「日野鷺橋」を渡った先の突き当たりを右折してしばらく進み、「荒川橋」を渡り、左岸へ。
左折して行くと、秩父鉄道の「武州日野」駅(終点「三峰口」の二つ手前の駅)に着きます。
荒川橋。
埼玉県秩父市荒川日野と同市荒川小野原の間に架かり、荒川を渡る国道140号の密接する2本の橋梁。上り線(熊谷方面)が1929年(昭和4年)竣工の2代目の旧橋、下り線(甲府方面)が1986年(昭和61年)竣工の3代目の新橋である。
荒川河口から134.1 kmの地点に位置する、奥秩父の主要な交通路となっている橋。荒川の湾曲部に所在する上り方向専用の橋、および下り方向専用の橋の2橋で構成されており、橋詰で車道の上下線が分離し、それぞれの橋に1車線の一方通行として接続されている。
現在の橋は、上り線が旧橋の鋼上路ブレースト・リブ・バランスド・アーチ橋で、下り線は新橋の鋼上路トラスドアーチ橋となっている。この鋼上路ブレースト・リブ・バランスド・アーチ橋という橋梁形式は全国で2例しかなく、もう一つは栃木県那須塩原市の那珂川に架かる晩翠橋である。
初代荒川橋は、旧中川村を流れる荒川の、現在の荒川橋の下流側の川幅が最も狭くなっている地点に、「県道秩父甲府線」の橋梁として架けられていた。
大滝村、白川村、中川村の三村協議により「大宮大滝間道路組合」を発足して新道建設の企画を立て、埼玉県の援助のもと1890年(明治23年)6月に荒川に木橋を架設する工事に着手した。当時はまだ架橋技術が未発達で、荒川の川幅が狭隘な場所であるがゆえの急峻な地形も相まって失敗苦難の連続であった。1892年(明治25年)9月、完成半ばまで工事が進捗した橋が、暴風雨に見舞われて足場と共に流失してしまった。工事は振り出しに戻ってしまったが、道路組合関係者は屈することなく再び架設工事に着手した。しかし1896年(明治29年)1月、二度目の工事が竣工目前までこぎつけた橋が突然、今度は突風に見舞われて橋が谷底に墜落し、架橋工事に従事していた作業員が多数死傷する惨事となるなど架橋工事は難航を極めることとなり、道路組合関係者による架橋工事は挫折した。
そこで県はその完成を急ぐため、当時としては新式である構橋(トラス橋)を導入して県主導のもと工事を再開し、1898年(明治31年)、現在の荒川橋の約100 m下流側の位置に橋長78 m、幅員3.6 m、高さ33.3 mの初代秩父橋や親鼻橋に似た上路式の木鉄混合プラットトラス橋で架橋が実現し、新道は開通した。
これにより渡船に依存していた奥秩父の交通は近代化を遂げ、面目を一新した。また、この橋の開通の影響で交通の流れが変わり、贄川を始めとした新道の沿線は日を追って活況を呈するようになり、其れとは対照的に従来の街道筋である白久の衰退が目立つようになり、宿屋や店が次々と廃業に追い込まれるなど、困窮な事態に陥ってしまった。
この橋は十数回の補修を行いながら新しい橋が架けられるまでの約30年間使い続け、2代目である旧荒川橋(現上り線の橋)の開通後に役目を終えて廃止となり撤去された。橋の遺構や痕跡は残されていない。
初代荒川橋。
(この項、「Wikipedia」参照)
荒川。眼下を流れています。
橋の下を見ると、歩道のようなものが見えますが、ネットが張れていて通行不能? 国道を歩くことにします。
対岸の奥に秩父鉄道の鉄橋(↓)。
この付近のようす。荒川河岸左右の段丘上に集落が形成されています。
2010年代のようす(「歴史的農業環境システム」より)。右が「日野鷺橋」、左が「荒川橋」。中央の道路が「国道140号線(秩父往還・彩甲斐街道)」。秩父鉄道「武州日野」駅は、右端に。
先日のTV番組では、「荒川橋」の手前から線路沿いの道をたどった、と思われます。
道路案内板。
遠く、眼下に荒川に架かる「平和橋」。
その先には秩父鉄道「白久駅」があります。
当橋が架けられる以前は周囲に渡船場などはなく、対岸へ渡るには上流側にある「栃の木坂の渡し」と呼ばれる(「八幡坂の渡し」や「川端の渡し」とも呼ばれる)渡船場か、下流側に架かる荒川橋へ迂回する必要があった。 当橋は白久地区(白川村)への秩父鉄道秩父本線の誘致活動の一環として鉄道の開通に先駆けた1928年(昭和3年)に木製の吊り橋として架けられたものである。橋名は橋が架けられている贄川地区と白久地区の親睦と融和より「平和橋」と命名された。 初代の橋の主塔は木製で両端の補剛桁は木材をトラス状に「X」の字に組み、欄干も兼ねた構造である。徒歩専用の橋で幅員は1.8メートルである。単径間の橋で側径間は有していない。桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁が左右に揺れるのを抑制するための鉄索(ケーブル)が設置されていないため揺れ易い橋で、谷底からの高さが高いこともあって、渡ると波打つように揺れて大変怖いと言われている。この橋は1954年(昭和29年)に二代目の橋としてほぼ同じ構造の吊り橋に架け替えられた際に廃止された。
二代目の橋は床版は木製であるが、主塔はコンクリート製で橋門は鋼製になり、桁(欄干)は鋼補剛構造に改められた。初代の橋より幅員は広くなりバイクも通れる様になった。また桁の両側に耐風索および耐風支索と呼ばれる、桁の横変位と捩れを抑制するための鉄索が追加され、初代の橋より揺れにくくなっている。この橋は村民の生活に大きく寄与してきたが、老朽化の他、モータリゼーションの進展に伴い、徒歩の通行が減少するなど交通事情にそぐわなくなり、三代目の橋である近代橋の開通した後に廃止され撤去された。現在遺構としてコンクリート製の主塔が両岸に残されている。
今までの橋は自動車などの通行ができないため、地元住民より橋の架け替えへの強い要望があり、車両の荷重に耐えられる現在の鋼橋の近代橋に架け替えられ、1973年(昭和48年)4月20日に竣工した。これが現在の平和橋である。橋の架設に並行して取り付け道路も合わせて整備された。
旧平和橋。
(この項、「Wikipedia」参照)
荒川に架かる橋には、それぞれ地元の思い、歴史があることが分かります。
ジビエ料理のお店の看板が。(定休日でした)
「ぼたん鍋」「もみじ鍋」「猟師焼肉」・・・。
ジビエ(仏: gibier)とは、狩猟によって、食材として捕獲された野生の鳥獣を指し、フランス語である。英語圏ではゲーム(game)または、クワォリーquarryと呼ばれる。獲物を意味する。狩猟肉。
本来はハンターが捕獲した完全に野生のもの(仏: sauvage、ソヴァージュ)を指すが、供給が安定しない、また入手困難で高価になってしまうといった理由で、飼育してから一定期間野に放ったり、また生きたまま捕獲した後に餌付けしたりした動物もドゥミ・ソヴァージュ(仏: demi sauvage、半野生)と呼ぶ場合もある。近年では農作物被害対策として狩猟された鳥獣肉を「ジビエ」として供給するビジネスが徐々に拡大しつつある。(「Wikipedia」より)
両国橋のたもとにある「ももんじ屋」というお店が有名です。
江戸時代の江戸においては近郊の農村から仕入れた肉を取り扱う店が存在していました。そうした意味においては、日本人もジビエを食べてきたといえるようです。
両国の代々続く伝統のしし鍋料理
猪の鍋は深紅色した赤身と白い脂肪が特徴で、その色合いから、しし鍋のことをぼたん鍋ともいう。一番美味しい部位は脂の多いバラ肉で煮れば煮る程味が深まる。ほかにも脂身がなくキメの細かいのが特徴のシカ鍋や、やや黒味を帯びた赤身にたっぷりと霜降りののったクマ肉を使った鍋も、是非ご賞味下さい。(「ももんじや」HPより)
※猪肉を「牡丹」(ぼたん)、鹿肉を「紅葉」(もみじ)と称するのは、花札の絵柄に由来する隠語という説あり。
ただ、花札で、鹿は「紅葉」ですが、猪は「萩」、「牡丹」は蝶。猪肉をお皿に盛った色合いを「牡丹」と称したようです。
。。 余談ですが、花札といえば、ファミコンの「任天堂」。