おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR総武本線「成東駅」~「横芝駅」。その6。上町三叉路。横芝上町。国道126号。第一千葉銚子街道踏切。「横芝駅」。(「銚子往還」をゆく。第3日目。)

2024-03-31 19:27:10 | 銚子往還

商家。

来た道(旧道)を振り返る。

                   左から来ました。街道筋らしい家並み。

横芝駅に向かいます。 

横芝上町郵便局。

              右奥に大きなおうち。

右手に国道126号。

                 「←銚子 匝瑳 東金 千葉→」。

                      ※匝瑳=そうさ。難解地名の一つ。

商家。

            商売はしていないようです。

国道126号を渡ります。

              

「国道126号」:千葉県銚子市から東金市を経由して、千葉市稲毛区に至る一般国道。

              

総武本線の踏切を越えます。

                        「第一千葉銚子街道踏切」。

※「総武本線」は、佐倉から単線になります。

    

横芝駅前。

                  今回はここまで。駅に向かいます。

総武本線「横芝駅」。

西方向。

帰途の車窓より。

               山裾をたどるように旧道は進んでいます。

           

次回は、「八日市場駅」まで。だんだん自宅から遠くなって、2時間以上かかるようになりました。

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JR総武本線「成東駅」~「横芝駅」。その5。出桁造りの商家。八田本村。琴平神社。かつて周囲は沼地。上町三叉路。(「銚子往還」をゆく。第3日目。)

2024-03-29 18:34:34 | 銚子往還

出桁造りの商家。

                現役の酒屋さん? 昔、よくあった「よろず屋」さん的存在。

隣には土蔵。 

左手に槇の生垣が続きます。大きなおうちが多い。奥には田んぼが広がる。

国道126号に合流します。

                       

「八田本村入口」の看板。

田んぼの向こう、西方の山すそに集落があります。「八田砦」跡などがあるようです。

                     (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

       

国道から左の道に入ります。

                        途中、「多古」への道と分かれる。

※「多古町」

北総大地の東側に位置し、東西約13.6km南北約12.9kmで面積は県内町村の中で2番目の広さです。
町中央部を南北に流れる栗山川の流域は、低地で水田地帯が広がり多古米の産地となっています。
北部及び東部は台地が広がり畑地帯を囲むように山林が緩傾斜面となっています。

                   

右手に大きな木造の建物。

                    「こさく呉服店」。「こ」は、変体仮名の

その隣に「金刀比羅神社」。

上町三叉路。

明治時代、この付近には、沼地が広がっていました。

                     (1880年代)「琴平神社」があります。

沼地に挟まれた微高地に街道が通じ,集落が形成されていきます。

※当時の表記では、「従銚子港 至千葉町道」とあります。

                     (現在)

坂田池がかつての沼地。南部は、鉄道、住宅地や田畑となっています。

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JR総武本線「成東駅」~「横芝駅」。その4。東京の開花宣言はまだです。山武望洋中学校。古谷糀店。長屋門。生子宿(はだかじゅく)。(「銚子往還」をゆく。第3日目。)

2024-03-28 18:46:39 | 銚子往還

「国道126号」に出ます。

国道の向こう側に旧道から続くような道があります。旧道かと思いましたが、そうではないようです。

                

※これまでの歩きでは、国道・県道とは左折していく道が銚子往還(旧道)となる場合が多いようです。

国道から遠く東を望むと、踏切を電車が通過中。

※九十九里海岸まで、平らな田園地帯が広がっています。

国道126号線。交通量は激しい。

丘の上には、山武望洋中学校。

「県道62号」と交差。

「←成田・(銚子連絡道路)松尾横芝IC」。

            

この先で左に分かれる旧道に入ります。

        

右手に「天然醸造 古谷糀店」。

             「生みそ 特製こうじ味噌 甘酒 漬物糀」などを製造販売しています。

       

道を挟んで、長屋門の旧家。

      

ゴミ収集箱に生子宿区」と。

この付近の集落は「生子宿」。

「生子宿」は何と読むか? 「はだかじゅく」と読みます。

※他の地域では「おぶす」(奈良県)とか「おいご」(茨城県)とも読むようです。

またしても難解な地名に出会いました。

※言い伝えによると、時代は定かではありませんが、銚子街道を旅していた女性が産気づき、この付近で子どもを産み、宿に着いたときはまだ裸だったことから「はだか」という名前がつけられた、といいます。

(「山武市・市民編集準備委員会」HPより)

この他にも「木刀」(きがたな)、「借毛本郷」(かしけほんごう)、「新泉」(にいのみ)、金尾(かんのお)、弓手(ゆんで)などが紹介されています。

「生子宿不動尊堂」。

       

             国道126号の喧噪とは違い、旧道らしい落ち着いた街並み。

水準点。9.4m。

  この道が、主要な交通路であったことが分かります。      

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JR総武本線「成東駅」~「横芝駅」。その3。「木戸川」。浅間神社庚申塔(山武市有形文化財)。※東京の開花宣言はいつ?(「銚子往還」をゆく。第3日目。)

2024-03-27 19:57:15 | 銚子往還

車も少なく、ほとんど人とも出会わない旧道。

「木戸川」を渡ります。  

田園地帯が広がります。

「木戸川」下流・小松交差点付近は、河津桜が咲きそろう花見の名所になっています。

(2024/3/1 「山武市観光協会」HPより)

下流方向。

陽光の下、のんびりと。

住宅が続きます。

浅間神社庚申塔(山武市有形文化財)。

解説版。

この庚申塔は、今から260年以上前のもので18世紀はじめ、享保元年(1716)9月に建てられました。全体の高さは246㎝で、二段の基礎の上に立つ塔の正面には、悪い鬼どもを足下にふまえた6本の臂を持つ青面混合というご本尊が浮き彫りにされています。塔の上部の唐破風式の笠石の間口や、塔身の幅、基礎の石の幅とこの塔の規模の大きさのバランスのよさが見るものに力強い安定感を感じさせます。・・・庚申塔は、村の安全・豊作を祈る庚申講の人たちが記念として建てられたものです。

旧道はまだ先に続きますが、

右手の国道126号にコンビニや食堂があるので、ここから右折していったん国道に。

バス停「田越(たごえ)」。

山武(さんむ)市に人が住み始めたのは今から3万年ほど前のことです。
 旧石器(きゅうせっき)・縄文(じょうもん)・弥生(やよい)・古墳(こふん)時代の遺跡(いせき)は、成東川・境川(さかいがわ)・木戸川(きどがわ)によって樹枝状に開析(かいせき)された台地上に分布が認められます。川崎(かわさき)・湯坂(ゆさか)は縄文時代中・後期、板附(いたつき)・早船(はやふね)・田越(たこえ)は弥生時代後期の遺跡が確認され、板附から完形の壺形土器が農作業中に発見され、弥生時代後期の集落の存在がうかがえます。
 また、麻生新田(あそうしんでん)・諸木内(もろきうち)・板附(いたつき)・和田(わだ)・富田(とみだ・)真行寺(しんぎょうじ)・大堤(おおつつみ)などの古墳(こふん)は合わせて500基以上を数え、いくつもの古墳群を形成しています。特に3重周溝を有する大堤権現塚古墳(おおつつみごんげんつかこふん、6世紀末~7世紀前半)・板附古墳群(いたつきこふんぐん)には西の台・不動塚(6世紀後半)の前方後円墳、県下最大級の円墳(えんふん)山室姫塚(やまむろひめつか、7世紀前半~中頃)、郡下最大の方墳(ほうふん)駄ノ塚(だのつか)(7世紀前半)があります。
 低地にも同様に縄文時代から古墳時代に至る遺跡が数多く確認されています。
 奈良時代には、武射郡寺(むさぐんでら)である真行寺(しんぎょうじ)が建立(こんりゅう)されました。近接地の嶋戸東遺跡では武射郡衙跡(むさぐんがあと)が確認され、武射(むさ)11郷(ごう・さと)の中心であったことがうかがえます。(「山武市」HPより)

※武社国造や武射郡の読み方「むさ」を受け継いだ「さんむ」の方が古い歴史的な読み方であり、1975年あたりからいつの間にか「さんぶ」に変わってしまったので、重い歴史を持った「さんむ」の方が新しい市に相応しいためであるという。 なお、「山武郡」は現在も「さんぶぐん」が正式な読みである。

「仲よしドライブイン」。

看板が剥げかかり、古びた建物ですが、けっこうお客さんの車が入ってきます。

旧道に戻ります。

上空に航空機の音が頻繁に。

                   ↓。成田空港を出発する航空機が多い。九十九里浜に抜けていくルート。

旧松尾城御殿表門。

                    立派な長屋門。民家の表門になっています。

藩主の居館として建築された御殿の表門。立派な二階建ての「長屋門」形式。1階部分は板張り、2階部分は白漆喰。両脇には潜り戸を設けている。

              

すぐその先に、「宝積寺」。

                     この先で、国道126号に合流します。

・・・

ところで、東京の開花宣言は今日もなし。近所の公団のソメイヨシノも全く咲いていません。

明日の夕方から明後日にかけて雨模様。いったい春は、いつ来るのでしょうか。

以下の写真は、2年前の3月25日のようす。満開の桜でした。

ソメイヨシノ。高速道路下にて。

エドヒガン。

              ヨウコウ。

土手の桜並木を望む。

芝生の上で人々がくつろぐ。

ユリカモメ。テラスにて。           

※今年、向島側の隅田公園は大改修中。一昨年のような桜見物は出来そうにもありません。ユリカモメの姿もあまり見かけません。

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JR総武本線「成東駅」~「横芝駅」。その2。「らぁ麺 富士虎屋」。善兵衛公園。椎の木。いちご街道、ところが、・・・。(「銚子往還」をゆく。第3日目。)

2024-03-25 19:43:42 | 銚子往還

左手に「光明寺」。  

                     

「銚子往還」道。

裏手の小山。

右手に「らぁ麺 富士虎屋」。

らぁ麺 富士虎屋

富士虎(黒)。

2022年12月15日にオープンした大髙醤油直営の醤油ラーメン屋です。お子様からお年寄りまで幅広い年齢層に気軽に醤油を味わってもらうというコンセプトの元、 毎週木曜日 金曜日のランチタイム11:00〜15:00(L.O.14:00)の営業となります。また、ラーメン屋「富士虎屋」は大髙醬油の味を楽しんで実感していただくためのラーメン屋だけではなく、地元山武市の魅力を充分に実感してもらえるよう併設の直売店では大髙醬油の商品はもちろんのこと近隣地域の商品も取り扱っています。(「大髙醤油」HPより)

                   「大髙醤油」のトラックが停車中。

醤油工場の一角という雰囲気ですが。

左手のおうち。

槙の生垣が連なっています。

                      「上総の聖人 善兵衛公園入口」。

※富田みどり里山公園(善兵衛公園)は、地元のボランティアの方々が整備した公園で、公園の一角には郷土の福祉活動に貢献した「大高善兵衛」のお墓があります。
富田地区の自然豊かな景観を楽しめ、園内には河津桜からソメイヨシノまで数種類の桜が約100本ほど植えられており、春にはお花見も楽しめます。

バス停「富田東」。

駒形神社の椎の木。

  

成東町指定文化財 名称 駒形神社の椎の木

この巨樹の樹齢は推定500年以上経過しているものと思われ、太さは目通り周囲5.4㍍あり、町内に点在する椎の木では最大級のもので、本町の自然を記念するものである。・・・

国道126号線に近づきます。

「ぼけない神社 早尾神社入口」。

              こういう効能をうたい文句にする神社は多いようですが。

国道126号線に合流します。

バス停」早船南」。

左手は森が連なり、

右手はイチゴハウスが広がります。

沿道にはいちご園が連なっています。

しかし、この日(3月15日)はどこも休業中。予定が狂ってしまいます。

いい爺さんが一人でいちご狩り、というのも・・・。せめてお土産に、と。

どこか開いているお店は? と探しながら歩いているうちに、

国道から左に入る旧道(往還道)になってしまいました。

車がたくさん行き来する国道から静かな通りへ。

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JR総武本線「成東駅」~「横芝駅」。その1。総武本線。「関東ふれあいの道」。「成東」のいわれ。往還橋・境川。(「銚子往還」をゆく。第3日目。)

2024-03-24 18:40:26 | 銚子往還

3月15日(金)快晴。銚子往還歩きの第3日目。

10時過ぎに、「成東駅」(船橋~千葉~大網~東金~成東)に到着。

「成東駅」は「東金線」の終点と同時に、「総武本線」の駅でもあります。

総武本線 名称は上総国(かずさのくに)・下総国(しもうさのくに)と武蔵国(むさしのくに)を結ぶことに因む。

1972年(昭和47年)、錦糸町駅から東京駅まで地下トンネル化が完成した後(総武快速線)は、「東京駅~銚子駅」となる。錦糸町駅で分岐して御茶ノ水駅に至る支線(総武緩行線)、小岩駅新小岩信号場駅)から分岐して金町駅および、越中島貨物駅に至る貨物支線を持つ。

電車内や駅構内の旅客案内上は主に千葉駅から銚子駅の区間がこの名称で呼ばれる

成東駅前の案内板。

伊藤左千夫の生家などをたどる道(成東駅~東金駅)のようです。

※伊藤左千夫の歌碑が錦糸町駅前(ここで、牧場を営んでいた)にあります。

※「成東」という地名の由来は、成田の東に位置するからではなく(じっさい、成田の南になる)、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のおり、太平洋の荒波が押し寄せ、鳴濤(なるとう)と名づけたという伝説に由来するようです

さて、出発です。

今回は、二つ先の「横芝」駅まで。約10キロのノンビリ手抜きコース。とはいえ、途中の「イチゴ街道」でイチゴ狩りでも、という魂胆。土産にもしよう、と。

この道が旧道のようですが線路で分断されるようです。

総武線の踏切を渡ります。

                    成東駅方向。

下り方向。

「境川」に架かる「往還橋」。

                    この道が「銚子往還」の道であることの証し?

境川(下流方向)。

上流方向。

「境川」

この川が大和朝廷蝦夷の地の境であったからだと言われ、日本武尊が命名したとされている。日本書紀卷第七景行天皇四十年十月の条には「爰に日本武尊、即ち上総より転りて、陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路より葦浦に廻る。横に玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。」との記述がありそれがこの地であると言われる。当時の境川は、現在の作田川とは別個の川として玉浦に注いでいたであろうことは想像に難くない。

(この項、「Wikipedia」より)

先に進みます。

街道筋らしい雰囲気の道。

出桁の商家造り。

このおうちも立派な造り。  

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九十九里鐵道廃線跡。その6。「真亀川」。用水路となっている廃線跡。「堀上(ほりあげ)」駅。「国道126号」。九十九里鐵道の東金駅跡。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-22 18:37:19 | 鉄道遺跡

真亀川の土手から廃線跡(片貝駅方向)を望む。

向こう岸(東金駅方向)に行くため、県道の橋を渡ります。

あぜ道から橋台跡を望む。

田植えの準備が進む。 

「真亀川」下流方向。

                 新しい橋を建設中。 

土手の部分も工事中なので、県道から回り込んで、廃線跡の水路の出会いまで歩きます。

            県道沿いの「ラーメン自動販売機」。最近はやっているようです。

水路になっている廃線跡。「真亀川」方向。

東金市浄化センターの用水路として転用したようです。幅は思ったよりも広い。

「東金駅」方向。

水路脇の道を歩きます。

                           南側に広がる田畑。

しだいに住宅地に入っていきます。

    ボケの花。

「堀上(ほりあげ)」駅は、どの付近にあったのか? 

      

        ↓が「堀上駅」(があったところ)。(「今昔マップ」より)

この先、広い「国道126号」を越え、JR東金駅まで廃線跡は続きます。

            正面の道路ではなく、右手の住宅・空地が廃線跡のようですが。

国道126号線。けっこう交通量の多い幹線道路。

国道を渡って東金駅方向へ向かいます。

右奥の方に廃線跡が続きます。

東金市の市章・桜。(「市役所」前)

JR東金」駅前東口広場。

駐輪場になっている付近に九十九里鐵道の東金駅がありました。

「九十九里鐵道」線は、しばらくJR線に沿って進み、廃線跡にある「山武健康福祉センター」から東に向きを変え、「片貝駅」方向に進んでいきます。

JRホームから廃線跡を望む。

天気は大変良かったのですが、風がものすごく強く、歩くのも大変、田んぼに転げ落ちてしまうか、と。足もとも悪く、・・・。それでも何とか片貝海岸から東金駅までたどり着きました。

路線そのものの距離は8.6㌔ですが、海岸まで歩いたり、回り道をしたので、10㌔くらいの歩きでした。

九十九里町側の遊歩道(軌道道)、路線跡の草道、田植えの準備が始まった水田、住宅地の生活道路、用水路脇の細道、大きな犬に吠えられたり、地元の方と話をしたり、・・・そして、唯一の遺跡・橋台の発見など、けっこう変化のある廃線跡探索でした。

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九十九里鐵道廃線跡。その5。草の生い茂る線路跡・生活道路・田んぼの中の路盤。「家徳」駅。唯一の遺構・橋台跡。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-21 21:32:44 | 鉄道遺跡

通りを越えて、廃線跡を進みます。

しばらく進むと、砂利道に。この先は、土手(路盤)に戻る。

脇道から廃線跡を望む。

振り返る。

          立て看板は、「関東天然瓦斯」の看板だった?

舗装された、生活道路に。

振り返る。微妙なカーブが線路を彷彿とさせる。

都内では見かけない消火栓。

少し広くなったところ。菜の花が満開に。

この付近に「家徳」駅があったようです。

             右の↓が「家徳」駅、左が「堀上」駅。(「今昔マップ」より)

両側に家並みが続きます。

この先、廃線跡は田んぼの中の道に。

右が線路跡(路盤)。

歩いている道は線路跡ではありません。線路跡にはけっこう草が生い茂り、歩くのを躊躇。

唯一の遺構・橋台跡を発見。

片貝駅方面を望む。

東金駅方面を望む。

↓が橋台跡。

「真亀川」に突き当たります。

廃線跡は、この先、水路となって東金駅方向へ進みます。

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3月20日。春分。お彼岸・パーラミータ。ぼたもち・おはぎ・半殺し。ノウルーズ。

2024-03-20 18:34:41 | 世間世界

               

今日は、彼岸のお中日。春は「春分の日」、秋は「秋分の日」を中日として前後3日間、合わせて7日間が「お彼岸」の期間となります。

3月17日(日) 彼岸入り

3月20日(水・祝) 中日(春分の日)

3月23日(土) 彼岸明け

彼岸とは、サンスクリット語の「パーラミータ」(波羅蜜多)の訳語。

仏教各派ではこの日を中心に法要が営まれます。コロナ禍で檀家や信徒が大勢集まれない年が続きましたが、今年は、・・・。

春分は、二十四節気の第4番目。よく昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなるとされるが、実際には昼の方が14分ほど長い。

「七十二侯」では、

・初侯 3月20日〜3月24日頃

雀始巣 すずめはじめてすくう

雀が巣を作り始める頃。

隣の家にあった大きなキンモクセイ。整地され、二棟の新築住宅に。木もなくなり、たくさんいた雀の騒がしいくらいの鳴き声もなし。

我が家の猫たち心なしか寂しそう。何しろ雀の姿と鳴き声に反応していましたから。

今は、遠くからの烏の鳴き声に耳をそばだてています。

キンモクセイも毎年秋には花と強烈なにおいを発散していましたが、それもなし。

新築の家は庭のスペースもまったくなく、敷地いっぱい三階建て。都内では仕方が無いことですが。

こうして、近所でもめっきり雀の姿がなくなりました。緑も花も・・・。

・次侯 3月25日〜3月29日頃

桜始開 さくらはじめてひらく

全国各地から桜の開花が聞こえてくる頃。先週末、隅田川堤では桜祭りの雪洞の飾り付けが行われていました。

去年3月19日。隅田公園(浅草側)では枝垂れ桜が満開でした。今年はまだそこまでは。

         

 

日曜も仕事なのか、サラリーマンが桜の下で。

・末侯 3月30日〜4月3日頃

雷乃発声 かみなりすなわちこえをはっす

雷が遠くの空で鳴りはじめる頃。季節の変わり目であり大気が不安定であることから、雪や雹を降らせることもあります。

(以上、「暦生活」HP参照)

東京地方。最近は、気温の乱高下が激しい。17日は20度℃越えでしたが、一昨日からは一気に8℃以上低下、今日は「花冷え」どころか、真冬並みの寒さに。冷たい雨も降り始めました。その後、突風が吹き始め、今もうなりを立てています。

今年は、当初の予想よりも桜(ソメイヨシノ)の開花が遅いような気がします。近所の河津ザクラや隅田公園(向島側)のオオヒカンザクラは、すっかり散ってしまっていますが。

「暑さ寒さも彼岸まで」とか言いますが、果たしてこれからは? ・・・。

春のお彼岸に食べる「ぼたもち」の由来は「牡丹餅」。春のお彼岸の頃は牡丹の花が咲く時期で、その時期に食べられることからこう呼ばれ始めました。

秋のお彼岸に食べる「おはぎ」の由来は「お萩」です。おはぎに使用する粒あんを秋に咲く萩の花に見立て、こう呼ばれるようになりました。

ぼたもちやおはぎのような、お餅をあんこで包んだ和菓子は、夏は「夜船」冬は「北窓」とも呼ばれます。これはいわゆる言葉遊び的な言いまわし。どういった言葉遊びかといえば、「月」と餅つきの「搗(つ)き」をかけたものです。

ぼたもちやおはぎは基本的に米をついて作らないため、「つき」がないとして、「月のない夜は、いつ船が着いたかわからない」ので「夜船」としたり、「北側の窓からは月がみえない」ことから「北窓」と呼ぶようになったとか。

夏の夜に浮かぶ船や、北窓にちらつく雪の白が、潰したご飯の白とあんこの黒をイメージさせたのではないかとも考えられます。

春に食べられるぼたもちは基本的にこしあんで、秋に食べるおはぎは粒あんで作られます。これは小豆の収穫時期の違いが理由。

小豆は秋頃に収穫されるため、おはぎは収穫してすぐの小豆を使って作られます。収穫したての小豆は香りもよく、皮も柔らかいので、粒をいかして粒あんで食べるのです。

「半殺し」とは東北地方や長野県、静岡県、四国地方などの方言で、比較的山間部で使われていることが多いようです。小豆をこしあんにすることを皆殺し、粒あん(粒が残っている状態)にすることを半殺しと表現します。いずれもお米や豆をすりつぶした状態をさした言葉として流布しています。

           (この項、「」HP参照)

・・・

ところで、この日は、イラン暦では「元旦」にあたるそうです。

かつてペルシャ帝国の文化的影響下にあったイランを中心に、中央アジアからアフリカまでに及ぶ広い地域で祝われる「ノウルーズ」という祭日で、毎年春分の日に各国の文化交流会によるイベントが行われている。(「Wikipedia」より)

次は、二十四節気の第5番目「清明」。4月4日(木)になります。

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九十九里鐵道廃線跡。その4。県道脇を通る。田植えの準備・水田。線路のデザイン。荒生(あらおい)駅跡? 九十九里町から東金市へ。遊歩道から堤上の細道を。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-19 21:26:03 | 鉄道遺跡

「西」駅から次の駅跡へ。

                       廃線跡としてけっこう広く残っています。                            

県道に接近する廃線跡。

振り返る。

田植えの準備が始まっています。

廃線跡の部分?

黄金色の葦(?)の波。

振り返る。

足元には線路のデザイン。

            右手は住宅。左は田畑。            

            

右手に大きな公園。

          九十九里町と東金市の境。バス停。駅の跡ではなさそうです。

ここまでが遊歩道(九十九里町)。振り返る。

この先は廃線跡の堤になります。県道の方に迂回して進みます。

「九十九里町」ともお別れ。東金市入り。

踏み跡があります。

                 遠くに車が駐車中。

    刈られた土手を歩く。

真夏時の草がいっぱいのときには、歩きにくそう。

             右手は工場。

左手には水田が広がる。

あぜ道に咲く紫の花。

新しい広い道を通過。

荒生(あらおい)駅跡?

廃線脇の草。これは?

         

この先で廃線跡は藪の中に隠れてしまいます。

来た道を振り返る。

再び廃線跡が右手に現れます。

用水路を挟んだ脇の道を歩くことにします。

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九十九里鐵道廃線跡。その3。関東天然瓦斯。「←2.5㎞ 甘藷栽培発祥地」・青木昆陽。「西」駅。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-18 20:41:25 | 鉄道遺跡

随所にベンチなどが設置されています。

「関東天然瓦斯」。

南関東ガス田のうち千葉県茂原市を中心とした一帯の鉱区の採掘権を所有し、水溶性天然ガスの採取・販売及びヨウ素の製造・販売を営んでいる。可採埋蔵量973億立方メートルと推定される合計714平方キロメートルの鉱区で、天然ガス採掘権を有する。ただし、天然ガスの生産は地盤沈下をもたらすため、千葉県との協定に基づいて制限している。可採埋蔵量は、現在の生産量の600年分にあたるという

※房総東往還歩きのとき、茂原付近で「大多喜ガス」の大きなガスタンクを見ましたが、廃線後の九十九里鐵道の敷地もこの会社の所有地になっているのでしょうか。

農家の間の道を抜けて行きます。

左方向。

      右方向。

この広い土地には、駅舎でもあったのでしょうか?

      

左手に田んぼが広がります。

右手にはバスが通る県道が。

大きな敷地。                        

振り返る。

通りを越えるとモニュメント。

「←2.5㎞ 甘藷栽培発祥地」。

江戸時代、飢饉による餓死者を救うために、青木昆陽(1698~1764)はこの地で甘藷(サツマイモ)の試作を行いました。現在その試作地に「関東地方甘藷栽培発祥の地」の石碑が建てられています。

サツマイモの普及に努め、栽培奨励を幕府の政策に乗せたのが甘藷(かんしょ)先生として有名な青木昆陽(1698から1769)である。昆陽の墓が、目黒不動瀧泉寺の裏手にあるのをご存じだろうか。樹木に囲まれ、ひっそりとたたずむこの墓は、国の指定文化財(史跡)となっている。

青木昆陽は、江戸日本橋に生まれ、幼い頃からの学問好きであった。享保4年(1719年)に京に上り、儒者伊藤東涯に学んだ。昆陽が甘藷のことを知ったのは、この頃だったといわれている。その後、江戸に帰った昆陽は私塾を開いていたが、町奉行大岡忠相に推挙され、以降、幕府に仕えた。

享保17年(1732年)に「天下飢饉、疫癘(えきれい)行る」と「武江年表」享保17年の項に書かれ、多くの死者を出した大飢饉が起った。昆陽は、甘藷(かんしょ)が地味の肥えていない土地でも十分に生育することに目をつけ「蕃薯(ばんしょ)考」を著し幕府に上書した。これが将軍吉宗にとりあげられ、甘藷(かんしょ)の試作を命じられた。昆陽は早速種芋を取寄せ、小石川御薬園(現:文京区白山東京大学附属小石川植物園)で試作を始めた。1度は失敗したものの、2度目に良好な結果を得ることに成功した。ここで採れた芋は種芋として各地に配られ、甘藷(かんしょ)栽培が定着するもととなった。この功績から昆陽は甘藷(かんしょ)先生と称されるようになったのである。

その後、昆陽は、蘭学研究に打ち込み数々の名書を著し、有数の蘭学者となった。

(この項、「」HPより)

ここが「西」駅跡のようです。

上下線の行き違う駅だったのでしょうか?

                          (「今昔マップ」より)

まだまだ探索が続きます。

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九十九里鐵道廃線跡。その2。遊歩道・「軌道道(きどうみち)」。九十九里町天然ガス。運行当時のようす。「学校前」駅(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-17 19:44:28 | 鉄道遺跡

東金駅まで向かって出発です。

右の道路は廃線跡ではありません。左の住宅が廃線跡に建てられたもの。敷地が四角でなく、細長い三角形になっています。

            左手が軌道跡。

→が線路跡。上が「片貝駅」。

通りを越えると、廃線跡は右にカーブします。

この先で、遊歩道になります。

自転車道と歩道と分離。遠くに大きなガスタンク。

「九十九里町」とある。

千葉県は、南関東ガス田の中心地で天然ガスが採取される地域。九十九里町では、地元の天然ガスを原料とした都市ガスを供給しています。

交差する道路の足もとには、

                       九十九里町の町章とガスバルブ。

用水路を越えます。

現役の頃からあったのでしょうか? 

振り返る。

周囲には田んぼが広がります。

「きどうみち」。

営業当時のようすはどうだったのでしょう? 

九十九里鐵道線は、千葉県東金市の東金駅と山武郡九十九里町の上総片貝駅を結ぶ8.6㎞の路線で、1961年に廃線となりました。1926年の開業後、成東(なるとう)町(現・山武市)や千葉市への延伸は実現しませんでした。九十九里鉄道では、小さな車体の単端式ガソリンカーが使われていました。客車の前面にフォード社製のエンジンを取り付け、バックができない構造のため、終点で向きを変える必要がありました。廃線間際には、鉄道と並行する未舗装の道路に自社の定期バスも運行し、列車と交互に運行しました。乗客が上総片貝駅で尋ねると、駅員が「列車が速いかバスが速いか」を、案内してくれたといいます。

映像は、1961年放送「NHKニュース」より。(「NHKアーカイブス」HPより拝借)

       

               前面にエンジン。

           女性の乗務員。

出発する列車。

畑仕事をしている方に、「これから東金まで歩いて行くんですが」「そうですか。昔はここに汽車が走っていましてね」と畑仕事の手を休めて、懐かしそうに話してくれました。

※設置されていた駅

「東金(とうがね)」 -「 堀上(ほりあげ)」 -「 家徳(かとく)」 - 「荒生(あらおい)」 -「 西(にし)」 -「学校前(がっこうまえ)」 -「 上総片貝(かずさかたかい)」

         右手に「九十九里町立片貝小学校」。

  左手には「九十九里病院」。この付近は、少し広くなっていて、「学校前」駅があったようです。

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九十九里鐵道廃線跡。その1。片貝海岸・九十九里モニュメント。「上総片貝駅」跡。(「銚子往還」をゆく。番外編。)

2024-03-16 18:25:46 | 鉄道遺跡

かつて、JR東金線「東金駅」から九十九里浜の「上総片貝駅」まで「九十九里鐵道」線がありました。

※「九十九里鐵道」

現在はバス専業であるが、社名に「鐵道」が付くのは、1926年(大正15年)から1961年(昭和36年)までの間、東金駅から九十九里町の上総片貝駅までを結んでいた鉄道路線(1931年まで軌道)を有していた名残である。鉄道路線は千葉市や山武郡成東町(現・山武市)への延長も計画されていたが実現せず、1961年3月1日に廃止された。その後も社名に「鐵道」の名を残し、バス停名には片貝に「駅」が冠されるなど、鉄道の名残が見られる。(「Wikipedia」より)

九十九里鐵道線は、千葉県東金(とうがね)市の東金駅と山武(さんぶ)郡九十九里町の上総片貝(かずさかたかい)駅を結ぶ8.6㎞の路線で、1961年に廃線となりました。 

廃線跡は、九十九里町側は「遊歩道(軌道道(きどうみち)」や一般道路として、また、東金市側は水路やかつての雰囲気のまま残されているようです。

さっそく廃線跡を歩いてみました。

「東金駅」からバスで終点の手前「片貝」まで行き、そこから「東金駅」まで廃線跡を戻りました。

※線路(廃線跡)とほぼ並行し、県道が「片貝」まで続いています。

           九十九里浜・片貝海岸(北方向)。

まず片貝海岸まで出て、九十九里の海(太平洋)を望んでから、と。

(南方向)。

九十九里海岸のモニュメントが砂浜に。

            風が強く、人っ子一人いません。

                 

             「TOKYO ← KUJUKURI → HAWAI」。

陸地側。

しばらく眺めて出発! 

「九十九里有料道路」入口。

大きなおうち。

             

来た道を戻って右折すると、

旧「上総片貝」駅。

現在はバスのターミナルになっています。バスの社名には、「・・・鐵道」が付されています。

       

↑が駅の位置、赤線が「軌道道」。                     (「今昔マップ」より)

バス停「片貝駅」。

減便のお知らせ。

平素より、九十九里鉄道をご利用頂き誠にありがとうございます。

この度、限りある乗務員数での運行の維持、経費及び収支的にも大変厳しく、現状を維持する事が大変困難でいます。又、乗務員不足・2024年乗務員改善基準変更等の対応によるダイヤ改正、減便を行います。

1/22(月)より片貝~千葉の片貝ライナーを減便

3/18(月)より一般路線を減便

何卒ご理解ご協力の程よろしくお願いします。

※この路線会社も人手不足などで厳しい経営状態なのでしょうか?

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老いては子に従え

2024-03-14 21:01:48 | 格言・ことわざ

 最近(といっても、何と14年前のブログ記事)のトイレの「日めくり」より。改めて読みなおすと、ますます我が意を得たり。

というわけで再掲。

①「老いては子に従え」=今や「老いても子を従え」になっているような気がします。元気な年寄りが多くて、家族の者がそろそろ「引退を」などと言おうものなら、かえって意固地になって頑張っていく。家族は半分はあきらめ顔。でも平和なのかもしれませんね。

②「驕れる者は久しからず」=今は「驕れる者は久しい」になっていて、いつまでも権力の座に座って、周りの忠告も何のその。驕れるというより、驕っていないと我が身が危うい、そんな危機感がかえってますます驕り高ぶらせるかもしれせん。

③「腹は立て損、喧嘩はし損」=今は「腹は立て得、喧嘩はし得」という感じ。先に腹を立てた方が勝ち。大声でわめきたてると、周りも何だか仕方がなくなって・・・。喧嘩もした者勝ちの風潮がありそうな・・・。

④「言いたいことは明日言え」=今となってはこれじゃ、ダメ!「言いたいことは今言え」の世界。言いたい放題、言った者勝ち!「先んずる者は人を制す」の世の中。先んじられたら、人に制せられてしまうのだから。

⑤「源清ければ流れ清し」=「源は清くても流れは汚し」。出発当初は理念も目的もすばらしく何となく先を期待したが、途中であれやこれやちゃちゃが入って、次第に何だか当初の清々しさは、いつしか汚辱にまみれて・・・。

⑥「木を見て森を見ず」=「森を見てばかりで木が見えず」になってしまって。大向こうをうならせるような立派な総論を発言、大局観を感じさせたのも一瞬。個別具体的な課題や現状が見えてくると、自らの不明を恥じるどころか居直る方が多くなった。当事者はますます怒ってしまう。いやはや・・・。

⑦「七度探って人を疑え」これは本義よりも、今の世相にぴったりになってしまった!

 政治の世界も何もかも、どうも昔の格言のようにはいかないようで。

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JR東金駅~成東駅。その5。「田舎ずし」・大きな巻物。波切不動」。「共樂館」。曲尺手。総武本線「成東駅」。(「銚子往還」をゆく。第2日目。)

2024-03-13 21:09:02 | 銚子往還

バス停「上町」。

左手のお店。

                  「田舎ずし ことぶき」。

「田舎ずし」とは? 立ち寄ってみます。

           大きな巻物。30㎝以上。太さは10㎝。

      恵方巻のはしりのような? その大きさにビックリ!

玉子太巻き、太巻き寿司。玉子の太巻きの具は干瓢と玉子、でんぶ、玉子の方には椎茸が入ってます。
巻き寿司の中で絵を作るのが蘇我や千葉辺りの昔ながらの風習ですが、そこまで凝ってなく、素朴で田舎っぽさがあります。

他にも、うずら豆の煮物などのお惣菜がケースの中に並んでいます。巻きずしはけっこうな大きさなので、持って帰るには・・・。煮物を二種類、購入します。甘さもほどほどで、美味でした。

バス停「波切不動」。

左手高台に、「波切不動」。

成東下町の標高30メートルの小丘「石塚山」(石塚の森)の中腹の岩石上に、成東山不動院長勝寺本堂が建てられています。
 入母屋造りの瓦葺き、間口三間、奥行四間、欄干・回廊をめぐらせた、朱塗りの懸崖造りのお堂です。昭和49年の修復工事によって、石積みの基壇が作られ、その上に、本堂内陣まで通し柱2本を通しています。お堂は計26本の柱によって支えられています。

 寺伝の縁起書によれば、不動尊本尊の由来は、天平年間に行基菩薩を造作したところのものと伝えられていますが、当本堂の創建年代は不明とされています。改修に当たって発見された当院棟札に元和4年(1618年)と記されていたと伝えられており、現在の本堂の建立時期は、少なくとも江戸時代初期にまで遡る建造物と考えられます。(「山武市」HPより)

                   

「作田川」。

「大橋」。

「上総道学発祥の地」。

作田川上流方向。

 

個人のおうち?

             「共樂館」。老舗の旅館。

かつての曲尺手(桝形)のようです。

   

(1880年代) (現在)

JR総武本線「成東駅」に向かいます。銚子往還(旧道)は駅近くで消滅、線路を越えて復活します。

            

「成東駅」広場。

「魁」モニュメント。

成東の地への鉄道(房総本線)の誘致に生涯をかけた安井理民氏への顕彰碑。

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