おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その3。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-03-29 19:34:36 | 佐倉街道
                            (10:55)「国道16号線」をくぐります。
 「国道16号線」は関東エリアの街道歩きではたびたびお目に掛かります。

■横浜を起点に町から町へ。関東圏をリング状に結ぶ幹線道路。
 現在の国道16号は、全長約331km。横浜市を起点に、八王子市、大宮市、千葉市、木更津市、横須賀市を経て、再び横浜市に至る環状道路になっています。この経路は1962年に、路線指定されました。
 都心より半径30km圏を走るこの幹線道路沿いには、国際貿易港やコンビナート、流通センターなどが多く、コンテナ等を積んだ大型車が頻繁に行き交います。その光景からも、国道16号は、わが国の産業の発展を支える象徴的な道路のひとつと言えます。
HPより)

 木更津、相模原、横田、横須賀と米軍基地(あるいは自衛隊基地)を結ぶ「軍用道路」というイメージが強いのですが。幹線道路だけあって、交通量は半端じゃありません。

 なお、東京湾口に海上区間があり、観音崎(神奈川県横須賀市) - 富津岬(千葉県富津市)間は、海上を代替のフェリーで結ばれることにより、環状道路を形成しています。

 起点と終点が同じ国道は、全国で二本しかないようです(この場合、横浜)。
 もう一本は、「国道302号」=名古屋環状2号線と呼ばれる外環道路で、起点と終点が名古屋市中区。


(10:57)すぐ左手にりっぱな長屋門のあるおうち。

その先にもしゃれた門構えのおうちが。


京成「勝田台」駅・東葉高速鉄道の終点「東葉勝田台」駅が右手に。
                                   雨も激しくなってきて、雨宿りがてら昼食を(11:10)。

あまりなじみのない「東葉高速鉄道」。「路線図」。

都心にも通じているようです。

 再開。(12:00)しばらく進んだ左手に常夜燈や道標が建っています。
解説板。
成田道道標と常夜燈
 これらの石塔群は、成田山新勝寺に参拝する旅人のために建てられたもので、向かって右側の道標は、歌舞伎の名優である七代目市川團十郎が、天保2年(1831)に建立し、ここから北150㍍に所在する加賀清水を「天はちち 地はかかさまの 清水かな」と詠んだ句と成田山への信心が記されています。
 中央の道標は、明治27年に信集講社の岩田長兵衛が建てたもので、成田街道沿いに5基確認されています。
 左側の道標は江戸の豪商・古帳庵夫妻が天保11年(1840)に大和田原の情景を詠んだ自作の句を刻んで建てられました。3基の道標は、当初は現在の場所から西側の道路角にあったものを移設しました。
 中央奥の常夜燈は、文政10年(1827)に加賀清水の水を汲み、茶を振る舞って繁盛していた林屋の前に建てられ、今も当時も同じ場所にあります。林屋は、『三峰山道中図絵』(明治4年)に描かれ、「御贔屓の惠も厚きはやしやと人にたてられ石の燈籠」と詠まれており、当時の賑わいがうかがえます。
                          

《補足》
右側の道標
・正)成田山道 是より北へ半丁清水原中有
 右)天はちち地はかかさまの清水可那 七代目市川団十郎敬白

中央の道標
・正)成田山     信集構社内 岩田長兵衛
 右)大和田□里 いの新田
 左)うす井□里 いの新田

左側の道標
・古帳庵・古帳女の句碑
正面)船橋へ四里 成田山五里半
春駒やここも小金の原つつき    江戸小網町 古帳女
立ちとまりたちとまる野や舞雲雀     古帳庵

(この項、「旧成田街道・・・・沿道にある石造道標一覧」HPより)

 注:現在の「加賀清水」は、この手前の路地を奥に進んだところにあるようです(「加賀清水公園」)。

市川団十郎と成田
・・・
 市川団十郎と成田の関わりは,下総国幡谷村(現成田市)に曽祖父堀越十郎が移り住んだことからと考えられている。十郎は,もと甲斐国武田家の家臣で,のちに相模国小田原城の北条氏康の家臣となった。その後小田原落城(1590(天正18)年)後に幡谷に移り農民となった。その後,十郎の子の重右衛門が継いだが,その長男重蔵は農業を嫌い江戸に出,そこで生まれたのが初代団十郎であるといわれる。
・・・
 初代団十郎は12歳で歌舞伎の道に入って以来,見る間に名声を高めていったが,子宝に恵まれなかった。悩みぬいた初代は,父の故郷に近く,以前より信仰していた成田山新勝寺の本尊不動明王に祈願し,1688(元禄元)年,長子九蔵(二代目団十郎)を授かることができた。『新修成田山史』によると,1695(元禄8)年,初代は仏恩に報謝するため不動明王に扮し,その2年後には九蔵に通力坊の役を勤めさせ,父子共演した。この時以後成田屋の屋号を称したとある。その後も代々,不動明王を演じるなど,成田山との縁を深めた。
・・・
 七代目は,五代目の孫。10歳で団十郎を襲名し,1811(文化8)年の頃には市川宗家を担う役者となり,翌年には不動明王を演じている。文政年間(1818-1830年)には,成田山境内で奉納芝居を2回,額堂の寄進,朱塗りの三つ組み大盃の寄進などを行なった。1832(天保3)年,八代目に名を襲名させて,自分は海老蔵を名乗った。ところが,1842(天保13)年,天保改革の奢侈禁令に触れ,江戸十里四方追放となり,一時成田山内の延命院に蟄居した。その間,成田の人々に芝居や俳句などを教え,近在を巡り歌や句を残した。その中に,幡谷村を訪れての句もある。

(この項、「」HPより)

 先に進みます。
桜並木のある「のびのび公園」。

「上座」という地名が出てきます。「296」は国道の路線番号。

(12:25)「ユーカリが丘」となります。

                          

 高層マンションやショッピングモールなどが立ち並んでいます。また、モノレールが走っています。
 

しばらく雨宿り。

(12:42)駅前を過ぎると、道はゆるやかな上り坂に。

竹藪。

よく整えられた樹木のあるおうち。

(12:57)坂道を上がりきった右手に「上座公園」の深い緑。 

                                 

今度は「手繰川」への急坂を下ります。

前方が開けてきます。高台に住宅地。

                          振り返る。 

眼下に田園地帯が広がります。小雨に煙る田畑。

(13:09)「手繰川」。
                            四街道市中央付近の市街地に源を発し北流して「西印旛沼」に合流。

ところで、「手繰」の読みは?     です。

急坂を振り返る。
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新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その2。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-03-28 20:02:22 | 佐倉街道

                相変わらず小雨。「大和田」付近。
 屋根はかつては茅葺屋根だったようで、街道を歩いていると、たまに見かける屋根の格好をしています。


(10:25)「庚塚」バス停。 

「市役所(八千代市)入口」交差点を過ぎた左手に「さわ田茶家」。

                

 さわ田茶家の建物は、戦後初代首相東久邇稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)殿下が、昭和初期に別邸として市川真間に建立したものを、縁あって当家が譲り受け、一九六四年(昭和三九年)当地に移築し、住居として現在に至りました。
 気品ある重厚な入母屋造りと錦鯉が泳ぐ池を配した庭園づくりは、往時の日本人の心の豊かさを今に伝えます。
 一階は、黒光りの大黒柱と漆喰いの土壁、天井の太い梁、正目の板張りと回廊。
 二階は、書院造りの床の間と粋な欄間、移りゆく季節を伝える掛け軸と潤いの生け花。やわらかい日差しが差し込む障子と青畳。
 いずれも今は私達が忘れかけている日本人の旧き良き伝統文化の生活空間が、そこにあります。
 心和む至福のひとときをどうぞゆっくりとお過ごしください。

(この項、「」HPより)

入口に「無縁法界供養塔」。
無縁法界
① 仏語。法界の一切。無差別平等の一切をこめていった言葉。
② 縁もゆかりもないこと。また、その人。あるいは弔う親族のない亡者。

 その先、左手にある「長妙寺」に八百屋お七の墓があるようですが、門扉が閉まっていて省略。

 

 (10:35)「大和田三叉路」信号の手前左手に、大きな「明治天皇行在之処碑」があります。
                   旧本陣が置かれていたのでしょうか?

街道筋らしいおうち。


宿場特有の間口が狭く、奥行きのあるおうち。

                               整地された土地。

古びた道標? 

下り坂になって、「新川」に向かいます。

「時平神社」のある高台を振り返る。



                (10:51)「新川・大和田排水機場」。

「新川」「花見川」は印旛沼の排水路。「大和田排水機場」から上流を「新川」下流を「花見川」と称しています。地形的に複雑なのは、「新川」(=「印旛沼」)の方が「花見川」(=「東京湾」)よりも低地だということ。そこに「大和田排水機場」の役割があるようです。

 印旛沼
 およそ2万年前、海面が著しく低下していた際に形成された下総台地の侵食谷が起源で、縄文海進時には地盤沈降により溺れ谷となり香取海(古鬼怒湾)と呼ばれた海の一部であった。奈良時代頃には香取海の海退とともに、鬼怒川から洪水によって運搬された土砂が沼へ向って流れ込むなどして(三角州の形成が認められる)、次第に出口がせき止められ沼が形成された。
 江戸時代に入って、江戸の町を利根川の氾濫による水害から守るため行われた利根川東遷事業によって利根川の下流となり、周辺の村々は水害により大きな被害を受けるようになった。このため沼の水を現在の東京湾へ流すという掘割工事と、あわせて当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって干拓事業(新田開発)が行われた。
 享保9年(1724年)、平戸村(現在の八千代市平戸)の染谷源右衛門が着手したが失敗。次に、天明年間(1781年 - 1789年)老中田沼意次の時に計画され、工程の3分の2まで進捗したが天明6年(1786年)7月の大洪水と、田沼の失脚により中断された。
 江戸後期には老中水野忠邦による天保の改革の一環として開削事業が企図され、幕府財政基盤の再建を目標とした改革後半の天保14年(1843年)には勘定奉行の鳥居耀蔵を責任者として沼津藩、庄内藩、鳥取藩、秋月藩、上総貝淵藩の5藩に御手伝普請が命じられ、印旛沼から江戸湾に水路を開削する印旛沼堀割工事が行われた。
 この工事の背景には水害対策や新田開発や水運航路の開発など経済的な事情のほか、外国の軍船に江戸湾口を封鎖された場合に、江戸へどのように物資を供給するかという、対外危機への意識の高まりもあった。つまり、那珂湊-利根川-印旛沼-検見川-江戸という新しい水路の建設である。印旛沼の開発は各藩の多大な財政負担により進捗せず、天保の改革も上知令の頓挫による水野の罷免により中止され、印旛沼開発も弘化元年(1844年)6月に中止となり、江戸期における工事はいずれも成功しなかった。
 明治以降も織田完之による印旛沼干拓計画や、昭和放水路計画など、印旛沼の開発計画は次々と立てられたが、当初の治水・干拓を目的とした開発は、京葉工業地帯の造成と人口の増加に伴って利水を目的としたものへと変貌していく。印旛放水路(新川・花見川)が完成するのは1960年代末である。
 1969年(昭和44年)、水資源公団の開発により、沼中央部に面積 13.9 km2 の中央干拓地が造成され、約26 km2 あった沼の面積は2分の1以下に縮小している。
(以上、「Wikipedia」参照)

 

                 

(この図は「」HPより)
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新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その1。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-03-27 19:54:38 | 佐倉街道
                    「佐倉街道」第2日目。3/23(土)。冷たい雨。8:44

 今回は、歩いている間、雨が降っています。予定の佐倉まで行けるかどうか、雨宿りしながらの歩き。ほとんどが国道歩きで、行き交う車もたくさんの中で。ただ歩道がしっかりあるので安心。

街道沿いらしい、しゃれたお店。パン工房。


県立高校は、薬「園」台。市立小学校は薬「円」台。

路傍には「庚申塔」、石仏等。

(9:02)「船橋市立郷土資料館」脇に「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之処」碑。

注:「駐蹕(ちゅうひつ)」=〔蹕(さきばらい)を駐(とどめ)る意〕
 天子の行幸の途中、一時のりものを止めること。また、その地に滞在すること。駐駕(ちゆうが)。駐輦(ちゆうれん)。

解説板。
習志野地名発祥の地 附明治天皇駐蹕之処の碑
 現在の船橋市習志野台・習志野付近一帯は、かつて大和田原あるいは正伯原ともいわれ、江戸時代には幕府の牧(馬の放牧場)の一部でした。その後、明治7年(1874)から昭和20年(1945)までは陸軍の演習場でした。
 明治6年(1873)4月29日、明治天皇は徳大寺宮内卿・西郷隆盛・篠原国幹ほか多くの供奉者を従え、薩摩・長州・土佐の兵からなる四個大隊2800人の近衛隊を率いて、県下に初めて行幸されました。午後には船橋宿九日村に到着し、櫻屋で昼食をとられました。その夜は荒天にもかかわらず、演習地の幕営に野営されました。
 翌30日は近衛兵の演習をご覧になり、5月1日皇居へ還御されました。同13日天皇より勅諭をもって、この原に「習志野ノ原」の名を賜り、その後、陸軍の演習場として定められました。これが現在の「習志野」の地名の由来です。
 この碑は仙台石製で、大正6年(1917)に明治天皇が演習を統監された場所(船橋市習志野台4丁目431の3)に建てられましたが、平成6年6月に現在の場所に移転しました。碑文には地名を賜った由来が記されています。

「D51蒸気機関車」が展示されていたので、ついでにパチリ。

さらに「道標」が建っていたので。 
            「南 従是 千葉郡津田沼町。北 従是 千葉郡二宮村」と。昭和3年建立。元はJR「津田沼」駅前にあったようです。 

 明治6年4月末、今の習志野市、八千代市、船橋市などの一部も含まれていた「下総国大和田原」という広大な原野で陸軍の大演習が行われました。この際、演習を総監した明治天皇が後日大和田原を「習志野原」と命名しました。現在の自衛隊習志野駐屯地には、明治天皇の命名書が残されています。
 命名の由来の一説として、この大演習の時に、豪雨の中全体指揮をとった篠原国幹(くにもと)少将の指揮が見事だったので、明治天皇が「篠原を見習え」から「習え篠原」、「習志野原」になったという説があります。
 当時の陸軍大将はかの西郷隆盛でした。篠原国幹は薩摩藩の出身で、西郷の片腕となって薩英戦争、戊辰戦争を戦い、明治維新後は陸軍少将となって近代陸軍、近衛隊の創設に尽力した人です。
 この時の陸軍大演習は暴風雨の中で行われ、天皇自らも全身ずぶぬれになる中、篠原が指揮を執り、見事な奮戦ぶりを示しました。その後、天皇は篠原を召し、篠原に習えという意味から「今日よりこの地を習志野原と名付け、操練場と定む」と褒めたのが習志野の地名の由来といわれています。
 このように、“習志野”という名は、今の習志野市、八千代市、船橋市にまたがる広い地域を指す地名として名づけられたものです。お隣の船橋市に習志野台、西習志野という町名や新京成「習志野駅」、「北習志野駅」があったり、陸上自衛隊習志野駐屯地が習志野市域には所在せず、船橋市と八千代市の行政区域にまたがっていたりするのは、この“習志野”という地名を巡る歴史的経緯が影響しています。

  

(この項、「」HPより)

 1945年(昭和20)まで陸軍演習場として使用され、その後、陸上自衛隊、航空自衛隊に受け継がれ、現在に至っています。
「陸上・航空自衛隊習志野駐屯地」「習志野演習場」。

街道の右側に続いています。

                              

習志野台の今昔

1880年代のようす。現在の自衛隊駐屯地よりも西北に大きく広がっている。
                          斜めの道が「佐倉街道」。


2010年代のようす。右下が現在の自衛隊駐屯地。
                左下に「郷土資料館」。「佐倉街道」は同じ道筋。


左手にはなかなか趣のある「コーヒー店」。「星乃珈琲店」。

(9:39)「新木戸」交差点の角に「血流(ちながれ)地蔵道」という道標。

                              「解説板」。

 これは、貞福寺の本尊とされた「血流地蔵」を案内する道標です。江戸深川の人たちによって、享和3年(1803)にここ新木戸三叉路に建てられました。
 次のような銘文が刻まれています。
 (正面)血流地蔵道
 (左面)貞福寺
 (右面)右江 成田
     左江 江戸道
 (背面)江戸深川大工 □者中
      ・・・
 貞福寺は、ここから左に入り木下街道を4キロメートルほど進んだ吉橋にあります。
 吉橋には「吉橋城主高木伊勢守胤貞が後北条氏に滅ぼされたあと、主君の守り本尊を遺臣が血流地蔵として貞福寺にまつった」という伝承があります。
 この道標は、今まで上部だけがここに置いてあり、下半分は道路工事のために側溝の下に埋まっていました。
 八千代市郷土歴史研究会では、江戸時代の貞福寺参詣の貴重な資料であることに注目し、八千代市の平成12年度市民企画提案事業としてこの道標の下部を発掘し、形を整えて設置しました。向かい側の「成田山」道標とともに、交通史の重要な文化財として、後世に伝えていきたいと願っています。
 

 東葉高速鉄道「八千代緑が丘」駅への道を過ぎてしばらく進むと、馬頭観音などがまとまって設置されています。


(10:04)その先にも道標があります。「おたきさん道」。
                     船橋市金杉にある「御瀧不動尊(おたきふどうそん)」への道標。  

 昔懐かしいたたずまいのラーメン屋さん「ヨシベ-」。たしか錦糸町駅前にもあるはず。


ジャズが流れる静けさのある空間。気軽に立ち寄れて落ち着ける店内。
                                                (「ヨシベー」HPより)
冷たい雨が降る中、ひたすら歩き続けます。
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その7。「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-25 20:12:50 | 佐倉街道
                           「船橋大神宮(「意富比おおい神社」)」の北側の坂を上っていきます。
(13:19)「宮坂」。


街道筋らしいおうち。

この道は、「東金(御成)街道」となっています。

                          
東金御成街道
 九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した道路。船橋~東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。
          

菜の花が満開。

(13:42)「中野木」交差点を直進。

                        

 (13:52)しばらく進むと、「成田街道(佐倉街道)」との分岐点に。左手の角に「左 成田山道」と刻まれた大きな道標。
解説板。
御成街道(東金街道)について
 ・・・将軍や大御所がお通りになる=お成りになるというので、御成街道と呼ばれたと言います。

 (前原西1丁目)は 成田街道と東金街道との分岐点です。明治12年(1879)に成田山の信徒と地元前原の有志が建てた道標があり、前面には「左成田山道」と刻まれています。また、右側面は「成田山 従是房総街道」(東金街道を房総街道としています。)左側面には「成田山道」と刻まれています。・・・   

分岐点付近の今昔

1880年代のようす。当時は、「成田街道」の方が賑やかだった。


2010年代のようす。

左折してJR「総武線」を越えます。

 「成田街道(「国道296号線」)」を東、さらに北東に向かって進みます。

                             

(14:11)新京成線踏切を過ぎます。

手押しの井戸。この付近は地下水が豊富? 

木造の蔵造りがところどころに。

古びた「道標」? 

(14:34)右手にりっぱな長屋門のおうちが。

                         

「薬円(園)台」に入ります。

振り返る。

(14:45)今回はここまで。新京成線の「薬園台」駅に向かいます。

 ところで。表示は「薬台」なのか「薬台」なのか。

  

駅名は「薬園台」です。

                       

《まとめ》地名の由来
 薬園台の地名は、江戸時代に小石川(養生所)の薬草園がこの地に作られたことに由来している。薬草園では主に朝鮮人参などの漢方薬の栽培が行われていた。この薬草園は幕府の命を受けた幕府御医師並の丹羽正伯と同行した日本橋の薬種商桐山太右衛門によって設立されたことから、地元ではこの地域一体を別名正伯新田(しょうはくしんでん)と呼ぶ時もあり、戦前の地図にもその名称を見ることができる。また、薬円台公民館の近くにはこれを記念する「正伯公園」という名称の公園もある。
 1889年(明治22年)の町村制施行時には千葉郡二宮町大字薬園台となった。二宮町は1953年(昭和28年)、船橋市に編入され、当地は船橋市大字薬園台となる。1955年、船橋市の郊外地区の「大字」はすべて「町」に変更され、当地は薬園台町1・2丁目となった。
 1973年(昭和48年)の住居表示実施時に地名表記が「薬円台」に変更され、薬円台1〜5丁目となった。1988年には薬円台6丁目が成立し、現在に至る。現在では新京成線薬園台駅や千葉県立薬園台高等学校の名称などに旧地名の名残がある。
(この項、「Wikipedia」より)

 この説明では、どうして「園」が「円」になったのかは明らかではありません。そこで、「」より。
 
 1973年(昭和48年)新住居表示が施行され、実施時に地名表記が「薬円台」に変更されます。当時の建設省では、「町名は一般的に使われているできるだけ簡単な文字を」という方針から園→円に変わったのです。
 ただこの新住所表示以前から円の略表記はかなり広範囲で行われていたようで、「この付近一円が薬園台だったという意味を含めた」との説明もあるそうです。そのような背景もあり、町名の変更はほとんど異論なく行われたと思われます。
 これにより「市の管轄の施設」は全て「円」を表記することになりました。

 つまりまとめると以下のようになります。

 ◎1973年以前からあり、市の管轄でない施設は「園」
 ◎1973年以前からあり、市の管轄である施設は「円」
 ◎1973年以降にできた施設は「円」

道路沿いに見られる二種類の表記も何となく納得?
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その6。「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-22 18:50:01 | 佐倉街道

                                                
船橋宿
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、漁民の船を並べて橋渡ししたとの言い伝えからその名が付いたとされる船橋宿は九日市・五日市・海神村の三村によって構成された宿場町。徳川家の東金・佐倉方面の狩猟の際には、船橋御殿で宿泊した。
慶応4年(1868)船橋戦争により宿場の大半が焼失し、宿場についての資料が殆ど残っていない。九日市村の旅籠屋は株組織になっており、寛政11年(1799)には22軒、文化15年(1818)には25軒と増やした。大半は飯盛女を抱え、南側に並走する千葉街道と合間って、宿場の繁栄を裏で支えていた。

 今回、2年ぶりの訪問。中心街を東に進みます。

 一昨年に船橋に出掛けたときのブログです。再掲します。(2017/09/13)

 船橋は京成からJRに乗り換える時くらいしか降りたことがありません。街を歩くことは今まで、皆無。
 ちょっと用事ができて、そこまでの道すがら、「船橋発祥」の「海老川」付近を。


                  

その昔、市内を流れる「海老川」は、現在より川幅が広く、水量も多かったため、橋を渡すのが困難だったそうです。そこで、川に小さな舟を数珠つなぎに並べて上に板を渡し、橋の代わりにしたことから「船橋」という名がつきました。伝説では日本武尊が東征の折、海老川に船を並べ、その上に板を渡し橋を造ったといいます。
 現在は陸地ですが、「夏見干潟」と呼ばれる大きな入り江があり、湊として栄えていました。船橋の海は江戸時代、将軍家に新鮮な魚を献上する「御菜ケ浦(おさいがうら)」と呼ばれ、漁師町は大きな力をもって発展してきました。現・本町2~3丁目一帯の旧漁師町には、舟溜りの「舟町(ふなまち)」、寺が多い「寺町」、納屋が置かれていた「納谷(なや)」等の地名がありました。 江戸時代には、海老川を挟んで東側では5の日、西側では9の日に市が開かれたことから、それぞれ、五日市村(現宮本)、九日市村(現本町・湊町)と呼ばれていました。この二つに海神村(わたつみむら・現在はかいじんと読む)を加えたところを総称して、船橋村とか、船橋宿と言われていました。
 「海神」という地名の起こりは、日本武尊がこの地に上陸して入日(いりび)神社に神鏡を祀り、海の神として崇めたことにちなんでいます。
 「船橋大神宮」の北側の坂「宮坂」は東金街道の起点ですが、明治元年の戊辰戦争では激戦地となりました。

 江戸時代には房総往還東金御成街道佐倉街道などの主要街道沿いの地域は宿場町として栄えました。今でもそうした関連の古い商家や史跡が残っています。

房総往還
 船橋大神宮下で成田街道と分かれ、江戸湾東岸(内房総)に沿って房総半島の南端館山に至る房総半島の主要街道で、房総諸藩の参勤交代路であり、また近世では外国船に対する江戸内湾の警護のために重要な役割を果たしてきた。「上総道」とも呼ばれた。


東金御成街道
 九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した道路。船橋~東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。


佐倉街道
 江戸時代の脇街道の一つで、佐倉城を終点とするもの。大別して2つのものが存在するが、ここでは、水戸街道・新宿の追分~佐倉を結ぶ「水戸佐倉道」をさす。この街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い、文化年間頃より「成田道」「成田街道」という愛称で呼ばれるようになった。


千葉県内の古街道一覧。この「佐倉(街)道」は千葉から。

 
 
               (「歴史的農業環境閲覧システム」より)
→が海老川に架かる「船橋」。船橋湊(港)方面の発展のようすが分かります。右の駅は京成線「大神宮下」駅。下は「京葉道路」



「明治天皇行在所跡」碑。
 明治天皇の最初のご来県は、明治6年(1873)4月29日から5月1日までで、近衛兵の演習をご覧になるために大和田原へお出ましのときです。
 この第1日目に昼食をとられたのが、当時船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在の千葉銀行船橋支店の位置)です。この後も山口宅をしばしばご利用になり、通算して宿泊10回、昼食5回、小休憩2回におよび、千葉県では最も多く立ち寄られた場所でした。

 道路の左右に古い商家が二軒。
「廣瀬直船堂」。和菓子屋さん。
 大正7年に建造された木造二階建切妻造瓦葺で、軒を張り出した出桁造の建物。耐火中高層建築物化が進んでいる中で、宿場町であった船橋の面影を今もなお残している建造物。「今回指定されたことによって、お店を守って頂ける、また宣伝効果にもなりお客様の層が増えうれしい」と廣瀬太一さん。「戦争で車や食料等を軍に全て持っていかれ、原材料がない状態で再スタートしたため、お金がなく建替えができませんでした。しかし、このままのほうが廣瀬直船堂を見て懐かしいと思っていただけたり、前に船橋に住んでいた方が来店した時に昔話をしていただいたりしてうれしい」とも。
 本町通り沿いの家屋は、昭和30年代後半から耐火中高層建築物化が進んだが、廣瀬直船堂は建て替えをせずに建築当時の姿を今に伝えている。

                           

向かい側にある「森田呉服店」。
 創業140年。太宰治が暮らした街、船橋の和装専門店です。リニューアルしてモダンな雰囲気を増した店内には、着物・生地・手拭・和装小物まで豊富に取り揃えております。特に梨園染の江戸手拭は300柄以上の品揃え。
                           

《補足》太宰治と船橋
 昭和の日本を代表する小説家、太宰治。青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市)に生まれ、『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』『斜陽』『人間失格』など数々の名作を残すも、昭和23年に北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)の玉川上水に入水し、39歳で早世しました。
・・・
 大地主の家に生まれながら、故郷の津軽を離れ、東京近辺で住まいを転々とし、短い一生を駆け抜けた太宰。
そんな彼が、自身の回想記『十五年間(昭和21年)』の中で、「最も愛着が深かった」と述べているまちが、船橋です。
 盲腸炎をこじらせ腹膜炎を起こし、鎮痛剤パビナールによる中毒にもなってしまった太宰が、療養のために東京杉並から船橋へ転居したのは、昭和10年7月1日、26歳のときでした。太宰はここで内縁の妻であった“初代(はつよ)”とともに、1年3カ月の時を過ごしました。
 短い滞在期間でしたが、太宰はここで濃密な時間を過ごし、ゆかりの場所が現在に伝えられています。
太宰ファン必見の場所の数々をご紹介します。

 太宰の旧居は千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番地にあった新築の借家でした。現在の住所では「船橋市宮本1丁目」。船橋駅から歩いて10分もかからない位置です。
 現在、旧居跡には別の住宅が建っています。船橋駅前の喧騒を知る人からは意外に映るほど閑静な、細い路地の入り組んだ住宅街。車通りはほとんどありません。
近くには、海老川が今も静かに流れています。

 太宰は船橋の家に住み始めてほどなく、近所に住む人から“夾竹桃”をもらい、庭に植えたそうです。故郷の津軽では珍しかった夾竹桃。後日、自宅を引き払うときも、この夾竹桃への愛着を口にし、涙したといいます。
『めくら草紙』(昭和11年)より
《私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思つた。私は家人に言ひつけて、どれでもいいから一本、ゆづつて下さるよう、お隣へたのみに行かせた。》
 太宰がお隣から譲り受けて自宅の庭に植えたとされる夾竹桃は、昭和58年に中央公民館前の広場に移植され、現在でもその姿を見ることができます。また、近くには文学碑が建立されています。

 太宰は船橋で、『ダス・ゲマイネ』『地球図』『めくら草紙』『虚構の春』『狂言の神』などの作品を執筆したほか、最初の短編集『晩年』を発表しています。
これらの実績だけ見ると、さぞかし充実した創作活動をしていたのでは……と受け取れますが、実際には苦難の連続でした。
 太宰が船橋に住み始めた翌月の昭和10年8月、第1回芥川賞の発表がありました。太宰は候補に残ったものの、落選(受賞作は石川達三「蒼氓」)。文壇に認められたいという思い、借金だらけの生活を好転させなければという焦り……太宰は強く受賞を望んでいただけに、その落胆は大きかったことでしょう。選考委員だった川端康成に対し、怒りを露わにした文章を発表したことは有名です。また、同じく選考委員であった佐藤春夫に対しては、第2回の受賞を懇願する書簡を送っています。
 そんな願いもむなしく、第2回芥川賞の選考結果は「受賞者なし」。今でこそ抜群の知名度を誇る人気作家の太宰ですが、最後まで、芥川賞を受賞する夢が叶うことはありませんでした。

 船橋に滞在して約1年が経過した昭和11年6月、太宰は最初の短編集『晩年』を砂子屋書房から刊行します。太宰にとって初めての単行本でありながら、『晩年』というタイトル。若くして、死を強く意識していた太宰ならではといえます。鎮痛剤中毒からの療養のため船橋に引っ越してきたはずが、症状は改善せず、健康状態は不良でした。
 鎮痛剤パビナールによる中毒が深まる太宰を救おうと、家族や知人は入院を勧めます。昭和11年10月13日、井伏鱒二の説得により、太宰は東京板橋の武蔵野病院に入院し、船橋の家を引き払いました。病に打ち克つことができず、流行作家にもなれなかった船橋時代。それでも太宰は、のちの作品でこのように述べています。

『十五年間』(昭和21年)より
《私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった》
《どうしてもその家から引き上げなければならなくなつた日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れてゐない》

 太宰がなぜ、船橋のことを「最も愛着が深かった」と述べたのか、今となっては知る由もありません。太宰が船橋を去ってから、約80年もの月日が経っています。
 ただ、今も船橋には太宰ゆかりの場所や、太宰が暮らした昭和初期の雰囲気を感じられる場所が多く残っています。
 長い時間の隔たりはあるけれど、同じ場所に立って、歩いてみると……太宰が暮らした1年3カ月が、おぼろげながら見えてくるかもしれません。

 (以上HPより)

これも立派な「島村写真館」。

 特に付け加える写真はありませんが、サクラと船橋を。

                  


1880年代のようす。浅瀬が広がっています。

 
2010年代のようす。下方が現在の船橋港。高架は「京葉道路」。
       
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その5。「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-20 19:34:33 | 佐倉街道
                            表札「伊兵衛」さん、「善兵衛」さん・・・。沿道の旧家風のおうちに目立ちます。

 貸し駐車場のところにもありました。

さてしばらく進むと、旧道は国道から離れて左の道に進みます(12:14)。

総武線の陸橋を越えて、右手の道に入るとお堂があり、そこに「道標」が建っています。
 
元禄七年銘 道標
 元禄7年(1694)年10月26日の銘がある、市内最古の道標です。もとは70mほど北東寄り、現在は陸橋下となっている三叉路に建てられていました。
 道標正面の「右 いち川みち」は、この三叉路のある船橋市海神から、市川市八幡を経て同市市川へ至る道(佐倉道の一部)を示し、「左 行とくみち」は、船橋市山野町、市川市原木を経て同市本行徳へ至る道(行徳道)を示します。
 佐倉道は、江戸から佐倉城下に達する道でした。その先が成田へと続いており、江戸中期頃から、成田参詣の隆盛と共に、成田道とも呼ばれるようになりました。
 行徳は、日本橋と行徳を川で結ぶ「行徳船」の発着場でした。行徳と海神を結ぶ行徳道は、楽で早い船旅を好む成田参詣者で賑わいをみせた道でした。

○が現国道との分岐点。↓が旧道。道標がもともとあった位置。

船橋宿に向かいます。

                       

「船橋本町」交差点の手前で枡形の名残か、少しカーブしています。

                    ↓が街道。

(12:35)「西向き地蔵」の祠。
 旧船橋宿の入り口で、かつては罪人の仕置場(処刑場)と言われている。

繁華街に入っていきます。
左手に「いなりや(稲荷屋)」さん。創業慶応元年(1865)150年前から続く老舗の割烹料理店。

 船橋が、成田街道の宿場町であった頃より、地元三番瀬・江戸前の魚と、房総の海山の幸のお料理を皆様に愛されて、今日に至っております。
誇りを受け継ぐ10名の調理人達と、お客様を大事にする仲居達のお料理と御接待を、お楽しみ下さい。
 (「」HPより)

 おそば屋さんでお昼。  

(13:00)高層ビルが建ち並ぶ繁華街。

ここにも「三番瀬」という看板が。

 「三番瀬」とは、古くから漁業関係者が使用していた漁場の通称名で、現在の市川市・船橋市の沖合いの浅瀬の一部を示していたものと思われます。 現在では、市川市と船橋市の沖に広がる浅海域(浅瀬や干潟)を総称して「三番瀬(さんばんぜ)」と呼ぶのが一般的になってきています。
              
 この海域は、東京湾の最奥部の埋立地によって囲まれた位置にあり、水深5メートル以下の浅瀬が岸から沖合い3~4キロメートルの範囲に広がっていて、その先は急に水深が深くなっています。この浅瀬は、市川航路を境に大きく市川市側と船橋市側とに分かれ、その面積は、水深1メートル以浅の範囲で約1,200ヘクタール、水深5メートル以浅の範囲で約1,600ヘクタールあります。
 三番瀬というと、船橋市側の船橋海浜公園地先に広がる干潟の風景がテレビや新聞でよく取り上げられることから、一面に広がる干潟を連想されることがありますが、市川市側の三番瀬には、主な干潟として、塩浜1丁目地先の人工干潟と浦安市の日の出地区に近い自然の干潟が合計で約30ヘクタールほどあるだけで、そのほどんどは水深5メートル以下の浅瀬となっています。
 干潟や浅瀬は、水質の浄化機能のほか、魚貝や水鳥の生息場所、海苔養殖漁業やアサリ漁などの漁場、海浜レクリエーションの場となるなど様々な機能を備えており、近年、その価値が特に注目されています。
 しかし、これまでの埋め立てや都市化の影響などにより、昔と比べて海の様子は大きく変化しているほか、現在の海の環境も一様ではなく、周辺の埋め立てに伴う潮流の変化や青潮の発生などにより、環境が悪化しているところもあるのが現状です。
 都市に接している三番瀬の環境は、都市化の影響を受けるとともに、漁業活動など人の暮らしと深い関わりを持ちながら維持されてきたものであり、今後、自然環境の保全・再生と、漁業やレクリエーションなどの人の利用との調和を、どのように図っていくかが課題といえるでしょう。

(この項、「」HPより)

 以下の写真・絵図は「」HPより。

 

 

 なかなか魅力的なところのようです。

『三番瀬』ってどんなところ?
 正しくは「さんばんぜ」と読みます。
 三番瀬は東京湾の最奥部に位置し、船橋市をはじめ、習志野市、市川市、浦安市、各市の東京湾沿いに広がる約1,800haの干潟・浅海域です。深いところでも干潮時の水深が5mほどの浅瀬で、日々繰り返される干満により、土の中に酸素が供給され、多くの生きものを育てています。
江戸時代初期には、「御菜浦(おさいのうら)」として、新鮮な魚介を将軍家に納める重要な役割を果たしていました。
戦後の高度経済成長の中で埋め立てられたところもありますが、現在でも漁業は盛んにおこなわれ、栄養豊かな浅瀬ではスズキやカレイなどの稚魚が育ち、成長した魚たちは、巻き網漁や底引き網漁で数多く水揚げされています。その他貝漁やノリの養殖も船橋の漁業の特色のひとつになっています。
 干潟にはハゼ、アサリ、カニ、ゴカイなどの底生生物が多く生息し、それらをねらって、多くの水鳥たちも集まってきます。
 ふなばし三番瀬海浜公園の前面に広がる干潟は人工的に作られたものですが、様々な生きものが生息し、東京湾の豊かな恵みを見ることができる貴重な場所になっています。
(この項、「」HPより)

 潮干狩りやバーベキューなどなどが楽しめる、とのこと。
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その4。(「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-19 20:41:25 | 佐倉街道
                             「坪井玄道生誕の地」解説板。
坪井玄道
 下総国葛飾郡鬼越(現・千葉県市川市)の出身で農家の次男として生まれた。幼名は仁助。
 慶応2年(1866年)に江戸幕府の開成所に入学して英語を学ぶ。明治4年(1871年)に卒業して初めは少得業生として大学南校、同年7月より東京師範学校(現在の筑波大学)の教員となった。明治7年(1874年)にアメリカから迎えた体育担当教師ジョージ・アダムス・リーランドの通訳を担当しているうちに体操の重要性を認識して体育学を学ぶ。
 明治11年(1878年)、リーランドと共に同年に創設された体操伝習所教師となった。なお、体操伝習所が東京師範に吸収された明治19年(1886年)より高等師範学校の助教授となった。
 明治18年(1885年)『戸外遊戯法』を出版し、日本語で書かれた初めての端艇(ボート)競技の教科書となった。また、同書は「フートボール」(サッカー)を初めて日本に紹介した書籍でもあった。明治20年(1887年)に『普通体操法』を出版した。坪井は合理主義的軽体操 (普通体操) と自然主義的遊戯を併せた体育論を唱え、学校の必修科目に体操を加えることの必要性を論じた。明治23年(1890年)より高等師範学校および東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の教授に就任する。明治29年(1896年)、この年に創設された東京高師のフートボール部(現:筑波大学蹴球部)の部長に就任した。
 明治33年(1900年)、黒田清輝や瀧廉太郎らと共にイギリスなどへ留学し、翌年に帰国した。明治36年(1903年)、教え子の中村覚之助らが出版した「アッソシエーション・フットボール」の序文を記した。また、明治42年(1909年)には可児徳とともにドッジボール競技を「円形デッドボール」という名で日本に初めて紹介したとされる[6]。同年に東京高師、東京女子高師の教授を退任した。大正11年(1922年)4月に東京女子体操音楽学校(現:東京女子体育大学)の名誉校長に就任したが、11月に死去した。なお、墓所は東京都文京区の真浄寺にある。
平成18年(2006年)、日本サッカー殿堂(委員会特別掲額者)入り。現在、千葉県市川市立歴史博物館に、関連物が展示されている。

(以上、「Wkipedia」参照)

「木下街道」との分岐点。角にある旧家。

                           

                 

中山方面に進みます。りっぱなおうち。

街道筋らしいおうち。 

船橋市に入ります。

財団法人吉澤野球博物館」。
 吉澤善吉が個人コレクションを元に私財を投じて1979年(昭和54年)に「吉澤野球資料保存館」として開設。当初資料保存のみを目的としていたが、2001(平成13)年に博物館法により登録博物館となり、2003(平成15)年には2階を増築して美術展示室を併設した。特に東京六大学野球を始めとする戦前のアマチュア野球史料の充実は特筆するものがある。
 2001(平成13)年に「財団法人吉澤野球博物館」と改称、その後さらに「一般財団法人吉澤野球博物館」に再改称した。
 吉澤理事長が2011年(平成23年)体調を崩したのを機に船橋市に収蔵品等を寄附する方針を固め、2014年(平成26年)3月30日をもって博物館は休館。コレクションは船橋市に寄贈された。2017年、「船橋市スポーツ資料展示室」内に「吉澤野球博物館資料展示室」が設けられた。


吉澤野球博物館資料展示室企画展「野球に魅了された男たち~天狗倶楽部からプロ野球発足まで~
はじめに
 平成29年4月22日船橋市総合体育館(船橋アリーナ)内に、船橋市スポーツ資料展示室「吉澤野球博物館資料展示室」がオープンしました。吉澤野球博物館の貴重な野球資料を広く市民の皆様に紹介するとともに地域の野球文化に触れていただけるよう様々な企画展を開催します。
内容
 「天狗倶楽部」とは、明治時代末頃、SF小説家押川春浪が中心となって結成したスポーツ社交団体です。私的な団体でありながら野球や相撲をはじめ数々のスポーツ振興に貢献しました。平成31年NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』にも登場し、その破天荒さが話題となっています。
 天狗倶楽部には、のちの日本初プロ野球チーム創設に携わるメンバーや、殿堂入りを果たすメンバーも参加しており、野球のために人生をかけた男たちがいました。本展示では、そんな野球に魅了された男たちを写真や人物ゆかりの資料で紹介いたします。
会期
 平成31年2月15日金曜日から3月24日日曜日まで
 吉澤野球博物館資料展示室(船橋アリーナ)
 開館時間 午前9時から午後9時
 ※期間中の休館日:2月18日月曜日、3月11日月曜日
場所
 船橋市総合体育館(船橋アリーナ)内スポーツ資料展示室
 (サブアリーナ側1階ロビー奥)
(この項、「」HPより)

ちょっと右手に入ったところに、「グリルはせ川」。
                          純和風のつくりで洋食屋さんのようです。お味の方は、はたして・・・

ここもりっぱなおうち。大きな家が目立つ。

(11:35)右手に大きな案内板「二子浦の池」。

                    

市内に存在が確認されている湧水は、都市化の進行に伴い荒廃が進んでいますが、平成9年度に実施した「湧水保全・再生計画調査」によって、まちづくりの視点から再生価値の高いものも存在することが確認されました。
 湧水は、台地部の樹林や農地等に降った雨が地下に浸透し、低地部からしみ出す水循環について学ぶ最適な素材であると同時に、動植物の棲息環境としても大切な水源であることから、平成9年度より地元の方々と協働して整備を進めてまいりました。
 その中でも葛飾地区については、地元の皆さんの湧水に対する保全・再生への意識が高く、地形的にみても湧水や松林、由緒ある寺社が連なるなどの特色があることから、「葛飾湧水群」として整備に着手し、平成9・10年度は「二子藤(ふたごふじ)の池」の復元、平成11年度には「葛飾神社の池」及び「ゲエロの池」と、3箇所の湧水池の整備を行ってきました。
 平成12年度からは、市の中央部に位置する「倶梨迦羅不動尊(くりからふどうそん)の池」の整備に着手し、平成13年度に完成しました。また、平成14年度に葛飾地区で「葛羅(かづら)の井」の整備を、平成17年度には「二子浦(ふたごうら)の池」の整備を行いました。

 かつては海に面していた場所なので二子浦と呼ばれていたそうで、鎌倉時代にはここから船で鎌倉との間を往来していた、とか。しかし、当時、東京湾を南西から北東へ縦断する航路があったとは思えません(三浦半島から上総に渡るのが最短で安全)。海岸沿いの地名(入り江)であることは間違いないと思いますが。

右手は台地への上り坂。黒い板塀のおうち。

街道沿いのおうち。

(11:47)「武蔵野線」ガード手前、中央分離帯に見事なクロマツの大木が3本。

その先、「勝間田公園」の花壇の中央にブロンズ像。久保浩作《まなざし》

 船橋市内にはこうした多くのブロンズ像の作品が各所に置かれているようです。

 「勝間田公園」は、かつては溜池だったそうです。その左隣にある「葛飾神社」にも見事なクロマツがあるそうです。

 東京湾に沿った市川から船橋、幕張、千葉にかけては、かつて松林が続いていました。今、その風景は大きく変わってしまいましたが、僅かながら残るものもあります。JR西船橋駅から国道14号線を市川方面に行くと、右手に勝間田公園が、その先に葛飾神社があり、石段の下から、お堂を覆いつくすような松が見えてきます。それが、今も残る「葛飾神社のクロマツ」です。「葛飾神社のクロマツ」は、1836(天保7)年に刊行された『江戸名所図会』の挿絵『勝間田池』にも、その姿が描かれています。『勝間田池』は本郷にあった溜池でしたが、和歌の名所であった奈良の勝間田池になぞらえて、そのように呼ばれていました。池の左手にある小山の上には、松で囲まれた熊野宮が描かれています。
 熊野宮は、後に葛飾神社と合祀されましたが、この熊野宮を取り囲む松の一樹が、「葛飾神社のクロマツ」ではないかと推測されています。現在では、勝間田池も埋め立てられ公園になってしまいましたが、かつての情景を想い描くことができるのもこのクロマツが現存していればこそ。拝殿の屋根の上に広がる枝ぶりは絵になりますし、木肌の亀甲模様も極めて美しいものです。このクロマツは、平成24(2012)年3月に二宮神社のイチョウとともに船橋市の天然記念物に指定されました。天然記念物であった妙見神社のクロマツが虫害で枯死し、指定解除されてから35年後のことです。船橋市内に天然記念物を、と願う市民の声が届いたようです。帰路はJR西船橋駅方向に戻り、駅入口の交差点の先を左手に入ると春日神社が、その脇には西船4丁目緑地があり、そこにも東京湾から続く松林の一部が残っています。葛飾神社と西船4丁目緑地に設置された案内板には、解説とともに『江戸名所図会』の挿画が添えられており、かつての情景に想いを馳せることができます。

(この項、「」HPより)

歌碑があります。

 しげやまの尾根をはひゆく
 雲見れば晴れたるかたに
 移りつつあり 松平


 作者の(松平)公平さんは、県立船橋高校の教諭とか。


「勝間田公園」の今昔
         
                  
         
1880年代のようす。溜池がある。下方は行徳からの道。     2010年代のようす。公園に。中央がJR「西船橋」駅。

              

(11:54)「武蔵野線」のガードをくぐります。

船橋市のマンホールの絵柄。さすが港町です。
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その3。(「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-18 18:56:51 | 佐倉街道
                                    「料亭 栃木屋」。

しばらく進んだ先にもりっぱな料亭が。


 
明治17年の創業以来「料亭 栃木家」は約130年の歴史の苦難を乗り越え現在のスタイルに至っている
政界・財界・文化人・海外の要人など各界の著名人を迎え続け千葉県屈指の料亭
また、「栃木家」では調度品や器などもふんだんに使いもてなしを行っている。
独創的でありながら昔ながらの味を大切に作られる和食の数々はまさに本物と呼ぶに相応しい逸品
日本文化の粋を集めた、価値ある空間だ

(この項、「」HPより)

(10:19)「市川市男女共同参画センター」先の角に「道標」。

                            

 右側に「東 八わた十六丁、中川一里 市川新田」、左側に「西 市川八丁、江戸両国三り十丁」と刻まれています。

この付近の様子。 

その先、左手に「諏訪神社」の境内は見事なクロマツの杜。                     

「京成菅野」駅入口交差点は「外環」の工事中、拡張整備され、中央分離帯にマツが植えられています。 
            

来た道を振り返る(「千葉街道」)。
  
八幡に向けて進みます。


「元八幡」駅前通り。高層ビルが建ち並んで、様変わり。

                  ↓が「千葉街道(佐倉街道)」。

 「八幡」の地名は、平安時代の初期に建立された「葛飾八幡宮」の名からついたといわれています。道中奉行の管轄化に置かれたのはこの八幡宿までで、以降佐倉藩の管轄となっていました。

 「葛飾八幡宮」は、京成線を渡ったところにあります。

 (10:59)参道の先、右手にあるのが「藪不知森(やぶしらずのもり)」。

 「千葉街道」の歩道整備事業に伴い、整備・縮小されました。中は、禁足地とされていて、立ち入ることや、木の伐採は忌まれています。藪の広さは奥行き・幅ともに18mほど。古くは細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などが生い茂っており 昭和の末頃までは樹齢を経た木々の鬱蒼としたさまを見ることができたようですが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみです。

由来
 八幡の藪知らずの伝承は江戸時代に記された書籍にすでに見ることができるが、江戸時代以前から伝承が存在したか否かは定かではない。また、なぜこの地が禁足地になったかの理由についても、唯一の明確な根拠があるわけではない。しかし諸説いずれにせよ、近隣の人たちはこの地に対して畏敬の念を抱いており、現在も立ち入る事はタブーである。
 以下、伝承の由来に関する有名な説を挙げる。
日本武尊の陣屋説
平良将の墓所説
平将門の墓所説
平将門の家臣の墓所説 - 当地で平将門の首を守りつづけ、そのまま泥人形になったといわれている。寛延二年(1749)に書かれた『葛飾記』には、討たれた将門が当地を通った際に慕って付いてきた部下6名が土人形として顕れ、風雪により土と化した、とある。
これらの偉人に関する説は、いずれも該当する人物の祟りなどのために立入禁止になったといわれている。ただし、墓所・陣屋跡の比定地には異説も多い。
将門征伐のために布かれた八陣の法の跡 - 陣を布いた平貞盛と藤原秀郷が乱平定後帰京に際し、地元民に「この場所は八門遁甲の死門(天地の鬼神が各方隅を循環して生殺するとの信仰に基づく8つの門のうちのひとつ)であるゆえ今後足を踏み入れてはならない、踏み入れた者には必ず害がある」と告げて言った、とする説。
その他、昔の豪族・貴族の墓所とする説
水戸黄門が迷って出てこられなかった説
水戸黄門こと徳川光圀が当地に立ち入って迷い、ようやく出たのちに禁足地とした説。後に錦絵に描かれ広まった。しかし、それ以前からここは禁足地であった可能性は高い。
藪の中央部の窪地から毒ガスが出でいるという説
中央部が窪んでいることにも関連しているが、科学的な根拠に乏しい。事実であるなら、藪の周辺すら人が通ることは危険なはずである。
藪に底なし沼があるという説
これも、中央部が窪地になっていることに由来する。
葛飾八幡宮の跡地説
至近にある葛飾八幡宮の旧地とする説 - 文化七年(1810)刊行の『葛飾誌略』には、地元の古老の話では仮遷宮(本殿落成の間や社殿改築工事の間、神体を移しておく仮の社殿)だった、とある[2]。また、この地には死んだ動物を供養するための八幡宮の池があり、周囲の人々から「むやみに池に入ってはいけない」と言われていたものが、この行事が廃れたために「入ってはならない」という話だけ今に残ったのではないか、という仮説がある。
近隣の行徳村の飛び地(入会地)説
地元である八幡の住民は当地に入れないため、このような伝説ができたという説。

慣用句
伝承が有名になったため、「八幡の藪知らず」は「入ったら出られない藪や迷路」の総称となった。それが更に転じて「道に迷うこと」「出口のわからないこと」を「八幡の藪知らず」「やわたしらず」と言うようになった。
また、江戸時代にはこの森を真似て迷宮式の藪を作り、入場料を取って中に入らせ、無事に出てこられた者に賞品を出すという興行場が現れたことがあった。これが明治10年頃に復活し、大流行となった。こうした迷路は八幡不知(やわたしらず)のほか、八陣、かくれ杉などと呼ばれた。

(以上は「Wkipedia」より。以下は「解説板」より)

「解説板」。
不知八幡森(通称八幡の藪知らず)

 江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず、高からず、然れどもとしてその中」とか、「」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に」と言われて全国的に知られていました。
 入ってはいけない理由については、・最初に八幡宮を勧請した旧地である。・日本武尊が陣所とされた跡である。・貴人の古墳の跡である。・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。……
 と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(1658~61)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
 「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
 またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられます。
 古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
 市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。
 「不知八幡森」の碑は安政4年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。

 

この付近の今昔
    
1880年代のようす。○が「藪知らず」。        2010年代のようす。         
 

(11:10)「境橋」。 

                             

下に流れる川は「真間川」。『万葉集』にも詠われた真間の手児奈伝説に登場する「真間の入り江」の跡とされている。

桜の季節がいいようです。

 ところで、「真間の手児奈伝説」とは?

市川のむかし話『真間の手児奈』
 むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、しょうぶやアシがいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
 そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、のみ水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、きれいな水がこんこんとわきだしていました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。
 この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青いえりのついた、麻のそまつな着物をきて、かみもとかさなければ、はき物もはかないのに、上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しくみえました。
 井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔やすがたを写してみますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
   「手児奈が通る道のアシはね、手児奈のはだしや、白い手にきずがつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
   「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
 手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、
  「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、かみにかざる玉も思いのままじゃ。」
  「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
  「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
   「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。そのようすは、夏の虫があかりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
 手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
 「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
といいながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈のなみだも小川に落ちて流れていきました。
 手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
 「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
 「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
 翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
 真間の「手児奈霊堂」は、この手児奈をまつったもので、いまでは、安産の神さまとして、人びとがおまいりにいきます。
 また、手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。

(この項、「」HPより)

万葉集』には、

山部宿禰赤人の反歌(短歌)

吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処(おくつきどころ 注:墓所のこと)
 
葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児奈し思はゆ

高橋連虫麻呂の反歌

葛飾の 真間の井を見れば 立ち平らし 水汲ましけむ 手児名し思ほゆ

東歌には4首

葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を

葛飾の 真間の手児奈が ありしかば 真間のおすひに 波もとどろに

にほ鳥の 葛飾早稲を にへすとも そのかなしきを 外に立てめやも 

足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継ぎ橋 やまず通はむ
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その2。(「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-15 20:53:03 | 佐倉街道
                             (9:33)小岩側の江戸川堤付近から振り返る。


1880年代のようす。渡船場が標示されている。



2010年代のようす。→が旧道か?
         江戸川・川上から「京成線」、「市川橋」、「JR線」。

3月9日(土)。快晴。京成線「江戸川」駅下車。まず江戸川の土手に向かいます。

江戸川区側に新しい解説板が設置されています。
小岩市川の渡し跡・小岩市川関所跡
 江戸時代の初め、両国から竪川の北岸を東にすすみ、逆井(さかさい)の渡しで中川(旧中川)をわたり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へ向かう道がひらかれました。「元佐倉道」とよばれ、明治8年(1875)に千葉街道と改称されています。江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間延絵図』には「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。
 江戸から佐倉へ向かう道筋には、千住から新宿(葛飾区)に至って水戸街道から分かれ、小岩に至る佐倉道があり、江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。
 江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関所がおかれていました。『新編武蔵風土記稿』の伊与田村の項に「対岸は下総国葛飾郡市川村なれば、小岩市川御番所という」とあります。これは幕府の設けた関所のひとつで、常時4人の番士が配属されていました。上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治2年に廃止されました。

                   江戸川区


そこから市川側を望む。河川敷は野球場が何面も。

「市川橋」を渡ります。

                       川面にたくさんの水鳥の姿。

「千葉県・市川市」に入ります。

(9:44)江戸川土手、市川側には関所の門のモニュメント。

りっぱな「市川関所跡」碑。



                         
市川関所跡

 江戸時代以前の江戸川は太日川と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅屋(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文、「東路の都登」のなかで、市川に渡しがあったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡し場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けれれていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
 「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では2~3艘の船を用意し、川場に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方」とも呼ばれた。
 慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治2年(1869)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。

                  平成16年7月 市川市  

対岸(小岩側)を望む。

「千葉街道」として進みます。左手から来る道が旧道の一部?

賑やかな街並みになります。「いちかわ文学の散歩道」案内板。


老舗の乾物屋さん「湯淺四郎樹商店」。ビルに囲まれた中で存在感あり。

 創業は昭和12年という老舗のお店です。
 店内には普通のスーパーでは見かけないような干物や佃煮、乾物などがいっぱい並んでいます。
             
      (この項、「」HPより) 
(10:13)中央分離帯のところに「旧三本松跡」、「名所 三本松」碑。
 市川市北部の台地上は、縄文時代に遠浅の入江となっていて絶好の漁場であったため、台地上には1893(明治26)年に発見された「姥山貝塚」をはじめ、「曽谷貝塚」、「堀之内貝塚」の“三大貝塚”を含む貝塚が55ヶ所発見されるなど全国有数の貝塚密集地域となっている。また、「千葉街道」沿い南北約0.5~1km、東西約4kmの範囲に「市川砂州」と呼ばれる地形が広がる。砂州上にはかつて防砂林などに利用された黒松が群生しており、独特の景観をつくりあげてきた。写真はかつて「千葉街道」沿いにあり「三本松」と呼ばれた老樹。明治天皇から行幸の際に賛辞を賜ったという。
【大正期】

現在も「市川砂州」上の市街地では黒松を見ることができる。

「三本松」は道路の拡幅に伴い1958(昭和33)年に伐採された。
かつてのようす。

(この項、「」HPより)

 上記の通り、その場所には松の木はありません。しかし、市川市に入ると黒松が目立ちます。かつては南西側は水田でその先は海でした。防砂林の面影が残っています。

マンホールの図柄もマツ。


1880年代のようす。水田(かつては海)が広がる。
 街道は、台地(江戸期の埋め立て地)の南端を進んでいた。


2010年代のようす。すっかり都市化しています。
           上から京成線(古代の海岸線にほぼ沿う)、千葉街道(佐倉街道)、JR総武線。下方はびっしり住宅が建ち並ぶ。
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その1。(「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-14 18:47:00 | 佐倉街道
                              「小岩市川関所跡」解説板。   
                                     
 今回から水戸街道「新宿」から分岐して、市川、船橋、習志野、佐倉、そして成田。さらに佐原まで(「佐原街道」)のコースをたどろうと思います。

(「旧街道ウォーキング - 人力」www.jinriki.info/kaidolist/naritakaid.HPより引用)

 「新宿」から江戸川堤までは前に歩いているのでそれを紹介。
 その続きということになります。

 ここまでの道筋を再掲。

(2012/9/14「佐倉街道」その1。)
 水戸街道と葛飾・新宿(にいじゅく)で分岐した「佐倉道(佐倉街道)」は現国道6号線(水戸街道)を越えて南下します。途中、高砂で直角に折れ、東南に向かいます。高砂駅近くを過ぎ、北総線・新柴又駅近くのガードをくぐり、そのまま行くと江戸川の土手に突き当たります。旧道は、江戸川河川敷に消えてしばらくなくなります。再び直線の道となった「佐倉道」はほぼ南下して京成線・江戸川駅のガードをくぐり、そこで、「元佐倉道(旧千葉街道)」と合流して東に向かい江戸川にある小岩・市川の渡し・関所を越えて市川に向かいます。かつての道筋は区画整理、道路拡張、さらに用水路の埋め立てなどかなり変化していますが、所々道標などで往時を偲ぶことが出来ます。
新宿・「一里塚」バス停の近く。ここから水戸街道と分かれます。この橋は、小合溜からの水路(「東用水」から分岐した小さな流れ)に架かっていた「金阿弥橋」、親柱が残されています。
 この付近(追分・水戸街道と佐倉街道)にあった道標は、現在、水戸街道拡張整備工事等のために撤去され、「葛飾郷土と天文の博物館」に一時保管されている、とか。そこで直接問い合わせところ、毛布にくるんであってお見せできない、と。周辺が整備されたら、元の位置に戻すということでした(かつての場所には設置できないと思いますが)。
「道標」(「区民がつくる葛飾百科」より拝借。)安永6(1777)年建立。正面に「左 水戸街道 右 なりたちば寺道」右側面に「さくらミち」と彫られている、らしい。ただし、現在、このあたり、旧水戸街道の道は消滅しています。
水戸街道を越えて旧道に入ります。一方通行の狭い道で、あまり車は通りません。「追分」を振り返って見たところ。このあたりも、あと何年かすると、大きく変貌した街並みになるでしょう。
正面の十字路を左折します。
来た道を望む。
明治13年当時の古地図。中央部分。北からの道がカギのように折れて南東に向かっていました。真ん中の細い用水路は小合溜(現水元公園)からの流れ。
区内最古の道標。正面には「是より右ハ下川原村 さくら海道」右面には「これより左ハ下の割への道」左面には年号が彫られている、とのこと。「下川原」は、新宿の小字名。「下の割」は葛西の南の地域、現在の江戸川区をさしています。
左折してすぐ右折して広い通り。貨物線(金町~新小岩)の踏切を越えます。小合溜からの用水路が埋め立てられ、広い舗装道路になっています。大がかりな水道工事中のところも。踏切脇には鉄橋が残っています。
踏切を渡った南側から望む。
高砂駅前の通り(柴又帝釈天への道)との交差点。向かい右の角の建物が街道筋風の店構え。
京成線「高砂」駅の北側の道を進み、商店街を越えしばらく行くと、桜の並木に覆われた散策道になります。遠くに歩く生徒の姿は佐倉街道沿いにある「区立桜道中」の生徒、らしい。
京成ドライビングスクール前には、「葛飾区立桜道中学校」があります。「佐倉」に「桜」をかけたのでしょう、「さくらみち」と呼ばれています。

「親水さくらかいどう」の碑。
道の脇には小さな流れ。
しばらくのんびり進むと江戸川の堤防にぶつかり、旧道はここでいったん途切れます。
「善兵衛樋」。
 かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治11(1878)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
 大正13(1924)年、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったものが、左手の「水神」碑。高さ約3メートル幅約1メートルとかなりりっぱなものです。人々には、まさに「水神」様に思えたのでしょう。
 「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
 この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続きます。
道標。正徳3(1713)年建立。江戸川区内最古のものだそうです。
 「右面 是より右岩附慈恩寺道 岩附迄七里 これより左 千手道 新宿迄壱里千手迄弐里半」とある。注:「岩附」=「岩槻」、「千手」=「千住」 

古地図(明治13年)。左上(北西)あたりに「道標」がありました。現在の「岩槻街道」は、江戸川・一里塚から南東は「篠崎街道」。

(2012/9/15 「佐倉街道」その2。)
 再び細い直線道路として南下する「佐倉道」は、京成電車「江戸川」駅の西側のガードをくぐると、正面(南)から来た元佐倉道(旧千葉街道)と合流し、江戸川堤へ向かう。このあたりに「小岩・市川の渡し(関所)」があった。渡河した旅人は南東に進んでいく。
江戸川の河川敷に消えた「佐倉道」はこのあたりで再び道の姿を現す。
一直線で南下する。周囲には神社仏閣が並んでいる。

江戸川駅近くの商店街。お蕎麦屋さんの店先にある「道標」。安永4(1775)年建立。

「伊与田の道標」。伊豫(与)田村はこの地域の旧名。この地を開拓した藤原伊豫にちなんでいる。

京成線のガードをくぐる。

正面が元佐倉道(旧千葉街道)。ここで合流して、左(東)に折れると、関所・渡し場。

元佐倉道から佐倉道との合流点を望む。

角にある案内板(御番所町跡)。

この付近が交通の要所であったことを示す道標等の文化財が多く残っている。

道沿いに家が建ち並ぶのが佐倉街道。

左(西)にある(土手)道は、「現岩槻街道」となる古道と思われる。右(東)の土手道は江戸川河川敷内となり、消滅。

突き当たりが江戸川の堤。

佐倉道と元佐倉道の合流点に残る「御番所町の慈恩寺道石造道標」。
角柱。案内板がないと見落としそう。

案内板。
 それによると、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えた道標だった、とのこと。 
「・・・銘文は安永4年(1775年)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の3方向を示しています。
銘文 正面 右せんじゅ岩附志おんじ道 左リ江戸本所ミち 右面 左リ いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 左面 右 いち川ミち
安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 江戸川区教育委員会」
小岩市川渡しの目印だった「常燈明」。
 もともと、小岩市川の渡し場に建てられていた。昭和9(1934)年江戸川改修工事の際に寳林寺(宝林寺)境内に移された。この渡しは江戸時代には成田山新勝寺や千葉寺詣での人たちで賑わっていた。そのため、「佐倉街道」は「成田街道」とも呼ばれた。
 この「常燈明」は、天保10(1839)年、千住総講中によって献灯されたもの。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mある。
台石下部。

  
  
1870年代のようす。                 2010年代のようす。

(2012/9/16 「佐倉街道」その3。)
 北小岩は佐倉街道(成田街道)、元佐倉街道(千葉街道)、岩槻街道(篠崎街道)が交差・合流する交通の要所でした。参勤交代のみならず、江戸の後半には、さいたま市岩槻の慈恩寺、成田市の新勝寺、千葉市の千葉寺などへの参詣で大勢の旅人が行き来していました。必ず通過しなければならない関所もありました。そのため、文化財・旧跡が多い場所でもあります。じっくり歩けばまだまだ興味深い発見があるところのようでした。
江戸川の土手から御番所町跡(西方)を望む。
対岸の市川市側にある「関所跡」のモニュメント。
立派な説明板。
 それには、「・・・関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では2~3艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。・・・明治2年(1869年)に『関所廃止令』が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。平成16年7月 市川市」とある。
関所跡から対岸の小岩を望む。護岸工事で江戸時代よりも大きな川幅にはなっている。右に見えるのが京成線の鉄橋。河川敷あたりがかつての渡船場なのか。
市川橋。「千葉街道」。市川橋の西詰付近で南西に折れる「千葉街道」と分かれて西に向かう広い道路は「蔵前橋通り」。歩いて渡るとけっこうな長さ。橋の正面奥に見えるのはスカイツリー(右の方)。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
江戸川を渡ると道は南東へ折れる。(「同」より)
正面が千葉街道。右(西)から来た道路は「蔵前橋通り」。ここから「千葉街道」となって市川に向かう。「江戸川」交差点。
旧千葉街道沿いの「一里塚」跡。バス停名と篠崎街道(岩槻街道)との交差点名に残っている。
「千葉街道」と交差する通りは、「岩槻街道(篠崎街道)」。この道は、岩槻方面へ行徳の塩などを運ぶ道でもあった。「岩槻街道」はそのまま北上し、「善兵衛樋」(「道標」)付近で「佐倉道」と交差して江戸川右岸沿いに北に向かった。古地図で見ると、田んぼの中の広いあぜ道という感じだが。

(「同」より)。北小岩付近。中央の道は、「岩槻街道」、右が「佐倉道」。

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「五日市鉄道」跡。JR「立川」駅~「拝島」駅。その4。

2019-03-12 18:37:30 | 鉄道遺跡
            廃線跡の道路が「新奥多摩街道」と合流する地点にある「転轍機」「車両止め」のモニュメント。

 「新奥多摩街道」に合流して進みます。
この付近に「武蔵田中」駅がありました。

 ここから「多摩川」河川敷に向かって貨物線が分岐していました。
交差点の向こう側、左手に廃線跡の道路が延びています。「砂利運搬専用の五日市鉄道拝島支線」跡。

 「堂方上」交差点からは「国道16号線」となります。
「横浜まで47㎞」ポスト。「日光千人同心街道」でもおなじみです。

《参考》
 「多摩川」に架かる「拝島橋」の手前で。「横浜から45㎞」ポスト。

「国道16号線」。

 「植え込み」付近で、「国道16号線」から右に分かれていきます。その付近に「南拝島」駅がありました。
 
                                     そこから「16号線」を振り返る。
住宅地を進みます。

                         ゆるやかなカーブ。

「五日市鉄道」由来のネーミング「五鉄緑3駐車場」(↓)。

このカーブがいかにも廃線跡らしい雰囲気。振り返る。

             

 線路当時のように、道路の左右は盛り土をしたり、崖状になったりして、緩やかな勾配になっています。
(↓)

                    (○)

「切り通し」の箇所も。

「拝島三小西」信号を越えると、左にカーブします。

「遊歩道」になるとまもなく拝島駅へ。

来た道を振り返る。

 「五鉄通り」の案内板と解説板。


                         

「江戸街道」にぶつかります。

江戸街道」解説板。
 鉄道や車がない時代、多摩地区では東西に走る道を「江戸街道」と呼ぶことがあり、「江戸街道(江戸海道とも書く)」の名前は今でも各地に残っています。青梅線にはほぼ平行して昭島市域を貫くこの道もその一つです。一部は昔の経路とは異なりますが、今も昔も重要な道です。

 立川「産業サポートスクウェア」交差点のところで分かれた道(「立川南通り」)とここで再会することになります。

その先は拝島駅構内へ。今回はここで終了。

「JR・西武拝島駅」。

駅前広場の向こうに「大岳山」の姿が見えます(↓)。

 「日光千人同心街道」、「五日市街道」そして今回の「五日市鉄道・廃線」道と「大岳山」とはけっこう縁がありました。

帰りは西武新宿線で。JRホームを望む。
 
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「五日市鉄道」跡。JR「立川」駅~「拝島」駅。その3。

2019-03-08 19:24:55 | 鉄道遺跡
                           「八高線」を地下道で越える。

小休止のあと、先に進みます。

「五鉄通り」の右手は小高くなっています。

振り返る。

 「五日市鉄道」の線路は、この付近では切り通し(堀割)で、現在もその名残があるようです。なお、「八高線」は鉄橋で「五日市鉄道」を越えていました。
 その鉄橋は2000年頃まではそのままあったようですが、その後撤去され、「八高線」と交差する地下道がつくられました。

「八高線」をくぐる地下道方向を望む。

振り返る。左手(立川側では右手)に土盛りがあり、空間が存在します。

地下道脇の梅が満開。

                        

八高線をくぐり抜けると、左手は雑木林。

その先に「大神」駅のモニュメントが設置されています。

                    解説板。
五日市鉄道大神駅跡
 この場所には昭和5年(1930年)から昭和19年(1944年)までの間、大神駅という小さな停留所(無人駅)がありました。東西の道路は、立川駅と拝島駅を結んでいた五日市鉄道(単線)の線路跡です。
 現在のJR五日市線の前身である五日市鉄道は、大正14年(1925年)4月21日、拝島・武蔵五日市駅間(11.1km)が最初に開通し、蒸気機関車が走りました。後に立川駅までの延長が認められ、立川・拝島駅間(8.1km)が昭和5年(1930年)7月13日に開通し、この駅も誕生しました。
 立川・拝島駅間には、「武蔵上ノ原」「郷地」「武蔵福島」「南中神」「宮沢」「大神」「武蔵田中」「南拝島」の8駅がありました。
 旅客用にはガソリンカーが運転され、「五鉄」の愛称で親しまれた五日市鉄道は、昭和15年(1940年)に南武鉄道と合併し、昭和19年(1944年)4月1日には、太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました。そして、近くを青梅線が走っているという事情から、立川・拝島駅間は昭和19年10月11日付けで休止路線とされ、そのまま廃止されました。

 このモニュメントに使用した鉄道資材は、青梅線(昭島駅・奥多摩駅)で使用していたものを利用した、とのこと。(このモニュメントを含め、周囲はポケットパークとして2000年に整備されました。)



 当時の駅(線路)は、現在よりも2,3m地下にありますが、右手にあるサクラの古木は当時からのようです。満開頃には見物客が大勢、見に来るそうです。

手前の交差する道は「昭和通り」。
 1937(昭和12)年、青梅線北側の広大な雑木林に昭和飛行機が進出し、まもなく航空機の製造が始まりました。翌1938(昭和13)年には工場通勤者のために青梅線に昭和前(今の昭島駅)が開設されました。こうした工場や駅に向かうこの道は、当時「昭和道路」ともいわれました。時代を経て道は整備され、今では、「昭和通り」と名付けられています。

昭和飛行機
 1937年(昭和12年)6月5日、元、三井合名理事長團琢磨の長女「めい」の夫である牧田環(初代社長、三井鉱山会長等も歴任。工学博士)の尽力により昭和飛行機工業株式会社が設立される。
 当時の日本航空機業界は、すでに欧米に匹敵する優秀な軍用航空機を製作していたため、昭和飛行機はこれを追従するのではなく、日本が立ち遅れていた輸送機の製作こそが使命と捉え、当時のベストセラー機であったダグラスDC-3に目を付け、その国産化(ライセンス生産)を目指すこととなった。
 航空機を製造するあたり、飛行場を併設した工場が必要であり、それには広大な土地が必要だった。検討した結果、北多摩郡昭和町、拝島村(以上現昭島市)、砂川村(現:立川市)の3町村にまたがる土地に、航空機製造工場である東京製作所を作ることを決め、工場および飛行場の建設に着手し、1938年(昭和13年)に稼働を始めた。稼働開始に合わせて、通勤者の便に配慮して、青梅線に新駅の開設の認可をもらい、昭和飛行機が駅舎用地を提供、建設費を一部負担して、昭和前駅(現:昭島駅)が開設された。
 工場は稼働したものの、DC-3の国産化には困難を極め、実現に3年の月日を費やすこととなる。DC-3国産化に成功し、順調に量産化を始めた頃、太平洋戦争が勃発する。1940年(昭和15年)には、日本海軍にDC-3を零式輸送機として制式採用されたことにより、終戦までに430機のDC-3/零式輸送機を製造した。戦時中には他にも、愛知航空機(現:愛知機械工業)の九九式艦上爆撃機や、川西航空機(現:新明和工業)の紫電改などもライセンス生産した。
 1945年(昭和20年)の敗戦とGHQ占領により、航空機事業が禁止され、この間に会社存続をかけて事業の多角化を図ることとなる。占領終結後の1957年(昭和32年)から始まった民間輸送機YS-11、続くC-1計画にも参加し、分担生産を行った。現在開発中のC-2輸送機・P-1哨戒機でも分担生産に参加している。
現在、航空機事業は主力ではなく、特殊車両(タンクローリーなど)やライフサポート機器、ハニカム構造体などの製造が中心である。
 また、工場跡の広大な敷地を活用した不動産事業やレジャー事業にも積極的で、昭島駅前の大型ショッピングセンター「モリタウン」のほか、「フォレスト・イン昭和館」、「ホテルS&Sモリタウン」、「昭和の森ゴルフコース」、「昭和の森テニスセンター」、「フィットネスクラブ・フォーラス」などのホテルやレジャー施設を運営している。
 2015年3月には、モリパーク・アウトドアヴィレッジを開業した。

(以上、「Wikipedia」参照)



2010年代のようす。この周辺一帯が「昭和飛行機」の土地。ショッピングモールなど大規模開発が行われている。

「大神」駅の隣には信号機などのモニュメントが設置されている。

                     

                          

その先、右手に見事な梅林があります。

  

              

 ふと見ると小鳥の囀りがしきりに。「メジロ」の一群です。「向島百花園」以来、1年ぶりに姿を発見。
                         

「立ち入り禁止」になっていますが、いつまでも残っているといいですね。  

右手が大きく開けてきて、畑が広がっています。    
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「五日市鉄道」跡。JR「立川」駅~「拝島」駅。その2。

2019-03-07 21:06:12 | 鉄道遺跡
                              右手の建物が廃線跡の上?

いったん「奥多摩街道」に出て、右手の路地を進みます。

 公園の先のところで行き止まりになった付近に「武蔵福島」駅があったようです。

線路跡の直線をたどると、このアパートに突き当たります。
                                   さて通り抜けられるか?

抜けると、その先はこんな広い通りに。これが廃線跡。
  
来た道を振り返る。 

右手が廃線跡上の建物? 

西北に向かって線路跡は続きます。

航空写真(「歴史的農業環境閲覧システム」HPより)。


2010年代のようす。赤い直線が「五日市鉄道」線跡。中央付近が廃線跡上の住宅列になっている。

「多摩大橋通り」と交差します。右手に古木が並んだ空き地が。

                   停車場跡? 
 
振り返る。

その先で廃線跡の道は住宅地(団地)の中に入り、不明となりますが、団地の先で復活します。


2010年代のようす。団地内に「南中神」駅がありました。

この建物は廃線跡に建てられたような趣。

                          

またまた迂回していくと廃線跡の通りに。

振り返る。この駐車場スペースは廃線跡?

住宅地を進みます。廃線から70年以上も経過し、その面影はありません。
 
                 

カーブを過ぎると、遠く前方に奥多摩の山々が見えてきます。

春先の花々が咲く庭先。

静かな住宅地を振り返る。

左手には梨畑が広がります。

                         

そのフェンスのところに「五鉄通り」の標識。
 この付近に「宮澤」駅があったか?

 その先のベンチで小休止。
 
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「五日市鉄道」跡。JR「立川」駅~「拝島」駅。その1。

2019-03-06 20:50:56 | 鉄道遺跡
                           「青梅短絡線」。旧五日市鉄道線。拝島方向を望む。
 青梅線と南武線をつなぐ線路で、「青梅特快」の下り電車が通る線路として利用されています。この線路が「五日市鉄道」としてつくられた線路の一部です。

 「五日市街道」歩きで乗換駅として利用した「拝島駅」(JR青梅線、西武新宿線)は、「八王子千人街道」歩きでも立ち寄った駅。その拝島から立川まで、現在の青梅線のほぼ南側にあった鉄道が「五日市鉄道」の一部。この廃線跡が「五鉄通り」として残されていることを知りました。

 そこで、3月2日(土)。立川~拝島。約2時間半の行程。
 快晴のもと、久々の廃線歩き。

 
 「拝島」~「武蔵五日市」。現在のJR「五日市線」。        「立川」~「拝島」。この区間が廃線。

注1:立川、拝島間には「武蔵上ノ原」「郷地」「武蔵福島」「南中神」「宮澤」「大神」「武蔵田中」「南拝島」と8停車場がありました。また、「武蔵田中」からは支線が分岐し、多摩川まで線路が続いていて砂利採取を行っていました。
注2:「武蔵五日市」駅の手前から北西に進む鉄道は廃止されています。

 1929年(昭和4年)9月に工事に着手し、1930年(昭和5年)7月に拝島駅-立川駅間が開業した。この区間は各集落ごとに駅を設けており駅間距離が短かった。
 立川駅へは西側で中央本線を乗り越して南側にある南武鉄道線(現JR南武線)と直結する配線をとった。そして同じホームの南側を南武鉄道が、北側を五日市鉄道が使用した。
 日中戦争が開戦し戦時体制のなか、五日市鉄道は輸送の円滑化を図るためとして南武鉄道と合併することになり、1940年(昭和15年)9月1日、南武鉄道五日市線となった。
 その後戦争の激化に伴い南武鉄道は青梅電気鉄道とともに石灰石、セメント輸送の重要性から国に買収されることになり1944年(昭和19年)4月1日に国有鉄道五日市線となった。しかし並行した立川駅 - 拝島駅間については旧青梅電気鉄道は複線化工事中で沿線には軍事上重要な施設があったことから残り旧五日市鉄道線は不要不急線として休止となった。なお西立川駅から分岐して南武線に連絡するルート上にある立川駅-武蔵上野原駅間は撤去されず貨物列車直通に使用され青梅線の一部となった。
 立川-拝島間は戦中に線路が撤去されているが古くから廃線跡のレポートが発表されている。1963年のレポートによれば各駅のプラットホームや建物の基礎部分、八高線交差部前後の切り通しなどが残っていたが、やがて都市化の波が押し寄せ廃線敷は拡幅され道路となり周辺は宅地へとかわっていった。五日市鉄道と交差していた八高線の鉄橋は2001-2002年まで残っていたが取り外され地下道が作られた。2004年昭島市では市制50周年を記念して廃線跡の道路を五鉄通りと命名し大神駅跡にはホーム、レール、台車などのモニュメントがつくられた。なお実際の大神駅は切り通しで地表より2-3m下にあり当時の姿とは違うが桜の木は戦前からあるものだという。

(以上、「Wikipedia」参照)

JR立川駅を10時に出発。「立川南通り」に向かいます。

右手から線路が近づいてきます。この線路がかつての五日市線の線路。

 「中央線」を越えてしばらく進むと、「上野原踏切」。最初の停留場「武蔵上ノ原」駅がありました。
立川駅方向を望む。


 
2010年代のようす。↓が「青梅短絡線(旧「五日市鉄道」線)。○が旧線路との分岐点付近。旧鉄道線路は、「立川南通り」として西に進む。

「立川南通り」。

「残堀川」。これで「青梅街道」以来4度目。上流にさきほどの「青梅線」が。

                  

左手には「農林総合研究センター」の広い敷地が広がります。

そして「多摩職業能力開発センター」。この付近に「郷地」駅がありました。

「産業サポートスクウェア」交差点。ここで、廃線跡が途切れます。


向かい側、斜め左に線路跡に沿ったようなおうち。

「立川南通り」は「江戸街道」として西に向かいます。

その裏手に回ると、広い道路に。これが廃線跡の道路。



2010年代のようす。赤い線が廃線跡。交差点の左手に廃線跡上におうちが並んでいる(○の部分)。

振り返って望む。 

このカーブが廃線跡らしい雰囲気。

昭島市に入っていきます。「クジラ」のデザイン。

「昭島」と「クジラ」の関係は? どうして昭島にクジラなの?
 
生きていた頃のアキシマクジラのイメージ                         赤い部分が発掘された部位

およそ200万年前、昭島市の辺りは海でした。今では想像もつきませんが、かつてこの辺りには多くの海の生き物が生息していました。近海を好む種類のクジラ達は、海の浅瀬だった昭島のあたりを、仲良く悠々と泳いでいたのではないでしょうか。
 あるとき、一頭のクジラが海底に横たわり、目を閉じて永遠の眠りについたのです。
 クジラの身体は、食いちぎられたり激しい海流に流されたりせず、比較的早く砂などの堆積物に覆われたようです。化石となったクジラの骨は、幾多の地表の隆起などの地殻変動や火山活動の熱の影響を受けずに静かに眠り続けました。
 そして約200万年後、眠っていた昭島の多摩川河川敷で、ついにその姿をあらわしたのです。
 現在の昭島は東京都のほぼ中央で、東京湾までは、おおよそ40キロメートル。標高も海抜100メートルほどの場所に位置していますが、200万年前の昭島は海の中でした。
 かつてこの辺りには多くの海の生き物が生息していました。アキシマクジラの化石とともにサメの歯や魚や貝の化石が発見されたことが、それを物語っています。
 また、陸上にもアケボノゾウなどの生き物がいて、海の中を含め多くの生き物が、生まれては死んでいくを繰り返してきました。この中で早期に堆積物に埋もれるなど、ほんの一握りの幸運なものだけが化石として保存されます。
 さらに埋まった後も、幾多の地表の隆起などの地殻変動や火山活動などで、地層が移動しバラバラになったり、高い温度や圧力を受けて化石自体が失われたりするため、さらに幸運な化石のみが残存できたのです。
 アキシマクジラも亡くなったばかりの好条件とその後の劣悪環境にも耐え、離れ離れになることもなく一定の地層にとどまり、奇跡的に化石として昭島で発見されたのです。

発 見

いつ 昭和36年(1961年)8月20日 昼過ぎ
どこで 多摩川河川敷 JR八高線多摩川鉄橋の11番橋脚の下流約36メートルの地点
だれが 当時、昭島市立玉川小学校の教諭だった 田島政人さん(故人)と長男芳夫さん(当時4歳 朝日町在住)
どうして 夏休みを利用し、親子二人で貝や魚の化石採取と飯盒炊さんをするため多摩川河川敷を訪れて発見した
どんな状況だったの 当時、砂利採掘により露出した河原の地表から、化石の先端(長さ10センチ、幅3センチ)が露出しているのを発見。付近を観察すると10数メートルにわたり化石の痕跡である小穴を発見。大型の化石と確信し、最初の化石を岩で隠し帰路につく。百科事典などで調べたがわからず、数日間現場通いと専門書を読みあさる。同僚に相談し、教育委員会職員と現場を確認後、専門家を呼び8月28日より発掘を始める。

 記者会見で「500から200万年前のクジラの化石。骨の長さ11メートル。体長15,6メートルの中型のヒゲクジラと思われるが種類は特定できない。これだけそろった化石は日本では初、世界でも珍しい貴重なもの」と発表。
 成隣小学校の空き教室に運ばれた全化石は、その後一年間をかけ復元作業が続きました。
 その作業は、最初に化石の周りに付いた泥や砂を除去するクリーニング(剖出作業)で、化石がもろいため慎重に行いました。灰色の砂を取り除くと濃い茶色の化石が現れ、その都度感動したそうです。
並行して復元作業も行いました。折れた部位ややバラバラになってしまった化石の繋ぎ合わせをボンドで、もろくなった化石はボンド液(水で薄めたボンド)に浸して乾かしたそうです。
 組立は、小さいものは山のように積まれた段ボールから部位合わせをし、長い物や大きなものは重みで崩れないよう保管に工夫をしたそうです。
 こうして発見から1年間を費やし、復元作業は携わった方々の地道な努力と並々ならぬ情熱により昭和37年(1962年)8月23日に終わりました
 アキシマクジラがたどった200万年は、想像を絶する奇跡の連続でした。
 そして化石が発見され、人の手に触れてから今日の論文発表を迎えるまで、多くの情熱をもった方々に携わっていただいたこと。これも奇跡のひとつではないでしょうか。
 奇跡の積重ねと感謝の念を心に刻み、昭島市の宝としてアキシマクジラを後世に伝えていくことが大切なことではないでしょうか。
 昭和38年(1963年)、鯨類研究所 西脇昌治博士と国立科学博物館尾崎博博士によってアキシマクジラという通称名が命名されました。
 平成30年(2018年)1月1日日本古生物学会の英文学会誌に論文掲載
 この論文は、同館の長谷川名誉館長、木村主幹主幹学芸員と国立科学博物館の甲能博士の連名で、コククジラ属の新種として認められ、世界にひとつしかない模式標本に指定されました。
 現在生息しているコククジラは、1属1種(学名Eschrichtius robustus) エスクリクティウス ロブスタス(和名はコククジラ)とは異なる新種として

学名:Eschrichtius akishimaensis(ラテン語)
エスクリクティウス アキシマエンシス(和名はアキシマクジラ)と発表されました。

 現在、コククジラは、1属1種のみが北太平洋に生息している。アキシマクジラはほぼ全身の化石が発掘され、その頭骨周辺の位置や形状の違いから、現在生息しているコククジラとは異なる系統であるため、アキシマクジラを「エスクリクティウス アキシマエンシス」として報告する。これは、前期更新世では少なくともコククジラの2つの系統が生き残っていたことが分かったとしています。

 昭島市では、平成32年3月につつじが丘南小学校跡地(昭島市つつじが丘3-3-15)にオープン予定の教育福祉総合センターのエントランスに、原寸大13.5メートルのレプリカを飾り、2メートルほどの生きていた頃(生体復元)の模型やアキシマクジラの化石の一部も展示する予定です。

 昭和36年の化石の発見から市内にはクジラをデザインされたものが至る所にあります。アキシマクジラはずっと長い間、市民に愛され親しまれてきました。昭島市を訪れた際には、まちの中のクジラに是非注目してみてください。

(以上「昭島市」公式HPより)

 さて廃線跡歩きに戻って。「公園」に「五鉄通り」の標識。

そこから振り返る。

梅が満開。

五日市鉄道の線路跡」解説板。
 この東西の道路は、昭和5年(1930年)から昭和19年(1944年)までの間、立川駅と拝島駅を結んでいた五日市鉄道(単線)の線路跡で、すぐ西には武蔵福島駅がありました。
 現在のJR五日市線の前身である五日市鉄道は、大正14年(1925年)4月21日、拝島・武蔵五日市間(11.1km)が最初に開通し、蒸気機関車が走りました。後に立川駅までの延長が認められ、立川・拝島駅間(8.1km)が昭和5年(1930年)7月13日に開通しました。
 立川・拝島駅間には、「武蔵上ノ原」「郷地」「武蔵福島」「南中神」「宮沢」「大神」「武蔵田中」「南拝島」の8駅がありました。
 旅客用にはガソリンカーが運転され、「五鉄」の愛称で親しまれた五日市鉄道は、昭和15年(1940年)に南部鉄道と合併し、昭和19年(1944年)4月1日には、太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました。そして、近くを青梅線が走っているという事情から、立川・拝島駅間は昭和19年10月11日付けで休止路線とされ、そのまま廃止されました。

住宅地を進みます。

ユニークな郵便受け。

手入れの行き届いた庭木のあるおうちが目立ちます。

その先で道は行き止まりになってしまいます。
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養老渓谷。黒湯。

2019-03-04 19:31:08 | じじばばがゆく
                               「弘文洞跡」。
 JR錦糸町駅を11時過ぎに出て、総武線・千葉、内房線・五井と乗り継いで、午後1時半過ぎに「養老渓谷」に到着。約2時間10分の道のり。
 これを逃すと、五井からの本数が少なく、次は午後4時過ぎに着く列車しかありません。
 さて、まずは腹ごしらえ、と。駅前にはお土産・物産店を兼ねた食堂が一軒。そこには行ってみるしかなさそう。あとは、「ヤマザキショップ」が一軒。
 「五井」で小湊鐵道に乗り換えるとき、改札口横でお弁当屋さんが店を広げていました。なるほど、そこで売っている意味がここで納得。
 それでもここの「山菜ラーメン」はとても美味です。 

         駅前の「旅館案内」。

 それではまず旅館に行こう、と。養老川自体が右に左にくねくね曲がって、その先、養老渓谷沿いに旅館が点々とある、ということらしい。
 観光案内図だとすぐそこのように描いてありますが、実は旅館街までけっこうな距離が・・・。
 目的地まで約1.8㎞。田舎道、そして途中から車の行き交う道路を上り、下りしながら歩きます。

廃校になった小学校。二宮金次郎の像だけがポツンと残っています。

                          

終点の「上総中野」に向かう線路。

里山らしいのどかな雰囲気。梅も満開。

         

長屋門があるりっぱなおうち。

 途中、養老渓谷に架かる「白鳥橋」(吊り橋)へ。
地層がくっきり露出しています。
                       さすが「チバニアン」発見の川。

 元の道に戻って歩きます。ところが、あまり商売っ気がないのか、廃れてしまっているのか。ここまで、沿道には飲食店が一軒のみ。もう少し南下すると、旅館や飲食店などのあるところになるようですが。


 いくつか建物が見えてきて、やっと旅館「黒湯の宿・清代元(きよもと)」に着きます。
そこから眺める「観音橋」。

 一休みしてアルコールを調達に行くか。
 調べると、近くにコンビニはなし。結局、養老渓谷駅前の「ヤマザキ」まで行くしかないことが判明。
 そこには若者が行くことにして、こちらは「弘文洞」へ向かいます。

「観音橋」からの養老渓谷。

この付近から「大多喜町」になります。

渓谷に降りて進みます。

「観音橋」方向を望む。

左右の崖を見上げると、地層がくっきり。

                        

2回コンクリートブロックで川を渡り、やっと「弘文洞跡」に着きます。

 今からおよそ140年前、耕地を開拓するため、養老川の支流、蕪来川を川まわしして造った隧道。
弘文帝と十市姫にゆかりの深い高塚や筒森神社の傍を流れ本流にそそぐ合流点にあることから「弘文洞」と命名され、景勝地、釣り場の代表として世に紹介されましたが、昭和54年(1979)5月24日未明、頭頂部が崩壊しました。
崩壊前のようす。

(この項、「」HPより)

解説板がありますが、判読不能。

日が西に傾いて左の崖側に日が当たって、ちょっぴり幻想的な雰囲気。
 昼過ぎだったら正面に日の光が当たり、パワースポットという感じがしたでしょう。

川面に赤い光が反射しています。

 しばらく眺めて、元の道を戻ります。
 宿に戻り、醤油色に黒ずんでいても濁っているわけではなく、すべすべしたい温泉に浸かって、ゆったり。
 食事がけっこう豪華で、満足、満足。
 部屋に帰ってあとはアルコールでのどを潤します。
 翌日は一人だけ早く帰京しなければならず、早立ち。
 朝日に霞む「小湊鐵道線」でした。
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