おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

つかのまの倉敷。

2019-04-24 19:00:42 | つかのまの旅人

 平成の初め頃に少し立ち寄ったきりで、何十年ぶりかで倉敷の町を駆け足で。
 4月21日(日)。岡山市内でお祝い事があったついでに、ほんのちょと倉敷まで。新幹線出発時間も迫っていて、ゆっくり見学もできず。

 蔵造りの街並みは川越などでもお目に掛かりますが、瀬戸内の街並みもまた風情があります。外国人観光客もたくさん。夕暮れ前のそぞろ歩きを楽しんでいます。


一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」。
 井上家住宅は、倉敷川畔の重要伝統的建造物群保存地区の中でも代表的な大型の町屋の一つで、古くから倉敷の中心通りである本町通り(往還)に面して建っています。
 小屋組みの登り梁形式で束を併用しているなど、非常に古いかたちを採用しています。また、何面二階外壁の7つの倉敷窓には火災に備えて土扉が付いています。倉敷では少なくとも江戸時代後半には大火がなく、こうした古い町屋の形式が残っているのは井上家だけとなっています。
 今回の修理で発見された墨書から、主屋は享保6年(1721)に上棟されたことがわかり、倉敷美観地区内では最古の町屋であることが判明しました。

ところで、地名の由来は?
 現倉敷市の名称は、全国的にも観光地として知られる倉敷美観地区の周辺一帯の旧地名「倉敷村」に由来します。倉敷という地名は、中世に支配地の年貢米や貢納物を領主へ送るために、周辺の支配地からそれらを集めておく場所であった「倉敷地」に由来しているとする説が地元の歴史家の間では有力とされています。
 倉敷地は「蔵屋敷が立ち並んだので、『蔵屋敷』地が転訛して『倉敷』地となった」と云われ、また「倉とは船蔵屋敷あるいは水夫屋敷のことを指す」ともいわれています。
 倉敷村が誕生したのは戦国時代~安土桃山時代の間(1565年~1585年)。
 江戸時代に幕府代官所が置かれ陣屋町となり、また物資の集散地になり、川港として栄えて豪商の蔵が建ち並び商家町として繁栄。現在の美観地区周辺の基礎が生まれた。
                               



                      「有鄰庵」。
 築100年の古民家で、岡山と倉敷のおいしいものを
 有鄰庵は、倉敷の美観地区の中心にある、地元の食材にこだわったカフェ。(夜はゲストハウスになります)
 せっかく倉敷にいらっしゃったのなら、地元のおいしいものを、楽しみながら味わってほしい。
 そんな思いで、食材と味はもちろん、接客にも心をこめています。
 私たちが目指しているのは、「また来たいと思っていただける最愛のおもてなし」。
 岡山県でも有数の観光地である美観地区で、たくさんの方々に岡山ならではの食材やメニューを楽しんでいただくことが、地元の生産者の皆さんにも貢献できることにつながります。
 そうやって地元での結びつきも大事にしながら、お客様から愛される、「このお店に来てよかった」と思っていただけるおもてなしをさせていただきたいと思っています。
    

 (この項、「」HPより)

右手の店先で外国人がアイスを販売。楽しそうに? 仕事中。

                         重厚な造り。

情趣ある裏通り。右手は「有隣荘」。
                                            大原孫三郎が家族で住むために建てた大原家の旧別邸。独特の製法で焼かれた瓦は、見る角度によって緑色に光り、地元では「緑御殿」とも呼ばれています。

「中国銀行」。

江戸時代から続く「茶道一式 森江商店」。

「デニム製作所」。デニムのスーツが店頭に。

アーケード街、並ぶ商店は見世倉造り。

《おまけ》人々の心を癒す幻想的なあかり

 美観地区を訪れる観光客は、陽の高いうちに町を見てまわる人がほとんどでしょう。この周辺の施設の多くは午後5時を過ぎると閉館するため、夕方には美観地区を離れるという人が大多数だと思われます。日中の明るい日差しの下で見る町並みもとても美しいのですが、実は夕暮れ時からの景観もさらに美しく、おすすめです。
 夕陽が西の空に落ちる頃、美観地区全体が景観照明のやさしい光に包まれ始めます。暗闇の中から浮かび上がるように照らされた倉敷格子や白壁の建物、それらが倉敷川の川面に映る姿は幻想的です。
 この景観照明は世界的な照明デザイナー石井幹子さんがプロデュースしたもので、倉敷市と周辺住民の協力で始まり定着しました。この照明によって昼間とはまた違った表情を見せる夜の美観地区の美しさを、多くの観光客の皆様にぜひ知ってもらい、心ゆくまで堪能してもらえたらと思います。
(この項、「倉敷観光WEB」HPより)

 次回は、泊まりがけでゆっくりと探索してみましょう。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その7。(「佐倉街道(成田街道)」をゆく。第3日目。)

2019-04-22 20:20:28 | 佐倉街道
                                「国道51号線」脇を走るJR成田線。「成田エクスプレス」

交差点。旧道は右に向かう(「国道409号線」)。

                           


「並木坂上」交差点へ。

「成田市」マンホール。絵柄は、ウメ。

(14:57)再び「国道51号線」へ。そのまま横断して進みます。

                               

(15:01)右手に「和算家飯嶋武雄の墓」。

飯嶋武雄は安永三年(1774)に下総国金江津村(現・茨城県稲敷郡河内町)の出身で、通称武左右衛門、雅号を桃家といい、幼少の頃から神童と呼ばれ、十二歳の時既に算法(和算)の奥義を究めたといわれています。後に江戸で私塾を開設して算法を教授。その名声は広まりましたが、不幸にして失明し帰国しました。盲目となって後も近郷を巡回し口授により算法を教え、門下生は千余名に達したといいます。
 並木町の大坂家では、その昔寺子屋を開いており、師として飯嶋武雄を迎えたということで、その門弟である神山周助らが没後まもなく墓碑を建立したものです。

その向かい側が「なごみの米屋」。「一本松通り」との標識。
「なごみの米屋」
 成田表参道に総本店がある千葉県に根付いた和菓子屋。創業者は成田山新勝寺に縁の深い諸岡長蔵で、日本初の栗羊羹を作った方。羊羹とどら焼きが人気がその他にもさまざまな和菓子を販売。

(15:07)その「一本松跡」碑。

 かつて成田街道を往く旅人たちの憩いの場となっていた一本杉はすでに枯れ、今では石碑のみ残るだけですが、「一本松通り」として今も地元の住民に慕われています。

小松が植えられています。

JR成田線の踏切を越えます。

ここにも「一本松通」の標識。
                               この道がそのまま成田山の参道につながります。

(15:21)続いて京成本線を跨線橋で越えます。

 その橋詰めに「不動尊旧跡」。「論田・阿梨耶橋」という碑もあり。京成線の陸橋に付けられた名称。「ありや」と読む。

左手がJR線、右手が京成線。その間を進みます。

(15:33)JRと京成の「成田」駅前。今回はここまで。京成電車で戻ることにします。

            
            
            
1880年代のようす。「一本松通」。               2010年代のようす。中央がJR線、左から右が京成線。←が「一本松通」。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その6。(「佐倉街道(成田街道)」をゆく。第3日目。)

2019-04-19 18:56:45 | 佐倉街道
                            (13:49)ゆっくりと上っていきます。
 里山の道に入ります。旧道が思ったよりも残っています。


                          

里山らしい雰囲気。
                            「国道51号線(現成田街道)」を進んでいては、お目にかかれません。
鬱蒼とした竹林。街道筋に目立ちます。

来た道(坂道)を振り返る。 

国道が眼の下に。坂をなくして切り通しにしたようです。

(13:59)合流地点に「伊篠(いじの)の松並木跡」がある。

                      
昭和43年の千葉県指定史跡を表す木製の大きな標柱と「【史跡】 成田道伊篠(いじの)の松並木跡」解説板。
 伊篠の松並木は国道51号線に沿った旧成田街道約800㍍の地域の松並木であった。通称杢之進並木(もくのしんなみき)といわれ、享保年中(1716~35)に佐倉七牧を支配した代官小宮山杢之進が植樹したと伝えられていたが、樹齢300年~350年であることから、年代が合わず、おそらくこれより早い時期に道中者の便を図って植えられたものと思われる。
 昭和43年4月に県の史跡として指定された当時は巨松36本が松並木を形成して、街道の美観を誇っていたが、昭和50年代になって、松喰虫の被害を受けて次々と枯れ、昭和57年7月には県の指定が解除となり、昭和59年7月に町史跡指定に変更された。
 昭和60年11月最後まで残った2本も枯損し、その後町史跡指定も解除され、今は史跡としての名称だけが残されている。

 脇に指さし道標もあり、「宗吾道」と刻まれています(指は左手をさしている)。

しばらく国道に沿った旧道を進みます。

両側は盛り土になっていて、そこに植えられていたのか? 切り株。

                   

何本か、若松が。 

満開のサクラ。振り返って望む。

左手に「道標」などいくつか。

・(正)右成田道
 (左)左いんばぬま道
 (右)万延二辛酉年正月吉日

注:「万延2年」=1861年

別の道標には
・(正)成田山  是より壱里余

(14:12)「コンビニ」のところで国道に合流。

来た道を振り返る。


1880年代のようす。曲がりくねった道となっています。街道には並木のマーク。


2010年代のようす。現成田街道は直線路に。右はJR成田線。

 何本かの若松も育っているようなので、復活させたらいいと思いますが。

国道を渡り、斜め左に入ります。また静かな里山の道。

落ち葉に敷き詰められたこんな脇道も。

(14:17)田園風景。

振り返って望む。

国道に合流する手前。緑の竹藪の中に満開のサクラ。

                 

1880年代のようす。

2010年代のようす。

(14:30)「千葉から24㎞」ポスト。

いよいよ成田市入り。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その5。(「佐倉街道(成田街道)」をゆく。第3日目。)

2019-04-18 20:52:45 | 佐倉街道
                     「酒々井宿」を出て北に向かいます。
左手に石造物が数体。

成田空港15㎞」の標示。
                           成田から佐原に行く途中、成田空港の地下道を通ります。

(13:24)左手眼下が開けてくると、「下がり松」。
「下がり松」印旛沼眺望名勝地
 下がり松は酒々井宿の北のはずれにある印旛沼に向かって視界がひらけた眺めのよい場所です。印旛沼に浮かぶ高瀬舟や漁師の小舟、遠くには筑波山まで眺めることができました。
 天保元年(1830)正月、村人がこの地の風景をいとおしみ、下がり松周辺を切り開き茶店を開いたことによって、成田山への参詣客などたくさんのお客がこの風景を眺める最適な場所となりました。
 下がり松からの風景は、酒々井の景勝地として江戸時代の終わりから明治時代にかけてたくさんの浮世絵や地誌、紀行文などに描かれました。

「下がり松の展望」
 酒々井町北の方一坂を降り、右折すれば下り松と称するところに出づ
 地形優雅近く印旛湖を眺み遠く波山の佇立せるを観・・・
 天保元年正月村人何某此の地の風景を賞し樹を伐り荊棘を抜き
 好位置を占して一茶亭を開設し衆客の観光を便す
                         『印旛郡誌』

今も遠くに筑波山(↓)が望める絶景の地。田畑が一面に。

              
      
1880年代のようす。↓付近か?「松」の標示あり。   2010年代のようす。左上は「京成酒々井駅」。


JR・京成「酒々井駅」付近へ。これから開ける土地?

 街道筋ですが、現在の駅周辺はかつては家数も少なく、酒々井の宿(中心)から北に離れたところだったようです。

ご当地キャラが描かれた案内表示。
                      本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」
 国指定史跡 「本佐倉城跡」の3代城主だった千葉勝胤をモチーフに誕生した、文武両道と勝利の神様で約500歳の「勝っタネ!くん」は、体は幸草の種・手と足は大地に根を張る根っこで出来た殿様です。
 手に持つ名刀で弱気損気は一刀両断!本左倉城に住みながら千葉県内の多くのイベントに登場して活躍しています。
         

 この地域にはそれぞれ「ゆるキャラ」が多くあるようです。これもその一つ。井戸っ子」。

(13:33)「ふれあい駅前通り」交差点。

左に曲がり、すぐ右手の道を進みます。正面の道が旧道。

                         


このお宅も珍しい姓。「小別當」さん。全国でどのくらいの方がいらっしゃるのか。
【読み】こべっとう
【全国順位】 29,034位
【全国人数】 およそ120人
【名字の由来解説】
 現千葉県北部である下総発祥ともいわれるが、伝統的な名字である。近年、千葉県に多く特に印旛郡酒々井町酒々井に集中してみられる。
(この項、「」HPより)


別当」だと、以下のようですが。
①律令制度の下で、令外官として設置された検非違使庁や蔵人所などの責任者。対外的な責任者であるとともに、天皇・太政官との連絡にあたった。後には一部の寮・司にも別当が設置された。
②各地に設置された勅旨牧の現地責任者として牧監がかれていたが、武蔵国のみは別当と称している。
③10世紀に入ると、遥任している在京国司が自己の家司を現地に派遣して在庁官人を指揮させることが行われるようになるが、その家司を目代・別当と称した。
④平安時代以降の院、女院、親王家、摂関家以下の公卿の家政を担当する院司・家司の上首(長官)のこと、後にそれらの家に設置された政所 、侍所などの家政機関の長に対しても用いられた。
 なお、鎌倉幕府の行政機関である政所、侍所などの長官を「別当」と称するのも、それらの機関が初代将軍源頼朝の家政機関が転じて鎌倉幕府の行政機関になったことに由来している。
⑤東大寺、興福寺、四天王寺などの諸大寺で、寺務を統括する長官に相当する僧職。

(以上、「Wikipedia」参照)

 「小別当(當)」は、その補佐役としての地位なのか。いずれにしても由緒ある姓には違いなさそうです。

何カ所かに道標があります。火の見櫓の三叉路に。(↓)
                     右の道標 (正面)此方酒々井停車場道 (右面)此方成田宗吾道  明治期のものらしい。
                     左の道標 (正面)二王ミち  こちらは江戸期のもので正面以外は摩滅が激しい。

ここにも。 
                 (正面)成田佐原道  宗吾安喰道 (右面)酒々井停車場 佐倉千葉道
                 (左面)酒々井停車場   道

国道と合流手前に。  
                (正)佐倉千葉道 成田佐原道 (左)上岩橋青年分団鈴木金兵エ (右)七栄三里塚道

注:道中にある道標の碑文については「旧成田街道・・・・沿道にある石造道標一覧」HPを参照しています。

 (13:44)その先で「国道51号線」に合流します。
 

(13:48)次の信号を右に入ります。信号機の下に道標が立てかけてあります。
               (正)奉納仁王尊 南 さくら道 木村十右衛門 (右)東なりた道 (左)寛政二戌十一月吉日 大崎
                                注:「寛政2年」=1790年


1880年代のようす。屈折した道(旧道)。西は印旛沼の湿地帯。


2010年代のようす。下の↓に三叉路の道標、上の↓に信号機下の道標。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その4。(「佐倉街道(成田街道)」をゆく。第3日目。)

2019-04-17 18:28:36 | 佐倉街道
                               三谷家住宅。
 三谷家は旧成田街道に面し、江戸時代からの呉服太物を扱う老舗として佐倉に唯一残っている商家。袖蔵の創建は棟札により明治17年(1884)と判明し、主屋もその頃には建っていたと考えられています。(宿内で現在も呉服店を経営)

「旧堀田邸」を出て街道に戻ります。
 「ここは武家町です」という案内板。街道とは一、二本くらい南側の住宅街の道を進むことにしました。「野狐台町」という名に引かれて。
          

左折して街道に戻ります。(11:49)案内板。

 この手前・左手に「三谷家」の住宅があります。通りを挟んだ前には大きな店構えの「寝具のミタニ」さん。

ここにも古いおうち。

(11:56)右手に「佐倉順天堂」。

                      

解説板。

 佐倉順天堂は、天保14年(1843)、長崎で蘭医学を修め、江戸で開業していた佐藤泰然(たいぜん:1804~1872)が、佐倉藩主堀田正睦(まさよし)の招きを受け、佐倉に移り、佐倉本町に蘭医学塾及び診療所として「順天堂」を開設したことに始まる。
 泰然は帝王切開などの新しい外科手術を行い、種痘の普及にも努めるなど最先端の診療を行った。また、西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。慶応元年(1865)の記録によれば、塾生は北海道から熊本県までの全国から100名にも及び、泰然の弟子は数百名、孫弟子まで含めると3000名を超えるといわれる。
 現在、佐倉順天堂記念館として一般公開されている建物は、安政5年(1858)に成田街道の向い側から移転し、その後拡充されたものの一部で、明治27年(1894)に刊行された『日本博覧図 千葉県之部 初編』に収載された銅版画にある診療棟の一部にあたる。この記念館になっている建物を含む範囲を史跡として指定し、保護している。

(この項、「千葉県教育委員会」HPより)

                   

佐倉の街並みを過ぎます。

                     (12:09)「酒々井町」へ。

 この辺りからは「佐倉街道」というよりは「成田街道」がふさわしいようです。

 成田街道の由来は佐倉道である。佐倉道は房総最大の佐倉藩や多古藩、小見川藩の北総の諸藩の参勤交代に利用された公用の道だったが、成田街道の隆盛にともない「成田道」「成田街道」と人々に呼ばれるようになっていったと云われる。
しかし、成田街道(佐倉道)という名称を冠した街道でありながら、目的地まで統一した管理下に置かれたわけではなく、新宿~八幡宿までが道中奉行支配下、大和田宿・臼井宿・酒々井宿・寺台宿が佐倉藩領という奇妙な街道であった。
 成田山への信仰は元禄の頃から盛んになってくる。町民文化の華が咲き、太平の世を迎えたこの時代、町民に財力がつき、信仰と行楽を兼ねた旅行ブームが興る。江戸から成田までは三泊四日と、最も手軽な旅程であったためか、幕末には、年間200万人が参詣に訪れていたそうだ。また、子供に恵まれなかった初代市川団十郎が、熱心に信仰を示したことなども、成田参詣がいっそう盛んになった理由の一つともいわれている。子供に恵まれなかった人気役者市川団十郎が成田山を信仰し、その信仰により男子を得たことが、庶民の目を成田山にむけさせることになったのだろう。
       (この項、「」HPより)

 その手前にあるおそば屋さんで、昼食休憩。
 再開。すぐ先、左手の坂道(旧道)を上って行きます。

(12:46)「猿楽場(さかくば)」バス停。中世の千葉氏関連の遺跡があったようです。

のどかな道筋。

1880年代のようす。○地点で左折し右折。


2010年代のようす。左折せず、道なりに進んでしまいました。
                 下方の広い道路は国道296号線。

「成田街道」という標示。 

この先で、先ほどの国道に合流します。

(12:59)「上本佐倉」交差点。左手に見える道が旧道。

しばらく進み、左折して「酒々井宿」へ向かいます。

           
 
(13:06)右手にりっぱなお屋敷。


莇 吉五郎家
 酒々井町酒々井地区は、戦国時代には本佐倉城の城下町として、また江戸時代には佐倉藩の城下町、旧成田街道の宿場町、佐倉七牧(徳川幕府直轄の野馬牧場)の野馬会所(管理事務所)・野馬払い場の所在する地として栄えた場所です。
 莇(あざみ)吉五郎家は、江戸時代の後期に油販売で成功し、明治初期の吉五郎の代には醤油醸造業を営んでいました。 
 現在の土蔵二階建て建物と平屋建物は、明治27年刊行『日本博覧図千葉県編』と同一の建物と同一の建物であるから、これ以前に建築された兼住宅建物と考えられます。
 当家は現在においても歴史ある酒々井地区の中核的な建物として歴史的景観を形成しています。
                          

注:「本佐倉城」跡は街道の北西にあるようです。

「莇(あざみ)」という姓は、かなり珍しそう。

その先にも古民家が二軒。


島田長右衛門家・島田政五郎家
・・・島田長右衛門家は江戸時代に幕府野馬御用を勤めていた家で広い敷地を有し、かつては宅地裏に野馬会所と野馬払い場が続いていました。隣接する島田政五郎家は島田長右衛門の分家であり、やはり宅地裏に野馬会所と野馬払い場が続いていました。
 現在の建物は明治10~20年頃に建てられた店舗兼住宅で、道路に面する店舗は南北棟、住宅棟は店舗と直行する町屋づくりになっています。当時の商家の邸宅として『日本博覧図千葉県編』(明治27年刊行)にも掲載されていました。・・・ 
                       


1880年代のようす。西に2箇所城の記号があり。上方が「本佐倉城」跡?


2010年代のようす。右に酒々井地区。
        
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その3。(「佐倉街道」をゆく。第3日目。)

2019-04-16 19:21:07 | 佐倉街道
                       ここも古い商家。家の前には「明治の寿るがや跡」という行灯。
                                

「美容室らぶらぶ」のしゃれた門前。
                    これまでの街道歩きでも美容院はけっこう昔の風情にマッチした粋なお店が目立ちます。

(11:10)「佐倉新町おはやし館」。
 佐倉新町おはやし館は、市民の憩いの場として、郷土の文化、伝統行事、物産などの紹介や観光情報の提供を行っています。
 江戸時代から続いている麻賀多神社の祭礼に、各町内が繰り出す山車に乗る山車人形2台が展示され、演奏される佐倉囃子伝承の場として活用されています。
 建物は2階建てで、1階は展示室、2階は多目的室となっています。おはやし館入口に展示されている山車人形は竹生島、玉ノ井です。

注:現在、佐倉には山車人形六体が残され、夫々の町内会が所有している。これらは江戸で使用されていたものを、江戸時代から明治にかけて購入した もので、これらの全てが佐倉市の指定有形文化財になっている。
 □横町・・・石橋(しゃっきょう)、 □上町・・・日本武尊(やまとたけるのみこと)  
 □二番町・・・玉の井(たまのい)、 □仲町・・・関羽(かんう)、 □肴町・・・竹生島(ちくぶじま)
 □弥勒町・・・八幡太郎(はちまんたろう)
                                
(この項、「」HPより)

その脇にも「高札場」。
「佐倉市民憲章」の他、慶応4年3月の太政官布告「人その五倫の道を正しくすべき事・・・

日本遺産 北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の街並み・城下町 佐倉」案内板。
注:「北総四都市」とは「城下町 佐倉」「門前町 成田」「商家の町 佐原」「港町 銚子

城下町「佐倉」 
 土井利勝は、江戸の東を守る要として佐倉城築城と城下町を整備しました。その後も幕府の要職に就いた有力譜代大名が城主を務め、政治・軍事の両面で江戸を支えました。
 現在も当時の道筋、地割りや建造物が残されており、秋には祭礼が行われます。佐倉囃子とともに麻賀多神社大神輿の渡御、江戸型山車や御神酒所(屋台)が曳き廻されます。
 また、当時の佐倉は蘭学の先進地でした。幕末には江戸から佐倉へ移住した佐藤泰然が順天堂を開き、日本近代医学の発祥の地となりました。このような先進性を支えたのが藩主堀田家です。旧堀田邸や甚大寺の墓所、藩校資料にその業績が偲ばれるとともに、地域の象徴として地元の人々に親しまれていたことがわかります。                                                                                  
「手づくり工房 さくら」。

街道は枡形に。右に曲がり、続いて左に。

来た道(宿内)を振り返る。この付近までが佐倉宿の中心部。

店先に山車や祭りのようすが。

 
                                              「肴町」。

しばらく直線道路。

山車飾りを外壁にはめ込んでいるおうち。江戸後期の肴町山車飾り。

左に折れ、東に向かいます。

曲がり角から振り返る。

        
        
1880年代のようす。○が曲がり角。            2010年代のようす。道筋は変わらない。

ここにも古い商家。

街道を右折、「佐倉ゆうゆうの里」を通って、「旧堀田邸」へ(11:28)。



                  
旧堀田邸(重要文化財 旧堀田家住宅)・さくら庭
 旧堀田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園です。
 主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄棟造り瓦葺きの建物5棟で構成され、明治23年(1890)に竣工しました。その後、明治44年(1911)には湯殿が増築されました。主屋や門番所、土蔵はほぼ建設当時のまま良好な状態で残されております。庭園は、芝を中心に赤松やサルスベリなどの樹木と景石や石塔を配し、高崎川と対岸の台地を借景にした眺望が広がっています。
 平成9年3月26日に佐倉市指定文化財名勝に、平成13年3月30日には千葉県指定文化財名勝にそれぞれ指定され、平成18年7月5日には住居部5棟と門番所、土蔵の合計7棟が国の重要文化財(建造物)に指定されました。更に、平成27年(2015)3月には、庭園を含む一帯が「旧堀田正倫庭園」として国名勝に指定されました。 

落ち着いた佇まいの建物と庭。

                    

             
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その2。(「佐倉街道」をゆく。第3日目。)

2019-04-15 19:38:34 | 佐倉街道
                             満開のサクラ。

「馬出し空濠」。
 城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られぬようにした土手が馬出しであります。
 この空濠は、明治初期より連隊造営のため埋めたてられていたもので、昭和46年から2回にわたる発掘調査により、長辺121m・短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認されました。
 復元にあたっては長辺、短辺はそのままとし深さは約3mとしてあります。
          

      



サクラが咲き誇っています。その下で記念撮影のようすも。

  

(10:43)さて小休止して、成田に向け、出発です。

                      

けっこうな上り坂。「海隣寺坂」。
                         坂上にある「海隣寺」に因んだ坂。

格子がすてきなおうち。

坂上から振り返る。 

(10:50)「ヤマニ味噌」。我が家ではなじみ深いお味噌。

ヤマニ味噌のこだわり
■素材選び
お味噌の原料は米・大豆・塩・水と、大変シンプルです。
そのシンプルさゆえ、原料選びに妥協すると即味に反映されてしまいます。
「出来上がる味噌を想像し素材を見極める」経験に裏打ちされた職人にのみ出来る匠の技です。
菜の花みそ、胚芽米入りみそ、ちばの恵は、厳選された国産大豆・国産米・国産塩を100%使用しています。
仕込み水には、創業当時より使用している地下30メートルから汲み上げる清冽な地下水を利用しています。

■代々受継がれる伝統的製法
ヤマニ味噌の味噌造りに妥協はありません。
雑味のもととなる大豆の皮を研磨して使用し、最高の状態で熟成させるため、“蒸し”と“煮”の両工程を、職人の経験と勘を頼りに絶妙のタイミングで行います。
お味噌の大豆は蒸すか、煮るかのどちらか一方のみを行うのが一般的ですが、それぞれの良さを引き出すために両工程をあえて行います。
これがヤマニ味噌に代々伝わる仕込方法「半煮半蒸し製法」です。
仕込み桶には古いもので百年以上使用している四トンの杉大桶を使用し、熟成発酵を促進させるため、熟成途中で天地返し(別の木桶への味噌の移しかえ)を行います。
どれも手間のかかる作業ですが、手間を惜しんで美味しいお味噌は出来ません。
代々受継がれる伝統的製法と味噌造りに対するプライド。
全ては「昔ながらの美味しいお味噌」を造るためのこだわりです。

■ヤマニ味噌だけの味
近年のお味噌は人工的に培養した酵母を添加することが一般的になりつつあります。
そうすることで味噌の香りは際立ち、洗練された味のお味噌が出来上がります。
しかしその反面、どのお味噌も似通った風味になり、味噌蔵独自の個性(蔵ぐせ)が失われてしまうと我々は考えています。
ヤマニ味噌は洗練された味のお味噌は造りません。
人工的に培養した酵母は一切添加せず種味噌の力のみで発酵熟成させています。
他では味わえないヤマニ味噌だけの味、昔ながらの味造りを我々は目指しています。
 (「」HPより)

「吉田書店」。赤い円形ポストが懐かしい(市内ではけっこう見かけます)。

宿場特有の間口が狭く、奥行きがある敷地。

通りには歴代の城主の名前が記された幟が。

「新町」交差点を左折します。右手は「旧平井家住宅」。

角に「佐倉町道路元標」の石柱。

この付近から東が宿場の中心街。

       
旧城下町(新町)の概要

旧城下町の明治時代の様子
 佐倉市は首都圏50㎞の千葉県北部に位置し、市街は印旛沼につながる低地と、下総台地、および両者をつなぐ傾斜地からなっている。台地の高さは約30mあり、低地の中央を西流する高崎川が鹿島川に合流して印旛沼に注いでいる。
 元和3年(1617)、時の佐倉藩主であった土井利勝が城郭を完成させ、以来、江戸幕府の要職に就いた徳川氏譜代の大名が佐倉藩に封ぜられた。
 明治4年の廃藩置県に至るまでの約250年余、十家20名の藩主が城主になり、房総の雄藩として城付の所領6万石を基本に、入封する大名によっては他国に多くの飛地を持ったので、それらを合わせると大体10万石前後の中藩であった。
 佐倉城下町は、それまでの「鏑木村」の中の馬の背のような台地(鹿島山とか鹿島台地と呼んでいた)に全く新しくつくられたもので、築城後に城下町が形成されたという特徴がある。鏑木村の集落は、台地を挟んで南北に分断されることになり、鏑木という地名が商家町のある台地両側に存在する事になった。
 城下の町としては、田町、佐倉新町、弥勒町、本町、本佐倉、酒々井町を佐倉六町として町奉行支配下に置いた。これらは全て一本の街道でつながる町で、距離的にかなり離れた町まで入っている事になる。
 佐倉新町は横町、上町、二番町、仲町、肴町、間の町で構成され、その敷地割の特徴は、間口2間3尺、最大で14間3尺、多くは5間程度、奥行きは20間~30間程度の、矩形型の敷地が街道に沿って並んでいた。
 この新町のみが商工業者を住まわせるため意図的に造った町で、城下町としての中枢部分であった。「佐倉新町江戸まさり」という言葉が伝えられているが、江戸時代後期には、江戸に勝るとも劣らないほどの町屋が立ち並んでいた様子を表したものだと言われている。
 田町は元々「椎の木」という地域に住んでいた住民が、築城によって強制的に移転させられたという伝えがある通り、新町に対して本来の町はここであったとも言われている。特に職人たちの多くはこの田町に住居を構えていたようである。
 商店の種別としては、武家の需要を満たしていた衣類、文房具、小間物などは田町、海隣寺門前町、横町、上町、二番町、仲町に多く、魚商は肴町に集まっていたようである。ただ佐倉においては高級呉服などの店は少なかったようで、江戸に近いという地理的な要素もあって高級品の多くは江戸に依存していた。
(この項、「」HPより)

「上町」。

(11:03)「蔵六餅本舗木村屋」。
佐倉銘菓 蔵六餅本舗 木村屋
 明治15年、銀座木村屋の2号店として、千葉県佐倉市でパン屋として創業した佐倉木村屋。現在は、和菓子店として、今も老舗の伝統と味を守り続けています。佐倉銘菓「蔵六餅」の他、四季折々の和菓子は、地元佐倉の皆様はもちろん、全国のお客様からご好評頂いております。

蔵六餅 
 佐倉藩主堀田家には、三百年の昔から、上面に亀の甲を曝した様な五彩混ざった地肌の一奇石が、「蔵六石」と称され、伝えられています。「蔵六餅」は、この家宝にちなみ、昭和29年佐倉が六町村合併して市制開始した折に、佐倉市が亀のように末永く発展しますようにと願い込めて発売した餅入り最中です。以来、佐倉銘菓として、同じ味を守り一つ一つ手作りでお作りさせて頂いております。当店独自の粒あん、こしあん、白あんの三色三種類がございます。
              (「蔵六餅本舗木村屋」HPより)

通りをはさんでこちらにも商家。

「三谷屋呉服店」。創業:寛政年代(1789年から1801年)。

「市立美術館」。正面は、大正時代に建築された「旧川崎銀行佐倉支店」。

 川崎銀行は、江戸時代水戸藩勘定方を務めた<川崎八右衛門>が、明治13 年に設立した銀行で、明治中期頃には有力銀行の一つに数えられた。東京日本橋にあった川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調とした当時の銀行建築の代表的建物で、現在明治村に正面玄関部分の一部が復元されている。
(この項、「」HPより)

「高札場」。内容は明治初期のものか。太政官布告 「阿片煙草ハ人ノ精気を耗し命数を縮め・・・
 また、現代の掲示板的な内容も。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その1。(「佐倉街道」をゆく。第3日目。)

2019-04-12 19:57:50 | 佐倉街道

 4月9日(火)。このところ連続して土・日に出かけることが続き、平日に。
 快晴。佐倉街道(成田街道)歩き。3日目。この先、佐原まで歩く予定。今回は、成田まで。  

 今回。佐倉城址にある「歴博」を見学して、ということで、開館時間(9:30)に合わせてやってきました。
街道はお濠脇から左手に進み、「新町」交差点(○)を左折します。

                         

その前に、「歴博」へ。 

歴博」。正式名称「国立歴史民俗博物館」は、日本の歴史、民俗学、考古学について総合的に研究・展示する歴史博物館。佐倉城趾の一角にあり、周囲は広い公園になっています。



                  田町門跡・愛宕坂」解説板。
 成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は、椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町門から歴博に上がる坂は、愛宕坂神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入りできるよう変更されたものです。

右手に「臼杵磨崖仏」のレプリカ。

 「田町門跡」解説板にあるように、戦前、「佐倉連隊」がありました。
 明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清、日露戦争にこの地から出征されました。明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第57連隊が移転し、昭和19年のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅しました。

 佐倉には徳川幕府時代、約250年間江戸の守りとして佐倉城があり、明治・大正・昭和の約70年間、首都東京防衛の要としての歩兵佐倉連隊の兵営が置かれていました。
 佐倉城は幕末、佐倉藩堀田氏11万石の居城でした。明治維新の廃藩置県の後、佐倉城は、明治政府の方針により陸軍の兵営に転用されることになります。
 佐倉城は解体され、城内に住んでいた士族たちは移転させられました。階段状の武家屋敷は平坦地として造成され、連隊本部や兵舎、兵器庫、弾薬庫、厩舎、酒保、病院、練兵場などの兵営が設置されました。
 日本最初の軍隊である歩兵第2連隊第1大隊が、佐倉に入ったのが、明治7年(1874年)5月19日でした。歩兵第2連隊は、西南戦争、日清戦争、日露戦争へと出征します。
 明治42年(1909年)歩兵第2連隊が佐倉から水戸へ転営となり、変わって、歩兵第57連隊が習志野の仮営所から佐倉へと兵営を移します。歩兵第57連隊は、第1次世界大戦に出征、関東大震災及び2.26事件に出動、満州及び支那事変に出征、第2次世界大戦へ出征します。
 戦争の進展にともない、佐倉の兵営からは臨時的な部隊が次々と編成され、中国や南方へと出征し、本土防衛に派遣されました。
 昭和20年(1945年)8月15日に終戦を向かえ、戦争の時代はやっと終わりを告げました。
 歩兵佐倉連隊は、歩兵第2連隊や歩兵第57連隊、歩兵第157連隊、歩兵第212連隊、歩兵第270連隊の他に、臨時編成された歩兵連隊など、12連隊に及びます。連隊の中核となった千葉県出身の戦死者は、この間実に57000余名に達したと言われています。連隊の通常編成は3000人でしたから、この戦死者の数は、想像を絶するものがあります。満州出征から終戦までの佐倉の兵営は、兵士を戦場へ送り出す為の、徴兵から訓練、演習、派遣まで一貫して行う、兵士製造工場ともいえる状況でした。現在、佐倉連隊の兵営跡地には、国立歴史民俗博物館が建ち、佐倉城址公園として、佐倉市民の憩いの場所となっています。

歩兵第2連隊の佐倉での歴史
1.明治6年(1873年)1月、太政官布告で、東京鎮台に東京(歩兵第1連隊)、佐倉(歩兵第2連隊)、新潟(歩兵第3連隊)の3営所の設置が決定する。佐倉の兵営建設は1年余りで完了する。
2.明治7年(1874年)5月、日本最初の陸軍歩兵第2連隊第1大隊が、東京から2日がかりで行軍し、佐倉の兵営に入る。
3.明治10年(1877年)2月〜10月、西南戦争へ出征する。
4.明治17年(1884年)6月、第2大隊が宇都宮から佐倉に転営し、第1大隊と合流する。
5.明治27年(1894年)9月〜明治28年(1895年)6月、日清戦争へ出征する。
6.明治37年(1904年)3月〜明治39年(1906年)2月、日露戦争に出征する。
7.明治42年(1909年)3月、歩兵第2連隊が佐倉から水戸の新兵営へ移る。

歩兵第57連隊の佐倉での歴史
1.明治42年(1909年)3月、歩兵第57連隊が習志野の仮営所より佐倉へ転営する。
2.明治42年(1909年)〜大正5年(1916年)、朝鮮守備に派遣する。
3.大正3年(1914年)8月〜大正4年(1915年)4月、第1次世界大戦に派遣する。
4.大正5年(1916年)8月〜大正11年(1922年)5月、青島守備に派遣する。
5.大正12年(1923年)9月、関東大震災に警備出動する。
6.昭和11年(1936年)2月、2.26事件に警備出動する。
7.昭和11年(1936年)4月〜昭和19年(1944年)8月、満州へ出征する。昭和16年(1941年)の連隊の兵力は、約4500名です。
8.昭和19年(1944年)2月〜8月、歩兵第57連隊第3大隊をグアムへ派遣、628名が玉砕する。
9.昭和19年(1944年)8月、歩兵第57連隊の主力部隊がレイテ島へ転戦する。40日間の持久戦の末、12月に全滅状態に。レイテ島へ転戦した兵力は、約2500名で、この戦いの生存者は91名であった。
10.昭和20年(1945年)1月、セブ島へ168名が転戦する。
11.昭和20年(1945年)8月、敗戦。歩兵第57連隊の生存者の帰還は、僅か118名であった。

(以上、「YAMAJIさん」HPより)

                        



                        

                           



1880(明治13)年代のようす。連隊の施設がある。
                    上のお濠沿いの道が「成田(佐倉)街道」。左は印旛沼に続く湿地帯。



2010年代のようす。中央の建物が「歴博」。南に「佐倉東高」など。
                   印旛沼南方の湿地帯は干拓され、田畑や宅地に。

椎木曲輪(侍屋敷)」。
 歴博があるのは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区で、連隊時代は兵舎がありました。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社がありました。

「歴博」館内に入ります。入館料600円。
 人類の登場から近現代まで館内を巡ることで歴史、民俗を知ることができます。縄文時代の石器、鉄器、土器などたくさん展示され、説明なども丁寧。
 古代人の生活、一生。環濠集落などのようす、埋葬による古代人の死生観など、具体的な発掘資料の展示(複製)やをもとに、視覚・聴覚に訴えた解説が豊かです。さらに時代を下っての政治、文化、生活などを詳細な資料展示がすばらしい。外国との関係も詳しい。半日いても回りきれない。先を急ぐので、近・現代を見学せずに、1時間20分ほどで切り上げ。次回はここだけに絞って来館するつもりです。写真撮影OK(但しフラッシュはダメ)



   
                       館内から公園の桜並木を。

                   「城址公園」を歩くことに。
      
   
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渋沢栄一

2019-04-10 20:15:57 | 世間世界
 紙幣の肖像が変更に。その一万円札には福沢諭吉から渋沢栄一へ。郷里の深谷市はもちろん、江東区にも縁が深いようです。かつてブログに投稿したものを再掲。
 2013/2/25掲載。この時は、近くにある佐久間象山も取り上げています。

「旧大島川西支流」にかかる永代通り・福島橋の手前に、「渋沢栄一宅跡」(永代2-37)、橋を渡った所には「佐久間象山砲術塾跡」(永代1-14)の説明板があった。二つとも同じ時期に設置されたようだ。

説明板。
江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 渋沢栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のたまに尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
 平成21年(2009)3月 江東区教育委員会

・ 渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。
・ 家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。
・ 「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。
・ 郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。
・ 栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。
・ 明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
・ 1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
・ 栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
・ 栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。(「渋沢栄一記念財団」HPより。)

 北側に「渋沢シティプレイス永代」「渋沢永代ビル」の大きな建物がありました。


江東区登録史跡
佐久間象山砲術塾跡
 この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化8年(1811)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保4年(1833)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840~1842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。
 嘉永3年(1850)7月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。嘉永3年(1850)12月、いったん松代へ帰藩しますが、翌嘉永4年(1851)再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・阪本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
 安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。
 平成21年(2009)3月  江東区教育委員会

 象山は、当時の日本における洋学の第一人者。嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。
 彼の門弟には吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えた。
 元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に「公武合体論」と「開国論」を説いた。しかし、当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、7月11日、三条木屋町で暗殺される。享年54。
 勝の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となった。象山暗殺の報を聞いたときは「蓋世の英雄」と評価し、その死を悼んだ、という。

・・・

今回、新一万円札に渋沢栄一の肖像画を採用すると発表したことを受け、韓国メディアは「渋沢は朝鮮半島に対する経済収奪を象徴する人物だ」と反発し、「過去の歴史を否定する安倍晋三政権の歴史修正主義が反映された」と分析している、とか。
 今の福沢諭吉も中国・韓国では、福沢の「脱亜論」は「アジア蔑視および侵略肯定論」であり、侵略主義者として批判的に取り上げられています。かなり誤解があるようですが。
 いずれにせよ、日韓関係がこれによってますますぎくしゃくする、というのはまさに「歴史修正主義者」を喜ばすだけかもしれません。
 日本資本主義の総元締めだった人をお札の顔にするより、文化人の方が得策だと思います。
 景気が悪くなったのを隠すために、またまた大バクチを打った麻生。ついこの間の福岡知事選の醜態を隠す魂胆、見え見え。マスコミもコロッと靡く。反韓感情を増幅させつつ・・・。
 お札の顔を代えるよりも政府の顔である二人を代えるようにしようではないか。 

                    深谷駅前広場の「渋沢栄一」像。

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隅田公園。サクラ。さくら。桜。その4。

2019-04-09 19:21:06 | じじばばがゆく
                                 陽光の下で。

 首都高下の歩道際にはソメイヨシノ以外のいろいろなサクラの品種が花開いています。


                   

                               

スカイツリーを背景に。

                  



          

    

   堀辰雄ゆかりの地」解説板。
 堀辰雄は明治37年(1904)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。2歳のとき、母志気に連れられ向島小梅町(現在の向島3丁目)に住む叔母の家に移りました。その後、明治41年に母が彫金師上條松師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町32番地で暮らしはじめます。
 更にその2年後には大水の影響で新小梅町2ノ4に移り、ここから牛島尋常小学校に通います。府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、室尾犀星の紹介により同校の先輩である芥川龍之介を知り、文学的影響を受けます。
 関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正13年(1924)4月に父松吉が隅田公園東隣の新小梅町8番地に住居を新築し、そこで暮らしました。辰雄の夫人多恵氏は随筆「蓮の花」の中でこの家を懐かしみ、「あの竹の植わっていた小さな玄関―辰雄はそんな自分の家を『雀のお宿』と呼んでいた」と記しています。
 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や「幼年時代」などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。「神社の境内の奥まったところに、赤い涎かけをかけた石の牛が1ぴき臥てゐた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」(『幼年時代』)とあるのは、牛嶋神社境内の撫で牛のことです。

                      

   

                            「二峯先生之碑」。


言問橋のふもとにある「埼玉屋」(小梅のおだんご屋)さんで「桜餅」を買って帰ります。 

 「桃」(墨田区役所そば)。
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隅田公園。サクラ。さくら。桜。その3。

2019-04-08 19:03:19 | 隅田川

                       春風とはいいがたい冷たさの中で。
この付近の今昔。


1880年代のようす。右上の堀割は「山谷堀」。下の流れは「北十間川」。「隅田川」の両岸が現在の隅田公園。



2010年代のようす。隅田川に架かる橋は、上から「桜橋」、「言問橋」、「東武線鉄橋」。

 
                              「菜の花」。
                         
雪洞が揺れる土手沿い。



「牛嶋神社」の常夜燈。




竹屋の渡し (注:上の古地図では「今戸の渡し」とも表記)
 「向島の渡し」とも称される。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来する。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島・三囲(みめぐり)神社を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年 - )頃には運行されており、1933年(昭和8年)の言問橋架橋前後に廃された。

「言問だんご」。解説板。
言問団子と郡司大尉
 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振る舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都鳥 我が想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群集で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。


郡司成忠大尉
 万延元年11月17日~大正13年8月15日(1860~1924)
 東京生まれ。海軍軍人。父は幕臣、弟は小説家幸田露伴。明治5年(1872)海軍兵学寮に入校。26年(1893)海軍大尉として予備役に入り報効義会を組織し、千島樺太交換条約により日本領とされた千島列島を探検。最北端の占守島(シュムシュ島)に入植し、漁場の開拓にあたった。翌年日清戦争従軍のため帰還。日露戦争ではカムチャツカに侵入しロシア軍に捕われ、戦後帰国。第一次大戦にはシベリアで特殊任務に従事した。
                          

(写真は「Wikipedia」より)

この付近の今昔
1880年代のようす。○が「言問団子」と「墨堤通り」付近。
2010年代のようす。かつての墨堤通りを残している。上はアサヒビール関連会社。

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隅田公園。サクラ。さくら。桜。その2。

2019-04-05 20:38:49 | 隅田川

                             サクラの他の草花も咲き、・・・。

     



     「春のうららの隅田川・・・」

「上り下りの舟人が・・・」
 
「言問橋」を渡って墨田区側へ。。



               

                        





               



                     

 隅田公園は台東区側(浅草側)と墨田区側と「隅田川」をはさんでつくられています。「桜橋」「言問橋」「吾妻橋」を行ったり来たりしながらの散策。

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隅田公園。サクラ。さくら。桜。その1。

2019-04-04 18:41:29 | じじばばがゆく
                       「隅田公園」のサクラ。

 隅田公園のソメイヨシノ。老木が目立ち、ピンク色には見えない、白っちゃけた花びらに。寿命は約70年とか。枝を切り落としたりいろいろ手当をしている様子。
 平成に入ってからも新しいサクラを植えていますが、「ソメイヨシノ」ではない品種が多そう。その代わり、花の開花も同時ではなくしばらく楽しめそうです。

 ソメイヨシノは枝振りも花びらも個性がなく、あまり好きではありません。
 葉っぱの出る前に一面に花が咲く、という趣向が好まれて、日本全国、あちこちで植えられているわけですが・・・。

 ソメイヨシノはクローン。もとは一本の木。そのDNAを日本全国すべて共通に引き継いでいる。だから、開花宣言の対象になっているわけです。一斉に花開き、一斉に散る、てな具合。

 古木になったソメイヨシノを切らないで! と反対運動も起こるようですが、むしろ古木は立ち枯れる前に処分し、新しい苗木を植えた方がソメイヨシノという品種の個体維持には重要なようです。

 実は、今年の隅田公園。去年に比べてさまざまな品種のサクラの開花がバラバラなようです。もちろん、ソメイヨシノは一本も例外なく一斉に咲いていますが。しかし、都内のソメイヨシノの満開宣言から寒の戻りもあって、今度の土日くらいまでは、まだ楽しめそうです。

 撮影:3月27日(水)。4月2日(火)。両日とも快晴の下。

 

                       

                    

                         

  



         
              
                    台東区側の「隅田公園」から。

 

                    

                           
 
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新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その5。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-04-02 18:50:10 | 佐倉街道
                               左手の高台に「江原刑場」跡。
 しばらく進むと、「八丁坂」のゆるやかな上りになります。しだいに右手が大きく開けてきます。
広大な宅地造成中。かつては鬱蒼とした雑木林だったようです。西南を望む。

「江原刑場跡」解説板。かすれて読みづらい。
 大きな「題目供養塔」を中心に広場になっています。

 国道296号線を臼井から佐倉方面へ向かうと八丁坂に至ります。
 坂をのぼっていくと、左手に「南無妙法蓮華経」の髭題目を棹石に大きく深く刻み込み、台石に「法界」「講中」と刻んだ供養塔があります。
 これは寛政8年(1796)9月に法華宗の題目講中により造立されたものです。 成田道の道筋に面したここは佐倉城の西端にあたり、八町森と呼ばれ、佐倉藩が罪人の処刑を行った刑場跡です。
 また、この地で、天保14年(1843)に佐倉藩医で蘭方医であった鏑木仙庵らによって、刑死者の腑分け(解剖)が行われました。 このような解剖が行われたのは佐倉藩では初めてのことであり、全国的に見ても早い時期のものと考えられます。
(この項、「」HPより)

 ここは、心霊スポットとして有名らしい。

ここから佐倉の入口「鹿島川」までけっこう歩きます。振り返る。



                  


古民家を利用したカフェ「せん」。

「鹿島川」に向かってゆるやかに下っていきます。

屋根が重厚なおうち。

 ただし、現在は黒線の通り、直線になっていますが、旧道は赤線のように屈折していました。また、鹿島川は大きな湿地帯の中を「印旛沼」に流れていました。

1880年代のようす。佐倉城下の旧道も現在と異なって屈折しています。


2010年代のようす。橋の位置はほとんど変わっていません。

「鹿島川」を渡ると、「佐倉城」下町へ。

                     



京成電車が通過中。
鹿島川
 千葉市緑区の千葉市昭和の森公園を水源とし北流し、西印旛沼へ注ぐ。佐倉市の中心河川で、戦国時代から江戸時代にかけては高崎川とともに佐倉城の天然の外堀として利用されていました。河川名は築城主であった鹿島幹胤の名にちなんだもの。

橋のたもとに「祠」。

右手高台の森は「佐倉城」(現「佐倉城址公園」)。

 佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。
 戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤[1]に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
 1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。
 城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。
 明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。
 1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
 本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。

 今回はここまで。佐倉城(城址公園)の見学は後日にして京成佐倉駅に向かいます。


駅前の観光案内。
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新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その4。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-04-01 20:44:54 | 佐倉街道
                              「雷電為右衛門」の手形。

「手繰橋」を渡ってすぐ左の坂道を上ります。

                                  

「臼井台」の住宅地をくねくねと上っていきます。

坂を上りきったT字路に道標があります(↓)。
 


 
「(正面)右 成田ミち (右面)左 江戸みち (左面)西 さくば道」
「(裏)文化丙寅歳正月二十八日 願主 新吉原仲之町 伊勢屋半重郎  宿 太田屋」

文化丙寅(3年)= 1806年 

右折した先に「雷電為右衛門顕彰碑」の案内板があります。
 江戸時代の寛政から文化年間にかけて無敵を謳われた名大関雷電為右衛門(1767~1825)の等身大(1㍍96)画像に佐久間象山(1811~64)府での11文字を配した巨大な顕彰碑が妙覚寺(この奥に入る)境内にあります。
雷電没後153年の命日に因んで建立されたものです。

 案内に従って坂道を下って行くと、
 
雷電為右衛門 相撲史上不滅の足跡を残した古今の最強力士
 生誕 明和4年(1767)1月、信州小県郡大石村(現長野県東部町大石)
・・・28歳以来、16年間2場所大関を張る。21年間34場所254勝10敗 引き分け・預かり・無勝負など、勝率96.2㌫。 
 最盛期の身長6尺5寸(1㍍97㌢)体重45貫(168.7㌔)
 妻おはん(八重)はここ臼井の旧浄行寺(現妙覚寺と合併)の檀家飯田家の甘酒茶屋「天狗」の看板娘であった。結婚後、2人の間に女児1人をもうけるが幼くして亡くす。
 引退後、妻の郷里ここ臼井で静かに過ごした。・・・

 街道に戻って、今度はけっこう急な坂を下り(先が見えないほど)、「国道296号線」に合流し、左折します。
 

来た道を振り返る。

       「臼井台」。

国道といってもそれほど交通量の多くない道を進みます。

途中には、「雷電夫人おはんの甘酒茶屋あと」説明板。

「臼井宿」となります。

道がT字路にぶつかる左角に「明治天皇臼井行在所」碑。

「臼井町の道路元標」。 
臼井町道路元標
 明治6年に新政府は諸街道の正確な延長を調査するため、道路里程調査を行なった。東京は日本橋、京都は三条橋をもって、国内諸街道元標とし、各府県へ里程を示す木標を立てるように命じた。
 やがて、大正11年には内務省令で、道路元標の設置場所、規格材料まで細かく規定し、各市町村の枢要な場所に元標が設置されるに至った。尚、この元標は道路新設のため、向かって右側約7㍍の地点より現在地に移設されたものである。

こちらの解説板は赤茶けて判読不能。

「中宿」付近を振り返る。

京成電鉄の踏切を越えます。

京成線に沿って進みます。


1880年代のようす。北側は広大な印旛沼の湿地帯。南の台地の縁を進む。


2010年代のようす。現在もほぼ旧道に重なる。○が道標の設置場所

竹林。街道沿いには竹藪がめだつ。

                      
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