おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

三重田街道。浜街道。柴又街道。新宿新道。用水路跡。・・・(新金貨物線踏切をたどる。その2。)

2013-06-30 12:39:54 | 歴史・痕跡
 かつての田園地帯を南に進む「新金線」。「中川」の東側を通ります。
 その途中。
用水路跡(線路の西側)。
線路の両側(東西)は、緑道として整備されているが、線路下はご覧の通り。
振り返ると、用水路跡(緑道)が西へまっすぐ進んでいきます。
そのまま追っていくと不自然なかたちで緑道が狭くなり、車両通行止めに。用水路跡の証拠。
ネコがお昼寝。のところ。
用水路跡。(線路の東側)。住宅地で行き止まり。振り返ると、まっすぐに「大堰枠」の方向へ。
鉄道開通後の地図(地図は、「今昔マップ」さんより転載。以下、同じ)。ちょうどのところに当たる。

「三重田街道踏切」。「東用水」沿いの道路。整備されて道幅も広く明るい雰囲気の道路に大変化。「三重田街道」のいわれは浅学のため、不明。この道は「大堰枠」から「小合溜」の方向に進み、さらに戸ヶ崎方向にも。その辺りの地名と関連があるか?
赤い線が「三重田街道」。が、後の「新金貨物線」との交差地点。水戸街道の宿場町だった新宿から東北の方向へ進んだ「街道」のようだ。
「東用水」跡でもある。
ほぼ4年前のときの同じ地点。鉄橋が工事中の土砂の中に埋もれています。
「浜街道踏切」=「水戸街道」。「水戸街道」は、「陸前浜街道」と称されていました。
踏切脇の水路跡。
補強された橋桁の上に線路。
さすがに水は流れていない。
踏切から東を望む。
踏切から西を望む。正面の奥が「水戸街道(浜街道)」と「柴又街道」との分岐点。
「帝釈道」の道標。
「柴又踏切」を望む。
「柴又踏切」。柴又帝釈天への道。現在の「亀有警察署」の脇を通って行く。
この脇にも用水路跡。
雑草に覆われていた。
振り返って金町方向を望む。
の、上から「三重田街道」「浜街道」「柴又」踏切。
「新宿新道踏切」。現水戸街道(国道6号線)の踏切(「新宿新道」という呼称に注目)。幹線道路のため、ここの交差、通過(交通渋滞)をどうするかが、大きな課題。「亀有警察署」付近の大がかりな拡幅工事、「中川大橋」付近からの高架工事のからみなど難点が多い。
撮影時には少し交通量は少なめだったが。
午後1時40分頃、水戸街道の踏切(新宿新道踏切)を電気機関車1両が通過。長い渋滞が生じた水戸街道上り。渋滞の先が踏切の赤信号。(後日に撮影したもの)
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記者が間違えたのか?それとも本人が

2013-06-29 00:19:03 | つぶやき
維新・松井幹事長「現有3議席下回れば敗北」(読売新聞) - goo ニュース
 内容はどうでもいいが。
 この部分、天下の「NHKニュース」では、松井さんの発言を「自分のポジションに連綿とするつもりはないし・・・」と紹介。
 えっ、これは、「地位に恋々とするつもりはない」の間違いでは? 
 本人は、こんな難しい表現ではなくて、「居座る」「しがみつく」「こだわる」くらいの意味で用いたのでしょう。しかし、記者が気を利かせて、かえって、こんな間違った表現にしたのでしょうか?
 もちろん、「連綿」と続いたんじゃ、こっちが困りますが。
 以前、NHKの話し手が「いよいよ興味津々」ですね、を「いよいよきょうみつつ」ですね、と話したのには驚いたが。
 ま、「ありうる」を「ありえる」と平気で話したり、書いたりする世の中ですから、しかたがないですかね。
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新宿(にいじゅく)道。帝釈人車鉄道。大堰枠。・・・(新金貨物線踏切をたどる。その1。)

2013-06-28 21:59:25 | 歴史・痕跡
 JR「金町」と「小岩」(地元的には「新小岩」)を結ぶ「新金(しんかね・しんきん)貨物線」。
 この間の都議選でも、候補者の中からは、住民の交通手段として整備せよ、などという主張がありました。もともと複線化の用地は確保されていますが、一日中、交通量が多い「水戸街道」踏切の解消、総武線の混雑UP、貨物運搬との併用、採算性、・・・、解決しなければならない多くの問題を抱えているようです。
 久々の晴天。金町~新小岩。そんな路線の「踏切」をたどってみました。その多くは、明治以来の古道の踏切です。
明治13年頃のようす。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)カギ型にまがった顕著な道が旧水戸街道。現在も「新宿」付近ではそのまま残っている。「水戸街道」から分岐して中央・東南に延びる斜めの道は「帝釈道」。小合溜からの流れが二手に分かれるところは「大堰枠」。


 新金貨物線(しんかね/しんきんかもつせん)

 東京都江戸川区南小岩七丁目にある小岩駅と東京都葛飾区金町六丁目にある金町駅を結ぶ総武本線の貨物支線。小岩駅 - 金町駅間 8.9km (小岩駅 - 新小岩信号場駅間2.3kmは本線と重複)
 明治期及び大正期の国鉄総武本線の東京側の終着駅は両国橋駅(現・両国駅)で、隅田川への架橋がなかなか行われなかった。そのため国鉄の貨物列車は次のような経路で千葉県内外との連絡をはかっていた。

①総武本線亀戸駅/東武亀戸線亀戸駅 -(東武亀戸線)- 曳舟駅 -(東武伊勢崎線)- 東武北千住駅/常磐線北千住駅から隅田川西岸へ。
②千葉県内から輸送されてきた貨物は両国橋駅で荷馬車や船に積み替えて隅田川を渡り、隅田川西岸へ。

 総武本線の貨物列車が隅田川を渡れないことは物流にとって非常に不便なことで、千葉県の経済にも影響が大きいため、1920年(大正9年)に総武本線新小岩信号場 - 常磐線金町駅を結ぶ本貨物線 (7.1km) が計画され、1926年(大正15年)7月1日に開通。同時に貨車の入れ換えを取り扱うために新小岩操車場が開業される。この貨物線の開業により、総武本線の貨物列車は本貨物線と常磐線を経由して隅田川西岸へ直通することができるようになった。
 その後、両国橋駅止まりだった総武本線は関東大震災の復興計画として中央本線御茶ノ水駅まで延伸することになり、総武本線は隅田川西岸へ伸びることに。ただし、延伸された御茶ノ水 - 両国間は、秋葉原駅の前後が電車列車のみ通過することを前提として急勾配で敷設されたため、その後も貨物列車は新金貨物線経由で運転されていた。
 1984年(昭和59年)2月1日の国鉄貨物輸送の大改革によって貨物列車の運行形態が大きく変わったが、本貨物線は総武本線と常磐線の連絡線として、今も一日数本の貨物列車が運行されている。イベント列車の経路としても使われることがある。
 全区間が単線。用地は複線分確保されているが、一部は駐車場等に転用されている。


1920年(大正9年)本貨物線が計画。
1926年(大正15年)7月1日 新小岩操車場 - 金町駅間 (7.1km) が開通。新小岩信号場を新小岩操車場に変更。
1928年(昭和3年)7月10日 新小岩操車場を新小岩駅に変更。
1933年(昭和8年)6月12日 新宿駅発のイベント列車として行先不明列車が本貨物線を経由。
1959年頃 新中川掘削工事のため、一部線路の付け替え。
1964年(昭和39年)9月25日 電化。
1968年(昭和43年)6月1日 新小岩駅の貨物取扱・操車場業務が分離され新小岩操駅開業。
1986年(昭和61年)11月1日 新小岩操駅を廃止し新小岩操車場に変更。これに伴い起点を小岩駅に変更。
1987年(昭和62年)3月31日 新小岩操車場を貨物駅に変更し新小岩操駅開業。
1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道が第一種、日本貨物鉄道が第二種鉄道事業者となる。
2011年(平成23年)3月12日 新小岩操駅を新小岩信号場駅に改称。

 旅客路線化計画
 葛飾区・江戸川区区域は南北を走る公共交通が路線バスしか存在せず、唯一の例外が、南北に走る鉄道である京成金町線しかない。そこで当貨物線を旅客化して南北公共交通手段とする計画が浮上し、検討されている。しかし採算性や設備の問題など、数々の課題が存在し、現在計画は検討中断状態にある。また一部区議会議員が、LRT(「次世代型」の路面電鉄。低床車両を導入)での運行計画などを提唱している。
(以上、「Wikipedia」参照。)

時刻表
列車番号 金町  新小岩 鹿島ス 蘇我  千葉貨 備考
--------------------------------------------------------------------------------------------------------
97 S65-70 00:27  00:38-04:41 07:15着           東京タ22:15発 コンテナ 日運休
99 S210-258 06:24  06:35-11:13 13:38着 越谷タ05:50発 コンテナ
1091 S65-53 09:39-10:41発 10:52-11:23 --- 11:54-12:23 12:34着 隅田川07:00発 84-*
t8977 DE10 11:52発 --- 12:24着
5971 T64-14 21:30 21:40-22:23 --- 22:58-23:11 23:21着 川崎貨17:20発 新までS210-206

列車番号 金町  新小岩 鹿島ス 蘇我  千葉貨 備考
-------------------------------------------------------------------------------------------------------
96 S65-70 15:43  14:52-15:31 12:49発           東京タ17:52着 コンテナ 日運休
t8976 DE10 16:32着 --- 15:36発
1092 S65-53 19:30-19:58 18:34-19:20 --- 17:27-17:59 17:15発 隅田川20:14着
98 S210-258 19:59  18:55-19:49 15:53発 越谷タ20:31着
5972 S210-209 22:47 21:03-22:37 --- 19:56-20:23 19:44発 川崎貨01:20着

踏切の数は、全部で15カ所。今回は、金町から新小岩に向かって(この表の下から順番に)、約4キロ。注:表中、「新宿街道」は「新宿新道」の誤り。

貨物線ができる前のようす(明治末から大正初。「今昔マップ」より)。赤い線が後にできた「新金貨物線」。

 ところで、→に注目!
「帝釋人車鐵道」と。レールの上を人が引いた車が走る。「金町」~「柴又」。後の京成電鉄へつながる鉄道。

帝釋人車鐵道
 以下、www.kk-net.com/~tabuchi/TAISHAKU.htm さんのHPより転載。

 明治から大正初めにかけて、現在の東京都葛飾区内の金町-柴又間に人車鉄道が存在した。「帝釈人車軌道」である。
 明治32年(1899年)に設立された帝釈人車鉄道株式会社は、同年に当時の日本鉄道(現JR常磐線)金町駅と柴又間を結ぶ約1.2kmに軌間610mmの人車鉄道を建設し同年12月17日に運行を開始した。開業式は株主でもある題経寺で行われた。この人車鉄道は金町駅から題経寺(帝釈天)までの参拝客の輸送が目的であった。なお、同社は明治40年(1907年)に社名を帝釈人車軌道株式会社に改称している。
 その後、帝釈人車軌道は明治33年(1900年)に柴又-総武鉄道(現JR総武本線)小岩駅間の延長を特許出願したが、後に出願を取り下げたため実現には至らなかった。
 帝釈人車軌道は全線専用軌道で、金町はループ線になっていて人車軌道としては珍しい複線であった。停留所は金町と柴又に置かれ、事務所、改札口、車丁小屋、便所、車庫が施設されていた。
 人車(客車)は6人乗りで、長さ6尺幅4尺と長さ4.5尺幅3.8尺の二種類があったらしく、最盛期には人車64輛と保線工事用トロッコ4輛を保有していた。
 運賃は、片道5銭、往復9銭(当時、あんパン1個が1銭、牛乳1本が3銭)で、乗車券は金町行きが白、柴又行きが赤、往復が青に色分けされていた。
 この軌道では押し夫の事を「車丁」と呼んでいて、通常は一人(強風時は二人)で人車を押していた。
 営業報告書が残っている明治37年(1904年)以降を見ると高収益を上げていた。当時としては便利な交通機関として好評で、文人の尾崎紅葉や夏目漱石に愛用され、更に時の内務大臣であった原敬も好んで利用した。
 その後、京成電気軌道(現在の京成電鉄の前進)の進出の脅威にさらされた帝釈人車軌道は、明治45年(1912年)4月27日に軌道の特許権を京成電気軌道に譲渡し、この譲渡によって帝釈人車軌道株式会社は同年解散した。
 人車軌道を手に入れた京成電気軌道は早速電気への動力変更を出願し併せて京成柴又と人車柴又間を延長し、人車の運行を廃止して大正2年(1913年)に金町まで延長し、同10月21日に電車の運行を開始した。これが現在の京成電鉄金町線の京成金町-柴又間である。
「路線図」。注:佐藤信之氏著「人が汽車を押した頃」より転載
人車の運転のようす。
柴又駅のようす。(いずれも「葛飾区郷土と天文博物館」より)
現在の京成金町線。
現在の柴又駅前。

常磐線の高架(「金町」駅西)。
この付近で本線と分かれ、南西に向かう。
マンションや住宅のすぐ脇を通る。
最初の踏切「新宿道踏切」。
金町方向を望む。
 
 実は、かつてはこの手前(金町寄り)にも踏切(用水路沿いの道路のための)があったはずだが、現在は、線路で行き止まり。
「用水路」跡。この線は、かつてはほとんど田んぼや畑の中を通っていたので、用水路を越えているところが鉄橋またはコンクリート溝として残っている。
向こう側の家並み。マンションとションと住宅の間に用水路(道)が続いている。
水路跡の緑道。「小合溜」→「上下之割用水」(下の割ー現在の江戸川区ーまでつながっていた)→「大堰枠」。ここで、南に向かう「小岩用水」と南西に向かう「東用水」とに分岐していた。それだけではなく、ここには他にも目についただけでも二本の用水路が残っている。(「東用水」は高砂の手前で「東用水」と「西用水」とに分岐していた。)つまり、「大堰枠」は、多くの水路の合流・分岐点。この水路は、中川から流れきた水路で「大堰枠」手前で流れ込んでいた、と思われる。

「第二新宿道踏切」。
「車両通行禁止」の立て札。他にもこうした踏切が2カ所ある。

この二つの踏切は、「新宿町」の北に位置し、かつては「内野」と言われた地域にあり、二本とも明治中期以降の開発で整備され、顕著な道として存在していた。
この付近からほぼ一直線の線路が南に延びていく。
複線のための土地は確保されている。

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「樹木葬」。土に帰る。人生は、土に帰るまでが人生だ!

2013-06-27 22:07:57 | 格言・ことわざ
 この間の土曜日に知人の埋葬で高崎まで。墓地といっても、「樹木葬」というかたちの墓地。お坊さんもちょっと勝手が違うようでした。お骨は自然に帰すということで、骨壺も別にして直径10センチくらいの筒状の中に。細長い穴にそれを埋めます。その上に、個人(家族)の希望で苗木を植える。そして、小さな陶製のプレートに字を刻んで置いておく。そんなかたち。
 けっこうはやっているようで、ほとんど売約済みの立て札が。趣が異なっていて興味深い。ただ、きちんと手入れがされていないとただの雑草の生い茂った丘の斜面になってしまいそう。どこに故人が眠っている(土に帰った)のか孫子の代になると果たして・・・。
 爽やかな風、緑、緑、自然豊かな景色など、ロケーションは抜群でしたが。
樹木を切り開いて造成した土地のようです。
一区画が畳二畳分ほど。墓石がないし、小さな穴に埋めるのでけっこうたくさん埋葬できそう。 
周囲は遠くに山々。赤城山、榛名山、妙義山、・・・。
一応整地されていますが、雑然としていてどこが歩行者用の通路かも判然としない感じです。
豊かな緑に覆われることを期待して。機会があったら、草刈りにでもきます。

人生は、土に帰るまでが人生だ!
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 こういうミスもある。よくやる私も、これで安心!

2013-06-26 14:17:56 | つぶやき
橋下市長、退職の民間人校長に「もっと覚悟をもって公の世界へ」(産経新聞) - goo ニュース
 「民間」校長という制度ではこういう人物も当然出てくる。この方、これまでの民間(外資系?)の勤め先でも、自分のわがままで何か問題を起こして辞めていたのではないか。「もっと俺は有用な人間だ!こんな安く使われてはたまったもんじゃない」。
 勤め先の児童・保護者・教員とうまくやっていたとも思えない。「金」感情(勘定)だけでは、学校は勤まらないものだ。
 という「内容」はどうでもいいい。ニュースの文章で、発見! 

 「・・・大阪市の橋下徹市長は26日、民間人校長として今年4月に市立南港緑小学校(大阪市住之江区)に着任し25日付で退職した千葉貴樹(たかき9氏(38)・・・」

の「9」は「)」操作でShiftキーを押さなかったことが原因。時々やってしまう私、発見の喜び!
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風と共に去りぬ。となって欲しいが。民主党も一緒ですか?

2013-06-25 23:03:15 | 素晴らしき映画
橋下氏を公然と批判も…維新、都議選惨敗に動揺(読売新聞) - goo ニュース
 それでも、ハシモト個人商店「維新」の会。ハシモトさん、いつでもどこでもマスコミに追われ脚光を浴び、自分が特別な人間だと、となっていく。
 その一方、あちこちの、どくさまぎれの「維新の会」員。大阪以外では、ハシモトを旗印にしなければ、当選するわけがなかった衆院選。イシハラだけではほとんどダメだったでしょう。やはり今も昔もこれからも、頼りにする(おすがりする)しかない。「公然」と批判したくてもできない悲しい方々。「東」にしても「山田」にしても、まったく存在感無し。
 そして、「腐ってもタイ」。まだまだ賞味期限はありそうと、イシハラさん、それを承知の上で、ハシモトの心の奥底を、ハシモト(足下)をみている。いや、ハシモトさんの方が彼らのハシモトをみている。ハシモトさん、俺がいなけりゃおまんたち当選しなかったぞよ、と。
 こうして「以心伝心」、あうんの呼吸で、まだまだやるおつもりです。オザワのあとは、ハシモトにかき回される政治ですか。
 ついでに、お坊ちゃま・アベ大先生にもこりごり。ホントウに早く賞味期限が切れてほしいのですが、なかなか・・・。
『GONE WITH THE WIND』。名画の誉れ高い。
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党首交代で、堂々と政権批判を! さもなければ惨敗を望んでいるのか。政界再編を見越して。

2013-06-24 21:06:23 | つぶやき
民主、信頼戻らず…政権批判戦略が裏目に(読売新聞) - goo ニュース
 菅さんの「脱原発」で一気に政・官・財を敵に回し、「消費増税」発言で庶民を敵に回し、日本中、どこにも味方がいなくなった。組織票も労組頼みも弱体化の一途。それ以来、首長選以外は連戦連敗。当選するはずもなかった「都議選」。それでもまだ甘い夢を見ている(願望を夢見るしかない)方々。
 (だから)この記事のように「政権批判」が裏目に、を真に受けてはいけない。
 自公のように原発推進再稼働、円安株高路線、デフレ脱却!という政策を主張すればよかった、との意味がこの記事にはあり。これに憲法改「正」も加わって、民主党の抜本的な解体による「大政翼賛会路線」の構築。
 反対派は、今回、存在感を示した共産党と風前の灯火の社民党のみに封じ込める。これこそが盤石な「日本再生」プランだというサンケイ・ヨミウリの主張。にっくき民主を徹底的にたたきつぶす。「原発」という虎の尾を踏んだのだから。・・・。その流れは一貫している、と思う。
 その上、海江田さん。「何とか牧場」で告訴されていることが投票日直前に改めて報道される始末。「どぶに落ちたイヌは叩け」式で、参院選でも会社役員の逮捕・告訴を受けて、きっとマスコミは、海江田(当時の評論家として)批判を出すに違いない(検察当局と示し合わせてのタイミングで)。(菅さんが首相になったときは、過去の女性問題か外国人献金を取り上げて責め立てると読んだが、すんでのところで、東日本大地震と原発事故。そうするまでもなく完膚無きまで潰すことができた。)
 存在感があまりにも希薄なのも問題。あまり政治家向きではないお人柄のよう(何しろ涙もろい)。この際、党首を代えて(どうせぼろ負けの戦いなのだから)捨て身の勝負にでてみたらどうか。参院選惨敗が明らか。その責任を避けるために、皆、海江田無能さんにお任せ。そして誰もいなくなった! たら困るのは誰か、よく考えて下さい。
 今しかないでしょう、党首交代は。

 最近、身の回りでも、年甲斐もなくかっかとする場面が多くなってきました。身近なところから、所詮遠い世界のできごとまで、季節に呼応して(蒸し)暑くなっています。しばらくはごまめの歯ぎしりを。
 
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ますます反吐が出そうなお二人の関係

2013-06-23 00:27:35 | 格言・ことわざ
反吐が維新・橋下、石原両共同代表そろい踏み、関係修復を演出(朝日新聞) - goo ニュース
 何をか言わんや。・・・。(ハラが立って三回載せたが)本質は、マスコミへの不満です。
 彼らにとっての「予定調和」は、世間にとっての「予定調和」にはならないことを切に望みます。

※「反吐が出る

・ 飲食した物を吐く。
・(物を吐きそうになるほど)気分が悪くなる、不愉快になる。


反吐=ゲロ。
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そうなって欲しくなかったが、結局、彼らの思惑通り。でも・・・。

2013-06-22 09:39:22 | つぶやき
橋下氏、石原氏に謝罪=都議選控え「和解」―慰安婦発言(時事通信) - goo ニュース
 お二人の予定通りの展開。都議会議員が何人になろうと関係無しの長老議員諸公。考えれば、結論は見えていた。
 「辞める」「辞める」とハシモトのいつものふてくされポーズ戦法。松井氏もそれに必ず呼応する。二人の脅かしにびびる議員(大阪でもズバリそうだった)。イシハラさんのそれを見越しての作戦は、お見事。
 いつまでもこんなことを繰り返すのか。マスコミもいい加減その本質(やり口)を見抜いて、知らぬふりをすべきですが(あるいはその意図を指摘することですが)、そうもいかない。参院選でも戦況が不利なれば、たぶん同じやり方をしでかすと思います。うまくマスコミを手玉に取った勢いが、イシハラの敵(福島、野中さん)に対するぼろくそな口撃。マスコミも今度はそっちに飛びついて・・・。いやはや。 
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小松川境川親水公園。

2013-06-21 21:56:03 | 河川痕跡
 ほぼ南西方向に向かう「小松川境川」。途中、東からの流れと一つになって、平和橋通り、旧千葉街道、京葉道路、首都高・小松川線などを通り抜けて延々、中川・荒川まで。現在、よく整備された親水公園となっています。今でこそ、「親水公園」となっている川。その多くは戦後の高度. 経済成長期を経て汚濁が進みました。「曳舟川」、「中井堀」・・・、そしてこの「小松川境川」も。
 その他の多くの河川(その代表が「隅田川」「綾瀬川」)も、工場排水、農業排水、生活排水等の垂れ流しで濁りに濁り、一匹の魚も棲めないほど汚染され、悪臭を放ち、地元からはやっかいもの扱い。さらに、ひとたび大雨になれば、増水して地元に大きな被害を生みました。
 その後、そうした水路に、工場排水の規制、下水道の完備などによってかつての清流の面影が戻ってきました。特に農業用水として利用されいた用水路、市街地化されて本来の役割をなくしていた流れが、浄化された下水道を還元し改めて放流することで「親水緑道」や「親水公園」として蘇ったわけです。(「小松川境川親水公園」など「親水公園」は、「新中川」の水を引いています。)

 古川親水公園に続く区内で2番目にできた親水公園。菅原橋から中川までの全長3,930メートル。全体は五つのゾーンに分かれ、滝に始まり、せせらぎ、水しぶき、飛び石、釣り橋に冒険船など変化に富んでいる。水遊びができない季節でも、ウオーキングをしたりアスレチックで遊んだり四季を通じて楽しめる。また、桜の名所でもある。(以上「江戸川区」のHPより)

鏡山部屋付近の流れ。
「江戸川区文化センター」付近。こんもりとした木々に覆われた公園。
「平和橋通り」をはさんでまだまだ南西に延びていく。
菅原橋近くの「小松川境川親水公園」入り口付近。水しぶきを上げて勢いよく流れ落ちている(「新中川」からのもの)。
この親水公園の中頃には「森林公園」と名付けられた場所あり(「森林」とは言いがたいですが)。憩いの場所になっています。
木製の橋が随所に。
案内図。
 さて、実はこの「小松川境川(親水公園)」には、他の水路も流れてきていました。
明治中期のようす。赤い線は北からの流れ、青い線は東からの流れ。青い線は細く、赤い線が本流のような感じです。
この道は、かつての水路跡。
ほぼ直線。街路樹がめやすになっています。
東北方向。
沿道に樹木を植えるのもそうした水路跡を示しているのでしょうか?
茶色の線。
 また、現・奥戸3丁目付近で「西井堀」(左上部の直線)から分岐し、総武線を越えた付近で合流していた流れ(その水路跡の道路が江戸川区と葛飾区との区界となっている)も確認出来ますが、現在、総武線の北側地域ではその水路跡はほぼ分からなくなっています。
 このところ、西日本は大荒れの天気。被害も大きいようです。東京は雨風とも少しはおとなしい。明日は、高崎まで。天気の方はどうですかね。
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同床異夢。選挙互助会はついこの前までの民主党だけでけっこう。でも・・・

2013-06-20 00:12:47 | つぶやき
石原vs橋下の波紋広がる 大阪から分裂論も 維新の会(朝日新聞) - goo ニュース
 平沼某を含め、自民党にも戻れず消え入る寸前だった超保守派の議員たち。選挙目当てで民主党を離党した人々。これといった政治理念もないままに、ただ憧れの赤絨毯を踏みたかった連中。・・・。
 「ハシモト」さんのマスコミ的勢い(支持の高さ)に便乗して、当選した方々ばかり(おそらく)。中にはイシハラさんの政治姿勢に共感した超保守派もいるでしょうが、それだけでは当選はできなかったでしょう。

 今回、イシハラさんの発言。当選すればこっちのもの。ハシモトさんを体良く見限ったわけ(ふりをしたわけ)です。マスコミが飛びつくのを見越しての。
 その点、ハシモトさん、所詮、口先八丁のみで糊代をかせぐ「弁護士」さん。百戦錬磨の古狸には勝てるわけがありません。イシハラにおだてられて(利用されて)国政進出したのが運のツキ。

 大阪地域政党として存在感を示していく中で、今後の活路が見いだせるはず、と、ここは敵に塩を送ります。早く円満離婚がいいですね。こじれると慰謝料や財産分けでもめること、必定ですから。
 という感想も、ま、マスコミ論調に便乗しただけ。

 うまい汁を吸ってしまった老人諸公。簡単にうまみを手放すわけがない。結局困るのは、自分たちのはず。
 こうして、事のいきさつは、マスコミの話題にしての一芝居、という感じですか。さすがイシハラさん。「スポーツ新聞」が大々的に取り上げているのが、ミソ。
 狐とタヌキの化かし合い。思惑通り、おもしろおかしくマスコミの話題になって都議選も終盤で名を売ってそこそこ当選、さすれば、一件落着。マスコミを手玉に取ったお二人のほくそ笑む姿が実現するか。・・・、そう簡単に騙される選挙民であっては欲しくないが。
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旧「小松川境川」。葛飾区と江戸川区の区界。鏡山部屋。柏戸。・・・

2013-06-19 20:08:03 | 河川痕跡
 大正時代(1917年~1924年)のようす(「今昔マップ」より)。当時は、まだ「新小岩駅」はなく、「新金貨物線」もなかった。
 赤い線が境川。小松川(村)を東西に分かっていた川。上流は「東井堀」から分岐し、さらに「中井堀」をのっこして流れていたと思われる(明治の地図に「中井堀」との交差するところに「塚之越」との表示あり)。 千葉街道・菅原橋付近からの流れ(同じ「小松川境川親水公園」)は、「中井堀」から分かれた流れ。二つの流れが合流して南西に向かって流れていたようです。上方の鉄道線路は、総武線。中央の直線道路は、千葉街道。現在、「新中川」、「環七」によって分断されてしまってつながる痕跡はほとんどなくなっています。「東井堀」は、現在の「鹿本通り」、「中井堀」は、現在の「鹿骨街道」。一方、「境川」の方は、「小松川境川親水公園」として保存整備され、「健康の道」として江戸川区民の憩いの場所になっています。
 今回は、その上流からの探訪。
青い線が「新中川」、黒い線が「環七」。
「東井堀」からの分岐点。「西小岩親水緑道」と命名されています。「新中川」までほぼ直線の静かな遊歩道。水の流れと緑が豊か。
「蔵前橋通り」を渡ったところ。
所々にモニュメント(ブロンズ製)。
仮橋から工事中の「上一色中橋」を望む。鉄橋はJR総武線。
ガードをくぐった先。境川に続く水路跡?がくねりながら南西に進む。ただし、カーブのしかたはそれらしいが、道幅が広すぎるのが気になる。もっと細いはずだが・・・。
このカーブは水路跡としては、魅力的。
「環七」をくぐる。
このあたりは、道路が江戸川区と葛飾区の区界。右が葛飾区、左が江戸川区。
振り返ると、右が江戸川区、左が葛飾区。
「境川」にちなんだ「さかい湯」。
「小松川境川親水公園」入り口。ここからは、親水公園が葛飾区と江戸川区の区界になる。
右が葛飾区、左が江戸川区。葛飾区側は道路、江戸川区側は整備された緑道が続く。江戸川区の公園事業なのでしょう。
水量も豊富。せせらぎ公園。自然豊かな散歩道、水遊び。
橋の名もたくさん残されている。「鍵屋橋」。曰くは?
これから本格的な水の季節。清掃整備が進んでいました。
「鏡山部屋」。
 この相撲部屋。横綱柏戸が1969(昭和44)年引退後、伊勢ノ海部屋から独立してつくった部屋。
 柏戸は大鵬の好敵手として「柏鵬時代」と言われた相撲全盛期の一翼を担った力士。まさかここにあるとは思いませんでした。
 
 昭和50年、蔵王錦と小沼が揃って十両昇進。待望の関取が2人も誕生。小沼は翌年20歳で入幕、スピード出世で同姓とあって、北の湖2世と期待されたが、ケガで失速。蔵王錦は、北の湖から金星を獲得、大関貴ノ花を押し出して最後の対戦相手となった。しかしあまり長く活躍できずに58年に引退。その他関取数人が出たが大成せず。
 57年に入幕した多賀竜は幕内に定着。58年11月、鏡山部屋初の三役、関脇となった。翌年の秋、前頭12枚目の地位で快進撃。2敗小錦を抑えて1敗で終盤を迎えた。大関若嶋津も綱取りをかけて優勝争いに残っている中、2人の平幕の活躍で割を崩す必要が出てきて審判部だった鏡山はヤキモキしたが、優勝争い優先で若島津の横綱戦を崩してトップを走る弟子に当てる。すると大波乱、大関との熱戦の末見事に撃破、逃げきって平幕優勝を飾った。翌場所の小結が最後の三役となり、翌々場所北の湖を押し出して金星、大横綱を引退に追い込んだ。
 平成に入って多賀竜が引退、金星3つを獲得した起利錦も引退すると部屋はめっきりさびしくなった。師匠も病気がちとなり、関取は5年に鳥海龍が新十両を果たしたのみ。8年に柏戸が死去し、部屋付だった多賀竜が継承した。その後も関取は出ず、弟子も減るばかりだった。
 師匠と部屋付の起利錦の2人体制だが、弟子は師匠の息子竜聖を含む2人だけ。マンツーマン状態である。
 多賀竜の鏡山は、22年から理事に選出され、24年からは先代と同じ審判部長を務める。協会内では手腕を発揮しているが、部屋の方は厳しい状態。今後協会方針である部屋数の削減を実行に移すとすれば、候補となってしまいそうだ。(と、その筋の話)
 ところが、

「鏡桜が新十両 苦節10年、所属力士2人の部屋から関取」 By スポニチ

 日本相撲協会は28日、福岡市内で初場所(来年1月13日初日、両国国技館)の番付編成会議を開き、十両昇進力士3人を決め、発表した。新十両2人はともにモンゴル出身の鏡桜(かがみおう、24=鏡山部屋)と東龍(25=玉ノ井部屋)。現師匠の鏡山親方(元関脇・多賀竜)が96年12月に部屋を継承してから初の新十両となった鏡桜は、部屋に所属力士が2人という厳しい環境の中で出世を果たした。再十両もモンゴル出身の城ノ龍(29=境川部屋)だった。
 苦節10年で目標だった関取昇進が現実となっても、祝福してくれる兄弟弟子は1人。それでも鏡桜は、感慨深げに相好を崩した。「親方がいなかったら自分もいない。力士は2人ですが(三段目の)竜勢には場所中もぶつかり稽古で胸を出してもらった。感謝しています」。師匠の鏡山親方さえも「劣悪な環境」と自虐的に説明する中でひるまずに地道に稽古を積み重ね、自己最高位の西幕下4枚目だった九州場所で4勝3敗と勝ち越し。外国出身力士で史上6番目に遅い初土俵から所要56場所で新十両昇進を果たした。
 モンゴル出身力士のパイオニアで元小結の旭鷲山に憧れ、03年名古屋場所に15歳で入門。師匠によると当時は5人ほどの力士が所属していたが、年々数が減って現在は師匠の長男である竜勢と2人きりとなった。年3回の東京場所前は基本的に部屋(東京都葛飾区)近隣にある中村部屋に出稽古し、九州場所では同じ福岡県糟屋郡志免町に宿舎を置く時津風部屋に連日出向いた。
 96年に継承して初の関取誕生に、師匠も「俺が弟子を集めることができればいいんだけど…。少ない人数の中で一生懸命頑張ってくれた」と申し訳なさそうに祝福した。
 通常は関取になれば個室が与えられるが、鏡桜は現在3階にある約30畳の大部屋を1人で独占。2階に関取用の個室があるが、本人は「竜勢は1階にある部屋で寝ている。とりあえずは動くことはないと思う」と説明する。付け人についても師匠は「どこかの部屋に助けてもらうしかない」と嘆く。相撲協会広報部も「記憶にない」という力士2人という部屋からの異例の出世だが「竜勢と来年も2人で頑張ろうと言い合った」と決意も新たに。名横綱・柏戸が礎を築いた部屋の灯は絶対に消さない。
[ 2012年11月29日 06:00 ]
 
 とありました。こころなしか、静かな佇まいでした。

 そこで「柏戸」(「Wikipedia」により)

 優勝回数こそ5回で、大鵬の32回と比べると少ないように見えるが、横綱在位47場所(歴代6位)、優勝に準ずる成績を残すこと15回で勝率も低いとは言えず、柏戸を「弱い横綱」と評する人は少ない。
 大関時代までの大鵬にとっては最強の壁で、大関時代までは柏戸:7勝・大鵬:3勝だった。その後、大鵬が10勝10敗で並んでから16勝16敗までは全く雁行し、真に両雄伯仲の柏鵬時代を顕した。
 「優勝大鵬、対戦柏戸」と言われたが最後は5連敗し、通算対戦成績は柏戸:16勝、大鵬:21勝。
 柏鵬両雄の対戦は、1960年1月場所 - 1969年5月場所の57場所間に37回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の21回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(うち、相星決戦が2回)あった。
 両者横綱昇進以前の対戦成績(1961年9月場所まで)は、柏戸の7勝3敗。両者横綱同士の対戦成績(1961年11月場所以降)は、大鵬の18勝9敗だった(優勝回数も1961年11月場所以降で柏戸4回・大鵬29回)。
 当時は系統別総当たり制で割が組まれたが、柏戸だけは孤立無援、横綱土俵入りでは露払い・太刀持ちどちらも他の一門から借りていた。弟弟子の藤ノ川武雄が入幕するまでは同門が幕内に一人もおらず、横綱以下の三役力士全員と戦わねばならないなどの不利もあったが、これを考えてもやはり立派な成績だといえる。しかし、引退会見では「柏鵬時代などと言われたが、むこう(大鵬)は成績も立派で自分はケガも多く優勝回数も少なくて恥ずかしかった」と語った。
 大鵬と柏戸の全盛期では、当時の子供が好きだった「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が有名である。子供以外に若い女性にも人気だった大鵬だが、柏戸は男性ファンからの人気が高かったことから「大洋、柏戸、水割り(阪神という説もある)」という言葉が存在していた、と。
(「YOUTUBE」より)
(同)
(同)。右が「柏戸」、左が「大鵬」。
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政治家としての想像力の欠如は致命的。それがそうならない日本の政治のおかしさ。

2013-06-18 00:25:57 | つぶやき
「原発事故による死亡者は出てない」自民・高市政調会長(朝日新聞) - goo ニュース
 フクシマでは、その多くは原発事故によって、15万人がいまだに住み慣れた故郷を離れ、もともとの職場も失い避難生活を余儀なくさせられている。事故直後、その場での即死者はいなくても(フクシマ原発での爆発や地震、津波による)周囲には未だに多くの行方不明者がいて、その捜索も出来ない。さらに原発事故に関わった労働者の異常な被爆、これが将来どのような事態を生むか。避難先で亡くなった方も多い。仕事を奪われ自殺した人もいる。子どもの甲状腺異常は、他の地域に比べて多く発生。想像力の欠如は致命的。
 
 廃炉には金がかかる、のは当然。だからといって、永久に継続させるならば、適当な修理、あるいは少し見逃しての原子炉の運転になっていきかねない。老朽化した原発運転がどういう事態を生むか。
 たんなる経済効率至上主義。
 水俣病・有機水銀中毒。工場が金をかけての防御策を行っていればあれほどの被害も、また補償もしなくてすみ、企業それ自身の存続危機まで至らないですんだのに、そのわずかな投資を惜しんだために、あれほどの人的、資源的、経済的損失を招いた。これこそが歴史の教訓。
 目先の欲得にとらわれて、利潤追求、それによる大衆操作によって国全体を導こうとする自民党政治の象徴をみるような感じです。経済的な豊かさと心の貧困とは正比例するのか。・・・。
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読書「『記号の国』1970 ロラン・バルト著作集7」(石川美子訳)みすず書房

2013-06-17 19:18:14 | 読書無限
 「晴耕雨読」もままならない。最近は、やっと梅雨らしい空模様。変化の激しすぎるのが気になります。さらに、蒸し暑さも加わって久々に寝苦しい夜。そして、こういう日中はときにゆっくりと読書でも・・・。といっても今日は暑すぎ! ついついクーラーの効く部屋で・・・。 バルト著作集・全10巻より「第7巻」。
 この作品は、『表徴の帝国』宗左近訳(「ちくま学芸文庫」1996年)が先行する既訳としてある。
「舟木一夫」。能面のような顔立ちと口元の微妙さに何を感じるか。。
江戸の町。中央に江戸城。今も変わらぬ中央に空虚で広大な存在を中心にした東京の「地図」から何を読み取るか。

 写真が多く載せられ、そのキャプションも端的。「日本文化」論として読むと、日本人から見ても、ある意味、初めて接したことによってなされた、いわばありきたりの異国文化(東洋文化)の紹介、ということにもなりかねず、そこを批判することもできる。
 しかし、バルトには文化論というくくりではなく、日本でのさまざまな出会い(とりわけ風物とそれを切り取った写真など)をもとに、「エクリチュール」論をより具体的に、思想的に深化・展開している。
 そのきっかけは「俳句」との遭遇。わずか17字で世界を(事象を)切り、体験化、過去化する表現する技法への深い関心と興味から、自らへの表現方法への(例えば「わたし」という主語から始まる語りかけ)転換を意識するようになる。バルト自身の、俳句の魅力へかなり惹かれた様子が見られる。
 西洋の伝統的な散文詩と日本の定型詩との表現上の相違。シニフィアン、シニフィエ。二項対立をもとに、ソシュールの言語論の依拠しつつそれぞれの内実を明かしていきながら、言語論にとどまらない実践的論考によっては読者を巻き込んでいく。
 パチンコ店内、学生運動、子供の顔(眼)、古びた能面・・・、多彩な写真が示す(しえない)世界を読み取るというバルトの「快楽」の世界。
 
 テクストは、写真を「解説」しているのではない。写真はテクストを「図解」しているのではない。わたしにとっては、それぞれの写真から視覚的な揺らぎのようなものが始まったというだけのことであり、おそらくその揺らぎは、禅が悟りとよぶあの「意味の喪失」にも似ているだろう。テクストと写真は交錯しながら、身体、顔、エクリチュールといったシニフィアンの循環や交換を確かなものとしてゆき、そこに記号の後退を読み取ろうとしているのである。
 
(冒頭の二枚の写真のキャプションは、筆者のものではなくこちらが勝手につけたもの。)
 

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読書「写真の存在論 ロラン・バルト『明るい部屋』の思想」(荒金直人)慶應義塾大学出版会

2013-06-16 14:59:51 | 読書無限
 ロラン・バルトの遺作・『明るい部屋』をめぐる大学での講義、学生達とのやり取りの中で鍛えられ、より密度の深い解釈に到達していった、その上で、慶應大学理工学部学生に対する「像」や「画像」についての哲学的考察を主とする講座での成果を踏まえての論述。
 「写真」を題材として、『明るい部屋』の解釈をめぐるさまざまな角度からの考察が興味深い。特に、ソシュールの言語論、記号論(構造主義)をベースにした(むしろそれを超えようとする)「写真」に対するバルトの論考、思考過程を明快にたどっていく。著者のバルト「哲学」への「読み・受容」の深さをベースにした筆者(と学生との対話を通しての)の哲学的な解明は、まさに理系的(論理的という意味合い)でした。
 特にバルトが論じた時代にはまだ普及していなかった「デジタル」写真が今や写真撮影、編集、公開をすべてを占めている(支配している)、現代にあって、バルトの言説を有効性(先見性)あるいは補強を丹念に行っている。それはまた、映像や画像をもとにした正確な情報・データの分析やあるいは情報分析のためのより確かな画像作成(制作)を求められる(それなくしては成り立たない)理工系にとっては、つい陥りやすい「像」「画像」への主観主義的な対応による画像分析の基本的な誤りを指摘している、とも。
 『明るい部屋』はバルトの生前最後の本。彼の死(交通事故による突然の死)の2年前母親がなくなった。母の死後、その写真を眺めて暮らしていたバルトは、写真の中に死んだ母親を見出そうとした。
 その第1部では著名な写真家の芸術写真が論じられて、知識や教養に応じて写真が与える感動、「ストゥディウム」とたまたま遭遇した事故のように主体の存立をああや浮くさせるような感動、「プンクトゥム」の違い・弁別がなされている。第2部では、「プンクトゥム」の概念を覆す別種の「プンクトゥム」が登場する。日本の「俳句」(バルトの心を奪った)の世界との共通性をも提示する。それは、温室で撮影された少女の頃の母親の写真から触発されたバルトの新たな感動、経験が語られる。写真が母への「愛」を蘇らせる。と同時に自らの死をも暗示させる。・・・
 写真は過去の経験を瞬時に切り取り、表すものでしかないが、そこに新たな今生きている者の感動経験を生み出すものでもある、と。
 バルトの追体験を彼の書を通じて読者が自らの現在において思考し受容し批判しながら追体験していく、おそらくバルトの多くの作品はそうした楽しみを読者に与える、そこにバルト哲学?の最大の魅力があるのではないか、と思った。遅ればせながら、今、はまっています。
 「なにかこれだとひらめいて、わたしのなかに小さな揺らぎを、悟りを、空虚の通過を生じさせたのであった。」

参照:『バルト テクストの快楽』(鈴村和成)
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