渓谷巡りのための「案内標」。
(11:23)この先、「新氷川トンネル」(1983年竣工)入口付近から左手の道に入ります。「今昔マップ」によると、明治中期以降、「青梅街道(旧道)」はこの道筋になっていたようです。
江戸時代の「青梅街道」は「数馬の切り通し」から道筋ははっきりしません。峻厳な山間の道だったようですが。
「新氷川トンネル」。
「日向の馬頭さま」。
奥多摩は関東随一の急峻な地勢で道路問題は古くから住民の大きな負担となっていた。
ここ、氷川と白丸は隣り合わせの集落でありながら地形が急峻で江戸時代中期までは、その往来は山上の根岩越えが主要道で、元禄時代に数馬の切り通しが開削されるまでひどい難儀を強いられていた。また、この氷川の七曲がりには、オオカミ落としの呼称のある多摩川まで逆落としに落ち込む岸壁があり、交通の難所で道路開削後も宝暦4年、嘉永2年を含め度々大がかりの道普請が行われている。
この日向の馬頭観音は文化11年に建立されたものであるが、刻まれた銘等を見ると青梅をはじめ交通に関わり合いのある多くの人達により、供養されたものと思われる。
当初は、現国道より10数㍍上部の旧道に建立されていたものであるが、現国道が昭和2年~4年に改修されたときに現在地より百㍍程青梅寄りの国道沿いに移築され、通行する人々の安全を見守っていたところである。
今般、日向人道橋の工事に伴いこの地に移築したものである。
平成8年12月4日 奥多摩町
左手に「奥多摩もえぎの湯」。
旧道の「氷川隧道(旧氷川トンネル)」を越えたあと、「新氷川トンネル」出口手前で右手の階段を上って行きます。
「川原キャンプ場」への吊り橋。
(11:34)右手奥が奥多摩町の市街地。
坂道を左折し、青梅線の踏切を越えると、「奥多摩ビジターセンター」(11:40)。
右手が「奥多摩駅」。
国道沿いにある「奥多摩ビジターセンター」。ここで小休止。
かつて登った山がズラリ。
この日は「奥多摩100縁(円)商店街」を開催中。
けっこう子供連れで賑わっています。
【西多摩郡奥多摩町】 おくたマルシェ 2018 Spring
2018年5月26日 9:00 から2018年5月27日 17:00 まで
(HPより)
昨年秋、同所で初めて開催された同マルシェは、行楽帰りの観光客など数多く立ち寄り、にぎわいを見せました。
今回、奥多摩町観光協会、奥多摩で飲食店などを経営する未来計画工房、多摩地域で広域広報などの事業を行うグッドライフ多摩、JR東日本八王子支社による実行委員会が発足。西多摩地域の観光事業社などによる新しいプロジェクト「WILD TOKYOプロジェクト」がサポートし、規模を拡大して企画しました。
当日は西多摩各地から13事業社が出店。奥多摩産クラフトビールやBBQ演出家によるローストポーク、久保田農園の季節のハーブや採れたて野菜の販売、林業家集団・東京チェンソーズによる木製品や焚火グッズの販売、手作りのカナディアンカヌーの展示などが行われます。
奥多摩ゴスペルスパークルによるゴスペルライブ(26日、13時~13時30分・15時~15時30分)やDJイベント「国産レコードDJミックス・ショー!」(27日12時~17時)、青空左官ワークショップ「土としっくいの思い出手形」、アーティスト・MYMEさんによるライブペイント(26日)・ワークショップ(27日)も。
また26日には奥多摩駅周辺で、40店以上の商店が100円商品を並べる「奥多摩町 100縁商店街」も開催され、地元の採れたて野菜や総菜、甘味、日用品などを販売。開催両日、立川駅から拝島、青梅、御嶽駅の3つの駅だけ停車し、奥多摩駅まで乗り換えなしで行ける春の臨時列車「青梅 奥多摩新緑号」も走ります。
訪れたその日から、きっとあなたも奥多摩通! 出店者情報はHPで随時、お知らせします。ぜひお気軽にお立ち寄りください。
宿場時代の建物は見当たりませんが。
いよいよ「奥多摩むかし道」に向かいます。
「奥多摩むかし道」は、旧青梅街道と呼ばれていた道で、氷川から 小河内に達するまでの道です。
この街道は、小菅から大菩薩峠を越えて甲府に至る甲州裏街道で、 甲州街道より 8km ほど近道であったそうです。
現在の青梅街道は、柳沢峠を越えて塩山 (甲州市)に至る道で明治 11 年に開通しました。
昔、小河内の生活は、塩山との交易で支えられていました。大菩薩峠の無人小屋で物々交換をしていましたが、一度も間違いはなかっ たそうです。
その後、小河内の物産は、氷川への厳しい山道(14km)を避け、歩きやすい五日市 (20km)に運ばれ、生活物資に変えられていました。 岫沢( くきざわ)から風張峠に出て、浅間尾根を通り、本宿に下りて五日市に向かう道を通りました。
明治32年に、小河内と氷川間が、わりと平坦な山腹を通る道に改修され、道のりも 10km に短縮、交易ルートが氷川へと変わりました。以降、木炭の生産が飛躍的に増加しました。
この後も氷川への道は、たびたび改修され生活の道となったのは大正から昭和初期に入ってからです。
昭和 13 年、氷川~西久保間にム建設資材輸送専用として造られた道路が昭和 20 年に一般道として開放され、現在の国道411号線になりました。
(「奥多摩観光協会」パンフレットより)
むかし道の歴史
◇「奥多摩むかし道」は、奥多摩町氷川地区から小河内地区までの旧青梅街道を巡る歴史の道です。
◇青梅街道が最初に開拓されたのは慶長年間で、青梅と新宿を結ぶ道でした。当時、青梅の上成木周辺にて良質の白土(石灰)が多産され、江戸城の改築のために輸送されました。上成木が出発点のため、成木街道とも呼ばれました。
◇その後、青梅街道は多摩川に沿い西へと開拓され、小河内に達した後、大菩薩峠を越えて甲府に至ったため、江戸時代には甲州裏街道とも呼ばれました。甲州街道と比較すると2里(約8km)短く、多くの庶民に利用されました。尚、現在の青梅街道は明治11年に初めて開通した道で、鴨沢、丹波を経由し柳沢峠を越えて、甲州市の塩山を抜け甲府市に至るルートです。
◇この街道を通り、奥多摩から青梅へと、木炭、白箸、下駄材、山葵なども出荷されました。奥多摩氷川地区から青梅までは約5里の距離があり日帰りが困難であったため、氷川には馬方宿が営まれ繁盛しました。
◇旧青梅街道、つまり「むかし道」の路傍には、今でも石碑や塔、祠などが数多く見られ、いにしえの情景がうかがえます。また、そのルート自体は 現在においても各集落の人々にはなくてはならない生活道です。
(「奥多摩ビジターセンター」パンフレットより)
「旧青梅街道」は、小河内ダムの建設によってダムサイト付近から沿道の村落とともに「奥多摩湖」に水没してしまいました。今回歩く「奥多摩むかし道」も途中、「西久保の切り返し」付近からの山道は旧道ではなさそうです。「今昔マップ」によると、旧道は多摩川左岸(西側)を遡上していたと思えます。
小河内ダム・奥多摩湖
小河内ダム建設のために移転を余儀なくされた世帯は総数945世帯に及び、その大多数は旧小河内村の村民だった。昭和13年、ようやく小河内村との補償の合意がなされたが、小河内村長小澤市平氏は、『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで、「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」と思いを述べている。
「旧小河内村」
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、川野村、原村、河内村、留浦村が合併し神奈川県西多摩郡小河内村が成立。
1893年(明治26年)4月1日 - 西多摩郡が南多摩郡、北多摩郡と共に神奈川県から東京府へ編入。
1931年(昭和6年)6月 - 小河内ダム建設計画発表。村の田畑が荒廃していく。
1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。
1951年(昭和26年)9月 - 解村式挙行。
1955年(昭和30年)4月1日 - 小河内村は氷川町、古里村とともに合併し奥多摩町が発足。小河内村は消滅。
1957年(昭和32年)11月26日 小河内ダム竣工に伴い、多摩川沿いの旧小河内村集落の大部分が水没。
(以上、「Wikipedia」参照)
戦前、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々は、そこになかなか順応できず、戦後も窮乏や流転をくりかえしたといいます。
1937年当時、作家石川達三はその様子を「日陰の村」という小説に描きました。
(12:02)「奥多摩むかし道」へ左折します。
(11:23)この先、「新氷川トンネル」(1983年竣工)入口付近から左手の道に入ります。「今昔マップ」によると、明治中期以降、「青梅街道(旧道)」はこの道筋になっていたようです。
江戸時代の「青梅街道」は「数馬の切り通し」から道筋ははっきりしません。峻厳な山間の道だったようですが。
「新氷川トンネル」。
「日向の馬頭さま」。
奥多摩は関東随一の急峻な地勢で道路問題は古くから住民の大きな負担となっていた。
ここ、氷川と白丸は隣り合わせの集落でありながら地形が急峻で江戸時代中期までは、その往来は山上の根岩越えが主要道で、元禄時代に数馬の切り通しが開削されるまでひどい難儀を強いられていた。また、この氷川の七曲がりには、オオカミ落としの呼称のある多摩川まで逆落としに落ち込む岸壁があり、交通の難所で道路開削後も宝暦4年、嘉永2年を含め度々大がかりの道普請が行われている。
この日向の馬頭観音は文化11年に建立されたものであるが、刻まれた銘等を見ると青梅をはじめ交通に関わり合いのある多くの人達により、供養されたものと思われる。
当初は、現国道より10数㍍上部の旧道に建立されていたものであるが、現国道が昭和2年~4年に改修されたときに現在地より百㍍程青梅寄りの国道沿いに移築され、通行する人々の安全を見守っていたところである。
今般、日向人道橋の工事に伴いこの地に移築したものである。
平成8年12月4日 奥多摩町
左手に「奥多摩もえぎの湯」。
旧道の「氷川隧道(旧氷川トンネル)」を越えたあと、「新氷川トンネル」出口手前で右手の階段を上って行きます。
「川原キャンプ場」への吊り橋。
(11:34)右手奥が奥多摩町の市街地。
坂道を左折し、青梅線の踏切を越えると、「奥多摩ビジターセンター」(11:40)。
右手が「奥多摩駅」。
国道沿いにある「奥多摩ビジターセンター」。ここで小休止。
かつて登った山がズラリ。
この日は「奥多摩100縁(円)商店街」を開催中。
けっこう子供連れで賑わっています。
【西多摩郡奥多摩町】 おくたマルシェ 2018 Spring
2018年5月26日 9:00 から2018年5月27日 17:00 まで
(HPより)
昨年秋、同所で初めて開催された同マルシェは、行楽帰りの観光客など数多く立ち寄り、にぎわいを見せました。
今回、奥多摩町観光協会、奥多摩で飲食店などを経営する未来計画工房、多摩地域で広域広報などの事業を行うグッドライフ多摩、JR東日本八王子支社による実行委員会が発足。西多摩地域の観光事業社などによる新しいプロジェクト「WILD TOKYOプロジェクト」がサポートし、規模を拡大して企画しました。
当日は西多摩各地から13事業社が出店。奥多摩産クラフトビールやBBQ演出家によるローストポーク、久保田農園の季節のハーブや採れたて野菜の販売、林業家集団・東京チェンソーズによる木製品や焚火グッズの販売、手作りのカナディアンカヌーの展示などが行われます。
奥多摩ゴスペルスパークルによるゴスペルライブ(26日、13時~13時30分・15時~15時30分)やDJイベント「国産レコードDJミックス・ショー!」(27日12時~17時)、青空左官ワークショップ「土としっくいの思い出手形」、アーティスト・MYMEさんによるライブペイント(26日)・ワークショップ(27日)も。
また26日には奥多摩駅周辺で、40店以上の商店が100円商品を並べる「奥多摩町 100縁商店街」も開催され、地元の採れたて野菜や総菜、甘味、日用品などを販売。開催両日、立川駅から拝島、青梅、御嶽駅の3つの駅だけ停車し、奥多摩駅まで乗り換えなしで行ける春の臨時列車「青梅 奥多摩新緑号」も走ります。
訪れたその日から、きっとあなたも奥多摩通! 出店者情報はHPで随時、お知らせします。ぜひお気軽にお立ち寄りください。
宿場時代の建物は見当たりませんが。
いよいよ「奥多摩むかし道」に向かいます。
「奥多摩むかし道」は、旧青梅街道と呼ばれていた道で、氷川から 小河内に達するまでの道です。
この街道は、小菅から大菩薩峠を越えて甲府に至る甲州裏街道で、 甲州街道より 8km ほど近道であったそうです。
現在の青梅街道は、柳沢峠を越えて塩山 (甲州市)に至る道で明治 11 年に開通しました。
昔、小河内の生活は、塩山との交易で支えられていました。大菩薩峠の無人小屋で物々交換をしていましたが、一度も間違いはなかっ たそうです。
その後、小河内の物産は、氷川への厳しい山道(14km)を避け、歩きやすい五日市 (20km)に運ばれ、生活物資に変えられていました。 岫沢( くきざわ)から風張峠に出て、浅間尾根を通り、本宿に下りて五日市に向かう道を通りました。
明治32年に、小河内と氷川間が、わりと平坦な山腹を通る道に改修され、道のりも 10km に短縮、交易ルートが氷川へと変わりました。以降、木炭の生産が飛躍的に増加しました。
この後も氷川への道は、たびたび改修され生活の道となったのは大正から昭和初期に入ってからです。
昭和 13 年、氷川~西久保間にム建設資材輸送専用として造られた道路が昭和 20 年に一般道として開放され、現在の国道411号線になりました。
(「奥多摩観光協会」パンフレットより)
むかし道の歴史
◇「奥多摩むかし道」は、奥多摩町氷川地区から小河内地区までの旧青梅街道を巡る歴史の道です。
◇青梅街道が最初に開拓されたのは慶長年間で、青梅と新宿を結ぶ道でした。当時、青梅の上成木周辺にて良質の白土(石灰)が多産され、江戸城の改築のために輸送されました。上成木が出発点のため、成木街道とも呼ばれました。
◇その後、青梅街道は多摩川に沿い西へと開拓され、小河内に達した後、大菩薩峠を越えて甲府に至ったため、江戸時代には甲州裏街道とも呼ばれました。甲州街道と比較すると2里(約8km)短く、多くの庶民に利用されました。尚、現在の青梅街道は明治11年に初めて開通した道で、鴨沢、丹波を経由し柳沢峠を越えて、甲州市の塩山を抜け甲府市に至るルートです。
◇この街道を通り、奥多摩から青梅へと、木炭、白箸、下駄材、山葵なども出荷されました。奥多摩氷川地区から青梅までは約5里の距離があり日帰りが困難であったため、氷川には馬方宿が営まれ繁盛しました。
◇旧青梅街道、つまり「むかし道」の路傍には、今でも石碑や塔、祠などが数多く見られ、いにしえの情景がうかがえます。また、そのルート自体は 現在においても各集落の人々にはなくてはならない生活道です。
(「奥多摩ビジターセンター」パンフレットより)
「旧青梅街道」は、小河内ダムの建設によってダムサイト付近から沿道の村落とともに「奥多摩湖」に水没してしまいました。今回歩く「奥多摩むかし道」も途中、「西久保の切り返し」付近からの山道は旧道ではなさそうです。「今昔マップ」によると、旧道は多摩川左岸(西側)を遡上していたと思えます。
小河内ダム・奥多摩湖
小河内ダム建設のために移転を余儀なくされた世帯は総数945世帯に及び、その大多数は旧小河内村の村民だった。昭和13年、ようやく小河内村との補償の合意がなされたが、小河内村長小澤市平氏は、『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで、「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」と思いを述べている。
「旧小河内村」
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、川野村、原村、河内村、留浦村が合併し神奈川県西多摩郡小河内村が成立。
1893年(明治26年)4月1日 - 西多摩郡が南多摩郡、北多摩郡と共に神奈川県から東京府へ編入。
1931年(昭和6年)6月 - 小河内ダム建設計画発表。村の田畑が荒廃していく。
1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。
1951年(昭和26年)9月 - 解村式挙行。
1955年(昭和30年)4月1日 - 小河内村は氷川町、古里村とともに合併し奥多摩町が発足。小河内村は消滅。
1957年(昭和32年)11月26日 小河内ダム竣工に伴い、多摩川沿いの旧小河内村集落の大部分が水没。
(以上、「Wikipedia」参照)
戦前、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々は、そこになかなか順応できず、戦後も窮乏や流転をくりかえしたといいます。
1937年当時、作家石川達三はその様子を「日陰の村」という小説に描きました。
(12:02)「奥多摩むかし道」へ左折します。