ここでちょっと寄り道。根岸界隈は見所満載でもある。上の図で赤い線が「音無川(「跡)」。
「笹の雪」。
《句碑》
・水無月や根岸涼しき笹の雪
(みなづきや ねぎしすずしき ささのゆき)
・蕣に朝商ひす笹の雪 子規
(あさがおに あさあきなひす ささのゆき)
※上の句は、明治26年、下の句は、明治30年の作。
「笹乃雪」の名の起り
笹の雪の祖先玉屋忠兵衛なる者 其の頃未だ江戸市中にきぬごし豆富など無かりしに 此のきぬごしを発明しを以て初めとし 上野東叡山の○(一字不明)用を承り候 輪王寺様の御称讃に預り、此は・・・
以下はHPより。
笹乃雪初代玉屋忠兵衛が絹ごし豆富を発明。
元禄四年(約三百二十年前)上野の宮様(百十一代後西天皇の親王)のお供をして京より江戸に移り、江戸で初めて絹ごし豆富を作り根岸に豆富茶屋を開いたのが当店の始まりです。
宮様は当店の豆富をことのほか好まれ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞賛され、「笹乃雪」と名づけ、それを屋号といたしました。その時賜りました看板は今も店内に掲げてございます。
当時の製法そのままに、井戸水とにがりを使用した昔ながらの豆富の味をご賞味くださいませ。
恋人は赤穂浪士
本日は、当店の伝説ともなっている切ない恋のお話をいたしましょう。
時は元禄15年12月14日。ご存知、赤穂浪士の討ち入りがございました。主君の仇討ちを果たした浪士たちは4カ所の大名屋敷にお預けとなったのですが、そのうち大石内蔵助以下17人が預けられた細川様のお屋敷に、当店の豆富が届けられました。上野輪王寺の宮、公弁法親王様のお心遣いです。
当店は、初代玉屋忠兵衛が親王様について京都から江戸へ移ってきたという縁があり、こうしたお使いも珍しいことではなかったのですが、この時届けられた豆富には、別の思いも込められていました。実は、娘のお静が細川家お預けの赤穂浪士の一人、磯貝十郎左衛門に心を寄せていたのです。
最初の出会いは、お静が雪道で足をとられ滑りそうになったのを十郎左衛門が助けた時。そして、十郎左衛門が俳人の宝井其角に連れられて来店したことで2人は再会します。その後も十郎左衛門はたびたび来店したようですが、もちろん本当の名前も身分も明かすことはありませんでした。
赤穂浪士たちのその後は、ご承知のとおりですから、この話に楽しい続きはありません。第一、この恋が片思いだったのか、両思いだったのかも不明。いずれにしても、凛として白いお豆富のように、おぼろで淡いお話です。
HPより。
「東京都指定史跡 子規庵 台東区根岸二丁目五番一一号 指定 昭和三五年九月
正岡子規(1867―1902)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升(のぼる)、本名は常規(つねのり)、別号は獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
新聞「日本」及び「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
著書には俳論『俳諧大要』『俳人蕪村』歌論『歌よみに与ふる書』歌集『竹の里歌』随筆『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』など多い。
子規はこの場所に明治27年(1894)2月から住み、同35年(1902)9月19日病のため没す。母八重妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
昭和20年(1945)戦災によって平屋造り家屋は焼失したが、昭和25年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。平成12年3月 東京都教育委員会」
脱線。獺祭書屋主人「だっさいしょおくしゅじん」と読む。
獺=かわうそ。ニホンカワウソ(日本川獺)は、全国に広く生息し、愛媛県の県獣でもあった。しかし、乱獲や開発による生息環境の変化で激減。1979年夏の目撃例が人間に目撃された最後の例となり、2012年8月、環境省のレッドリスト改訂で正式に絶滅が宣言された。
(以上、「Wikipedia」より。写真も。)
「獺祭」は、山口県岩国市周東町獺越にある「旭酒造」のお酒の銘柄でもある。
弊社の所在地である獺越の地名の由来は「川上村に古い獺がいて、子供を化かして当村まで追越してきた」ので獺越と称するようになったといわれておりますが(出典;地下上申)、この地名から一字をとって銘柄を「獺祭」と命名しております。獺祭の言葉の意味は、獺が捕らえた魚を岸に並べてまるで祭りをするようにみえるところから、詩や文をつくる時多くの参考資料等を広げちらす事をさします。
酒造りは夢創り、拓こう日本酒新時代
獺祭から思い起こされるのは、明治の日本文学に革命を起こしたといわれる正岡子規が自らを獺祭書屋主人と号した事です。「酒造りは夢創り、拓こう日本酒新時代」をキャッチフレーズに伝統とか手造りという言葉に安住することなく、変革と革新の中からより優れた酒を創り出そうとする弊社の酒名に「獺祭」と命名した由来はこんな思いからです。
(以上、「旭酒造」のHPより)
「音無川」跡の道と明治通りとの交叉するところにあった酒屋さんの店先に大きな宣伝が。そこには「山口の山奥の小さな酒蔵」とありました。
「子規庵」正面。
鶯谷の方から来ると、ラブホテルが建ち並ぶ脇を通ってくることに。ここから日暮里にかけては住宅街。
「子規庵」裏手。言ってみれば長屋。ここに日本文芸史的にはそうそうたるメンバーが集っていたことが特筆すべき事柄。
子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。
昭和2年、母八重(83歳)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。 昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。
昭和16年妹律(71歳)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております
(「財団法人 子規庵保存会」HPより)
出身地の愛媛県松山。道後温泉に「子規記念博物館」があります。道後温泉駅から歩いて数分のところ。
掲示板。建物正面の門扉・飾り格子(細工物)が、俳諧雑誌「ホトトギス」の表紙を飾ったデザインを模したものとの解説がありました。
正面入り口。2階窓と扉に注目。「蔵」をイメージしたそうで、立派な建物です。
正面に大きな垂れ幕。「遠足の十人ばかり花の雨 子規」。
入ってすぐのところにある子規の「ブロンズ像」。
館内は、写真撮影禁止。
けれども、じっくり見ていると、時間の経つのを忘れてしまいそうなほど。子規(さらに漱石などゆかりの文人、高浜虚子などの多くの門人達の)句や絵画、生涯が展示され、活字と写真でしか見ていなかった多くの資料の現物(複製もあるようですが)を目にすることができ、改めて子規とその世界を心底、味わうことができました。
道後・松山の歴史展示や「日露戦争と秋山兄弟」などの映像作品も、豊か。
特に、「子規とベースボール」コーナーは興味深い。「野球」のぼーるを最初に用いた人物であるとか、ベースボールに熱中して結核を発病したとか・・・。話では知っていたことでもバットやユニホーム姿など展示で再確認。
うちはつす球キヤツチヤーの手にありてベースを人のゆきかてにする (明治31年作)
子規が亡くなる数時間前に書いた「絶句三句(複製)」なども展示されていました。
①糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
②痰一斗糸瓜の水も間にあはず
③をととひのへちまの水も取らざりき
これらの句にあやかって、子規の命日は、「へちま忌」といいます。・・・
建物脇の子規の短歌。
「足なへの 病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな 鷺にあらませば 子規」
「道後公園」入り口の子規と漱石の句碑。
「冬枯や鏡にうつる雲の影 子規」「半鐘と並んで高き冬木哉 漱石」。どうも漱石の句の方が分が悪い、と思うのは私だけか。
「子規堂」。伊予鉄「松山市」駅近く。子規が17歳で上京する迄住んでいた居宅の復元。帰りの飛行機までの時間がなくて、残念ながら、見学は省略。
JR松山駅前にある子規の大きな句碑。
「春や昔 十五万石の 城下哉」
(以上、以前、松山を訪問したときのブログより)
《付1》上野公園内には、「正岡子規記念野球場」がある。
正岡子規記念野球場。公園の真ん中にある草野球場。公園内のベストポジションにあることには、深い因縁があります。
歌人、俳人で名高い正岡子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889(明治22)年に喀血してやめるまでやっていました。ポジションは捕手。幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたことも。
「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚という人物ですが、読み方(のぼーる)は異なりますが「野球」という表記をすでにその4年前に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規だそうです。
また、「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしています。ちなみに、子規は2002(平成14)年に野球殿堂入りをしています。そういう因縁があるのでは、簡単に草野球場をつぶすわけにはいきませんね。
記念碑。「春風や まりを投げたき 草の原」(子規)。
《付2》上京当時の仮寓の地。長命寺の桜もち「山本や」。さすが健啖家であった子規らしい住まいです。
隅田公園内。
大学予備門在学中の頃。
・向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉
・花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ
・から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん
日暮里駅方向にしばらく進むと、「ねぎし三平堂」。昭和の爆笑王、初代林家三平師匠の資料館。かつての彼の住居を利用した館内に、ネタ帳やテレビ番組の台本など思い出の品々が展示されていて、来館者が楽しめる工夫を凝らしてある、らしい。
正面。
落語会も開催している、らしい。次回の三平堂落語会は 9 月21日(土)。5時30分開演、木戸銭1,000円。
出演:「権助魚」林家 たこ平 。「品川心中」林家 鉄平。「鉄の男」柳家 小ゑん。
www.sanpeido.com/popup2_map/map.htmより。
今回紹介した「笹の雪」、「子規庵」(「三平堂」の斜め右上辺り)、「三平堂」の位置関係。
おまけ。
「三平堂」前の路地。下町的な雰囲気。
(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)
明治10年代のようす。ほぼ中央付近が「笹の雪」、「子規庵(となる前)」などがあるところ。寛永寺、天王寺、徳川墓地などが記されている。「音無川」はもう少し上の方を流れている。