(10:55)「国道16号線」をくぐります。
「国道16号線」は関東エリアの街道歩きではたびたびお目に掛かります。
■横浜を起点に町から町へ。関東圏をリング状に結ぶ幹線道路。
現在の国道16号は、全長約331km。横浜市を起点に、八王子市、大宮市、千葉市、木更津市、横須賀市を経て、再び横浜市に至る環状道路になっています。この経路は1962年に、路線指定されました。
都心より半径30km圏を走るこの幹線道路沿いには、国際貿易港やコンビナート、流通センターなどが多く、コンテナ等を積んだ大型車が頻繁に行き交います。その光景からも、国道16号は、わが国の産業の発展を支える象徴的な道路のひとつと言えます。
(HPより)
木更津、相模原、横田、横須賀と米軍基地(あるいは自衛隊基地)を結ぶ「軍用道路」というイメージが強いのですが。幹線道路だけあって、交通量は半端じゃありません。
なお、東京湾口に海上区間があり、観音崎(神奈川県横須賀市) - 富津岬(千葉県富津市)間は、海上を代替のフェリーで結ばれることにより、環状道路を形成しています。
起点と終点が同じ国道は、全国で二本しかないようです(この場合、横浜)。
もう一本は、「国道302号」=名古屋環状2号線と呼ばれる外環道路で、起点と終点が名古屋市中区。
(10:57)すぐ左手にりっぱな長屋門のあるおうち。
その先にもしゃれた門構えのおうちが。
京成「勝田台」駅・東葉高速鉄道の終点「東葉勝田台」駅が右手に。
雨も激しくなってきて、雨宿りがてら昼食を(11:10)。
あまりなじみのない「東葉高速鉄道」。「路線図」。
都心にも通じているようです。
再開。(12:00)しばらく進んだ左手に常夜燈や道標が建っています。
解説板。
成田道道標と常夜燈
これらの石塔群は、成田山新勝寺に参拝する旅人のために建てられたもので、向かって右側の道標は、歌舞伎の名優である七代目市川團十郎が、天保2年(1831)に建立し、ここから北150㍍に所在する加賀清水を「天はちち 地はかかさまの 清水かな」と詠んだ句と成田山への信心が記されています。
中央の道標は、明治27年に信集講社の岩田長兵衛が建てたもので、成田街道沿いに5基確認されています。
左側の道標は江戸の豪商・古帳庵夫妻が天保11年(1840)に大和田原の情景を詠んだ自作の句を刻んで建てられました。3基の道標は、当初は現在の場所から西側の道路角にあったものを移設しました。
中央奥の常夜燈は、文政10年(1827)に加賀清水の水を汲み、茶を振る舞って繁盛していた林屋の前に建てられ、今も当時も同じ場所にあります。林屋は、『三峰山道中図絵』(明治4年)に描かれ、「御贔屓の惠も厚きはやしやと人にたてられ石の燈籠」と詠まれており、当時の賑わいがうかがえます。
《補足》
右側の道標
・正)成田山道 是より北へ半丁清水原中有
右)天はちち地はかかさまの清水可那 七代目市川団十郎敬白
中央の道標
・正)成田山 信集構社内 岩田長兵衛
右)大和田□里 いの新田
左)うす井□里 いの新田
左側の道標
・古帳庵・古帳女の句碑
正面)船橋へ四里 成田山五里半
春駒やここも小金の原つつき 江戸小網町 古帳女
立ちとまりたちとまる野や舞雲雀 古帳庵
(この項、「旧成田街道・・・・沿道にある石造道標一覧」HPより)
注:現在の「加賀清水」は、この手前の路地を奥に進んだところにあるようです(「加賀清水公園」)。
市川団十郎と成田
・・・
市川団十郎と成田の関わりは,下総国幡谷村(現成田市)に曽祖父堀越十郎が移り住んだことからと考えられている。十郎は,もと甲斐国武田家の家臣で,のちに相模国小田原城の北条氏康の家臣となった。その後小田原落城(1590(天正18)年)後に幡谷に移り農民となった。その後,十郎の子の重右衛門が継いだが,その長男重蔵は農業を嫌い江戸に出,そこで生まれたのが初代団十郎であるといわれる。
・・・
初代団十郎は12歳で歌舞伎の道に入って以来,見る間に名声を高めていったが,子宝に恵まれなかった。悩みぬいた初代は,父の故郷に近く,以前より信仰していた成田山新勝寺の本尊不動明王に祈願し,1688(元禄元)年,長子九蔵(二代目団十郎)を授かることができた。『新修成田山史』によると,1695(元禄8)年,初代は仏恩に報謝するため不動明王に扮し,その2年後には九蔵に通力坊の役を勤めさせ,父子共演した。この時以後成田屋の屋号を称したとある。その後も代々,不動明王を演じるなど,成田山との縁を深めた。
・・・
七代目は,五代目の孫。10歳で団十郎を襲名し,1811(文化8)年の頃には市川宗家を担う役者となり,翌年には不動明王を演じている。文政年間(1818-1830年)には,成田山境内で奉納芝居を2回,額堂の寄進,朱塗りの三つ組み大盃の寄進などを行なった。1832(天保3)年,八代目に名を襲名させて,自分は海老蔵を名乗った。ところが,1842(天保13)年,天保改革の奢侈禁令に触れ,江戸十里四方追放となり,一時成田山内の延命院に蟄居した。その間,成田の人々に芝居や俳句などを教え,近在を巡り歌や句を残した。その中に,幡谷村を訪れての句もある。
(この項、「」HPより)
先に進みます。
桜並木のある「のびのび公園」。
「上座」という地名が出てきます。「296」は国道の路線番号。
(12:25)「ユーカリが丘」となります。
高層マンションやショッピングモールなどが立ち並んでいます。また、モノレールが走っています。
しばらく雨宿り。
(12:42)駅前を過ぎると、道はゆるやかな上り坂に。
竹藪。
よく整えられた樹木のあるおうち。
(12:57)坂道を上がりきった右手に「上座公園」の深い緑。
今度は「手繰川」への急坂を下ります。
前方が開けてきます。高台に住宅地。
振り返る。
眼下に田園地帯が広がります。小雨に煙る田畑。
(13:09)「手繰川」。
四街道市中央付近の市街地に源を発し北流して「西印旛沼」に合流。
ところで、「手繰」の読みは? です。
急坂を振り返る。
「国道16号線」は関東エリアの街道歩きではたびたびお目に掛かります。
■横浜を起点に町から町へ。関東圏をリング状に結ぶ幹線道路。
現在の国道16号は、全長約331km。横浜市を起点に、八王子市、大宮市、千葉市、木更津市、横須賀市を経て、再び横浜市に至る環状道路になっています。この経路は1962年に、路線指定されました。
都心より半径30km圏を走るこの幹線道路沿いには、国際貿易港やコンビナート、流通センターなどが多く、コンテナ等を積んだ大型車が頻繁に行き交います。その光景からも、国道16号は、わが国の産業の発展を支える象徴的な道路のひとつと言えます。
(HPより)
木更津、相模原、横田、横須賀と米軍基地(あるいは自衛隊基地)を結ぶ「軍用道路」というイメージが強いのですが。幹線道路だけあって、交通量は半端じゃありません。
なお、東京湾口に海上区間があり、観音崎(神奈川県横須賀市) - 富津岬(千葉県富津市)間は、海上を代替のフェリーで結ばれることにより、環状道路を形成しています。
起点と終点が同じ国道は、全国で二本しかないようです(この場合、横浜)。
もう一本は、「国道302号」=名古屋環状2号線と呼ばれる外環道路で、起点と終点が名古屋市中区。
(10:57)すぐ左手にりっぱな長屋門のあるおうち。
その先にもしゃれた門構えのおうちが。
京成「勝田台」駅・東葉高速鉄道の終点「東葉勝田台」駅が右手に。
雨も激しくなってきて、雨宿りがてら昼食を(11:10)。
あまりなじみのない「東葉高速鉄道」。「路線図」。
都心にも通じているようです。
再開。(12:00)しばらく進んだ左手に常夜燈や道標が建っています。
解説板。
成田道道標と常夜燈
これらの石塔群は、成田山新勝寺に参拝する旅人のために建てられたもので、向かって右側の道標は、歌舞伎の名優である七代目市川團十郎が、天保2年(1831)に建立し、ここから北150㍍に所在する加賀清水を「天はちち 地はかかさまの 清水かな」と詠んだ句と成田山への信心が記されています。
中央の道標は、明治27年に信集講社の岩田長兵衛が建てたもので、成田街道沿いに5基確認されています。
左側の道標は江戸の豪商・古帳庵夫妻が天保11年(1840)に大和田原の情景を詠んだ自作の句を刻んで建てられました。3基の道標は、当初は現在の場所から西側の道路角にあったものを移設しました。
中央奥の常夜燈は、文政10年(1827)に加賀清水の水を汲み、茶を振る舞って繁盛していた林屋の前に建てられ、今も当時も同じ場所にあります。林屋は、『三峰山道中図絵』(明治4年)に描かれ、「御贔屓の惠も厚きはやしやと人にたてられ石の燈籠」と詠まれており、当時の賑わいがうかがえます。
《補足》
右側の道標
・正)成田山道 是より北へ半丁清水原中有
右)天はちち地はかかさまの清水可那 七代目市川団十郎敬白
中央の道標
・正)成田山 信集構社内 岩田長兵衛
右)大和田□里 いの新田
左)うす井□里 いの新田
左側の道標
・古帳庵・古帳女の句碑
正面)船橋へ四里 成田山五里半
春駒やここも小金の原つつき 江戸小網町 古帳女
立ちとまりたちとまる野や舞雲雀 古帳庵
(この項、「旧成田街道・・・・沿道にある石造道標一覧」HPより)
注:現在の「加賀清水」は、この手前の路地を奥に進んだところにあるようです(「加賀清水公園」)。
市川団十郎と成田
・・・
市川団十郎と成田の関わりは,下総国幡谷村(現成田市)に曽祖父堀越十郎が移り住んだことからと考えられている。十郎は,もと甲斐国武田家の家臣で,のちに相模国小田原城の北条氏康の家臣となった。その後小田原落城(1590(天正18)年)後に幡谷に移り農民となった。その後,十郎の子の重右衛門が継いだが,その長男重蔵は農業を嫌い江戸に出,そこで生まれたのが初代団十郎であるといわれる。
・・・
初代団十郎は12歳で歌舞伎の道に入って以来,見る間に名声を高めていったが,子宝に恵まれなかった。悩みぬいた初代は,父の故郷に近く,以前より信仰していた成田山新勝寺の本尊不動明王に祈願し,1688(元禄元)年,長子九蔵(二代目団十郎)を授かることができた。『新修成田山史』によると,1695(元禄8)年,初代は仏恩に報謝するため不動明王に扮し,その2年後には九蔵に通力坊の役を勤めさせ,父子共演した。この時以後成田屋の屋号を称したとある。その後も代々,不動明王を演じるなど,成田山との縁を深めた。
・・・
七代目は,五代目の孫。10歳で団十郎を襲名し,1811(文化8)年の頃には市川宗家を担う役者となり,翌年には不動明王を演じている。文政年間(1818-1830年)には,成田山境内で奉納芝居を2回,額堂の寄進,朱塗りの三つ組み大盃の寄進などを行なった。1832(天保3)年,八代目に名を襲名させて,自分は海老蔵を名乗った。ところが,1842(天保13)年,天保改革の奢侈禁令に触れ,江戸十里四方追放となり,一時成田山内の延命院に蟄居した。その間,成田の人々に芝居や俳句などを教え,近在を巡り歌や句を残した。その中に,幡谷村を訪れての句もある。
(この項、「」HPより)
先に進みます。
桜並木のある「のびのび公園」。
「上座」という地名が出てきます。「296」は国道の路線番号。
(12:25)「ユーカリが丘」となります。
高層マンションやショッピングモールなどが立ち並んでいます。また、モノレールが走っています。
しばらく雨宿り。
(12:42)駅前を過ぎると、道はゆるやかな上り坂に。
竹藪。
よく整えられた樹木のあるおうち。
(12:57)坂道を上がりきった右手に「上座公園」の深い緑。
今度は「手繰川」への急坂を下ります。
前方が開けてきます。高台に住宅地。
振り返る。
眼下に田園地帯が広がります。小雨に煙る田畑。
(13:09)「手繰川」。
四街道市中央付近の市街地に源を発し北流して「西印旛沼」に合流。
ところで、「手繰」の読みは? です。
急坂を振り返る。