おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

自転車で転倒! 右肩骨折! 大けがをして10日目。振り子運動。そして、我が家のねこたちは、・・・。 

2024-11-30 20:12:52 | 大けがリハビリ記

11月29日。晴れ。

2回目の地域病院での診察。レントゲンを撮り主治医と。「順調ですね。手首の方まで紫色。しばらくはこういう状態でしょう。痛みはどうですか。それはよかった。」

そして、ご自分のペットボトルを手渡して、立ち上がって「こういう振り子運動をやってみてください。」と。

けっこう効果的なようで、さっそく、夕飯時に、コーヒーのボトルを持って。さすがにまだ、そううまくはいきません。

さて、昼過ぎに病院から戻ると、ソウタはこんな体勢で。

       

あんずは、脱いだ靴にえらくご執心。変わった匂いでもついていたのでしょうか?

            

 頭を突っ込んで、

一方のソウタ。さっとベッドに飛び乗りしばらく毛繕い、そして、

我関せず。

こうして、昼下がりの穏やかな生活が始まります。

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自転車で転倒! 右肩骨折! 緊急事態に! そうするうちに、世間は、・・・。 その3

2024-11-28 18:37:06 | 大けがリハビリ記

あなたもよくご存じのMさん、ついこの前、自転車とぶつかって救急搬送されたようだ。

まあ、ついこの前、連絡を取ったばかり

骨には異常はなかったようだが、体中が痛くて大変らしいよ。

そういえば、知人も自転車に乗って、電信柱にぶつかって胸の骨を折ったみたい

立て続けに自転車での事故を起こした、というわけだ。

それにしても最近の運転、けっこう危なっかしいわね

スピードは出るし、ごっつい車体も多くなったし、子供を前のかごに乗せて、後ろにも。

保育園の送り迎えは、朝預けて夕方引き取って・・・

そう、次の予定、時間のためかスピードを出して追い抜いたり、ぶつかるケースも、あるある。

高校生の自転車も乱暴、乱暴。冷や冷やするのは日常茶飯事よ

今度罰則が厳しくなって、少しは事故も減るのかな。

みんな、時間に追われて必死なのよね。今でも飲酒運転しているんじゃないの、そっちも

いやー、それはなしで。この体で酒をのんでも大丈夫かな。血の巡りがよくなって・・・

バカなことは言わないの。よくなるわけないじゃない

そして、今日は2回目のリハビリでした。明日は、地域病院で2回目の診察に。

ところで、世間は

第216臨時国会が28日召集された。石破茂首相が就任後初めて衆参両院の予算委員会に出席し、野党との本格論戦に臨む。自民党派閥の裏金事件を受けた政治資金規正法の再改正と、総合経済対策の裏付けとなる2024年度補正予算案の成立を目指す。衆院選で大敗し、少数与党に陥った石破政権は苦しい国会運営を迫られそうだ。会期は12月21日までの24日間。

石破首相、「壁」見直し明言へ 米軍基地「共同使用進める」―所信表明演説案が判明

 首相は28日、首相官邸で記者団に「より丁寧に各党の意見を聞きながら国会を運営していきたい」と述べ、まずは補正予算案の成立に全力を挙げる考えを表明。立憲民主党の野田佳彦代表は党会合で「衆院選で自公を過半数割れに追い込むことができた。その結果、どういうことが起きるのかを国会活動を通じて国民に示したい」と語った。

 首相の所信表明演説は召集翌日の29日、衆参両院での代表質問は週明け12月2~4日に実施。5日に衆院、6日に参院で首相と全閣僚が出席する予算委が開かれる。衆院予算委員長は立民の安住淳氏が務める。審議が野党ペースで進む可能性がある。

(この記事は、「jijicom」より)

「野党ペース」というよりも、「国民民主党・玉木ペース」で進むでしょう。

※「国民民主」は石破首相に政策提言で「原発再稼働・新設」を。また、「企業献金・団体献金禁止」を、との野党協議にも参加せず。

だんだん、狙いが明らかに。

どういう狙い:国会審議が行き詰まって、最終的に自公政権に加わるということ。玉木さんは、念願の、閣僚の座を。

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自転車で転倒! 右肩骨折! 緊急事態に! そうするうちに世間は・・・。その2

2024-11-27 18:25:55 | 大けがリハビリ記

で、お医者さんでの見立てはどうなのよ

リハビリ病院の院長曰く「これはひどいね、手術でボルトを入れても元には戻らないな、お気の毒ですがね」

それは大ごとね、骨が完全に折れてるわけだ

右肩から腕にかけて、真っ青になっている。医者からはだんだん下に降りてくるよ、って。

おでこを打ってアオタンができると、だんだん顔の前面が青くなってくるようなものね

右腕だけじゃなくて、風呂に入ろうとしてシャツを脱いだら、胸一面にも青タンができて、我ながらおどろおどろしい状態。

まあ、それはえらいことだわ

見せましょうか

そんなデブのおっぱい見てどうなのよ

背中には何もなさそうで、一安心だった。

昨日のリハビリはどうだったのよ

ま、初めてなので、状態を聞かれ、軽く動かす動きをした

それで、

どうなることを目標にしますかと聞かれたので、街道などの歩きのとき、両手で自在にスマホで写真が撮れたら、と。

そっちらしいわね

ところで、こんな記事が。

国民民主党の玉木雄一郎代表は27日、連合の芳野友子会長と国会内で会談した。芳野氏は衆院選での野党の躍進を評価した上で「参院選につなげていかなければならない」と指摘。連合側は立憲民主党と基本政策で合意するよう要請した。会談後、玉木氏は記者団に「協議をさらに推進したい」と述べた。

不倫問題、玉木氏はけじめを 連合会長

 会談冒頭、玉木氏は自身の不倫問題について陳謝。芳野氏は記者団に「信頼回復に向けて努力いただきたい」と注文を付けた。会談には国民民主の榛葉賀津也幹事長や連合の清水秀行事務局長らが同席した。(この記事は、「jijicom」より)

玉木さん。不倫問題などなんのその、飛ぶ鳥を落とす勢い。

連合会長も自民大好き人間、筋金入りの共産党嫌い、左派路線をとことん嫌う人間。協議とは名ばかり、かえって、玉木さん。立憲民主党から選挙不安な議員をはがしにかかるのでは。

※浅草観音様の境内に「鳩塚」というのがある。この碑のいきさつは、吉原遊郭の花魁。「飛ぶ鳥を落とす勢い」。空を見上げてキッと流し目をすると、飛んでいた鳩が落下した、それを悼んで建てられた、とか。

です

※筋金入り

① 細長い金属がはめこまれていること。 筋金がはいっていること。 ② ( 比喩的に ) 体や思想などが、きたえあげられて強固であること。

当方に示された手術方針のように、ボルト入りなのか!

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自転車で転倒! 右肩骨折! 緊急事態に!

2024-11-26 20:17:52 | 大けがリハビリ記

どうしたんですか、痛々しい格好で。

いや、どえらい事故を起こしまして

21日、自転車で通勤中、見事に転倒

何とか起き上がりましたが、右肩が痛い、痛い

何でまた

朝出かけるときに少し雨が降っていたのに、それを無理して自転車で

相手はいたんですか

いや、自損事故、自損事故

救急車で

いや、かみさんに来てもらって

何と歩いて、というわけ

そう、かかりつけの整形外科に行ったんだが

木曜日はどこも休みでは

必死にスマホで調べて、やっと見つかり、タクシーで行きましたよ。

それはよかった

そこでレントゲンやら撮ってもらったら、大きな病院に行った方がいいですね、と

22日朝一番で都立地域病院へ。

そこでどうしたの

手術をするか、どうするか。ボルトでつなげることになりますね、と。

で、手術をすることになったの

いや、手術をしてもしなくても前のようには回復しませんよ、と言われ

で、

リハビリに。

時間はかなりかかるようですね

さっそく今日からリハビリ病院に行ってきた。

というわけ。「

ということで「中原街道」歩きはしばらく延期になりました。

そして、このブログも急遽、闘病記に。

※1 左で打つのは、けっこう辛いです。シフトキーを押すときは、右手も使うので。

※2 家人からは、自転車運転禁止令が。70の時に事故を起こし、運転免許を返納したので。次は・・・車は車でも車いすに。

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その7。竹内養鱒場。ムサシトミヨ保護センター。元荒川起点。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-25 20:08:57 | 元荒川

今度は、左の方の源流をたどっていきます。

・・・生息地へ流れ込む生活排水は約千五百世帯分で、日量約千立方メートルだ。その生活排水を県と民間養鱒場から放流する日量約二万立方メートルのきれいな水で希釈しているのが現状なのだ。水質測定結果から、生活排水による汚濁の進行が明らかとなり、稚魚や餌となる甲殻類への影響が懸念されている。このままでは近い将来、絶滅のおそれもある。絶滅させないためには、この区域に最低三kmは生活排水を流入させない対策が急務である。京都府と兵庫県の一部に生息し絶滅したミナミトミヨの二の舞になることは、是が非でも防がなくてはならない。世界で唯一熊谷市にしか生息していない希少種ムサシトミヨを守れるとすれば、それは、流域住民の意志と行政の決断にかかっている。

(この項、「埼玉新聞」より)この記事のうち「民間養鱒場」とは、この「竹内養鱒場」のようです。

バス停「ムサシトミヨ保護センター入口」。

    「ムサシトミヨ保護センター」。

「ユネスコ未来遺産記念」。

    

      「解説板」。

上流・起点方向。

 「埼玉県農林総合研究センター熊谷試験地」。

   荒川方向。

大きな水音が聞こえてきます。元荒川の起点という標識が見あたりません。

一応、この付近が起点ということに。

これで、「元荒川」歩きは完結!

万平公園を抜けて、熊谷駅へ。

高崎線「熊谷駅」。「中原街道

次回からは、「中原街道」を歩こうかな、と思っています。

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その6。「元荒川ムサシトミヨ生息地」・ムサシトミヨ。元荒川起点。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-24 18:52:31 | 元荒川

中山道に入ってすぐ右手に元荒川の流れ。

そこにはこんな案内板が。

「ここは、世界で熊谷市のみに生息するムサシトミヨがすんでいる川です。川の汚れを少なくし、豊かな緑と清流を守るため皆さんのご協力をお願いします。」

この付近の流れ。

                    

旧中山道に戻り、その先を右折。

そこにも同じ内容の標示があります。

       

住宅地の中を流れる川に水草が生い茂り、それがムサシトミヨの生育を助けているのです。

住民の自然環境を守ろうとする心を感じます。

「旧中山道」を進みます。左手に「東竹院」。

                  奥には荒川土手。

しばらく中山道を進むと、二手に分かれる元荒川が西に向かう流れのところに、

 「ムサシトミヨと共存できる環境作り」と「ムサシトミヨ」のポスター。

※通りの反対側に「元荒川」が右と左と二手に分かれるところがあります。

こちらは左手の流れ。

「県の魚 ムサシトヨの 棲む郷土」

元荒川の水草 オランダガラシ(クレソン)
 生食野菜として明治初期に輸入。クレソンの名で食用に栽培されていたものが野生化した帰化植物。
 全国の河川や湧水のある水路に群生する。通常水面上に繁茂するが、湧水中では沈水状態でも生育する。
 茎が太く流れに安定で、特にヒゲ根はムサシトミヨの巣の素材として好まれる。
 ヨーロッパ原産。

 ムサシトミヨ保全推進協議会


 ムサシトミヨはトゲウオ目トゲウオ科トミヨ属に属する体長3cm~5cm位の淡水にすむ1年魚です。オスが水草などで球形の巣を作り、子育てをする珍しい魚です。
 湧き水が出ていた昭和30年代頃までは、東京と埼玉の限られた湧水に生息していました。埼玉県内では、熊谷市のほかに上里町・本庄市・川越市などでも見られました。
 しかし、開発による川の汚染や湧き水の枯渇などにより、現在では熊谷市の元荒川上流域が世界で唯一の生息地となってしまいました。この周辺は豊かな地下水を利用した養鱒場があり、汲みあげられた地下水が放流されてきたため生き残ったのです。
 2011年2月調査の推計生息数は22,655尾。ムサシトミヨは、環境省や埼玉県のレッドリストで「絶滅危惧IA類」※に分類され、絶滅の危機に瀕する希少な魚です。

※ごく近い初来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの
                           (HPより) 

右に分かれる源流をさぐってみます。

帰帆橋。

帆掛け船が通過するような所とは異なります。かつて、元荒川が荒川本流だったころの名残でしょうか?                          

向かい側が元荒川。その左に行ったところに、

「値打ちある 元荒川の 起点の碑」

   下流方向。

上流方向。

以下、「中山道」歩きの時の記録。

・・・

 旧中山道はその先で右に折れ、「元荒川通り」を突っ切って進み、その先を左に折れ、先ほどの道に合流します。



 「熊谷」と「久下」の境だった「熊久橋」跡。
                              「過ぎし世の熊久橋(ゆうきゅうばし)や左富士」

 この「左富士」というのは「東海道」には二ヶ所ありましたが、「中山道」で? 
 この表現は、京から江戸に向かう旅人の視線なのでしょう。京から来るとき、はるか右手遠くに見える富士山が、道を曲がったここからは一瞬、左手に見えるということに。


1880年代のようす。→が「熊久橋」付近。直角に曲がっていることがわかる。「元荒川」の流れも確認できる。

「元荒川」。

 先ほどの通りに合流し、少し「元荒川通り」方向に進んだところには「元荒川起点の碑」。
        

元荒川の源流付近(南側・下流)。

北側・上流。細い流れになってしまう。

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その5。高崎線・貨物列車。ムサシトミヨ橋東。久下(くげ)橋。旧中山道に合流。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-23 19:04:41 | 元荒川

この付近で、「元荒川通り」を何回か潜り抜けます。

    高崎線手前に流れが。

線路手前に、小さな橋。

貨物列車が通過中。

              

「ちょうちんづかはし」。

流れは、通りの反対側に移る。  

                   遠くに歩行者用の小さな木橋が。

荒川に架かる「久下(くげ)橋」への陸橋が見えてきます。

元荒川に架かる「ムサシトミヨ橋東」。

久下橋への道を挟み、東西に橋が架かっている。橋の名にムサシトミヨと付いているのは、「ムサシトミヨ」にちなんで? 

久下橋方向。

「久下橋」には歴史がありました。

「荒川」歩きのときの記録を再び。

「久下橋」。

 

 ここに「思いやり橋」と呼ばれた久下冠水橋がありました。
 春は菜の花、秋にはススキを見ながら、人も自転車も車ものどかに渡りました。車一台やっと通れる橋、車は対岸を確かめ、あうんの呼吸で渡りました。

 幅2.7㍍長さ282.4㍍3㌧。中央部99.4㍍の区間は幅4.5㍍の待避所あり。4種類不揃いな44本の橋脚。ムカデに似た貴重な冠水橋でした。
 昭和30年県道・冑山熊谷線として大里と久下を結んで架設され、48年間、地元の志画かつ道路として利用されました。平成15年6月の新久下橋完成とともにその役目を終えました。

《周辺の歴史》
 この地は鎌倉時代には熊谷直実の叔父の久下氏の良一で、やや下流には館もあったといわれる。
 江戸の頃、幕府の施策でこの一帯は荒川の付け替え大工事が行われ現在の荒川になった。
 以後、明治の鉄道開設まで江戸との舟運の起点、久下新川河岸として「栄え、帆を張った草船や中山道の旅人で賑わった。
 舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、昭和30年頃県道の一部として久下冠水橋が架けられた。
 
 もう少し詳しく「Wikipedia」を参照して。
 
 開通は1955年(昭和30年)7月19日。開通当時は市町村道の橋梁だったが、地元住民の埼玉県への陳情により1966年(昭和41年)4月に県道(埼玉県道257号冑山熊谷線)に昇格されている。
 橋脚が鋼製(一部コンクリート製)、橋桁が木製の冠水橋であった。欄干は初めは付けられていなかったが住民の要望に応じ、1968年(昭和43年)6月頃に鉄パイプを立ててワイヤーを張った簡素な欄干が設置された。この欄干は洪水の際に着脱が可能なものである。元々は中洲を挟み熊谷側と大里側にそれぞれ橋が架けられていたが、洪水などで中洲が消失した他、橋の破損の補修を繰り返しているうちに1本の橋に繋がったものである。橋の中央部の幅員がやや広くなっているのはその名残である。
 1970年代から永久橋に架け替える計画が存在しており、1977年(昭和52年)10月11日に久下・佐谷田地区内関係者を対象に地元公民館で説明会が行われたが、生活に密着した身近な橋であったことや騒音問題を危惧したことなどから、地元住民によって「久下橋かけかえ反対期成同盟会」が結成され、住民と行政にて長期に亘る協議・交渉が行われた。
 珍しい構造の橋であることから文化的意味合いもあって、地元では撤去を惜しむ声が強く「久下橋を残す会」が結成され署名運動が行われ約四千名の署名が集まったことで保存も検討されたが、老朽化が著しく、河川の管理上や財政上の問題もあり、各種方面との協議の結果、最終的に撤去する結論に至った。
 埼玉県道最後の冠水橋であった旧橋は、現行橋の開通に伴い、2003年(平成15年)6月15日午後5時をもって通行止となり50年近い歴史に幕を閉じ、同年度中に撤去された。
 2004年(平成16年)9月4日に左岸側の旧橋跡付近に記念碑・説明板と旧橋主桁部の廃材で作製されたベンチが有志による募金にて設置された。

    
                             冠水時のようす。
                                  (HPより)

・・・

上流方向。

しばらく土手を進みます。対岸にある会社専用の橋?

流れがきれいです。

川沿いの集落に入っていきます。  

たわわに実った柚子。 

建て直す前の家の庭にも柚子の木があり、よく実って収穫が楽しみでしたが。

小さな橋を渡り、右岸側へ。

建物の裏手を流れています。  

旧中山道に合流します。 

荒川土手からの中山道。

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11月22日(金)・「小雪(二十四節気)」。一気に冬へ、と、なりそうにもない?  

2024-11-22 19:05:51 | 二十四節気

    「隅田公園」。

※現在、隅田公園は池を中心に大改修工事中。写真は、数年前のもの。

はぜのき。「向島百花園」。

今日は、二十四節気のうち「小雪(しょうせつ)」。冬とは言えまだ雪はさほど多くないという意味。

しかし、各地で雪の便りが届いています。

※11月22日は「いいふうふ(いい夫婦)」の日でもあるとか。

東京は、19.20.21と、ぐっと冷え込みました。雨も降って、冷え込みは一段と。12年ぶりの1月中旬頃の寒さだった、とか。しかし、今日は快晴。寒さも峠を越した感じ。しかし、明日からは平年よりも寒くなりそうです。

さて、暦の上での「小雪」とは?

立冬から数えて15日目ごろ。北国から雪の便りが届く頃ですが、まだ本格的な冬の訪れではありません。陽射しが弱くなり紅葉が散り始めるころで、いちょうや柑橘類は黄色く色づいてきます。次第に朝晩の冷え込みが厳しくなってきて、冬支度に入る頃。

「七十二侯」では、

初侯 11月22日〜11月26日頃

虹蔵不見 にじかくれてみえず.

曇り空が多くなる頃。陽射しが弱まり、虹を見ることが少なくなります。見ることができても、夏の空のようなくっきりとした虹ではなく、ぼんやりとすぐに消えてしまいます。

次侯 11月27日〜12月1日頃

朔風払葉 きたかぜこのはをはらう

冷たい北風が、木々の葉を落とす頃。朔風とは北風のことです。地面いっぱいに広がる落ち葉と、葉を落とした木々は冬の景色の象徴であり、季節の移り変わりが感じられます。

末侯 12月2日〜12月6日頃

橘始黄 たちばなはじめてきばむ

橘の実が黄色くなっていく頃。橘とは柑橘のことで、古くから日本に自生していました。常緑植物であることから「永遠」を意味するとされ、不老不死の実だといわれていたようです。

(この項、「暦生活」HPより)

      カリン。

和名「カリン」は、材の木目が三味線の胴や竿、座卓に使われる唐木の花櫚(かりん、花梨とも書く)に似ているので名づけられたものである。(「Wikipedia」より)

「向島百花園」。

すっかり日の暮れるのが早くなりました。「つるべ落とし」という感じ。

                  

以下はある日の戯れ言。再掲。

急に寒くなりました。
ついこの間まで、ワイシャツ一枚でよかったのにね。

もう薄手のジャンバーでは寒~い。
ついでにズボンも厚手のものに。
一週間前は夏のズボンだったのにね。

そうそう、遂にコタツも登場。
この間はクーラーをつけていたのにね。

どうなってるでしょ、最近の気候は。
三寒四温。行きつ戻りつ。
春先もそういう言葉もなくなって。
けれど、
秋だけは「つるべ落とし」という表現が
かえってぴったり。

一年が急に暑くなって、急に寒くなって。
春。秋。何だか肩身の狭い季節になったような。
夏ばかりがでかい顔しています。

春を早く追い出し、秋の出番をくい止めてと
昔は6・7・8月。今は5・6・7・8・9・10・11月
ともう7ヶ月のロングランとなって
夏こそが我が物顔で
日本を席巻しています。

日本の四季は二季に変わってしまって・・・。
日本の学校では
三学期制が二学期制にとって変わられ

どこもかしこも
小学校から高校まで
二期制でなければ学力低下とばかり
大流行したのはいつだったか。

今や思うように伸びず、
いつしか三学期制に戻すところも
増えてきたらしいのに。
季節だけは二期制に。

それもこれもデジタル化。
○か×かの二項発想。
季節もついにこうなりました。
やはりこれも温暖化現象というヤツですか。

電車も涼しい風から
急に暖かい風に切り換えて。

人間はそう簡単に切り換えられない。
アナログ型人間は
もう世の中の変化についていけません。
ファジーがホントは
身体にも心にもいいはずなのに。・・・

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その4。荒川土手から元荒川沿いに。久下(くげ)。元荒川通り。伊勢前橋。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-20 18:25:33 | 元荒川

荒川土手(旧中山道)とは、ここでお別れ。

現在の荒川の流路は、江戸時代初期に行われた土木事業によってその原型が形づくられました。江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。
 荒川はその名のとおり「荒ぶる川」であり、扇状地末端の熊谷付近より下流で、しばしば流路を変えていました。
 関東平野の開発は、氾濫・乱流を繰り返す川を治め、いかに川の水を利用するかにかかっていました。江戸時代の寛永六年(1629)に、伊奈備前守忠治(いなびぜんのかみただはる)が荒川を利根川から分離する付け替え工事を始めました。久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、堤防を築くとともに新川を開削し、荒川の本流を当時入間川の支川であった和田吉野川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変えたのです。以来、荒川の河道は現在のものとほぼ同様の形となりました。後世「荒川の西遷(せいせん)」と呼ばれるこの河川改修事業は、埼玉平野の東部を洪水から守り新田開発を促進すること、熊谷・行田などの古い水田地帯を守ること、木材を運ぶ舟運の開発、中山道の交通確保、さらに江戸の洪水の防御などを目的にしていたと言われています。これにより埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の繁栄を支え、江戸の発展は後背地の村々の暮らしを向上させていきました。

流路の付け替え前。

    流路の付け替え後。

(この項、「」HPより)

※「久下」地区が現荒川との分岐点だったようです。上図の「備前堤」は、元荒綾瀬川源流付近にあった堤。

「ライオンズマンション行田」の脇の道を下り、「元荒川」に架かる橋へ。

                                  上流方向。右手に分岐口が見える。                             

かつて、流路がこの付近で大きく東北方向に迂回していました。

                                 (現在)

久下(くげ)(四)付近を頂点として大きく湾曲している痕跡。

                             (1,880年代)

     現在、熊谷市と行田市の市境になっている。

現在の流れ。  

しばらくマンション脇を流れる元荒川沿いに進みます。

 

荒川土手(中山道)が建物の間から。

右手に「久下(くげ)第1公園」。

用水路のような流れ。水草が茂っています。

住宅地から離れつつあります。

この付近が大きく迂回していた旧流路との上流側の合流点になります。

 

川沿いの道には茂みが増えてきました。赤い小さな花が密集している。

「埼玉県 元荒川」という標石。

迂回して再び川沿いの道に。振り返る。

              熊谷福祉の里「クィーンズビラ ケアハウス」の裏手。

しばらく土手を歩きます。

「元荒川通り」に出ます。

「元荒川通り・伊勢前橋」。

上流。「高崎線」方向。

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その3。権八地蔵。荒川土手・旧中山道。水準点。「決潰の跡」碑。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-19 14:06:57 | 元荒川

ここを歩くのは、3回目。「中山道」歩き、「荒川」歩き、そして今回。

「権八地蔵」。

鴻巣市指定民俗資料 権八地蔵とその物語

 権八は、姓を平井といい鳥取藩士であったが、同僚を殺害したため脱藩し江戸に逃れた。その途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し、大金を奪い取った。あたりを見廻すと地蔵様を祀った祠があった。
 良心が咎め己の罪の深さに、いくばくかの賽銭をあげて「今、私が冒した悪行を見ていたようですが、どうか見逃してください。また、誰にも言わないでください。」と手を合わせると、地蔵が「吾は言わぬが汝言うな。」と口をきいたと伝えられている。
 この話から、この地蔵は「物言い地蔵」と呼ばれるようになった。権八はその後捕らえられ、延宝8年(1680)に鈴ヶ森の刑場(東京都品川区南大井)で磔の刑に処せられた。

 平成24年2月  鴻巣市教育委員会

 「Wikipedia」によって、少し補足します。

 権八は新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ってしまいます。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあった普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れますが、すでに父母が死去していたことから、自首。1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死しました。享年25。
 小紫は権八の刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害。同寺に「(権八と小紫との)比翼塚」がつくられましたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺に現存しています。

 歌舞伎の世界では、「白井権八」として登場。幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られますが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがあるようです。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会い(御存じ鈴ヶ森)で、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名です。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソード。
 「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等があります。
 吹上宿には、権八の辻斬りに由来した「荊原権八延命地蔵」があります。(注:この地蔵が久下の「物言い地蔵」のこと)

                           (「Wikipedia」より)

「榎戸堰」上流の元荒川。

荒川土手(旧中山道)に上がります。遠くに赤城山。

大きく視界が広がります。

右、眼下に「元荒川」。高崎線「行田駅」方向。

用水路のような流れ。

所々、茂みの中を流れる。

こちらは荒川の河川敷。

               耕作地が広がり、流れを見ることができません。

「(河口から)70.6㌔」標示。

土手の下に「水準点」。ということは、この道筋が旧道?

この付近の今昔。

                                                               

(1880年代)中山道は元荒川沿い?             (現在)土手道が整備され、集落もある。

水準点沿いの道(おそらく「旧中山道」)を進みます。

元荒川の流れ。

再び、荒川土手の道へ。前方に、3回目となる「ライオンズマンション」。

荒川下流方向を振り返る。

ここで土手(旧中山道)から下ります。

とその前に、土手沿いにある「決潰の跡」碑。

洪水の恐ろしさを物語る碑。1958(昭和33)年に建立。
 1947(昭和22)年9月のカスリーン台風による洪水のため、この地点で堤防が決壊しました。石碑の碑文には2箇所が決壊し、延長は約100mに及んだとあります。決壊による濁流はすぐ東側を流れる元荒川(荒川の旧流路)に沿って流れ、大きな被害を出しました。この時の洪水では下流の田間宮村(現.鴻巣市大間)でも、大間堤(荒川の左岸堤防)が決壊。利根川の右岸堤防も大利根町(新川堤)で決壊した(現在、跡地はカスリーン公園)。さらにもっと下流地域の中川(古利根川)などでも決壊し、「荒川」以東の下町地域も床上浸水などの大きな被害が出ました。

        

眼下の家並み。

左手、土手の中腹に、「一里塚跡」・「馬頭観音」。

「中山道」歩きの時の記録を再掲。

・・・

草むらには、ぽつんと「馬頭観音」。たしかに旧街道筋だという実感が。



そのまま草地を下って行くと、小さな祠が「一里塚」跡。日本橋から15里目のもの。

    

一里塚跡(久下新田)
 江戸の日本橋を起点とする中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方4間(9米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり、憩いの場所にもなった。
 柳樽には
 くたびれた奴が見つける一里塚
という句もある。

 昭和60年11月17日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 

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「向島百花園」。その2。秋の色彩。はぜのき。つわぶき。なんてん。にしきぎ。サフラン。のぎく。リンドウ。かんざん。楽焼体験。

2024-11-18 19:43:42 | 向島百花園

園内の様々な秋の色彩。

ふよう。

はぜのき。

 中央は、はぜのきと梅(べにちどり)。左が葛(くず)、右がみつばあけびの棚。

つわぶき。

池のほとりに群生しています。

なんてん。

にしきぎ。

サフラン。

のぎく。 

りんどう。

リンドウは、漢字では「竜胆」や「龍胆」と書かれ、「りゅうたん」という呼び名が訛ってリンドウになったとされます。根の部分の薬効成分も知られ、胃腸薬などとして使われていたそうです。龍の胆(胆のう)という名称は、同じく生薬として知られる熊胆(熊の胆のう)と同等もしくはそれ以上の苦味があることから、名付けられたという説があります。

古いいけばなの教本で登場するリンドウが、作品のメインとなる枝や花の足元にちょこっと顔を覗かせる姿ばかりであることも、野山に咲く背の低いリンドウを想起させます。

        

ふきのとう?

            かんざん。

日本を原産とするサトザクラ及びヤエザクラの代表種。花は大型の八重咲きで、ピンク色が濃く、花びらの重なりが多い。その派手さと性質の強健さが西洋人に好まれ、欧米文化圏をはじめとして世界各地に植栽される。その歴史は古く、似たようなサトザクラであるフゲンゾウと共に奈良時代から伝わるという。

(この項「」HPより)

池に映える紅葉。 

                               スカイツリーが水面に。

 

園内では、「秋の楽焼体験」が開かれ、子供連れやカップルなど賑わっています。

晩秋のひとときでした。

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「向島百花園」。その1。菊花展。菊盆栽。江戸・嵯峨・肥後・丁子。

2024-11-17 16:17:23 | 向島百花園

晩秋の「向島百花園」。

今年も恒例の「菊花展」をやっています。丹精込めた盆栽、鉢植えなど。

入口には、「江戸 御園の秋」。

盆栽。

              「川辺で遊ぶ子供たち」。

「花垣 江戸」。

「新宿御苑」で開催中の菊花展と比べたら、規模が小さいですが、丹精込めた菊が今年も園内のあちこちに。

「江戸 黄八丈」。

「江戸 星月夜」。

「江戸 うたかた」など。

 

「江戸 春日」。

そして盆栽仕立て。

菊盆栽は大正時代から始まり、花色・花型など極めて多彩です。

                          

      

園内には「江戸菊」以外にも他の地域も展示されています。

「嵯峨菊」。

「肥後 胡蝶」など。

「丁子菊」。「中央:葵の上 右:望月」。

丁字菊(ちょうじぎく)。発祥の地は関西らしく、東京では、一本の茎から同時に六輪咲かせる一六作りという手法で立てられることが多いようです。

                  「三山」・「葛城」

園内には、木々や花々にも秋から冬のの装いに。

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その2。新宿橋。榎戸堰。「榎戸村」石碑。「準用河川元荒川起点」。荒川土手に。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-16 18:37:19 | 元荒川

左岸は護岸整備中。

                   上流に「新宿(しんしゅく)橋」。

「新宿橋」のたもとには「榎戸(えのきど)堰公園」。

ゴツゴツした大きな岩。

榎戸堰。

江戸時代に作られた木造の堰は、増水による崩壊や腐朽により幾度となく改修・改築が繰り返されてきましたが、明治30年代に木造から写真のような煉瓦造りの堰へと改築されました。この煉瓦造りの堰の名残が、現在も元荒川の護岸として残されています。

煉瓦製の堰は昭和初期に部分的にコンクリートに改築された後、昭和41年には全面コンクリート製になりました。現在もこの堰で元荒川の水を堰き止め、農業用水として周辺の水田を潤しています。

煉瓦堰への改修にあたり、私財まで投じてまで尽力した当時の吹上村長代田仙三郎をたたえる石碑が、榎戸堰公園内に建てられました。

「代田仙三郎翁顕彰の碑」。
 榎戸堰は,元荒川最初の堰にあたり,古来下流田畑にとっては,命とたのみ重要な堰であった。
 しかし,江戸期から明治初年にかけては極めて貧弱な構造だったため常に修復が求められ,関係村々の悩みとなっていた。
 ここに明治三十六年三月,第二代吹上村長,代田仙三郎翁は,堰用水利用各村の代表者を説き,自ら組合の責任者となって恒久的用水堰を建設すべく,県費補助を得て工事に着手したが,建設地の地盤は予想以上に軟弱をきわめ,そのうえ湧水いたる処となって思いもかけぬ難工事となり,費用は予算を遙かに超えたが,翁は,なおこれに屈せず,私財まで投入してついに同年末,近代工法による半永久的な榎戸堰を完成させた。
 以来,関係村々は毎年くり返された修復普請の労苦から解放されると同時に,安定した用水を得て,その恩恵は今日に及んでいる。
 今まさに,ふる里を見つめ創生をめざす時にあたり,英明,代田仙三郎翁を顕彰し,もってその遺徳を後世に伝えると共に,新たな町づくりを展開する誓いの石文として,翁ゆかりの地に,この碑を建立するものである。

(この項「」HPより)

上流を望む。

ここからすぐ左に「旧中山道」。「榎戸村」石碑。 

ここは旧榎戸村の上方、村は中山道に面して東西五丁南北六丁の小村だが、江戸以来、吹上、大芦吹上、大芦から糠田に至る八ヶ村への水田用水を供給するための元荒川の「榎戸堰」があり、風光明媚な所として知られた。

熊谷宿へ二里 鴻巣宿へ二里十五町。

旧中山道(吹上方向)。

道の両側にレンガ造りの樋門。

左の塔の脇には「準用河川元荒川起点」と刻まれた標石。

現在の起点はもっと上流になりますが、大正から昭和初期に行われた河川改修時に、ここを起点と定めたようです。

左手にある樋門の先を望む。

右手先には、現在の元荒川。

荒川の土手に進みます。

          土手下の祠は、「権八地蔵」。

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高崎線「吹上(ふきあげ)駅」~「熊谷駅」。その1。吹上宿・中山道/日光脇街道。榛名橋。洲崎橋。高崎線のガード。(「元荒川」をゆく。第7日目。)

2024-11-15 21:56:40 | 元荒川

「元荒川」を歩いて遡るという計画も今回で最終回。真夏の暑い日に熱中症になりかかって、途中で挫折したこともあり、今回、第7日目となります(実際は、第8日目)。

11月8日(金)晴れ。

「吹上駅」ロータリー。

「吹上本町」・「中山道」の標識。

向こうの通りが「中山道」。

                     

鴻巣宿から熊谷宿までは四里六町(約十六粁)と特に長かったため、立場(茶屋や休憩所・宿屋)ができ、「間の宿」として賑わいました。八王子千人街道とも交わる街道の名所です

吹上宿は中山道六十九次のうち日本橋から数えて7番目の宿場である鴻巣宿と、8番目の熊谷宿との中間地点に位置する「間の宿(あいのじゅく)。

※鴻巣宿と熊谷宿とは約16.4kmと他の宿場に比べると距離が開きすぎていた。

また、吹上村の吹上追分で日光東照宮を警備する武士たちが通る「八王子千人同心街道」(日光脇街道)と交差している関係上、その街道の第10の宿として機能していました。そうした関係で、次第に宿場として発展していきました。

※「八王子千人同心」は慶安5年(1652年)から交代で日光東照宮を警備する日光勤番(日光火の番)が主な仕事になった。

この街道を八王子から佐野まで歩いたときに、ここを通過しました。

「吹上」地名の由来:東京湾から吹いてくる海風と北部の赤城山などから吹き降ろしてくる赤城おろしがぶつかる境界であることから名づけられた、との説があるが、確定的ではない。

※一般的には「風で砂が舞い上がるところ」(海岸や河畔で見られる)を意味するらしい。

前回の最終地点から再開します。

「吹上橋」。

元荒川。

続いて、

 

旧吹上町のマンホール。町の花コスモスのデザイン。

※2005年(平成17年)10月1日鴻巣市と 北足立郡吹上町、北埼玉郡川里町が合併し(新)鴻巣市となった。

「ふるさと総合緑道」案内図。

よく整備された川沿いの遊歩道。桜並木が続く。

「洲崎橋」。

カルガモの群れ。

          

高崎線のガード下を潜り抜けます。頭がぶつかりそうな低さ。

高崎線橋梁。

高崎線の前身は中山道鉄道(日本鉄道が運営)で、明治16年(1883)に上野駅と熊谷駅間が開通している。吹上駅の開業は明治18年(1885)。

くぐり抜けたあと、細道をたどる。

             土手側に、鮮やかな朱色のピラカンサ。            

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高崎線「鴻巣駅」~「吹上(ふきあげ)駅」。その7。新宿(あらじゅく)橋。桜橋。佐賀橋・新佐賀橋。吹上橋。楓(ふう・かえで)。(「元荒川」をゆく。第6日目。)

2024-11-13 19:37:16 | 元荒川

吹上周辺では「元荒川」はかなり屈曲して流れていました。現在と昔を比べると、

                     (現在)ゆるやかなカーブになっている。

ところが、かつては

                     (1880年代)このように曲がりくねっていた。

「中山道」吹上宿(間の宿)。左に屈折する。北に向かうのは、「八王子千人同心街道」。

大幅な河川改修を行い、橋を架け替えているわけです。

「新宿(あらじゅく)橋」。

 

広い「駅北口通り」。

桜がデザインされています。

                                     上流方向。

続いて、

「桜橋」。

元荒川の桜並木の中心部に架かる橋。橋の上は広く、イベント広場。四阿があります。

親柱。

流れに沿って、遊歩道。

「佐賀橋」。

大正末期まで、この付近には忍馬車鉄道(吹上~行田)が運行していて、元荒川には忍馬車鉄道の佐賀橋(木製の桁橋)が架けられていた。現在の橋はRC桁橋(2主桁のT形はり)である。

1901年(明治34年)6月に日本鉄道吹上停車場から行田を経て長野村に至る馬車鉄道が開業した。創業時は忍馬車鉄道。発起人は忍町(行田市)の橋本甚五郎ら15名で北埼玉郡忍町行田(行田市)の青縞卸商や足袋製造業者が中心となって設立した。

1905年(明治38年)5月、忍馬車鉄道の経営陣は新たに行田馬車鉄道を設立し前会社の事業を引き継いで経営したが、1922年(大正11年)に北武鉄道(後の秩父鉄道秩父本線)の開通によって会社に大きな影響を受けた。「大正11年度下半期第36期営業報告書」によると客車収入5,860円に対して自動車収入が11,839円と大きく上回り、1922年(大正11年)12月には行田 - 鴻巣間に乗合自動車の営業を開始し[2]1923年(大正12年)馬車鉄道を廃止して乗合自動車専業となり社名を行田自動車と改めた[。行田自動車は1943年、東武鉄道傘下の東武自動車に合併されている。

※「八王子千人同心街道」を八王子から佐野まで歩いたときは、この佐賀橋を渡りました。

                 

「日光千人同心街道」。 

 
すぐ先に「新佐賀橋」。

               上流方向。

元荒川では珍しい、アーチ型です。欄干には桜をあしらった装飾が施されていて、昭和8年に竣工された当時としてはとてもモダンなデザインでした。また、川とのふれあいの場としてランドマークにもなっている貴重な土木遺産であることが評価されて、平成24年11月18日に公益社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。(「」より)

「吹上橋」。

今回はここまで。吹上駅に向かいます。

吹上本町。中山道の標石が右手に。

「間(あい)の宿 吹上」。

旧中山道。荒川土手に向かう道。

楓(ふう・かえで)。         

モザイク画。

この壁と床のモザイク画は、吹上地域の豊かな自然である荒川、元荒川、桜、コスモス、伝統芸能のささら獅子舞をモチーフにしています。色鮮やかで、種類豊富なモザイクの材料は、石、レンガ、陶器、瓦等の建設廃材を再利用したものです。製作は、千葉県の障がい者支援施設の方々を中心に鴻巣市内にある心身障がい者作業所(吹上太陽の家、あしたば第一作業所、あしたば第二作業所、川里ポプラ館)の皆さんにも協力していただきました。

高崎線「吹上駅」。

特色ある橋巡りになりました。次回で、源流まで行くことができるでしょう。

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