明治以降、たびたびの水害で園内は荒廃。
明治中期のようす。「百花園」付近。取り立てて庭園らしいものは見当たりません。
さらに昭和20年の東京大空襲で壊滅的な被害を受けました。取り壊された建物もありました。
これがその一つ。「桑の茶屋」跡。明治時代、上野の博覧会で使用された二階建ての建物。桑の木で作られていたので「桑の茶屋」と呼ばれていました。取り壊されてしまいましたが、「欄間」は、「御成座敷」にあります。
建物があった当時の面影を残す縁石。
そこからスカイツリーを望む。
「イチョウ」。説明板にある写真の位置から、かつて茶屋の脇にあったイチョウと思われる。樹齢から「大空襲」で焼失した跡に育ったイチョウかもしれない。もし空襲で生き残ったとすれば、貴重な証言を残す木ということになるが・・・。
目の前の池。
池の周囲にも木々の花。
落ち着いた静かな雰囲気。
池をはさんで、「桑の茶屋」跡を望む。
「百花園」とは、「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたと伝えられています。「詩経」や「万葉集」など中国・日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようになりました。現代に残る唯一の江戸期の花園。明治13(1938)年、東京市に寄付され、翌年から有料で公開されました。昭和53(1978)年には「文化財保護法」により国の名勝・史跡に指定されました。
「アセビ(馬酔木)」。
「モチノキ」。
「サンシュユ」。
「エドヒガン」。サクラの一種。
「ハナモモ」。
「ナシ」の花。
「キブシ」。
「ミツマタ」。
「セイガイ」。イロハモミジの一種。
というように、さまざまな木々の花が咲き、春の七草など草花もたくさん。
右に見えるのが「ハギ」のトンネル。初秋を彩る頃はすばらしいようです。
「ソメイヨシノ」も負けずと。
久々の「向島百花園」。たくさんの木々や草花。そして、句碑・歌碑などがそこかしこに。周りは車の激しい明治通りとマンションに囲まれた都会の中の庭園。春の花が咲き誇っていました。実に久々。入園料70円(ただし、65歳以上)。
園内のようす。
甘酒屋さんやあずまや、休憩所もある。なかでも、「御成座敷」は宴会等でも利用される。
入ってすぐのところにある芭蕉の句碑。「春もやゝけしきととのふ月と梅」。同じ句(碑)が足立区郷土博物館にありました。
「足立区郷土博物館」にある芭蕉の句碑。「春も漸けしきととのふ月と梅」。文久3(1863)年建立。千住3丁目氷川神社境内にあったもの、とか。
同じく芭蕉の。「こ(ん)にやく」の句碑。「こんにやくのさしみも些(うす)しうめの花 はせを」。こんなぐあいに、「碑」が「い」からいろは順に「や」まで、29。
「墨沱梅荘記」碑(亀田鵬斎)。
ということで、花を愛でる前に、句碑などいくつか。
千寿庵益賀句碑「鳥の名の都となりぬ梅やしき」。
このように、開園当時(文化2年・1850年頃)は360本の梅が植えられていて「新梅屋敷」として創設された(亀戸にあった「梅屋敷」に依ったものか)。その後、たびたびの洪水で荒廃し維持も困難な時期もあったようだ。さらに、昭和20年3月10日の東京大空襲でこの辺一帯も焼け野原と化し、「百花園」も類焼、石碑以外、樹木も含めてほとんど跡形もなくなった。その後、復興して緑も濃くなったが、現在、梅はさほど植えられていない。
山上臣憶良「秋の七草」の歌碑。「秋の野に 咲きたる花を 指折りかき數うれば 七種の花 芽の花 乎花葛花 瞿麦の花 姫郎志 また藤袴 朝顔の花」。
二代河竹新七追善狂言塚の碑。
その説明。
6つほど並んで建っている碑の一部。
そのなかの一つ。井上和紫句碑。「紫のゆかりやすみ連(れ)江戸生れ」。
その一画にあった「日本橋石柱」。説明では模造品だと思われるが、徳川慶喜の文字と伝わっている、とか。
最中堂秋耳句碑。「限りなきそらの要や望の月」。
とまあ、きりがないほどたくさんの碑がありました。
其角堂氷機句碑。「朧夜やたれを安るし乃(あるじの)墨沱川(すみだがわ)」。
それにしても、長い年月のうち、さまざまな存続の危機に遭いながらも、句碑などよく保存されている。
すでに散り始めた花びらのもとには野鳥。
ケヤキも芽吹いて。
ミツマタ。
カネノナルキ。
スイセン。
大きな木の足下には、紫の花。
名前のある「雑草」が咲いて。
このところ、何だか慌ただしい3月です。
近所の公団の桜も満開、でも、すでに散り始めています。去年は、「春一番」もなかった年。春の訪れは遅かったようでした。4月9日に満開の桜模様をUP。
今年は、早い。入学式・始業式には葉桜どころか緑濃き桜を背景に記念撮影? 隅田公園でも桜祭りの茶屋も間に合わず慌てて準備したようす。公団の夜桜見物のぼんぼりも間に合わなかった。人事をよそに、あっという間の華やかな季節感。でも、桜に比べて、地面の小さな草花の生育は少し遅いような気がします。まだまだ地面は寒いのか。
桜並木。この公団も出来てから半世紀以上も経っています。すでに建て替えられました。でも、桜並木など雰囲気は以前と変わりません。
桜もますます年輪を重ね・・・。
幹にも一輪。
シダレザクラ。
スルガダイニオイ。
タンポポ。
ツクシ。
カラスノエンドウ。
通りすがりのおうちの前。春の草花。
この施設は、「志免鉱業所」の採炭夫を昇降させ、石炭を搬出するためのもの。地上にある櫓(やぐら)の部分は1941年(昭和16年)に着工し、1943年(昭和18年)に完成。地下の竪坑は櫓の完成後1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)にかけて開鑿されました。その後、1964年(昭和39年)に閉山となり、そのまま残されています。
もともと、この志免鉱業所は1889年(明治22年)に海軍が軍艦の燃料である石炭を確保するために開設したもので、現在残っているこの竪坑櫓も、海軍により建造されました。終戦後は国鉄所有の鉱業所に。他の炭鉱と同じくエネルギー革命により昭和39年に閉山。最初から最後まで「国営炭鉱」という珍しい経営スタイル。
この巨大な「竪坑櫓」は戦時中にもかかわらず、イギリス製の鉄鋼を用いた鉄筋コンクリート造。当時の価格で200万円(関連施設含む)もの予算をかけて建設されました。
巻上機室(1000馬力)が櫓の高層部、高さ35メートルの位置に置かれているワインディング・タワー(塔櫓捲式)と呼ばれる形で、終戦前に建設されたもので現存しているのは世界でも志免炭鉱と龍鳳炭鉱(中国・撫順市)、トランブルール炭鉱(ベルギー・リエージュ州)の3か所だけで、国内でこのタイプの縦坑櫓が現存するのはここのみ、ということです。
2007年(平成19年)7月31日に国の登録有形文化財に登録され、2009年(平成21年)12月8日、国の重要文化財に指定されました。
竪坑櫓とそのすぐ近くに残されている斜坑口(第八坑連卸坑口)、国鉄勝田線跡地(志免駅跡である志免鉄道記念公園ほか)などが「志免鉱業所関連遺産」として経済産業省指定の近代化産業遺産に登録されています。
遠くからでもよく見える、福岡県志免町のランドマーク的存在の遺構。解体の話も出たそうですが、住民の保存運動が実って現在のような姿で保存されています。
全景。その奥に見えるのが「ボタ山」?
ボタ山は、石炭を掘り上げた時に出た土(ボタ)を積み上げたもの。あまりはっきりしないので、「志免町」のHPから拝借。
「現在、西原硬山が4つの峰を残し現存しており、自然史的にも貴重な山となっています。竪坑櫓・斜坑口とボタ山がセットで残っているのも日本で志免町だけです。志免・須恵・粕屋の三町で所有。」(HPでの説明文)
コンクリートの骨格だけですがごつくて威圧感があります。
周囲はフェンスで囲まれ、立ち入り禁止となっています。
グランド側から見たところ。
説明板。
「竪坑櫓」は、ケージと呼ばれる籠を昇降させるために造られた巨大なビルディングです。この櫓の真下にまっすぐ掘られた深さ430mの「竪坑」という穴を使い、地下から石炭を上げたり、坑員を地下の石炭層まで移動させていました。まるで金づちを立てたような形の櫓に、巻き上げる機械が組み込まれた、エレベーターのような仕組みとなっています。さまざまな形の竪坑櫓の中で最も発達した形式で、地上8階、地下1階のうち、地上1階から5階までを柱のみで構成し、6階以上には壁をつけています。8階部分には吹き抜けの大空間があり、ケージの巻き上げに使われた1000馬力のモーターが、休みなく稼動していました。
志免と類似する形式で、終戦(1945年)の前に建設された竪坑櫓は、これまで九州で造られたおよそ100の竪坑のなかでも、四山第一竪坑(三井三池炭鉱、荒尾市)にあっただけです。また世界中をみても、現在まで残っているものは、志免のほかにベルギーのブレニーと中国撫順の2か所だけだといわれています。その姿は、機能的で無駄のない造形美をもつ近代建造物であり、世界の産業技術史を語る上でも大切な遺産であるといえるでしょう。
1957(昭和32)年には、21万トン以上も出炭していた竪坑も、1964年の閉山とともに稼動を停止します。現在、日本に現存する最大規模の竪坑櫓は、日本で唯一、開坑から閉山まで国営でありつづけた志免鉱業所の歴史を物語っています。
日本の近代化を支えた竪坑櫓が、志免町のランドマーク、そして歴史と文化のシンボルタワーとして、広く親しまれることを願っています。
構造断面図
内部のようす。
操業当時の「支免鉱業所」。
(以上、「支免町」HPより)
斜坑口。
第八坑本卸坑口。1938年(昭和13年)完成。
隣接されている施設。「支免町総合福祉施設シーメイト」。
昭和40年代前半の頃。父親が筑豊の出身の炭鉱労働者。閉山となって茨城に移り、学校警備員の仕事をしながら家族を育てている、その家族の一人と知り合いました。その方も今は長じて既に立派な社会人。お父さんはすでに亡くなりましたが、その方とは今でも付き合いがあります。
どこの炭鉱で働いていたかは聞きそびれていますが、戦後の復興・日本のエネルギーを担い、過酷な労働下にあった、そして廃山とともに各地に散っていき、生活を支えたそうした人々と家族の生き様を、こうした遺構を目の当たりにしてふと思い出しました。
帰りは、再び福岡空港まで。すっかり雨も上がり、少し元気を取り戻して、来た道を歩き始めました。往復約3時間の行程でした。
町長さん自筆の「記念プレート」。
かつてのホームを模したのでしょうか。線路も残っています。
手動信号機も設置されています。
「しめ・志免」。
今にも列車が来るような・・・。
車が通る道路が間にあるのがご愛嬌。
「転轍機」など当時使われていた鉄道関係のものがモニュメントとして置かれています。
枕木も階段として再利用。
構内・駅舎などもけっこう大規模だったようです。駅舎の復元がないのが残念!
長いホーム。
かつての志免駅のようす。
在りし日の勝田線のようすがタイル写真で掲示されています。
「近代化産業遺産」の記念標。
「志免鉄道記念公園」から望む「志免鉱業所竪坑櫓」。
その交差点名「南里(みなみざと)駅前」。すでに廃止された駅の名が信号機に残っていました。
この付近に「南里」駅があったようです。
小川に架かる橋の格好は皆、このようにトラス鉄橋を模したような感じ。運行当時はガーター橋だったと思われますが。土台はかつての鉄橋のまま?
このあたりになると、のどかな田園風景が広がります。
土台のコンクリートは鉄道当時のままのようです。
別の角度から見たところ。
橋のようす。歩行者・自転車専用ということが徹底されています。
目の前が大きく開け、巨大ショッピングモールの出現。「イオンモール福岡」。廃線跡・緑道はいったんなくなります。
それにしてもバカでかい建物。地べたの駐車場の広さも都内ではありえないほどの大きさ。さらに屋上にも駐車場。車がひっきりなしに出たり入ったり。「農道につき一般車進入禁止」の立て看板が入口付近にあって、何だか不思議(どの道を指しているのだろう)。
名称:イオンモール福岡
開店日:2004年6月4日
所在地:〒811-2303 福岡県糟屋郡粕屋町大字酒殿字老ノ木192-1
面積:敷地面積…約217,000m²
延床面積…約106,000m²
商業施設面積…約83,000m² ※総賃貸面積
駐車台数:約5,200台
映画館から専門店・・・、なんでも近畿以西では最大級のショピングセンターらしい。
道路を渡ると、再び緑道(廃線跡)が始まります。(しかし、横断歩道もなく、遠くの方に信号機が見えるのみ。しかたなく柵を越えて向こう側に。こんなところで事故ったら一生の不覚になりかねない。見ると、孫を連れたおじいさん、二人でさっさと渡っていた、さすが地元!)
しばらく進むと、今回の最大の見所へ到着することになります。ここまでの所要時間。「福岡空港」から約1時間20分。距離にして約4.5km。
ここで、「志免町」の紹介を。
志免町(しめまち)は、福岡市東部近郊の町。人口密度は2012年4月1日現在、全国の町の中では最も高い。また、福岡県内では春日市に次いで第2位、更に鉄道路線の存在しない市町村の中でも沖縄県浦添市に次いで第2位である、とのこと。
町名の由来は、隣町である宇美町にある宇美八幡宮の注連縄(しめなわ)が張られた土地であることから、という説があるらしい。たしかに「志免」=「しめ」と読むのは難しい。
志免町は、糟屋郡南部一帯に広がる粕屋炭田と呼ばれる炭田地域の中心部にあり、かつては町内に数か所の炭鉱を有し、石炭産業で栄えた。その後のエネルギー革命の影響で、1964年に国鉄志免炭鉱が閉山したのを最後に町内から炭鉱がなくなった。
現在は福岡市に隣接していることで、ベッドタウンとして住宅が多数建設され、人口が増加している。
公共の交通手段としてバスしかないことがいいのか悪いのか。そのせいで、鉄道を潰した国鉄の失敗を責める声もあるらしい。何しろ福岡空港へ歩いても20分足らずで、福岡の中心部に行くにも、割と便利な立地条件。よく福岡市に合併しなかったものだ、と思います。
「志免」駅へ向かう緑道(廃線跡)から公園方向を望む。
上亀山駅跡公園のすぐ脇の街道。
趣のある店構えのお酒屋さん。全国の地酒・焼酎を扱っているみたいです。「きっと見つかるいいお酒」と看板に。
緑道(線路跡)の脇にあったボイラー? 建物の裏庭にあった。何なのか説明板は、なし。
右が緑道。頭上にはけっこう長く大きな藤棚。
国鉄用地の境界を示す標識。「工」の字がある。
同じ標識が二つ。歩いた範囲ではここだけにしか残っていないようだが。
側溝に沿って置かれていた(手前と奥)。
境界線の標識では他には「志免町」が目に付くのみ。
左側に田畑が広がっている。その脇を走っていた「勝田線」。
「コブシ」の花。モクレン科の落葉広葉樹。早春に他の木々に先駆けて白い花を梢いっぱいに咲かせる。別名「田打ち桜」とも。
春の訪れを感じさせる。
小川を越える橋桁。鉄道のときのものが使用されているような。
道路を越えて進んでいく。この緑道は自転車や歩きでけっこう地元の人には利用されているようで、雨の日にもかかわらず、犬の散歩や買い物などでけっこう行き来があった。
「志免町」には現在、鉄道が通っていない。国鉄時代(JRになっても)、路面電車風にこまめに小駅を作り、沿線住民の便宜を図っていたら面白かったのに。
長めの橋。ここにもかつての橋脚の土台が使われているような。頑丈なコンクリート製。
来た道を振り返る(上亀田駅方面)。
大きな幹線道路に出る手前。左手が緑道。
勝田線(かつたせん)は、かつて福岡県福岡市博多区の吉塚駅と同県糟屋郡宇美町の筑前勝田駅とを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)。1985(昭和60)年に全線が廃止となりました。その跡は、ほぼ自転車・歩行者のみが通れる緑道になっています。
元は、沿線から産出する石炭の輸送と宇美八幡宮参詣客の輸送のため、筑前参宮鉄道が敷設した鉄道路線。1918年に末端部が貨物線として開業、翌年に全線が開業し旅客営業を開始しました。沿線の糟屋炭田から産出する石炭の輸送で賑わったが、同炭田が閉山すると急速に衰退していきました。
1942年(昭和17年)「筑前参宮鉄道」が九州電気軌道に合併し「宇美線」となる。
1944年(昭和19年)戦時買収により国有化、吉塚 - 筑前勝田を勝田線とする。
1965年(昭和40年)宇美 - 筑前勝田間の貨物営業を廃止
1981年(昭和56年)志免 - 宇美間の貨物営業を廃止
1985年(昭和60年)4月1日 全線廃止 。
志免・宇美両町内の区間は、大半が遊歩道として整備されていて、御手洗、上亀山、志免の各駅跡は公園となり、特に志免駅跡はホームや線路、信号機などが保存され、勝田線現役時代の写真なども展示された鉄道公園として整備されています。
「吉塚」駅~「上亀山」駅、「志免」駅~「筑前勝田」駅は時間的にたどれず。出発時間までの3時間ほど。ほぼ志免町町内を通る廃線跡の一部をたどってみました。
この橋を渡ると、「志免町」。
「志免緑道」入口から北西方向を望む。「吉塚」駅方向へ緑道(廃線跡)は伸びています。ここから吉塚駅からの線路跡はまだところどころに確認できるようだ。航空写真でも確認できそう。
単線だったことが幅の狭さでも分かる。
よく整備された緑道が続きます。
工場と住宅の間を抜けていきます。輸送量増強のための複線化、駅の拡幅などはなかなか難しかったのか?
線路のすぐ脇を通るバス通り。地元住民の輸送手段としてはバスかマイカーというふうになっていったようだ。
左がバス停広場。
「志免町大字別府字出料」。
トンネルのようなモニュメント。線路際まで住宅が迫っています。
ところどころなくなっている柱もありますが、なかなかの迫力。
枕木を敷き詰めてあるところも。
「上亀山駅跡公園」。周囲が住宅地の中にありました。広い楕円形の公園。その形がホームがあったことを偲ばせる。ただ、それらしい駅・鉄道の痕跡は見当たらず。
「御手洗」駅方向。
夕飯までの少しの時間、ちょっと気になって行って見たかったところへ。幸いにホテルから歩いてすぐそこ。
「赤煉瓦」の建物。
明治時代の我が国を代表する建築家・辰野金吾と片岡安の設計により、日本生命保険株式会社九州支店として明治42年(1909)2月に竣工。
赤煉瓦と白い花崗岩の外壁は、19世紀末の英国様式を応用したもので、ドームや小塔、屋根窓を配した銅板葺きの屋根など、変化に富んで見飽きません。
白と赤のコントラストが見事。
資料によれば、昭和44年(1969)3月に国の重要文化財に指定されたのを機に福岡市に譲渡され、平成2年(1990)まで市歴史資料館として使用された後、平成6年(1994)2月、有料の会議室等を備えた「赤煉瓦文化館」としてオープン。さらに、平成14年(2002)5月からは、1階の一部が「福岡市文学館」として使用され、文学に関するさまざまな情報を収集・提供することになった、とのこと。
辰野片岡建築事務所(辰野金吾・片岡安)の設計といえば、このほどかつての面影を取り戻した東京駅舎などで知られています。
「東京駅丸の内側駅舎」。そういえば、何となく雰囲気が似ています。
場所は、昭和通り、那珂川に架かる「西中島橋」のたもとに位置しています。
「西中島橋」からの眺め。右手の橋詰に建物がある。
館内には、時間がなくて入りませんでしたが、福岡市の文学の歴史、とくに近代以降の文学グループや作家の雑誌、作品などの情報を展示している、とのことでした。
「福岡市文学館」の表札。
外壁。東京駅舎は戦災で焼け落ちたが、ここはしっかり残っています。
夜になって、飲みついでに結局、外出。せっかく来たので、とんこつラーメンを。そこで、「一蘭」に。すだれをはさんで、カウンター越しでの店員とのやり取りは面白い。「天然」の味もよし、「秘伝の赤だれ」もよかった。でも、これでまたコレステロールが上がったのでは・・・。そんなこと、ないか。そこで、お店の宣伝文句。
動乱の幕末時代を舞台に、京の都を震撼させ、その名を轟かせた土佐の最強の剣士・岡田以蔵の半生を描いた。司馬遼太郎の小説『人斬り以蔵』をもととしている。
《あらすじ》
岡田以蔵は、土佐の貧乏郷士に生まれ育ち、酒と女に目のない暴れ者だった。そんな彼を“人斬り以蔵”とまで呼ばれる刺客にしこんだのは、土佐勤王党の首領・武市半平太。冷酷な革命家・武市は、自分の政策遂行の上で、暗殺者としての腕を必要とした。
土佐藩主の執政・吉田東洋を門出の血祭りにあげる。このとき、以蔵は半平太に呼び出され、東洋暗殺の現場を視察せよと命じられる。その夜の見聞が、以蔵を変えた。以蔵は、人斬りとしての本能を呼び醒ましてゆく。「天誅」という言葉を何度も繰り返す。
京に上った二人は、以蔵の手で敵対者を次々に暗殺、この活躍は、薩摩の人斬り田中新兵衛と比較されるほどになった。瑞山と号した武市は勤皇一派の中心人物となり、京都で栄華を尽くしていく。そのもとで、以蔵にとっての関心事は、女郎おみのを抱くことと、姉小路邸で見かけた綾姫を偲ぶことだった。
その後、以蔵は武市の命に従わず、渡辺金三郎等を襲って目覚しい働きをみせるも、藩名と自身の姓名を声高に叫んだ失態を武市に厳しく叱責される。
以蔵はいったんは武市から離反する動きを起こそうとしたが、女郎のおみのに武市に謝罪することを薦められ、以蔵はますます武市の命ずるまま人斬りの運命から逃れる事が出来なくなっていく。
ある日、武市は、以蔵に新兵衛の刀を持たせ、自分を後だてにしていた姉小路を暗殺させる。この件で嫌疑をかけられた新兵衛は、自ら切腹して果てる。
姉小路卿を斬った直後から以蔵は酒に溺れるようになり、浪人狩りの網にかかった以蔵は、武市からも冷たく見捨てられ、厳しい拷問にかけられた。報酬に30両をせしめた以蔵はおみのを苦界から救い出すが、自分の立場の惨めさを思い知らされた。
そんな以蔵に人斬りをやめるよう忠告したのは、坂本竜馬。竜馬は新しい日本をつくるために自分と行動を共にすることを勧めたが、しかし、以蔵は、武市の「飼い犬」として流れに押し流されてゆく。
土佐藩執政吉田暗殺事件が露見し、武市一派は土佐に呼び戻され、取り調べられた。武市にとっては無用になった以蔵を自らの立場を守るために使者に毒をいれた酒を持たせる。九死に一生を得た以蔵は、武市一派の行状を暴露した。
5月、土佐の春祭りの囃子を遠くに聞きながら、以蔵は磔の刑によってその数奇な生涯を閉じる。
《スタッフ》
監督:五社英雄
脚本:橋本忍
参考文献:司馬遼太郎『人斬り以蔵』
撮影:森田富士郎
音楽:佐藤勝
美術:西岡善信
《キャスト》
岡田以蔵:勝新太郎
武市半平太:仲代達矢
田中新兵衛:三島由紀夫
おみの:倍賞美津子
綾姫:新條多久美
姉小路公知:仲谷昇
松田治之助:下元勉
皆川一郎:山本圭
おたき:賀原夏子
勝海舟:山内明
牢名主:萩本欽一
吉田東洋:辰巳柳太郎
坂本竜馬:石原裕次郎
主人公・岡田以蔵に扮したのは、勝新太郎。冷徹な殺人者というイメージではなく、どこか泥臭く人間味がある硬骨漢として描かれ、新たな「人斬り以蔵」像を作り上げている。
一方、以蔵の生涯を支配する存在となった土佐勤皇党盟主・武市瑞山役には、仲代達矢が扮し、一方で清廉な革命家、一方で冷徹、非情な政治家として描いた。
武市とは異なる手法で倒幕を図る坂本龍馬役には石原裕次郎が扮し、時に人斬りの道を邁進する以蔵を諌め、また以蔵の苦境を救う存在として登場。
さらに以蔵と並ぶ「人斬り」薩摩藩士・田中新兵衛を演じたのは、三島由紀夫。切腹することで鮮烈な印象を残したが、その翌年、自身も壮絶な切腹死を遂げることとなった。以蔵が愛する女郎おみのには、倍賞美津子が扮した。
今観ると、勝新太郎をはじめ、役者揃いの映画。なかでも、勝の存在感は見事。感情表現も動きも抜群。
まだお坊ちゃん・裕次郎もまったく形無し。
能面・三島由紀夫の切腹場面は、たしかに1年後の実際を彷彿とさせる鬼気迫るものがあった。
しかし、勝新以外は、まったく時代劇向きではないことが判明した感じ。でも、ストーリー的には、なかなかよく出来た時代劇。
さて、実際の岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年1月20日(1838年2月14日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、映画で描かれた人物像とは異なるようだ。(以下「Wikipedia」より)
土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)に二十石六斗四升五合の郷士・岡田義平の長男として生まれる。嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父・義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。
武市瑞山(半平太)に師事し、はじめ小野派一刀流(中西派)の麻田直養(勘七)に剣術を学ぶ。安政3年(1856年)9月、瑞山に従い江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。翌年、土佐に帰る。
万延元年(1860年)、時勢探索に赴く瑞山に従って、同門の久松喜代馬、島村外内らと共に中国、九州で武術修行を行う。その途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するであろうと武市が配慮し、豊後岡藩の藩士に以蔵の滞在と、後日、藩士江戸行の便ができたとき随行させてもらえるよう頼んだ。武市と別れ、以蔵のみ岡藩にとどまり直指流剣術を学ぶ。文久元年(1861年)、江戸に出て、翌年土佐に帰る。その間、武市の結成した土佐勤王党に加盟。文久2年6月、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。
これ以降、土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付けの井上佐市郎の暗殺に参加。 また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。 越後出身の本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)。 このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられたと言われる。しかし同時代の史料では同志から「天誅の名人」と呼ばれても、「人斬り」という呼称が使われた形跡は確認できない。一般的に「幕末四大人斬り」と呼ばれる者達はみな、創作物によって「人斬り」の名が定着したものである。
以蔵は瑞山在京時の文久3年(1863年)1月に脱藩、その後八月十八日の政変で土佐勤王党は失速。 脱藩後の以蔵は、土佐勤王党員の記録から長州藩邸の世話になっていたと推察される。その後、酒色に溺れて同志から借金を繰り返し、同志と疎遠になった後は一時期坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に行っていたという逸話が残っているが、いつしかその龍馬らにも見放され、無宿者となるほど身を持ち崩した。
元治元年(1864年)6月頃、犯罪者として幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺に関して首領・武市瑞山を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられた。
投獄後の以蔵は、拷問により暗殺に関与した仲間等を次々に自白し、これが土佐勤王党崩壊の端緒となる。以蔵の自白が引き金となり、まだ捕らえられていなかった同志が次々と捕らえられて入牢した事、吉田東洋暗殺の背後には山内家保守派層の関与が公然の秘密であった事から、同志はお家騒動への発展を恐れ以蔵毒殺計画が仲間内で相談される。しかし強引な毒殺は瑞山や島村寿之助らが止め、以蔵の弟で勤王党血盟者である啓吉に、以蔵の父から毒殺の許可、ないしは自害を求める手紙を寄越すよう獄外の同志に連絡を取らせる。これらの遣り取りの間に、瑞山の弟・田内衛吉は拷問に耐え切れず兄に毒薬の手配を頼み自害、島村衛吉は拷問死。獄中書簡に依ると、結局以蔵に毒は送られることなく結審を迎えたと考えられている。慶応元年3月25日岡本次郎書簡武市瑞山宛では以蔵に関して「是迄の不義、血を出して改心」と伝えており、自白を反省していた様子が伺える。
『土佐偉人伝』によれば、同囚中の志士・檜垣直枝が自白した以蔵を励まし「拷問の惨烈なるは同志皆はじめから期するところなり、子その痛苦に忍ぶあたわざれば、速やかにその罪を自白して、早く死地につけ、必ず同志の累をなすなかれ」と説得に当たり以蔵はこれにより慚憤したとなっている。
以蔵は死刑言い渡しの際、瑞山によろしく伝えて欲しいと牢番に伝言を頼んだ。しかし、瑞山の手紙ではその厚顔無恥ぶりを呆れられている。なお勤王党の獄で以蔵の自白により真っ先に犠牲になった者は、武市の身内であった。
『土佐偉人伝』(寺石正路)には「天資剛勇にして武技を好み、躯幹魁偉にして偉丈夫たり。宜振、はじめ勇にしてあと怯なり。人みなこれを惜しむ。武市瑞山もまたその粗暴にして真勇なきをもって大事を謀らず、しかも少壮殺人を嗜みて人を斬る草の如く。その挙、おうおう常軌を逸す(中略)末路、投獄同志みな鉄石漢にして拷問の惨苦なるも忍んで一言を発せず、しかるに宜振、独りその苦痛に忍びず罪案を白状し累を同志に及ぼし遂に勤王の大獄を羅織せしは遺憾というべし」と書かれている。
『維新土佐勤王史』には「血気の勇はついに頼むに足らず、全く酒色のために堕落して、当初剣客なりし本分を忘れ、その乱行至らざる所なく、果ては無宿者鉄蔵の名を以て、京都所司代に脆くも捕縛せられぬ」とある
慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首、獄門となった。享年28。辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」。墓所は高知県高知市薊野駅近郊の真宗寺山(しんしゅうじやま)にある累代墓地。宜振の名で埋葬されている。
以蔵の人物像を決定づけたのが司馬遼太郎の『人斬り以蔵』(1964年)である。
以蔵に関しては「獄中で毒を送られた以蔵がそれに勘付き、武市らによる自身への毒殺未遂を恨んで自白に及んだ」というエピソードが有名だが、これは司馬遼太郎の創作である。司馬版『人斬り以蔵』では、父は郷士だが以蔵自身は他の同志より身分の低い最貧困層出身で軽んじられ、粗暴で余りにも教養・道徳心に欠けた人物であり、よって汚れ仕事(人斬り)を専門に請け負わざるを得なかったという描かれ方になってる。しかし研究者によると貧民ではなく一般的な郷士の子息としての教育は受けていたこと、天誅は複数の仲間と相談の上で協力し、また天誅希望者が殺到するほど競い合って行っていたことなどが判明している。
2010年大河ドラマ『龍馬伝』の放送によるイメージアップを機に、地域の史跡研究会有志などによる、以蔵のための慰霊祭が初めて開催される。
土佐藩出身の志士たちのために各地で慰霊祭が行われていたが、以蔵は自白で同志に累を及ぼしたことで維新後顕彰を拒否されており、加えて現在に至るまで人斬りやテロリストとしての負のイメージがつきまとい、慰霊祭は行われてこなかった。なお『龍馬伝』内における以蔵は、武市に従順な性格で、拷問に耐え最後まで自白しないなど、史実とはまったく正反対の人物に描かれた。
勝海舟の自伝『氷川清話』によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。勝は「これには俺も一言もなかったよ」と述べている。
これまでの長い人類の栄枯盛衰という歴史の中、際限なく繰り返される栄光、繁栄、一方で戦争や災害、征服、絶滅、破壊などによって、世界中に廃墟が(今もなお)再生産されていく。生と死。いわば死の遺産でもある「廃墟」。それを見る人に触れる人に、郷愁や無常観を誘う、意識的な存在として風化することを拒絶してそこに(その下に)「ある」。
映画、写真、建築、美術、文学などに登場する無数の廃墟群を16人の気鋭の研究者が徹底検証した書。1997年に発刊された『廃墟大全』を2003年に文庫化するに当たって一部、加筆・修正して再構成された。
かなり刺激的な内容。「時空を超えて怪しい魅力を放って已まない廃墟の本質に迫った」(後書き)異色の評論集。写真家や画家の個人的な廃墟に対する思惑・思念がけっして個に止まらず、時代や民族や文化に色濃く反映され(影響され)ていることを明らかにしていく。中国のとらえ方。ローマでは。そして日本では・・・。民族の自然観、死生観にも考察が進んでいく。廃墟の持つ本質を鋭く捉えた書としてはジャンルを超えた「問題提起」「論戦」の場として、格別の出来合い。
《スタッフ&キャスト》
監督:ティント·ブラス
原作:谷崎潤一郎
脚本:ティント·ブラス
音楽:エンニオ·モリコーネ
出演:
ステファニア·サンドレッリ:テレサロルフ
フランク·フィンレイ:ニノロルフ
映画の舞台は、ヴェネツィア。イタリアファシスト政権の時代、第二次世界大戦宣戦布告の前夜。 高齢の美術教授とヴェネツィアの中心部にある小さなゲストハウスを持つ彼の若い妻の物語。
夫は、彼の貪欲な性的空想を書き記した日記を隠している引き出しの鍵を床の上に妻が見つけ出すようにわざと残す。妻は、鍵を見つけ、引き出しを開き、日記の内容を知る。
妻の裸身の写真を娘の恋人に現像させ嫉妬と興奮を覚える夫・・・自分の恋人とも関係する母親、それに敵対心を持つ娘、
さらに嫉妬に狂う夫・・・、4者の絡みの中で、話が進んでいくが、教授は、高血圧のためにセックス・ゲームの間に倒れて死ぬ。
最後の場面。教授の棺がゴンドラで運ばれていく中、ファシスト政権によって宣戦布告が発表される。
4者の関わり、話の展開は、原作に忠実な印象。
谷崎潤一郎の「鍵」をもとにした映画で、日本でも何度か映画化されている。そのイタリア版。内容は、自由奔放で屈折した性的関係を描いているが、ポルノ映画に近い。上映当時も賛否両論。かえって話題になったという。
日本では、川島なお美、柄本明、大沢樹生、辻香緒里が出演した作品が話題になった。
河津桜。曳舟川親水公園にて。
春爛漫。
隅田公園の河津桜。遠くにスカイツリー。ここも満開。
そのお隣のジュウガツザクラ。
墨田堤の桜植樹の記念碑。
地元有志による「勧進桜」。今もなお受け継がれています。
「GTS観光アートプロジェクト2012」。スカイツリー・ビューポイント作品の一つ。東京芸大のプロジェクト。最近完成したようす。
イヌの見上げる先にはスカイツリー。
題して「ソラニワ」。他にも周辺地域に作品が展示されています。
それにしても、この間の「煙霧」はすごかった。いまだに郵便ポストの上には、うっすらと。
近所の車もいまだに。この煙霧。中国大陸からやってきたのではなかった。関東平野の土埃。埼玉に住む(畑に囲まれた地に住む)人に聞いたら自分んちの方はそうでもなかった、と。
遠く運ばれてきたのですね。
そんな話をしていたら、土浦に住む方がぽつりと。「昭和20年3月10日の東京大空襲。翌日の朝、学校(旧制中学のこと)で授業を受けていたら空が真っ黒で電気を付けても暗かった、東京上空を覆った爆撃の黒雲が60㎞以上離れた土浦にもやって来たのだ」と。
煙霧と爆撃の黒雲とは次元を異にするが、関東平野は広いようで狭いのだ、と思いました。それにしても衝撃的な話を聞きました。
「ソラマチ」での買い物の方は、結局、「カワズ」じまいでした。おあとがよろしいようで・・・。