土曜日の西口。昼下がり。しかし、人っ子一人いない。タクシーの運転手が手持ちぶさたに。
食堂も駅舎1Fにラーメン屋が1軒。客はいない感じ。あとは、・・・。
駅前のテナントビル。かつて「そごう」があったビル。今や閑散としたビルに。「そごう」撤退は、大きな話題になった。
スパークルシティ木更津(旧:A館)
B1F - 準備中
1F - デイリーヤマザキ(コンビニエンスストア)、小湊鐵道バス案内所
2F - ファッション・かずさエフエム
3F - 準備中
4F - 準備中
5F - 木更津公共職業安定所(ハローワーク木更津)
6F - 木更津市中央公民館
7F - 木更津市役所仮庁舎(市議会議場)
8F - 木更津市役所仮庁舎(市長室、総務部、企画部、経済部、監査委員事務局)
9F - カラオケレインボー
アクア木更津B館
B1F - 場外勝馬投票券発売所「f-keiba木更津」
B1F - ライブハウスOSSA
1F - 木更津市観光案内所、日東交通バス案内所、千年の宴
2F - 魚民ダイニング
3F - 木更津市中央公民館
古傷を逆なでするようだが。地方都市駅前の思惑と誤算を歴史的に。
アクア木更津の前身は、木更津駅西口の市街地再開発事業により建設され、1988年3月に「木更津そごう」をキーテナントへ迎えてオープンしたショッピングセンター「アインス」である。
「そごう」オープン時のキャッチフレーズは「木更津が変わる。夢ふくらむ、大きな そごう」。再開発事業は総事業費として216億円を要しており、木更津市はその内40億円を負担している。
「木更津そごう」は、南房総で唯一の都市型百貨店として市民から親しまれ、最盛期の1991年に189億円の売り上げを記録したものの郊外への大型ショッピングセンター進出などによる影響で、1999年の売り上げは91億円に減少した。
2000年7月13日、「木更津そごう」が千葉地裁へ自己破産の申請を行って閉店。負債総額は241億300万円であった。
またビルを管理していた第3セクターの木更津都市開発も、負債総額74億7000万円を抱えて、2001年12月22日に自己破産宣告を受けた。
別の百貨店に出店を打診したが色よい返事がなかった。後々残るテナントについては電気代を節約するため極力同じ階に集約を行った。
撤去費がかかるため「SOGO」のロゴは閉店から2年程度は外壁に残されたままとなっていた。
2003年9月に木更津市が6億円をかけてアインスビルを取得、市から管理・運営の委託を受けた日本総合企画株式会社が約5億円を投じてビルの再建を実施した。
2004年4月28日、アインスはアクア木更津と名前を変えてリニューアルオープンした。新たなキーテナントには激安スーパーのマルエイをA館1Fに迎え入れ、またA館6Fには24時間営業の時間消費型会員制複合レジャー施設であるJJCLUB100、A館7Fには100円ショップのザ・ダイソーがオープンした。
しかし、新たなキーテナントのマルエイも2009年4月22日に閉店してしまう。またビルの管理・運営を委託されていた日本総合企画は2009年5月18日に東京地裁へ民事再生手続の開始を申し立てて倒産、負債総額は約150億円であった。
2009年12月28日に木更津市は、ビルと土地を売却するために一般競争入札を実施した。契約の条件として、10年間の所有権移転禁止や、2年以内に売り場面積500平方メートル以上の生鮮食料品店を開業させる努力義務などが付されていたものの、予定落札金額の3億9000万円に達する応札が無く、入札は不調に終わった。
市は、入札で最高値を提示した有限会社金剛山と個別に交渉し、入札価格に1000万円を足した2億9000万円で売却する随意契約を締結した。売却に伴い、B館3Fの木更津市役所 駅前連絡所と木更津駅前ホールは、2010年9月に閉鎖された。
売却後に行うリニューアルオープンの企画は、株式会社やまきが行った。「上質なゆとりの時間」をキーコンセプトとして、2010年10月にマリンゲート木更津(仮称)としてリニューアルオープンする予定であった。
2010年8月10日、A館1Fに食品スーパーの「生鮮市場木更津」が開店した。株式会社ベルーフがグロッサリー・日配、株式会社テラバヤシが精肉、伊東水産が鮮魚、有限会社マツトウ青果が青果・惣菜を提供する店舗であったが、2013年11月28日から12月7日にかけて各店舗が順次閉店した。
2013年4月1日、場外勝馬投票券発売所のf-keiba木更津がB館B1Fにオープンした。2015年(平成27年)3月21日からは、「J-PLACE木更津」としてJRA全レース(代替開催除く)の勝馬投票券の発売・払戻(会員制)を始めた。
金剛山は、A館の建物についてもリニューアルを行い、2015年9月26日に「スパークルシティ木更津」としてリニューアルオープンした。リニューアルと同時に、7階・8階を木更津市役所の仮庁舎として開業し、1階には木更津のご当地ヒーローである『鳳神ヤツルギ』をコンセプトにした飲食店をオープンしている。また、『鳳神ヤツルギ』の制作会社である「ヤツルギ魂」が「スパークルシティ木更津」のヒーローとして「超電光スパークルZ」が登場しており、2016年2月より千葉テレビ放送で特撮ドラマが放送された。
2018年7月には建物北側にウッドデッキが完成し、定期的にフリーマーケットや木更津ナチュラルバルなどのイベントが行われている。
B館B1Fのライブハウスは2016年以降閉館していたが、地元のアイドルグループC-Styleの活動により、2018年7月1日「ライブハウスOSSA」として営業再開された。
(以上、「Wikipedia」参照)
注:かつてあった「 ドトール」、「 ダイソー」なども閉店の憂き目に。
1997(平成9)年、「東京湾アクアライン」(川崎~木更津)の開通により、木更津など房総南部の観光などが期待されたが、当初の通行料金の高さから思ったほどの交通量ではなかった。しかし、料金の大幅引き下げにより、アクアラインの交通量が増加。1日の平均交通量が平均1万台だったものが4万台となった。その内実は、木更津へ来るのではなく、川崎・横浜方面へ出かけるようになった。
「ストロー現象」。アクアラインがストローの役割をして、人や物の移動が大きく変化。木更津(房総半島南部)から川崎・横浜(三浦半島)へ吸い上げるかたちに。
さらに、「内房線」の君津駅 - 館山駅間特急定期運行廃止や本数の大幅削減などの影響が大きくなり、駅前も人の流れが大きく変わった。
厳しい現実を目の当たりに。
逆立ちしている狸。
證 證 證城寺
證城寺の庭は
ツ ツ 月夜だ
皆(みんな)出て 來い來い來い
己等(おいら)の友達ァ
ぽんぽこ ぽんの ぽん
注:実在のお寺の表記は「証誠寺」。
「与話情浮名横櫛』(よわなさけうきなのよこぐし)
通称『切られ与三』(きられよさ)、『お富与三郎』(おとみよさぶろう)、『源氏店』(げんやだな)など。
木更津港へ伸びるメインストリート「富士見通り」はシャッター通りに。アーケードがむなしい。
11時から開店している、飲み屋「木更津せんべろ」さん(千円でべろべろに酔える? )以外、「元気の出る」床屋さんが唯一、開店中。
「与三郎通り」もまったく人通りなし。
木更津という地名の由来について
如月の津が転じて木更津になった、木足らずが訛り木更津になったと諸説あるが、一般的には倭建命伝承の一説、君不去(きみさらず)が元になっているというのが通説である。木更津という地名が使われ始めたのは、最も古い文章で1353年(文和2年・正平8年)に記された文献で木佐良津と記されている。ただし、当時の江戸湾沿岸を代表する港は木更津の北にある高柳(現在の木更津市高柳)や富津であったと考えられており、1576年に江戸湾沿岸の諸港に半手(戦国期に領土を争う両勢力が紛争地の租税を暫定的に半分ずつにする事)を認めた北条氏規の朱印状には内陸化した高柳に代わって江川や葛間(現在の久津間、江川とともに木更津市)の名前はあるものの、木佐良津の名前はないため、当時は租税を取るほどではない小さな漁港に近かったと推測されている。
倭建命の東国征伐のこと。
船で上総国に渡ろうとした時に一行は海上で嵐に襲われる。そして倭建命の妻、弟橘姫は海に身を投じることで嵐を静めようとする。弟橘姫の祈りが通じたのか嵐が収まり一行は無事に上総国に渡ることができた。それから倭建命はこの地にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。
君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき
この歌の一節「君さらず」が転じて、木更津という地名となったと伝えられている。
市には吾妻という地名があるが、倭建命が弟橘姫を偲んで「吾妻はや(我が妻よ)」と言った故事に由来するとされている。市内には吾妻神社という神社が存在し倭建命と弟橘姫が祀られている。またこの地域には吾妻、我妻を姓とする人がおり、これも倭建命伝説に由来しているとされている。
(以上、「Wikipedia」参照)
注:「袖しが浦」が「袖ケ浦」という地名になったとされる。
人通りの途絶えている土曜の昼下がり。何処かで飯でも、と。