おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

岩淵水門~彩湖。(「荒川」を遡る。総集編。その3。)

2021-06-30 19:52:46 | 荒川を遡る

                                                     

「新荒川大橋」。

         

左手は大きな野球場。土手の向こうが「新河岸川」。

JR線「荒川鉄橋」。

河川敷にはゴルフ場が広がる。

「海から24㎞」。

左、土手下。木の間越しに大きな池が見えます。

浮間公園。「浮間ヶ池」。「浮間ヶ池」はかつての荒川の水流。 

この付近の今昔。

                      1880年代のようす。荒川が大きく曲折している。

                     2010年代のようす。左上が「浮間の池」。「新河岸川」が旧荒川の流路か?

前方は新幹線橋梁と「戸田橋」。

戸田橋。

この付近にった「中山道・戸田の渡し」。  

        
         『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』 天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉                     

荒川の流れ(上流方向)。

埼玉県戸田市に入り、これ以降、左岸を進むことに。

右手に「戸田公園」。

2010年代のようす。直線のコースが東西に延びています。左端は「戸田ボートレース場(戸田競艇)」。

 右手の土手下には桜並木。

 

荒川の河川敷は「荒川親水公園」。

「笹目水門・笹目川排水機場」。

 「海まで28㎞」。

この先にある「笹目橋」を渡ると、対岸は板橋区。都営地下鉄・三田線の終点「西高島平」駅まで1,640m

その先に、「荒川第一調節池」(荒川洪水時の被害に備えた調整池)の排水門が見えてきます。

なお、調節池内には、彩湖(貯水池)があり、周囲が整備されて、大きな公園「彩湖・道満グリーンパーク」となっています。

遠くに見える吊り橋は、「外環道」の「幸魂(さきたま)大橋」。

幸魂大橋」。

・・・「彩湖」周辺は、野鳥や野草などが観察できるところです。              

 

 

         「荒川第一調節池排水門」。              

「彩湖」を望む。

         下流を望む。

の先は「彩湖」と荒川との間の「囲繞堤」を進むことにします。

※「囲繞堤」=河道内の遊水地を堤防で仕切って調節池とする場合、その仕切りに作る堤防のことをいい、その外側の本堤を「周囲堤」という。

                                   ↓が排水門。上に「彩湖」、左下が「荒川」。              

(「今昔マップ」より)

○で囲んだ部分がかつての流路。

以前の「荒川」は関東平野に流れてきた後、広大な河川敷(湿原、荒れ地等)を有し、本流はかなり曲がりくねった流路でした。そのため、ひとたび洪水が起きると、周辺地域に及ぼす影響は甚大でした。そのための流路改修が盛んに行われました。少し上流の右岸にも、かつての曲がりくねった流路が残されています。

「荒川」本流の流れ。モーターボートがいくつか。

右手に「彩湖」、「幸魂大橋」。

          

左手奥に見えるのは「朝霞水門」。

朝霞水門・朝霞調節池は、新河岸川の洪水を一時的に貯留することにより下流の流量を低減し、浸水被害を防止するための施設。

振り返って「幸魂大橋」を望む。

その先で、土手を下って行きます。

「彩湖」の中央付近にある橋「管理橋」を渡って、「彩湖・道満グリーンパーク」に向かいます。

「管理橋」からの「彩湖」。上流方向。

下流方向。

最寄り駅のJR「西浦和」駅へ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四つ木橋~岩淵水門。(「荒川」を遡る。総集編。その2。)

2021-06-29 20:19:00 | 荒川を遡る

                    左手に「四つ木橋」。      

河川敷のグランドでは少年野球。

「綾瀬川」に架かる施設二つ。

「堀切避難橋」。 

「堀切菖蒲水門」。

菖蒲畑。訪問時のようす。

開花時は、

「河口から10㎞」。

対岸の墨田区側。

「堀切橋」と京成線「鉄橋」。

JR北千住駅方向(旧「千住宿」)を望む。

「綾瀬川」は、この先、荒川から離れて行きます。 

「首都高6号・三郷線」を右に分け、「首都高中央環状線C2」は荒川沿いに。
 
この付近では「首都高」がすぐ脇を走る。
 

「東武伊勢崎線荒川放水路鉄橋」。                      浅草駅・押上駅〜東武動物公園駅間の「伊勢崎線」の愛称名は、「東武スカイツリーライン」。

その先は、「つくばエクスプレス」「常磐線」「千代田線」の3本の鉄橋が並んでいます。東武線の鉄橋は、2つ。合計5つの鉄道橋が並んでいます。

河川敷に下りてみると、葦の原っぱに。 

原っぱの中で、釣り、サイクリング、ジョギング、散策と思い思いの楽しみ方をしています。

「堀切橋」の次の橋「千住新橋」。

「千住新橋」。上り・下り2本に分かれた新しい橋が1983年(昭和58年)完成。「現日光街道・国道4号線」。

来た道を振り返る。遠くに「東京拘置所」(↓)。

「西新井橋」。

「海から14㎞」。

「本木ワンド」。 

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)野鳥(水鳥)や水生植物の観察など自然を楽しめそうです。

右手の土手沿いにはサクラの植樹。 

遠くに「日暮里舎人ライナー」の橋脚が。

土手上は、「五色桜の散歩みち」になっています。

    「足立の平成五色桜」解説板。

現在の足立区江北付近一帯は、明治後期から昭和初期にかけて、様々な品種の桜が植えられていた桜の名所でした。ピンク、白等五色のかすみがたなびくように見える」ということから、「荒川の五色桜」と呼ばれていました。堤防工事や公害等の影響を受け、1945年(昭和20年)頃には姿を消してしまいました。足立区では、当時の97品種から現存する品種を堤防の一部(約4.5㎞)に植え、「足立の平成五色桜」として桜の名所の復活を目指しています。

はるか頭上に日暮里舎人ライナーの橋脚。 

その先には、「五色桜」にちなんだ、「首都高」の「五色桜大橋」が見えてきます。

        

手前に「江北橋」。たもとのモニュメント。

        「五色桜大橋」遠望。

「鹿浜橋」の手前の土手には素晴らしい桜並木。

所々に桜に因んだ歌や俳句が掲示されています。春爛漫の季節にはさぞかし。

「環七通り」の「鹿浜橋」が前方に。

「鹿浜橋」。向こうに川口の街並みが見えます。

目的地の「岩淵水門」に向かうには、橋を渡って向こう岸へ。

荒川を遡上する浚渫船。

河川敷には「新東京都民ゴルフ場」      

                           対岸には、芝川水門」。

左手から「隅田川」の流れが見えてきます。                                

行く手に岩淵水門が近づいてきます。

「海まで20㎞」(荒川)ポスト。

岩淵水門は、大正13年(1924)に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和57年(1982)に旧水門の下流300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の航行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門を閉めて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。

 

この水門が2019年秋「台風19号」の直撃による洪水防止のために閉鎖されました。以下はその時の写真です。

平常時。

閉鎖時。(「日本経済新聞」より)

「隅田川」(右手「新河岸川」)を望む。

旧水門を望む。 

旧岩淵水門を渡ると、荒川と隅田川に囲まれた小島、「水門公園・中之島」が。

モニュメント「月を射る」。

                

「現水門・青水門」を望む。

「旧水門(赤水門)」。

           

                       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荒川河口~四つ木橋。(「荒川」を遡る。総集編。その1。)

2021-06-28 20:46:59 | 荒川を遡る

               (「歴史的農業環境システム」より)中央先端部分が「0㎞」標。

「荒川」を遡る旅も秩父鉄道「三峰口」駅までたどり着きました。そこで、総集編として河口からの荒川の流れをたどってみます。

 

「0㎞」標。河口。上流を望む。橋の向こう遠くに、スカイツリー。
 
左奥に「葛西臨海公園」の観覧車。
大きな「テトラポット」
案内板。

サイクリングロード。首都高下。右が中川。
「清砂大橋」。

荒川の対岸。正面に旧中川と荒川を結ぶ「荒川ロックゲート」。

荒川河川敷の水辺公園。橋脚は、都営新宿線。

荒川河口より4.8㎞(江戸川区松島2丁目)、小松川大橋の北側、サイクリングロード沿いの「案内板」。その中に、
 
「旧千葉街道と行徳街道」
 現在、江戸川区北部を横切る旧千葉街道は、明治8(1875)年に千葉街道と改称されるまでは、元佐倉道と呼ばれていました。現在の小松川大橋と中堤の接点付近で、行徳街道と十字に交差し、そこは四股(よつまた)と呼ばれて交通の要所であり、生活の中心地でもありました。しかし、四股とその周辺の地域は大正2(1913)年に荒川放水路の開削により水没しました。四股近くの行徳街道には橋が架けられていましたが、この橋の一部は2つの道標とともに現在も保存されています。

とあります。


1880年代のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
 まだ荒川放水路(荒川)が開削されていなかった当時の地図。中央に「四股」。現在の小松川大橋の北、荒川と中川との中堤に位置する。南西から北東に進むのが「元佐倉道」(千葉街道)。北西から南東に向かうのが「行徳道」(今井街道)。元佐倉道(旧千葉街道)は、南西に進むと両国、東北に進むと市川へ。行徳道(今井街道)は、北西に進むと浅草、南東に進むと行徳へ。ちょうど「四股」はそれぞれへのほぼ同じくらいの距離に位置していたようです。地図の右(東)に流れる川は、小松川境川(現在は親水公園)。

高速道路下、正面の草地あたりがかつての「四股」付近。

 「荒川」に架かる橋ではありませんが、1987(昭和62)年9月に開通した「葛飾ハープ橋」。

「首都高中央環状線」上の橋です。綾瀬川と中川の合流地点にあります。
 「葛飾観光サイト」などの紹介では、世界初の曲線斜張橋。その曲線はS字を描き、路面には勾配もあるため、複雑な立体構造をしていて、2本の主塔は高さがそれぞれ65m、29mと異なるという特殊な設計の橋になっています。その曲線と48本のワイヤーが織り成す姿は美しく、楽器のハープに見立てて公募によりその名がつけられた、とか。
南側から北を望む。

左が綾瀬川、右が中川。

「中央環状線」。この先、綾瀬川左岸沿いに北上します。

夕日を浴びるハープ橋。

 夜のライトアップもすばらしい。

「葛飾区観光サイト “かつしかまるごとガイド”」掲載の写真をちょっと拝借。


首都高・四つ木出入口付近。

荒川から引き込まれた池。淀んでいますが、小さな魚などの姿も。

「木根川橋」の文字。「Googleマップ」を意識しているのでしょうか。


下流方向。

木根川橋   歌:さだまさし. 作詞:さだまさし. 作曲:さだまさし.
『先生、俺達の木造校舎すっかりなくなっちまったんですねェそれに、あの暑い夏に重いローラー転がしてならしたテニス・コートの上にプールなんか出来ちまって… 先生、時の流れって、そんなもん ...』
さだ まさしさんは、葛飾区立中川中学校出身。

この付近、荒川には三本橋が架かっています。下流から「木根川橋」、「新四つ木橋」、「四つ木橋(四つ木小橋)」。しかし、歴史的には変遷がありました。

 荒川放水路(現:荒川)開削前は、綾瀬川と曳舟川通りが交差する所に木ノ下橋が架かっていた(現在は新四ツ木橋が架かっている)。 
 1922年(大正11年)6月30日、荒川放水路開削に伴い橋長451メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木製の方杖桁橋の四ツ木橋(旧橋)が架橋された。また、綾瀬川には1921年(大正10年)11月30日開通した橋長53メートル、幅員5.5メートルのRC(鉄筋コンクリート)橋脚を持つ木桁橋の四ツ木小橋が架けられていた。位置は現在の国道6号ではなく、約500 m下流の京成押上線荒川橋梁のすぐ下流側、東京都道465号深川吾嬬町線の延長上にあった。木橋ながら戦車を通すこともできた。 
 1969年(昭和44年)12月、木製の旧四ツ木橋が解体され、代わりに旧四ツ木橋の約100 m下流に木根川橋が橋長539.6メートル、幅員10.5メートル(車道6.5メートル、歩道2メートル×2)の7径間下路式平行弦ワーレントラス橋で架橋された。右岸側にある旧四ツ木橋の取り付け道路は残され、木根川橋へクランク状に接続されている。なお、木根川橋の工事名は四ツ木橋であった。また竣工は1969年(昭和44年)2月であった。
  現在の国道6号上に近代的な橋をかける計画があり、戦後、1950年に工事が再開、1952年(昭和27年)7月に完工、7月30日に永久橋が開通した。これが現在の四ツ木橋である。東向島広小路止まりだった都電も、この橋を渡って路線延長される計画が存在した(着工せず、廃線)。 
 開通時は旧橋も存在していたため、新四ツ木橋と呼んでいた。 
 その後、新四ツ木橋周辺の慢性的な交通渋滞対策として1973年(昭和48年)4月5日、新たな橋が約200メートル離れた曳舟川通り沿いに架橋された。この時、既に木製の四ツ木橋は撤去された後であったこともあり、橋は「新四ツ木橋」と呼ばれ、一方1952年(昭和27年)製の新四ツ木橋の名称が「四ツ木橋」になった。 

                     2010年代のようす。

上流から「四つ木橋」、「新四つ木橋」、京成線橋梁、「木根川橋」。右端に「葛飾ハープ橋」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秩父鉄道秩父駅~三峰口駅。その7。秩父ジオグラビティパーク。白川橋。三峰口駅。(「荒川」を遡る。第9日目。)

2021-06-27 13:24:05 | 荒川を遡る

さて、秩父鉄道終点「三峰口」駅まで急ぎます。

「彩甲斐街道(国道140号線)」に出ると、左手に「秩父ジオグラビティパーク」。

(「Googleマップ」より)

 

キャニオンウォーク

50m以上の高さをわずか4本のワイヤーで吊っている恐怖の吊り橋。重力の恐怖を乗り越えた先には荒川渓谷の大絶景と美しい川がまっている!

Canyon Fly Gravity Park

キャニオンフライ

荒川渓谷を往復横断する爽快ジップライン。 荒川の絶景を爽快な気分とスピードで楽しむことができます。鳥になって渓谷を横断しよう!

Canyon Fly Gravity Park

キャニオンスイング

日本初の渓谷スイング、落下+特大ブランコの究極の重力系アクティビティ!  遂に登場!

Gravity Park Bungy

キャニオンバンジー

究極の重力系アクティビティついに登場! 高さ50m、日本初のワイヤー吊橋バンジー!

(「秩父ジオグラビティパーク」HPより)

けっこう人気があるようで、若者たちが並んでいます。年寄りには命が縮むアクション!

眼下に荒川の渓谷。

 

先日のTV番組では出演者二人がチャレンジしていました。

その先で国道を左折して「白川橋」に向かいます。

                                  甲府まで74㎞。

下流方向。秩父盆地に通じる河岸段丘。

上流方向。山間の渓谷に。

白川橋

秩父山地と盆地の境にかかる橋で、上流側は約2億年~1.5億年の秩父帯のV字谷、下流側は約1500万年前の「古秩父湾」時代に海底に堆積した地層が、やがて荒川の侵食を受けて河成段丘が形作られた秩父盆地が広がる。

古くから産業の要衝の地であり、かつては奥秩父の山から伐り出された木材をこの地で筏に組んで江戸へ運び、平賀源内も木炭の通船事業を起こした歴史がある。秩父鉱山も昭和の全盛期にはここまで索道で鉱石を運搬し、鉄道に乗せて各地へ搬出した。

白川橋から下流を見ると、山がなだらかになって平らな面が現れ、秩父盆地が広がるのがわかります。ここから下流は、地質年代的には新第三系と呼ばれ、新生代(約1500万年前)の地層になります。かつて、古秩父湾の海底に土砂が堆積し、やがて盆地東側の山地の隆起によって湾が閉ざされ、古秩父湾は終わりを迎えます。その後、今から約50万年前以降に、荒川の流れに大地が削られて河成段丘を形成し、現在の秩父盆地が形作られました。

上流を見ると、急峻なV字谷になっています。ここから上流の山々は「秩父帯」と呼ばれ、約2億年前、ジュラ紀の時代にプレートに運ばれて南洋からやってきた地層が広がります。日本の房総半島から関東山地、赤石山脈、紀伊山地、四国山地、九州山地を経て沖縄本島までの長さ1,500kmにわたって帯状に分布する地体構造区分の一つです。

江戸時代、上流の中津川や大血川沿いの豊富な木材は、鉄砲堰などの技術を使って奥山から川の流れを使って搬出され、流れがゆるやかになるこの場所で筏(いかだ)に組まれて江戸へ向かいました。鉱山事業に失敗した平賀源内も、ここで木炭を運び出す荒川通船の事業を起こしました。

近くにある秩父鉄道の終点・三峰口駅は、平野の終点でもあります。ここから奥の地形は秩父帯の険しい地形となり、鉄道は入れないのです。秩父鉱山の鉱石も、かつて北の山中白亜系(山中層群)の谷を経て三峰口まで索道で運び出され、ここから鉄道に乗せられました。

(この項、「ジオパーク秩父」HPより)

「解説板ー盆地の終点、山間の入口ー」。

と、「キャニオンバンジー(ジャンプ)」が。吊り橋の中程から豪快に。何度も激しく上下しています。

しばらく見とれてしまいました。

「三峰口」駅へ。遠くに武甲山。

駅前のお店。

秩父鉄道「三峰口」駅。

さて次回はどうするか? バスの路線図。

この先は、徒歩とバスの旅になります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秩父鉄道秩父駅~三峰口駅。その6。かかしの里(続)。円野町かかし祭り。(「荒川」を遡る。第9日目。)

2021-06-26 19:03:24 | 荒川を遡る

甲州街道歩きのときに、韮崎で「かかしの里」に出会いました。そこでは、この贄川宿とは異なって、田んぼの中、道沿いに並んだ、「新作かかしコンクール」でした。

円野町(まるのまち)かかし祭り」。

韮崎市円野町の、のどかな田園地帯で行われる「かかし祭り」。その年の世相を反映した「かかし」等、多種多様な作品の出展が数多く立ち並びます。

田園風景。遠くに「八ヶ岳」。

残念ですが、訪れたときは一つもありませんでした。

その催しの写真を。(HPより)

 

       

・・・「贄川宿」のかかし達は生活感あふれ、アットホームな雰囲気。

おばあさんの隣は、古い脱穀機? 

 

                            おうちも古そう。

古い家並み。

            新旧合わせたおうちも。

三輪車に乗っている子。

        

宿内を振り返る。

周辺の観光案内図。

「贄川宿」の補足。

秩父市荒川贄川は埼玉県西部、荒川上流左岸、荒川とその支流贄川の流域の低位段丘・山間地に位置し、東京都心から約80kmの距離である。
江戸はじめは幕府領、天保2年(1831)上野館林藩領、嘉永元年(1848)川越藩領、明治2年から上野前橋藩領。
化政期(1804~30)の家数は159軒。今回訪ねたのは贄川村町分と呼ばれていた辺りで、秩父甲州往還沿いに町場が形成され、高札場も設けられていた所。東西二町余りの町並には食品店・旅籠屋・商家などが建ち並んでいた。寛文7年(1667)頃から2・7の六斎市が立っち、元禄末期まで続き賑わっていたといい、大滝村三峰山への参詣客、巡礼札所の宿場町としても繁栄していた。
慶応2年(1866)の家数は183・人数883とある。痩せ地の山間部のため畑地も少なく、年貢は金納制であった。絹・横麻の織り物を主たる換金商品として煙草・楮・薪炭・木材・魚獣類などが山村経済を支えていた。畑で作っていた作物は麦・あわ・稗・大豆・小豆・芋・栗などである。
男は山稼・炭焼・椎茸・岩たけ・干し柿などで、三峰山への参詣客の荷を背負って送り駄賃を取っていた。女は蚕桑とり・絹・横麻の類の織りだしであった。
明治9年頃には家数149・人数735とあり、物産には繭・絹・生糸・たばこ・楮・香魚などがあった。
今、贄川を訪ねると、宿場町当時の面影が家並みに色濃く残っている。現代的な建物も少なく、江戸時代の情緒が感じられる宿場町である。特別保存している感じでもない町並みで、好感のもてる古い町並みだった。

(この項、「秩父市荒川贄川町 http://matinami.o.oo7.jp › titibu-arakawa-niekawa」HPより)

「贄川」という地名の由来は、「ほとばしる荒川の流れが煮え立っているように見える」、あるいは、「神社に捧げる贄(神饌)魚を捕った川」という説があるようです。

「ヤマトタケル東征伝説」と関連する三峯山(神社)信仰・参詣の宿所として賑わいました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秩父鉄道秩父駅~三峰口駅。その5。贄川(にえかわ)宿。かかしの里。(「荒川」を遡る。第9日目。)

2021-06-25 20:20:49 | 荒川を遡る

             荒川に注ぐ支流の渓谷。

      「八幡橋」。

「贄川」交差点を右折し、「贄川宿」へ。

さっそく人形(かかし)達がお出迎え。

かつての宿場町 贄川宿が、かかしの里に

秩父市荒川贄川の贄川宿は、古くは江戸時代の頃から昭和初期まで、三峯神社参詣や秩父甲州を住環する商人の宿場として栄えました。

また、近年は2014年まで、毎年秋のイベントとして贄川宿縁側展が開催され大変人気を集めていました。

そんな贄川宿ですが、再びかつてのにぎわいを取り戻そうと地元の方たちの力によって、2016年春から「かかしの里」づくりを始めました。

現在では、贄川宿内の街並みの中の至る所に、愛嬌いっぱいのかかしが60体以上設置され、訪れた人たちを楽しませています。

宿場町内の縁側には、かつての縁側展のようにギャラリーになっている場所もあります。

2017年にはかかしサロンもオープン。建物の中にはかかしの他、かかしの里の写真や飾り物が飾られ、かかしの里へ訪れた人たちの憩いの場所として利用されています。

急な坂道を上った御岳山登山口の近くのかかし広場には、数多くのかかしが風情ある景色の中に溶け込んでいます。

ここからの眺望は武甲山や荒川が一望もでき、かつてこの地を訪れたナウマン博士や幸田露伴がスイスの景色を目前にするようだと眺望を絶賛したと云われています。

これからの季節、昔懐かしい景色の数多く残る贄川宿へ、ぜひお出かけください。

(この項、「WEBガイド秩父」HPより)

※上の二枚の写真は、集落より少し上がったところの写真のようです。そこには行きませんでしたので、写真を拝借。

宿内のようす。

ところで「贄川宿」とは? 三峰口からの宿入口にある解説板を先に紹介。

 

贄川宿

 秩父甲州街道を白久側から渡船場を越え、八幡坂を登ると贄川の宿に着く

新編武蔵風土記稿に「此所ハ江戸ヨリ甲州ヘノ道筋ニテ左右ニ屋並ソロヒテ丗六軒アリ。寛文七年ヨリ毎月二七の日ニ市立セシガ・・・」

 贄川宿は大宮郷(秩父市)に次ぐ秩父甲州往還の宿場で、三峯講中・諸国商人衆の定宿として江戸初期から賑わいを見せていた。また宿の立地が上信や甲州ヘの分岐点であったことや、物資の集散にも好都合であったため、六齋市や雛市も開かれた。

贄川宿の家並みは往還に沿って短冊状で、旅籠、酒屋、質屋、紺屋、豆腐屋などがあり、他にも医師、髪結い、荷継場などがあった。

この贄川宿には秩父の地質調査に来日したナウマン博士や宮沢賢治、それに明治の文豪幸田露伴も立ち寄り、いずれも東方の眺望を絶賛している。

 

駆け足ですが、かかし達の姿を。と、かかしの手直しをしている人が。

 

各家ごとに。軒先や縁側、庭先に・・・。

 

なかなか見事です。一瞬、語りかけたくなるようなかかしも。

みごとな出来映えです。くつろぐ姿、仕事をしている姿、子ども、お年寄り、孫と、親子と、・・・。

           

        

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秩父鉄道秩父駅~三峰口駅。その4。荒川橋。平和橋。ジビエ料理。ももんじや。(「荒川」を遡る。第9日目。)

2021-06-24 20:04:35 | 荒川を遡る

「日野鷺橋」を渡った先の突き当たりを右折してしばらく進み、「荒川橋」を渡り、左岸へ。

左折して行くと、秩父鉄道の「武州日野」駅(終点「三峰口」の二つ手前の駅)に着きます。

                          荒川橋。

埼玉県秩父市荒川日野と同市荒川小野原の間に架かり、荒川を渡る国道140号の密接する2本の橋梁。上り線(熊谷方面)が1929年昭和4年)竣工の2代目の旧橋、下り線(甲府方面)が1986年(昭和61年)竣工の3代目の新橋である。

荒川河口から134.1 kmの地点に位置する、奥秩父の主要な交通路となっている橋。荒川の湾曲部に所在する上り方向専用の橋、および下り方向専用の橋の2橋で構成されており、橋詰で車道の上下線が分離し、それぞれの橋に1車線の一方通行として接続されている。

現在の橋は、上り線が旧橋の鋼上路ブレースト・リブ・バランスド・アーチ橋で、下り線は新橋の鋼上路トラスドアーチ橋となっている。この鋼上路ブレースト・リブ・バランスド・アーチ橋という橋梁形式は全国で2例しかなく、もう一つは栃木県那須塩原市那珂川に架かる晩翠橋である

初代荒川橋は、旧中川村を流れる荒川の、現在の荒川橋の下流側の川幅が最も狭くなっている地点に、「県道秩父甲府線」の橋梁として架けられていた

大滝村、白川村、中川村の三村協議により「大宮大滝間道路組合」を発足して新道建設の企画を立て、埼玉県の援助のもと1890年(明治23年)6月に荒川に木橋を架設する工事に着手した。当時はまだ架橋技術が未発達で、荒川の川幅が狭隘な場所であるがゆえの急峻な地形も相まって失敗苦難の連続であった。1892年(明治25年)9月、完成半ばまで工事が進捗した橋が、暴風雨に見舞われて足場と共に流失してしまった。工事は振り出しに戻ってしまったが、道路組合関係者は屈することなく再び架設工事に着手した。しかし1896年(明治29年)1月、二度目の工事が竣工目前までこぎつけた橋が突然、今度は突風に見舞われて橋が谷底に墜落し、架橋工事に従事していた作業員が多数死傷する惨事となるなど架橋工事は難航を極めることとなり、道路組合関係者による架橋工事は挫折した。

そこで県はその完成を急ぐため、当時としては新式である構橋(トラス橋)を導入して県主導のもと工事を再開し、1898年(明治31年)、現在の荒川橋の約100 m下流側の位置に橋長78 m、幅員3.6 m、高さ33.3 mの初代秩父橋親鼻橋に似た上路式の木鉄混合プラットトラス橋で架橋が実現し、新道は開通した。

これにより渡船に依存していた奥秩父の交通は近代化を遂げ、面目を一新した。また、この橋の開通の影響で交通の流れが変わり、贄川を始めとした新道の沿線は日を追って活況を呈するようになり、其れとは対照的に従来の街道筋である白久の衰退が目立つようになり、宿屋や店が次々と廃業に追い込まれるなど、困窮な事態に陥ってしまった

この橋は十数回の補修を行いながら新しい橋が架けられるまでの約30年間使い続け、2代目である旧荒川橋(現上り線の橋)の開通後に役目を終えて廃止となり撤去された。橋の遺構や痕跡は残されていない。

初代荒川橋。

(この項、「Wikipedia」参照)

 

荒川。眼下を流れています。

橋の下を見ると、歩道のようなものが見えますが、ネットが張れていて通行不能? 国道を歩くことにします。

対岸の奥に秩父鉄道の鉄橋(↓)。

この付近のようす。荒川河岸左右の段丘上に集落が形成されています。

     

2010年代のようす(「歴史的農業環境システム」より)。右が「日野鷺橋」、左が「荒川橋」。中央の道路が「国道140号線(秩父往還・彩甲斐街道)」。秩父鉄道「武州日野」駅は、右端に。

先日のTV番組では、「荒川橋」の手前から線路沿いの道をたどった、と思われます。

道路案内板。

遠く、眼下に荒川に架かる「平和橋」。

その先には秩父鉄道「白久駅」があります。

当橋が架けられる以前は周囲に渡船場などはなく、対岸へ渡るには上流側にある「栃の木坂の渡し」と呼ばれる(「八幡坂の渡し」や「川端の渡し」とも呼ばれる)渡船場か、下流側に架かる荒川橋へ迂回する必要があった。 当橋は白久地区(白川村)への秩父鉄道秩父本線の誘致活動の一環として鉄道の開通に先駆けた1928年昭和3年)に木製吊り橋として架けられたものである。橋名は橋が架けられている贄川地区と白久地区の親睦と融和より「平和橋」と命名された。 初代の橋の主塔は木製で両端の補剛桁は木材をトラス状に「X」の字に組み、欄干も兼ねた構造である。徒歩専用の橋で幅員は1.8メートルである。単径間の橋で側径間は有していない。桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁が左右に揺れるのを抑制するための鉄索(ケーブル)が設置されていないため揺れ易い橋で、谷底からの高さが高いこともあって、渡ると波打つように揺れて大変怖いと言われている。この橋は1954年(昭和29年)に二代目の橋としてほぼ同じ構造の吊り橋に架け替えられた際に廃止された。

二代目の橋は床版は木製であるが、主塔はコンクリート製で橋門は鋼製になり、桁(欄干)は鋼補剛構造に改められた。初代の橋より幅員は広くなりバイクも通れる様になった。また桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鉄索が追加され、初代の橋より揺れにくくなっている。この橋は村民の生活に大きく寄与してきたが、老朽化の他、モータリゼーションの進展に伴い、徒歩の通行が減少するなど交通事情にそぐわなくなり、三代目の橋である近代橋の開通した後に廃止され撤去された。現在遺構としてコンクリート製の主塔が両岸に残されている

今までの橋は自動車などの通行ができないため、地元住民より橋の架け替えへの強い要望があり、車両の荷重に耐えられる現在の鋼橋の近代橋に架け替えられ、1973年(昭和48年)4月20日に竣工した。これが現在の平和橋である。橋の架設に並行して取り付け道路も合わせて整備された。

旧平和橋。

(この項、「Wikipedia」参照)

荒川に架かる橋には、それぞれ地元の思い、歴史があることが分かります。

ジビエ料理のお店の看板が。(定休日でした)

「ぼたん鍋」「もみじ鍋」「猟師焼肉」・・・。

ジビエgibier)とは、狩猟によって、食材として捕獲された野生の鳥獣を指し、フランス語である英語圏ではゲーム(game)または、クワォリーquarryと呼ばれる。獲物を意味する。狩猟肉。

本来はハンターが捕獲した完全に野生のもの(sauvage、ソヴァージュ)を指すが、供給が安定しない、また入手困難で高価になってしまうといった理由で、飼育してから一定期間野に放ったり、また生きたまま捕獲した後に餌付けしたりした動物もドゥミ・ソヴァージュ(demi sauvage、半野生)と呼ぶ場合もある近年では農作物被害対策として狩猟された鳥獣を「ジビエ」として供給するビジネスが徐々に拡大しつつある。(「Wikipedia」より)

両国橋のたもとにある「ももんじ屋」というお店が有名です。

江戸時代の江戸においては近郊の農村から仕入れた肉を取り扱う店が存在していました。そうした意味においては、日本人もジビエを食べてきたといえるようです。

両国の代々続く伝統のしし鍋料理

猪の鍋は深紅色した赤身と白い脂肪が特徴で、その色合いから、しし鍋のことをぼたん鍋ともいう。一番美味しい部位は脂の多いバラ肉で煮れば煮る程味が深まる。ほかにも脂身がなくキメの細かいのが特徴のシカ鍋や、やや黒味を帯びた赤身にたっぷりと霜降りののったクマ肉を使った鍋も、是非ご賞味下さい。(「ももんじや」HPより)

※猪肉を「牡丹」(ぼたん)、鹿肉を「紅葉」(もみじ)と称するのは、花札の絵柄に由来する隠語という説あり。

ただ、花札で、鹿は「紅葉」ですが、猪は「萩」、「牡丹」は蝶。猪肉をお皿に盛った色合いを「牡丹」と称したようです。

 余談ですが、花札といえば、ファミコンの「任天堂」。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秩父鉄道秩父駅~三峰口駅。その3。上り坂。「手打ちそば水沢」。日野鷺橋。彩甲斐街道。(「荒川」を遡る。第9日目。)

2021-06-23 20:32:03 | 荒川を遡る

けっこうな上り坂が続きます。振り返り、振り返り、のんびりと。。

 標高は、高いところで約330㍍。荒川は200㍍ほどですから、100㍍下になります。

荒川を見下ろす、といっても見えませんが。

河岸段丘上に家々。

見晴らしはよいのですが、けっこうくたびれます。

武甲山が左手奥に。

来た坂道を振り返る。

空は晴れてきます。この辺りで頂上付近。

                       やっと下りへ。

荒川に注ぐ支流。流れが見えないほど、下。

上流も深い谷。

一気に下って「日野鷺橋」へ。その手前左手に、おそば屋さん。ちょうどタイミングよく、ここで食事。手打ちそばが実においしい。ホッと一息。お客さんが続々と。

 「手打ちそば水沢」さん。

駐車場からの眺め。

「日野鷺橋」が前方に。

 

本橋梁は橋長220.000メートル、総幅員10.750メートル、有効幅員9.750メートル、支間長170.000の1等橋(TL-20)で、ワーレントラス状に組んだ吊材を持つアーチ橋の一種である中路式トラスドランガー橋である。このトラスドランガー橋は丈夫で揺れが少ないとされている。歩道は下流側に設置されている。・・・荒川の水面から橋の橋面までの高さは約60メートルである。橋は河岸段丘域の深い谷に架けられている。また、右岸と左岸との高低差はなく、対岸とをほぼ水平に結んでいる。橋の南詰はすぐ国道140号との交差点に至る。

橋の名前は橋が架けられている両岸の地名である日野(現、荒川日野)と小野原(現、荒川小野原)の小字鷺ノ巣を組合わせた造語に因む。親柱には橋が架けられている地域に因み、日(太陽)を抽象化した球体の石像との石像が両詰に設置されている。

小字鷺ノ巣地区は荒川村と秩父市との境界の谷に架かる水沢橋が開通するまでは長らく陸の孤島であった。付近の荒川には橋は架けられておらず、荒川の向こう側にある荒川村の中心地へ行くためには、1981年昭和56年)3月に開通した埼玉県道72号秩父荒川線の水沢橋を通って一旦秩父市に入り、下流に架かる久那橋を渡る必要があった

日野鷺橋が架けられている場所のすぐ下流側にはかつて日野・鷺ノ巣の渡しと称する(日野の渡しや鷺ノ巣の渡しとも呼ばれた)船一艘を有し、1884年(明治17年)に開設された渡船場が存在した。この渡船場は1943年(昭和18年)に仮橋が鷺巣河原に架けられたことにより廃止された。 仮橋は木製で河原に杭を打って板を渡しただけの簡素な造りで、ほぼ毎年架け替えが行われた。荒川両岸が高いため斜面を上り下りしなければならず、対岸への通行に手間取り難儀したという1962年(昭和37年)には生活必需品などの物資を荒川の対岸に運搬する林業で見られるような鉄索が設置され、これは水沢橋が1981年に開通するまで使用された。現在は仮橋は廃止され、河原に杭の痕跡が残っている

(この項、「Wikipedia」参照)

解説板には、架橋の経緯と難工事の様子が写真と共に記されています。

 

 

橋からの眺め。武甲山が遠くに。 

                     

橋を渡って、「県道72号線」から「彩甲斐街道(国道140号線)」に合流。「甲府」の地名が表示されています。

          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秩父鉄道秩父駅~三峰口駅。その2。巴川橋。巡礼古道。(「荒川」を遡る。第9日目。)

2021-06-22 22:55:05 | 荒川を遡る

               左手に「秩父キッズパーク」。

   

その脇を通って岸辺に近づきます。         

「観音様の渡し舟」解説板。

かすれていて判読不能。札所20番目の観音様が登場するようですが・・・。

    

        川沿いに道があるので行ってみます。

上流の赤い橋は「巴川橋」。

途中で道が崩落、何とか渡ります。

この後、荒川河畔を歩くことはありませんでした。

「江戸巡礼古道」。秩父は札所巡りで有名です。

「巴川橋」。ここを右折。

「旧巴川橋(昭和初期)」。(「Wikipedia」より)

巴(文様)。(「同」より)

荒川はかなり曲がりくねった流路になります。「巴川」とは、この付近の荒川の異名。曲がりくねったようすを示したものか。

右岸はいくらか川沿いの道もあるようですが、左岸はなさそう。

(「今昔マップ」より)

巡礼古道が断続的に残っている。→の道(「県道72号線」)を進みます。

左手に竹細工のお店。「新井竹細工店」。

その先、右手に「展望東屋」。

そこからの荒川と「浦山ダム」。眺めながら小休止。

歩き始めると左手後ろに「武甲山」。

右手の沢から荒川への導水管。

           遠くに「巴川橋」。

「久那」という集落に入ります。

かつての牛舎。農場跡。

久那の「忠魂碑」。

「二度と戦争があってはならないと平和の祈りを新たにすべく」、戦争終了後52年に建立されたもの。

馬頭観音。

武甲山。

久那のステゴビル。ユリ科の多年草。

・・・和名の「捨小蒜」は、人々が捨ててかえりみない小さなヒル(植物)という意味です。ここに植栽されたステゴビルは、絶滅の危機を救うため埼玉県立秩父農工高等学校の協力により増殖されたものです。

どれなのかちょっと見当がつきませんでした、残念。

その先からけっこうな上り坂が続きます。「県道72号線」。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秩父鉄道秩父駅~三峰口駅。その1。秩父ハープ橋。「三峰口」駅まで。そして、夏至。(「荒川」を遡る。第9日目。)

2021-06-21 20:40:26 | 荒川を遡る

                       「秩父ハープ橋」。

橋のたもとにある解説板。

      荒川の流れ。

武甲山と秩父市街地。上りが続く橋。

なかなか迫力あり。

下流方向。

上流方向。浦山ダム(↓)が遠くに。

6月20日(日)曇り時々晴れ。秩父鉄道の終着駅「三峰口」まで。今回も蒸し暑い一日でした。

19日(土)のTV番組。東武東上線・川越駅から秩父鉄道・三峰口駅までの約100キロを3日間、川越から寄居までは東上線。寄居(東武東上線から乗り換えて)からは三峰口駅まで秩父鉄道の各駅を制覇して歩くという、バラエティをやっていました。

「波久礼」、「長瀞」など、こちらも通過した駅があって、けっこう楽しめました。

当方は、できるだけ「荒川沿いに歩く」という企画。

今回。駅前を通ったのは一つも無く、終点の「三峰口」駅のみ。

少し前に、無人駅から食事処を探すという番組も「秩父鉄道」ものでした(「三峰口」からは路線バスに)。

その番組では、「三峰口」駅をはさみ、荒川対岸にある「秩父ジオグラビティパーク」が登場していました。

そこは、今回、当方も通過しました。

というわけで、番組と同じく「三峰口」駅まで歩くことに。

「ハープ橋」を渡り終えたら、左折。

「佐久良橋」。左手遠くにハープ橋。

ところで、今日は「夏至」。

日の出から日の入りまでの時間がもっとも長い日が夏至。
この日を境に、だんだんと日が短くなっていきます。

もちろん、「昼の時間が長い」というのは北半球の場合で、南半球ではもっとも昼の時間が短い日になります。こちらはいよいよ夏本番。南半球では冬本番となるわけです。

春分から秋分までの間、北半球では太陽は真東からやや北寄りの方角から上り、真西からやや北寄りの方角に沈む。夏至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も北寄りになる。また、北回帰線上の観測者から見ると、夏至の日の太陽は正午に天頂を通過する。夏至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で白夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で極夜となる。(「Wikipedia」より)

ふだん、この日は梅雨空で、太陽も隠れ気味。日の長さを実感することも少ない場合が多いですが、今日、東京地方は快晴。陽の落ちる頃まで日の長さを実感できる一日になりました。

次の二十四節気は、7月7日「小暑」。梅雨明けが近づき、暑さが本格的になるころです。

「冬至」にはカボチャを食する習慣がありますが、夏至には特にないようです(地域や国によっては風習がある)。

今晩は、ビールを飲むことにします。ドイツビール、ヱビス、サントリー糖質0と揃いましたので。

          

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続「歌舞伎鑑賞教室」その5。「弁天娘女男白浪 ・浜松屋見世先の場」。菊五郎。吉右衛門。幸四郎。・・・そして、青砥。

2021-06-19 13:05:19 | お芝居

旧歌舞伎座取り壊しのための「さよなら公演」より。平成22年(2010年)3月。このときの公演は、歌舞伎の名場面集という雰囲気の演目でした。

他の演目を含め、玉三郎、仁左衛門、富三郎、などそうそうたる役者が勢揃いした公演でした。この時にすでに勘三郎がいないのが残念、至極。

               

     

鎌倉・浜松屋に、若党四十八を供に、武家娘が現れ、早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐に入れます。見とがめた番頭が帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出し、万引きと思い込み娘の額を算盤で打ちます。

              

しかし、鹿子は他の店の品であったことが分かり、若旦那の宗之助が四十八に詫びるが、四十八はお浪につけられた額の傷をもとに、金を要求する四十八に対し、主人幸兵衛は百両を出して詫びます。

大金を受け取り帰ろうとするお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当という侍が呼び止めます。

       

逸当はちらりと見えた腕の刺青に、お浪を男と見破ります。見抜かれた二人は、居直ってその正体を明かします。女装していたのは、弁天小僧菊之助、四十八は南郷力丸でした。

           

この場面での名台詞

知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ

二人が居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は弁天が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き伏せ、二人はようやく腰を上げる。浜松屋を出た二人は、道々、騙りの道具として使った重い武家の衣裳を坊主が来たら、交互に持とうと「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。

            

安堵した浜松屋では逸当を奥座敷へ案内します。しかし、この逸当こそ、実は弁天小僧や南郷力丸の頭である大盗賊・日本駄右衛門でした。

               松本幸四郎

この後、稲瀬川の場面となり、弁天小僧を先頭に、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸、そして日本駄右衛門の白浪五人男が勢揃いし、一人ずつ名乗りを上げ、捕手と渡り合う見せ場になります。

実に小気味よい展開のお芝居で、名優達の手慣れた演技も見所。

この歌舞伎は、文久2年(1862)3月に江戸市村座で初演されたときの演目は「青砥稿花紅彩画(あおとぞうし はなの にしきえ)河竹黙阿弥作。

「青砥」は追っ手の「青砥藤綱」に因んでいます。実在の青砥藤綱は鎌倉時代後期の人物で、『太平記』などにも記されていますが、江戸時代には、藤綱は公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などにしばしば登場します。

かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えた。(「Wikipedia」より)

京成電鉄・青砥駅の「青砥」は、「青砥藤綱」に由来するようです。町名としては川運(古利根川・中川)の港を意味する「戸」(「戸」は「津」が転じたもの)からきた「青戸」で、混同される場合が。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石榴(ザクロ)。萩のトンネル。芭蕉句碑。ビヨウヤナギ。「長恨歌」。向島百花園。その4。

2021-06-18 22:08:28 | 向島百花園

              石榴(ザクロ)。

        

サツキ。そろそろ時期も終わり?

   

      スカイツリー。 

サルスベリ(百日紅)。 

藤棚。

      みつばあけび。

萩のトンネル。

          

秋になると(「墨田区」HPより)

夏の七草。

           

カシワ。

さて、そろそろ退出しますか。最後は句碑で。

     芭蕉句碑。   

        春もやゝ けしきととのふ 月と梅

入口広場の「ビヨウヤナギ」。

中国原産。約300年前に日本に渡来した。半常緑性の小低木で、よく栽培されている。花期は5-7月頃で、直径5センチ程度の黄色の5枚の花弁のある花を咲かせる。枝先がやや垂れ下がり葉がヤナギに似ているので、ビヨウヤナギと呼ばれるが、ヤナギの仲間ではない。中国では金糸桃と呼ばれている。ビヨウヤナギに未央柳を当てるのは日本の通称名。由来は、白居易の「長恨歌」に玄宗皇帝楊貴妃と過ごした地を訪れて、太液の池の蓮花を楊貴妃の顔に、未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えて 未央柳の情景を詠んだ一節があり、美しい花と柳に似た葉を持つ木を、この故事になぞらえて未央柳と呼ぶようになったといわれている。(「Wikipedia」より)

長恨歌 白居易

前半:漢の王(実は唐の玄宗皇帝)は楊家の娘を手に入れた。それ以来、王は彼女にのめりこんで政治を忘れたばかりでなく、その縁者を次々と高位に取り上げる。そのため、安禄山の乱が起き、首都長安を脱出した玄宗皇帝の一行は、蜀の地(四川省)に難を逃れる。途中、長安の西・馬嵬駅で兵士たちの不満が爆発し、楊貴妃を殺すはめに。

そして2年後。乱はおさまり、首都長安は奪還され、玄宗一行は、ふたたび長安に戻ってくる。

帰来池苑皆依旧
太液芙蓉未央柳
芙蓉如面柳如眉
対此如何不涙垂
春風桃李花開夜
秋雨梧桐葉落時
西宮南苑多秋草
宮葉満階紅不掃

・・・

《書き下し文》

帰り来たれば 池苑 皆旧に依る
太液の芙蓉 未央の柳
芙蓉は面の如く 柳は眉の如し
此に対して 如何ぞ涙の垂れざらん
春風桃李 花開く夜
秋雨梧桐 葉落つる時
西宮南苑 秋草多く
宮葉階に満ちて 紅掃はず

梨園の弟子 白髪新たに
椒房の阿監 青娥老いたり
夕殿蛍飛んで 思ひ悄然
孤灯挑げ尽くすも 未だ眠りを成さず
遅遅たる鐘鼓 初めて長き夜
耿耿たる星河 曙けんと欲するの天
鴛鴦の瓦冷ややかにして 霜華重く
翡翠の衾寒くして 誰と共にせん

悠悠たる生死 別れて年を経たり
魂魄曾て来たりて 夢にも入らず
臨邛の道士 鴻都の客
能く精誠を以て 魂魄を致す
君王展転の思ひに感ずるが為に
遂に方士をして 殷勤に覓めしむ
空を排し気を馭して 奔ること電の如く
天に昇り地に入り 之を求むること遍し

上は碧落を窮め 下は黄泉
両処茫茫として 皆見へず
忽ち聞く 海上に仙山有りと
山は虚無縹緲の間に在り
楼閣玲瓏として 五雲起こり
其の中綽約として 仙子多し
中に一人有り 字は太真
雪膚花貌 参差として是なり

金闕の西廂に 玉扃を叩き
転じて小玉をして 双成に報ぜしむ
聞道くならく漢家天子の使ひなりと
九華の帳裏 夢魂驚く
衣を攬り枕を推して 起ちて徘徊す
珠箔銀屛邐迤として開く
雲鬢半ば偏りて 新たに睡りより覚め
花冠整へず 堂を下り来たる

風は仙袂を吹ひて 飄颻として挙がり
猶ほ霓裳羽衣の舞に似たり
玉容寂寞 涙闌干
梨花一枝 春雨を帯ぶ
情を含み睇を凝らして 君王に謝す
一別音容 両つながら渺茫たり
昭陽殿裏 恩愛絶え
蓬萊宮中 日月長し

頭を迴らして 下人寰の処を望めば
長安を見ずして 塵霧を見る
唯だ旧物を将て 深情を表さんと
鈿合金釵 寄せ将ち去らしむ
釵は一股を留め 合は一扇
釵は黄金を擘き 合は鈿を分かつ
但だ心をして金鈿の堅きに似せしめば
天上人間 会ず相見えんと

別れに臨んで殷勤に 重ねて詞を寄す
詞中に誓ひ有り 両心のみ知る
七月七日 長生殿
夜半人無く 私語の時
天に在りて願はくは 比翼の鳥と作り
地に在りて願はくは 連理の枝と為らんと
天は長く地は久しきも 時有りて尽きるとも
此の恨み綿綿として 絶ゆる期無からん

高校の漢文の教科書には必ず掲載されている有名な漢詩。懐かしい教材です。

「天に在りて願はくは比翼の鳥と作り 地に在りて願はくは連理の枝と為らんと 天は長く地は久しきも 時有りて尽きるとも、此の恨み綿綿として 絶ゆる期無からん」という末尾の詩句は、今でもふと口に出てきます。

・・・

春夏秋冬、それぞれに百花繚乱を味わえる「向島百花園」でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トケイソウ。シモツケソウ。ヒツジグサ。ムシャリンドウ。・・・向島百花園。その3。

2021-06-17 20:00:41 | 向島百花園

緑濃き小道。

初冬のようす(一昨年)。

竹林。

周囲を住宅や道路に囲まれた中のオアシス。

池への水源。

シモツケソウ。

  

トケイソウ。

ムシャリンドウ。

ヒツジグサ。

ヒラトユリ。

ホタルブクロ。

花菖蒲が水辺に。

             

アジサイも鉢植えでいくつか。

白扇(はくせん)。

      富士の滝(ふじのたき)。

              

ガクアジサイ。

           

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅の実がたくさん。唐梅。紅千鳥。白加賀。花香美。・・・「向島百花園」その2。

2021-06-16 20:34:49 | 向島百花園

             梅の実をたくさん付けた梅の木がそこここに。

とうばい(唐梅)。

去年の春。八重の花が咲く。

別の所の「唐梅」。ヤマバトが。

紅千鳥(べにちどり)。

枝振りが素敵です。

                   

   

一昨年の春。紅千鳥。

この梅の木にメジロがたくさん来ていたことがあります。

2018年の春。

しろかが(白加賀)。

    

昨年の春。

      

花香美。

一昨年の春。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑豊か。たむけやま。・・・久々の「向島百花園」その1。

2021-06-15 18:44:04 | 向島百花園

長らく(昨年暮れから)閉鎖が続いていた「向島百花園」が再開されました。事前予約制(インターネットでの)です。さっそく予約し、6月7日(月)閉園時間(4:30)前のあわただしい時間でしたが、久々の訪問。

梅の花の季節はとうに過ぎ、実がしっかりと実る時節になってしまいました。すっかり夏模様の緑濃き園内でした。

        

山上憶良「秋の七草」歌碑。

秋の野に 咲きたる花を指折り かき数うれば 七種の花
  芽の花 乎花葛花 なでしこの花 姫部志 又藤袴 朝貌の花

(はぎのはな おばなくずはな なでしこのはな おみなえし またふじばかま あさがおのはな)

      「茶筅塚と柘植黙翁」句碑

           おりたらん 草の錦や 花やしき

園内にある歌碑などは何度見ても飽きません。

しのぶ塚

歌舞伎「隅田川続俤」(法界坊)の作者・初代河竹新七を追善しのび、台本を埋めて塚としたもの。

        螺舎秀民句碑。

            芦の芽や 田へ来(る)水も 角田川

すっかり緑一色。

再開されたばかり、平日の夕方なので、訪れる人も少ない。それでも、写真撮影に余念の無い方もチラホラ。

              橋も緑色に染まって。

    水温む季節。

キキョウ。 

     たむけやま。

            ヤマモミジ系の枝垂性品種。

ところで、「たむけやま」というと、奈良の「手向山」を想起します。

菅原道真の歌で、「古今集」中の歌で、「百人一首」にもあり。

このたびは 幣も取りあへず 手向(たむけ)山 紅葉の錦 神のまにまに

《歌意》こんどの旅は(宇多上皇の御幸のお供で急いで来たために)神様に捧げる幣を用意するひまもなく来ました。この手向山のみごとな紅葉の錦を(幣として)神様の御意のままにお受け取り下さい。

「幣」=神に祈る時に捧げ、また祓いに使う、紙・麻などを切って垂らしたもの。幣帛。ごへい。

菅原道真

35歳の若さで最高の権威・文章博士となり、54歳の899(昌泰2)年には右大臣にまで出世。しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、九州・太宰府に左遷、そこで59歳で没した。学問の神様・天神様として祀られている。

もちろん、この「手向山」という紅葉をさしているわけではありません。奈良市東部に位置する手向山は紅葉の名所として知られ、その麓には手向山八幡宮が東大寺二月堂の並びにあります。

紅葉の名所・「手向山」にあやかって名づけられた品種のようです。

「新宿御苑」にはこの古くて大きな木があるようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする