おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その4。ジムニー歴史館。新幹線のガード。用田辻。植木屋さん。「N cafe」。はまぐり最中・・・。寒川町へ。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-03-02 20:02:58 | 中原街道

新幹線のガードに向かいます。

                    前方、右手の建物は、「ジムニー歴史館」。

スズキの小型四輪駆動車「ジムニー」にほれ込み、ジムニーを約30台展示する博物館を建てた男性が神奈川県藤沢市にいる。同市用田の県道45号沿いにある、真っ白い壁面が特徴の「ジムニー歴史館」。館長の尾上茂さん(75)は、ジムニーで海外でのラリーに出場したこともあるジムニー・マニアで、「歴代ジムニーを集めた施設を作り、多くの人にジムニーの魅力を知ってほしい」と、2018年8月にオープンした。車好きの記者が、現地を訪ねてみた。

館内には、初代から3代目の軽自動車のジムニーを中心に、約30台を展示。ジムニーの海外仕様「Samurai(サムライ)」や、オーストラリアから取り寄せ、修復した「ジムニー・トラック」などの希少車、雑誌の企画でジムニーをフォードの四輪駆動車・ブロンコ風に改造した「ブロンコ号」、ボンネットから丸いライトが目のように飛び出たボディーキットをまとった「SANTA MONICA(サンタ・モニカ)」などの変わり種もあり、来場者を飽きさせない。・・・

尾上さんの「大好きなジムニーの展示施設を作りたい」という夢は、自宅近くに広さが適当な土地が売りに出たことから具体化し、2階建ての建物を新築。車両を2階に上げることができるリフトを備え、外装、内装、エンジンなどをピカピカに整備した歴代のジムニーを集めた。「相当な金額がかかったのでは」と質問を向けると、「まあ、いっぱいお金は使いましたね」とほほえんだ。車の前で説明する時より、ジムニーの運転席に座り、ハンドルを握りながら話すと冗舌で、笑顔になる尾上さんの姿に「ジムニーを本当に愛しているんだな」と感じた。・・・

歴史館のスタッフとしても尾上さんを支える妻、ちづ子さん(72)は「自分の好きなことにとことんこだわるのは素晴らしいこと。私自身、ジムニーは3台乗り継ぎましたし、海外ラリー参戦の背中を押したのも私です」と語り、茂さんと一緒に、大きな夢をかなえたという達成感に満ちあふれていた。

(この項「讀賣新聞オンライン・デジタル編集部 長野浩一」より)

ジムニー。

新幹線のガードが前方に。

藤沢市のマンホール。

            中央に藤沢市の市章、その周りに市の花フジをデザイン。

       

「用田辻」バス停。

用田の名は、相模国一ノ宮である寒川神社の「御用田」があったことに由来するといわれ、戦国時代初期にはその名が定着していたようである。用田辻付近は、大山街道・中原街道・厚木街道と合流するところであり、旅籠や茶屋で賑わっていたようである。中原街道に宿場に当たる継立場が置かれていた。

この付近の今昔。

(現在)  (1880年代)東西の道は大山街道。

「中原街道」。

ここに「山田うどん食堂」のお店がありました。北関東ではよく見かけますが。

「中原」バス停。

         この道が古くから続く中原街道の証?

奥に畑が広がります。

「植木商 湘南園」。

 街道の沿道には植木を扱うお店がいくつか。

太い材木を輪切りにした塀。

                        なかなかお目にかかれません。

こちらは、

             「N cafe(植木屋あいはら敷地内)」。

藤沢市にある植木屋「あいはら」は、もともとは植木屋さんでしたが、植木に親しんでもらおうと敷地内を庭園にリノベーション。園内には遊歩道やベンチなどもあり、ゆっくり植木を眺めることが出来ます。

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植木屋あいはらの庭園内にあるカフェ。
メニューは基本的にグルテンフリーで、からだに優しいものを提供しています。

◇植木屋あいはら& N cafe
 住所:藤沢市宮原 1403

◇N cafe
 TEL:080-7944-0302
 営業時間:10:30~17:00
 定休日:不定休

(この項「」HPより)

「はまぐり最中 ゑびすや」。

○はまぐり最中○
創業当時から変わらぬ味のはまぐり最中。はまぐりの貝殻は対になっているものでなければぴったりと合わないことから「夫婦円満」や「良縁」の縁起物とされています。ギフトや手土産に是非。

1895年創業以来110年以上にわたって和菓子店を営み、現在4代目となる店主。地域の皆さまに愛されながら、老舗ならではの伝統的な本物の和菓子を作り続けています。JAさがみ・わいわい市等でもお団子やどら焼き、お饅頭を販売しております!

(「」HPより)

満開の梅。

「菊野屋」。

✿湘南クーヘン✿
材料にこだわった“湘南クーヘン”
地元藤沢の厳選たまごと国産バターのみを使用してお作りしております。卵白別立てで、昔ながらの製法を守り、口どけの良さと食感を大切にしています。

大正10年創業。和菓子と洋菓子のどちらも数多く販売する店内では、ご年配の方からお孫さんのお土産まで、一度にそろえることが可能です。豆から製餡する自家製の餡は、地域のみなさまに大変好評です!是非お立ち寄りください。

藤沢市から「寒川町」に入ります。

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小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その3。大法寺・ピラミッド。高座豚・大久保商店。女坂。綾瀬市から藤沢市へ。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-03-01 09:30:40 | 中原街道

「大法寺」。

深谷交差点に出現したピラミッド。

日蓮宗大法寺が建立した永代供養塔。内部に納骨室と礼拝空間がある。手前、小型のピラミッドはペット用の納骨塔。

「大法寺」バス停。

「比留川(ひるかわ)」。

「早川」交差点。

「高座豚発祥の地」。

高座豚(こうざぶた)は神奈川県旧高座郡で明治時代から飼育されてきましたが、一度は「成長が遅い」「飼育が難しい」などの理由で絶滅の危機に陥りました。
そんな中旧高座郡の生産者と手を取って復活させ、昭和56年から高座豚の生産・販売を開始し、昭和59年には高座豚の商標登録を取得しました。
現在は旧高座郡地域の他に、秦野市、横浜市、平塚市でも高座豚は生産されています。
一般的な豚肉に比べ肉質がきめ細かく柔らかで良質な脂質を含み、その味の良さから「かながわの名産100選」に選ばれています。

大久保商店「豚のみそ漬け」。

「綾瀬浄水場」。右奥に大きく広がります。

                        配水塔。

「佐川急便研修センター」。

道路の反対側に研修用の施設があります。

      「神奈川県内広域水道企業団・綾瀬浄水場入口」。

相模川から取水された水は、綾瀬市にある綾瀬浄水場に送られ、ここで浄水された水道水は、神奈川県営水道、横浜市営水道及び横須賀市営水道に供給されます。綾瀬浄水場は、酒匂川から取水された水を浄水することもできます

             

綾瀬市のマンホール。

        市の木「やまもみじ」をデザイン。

綾瀬市から藤沢市へ。手前のマンホール。

            綾瀬市の花「バラ」をデザイン。バラの花びらの中心に「あ」の文字。

来た道を振り返る。綾瀬市方向。

「女坂(めざか)」バス停。

                      峠になっています。標高28㍍。

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小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その2。厚木基地。「大和ゆとりの森公園」。春日新道・本寥川。廻り坂。道標。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-02-26 19:11:52 | 中原街道

横田基地。広大な敷地。

                     遠くに富士山。

左から来る「現中原街道」と合流します。現在の中原街道は厚木基地を大きく迂回しています。

           左手に「大和ゆとりの森公園」。

南北に長い敷地の公園となっており、ところどころに人気エリアが存在しています。

  1. 仲良しプラザ・売店
  2. わんぱく広場
  3. ふわふわドーム
  4. 健康器具
  5. 多目的リンク
  6. 芝生グランド
  7. テニスコート
  8. 中規模多目的スポーツ広場
  9. 大規模多目的スポーツ広場
  10. ゆとりの森スポーツハウス
  11. バーベキュー広場

右奥に数機の航空機。

歩道沿いに進みます。

             右手が基地、左手が公園。正面には丹沢、富士山。

公園側にある「誘導灯」(滑走路の延長上)。

                 

        

「綾瀬大橋入口」交差点。

左折して進みます(旧道に復帰)。基地内を進んだ旧街道はここからかつての道筋に。

「中原街道(春日新道)」。

「本寥川(ほんたてかわ)」バス停。

寥川。

緩いアップダウンが続きます。

「綾瀬市浄水管理センター」。

     大和市と綾瀬市との市境。

「廻り坂」バス停。

直線の道が続きます。

庚申塔など。

「西 厚木 ? 江戸 道」。

「鶴ヶ岡」バス停。

旧家らしい大きなお屋敷。

梅が満開に。

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小田急江ノ島線・桜ケ丘駅~JR相模線・寒川駅。その1。引地川。「厚木基地」。(「中原街道」をゆく。第5日目。)

2025-02-25 21:02:10 | 中原街道

今回からは、小田急江ノ島線・桜ケ丘駅からJR相模線・寒川駅まで。

2月23日(日)。晴れ。

駅前案内図。上は南方向。

       ※駅構内の案内図は、えてして上が北ではない場合が多い。下車した客の目線に合わせたものか?

「中原街道」に復帰。右に進みます。

踏切を越えた左手に、

解説板。「桜株十一面観世音菩薩の由来」。

此の尊像は昭和11年10月23日瀬谷村の秋の祭りと大和村小学校の運動会の見学の帰りに当時、もの珍しいオート三輪車にて、13名の者が同乗して、小田急桜株一号踏切にさしかかる折から驀進して来たりし江ノ島行きの電車に接触し大音響とともに三輪車もろとも11名即死、2名が重症という大惨事をまきおこし、これを契機に部落の先輩諸志が、交通事故防止を呼びかけ、設立運動をおこし翌昭和12年有志の善意が高まり、浄財のご喜捨により、当時綾瀬村報恩寺の住職の御懇篤なるご教導を仰いで、11名の尊きご魂のご冥福をを祈るために十一面観音菩薩が踏切わきのこの地に安置され、そして二度とこのような事故をおこさぬよう、永遠に交通安全を願い菩薩のご加護を祈願し慈に尊像を設立致しました。桜ヶ丘自治会

※「桜株」は「桜ヶ丘」の旧地名。

 「新道下大橋」。

「引地川」。

読み方・振り仮名は行政上は「ひきじがわ」で統一されたが、「ひきちがわ」「ひきぢがわ」などもある。河口はシラスウナギの捕獲で有名である。

河川名の由来には諸説があるが、台地からの出口に当たる藤沢市稲荷付近で、砂丘を断ち切って河道を付け替えたことによるという説が有力である。かつては場所により長後川、大庭川、清水川、堀川などの名称で呼ばれていた。

湘南砂丘地帯に出てからは、かつては自由蛇行を繰り返し、大水の度に河道がつけ変わっていた。昭和初期に神奈川県の手で河川改修が行われ、現在の河道に固定された。相模湾東部の沿岸流は東流するため、河口は東に移動しがちで、江戸時代の絵図には境川下流部に合流するものも見られる。(「Wikipedia」より)

現中原街道は、大きく左に曲がる。

が、旧道は右に進んでいきます。

右手に厚木基地のフェンスが続きます。

厚木海軍飛行場。

神奈川県綾瀬市大和市にまたがる軍用飛行場で、アメリカ海軍海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。県内で唯一、固定翼ジェット機が離着陸できる航空施設である。航空管制は海上自衛隊が行なっている。

アメリカ海軍は空母ロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)艦載機の第5空母航空団(CVW-5)の本拠地として使用しており、海上自衛隊は第4航空群、実験航空部隊の第51航空隊、輸送航空部隊の第61航空隊の航空基地として使用している。

通称は厚木基地厚木飛行場。海上自衛隊の基地としては厚木航空基地、在日米軍施設としては厚木海軍飛行場と呼ばれる。米軍内における名称はNaval Air Facility Atsugi米海軍厚木航空施設)である。

1945年(昭和20年)8月30日ダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。このとき、彼が細いコーンパイプを咥えてタラップを降りる写真(『ライフ』カメラマンのカール・マイダンス撮影)が現存し、日本の敗戦や連合国による占領時代を象徴する1枚としてしばしば用いられる。

総面積約506.9 haのうち、約395 ha(全体の約78 %)が綾瀬市で、残りが大和市である。

(「」より)

※厚木基地は綾瀬市と大和市にまたがって所在しており、厚木市にはない。なぜ厚木基地という名称なのか、由来については諸説あるが、いずれも確証がない。

上記の写真でも分かるように、市街地に囲まれている。騒音訴訟が5次にわたって行われ、さくねん11月20日に第5次訴訟の地裁判決が出ました。

・・・

 「とんでもない不当判決だ」。第5次厚木基地騒音訴訟で、横浜地裁は20日、過去分の騒音被害に対する損害賠償のみを認めた。閉廷後、弁護士らが「差し止め認めず」などと書かれた紙を掲げると、地裁前で待ち構えていた原告団からは怒号が上がった。

自衛隊機差し止め認めず 過去被害に59億円賠償命令―第5次厚木基地騒音訴訟・横浜地裁

 午後2時半からの判決言い渡しは、裁判長が主文を読み上げただけで閉廷。傍聴していた原告らも裁判所前で合流し、約100人が怒りや不満をあらわにした。

 原告団副団長の高久保さん(80)は、「第4次訴訟の地裁判決では飛行差し止めを認めたのに、今回は認めず怒りを感じている。裁判所は爆音被害者のことをまったく考えていない」と憤った。

 原告団はその後、横浜市内で報告集会を開催。福田護弁護団長は「(第4次訴訟の)最高裁判決をただ引用するだけで、(われわれの主張に)耳を傾けようとする姿勢がない判決だった」と批判した。一方、認められた賠償額については「基準額は過去最高の水準だった」と評価した。

 原告団長で神奈川県大和市議の大波修二さん(78)が「控訴したい」と宣言すると、会場からは拍手が湧き起こった。

(「時事ドットコムニュース」HPより)

フェンス沿いの直線道路を進む。 

日曜日のせいか、飛行機の騒音は聞こえなかった。

※本来の旧道は基地内にあったか?

この付近の今昔。

                             (現在)黄色の線が現中原街道。

                             (1880年代)現基地内を直線で進んでいた。

       左手には「富士山」。

振り返る。

「代官3丁目」バス停。

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「相鉄線・三ツ境駅」~「小田急・桜が丘駅」。その3。「境川」・新道大橋。(「中原街道」をゆく。第4日目+α)

2025-02-17 18:35:13 | 中原街道

丹沢の向こうに富士山。

「宗川(そうせん)寺」。

宗川寺は寛永2年(1625)富士重須本門寺第十二世日賢上人開山、開基は石川宗川。
山門を入ると左右の夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、近所より多くの参詣があり、いまは横浜市の名木と指定された大樹である。
「宗川寺」バス停。

中原街道瀬谷問屋場跡
中原街道瀬谷問屋場は天正6年(1578年)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸ー平塚間五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果した。(これより東方80米、桧林がその跡である。)(瀬谷区役所掲示より)

「境川」に架かる「新道大橋(しんみちおおはし)」が見えてきます。

上流方向。

下流方向。

「新道大橋」。

※「山山家」は地元では評判のいい居酒屋さんのようです。インパクトがあるネーミングと外装。

欄干の照明灯が洋風。

振り返る。「横浜市瀬谷区」。

「境川」は、源流から河口(江ノ島)まで歩いたことがあります。

※源流から町田市先までは「都県境」(東京都と神奈川県の境)。中流から、神奈川県内を流れる。

境川は、県北部の城山湖付近を源として都県境を南下し、藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ、流域面積約211平方キロメートル、延長約52キロメートルの二級河川です。

片瀬橋から河口を望む。江ノ島を望む。

その時の写真(右岸沿いから見た「新道大橋」)。

                      

「大和市」へ。

上り坂が目の前に。この付近から、道路の拡幅工事が大がかりに行われています。

来た道を振り返る。

                   けっこう上ってきたようです。

自転車が必死に。下りも大変そう。

「都市計画道路丸子中山茅ヶ崎線街路整備事業」。大和市内の県道45号線の4車線化事業のようです。

坂を上ると、丘陵へ。

             心なしか富士山が大きく見えてきます。

「桜並木歩道橋」。右に折れると、「桜ヶ丘駅」に。

「桜株」バス停。

付近に「桜株」という地名があり、駅周辺にの名所が多かったことから、「桜ヶ丘」と名付けられる。「桜株」にしなかったのは、駅の開業前に桜株の踏切(通称、中原街道との踏切(現・桜ヶ丘1号踏切))で踏切事故があり、イメージが悪かったためである

大和市のマンホール。

             大和市の市の花「ノギク」のデザイン。

駅前のロータリー。

          「大和市コミュニティーバスやまとんGO」

今回はここまで。小田急江ノ島線「桜ヶ丘駅」から「中央林間駅」。東急田園都市線に乗り換えて、渋谷経由・半蔵門線で戻ってきました。

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「相鉄線・三ツ境駅」~「小田急・桜が丘駅」。その2。「梛(なぎ)の木石碑」。「海軍道路(環状4号線)」。(「中原街道」をゆく。第4日目+α)

2025-02-16 21:32:59 | 中原街道

相変わらずアップダウンが続く道。

「梛(なぎ)の木石碑」。

弘化元年(1844年)江戸城に大火がありその際、この中瀬谷の「島津久利」が、薩摩から取り寄せた梛の木の苗を植樹して育てたものを伐採して、中原街道を江戸まで急送して江戸城を復興させたという。

※梛木・ナギの木は古来から縁起がいい植物とされ、日本各地の神社でご神木とされているほか、呼び名が凪(なぎ)に通じることから、海の安全のお守りともされている。

20m以上の大木になり、葉脈に沿った方向に引っ張ると、なかなか引きちぎれないことから、「チカラシバ」「センニンリキ」「ベンケイナカセ」などの別名がある。

(「」より)

※碑の周囲にはこうした巨木はありません。小さな空間にベンチが二つ。

「梛の木石碑前」バス停。

碑の前から振り返る。

先に進む。ゆるい上り坂。

右前方遠くに富士山。

けっこうはやっている味噌ラーメン店「麺場 田所商店」。

交差している道路は、「海軍道路(環状4号線)」。

海軍道路(瀬谷区・瀬谷中学校前交差点 - 瀬谷区・旧国道16号). 市内2位の長距離直線道路である。

元「上瀬谷通信施設」の西側を通っているため、通称「海軍道路」。

上瀬谷通信施設(かみせやつうしんしせつ)は神奈川県横浜市旭区上川井町瀬谷区北町瀬谷町に所在した在日アメリカ海軍基地(面積:2,422,396m2)。旧日本海軍の基地を第二次世界大戦後に接収して運し、2015年6月30日に施設を含めた土地全体が日本へ返還された

上瀬谷通信施設の海軍広場のヘリポート、2011年11月8日の防災訓練で撮影

旧日本海軍の倉庫施設として使用されていたものが、太平洋戦争の終戦により米軍に接収され通信基地となった。いったん接収解除されるも1951年に再接収された。返還時には部隊は常駐しておらず、在日米海軍厚木航空施設司令部の管理下となっていた。

海軍道路の桜並木(2024年)

フェンス等で囲まれて事務所などが位置する囲障区域は立入禁止区域となっていたが、囲障区域外は農耕野球場等の使用が認められているほか環状4号線(通称「海軍道路」)が通過して一般の通行が認められていた。海軍道路沿いはが多く植栽されて花見スポットとしても知られ、毎年4月の第1週目の土曜日に施設内の海軍広場で「日米親善桜祭り」が開催された。

瀬谷区の15パーセント (%) 近くの面積を占めていたことや本施設が海外からの微弱電波を受信する目的であったことから、同区の北半分は米軍から「電波障害防止地域」に指定されて1995年3月まで建物の高さ規制などが課され、瀬谷区の開発が遅れた

上瀬谷通信施設周辺の空中写真

画像上方に東名高速道路横浜町田インターチェンジ、左上から右側中央にかけて斜めに走る道路は国道16号保土ヶ谷バイパス、通信施設敷地中央を南北に走る直線道路が通称「海軍道路」である。
1983年撮影の6枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

(この項「Wikipedia」より)

「地神前」バス停。

この先、左手に「地神」と彫られた石塔など数基がまとめられている。

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「相鉄線・三ツ境駅」~「小田急・桜が丘駅」。その1。「三ツ境(みつきょう)駅」。「二ツ橋地名由来の碑」・石橋供養塔・道標。和泉川。厚木街道。(「中原街道」をゆく。第4日目+α)

2025-02-15 14:18:35 | 中原街道

夕方から予定が入り、短い距離を歩くことに。往復の電車賃を考えると、ずいぶんの無駄遣いでしたが。

前回の駅、相鉄本線「三ツ境駅」から小田急江ノ島線「桜が丘駅」まで。その先まで歩いても、バスで「桜が丘駅」まで戻るしかなさそうなので。

※「三ツ境」は「みつきょう」と発声するようです。「みつさかい」ではない!

駅前の歩道橋から、

遠くに真っ白な富士山。

               手前に丹沢・一番左が大山。

駅前から「中原街道」へは、住宅地で迷いましたが、やっと

                                 「中原街道」へ。

「二つ上橋」交差点。

※「二ツ橋」は和泉川下流(南)に架かる橋。

「二ツ橋地名由来の碑」。

           隣に「瀬谷村瀬・・・」、「石橋供養塔」など

  

「相模野の 流れもわかぬ 川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな(道光親王 文明16年11月 詠)

 しみじみと 清き流れの 清水川 かけわたしたる 二ツ橋かな(徳川家康 慶長18年12月 詠)

二ツ橋地名の由来はこの歌のいずれかは詳さではないが、二首ともにこのあたりの清らかなたたずまいにふれて詠まれたもので その昔は豊かな自然に恵まれた土地であったと思われます。

二ツ橋学舎跡

ここより東方100mにある二ツ橋学舎跡は、文久3年(1863)山名平左衛門義実が此の地に学舎を創設、武相二州に亘って学業の実を挙げその子弟から数多くの人材を輩出、明治大正の時代にかけての指導者は山名先生の訓育によるものが多かったと伝えられています。」

しみじみと 清き流れの 清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな 

徳川家康公詠まれたるものと伝えられ二ツ橋町名の源となる

中原街道道標。「右 八王子往来 左 神奈川往来」。

この付近の今昔。

                               (1880年代)「二ツ橋村」とある。

※北上すると、「川崎宿」にも通じていた。

                             (現在)「和泉川」の川筋が整備されている。

※中原街道と交差する直線道路は「厚木街道」。旧厚木街道は「三ツ境駅」付近に残っている。

和泉川は、旭区との境にある瀬谷市民の森付近を源流として、瀬谷区・泉区をとおり、戸塚区で境川に合流しています。瀬谷区内では、二ツ橋から宮沢の約2.8km区間で6つの水辺が整備されており、この長い区間が水と緑で繋がっていることが一番の魅力となっています。

(右が北方向)

「南台」交差点。交差するのは「厚木街道」。

江戸時代は大山道、相州道とも呼ばれ、厚木より東海道 保土ヶ谷宿神奈川宿を結ぶ道であった三ツ境から東希望が丘、二俣川小学校前を通り、本村町本宿町三反田町市沢町を経て保土ヶ谷区内に入る道で、江戸時代より明治中期まで賑わった旧道とされる。(「Wikipedia」より)

西方向。

○が、「二ツ橋地名由来の碑」がある交差点。↓が「厚木街道」、直線化されている。 (「今昔マップ」より)

先に進みます。

「茅ケ崎まで20k」。

現在の「中原街道」は、茅ケ崎に向かいます。

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三ツ境駅」。その5。都岡(つおか)辻。帷子川・「御殿橋」。階段を上がる旧道。矢指(やさし)一里塚跡。矢指市民の森。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-10 20:18:15 | 中原街道

やっと下り坂に。

 「都岡(つおか)辻」バス停。

?? 「米国車両保管施設」。

           ホットロッダーかアメ車好き以外立入禁止。アメ車が展示されています。

その手前には「水道道プロムナード 帷子(かたびら)川ルート」。

「帷子川」に架かる「御殿橋」。

旧中原街道の一部である『御殿橋』は、東海道の裏街道にかかる橋として、歴史的な価値を持ったものである。道は虎ノ門に通じ、古くは、徳川家康が江戸入場のとき(天正18年=1590年)に、この橋を通行したといわれています。
 家康は、その後この橋を改修し、鷹狩りや民情視察などでよく利用したとのこと。
 また、江戸時代初期(慶長18年=1613年)に家康が相州高座郡の中原御殿(平塚市)へ行く途中、この付近でお茶をたてたので、このあたりを「御殿丸」という字がついたという。橋の名称も徳川家康にちなんでつけられたものである。

「帷子川」。

安藤広重「帷子橋と帷子川」。

帷子川は旭区若葉台に源を発しています。中堀川、今井川などの支流を合わせ、相鉄線に沿って流れます。横浜駅西口付近で石崎川、新田間川、派新田間川に分派し、横浜港に注いでいます。昭和33年、台風22号(狩野川台風)が流域に大災害をもたらしました。これを契機に本格的な河川改修工事が始められました。横浜市の事業区間は、中堀川合流点より上流の6.17kmです。
 現在、帷子川は年超過確率1/6.3の規模の降雨に対応できるよう河川改修を実施中で、下川井町周辺まで改修が完了しています。また、河川敷空間(中堀川合流点~鶴舞橋、延長600m)を有効に利用し、地形や自然、水の流れなどの渓谷風景が生かされた親水公園を整備しました。工事は昭和58年度に着手され、昭和63年度に完成しました。この親水公園は市民の皆さんが、水辺に親しめるよう「水と緑と歴史のプロムナード事業」の一環として整備しました。(「横浜市」HPより)

※現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、かつては「かたひら」と呼ばれていた。その地を流れていたので「かたびらかわ」と呼ぶようになったともされているが、名称の由来については諸説ある。

※「帷子」=帷子は裏地のない1枚の着物のこと。装束をつけるときに汗取り(下着)として着たり、夏に身につける着物として用いられた。

「保土ヶ谷バイパス」が見えてきます。

くぐると、左手に急な階段が。

「平塚の中原から江戸の虎ノ門に通じる旧街道 1590年家康が江戸入城の時に利用した。」と記されてある。

急な階段で、当方、疲れ気味なので、少し回り道をして旧道に入ります。

旧道は階段を上ったあと、この地点まで上がってきます。

旧道に復帰。

右手に「一里塚跡(矢指(やさし)の一里塚)」碑。

旧中原街道の一里塚があったところです。中山の宮下(現緑区中山町)へ一里、桜株(現大和市上和田)へ一里です。

左手、眼下を望む。

旧道は丘陵の端を進んでいく。この辺りの標高は、80m程。この付近もけっこう起伏があるところのようです。

展望台にある案内図。

「史跡 岩船不動尊」。

先に進みます。カーブの様子など、旧道らしい道筋。横浜市のマンホール。

「矢指市民の森」まで来ましたが、たまたま休憩中のタクシー運転手に声をかけたら、OKしてくれたので、「三ツ境駅」までタクシーで。

まだまだ先はあったのですが、今回はここまで。

         ↓が旧道。                           (「今昔マップ」より)

「三ツ境駅」。

        遠く西の方に丹沢山塊が見えます。一番左が「大山」?

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三ツ境駅」。その4。相変わらず、上り下りの坂道が続く。「よこはま動物園ズーラシア」。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-09 18:23:23 | 中原街道

2段階の上り坂に。右手に「は」という大きな看板。

歯医者さん? 「はま寿司」の看板でした。

先が見えないので、下りかと思うと、それが・・・

いったん下った先に、はるか高い上り坂が見えてきます。

けっこう疲れる道筋です。オートマの車だと何の苦もなさそうですが、マニュアル車だとけっこうギアの切り替えが大変かも知れません。

雪国のように積雪があったら、路面凍結でも大変な事態になりそうなくらい、車が連なっています。

「中堀川プロムナード」。

雨水排水路として使われていた中堀川を下水道整備に伴い、せせらぎが流れる水と緑が豊かなプロムナードとして再生したもの。中原街道が起点で左手下に続きます。

↓がこの付近。                                 (「今昔マップ」より)

中原街道は、ほぼ直線道路のため、丘陵地帯と谷戸(谷筋)とを上ったり、下ったりする道筋になっている。

※千葉の「東金御成街道」(津田沼~東金)も、ほぼ直線で造った道なので、丘と谷と交互につながり、上り下りの連続で腰を痛めました。

地元の方も自転車は大変そう。電動アシスト自転車でないと、上りは大変。下りは今度はスピードが出て・・・。

青年が中原街道を自転車で制覇しようというのでしょうか、必死にペダルをこいでいます。数は少ないようですが。

「よこはま動物園ズーラシア」。

「生命の共生・自然との調和」

「生命の共生・自然との調和」をメインテーマに掲げるよこはま動物園ズーラシア。

この「ズーラシア(ZOORASIA)」という愛称は、動物園(ZOO)と広大な自然をイメージしたユーラシア(EURASIA)の合成語で、平成8年(1996年)秋に市民公募で選ばれました。

生息環境展示や世界の気候帯・地域別にゾーニングすることにより、世界旅行ができる動物園として植物や自然環境について楽しく学べます。

 

      

園長から皆様へ 村田 浩一

よこはま動物園(ズーラシア)は、世界中の野生動物を、展示、飼育、繁殖させている国内でも最大級の動物園です。

絶滅寸前の希少種の野生復帰や、そのための研究にも積極的に取り組んでいます。

野生動物を展示飼育する目的と意義は、野生動物の生態や行動を身近に学んでもらうこと、目の前にいる野生動物が暮らすことのできる地球環境の豊かさを知ってもらうこと、命の大切さを再認識してもらうこと、そしてヒトと野生動物が共存できる世界の大切さを理解してもらうことです。また、動物を観察することで自分たちの生活-ライフスタイルを見つめ直し、新たな生き方の発見につながることにも期待しています。

ズーラシアは、環境教育と野生動物保全と動物学研究とリクリエーション(ライフスタイルの再創造)を目的として一般公開されている生き生きとした『総合地球環境ミュージアム』とも言えます。

私たちが心から望んでいるのは、ズーラシアで遊び、楽しみ、そして感動する中で、ズーラシアが皆さまに伝えたい目的や意義を知らず知らずの内に学び身につけてもらうことです。

どうぞ、ズーラシアで動物たちとの出会いを大いに楽しんで下さい。私たちも、皆さんが動物園で楽しみながら学べるよう、精一杯のお手伝いをしたいと思っています。

ズーラシアへのご来園をお待ちしています! 

(この項「よこはま動物園ズーラシア」HPより)

上り坂。

「神奈川県立横浜旭陵高等学校」。

          この左手前に旧道が残っていたようです。

振り返って望む。上り下りが激しい。

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三ツ境駅」。その3。リハビリも一段落。落合橋・鶴見川。JR横浜線。長坂・長坂谷(ながさかだに)公園。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-08 20:27:53 | 中原街道

昨日、7日で「東部地域病院」での診察を終えました。

「手術しなくてよかったですね。ホオー、そこまで手が動かせるようになったんですね。ここまで回復出来たのは、リハビリを行っているからですね。今日で診療は終わります。リハビリはもう少し続けてもいいかもしれません。」

「たいへん助かりました。有り難うございました。・・・」

11月21日に大けがをして、2ヶ月半。リハビリは今月末までは通うことにします。

※3月1日から利用している路線バスの料金が値上げされるそうです。タイミングよすぎ!

ということで、3ヶ月続いた病院通いも、もうじき終わりに。

職場をはじめ、知人・友人の皆さんに、心配やらご迷惑をおかけしました。お詫びするとともに、厚く御礼申し上げます。

・・・

さて、「中原街道」歩きの報告。その3。

「緑産業道路」との合流へ。 

                      右折して進みます。この道が「中原街道」になります。

「地蔵尊前」バス停。広い幹線道路になる。

けっこうはやっているおそば屋さんのようです。

           「蕎麦処 味奈登庵」。

向かいには大きなタヌキ。「不用品引き取り」

「箱根」の大型スクリーン。「仙石原のすすき」。

「鶴見川」下流方向。

           上流方向。

この先、長い上り坂が見えてきます。 

「落合橋」土手沿いに遊歩道。

「落合橋」バス停。

「中山橋」。JR横浜線に架かる陸橋。

眼下に横浜線の線路。

「中山交差点」。

左手に旧道が短く残っています。

       

旧道を振り返る。

長い坂「長坂」を上り始めます。

振り返るとけっこう上ってきました。町並みが遙か彼方に。けっこう😇しんどい!

この辺りが一番高いところ? イヤ、まだまだ上りが。

「遊水池」。

上がって来た坂道を振り返る。

車はひっきりなしに続く。

頂上付近に「長坂谷(ながさかだに)公園」。

「長坂谷」という名が谷戸の地形を連想させるが、公園は丘の上の立地で周囲に視界が開けている。・・・「長坂谷公園」となる以前は「長坂スポーツランド」として利用されていたが、芝生広場や遊具類などを拡充し、2001年(平成13年)に「長坂谷公園」となり、翌2002年(平成14年)に全面開園となったものという。公園は中原街道の東側に位置し、公園東側は緑区上山の町が近く、南側は旭区との区境に接している。・・・。広い敷地の中にテニスコートや野球場などを配した「運動公園」だが、草はらの広場や大型の遊具類も設置されており、子ども連れで訪れてのんびりと過ごすのにもよいところだ。

ここで小休止。

「境」バス停。ここからしばらく下り坂。

「長坂」信号。

通りの向こうの森は、「四季の森公園」

県立四季の森公園は、里山の風景が残る風致公園です。
早春、キブシの花が咲くと、ナノハナ、サクラ、ヤブデマリが次々と開き、夏にはホタルやトンボ等の虫たちが姿を見せ、秋は紅葉が園内を美しく彩ります。その名のとおり、一年を通して四季を楽しめます。

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三つ境駅」。その2。佐江戸町へ向かう下り坂。バスの便の減少。飛び出し坊や。佐江戸町。「戸・砥」の考察。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-06 19:00:00 | 中原街道

下り坂。かなりの急坂。

といっても、緩い上り、下り坂はあります。

道のわきに小さな祠。

「滝ケ谷戸」バス停。坂の多い街ですが、バスの本数は極めて少ない。

車などの便のない、お年寄りは気の毒な感じ。

バス停にやってきた老女。「減らされる一方よ。ホント困っちゃうわ。横浜市は何をやってんのかね」。

久々の「飛び出し坊や」風の看板。自作? 小さく、やさしい顔立ち。

東海道歩きの時には滋賀県付近からゴールの京都まで、たくさん見かけましたが、関東では珍しい。

※飛び出し坊やは、1973年に滋賀県東近江市にある「久田工芸」にて誕生しました。もともと地元の看板屋さんだった久田工芸が社会福祉協議会より「急増している子どもの飛び出し事故を防ぐ看板を作ってほしい」と依頼を受けたことがきっかけでした。

1973年に誕生した飛び出し坊や。2023年で生誕50周年です。

閑話休題。

「佐江戸町」に入ります。

「山王前」の信号で右の道を進みます。 

                                           マンションに「佐江戸」の地名が。

 

                                 「佐江戸」交差点。

※この付近の標高は11.8m(「今昔マップ」による)なので、40mほど下ってきたことになります。

「恩田川」が「鶴見川」に合流する「佐江戸」は交通の要衝であった。鎌倉時代には武蔵国都筑郡佐江土郷と呼ばれた。戦国時代猿渡内匠助小机城(今の港北区小机町)の支城として佐江戸城を築いたとされる。猿渡氏は大國魂神社の神主家であった。隣の川和町でも川和城が築かれており、重要な地であったことが分かる。この頃は北条氏尭の領地であり、記録には北条氏尭が百姓に、今後は人夫役などを全て免除するとしたとある。

江戸時代以降は都筑郡佐江戸村であった。1671年継立場を巡って中山村と対立。幕府は当村であると判断を下した。江戸後期には神奈川宿の助郷役となった。1889年市町村制によって都筑郡都田村大字佐江戸に変更。1934年1月町制が施行されたことに伴い都筑郡川和町大字佐江戸に改称。1939年4月、横浜市港北区に編入され、大字佐江戸の地に佐江戸町を新設。小麦を中心とした農業が盛んだったが、やがて都市向けの野菜を栽培する近郊農業が盛んになる。1956年池辺町と境界変更があった。1969年10月、横浜市の分区に伴い、緑区に編入。1994年11月、港北区・緑区の再編に伴い新設された都筑区に編入。(「Wikipedia」より)

※1 佐江戸の由来には、「もともとは西土だったが、徳川入国以来、ひだり江戸に当たるので、左江戸と書き、のちに佐江戸となった」という言い伝えや、「村の外から病や悪いものが入らぬよう道祖神(サエノカミ)を祭った所をサエドということからこの地をサエドと呼び、佐江戸という漢字を当てた」という説などがあります。(「no+e とうーむゅらす」HPより)

※2 この北西、恩田川・鶴見川沿いに「青砥」という地名があります。「青砥」は東京にもあります。

東京都葛飾区青戸(京成電鉄の「青砥駅」は「青砥藤綱」にあやかったもので、地名は「戸」。

「戸」は、「津」と同意で、船運に関わる地名。中川(古利根川)に面しています。この佐江戸の「戸」も「鶴見川」に関わり、船運に関わる地名と考えられます。江戸時代になって「江戸」という字を当てはめたもののようです。

「佐江戸」バス停。 

  丘陵の東南の端、「中原街道」沿いに、町が形成されている。              「今昔マップ」より) 

s

 →が中原街道。○青砥という地名があります。              (「同上」より)

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「横浜市営地下鉄・仲町台駅」~「相鉄線・三つ境駅」。その1。アップダウンの続く道。東方(ひがしかた)農業専用地区。標高は、50M。星谷(ほしがや)。(「中原街道」をゆく。第4日目。)

2025-02-05 19:35:14 | 中原街道

きんかん。 

さて、「中原街道」歩きも4日目。2月2日が雪模様になるかもしれない、という予報でしたので、2月1日(土)に。

晴れ。帰る頃に曇り空になってきました。

街道歩きも、旧道はほとんど不明な箇所が多く、現中原街道をひたすら歩く、という状態になりつつあります。

今でも幹線道路なので、車の行き来が激しい中、起伏の激しい横浜の丘陵地帯を上がったり、下りたりの一日です。

横浜市営地下鉄「仲町台駅」。

いったん広い通りに出ます。

新横浜元石川線(しんよこはまもといしかわせん)。この広い道路の中央分離帯には、高圧電線塔、高木が植えられています。

「桜並木」バス停。「桜並木」は、ここの地名のようです。

周辺案内図。↑の先を左折し、「中原街道(県道45号線)」に復帰します。

※図の上は、南、下が北。

「港北ニュータウン」方向。旧道?

中原街道(旧道)は、港北ニュータウンの造成により失われているようです。

この先、アップダウンの続く道になる。

右手には畑などが。

左手(東)方向を望む。(都筑区桜並木)

「東方(ひがしかた)農業専用地区」。

向かい側には「JA横浜」「新鮮野菜直売所」があります。

新道と合流します。

             横浜市営バス停「東方原(ひがしかたはら)」。

                                       (「今昔マップ」より)

○が合流地点。かつては旧道のみがあった。標高は、50mと記されている。

本格的なアップダウンが始まります。

「星谷(ほしがや)」交差点。標高:25m。

振り返る。道はほぼ直線ですが・・・

左手を望む。ここまでも急坂。

遙か東はどの辺りなのか? 横浜の地理にはまったく明るくないので。

中原街道は尾根の際(それもアップダウンの激しい)を進むようです。

(「同上」より)

星谷には、まとまった集落があったようです。

「関戸」バス停。ここから下りに。

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その7。「勝田(かちだ)橋」。坂を上っていく旧道。関屋住宅(国指定重要文化財)。「港北ニュータウン」。「仲町台駅」。(「中原街道」をゆく。第3日目。)

2025-02-02 21:01:19 | 中原街道

中原街道。

右の旧道に入ります。

「勝田(かちだ)橋」。

上流方向。

下流方向。向こうの橋は、新道の橋。

右の坂を上っていくのが旧道のようです。

が、新道の方を進みます。

  新道に合流する旧道?

右手奥に関家住宅表門(長屋門)が見えてきます。

        

関屋住宅(国指定重要文化財)

関家は『新編武蔵風土記稿』にも載る旧家で、もと後北条家に仕えた地侍と伝え、江戸時代には代々名主を勤めたといいます。小高い丘陵に挟まれた袋状の谷戸の中腹に屋敷を構え、主屋を中心として南に表門(長屋門)、東西に土蔵・書院を配し、右後方の小高みに墓地や鎮守があります。・・・東日本で最古の一つに数えられる貴重な民家です。(「解説版より)

都筑区勝田町にのこる関家住宅は、建築当初から市内にある古民家として唯一、国の重要文化財に指定されている建造物です。関家は、戦国時代に小田原北条氏の家臣だったという伝承をもち、江戸時代の初めから勝田村の名主を務めました。江戸後期には代官職も兼務し、屋号「おだいかん」を号しています。関東地方でも最古級と考えられる主屋の建築は17世紀前半にさかのぼり、書院は18世紀前半、表門は19世紀中頃に建てられました。

関東地方で最古とみられる主屋(重文)のほかに、書院・表門が残されており、山林や畑地を含む屋敷構えもほぼ旧状を止めている。多摩丘陵における格式ある農家の構えを知ることができる。

  

(この項、「横浜市」HPより)

※敷地の北側を旧中原街道が通っている。

関家山林、畑地。

右の高台に神社、住宅などが建ち並ぶ。

住宅地内を旧道が進んでいた。ニュータウン建設で消滅?

来た道(新道)を振り返る。

右手に「港北ニュータウン」が大きく広がる。

      

  歩道橋より北東方向を望む。

          通りは「中原街道・新道」。

「中原街道」は突き当りを右折し、さらに左折して旧道へ進む。

.

(「今昔マップ」より)○が港北ニュータウン。↓が旧道。途中、旧道が消失している。

今回は、ここまで。横浜市地下鉄「仲町台駅」を目指します。

駅までの「プロムナード仲町台」。

「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。

終点の「あざみ野駅」から東急田園都市線に乗り換え、「半蔵門線」経由で戻ります。

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その6。「第三京浜」。「鎌田堂」。旧道。のちめ谷戸。のちめ不動尊。(「中原街道」をゆく。第3日目。)

2025-02-01 21:08:18 | 中原街道

リハビリ通院も今は週1回。だんだん動くようになってくるのが、我が身にひしひしと感じます。

さて、中原街道の旅の報告も6回目。次回で一段落の予定。

緩やかな上り坂。

左手は畑や森。

「第三京浜」のトンネルを抜けます。

トンネルの左手奥に「鎌田堂」。

「横浜市仕切弁」。

上部に横浜市水道局の噴水のマーク。市章と水の字をデザインした仕切り弁の蓋。

右手に旧道が続きます。

                             (現在)弓状の道が旧道。

                             (1880年代)「旧道」が顕著に。街道沿いに家並み。

新道の交差点。「のちめ谷戸」。この付近は、丘陵地帯になっている。

谷戸

丘陵地浸食されて形成された状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。(や、やと)・谷津やつ)・谷地(やち)・谷那(やな)などとも呼ばれ、多摩丘陵三浦丘陵狭山丘陵房総丘陵武蔵野台地下総台地といった関東丘陵地・台地の縁辺部が、長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形。

旧道を進みます。来た道を振り返る。

旧家? 立派な長い塀。

「のちめ不動尊」。

この不動尊は今から約130年前の文久2年 (1864)、のちめの住人が八王子からお不動様を背負ってこの地に祀り、七世代にわたり地域の守り神として護持されて来ました。昔は山の上に鎮座されていましたが、天災の為現在の場所に安置さ れました。この間数回の改築補修がなされましたが、平成元年暮れに二〆・城山講中全員の発意により再建することになりました。

※「のちめ」=「二〆」。

新道に合流。

「宮の下」バス停。

                  右手に「山田(やまた)神社」。※山田は「やまだ」ではなく、「やまた」。

横浜市のマンホール。

デザインはベイブリッジ。4羽の鳥・「ユリカモメ」? 「YOKOHAMA」の文字と、「OSUI」の文字。

農家の軒先に「新鮮野菜直売」。

キャベツが400円と表示されていたので、買って帰ろうか、と。大きな丸ごとなので、諦めました。

「中川中学校」グランド脇に「馬頭観音」。塔婆が供えられている。

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「東急・多摩川駅」~「横浜市営地下鉄・仲町台駅」。その5。千年(ちとせ)交差点・切通し。「橘樹官衙遺跡群」。野川橋・矢上川。野川くぬぎ坂。(「中原街道」をゆく。第3日目)。

2025-01-30 21:18:02 | 中原街道

道路案内に「茅ヶ崎」の地名が。「武蔵新城駅→」。

「千年(ちとせ)交差点」。

右斜めに続く上り坂を進みます。新道は、切通しになっていますが、旧道は坂道になっています。

 

住宅街を進みます。

大きなお屋敷。

新道に合流します。

 「橘樹官衙入口」信号。

「影向寺バス停」付近の案内板には、

「橘樹官衙遺跡群」

※「官衙(かんが)」役所、官庁。

史跡 橘樹官衙遺跡群は、多摩川から2.6㎞西方に広がる40~42mの多摩丘陵上に所在しています。多摩川右岸に広がる低地部との比高高は約30mあり眺望にすぐれた場所に立地しています。橘樹官衙遺跡群は古代武蔵国に置かれた21郡の一つ・橘樹郡の役所跡である橘樹郡家跡(ぐうけ)と古代寺院跡が発見されている影向寺遺跡から構成されています。郡家と古代寺院が隣接して営まれたことが判明し710世紀における地方官衛の成立から廃絶までを知ることができる全国的にも貴重な遺跡であることが評価され、平成27年(2014310日に川崎市初の国史跡に指定されました。・・

平成27年3月に本市初の国史跡に指定された史跡橘樹官衙遺跡群に、令和6年5月18日(土)、「橘樹歴史公園」がオープンしました。
 橘樹歴史公園の地中には、飛鳥時代の役所の倉庫跡4棟が保存されており、その大きさや質感などに触れ、古代橘樹を体感してもらえるよう、1棟は全体を、3棟は柱の一部を復元しています。飛鳥時代の倉庫の復元は「全国初」の取組であり、古代史ファン注目の歴史スポットの誕生と言えます。
 橘樹の丘の上に立ち、全国で初めて復元した飛鳥時代の倉庫を仰ぎ見ると、古代橘樹郡の力の大きさや、1,300年以上前にこの地で働き、暮らしていた人々の息吹が感じられるとともに、古代橘樹の雰囲気や現代まで続く本市の歴史を体感できる施設です。

(この項「」HPより)

向こうの森の方向か?

先に進みます。

新道の方を進み、間違いに気づき、戻ります。

野川橋で矢上川を越します。

「野川くぬぎ坂」バス停。

緩やかな坂を上っていきます。

坂の多い地区。「谷戸」。

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