おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その3。関宿水閘門。旧水位観測所。圏央道。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-02-28 19:35:55 | 利根川を歩く

                    「関宿水・閘門」。手前が「水門」。奥が「閘門」

関宿水門(上)旧水位観測所。

中の島公園に隣接する「関宿水閘門」は,利根川から江戸川へ入る水量を調整する水門と,船の運航のために水位を調整する閘門となっています。建設工事は,江戸川流頭部の改修工事に伴い,1918(大正7)年に着工,1927(昭和2)年竣工しました。

現在,閘門機能は河川交通の衰退とともにその役目を終えました。

2003年には,社団法人土木学会がその歴史的価値と,利根川改修事業のシンボル的存在として,同学会推奨土木遺産に認定されました。

関宿水閘門概略図

利根川方向中の島公園概略図江戸川下流方向


関宿水門
大正7年に着手し,昭和2年に完成しました。

関宿閘門(こうもん)
閘門は現在、常時開いています。

旧水位観測施設
昭和38年~63年の25年間,水位を観測してきました。現在は水晶式観測機に代わっています。

(この項、「五霞町」HPより)

      水流が激しい。下流に向かって。

利根川方向。

利根川土手に。

                       「海から122㎞」。

筑波山。

前方に「圏央道」。

菜の花が開花間近。

圏央道が工事中。4車線化に伴う橋梁工事のようです。

圏央道(首都圏中央連絡自動車道)は、都心から約40~60キロメートルを環状に連絡する全長約300キロメートルの高規格幹線道路です。東名高速、中央道、関越道、東北道、常磐道、東関東道等の放射状に延びる高速道路や都心郊外の主要都市を連絡し、東京湾アクアライン、東京外かく環状道路などと一体となって首都圏の広域的な幹線道路網を形成しています。

(この項、「国交省関東地方整備局」HPより)

もう少し先まで土手を歩けそうです。

         

富士山(↓)。

浅間山。

ここまで来たら、「まむし注意」の看板が目立つように。上流編で見かけた看板。野田市まではなかったのですが。

舗装され、広い自転車道。快晴の下、しかし風に煽られ、歩行困難。

眼下の田園風景。

「海から124㎞」。

         

赤城山。

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東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その2。栗橋へ。中の島公園。江戸川。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-02-27 20:17:05 | 利根川を歩く

さて、栗橋へ歩き始めます。10㎞ほどなので、2時間半くらいで着くだろうと。

ところが、猛烈な北風に向かって進むので、土手の道はけっこうしんどい。さらに護岸工事中のため、通行止めがあって迂回するなどして思ったよりも時間がかかりました。

それでも、「利根川」歩きの初日の出発地まで到達。そして、東武日光線「栗橋駅」まで。

前方が利根川土手。

        前回は右手の堤を必死に駆け上がりました。

建物を回り込み、裏手へ。

               江戸川沿いの道に出ます。

江戸川と利根川の合流点まで道があるようです。博物館の係員に聞いたところ、工事用の道路があるが、今日はぬかるんでいて大変だと思う、とのこと。そこへは「江戸川歩き」の時に行くことにし、「中の島公園」へ。

この付近から、しばらくは「茨城県猿島郡五霞町」になります。

     

1880年代のようす。「権現堂川」以北が現在の五霞町区域になっています。

          

2010年代のようす。この付近は千葉県野田市、埼玉県幸手市・久喜市、茨城県五霞町と入り組んでいます。

筑波山。

赤城山と圏央道。

富士山。

江戸川下流方向。

橋を渡って中の島公園へ

利根川方向。

                     江戸川にある「関宿水閘門」と中の島公園。

旧国鉄・江戸川橋梁(復元)。

      

この橋は、1907(明治40)年に総武鉄道の小岩~市川間で横断する江戸川に3連の100フィートポニー形ワーレントラス橋として架橋されていた江戸川橋梁です。・・・日本の鉄道橋梁の歴史において貴重な土木遺産である・・・

       「江戸川の物語はここ中の島から始まる」解説板。

江戸川は、かつて太日川といわれ、渡良瀬川の下流部として東京湾に注いでいました。16世紀(※17世紀の誤り)の初め、徳川幕府は江戸を洪水から守り、新田開発を行うため、利根川東遷という大規模な流路付け替え工事を実施し、それまで東京湾に流れ込んでいた利根川を渡良瀬川とともに東方の鬼怒川に導き鹿島灘(太平洋)へ放流させました。この工事によって太日川は利根川の派川となり、また舟運の発展と共に江戸に通じる舟路として「江戸川」と呼ばれるようになったのです。

現在、江戸川は千葉県関宿町(現野田市関宿)、茨城県五霞村(現五霞町)で利根川から分かれ、東京湾に注ぐ全長55㎞の一級河川となり、その役割は、首都圏域の洪水防御とともに生活・工業用水等の水源、さらに都市部に残された貴重なオープンスペースとして重要な働きを担っています。

「中の島公園」。こぶしの花。

この先が、利根川との分岐点。

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東武線「川間駅」~「栗橋駅」。その1。関宿城博物館。(利根川を歩く。第18回目。)

2022-02-26 20:01:47 | 利根川を歩く

ということで、関宿城博物館を改めて訪問。そして、上流編の出発地・栗橋まで歩こうという算段。

2月23日(祝)。快晴。しかし、北風、猛烈に強し。

土手上は吹き飛ばされそうで、強風に向かっての歩行。途中、護岸工事の警備員さんから「風に飛ばされないよう、気をつけて下さいよ」と激励(注意)されます。

東武アーバンパークライン(東武野田線)「川間駅」からバスを乗り継ぎ、ようやく10時前に「関宿城博物館」に到着。さっそく城内へ。

                  

アプローチには、

蛇籠とは、災害復旧および河川改修の時に使われる工法の一つで、竹で亀甲状に編んだ円筒状の籠の中に自然石などを詰めて川底に入れ、川の流れを止めたり、弱めたりするものです。現在は素材は竹だけではなく、メッキをした鉄線で、護岸・根固め・水制・床止め・耐震・擁壁・排水といった、様々な目的で用いられています。蛇籠の名称の由来は、「形が蛇に似ているから」とか、「昔から川には蛇の伝説がつきものであったから」という説があります。

          

この小舟は、母屋より高く土を盛った「水塚」(みづか)の軒下に吊るして洪水避難用に使われたもの。

65歳以上は無料。検温や手指消毒、住所登録などしっかり行ってから館内に入場。

     

「暴れ川」利根川とは、治水工事など長年の闘いの歴史。そうした先人のようすが視覚的に解説されています。

明治時代の築堤工事。

江戸幕府による「利根川東遷」事業以前、以後のようす。開削工事進展による河川の変遷。海運による繁栄・・・。

 

     

舟運の拠点だった関宿河岸。積み荷を扱う商人が集まり、蔵が建ち並び、市場が開かれました。茶屋、旅籠、遊郭、賭場などもあった。 

利根川水運の主役として活躍した高瀬船の3分の1模型。

高い帆を掲げた高瀬船。河岸問屋としょうゆ蔵の風景も再現されている。利根川水運の発達で、野田・銚子のしょうゆ、佐原の酒、流山のみりんなどの産業が発達した。

  

          

関宿城の模型。

           利根川と逆川・江戸川に囲まれた平城。

関宿絵図。

4F・天守閣(展望台)に上がってみます。四方が見渡せます。

利根川の流れ。

        筑波山。

富士山。

      

         利根川に架かる橋は、「圏央道」。その奥に赤城山。

見学を終えて、栗橋に向かって歩くことに。

この施設は充実していて、なかなか見応えがありました。

アクセスとしては東武線・川間駅からのバスか車で来るしかない、と不便ですが。

そこで、「関宿城」について、「Wikipedia」によって。

関宿城

千葉県野田市関宿三軒家にあった日本の城である。室町時代簗田満助または簗田成助によって築かれたとされ、以降簗田氏嫡流の関宿簗田家の居城になったと伝わる。江戸時代には関宿藩の藩庁が置かれた。

・・・利根川水系等の要地であり、関東の水運を押さえる拠点であった。戦国時代には関東の中心部における最重要拠点であった。関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評した。

戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられた(関宿合戦)。北条氏康・氏政氏照父子が、上杉謙信佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を、3度に渡り攻撃。最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした。

建造物としては「御三階櫓」と呼ばれる天守状のが代用として建築され、1671年に再建された際には江戸城の富士見櫓を模して再建されたという。現在千葉県立関宿城博物館に御三階櫓を模した模擬櫓があるが、この模擬櫓は1995年に建てられたもので、城跡とは無関係な場所に建てられている。藩政時代に御三階櫓が築かれた場所は河川改修により旧状をとどめていない。

また、市内関宿台町にある元藩主久世家の菩提寺である実相寺の客殿は、文久2年(1862年)に坂下門外の変、また公武合体(または外交方針である航海遠略策)の失敗などの責任を問われ、失脚した前老中久世広周が謹慎した関宿城本丸新御殿の一部を明治4年(1871年)に移築したものと伝わり、市の名所となっている。    

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東武線「野田市駅」~「川間駅」。その3。関宿滑空場。境大橋。日光東往還。関宿城博物館。(利根川を歩く。第17回目。)

2022-02-25 19:54:29 | 利根川を歩く

                 

少し空が明るくなってきました。この分では雨に降られずに「関宿城」までたどり着けるか。

「海から115㎞」。

中洲のような砂地が目立ちます。

グライダーの姿(↓)

           方角からみて、江戸川河川敷にある「関宿滑空場」を飛び立ったようです。

空を飛ぶことが好きな愛好家が操縦するグライダーが飛んでいます。昭和45年(1970年)に運用を始めたわが国で面積が最大の公共用滑空場です。草地の滑走路は長さ1500m、幅100m。昭和63年(1988年)には「房総の魅力500選」にも選ばれています。2棟の格納庫に加え80人が宿泊できる施設があります。(「NPO法人関宿滑空場」HPより)

関宿の街並み。

     

「海から118㎞」。

        遠くに「関宿城博物館」が見えてきます。

「海から119㎞」。

左手遠くに「関宿城博物館」の天守閣。

       

境大橋。「海から120㎞」。

日光脇街道上の茨城県西地区と千葉県北西部を結ぶ重要な橋の1つで、橋長569.9m、幅員7mの連続プレートガーダー橋である。 1964年昭和39年)2月12日有料橋として供用開始1977年(昭和52年)10月20日無料開放されると同時に、橋の管理は茨城県知事が行っている。すぐ下流側には1973年(昭和48年)に完成の側道橋(境大橋歩道橋)がある。境町側の橋詰には国道354号と接続する変形交差点や道の駅さかい、さかいショッピングモール、温泉施設がある。野田市側には、関宿城を再現した千葉県立関宿城博物館や、利根川の江戸川ではなく銚子側に誘導し、江戸水害防止や水運の便を図った堤防棒出し跡がある。本橋の混雑緩和のため1990年平成2年)、下流側に下総利根大橋が建設された。

(この項、「Wikipedia」より)

※「日光脇街道」=「日光東往還」「日光東街道」

歴史
1616年に徳川家康が死去し日光東照宮へ埋葬された。その日光へ、歴代将軍が参拝を行うために使われた日光街道の脇街道として整備された道。別名を関宿道、多功道、久世街道、結城街道とも言われ、実際には御社参のほかに、参勤交代の大名通行路や物資の輸送など庶民の往来も多くあったよう。また、俳人小林一茶が旅した道としても有名である。
野田市役所入り口脇の案内板によると、『水戸街道(国道6号線)向小金付近を起点に北上、山崎から関宿を通り利根川を渡って境から結城など10の宿を経て雀宮(栃木県宇都宮市)で日光街道と合流する。17里14町(約70キロkm)の道のり…』とあり、現在、JR常磐線南柏駅西口からほど近い水戸街道と県道柏・流山線との交差点が日光東往還の起点になっており、信号機には「旧日光街道入口」の名が付されている。
宿場は山崎、中里、関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功の10ヶ所設けられ、街道には一里塚が設けられていた。

(「」HPより)

この街道も歩いてみたい街道の一つです。

これまで「日光街道(道中)」「日光例幣使街道・壬生道」「日光御成街道」「日光千人同心街道」と「日光」に関わる街道を歩いていますので、この街道が残りの一つ?

ここまで来て、「まめバス」の「関宿城博物館」の出発時間にぎりぎり間に合うかどうか、になってしまいました。写真を撮ったり、周囲を眺めたりする時間もなさそう。

橋のたもとから、お城に向かって一直線。

立入禁止の立て札も無視し、一枚も写真を撮らず、必死で城の崖を登り、出発1分前に何とか間に合いました。

次回、関宿城博物館を見学することに。疲れました!

土手から振り向いてパチリ。

この付近の今昔。

                     

1880年代のようす。「日光東往還」沿いに宿場町が形成されている。対岸には渡し舟で渡った。

中央に城の印がある。利根川から「逆川」が流れ、「江戸川」(右)と「権現堂川」(左)に分岐している。

     

2010年代のようす。「関宿城博物館」が上方に。河川整備により、権現堂川は江戸川・利根川とは分断されている。

利根川に架かる橋が「境大橋」。

権現堂桜堤が築かれたのは16世紀のことでした。昔からこの周辺は多くの川が複雑に交錯する地域で、たびたびの洪水に悩まされていました。特に、渡良瀬川からの大量の水を中川へ運んでいた権現堂川は暴れ川で、ひとたび大規模に決壊すると遠く江戸までが水浸しになったそうです。
 江戸時代、隅田川経由で東京湾へ注いでいた利根川は、大規模な開削工事によって渡良瀬川と合流させ、権現堂川を経て旧江戸川(太日川)から東京湾へ注ぎ込むルートへと変更されました。しかし、権現堂川は利根川の途轍もない水量を捌ききれません。洪水のたびに、何度も何度も高い堤防が作り直され、現在の桜堤ができあがりました。
 その後も利根川の東遷事業は続き、17世紀中ごろ約60年かかって利根川は銚子から太平洋に注ぐことになったのです。しかし、それでも権現堂川には捌ききれない水量が流れていたようで、たびたび水害が起こりました。結局、昭和初年に利根川と中川を結ぶ権現堂川は堰き止められ、「行幸(みゆき)湖」という調整池になりました。
 ・・・
(以上、「」HPより)

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東武線「野田市駅」~「川間駅」。その2。ハングライダー。下総利根大橋。ラジコン。利根川河川敷の火災。(利根川を歩く。第17回目。)

2022-02-24 20:14:20 | 利根川を歩く

                          「海から108.0㎞」。

眼下の野田市木間ケ瀬地区。「関宿城」はまだまだ遠い。

工事専用道路が続く。

足もとには咲き始めた菜の花。

上空にはハングライダーが

    悠々と旋回中。

うっすらと遠くに筑波山。

田園風景が広がる。

              

「海から110㎞」。

携帯電話無線塔? 防災無線塔?

気の毒なくらい、まばらな菜の花ですが。

            

「海から111㎞」。

          遠くに「下総利根大橋」が。

   

利根川を架橋し、茨城県坂東市と千葉県野田市を結ぶ有料道路です。当有料道路整備により、地域住民の生活圏の拡大、茨城千葉両県の交流増進、首都圏近郊農業の振興等により、地域の活性化に寄与しております。

(この項、「」HPより)

※開通後、30年間の有料期間ー普通車210円、大型車(I)320円、大型車(II)730円、軽車両等20円ーが終了し、1990年(平成2年)1月11日無料化になった。

      

薄日が差してきました。

眼下には住宅が増えてきます。                       

「海から113㎞」。

ラジコン飛行機の音が。

                  

小さい上、急速に旋回し、さらに急降下するので写真は難しい。目の前で見ると、結構大きいのですが。

        

護岸工事は随所で。

             右手、河川敷の道路。

・・・

昨日の利根川右岸(熊谷市妻沼・「刀水橋」付近)河川敷の火災。去年、「利根川」歩きで通ったところです。

河川敷には「妻沼ゴルフ場」があったはずですが、護岸工事のため閉鎖になり、雑草と所々に灌木が名残のように立っているのみでした。

利根川を歩いている印象では、中流付近では随所で護岸工事が大がかりに進められていて、工事車両も多く、作業員もたくさん作業しています。

この付近は、本格化な工事が始まっていなかったのか。

大きな人的・物的被害もなさそうなので、一安心です。

 「海から163.0㎞」ポスト。  

 (2021年10月の記事より)

少し下流にはグライダーが発着する「妻沼滑空場」がありますが、そこへの被害はなかったようです。

この付近が、今歩いている河川敷の一部のように枯れ草でいっぱいだったら、火が付けばあっというまに燃え広がったにちがいありません。

出火原因の究明が必要に思います。

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東武線「野田市駅」~「川間駅」。その1。芽吹大橋。ノスリ。海から105.0㎞。(利根川を歩く。第17回目。)

2022-02-23 19:53:34 | 利根川を歩く

                    対岸を望む。

2月19日(土)。午後から雨との予想もありましたが、利根川までやってきました。

前回の終了地点だった「野田スポーツ公園」までの「まめバス」の到着時間がうまく合わないので、野田市駅から岩井車庫に向かう「茨城急行自動車」に乗って「芽吹大橋南詰」まで。

約4㎞省略。その分、海から121㎞地点にある「関宿城博物館」まで歩けるか、と。

一方、「まめバス」の「関宿城博物館」出発時間に間に合わないと、前回同様、2時間近く待つことになります。そこで、最後は大慌て。

そんなバタバタの記録です。

               「芽吹大橋」。

     

岩井市莚打と野田市目吹を結ぶ県境の橋で、「(茨城・千葉)県道3号線」が通過。

※莚打は「ムシロウチ」と読む。

※「芽吹」は、地名としては野田市「目吹」。

茨城県・千葉県によって計画され、1958年昭和33年)に日本道路公団の管理する有料橋として供用を開始した。1968年(昭和43年)に茨城・千葉県に管理が移管され、通行料が無料となった。その後1985年(昭和60年)に下流側に歩行者用橋が建設されて開通した。開通前は古河市にある国道4号利根川橋取手市にある国道6号大利根橋まで大きく迂回しなければ東京方面に行くことができなかったが、本橋の開通によって都心までの所要時間が大幅に短縮された。これによって岩井市(現坂東市)周辺は東京圏向けのレタスハクサイなど近郊農業を中心とする農業によって大きく成長した。

その後、本橋の慢性的な混雑緩和のため1980年(昭和55年)に下流側に新大利根橋1990年(平成2年)に上流側に下総利根大橋が建設されたが、双方とも有料道路だったこと〈新大利根橋は2010年(平成22年)に、下総利根大橋は2020年(令和2年)に無料化〉、特に新大利根橋までは直線距離でも13 kmほど離れていること等から、交通量が大きく分散するまでには至っていない。(「Wikipedia」より)

芽吹大橋の開通は、昭和33年(1958)12月23日です。この日は東京タワーの完工式の日でもあるので、芽吹大橋と東京タワーは同い年ということになります。現在も坂東市と千葉県野田市との交通の要となっています。

橋が完成するまで当時の人々は、対岸の野田へ行くには利根川に何カ所かある渡し船を利用しており、とくに現在の小山地区にあった「小山の渡し」は人だけでなく自動車も輸送しました。小山の渡しは岩井と野田の間の路線バスの経路でしたので、バスは渡し場まで来るとそのまま渡し船に乗せて対岸へ輸送されましたが、バスが川へ転落する事故があってからは、岸壁でバスを降りて乗客のみが船に乗って川を渡るようになったそうです。

この付近は自然豊かで、ノスリの姿を見かけることもあります。

朝日を受ける利根川、千葉県側からは筑波山、茨城県側からは富士山を望める日もあり、利便だけではなく目も楽しませてくれる橋です。

(この項、「」HPより)

※「ノスリ」タカ科の鳥。(写真は「Wikipedia」より)

この付近の今昔。

1880年代のようす。上流の離れたところに渡し場がある。

2010年代のようす。左岸・右岸とも微高地となっている。

野田市目吹・筵打地区。

上流方向。

       「海から104.5㎞」。

「海から105.0㎞」。護岸関連工事が行われています。

上空にはモーターハングライダーのエンジン音が。(↓)

   左には、耕地が広がる。

振り返る。自転車道が続く。

       

今にも雨が降り出しそう。              

     

        対岸は、「坂東場外離着陸場」。何機ものハングライダーが離着陸しています。

(「Googleマップ」より)

晴れていれば気分は爽快なはずですが。風が穏やかな分、楽です。

     

 

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今日は、「にゃんにゃんにゃんこ」の日だそうで。

2022-02-22 20:39:30 | 世間世界

2022年2月22日。

「2」が5つも並ぶ日に。そこで、マスコミも「にゃん」「にゃん」「にゃん」「にゃん」「にゃん」と。

我が家にも猫が2匹。「ニャン」「ニャン」というわけです。

2才になった雌の「アンズ」と5ヶ月を過ぎた雄の「ソウタ」。

猫たちとのおつきあいもかれこれ40年以上に。最初は神社に小さな段ボールに入った、生まれたばかりの猫の兄妹。

「タロウ」と「モモ」。あわせて「桃太郎」。20年近く面倒を見てきました。友人から頼まれ、「育ててくれる」と言った息子も、もう40才を過ぎました。

次々に亡くなった後、娘夫婦の猫たちの面倒も見てきましたが(といっても、ほとんどかみさんの世話ですが)、その猫たちも年を取って亡くなり、と思っていると、新しく動物病院で預かっていた「アンズ」が。

一人じゃかわいそうといっているうちに、船橋に住む息子から「近所の家で保護されたようだ」と生まれて一ヶ月も経っていないような子猫を。

ということで、相変わらず猫たちとの生活が続いています。

しっぽが長い「ソウタ」は、やんちゃな男の子。家中を飛び回っています。今日も台所で。
 
 
さんざん遊んで、あとはグッスリ。体重は、すでに3.2㎏。
 
 
一方のしっぽがちぎれた「アンズ」は2才。小さい頃のかみつき癖もなくなり、おっとりと構えたお姉さんぶり。体重はソウタに抜かれて3.1㎏。とっくみあいをしても負けそうです。
 

 さっさと高いところへ。

 今朝の「朝日新聞」の1面の広告欄。

ヨーロッパ情勢が戦争の危険という緊迫している中、我が家は、のどかな一日です。

 

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旧台東区立坂本小学校校舎。関東大震災後建てられた「震災復興小学校」の一つ。

2022-02-21 20:25:13 | 震災復興小公園

今朝の「朝日新聞」都内版に「旧台東区立坂本小学校校舎解体」が掲載されていました。すでに廃校となっていましたが、その後どうするか、さまざまな意見があったようです。

ようやく暫定案ができ、結果的には解体して更地になるようです。

関東大震災後に建築された「復興小学校」の一つ。公園と一体化した「震災復興小公園」事業とは別に建てられた校舎です。

以前掲載したことがありますので、再掲します。

2013ー10ー27

 今回は、公園を伴わない「復興小学校」の一つで、現在も残り、活用されている校舎を訪ねました。「台東区立坂本小学校」。
 
ここで、「復興小学校」についてのおさらい。(以下「Wikipedia」参照。)

 復興小学校は、1923(大正12)年には発生した「関東大震災」後に復興事業の一環として建築された一連の小学校の総称です。
 関東大震災により、東京市立小学校は大きな被害を受け、全195校のうち無傷で残ったものは2校にすぎず、約2/3が倒壊・焼失しました。
 復興事業にあたり東京市は、不燃化構造とするため鉄筋コンクリート建築を採用しました。また、52の学校では、公園を併設するなどの試みも行われました(「震災復興52小公園)。
 復興小学校として建築された小学校は全部で117校。建設時期は1924年から1935年にかけての時期(多くは1928年頃までに完成)。
 なお、同時期に建設された鉄筋コンクリート造りの学校建築の中にも、厳密には復興小学校ではないものが含まれています。それらを「改築小学校」と呼びました。校舎の被害はさほど大きくなかったが、ついでなので鉄筋コンクリート建築によって建て直したというもの。更にそれ以外に、震災前には小学校として存在していなかったが、震災後に鉄筋コンクリート建築の校舎を新築して開校したものも含まれます。

復興小学校一覧
※以下のリストは復興小学校を網羅したものではない。

1925年(大正14年)建設
・明石小学校(中央区明石町1-15)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。北側に隣接していた公園の大半は失われたが、わずかながら残ってはいる。建築学会から重要文化財相当と指定されている。2010年8月9日から取り壊しが開始された。
 
1926年(大正15年、昭和元年)建設
・九段小学校(千代田区三番町16)
建設当時は「上六小学校」。2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。西側に隣接して東郷元帥記念公園がある。
・坂本小学校(台東区下谷1-12-8)
建設当時は「入谷尋常小学校」。小学校としては廃校になり、建物は2006年1月現在残されてはいるが、跡地利用が検討されており、解体される可能性もある。


1927年(昭和2年)建設
・元町小学校(文京区本郷1-1-19)
小学校としては1998年に廃校。南側には同時期に作られた元町公園が残されている。文京区が区施設の建設を計画したことから解体の懸念が強まっていたが、2010年段階ではその計画はたなざらしとなり、建物は耐震補強の上で2016年まで順天堂大学にレンタルされることになった。

1928年(昭和3年)建設

・阪本小学校(中央区日本橋兜町15-18)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。なお、本校は1873年に「第一大学区第一中学区第一番小学阪本学校」として開校した、都内最古の小学校のひとつであり、文豪谷崎潤一郎の母校としても知られる。北側に隣接して阪本町公園がある。
・十思小学校(中央区日本橋小伝馬町5-1)
小学校としては廃校になり、中央区の施設「十思スクエア」として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東側に隣接して十思公園がある。
・早稲田小学校(新宿区早稲田南町25)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京大空襲では4分の3が損害を蒙った。
・下谷小学校(台東区東上野)
1990年に清島小学校と統合し閉校。その後は、近隣にある岩倉高等学校の代用校舎としてなど、活用されている。

1929年(昭和4年)建設

・常盤小学校(中央区日本橋本石町4-4-26)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。西側に小規模ながら常盤公園が隣接している。
・泰明小学校(中央区銀座5-1)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。東北東側に小規模だが数寄屋橋公園が隣接している。
・城東小学校(中央区八重洲2-2-2)
建設当初は「京橋昭和小学校」。2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。

1930年(昭和5年)建設

・黒門小学校(台東区上野1-16-20)
2010年現在も小学校の現役校舎として使われている。
・明化小学校(文京区千石1-13-9)
2013年現在も小学校の現役校舎として使われている。2014年度には140周年を迎える。

1932年(昭和7年)建設

・広尾小学校(渋谷区東3-3-3)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。建築当時は校舎の隅に消防署が併設され、消防車用の車庫と望楼が組み込まれた(1947年に消防署は移転)。様式はインターナショナル・スタイル。

1934年(昭和9年)建設

・四谷第五小学校(新宿区新宿5-18-21)
2008年から、よしもとクリエイティブ・エージェンシー東京本部として使われている。日本におけるDOCOMOMO150選。改築小学校。

1935年(昭和10年)建設

・高輪台小学校(港区高輪2-8-24)
2008年現在も小学校の現役校舎として使われている。耐震性能などの向上を目指した全面改修工事が行われている。東京都選定歴史的建造物に認定されている。いわゆるモダニズム系のデザインであり、あまり古い建物には見えない。なお、本校校舎も狭義の「復興小学校」には含まれない(震災後に開校したため)。

建設時期不明

・京華小学校(中央区八丁堀3-17-9)
小学校としては廃校になり、中央区の施設「京華スクエア」として使われている
・窪町小学校(文京区大塚3丁目)
2006年現在も小学校の現役校舎として使われている。耐震性能などの向上を目指した全面改修工事が行われている。なお、本校校舎は狭義の「復興小学校」には含まれない(「改築小学校」にあたる)。


「言問通り」を挟んで。校舎の通り側に面した全景。

 上記に引用した「Wikipedia」とは少し異なっていて、1996(平成8)に廃校となってからも、区の施設として利用されており、現在は都の教職員組合や東京都美術館リニューアル準備室が入居して、現役中。
 ただ、外見からはあまり手を入れた様子もなく、このまま朽ち果てる(撤去、解体される)のを待つ、という感じがしないでもありませんが。

正門の門柱には、しっかりと校名が。

正面玄関。校章も残っていました。

階段室。

玄関のアーチ。

入口や階段室にアーチ状の造形を持つ。復興小学校のひとつの様式。

円柱が並ぶ外壁。

校庭側(南西側)から。コの字型の校舎配置。

体育棟?

東側の校舎側面。

校舎裏手の小道。
ツタ、雑草で覆われた建物。

あえて手を入れないのか。

しっかりした鉄筋造りの建物のようだ。

「都教組台東支部」とあった。

 
正門前の通り。向こうの広い道路が「言問通り」。右が入谷交差点。左へ行くと、JR鶯谷駅方向。

「言問通り」から入谷方向を望む。校舎の向こう遠くにスカイツリー。

 JR線からも近く、また、言問通りと国道4号線(昭和通り・日光街道)という交通量の激しい交差点から、道一歩入ったところにある、古き「近代」の趣。

1970年代のようす。○。
 
・・・
 
訪問してから9年の年月が経ちました。
 
今後の予定は、台東区によると、以下のようになるようです。保存して欲しいとの声もありましたが、結局、解体することになります。
 
・既存の校舎建物を除却した上で暫定的に広場として整備し、地域の交流や憩い、安全を創出します。
・敷地西側、南側の区道を拡幅し、地域の防災力を向上させます。
・敷地北側の都道(環状第3号線用地)の行政財産使用継続の解消を図ります。
 
<今後のスケジュール(予定)>
 令和3年度上期       広場整備の検討
   3年度下期~4年度  校舎解体、整備工事
   5年度         活用開始
 
こうしてまた一つ、伝統ある古い校舎がなくなります。上記の小学校の中にも既に役割を終えた校舎もあるようです。
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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その6。つくばエクスプレス。利根運河。大利根温泉。道標。野田スポーツ公園。

2022-02-20 20:22:14 | 利根川を歩く

         「柏市サイクリング道路」となります。遠くに柏市の街並み。

「海から91㎞」。          

       

「海から94㎞」。    

つくばエクスプレス。      

正面遠くに筑波山。         

「海から95㎞」地点。

            左は、「常磐自動車道」。

    「利根運河」水門。                           

利根運河                

「利根運河遊歩公園」。

                      解説板。利根川から江戸川までの水路が示されています。

利根運河の水門を回り込み、利根川の土手に。

右手にゴルフ場が広がっています。「クリアビューゴルフクラブ&ホテル」。

        

「海から97.5㎞」。

この先で土手の道は途切れてしまいます。

ホテル脇の道を通って「県道7号線」へでます。しばらくは県道歩き。

野田市まめバス停留所「大利根温泉」。

1958年(昭和33年)、住宅用ガス供給のために天然ガスを採掘したところ、温泉が湧出した。

1964年(昭和39年)に地産が経営に乗り出し、温泉プールやゴルフ場が併設するレジャー施設「大利根温泉チサンセンター」が開設された。1972年(昭和47年)には、後に「チサンホテル大利根」となる宿泊施設も誕生した。

しかし1980年代には源泉が枯渇し、現在は温泉の提供はしていない。

地産の経営破綻により、チサンホテル大利根は2005年(平成17年)10月11日に、ソラーレ ホテルズ アンド リゾーツ系列の「クリアビューゴルフクラブ&ホテル」となった。

ただし、ホテル前のバス停留所名は依然として「大利根温泉」となっており、当時の名残をとどめている。

(この項、「Wikipedia」より)

「福田郵便局」の角を右折し、「野田市立福田第一小学校」を過ぎた角に道標など石塔がたくさん置かれています。

   

左「下総国葛飾郡保木間 流山・東京道」    右「 右木野崎 左瀨戸・柏」  

※どちらも明治以降の道標で、右は明治10年建立、大正9年再建とあります。明治前の古い石塔もありますが、この付近の道路整備等でこうして一ヶ所に集められたようです。

のどかな田園風景。

右に曲がると、いきなり前方が開けてきて、利根川の土手になります。正面に筑波山。

       左がスポーツ公園、右がゴルフ場とグランド。

左側に「スポーツ公園」広場。

土手を望む。

「海から100.0K」。

河口(銚子港)からようやく「100㎞地点」に到達しました。もう少し感動深い標識かと思いましたが、・・・。

下流方向を望む。

少し先まで歩こうと思いましたが、強風にあおられてここで断念。

    「海から100.5㎞」。

 

ところで、この付近、利根川をはさんで対岸も野田市になっています。かつての流れに沿ったかたちです。                                         

2010年代のようす。右側の三日月状の部分が旧利根川の流路で、現在も野田市になっています。

      

1880年代のようす。大きく右に迂回している。

点線が「北相馬郡」(現茨城県常総市)と「東葛飾郡」(現千葉県野田市)との境。         

長い時間待って、午後4時半過ぎのまめバスに乗り、ようやく東武線「野田市駅」まで。

駅の周囲は「キッコーマン醤油」の工場や関連施設。

遠くに見えるのは、「もりのゆうえんち」の観覧車。

    

                      

ということで、海から100㎞までの総集編でした。

昨日(19日)。曇り空の下、「海から121㎞」地点の「関宿城博物館」まで歩きました。

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雨水(うすい)。2月19日(土)。三寒四温。朧月夜。雛飾り。ミニ・ダム。

2022-02-19 21:40:13 | 世間世界

                                  (写真は、「暦生活」より)

暦の上で今日が「24節気」の2番目「雨水」です。「立春」(2月4日)から数えて15日目ころ。3番目の「啓蟄」(3月5日)までの期間を指します。

『暦便覧』には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されている。実際は積雪のピークであり、それゆえ、この時節から寒さも峠を越えたと見ることもできる。(「Wikipedia」より)

※余談ですが、「新型コロナ感染症」第6波もようやくピークを迎えたようです。一方で、高齢者の感染増加や死者が増えています。かえって油断してはならない時期となっているようです。まさに自然現象の推移と同じかも知れません。

雨水(うすい)とは、降る雪が雨へと変わり、雪解けが始まる頃のこと。草木が芽生える頃で、雨水は農耕を始める時期の目安とされてきました。春一番が吹くのもこの頃ですが、本格的な春の訪れにはまだ遠く、時に大雪が降ったりもします。こうして三寒四温を繰り返しながら、本格的な春に向かいます。

※「三寒四温」=寒い日が三日ほど続き。その後四日間ぐらいは暖かくなること。これを繰り返しながら、だんだん春らしく、暖かくなる。この言葉は、もともと中国東北部や朝鮮半島北部で、冬の時期に、寒さと暖かさの周期を表す言葉として使われ、その後、日本に伝わりました。しかし、「西高東低」の気圧配置が続く日本の冬にはあてはまらないようです。

日本では早春になると低気圧と高気圧が交互にやってきて、低気圧が通過し寒気が流れ込んで寒くなった後、今度は高気圧に覆われて暖かくなり、周期的な気温の変化を繰り返すことが多くなります。このため、日本においての『三寒四温』という言葉は、寒暖の変化がはっきりと現れる春先に用いられるようになりました。

「七十二侯」で区切ると、

・初侯 2月19日〜2月23日頃

土脉潤起 つちのしょううるおいおこる

冷たい雪が暖かい春の雨に代わり、大地に潤いをあたえる頃。寒さもゆるみ、眠っていた動物も目覚めます。

・次侯 2月24日〜2月28日頃

霞始靆 かすみはじめてたなびく

霧やもやのため、遠くの山や景色がほのかに現れては消え、山野の情景に趣が加わる頃。春に出る霧を霞(かすみ)と呼び、夜の霞は朧(おぼろ)と呼ばれます。

朧月夜』作詞高野辰之、作曲岡野貞一

  1. 菜の花畠に、入日薄れ、
    見わたす山の、霞ふかし。
    春風そよふく、空を見れば、
    夕月かかりて、にほひ淡し。
  2. 里わの火影ほかげも、森の色も、
    田中の小路をたどる人も、
    かはづのなくねも、かねの音も、
    さながら霞める 朧月夜。                                           

朧月夜(おぼろづくよ、おぼろづきよ)

源氏物語』の登場人物。六の君、有明の君、尚侍君(かんのきみ)とも呼ばれる。

※「花宴」の巻で初めて登場し、以降、「葵」、「賢木」、「須磨」、「澪標」、さらに「若菜」上下などに登場する。

「朧月夜」は、大江千里和歌「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしく(似る)ものぞなき」を口ずさみながら源氏のもとに現れるところから物語が展開する。当時権勢を誇った桐壺帝の右大臣の六の君(六番目の娘)で、弘徽殿女御の妹という高貴な生まれだが、作中では珍しい艶やかで奔放な気性の女君である。

姉弘徽殿女御の産んだ東宮(後の朱雀帝)女御に入内する予定だったが、宮中の桜花の宴の夜に思いがけなくも光源氏と出会い、後に関係が発覚して入内は取り止めになる。葵の上の死後、右大臣は源氏と結婚させることも考えたが、弘徽殿女御が猛反対し、源氏自身も既に紫の上を妻にしていたため実現しなかった。

始め御匣殿別当として登華殿にあり、後に尚侍(ないしのかみ)となって弘徽殿に移る。その美貌と当世風で華やかな人柄から朱雀帝の寵愛を一身に受ける一方、源氏との逢瀬も密かに続けていた。朱雀帝は自身が源氏の魅力に及ばぬことを認め、朧月夜を責めなかったが、彼女との関係が発覚したことが右大臣と弘徽殿大后の怒りを買い、源氏須磨流しの一因となった。

源氏が須磨に流されていた時に父の太政大臣(元右大臣)が死去。朱雀帝退位の後に再び源氏と関係を持つが、最後は源氏にも告げずに院の後を追い出家、物語から退場する。

※「右大臣」は、源氏の政敵。源氏は、政敵の娘との恋愛関係になった。源氏が20歳のころ。

 (この項、「Wikipedia」参照)

・末侯 2月29日〜3月4日頃

草木萌動 そうもくめばえいずる

足もとや庭木の先にほんのりと薄緑に色づく芽が見られる頃。やわらかい春の日差しの中、草木が芽吹き、新しい命が生まれます。

(この項、「暦生活」HP等参照)

「雨水」にお雛様を飾れば良縁に恵まれるとされ、地方によっては、お雛様を飾る風習があるようです。

「雨水」を「あまみず」ととらえると、「墨田区役所」交差点にある、

ミニ・ダム」雨水を資源に活用しましょう。

雨水タンクの設置助成

墨田区が発信した雨水利用は、世界に広がっています。節水にも一役を買う雨水タンク、設置してみませんか?
雨水利用は……

  • まちに小さなダムをつくり、水源を確保します
  • 雨水を貯めるので、都市の水害防止につながります
  • 災害のとき初期消火の水や生活用水に使えます
  • ヒートアイランド対策として打ち水に使えます

(「墨田区」HPより)

たしかに街のあちこちで見かけます。

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その5。古利根沼。小堀の渡し。田中調整池越流堤。七里ヶ渡

2022-02-18 22:14:38 | 利根川を歩く

                    「海から77㎞」ポスト。

左の道は「県道170号」。

「利根川ゆうゆう公園」。

      オフロードのサイクリング コース。何人か練習しています。

この先には、サッカー場と野球場のほか、ピクニック テラスなどがあります。                 

「仲馬倶楽部」。 

遠くに日光連山。

「海から80㎞」。

突然、左下の道路際に「茨城県取手市」の標識が。ここまでの道筋は、「千葉県我孫子市」でしたが。

      

           正面の道路から右側一帯が取手市になります。どういうわけ?

実は、かつての利根川の流路にあたるのが、現在の「古利根沼」。

流路変更によって現在の利根川になりましたが、そのまま取手市の一部(小堀地区)が利根川をはさんで残っているわけです(↓)。川の付け替えが行われたことで、取手市(当時は取手町)の飛び地ができてしまったのです。

                                       (「今昔マップ」より)

また地名の「小堀」は「こぼり」ではありません。「 おおほり」です。「小」なの「大」という読みになるという不思議(地元の熱意?)。

       建物の向こうに「古利根沼」が広がっています。

        利根川に通じる水路が見えます。

   

      (「」HPより)

取手市役所などに出かけるにもオオゴト。近くの橋は「国道6号線」のみ。

小学校、中学校も取手市立の学校に通うことに。

学校に関してはあくまでも取手市の学区になります。 小学校は取手小学校、中学校は取手東中に通学することになります。(いずれも利根川の対岸) ただ、行政側で小堀地区への循環バスを走らせています。 小堀地区と取手駅や市民センター・取手小・取手東中を結ぶバスで、無料で乗車できます。 幼稚園に関しては義務教育ではありませんので、近隣のお好きな所へ。 取手市でも我孫子市でもOKです。 ちなみに、取手市には市立幼稚園がありますが、我孫子市には市立幼稚園がありません。 我孫子市内は全て私立幼稚園で、我孫子市民ならば我孫子市からの私立幼稚園への通園補助金が出ます。 (取手市民の場合は、仮に我孫子市内の幼稚園に通園しても、通園費などの補助は取手市の基準で適用されます。)

(この項、「」HPより)

循環バスだけではありません。渡船があります。

「小堀(おおほり)の渡し」の幟。

上流に向かいます。

「小堀(おおほり)の渡し」は、茨城県取手市内を結ぶ取手市営の渡船(とせん)(渡し舟・渡し船)です。利根川をはさみ、市内中心部と小堀(おおほり)地区を結び運航しています。

奥に「古利根沼」。

     旧利根川の土手跡が沼まで続く。

再び「千葉県我孫子市」に。

常磐線・上野東京ラインの鉄橋が間近に。重なるように「大利根橋」が向こうに。

      

                 「東我孫子カントリークラブ」。

「国道6号線(水戸街道)」・「大利根橋」。

左手遠くに「富士山」(↓)。

「海から86㎞」ポスト。

遠く、我孫子市の街並み。

しばらく行くと、土手の道は通行禁止に。その先は「田中調整池越流堤」。ここまでの堤防の高さより一段低くなっていて、堤防が頑丈に造られています。

実は広大な農地は貯水池の役割も担っているのです。

2019年の台風19号では利根川や荒川水域では大きな被害を受けました。その時、この一帯は、堤防を越境させ田畑に流し、下流への被害を少なくした、と。

せっかく丹誠込めて育てた稲などの野菜が、一瞬のうちに水没してしまうことは忍びない感じがしますが、利根川下流一帯の浸水被害を少なくするための施設として機能しています。

堤を下り、「二号排水路」沿いを進みます。

一羽のシラサギが。            

気がつくと、一般の(干拓した)田畑では、田畑の他に家屋が点在していますが、この地域には温室などの小さな工作物はありますが、家屋はまったく見当たりません。目的がはっきりしているわけです。

再び土手の道へ。

             

「海から89㎞」。

足もとの土手には菜の花がさきはじめています。この先、斜面には菜の花(もしかしたら「セイヨウカラシナ」? )が群生しています。本格的な開花にはまだ先のようですが。

          満開には見事な菜の花の群生に。

新大利根橋。

         

橋のたもとに。

七里ヶ渡跡

七里ヶ渡は、布施と戸頭(取手市)との間に設けられていました。

江戸幕府は元和2年(1616)8月、この地を関所の役割を兼ねた定船場としました。当時の渡船地点は明治13年作成の迅速測図、昭和31年頃の写真や当時の利用者の話等からこのあたりであったと推測されます。

幕府が江戸の防衛の意味から、利根川に橋をかけなかたこともあり、下総と常陸を結ぶ要衝としてこの七里ヶ渡は栄え、布施村には5軒の旅籠があって宿場町的な繁栄も見られました。また水戸街道の脇往還としての役割も果たしていたことから往来が多かったようです。

七里ヶ渡には布施河岸が併設されていました。当時、東北地方・利根川下流・霞ヶ浦沿岸の荷物は、利根川をさかのぼり、関宿を迂回して江戸に向かうのが常でした。それが上流に洲ができて船の往来が困難になったため、布施河岸で荷を下ろし、陸路で江戸川の加村河岸(流山市)へ運ぶようになりました。

明治23年に利根運河が開通すると、利根川をさかのぼってきた船は、利根運河を通じて江戸川に出るようになり、布施河岸の役目は終わりましたが、七里ヶ渡は昭和30年頃まで続けられました。

利根川上流河川事務所

     

今回は茨城県取手市、千葉県我孫子市・柏市にまたがる歩きでした。

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その4。若草大橋。木下・布佐河岸。手賀川。そして、天使のささやきの日。

2022-02-17 20:55:39 | 利根川を歩く

                     田園地帯が広がる。

対岸にある「大利根飛行場」。

印旛水門。

ここからは、1月22日(土)。

長門川

利根川と北印旛沼とを連絡する役割を果たす。それゆえ短区間ながら印旛沼水系全体に係る流域を擁し、印旛地域の水量調節に活用される治水上重要な河川である。事実上印旛沼唯一の流出河川となっている。(「Wikipedia」参照)

川面にはモーターボートが。

「海から67㎞」。

「生板鍋子新田」。何と読むのでしょうか?

「まないたなべこしんでん」。対岸の茨城県稲敷郡河内町にも同名の地名があります。「大徳鍋子新田」という地名も。由来は?

家並みが増えてきます。

「若草大橋有料道路」が間近に。

若草大橋有料道路につきましては,利根川の上流と下流に架橋されていた栄橋及び長豊橋の渋滞緩和を目的に,茨城県道路公社が有料道路事業により平成18年に建設し,その建設の際の借入金を,通行料金収入により償還することとしております。

(「」HPより)

       

左手遠くに雪に覆われた富士山が。

突然、銃声が聞こえてきます。猟銃でしょうか、河原で二人のハンターの姿。犬もしきりに吠えています。

       

「海から70㎞」。

                          標識の右奥遠くに富士山(↓)

「海から72㎞」「西」地区。

印旛郡栄町から印西市木下(きおろし)へ。しだいに市街地になってきます。

      

整備が進む河川敷。

「木下東」交差点。    

「海から74㎞」。

木下(きおろし)の町に入ってきます。「川魚料理 銚子屋」の看板が見えてきます。

           「←JR木下駅」・「木下河岸跡→」。

2010年の11月末、「木下街道」歩きでここに着きました。

「木下河岸跡」解説板」。

「木下街道」(現「市川・印西線」)は、江戸時代初期に行徳河岸(現市川市)と木下河岸(現印西市)を結ぶ往還として、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿がおかれました。人の行き来だけでなく、銚子方面から江戸日本橋の魚市場へと鮮魚を送る道としても重宝されました。貞享4年(1687)、松尾芭蕉は「鹿島紀行」の旅で木下街道を利用しました。

※「きおろし」は、伐採され河川で運ばれた材木を下ろしたことに由来するらしい。

現在の河岸のようす。

      上流方向。               

かつては印西の中心地(印西市役所の最寄りの鉄道駅は「木下駅」。)でしたが、今や「千葉ニュータウン」にお株を奪われた印象です。

北総線「千葉ニュータウン中央」駅前のようす。

「手賀排水機場」。

本施設は、国営手賀沼干拓事業により昭和31年に完成した排水機場です。降雨時には流域約160km2※1(柏市、印西市、我孫子市、鎌ケ谷市、白井市、流山市及び松戸市)から手賀沼に流入する洪水を手賀川の流末にて毎秒40m3※2で利根川へ強制排水することで、受益地3,400haを保全しており、近年では、流域の都市開発や道路等の浸水対策にも効果を発揮し、農地以外の社会共通資本の防災対策上も重要な施設となっています。

手賀川。

        遊覧船の船着き場もある。

手賀沼では、大きな干拓が2度行われている。第一干拓では、現在の下手賀川付近、第二干拓では今の手賀川北岸が埋められた。これにより、ほとんどが水田となり、残った部分が手賀川となった。

「今昔マップ」より、「干拓前後」。新田開発と住宅地化。

「海から75㎞」。

我孫子市に入ります。

 河川管理境界「←取手出張所 安食出張所→」。

「栄橋」が見えてきます。

「生(鮮魚)街道」の起点・網代場付近にある「馬頭観音堂」が眼下に。

「鮮魚街道」は、ここから終点・松戸河岸まで歩きました。(2020年9月)

解説板。

          布佐「利根川」河岸から松戸「江戸川」河岸までの道筋。

「鮮魚」の「せん」は、「魚」を三つ重ねたもの「鱻」が本字。

もともと急流箇所である布佐・布川間の狭窄部下流にあたり、海から昇る魚が一旦留まるため、網、投げ網の漁場となりました。後に水運の発達と共に船着場も出来て栄えました。  

現在は、網代場もすっかり住宅地になってしまい、「観音堂」だけが唯一面影を宿すのみです。

※網代(あじろ)

  1. 網の代わりという意味。
  2. 定置網の漁場。また、いつも魚群が集まってくる場所。
  3. 湖や川に柴や竹を細かく立て並べ、魚を簀の中に誘い込んで獲る仕掛け。

栄橋。

上流を望む。

我孫子市のマンホール。

我孫子市のシンボルである「手賀沼」と、市の鳥「オオバン」、市の花「ツツジ」、をデザインしたもの。

オオバン

頭をフリフリ泳ぐ真っ黒い鳥    白い額がトレードマーク

                 (「Wikipedia」より)

     

今回の掲載地図(部分)。

 

ところで、

今日、2月17日は、天使のささやき記念日」。天使のささやき=ダイヤモンドダスト

1978年(昭和53年)2月17日北海道幌加内町母子里(もしり)で日本最寒記録の-41.2℃を観測したことを記念し、制定された。

日本では1902年(明治35年)1月25日北海道旭川市で-41.0℃を観測し、日本最低気温として気象庁に公式登録された。その76年後の1978年に北海道幌加内町母子里の北海道大学付属演習林近隣の気象観測施設で-41.2℃を観測した。わずか0.2℃差で日本最寒の地となったが気象庁の観測対象から外れているため認められず、非公式記録のままとなっている。

気象庁測候所が観測した記録であると確認された場合のみ日本最寒記録として認定される。今回の場合は気象庁の施設ではなかったため認定されなかった。

ダイヤモンドダストは、極寒の時期にいくつもの気象条件が揃ったときだけに出現する、美しい自然現象です。氷点下10℃以下の快晴の早朝に、無風状態で湿度があると水蒸気が急速に冷却されるため、雲になる前に氷の粒になります。空中で舞い散るこの無数の氷の粒が、日光に反射してキラキラと輝くことから命名されたようです。別名として「天使のささやき」などとも表現されています。

(「GoodDay北海道」HPより)

一方で、今日は、日本海側を中心に、大荒れの雪模様。ダイヤモンドダストという(神秘的な)雰囲気ではなさそうですが。

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その3。神崎大橋。道の駅発酵の里こうざき。圏央道。常総大橋。長豊橋。

2022-02-16 21:01:47 | 利根川を歩く

                            ハングライダー。

利根川上空を悠々と旋回中。

河川敷の発着場。

「神崎大橋」。

                       「海から49㎞」ポスト。

神崎町。 

対岸の東町。

遠くに「圏央道」の橋脚が。

「海から51㎞」ポスト。その先を左折して「道の駅発酵の里こうざき」に向かいます。                       

千葉県神崎町の「道の駅 発酵の里こうざき」は、全国初の「発酵」をテーマとした道の駅。地元をはじめ全国の発酵食品を取り揃えた「発酵市場」がユニークです。味噌や甘酒、それにお酒と品ぞろいも豊か。

創業300年を超える2軒の蔵元を中心に、酒、味噌、醤油など発酵文化で栄えた「神崎町」を具体的に表した道の駅です。

けっこう賑わっています。最寄り駅から歩くと遠いですが、もう一度来てみたい道の駅でした。

「圏央道」新利根川橋。

「海から54㎞」ポスト。

午後2時過ぎ。空を見上げると、成田空港に着陸する飛行機が増えてきます。

(↓)。

常総大橋が身近に。

「海から54.5㎞」ポスト。

   常総大橋。

この日はここで終わり、滑河駅に向かいました。

その後、1月8日に再開しました。

久々の雪景色になった関東地方。その2日後の「利根川」歩きでした。滑河駅下車。

土手下や周囲の家々、田畑は、まだ雪景色のまま。

       

「下総利根宝船公園」。             

上空には、ひっきりなしに飛行機が。

 「尾羽根川水門」。   

「海から57㎞」ポスト。

はるか遠くまで雪景色の田園地帯。

                  左下は「国道356号(利根水郷ライン)」。

     根木名川水門。

「海から59㎞」ポスト。

十日川排水機場。

「海から60㎞」ポスト。やっと60キロ進みました。

 

遠くから近づく飛行機。頭上を。

長豊橋。「海から61㎞」。

       

栄町に入ります。

左側一帯が工場地帯になります。「日本食研製造(株) 千葉工場」、「(株)紀文食品 東京工場」・・・。

工業団地が終わると、田園地帯が開けてきます。

「矢口スーパー堤防」標識。

記念碑が利根川右岸、国道356号 利根水郷ライン沿いの紀文工場の脇の小広場に石碑と説明板が設置されている、とのこと。

※工業団地が大きく広がっていたのは、この事業の一環。                                                                 

下流を振り返る。

        「ここから〈長豊橋にかけて〉矢口(やこう)スーパー堤防」。

大きく広がる田園地帯。

                       左奥に工業団地。

「海から64㎞」ポスト。

「栄町運動公園(「水と緑の運動広場」)」。奥には大きな野球場(ナイター設備完備)や多目的グランドなど。

堤防を望む。

「海から65㎞」ポスト。

       

今回の掲載地図(部分)。

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その2。小見川大橋。東関東自動車道。鹿島線。水の郷さわら。

2022-02-15 20:25:59 | 利根川を歩く

「海から27.0㎞」ポスト。

「小見川大橋」。

JR水郷駅の付近。「利根川」から「常陸利根川」=霞ヶ浦から流れ=にかけて、田んぼが広がっています。

                     2010年代のようす。                

正面遠くに筑波山。     

「海から32.0㎞」ポスト。

        「東関東自動車道・利根川橋」。その先には、                       

「鹿島線」の鉄橋。

来た道を振り返る。

          手前が「鹿島線」鉄橋。奥が「東関道」の橋脚。

香取駅に向かう電車。

利根川に架かる鉄橋。                

右手、対岸遠くに筑波山が見えています(正面奥)。

          川面には、たくさんの水鳥。

川辺に大きな鳥居。「浜鳥居・常夜灯・与謝野晶子歌碑」。

ここに建立されている常夜灯(香取市指定文化財)は、明和6年(1769)に三社参詣の講中の人々が航路の安全を祈願し香取神宮に奉納した。高さは2.8まり、利根川を行き交う船の目印となった。その傍らに、歌人与謝野晶子の歌碑がある。晶子はは、明治34年(1911)に銚子を訪れた際に津宮に立ち寄り、鳥居河岸の宿屋で歌を詠んだ。

かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋

与謝野晶子歌碑。

          

この先で、「国道356号線(利根水郷ライン)」が左手から近づいてきます。

 

           「海から37㎞」ポスト。

       

                    遠くに見える橋は、「水郷大橋」。

国道沿いの「道の駅」だけでなく、利根川を活かした「川の駅」という二つの施設があり、まとめて「水の郷さわら」。

※利根川水運を利用し、江戸との舟運により栄えた商都・佐原にオープンした「水の郷さわら」は、全国初となる「道の駅」と「川の駅」が一体となった複合施設。   

     

正面には、「たぬき島」。 

「海から39.5㎞」ポスト。

ここから新しい自転車道に。我孫子まで続くようです。

水郷大橋。

左手は「利根川両総水門」。

対岸は、茨城県稲敷市。

左手。田園地帯が広がる。

「海から42.0㎞」ポスト。                         

国道356号線(「利根水郷ライン」)。 

成田空港から飛び立つ飛行機が頻繁に頭上を通過(↓)。

             

「海から45㎞」表示。↓は流れる方向を示すもの。

神崎(こうざき)町に入る。             

「海から47㎞」ポスト。頭上にモーターパラグライダーのエンジン音。 

     

今回掲載した地図(部分)。                 

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利根川(河口~100㎞地点)。総集編。その1。銚子漁港。銚子大橋。利根かもめ大橋。利根川河口堰。

2022-02-14 20:29:23 | 利根川を歩く

                     「海から0.5㎞」標識。

やっと「海から100㎞」地点をクリアしたので、総集編を。

利根川

日本最大の流域面積をもつ。別名を「坂東太郎」。群馬県北部の大水上山に源を発し、徳川幕府の「利根川東遷事業」により、群馬、埼玉、千葉と関東平野を貫流し、銚子市から太平洋に注ぐ。その延長は322㎞で、日本で2番目の長さ。

※「322㎞」は、上越新幹線の東京駅から新潟駅までとほぼ同じ長さ。

※日本で最も長い河川は「信濃川」で、長さは367㎞。「甲武信岳」を水源とし、長野県を通り、新潟県新潟市の日本海へ注ぐ一級河川。ただし、「信濃川」と呼ばれるのは新潟県のみで、長野県の部分は「千曲川」と呼ばれる。第3位は北海道の「石狩川」。

JR総武本線「銚子駅」から銚子電鉄に乗り換え、「本銚子駅」で下車。ここから漁港まで歩き、スタート。

銚子港突端にある「千人塚」からの銚子漁港と利根川のようす。

銚子漁港に停泊するたくさんの大型船。水揚げなど活気のある時間帯を過ぎてしまいました。

   

しばらく進んだところにある「ミロツ鼻跡」碑の裏の岸壁に「0㎞」表示があったようです。

利根川河口に1962(昭和37)年に対岸の茨城県波崎町(現神栖市・かみすし)とを結ぶため、「銚子大橋」が架けられました。延長1450mは川面に架けられた橋では日本一の長さ。現在は、ハープ橋に架け替えられて観光名所になっています。冬は北風が冷たそう。

対岸を望む。

造船会社の船着き場からの「銚子大橋」。

         

「海から7.50㎞」ポスト。

               遠くに見える橋は、「利根かもめ大橋」。

土手の左側を走る「国道356号線(利根水郷ライン)」。「利根水郷ライン」は「国道356号」から分かれ、「県道170号」となり、我孫子市の「国道6号線(水戸街道)」に合流するまで、ほぼ90キロ、「利根川」沿いに進みます。

    

「海から9.5㎞」地点の先に、「利根かもめ大橋」。

             

堤防関連工事が進んでいます。

 「桜井浜」。     

上流側。

             鹿島臨海工業地帯の工場群が遠くに。

「海から14.0㎞」。      

銚子市の先は「東庄(とうのしょう)町」。

利根川に出ると、そこから「大利根サイクリングロード」が始まり、佐原まで続きます。

     

「海から16.0㎞」ポスト。

遠くに「利根川河口堰」完成年1971年)が見えてきます。   

     「18.0㎞」ポスト。

            河口堰に合わせて「利根川大橋」が併設されています。

     

「利根川治水百年記念」モニュメント。「川の流れと共に歩んだ地域の苦楽」「歴史の重み」を表現しています。

     

             「コジュリン公園」野鳥観察デッキ。

この付近の今昔。利根川の治水工事がいかに難工事、大工事であったかが分かります。

                                                                                                                               

2010年代のようす。上の流れは、常陸利根川。            1880年代のようす。水路が入り乱れている。     

左手に黒部川。

           

          

今回、掲載した部分(地図)。                 

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