おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その3。「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-05-31 21:02:20 | 佐倉街道
                    喧噪の国道脇には田園風景が広がります。
(10:52)国道51号線「千葉まで30㎞」ポスト。
              成田市に入る手前に「千葉から24㎞」ポストがありました。

頭上には成田空港に離着陸する航空機の姿が。

                         
「取香川(とっこうがわ)」。「香取(かとり)」ではありません。

里山歩きのグループでしょうか、田園の中を「取香川」の上流を目指して。

相変わらず頭上にはしきりに飛行機が。


         「成田スカイアクセス線」の高架をくぐります(10:55)。

眼下には、稲を植えたばかりのみずみずしい水田。

 (11:10)その先、国道から左に分かれて上って行きますが、この付近は旧道がはっきりせず、この道も違うようです。里山歩きにはふさわしい。


                  

この付近の今昔。
            
             
1880年代のようす。街道は曲がりくねった山道。         2010年代のようす。成田線の高架下を過ぎ、すぐ左上に進む道が旧道の一部?

突然左手にラブホテルの看板が。 

廃寺となっている「神光寺」を過ぎると、(11:21)ちょっとした広場に。
「里山ロード」案内図。

その先で国道に復帰。

コンビニで飲み物を購入、小休止。旧道はこの付近で現在の国道に合流していたようです。


1880年代のようす。街道は北を大きく回り込む。


2010年代のようす。○がホテル。現国道はショートカットした道に。

 事前にこの地図をよく見ていたら、旧道を歩けたはずですが、残念!

(11:41)再開。「野毛平」バス停。
                                      成田空港の滑走路方向へ向かいます。

              →が街道(国道51号線)。 上が東方向。 

一面の野菜畑。

(11:55)「十余三(とよみ)第1橋(「東関道」)を渡ります。

                             

ところで、「十余三」とは?

 江戸時代の幕府直結の馬牧で、明治期の下総牧開墾事業で誕生した開拓地。
 明治2年から旧小金・佐倉牧の開墾が始まり、着手順序を基に開拓地名の字を付けることが取り決められ、
富(鎌ヶ谷市)、和(船橋市)、咲(船橋市)、豊季(柏市)、香(松戸市)、実(松戸市)、栄(富里市)、街(八街市)、美上(香取市)、倉(富里市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余三(成田市)
の字名が生まれました。

 いわれを初めて知りました。「三咲」とか「六実」、「八街」など数字の付いた、変わった地名が点在しているな、とは思っていましたが。
     
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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その2。(「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-05-30 20:24:42 | 佐倉街道
              さてまず「寺台」宿に向かい、さらに「大栄」に向かいます。「創業元禄2年 不動」のお店を左折します(10:15)。
                        
                              鍋屋源五右衛門の暖簾が。

鍋店(なべだな)の由来
当社の商号であるなべだなは古く江戸時代に遡り、金座や銀座、または釜座などのいわゆる『座』の一つである『鍋座』に由来します。
 当時鉄類は有事の際には武器製造の重要な材料であった為、幕府はこの鉄類の製造権利を信用ある地方の素封家に与えていましたが、当社の祖先はその『鍋座』を幕府より預かり管理しておりました。
 一方、元禄2年(1689年)に佐倉藩より現在の製造免許にあたる酒造株(1,050株)を戴き、成田山門前にて醸造を開始しました。
 当時老舗のことをお店(おたな)と呼んでいましたが、鍋座の『鍋』とおたなの『店』が結びついて『鍋店』(なべだな)と呼ぶようになったと言い伝えられています。 


 元禄2年(1689年)鍋店は成田山新勝寺の門前に蔵を構え、酒造りを始めましたが、現在は田園の広がる香取郡神崎町(こうざきまち)に 酒蔵を移し「仁勇・不動」を醸造しています。酒造りは、昔から新潟杜氏や南部杜氏に代表される杜氏さん達にお願いしてきましたが、『自分たちの力で個性のある酒』を造りたくて、平成9年より全て自社スタッフによる酒造りを開始しました。
 蒸米・麹・もろみに至る酒造りという『生まれ』から、おり下げ・濾過・火入れ・貯蔵、そして瓶詰めに至る『育ち』まで、全ての工程を自社スタッフで行い、各工程での酒の品質状況を常に把握することにより、多くのお客様から『おいしい!』と感じて頂ける製品を出荷することを第一に考えています。
人と人の間に酒があり、心と心の間に酒がある。そんな心に響く酒を造ることが私の使命です。
 

(この項、「」HPより)
 お酒の他にも酒粕を使用した酒まんじゅうなども販売しているそうです。

成田山方向を振り返る。


   「成田公民館」のところに「竹久夢二 叙情詩『宵待草』のヒロイン長谷川カタの居住跡地」という解説板。
 「まてど暮せど来ぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月も出ぬさうな」、竹久夢二が恋するカタへの断ちがたい思いを込めた「宵待草」のヒロインとなった長谷川カタは、成田高等女学校に勤務していた姉シマの関係で一家が田町に住んでいました。夢二とカタとの出会いは、夢二が明治43年(1910)の夏を銚子の海鹿島で過ごした時で、同じく避暑に来ていた円らな瞳の美しいカタに恋心を抱くようになり、この時、離婚していた夢二とたびたびデートをかさねていたようです。夏の終わりに、夢二に手渡した宵待草にはカタの深い意味が隠されていたように思えます。その後、カタが夢二に宛てた書簡には、二人で過ごした熱い思いが溢れています。夢二が幾度か成田を訪れたことは彼の日記に記されています。翌年の夏に夢二が再び銚子を訪れた時には、既にカタは作曲家の須川政太郎に嫁いで鹿児島へ去っており、カタとの恋は儚いひと夏の夢となってしまいました。この想いを込めて綴られた詩が「宵待草」です。田町は、叙情詩「宵待草」のバックグランドであり、ヒロインのカタが移住していた地で、「宵待草」発祥の地ともいえます。

宵待草 よいまちぐさ
日本の歌曲/恋多き竹久夢二が少女に寄せた儚き思い

 「待てど暮らせど来ぬ人を」の歌い出しで愛唱される『宵待草 よいまちぐさ』は、大正浪漫を代表する画家・詩人の竹久 夢二(たけひさ ゆめじ/1884-1934)による詩歌を原詩とする抒情歌。
 千葉県銚子市での儚いひと夏の恋を歌った夢二の詩は、1912年に雑誌「少女」で発表された後、バイオリニストの多 忠亮(おおの ただすけ)により曲がつけられ、抒情歌『宵待草』として愛唱されることとなった。
『宵待草』のモチーフとなった「マツヨイグサ(待宵草)」は、夕暮れ時に黄色い花を開き、夜に咲き続けて朝にはしぼんでしまう。黄色以外は特に月見草とも呼ばれる。一夜だけ咲くマツヨイグサ(待宵草)の儚さが、夢二自身の儚いひと夏の恋と重ねられたのだろうか。
・・・
原詩を元にメロディがつけられ、以下の歌詞で抒情歌『宵待草』として人気の曲となり、今日に至っている。

待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな



(この項、「」HPより)

 「宵待草」は「月見草」とも呼ばれ、太宰治の『富岳百景』には、
 「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草はよかった。富士には、月見草がよく似合う
 という有名な一節があります。
 竹久夢二の「宵待草」、太宰治の「月見草」は、どちらも「オオマツヨイグサ」を指しているようです。

                                      竹久夢二の絵。「黒船屋」。(「Wikipedia」より)


 かつてこの通りは、「東参道」として、けっこう賑わっていたようですが、現在は静かな家並みになっています。


                

成田山から寺台にかけての今昔。

1880年代のようす。成田山の門前町・参道の賑わいが知れます。


2010年代のようす。中央が「成田高校」。右手に「根木名川」。

 
(10:24)「名取亭」。ここから先が「寺台宿」。

「東参道」という標識。人通りはありません。

炎天下、静かな街並みを振り返る。

(10:34)「吾妻橋」からの「根木名川」。
 寺台は、根木名川に寺台河岸(黒川・山小・山六の三河岸総称)を設け、銚子・江戸方面との舟運で発展しました。また、成田山へ舟で参詣する人たちはここで舟を下り、新勝寺に向かいました。水戸街道・我孫子宿から利根川沿いに進み、根木名川から成田山へ向かうコースか?

「寺台」交差点で、国道51号線と合流。広い国道。

(10:43)左手にしゃれた、おそば屋さん。

この真っ赤な花は? 

ブラシノキ
 オーストラリア原産で、観賞用に栽培される。5-6月頃に開花し、花弁は緑で小さくて目立たないが、赤(ときに白)の長い花糸が目立つ。穂状花序をなし、花序全体がブラシのように見える。花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持つ。
果実は朔果で、見た目には枝全体を取り巻く昆虫の卵のように見える。
 花言葉「恋の炎」または「はかない恋」だとか。
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京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その1。成宗電車線路跡。(「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-05-29 21:09:53 | 鉄道遺跡

              久々の街道歩き。今回は成田駅から成田市大栄(たいえい)支所まで、ほぼ国道51号線をなぞる歩き。



 5月25日(土)。快晴。駅を下りると、日ざしが強い(9:46)。街道はまっすぐ門前町として成田山新勝寺まで進むのですが、ここは、かつて路面電車が走っていた「電車道」を行くことに。
 帰りに参道の商店街を歩くことにします。

駅を出てから右手を行き、「成田会館」のところを左折します。
                    遠くにトンネルが見えてきます。

左手奥、高台に表参道。

「第2トンネル」。煉瓦造りで重厚。

                            

 かつてこの道は、「成宗電気軌道(せいそうでんききどう)」という路面電車が通行する軌道でした。


                     

成宗電気軌道(せいそうでんききどう)
 かつて千葉県成田市において軌道事業と電気供給事業を兼営していた企業である。後に成田電気軌道と改称し、さらに千葉県から鉄道路線を譲り受け成田鉄道(2代)と改称した。同社は鉄道事業廃止後成田バスを経て千葉交通となった。
 千葉県唯一の路面電車であった。成田鉄道(現在の成田線の前身)の成田駅から、古くより参拝客の多い成田山新勝寺・宗吾霊堂への路線を敷設する計画は古くからあった。最初は宗吾馬車鉄道という馬車鉄道を敷設する計画が立てられたが、諸種の問題で流れた。
 次に、大阪の資本家才賀藤吉の援助を得ることによって計画が立てられ、これがようやく実現する見通しになった。しかし成田山の門前町が参拝客が通らなくなって衰退することを恐れて反対したため、そこを東に避けてトンネルを掘るなどし、ようやく1910年(明治43年)に一部区間が開通、翌年に宗吾 - 成田間の全線が開業した。
 しかし開業前に電気軌道の作業場から出た火の手が宗吾霊堂に引火して、堂宇と周辺民家の多くが焼けるなどしたこともあり、電気鉄道に懐疑的な人が多く反対運動も多かったことから、利用者はなかなか伸びなかった。さらに才賀藤吉が事業に失敗して資産を失い、援助が得られなくなったりするなど苦境も襲いかかった。
 そして東京の投機業者に買収され、おりしも第一次世界大戦で鉄の価格が高騰していたことから、電車を廃止してレールを売却することを目論んだ。これに対しては地元から猛反対の運動が起こり、千葉県知事が乗り出すなどして、ようやく複線の内単線を撤去することと、保有車両数の15両から6両への削減を行うことで決着した。
 その後京成電気軌道(現京成電鉄)の傘下に入るが、乗合自動車(バス)の登場で客を奪われるようになり、さらには通行の邪魔ということで今度は地元から廃止論が出るようになった。しかし戦時体制によってガソリン供給が統制されると、バスの運行もできなくなったことからこのときは存続した。
 だが結局、1944年(昭和19年)には参詣路線は戦時柄ふさわしくないことと、京成本線とほぼ並行していることから、不要不急線として廃線となった。京成本線には成田の駅の位置を巡って新勝寺門前により近い所への設置を画策して成田電気軌道を買収(1925年)し、その線路を接続する案もあったが、門前の商店街の猛反発に折れ、1930年4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置した。

路線距離:不動尊 - 宗吾間5.3km、本社前 - 成田駅前間0.1km
停留所数:9
1925年3月当時 運行本数:6:30-20:30に5-10分間隔  所要時間:成田山門前 - 宗吾間21分
(以上、「Wikipedia」参照)
運行当時の写真。

                        

                             

 廃線跡の道路は「電車道」と称され、標識も立っています。
「電車道」。

続いて「第1トンネル」。

右手に解説柱。成宗電車のトンネル」。
 このレンガ造りのトンネルは成宗電車という千葉県内で一番古い電車が通っていたトンネルです。成宗電車は通称チンチン電車と呼ばれ、明治43年に成田駅前~成田門前前まで、翌明治44年に駅前から宗吾霊堂まで開通し、昭和19年に廃止になりました。門前前側が第一トンネル(長さ約12メートル、幅約9メートル、高さ約5メートル)、成田駅側が第二トンネル(長さ約41メートル)です。


当時の電線支柱か何かの跡? 

振り返る。 

そのまま参道の商店街へ続きます。

(10:04)正面付近が終点の停留所。

 廃止が決まったあと、残された車両はどいうなったか? 興味深い記事がありました。

 以下、www.hakodate150plus.com/spl/2010/09/100.html HPより)


 箱館ハイカラ號こと39号は今を遡ること100年前の1910年(明治43年)12月に千葉県成田市で路面電車を運行していた成宗電気軌道が導入した車両である。ということで今年は製造100周年の記念の年である。
 何故成田山の御膝元を走っていた車両が函館へやってきたのかを調べていくうちに、39号がいかに幸運かを窺い知ることが出来た。
・・・
◎阪急電鉄に渡った同型車
成宗電気軌道から放出された車両のうち4両は1920年(大正9年)に現在の阪急電鉄が購入した。 
・・・

 函館では現在も現役として走っているのでしょうか?
 思いがけない廃線跡歩きです。
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葛飾区銭湯めぐり。その4。そのぬくもり。「第四富士の湯」、「富の湯」、「喜久の湯」。

2019-05-27 21:06:10 | 葛飾銭湯
         お花茶屋駅南側の道。堀切菖蒲園に向かって進み、交番先を左折。
⑩「第四富士の湯」。葛飾区宝町2-11-8
 格天井が昔ながらの雰囲気。「富士の湯」の名の如く、男女浴槽に覆い被さるような大きい富士山が見事。海の青さと空の青さがマッチしています。 昭和28年創業とのこと。周囲は住宅地ですが、脱衣場に面して内庭があり、湯上がりに庭眺めもおつなもの。
 通りに出ると、コンビニがあり、そこで飲み物を調達、のんびりと西日を背に受けて帰ります。
                   


富の湯」。葛飾区立石2-19-6
 水戸街道から入った「平和橋通り」沿いの「「葛飾警察署」の裏手にあります。住宅と倉庫が建ち並ぶ一画。
 昭和38年創業。建物は50年以上の歴史を刻むとのこと。
 大工さんから廃材をもらって薪にして湯を沸かしているそうです。そういえば最近行ったところで、廃材が山積みされているのを見かけました。
 天井まで続く大きな細かいタイルの壁画がすてき。
 安藤広重の「東海道53次浮世絵」のうち、箱根峠の図柄。芦ノ湖をバックに峠をあえぎあえぎ上る旅人の姿まで表現され、なかなか見事で、見飽きない。(注:掲載した写真の絵柄と異なっています。)
             安藤広重「箱根湖水図」。
 シャンプー類の備え置きがありました(他の銭湯では無いようですが)。、
 バイブラの深槽と浅いお風呂。洗い場はすべてシャワー付き、二つの浴槽のうち、片方が薬湯になるようですが、今回はなし、のよう。どちらもお湯の温度は少し温めで、年寄り向き。
      

喜久の湯」。葛飾区東立石2-21-16
「平和橋通り」から左に入った住宅街にあります。ちょっと道に迷いました。京成立石駅からは「立石大通り」を越え、南へしばらく進み、「本田中学校」の近くにあります。昔ながらの寺社風の屋根ですが、近年改装したらしく、新旧が合体した外観。昭和39年創業とのこと。
 天井も高く、プロペラの扇風機も懐かしい。
 湯船はL字型で薬湯や座風呂、全身ジェットバス、超音波などお湯も細分化されていて(ジェットの水圧がすごい! )、多彩で、それぞれ楽しめます。ただし、譲り合いの精神が大事。

 男湯・女湯にまたがる三保の松原から? 見た富士山のペンキ絵の位置がとても高く、壮観。

 サウナは遠赤外線で、無料。水風呂もあり。
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葛飾区銭湯めぐり。その3。そのぬくもり。「竹の湯」、「寿湯」、「アクアガーデン栄湯」。

2019-05-24 20:03:36 | 葛飾銭湯
 今回は京成線「四ツ木駅」近辺の銭湯巡り。
⑦「竹の湯」。葛飾区四つ木1-16-10
 四ツ木駅の北側。「四つ木公園」の脇。電車から大きな建物がよく見えます。自転車だと道が分かりにくい。奥まったところにその名の通り、若竹色の銭湯が見えます。

 なお、「四つ木公園」には「豊田正子『綴方教室』顕彰」碑があります。

 ◆『綴方教室』のふるさと四つ木。昭和初期、豊田正子さんが本田小学校4年生、5年生の時に書いた綴方が、雑誌「赤い鳥」に何度も掲載され、そのすばらしい作品が『綴方教室』にまとめられると、全国の教師・父兄・少年少女に読まれ、一躍天才少女と呼ばれるほど有名になりました。
 戦中、戦後、そして今も、当時の家庭生活をありのままにしかも生き生きと描いた綴方は、読者に励ましと感動を与えています。
 豊田正子さんの偉業を町の文化遺産として顕彰しようという声があがり、町内からカンパがたくさん寄せられました。町会役員のみなさんの手造りによって「豊田正子『綴方教室』顕彰のしるべ」が完成。平成30年4月1日除幕式を行いました。しるべは、四つ木公園のほぼ中ほどに設置されています。
(この項、「」HPより)

 露天風呂はけっこうな広さ。浴槽は、バブル湯と座湯が中心。かつてのHPの案内だと珍しい「赤富士」が描かれているということでしたが、現在は、真新しいペンキ絵。川の流れと滝の奥に険しい山という趣向が、かえって興味深い。

                                 


寿湯」。葛飾区東四つ木4-19-14
 京成押上線の四ツ木駅の南側に煙突が見えます。狭い道路に面した建物もなかなか立派です。
 お風呂の壁面にはエンゼルフィッシュのタイル絵。湯船には、座風呂とジェットバスがあります。
 お風呂に入りながら内庭の満開のサクラの花(造花? )が見られます。手前に置いてある大きく長い竹が気になりました。
 露天風呂は、岩造りでどこかの温泉地の源泉掛け流し風で、なかなか風情があります。身近な下町で温泉気分を味わえる、という収穫。昔ながらの けっこうな銭湯です。
                  

アクアガーデン栄湯」。葛飾区東四つ木3-45-7
 金町浄水場から高砂、青戸、四つ木とまっすぐに伸びる「水道道」を進み、商店街のセブンイレブンを曲がったところにあります。外観はモダンな建物。
 昭和10年あたりに創業したというから、80年以上の歴史を有する銭湯のよう。2000年まで会社勤めをしていたという3代目が切り盛りしている、とのこと。そのご主人も愛想よく、声をかけてくれます。評判のいい露天風呂は、現在、日曜日にしかやっていないそうで、残念!
 それでも、ジェットバス、ジャグジー風呂など楽しめます(ボタン式)。中でも「電気風呂」。初めて入ってみましたが、けっこう強烈な刺激がありました。そこそこに退散。
 注意書きがけっこう張ってあります。
 特に「おしりを洗ってから入ってください」はユニーク。でも、「清潔一番」というコンセプトがいいですね。
                  

 1階フロアには、生ビールなども販売するスペースがあって、風呂上がりにはちょっとくつろげるところ。自転車の方は飲酒運転になるので、要注意。   
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葛飾区銭湯めぐり。その2。そのぬくもり。「美吉湯」、「さつき湯」、「末広湯」。

2019-05-23 19:25:10 | 葛飾銭湯
 自転車で行き来。周囲は懐かしいところも多いので、寄り道がてら。

④「美吉湯」葛飾区東堀切2-22-13
 京成「お花茶屋」駅の北、「区立双葉中」の少し西北にあります。周囲は住宅街。入口前には大木、周囲にも何本か。煙突も目立ちます。この付近は、懐かしいところ。住宅やマンションが出来て大きく様変わり。50年以上前は周辺には田んぼが広がり、はるか北、亀有付近を通る常磐線が見えた、なんて想像もつきません。
 男湯には富士山。女湯には瀬戸内の情景が描かれている、らしい。井戸水を薪で沸かしているそう。ジェットバスが肩・腰・ふくらはぎ・土踏まずに当たって、実に気持ちがいい。室内が淡い青色で、清潔感いっぱい。
                   


さつき湯」葛飾区東堀切3-27-9
 「美吉湯」のすぐ近く。お花茶屋駅前からの商店街北の外れ、「区立上千葉小学校」の手前にあります。
 男性のみロッカーの鍵を手渡しするシステムを取っていますが、その理由は? 盗難防止か。ここは地下110mから汲み上げる地下水で沸かしているそう。
 「ミストサウナ」があります。サウナはけっこう銭湯にはついていますが(別料金のところもあり)、小生はちょっと苦手です。
 浴槽の背景がなかなかユニーク。タイル張り。
                   


末広湯」。葛飾区宝町1-2-30
 「曳舟川」(遊歩道)の西、「葛飾区四つ木地区センター」の裏手にあります。昔ながらの銭湯の趣。ここは今回初めての番台形式。
 昭和32年頃の創業とのこと。浴場の背景絵は、かつての曳舟川の雰囲気を伝えるものなのか。ただし、背景の山々が気になりますが、実にとても素晴らしいペンキ絵です。眺めているだけで大満足。女風呂の方は、かつてあった菖蒲園「吉野園」をイメージした背景画だそうです。見る機会が無くて、残念です。

以下「」HPより。
【9/9葛飾の銭湯の背景画が面白い】盛況のうちに終了しました
2018年9月9日(日)宝町の末広湯で「葛飾の銭湯の背景画が面白い」が行われました。



歌麿の浮世絵のタイルなども目を楽しませてくれます。

 昔ながらのお風呂屋さんでした。
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葛飾区銭湯めぐり。その1。そのぬくもり。「富士の湯」、「成弘湯」、「アクアドルフィンランド」。

2019-05-22 18:54:08 | 葛飾銭湯
 近年、土・日を中心に街道歩きをしていますが、このところ、土、日、祭日があれこれ所用があり、出かけられません。そのため、ブログも滞りがち。
 そこで、最近はまっている葛飾区内の銭湯巡り。平日の夕方、仕事帰りに「ちょっとひとっ風呂」という趣向。今回から、これまでの分を少しまとめて。

 葛飾区では入浴料大人460円のところ、70歳以上は半額の230円。それを利用して。
 「葛飾区くつろぎ入浴証」。

 区内には、銭湯が47軒ほどあるそうで、ではこれを機会に全部回ってみようという魂胆。かつては家の近所には3軒ほどありましたが、マンションなどに変わって、身近にはなくなってしまいました。それでも、ちょっと足を伸ばせば、まだまだ「銭湯健在」。
 「」HPを頼りに。
 注:お風呂では写真は撮ることはできませんので、掲載の写真は、すべてHPをお借りしました。

 それぞれ、駐車場、コインランドリー、番台、フロント式、サウナ、露天風呂、薬湯など、様々。
 さっそく一日一箇所、週一くらいのペースで挑戦。

富士の湯」。葛飾区亀有2-5-7

 何年ぶりかの銭湯。お湯の温度が家の風呂に比べて、熱過ぎはしないか、脱衣所は、・・・などけっこう気にはなります。久々の銭湯通い。 

 ちょっと道に迷いましたが、何とか到着。「富士の家」というおそば屋さんが目立つ、その手前にあります。外見はお風呂屋さんらしくありません。
 かつての銭湯は番台形式だったですが、最近は、フロント形式が増えてきたようで、ここもフロント形式。混んでいないせいか、広々と清潔感があります。お湯の温度も思ったより熱くなく、浴槽にゆったりとつかることができました。
 昭和36年創業で、初代は新潟からこの地にやってきたそう。現在は3代目を中心に家族で切り盛りしている、とか。


成弘湯」。葛飾区立石6-32-19

 「かつしかシンフォニーヒルズ」のすぐ近く。道路からは少し奥まったところにあり、道路には「遠赤外線サウナ」「超音波風呂」などのアーチ状の看板が目立ちます。また、路地には「おまぬけ倶楽部」という飲み屋さんもあって、風呂上がりの一杯というわけですか?
 昭和29年創業だそうで、昔ながらの千鳥破風の外観が懐かしい。
 フロント付近がちょっと薄暗いか。お風呂は看板通り快適。
                  


アクアドルフィンランド」葛飾区立石7-16-3

 「成弘湯」のちょっと先。「かつしかシンフォニーヒルズ」の交差点を過ぎた、立石駅寄りになります。ネーミングが秀逸。
 昭和30年創業。以前は木造の銭湯でしたが、鉄筋造に建て直ししたそうです。広々とした近代的な浴室で、ゆったり、のんびりできます。
 すぐ近所にある「宮田ボクシングジム」所属の元世界チャンピオン・内藤大助さんの色紙があります。
 イルカの背景画も楽しい。フロアもなかなか居心地よし。
 ここは、けっこう気に入りました。
                  
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じじばばがゆく。看取り編。

2019-05-09 20:59:04 | じじばばがゆく
 お久しぶり。1年半くらい経つかしらね、もう。

 去年の例会、ほら、奥多摩のあそこ。昔、行ったことがあって、行きたかったんだけど。

 亭主の具合が悪くて・・・。

 あれから間もなく、そう、去年10月に亡くなったわよ。
 もう半年も経つのね。あっという間の感じ。

 最期まで家で看取ったわよ。糖尿から透析ってなったんだけど、肝臓も悪くなって、透析できないって。
 特に治療法もなくなっちゃって、本人が在宅がいい、と言うんで。
 私も子供達もそうしようってなって。

 娘が勤めている病院だったんで、そのへんはすんなり決めたわ。けっこう大変だって分かっていたけど。
 最期は家で、っていうご本人の希望を叶えてあげたい、と。

 私の8歳上だったから。

 兄のやっていた金型加工の仕事を独立してやっていたのよね。こっちも子育てから事務までやらなきゃいけないでしょ。
 もうそりゃ、大変だったわよ。こっちも乳がんをやったしね。

 娘達二人も嫁いで、今は、長男だけ。
 結婚、出産、育児、・・・そして、子供達の結婚でしょ。あっという間ね、振り返ってみると。

 そう、孫の面倒も大変だったけど。もう、大学に、高校よ。
 何とかかんとかやってこれたってわけよね。

 親戚関係で幼なじみでもあったのよ、主人とは。
 うちの実家も家内工業だったんで、仕事とか生活は何となく分かってはいたけどさ。

 200坪の土地に家と工場を建てて・・・。必死に働いたわ、主人と一緒になって。
 
 庭の手入れも大変よ、盆栽が趣味だったんで、いっぱい残っちゃった。まぁ、病気になって手入れも出来ずに、ほとんど枯らしてしまったけど。
 木は枯れても、鉢があるでしょ。大きくて重いし。処分するのも大変。市に頼んで、少しは引き取って貰ったわ。

 ほら、何とか焼きとか銘が入っているのは、価値があるらしいのね。でも、残りはどうするのって。あんな重たくてごついのを割って細かくするんだって、おおごとよ。

 でも寂しいわよね。いつも、いつも隣にいた人がいなくなるって。
 部屋の西と東に寝ていたのよね。それがいなくなったわけだから。

 覚悟はしていたけれど、やっぱり寂しいわね。 

 背広だの何だの100キロまでは焼却するのは無料だっていうんで、車に積んで運んだわよ、そこまで。結局40キロくらいオーバーだった。

 認知症が出てきたのよね。ほら、カップラーメンの作り方が分からなくなっちゃう、て話には聞くけど、本当なのね。

 障害認定してもらうために申請して、それからしばらくして係の方が来ていろいろ調べて、それから1ヶ月よ、認定が下りてきたのが、「4」ということで。
 でも、死ぬ4日前よ、その通知があったのが。さすがお役所仕事ね。

 お寺さんは近所にもうお墓を買ってあったので、曹洞宗かな? お葬式は何とか。
 向こうも親兄弟は、皆、亡くなっているし、こっちもそんな風だから、甥とか姪とかが来るだけだった。

 でも、石屋さんに墓石を頼んだり、けっこう大変だった。

 貯金? もう死ぬ前に名義はこっちに変更したわよ。死んだとたん、本人の預金がストップになるって話じゃない。
 50万、50万って小出しに引き出して。銀行の人からはなんとか詐欺にひっかかったんじゃないかって心配されたけど。

 200坪の半分近くは庭だし、私と息子じゃ草むしりも大変だし、どうしようかって思案中。

 主人にはよくあちこち連れて行ってもらった、いい思い出だわ。・・・。

 娘がいつもは夜になると帰るのよ、じゃあ又、明日って。自分の家族があるしね。ところが、その日は、今日泊まるカッコウで来たしって。

 その翌日の朝よ、亡くなったのは。虫の知らせってあるのかしらね。

 肝臓が悪かったけど、黄疸も出なくて、きれいな顔で亡くなったわ。それは最高に良かった。苦しむわけでも無く。

 そう、食事が食べられなくなったのね、まったく。食べなくなると1週間くらいで死ぬそうじゃない、そんなようすだった。

 あっという間の半年だったわ。やっと落ち着いてきたかなって感じ。う~ん、まだかな。

 こうやってお話させてもらって、聞いて貰ってありがとう。

 主人を見送り、いつか自分も子供達に見送られ、・・・。

 『そして誰もいなくなった』(原題: And Then There Were None)(アガサ・クリスティ作)!  っていう感じ。

 寂しいけど、これが人生なのよね。でも、私たち、もう少しだけ、人生を楽しみたいわよね。

・・・

 スカイツリーがきれいによく見えるわね。まだ上まで上ったことがないのよ。今度、孫達を連れて来てみたいわ。

            (「簾」HPより)
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