇まい、お客様の心へさりげない癒しへのいざない。これから繰り広げられようとする宴へのときめきをお部屋にお通しするまでも家人の立ち居振る舞いの淑やかさ、言葉遣い、手の動き、目くばり、気くばり、その一つ一つに「もてなしの心」を感じていただけることでしょう。そして、お料理。季節、厳選された素材、彩り、調理の技、器との競演、ここで大事なもてなしをする家人の気くばり、美味しいお料理をより美味しくお召し上がり頂くための「間」※タイミング。ご酒をお召し歓談をされているお客さまへ、どの「間」で次のお料理をお出しするかも「もてなしの心」なのです。宴が終わりお客様をお見送りするまでの心の緊張。
 「また、寄らせてもらうよ」のお言葉。感謝と緊張の糸がとける瞬間です。時代は変われど歴史ある日本文化、伝統、作法を重んじた料亭の文化を末永く継承すると共に、より一層、「もてなしの心」を求道、邁進いたします。

お座敷と芸者さん
 江戸時代前期、松尾芭蕉の登場により江戸中期以降、俳諧、連歌などの会席が料理茶屋で開かれるようになり、舞踊、邦楽で宴席に興を添え、客をもてなす女性の職業として芸妓の形が出来ました。時代が替わり会席の形も色々と変化をしてきましたが、料亭のお座敷と芸妓、伝統芸能の取り合わせは今の時代でも遺っています。

 日本の伝統芸能は長い歴史と共に様々な唄、器楽、舞、演者、流儀、流派、と広域でとても語り尽くすことが出来ません。花街向島では現在も技術の伝承者と共に継承されている奥深い文化である伝統芸能を遺すためにも、芸妓衆の習い事として日々お稽古を各分野のお師匠さんに付けていただいております。

 邦楽を介して学ぶ作法も重要ですが「呼吸」「間」「情緒」そして「粋」を音曲の調べと共に情感で表現する奥深い日本の伝統芸能を身につけなければ一流の芸妓にはなれない重要な教養の一つでもあります。
 現在、邦楽の範囲としては浄瑠璃(義太夫、常磐津、清元)、器楽(三味線、笛、小鼓、大鼓、大皷※おおかわ、締太鼓)が主な演練演目としてあり、一つを昇華するにも大きな時間を費やします。自己の教養を高めることが客をもてなす才色兼備の芸妓に育っていくのです。

 芸妓の身のこなしや立ち居振る舞いは邦舞、邦楽の基礎をしっかりとしたお稽古を続け身につけることが感性の現れとなります。現在、向島花街では日本舞踊として200流派を超える流派の中から「西川流」と「猿若流」のお師匠さんよりお稽古を付けていただいております。

西川流
 日本区内には200を超える日本舞踊の流派がありその中でも5大流派と言われる中の一つに数えられているのが初代創始は江戸三座の櫓付振 付師としても活躍し、三百有余年の歴史を有し現在も多くの門弟を世に送り出しています。

猿若流
 江戸三座に入り、江戸歌舞伎の始祖と伝えられている。寛永元年(1624年)初代猿若(初代中村勘三郎)により猿若座(後、中村座)の櫓をあげ、現在まで約400年の歴史と伝統を継承し日本舞踊の発展に努めています。

お座敷の遊び
金比羅船々
 芸妓と向い合い善の上に椀のような道具を真ん中に「金比羅ふねふね・・・」を歌いながらジャンケンの形で椀のような物を片方が取ったらグー、そのままならパーを出す。間違えたら負けの反射神経が問われるゲーム。

投扇興
 流派もある伝統的対戦ゲームで、桐箱の台座にたてられた「蝶」と呼ばれる的へ扇を投擲して落ちたときの形により得点を算出し点数を競う。

とらとら
 体を使ったジャンケンで和唐内(やりでつく格好)、虎(よつんばい)、お婆さん(杖をつく格好)の組み合わせで、勝敗は和唐内は虎には強いがお婆さんには弱い。虎は、お婆さんには強いが和唐内に弱い。お婆さんは、和唐内に強いが虎には弱い。

おまわりさん
 芸妓と2人でジャンケンをして勝った方は太鼓をたたき、負けた方は1回転してまたジャンケンをするゲーム。

お食事だけでもご予約いただき気軽にご利用頂けるのも花街向島の魅力です。
・・・
見番とは
俗称:見番  正式名:向嶋墨堤組合
 花街の成り立ちからご説明、向島に料亭街の集合地域として繁栄し歴史も古くからの痕跡を残している。ここでは終戦後から現在の見番 (向嶋墨堤組合)になるまでをご説明させていただきます。

 向島は隅田川の東岸に位置しており、春は桜、夏は花火、秋は向島百花園、冬は隅田川七福神巡りと四季折々の情景と風情の趣を醸す地域故に人々の往来も多くなり、花街の成り立ちを要する置屋、料理屋、待合の三業種の営業が許可された三業地と呼ばれるようになりました。

 昭和61年11月15日、芸妓組合、料亭組合、料理店組合が合併し、見番(向嶋墨堤組合)として現在に至っています。主な業務は料亭への芸妓の手配、料亭の予約手配、置屋、他花街の統括管理が主な業務、また、芸妓の育成、お稽古、等々、伝統文化継承の貢献も行ってる花街では重要な組織が見番です。

置屋とは
 自店に登録されている芸妓を料亭へ斡旋したり新人芸妓を育てたりと花街には無くてはならない業態。花街向島では50件近くの置屋があります。

 と、以上「向嶋墨堤組合」HP)より引用。

 

向嶋墨堤組合(見番)」解説板。
 江戸中期になると社会も安定し、連歌や俳諧などの会席が料理茶屋で開かれるようになった。こうした宴の席に華を添えるため、踊りや唄で客をもてなす芸妓が現れ、花柳界が誕生。以降、幕末まで大いに栄えた。しかし、明治に入ると、急速な近代化の中でこうした「江戸情緒」は徐々に失われていく。
 伝統や文化を惜しむ多くの文化人は、風光明媚な向島に居を移し、新たな文学や芸術を創造し、花街もかつての賑わいを取り戻していった。粋な空間で楽しむ「お座敷遊び」は、文人墨客に愛され、やがて一般の人にも波及していった。
 向島には、今なお料亭のお座敷と芸妓、舞や唄などの伝統芸能が脈々と継承されており、一種独特の文化圏が保たれている。
 向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、平成24年3月現在、16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴り物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について修練している。

 やはり小生には敷居の高い、無縁の世界ですね。「縁無き衆生は度しがたし」。
 せめて料亭の写真だけでも。
「櫻茶ヤ」。

         「桜まつり」の提灯が掲げられています。

シダレザクラはほんの一輪ほど。

 注:コロナ騒動で、「桜まつり」も中止になり、隅田川土手の提灯も一部、26日には取り外されました。

「ふ多葉」
「多」は「」。
「葉」は「」。

「入舟」。

「波むら(なみむら)」。

「「すみ多(すみだ)」。
「だ」は「」に濁点。

 この界隈は料亭ばかりではありません。歴史と文化を感じる建物やお店が存在します。次は、その紹介を。
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2020春。「陽光」。「衣通姫」・・・。「墨堤通り」+「向島見番通り」+花街。その1。

2020-03-27 20:18:23 | じじばばがゆく
                       「ヨウコウ(陽光)」。華やかな紅色。
            
愛媛県に在住していた高岡正明がアマギヨシノ(天城吉野)とカンヒザクラ(寒緋桜)を交雑させて作出した園芸品種
高岡正明は第2次世界大戦中に学校教員であったが、戦後、戦死した生徒たちの冥福を祈って各地に桜を贈ることを思い立ち、環境適応能力が強いサクラを作出すべく、25年の試行錯誤の後に、寒さに強いソメイヨシノに由来を持つアマギヨシノと台湾原産の暑さに強いカンヒザクラを交雑させて誕生させた。樹形は広卵状で、ソメイヨシノより早く咲き、花は一重で大輪、鮮やかなピンク色となるのが特徴。てんぐ巣病や病害虫に強い樹勢強健な種とされる(この項、「Wikipedia」より)

 「隅田川」沿いの「墨堤通り」・高層道路下の歩道脇には、ソメイヨシノだけでなく、他の種類のサクラも植わっています。
 
                「ソトオリヒメ(衣通姫)」落ち着いた白さが魅力。 
伊豆大島の都立大島公園でソメイヨシノとオオシマザクラの自然交配で生じた
一重咲きの桜 花は白色だがやや紅色がかる
名前は『日本書紀』に登場する衣通姫(ソトオリヒメ)にちなんでつけられた

シロタエ(白妙)」。八重咲きの大輪。 
 シロタエは数少ない大輪で白色の種であり、オオシマザクラ系のサトザクラ群で園芸品種の八重咲きの桜
現在の栽培種は昔東京の荒川堤で栽培されていたもの
花径は5~5.5㎝あり花弁は13~15枚でほぼ円形
花の色は白色で、外側の花弁は先端や外面が淡紅紫色を帯び「白色八重咲き」の代表と言われている・・・
          
         

センダイヤ(仙台屋)」。

                    
原木は高知県高知市の仙台屋という店に植えられていた桜で、東北地方にあった山桜を移植したものと伝えられる
牧野富太郎博士が命名した、と言われている
咲き始めに花弁の先と縁の色がやや濃い紅色を持つ一重咲きの桜

エドヒガン(江戸彼岸)」。


エドヒガンは桜の原種の一つでありソメイヨシノお交配親としても知られている
名前は文字どおり彼岸の頃に咲き、関東を中心に広く分布していることによる
花の色はかなり濃い紅紫色から純白色まで変異が大きい
桜の中では非常に長寿の種であることがしられており、樹齢2000年を超えるといわれる神代桜(山梨県)や樹齢1500年を超える淡墨桜(岐阜県)、樹齢1000年を超えるといわれる樽見の大桜(兵庫県)、その他にも樹齢300年を超える石割桜(岩手県)などが有名(いずれも国の天然記念物)

向こうにスカイツリー。ヨウコウ(陽光)」。

ヤエベニシダレ(八重紅枝垂)」。

         

「祝 第5回忠臣蔵サミット記念樹」。
蕾から花弁が開くにつれて、花色が濃い紅紫色から淡紅紫色へと変化する。このため、5分咲きから7分咲きの頃に紅の色がもっとも濃く見える
・・・平安神宮の八重紅枝垂は、谷崎潤一郎の「細雪」にもその姿が描写されている
「平安神宮紅しだれコンサート」は例年、京都の春の風物詩となっている

 
               「ヨウキヒ(楊貴妃)」。艶やかな色合い。
サトザクラ群の一品種。もと東京の荒川堤で栽培されていた品種。
花は八重で4月中旬頃に咲き、花びらは淡紅色であるが先端は濃紅色
奈良興福寺の僧侶「玄宗」が非常に好んだことから、唐の「玄宗」皇帝が楊貴妃を寵愛した故事にちなみこの桜を「楊貴妃」と呼ぶようになったという
江戸時代の文献にもその名が記載されており、古くから知られた桜である。
 
 さて、「墨堤通り」が首都高速下から離れ、右折すると、右手に「見番通り」の標識。探訪してみます。
         

右手に「須崎会館」。「須崎」はこの付近の旧町名。現在は、向島五丁目西町会の事務所。
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2020春。「春は名のみの風の寒さや」。隅田公園のサクラ。その2。

2020-03-26 20:10:20 | 隅田川

                        「言問橋」を渡って、再び墨田区側に。
                       

2階建てバスもお客がパラパラ。

橋の上から手が届くところに花びら。



橋のたもとにある「小梅 埼玉屋」さんで、桜餅と草餅を買います。

墨田区側は、池のある庭園風に。

             



小梅邸と明治天皇行幸」解説板。
 江戸時代、この地は水戸徳川家の蔵屋敷で、上屋敷の小石川邸(その外庭が小石川後楽園)が明治の初めに歩兵工廠となったため、この小梅邸が本邸(当主・徳川昭武:15代将軍慶喜の弟)となりました。小梅邸は、北十間川から隅田川に出る舟運の要衝であると同時に、水戸と小石川邸を結ぶ水戸街道沿いにあって街道の要衝でもありました。
 江戸時代から桜の名所であった隅田堤の桜が満開の明治8年(1875)4月4日、明治天皇が小梅邸に行幸され、その時の御製が石碑に刻まれています。これは徳川関係屋敷への最初の行幸で、明治政府と徳川の和解の場でした。行幸啓は以後5回に及び、明治29年(1896)には洋館が造られました。

注:江戸時代から明治の後期にかけては、「水戸街道」は日光街道の千住宿から分岐していたので、ここで言う「水戸街道(現国道6号線)」は存在していません。旧街道と現街道は葛飾区新宿(にいじく)で合流します。


公園内には、記念碑もあります。

花びら越しのスカイツリー。



根元に一輪。

築山風のところにもサクラの木々。

       

ここからのスカイツリー。

                

お目当ての枝垂れ桜はまだつぼみ。

 ところで、長い間工事中だった南側。東武線と接する道路や線路下のお店、さらに北十間川と大がかりな工事がほぼ完成。広々とした芝生広場などが開放されています。


            

          東武スカイツリーライン線の電車。

 さっそく春の陽気に誘われて家族連れやカップルがそれぞれくつろいでいます。


広場からのスカイツリー。

                     

 「春は名のみの・・・」は「早春賦」の一節。

 「早春賦」は、1913年(大正2年)に発表された吉丸一昌作詞、中田章作曲の日本の唱歌。
 『尋常小学唱歌』の作詞委員会代表であった吉丸一昌が、自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけ、『新作唱歌』全10集として発表した中の一作。
 長野県大町市から安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされ、旧制長野県立大町中学(長野県大町高等学校の前身)の校歌の制作のために訪れた吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌った歌詞でもある。
 題名の「賦」とは漢詩を歌うこともしくは作ることを指し、「早春に賦す」が原義である。

歌詞
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か


 作詞の吉丸一昌(よしまる かずまさ)は、東京府立第三中学校(現両国高校)教諭(当時の教え子の中には芥川龍之介もいた)の経験もありました。その関係で、今も歌い継がれている「東京府立第三中学校・両国高校」の校歌(石原重雄作曲)を作詞しています。

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2020春。「春は名のみの風の寒さや」。隅田公園のサクラ。その1。

2020-03-25 20:13:37 | 隅田川

                      都内は満開、というニュース。そこで隅田公園へ。
3月24日(火)。晴れ。北風寒し。
ソメイヨシノは、ほぼ満開? でも、古木が多いせいか、元気がなさそう。

それでも足下には菜の花。そしてサクラ。




そぞろ歩きの人びとも寒そう。川面がきらきら光って春らしいが。
    コロナ騒動で屋形船も元気がない。

「鬼平情景 みめぐりの土手」。 
         大川(隅田川)の土手下にある「三圍(囲)=みめぐり神社」にまつわるお話。

雪洞も大きく揺れて。
                   華やか気分にはなれます。



 「桜橋」を渡って浅草側へ。


                  

スカイツリーを借景に。



                       

          

洒落たカフェテリアが出来たんですね。

紅色の衣をつけたスカイツリー。

スズムシ等の観察用の竹林。

「TOKYO2020」も「1年程度延期」に。トランプとスポンサーの意向(威光)で、アベさんもやっと決意。
今度はコロナにかこつけて「非常事態宣言」か。

思惑通りにいくかどうか。

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木更津駅周辺。その5。「金田屋リヒトミューレ」。「見番」。「切られ与三郎」。(「房総往還」をゆく。第4日目。)

2020-03-24 20:42:26 | 房総往還
                              木更津港。駅まで戻ります。
途中、洒落た建物が。「ファミリーロッジ旅籠屋・木更津港店」。

「富士見通り」。

ビルの間に古い建物が。

                     蔵造り。

 再び「房総往還(街道)」に出て、北に向かいます。
角に「旧金田洋品店」。
         明治の創業と思われる店舗。現在の建物は昭和7年(1932年)の看板建築。正面開口部欄間の菱形の色ガラス。その上のアーチの頭部の櫛形の飾り等、当時のオシャレが感じられる。

 1932(昭和7)年に建てられ、約30年間手つかずだった木更津市のレトロ建築物「旧金田屋洋品店」(同市中央2)が、おしゃれなアンティーク店「金田屋リヒトミューレ」として生まれ変わった。東京都八王子市から移り住んだ長谷川裕隆さん(48)が、ボロボロだった店内をリフォームし、よみがえらせた。長谷川さんは、趣たっぷりのレトロ建築を生かし、「木更津の良さを発信したい」と願っている。
 旧金田屋洋品店は、木更津で江戸時代から続く薬局店の「雑貨事業部」として明治時代に開業。現存する木造モルタル造りの建物は、緑のダイヤガラスや結霜ガラス、正面のアーチ型の装飾が特徴的で、昭和初期の面影がそのまま残る。近年では、JR木更津駅西口に点在するレトロ建築の一つとして、市ホームページで紹介されるなど、その外観が町おこしに使われてきた。
◆30年間手つかず
 建物は長谷川さんの母親が相続し、約30年前に趣味教室として使われた後は、手つかずの状態になっていた。建物を取り壊す話が持ち上がったが、脱サラしてアンティーク販売などを手がけていた長谷川さんは「もったいない」と一念発起。昨年夏に約1カ月かけてリフォームし、当時住んでいた八王子市から引っ越してきた。
 建物内は床がグズグズに腐り、隙間風が吹き込む荒れ具合。アンティーク好きの長谷川さんは「余計なことはせず、元の形に忠実にきれいにしよう」と、自ら壁にしっくいを塗ったり床を張り替えたりしてよみがえらせた。
◆11月「オープン」
 昨年9月から店内で時計やライターの修理などを行っていたが、客が自由に出入りできるようになったのは今年11月初めから。「建物を見たい人もいるので開けよう」と思い立った。
 店内には、店名の由来になった、光が当たると回転するガラス工芸品「ラジオメーター(独語でリヒトミューレ)」をはじめ、ダンヒルのオイルライター、オールドノリタケの逆輸入品などファン垂ぜんの逸品が並ぶ。15日には、自らデザインした紺色ののれんも届き、レトロな外観と相まったぬくもりある店が注目されつつある。
 長谷川さんは「木更津は住むと悪くない場所。その良さをアピールしたい。『こんな店があるんだ』と思って喜んでもらえたら」と笑顔で話していた。
 営業時間は午前11時から日没まで。休業日は不定期。問い合わせは同店、電話0438(38)3538。
(この項、「2015年12月16日 20:18」より)

さて、ここから戻ることにします。
通りの向かいにも蔵造りにつづく建物。

「ちばぎん」。
                                                 「上総銀行発祥の地」碑。


               
交通の要衝「木更津」
 房総半島の中央部に位置する「木更津」は、古くは古東海道の要衝として位置づけられ、中近世には
化の影響を直接受けながら発展してきました。特に大坂の陣における木更津の水夫の功績により徳川氏から江戸
木更津間の渡船営業権を与えられたことにより「木更津船」が江戸と房総をつなぎ物資や人を輸送する交通の
て栄えることになりました。
 明治期には港が構築されて更に海運が盛んになると共に、昭和期に入ると横浜・川崎とのカーフェリーの運行が行われ、海上交通も活発となりました。
 自動車の普及と道路網の整備が進むと、交通手段が海上から陸上へと変化し、カーフェリーの運航は終了となりましたが、「木更津」は東京湾アクアライン・館山自動車道・首都圏中央連絡自動車道などの主要高速道路が交差する房総半島の玄関口として発展を続けています。

注:上の浮世絵「山海見立相撲 上総木更津 歌川広重」。

 この思惑通りに発展しているのかどうか? 駅前の商店街のようすを見ると気になるところです。

今度は南に下って、「木更津会館(見番」)」。

千葉県唯一の現役見番が残っています
運が良ければおけいこの様子が聞こえてくるかも
現在も芸者のお稽古場となっている。
昭和30年代に建設された歴史ある建物
県内で使用されている現役の見番は木更津会館のみ。非常に貴重な建物。
 現在、木更津芸者衆は11人。
江戸時代からの伝統伎芸と文化を継承しようと稽古に励んでいる。
(この項、「ファミリーロッジ旅籠屋・木更津港店」HPより)

 

 「見番」というと、墨田区向島に「見番通り」という名の通りがあります。今度その付近を散策してみます。新たな発見があるかも。

 というわけで、駆け足で木更津巡りをしました。この南に「証誠寺(の狸囃子)」が残っていますが、それは木更津から南に向かうときに寄ることにします。
 最後は、「光明寺」にある「切られ与三郎」のお墓を。

このユニークなお店もパチリ! 
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JR「木更津」駅周辺。その4。木更津甚句。「活き活き亭」。中の島大橋。氣志團。(「房総往還」をゆく。第4日目。)

2020-03-23 20:10:39 | 房総往還
                    松林の中に「常夜燈」。灯りのブロックが積まれています??

「木更津港の基礎石」碑。
木更津港の基礎石
 昭和七年十月三十日当時の蒸気河岸、現在の中央三丁目で木更津築港の起工式が行われた時、当時の千葉県知事岡田文秀 氏の銀の小槌によって留金が解かれ、水煙をあげて港へ沈めた基礎石で、木更津港の歴史を今に伝える貴重なものである。
 木更津港も時代の変遷とともに十有余年を経た今日、この基礎を発見したので末永く保存するものである。
 平成二年十月吉日
                    

松林。

右手には木更津甚句」記念碑。
江戸時代末期に大流行した木更津甚句。千葉県三大民謡の一つ。この記念碑は、大正時代に甚句を再流行させた若福さん(向かって右)と教えを引き継ぐ現代女性をイメージしてつくられたそうです。

振り付け。

                解説板。
                 
松林の中にある遊具がユニーク。
 

 いよいよ空腹も限界。海鮮茶屋「活き活き亭」に向かいます。手前に「かき小屋」が。牡蠣は三回もあたったので残念。覗くだけ。
                  

車エビなどもあり、自ら焼いて食べるお店。

「活き活き亭」もそのシステム。生きのいい貝や魚をバーベキューのように焼いて食べるお店。けっこう繁盛しています。グループなどで大人気。

 一人で焼いて食べるのはどうも味気なし。でも、さっさと焼いて食べて、満腹。

その先、「中の島大橋」を渡ってみます。

日本一高い歩道橋、がウリ。

眺めは最高。「日本製鉄 君津製鉄所」方向。
君津地区の敷地面積は約1173万m2(東京ドーム約220個分)で、工場の大半は君津市内にあるが、一部が隣の木更津市に及んでいる。従業員数は、
君津地区においては、主力製品5種のすべてを製造している。
沿革
1960年(昭和35年)11月 - 君津町(当時)への進出を正式発表。
1961年(昭和36年)8月 - 君津漁協との間の補償協定に調印。
1962年(昭和37年)1月 - 第一期埋立工事開始。
1965年(昭和40年)2月 - 八幡製鐵君津製鐵所として発足。
1965年(昭和40年)4月 - 冷延工場のみで操業開始。
1968年(昭和43年)11月 - 第1高炉竣工、火入れ。銑鋼一貫体制が確立。
1969年(昭和44年)10月 - 第2高炉竣工、火入れ。
1970年(昭和45年)3月31日 - 新日本製鐵発足に伴い、同社の君津製鐵所となる。・・・(この項、「Wikipedia」参照)

古くからの知人で、工場が出来、故郷の八幡から君津工場に移って来た方が何人かいます。もうすっかり代替わりになっていますが。また、年を取って、八幡(あるいは九州)へ戻った方もいます。

対岸の三浦半島方向。

木更津市街地を望む。

頭上には、羽田空港に着陸する飛行機がひっきりなしに通過。
                                そういえば、羽田に向かうとき、この上空を通りますね。

「陸上自衛隊 木更津駐屯地」方向。

木更津港に入港する大型船。

                   

「中の島公園」。3月~7月まで潮干狩りが出来るようです。


                  

風が冷たくなってきたので、戻ります。

下った右手の公園に何やらモニュメントが。
                             狸のカップル像。
「中の島大橋」が「恋人の聖地」に選定された記念、だとか。
 中の島大橋は、高さ27メートル・長さが236メートルという日本一高い歩道橋です。夕暮れ時には、富士山を背景にロマンティックな雰囲気に包まれることから、「恋人の聖地」に選定され、橋の袂(たもと)には、かわいいタヌキのカップル像が設置されています。さらに、タヌキのカップル像の脇にあるラブフェンスには自由に南京錠をつけることができ、永遠の愛を誓い合うことができます。
 また、この橋はテレビドラマ&映画「木更津キャッツアイ」のロケ地となり、若い男女がおんぶして渡ると恋が叶うというストーリーから「赤い橋の伝説」が生まれています。
 カップルのみなさん、南京錠を取り付けてから伝説を体験してみるなんて、どうですか?
(この項、「」HPより)

残念ながらブームは去ったのか、素通りされている印象。
 ところで、「木更津キャッツアイ」という映画は?
ストーリー
 21歳にして余命半年と宣告されたぶっさん(岡田准一)。死の淵から蘇って半年後の夏—野球とビールに明け暮れる毎日を送っていると、氣志團が木更津でロックフェスティバルを開催することを知る。キャッツのメンバーもぶっさん作詞作曲のラブソングを新曲にひっさげて参加が決定。
そして突然、みんなの前に死んだはずのオジーが現れ、キャッツたちは大騒ぎ。山口先輩は出所した猫田を店長に元ストリップ劇場の木更津ホールを韓国パブに改装。そこで働く韓国人、ユッケ(ユンソナ)と出会ったぶっさんは、ひょんなことから一緒に伝説の赤い橋を彼女と渡り、急接近。
そんな中、美礼先生が高校時代に憧れていた、やっさいもっさいがめっぽう上手い笑顔の素敵な「微笑みのジョージ」が現れる。 ・・・
(この項、「Wikipedia」参照)

 宮藤官九郎の脚本とは知らなかった。 2003年11月公開ですから、もう16年以上前の映画。
 ここで出てくる「氣志團」。「One Night Carnival 2013」(You Tubeより)


                 (HPより)
 リーダーの綾小路翔も齢42。でも、今も(ますます)活躍中です。
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JR「木更津」駅周辺。その3。木更津港。見染の松。「与話情浮名横櫛」。(「房総往還」をゆく。第4日目。)

2020-03-20 19:57:47 | 房総往還
                            木更津港。
海岸通りを少し北へ。港らしいモニュメントが。

                

「回転寿司 やまと」。けっこう人気のお店のようです。

「栄宝丸つり舟」店前の自販機。にぎやかなレイアウト。

「富士見通り」を右折。その角に「常夜燈」のモニュメント。

「富士見通り」は、木更津駅から港までのメインストリート。
                            歴史を伝えるモニュメントが置かれていますが、判読が厳しいほど。

これもすごいモニュメント。「あさりのぽこちゃん」。

「木更津港」。遠くに「中の島大橋」。

               大型・小型と船はけっこう出入り。

角に「金比羅宮」や常夜燈などのある信号を左に折れ、公園の中を行くと、

見染の松」解説板。

さて、どの松か? 一帯は、松林になっています。
 歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の主人公お富 と与三郎 が、この場で見染めて以来ここに来ては逢瀬を楽しみ、この松ヶ枝に袖をかけてはかない恋を語ったと伝えられ、袖掛けの松ともいわれたそうであります。
 かつては、ここに老松 がありましたが時の流れとともに風雨にさらされ、或は害虫に侵蝕されてしまいこれを再現したのがこの見染の松であります。

 「光明寺」には「切られ与三郎」のモデルとなった男のお墓がありますが、そこはあとに訪れることにして、
ここで歌舞伎の『与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)について。
(以下、「Wikipedia」を参照して)

 嘉永6年(1853年)5月、江戸中村座にて初演。九幕十八場。三代目瀬川如皐作。世話物の名作のひとつに数えられる。

初演時に製作された役者絵。左は八代目市川團十郎の向疵の与三、右は四代目尾上梅幸の赤間の愛妾お富。三代目歌川豊国画。

あらすじ
 江戸の大店伊豆屋の若旦那(じつは養子)の与三郎は故あって身を持ち崩し、木更津の親類に預けられていた。春の潮干狩りの時分、木更津の浜をぶらついていた与三郎はお富とすれ違い、互いに一目惚れしてしまう(序幕・木更津浜辺の場)。
 ところがお富は、地元の親分赤間源左衛門の妾だった。その情事は露見し与三郎は源左衛門とその手下にめった斬りにされるが、源左衛門はこの与三郎をゆすりの種にしようと、簀巻きにして木更津の親類のもとへ担ぎ込もうとする。いっぽうその場を逃げ出したお富は赤間の子分の海松杭の松に追われ入水するが、木更津沖を船でたまたま通りかかった和泉屋の大番頭多左衛門に助けられる(二幕目・赤間別荘の場、木更津浜辺の場)。
 そしてそれから三年。与三郎はどうにか命を取り留めたものの家を勘当されて無頼漢となり、三十四箇所の刀傷の痕を売りものにする「向疵の与三」として悪名を馳せ、お富は多左衛門の妾となっていた。
 或る日のこと。与三郎はごろつき仲間の蝙蝠(こうもり)安に連れられて、金をねだりに或る妾の家を訪れた。ところがそこに住む女の顔をよく見れば、なんとそれは三年前に別れたきりのお富である。片時もお富を忘れることのできなかった与三郎は、お富を見て驚くと同時に、またしても誰かの囲いものになったかと思うとなんとも肚が収まらない。
 やがて多左衛門が来て、そのとりなしで与三郎と安は金をもらって引き上げる。お富は、多左衛門には与三郎を兄だと言い繕ったのだったが、じつは多左衛門こそがお富の実の兄であり、多左衛門は全てを承知の上で二人の仲をとりもとうとしていたのである。このあと多左衛門はお店からの呼び出しを受けて再び出掛け、和泉屋の番頭籐八がお富を手篭めにしようとするのを与三郎が助けるが、籐八が海松杭の松の兄であったことから赤間一味の悪事を知り、復讐を誓う。また刀傷を治す妙薬を知るなどのくだりがあって、与三郎が「命がありゃあ話せるなァ」とお富を引寄せるところで幕となる(三幕目・源氏店妾宅の場)。
 その後の幕は和泉屋での与三郎の強請り、野陣ヶ原での与三郎の捕縛、続いて『嶋廻色為朝』(しまめぐりいろのためとも)という常磐津の所作事があり、女護が島に辿りついた源為朝と島の女たちとの色模様を見せるが、それは遠島になって島抜けをする途中の与三郎の見た夢であった。そして島を抜けた与三郎が下男忠助のはからいで、父親の伊豆屋喜兵衛にそれとなく会う情感豊かな「元山町伊豆屋の場」、平塚の土手で与三郎が赤間と再会する世話だんまりのあと、大詰は旧知の観音久次の自己犠牲で与三郎の傷痕が消える「観音久次内の場」となる。

名科白(三幕目「源氏店妾宅の場」より。)
与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、
    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:お主(のし)ゃぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ)
    命の綱の切れたのを
    どう取り留めてか 木更津から
    めぐる月日も三年(みとせ)越し
    江戸の親にやぁ勘当うけ
    拠所(よんどころ)なく鎌倉の
    谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
    面(つら)に受けたる看板の
    疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに
    切られ与三と異名を取り
    押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより
    慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんやだな)
    その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に
    格子造りの囲いもの
    死んだと思ったお富たぁ
    お釈迦さまでも気がつくめぇ
    よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ
    安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ
    帰(けぇ)られめぇじゃねぇか。

「源氏店妾宅の場」の五代目尾上榮三郎のお富と五代目尾上菊五郎の与三郎。明治25年(1892年)9月、東京歌舞伎座。

 この科白の冒頭は今でも言えますね。

『与話情浮名横櫛』は、春日八郎の歌でも有名。 
山崎正 歌詞
渡久地正信 作曲

粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだはずだよ お富さん
生きていたとは お釈迦様でも
知らぬ仏の お富さん・・・

(この項、「https://www.uta-net.com/movie/13850/」より)

この歌も歌えます。

 木更津といえば、この「お富さん」がご当地なじみの歌だと思うのです。木更津駅の発車ソングやマンホールの絵柄という風になれば、と。
 さすがにそうもいかなくて、「証城(誠)寺の狸囃子」になっているのですかね。
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JR「木更津」駅周辺。その2。「山田眼科」。「木更津ばやし」。「人参湯」。・・・(「房総往還」をゆく。第4日目。)

2020-03-19 19:51:18 | 房総往還
                       「山田眼科」。左手の洋風建物は昭和3年(1928)の建築。右側は、昭和12年(1937)の建築。
           

 木更津市内を行ったり来たり。今度は少し戻って右折し、広い通りへ。
正面、向こうは木更津港。

 
                              「仲片町公会堂」。
ここに、記念碑と「木更津ばやしの由来」解説板。


 江戸時代の木更津は、海運を通じて江戸との交流が盛んでした。この「木更津ばやし」は、江戸の神田からお囃子が、浦安から踊りが伝わったのが起源と言われています。毎年7月中旬に行われる八剱八幡神社の祭礼の折、仲片町の公会堂で木更津ばやし保存会によって演じられています。
(この項、「」HPより)

家々には「火の用心」の行灯が。

                  

その先、右手に「人参湯」。
               すでに廃業となりましたが、たまにイベント会場として使われているようです。
千鳥破風で装飾した建物は、昭和27年(1952)の建築。
北側からの全景。
 「人参湯」の名のごとく、真っ赤に塗った浴槽があった、とか。

蒸気河岸はこの辺りにあって、歓楽街であったらしい。

 隣の廃館となった映画館の跡地は、新築工事中。目の前には「熟女パブ 出逢い」。今も現役で営業中?

 この付近でも空き地がけっこう目立ちます。その多くは、駐車場になっています。そのまま南に向かい、「富士見通り」へ。

「さかんだな通り」へ。
かつてこの通りには、幾つもの魚屋が軒を連ね” 魚店(さかんだな)”と呼ばれていたようです。

「富士見通り」の向かいには「お富さん」。

通りの入口には「木更津ホルモン」の大きな看板。

通りを進むと、右手に「岩崎物産」。

 地元のあさりを漁師さんがひとつひとつ手で剥いて串に刺した東京湾まぼろしの味、干貝。ビールのお友に珍味あさり。しっとりと秘伝のたれで炊き上げたあさりの佃煮は、あついご飯に最高です。

(この項、「千葉県公式観光物産サイト」HPより)

安室薬店」。
 1階部分は改装されていますが、昭和4年(1929)の木造建築。2階のアーチ形装飾を施した窓がモダン。昭和初期に各地で造られた「看板建築」の好例。   
            裏手。

角には「木更津岡埜栄泉堂本店」。
              「なに言ってやがんだい。うまい菓子はごちゃごちゃ言わねぇで食べんだよ」。初代金作さんの声


(この項、「」HPより)

大正7年(1918)創業の老舗。上野の「岡埜栄泉」は閉店になったようですが、このお店もその「岡埜栄泉」と関連がありそう?

木更津港へ向かいます。すごいおうちを発見! 夏場はさぞかし。

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JR「木更津」駅周辺。その1。木更津こども人形劇場 。こうもり安。軍用兎。藤棚。(「房総往還」をゆく。第4日目。)

2020-03-18 23:12:08 | 房総往還
                        「みなとまち木更津へようこそ」案内図。
「花のお江戸と木更津船は、今が世盛り、花盛り」とうたわれた木更津船。江戸日本橋付近には専用の荷揚場「木更津河岸」が置かれるほど幕府から特別扱いを受け、途中で出会った他の船は避けて通ったというほど威勢が良かったそうです。この特権は、慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」において、幕府方の水軍として木更津から加わった24人の水夫が活躍をし、その功績が認められ与えられたものです。こうして一大海運拠点となった木更津は江戸の台所をまかなう物資の集積地のみならず、江戸文化とも深い関わりをもつ港町として栄えました。
 上の図は昭和4年(1929年)当時の木更津町が描かれており、80年以上経過した今も残る寺社や公共施設、老舗等をみつけることができます。・・・

与三郎通りを行きます。
どの店も閉まっている(廃業している? )中で、この先、右手にあるラーメン屋さんはやっていました。街歩きの人には有名なお店らしい。

「愛染院不動堂」。
約150年前に建てられた、旧勢州屋土蔵2棟の内の一つを移築復元したもので、1階が「木更津こども人形劇場」となっています。

木更津市の「木更津こども人形劇場」は愛染院「不動堂」一階にあります。毎月1回(土曜日)人形劇や腹話術・紙芝居など面白いイベントを開催しています。子どもはもちろん、大人も楽しむことができます。お友達やご家族で是非遊びに来てください!駐車場完備!
●子ども~大人まで夢中になる楽しい「イベント」開催!
「木更津こども人形劇場」は毎月1回(土曜日)にイベントを行っております。人形劇・腹話術・紙芝居・パネルシアターなど子どもたちが大好きなものを選び行っています!大人にもオススメ☆子どもの頃を思い出しふと懐かしい気持ちが蘇るかもしれません♪さらに!大人向けの素敵な公演も随時開催しております。家事や子育ての息抜きにお友達を誘って劇場に足を運んでみてはいかがでしょうか。
▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
* 2020年の公演予定(↓)
★2020年1月18日(土) ①10:00~ ②11:00~
【出演】劇団絶好調 【場所】木更津こども人形劇場
大人 300円、子ども 100円
★2020年2月8日(土) ①10:00~ ②11:20~
【出演】にんぎょう畑(プロ)【場所】木更津社会館保育園
大人 500円、子ども 300円
★2020年3月7日(土) ①10:00~ ②11:00~
【出演】学童くらぶポプラクラブ 【場所】木更津こども人形劇場
大人 300円、子ども 100円
・・・
(この項、「」HPより)

「房総往還(街道)」に出て、左に曲がります。
「お蔵シアター」。

「久留里屋商店」に掲げられた案内図。
1870年代に創業し、今も営業を続ける。東側に隣接された蔵の内部を改装した「お蔵シアター」では各種イベントを開催。

通りのようす。

選擇(せんちゃく)寺。「こうもり安」の墓「解説板」。
 歌舞伎「与話情浮名横櫛」で切られ与三郎の相棒としておなじみのこうもり安は、本名を山口瀧蔵といい、文化元年(1804)木更津五平町の大きな油屋「紀の国屋」の次男として生まれました。芝居中の人物像とは異なり、実際はなかなかの男振り、天性の美声に加え、金回りもよく、花柳界の寵児といわれれるほどの人物で、ゆすりを働くような人柄ではなかったようです。毎夜ふらふらと出歩くことからこうもり安と呼ばれ、芝居では右ほほにあるこうもりの入れ墨は、実は左の太ももにあったと言われています。
 ここ選擇寺にある紀の国屋代々の墓碑銘には「進岳浄精信士 慶応四年四月五日」と刻まれています。
              

変わった碑を見つけました。「軍用兎之霊」。

Q戦争にペットまで動員されたってホント?

Aはい、本当です。ペットの毛や皮、肉まで供出させられました。
戦時下、不足する物資を補うため、金属や宝石、ゴムといった資源が次々と供出させられていきました。
動物の毛や皮革も例外ではなく、牛や馬、羊、鯨などとともに犬の毛皮も利用されていたのです。
・・・
毛皮の動員といえば、昭和の初めから学校や家庭で兎が多く飼われるようになりました。
兎は成長が早く、飼育も簡単であり、毛皮は兵隊用の防寒着として、肉は食糧として利用価値が高いため、飼うことが奨励されたのです(画像1)。
政府の情報誌である『写真週報』にも特集が何度も組まれています(134号「兎の皮総動員」Ref.A06031072900、188号「兎は大切な軍需品」Ref.A06031078300)。
しかし、それでも皮革は不足し、1941(昭和16)年になると農林省畜産課が野犬毛皮の統制をはじめます。
野犬対策は狂犬病予防としても進められ、地方自治体が中心となって野犬の捕獲に力を入れていました。
当時、狂犬病は不治の病として恐れられ、野犬の買上げや捕獲が自治体や警察の業務としておこなわれていたのです。
1943(昭和18)年になると、さらに皮革が不足するようになります。
これは家畜の減少だけでなく、生産・加工業者が出征して減少していること、陸軍と海軍とで皮革の取り合いをしていること、公定買取価格が安いため闇市場に流失してしまうことなどがあげられます。
そのため、野犬や野良猫だけでなく、ネズミやイタチ、はてはアザラシやオットセイなど海獣の毛皮も利用されるようになります。


(この項、「」HPより)

その先を右に曲がります。「仲町斎田薬局」付近。

現在のようす。南を望む。左に「桔梗屋斎田薬局」。
1881年創業。今も営業を続ける老舗薬局。

回り込んだ、「木更津第一小学校」校庭にある「藤棚」。

 小林一茶が通りの向かいにある「東岸寺」の句会で、この藤棚を見て、「藤棚や うしろ明りの 草の花」と詠んだとか。
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東京オリンピック開催と新型コロナウィルスとのこと。もしくは英語のお勉強

2020-03-17 18:14:03 | 平和
 新型コロナの感染拡大をめぐり、中止や延期の可能性が議論されている東京五輪・パラリンピック。ところが、安倍首相は14日におこなった記者会見で、東京五輪について、「来週にはいよいよ聖火を日本に迎え入れます。私自身、26日には福島を訪れて、聖火リレーのスタートに立ち会います」「われわれとしては、とにかくこの感染拡大を乗り越えてオリンピックを無事に開催したい」などと語り、予定通り今年7月に開催の意向を示した。
 新型コロナは日本だけでなく世界中に感染が拡大し、いまだ収束の見通しが立たないなかでの安倍首相の発言に、世界中のツイッターユーザーがツッコミを入れまくっています。
「Do you think that’s wise, sir?」
「Only his country will participate」
「There seem to be no sign of intelligent life anywhere」
「He'd better come up with a cure, sharpish」
「Does he know something that nobody else does?」
「Didn’t say which July though did he?」
「He can vow all he likes. But July will be peak covid19」
「To be fair.. we dont know what state the world will be in then. His heart is ruling his head! It's only 16 or so weeks away... They cant leave it to the last minute to call it off」
「It means Nippon will win most of the golds.... and silvers.... and bronzes and with 4th, 5th and 6th also, should hopefully finish top of the medal chart despite the odd drug failure.....」
「Aka we've already spent so much money」
「I do believe in fairies
I do believe in father Christmas
I do believe in the Easter Bunny
I do believe in Tok... well I want to believe, but y’know, really」

 日本国内でどれだけ「感染はそこまで広がっていない」「持ちこたえている」「五輪は開催できる」などと強弁したところで、そんなものが世界的に通用するはずがない。日本のメディアと国民は、この海外からの大量のツッコミを読み返して、少し目を覚ましたほうがいい。
(以上、「リテラ」https://lite-ra.com/2020/03/post-5315.html 3・16 より)

  3月16日、「G7首脳テレビ協議」後、アベは「完全な形で実現することで支持を得た」と発言。中止、延期、無観客ではなく、予定通りの開催を意味するらしい。しかし、「完全な形」という表現が言い得て妙ですね。アベの浅知恵では思いつかない表現。裏の司令官・振付師の入れ知恵でしょう。今夏の実施は諦めて、延期を1年後にするか、2年後にするか、ということになった場合の逃げ道として表現した、とも。発端となったトランプ発言に対してポチ・アベは貫けるかどうか。
 昔からの「アメリカがくしゃみをすると、日本は風邪をひく」という表現がまだまだ(ますます))相変わらず適用されると思っているのですが。
 そういえば、井上ひさしの戯曲に『うかうか三十、ちょろちょろ四十』というお芝居があります。世間の風に「うかうかちょろちょろ」しているうちに人生が終わりにならないように、自戒。
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JR「姉ヶ崎」駅~「木更津」駅。その8。木更津駅周辺。寂れ方が何とも。(「房総往還」をゆく。第4日目。)

2020-03-16 18:42:53 | 房総往還
             土曜日の西口。昼下がり。しかし、人っ子一人いない。タクシーの運転手が手持ちぶさたに。
食堂も駅舎1Fにラーメン屋が1軒。客はいない感じ。あとは、・・・。

 駅前のテナントビル。かつて「そごう」があったビル。今や閑散としたビルに。「そごう」撤退は、大きな話題になった。


スパークルシティ木更津(旧:A館)
B1F - 準備中
1F - デイリーヤマザキ(コンビニエンスストア)、小湊鐵道バス案内所
2F - ファッション・かずさエフエム
3F - 準備中
4F - 準備中
5F - 木更津公共職業安定所(ハローワーク木更津)
6F - 木更津市中央公民館
7F - 木更津市役所仮庁舎(市議会議場)
8F - 木更津市役所仮庁舎(市長室、総務部、企画部、経済部、監査委員事務局)
9F - カラオケレインボー

アクア木更津B館
B1F - 場外勝馬投票券発売所「f-keiba木更津」
B1F - ライブハウスOSSA
1F - 木更津市観光案内所、日東交通バス案内所、千年の宴
2F - 魚民ダイニング
3F - 木更津市中央公民館

古傷を逆なでするようだが。地方都市駅前の思惑と誤算を歴史的に。

 アクア木更津の前身は、木更津駅西口の市街地再開発事業により建設され、1988年3月に「木更津そごう」をキーテナントへ迎えてオープンしたショッピングセンター「アインス」である。
 「そごう」オープン時のキャッチフレーズは「木更津が変わる。夢ふくらむ、大きな そごう」。再開発事業は総事業費として216億円を要しており、木更津市はその内40億円を負担している。
 「木更津そごう」は、南房総で唯一の都市型百貨店として市民から親しまれ、最盛期の1991年に189億円の売り上げを記録したものの郊外への大型ショッピングセンター進出などによる影響で、1999年の売り上げは91億円に減少した。
 2000年7月13日、「木更津そごう」が千葉地裁へ自己破産の申請を行って閉店。負債総額は241億300万円であった。
 またビルを管理していた第3セクターの木更津都市開発も、負債総額74億7000万円を抱えて、2001年12月22日に自己破産宣告を受けた。
 別の百貨店に出店を打診したが色よい返事がなかった。後々残るテナントについては電気代を節約するため極力同じ階に集約を行った。
撤去費がかかるため「SOGO」のロゴは閉店から2年程度は外壁に残されたままとなっていた。
 2003年9月に木更津市が6億円をかけてアインスビルを取得、市から管理・運営の委託を受けた日本総合企画株式会社が約5億円を投じてビルの再建を実施した。
 2004年4月28日、アインスはアクア木更津と名前を変えてリニューアルオープンした。新たなキーテナントには激安スーパーのマルエイをA館1Fに迎え入れ、またA館6Fには24時間営業の時間消費型会員制複合レジャー施設であるJJCLUB100、A館7Fには100円ショップのザ・ダイソーがオープンした。
 しかし、新たなキーテナントのマルエイも2009年4月22日に閉店してしまう。またビルの管理・運営を委託されていた日本総合企画は2009年5月18日に東京地裁へ民事再生手続の開始を申し立てて倒産、負債総額は約150億円であった。
 2009年12月28日に木更津市は、ビルと土地を売却するために一般競争入札を実施した。契約の条件として、10年間の所有権移転禁止や、2年以内に売り場面積500平方メートル以上の生鮮食料品店を開業させる努力義務などが付されていたものの、予定落札金額の3億9000万円に達する応札が無く、入札は不調に終わった。
 市は、入札で最高値を提示した有限会社金剛山と個別に交渉し、入札価格に1000万円を足した2億9000万円で売却する随意契約を締結した。売却に伴い、B館3Fの木更津市役所 駅前連絡所と木更津駅前ホールは、2010年9月に閉鎖された。
 売却後に行うリニューアルオープンの企画は、株式会社やまきが行った。「上質なゆとりの時間」をキーコンセプトとして、2010年10月にマリンゲート木更津(仮称)としてリニューアルオープンする予定であった。
 2010年8月10日、A館1Fに食品スーパーの「生鮮市場木更津」が開店した。株式会社ベルーフがグロッサリー・日配、株式会社テラバヤシが精肉、伊東水産が鮮魚、有限会社マツトウ青果が青果・惣菜を提供する店舗であったが、2013年11月28日から12月7日にかけて各店舗が順次閉店した。
 2013年4月1日、場外勝馬投票券発売所のf-keiba木更津がB館B1Fにオープンした。2015年(平成27年)3月21日からは、「J-PLACE木更津」としてJRA全レース(代替開催除く)の勝馬投票券の発売・払戻(会員制)を始めた。
 金剛山は、A館の建物についてもリニューアルを行い、2015年9月26日に「スパークルシティ木更津」としてリニューアルオープンした。リニューアルと同時に、7階・8階を木更津市役所の仮庁舎として開業し、1階には木更津のご当地ヒーローである『鳳神ヤツルギ』をコンセプトにした飲食店をオープンしている。また、『鳳神ヤツルギ』の制作会社である「ヤツルギ魂」が「スパークルシティ木更津」のヒーローとして「超電光スパークルZ」が登場しており、2016年2月より千葉テレビ放送で特撮ドラマが放送された。
 2018年7月には建物北側にウッドデッキが完成し、定期的にフリーマーケットや木更津ナチュラルバルなどのイベントが行われている。
 B館B1Fのライブハウスは2016年以降閉館していたが、地元のアイドルグループC-Styleの活動により、2018年7月1日「ライブハウスOSSA」として営業再開された。
(以上、「Wikipedia」参照)

注:かつてあった「 ドトール」、「 ダイソー」なども閉店の憂き目に。

 1997(平成9)年、「東京湾アクアライン」(川崎~木更津)の開通により、木更津など房総南部の観光などが期待されたが、当初の通行料金の高さから思ったほどの交通量ではなかった。しかし、料金の大幅引き下げにより、アクアラインの交通量が増加。1日の平均交通量が平均1万台だったものが4万台となった。その内実は、木更津へ来るのではなく、川崎・横浜方面へ出かけるようになった。
 「ストロー現象」。アクアラインがストローの役割をして、人や物の移動が大きく変化。木更津(房総半島南部)から川崎・横浜(三浦半島)へ吸い上げるかたちに。
 さらに、「内房線」の君津駅 - 館山駅間特急定期運行廃止や本数の大幅削減などの影響が大きくなり、駅前も人の流れが大きく変わった。

 厳しい現実を目の当たりに。逆立ちしている狸。
                  證 證 證城寺
                  證城寺の庭は
                  ツ ツ 月夜だ
                  皆(みんな)出て 來い來い來い
                  己等(おいら)の友達ァ
                  ぽんぽこ ぽんの ぽん
 注:実在のお寺の表記は「証誠寺」。

「与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)
 通称『切られ与三』(きられよさ)、『お富与三郎』(おとみよさぶろう)、『源氏店』(げんやだな)など。

 木更津港へ伸びるメインストリート「富士見通り」はシャッター通りに。アーケードがむなしい。
   

 11時から開店している、飲み屋「木更津せんべろ」さん(千円でべろべろに酔える? )以外、「元気の出る」床屋さんが唯一、開店中。
  

「与三郎通り」もまったく人通りなし。

木更津という地名の由来について
 如月の津が転じて木更津になった、木足らずが訛り木更津になったと諸説あるが、一般的には倭建命伝承の一説、君不去(きみさらず)が元になっているというのが通説である。木更津という地名が使われ始めたのは、最も古い文章で1353年(文和2年・正平8年)に記された文献で木佐良津と記されている。ただし、当時の江戸湾沿岸を代表する港は木更津の北にある高柳(現在の木更津市高柳)や富津であったと考えられており、1576年に江戸湾沿岸の諸港に半手(戦国期に領土を争う両勢力が紛争地の租税を暫定的に半分ずつにする事)を認めた北条氏規の朱印状には内陸化した高柳に代わって江川や葛間(現在の久津間、江川とともに木更津市)の名前はあるものの、木佐良津の名前はないため、当時は租税を取るほどではない小さな漁港に近かったと推測されている。

倭建命の東国征伐のこと
 船で上総国に渡ろうとした時に一行は海上で嵐に襲われる。そして倭建命の妻、弟橘姫は海に身を投じることで嵐を静めようとする。弟橘姫の祈りが通じたのか嵐が収まり一行は無事に上総国に渡ることができた。それから倭建命はこの地にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。

君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき

 この歌の一節「君さらず」が転じて、木更津という地名となったと伝えられている。
 市には吾妻という地名があるが、倭建命が弟橘姫を偲んで「吾妻はや(我が妻よ)」と言った故事に由来するとされている。市内には吾妻神社という神社が存在し倭建命と弟橘姫が祀られている。またこの地域には吾妻、我妻を姓とする人がおり、これも倭建命伝説に由来しているとされている。
(以上、「Wikipedia」参照)

注:「袖しが浦」が「袖ケ浦」という地名になったとされる。

 人通りの途絶えている土曜の昼下がり。何処かで飯でも、と。
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追悼。別役実。

2020-03-13 19:51:44 | お芝居
 別役実さんが亡くなりました。「早稲田小劇場」をはじめとしてけっこう観に行きました。「不条理劇」という括りでとらえられていますが、そういう枠におさまらない刺激的な作品が多くありました。このブログでも扱ったかな、と思い、検索したら一つだけ、それもずいぶん以前(15年以上昔)に投稿したものだけでした。そういえば、「小劇場」スタイルのお芝居からはずいぶんと遠ざかっていたのですね。・・・


2004-10-06 23:12:46 | お芝居(再掲)
別役実の戯曲
『風に吹かれてドンキホーテ』という表題の戯曲集がある。そこには、3本の童話劇が収められている。作者のあとがきによれば、岸田今日子さんに依頼されて演劇集団「円」のために書いたものであるという。別役版「白雪姫」「シンデレラ」「ドンキホーテ」である。
 日本における不条理劇の第一人者である別役の作品は、いたるところに毒がまき散らされているので、観る方も疲れる。
 ところで、3つに共通するのは、「食べる」話しである。白雪姫は数々の卵料理からニシキヘビの話し、シンデレラは猫を食べる、ドンキホーテは足を食べ、手を食べる。
 そうすべて芝居は、「人を食ったお話し」なのである。それにしても、皆、腹を空かした登場人物に、何だか得体のしれない匂いをもった人(?)たちである。
 「歌うシンデレラ」は、ひたすら食べることしか考えない。それは、熊に変装した王子様だけではない、シンデレラも意地の悪い継母も、仙女もとかげも、兎も、森もたった一つのたべものである「長靴をはいた猫」を食べようとする、それも長靴ごと。しかも、顔を洗わないことや汚い手足を揶揄しながら、食べようとする。でも、最後は、おさまるところにおさまってめでたし、めでたし。
 それにしても、食べるのは顔であり、手であり、足であり、おなかである。それを仲良く分け合って食べようとする。食べる人たちには、仲間はずれはいない。猫だけが食べる対象だ。
 「りんごを食べるときにりんごの意見を聞いてから食べますか? どこをどういう風に食べるかは、りんごじゃなく、食べる私たちがきめることです。」
 仙女が猫に向かっていうせりふである。あれこれもめたあげく、たぶんまだ汚くないおなかを皆で分けて食べることになる。
 食欲は所有欲や性欲と密接にからみあっている。幼児期は、それが複合的に、混沌的なものとして現出するだろう。結婚するのも食べること、いじわるするのも食べること。
 観る子供にも、大人にも毒がある芝居。本を読むだけでは、見当がつかない。
 別役さんの芝居は、現在、演じられているのだろうか。また、この芝居は、実際に上演されたのだろうか。

 追悼にもならない記事ですが、・・・。

 戯曲として、「象」、「赤い鳥の居る風景」、「マッチ売りの少女」、「あーぶくたった、にぃたった」、「にしむくさむらい」、「天才バカボンのパパなのだ」、「白瀬中尉の南極探検」、「ジョバンニの父への旅」、「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」などの作品を観たり、読んだりしました。
 何しろこの方の作品のネーミングが秀逸です。

 エッセーでも「・・・づくし」シリーズとか「悪魔辞典シリーズ」とかけっこう楽しませていただきました。

 もっと年上なのかと思っていましたが、まだまだ現役で頑張れた方でした。
 晩年はパーキンソン病で大変だったようです。

注:『風に吹かれてドンキホーテ』の写真は、「古本よみた屋」(吉祥寺店舗「愛書堂よみた屋」)https://yomitaya.co.jp/?p=75588 HPからお借りしました。
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追悼。古井由吉。

2020-03-12 20:22:43 | 読書無限
 古井由吉さんが亡くなりました。この方の作品はけっこう読みましたが、このブログでは二冊取り上げました。その二つを再掲。


《読書 2014・5・30掲載》
 時・空を、あるいは人称を越えた語り口。これが、この方の小説作法なのだろう。夢うつつ、その端境に聞こえる声、声、声・・・。鳥の、赤子の、老人の、両親の、兄弟の、・・・。そして、晩鐘の。否、外界の音だけではない、自らの内から聞こえてくる音。これらの深みに対しては、彩りをなす花々は、どれもこれも「淡い」イメージ、もっといえば、セピア色、さらにいえば、無色透明さえも感じ取らせる。
 死者は、息を引き取る際、五感のうちの聴覚が最後まで残っていると聞いたことがある。生者と死者との交流は声をもって終わりとなすか。そして、さまざまな、肉親を含めて人間を看取る主人公。いつか自分も。
 老いてますます研ぎ澄まされる聴覚、そして視覚、嗅覚、・・・五感。身体へ心へ染み渡り、醸し出される、不思議(思議せず)な「小説」世界。登場人物たちは、自在に己の世界を紡いでいく、その語り部としての作者に徹底する姿勢は、読者をうならせる魅力にあふれている。
 「窓の内」から始まる八つの連作。騒然と、何かにせかされるように生きる(しかない)現代人に静寂をかぎ取る感性というものの豊かさを気づかせる見事な語り口でした。
 「鐘の渡り」。3年ばかり暮らした女をついふた月ほど前に亡くした友人に誘われて晩秋の山にでかける男。自身は春には女と暮らすことになるだろうと思っている。
 「―鐘の音に目を覚まして、ひさしぶりにぐっすり眠った気がした。思うことも尽きたように鳴り止んだ。明日からは物も考えなくなるだろう。」
 山から帰った晩、女の部屋を訪ね、目の前の女にのめりこんでいく男。山で聞いた鐘の音は二人の幻聴だったのか、とも。 
 「朝倉のつぶやきが隣でまどろむ自分の内に鐘の音を想わせ、余韻の影を追いきれなくなり目をさました自分の声が朝倉の内に、幻聴ながらおそらくくっきりとした、鐘の音を響かせた。これはつかのまながら交換になりはしないか。暮らした女を亡くした男と、これから女と暮らす心づもりの男との間の。」

 こうして、幽冥の世界が描き出される。過ぎ去った者の生の声、声、声。連作を通して通奏低音のごとくに響いてくる。


《つぶやき 2005・2・14 掲載》
最近読んだ本でおもしろいのないかって
いろいろ適当に読んでるからね
小説から歴史物まで
もっぱら図書館が多いね
あまり買わないね、立ち読みはするけど

そう、新刊本もけっこうすぐに書棚に並んでるし
どういう基準なのかわからないこともね
マニアックな本なんかが紹介されているし
職員が選んでるのかな
リクエストもあるのか
オンラインっていうの
なければ他の図書館から取り寄せてくれるしね

ホントあまり買わなくなった
一度読めばもう一回読もうってこともないしね
もっぱら近所の図書館だな

でもほとんど小説みたいなものが多い
いわゆる読まれているやつ、予約が一杯だものね
流行を追っているって思うけど
もっと骨身に染みるような硬派の本もあって欲しいよね

そうそう、最近読んだ小説か
古井由吉さんの「仮往生伝試文」っていうのがおもしろかった、これは
「仮」があってさらに「試文」っていうんだから
随分持って回ったような題名だけど
いずれにせよ「往生」することがテーマさ
古井さんが「昔」書いたものの新装版

でもなかなか読み応えのあった内容でしたよ
久々に硬派の小説を読んだってところですか

エッセーともつかず小説ともつかず
人の死に様に関わる(生き様でもあると)
それをさまざまな人間模様として描いたんだな
作者が50歳頃にね
それが15年後にまた出版されたってこと
 「老いるということは、しだいに狂うことではないか。おもむろにやすらかに狂っていくのが
 本来、めでたい年の取り方ではないのか。」
なんてすごみがあるけど、滑稽な感じの表現があって
実におもしろかったよ

ところで「昔」っていつのころをさしているのかな
何だかつい1、2年前くらいのことまで
昔はさあなんて言っている人多くないか、最近

昔はそれこそ10年一昔って言ってたよね
だんだん昔の期間が短くなっているような気がしてさ
何だかみんなそうしてすべてを昔の事にして
死に急いでいる、っていうか生き急いでいるような気がしてならないんだけど

昔はむかしはって何だかもうじき往生する人のような口振りで
こうだった、ああだったって若い人までも言っている

ふとこの小説を読んでいてさ
僕等にとってはさ、今も昔もこれからも次第に混沌とした意識の中に
取り込まれていくような
そういうところにしかたなく身を置きつつ生きている・・・
何かさびしい思いになったね

でも死の現実は逃れられないんだから
せいぜい生きた証としての人生を全うしたいよね
それにしてもさ
作者が50歳のころに
こうしたさまざまな晩年を描いていたとはね
一度読んでみてよ、若い人にぜひ勧めるね
厚くて重い本だけど、その分、読み応えがあると思うから

注:本の写真は、二冊とも「アマゾン」からお借りしました。
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東日本大震災から9年目。復興の掛け声と現実は?

2020-03-11 22:00:05 | 平和
 東日本大震災が勃発して9年が経ちました。たくさんの犠牲者を出し、完膚なきまでに破壊された地域。・・・大津波と福島原発事故とまだまだその爪痕はたくさん残っています。新型コロナを理由に大きな慰霊祭は中止となっています。もうすでに過去の出来事? そうなってはならない、と。
 大震災の2年後に現地を訪れたときの記録をブログに掲載しました。その一つを再掲します。(「震災」2年後の2月)
名取市閖上(ゆりあげ)浜
 名取川河口にある浜の名前です。河をはさんで北側は仙台市になります。
 宮城県の地名でも難読とされる閖上(ゆりあげ)ですが、今回の震災で甚大な被害を受けました。
・・・
「ゆりあげ浜」の文字を「閖上」と書いたのは,いつ頃か定かではないが,次のような話が伝えられている。
昔,仙台藩主が大年寺山を参拝したおり,山門内からはるか東に波打つ浜を見て「あれはなんというところか」と家来にたずねた。
「ゆりあげ浜と申します」と答えたところ,重ねて「文字はどのように書くのか」たずねた。「文字はありません」と答えると,藩主は「門の内側から水が見えたので,これからは門の中に水をかいて『閖上』とよぶように」といわれた。
それから「閖」の文字ができたと言い伝えられている。

(以上、「SendaiGumbos 仙台ガンボス: 閖上浜 doraneko-festival.blogspot.com/2011/03/blog-post_31.html」より引用させてもらいました。)

 翌日、ここを案内してもらった。途中、あそこの信号のところには何十体もの遺体が流れ着いて折り重なっていた、田んぼの用水路の中にもあった、白服の人たちが取り囲んでいるのを見ると、また遺体が見つかったんだな、と。
 まったく何もない地域が広がる。ここは住宅がたくさん建ち並んでいた場所。友人の家も失われた。車を運転しながらのつぶやきが切実だった。


はるか遠くの白雪の山並みは蔵王連山。仙台空港が遠くに見える。


一面何もない。ここの地域は土台からすっかり津波にさらわれてしまったのか。住宅地なのか田んぼなのかの区別もつかないほど。


冬の太陽の光がまばゆいほど。


送電線がかつてここで人びとの暮らしがあったこと、そしてこれからの再建の道の遠さを物語る。


一隅にあった卒塔婆。一周忌法要。まもなく「3回忌」を営む日がやってくる。


ほとんどの船が破損したり、流されたりした中で、奇跡的に残った知人の船。こうして今も無傷で停泊している。
 娘の名を付けて、「ASUKA」と。これからの希望を明日に託して。

 二日間、案内してくれた知人、その関係者の方々に感謝、感謝。また来ます。



 人に話せるほどの苦しみ、悩みや望みは、まだまだ軽いもの。人に語れない苦悩、そして願いは、ぐっと心の奥に秘めたまま。
 今回の震災。本当に「難儀だった」ことを思う。厳しい現実・過去を受け入れ、黙して語らない(語れない)深い思いは、未来への深い祈りに通じる。そんな人びとのあるがままの生き様をしっかり受け止めなければ、と。

 追記1:この時案内してくれた方は、当時、土建業を営んでいました。家の移転、仕事のこと、家族のこと、それらを差し置いて、震災復興の事業に関わっているさなか、亡くなりました。

 追記2:
【震災9年 東北各地で虹】宮城県名取市の閖上地区では、地震の発生時間にあわせて遺族たちが集まった場に鮮やかな虹が姿を現し、感激の声が上がっていました。(#東日本大震災 #震災9年 #nhk_news https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200311/k10012325801000.html…より)
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