春もやヽけしきとヽのふ月と梅 はせを 注:「はせを(芭蕉)」は変体仮名。
一年に何度が立ち寄ります。こぢんまりとしていますが、安らぎの空間。
さすが「新梅屋敷」と言われただけあって、梅の木が目立ちます。
ここにも芭蕉の句碑。
こんにゃくのさしみも些(すこ)しうめの花
これからが見ごろか?
借景にスカイツリー。
昨年、同じ時期に来たときにはメジロがたくさん集まっていましたが。今回は見かけません。
「べにちどり(紅千鳥)」(昨年撮影)。
メジロ。(写真は「Wikipedia」より借用)
先日のスーパームーンにちなんで。
限なき空の要や望の月
ついでに、こちらも。
「かごしまこう(鹿児島紅)」。
「おもいのまま」。奥にあるのが「みちしるべ(道知辺)」。
「しらかが(白加賀)」。
園内にはこの梅が多い。
「しらたきしだれ(白滝枝垂れ)」。
水辺にコサギの姿。
「べにちどり」。
さてそろそろ帰るとしますか。「春の七草」。
売店には、一輪挿し。
白梅。
ただ今整備中、という雰囲気。枝垂れ。
それでも見応えがある梅も。
公園内をうろうろ。西側の通りから。
さて、一通り歩いて、桜橋を渡って、対岸(墨田区)にある「向島百花園」へ行くことにします。
振り返る。
こんな記念碑があります。「平成中村座発祥の地」。
2000年(平成12年)11月、18世中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)が中心となって、浅草・隅田公園内・山谷堀跡に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、『隅田川続俤 法界坊』を上演したのが始まりです。その前から勘九郎の追っかけをやっていたので、その時、ここまで観に来ました。もう20年近く経ちます。
翌年(2001年(平成13年))以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていました。勘三郎死去の後も、その遺志を継いだ長男の6代目中村勘九郎が座主を引き継いで平成中村座を復活させました。
当時の「平成中村座」は仮小屋スタイルで、江戸時代の芝居小屋の雰囲気を模しています。正面にはお大尽席があったり、舞台の内側にも席があったり(そこで観たこともあります。舞台上の準備や芝居のやりとりがまさに目と鼻の先に。)、外の幟なども芝居小屋風で、ここに建設中の頃から時々立ち寄ってそのようすを見に来ていました。
その時上演されたのは、
・『隅田川続俤 法界坊』
・『義経千本桜』
さらに、浅草浅草寺本堂裏手広場で上演した時も。
・『加賀見山再岩藤』
・『弁天娘女男白浪』
・『本朝廿四孝』
・『人情噺文七元結』
勘九郎(勘三郎)については、「歌舞伎座」での野田秀樹の芝居などを含め、けっこう通いました。
その小屋跡広場からのスカイツリー。
むろん、「東京スカイツリー」は2012年(平成24年)5月に開業ですから、当時はまだありませんでした。
「桜橋」からの隅田川。
「ユリカモメ」が等間隔に並んで、
羽を休めています。
春風に誘われて、隅田公園(台東区)の梅見。
「言問橋」の先に、最近、整備されたというので出掛けてみます。隅田公園といえば、何といってもサクラ。ウメの方はどうか?
と、その前に。
「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」。
戦災によって亡くなられた方々の碑
隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年ごとに薄れ、平和な繁栄のもとに忘れさられようとしている。
いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
昭和61年3月 台東区
「言問橋の縁石」。
ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。
隅田川以東の惨状。中央の丸い建物は、旧国技館(のち、日大講堂)。左手前は両国駅。
当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。
死亡:83793人
負傷者:40918人
被災者:1008005人
被災家屋:268358戸
人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。両親を失った戦災孤児が大量に発生した。外国人、および外地出身者の被害の詳細は不明。
また当時東京に在住していた朝鮮人97632人中、戦災者は41300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている。
この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。
当夜の冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(いわゆる空っ風)は、大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。
爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識をはるかに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。
焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。
これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。
(以上、「Wikipedia」参照。写真は、石川光陽撮影)
今も香華が手向けられています。
「水原秋桜子句碑」。
羽子板や子はまぼろしのすみだ川
「正岡子規句碑」
雪の日の隅田は青し都鳥
「花の碑」。
春のうららの隅田川
のぼりくだりの舟人が・・・
武島羽衣作詞・滝廉太郎作曲「花」。本碑は、羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年11月3日、その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。
武島羽衣は、明治5年、日本橋の木綿問屋に生まれ、赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治33年、東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と、同校の助教授、滝廉太郎とともに「花」を完成した。羽衣28歳、廉太郎21歳の時であった。
滝廉太郎は、作曲者として有名であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の3年後、明治36年6月29日、24歳の生涯を閉じた。
武島羽衣はその後、明治43年から昭和36年退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい、昭和42年2月3日、94歳で没した。
手漕舟の行き交う、往時ののどかな隅田川。その情景は歌曲「花」により、今なお多くの人々に親しまれ、歌いつがれている。
春のうららの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき
見ずやあけぼの露浴びて
われにもの言ふ桜木を
見ずや夕ぐれ手をのべて
われさしまねく青柳を
錦おりなす長堤に
くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき
余談ですが、JR「錦糸町」駅北にある総合商業施設「オリナス」はここから採ったものと思われます。「錦」(きんしちょう)と「おりなす」は巧みな取り合わせ。職・住・遊が融合して「織り成す」とも。
さて、やってきました。整備が終わったばかり、という雰囲気で、新しく植えられたウメの木が目立ちます。
右は広い通り、左はグランドと立地条件はあまりよくありません。現状、ベンチなどもなくゆっくり鑑賞する、また、何か飲みながら、語らいながら、というスペースもなさそうです。
満開のウメ。そぞろ歩きのじじばばもちらほら。
道路の向かいは「待乳山聖天」。
隅田川の対岸には「スカイツリー」。
梅めぐり散歩道 梅と日本文化
梅は遣唐使がもたらした花木で、たちまち日本人に愛されるようになりました平安時代になり、梅は上流社会の流行花木になり、和歌などに多く歌われました。
梅にまつわる話では、菅原道真が太宰府に左遷されたとき、庭の梅があとを追って飛んだ「飛梅伝説」有名です。安土桃山時代には中国で愛されてきた松竹梅が日本化され、江戸時代からめでたいデザインとして、鏡、櫛、衣装、陶磁器などに描かれるようになりました。また江戸時代には、梅の品種が改良され、白、八重、一重、枝垂れなど200種以上の品種が創られ、梅の名所が各地に創られるようになりました。
江戸幕府開府から400年を経て、ここ隅田公園に桜に先駆けて春の訪れを知らせる梅を植栽し「梅めぐり散歩道」を整備しました。
目の前を通りすぎるバス?
実は、このバス。「五日市線・旧岩井支線」廃線後の代行運転を行っている機関車型のバスです。
秋川渓谷と周囲の山々。
「五日市宿」方向へ進む。
この先は「檜原街道」となります。右に分岐して南下する道は「秋川街道」、八王子方面に向かう。
「五日市の市神様」。
五日市の市のはじまりは定かではありませんが、中世末の文書に「五日市」の文字が見られ、この頃には近隣地域の物資交流の場として市が開かれていたと考えられます。江戸時代になると、大消費地江戸の広域商業圏に取り込まれ、炭の市として栄えました。当初は五の日三斎市(月に3回の市)であったものが、十の日も加えて六斎市になったと考えられています。
この市神様は、自然石をそのまま用いたもので、かつては五日市の市の中心に祀られ、市の発展を見守っていました。
都道の拡幅に伴い阿伎留神社の境内に移されていましたが、五日市ひろばの整備に際し、五日市商店街の振興と地域経済の発展を願ってこの地に安置されました。
宿場町としてのようすはありませんが、建物やお店にはそんな雰囲気が。
マンホールには梅の絵柄?
沿道のおうちの庭の梅が少し咲き始めたようす。
「上宿」バス停。 土蔵造り。
宿場は「五日市警察署」付近まで。そこから宿内を振り返る。
帰りに寄り道をします。「五日市憲法草案」碑が「あきる野市五日市出張所」前の「五日市中学校」にあります。
あきる野市の文化財 五日市憲法草案の碑
所在地 あきる野市五日市四〇九番地二
五日市憲法草案は、明治一四年に深沢権八を中心とする五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村(現栗原市志波姫)に生まれ、五日市勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって起草した私擬憲法草案です。東京経済大学教授であった色川大吉氏らによって、昭和四三年に深沢家の土蔵から発見されました。司法、立法、行政の三権分立が明確に規定され、国民の権利に多くの条文がさかれているなど、自由民権思想に溢れた非常に民主的な内容であり、他の民間草案の中でも屈指のものです。
昭和五四年、この私擬憲法草案を生み出したこれら先人の偉業を顕彰し、後世の人々に広く知ってもらうため、千葉卓三郎の生地宮城県志波姫町(当時)、起草地である五日市町(当時)、墓所の仙台市の三カ所において同時に碑を建設することとなり、この碑は地域の人々の協力のもと、五日市憲法草案顕彰碑建設委員会によって建てられました。
正碑には最もよくその特色を現わす抜粋文六カ条が、副碑背面には学芸講談会の会員三〇名の姓名が刻まれています。
平成一七年一一月一五日設置 あきる野市教育委員会
学校の敷地内なので立ち入ることはできません。
五日市憲法草案抜粋
45日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ 他ヨリ妨害ス可ラス 且国法之ヲ保護ス可シ
48凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ 同一ノ保護ヲ受ク可シ 地方及門閥若クハ一人一族ニ与フルノ特権アルコトナシ
76子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナルモノトス 然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス
77府県令ハ特別国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ 府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ルモノナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス 其権域ハ国会ト雖モ之ヲ侵ス可ラサルモノトス
86民撰議院ハ行政官ヨリ出セル起議ヲ討論シ又国帝ノ起議ヲ改竄スルノ権ヲ有ス
194国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス 又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ
(碑文は「kumando.no.coocan.jp/mj/mj090825.html」HPを参照)
この「五日市憲法草案」については、以下の記事が話題となりました。
皇后陛下お誕生日に際し(平成25年)
宮内記者会の質問に対する文書ご回答
問1 東日本大震災は発生から2年半が過ぎましたが,なお課題は山積です。一方で,皇族が出席されたIOC総会で2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催が決まるなど明るい出来事がありました。皇后さまにとってのこの1年,印象に残った出来事やご感想をお聞かせ下さい。
皇后陛下
この10月で,東日本大震災から既に2年7か月以上になりますが,避難者は今も28万人を超えており,被災された方々のその後の日々を案じています。
7月には,福島第一原発原子炉建屋の爆発の折,現場で指揮に当たった吉田元所長が亡くなりました。その死を悼むとともに,今も作業現場で働く人々の安全を祈っています。大震災とその後の日々が,次第に過去として遠ざかっていく中,どこまでも被災した地域の人々に寄り添う気持ちを持ち続けなければと思っています。
・・・
5月の憲法記念日をはさみ,今年は憲法をめぐり,例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら,かつて,あきる野市の五日市を訪れた時,郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治22年)に先立ち,地域の小学校の教員,地主や農民が,寄り合い,討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で,基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務,法の下の平等,更に言論の自由,信教の自由など,204条が書かれており,地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が,日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが,近代日本の黎明期に生きた人々の,政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ,深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で,市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして,世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。
・・・
(この項「宮内庁」HPより)
アベ自公政権のもと、アベの横暴一強政治支配によって、憲法改悪の動きが加速しています。その主な狙いは、「憲法9条に自衛隊条項を加える」ことと「緊急事態条項の規定を盛り込む」こと。
「安保法制」成立、「集団的自衛権」の閣議決定など、現憲法を否定する法案を次々と問答無用の如き強行採決を繰り返し成立させ(決定し)、いよいよトランプ・ポチのアベの「悲願」の実現へなりふり構わず、といった様相。
何とかして策謀を葬り去らなければ、と。
ということを改めて。・・・
以上で終了、(13:11)駅前のおそば屋さんに入って昼食。
蕎麦焼酎をそば湯割で。
その先、左に折れて現街道に合流します。
(11:30)この辺りから「伊奈宿」となります。
第6話 伊奈宿と五日市街道
▲伊奈石が採れた横沢の山並みと秋川
五日市街道は、古くは「伊奈みち」と呼ばれていました。「伊奈」とは五日市のすぐ東側に位置した宿場町で、定期市なども開かれ、近隣の村々の中心的な役割を果たしていました。また、近くの山々には「伊奈石」という石材が埋もれており、これに目をつけた多くの石切職人(石工)が伊奈へと移住して腕を競い合いました。なかでも、伊奈の石臼「伊奈臼」は軽くて挽きやすいと評判だったということです。
天正18年(1590)の徳川氏の関東入国後、江戸城修築の土木工事に伊奈の石工たちが徴用されました。この石工たちが頻繁に江戸へと行き来した道筋が、自然に「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。これが五日市街道の始まりとされています。
しかし、江戸城の修築工事が終わると、街道は周辺の村の農産物や特産物を江戸へと運ぶ重要な輸送路として発展していきます。特に木炭需要の増加は、炭の産地である檜原村に近い五日市宿の急成長を促し、それまで伊奈宿で開かれていた炭市も五日市宿で開かれるようになりました。こうして伊奈宿と五日市宿の力関係が次第に逆転し、街道もいつしか「五日市道」と呼ばれるようになっていったのです。
(この項、「武陽ガス株式会社・交流の広場」HPより)
「上宿」という名称。
こちらは「上宿自治会館」。
「伊奈の市神様」。
伊奈村は、中世から近世の初期にかけえて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭をはじめ、この地域で産出される石(伊奈石)でつくられた臼なども取引されたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。
江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石に携わった工人たちが動員されたと考えられ、村と江戸とを結ぶ道は「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。
やがて江戸の町が整い、一大消費地として姿を現すと、木炭の需要が急速に高まりました。すると、木炭の生産地である養沢、戸倉などの山方の村々に近い五日市村の市に、伊奈村の市は次第に押されるようになりました。さらに、月3回の伊奈村の定期市の前日に五日市村でも市が開かれるようになると、ますます大きな打撃をうけ、伊奈村の人々はこの市の開催日を巡ってしばしば訴えを起こしました。
この祠は伊奈村の市の守り神である「市神様」と伝えられています。地元の伊奈石で作られ、側面には寛文2年(1622)の年号が刻まれています。伊奈村の移り変わりを見つめてきたこの「市神様」は、地域の方々により今も大切に祀られています。
旧道は「新秋川橋東」の信号を右に折れます。
「新秋川橋」。
(11:39)「岩走神社」の手前の坂道を下り、「秋川」沿いの道を進みます。
「秋川」。
渓谷を見下ろしながらの旧道歩き。
旧道は上を通る広い道に合流し、支流の三内(さんない)川を渡る。
かなり下に流れが。
(11:52)「五日市橋」のたもとで現五日市街道に合流。
「五日市橋」を振り返る。
旧道はそのまま街道を渡り、「正光寺」のところを右折します。(地図ではこの先、右にも旧道らしき道が短くあります。そちらが正しい? )
「貸し蔵」。
現街道に合流すると、まもなくJR五日市線「武蔵五日市」駅前に。
(12:04)その手前、秋川に沿った道が旧道のようですが。
その道を振り返る。
この先、左に折れて「五日市宿」に入りますが、その前に、駅前の広場で、小休止。
「現五日市街道」をしばらく進み、「西中学校入口」交差点を斜め右に上がっていきます。一段と高くなって見晴らしがよくなります。
家並みの向こうに「東京サマーランド」の観覧車が。
その名の如く趣向を凝らしたプールが人気。来たことはありませんが。
住宅街を進む。
再び現街道に合流。引田、山田を過ぎます。
(11:05)右手にお醤油屋さん。
商標は「キッコーゴ」。
東京で唯一醤油を醸造する蔵元 東京・近藤醸造
醤油ソムリエール黒島慶子の日本醤油紀行
〈 この連載・企画は… 〉 小豆島の「醤(ひしお)の郷」と呼ばれる地域に生まれ、蔵人を愛する醤油ソムリエールが
真心こもった醤油造りをする全国の蔵人を訪ねます。
riter profile
Keiko Kuroshima
黒島慶子くろしま・けいこ
●醤油とオリーブオイルのソムリエ&Webとグラフィックのデザイナー。小豆島の醤油のまちに生まれ、蔵人たちと共に育つ。20歳のときに体温が伝わる醤油を造る職人に惚れ込み、小豆島を拠点に全国の蔵人を訪ね続けては、さまざまな人やコトを結びつけ続けている。高橋万太郎との共著『醤油本』発売中。
東京の緑豊かな土地で醤油を造る
東京で醤油を造る蔵元は〈近藤醸造(屋号「キッコーゴ」〉1軒のみ。
東京駅から中央線で武蔵五日市方面に電車で約80分。
澄んだ空気と緑に恵まれたあきる野市にある。
「ものづくりが好きなんだよね。ラベルも自分でつくるし、年賀状づくりも9月から取りかかる。でも醤油造りは一番おもしろいよ。どんなに手をかけても、結局は人ではなく菌が造るんだからね」
近藤醸造3代目の近藤功さんは、温かな気持ちで醤油を造り、届けます。
3代目近藤功さんが描いた年賀状。9月から練り、1万4千枚も出している。
緑豊かな多摩の山裾に位置する近藤醸造は、明治41年から100年余続く蔵元。
“東京”のイメージから離れた緑豊かな場所で、清流秋川から流れるきれいな水と、国産丸大豆と国産小麦を使い、天然醸造で醤油を育みます。
「東京にも昭和53年には22軒の蔵元があったんですよ。でも、うち以外の醤油蔵は、広い敷地を有効活用し、貸しビルを建てたり、別の事業に転業したりしました。うちも、昭和55年頃に道路を拡張するからと退かなければいけなくなって、これを機にホームセンターをしようかなと思ったこともありました。日曜大工が趣味なので。けれど、秋川渓谷の入口にあるこの土地でやるべきことは……。そう思うとやっぱり醤油業だと思ってね」
・・・
そうしていつの間にか東京唯一の醤油醸造元になった近藤醸造。
「東京は昔から県外の醤油がどんどん入ってきていたから、1軒になったからと言って売り上げが伸びるわけじゃない。それより、東京で醤油を造るぞ、と思う仲間がいてほしかったですね」
そう話す近藤さんは寂しげ。
「私が入社した昭和40年頃は、小さな蔵元の醤油よりも、大手の醤油が魅力的に見える時代で、消費者も大手のものを使いたがっていたし、ましてや価格で競争なんてできるはずもない。
そこで近所の家庭に醤油を配達して、顔の見える関係のなかで使ってもらってきました。いまでもうちの醤油を使っているのは、あきる野市やその周りの家庭が多いです」
それを物語るように、お店には女性が空ビンを2本持ってきて、醤油を買っていきました。
近藤さんは70歳とは思えないほど筋肉がガッチリとついた体つき。昼夜問わず力仕事をしてきたことが表れている。4代目の近藤寛さん。総括や人事、醤油加工調味料を担当している。
“東京産の醤油”を使った商品で注目されるように
次の世代に向けて
「醤油屋の数は減り続け、業界も変動しています。だからこそ関係性の大切さを感じています。うちの蔵を見て醤油のすばらしさを知ってもらえれば、そのよさが伝わっていくと感じています。
小学校の見学を受け入れて、もう30年ほどになります。あきる野市の小学生はほとんどうちの蔵を見ていますよ。態勢を整えて、来年4月頃からは個人の見学にも対応できるようにしようと思っています」
私も蔵を見せてもらうことに。もろみを仕込む木桶は、譲り受け使い続けている明治8年製のもの。窓から光が静かに射し、熟成香が染みついています。そしてそのもろみ蔵の隣に、新しい麹造りの工場が建っています。
「そろそろ息子に代替わりをしようと思って、3年前に思い切って麹を造る工場を新しくしたんです。道具も建物もすべて。私もいま70歳。自ら望んで蔵に入った息子も40を超え、もう15年以上の経験を持ちましたから」
工場も機械も新しくするのは、減価償却も難しく勇気のいること。それでも息子の代を想い、態勢を整えてきました。
麹のできを確認する近藤さん。
できあがった麹。新工場はなかなか安定しなくて必死で試行錯誤してきた結果、やっと最近安定してきたという。
・・・
蔵に併設している売店も2014年2月に改装。近藤醸造の周辺は多摩産の木材が集まる地域。売店にも、蔵からほどないところにある青梅の御岳山から切り出した木材などを使い、床板も施工業者の指導のもと、スタッフみんなで金槌を片手に張っていきました。温かみを感じる店内には醤油や調味料、醤油スイーツがずらり。
「最近は“東京産”の商品を出したいということで、うちの醤油を前面にアピールした商品をつくってくれるところが少しずつ出てきました。東京駅に入る〈三州総本舗〉さんの〈東京ふみう〉というせんべいもうちの醤油を使い、うちの商品かと思うくらい近藤醸造をアピールしてくれています。東京駅の前にある商業ビル〈kitte〉の〈東京から揚げバル〉さんでも『東京醤油にこだわった鶏から揚げ』として、うちの名前を出してくれています」
近藤さんはうれしそう。
・・・
近藤醸造さんの醤油は、素朴で懐かしさを感じる風味。その醤油を使ったせんべいも、滋味に富む味わい。
そうか、近藤さんの醤油を使うと、東京で提供する新しい商品やサービスに背景が生まれるのか。
これからも温かい人柄の近藤さん親子によって育まれ、そしてあきる野市を中心に、都内や各地の食卓を豊かにしていく。
近藤醸造
キッコーゴ
住所:東京都あきる野市山田733-1
TEL:042-595-1212
http://www.kondojozo.com/
(この項、「」HPより)
その駐車場にあった「秋川渓谷案内図」。
JR「武蔵五日市」駅に向かいます。
(11:17)右手「岸タイヤ商会」さんのところを斜め右に入って行くのが「旧道」。
広い通りと交差する手前の民家のところに道標があります。
→五日市 檜原方面。←八王子 拝島 福生方面。
→津久野 青梅方面。←川戸村 恩方方面。
その先で交差します。青梅方向(北)を望む。
旧道はそのまま横切って進みます。
農家の庭先に農産物が。「のらぼう菜」。
こちらはとうがらし。
「のらぼう菜」? あまり見かけない野菜。
菜の花に良く似ていますが、春先にとう立ちした主茎を折り、脇芽を摘み取り食べます。
柔らかい花茎(茎の部分)にはほのかな甘味があり、他の菜花類のような苦味やクセはなく、アスパラガスのような味と歯ごたえが感じられ、やみつきになります。
普通のナバナ類と同じ料理に使えます。
栄養価も高く、ビタミンA・Cのほか、鉄分、食物繊維なども豊富です。
「茎葉タイプ」で、おもに花茎と葉を利用します。全体的に緑色が濃く、和種ナバナに比べて苦味が少なめで甘味があるとされています。
調理の仕方
さっと一つまみの塩をいれた熱湯で、下茹でしてから使う事をお勧めします。
おひたしや和え物、マヨネーズを付けたり、シンプルな味付けのものに最適です。
下茹でした物をさっと炒めたり、パスタの具にしたり、和洋中どのような料理法にも合います。
(この項、「JAあきがわ」HPより)
のらぼう菜
東京都西多摩地方(あきる野市、青梅市等)及び埼玉県飯能市・比企郡小川町付近で多く栽培されるアブラナ科アブラナ属の野菜である。江戸時代初期には、すでに各地で栽培されていたと伝えられる。耐寒性に優れ、天明の大飢饉(1782年 - 1788年)及び天保の大飢饉(1833年 - 1839年)の際に人々を飢餓から救ったという記録が残る。かき菜などの「なばな」と同系統だが、在来種のアブラナ(和種なばな)ではなくセイヨウアブラナ(洋種なばな)に属している。
歴史
のらぼう菜がいつ頃から栽培され始めたのか、その来歴は不明とされる。のらぼう菜の原種は、闍婆(じゃば、現在のジャワ島)を経由してオランダの交易船が持ち込んだセイヨウアブラナ(洋種なばな)の1種「闍婆菜」(じゃばな)という品種という説がある。この闍婆菜は各地で栽培が広まり、江戸時代初期にはすでに西多摩地方でも栽培されていた。
のらぼう菜を含むなばな類は、油を採る目的の他に食用として葉や蕾が用いられ、栽培地の気候や風土によってさまざまな特質が見られるようになった。西多摩地方ではこの食用なばなを「のらぼう」または「のらぼう菜」と呼んでいた。「のらぼう」には「野良坊」という漢字表記がしばしば見られるが、この名で呼ばれるようになった経緯は定かではない。
のらぼう菜は耐寒性に優れている上、花茎を折ってもまた次の脇芽を何度も出す旺盛な生命力を持った品種である。江戸時代後期の1767年(明和4年)9月、関東郡代伊奈忠宥が地元の名主小中野四郎右衛門と網代五兵衛に命じて、のらぼう菜の種子を江戸近郊の12の村々に配布した記録が残る。のらぼう菜の普及によって天明の大飢饉(1782年 - 1788年)及び天保の大飢饉(1833年 - 1839年)の際、人々を飢餓から救ったと伝わる。あきる野市の子生神社(こやすじんじゃ)には、この事績を記念して「野良坊菜之碑」が1977年(昭和52年)に建立されている。
のらぼう菜は収穫後はしおれやすいため長距離輸送や大量出荷向きではなく、生産地付近でのみ消費される地方野菜として受け継がれてきた。近年は苦みやくせのないのらぼう菜の味わいが再度注目されるようになって、産地のあきる野市では東京都農業試験場・西多摩農業改良普及センター・JAあきがわが協力して、品種改良を進めている。
のらぼう菜の本来の旬は、前年8月下旬頃から9月上旬までの間に播種をして苗を畑に植え付けて越冬させた後の3月下旬から1か月足らずの短い期間である。近年では2月初旬から出荷可能な早生種も出回っているが、3月下旬からの晩生種こそが、古来から続くのらぼう菜の系統である。あきる野市五日市ののらぼう菜生産者たちで結成する団体「五日市のらぼう部会」では、早生種の普及に伴う出荷競争での品質低下防止のために、東京都農林総合研究センターで3年間にわたる早生種の試験栽培を依頼した。五日市のらぼう部会は、試験栽培した早生種の中から食味などの優れた2種を選定した。この2種は万一の交雑を防ぐためにあきる野市の山間部で種の採種を慎重に行い、五日市のらぼう部会の会員のみが種子を入手することが可能である。
調理法や利用
のらぼう菜は冬を越して春先に成長してきた花茎を、根こそぎではなく手で折り取りながら収穫する。鎌を使っての収穫では、育ちすぎて食用に向かない固くなった花茎まで刈り取る恐れがあるため、30センチメートルくらいの長さを目安として必ず手で折り取っている。収穫したての花茎は甘くて雑味がなくて柔らかいが、のらぼう菜を初めて食べる人の中には、美味しい茎の部分を捨てて葉だけを食べてしまう人もいるという。
のらぼう菜は100グラム中に鉄分1.15ミリグラム、ビタミンA1580IU、ビタミンC90ミリグラム(小松菜の2倍近い量)や食物繊維を豊富に含んでいる。収穫後しおれやすいため、生産地近郊でのみ流通している。店頭では250グラムから300グラムの束になったり、ポリ袋に詰められたりして陳列される。のらぼう菜はゆでてもかさが減らないという長所がある。かつてはおひたしやごま和えにして食していたが、油との相性が良いためバター炒めやマヨネーズ和えにも向き、味噌汁の具にも合うなど調理の用途が広い。
のらぼう菜は生命力が強く、葉や花茎の部分を摘んで食べた後にはまた次の葉や茎が伸びてくる。耐寒性に優れていてハウス栽培の必要がなく、何回かの収穫ができて長期間楽しむことが可能であるため、家庭菜園にも向いている。
(以上、「Wikipedia」参照)
どうも途中で興味関心を奪われ、記事がなかなか先に進みません。
宿場の面影はなさそうです。
「あきる野市」のマンホールの絵柄。多摩川と大岳山。
土蔵造り風の建物がいくつか。
「二宮神社」交差点を西に進みます。
切り通しになっている坂を上っていくと、その先には広々とした畑地が広がります。歩くのもゆったりと風景を愛でながら。
「秋留台」。中央に「大岳山」。
南側には「富士山」が顔をのぞかせています(↓)。
(9:52)「秋川ファーマーズセンター」。朝から忙しく人が出入りしています。
地元農家の育てた安全・安心な採れたて野菜が並びます。年間を通してトマト、春はのらぼう菜、初夏はトウモロコシ、夏はショウガが有名です。
手作りパン・ジャム等の加工品も人気の商品です。
東京都産黒毛和牛「秋川牛」の精肉を販売しています。秋川牛はあきる野市の竹内牧場が飼育する都産唯一の黒毛和牛で、同市松村精肉店が立ち上げたブランドです。
ブランド鶏「東京しゃも」と「秋川牛」の冷凍肉を販売しています。
管内酪農家を含む多摩地区の酪農家から集乳した生乳を、日の出町にある 協同乳業(株)東京工場で殺菌パックした「東京牛乳」を販売しています。
雨の日でも安心、屋内バーベキュー場(予約制)
・・・
(この項、「秋川農業協同組合」HPより)
ここに登場する「東京牛乳」は我が家でもなじみのある牛乳。濃厚でおいしい。
ところで、東京での酪農は? (「東京牛乳」HPより)
初めは荒廃した武家屋敷跡の開墾、武士の失業対策から
江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は静岡に移封され、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。
てっきり、北海道大学の前身である札幌農学校をルーツとするのかと思っていたが、同校の開校は明治9年だから、東京の酪農はそれに先駆けていたことになる。 また、戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっているそうだ。これは彼が、江戸末期に酪農の本場オランダに3年間留学していたことと関係しているに違いない。
明治32年には東京で3,000頭以上の乳牛を飼育
ではなぜ東京の中心部で酪農が発達していたのだろう?
上に述べたような政府の方針のほかに、牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと、当時は輸送手段が整備されていなかったこと、保存手段が無く毎日配達する必要があったこと、乳牛の飼料である粕の入手が容易だったことなどに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたという。その後、酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
現在では政治やビジネスの中心地である都心部で、のんびりと乳牛が草を食んでいたと思うと笑えるが、理由を考えると納得だ。
都内で牧場が多かった地区に、文京区も挙げられる。明治の元勲・山県有朋が出資して、明治10年代に雑司が谷村に牧場を開設、清戸坂の道沿いに平田貞次郎に開かせた平田牧場には、売店もあって、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうだ。当時の人は、旗ざおの文字を読めたのだろうか、売れ行きはどうだったのだろう?
明治中期の文京区には、20軒近い牧場があったという。現在でも文京区は緑やアップダウンの多い地域なので、牧場を開くのには、最適だったに違いない。
想像の中の明治の姿と変わってしまった現在の姿とを対比させながら東京の酪農に思いを馳せ、都内を散歩してみてはいかがだろうか。
※地産地消=地域の消費者ニーズに即応した農業生産と、生産された農産物を地域で消費しようとする活動を通じて、農業者と消費者を結びつける取り組み。
東京牛乳は東京都酪農業協同組合と多摩地区の酪農家及び協同乳業で共同開発した産地指定牛乳です。
製造工場 協同乳業㈱東京工場(東京都西多摩郡日の出町平井20-1)
そういえばJR錦糸町駅前にも伊藤左千夫が経営する牧場があって、牛乳を生産して、近所の「汽車工場」に配達していたとか。
(「東京都墨田区の歴史」HPより)
左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)(山武市歴史民俗資料館所蔵)
牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世のなかの新(あらた)しき歌大いにおこる(明治33年作)
この歌は、正岡子規の短歌革新運動に共鳴して詠んだ代表作。年下ではあったが子規という偉大な師を得て、短歌の世界に生き甲斐を見いだした左千夫の気迫が感じられます。
・竪川に牛飼う家や 楓(かえで)萌え木蓮花咲き 児牛遊べり
「錦糸町駅」南口にある「文学碑」。
よき日には 庭にゆさぶり 雨の日には 家とよもして 児等が遊ぶも
注:「とよもす」=音を響かせる、の意。「どよもす」とも。
同文学碑脇の解説板。
この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(1864)8月18日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治18年(1885)から、東京や神奈川の7か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治22年25歳のとき本所句茅場町3丁目18番地(現在地)の牧舎と乳牛3頭を購入し、4畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デボン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日18時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
・・・
この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治43年8月12日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治45年に南葛飾郡大島町(現在の大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。
・・・
隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和58年(1983)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治41年(1983)10月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。・・・
(注:解説文中に「大島に牧舎を移し」とあるが、その地は現在の「都立城東高校」付近。)
左右に畑地が広がります。冬の風景。
「秋留台公園。」冬の日ざしを浴びてスポーツにいそしむ姿が。
市街地に近づいてきます。白い壁に映る冬枯れの樹木。
(10:10)「あきる野市役所」。
その先に「大塚古墳」。方墳のようです。そこで、小休止。
しばらく進むと、JR五日市線「秋川」駅。
駅前のコンビニに寄って買い物を。「五日市線」の踏切を渡り、続いて「圏央道」をくぐります(10:37)。
この先、右に左に旧道らしき道が何カ所か出てきます。ここを左折。
現五日市街道に合流して渡って次の短い旧道へ。
周囲には里山風景が広がってきます。
「五日市街道」歩きの最終回。昼前にはゴールできそう。早足の人なら「2日」のコース。
「牛浜」駅を下車し、前回のところから(8:57)。
JR五日市線の踏切を越え、「新奥多摩街道」を横切った先に「玉川上水」に架かる「牛浜橋」に。遠く向こうに真っ白な富士山が見えます。
(↓)
「牛浜橋」解説板。
現在の牛浜橋は、昭和52年3月に架け替えられたものであります。
牛浜橋は、東京と甲州を結ぶ五日市街道に架かる橋として、馬車や牛車の往来により在来の木橋では破損が多く、管理者の負担は大変でした。
明治初期に新政府が東京市の近代化を図るために熊本より石工を招き、二重橋をはじめ木橋を洋風の眼鏡橋に架け替えたことを見聞した村民が、牛浜橋に取り入れ、明治10年12月に、めがねばしと愛称された牛浜橋が建設されました。
平成4年度に行った玉川上水橋梁群整備では、石と鋳物を用いて歴史的背景を取り入れ、親柱や高欄、歩道舗装の改善などを行いました。
「牛浜橋」を過ぎると一気に多摩川に向かって急坂を下ります。
正面に富士山。
河川敷に大きな公園が広がります。周囲の山々の案内図。
中央に見えるのが「大岳山」。
白雪の富士山。
「石濱渡津跡」の碑。前に二つ並んでいるのは、旧牛浜橋の親柱。
ここは、大正時代まであった「牛浜の渡し」の跡。碑の文字が牛浜ではなく石浜となっているのは、1352年(正平7・文和1)新田義貞が足利尊氏を破った戦場跡とする説がもととなっているようです。
解説碑。
石 濱
勇ましいかな新田の最少郎(新田義貞)
差原(小手差原)に賊(足利尊氏軍)を駆れば皆な奔狂す
四十六里(小手差原より石浜まで)風逐を成し
足利も足躓くは是れ此の場
足利尊氏は感応3年(1352)閏2月20日に武蔵国人見原(府中市)・金井原(小金井市)で新田勢と対戦した。この時尊氏方は苦戦を強いられ、石浜にのがれた。尊氏は窮地を脱して、28日小手差原(所沢市)・入間河原(狭山市)などで、次々と新田勢を破った。この一連の合戦を武蔵野合戦という。尊氏が逃れた「石浜」の所在地については諸説があり、市内の牛浜であるという説が古くからある。
「石浜」という地名は、隅田川中流にあったお城の名でもあります。
《参考》「石浜城」
石浜は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、この付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされている。築城年次は不明であるが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている。(この項、「Wikipedia」参照)
そこから対岸を望む。
広々とした河川敷の公園。
現在は上流の「多摩橋」で対岸に。公園の出口の所で。
「多摩橋」。正面に富士山。
多摩川の流れ。上流。
下流。渡し場付近?
(9:27)「あきる野市」に入ります。
対岸の牛浜を望む。
「平沢」交差点で左にカーブ、さらに右に曲がりながら急坂を上っていきます。「多摩橋」以前は「渡し場」から急な坂を上っていたようです。
遠くに福生の街並み。
この道が旧道?
坂道を振り返る。「多摩川」はアップダウンのある難所の一つでした。
1880年代のようす。多摩川の流水路がかなり変化しているようです。渡船場へのほぼ直線の上り下りも大変そう。
2010年代のようす。多摩橋完成で道路も付け替え。旧道は一部残っているか? 下は「五日市線」の鉄橋。
大日本帝国陸軍の航空部隊の基地として開設されたが太平洋戦争後、連合国軍に接収され、在日アメリカ軍司令部および在日アメリカ空軍司令部と、アメリカ第5空軍司令部が置かれている、東アジアにおけるアメリカ軍の主要基地であり、極東地域全体の輸送中継ハブ空港(兵站基地)としての機能を有している。また朝鮮戦争休戦協定における国連軍の後方司令部も置かれている。
2012年3月からは、移転再編された航空自衛隊の航空総隊司令部なども常駐するようになり、日米両国の空軍基地となった。
拝島駅の北側で、東福生駅や牛浜駅の東側に位置し、福生市、西多摩郡瑞穂町、武蔵村山市、羽村市、立川市、昭島市の5市1町(構成面積順)に跨がっている。沖縄県以外では日本国内最大のアメリカ空軍基地であるが、沖縄県の在日米軍基地のように民有地の借り入れがなく、その殆どが国有地で占められている。
日米の軍用機の運用のほか、近年ではアメリカと同じく北大西洋条約機構(NATO)加盟国である、フランス空軍輸送機(エアバスA340-200型機)の、フランス本土からニューカレドニアなどのフランス海外県への移動の際に、テクニカルランディング地として使用されることもある。
アメリカ軍人及び、その家族のアメリカ本土帰省用に、アメリカ軍と契約している航空会社の定期チャーター便(パトリオット・エクスプレス)の民間旅客機が飛来する。貨物便はエバーグリーンインターナショナル航空など、複数の航空会社が乗り入れている。
なお、日米地位協定により、アメリカ軍人・軍属・それらの家族は、出入国管理の搭乗手続きを必要としない。そのため、日本国内で犯罪を犯したアメリカ軍将兵や、軍を掌握するアメリカ高位高官が軍用機で出入国しても、それが日本側に告知されない限り、日本国政府はその事実を知ることができない。2017年には大統領専用機でドナルド・トランプが出入りしているが、これも法的には、アメリカからの出国や日本への入国を行っていない。
施設建設やメンテナンスのためなど、一時的に横田飛行場に入場する際には、入場者の日本国籍確認のため、運転免許証(ICカード化され本籍欄が削除されたため、本籍確認のため「2つの4桁暗証番号入力」が必要)、日本国旅券、住民基本台帳カード、個人番号カードによる身分証明書の提出が必要である。それ以外の国籍については、入場者のパスポートや在留カードの提出が必須で求められるが、中華人民共和国や北朝鮮、イランなどの保有国籍によっては、横田飛行場への入場が拒否される。
(以上、「Wikipedia」参照)
直線の道を西に進みます。右手に「馬頭観音」。
(13:55)「みどりの美術館」。
この先で、旧道は「横田基地」にぶつかります。
目の前に広大な横田基地が広がります。
この先で、旧道は基地の中に消えます。「第五ゲート」のところで街道は復活。
1880年代のようす。ほぼ直線で西に進んでいます。基地拡張のため、「五日市街道」は寸断された。
2010年代のようす。横田基地の中に消えています。一部残っている? 左の南北の道路は「国道16号線」。
1880年代のようす。南北の道は「八王子千人街道」。 横田基地第五ゲート付近(↓)。「千人街道」は基地内に(○)。
基地の向こうに「大岳山」(↓)。この山は「八王子千人街道」のときに遠くに見えていました。今度の「五日市街道」では近くに見えるはず。
左折し、現五日市街道(都道7号線)に合流します。
車が行き来している道路が旧道?
(14:08)西南遠くに富士山が見えますが、逆光です。
向こうに「第五ゲート」があるはず。
それにしても広大な土地を占有しています。
「横田基地」への引き込み線。
(14:30)現「五日市街道」の標識。国道16号線と合流します。
「第五ゲート」前で左折、「あきる野」方向へ。
(14:47)「第五ゲート」。
(14:52)「八高線」の踏切を越えます。
「福生市民会館・さくら会館」前庭にある小さな道標。
かすれていて読みにくいですが、「右 江戸」は五日市街道で、「左 きよ戸」の清戸は清瀬市清戸へ向かう道。
この日はちょうど成人式で、この時間になっても若者達がそばの公園に集っていました。
(15:10)「青梅線」。右折すると、「牛浜」駅。今回はここまで。
しばらく進んだ先を左に折れる。
角に「大山道」という道路標示。
道路の反対側に「大山道」と刻まれた道標があります。
1880年代のようす。↓が道標のあるところ。右上から左下に進む。
2010年代のようす。北は「青梅街道」とクロスするらしい(「多摩モノレール・桜街道」駅付近)。
《参考》「桜街道」駅付近。この農道が「大山道」のようです。
大きなお屋敷。
西に進みます。「五日市街道」という標識。
この先、屋号の入った土蔵造りが目立ちます。
りっぱな建物。屋根には鯱。
(13:04)「残堀川」。
狭山丘陵西端付近にある狭山池(東京都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎)に源を発し、立川断層に沿って南東に流れ、武蔵村山市の旧日産村山工場の敷地に突きあたってから南に流れを変える。ここから下流は河道付替工事による人工の流路である。立川市一番町付近で玉川上水を乗り越え、国営昭和記念公園の西辺に添いながら昭島市に入る。東向きに曲がって同公園の敷地に入り立川市域に再び入る。公園内で再び南に向きを変え、立川市富士見町3丁目でほぼ直角に曲がり、立川市柴崎町で多摩川に合流する。
元々は狭山丘陵の小河川の水を集めて南東に流れ、矢川に注いでいたと考えられている。
・・・1963年(昭和38年)氾濫対策として、玉川上水を越える形に変え、1982年(昭和57年)「残堀川流域整備計画」が策定され、その計画に沿って河川改修工事が施工された。
しかしそれ以降は年間を通じて、降雨時およびその直後を除くと水流の殆ど見られない「瀬切れ」を頻繁におこすようになり、場所によってはその名の如く「堀だけが残る川」となってしまった。・・・
(以上「Wikipedia」参照)
前掲の「株式会社いずみホーム」HPによれば、
・・・残堀川は、狭山丘陵の湧き水を水源として南東に流れ、多摩川に注ぐ清流だったそうです。乾期には川底が現れ、雨期には護岸もないので暴れる川でもあったようです。「水量が少なく川底が見える」、あるいは「昔から大雨のたびに氾濫する暴れ川で、洪水のたびに大量の土砂を流域に堆積させて人々を困らせたことから」土地の人々は砂の川と呼び、これが砂川という地名の由来となりました。
残堀川は蛇が掘る川(蛇堀川)から「残堀川」と呼ばれるようになったようです。
この川は、やはり「青梅街道」歩きの時にも渡りました。
《参考》上流の「伊奈平橋」付近。
(13:13)その先で「玉川上水」と出会い、「天王橋」を渡ります。
「玉川上水」。水量は多い。
「西武拝島線」のガードをくぐります。
茶畑が広がります。
この土蔵造りにも屋号が。
大きなお屋敷が目立ちます。
(13:40)「西砂」交差点で「現五日市街道」は斜め左に曲がりますが、旧道はそのまままっすぐ進みます。
↓の方向。
手前にあるコンビニで、しばし休憩。
(13:52)旧道からさきほどの分岐点方向を望む。
行く先(西)を望む。
車の行き来の激しい道路の脇にはこういう雰囲気のある路地が。
ケヤキ(?)の巨木の切り株が門前に。
少し下り坂になっていきます。
郊外の農家の趣。
この先、多摩モノレールの高架線が見えてきます。「五日市」という標示も。
(12:09)「砂川七番」駅でおにぎりを食べながら休憩。
沿道にはケヤキの巨木が目立ちます。「川越街道」でも埼玉に入ってから多く見かけました。武蔵野台地には適した樹木なのかも知れません。ただ、手入れが大変そう。冬場は葉っぱが散るので殺風景な印象。
「長屋門」風のあつらえのおうち。
「昭和記念公園」」からの道路と交差。
右手に大きな広場・グランドが広がります。
ところで、こうして「五日市街道」を歩いていると、「砂川七番」とか「砂川五番」とかという交差点名が出てきます。そのいわれは?
以下、「株式会社 いずみホーム」様のHPより拝借。
立川市はかつての柴崎村と砂川村からなります。柴崎村が立川村に改称されその後立川市となった後、砂川村から改称された砂川町が編入し今に至るわけです。
集落は水のあるところに生まれます。生存にとって欠かせない水の確保は絶対条件だったためでしょう。
立川市に人が住み始めたのは、約1万5千年前と考えられています。また、縄文時代中期(約5千年前)になると、向郷遺跡(錦町・羽衣町)や大和田遺跡(柴崎町)で、大きな集落が営まれるようになりました。錦町、羽衣町そして柴崎町はちょうど立川崖線によって水が湧き出す地域です。水を求めて人が集まり、やがて集落を形成し、やがて村として発展を遂げたのが柴崎村です。
砂川村が形成されたのは江戸幕府が開かれ玉川上水が開削されてからです。玉川上水によってもたらされた水によって新田開発が行われにつれ発展したのです。玉川上水が完成する前にも残堀川によって水はもたらされたようですが、水量も少なく広範囲で耕作が行われたわけではなかったようです。砂川の歴史にとって玉川上水は切っても切れない関係と言えるのです。
砂川の由来
玉川上水開削以前の残堀川は、狭山丘陵の湧き水を水源として南東に流れ、多摩川に注ぐ清流だったそうです。乾期には川底が現れ、雨期には護岸もないので暴れる川でもあったようです。「水量が少なく川底が見える」、あるいは「昔から大雨のたびに氾濫する暴れ川で、洪水のたびに大量の土砂を流域に堆積させて人々を困らせたことから」土地の人々は砂の川と呼び、これが砂川という地名の由来となりました。。
残堀川は蛇が掘る川(蛇堀川)から「残堀川」と呼ばれるようになったようです。現在は瑞穂町にある狭山池を水源として上流ではわずかに水が流れていますが、日照りが続き水源である狭山池の水位が下がると、そのわずかな流れさえも止んでしまいます。現在の残堀川はその名の通り「堀が残る」だけの川となっていて、今も昔も枯れたような川なのですね。ただ面白い事に多摩川に合流する直前、つまり下流では今も清流が流れ、川の宝石と呼ばれるカワセミの姿も見られます。春は桜並木が大変綺麗で、見ごろを迎えるとたくさんの人達が訪れのです。
砂川村の形成と新田開発
砂川村の形成は玉川上水の完成と密接に関わっている事は前述しました。関東ローム層の赤土は乾燥すると砂埃を巻き上げ「赤っ風」と呼ばれました。そんな乾いた大地を玉川上水が潤していったのです。
砂川の開発
砂川の開発は狭山丘陵の麓「岸村」(現在の武蔵村山市)に住む「村野三右衛門」が幕府に願い出、許可されたところから始まります。これは慶長8(1603)年徳川家康が徳川家康が駿河から江戸へ入府し江戸幕府を開いてからわずか6年後の事で、しばらくの間は開発は進まなかったようです。
・・・
砂川分水と砂川新田
新田開発が本格化したのは玉川上水の完成に伴い明暦3(1657)年、「砂川分水(後に幾つかの分水を繋げて砂川用水となる)」を引き込むことが許可されたためです。砂川分水は取水口のある天王橋から五日市街道に沿って開通されました。残堀川の旧水路が五日市街道と交差する付近(三、四番)の小集落に過ぎなかった砂川新田は、砂川用水の開通により現在のように五日市街道に沿って計画的に耕地が開発出来るようになったのです。その後発展を続けた「砂川新田」はその名称をを変え「砂川村」になりました。砂川新田を支えた砂川分水はその後他の分水と統合され現在は砂川用水としてその姿を残します。当初天王橋にあった取水口も移動し、昭島市の松中橋北側に柴崎分水の取水口と並んで設置されています。
砂川村
天王橋から五日市街道に沿って引かれた一里ほどの砂川分水、そしてその分水と共に形成された砂川村はその取水口である天王橋から北東方向に伸びる細長い村でした。砂川村は年貢徴収の単位として西から順に「一番」「二番」「三番」という風に番号がふられました。当初は全部で一番組~八番組までの集落があり、一番から四番までが上郷、五番から八番までを下郷と呼び、その郷には「小名主」が置かれて「名主」の名代としたそうです。各組には組頭が置かれました。その後さらに東へと開墾が進めらますが、砂川新田が砂川村となった事から、その東を新たに「砂川新田」、さらに東を「砂川前新田」と呼びました。それらが後に「九番」「十番」となりました。こうした呼び名は今も残り、バス停や駅名などでも確認できます。多摩モノレール「砂川七番駅」がわかりやすいですね。私が子供のころは自治会主催の運動会などで「四番組」とか「五番組」などが対抗戦形式で競いあったのを覚えています。
五日市街道沿いの短冊形敷地
旧砂川村は五日市街道から短冊のように縦長の敷地を持つ家が立ち並んでいます。街道沿いに屋敷林に囲われた屋敷部分(母屋・土蔵・物置など)があり、その奥に農地と雑木林が広がっています。外見上の特徴は立派なけやきの木が凛として立っていることです。夏の日差しを避け、冬の北風を防ぐためにケヤキやカシなどが植えられたのです。
昔ながらの古い造りの家はかなり減ってしまいましたが、佇まいは今も残ります。農家の同級生の家に遊びに行くと、玄関に辿り着くまでのアプローチがとにかく長い。もちろん遊びに行く約束をしているのですから、臆面なく入っていいものですが、どうも気おくれして苦手でしたね。こうした五日市街道沿いのお家は、すなわち地主さんでもあるわけですから、長じて商売用のチラシをポスティングしようにも、門塀にポストがないと、さすがに面識のないお家だと敷地内に入り込んで玄関ポストに入れるのははばかられます。
砂川町は立川市に編入
玉川用水と共に発展を遂げた砂川村はその後殿ヶ谷新田・宮沢新田・中里新田・芋窪新田・八軒新田・榎戸弁天新田を組み入れます。そして明治22(1889)年町村制施行により神奈川県北多摩郡砂川村となり、明治26年(1893)年には北多摩郡が南多摩郡、西多摩郡とともに東京府へ編入され、昭和29年(1954)年町制施行し砂川町となったのです。この時立川村はすでに立川市となっており、昭和38(1963)年立川市に編入されました。
砂川闘争について
大正11年(1922)に開設された立川飛行場は、戦後、立川陸軍航空工廠と一つになりアメリカ軍の立川基地となりました。その立川基地の拡張を公表した事から起こった住民運動が砂川闘争です。1955(昭和30)年から1960(昭和35)年にかけて住民だけでなく砂川町議会も巻き込んだ基地拡張反対運動が続いたのです。そうした中起きた砂川事件と言う言葉は私の子供のころも耳にしました。どんなものであったのかは当時知りませんでしたが、野球少年であった筆者が普段練習していた小さな球場のあたりで起こったのだと上級生が話していたのを覚えています。
結局立川基地の拡張は中止され、昭和52年(1977年)立川基地はアメリカ軍から日本へと返還されました。立川基地の跡地は現在昭和記念公園が整備され、地方裁判所などの行政機関が集まるエリアとなりました。また周辺エリアの開発も進み、IKEAやららぽーとなどの商業施設も作られています。
ちなみに、中央線から立川飛行場に引かれていた鉄道の跡地は「栄緑地」「西町緑地」「北緑地」として市民の憩いの場となっております。
長々と引用させてもらいました。
ここに出てくる「砂川事件(すながわじけん)」とは、
在日米軍立川飛行場の拡張を巡る闘争(砂川闘争)における一連の訴訟である。特に、1957年(昭和32年)7月8日に特別調達庁東京調達局が強制測量をした際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(現在の地位協定の前身)違反で起訴された事件を指す。
当時の住民や一般人の間では主に「砂川紛争」と呼ばれている。全学連も参加し、その後の安保闘争、全共闘運動のさきがけとなった学生運動の原点となった事件である。(この項、「Wikipedia」参照)
そして、その時の確定した判決内容は
1 憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない。
2 条約について裁判所が違憲審査権を行使する場合は、一見極めて明白に違憲無効であると認められないか否かに限って審査すべきである。
3 アメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。
この判決(特に1項、3項)を都合よく解釈して(うまく利用して)、「安保法制」の際、日本国の「集団的自衛権」の根拠としたわけです。
以下くどいようですが「」HPより)
砂川の今昔
1880年代のようす。街道の北側に沿って水路(砂川上水)がある。家並みが街道沿いに。
2010年代のようす。右上が「多摩モノレール砂川七番」駅。左下が「昭和記念公園」(立川基地跡の一部)
1月14日(成人の日)。快晴。冬晴れの一日。「五日市街道」歩き2日目。
(10:06) 「一橋学園」駅下車。前回の地点から再開。
「玉川上水」案内板。
「小金井(サクラ)」解説板。
(10:15)この先で、「現五日市街道」は、「玉川上水」から左に分かれていきますが、旧道はそのまままっすぐ進みます。
その分岐点に広場が。
「小川水衛所跡」。
水衛所(水番所)とは
江戸市中への水を確保するため、水番人と呼ばれる人が常駐していた場所です。水番人は、玉川上水に流れる水量や周辺の巡回、流れてくる落ち葉の掃除などを行っていました。水衛所は、江戸時代には奉行の支配下におかれ、「水番所」と呼ばれていました。
小川水衛所について
小川水衛所は、明治維新後、東京市水道部(現在の東京都水道局)が管理することになったことから、明治27年に水番所を水衛所と名前を変え、引き続き職員(水衛)が常駐し、玉川上水の点検や清掃などを行っていました。
その後、淀橋浄水場の廃止に伴い玉川上水への通水を停止したことから、小川水衛所は昭和55年3月に廃止されました。水道局では、史跡である玉川上水をより身近に感じていただくため、水衛所跡地を散策路として平成24年度に整備しました。
その付近からの「玉川上水」の流れ。
上流。 下流。
「国指定史跡 玉川上水」解説板。
・・・
現在も羽村取水口から小平監視所までは現役の水道用の水路として、都民の生活を支えています。
玉川上水は、約43㎞の区間を約92mの標高差(100mでわずか約24㎝の高低差)を利用して水を流すように設計されたど長大な土木施設・遺構です。
特に、小平監視所から浅間橋までの中流部には開削当時の素掘りの水路・法面が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。
玉川上水は、近世の水利技術を知る重要な土木施設・遺構であることから、平成15(2003)年8月、開渠区間約30㎞が国の史跡に指定されました。
※ この付近には、国指定名勝「小金井(サクラ)」の起点を示す境界石があるはずですが、見落としました。
この道を進み、突き当たりを左折し、現街道に合流します。
この付近の今昔
1880年代のようす。○が屈折しているところ。
2010年代のようす。この先は旧道も現街道も同じ道となる。
右手に大きな料亭「いろりの里 四季亭」。
打ち水された石畳を歩めば、武蔵野の原風景に彩られた懐かしい日本の情景が広がります。
汽車の汽笛、野鳥のさえずり、風の音、木々の彩り、茅葺きの東屋、触れ合う人の温もり。
あわただしい日常の中で忘れ去られた安らぎの時間がゆっくりと流れていきます。
華憐に咲く山野草、水路を優雅に泳ぐ錦鯉、奥山里の風情を残す茶室。
玉川上水沿いに広がる豊かな自然を借景にした広大な日本庭園に囲まれて過ごすくつろぎのひととき。
(この項、「」HPより)
ランチもあるようなので、機会があったら。
突き当たりには竹林。
「五日市街道」(「都道7号線」)に合流して、車の往来の激しい現街道をひたすら西へ向かいます。
しばらく進むと、旧「鎌倉街道」と交差します。右折してこの道を進むと、「玉川上水」に架かる橋が「鎌倉橋」。
(10:30)「鎌倉街道」道から南を振り返る。
「鎌倉橋」。 「玉川上水」の流れ。
橋の北側を望む。
街道に復帰。
(10:45)「国分寺市」に。周囲には緑が豊かに。
「屋敷林」。
春の訪れはまだまだ。
古民家造りのお店 「のらや」。
2006年6月に東京3号店として五日市街道沿いにオープンしました。
築130年の古民家を改装し、四季を通じてお座敷から見えるお庭の景色が人気のお店です。
玄関横の井戸からが絶好の写真スポット!奥に進むと蔵がありお宝が眠っているかも?
「手打草部うどん」
大阪・堺・草部は和泉の国の豪族、日下部氏が地名の由来とされています。
この地で誕生したうどんは厳選した材料を丁寧に練りこみ、もちもちっとした食感が特徴です。
熟練した職人が毎日、塩度や水温の微妙な調整を行い、麺打ちしたものを全国のお店に届けています。
「おだし」
天然素材だけの旨味にこだわっているのでだしを飲み干してほしい!
厳選した利尻産の昆布を水出し製法で14時間かけて旨味を抽出します。
自然乾燥で熟成された数種類のかつお節をブレンドし、添加物を加えず旨味を最大限に引き出すために丹念に時間をかけてたき込んでいます。
「うつわ」
楽しんでお食事をしていただくために、キャラクターの「のらちゃん」をイメージしたオリジナル食器をつくりました。
「あっ、ここにも!」、かわいい猫が顔をのぞかせます。
お箸袋を集めるとその枚数によってお好きな食器と交換することができます。
ご自宅の食卓にものらやがいっぱい。
(この項、「」HPより)
大阪・岸和田発祥の手打ちうどんのチェーン店のようです。この他にも、街道筋にはけっこう入りたくなりそうなお店が並んでいます。
古い農家風のおうち。
「小金井桜」についての詳細な解説板。
小金井堤の桜は、元文2年(1737)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の6㎞にわたり植えたものです。これは新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。
・・・
小金井堤の桜は、東京大学三好学博士(植物学)の調査研究により、若葉の色、花の色、形の大きさ、早咲き、遅咲きなど1本1本が異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地として、大正13年(1924)12月9日「史蹟名勝天然記念物保存法」により、吉野・桜川等と共に名勝に指定されました。この名勝指定には、小平村・小金井村・保谷村・武蔵野村の村長等を中心として大正2年(1913)に設立された「小金井保桜会」による官民一体となった保存活動が大きく寄与しました。
今では想像もできないほどの賑わいぶり。右手に見えるのが「柏屋」か?
「料亭 柏屋」跡。右のガソリンスタンド。
奥に祠が見えます。
明治天皇が花見をしたことを記念しての「行幸の松」のところで一休み。
行幸松と行幸松の碑
明治16年(1883)4月23日、明治天皇が御乗馬で、3人の親王とともに、小金井堤に観桜においでになられました。この名誉を後世に伝えるため、地元鈴木新田の有志が御座所跡に植えたのが行幸の松です。
19年後の明治35年(1902)、この松が見事に成長したので、海岸寺の住職玄格が地元有志とはかって、この松の由来を記した記念碑を松の傍に建立しました。
なお、行幸の翌年には英照皇太后、昭憲皇后が来られて小金井橋際の柏屋で、碑建立の翌年には皇太子時代の大正天皇が来られて海岸寺境内の野立て所で、それぞれ観桜されています。
(14:52)堤からは「玉川上水」の水面が所々、わずかに見えるだけ。
堤にはケヤキの古木が目立つ。
沿道で見かけた土蔵造り。
「茜屋橋」。
現在の茜屋橋は、昭和54年3月に建設されたもので、創設の橋は、明治初年に材木を3本かけ渡しただけの簡単な橋でありました。
茜屋橋の橋名は、明治の初め材木業を営む一方でこの辺一帯は「茜草」(染料)を盛んに栽培しており、その元締めの島田家を「茜屋」と呼んでいたことからこの名がついたといわれています。
平成4年度に行った玉川上水橋梁部整備では、桜名所の中にある橋として、桜や水や緑と馴染みながら調和するよう、高欄・親柱は、現在の擬木を活かして塗装等の補修をし、また歩道舗装などの改善も行いました。
(15:15)「喜平橋」からは、「玉川上水」の南側に移ります。
橋の上からの「玉川上水」。水量はほとんどありません。
「野村屋 小平喜平橋」「小平市」へ。
ここから「玉川上水」の流れは右手に。
「八左衛門橋」。「喜平橋」など人名にまつわる橋があります。
(15:28)「西武多摩湖線」とクロスします。線路沿いに右手に進むと、「一橋学園」駅。今回はここまでにします。
「喜平橋」付近の今昔
1880年代のようす。中央の「喜平橋」で上水の南側に移る(↓)。
2010年代のようす。分かりにくいが、「現五日市街道」も同様。
(14:09)郊外という雰囲気が出てきます。
冬景色なので桜並木の趣はありません。
車道と遊歩道の間に植えられ、「五日市街道」の交通量の増加、「玉川上水」の水量の減少などの影響で、いっときほどの勢いのない古木(ソメイヨシノではなく、江戸中期に植えられたヤマザクラ)が多い。そのため、各種のヤマザクラの若木が植えられています。ソメイヨシノではないのがすばらしい。江戸、明治、と長い年月に亘る、官民一体となって地元の方々の保存活動が展開されています。
桜樹接種碑
元文2年(1737)頃、桜が植えられた玉川上水堤は、しだいに桜の名所としてにぎわいを増してきました。しかし、百余年がたち老木化が進んだので、嘉永3年(1850)、代官大熊善太郎は、田無村・境新田・梶野新田・下小金井新田・鈴木新田に、互いに協力して補植するよう命じました。村々では、桜の苗木を持ち寄り、それぞれの持ち場に数百本を植え足しました。
この石碑は、嘉永4年3月、田無村の名主下田半兵衛が補植の経緯を後の世に伝えるとともに、桜樹が永久に植え継がれ、保護されることを願って建てたものです。石碑の表に「さくら折るべからず 槐(えんじゅ)宇道人(下田半兵衛)」、裏に無量老人(賀陽ーかやー玄節)撰の「桜樹接種の記」が刻まれています。
名勝小金井(サクラ)について
史跡玉川上水と名勝小金井(サクラ) 明治30年代
玉川上水堤の桜並木は、200年以上も前から花見の名所として知られ、全国的に有名な花見の名所でした。
日本屈指の桜の景勝地であること、ヤマザクラの天然変種が多数あること、大木が多いこと、という3つの特徴から、大正13年12月9日付けで「史蹟名勝天然記念物保存法」に基づき国の名勝に指定されています。
名勝小金井(サクラ)復活プロジェクト
花見の名所として知られた名勝小金井(サクラ)の景観は、江戸時代以来、大正13年の指定を経て昭和30年代までは、ヤマザクラの並木だけであり、法面や並木の林床は、様々な野草が自生する草地でした。
名勝小金井(サクラ)は、近年、交通量の増加やケヤキをはじめとする高木の成長等、生育環境が悪化したことにより、危機的な状態にあります。
これを踏まえ、小金井市は、平成22年3月、文化財保護法に基づく東京都水道局の「史跡玉川上水整備活用計画」(平成21年8月策定)に沿って「玉川上水・小金井桜整備活用計画」を策定し、東京都や市民団体と協働で、名勝小金井(サクラ)復活へ向けた事業を進めています。
後継樹の育成と補植
「サクラ並木復活」のため、市民団体と協働で、歴史的経緯に基づき、多様なヤマザクラの苗木を育成し、東京都に提供、補植を進めます。
(この項、「」HPより)
歌川広重『藤三十六景武蔵小金井』
《小金井桜のふるさと》
名勝 小金井桜の起源は元文2年(1737年)江戸幕府の新田開発の一環として玉川上水の両岸に植樹されたヤマザクラの並木です。奈良県の吉野山と茨城県桜川から取り寄せたとされる由緒ある桜です。
このヤマザクラの並木は、江戸時代から地元の農民たちにより守られてきましたが、幕府の代官たちも雑木の伐採や桜の苗木の補植を進めるなど、桜を守る努力を続けてきました。今、危機的状況にある国の名勝「小金井桜」を私たちの代で絶やすことなく、後世に引き継がなくてはなりません。
明治時代の有名な植物学者三好学博士の研究により、玉川上水堤の小金井桜のヤマザクラ並木は天然変種の一大集積地であることが明らかになりました。大正3年奈良の吉野山、茨城の桜川と一緒に名勝として指定されました。
《江戸時代》
元文2年(1737年徳川吉宗の時代)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎右衛門が吉野や桜川から山桜の名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。
文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。
《明治時代》
幕末の動乱期を経て、明治22年(1889年)に甲武鉄道(元JR中央線)が開通しました。当時、武蔵境と国分寺に停車場が置かれ、花見時期には鉄道会社は割引切符を発行、臨時列車を増発し東京から花見客を誘致して日曜日には数千人もの行楽客が訪れました。
玉川上水付近の新田農家はにわかに花見茶屋に変身し、一年分の農業収入に匹敵するほどの稼ぎを得て、地域経済は大いに潤いました。やがて甲武鉄道は国有化され、大正15年(1926年)に武蔵小金井駅が誕生しました。
(この項、「」HPより)
北側一帯に広がる「小金井公園」入口。
(14:31)「陣屋橋」。
江戸時代前期の承応3年(1654)、江戸の水道である玉川上水が完成した後、武蔵野の原野の開発が急速に進み、享保年間(18世紀前半)ころに、82か村の新田村が誕生しました。
この新田開発には、玉川上水からの分水が大きな役割を果たしました。この時、上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれ、「武蔵野新田世話役」に登用された川崎平右衛門定孝の手代(下役)高木三郎兵衛が常駐していました。
この陣屋から南真っ直ぐ小金井方面に通じる道が「陣屋道」、玉川上水に架かる橋が「陣屋橋」です。今の橋は、昭和48年に新設されたですが、もとの陣屋橋はここから数十㍍下流にありました。
また玉川上水両岸の小金井桜は、新田開発が行われた元文2年(1737)頃、幕府の命によって川崎平右衛門等が植えたものです。
「周辺案内図」。上の緑の部分が「小金井公園」。
この付近ではケヤキ並木になってしまいます。
「御成の松」跡。
玉川上水堤の桜並木(小金井桜)は、江戸近郊随一の花見の名所として知られ、多くの著名な文人墨客が訪れました。武士はしばしば騎馬で遠乗りを行い、文政9年(1826)には越前丸岡藩主有馬誉純(なすみ)、天保14年(1843)には老中水野忠邦等一行が花見に来ています。
天保15年(1844)旧暦2月25日(4月12日)、第13代将軍家定(当時世継ぎ)一行が花見に訪れました。家定側近の紀行文によると、当日はあいにくの大雨でしたが、家定は馬から下りて堤を歩き、御座所を設けて花見の宴を催しました。
この家定の御成りを記念して里人が御座所跡に1本の黒松を植え、「御成の松」とよばれてきました。見事な枝振りでしたが、惜しくも平成6年に枯れました。ここはその跡です。
(14:39)「小金井橋」。
「名勝 小金井櫻」碑。
この付近の今昔
1880年代のようす。○が「小金井橋」。「海岸寺」「真蔵院」などは現在も同じ位置。
2010年代のようす。北側に「小金井公園」。○にあるガソリンスタンドが当時の「料亭・柏屋」跡。